鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

エネルギーと存在

存在というのは基本中の基本だが、これが自然科学的には非常に難しい。そこで哲学者は即自有論から対自有に行ってしまう。即自有は物自体として放置される。

私は以前から、存在というのはエネルギーだと素朴に思っているが、エネルギーそのものは何ものにも束縛されない自由なものと、なんとなく想像していた。

昨日風呂でふと考えたのだが、エネルギーは束縛されているのではないかということだ。いわば束縛されているからこそ、エネルギーなのである。

エネルギーはE=mα(質量x加速度)である。それは時間軸を持っている。三好達治(郷愁)ではないが、“お前の中に母がいる” のだ。エネルギーというのは、動いてなんぼの世界だが、我々の検討する領域では、“動き” は自然界の所与としてあるので、「力(ベクトルを持った)の発現の過程」と見ていけばよいと思う。

何がエネルギーを縛っているかと言えば、それは時間軸だ。多次元的宇宙には、エネルギーという形に至らない、膨大な “何か原基のようなもの” がある。それが時間軸の上に乗ったときエネルギーとなる、という上下関係である。

ここから先はまったくの夢想だが、ヒッグス粒子というのは “何か原基のようなもの” に質量を与えると言われているが、私はむしろ “何か” を時間軸の上に据える(あるいは4次元時空に引きずり込む)ための台車のようなものではないかと思う。

一般的に物質はビッグバンの後、ひたすら同心円状に拡大していく。進行は放射線状で、等速で、直線的である。しかし現実には時間が立つに連れ宇宙は不均質化し、真空に近い空間に高密度の空間が混在する様になる。

この矛盾はヒッグス粒子が次第に宇宙空間に満たされるようになるためということで説明されている。これもどうもいまいち納得がいかない。物質の動きはそんなに受動的なものなのか。むしろ物質そのものが積極的に減速を図っている可能性はないのだろうか。

ビッグバンのときの勢いそのままに高速で直線的に拡散しているだけでは、加速度はゼロであり、そこには運動エネルギーは存在しない。物質は光速に逆らって減速を試みるのではないか、その時にヒッグス粒子を生み出す可能性はないのだろうか?

その時に減速にともなって生まれるエネルギーを重力エネルギーに向けることで、引力を生み出す。
この引力が、時空の不均等化と歪み、谷間におけるエントロピーの低下、そしてより物質的な小宇宙をもたらすのではないだろうか。


1936年

2.14 中国航空公司が上海ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。

2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。

3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。

4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。

4.  馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。

5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。

5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。

5.  上海の文学界で「国防文学論争」が展開される

7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。

20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者 が出る。

11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。

11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。

12.12 「西安事変」発生。

* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。

 

1937年

1. 1 上海南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。

6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。

7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。

7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。

7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。

8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。

第二次上海事変

8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。

8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。

8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。

815日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。

8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。

8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、1122日まで上海での発行を続ける。

9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。

9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。

9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。

10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。

11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。

11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。

11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。

12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。

12. 5 日本が上海大道市政府設立。

12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。

12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。

12.  南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。

12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。

1938年

1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39510日まで発行を続ける。

1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。

CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。
藍衣社 ムソリーニの親衛隊に真似て藍色の中国服を制服としたことから俗称された。正式名称は中華民族復興社。後に軍事委員会調査統計局に属したこ とから「軍統」の名でも知られる。軍統の戴笠副局長が直接指導し、CC団とは異なり、独自のビジョンを持たないテロ組織である。
杜月笙ら青幇(ちんぱん)を引き入れて「蘇浙行動委員会」を組織、その下部に「忠義旧国軍」を置く。組織員数は1万人にのぼったとされる。知日、親日派の軍人・政治家をターゲットとするテロに集中。残虐な手口で恐れられた。

2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。

3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。

3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。

4.  日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。

6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。

7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。

7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。

9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。

10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)

10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。

10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。

11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。

11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。日本軍の駐屯、中国人による中央政府の否認、撤兵時期は明示しない

12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。

12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。

* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。

* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。

1939年

1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。

2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。

2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。

3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する 越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。建物はジェスフィールド公園(現在の中山公園)に続く道沿いにあった。

日中戦争下、藍衣社やCC団による抗日テロが頻発した。日本軍当局は親日派中国人による取締機関を設立し、本部をジェスフィールド路76号に置いた。その後住所がそのまま呼称となった。それは少なくとも500人の武装した男たちをようし、娼館やカジノを経営したり「保護する」ことも含まれた。

4.15
 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。

5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。

5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。

丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。

6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。

8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。

8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。

9. 5 汪精衛が国民党第61中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。

10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。

12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。

12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。

12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。
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鄭蘋茹:容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、その過程で近衛文隆と知り合った。危険を察知した大日本帝国陸軍幹部は近衛を日本に送還した。その後、重慶国民政府より丁黙邨を暗殺せよとの指令が出たが失敗。銃殺刑となる。


12.30
 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。

 

1940年

2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。

3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。

3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。

3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。

6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。

7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。

8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。

8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。

8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。

10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。

1941年

3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、48日までに全員が釈放。

4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。

5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。

6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡

8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。

11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。

12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。

12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により31日に釈放。

1942年

1.  日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。

6.  上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。

8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。

9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。

10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。

11.  日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。

1943年

1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。

1.  汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。

7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。

9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。

1944年

2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。

3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。

6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。

6.  武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。

11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。

1945年

1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。

5.  李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。

7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。

8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。

8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。

8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。

8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。

9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。

9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。

* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。

1946年

4.  中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。

8.20 ミス上海のコンテストが開催される。

10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。

1947年

1.  輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。

2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。

5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。

5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。

7月 丁黙邨、死刑となる。

10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。

1948年

1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される

8.  蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。

12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。

1949年

2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。

2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。

4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。

4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。

5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。

5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。

5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。

7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。

10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。

 
 

1925年
5.30事件

1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22)

2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31)

3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。

5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。

5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。

5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。

7.  広州に国民政府が成立。

10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。

1926年

3月 北京で「三・一八事件」が発生。

3.  金子光晴が初めて上海に来る。

10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。

11.  南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。

12月 周恩来、中共中央総書記の陳独秀に招請され、広東を離れて上海の党本部に転任。中央組織部の秘書に就任する。暴動を統率する特別軍事委員が結成され、顧順章が武装糾察隊を指揮することとなる。

 

 

1927年
蒋介石のクーデター

 

1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立
2月10日 周建人(魯迅)が上海に辿り着き、虹口地区に居を構える。

2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。

3.21 第三次武装蜂起。労働者軍2700人が激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。

3.23 上海市民大会が開かれる。顧順章が「上海特別市臨時政府」委員に任命される。

4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。

社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。

4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。

4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。諸外国や資本家、青幇の首領・杜月笙の援助を受けながら、共産党員300人以上を処刑する

4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶も虹口に移ってくる。

7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。 人口は360万人に達する(東京・大阪は200万人)。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。

消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。

10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。

当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。

 

1928年

4.  横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。

5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。

5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。

5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。
6
月 中華民国の首都が北京市から南京市に移される。上海が事実上の首都となる。

11月  共産党幹部が上海に戻り、地下の中国共産党中央政治局が開設される。周恩来が責任者として執務する。蔡和森は病気のため解任、李立三が政治局員に昇格。

8.  中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。

11月  尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。

尾崎、スメドレー、ゾルゲ関係は「2018年07月23日  尾崎秀実の上海」を参照されたい。

* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。

 

1929年

4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。

7. 8 上海南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。

7月 蒋介石政権、租界の東北部に新しい市街地の建設を計画。「大上海都市計画」と呼ばれる。

 

1930年

2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。

3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。

5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。

7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。

10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。

10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。

10.  中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。

11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。

 

1931年

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1.  鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。

6.  瞿秋白が上海市内に潜入。

6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。このあとコミンテルン極東部のアジトが摘発される。極東部は東方部の一部を形成し、30年にイルクーツクから移設された。ゾルゲはこれらとの接触を避けていたと言う。

6月 共産党幹部の顧俊章の裏切りにより南京で項仲発蔡和森、尹大英らが逮捕・処刑される。

中国国民党臨時行動委員会: 第1次国共合作を支持推進し,武漢政府崩壊後は共産党と一致行動した。ソ連に赴き,1930年帰国後は中国国民党臨時行動委員会を組織して反蔣・非共産という第三の道をもとめようとした。

9.18 満州事変が勃発。

9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。

9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。

9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。

9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。

10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。

10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。

10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。

12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。

* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。

1932年

1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。15日に広州政府を解消。

第一次上海事変

1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。

上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。

1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。

1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。

1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。

2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。

2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。

3.01 満州国建国宣言。

3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。 日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。

3.06 国民政府、停戦声明を発表。

3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。

3.  藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。

戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。
在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの指導を受け、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行う。
南京に本部を置く。上海支部は南市、閘北、フランス租界、公共租界の四つの情報班と一つの行動班で構成された。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。

5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。

7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。

8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。

10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。

12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。

* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。

* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。

 

1933年

2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。

3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。

3. 故宮の文物総計1955725万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。

5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。

5.  上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。

6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。

7.  何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。

8.  日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成

33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。

1934年

1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。

2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。

3.  電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。

4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。

9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。

11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。

11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。

12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。

12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、221で大勝。

12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。

* 日本が全国的な凶作となる。

1935年

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。

5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。

6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役12ヶ月の判決を受ける。

8.  上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。

119日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。

11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。

12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。

12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。

12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。

21日 上海婦女救国会が成立。

12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。

12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。

12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。

20160524日作成

20240320日増補

「魔都上海」年表



1840年

 8月 アヘン戦争が勃発。イギリス海軍は天津沖へ進出し北京政府に圧力。その後揚子江へ進入し京杭大運河を止める。清国軍は圧倒的な火力の差を目に為す術なし。

1842年

6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。

44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。

44年  黄浦江流域にまずイギリス領事およびイギリス人の居留地が設けられる。初代イギリス領事としてジョージ・バルフォアが赴任。

1845年

11月 上海長官とバルフォア領事のあいだで第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な帯状地帯で、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。

49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。

49年 上海ロンドン間の定期航路の運行が開始される。

 

1851年

111  華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と名乗る。国家を名乗り、国号を「太平天国」と称す。

1853年

1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。

3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。

4.27 英国公使ボンハムが天京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。

5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。

5月 福建省の秘密結社「小刀会」が太平天国の影響を受けて蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除を宣言。

9月 農民軍「小刀会」が上海でも蜂起。「反清復明」を掲げ上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。

9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。清朝行政の機能はマヒし、各租界は自衛のための武装を固め、関税徴収も行なう。

1854年

4月 清軍が租界を攻撃。工部局は米英人居住者による義勇団(Shanghai Volunteer Corps )を組織し、これに対抗。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢したため、清側は300人の死者を出し撤退する。

7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、関税徴収をふくむ行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。
内容としては
イギリス租界の拡張、中国人の雑居の黙認、三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。

12月 小刀会追放を狙う清は、上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。英米はこれに応じず。

1855年

2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが共闘し、小刀会のこもる県城を攻略。残党は太平天国領に逃れる。

2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。

1856年

6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。

10月8日 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。広州の官憲がイギリス船籍の中国船アロー号を臨検し船員12名を拘束。イギリスはこれに難癖をつけ、フランスを誘って武力干渉した。

10月 英国、上海における治外法権を拡大強化。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。

1859年

6月17日 英仏の艦隊は天津で清軍の待ち伏せ攻撃を受けいったん撤退。

1860年

8月 李自成の率いる太平天国軍が江南地方に進出。第1次の上海攻撃を開始する。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。
10月、北京条約が締結される。英仏軍は大艦隊と約17千人の兵隊という大軍で北京を占領。天津の開港、九竜半島の割譲、苦力貿易の公認などを飲ませる。キリスト教の布教活動が自由化され広がる。
10月 欧米諸国は、北京条約を受け清朝につき、太平天国に敵対するようになる。

1861年

「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。

1862年

1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。

5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。

5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。

6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組む。

 高杉の『航海日録』:
5月6日 上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるのだろうか、そうならぬことを祈るばかり
5月10日 長髪族(太平天国軍)が上海から三里の地に来ている。明朝は砲声が聞こえるだろう
5月21日 つらつら情況を観るに、支那人はことごとく外国人の使役である。外人が街を歩くと、清人はみな傍らに道を譲る。上海の地は支那に属すというものの、実に英仏の属領なり

6月 曽国藩の軍が太平天国の首都天京を攻撃。これにより上海包囲軍はいったん天京に引き上げる。
7月5日 千歳丸、上海を立ち長崎に向かう。高杉は翌年に奇兵隊を組織し、馬関で挙兵。
8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。
62年 英租界の「工部局」会議が、南北道路に省名、東西道路に市名をつけることを提案。

1863年

3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。

9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。

1864年

7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。

1865年 

4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。

5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。
1868年
戊辰戦争。日本が絶対主義天皇制に移行。

1969年
4月 『第三次土地章程』を発布する。一方的に決め中国側に押し付けたもの。工部局の機能を強化。警察、消防、衛生、教育、財務などあらゆる機能を果たす、完全な行政システムを成立させる。

協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、租界在住の中国人に対し租界内で裁く代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。

70年

パシフィック・メール社、上海長崎横浜間の航路を開設。

71年 

大北電報公司が上海香港間、上海長崎ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。

72年

1月 日本が領事館を開設。

73年 日本の岩倉使節団が米欧遍歴の帰路に上海に立ち寄り、市内を見学。

74年

5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。

75年

2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。

76年

7月 上海呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。

81年

上海天津間に電信線が開通。

82年

2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。

7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。

83年

5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。

84年

8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。

85年

日本郵船、三井洋行が支店を開設。

90年

6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。

8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。

* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

93年

5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。

94年

3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。

8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。

1896年

1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。
96年 露清銀行が上海に出店。ロシア帝国の中国(清王朝)における権益を代表するために設立されたフランスの銀行。
下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際、それを露仏銀行団が引受けた。その後香港のユダヤ資本が上海に向かって全面的に移転。

97年

5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。

1898年

6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。

7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。

8月 上海呉淞間に鉄道が開通。

20世紀

00年

9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。

00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。

01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。

1902年

4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。

1903年

4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。

6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。

04年

2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。

11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。

1905年

8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。

11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。

12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。

05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。

06年 パレスホテルが落成。

画像2
1906年の上海 

1907年

1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」

4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。

6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。

07年(明治40年) 虹口の入り口のガーデンブリッジが鉄骨橋になる。橋の北側にはロシア領事館とアスターハウス・ホテルが並ぶ。 

1908年

路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海南京間に鉄道が開通。
9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。

1909年 

10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。

1911年
辛亥革命

1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。

1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。

2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。

7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。

8月 江亢が社会主義研究会を組織。

10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。

10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。

11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。

11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。

11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。

11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。

12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。

孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。 

1912年

1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。

1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。

2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。
3月 孫文、皇帝の退位を実現させた北京側の代表、袁世凱へ大総統の座を譲る。

3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。

5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。

7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。

11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。

1914年

4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。

8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。

1915年

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。

10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。

11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。

12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。

1916年

5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。

6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。各地に軍閥が割拠する状態となる。

1917年

1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。

7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。

11月 ロシア革命が成立。

内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店

1918年

6.26 孫文が上海に戻る。

7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。

1919年

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。

4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。

5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)

6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。

9.  『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。

1920年

1.  公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。

4.  コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。

5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。

8.  上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。

8.22 上海社会主義青年団が成立。

8.  『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。

9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。

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1920年代の上海

11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。

* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。

1921年

1.  茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。

3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、517日まで市内各所を遊歴。

7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30)。会場は李漢俊の家。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。

12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23)。会場は李達の家

8.13 上海最初のバスの運行が始まる。

8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。
* 上海工部局交響楽団(Shanghai Municipal Orchestra)が発足する。メンバーは租界に住む外国人とマニラからの呼び寄せ。

1923年

1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。

1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。

10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。

11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。

*  日本郵船が上海長崎間の定期運航を開始。最強速力21ノットの快速客船長崎丸・上海丸が投入される。

* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。

1924年

1  国民党が国共合作を決定。

6 毛沢東が上海での生活を始める。

9  江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。

12  旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。
* 第5回コミンテルン大会。地域別書記局としてコミンテルン東方部が設定される。近東・中東・極東に分かれる。極東部がヴォイチンスキーの任務を引き継ぐ。




私ごときがこのような切り抜きを乗せて何になる、と思いつつ載せることにする。
私の二人の子が零歳児からの保育であったこと、
最近、赤旗日刊などとっている人は少ないだろうということが理由だ。
この記事は、なにげなしに通り過ぎていった美濃部革新都政というものの、意義を改めて痛感させる。50歳以下の人はそんな事があったとさえ知らずに大きくなった。
営業妨害・著作権侵害は承知の上である。第二回は、どうしようか迷っているうちに、「新聞紙が欲しい」という人が持っていってしまった。たしかに昭和は、すでに十分に風化しているねぇ。それも載せる決意をさせた理由である。
#美濃部を知らずに僕らは生まれた、美濃部を知らずに僕らは育った…#
私たちは戦争の悲惨さを伝えることを世代としての使命のように感じてきたが、革新都政の素晴らしさを伝えることも大事な使命なのかなと思う。

(画面上左クリックで拡大してください)
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保育2_2

おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。とりあえず、上海の外国人ジャーナリストの動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、年表:毛沢東のライヴァルたち」をあたってもらいたい。



1919年 ゾルゲ、ハンブルク大学を卒業。ドイツ共産党に加入。ドイツ共産党機関紙の編集に従事。

22年 ゾルゲ、フランクフルト大学社会学部助手となる。フランクフルト学派の初期メンバー。

24年 ゾルゲ、モスクワのコミンテルンに入り経済分析を担当。活動家であったが、研究者としても優れた資質を持っていた。

25年 郭沫若が始めた左翼文化運動の拠点として上海に「創造社」が創設される。田漢、郁達夫らが参加。北四川路附近に社を設置。


1925年(大正14年) ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年) 尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)

4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。
注:朝日新聞上海支局は大阪朝日新聞の所有であり、そちらに移籍しないと出張扱いにならなかった。当時の大阪は東京を凌ぐ商工業都市であり、発展の源は中国の広大な市場にあった。
27年 広州在留中の魯迅、蒋介石の弾圧を逃れ上海に移る。日本人租界に居を構える。

1928年

6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。

11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。魯迅や「創造社」の文学者と交友関係を結ぶ。

12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。最初は爆死した張作霖の後継者、張学良の取材にあたる。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動しているように見える。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート 
このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。


1929年

1月 スメドレー、満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

29年春 「創造社」、市公安局から弾圧を受けて廃刊となる。

5月ころ スメドレー、上海に移り次々にルポを発表。茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。驚異的なスピードで人脈を広げていくが、これは彼女の特異な才能であろう。コミンテルンと関係はあったが、契約関係にとどまっていたと見られる。性格的に秘密工作員に向いているとは考えられない。

5月 ゾルゲはコミンテルンを離れ、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に異動。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎とスメドレーが面会。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。尾崎は彼女の自伝小説『女一人大地を行く』を「白川次郎」のペンネームで翻訳出版するくらい熱を上げた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年

1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。コミンテルンとは別に完全秘密主義の工作隊を組織。主としてアメリカ共産党系のメンバーが集められた。この組織は日本での工作にもそのまま用いられた。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 創造社など革命文学集団と魯迅らの大同団結が実現。中国左翼作家連盟(左連)が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。尾崎、東亜同文書院の学生を対象に共産主義の学習会のチュータとなる。加藤宋太郎、安斉庫治、中西功、水野成らが参加。学生の紹介で、王学文とも面識を得た。


1931年 

1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ゾルゲは日本での取り調べの過程で、尾崎との接触がスメドレーによるものであると主張したが、現在では鬼頭紹介説が定着(加藤)。スメドレーが介在すると、尾崎との接触はオープンになる可能性が高い。
注: ゾルゲは以前(ドイツ時代)からスメドレーと面識があった。(石堂)
注: ゾルゲは他国の共産党と関係することを禁じられていた。(石堂)


ニム・ウェールズ、ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。ジャーナリストを志して上海に渡り、スノーとの接触をもとめる。


1932年(昭和7年)

2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。

ゾルゲ、日本に活動の場を移す。肩書はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。

6月初め 尾崎、奈良においてゾルゲと再会、諜報活動を要請され、全面的な協力を約束。暗号名はオットー(会見は宮城与徳が設営した)

上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。

エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

12月 R ゾルゲ、いったんモスクワに戻る。


1933年

5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。

9月 ゾルゲ、アメリカを経由し、カナダ客船で横浜港に到着。日本での活動を開始。フランクフルター・ツァイトゥングの寄稿記者を名乗る。

スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。


1934年 エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党(延安)との関係を深める。

ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)





底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。

上海の尾崎、スメドレー、ゾルゲ

上海での三人の接触に関する記述がかなり混乱している。どれを底本にすべきか判断できないので、とりあえず目に付く資料すべてを検討する。

まず、主要な文献としてウィキペディアの3つの記事(尾崎O、スメドレーA、ゾルゲR)をあたったが、作業開始より2日を経ていずれも正確さを書いており、検討に値しないことがわかった。

“尾崎秀美” の項目にある下記の記載は、諸資料の中でも不思議な存在である。

ワイテマイヤーが経営する「時代精神」書店でアグネス・スメドレーに会う。(この後の「コミンテルン本部機関に加わる」との記載は明らかな誤り。
さらに“常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンスン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する”の行は、まったく出典も示されずない。第一ゾルゲは、その時点ではコミンテルンではない。

グーグルでヒットした順に見ていく。

中生勝美「コミンテルンの情報組織と 1930 年代の上海: ゾルゲと尾崎秀実を中心に」https://obirin.repo.nii.ac.jp › record › files (網羅的だが、細部の誤り多し)
加藤哲郎「ゾルゲ事件の残された謎」 http://netizen.html.xdomain.jp/KATOsorge.pdf 

はじめに Wiki から 
地理
長江河口に位置する。市街地は、長江の支流である黄浦江をほんの少し遡ったところ。唐時代には海下にあって、その後の陸化によって「海の上」に出現した。
人口は2,400万人。首都北京や香港を上回る中国最大の都市である。ちなみに東京都の人口は1,400万人。この内1千万人は市内に戸籍を持たない外籍人。
気候
冬季は寒冷、曇天が続く。夏は猛暑。猛暑日は8.7日、熱帯夜の日が続く。
上海語
方言で、本来文字はなかった。普通話と上海語とはたがいに通じない。だが大抵の上海人が普通話を使える。
歴史
1842年、アヘン戦争後の南京条約により上海が開港した。日本の横浜と同じで、ほぼ完璧な新開地。イギリスやフランス、アメリカ合衆国などの上海租界が形成された。日本も虹口に租界を開き、そこは「小東京」と呼ばれた。
1920年代から1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展した。「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した。
1925年に上海から始まった五・三〇事件は、共産党が率いる労働争議として発展。浙江財閥は、蒋介石と提携しクーデターにより運動を弾圧した。
戦争と日本人支配
日本人勢力は、32年に第一次、37年に第二次上海事件を起こし、第二次事変は日中戦争へとつながっていった。



1930年ころの上海

『中国の赤い星』の著者エドガー・スノーが書いた本、処女作『極東戦線』(1934)は日本による中国侵略について書かれたものであるが、その中に上海の様子が描かれている。
よりの転載である。

<前略>
上海は3っの都市と多くの人種から成っている。3つの都市は隣接していて、ずっとつながっているようにみえる。
もっとも近代的で富裕な中心部は共同租界、列強によって管理されている。そこは黄浦江の川岸に面している。その南はフランス租界で、同じく黄浦江に面している。租界の三方を取り囲むように中国地区がひろがる。要するに全上海の4%が外国人租界である。
<中略>
合わせて150万近くの人口をもつ共同租界とフランス租界にはあらゆる国の人間が住んでいる。アラビア人、イラク人、グルジア人、エストニア人、トンキン人、アンナン人、マレー人、エジプト人など、海外では珍しい人種もここではその独立社会をつくっている。最近の調査によると50の異なった外国籍をもつ4万8千人が住んでいる。それには2万ないし2万5千人とみられる一時滞在のロシア人は含まれていない。ここでは12種の中国方言が聞かれ、遠くトルキスタンやチベットなど中国のあらゆる省からやってきた中国人がいる。
あらゆる信仰と皮膚の色をもった人々を同じ土地で見かけることは、それほど珍しいことでないかもしれない。ニューヨーク、パリ、ベルリン、ウィーンでもいろいるな人種が入りまじって住んでいる。だが上海では人種の融合がみられない。それが一風変った現象といえよう。ここでは数世代にわたってイギリス人はイギリス人のままであり、アメリカ人は「100%」アメリカ人である。パリの外国人は喜んでフランス後をおぼえ、ベルリンではドイツ語を身につけることが必要で、ニューヨークではアメリカの方言に通じなければならない。
…中国人からもうけるつもりの外国人が、一向に中国語を覚えようとはしない。中国語を覚えることはなんとなく精神を弱めるように思われている。外国人でたまに中国語が流暢な者がいると、そのうしろで意味ありげな笑いが交わされるのだ。
パリやベルリンやニューヨークでは、外国人はその国の法にしたがっている。だが上海では外国人は自国の領事裁判権に服する以外は一切の法的規制を受けない。
上海のひどい気候については皆よく承知している。しかし人々は租界の外へは出ようとしない。不潔で「半ば未開人」の中国人が住んでいるからだ。
ではなぜ彼らはここに住んでいるのだろうか。もっとも大きな魅力は貿易である。黄色く濁った揚子江が湾曲して海へ注ぐ上海は、広い華中平原と、雪におおわれたチベツトの山々まで連なる肥沃な流域ヘの門戸である。この地域は世界でももっとも人口密度が高い。1億以上の人間が住んでいる。外国からの輪入の51%、中国の輪出の30%が上海を通じて行われている。
〈中略〉
日本人にとって上海とは何か。日貨排斥に対して戦争をしかけてまで支配しなければならない重要性とは何か。
日本の領事が説明してくれた。「日中貿易は普通は年間5億円で、わが国の貿易額の4分の1以上に当たる。その貿易の半分以上が上海を通じて行われている。ここで日本の利権を危うくすることは一切許せないでしょうが」

<中略>
上海の外観は見たところ東洋の町とはいえない。あちらこちらに東洋趣味を織りまぜた奇怪な設計があるとはいえ、ごく普通の西欧風に裁断した建築の衣をまとっている。

万事がアメリカ式になっているので、中国なまりの英語をなんとかしゃべれるようになったアメリカ人は、本国にいるのと同じような気分に浸れる。本国と同じものがほとんど全部ここではそろっている。エリザ・ランデイもモーリス・シュバリエも、ラジオ、 ジャズバ ンド、カクテル、通信学校、ナイトクラブ、キャバレー、チューインガム、ビュイックの車、福音伝道者、救世軍もある。
アジアでもっとも高層のビルが建ちならび、もっとも大きな映画館があり、東洋の首都と中国の他の都市の全部を合ゎせたよりももっと多くの自動車が走っている。東洋では名を知られた中国の百貨店がある。香港銀行、インド・チャタード銀行、中国オーストラリア銀行、ニューヨークのナショナル・シティ・チェイス銀行の総支店など有力な外国銀行が ある。
スタンダード・オイルとアジア石油はソ連の石油シンジケートのソューズネフと競い合っており、それぞれ黄浦江沿いに大きな精製施確をもっている。
東インド会社は伝奇的ともいえる古い貿易組織で、イギリスのためにインド帝国を手に入れ、もう一世代競争者が現われなかったならば、中国を英保守党の旗の下におきかねなかったしろものである。
より新しく、より進取的なアメリカの商杜もある。それらはリベットから機関銃、爆撃機にいたるまであらゆる輸出品を製造する多くのアメリカ工場を代表している。
虹口地区には空を真黒にするほど煙を吐き出す工楊がならんでいる。上海はアジアで最大の産業都市だ。忙しく稼ぎまくる綿紡工場、製粉工場、絹糸工場および中小工場で20万人以上の中国人労働者が雇用されている。
彼らの日給は1シリングに満たない。それでも仕事さえあれば働きたいという何万の労働者がいる。世界中でここほど低廉で有能な労働力が豊富にあるところはない。イギリス人、日本人、中国人の工場主はその労働力を大いに利用してもうけ、ストライキと労働組合を容赦なく弾圧している。

