鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

AALAの機関紙に載せるために柳原白蓮の文章を一本化しました。

いくさは遠く根の国へゆけ 白蓮(柳原曄子)の戦後

1.下二句の力強さ

白蓮、やんごとない点では別枠だ。なにせ大正天皇の従兄弟という雲上人。

この犠牲が 世界平和の道しるべ わがをとめ等よ泣くのでないぞ

人の世にあるべきものか 原爆の いくさは遠く根の国へゆけ


いい歌だ。
ある意味スローガン的な上三句を、正面から受け止め、我がものとし、その思いを下2句で激しく表出している。それが浮いてこないのはなみなみならぬ技法であろうが、それ以上に、言葉をがっしりと受け止めるだけの内実が感じられる。
まさに気高さを感じさせる歌である。

日本の文壇では、ともすれば敬遠される資質であろう。

いくさは遠く根の国へゆけ

は、まことに素晴らしい。

戦後に出した歌集は昭和31年の「地平線」が唯一のものであるが、ここにその歌と実践が集約されている。  「地平線」は「万象」「悲母」「至上我」「人の世」「旅」「去来」などの小題をもつ317首からなる。

その内の「悲母」60首が戦死した吾が子、香織を偲ぶ歌群である。

その前に一首だけ

静かなり 遠き昔の思出を泣くによろしき 五月雨の音

これは昭和3年の歌。宮崎龍介との同棲生活が始まって、どうやら落ち着いて、まもなくのころの歌である。

この歌は“五月雨の音”が決め手だ。最初は“音”は硬いと思った。例えば“五月雨の軒”とか“五月雨の楠”とか情景を掬う方がいい。しかしその途端、歌は叙景になってしまう。ちょっと硬くても“音”でなくてはいけないのだ。音もなく降る五月雨、その音が聴覚を通じて心象と表象をつなげている。

白蓮の歌からは常に音が聞こえてくる。だからぜひ音読して欲しい。

「悲母」より

焼跡に芽吹く木のあり かくのごと吾子の命のかへらぬものか

蒼空に一片の雲動くなり 母よといひて吾をよぶごとし 

秋の日の窓のあかりに 亡き吾子がもの読む影す 淋しき日かな

夜をこめて板戸たたくは風ばかり おどろかしてよ吾子のかへると

英霊の生きてかへるがありといふ 子の骨壺よ 振れば音する

かへり来ば 吾子に食はする白き米 手握る指ゆこぼしては見つ

もしやまだ かえる吾子かと 脱ぎすてのほころびなほす 心うつろに

かたみなれば 男仕立をそのままに母は着るぞも 今は泣かねど

しみじみと泣く日来たらば 泣くことを楽しみとして生きむか吾は

戦ひはかくなりはてて なほ吾子は死なねばなりし命なりしか

身にかへて いとしきものを 泣きもせで  何しに吾子を立たせやりつる

白蓮研究者の中西洋子さんはこう書いている。

その悲しみははかりしれない。しかし一方、悲歎に暮れながらもそれに溺れることなく堪え忍び、じっと向きあっている目がある。

しかも表現は具体性をもって悲しみの情とひびきあい、また修辞的な技巧の入る余地なく、いずれも単純化された詠いぶりである。

2.平和運動の担い手への歩み

46年、NHKラジオを通じて訴えると、「悲母」への反響はものすごいものだった。彼女の主導で「万国悲母の会」が結成される。

個の悲しみを共有し、反戦に繋げようとする婦人たちの運動である。

宮本百合子との対話

49年4月の「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。この中身は稿を改めて紹介する。

「誰故にこの嘆きを」 白蓮から百合子へ

あの日、日の丸の旗を肩にして「大君のへにこそ死なめといつて出て征つたあの子の姿は、胸に焼きつけられて今もなお痛む。

あのおとなしい子が人一倍子ぼんのうの両親の家を、不平一つ言わず勇ましく門出をした、あれは一体、誰故に誰に頼まれてああしたことになつたのか─と。

…思いかえせばあの戦争中の協力一致の精神…が世界平和のために湧き上らぬものかしら、この故にこそ天界…息子と地上において…同じ目的に協力したいと念じている。これが我子を犬死させない唯一の道だと思っているから。

百合子から白蓮(燁子)へ

…燁子さんににちりよつて、その手をとらせたい心にさせる。そうなのよ、燁子さん。

…あなたの愛がそんなに大きく、そんなに母として深い傷になほ疼いてゐるのに、もう一遍、その傷のいたみからかぐはしの香織 を生んで見よう、と思ふことはおできにならないかしら。

今度は戦争の兇□と非人間性に向かつて抗議し、行動する、けふといふ歴史の時代における香織を。

世界連邦平和運動の婦人部長

この宮本百合子の言葉がどう響いたかは分からないが、「悲母の会」は後に「国際悲母の会」となり、「世界連邦平和運動」に発展した。

白蓮は湯川秀樹夫人スミらとともに運動を担い、全国を行脚した。北海道だけでも後志、札幌、月寒、石狩、旭川、十勝平野、根室、狩勝、北見と連なっていく。

3.自分の運命の流れというものがある

白蓮はこんな文章も書いている。

悲母の会解消問題の起きた時、「だから先生は、歌の事さへすれば他の事は何もしなさるな」と、意見された。併し自分の運命の流れというものがある。

さらっと書いたが、泥もかぶる、まことに重い決意だ。

そして70歳を過ぎた体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡る。この時の歌は、芭蕉の「奥の細道」を思わせる。自然と我とが一体になった至高の歌どもとなっている。

『地平線』の作品に詠み込まれ、また注記された地名は全国津々浦々の40ヶ所におよぶ。

いくつかを紹介しておく

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも わがゆくものか

どこの国の誰が ぬれ居る雨ならむ とほくに見ゆる雨雲低し

ききほれて しづかに涙たるるなり 山河草木みな声放つ

遠つ祖の なみだに見たる秋の空 佐渡はけぶりて小雨となりぬ

4.われの命をわがうちに見つ 白蓮の最晩年

このような過酷とも見える無理の多い講演旅行は、やがて燁子の目を苛み緑内障(そこひ)に侵される結果となった。

1961年、76歳で白蓮は両眼を失明する。しかし作歌は永眠の前年まで続けられた。最後の歌は神々しいほどに響く。

眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

なべて皆 物音たえし真夜中は 声ならぬ声のなにか聞こゆる

そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ

“そこひなき”は「底、比なき」であろう。彼女は視力を失ったのではなく、暗闇に落ち込んだのである。暗闇は限りなく虚空に近いが、その底に輝く星があった。そしてその星は、自らの命であった。

人間、このように一生を終わりたいものです。

(文章の作成にあたりを参考にしました)

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