「戦争は政治の延長だ」というのは、有名なクラウゼヴィッツのドグマだ。それは戦争を政治のツールと見る考え方だ。
それは世界の歴史を見ていくと、あまりにも明白な経験的事実と思える。政治対立が戦争をもたらし、自らの主張をゴリ押しする手段として武力が用いられている。
そしていまもそれはシリアで、ガザで、ウクライナで実証されているようにみえる。
一方で我々も、「人民の抵抗権」という形で、クラウゼヴィッツの言葉を部分的には受け入れてきた。60年代から70年代にはアメリカ帝国主義と対決するベトナム人民の闘いを支持し、80年代にはニカラグア人民の闘いを支持し連帯してきた。これは決して間違いではない。正義の戦争というのはあってしかるべきだ。
支配者の理不尽な抑圧に対して人民が武器をとり闘うとき、とりわけ一民族が他民族の植民地支配に対し自由と独立を求めて闘うとき、我々はそれを支持してきた。

いま我々は、それと同時に次のような疑問を持っている。「それは未来永劫に真理であり続けるのだろうか」と。「人類の歴史が続く限り戦争は避けられないのであろうか」と。

私なりの結論としては、かつてそれは真実であったし、現在もかなりの点で事実である。しかし、それは事実でなくなりつつある。なぜなら日本が非戦国家の「現実」を作り上げてきたからである。

日本国憲法は、「人類は戦争の歴史を終わらせることができる」という確信に基づいて作られている。それは最初は「決意」に過ぎなかった。しかしその後の70年の過程は、それが可能であるだけでもなく、現実的なものであることを明らかにした。
我々が過去の二度にわたる世界戦争の経験を忘れることがなければ、戦争は「国際紛争を解決する手段」としての地位を失うことになるだろう。
戦争は「政治の延長」であることを止め、「愚劣な暴力の象徴的形態」となっていくはずだ。それはあたかも日本人が銃所持にしがみつくアメリカ人を見るように、あるいは二本差しの侍に接した明治の外国人のように、あるいは核兵器にしがみつく核大国のように、時代遅れの「奇異な習慣」となっていくであろう。