<中略>
この川には灰色や白のほっそりした形の鋼鉄の軍艦が見られるが、その装甲甲板の上には、西の中国地区ヘ砲口を向けた大砲がならんでいる。それらは外国の番犬で、黄浦江、揚子江および中国沿岸を哨戒するイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本の巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空母艦である。
静かに狙い定めるこれらの艦砲は、上海の治安維持を口実としている。陸上にはフランス、アメリカ、イタリア、イギリス、日本の陸戦隊が駐屯しており、彼らの銃剣は租界をとり囲む、鋼鉄の輪だ。彼らは総額6億ポンドに及ぶ世界のどの都市にもみられない巨額の外国投資を守っている。

<中略>
上海は主として(第一次)世界大戦中に発展して、現在のように世界第5の大都市にのしあがった。
「外側の人間」と現地住民の両方によって、財産が築かれてきたが、海外では世界恐慌なのにもかかわらず、今も財産が築かれつづけている。

…租界が広がるにしたがって、外国人の市参事会が処理する問題も大きくなってきた。ちょっとした村程度のことを扱っていたのが、今では巨大な都市の行政と取り組まねばならなくなった。その権限は拡大された。
…市参事会では名目上はすベての外国人が発言力をもつことになっているが、長年にわたって主としてイギリス人が支配し、それに旧同盟国の日本人と、アメリカ人が協力する形だった。
…土地を所有する有権者の中では日本人の数が首位を占め、最近の租界人口調査では1万9千人になっているが、実際の数は3万人に近い。イギリス人はこれに次いで8千人あまりで、約4千人のアメリカ人が3番目にきている。
この 「模範的租界」の百万人の人口を左右する選拳で、1932年4月の有権者数はわずか1972人だった。行政機構を動かしているのは10人あまりの外国人大地主、銀行家、商人、大実業家、これも10数社にみたない大企業の代表者である。

<後略>



タイムライン「ロシア経済制裁とグローバルサウス」

2021年

12月 バイデン大統領、ウクライナ侵攻は「これまで見たこともないような経済的結末」をもたらすと脅迫。

2022年

2月 侵攻開始から数日のうちに、①ロシア中央銀行の在外資産3000億ドルが凍結、②ロシアの金融セクターの4分の3がSWIFT決済網から切離、③外国からの投資がすべて遮断、④ロシアへの航空便・船舶のメンテナンス、保険サービスが停止、⑤ハイテク部品の対ロ輸出が阻止、⑥欧州諸国はロシアのエネルギー資源搬入を停止。⑦数百の多国籍企業がロシア市場から撤退
オリガルヒが所有する数百億の資産もまた凍結された。

3月 西側の国際金融研究所、ロシア経済が年末までに15%縮小すると予測。

3月 SWIFT締め出しに日本、欧州も連動。ルーブルが1米ドル=130ルーブル前後まで急落。ロシア政府は政策金利を20%まで緊急引き上げ、資金逃避を避ける。

ルーブルの推移
           世界経済のネタ帳より


4月 インドネシアでG20の財務大臣会合。ロシア出席の報を受け、欧米諸国の多くが欠席する。議長国のインドネシアは、ウクライナ問題での対立を持ち込むべきではないと主張。米国のイエレン財務長官は、財務大臣会合の一部に出席する。

5月 ロイター EU加盟27カ国が中国の制裁破りを批判。中国への制裁提案は合意に至らず。経済制裁に不満な国々が、今後ロシアとタッグを組む可能性。

5月 日本でG7首脳会議。ロシアを追い詰める追加制裁で合意。ロシアは「G7の対ロ制裁強化は制裁失敗の証」と語る。

6月 毎日  ロシアに対する経済制裁が1万件を突破したが、ロシアがへこたれた様子はない。プーチン大統領は「ロシアの経済状況は安定しており、制裁は失敗した」と宣言。

7月 日経、禁輸は成功とは言えない。むしろロシアは天然ガスの供給を減らし、これを取引材料として、欧州への締め付けを強めている。

LNGパイプライン

12月 EUとG7が石油に対する経済制裁を発動。ロシア産の石油の取引価格に上限を設定。原油であれば1バレル当たり60ドルとし、その価格を超えた場合は、欧米企業による海運・保険サービス提供を禁じる。LNGについては、ロシアが世界需要の3割を握っており、制裁は不可能と判断。

12月 習近平・プーチン会談。「封じ込めや抑圧は人々の支持を得られず、制裁や干渉は必ず失敗する」と述べる。中国とロシアの貿易額は、開戦以来の 10 か月で前年比 33% の増加。


2023年

1月 戦況の好転を受けて、プーチン支持率は82%に達する。

1月 NHK ロシア制裁の品目には ダイヤモンドはふくまれず。他にも希少金属などの除外品目ありそう。

1月 ロシア、金利17%前後でルーブル安定。ただし金利高と輸入品現象による内需低下⇒貿易黒字が主因である。

2月 ロシア経済の縮小幅は昨年1年間で3%強にとどまる。IMFは23年のGDPはわずかながら回復するだろうと予測。

2月 ウクライナは開戦以来の1年でGDPの3分の1を失う。穀物・肥料の生産低下とグローバルサウスへの輸出減少。

3月 プーチン、中ロ間貿易の3分の2がルーブルと人民元で行われていると発表。

3月 中国がUAEから液化天然ガスを購入し、人民元で決済。多通貨による価格づけ、決済、支払いを目指す最初の試みとなる。

3月 WSJ 制裁で「脱ドル化」加速。「ロシアは中国が経済に過大な影響力を握ることへの懸念を捨てた」と報道。

3月 スイスの銀行クレディ・スイスが経営破綻。大株主のサウジが資金を引き揚げたためと言われる。

5月 フォーブス報道によれば、原油の輸出は若干減っているが、1日当たり1000万バレルを維持。

5月 NYタイムズ インドの製油所やシンガポールの石油貯蔵会社は、割安なロシアの石油をアノニマスで購入し、世界中に販売。

5月 朝日 「制裁逃れ」が横行。米政府は20カ国以上、300超の個人と団体を、対ロシア制裁の対象に加えた。

6月 日経 ロシアのガス権益の日本商社向け配当が中国人民元で支払われることとなる。

ロシア経済は一向に干上がらなかった。国際貿易の決済を自国通貨(ルーブル)で行うことを始めた。ロシアが嫌いでもロシアの要求通りにルーブル決済をしなければならない。実体経済を握っていることの強さを教えてくれる。これは実体経済と、金融経済との対立だ。対米不信と感情的な対立もある。恨みがソロバンで解けると思うのは間違いの元だ。

7月 IMFが各国の外貨準備の構成通貨比率を発表。過去25年弱でドル比率は約71%から約59%に低下。それを人民元がカバーする。

23年8月 BRICS首脳会議。加盟国拡大で合意。当初、インドやブラジルは拡大に慎重な姿勢を示すが、最終的には賛成。ルーラ大統領は「基準となるのは、誰が統治しているかではなく、国の重要性だ」と発言。ロシアのラブロフ外相は「BRICSは多極化する世界の理念を共有し、グローバルサウスの役割の向上を求める国だ」と語った。

8月 Jetro短信 プーチン、BRICSでオンライン発言。
① 安全な輸送ルートの新設について: 南北回廊だけでなく、より広範な物流・輸送回廊を形成する。
② 金融システムの協力拡大について: 銀行間協力の発展、自国通貨の使用拡大、税務・関税・独占禁止当局間の協力の強化。

プーチン大統領は、BRICSをG7欧米中心の国際秩序に対しての対抗軸と位置付けている。中東を重視しているのは、南への出口を求めているからで、とくにUAEをハブにしようと考えている。

BRICSをハブとするサプライチェーン
     ロシアの考えるサプライチェーンの構成

11 月 テレグラフ紙 欧州連合加盟国は23年1~3四半期に61億ユーロ相当のロシア産LNGを購入した。ロシア側リストでは、スペインとフランスがそれぞれ中国に次いで2位と3位。

11月 ギリシャの製油所を介して、ロシア産原油が米海軍の燃料に使用されていることが暴露された。

11月 中東情勢の悪化で原油価格が底入れ。ロシア産原油は上限設定(1バレル=60ドル)を上回る水準で推移。米政府は、「(上限価格制が)ロシアの石油による利益を減らしている」との負け惜しみ。

Oil Laundering

石油ロンダリング

12月 ロシア、23年の政府支出は53兆円で、国防費が約2割をしめる。24年予算ではさらに7割増に拡大。その約3割を国防費が占める。これは国内総生産(GDP)の6%に達する。

12月 ロシア、23年度の経済成長率が+3.6%に達する。軍事費を中心とする財政拡大、経済活動の正常化、家計消費の堅調が要因。

12月 中国税関総署、23年の中ロ貿易額はドル建てで前年比26.3%増。

12月 ロシア中央銀行、貿易収支に占めるBRICSの割合が昨年比2倍の約40%に拡大したと発表。


2024年 

1月 ロイター、モスクワ証券取引所で取引された中国人民元(23年度)は外貨取引の42%(前年16%)に達した。初めてドルの39.5%(前年63%)を超える。記事によれば、中国へのエネルギー供給が増加したことと、中国からの物材輸入も増えたため。

1月 「ブリューゲル」の分析: ロシア産原油の輸出先別割合。EUは戦前の55%が2023年には8.9%まで低下。同期間にインドは同期間に1.6%%から35.2%に、中国は11%から22%へと急増。(インドはルピーで買って、ドルで売り抜けている。ルピーの交換価値はきわめて低い)


ダボス会議に合わせてゼレンスキーの「平和の公式」を検討する関係国会議。議論はまとまらず議長声明さえ出せずに終わった。12月にもリヤドでG7とグローバル・サウスとによる非公式会議。インド、トルコ、サウジは正義の回復も大事だが、まず停戦をしてロシアと話し合うべきと主張。

1月 野村リサーチ: 2023年の政府支出は53兆円だった。うち国防費が10兆円で戦前に比し8割増。24年度予算ではさらに1.5倍。(著者木内氏は親米無知。枝葉末節に終止し分析の名に値せず。野村のロシア評価は信用しない方が良い)

2月 バイデン大統領、ロシアの500以上の個人・団体を対象にした追加制裁。「プーチンはウクライナを地図上から抹消しようとした。その代償を払わないなら、このまま続ける」

2月 ブルームバーグ、バイデン声明にコメント。①西側技術へのアクセスは防げない、②金属セクターを標的にすると激しい返り血を浴びる、③原油輸出の締め付けは目前の選挙にとってきわめて危険 のゆえにこれ以上の制裁は不可能とする。

2月 イーロン・マスク、Xスペースで、「戦争の長期化はウクライナのためにならず、600億ドルの追加金融支援はウクライナの助けにならない」と親トランプの立場から発言。

2月 IMF、米支援が不採択になった場合のウクライナ金融支援(総額156億ドル)を肩代わりすると発表。

2月 毎日新聞 ロシアは2023年の経済成長率を3・6%と発表。高成長率の原因として、22年にマイナスだった反動のほかに、①政府支出の拡大②欧米の制裁への適応をあげる。

2月 Globe+ 原田大輔氏の発言。「欧州市場を失い、石油ガスが買い叩かれる状況が続き、かつてエネルギーの輸出で羽振りのよかったロシアに戻ることはないでしょう」


2月 国際問題 No.717 服部氏の発言。「グローバル経済の重心は東方に移っている。アジア諸国は世界GDPの39%を占めている。この地殻変動のもとで、ロシアは貿易をアジア中心に切り替え、難局を乗り切ることができた」


あとがき的感想

22年2月22日、ロシア軍がウクライナ領内に侵攻したとき、正直のところ「まさか」と思った。バイデン大統領、ウクライナ侵攻は「これまで見たこともないような経済的結末」をもたらすと脅迫していた。ロシアはかつてのような軍事大国ではなく、装備も旧式。NATO軍と正面衝突すれば到底敵うことはないだろうと思えた。軍事的側面は別として、むしろ経済的に持たないのではないかと危惧した。とくに国際決済機構であるSWIFTからの排除は致命的であろうと考えた。
逆に、それだからこそ、ロシアの覚悟は相当なものだろうと思えた。ハンガリー事件やチェコ侵入事件とはレベルが違う。返り血どころではすまない。こちらがズタズタになってしまう危険をはらんでいる。さらに全欧洲を巻き込んだ大戦争に発展すれば、数千万が死んだと言われる第二次大戦が繰り返される可能性もある。
開戦当初、これをロシアによる侵略戦争だという人がいた。これは違う。明確な軍事目標とそのための戦略を持った、すべての可能性が織り込まれた、限定的な、一発勝負の軍事行動であろうと見たのである。
しかし結果的には泥沼の消耗戦に追い込まれた。想定はしていたが、ロシアにとって最悪のオプションであったろうと思う。戦争を始めてから戦争の準備に取り掛かるようなものだ。逆にアメリカにとっては空前のチャンスであったかもしれない。


著作権無視の赤旗切り抜き。
元の本の名は「戦後保育所づくり運動史」(ひとなる書房)というのだそうです。著者の橋本さんはなんと昭和4年生、現在は95歳ということになります。

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米中関係と中国外交の変化: トランプからウクライナまで

「AALAニューズ 編集日記」で、トランプ‐バイデンの7年間、米中関係の変容を追ってみました。

これで中国外交のすべてが追えるわけではありませんが、この間の急速対応、急展開、新態勢づくりの背景が、浮かび上がってきます。

1.「大平洋は広い」

トランプが登場する前、オバマの時代の米中関係はどうだったのか、これは別の研究課題です。
ただ印象深いのは、習近平が「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」と語ったことです。これは2015年5月、オバマの時代に語られ、2017年11月、トランプ米大統領との共同記者発表で繰り返されました。つまり失言ではありません。
これは胡錦濤政権から受け継いだ「大国気分」だ。そこには米国との平和共存への楽観論が見て取れます。

2.トランプ登場がもたらした衝撃

トランプは翌18年3月、突如、関税引き上げ攻撃を開始しました。最初は米中の貿易不均衡がトランプを刺激しました。ただそれにとどまるものではありません。
全体像は18年10月のペンス演説で明らかになりました。ペンスは次のように中国観を展開しました。
①覇権主義: 南シナ海に膨張する中国の軍事侵略を非難する。また
② 人権抑圧: 中国政府による検閲の強化と宗教迫害を批判(価値観外交)し、
③ 情報保護: 中国が米国の知的財産を盗んでいると主張した。
そこで示された三点はその後の制裁に一貫する論拠となっていきます。特に③はたんなる知財権にとどまらず、AIなど未来産業のプラットフォーム確保を巡る熾烈な戦いとなっていきます。

3.戦争前夜を思わせる反中国攻撃

2019年に入り、アメリカの中国攻撃はさらに過激さを増します。まずイランとの取引容疑でファーウェイ幹部の孟晩舟が逮捕されます。さらにファーウェイの5G参入を阻止せよと国際的圧力を加えました。いわば経済戦争の宣戦布告を行ったわけです。
2020年はトランプ政権の最終年となりました。この年香港・ウィグル問題が最高潮に達しました。
ポンペイオ国務長官は7月「共産主義中国と自由世界の良好な関係は終わった」と宣言、「世界中の民主主義者」が中国に圧力を強めるよう呼びかけました。

4.バイデン政権における中国政策の変容

2021年、超タカ派のトランプからリベラルのバイデンへと政権が交代することで、政策変更が予想されましたが、実際にはトランプの路線がそのまま踏襲され、むしろアメリカ支配層の掛け値なしの政策として定着しました。

トランプ政権で見られた、「米中貿易戦争」(ブラフや取引)の面影はなく、政治・軍事色を正面に押し出したもので、価値観外交と呼ばれます。これにはNATOも加わり、西側連合による中国包囲の様相を見せ始めます。

中国は当初、楊潔篪+王毅によるソフト外交を目指しましたが、米国が台湾を新たな争点として持ち出すに及んで、対決色を強めるようになります。

5.ウクライナ戦争と中国の初期対応

2022年のはじめ、中国は内憂外患、国際的には四面楚歌の状態でした。
不動産バブルの崩壊と長期不況、パンデミックの継続、欧米マーケットからの締め出しがボディーブローとなってきました。

ウクライナ戦争は習近平政権に決断を迫るものとなりました。バイデンは電話会談で「ロシアに物的支援すれば “結果” をもたらす」と脅しました。これは「ロシアをやっつけたら次は尾までだ。だから邪魔するな」という、最も愚劣で傲慢なやり口です。

中国は脅しには乗りませんでした。
王毅外相は次のように語ります。① 主権、独立、領土保全は国際関係の基本原則であり、ロシアのウクライナ侵攻は支持できない。②  NATOの東方への拡大はヨーロッパの平和にとって無益である。③ 対話と交渉による包括的解決が唯一の道である。
これが基本線です。

その上で習近平は、バイデンの脅しにこう応えます。① この制裁は人々を苦しめるだけで、有害無益だ。 ② この制裁はロシアだけではなく、世界の経済と金融、エネルギー、食品、サプライチェーンなどに深刻な危機を引き起こす。

6.米国は二正面作戦も考慮

中国の動きを見た米国は、ロシアを撃破してさらに中国との対決に臨む方針を固めました。ロシアは経済制裁と最新兵器による攻撃で間もなく降伏するだろうと踏んだのです。
いっぽう中国は南の世界と手を結び、欧米諸国との対立を進めていて、このまま行けば最大最強の敵になると見ていました。

4月にはまとまりかけたウクライナ停戦合意をぶち壊し、戦闘のエスカレーションに踏み切りました。
民主党の重鎮ペロシ下院議長の台湾訪問はそのような雰囲気の中で行われました。これに対し中国国内でも対米強硬世論が勢いを増しました。趙立堅報道官の攻撃的な姿勢が「戦狼外交」の象徴とされました。

7.ウクライナ戦線の膠着化と中国の体制立て直し

一触即発寸前に見えた米中関係でしたが、その影で2つの事態が進行していました。
一つはウクライナ情勢の変化です。最新兵器を投入したウクライナ軍でしたが、予想に反して戦線を展開できず、兵力・兵站で息切れが始まりました。その結果、二正面作戦は不可能になったのです。米国は中国との休戦を望むようになりました。

もう一つは第20回共産党大会を経て、習近平の権力掌握が進んだことです。第三期目を迎えた習近平は外交上のフリーハンドを獲得しました。王毅は弁公室主任に就任し、政治局員に昇格しました。

2022年11月、インドネシアでG20首脳会議。これに出席したバイデンと習近平が初の直接首脳会談を行いました。実にバイデンの大統領就任以来、2年近くを経過しています。
バイデンは① 国と断交したり、経済発展を阻害したりしない。② 一つの中国政策を維持することを確認しました。

8.中国の和平攻勢

23年に入って、中国は満を持したかのように2つの重要文書を発表します。

まず王毅がミュンヘンの安全保障会議で12項目の包括的和平案を提示しました。提案は目前のウクライナ停戦だけではなく、冷戦型の軍事ブロックを排し、欧州の新たな安保組織の構築を求めるなど包括的なものでした。

もう一つはロシアを訪問した習近平による、より戦略的な提案です。停戦への道として、欧米の軍事支援の停止とロシアの対話参加を交換条件とすること、ロシアへの一方的制裁は認められず、中ロで共同対処する、ことを柱としています。
とくに後者に中国の思いが込められています。

これらの和平提案は、欧米諸国からはほぼ黙殺されますが、その直後サウジアラビアとイランが中国の仲介で7年ぶりに外交関係を正常化させたことは、世界に激震を与えました。さらに8月にはこの2国が足並みをそろえBRICSに加入することが発表されました。

いっぽう欧米諸国は、和平への展望そ示せないまま、クラスター弾や重戦車、巡航ミサイル、劣化ウラン弾など兵器の非人道化を進めるだけです。

9.最近の中国の主張

開戦から2年になる24年2月、モスクワで開催された「新植民地主義反対・国際政党フォーラム」では、対外連絡部長に就任した劉建超が、包括的和平提案発表から1年の総括を行いました。
「中国はグローバル・サウスと運命を共にする。あらゆる形の植民地主義に反対し、世界がより公正で合理的な方向にすすむよう努力する」

王毅は、去年は無視されたミュンヘン安全保障会議で、欧米諸国主体の聴衆を前にして、ホストであるかのように発言。
①各国の主権と領土保全を尊重、②国連憲章の順守、③各国の安全保障上の懸念を十分配慮する と述べました。
そして「核の問題だけはどうしても手放すことができない緊急課題だ」と述べました。

10. まとめ

2017年、トランプが大統領に就任する時点で、中国は間違いなく多極化論の信奉者でした。それは覇権主義の一変形です。覇を競い争うことが基本です。

その後、トランプ・バイデンに目一杯いじめられて、多極化論の誤りに気が付きました。多国間主義(国連中心主義もその一つ)と非戦・非同盟の立場を貫くようになって、多くの国の信頼を獲得するようになりました。
いま、中国へのこだわりがあっても、自立を求めるグローバル・サウスの国にとって中国の存在は無視できません。

すごく素直な良い記事
しかしどうして赤旗に載ったのか、不思議な記事。

戦時下のウクライナ
      画面上クリックで鮮明化します。実に鮮明です。

一時は目をつぶろうと考えたが、やはりそういうわけにはいかない。
長野で開かれた「希望を語るわくわく懇談会」での志位さんの発言。(赤旗25日付け)
言葉尻を捕らえるのは適切ではないが、言葉尻というにはあまりに鮮烈だ。
あくまで書かれた記事をもとにしての推断であり、誤解であれば訂正してほしい。
この発言はウクライナ戦争についての質問、「即時停戦の声をどう思うか」という問いに対しての答えである。
言葉が多少暴れているので整理するが、ウクライナ侵略二周年、ロシアのウクライナ侵攻2年などの言葉は、戦争の性格規定をふくむ言葉である。それと、その結果として起き、現在進行中の戦争をやめる、停戦とは別の時限の話である。
ロシアが悪いというのは国連総会の決議にて自明である。しかしいま、「2年にわたり続き終わりの見えない戦争を一刻も早くやめるべき」、と主張するのは何ら矛盾しないことである。「質問者の本意もそこにあったのか?」と想像する。

そこで志位さんの真意を測ろうということになるが、否定形で表現された言葉を肯定形に変換すれば、「即時停戦を唱えるのはあやまちである」、「少なくとも今は戦争を継続すべきである」ということになる。より能動的に表現すれば、「戦争を継続せよと主張すべきである」ということになる。流石にそこまでは言わないだろうが、そうも受け取られかねない危うい表現である。

次にその根拠であるが、「ガザ攻撃と違い、ロシアがあれだけ侵略している状況」があるからだと説明されている。会場での質問に答えるというとっさの発言であろうから、この点についての評価は控えたい。

もう一点だけ、米国が価値観外交と二重基準いう2つの「弱点」を持っており、そのために世界の「団結が作れているとはいえない」という指摘についてコメントしておきたい。
価値観外交は力の外交の見せかけでしかない、アメリカの外交方針は二重どころかきわめて一貫しており、ウクライナ戦争もガザ事態も、その暴力的本質には全くブレはない、と私は考える。

編集部より: この記事はマトリョーシュカのようです。基本はアルフレッド・デ・ザヤス著『人権産業』(The Human Rights Industry)の紹介兼感想ですが、それとともに著者の住むニカラグアの現状報告ともなっています。このような組み立てを念頭に置きながら読んでください。

https://www.globalresearch.ca/human-rights-industry-nicaragua/5850400

Global Research
February 23, 2024

サヤス著「人権産業」とニカラグア

By John Perry


サヤス著「人権産業」の紹介

なぜ国連の人権機関は、ある国には焦点を当てるが、他の国には焦点を当てないのか?
ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルのような組織が、提示された重要な証拠を無視しているように見えるのはなぜか? また、なぜメディアは人権侵害の話を、その信憑性を疑うことなく繰り返すのだろうか?

2023年の最も注目すべき書籍のひとつが、アルフレッド・デ・サヤス著『人権産業』(The Human Rights Industry)である。
この本で、デ・サヤスら専門家たちは、西側諸国政府によって「人権」がどのように歪められきたか、とりわけ米国の利益のために利用されてきたかについてまとめている。

本書が注目に値するのは、それが部外者の見解ではなく、おそらく同世代の誰よりも人権の全分野に没頭し、50年にわたる経験を分析に生かしている人物の見解だからである。
彼の結論は称賛に値するものだ。デ・ザヤスは一般市民の真の利益を最優先する。そのためにデ・サヤスは、世界的視野で人権の問題に取り組んでいる。当然ながら、彼はワシントンや欧州連合(EU)などの先進国政府に従属することはない。彼は人権の充実のために多角的なプランを提示している。

一読者として、私が強く印象に残ったことがある。それは、この本の記載が私の住む国ニカラグアにぴったりと当てはまるということである。ニカラグアはベネズエラやシリアほどには注目されてはいないが、政府攻撃のやり口は寸分たがわない。

本稿では、『人権産業』に書かれた重要な洞察のいくつかを紹介する。そしてそれらがニカラグアの経験と、驚くほど密接に適合していることを示す、
記事は2018年のサンディニスタ政権に対するクーデター未遂事件の前後に焦点を当てている。
主題は、
*マクロには国連の人権諸組織によるニカラグアの扱い、
*地域人権組織(例えば米州機構の付設機構)の役割についての評価、
*各国政府、国際人権組織によるニカラグアの扱いに分けて論じられる。
そして、ニカラグアの一握りの人権団体と呼ばれる組織の振る舞いにまで筆は及ぶ。

ニカラグアの「人権」団体

デ・サヤスが指摘するように、"人権産業" の裾野は小規模でローカルな組織で構成されている。

デ・サヤスはいう。「人権NGOほど諜報機関により汚染され、腐敗している場所はない」
彼の推定によれば、おそらく30%が諜報機関の潜入を許している。驚くべき数字である。彼はとりわけ、「全米民主化基金」(NED)やジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ財団」から資金提供を受けているNGOに対して、警告を発している。

NEDのウェブサイトを見ると、2016年から2020年の間に、他の多くの活動への資金提供に加え、ニカラグアの「人権」団体への資金提供に120万ドル近くを費やしている。

2018年当時のニカラグアには、スペイン語で頭文字をとってCPDH、ANPDH、CENIDHと呼ばれる3つの主要な「人権」NGOが存在した。それ以外にもいくつかの小さな組織があり、そのほとんどが海外からの資金援助を受けていた。
CPDHとANPDHはともにNEDから資金援助を受けている。CPDHはまた、米州機構(OAS)の下部組織からも700万ドル以上を受け取っていた。ANPDHはもともと、レーガン政権がニカラグアのコントラ戦争当時、コントラの残虐行為を隠蔽するために設立した組織である
1980年代にNEDがProdemcaという仲介者を通じてこれらの団体に資金を提供していたことは、当時ワシントン・ポスト紙によって報じられた。

CENIDHは、NEDから資金提供を受けていたことは確認されていない。その代わり、2019年のクーデター未遂までに、ヨーロッパ諸国から2300万ドルという途方もない資金が提供された。このうち1000万ドル以上は職員の給与だけに割り当てられたもので、ニカラグアのような低所得国としては驚くべき額である。
デ・ザヤスは、このような機関による人権評価は危うい可能性があり、懐疑的に扱うべきだと警告している。

 ニカラグアの場合、特に2018年のクーデター未遂における殺害やその他の虐待について、偏った報道と一方的な評価が詳細に記録されている。最も極端な例はANPDHのもので、暴力的な野党活動家に積極的に同行し、彼らの最悪の残虐行為を隠蔽しようとさえした。

ニカラグアの事件について『The Grayzone』が2019年に報じた記事がある。これによると、ANPDHが2018年に解散し、職員がコスタリカに去ったとき、彼らは前所長のアルバロ・レイバがNEDなどの資金を流用していたと告発した。さらにひどいことに、レイバはクーデター未遂時のANPDHの死傷者数を水増しするよう命じたという。

クーデター未遂事件における “不朽の神話” のひとつは、デモ隊員数百人が警察に殺されたというものだ。暴力が始まってから10日も経たないうちに、ニューヨーク・タイムズ紙はすでに「今月、数十人が死亡したと人権団体が発表した。発表によると、その多くが警察の手によるものだ」と報じている。
その後『Guardian』紙は、「少なくとも322人が死亡し、2000人が負傷した」と水増し発表した。
米州人権委員会(IACHR)は、"弾圧" が325人の死亡につながったとした。さらにこの数字は561人に水増しされた。

