前の記事で、戦災孤児というのがどのくらいいたかはわかった。しかしそのなかで浮浪児となったのがどのくらいいたのかは良くわからない。

戦災孤児の数字ですら、厚生省が正式に発表したものはないのだから、浮浪児の数など分かるはずはない。もっぱら警察の資料からうかがい知るのみだ。

敗戦直後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」 教育学部の逸見 勝亮さんという方の書いた論文がある。

この論文は①「浮浪児」の数と実態、②浮浪児を収容した施設の実態、③浮浪児の立ち直りを描いた菊田一夫の「鐘の鳴る丘」に対する評価の三部に分かれている。

この内の①に関する記述の一部を概略紹介する。なお原文は西暦を用いているが、私としては昭和のほうが実感が沸くので、そちらで表記する。


浮浪児はどのくらいいたか 厚生省の調査

浮浪児・戦争孤児は、戦争未亡人・復員兵ともに、疲弊し混乱していた敗戦後の日本社会を象徴する社会現象であった。

昭和23年厚生省調査では、このような浮浪児・戦争孤児は12万3,500人とされる。

ただし、戦後の混乱期ということもあり、満足できる統計資料はほぼ皆無である。逸見さんは下記の諸資料より検討を行っている。

①厚生省児童局「浮浪児保護状況調」

この調査によれば、21年4月~22年4月の間に、施設に「保護(収容)」されたり、保護者などに引き取られた浮浪児は15,501人だった。性別では男12,662人、女2,839人である。

このうち3,510人は、複数回の再収容者であった。

(“保護”されていない浮浪者は当然数に含まれていない。彼らの多くは“保護”を恐れ逃げまわっていたことに留意しなければならない)

②厚生省児童局調査(21年6月15日付)

この調査によれば、要保護浮浪児は5,485人で、そのうち4,013人は養護施設に入所しており、1,472人は街頭にいた。

(“保護”率は73%ということになる)

③厚生省養護課(22年8月30日現在)

『朝日年鑑』(昭和23年版)からの引用である。この調査で、浮浪児は推定3万5,000人とされる。うち1万6,145人は施設に収容されていた。

(“保護”率は46%ということになる)

④厚生省児童局調査(昭和24年10月末)

調査の原本は所在不明である。この調査を引用した朝日新聞の記事が紹介されている。

「六大都市をはじめ全国各地にはまだヨモギ頭にボロの夏シャッツで震えている浮浪児が約三万近くいる」


浮浪児はどのくらいいたか 警察の調査

厚生省の調査が、調査とはとても言えないものであったのに比べ、現場で“対応”した警察の“実績”のほうが“正確さ”においては優っている。

ただ警察が対応した理由は、彼らが“目障り”だったからであり、対象は“体裁上目障りな浮浪児”に限定されていると見なければならない。

⑤国家警察本部の調査(23年4月末日現在)

23年4月末時点で、浮浪児の数は2,513人(男2,124人、女389人)であった。

3月末の浮浪児は767人であり、1ヶ月に1,745人増加したしたことになる。そのうち1,508人が「保護(又ハ収容)」下にあった。

⑥警視庁が「保護」した浮浪児

1950年中に4,358人が保護された。うち男が3,786人、女が572人であった。1951年中には2,472人が「保護」された。(警視庁の「保護」というのは浮浪者狩りという捕獲作戦である)

警察署毎「保護」数では、上野署が1,144人、浅草署が805人、丸の内署が437人で、ほぼ半数を占めた。要するに彼らがいると“目障りな”場所に集中している。


どうして浮浪児になったのか

厚生省にはこれに関する調査はないようである。逸見さんが見つけ出したのが第4回警視庁統計書という数字である。

これは終戦から6年を経た昭和26年の、東京都下に限られたデータである(!)

