「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」の紹介記事。

1856年ころ、フランスの版画家、ブラックモンは日本から来た陶器の包み紙を見て驚嘆する。安い紙に刷られた北斎漫画だった。

森下泰輔さんの劇的な文体での書き出しだ。

ジャポニズムの始まりに関してはいろいろな説があるようだが、最初が漫画というのが150年後の現代における漫画受容を思い起こさせ、興味深い。



下記のページに、このへんの経緯が詳しく書いてある。

ジャポニスムの底流 ―ブラックモンから高島北海まで―」北川 正

1856年当時,サン=ミッシェル大通りにあった刷り師ドラートルの工房は,メリヨンやジャックマールのような版画師や画家,装丁を依頼に来る文士などの溜まり場になっていた。

フェリックス・ブラックモン(1833-1914)もここの常連だった。フランス美術史のなかで,ブラックモンに派手な役回りはないが,多芸多才な人であったらしい。

…どちらかというと,ブラックモンは商業ベースで仕事をする腕のいい職人であり,確実に挿絵・表紙絵・扉絵をこなしてくれる仕事仲間として信頼されていたようだ。

さて,このブラックモンが,1856年に刷り師ドラートルの工房で,あるものを発見する。有田かなにかの日本製の焼き物だった。ドラートルが1855年のパリ万国博の流失品をどこかで手に入れたのだ。

しかし,ブラックモンを釘付けにしたのは焼き物そのものではなかった。割れないように焼き物と焼き物のパッキングに使われていたあるものが気にかかったのだ。何と,それは『北斎漫画十三編』だった。譲ってもらえまいか,とブラックモンはドラートルに掛け合うが,ブラックモンの執着ぶりをみてドラートルは渋った。しかし,その後ブラックモンは同じものをどこかの骨董店で手に入れる。

ブラックモンが感激したのは技法もさることながら、その題材だったという。

…古典主義的縛りに抗してクールベの市民やマネの浮浪者が現れてきたわけだが,そもそも浮世絵の主題は浮世風呂・浮世床であり庶民生活そのものだった。

ブラックモンが,「自分が北斎の第一発見者であるとふれ回り」,クリーシー大通りにあった「カフェ・ゲルボア」でマネやドガなど気鋭の画家たちの注目を集めたのも,フランス近代芸術の内的必然性なのである。

その後,ブラックモンが北斎や広重をモチーフにして版刻した食器セットは,1867年のパリ万国博覧会で金賞を受賞することになる。これが<スティル・ジャポネ(日本様式)>の第1号である。


ということで、えらく長い引用になってしまった。

しかし、爆発的に話題となったのは、1862年5月1日からロンドンで開かれた万国博覧会であった。

幕末モノの時代劇でお馴染みのオルコック大使が、無類のコレクターで、彼が持ち帰った美術工芸品約1000点が一挙に展示されたのである。その作品は展覧会後にクリスティーズで競売にかけられたというから、オルコックが邪神なき愛好家だったかどうかには疑問が残る。

その5年後に明治維新となり、窮迫した名家がお宝を叩き売りした。廃仏毀釈で打撃を受けたお寺さんからも宝物が流出した。その結果、日本からの美術工芸品の輸入は一挙に拡大し、デパートなども日本の美術工芸品を扱うようになり、ロンドンでは日本美術・工芸ブームが起こった。

だからジャポニズムは日本の政治・社会体制の混乱の副産物という側面も持っているのである。


当時は写真がどんどん普及し、それまでの写実を事とする絵画は展望を失いつつあった。

言葉としては逆で、写真が写実であり、絵画は事実ではなく真実を写しとる術であるべきだろう。

では真とは何か。多くの者はそれを心象上の真実と解した。印象派がそれであろう。

それに対し日本の絵画なり、北斎漫画は思い切ったデフォルメと平面化で、真実を切り取っていた。少なくとも西欧の人々にはそう思えた。

興味深いのは、同じ時代に日本では司馬江漢が遠近法を取り入れ、「まるで写真のような」西洋風の写実が日本人を驚かせていたことだ。

激変期においては、個別認識の諸過程が前後に錯綜し、時に思わぬ顛末をたどることになる。武谷三男の記事で書いたとおりである。

森下さんに異を唱えるようで、申し訳ないのだが、あまりブラックモンには拘泥しないほうが良さそうだ。