後日、ニカラグア国民議会の真相調査委員会による詳細な調査がなされた。その結果、実際の死者数は270人と確定された。
最も驚くべきことは、死者のうちデモ参加者は実はわずかであったということである。死傷者の大半は、見物人、封鎖した道路の向こう側を、遠回りで通り過ぎようとしていた人々、暴力デモに対し抗議に来たサンディニスタ支持者、取り締まりにあたっていた警察官であった。警察官の22人が死亡、400人以上が負傷している。

3つの「人権」団体はすべて2018年以降、政府によって閉鎖された。現在はそれらの団体はコスタリカで活動している。例えば、CENIDHはニカラグア人権防衛委員会 “ヌンカ・マス” として生まれ変わった。2021年にNEDから「民主主義賞」を受賞している。(編注:NEDのサイトを参照のこと)
この団体は、例えば、「2023年末までにニカラグア人の9人に1人が国外退去を余儀なくされた」といった根拠に乏しい報告を発出し続けている。

ANPDHはコスタリカで再開し、2020年から2021年にかけてUSAIDから70万ドル以上を受け取った。NEDやUSAIDなどの米国機関は、ニカラグアに関連する多くの組織と現在も積極的に協力している、
オープン・ソサエティ財団は、女性の政治的リーダーシップを促進するための2500万ドルの基金を管理するために、著名な反サンディニスタ活動家と契約したばかりである。(編注:「開かれた社会」のサイトを参照のこと)

OASとIACHRの腐敗した役割

サヤスは、特にニカラグアに言及しながら、こう書いている。
「多くの国際的機関が、市民を殺害し、反対派の暴力を白塗りし、専制的な政権の風刺画を描きあげた。そのために、陰謀的NGOのでっち上げたレポートを盲信した。OAS、IACHR、そして国連までもが「同じ筋書きの偏った物語」に共鳴している。

これらの国際機関はすべて、現地のNGOが提供した情報を材料としている。その多くが海外に拠点を移したいまも、その立場は変わらない。

暴力が始まって間もなく、これらの機関はニカラグア政府に招かれ、現地を訪れて独自の評価を行った。これが間違いだった。チリの弁護士アントニア・ウレホラ(後にボリッチ政権の外相)など、さまざまな人権専門家がこうした公式ミッションに参加した。彼らは政府から詳細な証拠を提示され、刑務所などさまざまな場所を訪問した。

しかし彼らはその後、政府の証拠をほとんど無視し、暴力を受けた被害者市民を無視した、きわめて偏った報告書を発表した。当然のことながら、かなりの忍耐を見せた数カ月の後、2018年12月、政府はこれらの国際機関からの代表団を許可する合意を取り消した。

IACHRの偏見の最悪の例を2つ紹介しよう。ひとつは、「専門家」の一団が政府の承認を得て、6ヶ月にわたり同国を訪問した結果である。
「GIEI-ニカラグア」というNGOは、468ページの報告書をIACHRに提出した。この報告は、特に野党とサンディニスタ支持者が衝突した事件に焦点を当てている。
事件は2018年5月30日にマナグアで発生した。野党のデモとサンディニスタ支持者の大規模なデモ行進がマナグア市内で衝突し、多くの死者が出た。

報告書は、政府反対派の死者について検討し、サンディニスタの死者と警察官の負傷については簡単にしか触れていない。これは重大な偏見だ。しかし重要なのはそこではない。

深刻なのは、報告書が自らのチームの専門家による調査結果を無視し、ときには操作さえ行ったことである。
調査団トップは反対派による銃器使用の証拠を無視し、自らの武器専門家の分析を操作し、あらかじめ準備された結論と矛盾する証拠はすべて省略した。5月30日の出来事を著しく歪曲した報告書が発表された。多数の団体や個人がIACHRに、また別途OASに書簡を送ったが、にべもない回答しか得られなかった。

2021年3月の別の例を検討してみよう。IACHRはニカラグアの先住民の権利に関する公開セッションを開催した。そこには民主的に選出された先住民コミュニティの代表は招かれず、反対を志向する2つのNGOのスポークスマンだけが招かれた。
ひとつはCEJUDHCANで、USAIDの資金援助を受けている。
もう1つはCALPIで、ニカラグア政府を大量虐殺で非難している。ニカラグア国外からは、ハワード・G・バフェット財団の傘下のオークランド研究所など4つのNGOが発言した。ニカラグア革命の米国における支援団体「国際正義のための同盟」は、IACHRの公聴会あてに意見書を提出したが無視された。証拠提出のために呼ばれた者もいなかった。

実際、何人かの証人の中で、先住民コミュニティに対する政府の優れた実績を支持したのは、ニカラグアの司法長官だけだった。彼女は反対派の主張を見事に退けた。その結果、IACHRはそれ以上追及できなかった。しかしもちろん、公聴会で行われた虚偽の告発が公けのものとなった。

サヤスは、IACHRが "政治的に敏感な集団からの請願を退ける" 傾向を持つと指摘している。IACHRでは、"政治的に正しくない被害者“ はほとんど、あるいはまったく話を聞いてもらえないのだ。これらは、IACHRがまさにそのようなことをしている多数のケースのうちの2つに過ぎない。


国連の人権機関が示すバイアス

サヤスは言う。
「国連機関はしばしば、ある国をターゲットにし、別の国をターゲットにしない。それは気まぐれに決められる」
これは "特定の外交政策を助長するためにどこかの国を悪者にする" ことにつながりかねない。このようなことは、ニカラグアに関連してOASやIACHRで繰り返し起こってきた。そして今や国連機関の常套手段でもある。

通常、人権理事会や人権委員会は、政府反対派のスポークスマンやNGO(その多くは現在ニカラグア国外に拠点を置いている)からの「証拠」を主な根拠として報告書を発表する。ニカラグア政府は報告書に反対するが、彼らの表明や政府支持団体の表明は無視される。

わずか1年前、国連人権理事会は「ニカラグアに関する人権専門家グループ」(GHREN)を設置した。2023年2月にGHRENは非常に偏った報告書を発表した。
その報告書は、ニカラグア政府が "人道に対する罪 "を犯したとまで主張した。「専門家グループ」はその権限を超えて、さらなる経済制裁まで勧告した。小規模な野党よりNGOの「集団」(複数)がGHRENにオープンアクセスし、その活動に強い影響力をもっていたことは明らかだ。

親革命派のニカラグア連帯連合は、報告書に対する詳細な批評をすぐに作成した。 たとえば、クーデター未遂時のマサヤ市での出来事に関するGHRENの時刻表が、殺人、拷問、市庁舎やサンディニスタの家の破壊など、反対派の暴力をほとんどすべて省略していることを示した。

サヤスは、他の人権専門家とともに批判した。
「この報告書は専門家の仕事とはとても言えない。バイアスがかかっていて、不完全である。それはニカラグアの経済に損害を与え、さらなる強制制裁を正当化するためにでっち上げられたものだ。このような一方的な強制措置は、2022年12月の国連総会決議77/214、人権理事会の決議49/6で非難されている」

親政府派のNGO、「ニカラグア連帯連合」は、国連人権理事会と「専門家グループ」に長文の請願書と裏付け証拠を送った。しかし何の反応もなかった。さらなる証拠を記載した電子メールを何通も送ったが、GHRENのウェブサイトの記事を紹介した1行の返信が連合に届いただけだった。


「人権産業」の隠された目的

サヤスは『人権産業』の中で、このような専門家グループや委員会の背後には、もう一つの目的があると主張した。
本当の目的は「対象となる政府を誹謗中傷し、不安定化させることで、非民主的な『政権交代』を促進することだ。その政権こそ、一つあるいは複数の強国が望んでいる政府だ。
人権産業に巣食う専門家グループは、そのような国々が用いる "ハイブリッド戦争"のシステムを担う兵器の一部なのである。
サヤスはさらに、ニカラグアに関するGHRENの「ニカラグア・レポート」に言及している。彼の結論はこうだ。「これらの報告書は政治的パンフレットでしかない。“人道に対する罪”についての非難は検討に値しない」
言うまでもなく、GHRENの判断は国際メディアで大きく報道されたが、GHRENの活動やその結論に至った経緯について調査したものはない。

この報告書が発表されて以来、野党関係者が国連の演説に招かれることが多くなった。

フェリックス・マラディアガはNEDなどを通じて米国の資金提供を受けている人物である。彼は2023年5月の国連人権サミットで演説した。
メダルド・マイレーナは、2018年に5人の死者を出した警察署襲撃事件を組織したとしてニカラグアで有罪判決を受けた人物である。しかし、2019年の恩赦で釈放され、2023年12月に国連人権理事会のイベントで演説し、ニカラグアの "重大な人権侵害 "を非難した。


ヒューマン・ライツ・ウォッチおよびアムネスティ・インターナショナルの役割

A. ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)

ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)もアムネスティ・インターナショナル(AI)も、「人権産業」の疑いを避けては通れない。
デ・サヤスは、HRWが「独立国家に対するアメリカの圧力機関として利用される」ことがあり、「特に社会主義的な変革を求める政府の信用を貶める」ことがしばしばあると指摘している。
ニカラグアについては(中国やベネズエラ同様)、HRWは「国務省の路線に従っているようだ。それは中国やベネズエラに対する態度と軌を一にしている。
 HRWは、とくに制裁(正確には "一方的強制措置")を支持することで突出している。コヴィド19の大流行のさなかにトランプが発動した新たな制裁の立役者とさえなっている。

B. アムネスティ・インタナショナル(AI)

(編注: 著者は英国の本部と米国の支部を同一のものとして扱っているが、突出した反ALBA路線をとっているのは米国支部である)

デ・サヤスは、AIに以下のような可能性があることを示している。
*米国の外交政策に沿った資金源に依存していること、
*米国の安全保障関係機関の浸透を受けている可能性が高いこと、
*現地のNGOからの情報源が乏しいことを批判している。

AIは2018年のクーデター未遂の最中、および直後にニカラグアに特別な関心を持ち、2つの主要な報告書を発行した。その場合のニュースソースには公正さがかけていた。そこには地元の反政府系NGO、米国機関の資金提供を受けたいわゆる「独立」メディアが含まれていた。

「国際正義のための同盟」(AGJ)は、AIの活動には明らかなバイアスがかかっていると警鐘を鳴らした。とくに、AIが『吹き込まれたテロ』( Instilling Terror)と侮蔑的なタイトルをつけた第2次報告書に対しては、反論「真実の排除」(Dismissing the Truth)を作成した。そしてAIの報告が偏向、省略、誤りに満ちていることを詳細に示した。

例えば、AIは、仲間の警官に殺された警察官の話を報告している。このありもしない説明は、反対派の支持者である母親が地元のNGOを通じて提供したものだった。実際には、彼のパートナー(同じく警察官)は、彼が反対派の狙撃手に殺されたと述べており、有力な状況証拠もあった。

AI報告は、出版経過についての苦情があり、ロンドンのAI本部での討議の申し出があったが、結局それ以上の返答はなかった。


 「人権産業」は企業メディアの承認済み

サヤスは主流メディアについてこう語る。ワシントンが嫌う国、たとえばニカラグアに対して攻撃を仕掛けるとき、メディアは指導者を悪者に描き出すことで政府の要請に応えると言う。ニカラグアのオルテガは定期的に "独裁者 "と称され、その政権は"権威主義政権 "と呼ばれる。

最近だけでもニカラグアは、Covid-19への取り組みの「失敗」疑惑、ニカラグアからの移民は「弾圧」から逃れた難民だという非難に至るまで、次々とでっち上げられた話に悩まされてきた。

地元の "人権 "団体からは、ニカラグアから輸入された食肉に "紛争牛肉 "のレッテルを貼る話がでっち上げられる。その理由は、「牧畜が森林に住む先住民族を追い出しているから」というものだ。このストーリーは、『Reveal』や『PBS NewsHour』によって紹介され、BBCなどでも取り上げられた。しかしその後「公正で正確な報道を求める会」(FAIR)によって、事実とのギャップ、虚偽の内容が明らかにされた。

 この「紛争牛肉」ストーリーを提供したNGOは、USAIDやオープン・ソサエティといった極右陰謀団体とつながっていた。そのことが、『秘密作戦マガジン』に寄稿したリック・スターリングによって明らかにされた。

ニカラグア政府は最近、海外からの資金で運営されるNGOを厳しく監視するようになった。2018年以前、政府は「米国の資金を受けた数十のNGOを容認してきた。それは「人権」と「民主主義」を促進するためだった。
ニカラグアは、人口わずか700万人の小国でありながら、1980年代に設立された数千ものNGOをそのまま抱えるという特異な立場をとる国であった。しかしその結果、彼らがクーデター未遂で重要な役割を果たすのを見た。政府が彼らの活動を取り締まるのは必然だった。
 デ・ザヤスは皮肉を込めて指摘する。
そのやり方は米国から学んだものだった。つまり、米国が1930年代から施行し、その後もさまざまな機会に強化してきた外国エージェント登録法(FARA)に匹敵する法案を成立させたのだ。

ニカラグアがFARAに匹敵する法律を制定し、その施行が開始され、アメリカの同盟国や資金提供者が処罰されたとき、アメリカのメディアは怒りの声を上げた。
ニカラグア版FARAは、政府転覆策動に関与する数十の親米NGOに深刻な影響を与えた。
多くのNGOが閉鎖された。すでに休業していたケースもあれば、新しい要件を満たせなかったり、拒否したりしたために廃業したケースもあった。
アメリカのメディアはこれを「市民社会を蹂躙する」「弾圧」であるとし、ワシントン・ポスト紙は「独裁国家がむき出しになった」と報道した。

しかし先ほど指摘したように、どのメディアも基本的な質問をしていない。
例えば、政府がこのような行動をとるに至ったのは、これらのNGOの何が問題だったのか。他の国々でもこれらの慣行に従っているのか、ニカラグアがNPOの規制に関して、どのような国際的要件を満たせば良いのか、といった質問である。

ニカラグアの現実は、米国の継続的な侵略の対象となっていることだ。
ニカラグアの「人権」NGOは、クーデター未遂に関与した後、閉鎖されたが、コスタリカではヒドラの頭を持つ怪物のように新たに湧き上がり、ワシントンが直接的に支援するだけでなく、国際的な「人権」業界の同盟者によっても育成されている。

 ニカラグアで2018年以前よりも反対意見を述べる余地が減っているとすれば、これは明らかにワシントンが望んでいることだ。「人権」侵害を非難し、一人当たりの所得が大陸で最も低い国のひとつであるニカラグアに一方的な強制措置を課す。民衆の支持を得た選挙を認めない。ニカラグアのロシアや中国との結びつきを警戒する、
これらはすべて、(トランプ大統領とバイデン大統領が主張するように)「ニカラグアが米国の安全保障にとって異常な脅威」という神話を維持するのに役立っている。

ワシントンの政権交代計画は2018年に失敗したが、彼らは決して諦めてはいない。

著者ジョン・ペリーはニカラグアに拠点を置く政治評論家である。




この記事は、2月22日予定の「グローバル・サウス」講義のレジメです。まだ1週間もあるので大幅補筆があるかもしれませんが、とりあえず掲載しておきます。主たる目的は、どこでも閲覧可能にするため、有り体に言えば自分のためです。

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Ⅰ.グローバル・サウスとは何か?

A.    ヨーロッパ人にとっては外の世界は南の世界だった。南の人は「人の顔をした生物」だった。ヨーロッパが世界中を征服すると、南も東もみな、その隷属世界になった。

B.    第二次大戦後に植民地のほとんどが独立した。彼らは自らをグローバル・サウスと称し、旧支配国=グローバル・ノースと対抗しようとした。しかし植民地のくびきから逃れるのは容易なことではなかった。突出した南の諸国は、北による過剰報復の対象となった。

C.    その後、旧植民地は自らを東西どちらでもない「第三世界」と考え、北からの自立を図った。どちらの軍事同盟にも加わらない「非同盟」の考えも大きな勢力を締めた。

D.   東(ソ連・東欧)の崩壊と「第二世界」の終焉は「第三世界」という用語も消滅させた。しかし「発展途上国」などの従来の呼称は「西こそが文明と考える思想」でしかなかった。そこでグローバル・サウス(南の世界)という言葉が復活した。

E.    東の喪失は「新自由主義を唯一の選択とする世界」を強制した。巨大企業だけが自由を謳歌し、社会権や労働運動は後退した。無秩序な情報が氾濫し、歪んだ反抗としてファシズムが復活し、正しい反抗には厳しい軍事介入が待っていた。

F.    グローバル・サウスは、植民地支配の痛みの歴史、いまも苦しみ続ける対外債務のワナ、連帯してそれらと闘ってきた歴史という共通した母斑を持つ。南はぶれずに前を向いている。ぶれている余裕などないからだ。

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図Ⅰ 世界の植民地(時期を問わず表記)

画像1
http://spfjpn.com/senmin/archives/129より

 

図Ⅱ 第一、第二、第三世界 1980年前後

画像2
Wikipediaより 青:第一世界(資本主義) 赤:第二世界(社会主義) 緑:第三世界


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Ⅱ.50年前と一変したグローバル・サウス

グローバル・サウスという言葉が作られた頃から50年を過ぎ、南は飛躍的に発展し変容した。しかし北の干渉と収奪がむしろ強化されている側面もある。

A. 「グローバル・サウス」という用語は地理的なものではなくなった

北は歴史的に加害国であり、南はその被害国である。北の支配が強まれば被害国の範囲は東に西に、地域的枠組みを超えて広がる。逆に南の力も地域を超えて影響を強めている。中国やインドはグローバル・サウスではないが、南と肩を並べる存在となっている。ロシアも南の方向に動き始めている。

B. 「グローバル・サウス」はもはや無力な後進国ではない

北と南を世界政治経済における「中心と周縁の関係」と見るのは間違いだ。基本は歴史的加害国と被害国の関係だ。政治的干渉や過剰な収奪がなければASEANのように自主的に発展できる。

C. 「グローバル・サウス」の経済は北をしのぎつつある

2030年までに、 4大経済大国のうち3カ国がグローバル・サウスの国々になると予測されている。それは中国、インド、インドネシアだ。米国は3位に転落する。

すでにBRICS5カ国のGDP(購買力平価換算)は、G7諸国の総GDPを上回っている。グローバル・サウスは、「発展途上国」や「第三世界」の時代には決してなかった政治的・経済的力を持っており、今それを政治の世界でも発揮し始めた。

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Ⅲ.前進するグローバル・サウス

この間に一部のグローバル・サウス諸国は自己の産業基盤を確立したが、政治的には独自のシステムを持たず、北に対する衛星諸国に留まっていた。近年、これが3つの枠組みで組織され始めた。すなわち非同盟、非ドル化、多国間主義である。これらは欧米諸国と向き合うなかで形成された。これはグローバルサウスの量的にとどまらない質的深化である。

A.   非同盟運動:

1990年の第一次イラク戦争以来、米国は国連を無視して勝手に「同盟」を組織し武力干渉を続けてきた。とりわけ中東は全域にわたり破壊の対象となった。こうしたなかで非同盟は対米従属型軍事同盟に反対することに集約される。

B.   非ドル化:

貧富の差は南北格差に帰結する。リーマンショックから欧州金融危機と展開されるなかで、グローバル・サウスも大きな被害を被った。IMFの取り立ては容赦ないものだった。こうしたなかでドル支配ブレトン・ウッズ体制)を打破することが至上課題になった。

C.    多国間主義

社会主義体制が崩壊するなかで、非欧米世界では小覇権主義が表面化した。それは個別に潰され、残された中国にも強い圧力がかけられた。こうしたなかで多極化論から多国間民主主義への転換が急速に進行した。それは域内大国と小国が手を結んで進む方式である。

 
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Ⅳ.アメリカ覇権主義とグローバルサウス

A.   「アメリカ第一主義」を掲げた新冷戦

トランプ政権は中国への敵意を剥き出しにした。同時にNATOの東方拡大政策でロシアを追い詰めた。さらに、中南米でも進歩的政権のほとんどを壊滅させた。バイデン政権はこれらを忠実に踏襲した。

B.   アメリカの覇権を支えるもの

このむき出しの覇権主義支配は、戦争も辞さない軍事脅迫、圧倒的なドルの力を背景にした金融制裁、市場からの排除の三本柱からなる。これに報道機関を通じた「独裁」攻撃が彩りを添える。いずれも国際法を無視した独断専行で、今や北のどの国も口出しできなくなった。結果として国連の権威は地に墜ち、南の発言力は失われた。

C.    南は地域連携主義と多国間主義で対抗

覇権主義に対する南の回答が地域連携主義と多国間主義だ。南の土台となる地域共同市場(ASEAN、上海協力機構、南米共同市場)が飛躍的に発展した。最初は実体経済の連携だったが、最近は現地通貨建て貿易の展開へと進みつつある。地域連携は国連・国際機関の民主主義ルールを前提とする。国際法無視の覇権主義は排除される。

多国間主義について特筆すべきは、中国の国際的立場の変化である。中国は21世紀に入ってからの高度成長を受け、一時は強国化論が主流になった。しかし欧米からの制裁攻撃を受け、ウクライナ戦争から学び、多国間主義の原点に復帰した。

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Ⅴ.グローバルサウスとウクライナ戦争 その1

 

ウクライナ戦争そのものは、ここでは扱わない。ただ現代史の上で重要なことは、戦争への態度が南北を分ける大きな分岐点になったことである。

A.   ウクライナ戦争を契機とする欧米諸国のつまづき

ロシアの武力侵攻は許せない行為だが、停戦合意(イスタンブール)を潰し武力対決を煽ったのはNATOであった。そもそもロシアを仮想敵とする冷戦の遺物、NATOの存在自体が国際法違反だ。武力対決は2年たった今も続き、解決の展望は見えない。しかし欧米諸国は停戦を拒否し、さらに強力な武器を送り込み、南には事実上のNATO支持を求めている。

B. グローバルサウスの離反

戦争の経過を見つめていた南側諸国は、戦争による勝利という路線に懐疑的となり、一刻も早い停戦を求めるようになった。国連決議を見ればわかるように停戦を求める決議には賛成するが、ロシアを糾弾する決議には棄権する。糾弾しても停戦は来ないどころか、かえって遠ざかってしまう、というのが南の素直な思いである。しかし北が支配するメディアは、彼らの意見をまったく報道せず、「それは親ロシアの主張だ」と烙印を押すばかりだ。

北の独りよがりで高圧的な態度には植民地支配者の面影が残っている。先住民の命は文明人の命とは比べ物にならない。それはガザ事態で我々の目に焼き付けられた。

続く

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表Ⅰ ウクライナに関する国連総会決議 一覧

決議の時期

決議内容

投票内訳

備考

2022年

03.02

ウクライナに対する侵略

141対5 棄権35

アフリカの賛成率

52%

04.07

人権理事会の資格停止

9324 棄権 58

アジア賛成28%

アフリカ賛成19%

11.14

ウクライナ侵略救済

9414 棄権73

アジア賛成38%

アフリカ賛成28%

中南米賛成36%

 

こうして20232月の1周年決議(脅迫的投票組織が話題になった)を最後に、もはや決議案の提出さえできなくなっている。北の圧力が強まれば棄権に回るが賛成には回らない。

この表は参議院事務局企画調整室レポートから作成したが、そこでは次のように結ばれている。

「このようなウクライナ情勢に関する国連総会決議をめぐるグローバル・サウスの対応は、 今後、日本がグローバル・サウスへの関与を強めていく上で、各国外交の動向を丹念にフォローしていくことが重要であることを改めて示していると言えよう」

 

表Ⅱ 国連総会のガザ決議

決議の時期

決議内容

投票内訳

備考

2023年

10.27

ガザでの敵対行為の停止

12114 棄権44

日英独伊加など棄権

12.12

ガザでの即時の人道的停戦

15310 棄権23

北で反対は米国、イスラエル、オーストリア、チェコのみ

「国連憲章を守るというただ一点で結集する」ならどうすべきか、は明白だ。

 

 

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 Ⅵ.グローバルサウスとウクライナ戦争 その2

C. ロシアが生き残った理由

ロシアは必死の思いで戦争を始めた。NATO諸国による生死に関わるほどの制裁が待っていたからだ。まず海外の預金は凍結され、事実上没収された。原油・LPGさらに農産物と肥料の貿易も制限された。食料・エネルギーの禁輸は、それに頼っていた南の人々を直撃した。その結果多くの転売ルートが開かれ、ドルを介さない交易が始まった。その際有力な信用を提供したのが人民元であった。

例えば昨年度ロシアの小麦輸出はなんと過去最高だ。その際有力な信用を提供したのが人民元であった。これらの動きは連動し、北の影響を受けない南南ルートの開拓に繋がった。ロシアが経済を維持できているのは、南との物心両面に渡る接触が続いたためだ。

D. 持続可能なプラットフォームへの発展

これらのコネクションが持続可能なシステム(BRICSを含む)となるためには、3つの課題がある。すなわち、エネルギー・食料供給と物流の管理、グローバルな金融・開発システムの管理、そして平和と安全保障のための「開かれた制度」である。なかでも ③の課題は目下きわめて切実な課題となっている。異質な君主制国家や宗教性国家が加入し、他の国がこれを歓迎した理由もそこにある。

このような地域横断的共同体としては、BRICSの他に上海協力機構*があるが、今回は省略する。(* 中、ロ、中央アジア4カ国、インド、パキスタン、イラン)

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. BRICS: 「南」を超えたグローバルサウス

A. 注目されたのはウクライナ開戦の後

BRICSそのものはすでに今世紀初頭に立ち上げられている。それが注目をあびるようになったのは最近のことだ。流れとしてはこうなる。

これまで中国が積み上げてきた「一帯一路」交易ルートに、ロシアの資源供給力を乗せることで、太い物流が形成された。人民元に現地通貨を組み合わせた信用決済システムが出来つつある。そして国家レベルの支えとして、北の支配から独立した大国による連合BRICSの役割が急浮上した。

B. これまでの共同体とは次元が異なるもの

第一に、これまでの南の共同体は地域が単位であったが、BRICSは文字通りグローバルである。第二に、これまでは市場の相互開放が主要な目標であったが、BRICSは資源・食料から流通、金融、開発までを含め包括的だ。第三に、参加希望国が列をなしていることにも表されているように、文化・価値観を含めインクルーシブだ。第四に、域内大国の交流を基礎とする実務的諸関係を土台としている安定性だ。

C. 持続的勢力となるかは今後の課題

国際司法裁にジェノサイド条約違反を提訴した南アには、BRICS議長としての重みがあった。しかし通貨危機を仕掛けられたアルゼンチンが親米派に乗っ取られるなど、新興組織ならではの不安定要素を持つ。従来型の南の諸国、諸組織による支えが必要である。

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補 グローバルサウスと非戦

 

A. 国連中心主義と非戦思想

 

南の諸国はこれまでも非核・非同盟を掲げて運動してきた。しかし非戦の旗印は必ずしも明確ではなかった。多くの国で、過去の独立運動が武力革命にならざるを得なかったためである。

しかし各々が国家として独立した以上、すべての紛争は国際法を通じて平和的に解決すべきである。これを国連中心主義といい、バンドン宣言の骨子ともなっている。その中核は非戦思想である。

 

B. ウクライナ戦争と非戦思想

 

ウクライナ戦争で賛否が問われたとき、南は「停戦こそが正義」と考え、戦いへの支持を呼びかける北の提起に賛同しなかった。数次にわたる総会決議を通じてこの考えは南の共通意思となった。

とくにNATO側がクラスター爆弾、劣化ウラン弾など「非人道兵器」を逐次投入するようになって、北の人々の中にも戦争継続への不安が高まっている。

 

C. 日本国憲法と非戦思想(以下は私見です)

 

「非戦」は平和を目指すのとは違い、選択と決断を迫る。日本は最後に本土決戦を断念し連合軍を受け入れた。この事実から戦後日本は出発し、「国家は戦争をしない」ことが合意となった。それが国家としてのギリギリの立ち位置である。

 

40年前、北海道新聞の新年号に掲載された森嶋通夫氏の「白旗・赤旗」論は、当時の仮想敵国であるソ連を念頭に置いたもの。徹底的に戦争回避策を追求した上で、

 

…いずれにせよ最悪の事態が起これば、残念ながら日本には一億玉砕か一億降伏かの手しかない。玉砕が無意味なら降参ということになるが、降参するのなら軍備はゼロで十分だ。

…不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるよりほかない。34年前に米軍を迎えたように、である。

 

戦中派らしくややニヒルであるが、「わたしゃきれいごとは言わないよ」と言いつつ、見事に本質を切り裂いている。

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今、メンゲルベルクのブラームス1番を聴いたところ。音質は信じられないほどよい。1940年の実況録音盤だというのが信じられない。
いつも思うのだが、あのSPレコードを鉄針で再生するのではなく、レーザー読み取りで針音を消してしまえば、原理的にはLPより情報量は多いのではないか。
低音は今流行りのAIで補正すれば良い。

