私が40年間勤めていた北海道民医連の中央病院で、医師が刺されるという事件が起きた。

あらためて医療の場が修羅場でもあることに思いを致し、粛然たる思いである。

詳しい事情は分からないが、こういう事件が今まで起こらかったほうが不思議であるのかもしれない。

北海道民医連は、社会的に抑圧された民衆に医療を提供することを本分の一つとして来た。

最初に建てられた病院は「大門通り」、旧赤線地帯のどまんなかだった。敷地そのものが遊郭の跡地だった。都心に程近いというのに川一つ隔てて、そこはサムライ部落と呼ばれた場所でもあった。

中小の鉄工場や印刷工場が並ぶ労働者の街でもあった。

いわばセツルメント運動の延長のような形で、そこに医者や看護婦が住みつき、生活保護や一人暮らしの人々の医療の支えとなった。

当然のことながらそこは犯罪の多発地帯でもあった。病院にもやくざ者が出入りし、胸ぐらをつかまれたり、蹴飛ばされたりすることも度々だった。

大学の医者からは「梅毒病院」とあざ笑われた。

その後、民医連が全道規模に拡大してからも、医療に恵まれない人々を支援し、さまざまな患者運動と連帯する姿勢は変わらなかった。

難病患者への支援、肝炎患者への支援、障害者運動への支援、被爆者への支援、公害闘争、過労死への支援などが多彩に展開された。

だから患者さんからも信頼され、ヤクザ屋さんからも頼られた。戦地に身を置くNGOにも似て、危険な場所に身をおいているのに、不思議に安全だった。

「先生、いいものを見せてあげようか」と言いつつ、ポケットからハジキを取り出した患者もいた。右翼の街宣車を病院の玄関前に乗り付けて、「クスリもらいに来ました」という患者もいた

しかし、さまざまな運動の中に身をおいて活動する以上、運動から発生する混乱が持ち込まれるのも避けられなかった。

とりわけ肝炎に携わった関係者の努力は敬服に値する。そのなかで患者さんの医療だけでなく運動の支援、各種作業とほんとうに大変だったろう。

その結果、国に責任を認めさせ、補償を実現したのは我が国医療運動の歴史の中で特筆すべき出来事だった。

関係者には心から敬意を払いたい。

それと同時に、運動が大きくなればなるほど、善意と信頼だけではすまなくなる場面も出てくると覚悟しなければならない。

だが、安全を守る道は相変わらずただひとつしかない。医師・スタッフ・患者さんがしっかりと手をつなぎ、心の通いあう医療を展開すること、医師を民医連運動の「宝」として支え、育て、守りぬくことである。

これを機に、肝炎患者運動を始めとするさまざまな運動や闘いの歴史を学び直し、あらためて民医連運動に確信を持ち、その確信を患者さんと共有し、次の一歩(総訪問・総対話)を踏み出すことがもとめられていると思う。