存在というのは基本中の基本だが、これが自然科学的には非常に難しい。そこで哲学者は即自有論から対自有に行ってしまう。即自有は物自体として放置される。
エネルギーは時間軸に乗ってやってくる
存在というのは基本中の基本だが、これが自然科学的には非常に難しい。そこで哲学者は即自有論から対自有に行ってしまう。即自有は物自体として放置される。
AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
1936年
2.14 中国航空公司が上海—ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。
2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。
3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。
4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。
4. 馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。
5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。
5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。
5. 上海の文学界で「国防文学論争」が展開される
7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。
20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。
10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。
11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者
が出る。
11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。
11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。
12.12 「西安事変」発生。
* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。
1937年
1. 1 上海—南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。
6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。
7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。
7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。
7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。
8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。
第二次上海事変
8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。
8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。
8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。
8月15日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。
8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。
8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。
8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、11月22日まで上海での発行を続ける。
9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。
9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。
9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。
10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。
11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。
11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。
11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。
12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。
12. 5 日本が上海大道市政府設立。
12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。
12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。
12. 南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。
12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。
1938年
1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39年5月10日まで発行を続ける。
1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。
CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。 |
2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。
3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。
3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。
4. 日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。
6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。
7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。
7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。
9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。
10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)。
10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。
10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。
11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。
11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。①日本軍の駐屯、②中国人による中央政府の否認、③撤兵時期は明示しない
12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。
12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。
* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。
* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。
1939年
1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15日)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。
2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。
2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。
3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する
越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。建物はジェスフィールド公園(現在の中山公園)に続く道沿いにあった。
日中戦争下、藍衣社やCC団による抗日テロが頻発した。日本軍当局は親日派中国人による取締機関を設立し、本部をジェスフィールド路76号に置いた。その後住所がそのまま呼称となった。それは少なくとも500人の武装した男たちをようし、娼館やカジノを経営したり「保護する」ことも含まれた。
4.15 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。
5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。
5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。
丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。
6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。
8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。
8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。
9. 5 汪精衛が国民党第6期1中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。
10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。
12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。
12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。
12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。
鄭蘋茹:容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、その過程で近衛文隆と知り合った。危険を察知した大日本帝国陸軍幹部は近衛を日本に送還した。その後、重慶国民政府より丁黙邨を暗殺せよとの指令が出たが失敗。銃殺刑となる。
12.30 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。
1940年
2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。
3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。
3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。
3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。
6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。
7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。
8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。
8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。
8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。
10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。
1941年
3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、4月8日までに全員が釈放。
4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。
5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。
6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡
8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。
11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。
12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。
12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により3月1日に釈放。
1942年
1. 日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。
6. 上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。
8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。
9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。
10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。
11. 日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。
1943年
1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。
1. 汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。
7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8月 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。
