鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

どうも人のフンドシで相撲をとるというのは気持ちの悪いもので、尻のあたりがむず痒くなってくる。とりあえず、ネットで拾える範囲内で自分流の武谷三男関連年表を作成してみた。

1949年 日本学術会議の発足。最初の学術会議において、武谷は坂田昌一とともに、慎重に原子力研究を進めるべきだとして提案。急ぐべきだという茅誠司、伏見康治と衝突した。(これは武谷自身の文章で、しかも回顧談みたいな形での記述だから、真偽の程は定かではない)

1949年 ソ連が原爆実験に成功。米の核独占体制が崩れる。この後、米ソの核開発競争に入っていく。

1950年 朝鮮戦争が勃発。世界平和評議会は核兵器の禁止を訴えるストックホルム・アピールを発表。

50年 ストックホルム・アピールへの賛同署名、日本国内で650万筆を達成。

「安全性の考え方」より:
この頃の国民の原子力問題に対する関心の度合いを思い出してみよう。広島・長崎に対する原爆攻撃の非人道さに対して広く国民のふんがいは存在していたが、 敗戦の結果、それをあからさまに述べることははばかられていた。それは第一には占領軍の報道管制によって、原爆の詳細が伝えられなかったからであり、また 第二には日本民主化の主目標が日本帝国主義を批判することにあったからである。
原爆の非人道さに対してはじめて行なわれた抗議は、世界平和会議がストック ホルムに集まり、原子兵器の禁止を要求したストックホルム・アピールを作り発表した一九五〇年のことであった。このアピールへの署名が日本の中で六五〇万 も集まったのであるから、原子兵器に対する全国民的な憎しみ・反対は明らかであろう。

1952年 『科学』誌上にて原子物理学者の菊池正士氏が原子炉推進論を展開。日本学術会議の茅誠司氏と伏見康治氏が秘密裏に原子力計画を進める。

1952年4月 サンフランシスコ講和条約が発効。

1952年8月 武谷、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』で発表。「原子力の平和利用」を主張。

広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられてい る。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
…今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。一方で、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている
  キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせ るものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人 類の幸福のために使えないのだろうか。
そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求 され、また人類の将来の幸福を約束している。それを現実化するためには,戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ.

1952年11月 オスロのオランダ・ノルウェー合同原子力研究所の天然ウラン重水型研究炉が完成。武谷は『改造』に「日本の原子力研究の方向」を掲載。「大国から独立に、独力のすぐれた原子炉を完成」したと評価し、「直ちに日本も原子炉の建設にのり出すことを提案」した。

提案に盛り込まれた諸原則: 
・日本では、人を殺す原子力研究は一切行わない
・日本には、平和的な原子力の研究を行う義務がある
・諸外国は、日本に対して、平和的な原子力の研究へのあらゆる援助をすべき義務がある
・諸外国は、日本に対して、ウラニウムを無条件に入手できる便宜をはかる義務がある
・日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである
・日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない
・外国と秘密の関係は一切結ばない
・日本の原子力研究所のいかなる人が、そこで研究することを申し込んでも、拒否しない
これらを「法的に確認してから、日本の原子力研究は出発すべきである」とした。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられる。

53年 武谷、原子力研究のはらむ3つの危険を指摘。1.原子力研究は桁ちがいの予算と多数の専門家を動員するので、政府の研究統制を助長する危険がある、2.自由な研究、他部門の研究を圧迫する危険、3.秘密の問題をひきおこし、自由な討論をはばむ危険。

54年2月24日 この日付の極秘報告書が明らかにされている。「米国務省解禁文書」で、タイトルは「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者について」

原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである。
坂田昌一名古屋大学教授や 武谷三男氏など「素粒子論研究者の極左派」が、「最も強く、保守政府の下での原子力研究に反対している。
この「極秘」資料は、文部政務次官だった福井勇が吉田茂政府の下でまとめたもの

1954年3月1日 ビキニ環礁での米国による第一回目の水爆実験。近くで操業中の第五福竜丸が被曝する事件が発生。

3月3日 改進党(中曽根康弘党首)が原子炉予算案を提出。中曽根氏は「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」といったと伝えられている。

3月14日 第五福竜丸が帰国。死の灰(放射性降下物)が脚光を浴びる。

4月3日 「原子炉予算」が国会で可決。

武谷の述懐: 物理学者が原子力に反対するといわれた。原子力をうみ出したものがそれに反対するわけはないんで、われわれのほこりである原子力が正しく発展することを祈っているんですよ。
「物 理学者は原子力は素人でしかないからもう何の役割もない。物理学者の意見は素人の一般論だ。原子力の主体は技術者である」と、宇田委員長や業界は主張し、 伏見康治氏なども同類だ。これほど危険な見解はないのである。原子力は決してまだ完成したものではないどころか、まだ実験研究 の段階にすぎない。原子核物理学者を中心にして様々の専門科学者、技術者が協力し て発展さすべきものである。

54年 米国の原子力委員会はリビー博士(ノーベル賞受賞者)らを派遣して“日本放射能会議”を東京で開く。米国側の出席者は「汚染マグロの放射能は、人体に対する“許容量”にははるかに及ばないほど少ないものだから“安全”である。」と主張した。これに対し武谷は、許容量の概念を否定。長期予後に関して被曝に閾値はないことを主張。

