神武(イワレヒコ)が大和を制圧し三輪山の麓に王朝を開いた後、在地の豪族と集簇していった。

物部氏は長脛彦の末裔であり、もっとも強力な武力を持っていた。大伴氏は神武東征以来の天皇直属部隊であった。

天皇家が河内(難波?)に本拠を移すのは、三輪山麓での在地豪族の圧力を避けるためであり、瀬戸内海を通じて筑紫との連携をはかり、その力を背景にして大和盆地の勢力に威勢を示すためであったと思われる。

その際、、背後のまもりを確実にするためには生駒山西麓の物部軍団を味方につける必要があった。

これが河内王朝と大伴・物部連合との土台をなしていたのではないか。大伴氏にはかなりの海運・海軍力があったと思われる。

ただし蘇我氏に代表される大和盆地の諸勢力はこれを好まなかった。

というふうな筋書きが想定される。

以下はウィキペディアその他から拾ったもの(結局元ネタは日本書紀のみ)

498年 大伴金村、大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。

506年 武烈天皇が死亡。金村は物部麁鹿火(大連)らを越前三国へ派遣。男大迹王を迎え、河内国葛葉宮で即位させる。

512年 百済からの任那4県割譲要求があり、金村はこれを承認。

526年 継体天皇が大和磐余に入る。

527年 近江毛野の率いる大和の新羅派遣軍、磐井の乱にあい渡海を阻まれる。金村は物部麁鹿火を筑紫に派遣。(それより前、新羅が南加羅・喙己呑を占領)

528年 筑紫国御井郡で磐井本隊を殲滅。

529年 毛野は渡海し任那と新羅・百済との調停を試みる。

530年 毛野、任那四村を奪われ、任那からも攻撃を受ける。

530年 毛野、帰還命令を受け帰国途中、対馬で病没。

537年 新羅が任那に侵攻。金村は子の大伴磐(いわ)と狭手彦とを派遣。磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとある。

狭手彦伝承: 狭手彦は高句麗を討ち,王の宮殿に入って珍宝・美女等を得,天皇と大臣蘇我稲目とに献じた。
また任那に渡る狭手彦の軍船に向かって,松浦佐用姫が山から領巾を振って別離を悲しんだとされ、狭手彦が松浦の人であったことが推測される。

540年 金村、物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退く。

562年 任那、新羅に攻められ滅亡。三国史記では「加耶が反乱したが鎮圧し、加耶城に白旗を立てる」との記載。

毛野は近江の人ではない。磐井が「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」と言っている以上、九州の人である。あるいは九州人で磐井と闘った将軍の一人が、大和王朝から派遣された近江毛野という人物にコラージュされたのかもしれない。

この謎の言葉を足がかりにすれば、日本書紀のフィクションはかなり崩れ落ちる。何かの書籍(百済本紀?)をコピペしながら、主語を入れ替えているのだとおもう。狭手彦も同断である。

6万の軍勢は補給・運搬を考えれば誇張の域を超えている。おそらく任那の現地軍をふくめてそれ相当の頭数になっているのではないか。

なお、600年以降ふたたび倭国は新羅に進出を図ったとされている。

600年 倭国は任那を救援するために出兵。境部臣が征討大将軍に任命され、副将軍は穂積臣であった。新羅は降伏したが倭国撤退後ふたたび任那を占領した。

これは真っ赤なウソである。これについては

このあたり同じ話(562年)のカットアンドペースト
三十一年の登場人物など、二度と日本書紀に出てこない。
これが、推古年代の話として挿入されていることも不思議

というコメントがあった。

たしかにそう思う。

だとすれば、37年の狭手彦は527年の近江毛野のコピー・アンド・ペーストとも読める。逆に近江毛野の名で登場する人物は、松浦の人“狭手彦”だったのかもしれない。

継体天皇は磐井の乱や朝鮮半島の事情にかかずらっている暇はなかったはずだ。国内事情だけで手一杯だった。しかも混乱のさなかに死んでしまう(おそらくは暗殺)。

だから、磐井の反乱の鎮圧や新羅との抗争などを担った人物は別にいたはずだ。それが毛野や狭手彦のモデルとなった人物に指示を与えていたはずだ。

大伴の百済密約やそれがバレての失脚も、盗作あるいは創作であろう。