終戦の日なので、戦争に関する文学に目を通している。

「日本ペンクラブ 電子文藝館」というサイトには反戦・反核というページがあって、いくつも読める。

気に入ったフレーズを引用してみる。

これは山口瞳の「卑怯者の弁」の最後。大岡昇平の「俘虜記」を下敷きにしている。


私は小心者であり憶病者であり卑怯者である。戦場で、何の関係もない何の恨みもない一人の男と対峙したとき、いきなりこれを鉄砲で撃ち殺すというようなことは、とうてい出来ない。

…卑怯者としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである。


次は山口孤剣の明治37年の作品で、平民新聞に掲載されたもの。孤剣、この時21歳。大逆事件の直前、日露戦争後の好戦思想が席巻するさなかだ。

天(あめ)も知れ、地(つち)も記すべし、此民(このたみ)は、人を屠(ほふ)りて人の道と云ふ。

血の酒杯(さかづき)、舌つゞみ打つ醜人(しこびと)を、滅亡(ほろび)にさそふ天の火もがな。

戦(たゝか)ひの毒酒に酔へる人の子に、神の怒の鞭よ下(お)り来(こ)ね。

孤立無援、すげえ歌だ。(日本ペンクラブ・電子文藝館より)


伊丹万作 「戦争責任者の問題」

この論調には相当不満がある。一種の「自己責任論」であり、「一億総懺悔」論であり、結果的に戦争責任者が免罪されかねないからだ。

無政府主義というかリヴァタリアニズムというか、徹底した個人主義の立場からする戦争批判だ。

しかし自らをふくむ日本国民を、これでもかこれでもかと執拗に叱咤する文章には迫力がある。

前後の事情からすると、多分左翼団体に名前を無断使用されたことで頭にきて、一気に書いたものだろうと思う。伊丹は同じ時期に「手をつなぐ子ら」の脚本も手がけている。この人には「愚かな民衆」に対する優しい眼差しもあるはずだが…

私は更に進んで「騙されるということ自体が既に一つの悪である」ことを主張したいのである。

騙されると言うことは勿論知識の不足からも来るが、半分は信念即ち意志の薄弱からも来るのである。

…幾ら騙す者がいても誰一人騙されるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。

…騙されたものの罪は、只単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なく騙される程批判力を失い、思考力を失い、信念を失 い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるように成ってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任等が悪の本体なのである。

…それは少くとも個人の尊厳の冒涜、即ち自我の放棄であり人間性への裏切りである。又、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。惹いては国民大衆、即ち被支配階級全体に対する不忠である。

…今迄、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼等の跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われる時はないであろう。

…「騙されていた」と言って平気でいられる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。

…現在の日本に必要なことは、先ず国民全体が騙されたということの意味を本当に理解し、騙されるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。