ドイツが条約を破りオランダに進行した年だ。王室はゆかりのあるイギリスに脱出した。ドイツ系のメンゲルベルクはナチによって持ち上げられ、英雄扱いされる。その影でアンネフランクが捕まって強制収容所送りになった。
そういう歴史的背景を知っているとあまり聞きたいとは思えない演奏だが、聞いているうちにどんどん引き込まれていく。
至る所ポルタメントだらけなのが気になるが、意外とテンポは動かしていない。だからリズム感がしっかりしていて、聞きやすい。
終わってから思ったのだが、この演奏からルバートを取り去ったらあのベイヌムの名演奏に通じているのではないか。

今朝の赤旗、将棋欄の切り抜き。
何気なしに目に止まったのがこの言葉。
将棋

小窪は、北村の攻め駒を取りに出て、丁寧に受ける方針を徹底させてきました。…俗に “友達をなくす手” を指し、方針にブレはありませんでした。

悪く言えば “なぶり殺し” 路線だ。良く言ったもんだ。この絶妙の距離感と親愛感は何かしら心地よい。流石に将棋ではあとを引くことはなかろうが、しばらく小窪さんとは指したくないだろう。

これが現実の生活場面だとそうはいかない。反論するときは、最大限に丁寧に、相手に逃げ道を与えつつ、切り上げ時を見定めつつやらなくてはいけない。それができないならやらないほうが良い。大抵は時と忘却が解決してくれる。






ブラジル政変 第2報 バンデランテス放送→NHK BS放送の報道

先程ほとんど見られなかったニュースの再放映を見た。ボルソナロの自宅拘禁が最新のニュースだが、軍幹部や側近の逮捕は3,4日前から行われていたようだ。報道元はBBCではなくブラジルのバンデランテス放送(Rede Bandeirantes)。これはあとで探してみよう。

今回の一連の行動は連邦検察庁の告発文書発表から始まった。これによると

① 大統領選敗北後、元政府関係者の間でクーデター計画が作成された。
② この計画はある弁護士が作成し、ボルソナロ政権の財務担当補佐官に渡された。
③ ボルソナロは計画に目を通し、最高裁判事、上下両院議長のリストから何人かを外したあと、計画に承認を与えた。
④ その後ボルソナロは軍関係者と接触を重ねた。陸軍司令官はクーデターの際には協力すると約束し、海軍司令官は全面的協力を約したという。
⑤ これを元ボルソナロ補佐官のシド氏が内部告発した。ボルソナロは元補佐官を「自分の罪を隠すために告発した」と非難した。
⑥ 内部告発に基づいて証拠書類を押収し、物証を固めた連邦検察庁は、8日、告発文書を発表した。これに基づいて連邦警察が行動を開始した。

8日は以下の行動が行われた。
⑦ 連邦警察は陸軍司令官をふくむ軍関係者16人を逮捕した。彼らはいずれもクーデターの際に協力を約束したという。
そして、昨日はボルソナロ与党である自由党本部を襲い、ボルソナロのパスポートを押収した、という流れ。

以上

今回の出来事の報道では左翼ジャーナリズムの反応が異常に早い。

①Peoples Dispatch
Federal Police investigate Bolsonaro and allies for January 8 coup attempt

②Democracy Now!
Brazilian Police Confiscate Ex-President Bolsonaro's Passport as Coup Investigation Heats Up

順に訳していきたい。
こちらはAALAニューズ 編集日記へ投稿します

ブラジルで大変なことが起きているようだ。ボルソナロが自宅に閉じ込められ、軍首脳が一斉逮捕されているようだ。
クーデター計画が暴露されたためだという。
今、NHK BSで流れている。

とりあえずネットでニュースを拾う。

BBCが下記の記事

「ボルソナロ、クーデター関連捜査でパスポート押収」

連邦警察はボルソナロのパスポートを没収し、外出禁止を命じた。側近3人、ボルソナロが所属する政党の党首も拘束された。

警察は「権力を維持するための失敗した陰謀を主導した。クーデターの可能性への対応である」と主張。「クーデター未遂に関与した犯罪組織」を標的にしていると述べた。

ボルソナロは、この作戦は政治的動機によるものであると非難した。

以下ボルソナロよりの立場から背景が書かれているが、省略。

ほかにニュースは入っていない。ということはNHKのニュースはBBCの配信によるものか。

しかしNHKでは軍幹部グループが一斉逮捕されたと報じていたから、これよりも新しい。ひょっとして私は夢を見ていたのか?



赤旗1月21日号(日曜日)の間宮利夫大先生による記事「人類拡散…バイカルの謎」が届きました。私が今もなお、紙の日刊赤旗を購読する理由は、第一に間宮さんの科学記事があるからです。

さっそく本題に入ります。

正月のビッグな話題だ。どうも4万年前後にかなりの数のホモサピエンスがバイカル湖両岸で生活していたらしい。

実は、これは決して目新しい話ではありません。2000年前後、日本の学会ではGm遺伝子、肝炎ウィルス、HLA抗原、ATLウィルス、ピロリ菌などさまざまなマーカーを用いた古代人の分類が行われていました。いま考えると、これは最近の一塩基多型の走りみたいな議論だったのではないかと思います。
それらのいずれもが、日本人の祖先はバイカル湖周辺地域の由来だということを示していました。さらにそれより前、「人類の集団は中央アジアからウラル・アルタイを越え中東からやってきた」のではないか、ということも示唆されていました。
つまり東アジア人は北方系と南方系の交雑したものだというのが一種の了解になっていたように思えます。
殷賑を極めた関連抗原探しですが、その後ミトコンドリア・イブとY染色体アダムの議論が持ち込まれた瞬間、それらの議論はピタッと消えました。アダムもイブもヒト由来のDNAですから、ただの共存者にはとても刃が立たなかったのでしょう。そしてその後バイカル湖由来説もなくなりました。
欧米で広がったY染色体アダム説は南方からの拡散説がセッティングされていて、そちらもそのまま受け容れられました。しかし北方説は、何かしら胸のつかえとして残っています。

人類拡散の歴史(Yハプロに関する記述は私の挿入)

* ホモサピエンスは30万年前~20万年前にアフリカで誕生した。
* 6万~5万年前にハプロCが出アフリカを果たした。これがY染色体アダムとして現生人類につながる。(間宮さんの見解は諸説のうちで最も遅いものだ)
* 現生人類は暫時中東にとどまる。(Y染色体エデンはオマン説、パレスチナ説がある)
* やがて再移動‐拡散を始める。拡散方向はインド方面、中央アジア方面となる。(さらにヨーロッパにも拡散するが、黒海の南岸・北岸経由が考えられる)
* 中央アジアに拡散した人類は、気候に訓化しC2亜型を生み出す。結果、CはC1亜型として再分類される。C1はインドからオーストラリアまで拡散する。しかしヨーロッパに進出したC1は、わずかの痕跡を残して絶滅する。

バイカル人はどこから来たか?

結論から言うと、中央アジアに発生したC2人が、やがてアルタイ山脈の北麓を経由してバイカル湖に至ったのだと思われます。下に地図を示します。
バイカルへの道

この絵では思い切った単純化がなされています。問題の焦点を絞るために、人類が中央アジアに進出したあと、どのようにして東に向かったのかを考えてみたいと思います。
狩猟者である人類が最も必要としたのは、気温という抽象的なものではなく、狩り場としての草原です。
中央アジアの草原の東辺縁…天山山脈とパミール高原の山麓に入ったC人が適応拡散してC2人となり、カザフスタンの高さでウクライナ~ポーランドへと水平移動しながら生活するようになったのだろうと思います。
そしてその一部がアルタイ山脈の北側に出て東に進み、バイカル湖畔に理想の地を見つけたのでしょう。
西域

むかしの恋人と巡り会った気分

C2人のこのような移動は、以前から確認されています。それはマンモスハンターとして特徴づけられていました。彼らはベーリング海をわたり北アメリカ中部まで達していたことが確認されていました。
不思議なのは、たしかにマンモスを追って生涯極寒の地をさすらうことが幸せなことなのか。もし半定住できるほどに資源が豊かなら、彼らはそこにとどまろうとしなかっただろうか、ということです。
そんな具合でしたから、古気候学の壁を突き崩す可能性のある今回のバイカルの遺跡検索と、半定住を可能にした古気候学のピットフォールがあったという知らせは、むかしの恋人と巡り合ったような気分です。

バイカル湖畔の多数の旧石器遺跡群

バイカル湖畔遺跡の存在はずいぶん前から明らかでした。しかし多くの人類学者はあえて目をつぶっていました。なぜなら古気候学のエビデンスは、到底人が暮らせぬ極寒の環境にあったことを示しているからです。
この思考停止が最近になって打破されるようになってきました。たんに狩猟集団というには大きすぎる社会集団が北方地域で次々と見つかってきたからです。

下の写真は2023年1月10日にNHKで放映された「人類誕生・未来編」という番組の一コマです。最初の画面ではロシアの雪原で研究者が語っています。「まさにこの場所で3万5千年前、人々が住んでいました。彼らは400人にのぼる、非常に大きな集団でした」
kenkyuusha

次の画面は集落の想像図です。「400人の大集団…社会の始まり」というキャプションがつけられています。
社会の始まり

ずいぶん控えめな表現ですが、400人の集団はたんなる群れではなく、安定した備蓄、一定の社会分業と分配システム、社会的人口再生産の能力を備えたムラです。そしてどの程度の密度かはわからないが、単一のムラということはありえず、間違いなく近隣との間にムラムラを形成していたことでしょう。

古気候学の変更 バイカルは極寒の地ではなかった

この記事は、4万年前のバイカルの気候を、これまでとはまったく次元の違う精度で解析し、そこには人間が十分に暮らせる温暖・湿潤な環境があったと主張しています。
まず説明のつかない、説明すべき考古学的事実があり、それを説明するために多彩な研究が行われ、その結果、説明がつかなかった事実に説明がつけられるようになったのです。
① バイカル遺跡群の考古学的精査
バイカル湖畔には多数の最古代ヒト遺跡(4万年前)があり、そこからは石器、骨角器(縫い針、槍の穂先)ビーズやペンダントが発掘されています。それらは同時代の西アジアで発掘された遺跡と共通しています。それはバイカル人(C2人)が西アジアから北ルートを経由して、当地に至ったことを示しています。
② 柱状掘削資料の解析から分かった4万年前の景観
1999年、バイカル湖南部のポソルスコエ・バンクで採取された柱状堆積物の検索が行われた。4.5~4.0万年前の地層から、松やトウヒなどの針葉樹、ハンノキなどの落葉広葉樹、イネ科やヨモギ科の花粉が検出された。「現在よりくさや低木が多く、その中に針葉樹の森林が散在する森林ステップ」であった。これらの植生は、5千年にわたり驚くほど均一で、量的にも安定していた。
「現在よりくさや低木が多く、その中に針葉樹の森林が散在する森林ステップ」であった。
③ 植生から予想される当時の気温は、7月の平均16度
これは現在のバイカルより約3度低い。北海道最北の稚内の7月平均気温は2023年で19.6度。ただしオホーツク高気圧の優劣による寒暖の差は顕著であり、たとえば1938(昭和13年)の7月平均気温は17.9度、最高は1955年の20.3度、最低は1941年の12.7度となっている。江戸時代末期にオホーツクに越冬駐屯した東北諸藩の警備兵は寒さで全滅した。同時期にサハリン入りしたロシア人は元気そのものだった。
下図は縄文以来の北海道人口の推移である。人間、食い物さえあれば、寒さはなんとかなるものだ。

北海道人口
④ 研究グループの結論

森林ステップと人口変化

かくして4.5~4.0万年前に相対的温暖化と森林サバンナへの植生変化があったことは認められた。ただしそれが証明するのは第一次人口増大のみであり、二次以降の人口流入はそれらの自然条件が消滅した中で持続している。これにはプル要因より、むしろ中央アジアからの押し出し要件、自然条件を克服できるイノベーションの展開を見るべきかも知れない。とくに3万~2.5万年前の日本へのD型人(縄文人)流入の要因は、バイカル気候からは説明できない。
考察の最後に、バイカルに温暖化をもたらしたものとして地球の自転軸の変位を上げているが、これは世界の同緯度地域の変化、次の地軸周期における同一変化の確認を合わせみなければなんとも言えない、やや大胆に過ぎる推論である。よって省略。

バイカルの古気候学への要請課題

バイカルを震源とする人口の大激動は、実はもう一つ時代を下った時期にある。4万年前の人類移動ははるかに単純で、南方からC1,北方からC2ということである。そして東南アジアから東に進んだC1人はおそらく中国大陸、朝鮮半島を経由して日本にもやってきた。オーストラリアのアボリジニーを除いてほぼ絶滅した。
最初期の出アフリカ人類には他にハプロDというのがあって、アフリカ本土ですでに枝分かれしている。一部はアフリカに戻り、他はC人に連れ添うようにして中東に至った。彼らはD1人となり、C2人とともに北ルートをたどりアジアに達した。一部はチベット方面に進むが、残りはバイカルには痕跡を残さないまま東に進み、3万~2.5万年前に樺太経由で北海道にいたり縄文人の祖先となった。
残念ながらそのあたりの経緯については今回の研究でも不明のままである。

現生人類の第二波の大移動は1.5万~1万年前後に起きている。このときの主役はNO型人である。彼らもおそらく中東に発生し、初期の段階でハプロNとハプロOに分岐した。N人は中央アジア草原から東西に分かれユーラシア大陸の草原ベルトを覆うに至った。これに対しO人はC1人と同様のルートをたどり東アジアに達した。この頃東アジアのC1人は絶滅し、無人の野となっていた。
この東方移動にあたって、O人がすべて南ルートだったか否かには有力な反論がある。中東を出発するに当たりすでにO1ハプロ(華南)とO2ハプロ(華北)に分岐しており、O2は北ルートに沿ってN人の後を追うように東方展開したというものである。
私は欧米研究者の風潮に沿って、なんとなくO人すべて南方由来と考えているが、中にはゴリゴリのO人すべて北方系という説も健在である。それがウィキのNO型ハプロ解説記事に掲載された下記の図である。
NO人系譜


ただし、この図は2000年ころは普通に流布していたが、いまとなってはとびっきりの異端であることを心得ておいてほしい。


最近、この手の本はなかなか読むのが億劫になっている。
労働旬報の本で2500円くらいと言うと分量的にはさほどではないが、残り少ない脳の活動可能年数を考えると、つい「とりあえず…」ということになる。
Essential worker

21日(日)赤旗の読書欄の紹介の中から、これを見つけた。
副題は「社会に不可欠な仕事なのに、 なぜ安く使われるのか」

おそらくはそのキャッチコピーがこれ:
「エッセンシャルワーカーの働き方(どんなふうに働いているのか)と、待遇の低さ(賃金がどのくらい悪いのか、なぜ悪いのか?)の 実態を詳述し、その要因を歴史的に解明します。

その「分類」は驚くほど乱雑に、タンスをひっくり返したように “並んで” いる。

1. 既婚女性中心 の小売業のパ ートタイム…スーパーのおばさん店員
2. 飲食業の学生アルバイト…居酒屋の店員(男は厨房、女は接客対応)
3. 公共サービスの非正規労働者…これが良くわからない。窓口業務の派遣さん?、現業補助?
4. 女性中心の看護・介護職…これはそのまんまだが、看護は専門職では?
5. 運送・建設・アニメ制作の委託 ・請負・フリーランス…下請け業務…コンビニの店員はもはや外人オンリー?

私はその分類を見て、切り口の新鮮さに驚いたのだ。概念的でなく実践的に問題に迫る迫力は現場でないと出てこない発想だろう。
ただデータを示してもらわないと、まだ納得はできない。概念が示されないと、単なる言い換えニすぎないのか、どうかの見極めも難しい。

それにしてもドサッと置かれるとたじろぐ。

この5つの群ごとに、まずは年齢・性別・学歴という特徴分けからはじめて、それらを三次元の象限内においていく作業。ついで時空の流れに浮かべて見る歴史的分析。
ただこうやって第一次分類してしまうと、それをどうやって整理整頓していくかには悩まされることになる。お定まりの西洋モデルに行ってしまったんでは、せっかくの着想が台無しだ。対象の多様性にふさわしい、歴史的・発展的スキームを形成することが求められる。高度で批判的な社会学的知識が求められることになるだろう。


 

AALAニューズ編集日記
2024年1月上旬紹介号

2024年の年明けにあたり、ライナーノーツを月2回の割で発行することにしました。
今回は、正月特集があり、紹介も長くなりました。いつもはこの3分の1程度で

「aala_newsの編集日記」の記事内容の紹介と宣伝をお送りするものです。
これは一応、メールでプッシュする記事ということにします。(実際にはそのまま読めるのですが)

これの良いところは、一応メーリングリストを使って売り込みができるということ、もう一つは仲間内の情報提供という形を取ることです。既発表記事の紹介をする時、要約とか引用という形を取るのですが、クレームが付く場合もあるので、それに備えた対応です。

それでは早速

1.緊急特集 ガザ事態 第七報
2024-01-01
上げたのは1月1日ですが、記事の収集はクリスマス前後のものです。別に紹介を核ほどのものではないので、記事の題名だけ書いておきます。
①イスラエル、アルアクサTVを爆撃
②イスラエル、ガザ地区への物流支援を妨害
③本日までのガザの死者数は2万2千人(31日)
④ユーロメッドの死亡統計(ガザ当局の数字の5割増)

2.新春展望1 クアッド(Quad)の存在意義
2024-01-05
記事の発行元は環球時報。元の記事名は「バイデンの1月インド訪問が中止: クアッド(Quad)の存在意義に重大な疑問」
内容はバイデンが1月のインド訪問を見送ったこと。記事は2つの理由を上げている。一つは米国がQUAD (中国封じ込め)どころではないこと、もう一つはインドが言うことを聞かず、このためQUADが有名無実化していること。
最後は環球時報らしい締めくくり。
「米国の国際問題や同盟国・パートナーをコントロールする力の弱まりを反映している。…これが客観的な現実なのだ」

3.新春展望2 ジェノサイド裁判が開始へ
2024-01-05
これからガザ事態の焦点になるでしょう。ホロコーストの犠牲国がジェノサイドと加害者として裁かれるのです。南アフリカは12月29日、オランダのハーグにある国際司法裁判所(ICJ)に提訴。内容は「ガザ攻撃は、国際法上のジェノサイドの閾値を満たしている」というもの。
告発書はジェノサイドの閾値を満たした項目として以下の3点をあげた。
*2万2千の無実の市民を殺害したこと、200万の市民を銃砲で追い立てたこと、小さな領土のほぼすべてを灰燼に帰したこと、
* 230万人市民への食料、水、医薬品、その他の物資の輸送を禁止したことは、「市民の巻き添え容認」ではなく、明らかに屠殺目的だ。
*犠牲者の数は10月7日に犠牲となったイスラエル人の約20倍に達しており、報復の域を超えた狂気だ。
ジェノサイドの閾値という言葉は憶えておいたほうが良い。後にミアシャイマーも南京大虐殺、ドレスデン空爆、ユーゴの民族浄化などと比較しながら、「なぜジェノサイドと言わなければならないのか」を明らかにしている。

4.新春展望 3 イスラエルの戦争はすでに制御不能

原題は「ベイルートからバグダッドまで: イスラエルの戦争はすでに制御不能」
この記事はイズラエルがどこまで突き進むつもりなのかを明らかにしている。もちろんそれだけで決まるわけではないが。
好戦派はすでにイラン戦争を宣言し、レバノン・シリア・バグダッドへの攻撃を開始した。

ついで印象的なセリフ
…バイデン政権は、イランとの全面戦争を推進する声に抵抗できなくなっている
…イラン・イスラエル戦争はイラン・イスラエル(米国)戦争である。それはロシア・ウクライナ戦争がロシア・ウクライナ(米国)戦争であるのと同じだ。…
とすると、「この2つの戦争を止めることができるのはトランプしかいない」という皮肉な結論が導き出される。こいつは最悪だ!

5.Geopolitical Economy の人気記事
このサイトはアメリカの左翼系通信としては比較的新しいものですが、人気ライターを集めています。
題名の邦訳だけ載せておきます。
①米国、サウジに人民元建てではなくドル建てで原油を売るよう圧力をかける。
② 米国支配下のプエルトリコで貧困が拡大:57.6%の子供が貧困世帯に暮らす
③中国製気球はスパイ行為ではなかった、米政府、製造された危機の数ヵ月後に認める
④なぜアメリカはイスラエルを支援するのか?経済学者マイケル・ハドソンによる地政学的分析
⑤欧米の制裁は失敗: EUはロシアのガス輸入を増やし、中国はアメリカの技術戦争を打ち負かす
このサイトの良いのは政治記事でありながら経済的裏づけを重視することで、納得がいくことが多いです。
①は興味ありますがまだ手を出していません。④、⑤は今となってはほぼ常識化しています。正月、ニュース漬けで食欲が低下。

6.新春展望 4  BRICS+と中国: 国際秩序の未来
冒頭にも書きましたが、「読者の皆さんへのお正月プレゼントです。わかりやすく説得力のある記事です。とは言っても、世界の経済社会の変化をひとつかみにして語っている」良い記事です。
ちょっと読みどころを紹介:
欧米世界と非欧米世界は軍事支配と金融支配を通じて支配‐従属の関係となっていくのですが、それがどう綻んでいくのか…、それは資源と通貨です。
資源は軍事です。アメリカが反抗的な国をつぶしていくから誰も逆らえない。これがウクライナでガラッと変わった。OPEC+で資源の流れが代わるかもれない。
通貨はドル決済です。中国も怖くて手を突っ込めない。ところがこれもウクライナ後に激変した。
ドル決済も融資もできず海外資産を没収されたロシアが元決済に移行し、資源を通貨代わりにして中東、アフリカ、インドと結びついた。これを中国が信用供与で仲立ちした。これがBRICS+成立の背景にあります。
もう一つは成長力の格差です。欧米社会は人口が頭打ち高齢化し、発展の展望がありません。米国の景気が良いのはヨーロッパからの収奪、軍事産業、エネルギーの収奪強化であり、その分は欧州と日本が被っているのです。
ただし釘を差して置くべきは、グローバルサウス論者の多くが中国の成長力と潜在力を当てにしていることです。それは正しくないと思います。グローバルサウスの持つ最大の資源は人口と成長ポテンシャルです。
これについてはキューバが議長国となったG88首脳会議の報告に注目すべきだと思います。

7.新春展望 5  J.サックス「4つの戦争を終わらせる方法」
1月8日
サックスはコロンビア大学(ニューヨーク)の経済学教授で、アメリカにおける左翼を代表する論客です。一ヶ月以上前の発言で、ちょっと古いのですが、国連安保理での証言です。
4つというのはウクライナと、イスラエル戦争の他にシリア戦争とサヘル戦争のことです。とりあえず後の2つは飛ばしていきます。
まずウクライナ戦争については、世間とはまったく異なる評価です。戦争はNATOの挑発によるものである、これが第一。紛争を戦争にまで至らしめたのもウクライナがミンスク合意を履行せず、国連安保理も合意を推進しなかったからだ、これが第二。
そのうえで、ウクライナは前線国家ではなく西欧とユーラシア間の架け橋の国家になるべきと主張します。これは非常に重要で、正義派にはない発想です。
パレスチナ紛争の解決案もユニークです。主なポイントは2つ、一つはアラブ諸国の拠出でパレスチナ平和維持軍を設立。これを安保理が承認し支持することです。一つはガザ攻撃の真の狙いであるガザ沖天然ガスを、両者の共有資産とすること。
シリアとサヘルに関する提言も貴重です。難しい文章ではないのでぜひ読んでください。

8.新春展望6: ミアシャイマーの年頭所感
原題は「ガザのジェノサイド」
これだけでは良くわからないが、具体的には、南アフリカが2023年12月29日に国際司法裁判所(ICJ)に提出した「告発書」の解説である。
すごく平たく言うと、これを読めば告発分の中身は大体わかるという仕掛けである。
それがどれだけありがたいかというのは、原文をちらっと眺めてみればわかる。(APPLICATION INSTITUTING PROCEEDINGS でGoogle検索してください)
解説書の解説を書くのは流石に気が引けるので、省略する。
ぐさっと来るくだりがある。

念のため言っておくが、私はイスラエルが戦争開始後2ヶ月間は、イスラエル指導者の行為をジェノサイドとは認識していなかった。「大量殺戮の意図」と呼ぶ証拠が増えていたにもかかわらず、「重大な戦争犯罪」のレベルに留まっていると信じていた。

つまりこの解説書は、かのミアシャイマー大先生の自己批判の告白書でもあるのだ。
グサッと刺された傷をさらに抉るくだりが、最後に用意されている。読んでいただきたい。

9.Modern Diplomacyの短信拾い読み

本日はModern Diplomacyの短信をまとめ読み。このニュース社は左翼系ではなく、商業紙の拾い読みで、その分カミソリのような切れ味がある。
ここでは見出しのみあげておく
① 米国はガザ絡みで孤立
言われてみるとたしかに、あらためて惨憺たるものだ。
②ウクライナの新年は西側の残忍な裏切りで始まる
イギリスの「テレグラフ」紙記事
政府は終わりの見えない深刻な破壊的な戦争への疑問を抱き始めている。
③2024年、西側諸国は世界的な地政学的失敗に向かう
『フィガロ』の論説委員のコラム
2024年、西洋の影響力が一段と衰退するでしょう。世界の脱西洋化はここ数カ月間、ものすごいスピードで進んでいます。米国が自ら孤立を選んだ以上、他国には遠慮する理由はなくなった。
④2024年 中露関係はどうなるか
ロシア通の専門家の見立て
両国間の年貿易高は 2,000 億ドルを超えた。貿易の 90 パーセントが各国通貨建てになった(2 年前はわずか 25%)。
両国間関係が進むだけではなく、中ロを基軸とした多国間関係が拡大した。
(以下が大事な指摘)
それに伴い望ましい世界秩序についての共通のビジョンを保つ必要が生じつつある。中国の金融優位性を前提として、中国は経済優位、ロシアは軍事優位の傾向。
⑤国防総省、「もうウクライナのための金はない」と告白
米国防総省は12月下旬、2億5000万ドル相当にのぼる最終的なウクライナ支援パッケージを発表した。記者会見で担当官は「もうウクライナのための金はない」と告白した。

10.ベネズエラのすべてが分かる マドゥーロの新年インタビュー

原題は「2024年1月1日 ジャーナリストのイグナシオ・ラモネ氏による、恒例となった新年のベネズエラ指導者への長時間インタビュー」

新藤さんの訳と提供で、テレスールの記事です。このところ見過ごしがちのベネズエラ情勢について、当事者の肉声で詳しく正確に伝えられており、とても役に立ちます。
キューバがかなり厳しくなっていることもあり、なんとかベネズエラが持ちこたえてくれるよう願うばかりです。

次の一節は、あらためて米国のえげつなさを痛感させます。
銀行口座がすべて凍結されました。凍結されただけでなく、すべてのお金、210 億ドル以上が盗まれ、海外にある財産が凍結されました。私たちは国の収入の 99%を失いました。540 億ドル、翌年には7億ドル失いました。
ベネズエラの 4 つの製油所は封鎖され、交換部品が手に入らず、買うこともできず、もしその国で交換部品を手に入れたとしても、それを支払う銀行口座がありませんでした。
(コロナの際は)医薬品の不足、飢餓、そしてガソリンの枯渇が起こりました......。彼が雇った 5 隻のガソリン船のうち、に到着できたのは 2 隻だけでした。他の 3 隻は米国に盗まれました。

このあと小説の主人公のようなアレックス・サーブという男が登場して大活躍するのですが、それは別の機会に…

次にこの間の経済成長について説明があります。
ベネズエラは、2021 年末から 10 四半期連続で経済成長を続けています。2022 年の成長率は 12%にまで達しました。農業、漁業、工業のいずれにおいても成長が実現しています。
貿易では51 億 8,100 万ドルを超える収入がありました。これは、為替レートの安定、ハイパーインフレの決定的な終息のためです。
今日のベネズエラは、依然として外国に銀行口座がなく、包囲された国です。基本的には自国生産と、輸入を補完する民間経済部門の活動によって、国内市場の 97 パーセントの供給を達成しました。

ちょっと面白いのがギャングの話。今年 2023 年、コロンビアの中央部、西部、アンデス山脈、東部、南部の象徴的な刑務所で、刑務所マフィアの解体が進みました。ということで、ベネズエラには刑務所を根城とするマフィアがいるらしい。