9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。
1944年
2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。
3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。
6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。
6. 武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。
11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。
1945年
1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。
5. 李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。
7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。
8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。
8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。
8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。
8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。
9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。
9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。
* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。
1946年
4. 中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。
8.20 ミス上海のコンテストが開催される。
10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。
1947年
1. 輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。
2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。
5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。
5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。
7月 丁黙邨、死刑となる。
10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。
1948年
1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される
8. 蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。
12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。
1949年
2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。
2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。
4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。
4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。
5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。
5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。
5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。
7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。
10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。
1925年
5.30事件
1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22日)。
2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31日)。
3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。
5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。
5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。
5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。
5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。
6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。
6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。
6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。
7. 広州に国民政府が成立。
10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。
1926年
3月 北京で「三・一八事件」が発生。
3. 金子光晴が初めて上海に来る。
10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。
11. 南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。
12月 周恩来、中共中央総書記の陳独秀に招請され、広東を離れて上海の党本部に転任。中央組織部の秘書に就任する。暴動を統率する特別軍事委員が結成され、顧順章が武装糾察隊を指揮することとなる。
1927年
蒋介石のクーデター
1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立
2月10日 周建人(魯迅)が上海に辿り着き、虹口地区に居を構える。
2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。
3.21 第三次武装蜂起。労働者軍2700人が激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。
3.23 上海市民大会が開かれる。顧順章が「上海特別市臨時政府」委員に任命される。
4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。
社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。
4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。
4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。諸外国や資本家、青幇の首領・杜月笙の援助を受けながら、共産党員300人以上を処刑する
4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶も虹口に移ってくる。
7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。
人口は360万人に達する(東京・大阪は200万人)。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。
消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。
10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。
10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。
12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。
当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。
1928年
4. 横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。
5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。
5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。
5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。
6月 中華民国の首都が北京市から南京市に移される。上海が事実上の首都となる。
11月 共産党幹部が上海に戻り、地下の中国共産党中央政治局が開設される。周恩来が責任者として執務する。蔡和森は病気のため解任、李立三が政治局員に昇格。
8. 中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。
11月 尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。
尾崎、スメドレー、ゾルゲ関係は「2018年07月23日 尾崎秀実の上海」を参照されたい。
* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。
1929年
4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。
7. 8 上海—南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。
7月 蒋介石政権、租界の東北部に新しい市街地の建設を計画。「大上海都市計画」と呼ばれる。
1930年
2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。
3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。
5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。
7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。
10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。
10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。
10. 中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。
11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。
1931年
1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。
1. 鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。
6. 瞿秋白が上海市内に潜入。
6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。このあとコミンテルン極東部のアジトが摘発される。極東部は東方部の一部を形成し、30年にイルクーツクから移設された。ゾルゲはこれらとの接触を避けていたと言う。
6月 共産党幹部の顧俊章の裏切りにより南京で項仲発、蔡和森、尹大英らが逮捕・処刑される。
中国国民党臨時行動委員会: 第1次国共合作を支持推進し,武漢政府崩壊後は共産党と一致行動した。ソ連に赴き,1930年帰国後は中国国民党臨時行動委員会を組織して反蔣・非共産という第三の道をもとめようとした。
9.18 満州事変が勃発。
9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。
9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。
9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。
9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。
10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。
10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。
10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。
12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。
* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。
1932年
1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。1月5日に広州政府を解消。
第一次上海事変
1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。
上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。 |
1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。
1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。
1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。
2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。
2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。
3.01 満州国建国宣言。
3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。
日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。
3.06 国民政府、停戦声明を発表。
3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。
