纒向遺跡の勉強をしていて気づいたことがいくつかある。

「石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」である」(ウィキペディア)

これは征服者により建てられ、さらに後続する征服者により消滅したことを示すのではないか。

纏向は人工的な遺跡である。遺跡の下層には弥生式の生活遺物が見られない。これは野っ原の真ん中に造営された集落であったことを示す。

巨大な規模の割に人々の生活跡が見られないのも特異であるが、征服者の砦とすれば分からなくもない。ただし発掘率5%段階ではなんとも言えない。

搬入土器の出身地割合(ウィキペディアより
伊勢・東海系 49% R30.pngR10.pngR05.pngR03.pngR01.png
北陸・山陰系 17% B10.pngB05.pngB01.pngB01.png
河内系 10% Y10.png
吉備系 7% G05.pngG01.pngG01.png
近江系 5% G05.png
関東系 5% G05.png
播磨系 3% G03.png
西部瀬戸内海系 3% G03.png
紀伊系 1% G01.png

遺物としては伊勢・尾張との関連が深いとされる。これは征服者が若狭・越前方面から入り、近江で二手に分かれたことを示唆する。但馬・丹後組とは別系統と目される。

むしろ注目すべきなのは、播磨・西瀬戸内からの搬入がきわめて少ないことであろう。九州からの搬入物も発見されたというが、その率は1%にも満たない。

以上から考えられることは、倭国大乱の時期に出雲を逐われた天孫族の一派が吉備、但馬、若狭、越前などに新地をもとめ、さらに若狭族の一部が近江に入り、ひとつは尾張に進出し、もう一つが木津川から大和に入り、征服王朝を開いたというストーリーである。(この説が弱いのは尾張に纏向に相当する遺跡がないこと。熱田近辺から出てもおかしくないと思うが)

そこには弥生化した縄文人(銅鐸人)が暮らしており、その中心が唐古・鍵遺跡だった。出雲系天孫族は、唐古・鍵から離れた高台(扇状地)の上に新たな都市を建設した。これは「依らしむべし、知らしむべからず」の原則に則った選択であった。

この「大和古王国」は、100年ほどで神武・葛城連合軍に制圧され、服従の道を取ることになる。その後の経過では葛城が追放され、両者は新旧の征服者として事実上の合体を遂げることになる。

纏向が衰退した理由は不明だが、今のところ火災の跡も洪水の後も見つかってはいないようだ。しかしそれがかなり突然の出来事であったことは間違いない。

それにしても、考古学屋さんって、根っこは宝探しなんですね。だからつい古墳に目が行ってしまう。