記事はまだまだ続くが、興味ある方は本文をご覧ください。

以上
AALAニューズ編集日記 
2024年1月上旬紹介号 

紹介責任 鈴木頌

下記のコメント頂きました。
「最近、記事激減しましたね。体調悪いのでしょうか?」
実は10月7日以降、ガザ関係の記事(翻訳)が溢れてしまったので、
AALA関係分を下記に移しています。

「aala_newsの編集日記」というブログ名で、
URLは http://blog.livedoor.jp/aala_news/
です。
緊急の措置だったのと、事務局との連携が取れなかったことで、見切り発車となっています。
まだ情勢は流動的ですが、年も改まったことから、体制についてそろそろ検討したいと思っています。
もう少し固まった時点でご案内したいと思いますが、
当分二本立でよろしくお願いいたします。
鈴木頌

生体の科学 71(1)
2020

斎藤成也「ヤポネシア人のゲノム解読」
mRNA Y染色体を調べていくと最も古いただ一つのハプロタイプにたどり着く。

これを著者はこう言い換える。多人数の祖先のうちの1人にしかたどり着けない。ところが染色体のすべてのゲノムを調べるとすべての情報がわかる。

これって無意味なトートロジーですね。当然10人十色になるから、統計処理なんかできない。言っていることが無茶苦茶です。

そこで持ち出してきたのが「主成分分析」という手法。これがまた内容がまったく説明されていないので、なぜ有効なのか、なぜY染色体より優れているのかについての説明は全く無い。

ついで各人種のゲノム上の特徴が鮮やかに図示されるが、これがまったく説明がない。説明文を見ると横軸が第一主成分、縦軸が第二主成分とされるが、どういう数直線化が示されないので、説得力はほぼゼロである。

これは科学を装ったホラ話でしかない。
少なくともDNAのY染色体ハプロをツリーに分析する手法に比べれば、幼稚園並みの分析手法だ。横軸に体重、縦軸に身長を取ってプロットしたのと変わりはない。

我々には過去40年にわたるy染色体ハプロ解析の豊富な蓄積がある、それをさらに洗練させていく方向で、ゲノム研究が進んでいけば良いのだが、どうもそうは思えないのが気がかりである。

追加 NHKで、年末に「ゲノム解析でわかった日本人のルーツ」みたいな番組があった。これの最後に「日本人のDNAは古墳時代に大変貌した」みたいな、とんでも情報が流された。mRNAの篠田さんが監修した番組だが、Y染色体ハプロで作り上げた系統樹を、理由のわからないゲノムグループに拡散してしまった。その結果「日本人のルーツはさっぱりわからなくなってしまった」と語っている。
しかしさっぱりわからなくなってしまったのはあなた方の頭だ。


この何日間かは、パソコンを開けるのも億劫になって、そうなると
不思議なことに寝る体力もなくなって、ボケーっとテレビをつけていた。
織田裕二がメインキャスター務めるNHK-BSの科学番組を見ていたら、睡眠特集で、同じようなことを言っていた。冬眠というのは睡眠ではなく仮死状態なのだ。したがって冬眠中は睡眠が取れないので、睡眠を取るために時々冬眠から目覚めるのだそうだ。
解説者はさらに話を進めて睡眠の本質はレム睡眠であって、レム睡眠をとるためにノンレムがサンドイッチ状にレムを挟み込むのだと言っていたが、そこまでは言わなくてもいいのではないかと思う。
織田裕二といえば、「ガラパゴス」というドラマは面白かった。4回連続のうち最初の1回目を見落としたので、後ろ三回だけだったが、1回45分という上映時間が90分に感じられた。そのくらい鑑賞後にずっしりと腹の底まで染み渡る番組だった。俳優も皆うまくて、特に織田裕二があんなに存在感のある役者とは知らなかった。女優さんもきれいだった。被害者役の青年がキラキラとして魅力的だった。

もう一つ、NHK交響楽団の番組。ブロムステットが体調不良で来れなくなったために、代役の指揮者が振った。シベリウスの2番。見るのも聞くのも初めての人だったが、びっくりした。楽譜が見える演奏というか、演奏者にとっては全部見通されているような凄まじい緊張感。途中から演奏者の目の色が変わってくるのがわかる。終楽章に入るとコンマスのマロさんがゴシゴシとドライブをかける。ブラスが極端に厚い曲だが、弦が負けずに響き会場が音で飽和される。
病気で気弱になったのか、演奏が終わった瞬間涙腺が緩んで涙が吹き出した。なかなかない経験だ。ケネディが死んだ日の夕方にラジオでかかった「ジークフリートの葬送」以来かも知れない。

ネットで調べたら高関健さんと言って、芸大の指揮科の教授だそうだ。世の中広いですね。

21日からすでに怪しかったが、22日からいよいよ本格的な風邪となった。
主訴は鼻閉、そしておそらく下降鼻汁による気管支炎である。倦怠感と頭重、時折激しい咳嗽、ばあいによってはいきができなくなるほどに咳き込んだ後、多量の粘性痰。気温低下が刺激となるらしい。そのうち顎下のリンパ腺も腫れてきて痛みを伴うようになった。後部から背部にかけて筋肉も音を立てるほどきしむ。
幸いなことに体温は正常で、動かないでいれば酸素飽和度も95%をキープ、脈拍はちょっと動くと90を超すが、これは以前からのこと。食欲はしっかりある。

ということで、なんとか生きているが、自分なりに決めた日課が果たせない。
窓ガラスの外から、何かの神さんがニッコリと笑いかける。残念ながら美人ではないし若くもない。
酒をやめて3日経つが、もともとア症になるほど飲んでいたわけではない。だからそれは禁断症状に伴う幻覚ではない。
今朝はだいぶ気分が良いようだ。おそらく自然寛解だろうが、クラリスロマイシンが効いた可能性はある。
短い記事を2本上げた。2月の講演の準備まではとても手を付けられないが、ともかく向こう半年分くらいの細胞性免疫は身につけられそうだ。咳の程度によっては、今夜は祝杯となるかな。

紹介:遺伝学が好きになる文章

とびっきりのおすすめです。書名は「メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語」
神戸大学の中村千春さんの労作です。
書籍ではなくWeb著作です。URLはこちら。

mendel

息をも継がせぬ面白さとはこういう事を言うのでしょうか、全編引用したいくらいですが、ここではかんたんな紹介にとどめます。
副題にドイツ語の一文があります。
Meine Zeit wird schon kommen
やがて私の時代が来る

「遺伝学の時代が来る」という予言

これはおそらくメンデルの述懐でしょう。
ただ「私」という言葉に気を取られると、いわゆる「メンデル物語」のように思われてしまいます。だから「やがて私の時代が来る」は、「やがて遺伝学の時代が来る」と読むべきでしょう。
中村さんもメンデルの言葉をそのように受け止めているようです。だから著述の中身は、メンデルと19世紀の生物学会を対象とした一種のレビューとなっています。

「獲得形質は遺伝しない」という提起

メンデルは片田舎の僧院に閉じこもって、えんどう豆の研究に没頭した変わり者ではありません。ブルノはウィーンから150キロ、炭鉱業により栄えた工業都市で、オーストリアのマンチェスターと呼ばれました。もう一つの顔は、学問の中心で大学と工業大学がオーストリア中から若者を集めていました。
メンデルは孤高の地位を保っていたわけではありません。学会に発表し論文も執筆し、各界に送付していました。密かに注目もされていました。
ただ、ダーウィニズムが席巻する当時の生物学会において、メンデルの理論はある種の反動性を帯びて見られていたと思われます。

生物学会の受け止め: 「染色体の上に乗る粒」としての遺伝子

だから、私たちはメンデルを見る場合、同時に、それまでの染色体研究の流れを知り、その出会いと受容がいかに行われたかを知らなければなりません。
その後の研究の中で、生物学は「染色体の上に乗る遺伝子」という概念を獲得していくのですが、実はこれは進化論がメンデルを取り込んでいくうえでの操作であり、そこにはメンデル遺伝学が進化論を取り込んでいくという操作も存在するはずです。

メンデルを取り込んだ進化論の模索

メンデルの視点から言えば、生命には世代交代という継ぎ目があります。生命はここを境目にして鶏と卵の関係のように、タンパク質の時代と核酸の時代に分かれ、輪廻を繰り返していきます。
この継ぎ目を特徴づけるのは情報伝達の活動過程だということです。情報は粒からできていて、シャッフルはできるが溶け合うことはありません。

そして「突然変異」の仮説が挿入されるのです。ダーウィンの自然選択はこの過程に働くのです。この他にも獲得形質の遺伝は集団としての伝統の蓄積、最近ではエピジェネティックなDNAの修飾など

生命のシャクトリムシ型進化

生命をになう細胞は日々消耗し、新たな細胞に置き換わります。しかし何代か置き換わるごとにより劣化した器官や組織は最後に寿命を迎えます。その時、生命はDNAにすべての情報を託します。DNAは設計図に則り蛋白を合成し、新たな生命体を再構築することになります。

このとき、生命は動的な状態から静的な状態に置き換わり、生命の諸法則はされなくなります。この期に生物が獲得した成果は遺伝情報として整理され、質的発展を遂げることになります。いわば量から質への転化が行われるのです。

メンデルの「私の時代が来る」というのは、まさにこのことを指しているのではないでしょうか。進化論が一世を風靡した時代が終わり、進化論の世界とメンデルの世界によって二元的に構成される生命世界が成立したことになるわけですから…



染色体・遺伝子・DNA・ゲノム 統合年表(追補版)
素人から見た素人のための
は、2022年11月まで3回の増補を重ねてきたが、結局全部まとめて1本にしてみないと、収まりがつかないようだ。
最大の問題はこれら4つの言葉がすべて多義的に使われ、それが素人を悩ませる原因になっていて、それらは納得して理解するためにはどうしても経時的な事実の把握、それらの意義について見ていかないとだめだということだ。
あまりにもたくさんの事実が提出されるので、つい端折ってしまいがちだが、そこを端折ってしまうと結局わからないままに終わってしまう。忘れてもいいから、一度は通読して流れを掌握して見る他ないと思う。
現在ではゲノムという言葉で一括される4種の概念には、一種の流れがある。それが染色体の時代、遺伝子の時代、DNAの時代、ゲノムの時代という4大区分だ。もちろん境目ははっきりしないし、並走する時期もあるが概念がそのように移ろっている
そんなことを頭に入れながら読み進んでいただきたい。

2023年12月 以下の年表は2022年11月26日作成の「染色体・遺伝子・DNA・ゲノム 統合年表」(旧題 ゲノム研究 年表)の追補版である。追補元は中村千春「メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語」である。その他随時ウィキペディアその他各種のネット文献を参考にした。小林武彦「DNAの99%は謎」は、残念ながら年表作成には役立たなかった。
 
 

染色体の時代

染色体の時代(19世紀)というのは、顕微鏡が開発され細胞を一生懸命観察した時代である。だからほとんど形態学的記載に終始している。それだけのことをひたすら突き詰めて、細胞核に遺伝を司る中枢があること、減数分裂や有糸分裂によって生命が受け継がれていくことを明らかにした。しかしメンデルの法則を知らなかったために、遺伝の本質がわからないままの手探りの歩みであった。

1842 ネーゲリ、細胞分裂を初めて光学顕微鏡にて観察。核内に塩基性色素に染まる物質を発見。後にフレミングによりクロマチン(染色質)と呼ばれる。

1855 フィルヒョウ、細胞は既存の細胞の分裂によってのみ生じると主張。
メンデル以前の常識:遺伝物質は液性物質と考えられていた。しかしそれでは隔世遺伝が説明できない。「劣性遺伝子は顕性世界から潜るが、混じり合わずに残る」と考えるべきである。

1865
 メンデルがエンドウの交配実験を行い、結果について解釈。各遺伝形質(単位形質)に対応する遺伝因子が存在すると想定した。
 遺伝を決めるものは、混じり合わない粒子である「遺伝子」概念の確定。
 遺伝子は優性顕性劣性潜性)に分かれ、それぞれが対になっている。
 劣性遺伝の表現型は1代目では消失し、2代目で再現することがある。(分離の法則)
これは劣性遺伝子が、「隠されるが混じり合わない」ということを意味する。
(詳細はABO血液型でおなじみなので省略。
マライア・キャリーが黒くない理由 を参照
Gregor Johann Mendel:ブルノのアウグスチン修道院の修道士。

1868 チャールズ・ダーウィンが形質遺伝に関する仮説「パンゲネーシス」を提起。細胞には自己増殖性の粒子である「gemmule」が含まれ、血管や道管を通して生殖細胞に集まり、それが遺伝すると考えた。ダーウィンはメンデルを一生知らずに終わった。

1869 スイスのフリードリッヒ・ミーシェル、細胞核中からリン酸塩を含む化学物質(ヌクライン)の抽出に成功。物質としては今日のDNAに相当する。当時彼はリンの貯蔵形態と考えた。

1876 オスカー・ヘルトウィッヒ、ウニの受精を観察、
減数分裂の際に染色体が減少することを発見。減数分裂と名付ける。ヴァン ベネデン、染色体が結合する仕組みを発見。遺伝における細胞核の役割を明らかにする。有糸分裂の本態に迫る。
(クロマチン: 現在ではまったく無用の概念である。DNAにヒストンがつくことで球状の構造(ヌクレオソーム)が作られる。これがリンクされて可染性の鎖状物質となる。日本語では染色質と呼ばれる。これが有糸分裂時には23個の棒状構造となり、これが染色体=クロモゾームと呼ばれる。これも覚える必要のない概念で受験生を悩ませるためにのみ存在する古語である)

このほか有糸分裂の発見をあわせた3つを「19世紀後半のドイツ生物学の三大発見」と称する。(英語版Wiki)

1882 ヴァルター・フレミング、ミトーシス(有糸分裂)の詳細を観察。核内に染色体=クロモゾームを発見。

1883 ヴァイスマン、体細胞分裂と生殖細胞結合(有糸分裂)の違いを明らかにする。

ヴァイスマン (1834 年 1 月 17 日 – 1914 年 11 月 5 日): ダーウィンの進化論を受け入れ、ドイツにおける主要な紹介者となった。彼は生殖細胞理論(ワイズマン主義と呼ばれる)を提唱した。多細胞動物における遺伝は生殖細胞によってのみ行われ、体細胞は、遺伝の主体として機能しない。ラマルクの「獲得特性の継承」は否定され、生殖細胞の突然変異を生じる原因は、環境の変化そのものとされる。

1883年 フランスの植物学者アンドレアス・シンパー、葉緑体の起源に関連して、2つの生物の共生という概念を提唱。緑色植物は葉緑素を含む生物と無色の生物との共生関係からできたと主張。

1888 ヴァルダイヤー、細胞分裂の際にクロマチンが凝縮し、棒状の塊を形成することを報告。染色体(クロモソーム)と名付ける。Chromosome とは「色のついたからだ」を示すギリシャ語。


染色体

図1 染色体

1900 オランダのド・フリースら、埋もれていたメンデルの法則を発掘。国際医学界で再評価される。(当初ド・フリースはメンデルの先行研究を知りながら隠していたが、同僚の指摘を受け公表

1901
 ド・フリース、メンデル研究の成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという突然変異説」を提唱。

遺伝子の時代

1902 25歳の大学院生ウォルター・サットン(米)、バッタの生殖細胞で「染色体」を発見。生物が減数分裂すること、遺伝を決める因子が染色体上にあると主張Genetic Factor と名付ける。その後彼は研究から離れて外科医となる。

1908 コロンビア大学のトーマス・ハント・モーガンら、ショウジョウバエを用いた遺伝学研究を開始。遺伝因子は複数存在すること、相互に独立していることを発見する。それらの遺伝因子は染色体上の一定の部位にに組み込まれていることが確認された。

1911 ウィルヘルム・ヨハンセン、サットンの「染色体上の遺伝因子」をダーウィンのパンゲン にならい「gene」(遺伝子)と呼ぶことを提案する。
遺伝子という単語は概念をたびたび変えており、現在ではDNAのうちタンパク質合成に対応する領域を遺伝子と呼ぶ。ゲノム学で言えばエクソンに相当する。ただしそれ以外の部分も遺伝に関与していることが知られており、いずれ死語化するであろう


1920 モーガンら、ショウジョウバエの染色体を研究。ユニークな方法で染色体上に多くのジーンが載っていることを証明する。染色体とジーンの関係についての議論が引き起こされる。

1920 ドイツの植物学者ハンス・ウィンクラーがゲノムなる言葉を造語する。後にウィンクラーはバリバリのナチスとなる。学的業績はとくにない。
ウィンクラーは、「ジーンと染色体を無理に分けずに複合体と仮定して議論を進めたほうが生産的」と主張したのではないか。であれば、ウィンクラーのいう「ゲノム」は、
遺伝子(gene)+染色体(chromosome)という解釈が素直である。

1921 染色体の本体をアミノ酸連鎖とするモデルが提起される。遺伝子はポリペプチドで、それをテトラヌクレオチドが保護しているとされる。(染色体の“本体とは要するにDNAのこと。ポリペプチドは多数のアミノ酸がペプチド結合によって連なった化合物をさす

後に染色体の意味は拡大解釈され、形態や細胞周期に関わらず、DNAとそれに結合するタンパク複合体一般を指すようになった。これを「広義の染色体」と呼ぶ。
「広義の染色体」においては、DNAがヒストン(タンパク)を巻き込むように存在する。これをヌクレオゾームという。これが連珠状に連なり、染色体を構成する。この場合はゲノムの枠には収まりきらない。この分野の学問がmultidisciplinary であるがゆえの宿命ですね。

1922年 モーガンら、ショウジョウバエの4つの染色体上に座している50個の遺伝子の相対位置を決定。

1926 モーガン、『遺伝子説』を発表。遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子であると主張する。

1928 J.Bellingらは太糸期染色体が染色小粒とそれをつなぐ糸状部分からなる数珠状構造を示すと発表。染色小粒や横縞が遺伝子に対応すると考えられる。

1928 グリフィス、肺炎連鎖球菌における形質転換現象を発見。遺伝情報が転移できることを示唆。
グリフィスは
有毒肺炎球菌を加熱して注射した。死滅した有毒菌は病原性を示さなかった。つぎにこれを生きた無毒菌と混ぜて注射すると、豚は肺炎を発症し死んだ。つまり生きた無毒菌の菌体内に有毒菌の遺伝子が入り込み菌を有毒化させたことになる。これを形質転換と呼ぶ。(遺伝子が耐熱性であることを証明した実験でもある)

グリフィス実験

*グリフィスの実験は後のアヴェリーの実験と合わせて、遺伝子が核酸であることの証明となった。
1929 レヴィーン、核酸にはDNAとRNAの2種類あることを発見。
1930年 木原均、ヴィンクラーのゲノムに関する定義を検討、「生殖細胞に含まれる染色体のセット」とする。遺伝子の存在も確定しない時代の提起であり、有用性は疑問(「ゲノム分析」を参照のこと)。
1932  透過型電子顕微鏡(TEM)の製造が開始される。バクテリオファージT2などが観察されたが、染色法の開発が遅れたため、実用価値はあまりなかった。
1933年 モーガン、染色体説の確立によりノーベル生理学・医学賞を受賞。しかし一方で、遺伝子の実体は不明のままだった。
1934 カスパーソン、DNAは生体高分子であり、これとタンパクが結合して染色体を構成すると発表。ポリペプチドがDNAの本体であるとする「テトラヌクレオチド説」は否定される。
1936-37年頃 日本国内で、〈gene〉に対し,〈遺伝子〉という語をあてるようになる。
当時のジーンの常識に照らして、適切な訳語であったが、ジーンという単語そのものに「遺伝」というニュアンスはない。これが後にゲノム概念を導入するに際し混乱を生んだ可能性がある。
遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子というモーガンの“モノ的理解”は当時の最高教義であったと理解すべきであろう。

1941 免疫蛍光法が開発される。細胞上で抗体に反応する特殊な部位の存在を示した。

1941 ビードルとタータム、1つの遺伝子が1つの酵素をコードしていると発表。48年、ホロヴィッツが「一遺伝子一酵素説」と名付ける。

1943 A. Claude、リボソームを単離する。

遺伝子の定義
ここで遺伝子の定義をまとめておきたい。その際
遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子というモーガンの理解は、部分的には現在もなお有効なコンセプトだということを確認しておきたい。
ジーンはDNAの一部であると同時に、DNAに刻まれたタンパク生成情報である。今日では以下のごとく総括される。
① 最狭義の定義:mRNA生成の情報を含む核酸配列上の特定の領域。これをシストロンと呼ぶ。シストロンのすべてがタンパク合成情報分野(エクソン)ではなく、イントロンという中敷きを挟んでいる。
② 上記に転写調節領域を含める場合もある。これをオペロンと呼ぶ。転写調節領域にはプロモーター、エンハンサーが含まれる。CDS、ORF、cistron などこの研究領域には重複名称が氾濫している。野球でいうシュート、シンカー、フォーク対ツーシーム、チェンジアップ、スプリットみたいなものだ。学会で率先してこれらを使用禁止にすべきだと思う。
③ もう少し広い定義:例えばタンパク合成のための各種RNA(tRNA、rRNA)もDNA情報として伝えられる。それらの領域も「狭義の遺伝子」に含まれる。これらは構造遺伝子(structural gene)と呼ばれる。
④ 通俗的定義:これらの分子生物学的な規定とは別に進化論や遺伝学の分野ではより幅広い用語として使用されることもある。従って誤解を避ける意味から、遺伝子という用語はもはやできるだけ避けるべきである。



DNAの時代(生化学への移行)

1944 アベリー(O.T. Avery)ら、肺炎双球菌の研究中に形質転換現象を確認。その後グリフィスの実験をさらに工夫。耐熱残存物の本体がDNAであることを証明した。これを『DNAが遺伝物質であることの実験的証明』として発表。遺伝子の正体がDNAかタンパク質かの論争に決着をつける。さらにDNAが遺伝する化学的物質であると示唆した。
遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子ではなく、まさにDNAそのものだった。しかしそれは謎に対する答えではなく、さらに大きな謎「なぜDNAが遺伝を担うのか」の入り口だった。

1950 E. ChargaffDNAAT、およびGCの間が水素結合によって結ばれ二つのポリヌクレオチド鎖が向き合っていることを示唆した。

1952 F. Sanger ら、インシュリンの完全なアミノ酸配列を解明。これによりタンパク質がアミノ酸の連結したものであることが確定された。
1952 ハーシェイとチェイス、ファージ(DNAウイルス)が大腸菌に感染するに際し、核酸が菌体内に入ることを確認。DNAが遺伝子そのもの(の一部)であることを直接に確認する。
バクテリオファージ

1952 D.M. Brownら、DNA五炭糖、リン酸および塩基から成るヌクレオチドの連鎖体(ポリヌクレオチド)であることを証明。
核酸はポリヌクレオチドである。五炭糖にはD-リボースとデオキシ--リボースの2種があり、それぞれRNADNAとなる。塩基にはA,G,C,U,T5つがある

1953 J.D. Watson F.H.C. Crick2重らせん鎖から成るDNAの模型を提唱。

1956 コーンバーグによりDNAポリメラーゼが発見される。DNAポリメラーゼを用い、試験管内でヌクレオチドを重合することによりDNAを合成することに成功。大腸菌のDNAポリメラーゼは5種類、ヒトの細胞は約15種類ある。この発見により、DNAが元のDNAの鋳型から作られることが明らかになる。

1956 DNAが情報の担い手であることが明らかになったため、遺伝子領域に限らずDNAの全塩基配列を示す用語が必要になり、ゲノムが用いられるようになった。

1956 タバコモザイクウイルスRNAに関する研究。化学的には純粋な核酸であるが、感染力があり、遺伝的能力をもつことが証明される。

1958 CrickmRNA翻訳の際、アミノ酸がヌクレオチドを含むアダプター分子によって鋳型に運ばれること、アダプターがmRNAと相補していることを示唆し、 tRNAtransfer:運び屋) の存在を予言する。

1958 クリックがセントラルドグマCentral dogma)を提唱。遺伝子は(世代継承ではなく)タンパクを作るための情報として位置づけられる。

1959 リボソームがタンパク質合成の起こる場であることが証明される。リボゾームは粗面小胞体の膜の表面に付着した小さな顆粒。細胞1個には約2万個のリボゾーム粒子が存在する。分裂の盛んな胎生期の未分化細胞には遊離のリボゾームが多い。

1959 E. FreeseDNAの一対の塩基対の変化により突然変異が起こると提唱。トランジション(塩基転位)およびトランスバージョン(塩基転換)と名付ける。

1960 DNAの二重鎖が分離・再結合することが発見される。

1960 核酸塩基の一つアデニンが、青酸アンモニウムの濃縮溶液から生成される。
1961 JacobMonod、遺伝子発現の制御機構について論究、タンパク合成をコードする遺伝子の他に、合成過程を調整する遺伝子(オペロン)が存在すると主張。オペロン説と呼ばれる。
1961 Crickら、遺伝暗号(コドン)の解読。アミノ酸20 種類の情報をつたえる遺伝子が三連文字(triplet)であることを示す。
 mRNAの塩基配列をコドンという。つのアミノ酸は mRNA の連続した塩基 3  1 組の配列によって規定され、この 3  1 組の塩基配列をコドンと呼ぶ。従って、コドンは 43 = 64 種類存在する。
転写と翻訳

1962年 ツメガエルで卵に細胞核を移植し、クローン作成に成功。

1962 リンパ球にT細胞とB細胞の差があることが発見される。。

1962 Watson and CrickDNAの構造に関する研究により、ノーベル医学生理学賞を受賞。

1962 葉緑体がDNAをもっていることを発見。2年後にはミトコンドリアからも独自のDNAが単離される。(後に葉緑体は多細胞生物内に共生するシアノバクテリアであることが明らかになる)

1965 ヒトの二倍体細胞の in vitro の寿命は、およそ50回分裂までで終了することが発見される。

1965 S. Brennerら、ポリペプチドの末端を指示する暗号(コドン)はUAGUAAであると推論。
1966  遺伝暗号の仕組みが解明される。A・G・C・Tの4種類の塩基のうち3つを使った“3文字言葉”(コドン)によって、アミノ酸の種類を指令する。

1966 脊椎動物のDNAは多くの反復ヌクレオチド配列を含むことがわかる。

1966 tRNAが、リボソーム上でのポリペチド鎖形成の起点となっていることが発見。

リボゾーム
リボゾームは、tRNAを呼び込み、結合する。そのtRNAは三塩基に対応するアミノ酸と結合している。そうするとtRNAの体側にアミノ酸の連鎖が形成されていく

1967 羊水穿刺を行い、そこから得られる胎児の細胞で、遺伝病を診断できることが報告。

1967 mRNAが両側のDNA鎖から生じることが明らかになる。

1968 Okazakiら、新しく合成されたDNAは多数の断片を含む。これらは、短鎖DNAとして合成された後、互いに連結される。

1968 Hubermanら、哺乳類の染色体は、おのおの長さ30μmの単位より成り、独立して複製されることを明らかにする。

1970 酵母のアラニンtRNA遺伝子の全長の合成に成功。

1970 M. Mandelら、塩化カルシウム処理した大腸菌の細胞内にファージDNAを導入することに成功。トランスフェクションと呼ばれる。
1970 制限酵素 HindIIIが分離される。DNAの配列の近くでDNAを特異的に切断する酵素。翌年には
HindIIIを使ってDNAを切断、断片化し、DNA断片の物理的配列を組み立てることに成功。

1972 ベクターDNA分子と外来DNA断片の末端に、ホモポリマーを付加する事によって、DNA分子を結合する方法が開発される。
1972 ユーグレナの葉緑体DNAが、シアノバクテリアのリボソームRNAと相同性を示すことを発見、葉緑体がシアノバクテリアの子孫であることを示した。
1973 ショウジョウバエの翅の成虫原基で、発生過程に従った区画化が起こることが発見される。

1974 RNAレプリカーゼの存在下で、ヌクレオチド・モノマーからRNAが生成することを発見。別の研究でRNARNAレプリカーゼの存在なしでも複製することができること、このとき亜鉛が複製過程を補助することが示された。

1974 大腸菌rRNA3'末端にmRNA上のタンパク質合成の停止と開始コドンが存在することが判明。

1974 熱ショックにより、ショウジョウバエに6種の新しいタンパク質が合成されることが報告される。

1974 酵母ミトコンドリアでゲノムの組換えと分離が起きることが明らかとなる。両親由来のmtDNAが他方と対合し、組換え体を生じる。

1975 サンガー、DNAの塩基配列決定法を確立。DNAシークエンシング法と言われる。DNAポリメラーゼを用いて、 DNAに結合したプライマーからDNA合成を行わせる。これにより塩基配列を決定する。(方法は読んでもさっぱりわからないので省略)