1954年5月28日 中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が全会一致で可決される。

1954年4月 日本学術会議総会が原子力三原則をふくむ声明。

54年8月6日 岩波新書『死の灰』が発行される。死の灰の組成から、爆弾の構造を突き止める。

1955年 原子力基本法が制定される。原子力三原則を取り入れたものとなる。第2条において「原子力の研究、開発及び利用は、 平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。」

1957年 武谷、岩波新書『原水爆実験』を発表。『許容量』理論を否定。放射線利用の利益・便益とそれに伴う被曝の有害さ・リスクを比較して決まる社会的な概念として”がまん量”を想定する。

1957年9月11日 武谷が講演。「戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかった」ことを明らかにする。

戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかったが、戦後になりまして、人体に及ぼす影響が非常な微量なものまで危険がある。もちろんすぐ死んでしまうというようなそういう危険ではない。そういう危険でないからこそ大変心配なのであります。
戦後において原子力の平和利用を提唱したが…最近は少し薬がききすぎて、今度は、原子力なら何でもいいんだという風潮 が生まれた。文明の利器、とりわけ原子力は非常な危険を有しているから、非常に慎重に扱わなくてはならない。
 まず、軍 事利用というものには許容量というものは許されない。例えば、水爆実験の死の灰などでは、どんな微量の放射性物質でも許されず、「警告単位」という考えで なければならない。平和利用に限定して、許容量という考えが許される。しかし、この平和利用といえども何の意味もなくこの放射線や放射能を受けるというこ とは許してはならない。
 放射線・放射能は量に比例して有害であり、毒物のような致死量が存在しない。白血病やガンというものの発生も非常に微量に至るまで受けた線量と比例して現れる。本来は許容量以下でも無駄な放射線をあびることはさけなくてはならない。

1956年5月22日 武谷、衆議院社会労働委員会で、放射性物質に対する許容度の問題について参考人発言。

放射線を扱うときの根本的なフィロソフィーはできるだけ放射線に当らないということである。放射線に当るということは多かれ少なかれ有害なことなのですけれども、それと引きかえに 得をしている。これは許容量というこ とがある程度意味がある。ところが何の関係もない人に、そういう放射線をこの程度なら当ててもよろしいという理由はどこにもない。 

1976年 武谷、「原子力発電」(岩波新書)を発表。

 

以上は、中嶋さんのブログ 東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解く からの引用。

この中嶋さんは、加藤さんの講演の場にも居合わせたようで、以下のように感想を述べている。

加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べ た。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張し た。


「原子力 戦いの歴史と哲学」 武谷三男現代論集1 (1974年) という本で武谷が戦後の経過を回顧していて、

この文章をまとめた 瀧本往人のブログ では、武谷に控えめな、だが本質的な批判を行っている。

武谷の問題点は、大きく分けると二つある。

一つは、原子力を平和的利用とはいえ推進したことによる、現状への加担である。今からみると、 「原子力」に関する研究内容も技術も、「平和利用」として制限されるたぐいのものではなく、テロ対策も含めて、これ自体が、他国および自国の政治的、軍事的な道具でもあると考えるだろう。残念ながら当時の武谷にはそこまでは思い至らなかったようである。

もう一点は、明らかに彼の頭のなかには、米=資本主義=悪、ソ連=社会主義=善、という二項対立があったことである。当時の知識人において(たと えばサルトル)このことは、ある程度やむを得ないところもあるとは思うが、ソ連や、その後の中国に対する知識人の対応は、基本的に肯定的で、マイナスが あったとしても、及び腰で、米国に対する非難と比べるとかなり違った態度をとっている。

彼の言葉で「人類のため」というのがある。原子力 も「人類のため」に平和的に利用できる可能性をさぐっていた。しかし、彼が許せなかったのは、「自分だけ利潤をあげる」ために利用するの か、ということであった。そして、ソ連は「人民のため」であり「人類のため」と結び付けて考えられていたのであった。


瀧本さんは、終戦からの10年の武谷の位置取りについて、適確な指摘をしているが、私にはもうひとつの視点が必要ではないかと思える。それは時代とのアクチュアルな対決である。

第二次大戦がファシズムと民主主義との戦いであったことは言うまでもない。彼はファシズムに及ばずとも抵抗し、二度もパクられている。終戦直後に彼が日本ファシズムとの闘いを主要課題としたのは当然の事である。

その後闘いは急速に日本を単独占領するアメリカとの課題に収斂していく。これも当然のことだ。原子力問題はそれらの主要課題との関連で語られなくてはならないから、それがソ連の支持につながらざるをえないのは当時としてはやむをえざる制約であった。

これらは「民衆の敵」に対してアクチュアルであるがゆえのブレであり、アクチュアルであり続けることによって克服されていったブレであった。

ソ連も水爆を作るということになって来て、たとえソ連といえども到底支持できないということになる。しかし武谷は、それを理由にして、「民衆の敵」の攻撃と闘うことをやめたりはしなかった。我々はそこに、時代が生んだ「苦闘する知識人」としての武谷を見出すことになる。そこが武谷論のミソではないだろうか。

ただひとつ、武谷の看過し得ない詭弁については一言言っておきたい。

原子力は悪いように使える代物ではない。必ずいいようにしか使えない代物である

なぜなら原子爆弾が無制限に使われれば人類は滅亡する他ないからである。

人間に滅亡を防ぐ叡智がなければ、人類は平気で滅亡するだろう。

 

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