大躍進運動 年表

1957年

7月 毛沢東、「8ないし10回の5力年計画を経てアメリカに追いつき,追い越す」目標を提示する。

10月 共産党の第8期3中全会、「農業発展綱要」を採択。毛沢東の主張を反映した12年計画で、農業生産力を飛躍的に発展させることを目指す。

10月 大躍進運動が始まる。河南省からはじまった大規模な水利建設運動が全国に拡大。

11月 毛沢東が訪ソし、フルシチョフと会談。フルシチョフは15年で米国を追い越す構想を述べる。これを受けた毛沢東は15年で英国を追い越す構想を打ち出す。

1958年

1月 共産党政治局の「南寧会議」、地方工業生産額が10年内に農業総生産額を上回るようもとめる。

2月 四害駆除作戦が開始される。四害とは伝染病を媒介する蝿、蚊、ネズミと、農作物を食い荒らす雀のこと。北京だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した。スズメの駆除は、かえって害虫の大量発生を招いた。

3月 共産党政治局の「成都会議」が開催。第二次五ヵ年計画が発表される。鉄鋼生産量を年間2億7千万トン(前年比26倍)、穀物生産5億トン(前年比2倍)とするもの。このため農業合作社の大型化を提起。

5月 共産党の8全大会。鉄鋼生産目標値が大躍進政策のシンボルに据えられる。

6月 陳伯達、「合作社を、農業合作もあれば工業合作もある基層組織単位,農業と工業とを結合した人民公社とする」ことを提起。なお公社とはコミューンの中国語訳である。

レジェンドとしては、毛沢東が農村を視察した際に大農業集団組織に注目し、「人民公社は素晴らしい」と語ったのがきっかけとされる。

7月 フルシチョフが中国を訪問。人民公社化の行き過ぎを警告。フルシチョフが提案した防衛構想を中国は内政干渉としてはねつける。

8月 党中央政治局拡大会議、「人民公社決議」を採択。農産物の水増し報告を元に、重工業への力の集中を決定。

8月 中国、金門島への砲撃を開始。

9月 決議採択から1ヶ月で、全国のすべての農村に人民公社が設立される。私有資産の集団化や自留地の撤廃,公共食堂に象徴される現物供給制の実施,無償労働などが導入される。

10月 鉄鋼の大増産を目指す運動が開始される。原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国で展開されるが、技術的未熟さから失敗に終わる。

11月 第8期6中全会(武昌会議)、「人民公社のいくつかの問題にかんする決議」を採択.社員の家屋や衣服,家具など生活用品の個人所有を確認。家畜や家禽の所有,小副業の可能性を認める。

1959年

4月 第8期7中全会(上海会議)、毛沢東の発案になる「人民公社にかんする18の問題」が承認される。自留地を復活させ,家畜の個人飼養を促進するなどの指示。

6月 ソ連が「国防新技術協定」の破棄を通告。国防新技術とは核兵器のこと。

7月 江西省の廬山で政治局拡大会議が開かれる。彭徳懐は「プチブル的熱狂主義」と呼んで、大躍進政策の問題点を指摘する。

彭徳懐の批判: 
(1) 大躍進の成果を強調しすぎて、共産党幹部が大衆から遊離している
(2) 経済発展の法則を無視するべきではない
(3) 左派の誤りを是正しにくくなっている
(4) 人民公社の建設は性急過ぎた
(5) 毛沢東の個人決定が多く、集団指導体制がない

7月23日 毛沢東が廬山会議で彭徳懐を批判する演説。「大躍進およぴ人民公社政策には誤りもあったが(1本の指),全体としては正しく(9本の指),否定的な側面ぱかりを見て肯定的な側面を見ないのは間違い」と主張。

8月 共産党八中全回が開かれる。毛沢東は「野心家、陰謀家、右翼日和見主義」として彭徳懐を失脚に追い込む。その後、一連の調整措置は全面否定され、さらに急進的な路線が展開される。

8月 ダライ・ラマの亡命を巡り、中印国境での武力衝突が発生。ソ連は中立の立場をとる。

9月 フルシチョフが中国訪問。交渉は決裂し、毛沢東は彭徳懐の背後にはソ連日和見主義があると非難。

9月 飢饉が本格化。

1960年

1月 政治局拡大会議(上海)、再ぴ高い粗鋼生産目標が定められる。

6月 上海会議。毛沢東は「大躍進」運動の誤りを総括し,「実事求是」の原則 を忘れていたと指摘。

7月 ソ連は中国に派遣していた1390人の技術者の引き上げと機械部品および原油供与の中止を発表。

7月 都市においても人民公社が作られ、都市人口総数の77%が参加。

11月 党中央が、「農村人民公社の当面の政策問題にかんする緊急指示の手紙」を発表。12項目の改善策を提起。

大躍進運動が失敗。毛沢東は責任を取り国家主席を辞任する。これに代わり劉少奇、鄧小平が経済再建にあたる。

1962年

1月 中国共産党拡大工作会議(7千人大会)、毛沢東は大躍進の失敗に対する自己批判。同時に安徽省における「責任田」方式も「中央を封鎖し,民主を圧制する」作風だと批判。

6月 郵小平が「黒猫白猫論」を展開し,農民生活が困難な地域では各種の方法をとることができると主張。

9月 第8期3中全会(少なくとも9中全会のはずだが?)が開催される。社会主義=過渡期」論が確立し,社会主義の全ての期間において階級闘争が継続するという,継続革命論が公式に採択される。

バニスターの推計した死亡率にもとづけぱ,犠牲者の数は1959-61年の3年間で2,608万人とされる。