伊藤ふじ子がいわゆる「ハウスキーパー」だったというのは、最近ではほぼ否定されていると見て良い。
彼女の書いた「思い出」が何よりも雄弁に相思相愛の関係を証明しているからだ。
あるサイトによると、この見解に対してもっとも抵抗しているのが、じつは手塚英孝ではないかというのだ。
手塚は通夜の席にふじ子が来たことすら否定している。
多喜二が逮捕の危険をおもんぱかって、ふじ子に近づかなかったのは、当時の状況の下ではやむをえないことだった。ところ が一か月後、多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。あるいは、 だれも通知しなかったのではないかと疑われる。そして田口たきについては、その後の消息も明らかにされているのに、多喜二の妻である伊藤ふじ子は伝記にお いてもその他においても消えさって二度と名前もあらわれない。党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだ ろうか。
というのが手塚の見解らしい。
これに対して江口渙が反論している。
昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎 にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのす みにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。 さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱して いるふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、 コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた。
…十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん) した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろ しさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう 前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こ んこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷 問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。そんなわけで彼女がつぎの晩のお通夜に姿をみせなかったのは私の責任である。
以上はれんだいこのブログからの引用である。目下のところ真偽は保証できない。

後記
調べたところ、
「この見解に対してもっとも抵抗しているのが、じつは手塚英孝ではないかというのだ。手塚は通夜の席にふじ子が来たことすら否定している」
というのは、れんだいこさんの完全な思い違いだということがわかった。
この記事は、多喜二最期の像―多喜二の妻 というページの引用である。れんだいこさんが手塚の発言としているのは『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」の引用であって、手塚の発言ではない。
遺体を警察署から引き取って、皆で悼んだ夜は「通夜」ではない。それは江口の文章を読めば分かる。
その辺りをふくめて、次の記事に記載した。
なお、宮本顕治を入党させたのは生江健次である。(林淑美「中野重治 連続する転向」