倭国大乱から神武東征まで、私の古代史解釈を図にしてみた。神武東征から倭国大乱までではない。


1.倭国大乱

倭国大乱前

倭国大乱とは、九州連合による出雲の占領である。

出雲は九州連合を形成する天孫族(天照大御神)と同系である。私は神話に詳しくないが、スサノオはアマテラスの舎弟分であり、かなり古く(朝鮮半島時代?)に分離していると思われる。

出雲王国が滅びた頃、その他の各地は弥生人、ないし弥生化した縄文人が分布していた。生産様式は採集と稲の栽培の混淆であったが、水田の普及により、湿地帯が居住地帯となり生産力が大いに上がった。

彼らの居住地は銅鐸の出土地帯と一致するので、銅鐸人と呼ぶことにする。いっぽう、出雲族の地帯からは大量の銅剣が発掘されるが、その理由は不明である。

瀬戸内海側は島嶼が多く海路の確保が困難で、安全上の理由から東方進出は困難であったと思われる。神武東征神話にもあるように、豊前から尺取り虫のように支配関係を形成しながら東漸して行ったものと思われる。

2.邪馬台国と纏向王国

出雲を逐われた出雲族は東に進み但馬から若狭、越前にかけて新たなコロニーを建設した。

但馬の勢力はそこから内陸に進み、丹波・山城から淀川水系に達した。若狭から南下した勢力は、近江から大津、大和方面に進出し、また関ヶ原を越え尾張・伊勢に向かった。

卑弥呼の時代

彼らは在地の銅鐸人を制圧し、銅鐸を棄却し天孫信仰を強制した。当時、京都南部は氾濫原であり、大阪平野は巨大な湖の底であったから、奈良盆地が最大の穀倉地帯であった(この時点ではすでに奈良湖は消滅している)。

出雲から直接南下した出雲族は岡山に入り吉備王国に加わった。吉備王国は大和とともに前方後円墳の文化を共有している。

3.神武の東征と纏向王国の制圧

神武東征の時代

神武の出自は良く分からないが、九州王朝を代表しうる資格を持ってはいたと思う。東征の出発地が豊前であることは間違いないようだ。そこから徐々に東に進みながら各地の豪族を手勢に加えていく。そして難波津まで達する。武王の上奏文はこのことを記している可能性がある。

ここで河内湖を挟んで対岸の長脛彦とにらみ合い、やがて衝突するが甚大な被害を蒙り一時撤退を余儀なくされる。

正面突破は難しいと見た神武側は南下し、紀の川からの攻撃を試みるが、これもうまくいかない。最後には熊野川まで行き、大台ケ原を乗り越えて吉野にたどり着き、さらに宇陀まで回りこんだ末に、側面攻撃に成功する。とにかくとんでもない苦戦の末、大和盆地の占領に成功するのである。

これが西暦300年過ぎのことだ。

それはトロイ作戦や、ハンニバルのローマ攻撃を思わせる、強烈な意志を持った闘いであった。