江戸と上方の経済力バランス とくに金・銀財貨バランス

江戸商人の経営と戦略 鈴木浩三
という文章を見つけた。問に対して直接答えたものではないが、非常に学ぶ点が多い。

はじめに

江戸時代は、日本という地理的範囲が一つの市場圏として成り立つために必
要なソフトとハード両面のインフラが整った時代だった

1.江戸時代は競争と市場の時代

全国的な流通網の成立、貨幣(金・銀・銭)相互の変動相場制とそこから差益を獲得していた両替、市場を通じた金利の決定、大坂堂島の米市場の先物取引など自由主義的な市場経済システムが広範に機能していた。

米などの農産物だけではなく、手工業製品を作って流通経路に乗せて最終消費者に販売するまでの一連の流れの中でも、商工業者たちは競争を繰り広げていた。

商家経営では、新製品の開発、新規市場の開拓、多角化などはもちろん、事業再編や新規事業の立ち上げをめぐるM&Aも日常の光景であった。

2.流通インフラの発展

17世紀初頭に年貢米などの物資を内陸から沖積地部に輸送する手段が確立し、17世紀後半になると日本全国が海運路で結ばれた。

これに伴い、大阪や江戸などの都市内部に船宿や問屋・倉庫といったインフラストラクチャーの整備が進んだ。

廻船


3.貨幣経済の発展
慶長6年(1601)徳川家康は貨幣制度を確立した。戦国大名が作った貨幣を廃して新たな貨幣を鋳造し、全国を統一通貨制度の下に置いた。
伊豆や佐渡の金山、石見の銀山などの主要な金銀山は幕府の直轄となり、国内産の金銀を徳川氏が独占する体制が確立した。
価値=価格を定める際の評価基準が、統一政権という信用をバックにした貨幣によって裏付けられた。幣経済の発達は徳川政権によって制度的に保障された。


江戸と大阪
1.江戸は天下普請のラッシュと参勤交代の確立により巨大な消費都市に成長した。これに対し、大坂は全国の物資を集めて江戸に供給する都市として発展した
2.参勤交代を含む江戸在府の経費は、大名の実収入の半分以上を占めていた。そのほとんどは貨幣決済であった。大名は領地からの年貢収入を大坂などで換銀して貨幣を得ていた。

経済構造
江戸幕府という表現は正確ではない
徳川幕府の本拠が江戸にあったからといって、江戸を幕府の絶対的中心と考えることは間違っている。大阪も京都も徳川幕府の直轄地であり、それらが役割分担をしていたに過ぎない。
産業が発展するに従って相対的地位が低下するのは江戸であり、徳川幕府ではない。
しかしこの役割分担が300年の間に変化し、それが徳川幕府の弱体化に関わっていたことは間違いない。
幕府以外の大名
江戸・大坂と大名領、大名領と大名領の間の商品流通や商品の売買代金決済の形は、現代の国際貿易や貿易決済の方法と本質は同じだった。為替差益の獲得なども、現在の国際通貨市場と同様であった。
有力な両替は大名貸を手広く営んだ。彼らの収入は両替手数料や利子だったが、上方と江戸の経済発展につれて為替取引の比重が増大した。
1600年代なかばまでは領主が農民の農業収入から生産維持に必要な部分を除くすべてを徴収した(七公三民)。治水工事を含む農地開発に力が注がれた。
その後、開発適地は底をつくようになり、量から質への転換が始まった。それは生産コストの上昇を意味する。このため年貢の率は急減するようになった(三公七民)。
七公三民の場合、大名の実収入は公称禄高の約7割にとどまる。大名の財政難が深刻になると、大名貸の焦げ付きが急増した。
以下略


1688年の井原西鶴の『日本永代蔵』では、「銀500貫目以上を持っている者を分限、長者は銀千貫目以上の所有者」としている。
最少の1万石の大名の実収入は4千石(4公6民の場合)だ。これは銀換算で240貫目、つまり町人の分限の半分に満たなかった。
江戸時代の初期でこの状態であるから、幕末にはその格差はさらに拡大していただろうと思える。
この不自然さを武力のみで抑圧し続けることは不可能であり、どのような形をとろうとも、ご一新は避けられないものだった。
それが一方では黒船という外圧で、他方では幕府に対する薩長同盟の反乱という形で実現したのだが、しかしそこに留まる訳には行かなかった。
武家社会というフィクションを打破することなしに、ご一新が完成し得ないことは明白であろう。
明治維新を武家社会の壊滅という結果から見るなら、それは上方の江戸に対する勝利として位置づけることができるのかも知れない。