1975 分子生物学者が世界中からカリフォルニア州アシロマに集まり、組換えDNA実験を行うにあたっての研究指針を定めた歴史的規定書を作成した。NIHの組換えDNA委員会は、組換えDNA研究に伴う潜在的危険性を排除することを目的とした指針を発表。
1976 ヒト成長ホルモン遺伝子を大腸菌の中で発現させることに成功。
1976 遺伝子工学のGenentech会社が設立される。
1977 アデノウイルス-2DNA断片から、多種類のmRNAが合成されることが報告。現場でさまざまな組み合わせの選択的スプライシングが起きていると判断される
1977 サンガーら、シークエンシング法を用いて PhiX174ウィルスの全塩基配列を解析し、全ゲノムを確定した。

1977 哺乳動物のインスリン、インターフェロンを大腸菌で合成させることに成功。翌年にはインシュリンの商業生産が開始される。
1977 前駆体mRNA中に、タンパク質をコードしない介在配列(イントロン)が存在していることが報告される。その後、遺伝子領域にも介在配列の存在が報告された。

遺伝子の基本構造
とりあえずこれ以上の説明は避けるが、CDSとORFはほぼ同義と考えてよい。遺伝子(gene)もシストロン(cistron)もほぼ同義である」そうである(大阪医大細菌学教室)。
遺伝子配列のうち遺伝情報がコードされている部分をエクソン(翻訳配列)といい、遺伝情報がコードされていない部分をイントロン(介在配列)という。mRNA前駆体(最上列)はスプライシング(編集)によって長さが縮小され完成型mRNAとなる。

( splicing: ある直鎖状ポリマーから一部分を取り除き、残りの部分を結合すること。映画作成における編集作業もスプライシングと呼ばれる)

1977 ノーザン・プロッティング法が開発される。

1978 カン、DNA解析を用い鎌状赤血球症の出生前診断に成功。

ゲノムの時代(全ゲノム解読)

1978 バーンスタイン、制限酵素によって切断されたDNA断片の再マッピングにより、全ゲノムの解析が可能だと主張する。
1978 R.M. Schwartzら、原核生物、真核生物、ミトコンドリア、葉緑体に由来するさまざまな、タンパク質と核酸の配列データを比較。コンピュータ解析によって進化の系統樹を作成する。これにより真核生物が、ミトコンドリアや葉緑体と共生し始めた年代を、それぞれ二億年および一億年前と決定した。
1978  W. Gilbert、イントロンおよびエクソンという用語を提唱。

1978 T. Maniatisら、遺伝子の単離法を開発。真核生物DNAの遺伝子ライブラリー作成に着手。

1978 D.J. Finneganら、ショウジョウバエのゲノム上に散在している反復DNAの詳細な解析を行う。

1980 米国最高裁判所は、遺伝学的に修飾された微生物の特許を法制化。これに基づきGE社は石油の油膜を分解する微生物の特許を取得。

1980 受精卵にクローン化した遺伝子を直接注入することで、初めてトランスジェニックマウスの作成に成功。

1980 DNAマーカーを利用した遺伝子マッピング法が開発される。さらに核酸プローブを利用して遺伝子を染色体上に正確に同定することも可能になる。

1981 ヒトミトコンドリアの全ゲノム配列(17,000塩基)と遺伝子構造が決定される。
1981 L. Margulis、「ミトコンドリア、葉緑体などは、真核生物の祖先に共生体として組み込まれた原核生物である」と提唱。
1981 bhGHの臨床験がはじまる。1976にはGH遺伝子を79年にはhGH遺伝子を、大腸菌の中で発現させることに成功していたが、生物学的活性を発現させるための工夫が必要であった。

1981 ラウス肉腫ウイルスの腫瘍化を起こす性質は、v-src 遺伝子によってコードされていることを示した。

1982 Eli Lilly 社、組換えDNA技術を用いて製造したヒトインシュリンを販売開始。

ゲノムの時代
ここから先は書いていることの半分も分からない。

1982 米国生物工学情報センターによる塩基配列のデータベース(GenBank)の作製が始まる。日本DNAデータバンク(DDB)もプロジェクトに参加。

1983 ガゼラ、DNAのポジショナル・クローニングによりハンチントン病の遺伝子主座が第4染色体のG8領域にあることを発見。CpGアイランドと名付ける。その後この部分に塩基配列の過誤が発見される。
1983 SV40のがん遺伝子、v-sisは、血小板由来増殖因子(PDGF)  遺伝子に由来することが分かる。
1984年 ヒトゲノム計画が最初に提案される。ヒトゲノムの塩基配列の解読を目的とする。

1984 パルスフィールド電気泳動が導入される。大きなゲノム断片を分離することが可能になる。
1984 ショウジョウバエのホメオティック遺伝子におけるホメオボックス配列が、マウスにも存在することを示した。この事実はDNA断片の基本的な機能の重要性を示す。
1985 Randallら、遺伝子断片を増幅させるポリメラーゼ連鎖反応(PCR)を応用。DNAの大量複製によりDNAの同定、鑑別が可能になる。
1985 "普遍暗号"では終止コドンに相当するものが、ある種の線虫や細菌では、アミノ酸をコードしている(使いまわし)。
この事もふくめ、遺伝情報コドンは普遍であるという考えが放棄された。検索対象を「遺伝子」に絞ることは明らかに無意味となった。

1986 螢光シークエンサーの開発。塩基を蛍光物質でラベルしレーザー光で検出するもの。オートラジオグラフィー操作が不要となり、速度が数百倍に向上。全自動かつ高速の検出装置が普及しゲノム解読の自動化と効率化がすすむ。

1986 がんウイルスの研究者レナート・ダルベッコ,サイエンス誌に「ヒトゲノム解析計画」への支持を表明。「個々の遺伝子をばらばらに研究するのではなく,ヒトのゲノム全体を研究することが必要だ。そのためにヒトゲノムの配列を全部決定するのが早道」と提唱。
新しいゲノム概念はコーディング領域(遺伝子領域)とノンコーディング領域に分けられる。ノンコーディング領域は、当初はジャンクDNAと呼ばれていた。現在は遺伝子発現調節情報、RNA遺伝子などが発見され、未解明の生体情報が含まれることが明らかになっている。

1987 酵母人工染色体(YAC)が開発される。これを用いてゲノム断片をクローニング(塩基配列決定)することが可能になる。
1987 ミトコンドリアDNAについて塩基配列の相違を比較した。構築された系統樹によると、現存するすべてのミトコンドリアDNAは、原史のアフリカ女性「イブ」を共通祖先としていることが示された。
1988 電気泳動をゲル状ではなく細管内で行うマルチキャピラリシステムが開発される。これを組み込んだDNAシークエンサーは泳動のための準備が不要で、無人で24時間稼働させることが可能となる。

1988 アメリカでヒトゲノムプロジェクトが正式に発足。この時点で約400種の遺伝子の位置が判明していた。
1988 ハーバード大学が、実験的発癌マウスに対する特許を取得。遺伝的に改変した動物に対して、初めて特許が認められる。

1989 ヒトゲノム計画の国際連携を図るため、日米欧の研究者によりヒトゲノム国際機構(HUGO)が設立される。

1989 マイクロサテライトマーカーが発見される。これによりゲノムマッピングのためのDNAマーカーが容易に入手可能となる。
1990 ヒトゲノム解析プロジェクトの開始。当初は30億ドルの費用と15年の年月が予想された。

1990 ヒトで初めて遺伝子治療に成功。欠損酵素を持つレトロウイルスのベクターを培養し、形質転換細胞を患者に再注入。細胞は増殖し欠損酵素を産生した。

1990 D. Malkinら、ヒトのすべてのガンの50%p53変異があることを明らかにした。また野生型p53遺伝子がヒトのガン細胞の増殖を抑えることを示し た。
1991 遺伝子データベースのコンピュータによる運用が開始される。この頃多くの疾患関連遺伝子が同定される。
1991 ヒトゲノムプロジェクト(ヒトゲノムの塩基配列の解読作業)が始まる。

1991 日本・欧州を中心に枯草菌のゲノム解析が始まる。6年後に420万塩基対の解読を完了。

1994 フランスのヒト多型研究所、完全なヒトゲノムマップを作成したと報告する。ヒトゲノムの全体を網羅する「物理地図」がほぼ完成,文字配列の解読が詰めの段階に入る。
1994 ベンターら、独自の方式で3万以上のヒト遺伝子を同定。「ネイチャー」誌に発表する。

1995 米国のクレグ・ヴェンターら、全ゲノムショットガン法により、180万塩基からなるインフルエンザ菌ゲノムの解読に成功。あらゆる生物で初めて全ゲノム配列が確定される。その後大腸菌や枯草菌など10種類以上の細菌でも解明される。

1995 核酸プローブの高密度アレイを利用するDNAチップが登場。膨大な遺伝子を同時かつ系統的に解析することが可能になる。

1996 単細胞の出芽酵母のゲノム配列が決定される。

1995 インフルエンザ菌の全塩基配列を完成。引き続きマイコプラズマも。

1996 古生物Methancoccus Jannaschiiのゲノム解析。ほとんどの遺伝子は、他の生物と共通していなかった。

1996 ホメオボックス蛋白は、特定のmRNAの標的配列に結合して、翻訳をコントロールすることが示される。

1997 ユネスコ,「ヒトゲノムおよび人権に関する世界宣言」を採択。ゲノム研究で得られた知識の扱いについて倫理的な問題が浮上する。

1998 多細胞生物として初めて線虫の全ゲノム配列が発表される。単細胞から多細胞への進化の謎にアプローチ可能となる。また受精卵から個体へという動物の個体発生についても手がかりとなる。
1997 クローン羊ドリー誕生

1998 ベンター,全ゲノムショットガンで12000万塩基からなるショウジョウバエゲノムの全ゲノムを解読。新型のDNAアナライザー「ABI PRISM3700」が導入され、飛躍的に解析がスピードアップされる。
1998 ベンターが「セレラ・ジェノミクス」社を設立。人の全ゲノムを3年以内に、3億ドル以下で解読すると宣言。

1998 結核菌の全ゲノム配列が決定される。遺伝子の総数は約4000個で,その8割以上についての機能も予測される。

1999 ヴェンターら、ヒトゲノムの塩基配列を、全ゲノムショットガン法で読みとる作業を開始。まもなくヒトの第22番染色体のゲノムが解明された。翌年には第21番染色体のゲノムも解明。

2000年6月26日 クリントン大統領が記者会見。ドラフト配列の解読を終了したと宣言。実際はNIHはまだ90%段階に留まっていた。

2000 リボソームの構造解析。

2001 ヒトゲノムの全解読結果の「第1予稿」(ドラフト)がネイチャー誌に発表される。この時ベンターは99%成功していたという。

2003年4月14日 ヒトゲノム30億塩基対の解読完了が宣言される。この時点でのヒトの遺伝子数の推定値は3万2615個。

2003 ヴェンターら、大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功。
2004 ヒトの遺伝子数の推定値が2万2287個に訂正。以降も定期的に修正報告がなされている。

2005 次世代型シークエンサーの普及。
2006 マウスiPS細胞の樹立(山中伸弥)

2007 酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築することに成功。
2010 人工ゲノムの細菌への導入に成功。初の合成生命が誕生する。
遺伝子操作はゲノム解読の技術と情報をもとに進められている。操作には次の3つの柱がある。
①クローニング:対象遺伝子を担うDNAを増殖する
②シークエンシング:遺伝子の配列を読む
③過剰発現:解読した遺伝子をタンパク質に翻訳する

2012 シャルパンティエら、ゲノム編集の技術「CRISPER/Cas9」システムを開発。

2015 第3世代型シークエサ-の普及。これにより主要な生物種のゲノム解読はほぼ終了。

2015 中国で「ゲノム編集ツール」を使ってヒト胚のDNAを改変する研究が行われる。ネイチャー誌は「非倫理的研究だ」として厳しく警告。

ゲノム編集: これはDNAの二本鎖切断(DSBs)と、その修復という二つの過程よりなる。標的へのターゲティングとDNA切断にはCRISPR-Cas あるいはTALENが用いられる。修復には二つのパスがあり、相同性組換え(HR)あるいは非相同性末端結合(NHEJ)と呼ばれる。 非相同性末端結合においては、いやおうなく欠損が生じるため、対象となった不良遺伝子はノックアウトされる。

2022 ヒトゲノム完全解読
ヒトDNAの内訳


参照文献

遺伝学電子博物館のサイトから遺伝学年表


真核細胞 

真核細胞がもつ細胞小器官であるミトコンドリアは、α-プロテオバクテリア、葉緑体は、シアノバクテリアの共生です。

真核生物の誕生

アーキアと共生バクテリアは、栄養やエネルギー源を交換し、次第に一体化しました。共生したバクテリアがエネルギーを生産することで、大きく複雑な細胞になれました。バクテリアの遺伝子のほとんどは核に移動し、アーキアの遺伝子と融合しました。

原核生物のゲノムは、DNAが輪になっており、遺伝子がほぼ隙間なく並んでいます。しばしば他の生きものと遺伝子をやりとりし、環境激変時にある種の遺伝子をもっていたものが生き残ります。

真核生物は、エネルギーをつくるミトコンドリアを手に入れて細胞を大きくしました。ゲノムの形も両端のあるヒモに変わり、ジーンの間にイントロンが入るなど長大化します。

長大化したDNAには多くの変異が出現し、外から遺伝子を入れるよりも、DNA同士のやり取りで多様化を実現するようになります。その究極系が有性生殖の起源となります。


多細胞生物の起源

真核生物の多くは今も単細胞で、ほとんどが水中に暮らす微生物です。
この中から、ごく少数の生物が多細胞になりました。

アメーバの仲間の粘菌は生活環の中で多細胞になる時があります。
カビやキノコなどの菌類は、ゲノム的には動物に近く、オピストコンタという同じグループに分類されています。つまり、菌類と動物は共通の祖先から分かれて進化したのです。


BRICSの停戦への秘策?

最近はBRICSの動きの観察に追われている。その中で得た私なりの感触を書いてみたいと思う。

今、世の中では、ガザ事態をウクライナと重ね合わせてダブルスタンダードだという意見が多くあるが、それらの多くは矛盾しており、批判する側が一種のダブルスタンダードに陥っている。

いちばん大事なスタンダードは、そのようなレトリックではない。肝心な点はアメリカがいたるところで、いつまでも戦争を続けようとしていることにある。

だから戦争を止めることは、たんに平和や人命の問題ではなく、アメリカの軍事覇権と正面から向き合うことでもあるのだ。

そのためには、まず戦争を仕掛けている側が銃を置かなくてはならない。
すなわちロシアとイスラエルに停戦を迫ることである。その際にダブルスタンダードという言葉を持ち込むのはやめるべきだ。そんな言葉のために闘っているわけではない。

イスラエルに停戦を求める責任と力を持つのは米国だ。ロシアに停戦を求める力があるのは中国・新興国・途上国の連合だ。

この内、平和のイニシアチブが取れるのは、言うまでもなく新興国の連合した力だ。
つまり、中国・新興国・途上国が一致してロシアに一方的停戦を求め、その際にロシアを決して孤立させないと保障することだ。その際の最低の約束はNATO加盟の保留だ。

2022年2月の開戦前、あるいは4月のエルドアン仲裁への原状復帰についてはわからないが、それは主要な問題ではない。

ロシアに一方的停戦を求める際にはもう一つの条件がある。ロシアの停戦をイスラエルへの停戦強制と結びつけることだ。

もしイスラエルがこれに従わないのなら、BROCS11がエネルギー・食料分野で持つ潜在力が発揮されるだろう。また国連での多数の力を背景にジェノサイド条約が発動されることになるだろう。

まだ詳細は不明だが、南アのイニシアチブでいま連続的に開かれているBRICSの各級会議は、そのような内容を含んでいるのではないかと思う。
(文責鈴木頌)

「セリエ・ルネサンス」 ちょっとかっこよすぎるタイトルだ。
ルネッサンス音楽を少しづつ聞き始めている。と言ってもBGM代わりだが。

前回はセリエ・ルネサンスのⅠ オケゲムについて書いた。
http://shosuzki.blog.jp/archives/91657097.html

今回はその続きだ。今回はビクトリア、と言っても名前ではなく名字だ。ビクトリア女王と違ってこちらは男。スペインの出身だ。正しくはトマス・ルイス・デ・ビクトリアという。

オケゲムと違って有名な作曲家で、位も高い。最大傑作は自ら仕えた皇太后の死を悼むレクイエムである。大量の曲が残されその全てが宗教合唱曲である。色々探したがなかなか良い作品リストがなくて、ようやく探したのが早崎隆さんの作成された目録である。
今回はこのページを紹介するために一行を立ち上げた次第です。リンク先を紹介します。
http://oo11.web.fc2.com/Music/dic/victoria.html#3

クロニクル銀河考古学 2

前回は「ビッグバンから超新星爆発まで」
今回は「諸元素の誕生」

ビッグバン時の物質のあり方
誕生直後は素粒子が裸で走り回る世界。光や電子、ニュートリノ、クォーク、グルーオンなどの素粒子が衝突を繰り返していた。

約100億分の1秒後 クォークの数と反クォークの数の間に非対称が生まれる。この非対称性により、クォークと反クォークが対消滅しても正味の物質の量が多く残ることとなる。
陽子と中性子

約1万分の1秒後 残ったクォークがグルーオンと反応し陽子と中性子が生まれる。これらはまだ裸核であり電子イオンを伴わず、原子とは言えない


約3分から約5分後  粒子同士が衝突して、重水素(図2)、トリチウム、ヘリウム4(図3)、リチウム7(図4)、ベリリウムなどの軽い原子核が作られる。ここまでの核融合反応は宇宙全体で発生。これを「ビッグバン元素合成」と呼ぶ。

ビッグバンから約38万年後 陽子が電子を捕獲して中性の水素原子が生まれる。


この後は数十億年にわたり銀河形成期がつづく。「ダークマター」(暗黒物質)による重力の下で原子が集積される。銀河の形成は銀河を構成する数千億個もの恒星が形成される時期でもある。

恒星の内部では、水素とヘリウム(軽い元素)を基礎に中くらいの重さの金属元素(炭素から鉄まで)が作られる。
ヘリウムから炭素へ

図 ヘリウムから炭素へ

ヘリウムの原子核3個が合体して、陽子6個の炭素の原子核ができる。

①恒星は中くらいの重さの元素を生成することで重い星となる。しかし重い星が水素を使い果たすと。重さを受け止めきれなくなり膨張、赤色巨星へと進化する。その過程で鉛などの重い元素を合成するようになる。
② 重い星は超新星爆発により中性子星を形成する。このときに、金、銀、プラチナ、ウランなど重い元素を撒き散らすと言われる。
③ これらの元素は、最初の恒星系ではなく、太陽系のような2世代目以降の恒星系の惑星の中に取り込まれる。

この辺は(特に最後のポイント)、とりあえずそういうものだと覚えておくほかなさそうだ。


クロニクル銀河考古学「ビッグバンから超新星爆発まで」

生命体の要素を構成する元素は、宇宙に存在している星々に由来しているといえる。


138億年前  ビッグバン。
 水素(元素記号:原子番号=H:1)とヘリウムが生まれる。宇宙は高温高圧かつ不透明で、HとHeによって満たされていた。

ビッグバンからおよそ3分後、ビッグバン元素合成が始まる。陽子と中性子が初めてヘリウムと他の軽い原子核(軽元素)へと融合する。この融合は17分ほどで終わる。

ビッグバンから38万年後、宇宙が膨張して冷えた結果、「晴れ上がり」を迎える。このあと「暗黒の時代」に突入する。宇宙は光が透過できるようになり、水素やヘリウムの原子が可視化される。そして宇宙マイクロ波背景放射の観測から,初期宇宙の構成要素や宇宙膨張の歴史が判明するようになった。

宇宙の構成要素と第一世代星:大規模構造形成により物質が分化する。その8割強が暗黒物質となる。残りは通常の物質としてガス化する。暗黒物質は重力として働き網状のムラを形成する。この重力が水素を集め星を形成するようになる。

ビッグバンから3億年後、「第一世代星」(複数、8つの星からなる2つの連星系という推理もある‐平野信吾)が生まれる。この星の重さは太陽の40倍とされる。星の内部での核融合により炭素や酸素が形成される。
「第一世代星」には酸素や炭素などの元素は存在しない。その次に生まれた星には僅かな重元素が存在する。HD140283という名前の星がある。ほぼ完全に水素とヘリウムからできており、ビッグバンから5
億年後に生まれたとされる。ただし重い元素もわずかに含まれるため、第2世代の特殊形と考えられる。

第一世代星が、誕生から数百万年後に、超新星爆発を起こす。超新星爆発には2つの種類がある。
Ⅰ型爆発
①赤色巨星と白色矮星接近する
②赤色巨星の表面が重力の強い白色矮星に吸いこまれる。
③白色矮星はどんどん大きく重くなり、原子が密集する
④炭素の核融合が暴走する
⑤爆発の臨界点は、重量が太陽の約1.4倍となるところ

* 炭素融合:炭素同士が融合する核融合反応。融合が始まるためには非常な高温と高密度が必要。融合が始まるまでに水素やヘリウムなどのより軽い元素を使い果たしている。
* 炭素融合のパターン:
主要な反応としてネオン同位体を形成するものとナトリウム同位体を形成するものがある。
他にマグネシウムを形成する反応がある。吸熱生反応であり、頻度は非常に低いが、重い元素を形成するため重要である。

Ⅱ型爆発
①核融合の燃料を使い果たすと膨張力を失う
②星を押しつぶそうとする重力に勝てなくなる
③中心部が一気に崩壊し、崩壊エネルギーにより大爆発する
④その後コアは電荷を失った中性子かブラックホールとなる


ビッグバンから10億年後、最初銀河やクエーサー(中心の大きなブラックホールがエネルギー源となって輝く銀河)が誕生。その後に銀河団や超銀河団などのより大きな構造が形成される。

ここまでの尺度は、ビッグ・ばんからの時間、このあとは現在から何年前という尺度になる。
………………………………………………………

50億年前(すなわちビッグバンから80億年後)、太陽系が誕生する。

星の加齢に伴い、内部の核融合により炭素(C:6)と酸素(O:8)が生まれる。

中性子星の合体が発生。これにより金(Au:79)が生まれる。

この他、下記の機転により各種元素が生まれた。
・Dying low-mass stars:低質量星の死
・Exploding massive stars:大質量星の爆発
・Cosmic ray fission:宇宙線による核分裂

世論調査でバイデン支持が低下

11月1日の日経国際面。
主見出し 「バイデン氏再選へ難題」
脇見だし 「イスラエル支援で支持層亀裂)
      「民主左派が停戦求める」
それで図表がこれ。ギャラップ社の10月調査。

世論調査

① バイデン支持率は37%に下落。これは就任後最低タイの記録。
② 民主党支持層に限ると、1ヶ月前の86%に対し、今回は11%低い75%まで低下した。
③ 当初、「ハマス、1400名虐殺」の報道で、イスラエルへの同情は圧倒的となった。
④ イスラエルの理不尽な報復が広がるにつれ、「過剰防衛批判」が急上昇した。
⑤ 民主党最左派のジャヤバル下院議員(パレスチナ人)が「我々は信頼を失いつつある。世界で孤立している」とし、即時停戦を求めた。ユダヤ教指導者は「私たちユダヤ人の名においてパレスチナ人を殺害することを拒否する」と、ワシントンの集会で述べた。「ユダヤ左派」はホワイトハウスの入り口で即時停戦を求めた。
⑥ 国民の大多数は依然イスラエルを支持している。NPRの調査によると米国人の7割前後がイスラエルを支持している。しかし45歳を境にして見ると、高齢群では8割がイスラエルを支持するのに対し、若年層では48%にとどまる。




ひょっとしたら70年盤を聴いたのは初めてかも知れません。まずは音質に度肝を抜かれました。
たしかにエンジェルの音です。しかもすこぶる上質の音です。フカフカのエンジェルなのに分離が良くて、細かいところまで音が聞こえます。多分、大スピーカーで部屋全体を鳴らして聞く音なのでしょう。
エピックの痩せてダイナミックも周波数も狭い音とは大違いです。ステレオ初期で中央が抜けた音に馴染んだ私としては、なにか他所行きのお座敷に来たようです。
東京文化会館のシベリウスの音響に身震いした私としては、これは外れです。
聴き終わったあと昔の8番を聴きたくなります。「おっ、いいぞ」やはり貧乏に育った年寄にはブーブー言いながらも、昔の演奏をASIOでお化粧して聴くのが良いようです。







24 October 2023
The Cradle


10月7日に何が起きたのか?
「ハマスの攻撃」は本当にあったのか? 

