柴田義松さんという人の書いた「ヴィゴツキー入門」(寺子屋新書)を買ってきた。新書版で入門書とはいえ、出版事情厳しき今日このごろ、柴田さんの研究の集大成とも呼べるかもしれない。さらに「入門書」であるゆえに、柴田さんの思いも密かに織り込まれているだろう。
だからこの本は「ヴィゴツキー=柴田理論」の紹介として捉えておくべきと思う。

一言で言って感動的である。
ワロンを消化しきれずにモヤモヤとしていた気分がかなりスッキリした。ひょっとするとワロンは党派的心情からパブロフ・ミチューリン・ルイセンコに遠慮していたのかも知れない。
ヴィゴツキーはそこも遠慮なくやっているからきわめて論旨明快になっている。だからスターリンに粛清されてしまったのだろう。

以下、抜き書きをしていく。

1.模倣は発達の主要形式
子供は周囲の子どもたちの考え方ややり方を見て学び、模倣することで、できないこともできるようになります。子供は自分一人でもできることから、自分一人ではできないことへ、模倣を通して移行するのです。
つまり教育とはより効率よく模倣させるためのシステムだということになる。そのことにより発達が促される。
これはデューイへの痛烈な拒否だ。
2.精神発達の道具としての言語
人間は道具を使うことによって人間と自然の関係を直接的なものから間接的なものに変えました。それと同じように、人間は言語という道具を使うことによって自然的・直接的な心理過程を間接的な内面的な精神過程に転化します。
直感的にはきわめて正しい。あまりにも直截なアナロジーであるために、「予言」的な雰囲気を抱かせるが、多分それは正しいだろうと思う。おそらく脳科学的にそれは確認されていくだろうと思う。
3.精神発達の二段階説
子供の発達過程において精神機能は二段階に分かれて出現します。最初は集団的・社会的精神機能です。二回目はひとりひとりの子供の心のなかの精神機能です。最初のものが自分と他の人々との対話の中で生まれるのに対し、後者は精神内の機能です。
これは経験的には確かめられていることであり、アイデンティティー/パーソナリティー理論と総括できるだろう。ただ「何故二段階をたどるのか」についての説明は未だ仮説にとどまる。
4.「内言語」の成立が精神内活動の前提
言葉は、はじめは周りの人々とのコミュニケーションの手段として発生します。これは話し言葉です。それが7歳ころに「内言語」に転化します。そうすると言葉はコミュニケーションの手段ばかりではなく、思考の手段ともなり、やがて思考の基本的方法となります。
これは非常によく分かる。言葉はある程度「外言語」として使いこなさなければ、「内言語」化はしない。英語で辛うじて会話出来ても、英語で物を考える域には到底達しない自分を見ると、痛いほどよく分かる。
つまり内言語が形成されるためには外言語の習熟が必要なのだ。だからそこにタイムラグが生じ、二段階を経過せざるをえないのだ。しかも内言語は外言語の形成過程に規定されながら形成されざるをえないのだ。
ただしいったん内言語が成立すれば、それは独自の発展経過をたどるようになる。それが個性の析出だ。
5.「内言語」の成立は行動意志の形成と並行
言葉だけではありません。言葉と結びついて論理的思考も、また道徳的判断もそうやって形成されます。他人との関係で自分の行動を規則に従わせる能力がまず発生します。それが子ども自身の内部的機能として、行動の意志的調整へと発展していくのです。
これは非言語的表現というか、構えの形成のことを言っているのだろう。これについては必ずしも素直には首肯できない。本能として仕込まれた社会性という考えも否定出来ないからである。
 
一番、感心したのは、言語の外言語と内言語への分離、しかも外言語がまず発達することで内言語が発生するという時間的・因果的関係だ。
側頭葉の言語中枢で外言語が受け止められ、頭頂葉で内言語化され、それが前頭葉でさらに処理されるという構造と、それはよく一致する。
頭頂葉はさらに文字・数式という視覚的言語を統合するのだが、これはこの際は無視しておこう。