「百済本紀」(日本書紀に引用された)は時間についての記載が必ずしも正確ではないかもしれない。

というのは、537年の記載で、大伴金村は子の大伴磐(いわ)と狭手彦とを派遣。磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとされている。

筑紫にあって国政をとった「磐」が磐井である可能性は否定出来ない。

10年前に反乱の末に敗れた逆賊「磐井」に通じる名前を、筑紫にあって国政をとる人間が名乗るだろうか、という問題だ。

もしこれが磐井だとすれば、10年の時差を無視すれば、事態はかなり飲み込めてくる。狭手彦が毛野だ。

狭手彦が半島で命がけで戦っているのに、大伴磐は支援をさぼり、あまつさえ新羅と手を結ぼうとさえする。

ということでチャンチャンバラバラとなれば、話はけっこうわかりやすい。

狭手彦はどうも松浦の一らしい。筑前に王様がいて、筑後の磐井が総理大臣、狭手彦が倭軍の大将という構図だ。

10年の誤差は、日本書紀が同じ記事を何度もコピペしているということで説明可能かもしれない。

大和で、大伴金村が物部に敗れ退陣を迫られたという事件があり、大伴びいきの日本書紀はそれを任那話と結びつけたのかもしれない。

とすれば、日本書紀が「大伴金村」として比定した人物こそが倭国の王だった可能性がある。