「我れ思う、故に我れあり」という言葉がある。
思考は人間の至高の機能と思われている。
それでは思考の座はどこにあるのか。
それは言語や記号の機能と不可欠だから言語中枢や書字・計算中枢の近傍ではないだろうか、
とだれでも思うだろう。
たとえばブローカ中枢がやられて思いを言葉にして表出できなくなる場合がある。
運動性失語だ。
しかし運動性失語の患者さんはたくさんいるが、実際には思いはしっかり残っているし、別な表出形態があればそれなりに表出可能である。
ウェルニッケ中枢だとどうなるか。実はこれはよくわからない。コンタクトできないからだ。エントランスがブロックされているだけなのか、Exit もブロックされているのかの判別は難しい。
聾唖の方は、多くは聴力障害者だ。しかし聴力障害が後天性のものなら発声はできる。ベートーベンが耳が聞こえなくなってからも名曲を作り続けたのと同じだ。
言語というのはシンボル操作だ。記号化・シンボル化という過程なくしてはできない。それはなんとか中枢というより過去の民族の遺産だ。それを学習により身につけハード化する。いわばOSだ。多分それは一定の空間を持つ網目として形成されているのだろう。
書字というのはシンボルとしてのしゃべり言語をさらに記号に置き換え、視覚化する作業だ。口を使って表出する思いを、手を使って目に見えるものにするということになる。口と耳の作業が手と目の作業に置換されなければならない。
おそらく二つの異なる認識・作業系をインテグレートしていく中枢が頭頂葉にあるのだろう。だからそれは感覚・運動野に接してあるのだと考えられる。
だとすれば頭頂葉の感覚野の後方にあると推定される書字・計算中枢は、認識の結合と統合を主として司ることにあり、運動野の前方(前頭葉)にはこれと対応した統合運動野があるのかもしれない。そういう症例がないかどうか探してみる手はありそうだ。