3. 藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。
戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。 |
3. 丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。
4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。
5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。
7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。
8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。
10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。
12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。
* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。
* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。
1933年
2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。
3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。
3. 故宮の文物総計19557箱25万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。
5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。
5. 上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。
6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。
7. 何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。
8. 日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成
33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。
1934年
1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。
2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。
3. 電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。
4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。
9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。
11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。
11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。
12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。
12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、22対1で大勝。
12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。
* 日本が全国的な凶作となる。
1935年
2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。
5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。
5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。
6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役1年2ヶ月の判決を受ける。
8. 上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。
11月9日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。
11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。
12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。
12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。
12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。
21日 上海婦女救国会が成立。
12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。
12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。
12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。
2016年05月24日作成
2024年03月20日増補
対中侵略と国内政治の流れ 年表、 年表 毛沢東のライヴァルたち 内山完造の動き
も参照されたい
1840年
1842年
6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。
44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。
44年
黄浦江流域にまずイギリス領事およびイギリス人の居留地が設けられる。初代イギリス領事としてジョージ・バルフォアが赴任。
1845年
11月 上海長官とバルフォア領事のあいだで第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。
イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な帯状地帯で、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。 |
49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。
49年 上海—ロンドン間の定期航路の運行が開始される。
1851年
1月11日 華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と名乗る。国家を名乗り、国号を「太平天国」と称す。
1853年
1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。
3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。
4.27 英国公使ボンハムが天京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。
5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。
5月 福建省の秘密結社「小刀会」が太平天国の影響を受けて蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除を宣言。
9月 農民軍「小刀会」が上海でも蜂起。「反清復明」を掲げ上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。
9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。清朝行政の機能はマヒし、各租界は自衛のための武装を固め、関税徴収も行なう。
1854年
4月 清軍が租界を攻撃。工部局は米英人居住者による義勇団(Shanghai Volunteer Corps )を組織し、これに対抗。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢したため、清側は300人の死者を出し撤退する。
7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、関税徴収をふくむ行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。
内容としては①イギリス租界の拡張、②中国人の雑居の黙認、③三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。
12月 小刀会追放を狙う清は、上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。英米はこれに応じず。
1855年
2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが共闘し、小刀会のこもる県城を攻略。残党は太平天国領に逃れる。
2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。
1856年
6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。
10月8日 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。広州の官憲がイギリス船籍の中国船アロー号を臨検し船員12名を拘束。イギリスはこれに難癖をつけ、フランスを誘って武力干渉した。
10月 英国、上海における治外法権を拡大強化。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。
1859年
6月17日 英仏の艦隊は天津で清軍の待ち伏せ攻撃を受けいったん撤退。
1860年
8月 李自成の率いる太平天国軍が江南地方に進出。第1次の上海攻撃を開始する。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。
10月、北京条約が締結される。英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で北京を占領。天津の開港、九竜半島の割譲、苦力貿易の公認などを飲ませる。キリスト教の布教活動が自由化され広がる。
10月 欧米諸国は、北京条約を受け清朝につき、太平天国に敵対するようになる。
1861年
「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。
1862年
1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。
5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。
5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。
6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組む。
高杉の『航海日録』: |
6月 曽国藩の軍が太平天国の首都天京を攻撃。これにより上海包囲軍はいったん天京に引き上げる。
7月5日 千歳丸、上海を立ち長崎に向かう。高杉は翌年に奇兵隊を組織し、馬関で挙兵。
8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。
62年 英租界の「工部局」会議が、南北道路に省名、東西道路に市名をつけることを提案。
1863年
3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。
9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。
1864年
7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。
1865年
4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。
5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。
1868年
戊辰戦争。日本が絶対主義天皇制に移行。
1969年
4月 『第三次土地章程』を発布する。一方的に決め中国側に押し付けたもの。工部局の機能を強化。警察、消防、衛生、教育、財務などあらゆる機能を果たす、完全な行政システムを成立させる。
①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②租界在住の中国人に対し租界内で裁く代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。
70年
パシフィック・メール社、上海—長崎—横浜間の航路を開設。
71年
大北電報公司が上海—香港間、上海—長崎—ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。
72年
1月 日本が領事館を開設。
73年 日本の岩倉使節団が米欧遍歴の帰路に上海に立ち寄り、市内を見学。
74年
5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。
75年
2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。
76年
7月 上海—呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。
81年
上海—天津間に電信線が開通。
82年
2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。
7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。
83年
5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。
84年
8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。
85年
日本郵船、三井洋行が支店を開設。
90年
6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。
8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。
* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。
93年
5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。
94年
3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。
