大久保利通の足跡

と書いたが、大久保個人をかなり越えてしまっている。なるべく新暦に統一したが、一部旧暦も混在している。気がつけば手直ししていくつもりである。維新後の各派の抗争については、事実関係が錯綜している。それぞれの著者の思い入れが反映されていて、それらを判別しきれていない。


1861年 

大老井伊直弼が倒れたあと、公武一体論が幕府の主流となる。薩長もそれぞれの思惑から公武合体論を主張。これに対し草葬層(下級武士、豪農商層)は天皇への一極集中を主張。

薩摩藩(島津久光)は一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを主張。朝廷をトップとする諸藩の連合を説く。

下士の出身であったが、島津久光のもとで抜擢され藩政に参与するようになる。この時31歳。この頃先代斉彬についた西郷は流罪になっていた。

大久保は年末に京都に出て、久光の意向のもとに外交活動を行う。岩倉具視を押したて、公武合体路線を推進する。

なお各種記載において大久保が主語となっているが、大久保は基本的には薩摩藩、とくに久光の意向を受けて活動している。したがって公武合体路線の放棄に至るまでのあいだは、薩摩藩と置き換えておく。

1862年(文久3年)

4月 島津久光が兵を率い京に入る。半年にわたり在京。大久保のほか罪を許された西郷も京都入り。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は有名無実化した。

この上京は、朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えた長州藩に対抗する目的だったとされる。

このころ京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩がアメリカ商船を砲撃。欧米艦隊から報復攻撃を受ける。

8月18日 公武合体派の会津藩と薩摩藩が、朝廷における尊攘派を一掃。治安を乱す攘夷派と長州藩を京都より放逐。

8月21日 生麦事件が発生。薩摩藩士がイギリス人3名を斬殺。

1863年

1月 久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立。

4月 大久保、久光について薩摩に戻る。京都には西郷が残り、藩の対応を任せられる。

7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。

7月 蛤御門の変。会津藩との衝突で約3万戸が焼失。薩摩は御所を守るために長州藩と対決するが、長州征討に関しては中立を守る。

1865年

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし、作戦に反対。

この頃、農民一揆が最大の高揚を示す。

1866年(慶応2年) 

4月 第二次長州征討に反対し、薩摩藩などは幕府の出兵命令を拒否した。

8月 長州軍、小倉の闘いに勝利。その後幕府と休戦協定を締結。

12月 孝明天皇が天然痘で急死。

1867年(慶応3年) 

京都派遣軍の長となった西郷とともに、公武合体路線をめざす四侯会議を推進する。会議は慶喜により頓挫し、以後、薩摩藩は武力倒幕を選択肢に加え、各方面に接触を開始する.

5月 西郷、土佐藩の板垣と会談。倒幕の盟約を結ぶ。

9月 土佐藩との同盟の後、長州藩との同盟にも成功。

10月15日 大政奉還。この後の辞官納地返上の命令などの経緯は省略。

この年、各地で「ええじゃないか」の大流行。

(以下の2項は新暦では68年1月)

12月 討幕の密勅を得て、王政復古のクーデターを敢行。

12月 参与制度が発足。公家・廷臣のほか薩摩藩9名、長州藩5名、福井藩5名、尾張藩4名、熊本藩6名、佐賀藩3名、広島藩3名、宇和島藩2名、岡山藩2名、鳥取藩2名など。

1868年(10月まで慶応4年、11月から明治元年)

1月 鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争始まる。岩倉が海陸軍事務となり、戦闘の指揮には西郷があたる。

3月 五箇条の御誓文が発せられる。木戸が第四条「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」を挿入するなどかなりの修文を加えたとされる.

9月 木戸、伊藤が大久保に版籍奉還を提起。大久保はこれに同意し久光の説得に当たる。

1869年(明治2年)

1月 薩長土肥の4藩主が版籍奉還の建白書を提出。

5月 箱館の榎本武揚が降伏。戊辰戦争終結。

6月 諸大名から天皇に版籍が奉還される。版籍とは領地(版図)と領民(戸籍)をさす。1.藩主(知藩事)を非世襲制とする、2.藩士は主君との臣従関係を解かれ、朝廷の家臣とされる。3.知行は安堵される。

6月 華族制度が発足。「大名」は全員東京へ召集され、華族の資格を与えられる。制度改変の意味が曖昧にされたため、大名の抵抗なくほとんど混乱なし。

6月 三条実美が右大臣(最高責任者)、岩倉は大納言(右大臣の補佐)に就任。内閣として参議が置かれる。行政組織として6つの省が置かれる。

大久保、新政府の参議に就任。大蔵卿も兼任。

地方の支配体制同様に乗じて、ふたたび農民一揆が多発するようになる。

1870年(明治3年) 

