待ち合わせの時間つぶしに紀伊國屋に入って、読みもしないのに本をパラパラ…
その時にこの本が目に入ってしまった。
以前に本も読まないで、感想を書いたあの本だ。
本の背表紙がこちらを睨みツケて、「買えっ、読めっ」と叫んでいる。
しかたないから買って、斜め読みし始めた。最初に園を訪れた時の衝撃がつづられ,その後は琵琶湖を囲んで手をつなぐ運動だ。
「医者が書いたこの手の話というのは、どうもウソっぽいところがあって、変に筆達者な連中が“感動の物語”をでっち上げたりするものだ」と斜に構えていたが…
しかし、それでは済まない、いたるところに、かなり心に引っかかるところがある。時代劇のセリフで言えば、「コヤツ、只者ではないな」という気にさせる。
精読するには気力が思わないが、「引っかかるところ」を吟味したくなる本である。そういうポイントにズブリと杭を打ち込んでみたい衝動に駆られる。
最初に、そういうポイントをいくつか列挙しておこう。

1.「生きているのがかわいそう」なのか
これは、帯の謳い文句。実際はこの本の副題と言ってよい。
「これだけ重い障害があるのに、生かされているのはかわいそうだ」というある見学者の感想への「反論」である。
筆者は、翻って「ほんとうに、生きているのが幸せなのだろうか」という問い返しまでしているが、これは次元が違う、ある意味で“すり替え”とも言える議論なので、とりあえず保留しておいたほうが良い。

2.障害者を大事にするのは「いのち」をだいじにすること

この人たちにあるのは「いのち」だけである。だからこの人たちを大事にするということは「いのち」を大事にするということである
ちょっと、出口と入口のすり替えがあるようだ。ここも後で吟味。

3.「障害焼け跡」論は間違い
消防車は火事の時に出動するが、焼け跡になっていれば出動しない。医療も同じだというのが「焼け跡」論だ。これは医療をごく狭く位置づけているという医療自身の問題であるとともに、「役に立たない」障害者を社会から排除する「仕組み」と「思想」である。
実は私も昔はこう言っていたおぼえがある。これは今では相当軌道修正しなければならないと思う。
この理屈だと消防車が焼け跡の整理までしなければならなくなる。
これは障害者医療の問題の本質ではないと思う。障害者にも医療が必要なので、そこに差別があってはならない、という形で整理しなければならない。ごく厳密に言えばだが…

4.医療従事者と患者は向き合う関係ではない
医療は医師など医療従事者と患者(障害者・家族)とが向き合って「治療」がなされているが、これでは治すものと治されるものの関係だけということになる。そうではなく「病気」あるいは「障害」を対象にして、医療従事者と患者が横に並んで協力しながら取り組んでいくというのが医療のあり方ではないか。
この議論は、いわゆる「共同の営み」論の中核をなすのであるが、「共同体の思想」を仲立ちさせないと、こんぐらかるのである。これについては拙著「療養権の考察」の第3部で論考している。

5.「快適な存在を」というささやかな目標
彼はこれからもずっとベットで生活をする。しかしこのこと自体が苦痛であるならば、あまりにもかわいそうではないか。せめて「楽な」「寝たきり」にしてあげたい。存在そのものが「苦痛」であるような彼を見ていてそう思った。
この部分は、前にも紹介した。非常に大事な発想だ。
…まだ緊張が強い日もあるけれども、その時間はずっとすくなくなってきている。穏やかに過ごしているノブオくんを見て、存在そのものが苦痛であると考えていたのが嘘のような気がする。自分の体を自由に動かすことは出来ないけれども、存在そのものを脅かす苦痛はなくすことが出来る、このことは私たちに大きな励ましを与えてくれた。
これは医療上のノウハウ(薬剤をふくめ)によって初めて可能となった。往々にしてスタッフの努力ばかりが強調されるが、ここを忘れてはいけないと思う。

6.脳の形成がなくても、脳が破壊されていても、本人が気持ちよく感じる状態は可能なのだ。
「笑った」という報告を受け、和んだ顔を見ることになって、ほんとうに驚いた。いわゆる笑いではない。しかしその顔は「楽になったよ、気持ちが良いよ、ありがとう」と言っていた。
大変底意地の悪い言い方になってしまって申し訳ないのだが、いささか文学的にすぎるのではないかとも思う。やはり“Believe or not”ではなくそれなりの客観的指標にもとづく評価がほしい。

ということで、ここまではケチつけばかりで高谷先生が見たら相当気分を悪くされることうけ合いだが、実は此処から先が、注意深い人間観察に基づく人間を構成するエレメントの分析・記載になっていくので、まことに面白いのである。