8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。
1896年
1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。
96年 露清銀行が上海に出店。ロシア帝国の中国(清王朝)における権益を代表するために設立されたフランスの銀行。
下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際、それを露仏銀行団が引受けた。その後香港のユダヤ資本が上海に向かって全面的に移転。
97年
5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。
1898年
6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。
7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。
8月 上海—呉淞間に鉄道が開通。
20世紀
00年
9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。
00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。
01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。
1902年
4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。
1903年
4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。
6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。
04年
2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。
11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。
1905年
8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。
11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。
12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。
05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。
06年 パレスホテルが落成。
1906年の上海
1907年
1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」
4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。
6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。
07年(明治40年) 虹口の入り口のガーデンブリッジが鉄骨橋になる。橋の北側にはロシア領事館とアスターハウス・ホテルが並ぶ。
1908年
路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海—南京間に鉄道が開通。
9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。
1909年
10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。
1911年
辛亥革命
1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。
1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。
2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。
7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。
8月 江亢が社会主義研究会を組織。
10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。
10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。
11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。
11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。
11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。
11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。
12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。
孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。
1912年
1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。
1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。
2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。
3月 孫文、皇帝の退位を実現させた北京側の代表、袁世凱へ大総統の座を譲る。
3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。
5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。
7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。
11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。
1914年
4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。
8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。
1915年
3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。
9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。
10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。
11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。
12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。
12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。
15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。
1916年
5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。
5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。
6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。各地に軍閥が割拠する状態となる。
1917年
1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。
7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。
11月 ロシア革命が成立。
内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店
1918年
6.26 孫文が上海に戻る。
7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。
1919年
3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。
4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。
5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)。
6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。
6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。
7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。
9. 『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。
10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。
1920年
1. 公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。
4. コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。
5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。
8. 上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。
8.22 上海社会主義青年団が成立。
8. 『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。
9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。
1920年代の上海
11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。
* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。
1921年
1. 茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。
3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、5月17日まで市内各所を遊歴。
7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30日)。会場は李漢俊の家。
8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。
12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。
1922年
2. 平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。
7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23日)。会場は李達の家
8.13 上海最初のバスの運行が始まる。
8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。
10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。
* 上海工部局交響楽団(Shanghai Municipal Orchestra)が発足する。メンバーは租界に住む外国人とマニラからの呼び寄せ。
1923年
1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。
1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。
10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。
11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。
* 日本郵船が上海—長崎間の定期運航を開始。最強速力21ノットの快速客船長崎丸・上海丸が投入される。
* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。
1924年
1 国民党が国共合作を決定。
6 毛沢東が上海での生活を始める。
9 江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。
12 旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。
* 第5回コミンテルン大会。地域別書記局としてコミンテルン東方部が設定される。近東・中東・極東に分かれる。極東部がヴォイチンスキーの任務を引き継ぐ。
注:朝日新聞上海支局は大阪朝日新聞の所有であり、そちらに移籍しないと出張扱いにならなかった。当時の大阪は東京を凌ぐ商工業都市であり、発展の源は中国の広大な市場にあった。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動しているように見える。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。
本当の目的は「対象となる政府を誹謗中傷し、不安定化させることで、非民主的な『政権交代』を促進することだ。その政権こそ、一つあるいは複数の強国が望んでいる政府だ。人権産業に巣食う専門家グループは、そのような国々が用いる "ハイブリッド戦争"のシステムを担う兵器の一部なのである。
Ⅰ.グローバル・サウスとは何か?
A.
ヨーロッパ人にとっては外の世界は南の世界だった。南の人は「人の顔をした生物」だった。ヨーロッパが世界中を征服すると、南も東もみな、その隷属世界になった。
B.
第二次大戦後に植民地のほとんどが独立した。彼らは自らをグローバル・サウスと称し、旧支配国=グローバル・ノースと対抗しようとした。しかし植民地のくびきから逃れるのは容易なことではなかった。突出した南の諸国は、北による過剰報復の対象となった。
C.
その後、旧植民地は自らを東西どちらでもない「第三世界」と考え、北からの自立を図った。どちらの軍事同盟にも加わらない「非同盟」の考えも大きな勢力を締めた。
D.
東(ソ連・東欧)の崩壊と「第二世界」の終焉は「第三世界」という用語も消滅させた。しかし「発展途上国」などの従来の呼称は「西こそが文明と考える思想」でしかなかった。そこでグローバル・サウス(南の世界)という言葉が復活した。
E.
東の喪失は「新自由主義を唯一の選択とする世界」を強制した。巨大企業だけが自由を謳歌し、社会権や労働運動は後退した。無秩序な情報が氾濫し、歪んだ反抗としてファシズムが復活し、正しい反抗には厳しい軍事介入が待っていた。
F.