この調査では「保護」した2,472人の浮浪の原因《表-6》と浮浪中の「生活手段」《表-7》について分類されている。

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まず原因であるが、戦災に起因する孤児は669人(27.1%)、「外地引揚」すなわち引揚孤児は76人(3.1%)であった。家出は617人(24.9%)、「浮浪癖」が735人(29.7%)を占めた。

それでも、身寄りのない浮浪児が1,085人(43.9%)だったことは、控えめに告白されている。

一言で言えば、浮浪児とは「家出した戦災孤児」 ということだ。

こちらははるかに対象数が少ないデータであるが、終戦直後であること、浮浪者を犯罪者扱いはしていないことで貴重だ。

1945年11月の浅草東本願寺厚生会浮浪者収容所の浮浪者調査である。調査対象の浮浪者は205人で、19歳以上が132人なのに対し、18歳以下は73人(36%)だった。この73人について分類すると、戦災孤児が47人(64.4%)、両親のいずれかと浮浪していた子どもは8人(11.0%)だった。

浮浪児の多くが家出によるもので、食糧事情の逼迫、戦災による住居の狭隘、放任又は虐待などを理由としていた。

と、書いているだけで涙が出てくる。「家庭の不和」というのは、そもそもそこが「家庭」ではなかったからだ。「都会へのあこがれ」はふるさと東京への思い、「食糧事情の逼迫、戦災による住居の狭隘」というのは、要するに食べ物も与えられず、寝場所も与えられず、家を追い出されたということにほかならない。こういうのを「家出」とは言わない。言ってはいけない。


浮浪児の生活

「第4回警視庁統計書」に戻る。浮浪中の生活手段では、バタヤ・モク拾い・新聞売・靴磨などともかく働いていた浮浪児は849人(34.3%)であった。

いっぽう、窃盗(掻払い、スリ、その他)・売春など犯罪行為で糧を得ていたものが613人(24.8%)にも達した。浮浪児が忌み嫌われる所以である。

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浅草東本願寺厚生会の調査でも同様の傾向が窺われる。貰い・残飯あさり(乞食)が最も多く、靴磨きなどいわゆる街頭労働が続いている。注目すべきは「生活手段なし」と答えたグループで、このなかには常習的な掻払い4人、売淫6人がふくまれ、恐喝その他の犯罪行為を行つている者もいる。

調査者は以下のように総括している。

彼らは決して一人では生きてゐない。街頭児の大部分は純然たる戦災孤児であり、その街に生きてゐくためのグループとして、極めて自然発生的な、純情的なものであつた。

中には年長浮浪者の悪影響をうけて、単純な浮浪から、次第に反社会的な傾向を身につけてゆく者も認められる。その背後には成人の浮浪者や職業性犯罪者、組織的暴力団の暗躍が認められている。

ところが、その後、一年もすると街にすむかれらの結合状態が非常に変化して来た。グループの元締を街の兄貴や、闇商人、第三国人がにぎつてゐる。

東京都民政局(A)と中央児童相談所資料(B)によれば、

①貰い:Aでは70%、Bでは52%の浮浪児が、「切符売場で釣り銭をもらつたり、待合室で弁当を使う客に手を出して食を乞ふ」ことで腹を満たそうとしていた

農村で物乞いするのを「田舎まいり」と称した。留守の農家では忍び(コソドロ)に早変わりする。それは地下道生活の息抜きにもなり、狩込み逃れの手段でもある。

②闇屋手伝い:上野駅で「親分の手先になつて」働いた。

③掻っ払い:上野駅乗降客の所持品、売店の商品、焚屋(料金を取って焚き火に当たらせる業)客の所持品を盗み、闇市へ転売した

④新聞売り:1部1円(小売り)で購入し、1円80銭~4円で売りつけて、差額を得た

⑤煙草拾い・煙草巻:煙草の喫殻を拾い集め、1本分1円で売った。喫殻を買って巻いて売るのが煙草巻である。

⑥靴磨き:道具・靴墨に500円要るので「浮浪児は次第にこの商売から姿を消しつつある」という

⑦スリ: 数人が連携し安全剃刀を用いて、乗客の着衣・所持品を切り裂いて金品をすり取った。殆ど親分や兄貴分の支配下にあり、稼ぎは全部吸い取られた。稼ぎに応じて食費と外食券、宿泊費が分け与えられた

⑧その他: 急行列車の切符を買占めて売るダフ屋、列車を待つ列に並び場所を売るショバ売り、売春の手引き。