私は信じやすいというか騙されやすいタチだから、古事記や日本書紀に書かれたことはすべて本当のことと思っている。神武東征も、継体天皇の政権転覆も信じている。ただ年代については信じていない。
それは大和の方で決着つけてくれという話だ。「日本史」の本線とは関係ないローカルな話だ。
神功皇后の朝鮮遠征も、筑紫の君磐井の反乱も信じている。ただし主語は九州王朝の王である。
とくに磐井の反乱については、百済記を引用しているとみられるだけに、きわめて信用度の高い資料だと思う。
継体の後継者である欽明天皇のくだりには、百済記が多く引用されている。それらは三国史紀からはおそらく意図的に削除されている事実である。主語の扱いさえ気をつければ三国史紀を上回る資料的意味がある。
そこから分かることは、継体も欽明も九州や朝鮮の動きに関係ないということだ。注意深く隠されているにもかかわらず、百済・新羅との対応は大和王朝の行為ではないことが透けて見える。
したがってこの記載をもって大和政権の年代的ランドマークにはならないということだ。物部麁鹿火の名で記載されているいくつかの出来事は九州王朝内の人物の仕業だ。
では九州王朝はどこまで降るのか。それが見えない。
任那を滅亡させた当事者である新羅の本紀は、前後の状況について沈黙している。572年のことである。
その後600年には随に向け「日出処の天子」なる書簡が送付されている。こういう非礼な手紙を書いたのは、外交オンチの大和朝廷に違いない。そうかと思えば随の使者、裴世清に対しては思い切り卑屈な態度をとっている。田舎者丸出しである。
前後の事情から察するに、任那を守る戦争で九州王朝の多くの幹部が失われ、それが九州王朝の自壊を招いたのではないかと想像する。九州王朝が大和王朝と争った形跡がないからだ。