グローバル・サウスは、植民地支配の痛みの歴史、いまも苦しみ続ける対外債務のワナ、連帯してそれらと闘ってきた歴史という共通した母斑を持つ。南はぶれずに前を向いている。ぶれている余裕などないからだ。
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図Ⅰ 世界の植民地(時期を問わず表記)
http://spfjpn.com/senmin/archives/129より
図Ⅱ 第一、第二、第三世界 1980年前後
Wikipediaより
青:第一世界(資本主義) 赤:第二世界(社会主義) 緑:第三世界
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Ⅱ.50年前と一変したグローバル・サウス
グローバル・サウスという言葉が作られた頃から50年を過ぎ、南は飛躍的に発展し変容した。しかし北の干渉と収奪がむしろ強化されている側面もある。
A. 「グローバル・サウス」という用語は地理的なものではなくなった
北は歴史的に加害国であり、南はその被害国である。北の支配が強まれば被害国の範囲は東に西に、地域的枠組みを超えて広がる。逆に南の力も地域を超えて影響を強めている。中国やインドはグローバル・サウスではないが、南と肩を並べる存在となっている。ロシアも南の方向に動き始めている。
B.
「グローバル・サウス」はもはや無力な後進国ではない
北と南を世界政治経済における「中心と周縁の関係」と見るのは間違いだ。基本は歴史的加害国と被害国の関係だ。政治的干渉や過剰な収奪がなければASEANのように自主的に発展できる。
C. 「グローバル・サウス」の経済は北をしのぎつつある
2030年までに、 4大経済大国のうち3カ国がグローバル・サウスの国々になると予測されている。それは中国、インド、インドネシアだ。米国は3位に転落する。
すでにBRICS5カ国のGDP(購買力平価換算)は、G7諸国の総GDPを上回っている。グローバル・サウスは、「発展途上国」や「第三世界」の時代には決してなかった政治的・経済的力を持っており、今それを政治の世界でも発揮し始めた。
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Ⅲ.前進するグローバル・サウス
この間に一部のグローバル・サウス諸国は自己の産業基盤を確立したが、政治的には独自のシステムを持たず、北に対する衛星諸国に留まっていた。近年、これが3つの枠組みで組織され始めた。すなわち非同盟、非ドル化、多国間主義である。これらは欧米諸国と向き合うなかで形成された。これはグローバルサウスの量的にとどまらない質的深化である。
A.
非同盟運動:
1990年の第一次イラク戦争以来、米国は国連を無視して勝手に「同盟」を組織し武力干渉を続けてきた。とりわけ中東は全域にわたり破壊の対象となった。こうしたなかで非同盟は対米従属型軍事同盟に反対することに集約される。
B.
非ドル化:
貧富の差は南北格差に帰結する。リーマンショックから欧州金融危機と展開されるなかで、グローバル・サウスも大きな被害を被った。IMFの取り立ては容赦ないものだった。こうしたなかでドル支配(ブレトン・ウッズ体制)を打破することが至上課題になった。
C.
多国間主義
社会主義体制が崩壊するなかで、非欧米世界では小覇権主義が表面化した。それは個別に潰され、残された中国にも強い圧力がかけられた。こうしたなかで多極化論から多国間民主主義への転換が急速に進行した。それは域内大国と小国が手を結んで進む方式である。
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Ⅳ.アメリカ覇権主義とグローバルサウス
A.
「アメリカ第一主義」を掲げた新冷戦
トランプ政権は中国への敵意を剥き出しにした。同時にNATOの東方拡大政策でロシアを追い詰めた。さらに、中南米でも進歩的政権のほとんどを壊滅させた。バイデン政権はこれらを忠実に踏襲した。
B.
アメリカの覇権を支えるもの
このむき出しの覇権主義支配は、戦争も辞さない軍事脅迫、圧倒的なドルの力を背景にした金融制裁、市場からの排除の三本柱からなる。これに報道機関を通じた「独裁」攻撃が彩りを添える。いずれも国際法を無視した独断専行で、今や北のどの国も口出しできなくなった。結果として国連の権威は地に墜ち、南の発言力は失われた。
C.
