1.島津久光ライン

封建時代はどこもそうだが、日本も連合王国であった。そして盟主たる徳川家も王国の一つでった。

薩摩はそれを雄藩の合議制に持って行こうとした。そのために連合王国の象徴的権威を朝廷にもとめた。

これには黒船以降の外圧も利用された。攘夷が共通の旗頭となった。

雄藩の合議制は徳川も認めた。その上で徳川が力に見合ってイニシアチブを取ることを狙った。これにより日本の代表としての権威の獲得を狙った。これに対し薩摩は雄藩の平等を唱えた。さらに力関係が変化するに連れて徳川の排除も狙うようになった。

この間に中間諸藩が存在した。

2.孝明天皇のライン

朝廷=孝明天皇は攘夷を徹底的に強調することにより、朝廷の権威を高めようとした。これが反徳川色の濃い「尊皇攘夷」運動と結合する。

62年5月10日の「攘夷の日」は朝廷が仕掛けた最大のキャンペーンであったが、呼応したのは長州藩のみで、しかも英国艦隊に惨敗した。

63年には薩摩も英国との戦争に敗れ、攘夷論を放棄する。

攘夷派の没落により、諸勢力の間に基本的な路線の違いはなくなる。残るのは雄藩のヘゲモニー争いのみである。

3.アウトサイダーとしての長州藩

膠着した状況を動かしたのは長州である。雄藩連合から排除された長州はひたすら勤王を唱え、ひそかに倒幕を狙う他ない。公武合体路線は打破すべきものとしてしか存在しない。

一方、薩摩も公武合体路線に行き詰まりを感じていた。禁門の変以降、徳川が勢いを盛り返し、孝明天皇と接近する中で、諸藩連合の中で少数派に追い詰められていた。

そんな中で、長州は薩摩に残された貴重なカードであり、手放すわけには行かなかった。66年1月、第二次征討の直前に薩摩は長州を庇護する密約を結ぶ。

1866年、第二次征討を長州が予想以上の健闘で跳ね返し、部分的ではあるが勝利を収めた。これは軍事的状況を根本的に変えた。徳川軍は張子の虎であり烏合の衆であることが暴露された。

長州一藩ですら徳川連合軍とタイを張れるのなら、薩摩が長州他数藩を擁して戦えば、勝利の可能性は高い。

このことから、公武合体路線が唯一ではない、場合によっては倒幕路線も可能だという結論が導き出される。

4.四侯会議の挫折

第二次征討の終了に前後して、家茂将軍、孝明天皇があいついで急死する。これで徳川家の主要な支柱のうち軍事力、天皇の支持という二つが一気に消失した。

薩摩はこれを機に巻き返しを狙う。それが67年5月の四侯会議だ。久光はこれを公武合体の新たな枠組みとして主導権奪還を計った。

しかし将軍となった慶喜と二条摂政の抵抗に会い目的を果たせず、以後倒幕路線に転換する。

以上から分かることは薩摩藩の動きはアクなき権力志向に基づくものであり、行動スタイルはきわめてオポチュニスティックだということである。そしてこれらの点において、島津久光、大久保、西郷の間には差異は見いだせないということである。

ただ大久保、西郷の内面では諸子と接する中で維新後の政治のイメージは固まりつつあったであろう。