朝日出版「研究最前線 邪馬台国」というのを読んだ。

思いつくままに感想を書く。

「所在地論争は決着したのか?」というのが帯の見出し。

中身を見ると、九州でほぼ決着ということになる。ヤマト派の根拠は鏡くらいで、三角神獣鏡がダメなら別の鏡でという具合。ほとんどいちゃもんに類する。

纏向遺跡が卑弥呼の邪馬台国だとメディアでは騒いでいるが、むしろ邪馬台国ではないことを証明しているようだ。

むしろ注目するのは、在来の唐古・鍵遺跡との異質性・断絶性・孤立性だ。これは唐古・鍵に代表される銅鐸人(農業化した縄文人)に対して纏向が侵入者・征服者であったことを示している。

唐古遺跡は2世紀後半で縄文の色合いを強く残す遺跡、纏向は西暦200年前後に突如として出現した弥生式遺跡だ。

これは出雲族だ。彼らは瀬戸内海からではなく丹後→山城経由か、ひょっとすると若狭→大津経由で入ってきた。

出雲・纏向族は1世紀ほどで神武に滅ぼされる。纏向遺跡はそのまま消滅する。発掘されるものは紀元300年初頭を降らない。

しかし出雲族は渡来人同士の誼で神武系に臣属し、そのことで生き残る。だから古事記にはこれでもかというほど出雲神話が詰め込まれているのだ。

神武系は九州王朝の分派であり、その瀬戸内水軍の束ねである。難波津がその東の外れで、河内湖を挟んで生駒山麓まで出張った出雲族と睨み合っていた。

(魏志倭人伝で「次にシマ国あり、次にイホキ国、次に…」と並ぶのは瀬戸内海の国々であろう。最後が「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」でこれが難波津ではないか。巴利国は播磨、支惟国は紀伊かも知れない)

そして神武は熊野への迂回作戦を取ることにより、大和盆地と生駒山の東西山麓の制圧に成功する。

大事なことは難波津の後背地を確保し、基地としての安定性を実現したことである。これにより淀川水系の「まつろわぬ民」への圧力を強めることが可能になる。それは九州王朝が日本海沿いに出雲から東方へ進出することをも可能にする。

纏向遺跡の終わりの日が神武東征の完了した日であり。そこから大和王朝が始まる日となる。神武・綏靖…と続く皇統はこの日を起点としなければならない。

もう一つ、難波津は神武朝の原点であり、何かにつけて回帰すべき精神的故郷なのだと思う。何度かにわたり難波宮が設営されるのも、このためだろう。