南は地域連携主義と多国間主義で対抗
覇権主義に対する南の回答が地域連携主義と多国間主義だ。南の土台となる地域共同市場(ASEAN、上海協力機構、南米共同市場)が飛躍的に発展した。最初は実体経済の連携だったが、最近は現地通貨建て貿易の展開へと進みつつある。地域連携は国連・国際機関の民主主義ルールを前提とする。国際法無視の覇権主義は排除される。
多国間主義について特筆すべきは、中国の国際的立場の変化である。中国は21世紀に入ってからの高度成長を受け、一時は強国化論が主流になった。しかし欧米からの制裁攻撃を受け、ウクライナ戦争から学び、多国間主義の原点に復帰した。
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Ⅴ.グローバルサウスとウクライナ戦争 その1
ウクライナ戦争そのものは、ここでは扱わない。ただ現代史の上で重要なことは、戦争への態度が南北を分ける大きな分岐点になったことである。
A.
ウクライナ戦争を契機とする欧米諸国のつまづき
ロシアの武力侵攻は許せない行為だが、停戦合意(イスタンブール)を潰し武力対決を煽ったのはNATOであった。そもそもロシアを仮想敵とする冷戦の遺物、NATOの存在自体が国際法違反だ。武力対決は2年たった今も続き、解決の展望は見えない。しかし欧米諸国は停戦を拒否し、さらに強力な武器を送り込み、南には事実上のNATO支持を求めている。
B. グローバルサウスの離反
戦争の経過を見つめていた南側諸国は、戦争による勝利という路線に懐疑的となり、一刻も早い停戦を求めるようになった。国連決議を見ればわかるように停戦を求める決議には賛成するが、ロシアを糾弾する決議には棄権する。糾弾しても停戦は来ないどころか、かえって遠ざかってしまう、というのが南の素直な思いである。しかし北が支配するメディアは、彼らの意見をまったく報道せず、「それは親ロシアの主張だ」と烙印を押すばかりだ。
北の独りよがりで高圧的な態度には植民地支配者の面影が残っている。先住民の命は文明人の命とは比べ物にならない。それはガザ事態で我々の目に焼き付けられた。
続く
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表Ⅰ ウクライナに関する国連総会決議 一覧
決議の時期 |
決議内容 |
投票内訳 |
備考 |
2022年 03.02 |
ウクライナに対する侵略 |
141対5 棄権35 |
アフリカの賛成率 52% |
04.07 |
人権理事会の資格停止 |
93対24 棄権 58 |
アジア賛成28% アフリカ賛成19% |
11.14 |
ウクライナ侵略救済 |
94対14 棄権73 |
アジア賛成38% アフリカ賛成28% 中南米賛成36% |
こうして2023年2月の1周年決議(脅迫的投票組織が話題になった)を最後に、もはや決議案の提出さえできなくなっている。北の圧力が強まれば棄権に回るが賛成には回らない。
この表は参議院事務局企画調整室のレポートから作成したが、そこでは次のように結ばれている。
「このようなウクライナ情勢に関する国連総会決議をめぐるグローバル・サウスの対応は、
今後、日本がグローバル・サウスへの関与を強めていく上で、各国外交の動向を丹念にフォローしていくことが重要であることを改めて示していると言えよう」
表Ⅱ 国連総会のガザ決議
決議の時期 |
決議内容 |
投票内訳 |
備考 |
2023年 10.27 |
ガザでの敵対行為の停止 |
121対14 棄権44 |
日英独伊加など棄権 |
12.12 |
ガザでの即時の人道的停戦 |
153対10 棄権23 |
北で反対は米国、イスラエル、オーストリア、チェコのみ |
「国連憲章を守るというただ一点で結集する」ならどうすべきか、は明白だ。
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Ⅵ.グローバルサウスとウクライナ戦争 その2
C. ロシアが生き残った理由