“The Hamas Attack”: What Really Happened on October 7?



by Robert Inlakesh & Sharmine Narwani

the Cradle

本文

10月7日のハマスによるイスラエルへの脱走攻撃から2週間が経過した。その間に何が起こったのか、誰が死亡し、誰が殺害されたのか、その実態が明らかになりつつある。

真実は、イスラエルが主張するような民間人の大規模な虐殺ではなく、ほぼ半数は、実際には戦闘員、つまり兵士や警察官だった。
そのことはヘブライ語の新聞『Haaretz』が発表した不完全な数字を見ても明らかである。

しかし2週間にわたる西側メディアの報道は、ハマスが10月7日の軍事攻撃で約1,400人のイスラエル市民を殺害したとするレジェンドを作り上げた。それは反パレスチナ感情を煽り、イスラエルによる無制限な報復のための風潮を作り出した。

イスラエル側の死者数は、その日、乳幼児や子ども、女性がテロ攻撃の主な標的となり、民間人が大虐殺されたかのように脚色され、激情をそそるように膨らまされている。

しかしイスラエルの日刊紙『ハアレツ』が発表した死傷者に関する詳細な統計は、まったく異なる様相を呈している。
 10月23日現在、同紙はハマス主導の攻撃で死亡したイスラエル人683人について、氏名と10月7日に死亡した場所などの情報を公表している。このうち48.4%に当たる331人が兵士と警察官で、その多くが女性であることが確認されている。それ以外、13人は救助隊員とされ、残りの339人が表向き民間人とされている。

このリストは包括的なものではなく、イスラエルが発表した死者数のおよそ半分を占めるにすぎないが、死亡者のほぼ半数は、イスラエルの戦闘員であることが明らかである。

マスコミで宣伝された3歳以下の子どもの死亡記録は今のところない。パレスチナの抵抗勢力が赤ん坊を標的にしたというイスラエル側の説明には疑問が残る。
これまでに報告された683人の死傷者のうち、4歳から7歳が7人、10歳から17歳が9人である。
残りの667人の死傷者は成人のようだ。

一方、この2週間、イスラエル軍の砲撃によって死亡したパレスチナ人市民と子どもの数は、5,791人以上。うち子どもが2,360人、女性1,292人、負傷者は18,000人以上にのぼる。

現場をいま訪れる

コードネーム「アル・アクサの洪水」作戦と呼ばれるハマス主導の大胆な軍事作戦は、10月7日午前6時30分(パレスチナ時間)ごろ、劇的な夜明けの襲撃によって展開された。
占領地エルサレムの静寂を破るサイレンの不協和音とともに始まったそれは、占領国家75年の歴史に残る異常な出来事の始まりを告げた。

ハマスの武装組織であるアル・カッサム旅団に属する、約1500人のパレスチナ人戦闘員が、ガザを取り囲む分離障壁を越えた。
この脱出作戦はハマス軍だけに限ったことではなかった。それに続いてパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)など多くの武装集団や、組織化されないパレスチナ人も休戦ラインを突破した。

これがこれまでのレジスタンス活動の水準ではないことが明らかになるにつれ、何百本もの動画がソーシャルメディアに溢れかえった。そのほとんどを本誌は閲覧した。
イスラエル軍や入植者の死体、激しい銃撃戦、イスラエル人がガザの捕虜になる様子などが描かれている。
これらのビデオはイスラエル人の携帯電話で撮影されたか、パレスチナの戦闘員が自分たちの作戦を撮影して公開したものだ。
恐怖心を煽る怪しげな疑惑が流れ始めたのは、それから数時間後のことだった。


「ハマスの残虐行為」という根拠のない主張

国連イスラエル代表部の元スピーチライター、アビバ・クロンパは、ウソを広めた最初のイスラエル人である。彼女は、「イスラエルの少女がレイプされ、その死体が通りで引きずり回された」と報告した。
彼女はこれを10月7日午後9時18分(パレスチナ時間)にXに投稿した。しかし、クロンパが10月8日午前12時28分(パレスチナ時間)に『ニューズウィーク』誌に発表した論説には、性的暴力についての言及はなかった。

クロンパはまた、シンク・アクション・タンク「国境なきイスラエル」の共同設立者でもある。それは「イスラエル教育を活性化し、ユダヤ人嫌悪と闘うために大胆な集団行動を起こす」という漠然とした目標を持つ。具体的活動としてはソーシャル・メディアでイスラエルの「物語」を広める、"シオニストらしくない "慈善団体だそうだ。

レイプの証拠とされたのは、シャニ・ルークという若いドイツ系イスラエル人女性の事件だった。
女性は、ピックアップトラックの荷台でうつ伏せにされたところを撮影され、死亡したとされた。
ガザ行きの車の中でルークと一緒に撮影された戦闘員がハマスのメンバーかどうかは不明である。彼らはアル・カッサム部隊の制服を身に着けておらず、何人かは民間人の服を着てサンダルを履いていた。

その後、ルークの母親が、「娘はまだ生きているが、頭部に重傷を負っていると」いう証拠を掴んだと語った。これは、ハマスが発表した、ルークがガザのどこかの病院で負傷の治療を受けているという情報と一致する。

さらに問題を複雑にしているのは、レイプ疑惑が生じた時点で、イスラエル側はこの情報の真偽を確かめることができなかったことだ。イスラエル軍はまだレジスタンスと武力衝突を繰り返していた。ハマスが占拠した地域の多くをまだ奪還していなかった。

にもかかわらず、このレイプの主張は一人歩きした。バイデン大統領でさえ、イスラエルの女性がハマスの戦闘員によってレイプされ、暴行され、戦利品としてパレードさせられた」と主張した。
10月11日付の『フォワード』紙の記事は、イスラエル軍がその時点で「そのような主張には証拠がない」ことを認めたと報じている。

その後、陸軍が首切り、足の切断、レイプについて独自の主張を展開したとき、ロイターは次のように指摘した。
 "身元確認プロセスを監督していた軍人は、写真や医療記録のような法医学的証拠を提示しなかった"

現在に至るまで、これらの残虐行為について信頼できる証拠は提示されていない。

その他にも、ハマスが「40人の赤ん坊を斬首している」というようなとんでもない疑惑が登場した。それは数え切れないほどの西側諸国のニュースの見出しや一面を飾った。
バイデンでさえ、"テロリストが赤ん坊を斬首している写真を確認した "と主張した。
この主張は、以前パレスチナ人に対する暴力的暴動を扇動し、ヨルダン川西岸の町フワラを消滅させようと呼びかけた、イスラエルの入植者で予備役兵士のデイヴィッド・ベン・ジオンが発端となっている。
ホワイトハウスは、ジョー・バイデンがそのような写真を見たことがないことを確認した。


ハマスの計画

10月7日、パレスチナの戦闘員が非武装のイスラエル市民を殺害する計画を持っていた、あるいは意図的に殺害・危害を加えようとしたという信頼できる証拠はほとんどない。

入手可能な映像から、私たちは彼らが主に武装したイスラエル軍と交戦し、数百人の占領軍兵士を殺害したことを目撃している。

それはカッサム旅団のスポークスマン、アブ・オベイダが10月12日に明らかにしたごとくである。

「アル=アクサ・フラッド作戦は、ガザ国境にあるイスラエル軍部隊(ガザ師団)の破壊を目的としていた。15箇所を攻撃し、さらに10箇所の軍事介入地点を攻撃した。我々は、ガザ師団本部の外にあるジキム遺跡と他のいくつかの入植地を攻撃した」

アブ・オベイダをはじめとするレジスタンス関係者は、彼らの作戦のもうひとつの重要な目的は、イスラエルの捕虜を連行することだったと主張している。

イスラエルの拘置所に収容されている約5,300人のパレスチナ人囚人と交換するためだった、

 その多くは女性や子供である。

ハマスのサレハ・アルアルーリ政治局副局長は、作戦後のインタビューで次のように強調した:

「われわれは質的にも数も多く、幹部もいる。われわれが今言えることは、囚人の解放は目前に迫っているということだ」

両陣営はこの駆け引きを演じている。ガザへの軍事攻撃が始まって以来、イスラエルは占領下のヨルダン川西岸で1200人以上のパレスチナ人を検挙し、投獄してきた。
今日までに、レジスタンス派とテルアビブとの間で38件の囚人交換取引が行われているが、イスラエル側はしばしばギリギリまでこの取引に抵抗している。

このような証言が次々と出てくる一方で、イスラエル当局が拘束中のパレスチナ人囚人に対する虐待、拷問、さらには殺害を強化しているという報告も出てきている。それは明らかなジュネーブ条約違反である。
皮肉なことに、ハマスのような非国家主体のほうがジュネーブ条約に忠実に従っているようだ。

10月7日の出来事に関して、非武装のイスラエル人を撮影したビデオがいくつかある。彼らはパレスチナの部隊が施設内にアクセスする際に、車内や施設の入口で殺害されたと思われる。
また、ハマス戦闘員が武装イスラエル軍と銃撃戦を繰り広げ、その間に非武装のイスラエル人が身を隠している様子を映したビデオや、戦闘員が民家に向かって発砲したり、要塞化された地区に手榴弾を投げ込んだりしているビデオもある。
目撃者の証言によれば、手榴弾が防空壕に投げ込まれたことも示唆されているが、誰が投げ込んだのかは不明である。

イスラエルの「平和の集い」は、パレスチナによる作戦中で最も死者が多いものとして挙げられている。
そこでは、イスラエル軍が非武装の民間人の群衆をかき分け、ハマスのメンバーと思われる標的に向けて発砲しているように見えるビデオが出てきた。
ABCニュースはまた、イスラエルの戦車がフェスティバルの会場に向かったと報じた。


キブツ・ベエリでのイスラエル人虐殺?

ABCニュースは、ベエリ村(キブツ)での出来事を報道した。画面には爆撃を受け崩壊した家の周囲で砲弾の破片が写っていた。
レポーターのデイヴィッド・ミュアは、捜索時に発見された死体も映し出した。ビニール袋で覆われた死体は、ハマスの戦闘員であった。
さらに、現場のビデオには、砲弾で攻撃されたと思われる家屋が映っている。家を全壊させるような砲弾はハマスの戦闘員が所持できるレベルのものではない。
ミュアーは、約14人がパレスチナの戦闘員によって建物に人質として拘束されていたと報告した。

10月20日に掲載されたヘブライ語のHaaretzの記事は、英語では必読のMondoweissの記事にのみ掲載されているが、その日Be'eriで起こったことについて、まったく異なるストーリーを描いている。

 自宅を離れていたキブツの住民が、驚くべき新事実を明かしている。その妻は戦闘中に殺された。

「当時、自宅シェルターで包囲されていたパートナーのことを思い出す」と語る彼の声は震えている。
彼によると、10月9日夜、現場の指揮官は難しい決断を下した。
家屋内のテロリストを排除するために、居住者全員が中にいるにも関わらず、家屋を砲撃するという決断だ。
こうして国防軍は占領されたキブツの奪還作戦を完了した。
その代償はひどいものだった。少なくとも112人のベエリの住民が殺された。他の人々は誘拐された。
大虐殺から11日後の昨日、破壊された家屋が片付けられ、そのひとつから母親と息子の遺体が発見された。瓦礫の中にはまだ多くの遺体が横たわっていると思われる。

ベエリでの破壊の証拠写真は、彼の説明を裏付けている。ここまで徹底的に住宅を破壊できるのは、イスラエル軍の重火器だけである。


ハマスの行動: 証拠と疑惑

キブツ・ベエリの生存者であるヤスミン・ポラトは、イスラエルの国営放送局のKan(人名)のラジオ番組で、「イスラエル軍は人質を含めて全員を抹殺した」と語った。さらに言葉を繋いだ。「とてもとても激しい銃撃戦があった」とし、戦車による砲撃も加えられたと述べた。

ポラトはその後もイスラエルのメディアとのさまざまなインタビューを通じて、人道的な扱いを受けたと証言した。
彼女が捕虜になったとき、ハマスの戦闘員たちは「私たちを丁寧に扱ってくれた」と言った。
彼らは事情を説明し、ヘブライ語で「私をよく見ていてほしい。私たちはあなたを殺すつもりはない。私たちはあなたをガザに連れて行くつもりだ。あなたを殺すつもりはない。だから落ち着いて、あなたは死なないから」と語った。

彼女はまた、次のように付け加えた。
「あちこちで飲み物をくれた。私たちが緊張しているのを見ると、落ち着かせようとしてくれる。誘拐されたのはとても怖かったけど、暴力を振るう人はいなかった。 運が良かったのかも知れません。メディアで宣伝しているようなことは何も起こらなかった」

イスラエル政府関係者や報道機関の中には、恐怖感が広がっている。流血事態を目撃したイスラエル人が証言したり、生存者がパレスチナ人戦闘員からよくしてもらったと証言したりすることが増えてきているからだ。

10月24日、イスラエル国営放送Kanは、前日にハマスによって釈放された人質ヨシェベド・リフシッツが生放送で発言を許されたことを嘆いた。

彼女が赤十字の仲介者に引き渡されるとき、この高齢のイスラエル人女性は、最後の別れの挨拶にあたりハマスの兵士の手を握ろうと戻る姿がカメラに映し出された。

リフシッツの生放送は、彼女が2週間の試練について語ったもので、戦闘員たちとの日常生活を語りながら、ハマスの捕虜たちをさらに「人間らしく」描き出した。

「彼らは私たちにとても友好的でした。とても気を使ってくれました。私たちは薬を与えられ、治療を受けました。兵士の一人が乗っていたバイクの事故でひどいケガを負いました。彼ら(ハマス)の救急隊員が彼の傷の手当てをして、薬と抗生物質を与えました。
彼らは私たちにとても友好的でした。収容場所はとても清潔に保たれていました。私たちのことをとても心から案じてくれました」


答えよりも多くの疑問

現地にいる西側のジャーナリストによる多くの報道を評価するに当たっては、まず、ハマス戦闘員の行動に関する情報の大半は、闘争当事者として関わっているイスラエル軍・将兵からのものであることを認識することが不可欠である。

イスラエル軍が意図的に捕虜を殺したり、誤った標的に発砲したり、銃撃戦でイスラエル人とパレスチナ人を取り違えたりした可能性は、かなり高いとみるべきだ。

イスラエル軍には友軍による誤射の事例を隠す理由があることも考慮に入れなければならない。

味方への誤射は、実戦経験がほとんどない軍隊には当然だ。それはその後の数日間でも多発していた。
10月8日、アシュケロンでは、イスラエル軍兵士がハマスの戦闘員と思われる男性の遺体を射殺し、侮辱的な言葉を浴びせた。このような事件が1日に3件発生したあと、イスラエル人が自軍殺害された。

戦争の霧の中で、紛争当事者は最初の空襲とその余波で何が起こったかについて異なる見解を持っている。
パレスチナの武装グループがイスラエル軍に多大な損害を与えたことに異論はない、

しかし、今後数週間、数カ月は、それ以外のことについても多くの議論が続くだろう。
独立した、公平な、国際的な調査が緊急に必要であり、紛争に関与したすべての側からの情報にアクセスできる調査が必要である。

イスラエルもアメリカもこれに同意しないだろうし、それ自体がテルアビブに隠し事が多いことを示唆している。その一方で、ガザのパレスチナ市民は、現存する最も精巧な重火器による継続的な無差別攻撃に耐え、強制的かつ不可逆的な移住を余儀なくされかねない脅威の下で暮らしている。

 今回のイスラエル軍の空爆は、10月7日以降にメディアが流し始めた、根拠のない「ハマスの残虐行為」ネタの洪水によってのみ可能となった。

そのことを心に留めておくべきである。












ウクライナでは、大手メディアとデマ・メディアの結託した攻撃との闘いが、我々の運動の主舞台であった。彼らのキャンペーンは常に劇場型で、時系列を勝手に切断し、「ここから全てが始まった」風に物語を始める。「その事件はなぜ起きたのか?」を問うことを許さないほどの巨大な情報量で畳み掛け、怒涛のようなエピソードの積み上げで、あっという間に「進軍ラッパ」の場面へと観衆を引きずり込んでいく。仕掛け人にとっては盧溝橋事件が日中戦争の理由であり、パールハーバーが太平洋戦争の理由なのだ。

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Jabalia 難民キャンプ

我々はガザ事態においても同様の劇場に入れられたようだ。それはとりあえずは我々というより米国市民にとってそうだ。情報産業のうちに巨大な力を持つ、親イスラエル系勢力がありったけの力で親イスラエル、反ハマスのキャンペーンをはじめた。その中身は多くのでっちあげと感情に訴えるだましのテクニックによって構成される。ウクライナの戦争で世界が新ウクライナ・反ロシアになびいたように、ガザ事態でも米国民のおおくが犠牲になったイスラエル市民に涙し、ハマスを心から憎み、ガザ市民の犠牲について見て見ぬふりをしている。それどころかガザ市民に同情でもしようものなら、テロリストの味方と攻撃され、社会生活すら脅かされる。
ただ日本ではかなり事情が違っている。ガザ市民への同情は人間として当然の感情と受け止められている。ウクライナの時にテレビの画面を独占したNATOべったり組は、今回は姿を現せなくなっている。もちろんそれがイスラエルへの怒りに向けられることは最大限避けられているのだが。
お陰で、今度は反ハマス・キャンペーンの嘘を暴いても市民の敵扱いされることはなさそうだ。岸田首相が米国への同調を強制されたように、メディアの上にもいつかは同調圧力がかかるかも知れないが…

ということで、書けるうちにせっせと書いておこうと思う。

ついでだが、MondoWeiss というネットジャーナルを見つけた。パレスチナ問題に特化した左翼系のネット・ジャーナルだ。左翼系サイトでパレスチナ・イスラエル問題に関してはもっとも権威あるサイトだと紹介している。一読を勧める。





ロシア産小麦の進出と小麦国際価格の値下がりが続いている。(日経新聞10月11日)
国際相場は3年ぶりの安値となっている。原因はロシア産小麦の豊作。同時にロシアが政策的に安値攻勢を強め、輸出にドライブをかけているためである。
小麦


……………………………………………………

小麦の豊作は自然現象だが、輸出量の増加はそれでは説明がつかない。ロシアの小麦輸出には経済制裁により制限がかかっているからである。これについてはこの記事では説明がない。ここでは7月18日のNHKニュースの記事を参照する。
最大の輸出国の一つイランでは、ロシアから輸入した穀物の量は、前の年と比べておよそ1.5倍、侵攻前のおととしと比べておよそ2.5倍に増えている。主な輸送ルートはカスピ海経由の船舶航路だ。
イランの担当者はNHKの取材に対して、「大事なのは取り引き先の国の要望に沿うことなので、私たちは、ロシア側の求めにもっと応える用意がある」と話している。それは具体的には、イランの先の湾岸地域へ転売することのようだ。
それだけではない。帰りの船にはさまざまな物資が積まれ、ロシア経済にとってなくてはならない輸送ルートとなっている。
ロシア産小麦はたんに輸出量を増やしているだけではない。その間にウクライナは供給不安を抱え、もう一つの小麦輸出国である豪州が天候不順により不作となっている。したがってロシア産小麦は絶対量を増やすだけでなく、世界の小麦輸出に占める割合も高めている。その比率は24%にまで達し、国際価格に対する決定力を握るにまで至っている。
また新興国や途上国においては、安値で取引されるロシア産小麦への依存度がさらに高まり、この麺からも欧米諸国への依存度が低下している。それは先進諸国や穀物メジャー企業の支配力を弱める事態をもたらしている。


週2日のアルバイト診療が復活した。一年ぶりだ。流石に息切れがする。
医局に顔を出すようになって最大の楽しみが日経新聞を読むことだ。相変わらず、保守的ながら事実に基づく正確な評価が光る。ウクライナ戦争の発生時も、唯一熱狂的な正義派に陥ることなく、新興国の動きにも目配りした視点を貫いた。
今回の事態でもいち早く、事態の本質が「ガザ事態」であり、それにはこれまでの長い経過があり、その必然的な帰結として見る構えを打ち出している。
だから決して「どっちもどっち論」に陥ることはない。その上で、長い経過の一段階ではなく、特別な意味を持つ重大事態であると捉え、「ガザ事態」に焦点を絞り込んでいく。


まずは10月17日付の社説から紹介する。見出しは「ガザの衝突拡大と人道危機を回避せよ」という見出しがつけられている。
見出しでも分かるように、これまでの歴史を含めた「ガザ事態」こそが、今回の出来事だという立場を押し出している。これはアメリカや、それに追随する欧州諸国の主張とは明らかに一線を画している。
要点のみ紹介する。柱は3つある。

1.危機の本質はこれまでのパレスチナ紛争の再燃である。したがって最大の責任はこの問題を放置してきた国際社会にある。(あえて米国とは言わないところが日経である)
2.したがって「パレスチナを置き去りにはしない」というメッセージは、たんに正しいと言うだけではなく、緊張関係の緩和につなげていく最大の保障となる。
3.この地域の持続的平和は、イスラエルとパレスチナが平和裏に共存する以外に方法はない。

社を代表しての意見だけに、若干の歯切れの悪さはある。しかしこの日の一面には、執筆者の署名入りの解説記事があり、趣旨はほぼ同様だが、より明快に示されている。

1

2
緊急事態であり、このまま記事が読まれずに消え去るのは無念なので、転載させてもらう。
ご意見があればただちに取り下げます。

このところ、赤旗のガザ報道が目覚ましい。
わたしはガザ報道には3つの視点が必要だと思われる。
一つは、どっちもどっち論(暴力の悪循環をやめよ)はだめだ。イスラエルは無実ではない。パレスチナ合意を破り続けてきたのはイスラエルであり、彼らはパレスチナを世界地図から抹消しようとしている。その態度が今回の事態を招いたのだという視点。これは事態の真の解決のために必須の視点だ。
一つはこれはハマスの犯した罪だということだ。ハマスの犯罪はたしかに非難されて然るべきだ。しかしそれはハマスの犯罪であり、市民の犯した犯罪ではない。イスラエルの行いは見当違いの「報復」であり、何の根拠もない。
そしてもう一つは、「住民のなぶり殺し」は現代世界においては許せない残虐行為だということだ。230万の人々が住む大都会(札幌より大きい)を壁で包囲し、水、石油、食料を断てば、間違いなく住民は餓死する。飢えに苦しむ住民の上にさらに爆弾を降り注ぐのは、もはや悪魔の仕業としか考えられない。
赤旗はそれらのポイントをしっかりと踏まえた上で報道している。28日には国連総会決議をめぐり、群を抜く水準で報道している。一面的という人もいるかも知れないが、一般メディアがイスラエルより報道を繰り返しているのだから、「正義の味方、真実の友」としては、これくらいでちょうと良いと思う。まずはコピー

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今朝のニュースから
The Intercepts

イスラエルはガザを空爆しながら、食料、水、医薬品を断っている

10月7日のハマス襲撃に対する“報復”として、イスラエルはガザへの砲撃を執拗に続けている。その結果、ガザでは今日までに7000人以上のパレスチナ人が死亡している。
ガザ保健省によれば、犠牲者の70%が女性か子どもで、そのほぼ全員が民間人である。

米国大統領は、イスラエルの攻撃を持ち上げ、発表されたパレスチナ人の死者数に根拠のない疑念を投げかけている。さらに140億ドルをイスラエルに送るよう議会に要請し、攻撃をエスカレートさせている。

私たちがガザで目にしている殺戮は、ジェノサイド行為といえる。それはアメリカによって直接資金を提供されている殺戮だ。
このイスラエルによる焦土作戦は、アメリカが資金を提供し続ける限り止むことはないだろう。 

「インターセプト」は、この戦争をありのままに伝え、米国のイスラエル援助について批判的に報道する。


October 11 2023
The Intercept

トレイブらはガザでの暴力を止めようと呼びかけた
そして民主党の中から攻撃された。

TLAIB AND BUSH CALLED TO END VIOLENCE IN ISRAEL AND GAZA.
THEN FELLOW DEMOCRATS ATTACKED


by Akela Lacy

rashida
  議事堂前でアパルトヘイトに抗議するトライブ下院議員(ミシガン州選出)


以下本文

米国で唯一人のパレスチナ系アメリカ人議員が、民主党の同僚議員から攻撃を受けている。
彼女はイスラエルとパレスチナとの「暴力の連鎖」を非難するとともに、イスラエルの占領に終止符を打つよう求める声明を発表した。
ミシガン州選出のラシダ・トレイブ下院議員は日曜日にその声明を発表した。
それは、ハマスがガザとイスラエル領を隔てる鉄条網をブルドーザーで突き破り、市民を虐殺した次の日である。虐殺された市民の中には、音楽祭の参加者も含まれていた。

イスラエル政府は虐殺に報復するために、ガザの村や難民キャンプを空爆した。そして翌月曜日にはガザ地区の完全包囲を命じた。

トレイブは声明の中で次のように述べた。

「昨日、今日、そして毎日、パレスチナ人とイスラエル人の命が失われたことを悲しんでいます。イスラエルによるパレスチナ占領の終結が、すべての人に公正な未来をもたらすでしょう。
アパルトヘイトのもとで占領され、包囲されて生きるという、暴力的な現実世界の存在を知らずに過ごすならば、誰も安全に生活することはできません。
互いが人間であることを無視することはできません。私たちの国アメリカが、アパルトヘイト政府を支援するために、無条件で何十億もの資金を提供する限り、この悲痛な暴力の連鎖は続くでしょう」

トレイブの発言は、共和党員だけでなく、ジョシュ・ゴットハイマー下院議員(民主党)を含む民主党員からも攻撃を受けた。

日曜日にゴットハイマーは、トレイブとコリ・ブッシュ下院議員(民主党)を非難した。

それは二人が土曜日に出した声明をめぐる発言だった。
声明は、イスラエル人とパレスチナ人の命が失われたことを悼み、イスラエルの軍事占領とアパルトヘイトをやめさせるとともに、停戦を呼びかけるものだった。

ゴットハイマーは「Jewish Insider」紙に語った。

「イスラエルの人たちが自分の家で、撃たれた家族の血を拭い取っている姿を思うとき、私の気分は最悪だ。彼ら(トレイブとコリ・ブッシュ)は、議会が民主的な同盟国への援助を止め、罪のない一般市民が苦しむのを許すべきだと考えている」

ここ数十年、イスラエル政府が共和党にますます、時には公然とつくようになるにつれ、民主党政権とユダヤ国家の関係はぎくしゃくしてきた。
しかし、ここ数日のイスラエル市民虐殺をめぐる反応は、民主党の親イスラエル・ロビーへの恭順がいまだ強固であることを示している。

パレスチナの武装勢力は、市民に対する大規模な組織的攻撃を開始した。

「この種の問題では、いつも何か特別なルールが存在するかのような傾向がある」とマット・ダスは言う。彼は国際政策センターの副理事長で、バーニー・サンダース上院議員の元外交政策アドバイザーを務めた人物である。

「すべての人がハマスの攻撃を非難すべきだと思うし、私たちもそう呼びかけてきた。しかしそのときに、一部の民主党議員が、他の民主党議員を攻撃するのは、ある意味不快なことです。
その行動は、多くの人命が失われようとしているこの瞬間を利用して、自分たちの政治的利益を図ろうとしているかのように見えます。
それは人種的平等と正義を誇りとし、力の弱い者のために立ち上がる我が政党を貶めかねない。民主党はそのような政党ではありません。
力なき弱者がパレスチナ系である場合、その人たちに対する同情も保障されなければなりません。それが許せない政治家が党内にいれば見逃すことはできません」

進歩的な民主党議員にとってトゥライブやブッシュらに対する党内部からの攻撃は認め難いものがある。
これに対する党指導部の対応(無対応)は、民主党幹部の間でイスラエルへの盲目的な忠誠心が復活しつつあることを反映している。
その忠誠心はパレスチナ人の存在を無視し、占領地ガザ地区の軍事的破壊に対し見て見ぬふりをする。

「議員一人ひとりを守るのは民主党指導部の仕事です」
とある民主党スタッフは言う。
 彼は自由に発言するために匿名を求めたうえでこう語った。
「攻撃を受けている議員は、単に自分のスタンスを主張しただけだ。中道派・親イスラエル派の民主党議員も同じように主張すべきだ。ただ、自説にこだわるあまりに、同僚を攻撃したりするのは避けるべきだ。それは賢明な方法ではない。
それより問題は党の指導部だ。彼らはこの批判を受け入れるつもりなのだろうか?
批判者はまともなやり方を外れている。自らの立場を曖昧にしながら同僚の党員を中傷する。どうせなら、イスラエル支持やハマス非難を明確にした上で堂々と非難すればよいのだ」

下記の記事もご参照ください。なかなかしんどい話であることがよく分かります。

“Many of us, your former staff, share your Jewish heritage,” the letter said. “Our pain and sorrow at the losses on October 7 will not be weaponized.”

