少なくとも西暦500年代の前半、大和王朝はまったく北九州と朝鮮半島南部に影響を持っていなかったと仮定しよう。

それで実際のところ困ることはひとつもない。記紀を無視しさえすればよいのである。

そのうえで、九州北部にどういう変化が起きたのかを考古学的に考察してみる必要がある。なにも大和や河内の古墳と比べる必要はない。

水谷千秋さんはそれを有明海勢力と呼ぶ。

かつて九州でもっとも勢力を誇っていたのは、玄界灘に面した地域であった。魏志倭人伝で末廬国、奴国、伊都国、不弥国と称された国々である。

それが400年代前半を境として、玄界灘沿岸から有明海沿岸に移った。

400年代はじめには玄界灘沿岸地域に全長100メートル近い前方後円墳が造られていた。それが急速に衰退し、これに代わって筑後川流域~有明海沿岸に100メートルを超える前方後円墳が造られるようになる。

なかでも代表的なのが筑紫の君と肥(火)君という二つの勢力である。

地図を開いてみるとたしかにそうだ。

弥生人から渡来人と朝鮮海峡をわたって人は入ってくるが、耕作適地はそうはない。

日本海岸沿いで言うと、博多の周辺、遠賀川の流域、あとはずっと飛んで出雲平野、さらにずっと飛んで越前まで大量の人口を支える地域はない。良港も少ない。

玄海諸国を形成した倭人は。基本的にはバイキングのような海洋民族であったようで、たしかにこのラインにそって東漸している。関門海峡の瀬戸を乗り切るのは意外と困難だったのかもしれない。

これに比べれば、筑紫以南には広大な平野が広がっており、はるかに多くの人口を抱えることが可能だ。

当初は渡来人に武力ではかなわずに服従していても、やがて沿岸部諸勢力に拮抗出来るだけの力を蓄えることになるかもしれない。

ひょっとすると、倭王朝の度重なる朝鮮出兵に「いい加減勘弁してよ」と反抗するかもしれない。イギリスでは、ノルマンジー地方の奪回を目指すノルマン王朝への反乱が繰り返されている。


古墳の話に戻るが、阿蘇ピンク石という石材があり、それが石棺に使われているそうだ。その同じ石材が大和の古墳にも使われている。しかもそれが400年代末にそれまでの畿内製石材に取って代わる形で広がっているということだ。

水谷さんはこれを大和王朝が九州を制圧した証と見ているが、普通は逆だろう。九州が大和を制圧したから、九州の石材が大和でも使われるようになったと考えるほうが素直だろう。

倭王武が、大和王朝を降したから大和王朝の血統が絶え、それが継体の代になって復活したと見ることも可能だ。