ロシアは必死の思いで戦争を始めた。NATO諸国による生死に関わるほどの制裁が待っていたからだ。まず海外の預金は凍結され、事実上没収された。原油・LPGさらに農産物と肥料の貿易も制限された。食料・エネルギーの禁輸は、それに頼っていた南の人々を直撃した。その結果多くの転売ルートが開かれ、ドルを介さない交易が始まった。その際有力な信用を提供したのが人民元であった。
例えば昨年度ロシアの小麦輸出はなんと過去最高だ。その際有力な信用を提供したのが人民元であった。これらの動きは連動し、北の影響を受けない南南ルートの開拓に繋がった。ロシアが経済を維持できているのは、南との物心両面に渡る接触が続いたためだ。
D. 持続可能なプラットフォームへの発展
これらのコネクションが持続可能なシステム(BRICSを含む)となるためには、3つの課題がある。すなわち、①エネルギー・食料供給と物流の管理、②グローバルな金融・開発システムの管理、そして③平和と安全保障のための「開かれた制度」である。なかでも
③の課題は目下きわめて切実な課題となっている。異質な君主制国家や宗教性国家が加入し、他の国がこれを歓迎した理由もそこにある。
このような地域横断的共同体としては、BRICSの他に上海協力機構*があるが、今回は省略する。(* 中、ロ、中央アジア4カ国、インド、パキスタン、イラン)
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Ⅶ. BRICS: 「南」を超えたグローバルサウス
A. 注目されたのはウクライナ開戦の後
BRICSそのものはすでに今世紀初頭に立ち上げられている。それが注目をあびるようになったのは最近のことだ。流れとしてはこうなる。
これまで中国が積み上げてきた「一帯一路」交易ルートに、ロシアの資源供給力を乗せることで、太い物流が形成された。人民元に現地通貨を組み合わせた信用決済システムが出来つつある。そして国家レベルの支えとして、北の支配から独立した大国による連合BRICSの役割が急浮上した。
B. これまでの共同体とは次元が異なるもの
第一に、これまでの南の共同体は地域が単位であったが、BRICSは文字通りグローバルである。第二に、これまでは市場の相互開放が主要な目標であったが、BRICSは資源・食料から流通、金融、開発までを含め包括的だ。第三に、参加希望国が列をなしていることにも表されているように、文化・価値観を含めインクルーシブだ。第四に、域内大国の交流を基礎とする実務的諸関係を土台としている安定性だ。
C. 持続的勢力となるかは今後の課題
国際司法裁にジェノサイド条約違反を提訴した南アには、BRICS議長としての重みがあった。しかし通貨危機を仕掛けられたアルゼンチンが親米派に乗っ取られるなど、新興組織ならではの不安定要素を持つ。従来型の南の諸国、諸組織による支えが必要である。
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補 グローバルサウスと非戦
A. 国連中心主義と非戦思想
南の諸国はこれまでも非核・非同盟を掲げて運動してきた。しかし非戦の旗印は必ずしも明確ではなかった。多くの国で、過去の独立運動が武力革命にならざるを得なかったためである。
しかし各々が国家として独立した以上、すべての紛争は国際法を通じて平和的に解決すべきである。これを国連中心主義といい、バンドン宣言の骨子ともなっている。その中核は非戦思想である。
B. ウクライナ戦争と非戦思想
ウクライナ戦争で賛否が問われたとき、南は「停戦こそが正義」と考え、戦いへの支持を呼びかける北の提起に賛同しなかった。数次にわたる総会決議を通じてこの考えは南の共通意思となった。
とくにNATO側がクラスター爆弾、劣化ウラン弾など「非人道兵器」を逐次投入するようになって、北の人々の中にも戦争継続への不安が高まっている。
C. 日本国憲法と非戦思想(以下は私見です)
「非戦」は平和を目指すのとは違い、選択と決断を迫る。日本は最後に本土決戦を断念し連合軍を受け入れた。この事実から戦後日本は出発し、「国家は戦争をしない」ことが合意となった。それが国家としてのギリギリの立ち位置である。