8月 山県有朋、西郷従道ら、欧州の軍事視察より帰国。兵制改革に着手する。

木戸が大隈重信(大蔵大輔)の参議昇格を推す。大久保は辞表をちらつかせ抵抗、参議辞任と引き換えに民部省の職務を獲得。大蔵大輔に井上馨(長州藩)を据える。

大久保は長州・肥前の改革派と久光・西郷ら国許の保守派との板挟みで、基本的には改革派の立場でありながら前後矛盾する言動を行っている。

維新の主要な推進力は薩摩にあるのであり、それは西郷・大久保の信頼関係無くしては機能しない。大久保にとって、改革派の木戸や大隈は目障りであったかもしれない。

「改革には賛成するがそのスピードについては俺に任せてくれよ」といったところではないか。それが次第にうとましくなれば、木戸との関係も冷却していくことになる。

1871年(明治4年) 

1月 大久保、西郷に依頼し薩長土三藩から選抜した「親兵」を創設。

1月 西郷隆盛が意見書を提出。大隈・伊藤・井上を中心とする近代化路線を批判。

2月 大隈重信、軍事・教育・司法・財政の一体化を理由に「全国一致之政体」の施行をもとめる。旧幕府直轄地はそれ以前から府県に移行していた。

その後、具体的な方法をめぐり木戸(急進派)と背後に西郷を抱える大久保(漸進派)が対立。

8月 大久保が政府人事を改造。木戸孝允と西郷のみを参議とすることで両派の和解を図る。西郷は新政府の分裂を避ける立場から廃藩置県に賛成。

8月 版籍奉還の実質化として、廃藩置県が実施される。親兵を用い、電光石火の早業で府県制への移行を強要した。

中央政府から県令が派遣され、知藩事(旧藩主)は失職。東京への移住を迫られる。藩札は同額の政府紙幣と交換される。

12月 岩倉使節団が出発。大久保と木戸、岩倉使節団の副使として外遊。伊藤博文も随行。使節46名、随員18名、留学生43名。1年10か月の滞在となる。このあと五卿が政治の実権を握る。

1872年(明治5年)

江藤新平司法卿らが大蔵省への権限集中を批判。井上馨大蔵大輔が辞任。各省に対し参議の権限が強化される。

1873年(明治6年)

この年、大久保不在の政府のもとで、地租改正・徴兵令・学制などが一斉に実施される。

各地に庶民階級の徴兵令反対運動。布告で応召義務を「血税」と称したため、血税騒動と呼ばれる。士族も軍務独占を主張し反対運動。

9月 岩倉使節団が帰国。征韓論をめぐり情勢の容易ならざるを識り、岩倉・大久保・伊藤で善後策の検討に入る。

経過はこうである。西郷の息がかかった参議の閣議で朝鮮使節派遣が採決された。これに反対する大久保、木戸、大隈が岩倉あてに辞表を提出した。

事態は紛糾し、三条は立ち往生、岩倉が太政大臣代理として、征韓論を破棄した。

これを見た西郷、板垣、江藤、後藤、副島が参議を辞任した。岩倉は新たに伊藤博文、勝海舟、寺島宗則を参議に加えた。木戸は形だけ残留はしたが、その強引さに不快感を露わにした。

事態打開を図る大久保は内務省を創設。みずから内務卿におさまり、全権を集中。下野派が民撰議院設立建白書を提出。自由民権運動の口火を切る。まもなく下野派は民権派と士族反乱派に再分裂。

1874年(明治7年)

2月 江藤新平、佐賀の乱を起こす。大久保はみずから福岡に入り鎮圧作戦を指示。

4月 台湾征討作戦。西郷従道が台湾事務都督として遠征。

8月 大久保は中国に渡り、3ヶ月に及ぶ清国政府との直接交渉。賠償金50万両を獲得する。

板垣ら、愛国公党を結成。民撰議院設立建白書を提出。各地で地租改正に反対する農民の騒擾。

1975年(明治8年)

2月 井上馨(前大蔵大輔)がフィクサーとなり大阪会議。大久保の要請を受け、木戸と板垣が参議に復帰するが、参議と各省の分離を強く要求。

4月 三条実美や木戸孝允・板垣退助が奏上した「立憲政体の詔書」が裁可される。これに反対する岩倉は辞職するが、大久保の慰留を受け復帰。

結局、木戸・板垣との連合体制は崩壊。大久保・岩倉による独裁体制に移行。

江華島事件発生。朝鮮衛兵が日本軍艦船に発砲。日本は報復の脅迫で修好条約を締結させる。

1976年(明治9年)

10月 熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が相次いで起こる

1877年(明治10年)

2月 西南戦争が始まる。三条実美 大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文が善後策を協議。大久保は「天下は瓦解してしまう恐れあり」と記す。

9月 西南戦争が終結。西郷は自決。

1878年 

5月 大久保が暗殺される。 

1881年(明治14年)

政府内部の薩長参議(絶対主義専制)と大隈一派(近代主義的立憲君主制)の対立。背景に在野民権陣営。前者が勝利し、絶対主義的本質を維持しながら、立憲的修正を試みる。