今のところなんの根拠もない感想にすぎないが、明治六年西郷追放後の大久保政権の評価をしてみたい。

明治維新の受け皿となったのは薩長連合だ。しかしこの薩長連合は3つの位相がある。

ひとつは藩と藩の連合である以上、島津と毛利という藩主の関係がある。殿様の同意がなければそもそも成立し得ないからである。しかしそれがどのくらい強いものかといえば、かなり疑問符がつく。むしろ殿様の側から言えば、いやいや結ばされた同盟という印象だ。

実際に同盟の推進役となったのは、多分、西郷と木戸孝允ではなかったろうか。しかし若い衆の立場から見ると、西郷は問題無いとして、木戸が果たして長州藩を代表していたかといえばかなり疑問の余地はある。

若い衆は薩長同盟という戦略は支持したにしても、木戸を支持するが故に薩長同盟を支持するという思想ではなかった。彼は若い衆と毛利の殿様を結ぶフィクサーに過ぎなかったのではないか。

世間的には維新戦争は鳥羽伏見の戦いに始まり戊辰戦争、東北戦争、箱館の闘いと続く格好になっている。

しかし、私の個人的感想としては維新戦争は第一次長州戦争、第二次長州戦争とつづき、鳥羽伏見の戦いで終わった戦争ではないかと思う。

そして闘いの潮目となったのが第二次長州戦争、なかんづく小倉戦争ではなかったかと思う。これは前にも述べたキューバの解放戦争からの教訓である。

キューバでは、シエラ・マエストラ山地に立てこもった数百のゲリラに1万の正規軍が掃討作戦をかけた。闘いは1ヶ月以上に及んだが、結局政府軍はシエラ・マエストラを制圧することができず、多くの犠牲を出して撤退する。

その後はゲリラは加速度的に勢力を拡大し、最後にはゲバラの部隊が政府軍の最強部隊に正面戦を挑んでこれを粉砕してしまう。いわば勢いである。

そのシエラ・マエストラの闘いに匹敵するのが第二次長州戦争だった。この時奇兵隊を率いて関門海峡をわたり、幕府軍の主力と対決し、これを打ち破ったのが高杉晋作だ。

だからカストロに匹敵するのは高杉であって木戸ではない。

大久保はここをとらえたのではないか。明治新政府が西郷・木戸ラインで動いている時、藩閥の枠を乗り越えて若い衆同盟を構築しない限り勝ち目はない。そうやって「革命」を一歩前に進めなければならないのである。

高杉や大村益次郎は死んでしまったが、その弟弟子たちで生きのいいのがいる。たとえば伊藤博文であり山縣有朋であり、井上である。

これが3つ目の薩長同盟であり、より急進的なジャコバン同盟である。それは藩主や維新の元勲による連合政権ではなく、下級武士出身の急進派による「書記局政治」であった。大久保はこの同盟を基軸にしながら出身を問わずテクノクラートを集めた。同時にイデオロギー的には藩の意向の集約ではなく、ユニバーサルな絶対主義的天皇制を押し出していった。それは藩の解体であり、四民平等であった。

大久保自身は大阪会議で木戸との和解を試みたりしているが、不調に終わっている。時間稼ぎにも見える。

このジャコバン同盟は西南戦争で薩摩の活動家の多くがいなくなり、大久保自身も暗殺されることで、長州藩主導の政府に姿を変えていく。いわば松下村塾派の政権になっていくのである。

それは戦後の高度成長時代を吉田茂スクールが担っていくのにも似ている。藩閥政府と言われるが、むしろ基本は藩閥制の否定の上に成り立っている政府なのではないか。