NEARLY 300 BERNIE S

ピンタローさんからコメントがありました。

こんにちは
ふじ子の接吻はどうみても創作でしょう。
築地が9時40分で11時には皆帰り家族は寝てふじ子と江口の二人きっりとなったは笑えるレベルです。
だいたい昭和8年なら阿佐ヶ谷に到着は11時頃でしょう。

「笑えるレベル」とは思いません。ふじ子の晩年に吟じた句に、場面を彷彿とさせるものがあります。(夫が死後発表)

* 恋猫の 一途 人影 眼に入れず

* ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

逮捕の直前まで二人は短く過酷でかつ濃密な生活を「麻布二の橋、三の橋」あたりの隠れ家を転々として過ごしていました。後年多喜二忌に際して、ふじ子がメモ帳に書き留めた句です

* アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌

* 多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋

二人っきりというのは、たしかに文章のあやかもれません。家の中に母と秋田の伯父夫婦、小樽の娘から預かった赤ん坊、それに近所の同志小坂夫婦がいました。ふじ子を新橋から社用車に載せてきた時事通信社の記者は帰っていたでしょう。

ひょっとしてピンタローさんは  2020年02月01日 を見ていないのかな。

遺体と、セキ+赤ん坊、秋田の親戚、それに安田医師は同じ車(黒い大きな車)で新橋を出発しました。到着時は近くに住む同志小坂夫婦に目撃されており、この時間は確かです。その後安田医師が女性3人を助手にして遺体検案を行いました。このあと時事通信社の記者がふじ子を載せて到着。拷問による内出血の写真を撮影し戻っています。小坂夫婦がふじ子を目撃しています。

阿佐ヶ谷到着というのは、省線利用を想定しているのでしょうか? とすれば、誰の到着でしょうか? しかしこの日省線を使ったのは中條百合子ら3人のみです。彼女たちはすでに遺体到着前に阿佐ヶ谷(正確に言うと馬橋)に到着しており、近くの若杉宅で待機していました。

貴志や鹿地たちの一行がタクシーに分乗して新橋からやってきたのは、深夜になろうという頃でした。直接多喜二宅に車で乗り付けるせず、おそらくは阿佐ヶ谷駅(北口)で降りて線路脇の道を歩いて踏切まで来たところで中条百合子組と出会っています。

この時刻表の主な矛盾は次の2つです。
① 新橋から馬橋までの所要時間がわずか20分という矛盾
確定しているのは馬橋到着時刻だから、これは新橋出発の時刻を前倒しして、例えば午後8時半とかにするしかありません。
② 窪川稲子の帰宅は午前2時という話。
帰路、貴志、原、鹿地らと踏切で出会ったという話がどうにも説明付かない。おそらくは終電に間に合う12時過ぎと考えるべき。それが省線の時刻表の話と繋がっているのです。私も阿佐ヶ谷駅北口から線路沿いの道を歩いて、馬橋の踏切(今は高架下)を横切って歩いてみました。多喜二宅とは20~30分の距離です。
それ以外にも、ふじ子の行動についてははっきりしない点がいくつかあります。しかし、以前は一部評論家の心ない批判があり、その結果、関係者は角に萎縮していたように見えます。だから、「そんな人などいなかった」と述べるのが関係者の通例でした。その結果おタキさんが唯一の恋人のように描かれた時代もあります。それに比べると随分風通しは良くなったものだと感じています。
ピンたろーさんが指摘している矛盾は承知しており、すべて時刻表の中に記載してあります。その上で事実を並べたのが時刻表です。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子


オケゲム:めまいをもたらす響きと揺らぎ

この歳になって、ルネサンス音楽を知って、困っている。もう人生あまりないのにこんな時間つぶしに関わってどうするんだという焦りだ。
とにかくBGM代わりに流しまくって、「おっ!」と気づいたら書き留めて、ちょっと真面目に聞いてみる、ということでやっている。
これもYou Tubeのおかげだ。
そのなかで「おっ!」というより、「ぎょっ!」という感じで驚いたのが、ヨハネス・オケゲムという人の合唱曲。
私は基本的にはビッグマシンで部屋中ホールみたいに響かせるという聴き方はしないので、モニターライクなサウンドが厚みを持って、背中を通り過ぎていくモードが好みだ。
しかしこの人の曲は耳から入って頭蓋骨を震わせる響きを持つ。そんなに大きな音量ではないのだが、突如「鳴ってますよ!」と主張するのだ。
しかもその音が揺らぐのだ。揺らぐというのはなんともわかりにくい表現だが、単なる唸りではなく強弱と音色の変化を伴って襲ってくる。
それはめまいの感じにも似た、ある種の不安感、そして委ねてしまったときの心地よさがあるのだ。
この共鳴りとゆらぎが、危うい快感を、紙一重の快感をもたらす。

ウィキでもかなり詳しくオケゲムの生涯と作品が紹介されている。

デュファイとジョスカン・デ・プレの間の世代で最も重要な作曲家と書かれているが、この説明は納得できない。ブルゴーニュ楽派の創始者であるデュファイはともかく、わたし的にはジョスカン・デ・プレより上だと思う。
ただ残された曲が少なく、教会の合唱曲にレパートリが限定されているのでお音楽史的な重要性は一歩を譲るかも知れない。しかし音楽は音楽史家のためにあるわけではないので、もっと世に知らしめる必要があるのではないか。

一応経歴を記しておく。
生没の日付は不明。
名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されている(1443年~1444年採用)
1452年ごろにパリに移りシャルル7世とルイ11世に仕えた。ルイ11世が1483年に没してからは、所在は不明になる。死没は明らかで、1497年2月6日とされる。当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をささげている。

You Tubeで聞ける曲は以下の通り。(最近のYou Tubeの充実ぶりはすごく、もっと増えている可能性がある)
Ockeghem

People's Dispatch
October 24, 2023 

南アフリカ人民は、"アパルトヘイト国家イスラエル "との関係断絶を政府に求める

South Africans increase pressure on government to sever ties with “Apartheid Israel”


by Pavan Kulkarni

リード
南アフリカはイスラエルの戦争犯罪についてICCによる調査を要求している。国全体からはさらに、国交断絶を求める声が上がっている。


South-Africa-Israel
  プレトリアのイスラエル大使館前で、ANC主催する抗議集会が行われた

以下本文

南アフリカのシリル・ラマフォサ大統領は、10月21日(土)にエジプトのカイロで開催された平和サミットでこう述べた。
「平和をもたらす唯一の方法は、パレスチナ人の人権、尊厳、国家への正当な願望を実現することである」。

10月24日現在もなお、イスラエル軍によるガザへの砲撃が続いている。この365平方キロメートルの土地では、17年近くにわたって230万人のパレスチナ人が包囲されてきた。
10月7日以来、2,000人以上の子どもを含む5,791人以上のパレスチナ人が死亡している。

「南アフリカ人として、私たちはパレスチナ人に起きていることに心から同情する」とラマフォサは語った。自分たちの闘いを回想しながら…
「なぜならパレスチナ人が経験している計り知れない苦しみに、我々もさらされてきたからだ。それは アパルトヘイトの悪夢を思い起こさせる」

南ア国内では、ラマフォサ政権に対し、「アパルトヘイト国家イスラエル」に対する抗議の言葉を具体的な行動に移すよう圧力が高まっている。
彼らは、「我々はこの未承認国家の最大の貿易相手国のひとつだ」とし、イスラエルに対する経済ボイコットと大使館の閉鎖を求める長年の要求を改めて表明した、

 南アフリカ議会第3党の「経済自由戦士団」(EFF)は10月23日、首都プレトリアにあるイスラエル大使館をピケで封鎖した。
EFFは、外交・文化・経済的にこのアパルトヘイト国家との強い関係が続いていることを非難し、国民に同調を求めた。に呼びかけた、
ピケに先立ち、 EFFのナジエ・ポールセン議員は、「我々は非合法国家の最大の貿易パートナーのひとつだ」と政府を非難した。
EFFのリーダーであり議員でもあるジュリアス・マレマは、ピケで次のように宣言した。
「子どもたちがパレスチナで殺されている限り、ここ(イスラエル大使館の外)は私たちの永住の地になるだろう」
そして「この抗議集会は最後ではない」と警告した。

それは最初でもなかった。

 10月20日(金)には、ラマフォサ政権の与党であるアフリカ民族会議(ANC)が主導する別のピケが行われ、数百人が参加した。

「イスラエル大使館は閉鎖され、大使は去らなければならない」。

 ANCのノムヴラ・モコニャーネ第一書記次長は、このピケのデモ隊にこう語りかけ、南アフリカ国民にイスラエル製品のボイコットを促した。

ANCがイスラエル大使エリアフ・ベロツェルコフスキーに宛てた覚書には、次のように記されている:
「特にこの20年間、イスラエルはパレスチナの人々に人種的抑圧と残忍な弾圧を加えてきた。

覚書はさらに米国と一部のEU諸国が二重基準的道徳と非良心的な姿勢を続けていることを非難した。
「ハマスによるイスラエルの民間人殺害についてだけ語り、アパルトヘイト国家イスラエルによるパレスチナの民間人殺害については何も語らない」

「イスラエルは戦争犯罪を犯しており、責任を問われるるべきだ」

南アフリカは、国際刑事裁判所(ICC)に対し、「ローマ規程の管轄下にある犯罪について、イスラエルの指導者たちによる重大な違反行為を調査すること」を求めた。
ガザ地区で繰り広げられている残虐行為は「ICCにとって試練である」と、モコニャーネ第一書記次長は金曜日のピケットラインからSABCに語った。

イスラエル国防軍(IDF)は10月17日、ガザ北部のアル・アフリ・バプテスト病院を空爆し、一撃で500人以上を殺害した。 

南アフリカの国際関係・協力省(日本の外務省に相当)は、ICCに介入するよう求めた。
「国際人道法とジュネーブ条約に基づき、イスラエルは戦争犯罪を犯した。国際刑事裁判所と国際社会全体は、その行為に対して責任を負う必要がある」

さらに南アフリカ政府は、国際社会に対してこう呼びかけた。

「南アフリカは国際社会に対し、ガザのパレスチナ人に対する重大な侵害に対する無関心をやめるよう求める。そして、国連安全保障理事会が、このジェノサイドを阻止するための強制措置をとることを求める」

(このあとEFFによるANC批判が続くが、本質的なものと思えないので省略)


October 24, 2023 
Peoples Health Dispatch

ガザの医療システムは燃料と医薬品の欠乏でパンクしている

Health system in Gaza collapsing as fuel and medicine run out



今ガザでは深刻な状況を迎えています。燃料の供給が危機的なレベルを下回り、ガザの病院の完全崩壊が刻一刻と進行しています。

パレスチナ保健省と国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は、医療施設にはギリギリ10月25日(水)末までの物資があると発表しました。しかし、すでに数十の診療所や病院が医療提供の停止を余儀なくされています。
パレスチナへの援助の流れは依然として遅く、不十分です。同省の報道官は、10月7日のガザ砲撃開始以来、悪化する現地の状況を変えるには不十分だと述べています。

先週末に保健省が発表した報告書によると、720人の子どもを含む少なくとも1400人がいまだに瓦礫の下敷きになっていて、救助を必要としています。
道路は封鎖されたままです。救急車は、瓦礫のため負傷した人々のところにたどり着くことができません。

現地の医療スタッフによれば、状況はすでに手に負えないものになっています。何もしなければ、伝染病の発生を防ぐことはできず、状況は悪化するばかりです。
この17日間、避難民が受けた環境の悪化のせいで、現に、ガザでの伝染病発生は日に日に可能性を増しています。

保健省は、予防接種サービス、透析サービス、分娩病棟の稼働を維持することを優先すると言ってますが、現状でできることは限られています。

 オックスファムは、水が不足するだけで、それだけで水痘、疥癬、下痢が発生する可能性が増大すると言っています。

UNRWAの関連施設でさえ、設備が整っているとは言えません。AWDA協会が10月23日に発表した声明によると、国連の医療センターは極めて限られた資源で対処せざるを得なくなっています。
何百人もの人々が同じ衛生用品を使うしかなく、個人の衛生用品はほとんど手に入リません。

この問題は妊婦にも影響を及ぼしています。国連の推計によれば、現在ガザには推定5万人の妊婦がいます。AWDAの聞き取り調査によると、難民キャンプにいる女性たちは、キャンプ内の他の女性たちに支えられながら、医療支援なしで出産しています。

イスラエルの攻撃による負傷者があまりにも多いため、パレスチナの病院や医療センターは、普通の感染症や、予防可能な病気の増加に対応できなくなっています。
ガザ北部にある2つのアル・アウダ病院の院長であるアーメド・ムハンナ医師はこう言っています。

病院のキャパシティはすでに限界を超えている。ガザ最大の医療機関であるアル・シファ病院(200床収容)の医療従事者は、スペースがないため廊下で業務を行っている。

病院で働いている看護師が語った経験もムハンナの懸念と同じです。廊下には、多くの患者がマットレスや段ボールの上に横たわっています。

看護学校の先生は、海外の医療スタッフに向けた訴えでこう述べています。
 「患者たちはまた爆撃されるのではないかと怯えており、どこへ行けばいいのかわからないため、退院することもさせることもできません」

当初、病院は患者を再分配することで対処しようとしました。しかし、イスラエルがガザを砲撃し続け、負傷者の数が刻一刻と増える中、もはやこれは実行可能な戦略ではありません。
攻撃が始まって13日目、ムハンナが勤務するアル・アウダの病院では、医薬品や使い捨て製品の在庫がすでに心配になっています。
ムハンナの説明によれば、在庫は「『通常の』戦争なら約1カ月分備蓄してある」だが、今回はそうではないそうです。
「今回の戦争では何が違うのか。それだけ今回の攻撃のレベルと、落とされた爆弾の数がすごいからだ」

アル・アウダの病院が直面している最も差し迫ったニーズは何か、ムハンナは次のように答えました、

「ますは十分な量の医療用酸素だ、それから特に燃料の供給が急務だ」

燃料を積んだ最初の援助トラックがガザに入ったのは、10月22日の日曜日でした。
しかしイスラエル占領軍がパレスチナに許可している援助物資の量は、「大海の一滴」にすぎない。保健活動家からも高位の保健当局者からもそう呼ばれています。
もっとも攻撃の厳しいガザ北部では、まだ手の届かない病院もあります。早急な停戦と必要物資の供給拡大なくして医療提供の継続は考えられない。

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火曜日、ガザ保健省は市民の犠牲者数を発表した。イスラエル軍の空爆によるパレスチナ人の死者は5,791人に上る。また、少なくとも16,297人のパレスチナ人が負傷している。
これまでのところ、死者の40%が子ども、22%が女性、5%が高齢者である。ガザでの死者リストには、少なくとも65人の医師と保健員が含まれている。イスラエルの空爆による瓦礫の下には、まだ約1550人がいる。

ガザ病院の状況は下記のX 映像より
https://twitter.com/telesurenglish/status/1716842266742923292?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1716842266742923292%7Ctwgr%5E7b9155a777aba9f8554d2738064fb9deed79dd5e%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fwww.telesurenglish.net%2Fnews%2FIranian-President-Raisi-Urges-Muslim-Countries-to-Support-Gaza-20231024-0009.html

市内では「ミニ9.11」が問答無用で実施されている。
https://twitter.com/jacksonhinklle/status/1716816938960368071?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1716816938960368071%7Ctwgr%5E7b9155a777aba9f8554d2738064fb9deed79dd5e%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fwww.telesurenglish.net%2Fnews%2FIranian-President-Raisi-Urges-Muslim-Countries-to-Support-Gaza-20231024-0009.html

市民は安全な避難先を求めて病院に殺到している。その病院に爆弾が落とされたから、500人もの犠牲者が出たのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=zlDWn66vpEA&t=131s


日本AALA連帯委員会AALAニュース
Global Research
October 23, 2023

J.ナポリターノはいう「ハマスはネタニヤフの頭の中で生まれた」

この文章は

The Gathering Storm of Rage: “Hamas was the Brainchild of Netanyahu … We have a President who cannot put two Sentences together”. Judge Napolitano
https://www.globalresearch.ca/gathering-storm-rage-andrew-napolitano/5837406

の要旨を紹介するものです。文章は今のところ「大胆な推理」の域にとどまっています。(編集部 SS)

リード
先週、ハマスがイスラエル軍と市民に加えた野蛮な攻撃は、まったく正当化できるようなものではないが、説明がつかないわけではない。
アラブとイスラエル双方の血への渇望は、第一次世界大戦の終わりから続いている。特に1947年、シオニストの民兵が暴力を行使して75万人のパレスチナ人を町や村や故郷から強制退去させたときからだ。

以下本文

その戦い(ナクバ)の結果、イスラエルは建国され、国際的に承認され、パレスチナ人は西のガザ地区と東のヨルダン川西岸地区に閉じ込められた。
イスラエル政府は、パレスチナの人々を、個人が平等な権利を持ち、それを政府が尊重する民主的な社会に統合しようとはしなかった。
彼らはパレスチナ人を社会から物理的に排除し、アパルトヘイト体制を確立したのだ。

ガザは屋根のない強制収容所となり、貧困と文化的抑圧を運命づけられた。
他方、ヨルダン川西岸地区は縮小の一途をたどっている。イスラエル政府は、イスラエル人の違法入植を奨励し、資金を提供し続けている。
パレスチナ人は知っている。そこがイスラエル人の土地になったのは、イスラエル政府が「そこは自分たちの土地だ」と言ったからだと。

自由、文化的アイデンティティ、繁栄を求めるパレスチナ人の自然な衝動をイスラエル政府が抑圧した結果、双方に過激派が生まれた。そしてこれらの人々は、言いようのない暴力を煽り立てた。

ハマスの成り立ちは?

ハマスとは、イスラエルのネタニヤフ首相の発案(brainchild)である。

ネタニヤフ首相は、イスラエル政府がハマスに資金を提供するように仕向けた。それはネタニヤフ首相の長年の敵である故ヤセル・アラファト(PLO議長)の政治的影響力に対抗するためだ。

ネタニヤフ首相と彼の政府は、パレスチナの人々を地理的にだけでなく、政治的にも引き離した。
彼が創設したハマスが、思い描いていたよりもはるかに成功したのだ。

イスラエルによるガザへの弾圧が強まり、ガザが野外強制収容所のようになっていくにつれ、ハマスはガザ住民の政治的支持を求め、それを受けた。
ハマスはネタニヤフ首相が期待した通り、市民の抵抗を煽った。その抵抗が暴力へと姿を変えるのはまもなくのことだった。そしてその暴力が先週、猛烈な勢いで噴出したのだ。

この中で米国はどのような役割を果たしてきたのだろうか?

米国はイスラエル建国以来、イスラエルにとって最も忠実な親友である。
イスラエルはニュージャージー州と同じくらいの面積と人口を持つ。ニュージャージー州民は毎年数千億ドルの連邦税を払い、その見返りとして毎年約8億ドルを受け取っている。イスラエルはもちろんアメリカ政府に税金を払っていないが、連邦政府が婉曲に「対外援助」と呼ぶ費目で毎年40億ドルを受け取っている。
対外援助は憲法のどこにも認められていない。しかし我々は皆知っている。連邦政府は、権力者が地位を維持できるのに都合の良いことをするものだ。憲法が認めていようがいまいが。連邦政府は、あらゆる法律を制定し、あらゆる事象に課税し、あらゆる行動を規制し、あらゆる戦争に参戦し、あらゆる揉めごとに政府を介入させ、自分のものでもない金を使ってもよいと信じている。ー憲法などクソ食らえだ。

すべてno problemだ

憲法違反の行為を助長するかのように、連邦政府はイスラエル政府が何をしようとも支持してきた。
イスラエル政府はアメリカ政府、ホワイトハウス、アメリカ市民をスパイしている。no problemだ。

イスラエル政府のジェット機が米艦リバティ号を爆撃した。アメリカ人船員34人が死亡、171人が負傷した。no problemだ。
イスラエルの諜報機関は9.11を事前に知っていたのに、アメリカに警告しなかった。それもno problemだ。
イスラエル政府は、アメリカの武器を使ってある民族を弾圧し、その相当部分を消滅させようとしている。それもno problemだ。
イスラエル政府は、クレイジーなハマスがやったよりはるかに、罪のない人々を殺したがっている。それもno problemだ。
イスラエル政府は、これらすべてを行うためにアメリカの資金を欲している。それもno problemだ。
ウクライナ政府に対する米国の軍事支援と同様、米国のイスラエルへの揺るぎない支援は、多くの罪のない人々の死をもたらした。

イスラエルとウクライナは、過去50年間で最も危険で不安定な崖っぷちに立たされている

最近のハマスの攻撃とウクライナの軍事的敗北以来、アメリカの政治家たちは中国からの借金を増やすよう求めている。ネタニヤフ首相とウクライナ政府に多くの現金を与えるためである。
それは連邦政府の33兆ドルの負債をさらに増やし、アメリカの物価を上げ、雇用を押し下げるだろう。

アメリカは平和のための交渉や出費の代わりに戦争を奨励し、そのつけを払い続けてきた。
その巨大な経済力をさらなる繁栄のために使わずに、アメリカはロイド・オースティン国防長官の言葉を借りれば、「両戦線に力を集中し」てきた。すなわち中東とウクライナである。

それをパワーと呼ぶべきだろうか?

それは死と破壊を引き起こしただけだ。かつてベトナム、アフガニスタン、イラクで「力」を行使したように。

それが米国の外交政策の目的なのだろうか? もしそうなら、全く無駄な努力だ。

どのように?

ハマスの目的は、ネタニヤフ政権の最も醜悪な側面を白日の下に晒すことだ。そしてアラブ人やイスラム教徒の間でパレスチナ国家への支持を喚起することだった。

その点では、ハマスは成功したと言えるかも知れない。
しかし、それは醜悪な成功である。イスラエル人であれパレスチナ人であれ、罪のない人々を意図的に虐殺することは許されない。

ガザ事態は米国と米国民に何を残すのか?

我々は一人の大統領を擁している。歴史的事柄と現実の事態をまとめることができない、ましてや平和のために外国の首脳と交渉することなどできない大統領を。
我々は一つの議会を持つ。情報機関や軍産複合体におもねるしかできない議会を。
我々は大きな政権与党を持つ。それは福祉を優先し、戦争を優先し、深層国家を優先し、安全保障を優先し、行政機能を優先するもりだくさんな政党だ。しかしその政党は憲法を優先せず、規律を遵守し統制の取れた政府を優先せず、個人の自由や平和を優先しない。

米国の外交政策は、誰がホワイトハウスにいようと、どの政党が議会を支配していようと、ところ構わず腐敗と怒りをかき立てる厄介者だ。
そんな外交政策が続けば何がもたらされるのだろうか?

この記事を書いている時点では、テルアビブに2,000人のアメリカ軍が駐留している。
覚えておくべきことがある。他のすべてが失敗したとき、政府がわれわれを戦争へと導くこと、歴史はそれを明白に示している。
(要約:編集部SS)

……………………………………………………

訳出にあたって、Web上の翻訳ソフトを利用、結果を一部修正した。仮訳として理解されたい。記事はすべて仮訳であり、利用により生じた損害に責任を負わない。

2023 年 10 月 22 日
Peopke's democracy
(インド共産党M 機関紙)
「米国のイスラエルの犯罪への加担」


14日、バイデン大統領はテルアビブを訪問した。それが何かを示したとすれば、まずなによりイスラエルの入植者植民地国家に対する絶えることのない、盲愛的な支援である。

米国はイスラエルを西アジアにおける前哨基地として育ててきた。そして軍事大国にするために、何十億ドルもの援助と洗練された武器や装備を注ぎ込んできた。そのかたわらで、米国はパレスチナ人民への抑圧、彼らが受けた残虐行為、ヨルダン川西岸地区などの占領地で進行している民族浄化を見過ごしてきた。

過去16年間、米国は230万人のパレスチナ人が住むガザの非人道的な封鎖を支持してきた。
近年、イスラエルがヨルダン川西岸地区でのユダヤ人入植地を拡大し、アパルトヘイトのような制度を押し付けている。そのことによって、2国家方式を積極的に損なっている。米国とその西側の同盟国は、この極悪非道な計画にも積極的に加担してきた。

バイデンの訪問に先立ち、国務長官ブリンケンはイスラエルと他のアラブ5カ国を飛び回った。イスラエルがガザへの地上侵攻を準備している間に、彼はエジプトやヨルダンといった近隣諸国の協力を取り付けようとしたのだ。
ブリンケンはエジプト大統領に、ガザのパレスチナ人がラファ交差点を通ってエジプトに移動することを提案したが、説得できなかった。なぜなら、シシ大統領が明らかにしたように、いったんパレスチナ人がエジプトに押し出されたら、ガザに戻ることは許されず、エジプトで永久難民となるからだ。
ヨルダンもまた、ヨルダンへの人の移動を検討することを拒否した。

16年前、ガザ侵攻に際してイスラエルの正当防衛の権利を全面的に支持してしまってから、米国は差し迫った生命の危機をずっと無視し続けた。

バイデンがテルアビブに到着する前夜、ガザ南部のアル・アフリ聖公会病院が爆撃された。それは恐ろしい大虐殺を引き起こした。この陰惨な攻撃は、イスラエル軍がガザ北部の22の病院に対し、24時間以内に患者とスタッフを避難させるか、責任をとるよう命じたあとに、それを引き金に起こった。

避難命令が出されたのは10月12日の夜だった。そしてアル・アハリ病院が最初にロケット弾の攻撃を受けたのは15日のことだった。

いまイスラエルは、病院への爆撃は自分たちに責任はないと主張している。そして「爆発はイスラム聖戦機構が発射したロケット弾の失敗によるものだ」と主張している。しかし軍事専門家や多くのメディア・コメンテーターは、「ガザ武装勢力はそのような強力な爆発物を持つロケット弾を保有していない。このような強力な爆弾を持っているのはイスラエル軍だけである」と指摘している。

それにもかかわらず、バイデン大統領は恥知らずにもイスラエルの言い分を支持し、「他のチームがやったことだ」と言った。(It was done “by the other team”)
こうしてバイデン大統領は、イスラエルによる戦争犯罪に心の底から加担することになった。

バイデン大統領は、アンマンで開かれるはずだったヨルダン、エジプト、パレスチナ自治政府の指導者たちとの会談をキャンセルされ、鼻であしらわれた。アラブの指導者たちは、たとえアメリカの同盟国であっても、イスラエルがこの恐ろしい犯罪を犯した時期にアメリカ大統領と会うことはできなかった。

バイデンがイスラエルに滞在していたまさにその日、米国がイスラエルをかばうためならどんなことでもするということが明らかになった。
国連安全保障理事会で、ガザへの救命物資の輸送のために「人道的な検問一時停止」を求める決議案をブラジルが提案した。アメリカはなんとこれに対し、拒否権を発動したのだ。
ガザへの人道的物資の輸送を求める提案に対してアメリカは拒否権を行使したのだ。それは、ガザの人々の食糧と医薬品を絶望的な不足に陥れている暴挙について、アメリカが共犯関係にあることをまざまざと示している。

その一方でバイデンは、訪問から帰った後、イスラエルの戦争内閣に対し膝まづき、ラファ交差点からガザへの救命物資の輸送を許可するよう要請した。
その結果、物資を積んだトラック20台が、10月20日から通過できる事になった。それまでの時間は、トラック輸送を担うエジプトが、爆撃された交差点の道路を修復するための所要時間である。
国連の救援機関は、最低限の救援を提供するだけでも、少なくとも毎日100台の援助物資を積んだトラックが通過することになるだろうと述べている。

イスラエルによるガザへの地上侵攻は、この地域の紛争を拡大するだろう。すでにレバノンのヒズボラは、このような攻撃が行われた場合、黙ってはいないと表明している。アラブ世界と西アジア全域で、イスラエルのガザでの残忍な攻撃に対して、人々が街頭に出て抗議している。
ガザ紛争は、発生後11日目にして1,100人以上の子供を含む3,000人以上の死者を出した。米国は、政治的・軍事的にイスラエルを支援し続けている。そのことで、世界の目からの非難の声を一身に受けつつある。

以上(S)









Indymedia
http://rochester.indymedia.org/node/4703

John Mearsheimer: Israel's Real Purpose In Its Atrocities in Gaza
(Abstruct)

シカゴ大学のジョン・ミアシャイマーは、ガザにおけるイスラエルの無謀な残虐行為の背後にある真の理由について、簡潔な時系列の説明と最も明確な説明を示している*。

*“The Israel Lobby and U.S. Foreign Policy” (with Stephen Walt) 

1.基本となる「鉄の壁」政策

ミアシャイマーは次のように主張する。

ハマスの勢力を弱めたり、ロケット弾を止めたりすることは、イスラエルにとって副次的な目標でしかない。

イスラエルの中心的な目標は、歴史的に規定されたパレスチナ全域を支配するということである。

そのために、「鉄の壁」政策を通じてパレスチナの人々を永久に服従させ、パレスチナの土地、空気、水、国境・海、経済のすべてをイスラエルが支配し、それを将来にわたって確実にしようとするのである。

2.「鉄の壁」政策は達成できない

ミアシャイマーは、この目標は達成できないと指摘する、
ましてや、パレスチナ人に対する全面戦争という残忍な方法によって達成することはできない。

イスラエルが多少なりとも成功したように見えても、そこに生起する結末は恒久的なアパルトヘイトでしかない。

そして、それ自体が、排外主義的な「ユダヤ人国家」としてのイスラエルを破滅させるだろう。そしてその人種差別的な国家イデオロギーである「シオニズム」を破滅させるだろう。

【参考】

シカゴ大学政治学教授、ジョン・J・ミアシャイマー「もう一つの戦争、もう一つの敗北ーアメリカの保守派へ」(January 26, 2009)より

イスラエル人とアメリカ国内のイスラエル支持者たちは、2006年の悲惨なレバノン戦争から教訓をよく学び、ハマスとの現在の戦争に勝利する戦略を考案したと主張する。
もちろん、停戦が実現すれば、イスラエルは勝利を宣言するだろう。しかしそのような言葉を信じてはいけない。それは決して勝つことのない戦争であり、イスラエルは愚かにも、その戦争をまた始めたのだ。

3.ガザでの作戦には2つの目的があると言われる

 1)パレスチナ人がイスラエル南部にロケット弾や迫撃砲による攻撃を止めさせること
それは2005年8月にイスラエルがガザから撤退して以来、続いている。

 2)イスラエルの抑止力に対する威信を回復させること
 レバノンでの大失敗、ガザからの撤退、イランの核開発を阻止できなかったことでイスラエルの抑止力は低下したと言われる。

2008年の対ガザ作戦

しかし、これらはキャスト・リード作戦の真の目的ではない。

(The Gaza War 2008–2009, also known as Operation Cast Lead)

実際の目的は、イスラエルが数百万人のパレスチナ人とどのように共存していくかという長期的なビジョンと結びついている。

イスラエルの指導者たちは、かつて委任統治領として知られていたパレスチナ(ガザとヨルダン川西岸を含む)全域を支配する決意を固めている。

パレスチナ人は、切り離された経済的に不自由な一握りの飛び地で、限られた自治権を持つことになる。そのひとつがガザである。

イスラエルはその周辺の国境、飛び地間の移動、上空と地下・水域を支配することになる。

このような大イスラエル構想を実現する鍵は、パレスチナ人に大きな苦痛を与えることである。
その結果として、イスラエルが彼らの未来を支配するという事実を受け入れさせることである。

 この戦略は「鉄の壁」(Iron Wall)と呼ばれている。1920年代にジャボチンスキーが初めて提唱したもので、1920年代以降のイスラエルの政策に大きな影響を与えてきた。

ガザで起きていることは、この戦略に完全に合致している。

紹介はここまで

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