水谷千秋「継体天皇と朝鮮半島の謎」(文春新書)を読んだ。
継体の闘いが詳しく着されていて非常に面白い。
その分、近畿でこれだけ必死の闘争をやっていて、筑紫の君磐井の乱を鎮圧する暇などあったのだろうかという思いがますます強くなる。
大伴や物部に加えて、近江の何某という人物まで登場するが、磐井はこの人物に「昔は同じ釜の飯を食った仲ではないか」と嘆いてみせる。あきらかに近江の何某は日本書紀の着せ替え人形である。
ただし、日本海沿いや瀬戸内の豪族がまったく蚊帳の外にいたかといえばそういうことでもないようだ。雄略紀の記載だから、おそらく倭王武の治世に、若狭の膳臣斑鳩、吉備の臣小梨、難波吉士の赤目子らが新羅を支援し高句麗と闘っている。
磐井の反乱とその鎮圧の件は、文章の体裁からして明らかに百済本紀からの移植である。したがって大和政権のあずかり知らぬ事件である。当時の大和朝廷には百済政権との間にそのような濃厚な関係はない。
戦いに敗れた磐井は豊前方面に逃走し、山中で消息を絶った。南方の肥後の勢力が反磐井に回ったからであろうが、それにしても大和政権の方向に向かって逃亡することは考えにくい。
磐井が筑紫野君である以上大君がいたに違いないが、大和政権の長は大君を名乗っていたのだろうか。そもそも大和政権に「君」という位階・官職が存在しただろうか。
天邪鬼なりに素直に考えれば、百済と筑紫を結ぶ線上に「大君」が存在していたと考えるべきだろう。それに対し磐井は筑紫から遠賀川流域の線を確保して新羅とつながっていたのではないか。
博多から太宰府にかけての地域を本拠とする「大君」が、肥後の君と連携して磐井を挟撃した。だから磐井は豊前方向に逃げたのではないか。