心臓は動く中央集権主義

心臓というのはたんなるポンプにすぎない。しかし人間の体の中で動く時、それは思想として動いているのだ。
体の臓器の中でこれほど傲慢な臓器はない。「だまって俺について来い」というのが心臓の主張である。嫌なやつだ。
戦争を考えてみよう。実際に銃を持って闘うのは前線の兵士である。それが指であったり腕であったり足であったししても、その場に張り付いた筋肉の働きであり、それに「突撃!」とか「撃て!」と命令する脳神経の働きである。それに対し心臓はロジスティクスの中枢であるにすぎない。
しかし、動物というのは、プラナリアのように切った両方から命が再生することはありえない。最も下等な生命に至るまで、その不平等性を受け入れることによって、移動の自由を獲得した生命なのだ。

動物の生命というのは、論理的には、動物を構成する数億の細胞の生命の集合としての生命だ。だから本質的には民主主義者だ。しかし心臓はそうは考えない。たとえ移植された心臓であろうと、心臓は心臓なのだと主張する。
この関係は恒温動物では瞬時性によってさらに強調される。それは瞬時の死なのだ。
例えば心肺停止となった時、心臓マッサージを行えば10分以上の生命維持は可能だ。人工呼吸など要らない。逆に心臓マッサージしなければ1,2分でアウトになる。挿管ができなくて心臓マッサージをやめさせる研修医は患者を殺しているようなものだ。
他の臓器の死は暫次的であり代替可能な死である。心臓の死は瞬間的であり不可逆である。おそらくそれは体温の維持と関連しているだろう。
動物が心臓の不平等を受け入れることによって生のあり方を規定されたように、恒温動物は心臓のために全てを捧げるシステムを受け入れることによって、高等動物としての発展を約束されたのである。嫌な話だ。

それはそれで仕方ないとして、例えば血圧130の人は動脈に穴を開けると130x13.5=175センチの高さに血が吹き上がる。それは1平方センチあたり175グラム、手のひらの広さに17.5kgの圧力がかかっていることを意味する。なぜそこまでの力が必要なのか、我々は心臓にあまりにも多くの力を与えすぎたのではないか、そんなことも考えるべきではないだろうか。

さすがに少々疲れてきた。明日のためにはそろそろやめるべきではないか。