古田足日を脇においてこう言うのもなんだが…

小川未明の“暗さ”というのは、いわゆる「浪漫主義」に通底しているものではないのか。非合理を容認し、逆に美化さえしてしまう発想が、戦後第二世代として登場した古田には内心忸怩たるものがあったのではないか。

小川未明の児童文学における功績を否定したり、児童文学の枠から除外してみたり、というのではなく、それを事実として受け入れた上で、「内なる伝統」に潜む非合理主義を批判しているのではないだろうか。


実はこんなことを思ったのは、「十五夜お月さん」という童謡を聞いたからである。を書いた時、「花かげ」の隣に「十五夜お月さん」という曲があった。

こちらのほうが有名かもしれない。

歌詞を見ると、状況は芳しくない。それも崩壊的危機だ。

うp主のコメント: 母親は病死。父は倒産。そしてお手伝いの婆やはお暇をとりました。
妹は田舎にもらわれて行き、とうとう私は一人ぼっちになってしまいました。
十五夜お月さん!!!もう一度母さんに会いたいな・・・・もう一度母さんに会いたいな­・・・・
悲惨なこの姉妹の行く末を考えると可愛そうでなりません。

ということで、たんに悲しいのではなく、悲惨=悲しく、惨めなのだ。社会のルールからは合理的でも、当事者には非合理そのものだ。

それが非合理そのままに美化されていく。それも積極的にではなく、ただなんとなく受け止められ、砂糖をまぶされる。「母さん」を「あなた」に入れ替えれば、演歌そのままの世界だ。

これがまさに古田の言う「いびつな児童文学」であり、いびつな心を持った人の「児童心性」のなせる技だということだ。ということなのかな?


この曲は「金の船」という雑誌の創刊号に掲載された曲だそうだ。「金の星」ホームページにはこう書かれている。

大正8年11月に設立された、業界で最も長い歴史を持つ子どもの本の専門出版社です。
童謡童話雑誌『金の船』(のちに改題『金の星』)は創業と同時に刊行され、初代編集長の野口雨情をはじめ、島崎藤村・有島生馬・若山牧水・中山晋平・本居 長世・沖野岩三郎・岡本歸一・寺内萬治郎といった児童文化のそうそうたる先人達と共に、日本の近代的児童文化の成立をリードしました。

初代編集長の野口雨情がみずからものした曲だから、相当力が入っていると思う。

金の船表紙

ただ、この金の船、「赤い鳥」(北原白秋、山田耕筰、西条八十)の山の手風のメンバーに比べると、よりコマーシャルな感がある。「赤い鳥」の成功に刺激され、在来メジャー系が乗り出してきたという感じだ。

結局は両方とも軍国主義に収斂されてしまうのだから、その違いをとやかく言っても仕方ないのかもしれないのだが。