40年前、北海道新聞の新年号に掲載された森嶋通夫氏の「白旗・赤旗」論は、当時の“仮想敵国”であるソ連を念頭に置いたもの。徹底的に戦争回避策を追求した上で、
…いずれにせよ最悪の事態が起これば、残念ながら日本には一億玉砕か一億降伏かの手しかない。玉砕が無意味なら降参ということになるが、降参するのなら軍備はゼロで十分だ。
…不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるよりほかない。34年前に米軍を迎えたように、である。
戦中派らしくややニヒルであるが、「わたしゃきれいごとは言わないよ」と言いつつ、見事に本質を切り裂いている。
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染色体の時代(19世紀)というのは、顕微鏡が開発され細胞を一生懸命観察した時代である。だからほとんど形態学的記載に終始している。それだけのことをひたすら突き詰めて、細胞核に遺伝を司る中枢があること、減数分裂や有糸分裂によって生命が受け継がれていくことを明らかにした。しかしメンデルの法則を知らなかったために、遺伝の本質がわからないままの手探りの歩みであった。
1842 ネーゲリ、細胞分裂を初めて光学顕微鏡にて観察。核内に塩基性色素に染まる物質を発見。後にフレミングによりクロマチン(染色質)と呼ばれる。
1855 フィルヒョウ、細胞は既存の細胞の分裂によってのみ生じると主張。
メンデル以前の常識:遺伝物質は液性物質と考えられていた。しかしそれでは隔世遺伝が説明できない。「劣性遺伝子は顕性世界から潜るが、混じり合わずに残る」と考えるべきである。
1865 メンデルがエンドウの交配実験を行い、結果について解釈。各遺伝形質(単位形質)に対応する遺伝因子が存在すると想定した。
① 遺伝を決めるものは、混じり合わない粒子である…「遺伝子」概念の確定。
② 遺伝子は優性(顕性)と劣性(潜性)に分かれ、それぞれが対になっている。
③ 劣性遺伝の表現型は1代目では消失し、2代目で再現することがある。(分離の法則)
これは劣性遺伝子が、「隠されるが混じり合わない」ということを意味する。
(詳細はABO血液型でおなじみなので省略。マライア・キャリーが黒くない理由 を参照)
*Gregor Johann Mendel:ブルノのアウグスチン修道院の修道士。
1868 チャールズ・ダーウィンが形質遺伝に関する仮説「パンゲネーシス」を提起。細胞には自己増殖性の粒子である「gemmule」が含まれ、血管や道管を通して生殖細胞に集まり、それが遺伝すると考えた。ダーウィンはメンデルを一生知らずに終わった。
1869 スイスのフリードリッヒ・ミーシェル、細胞核中からリン酸塩を含む化学物質(ヌクライン)の抽出に成功。物質としては今日のDNAに相当する。当時彼はリンの貯蔵形態と考えた。
1876 オスカー・ヘルトウィッヒ、ウニの受精を観察、減数分裂の際に染色体が減少することを発見。減数分裂と名付ける。ヴァン ベネデン、染色体が結合する仕組みを発見。遺伝における細胞核の役割を明らかにする。有糸分裂の本態に迫る。
(クロマチン: 現在ではまったく無用の概念である。DNAにヒストンがつくことで球状の構造(ヌクレオソーム)が作られる。これがリンクされて可染性の鎖状物質となる。日本語では染色質と呼ばれる。これが有糸分裂時には23個の棒状構造となり、これが染色体=クロモゾームと呼ばれる。これも覚える必要のない概念で受験生を悩ませるためにのみ存在する古語である)
このほか有糸分裂の発見をあわせた3つを「19世紀後半のドイツ生物学の三大発見」と称する。(英語版Wiki)
1882 ヴァルター・フレミング、ミトーシス(有糸分裂)の詳細を観察。核内に染色体=クロモゾームを発見。
1883 ヴァイスマン、体細胞分裂と生殖細胞結合(有糸分裂)の違いを明らかにする。
ヴァイスマン (1834 年 1 月 17 日 – 1914 年 11 月 5 日): ダーウィンの進化論を受け入れ、ドイツにおける主要な紹介者となった。彼は生殖細胞理論(ワイズマン主義と呼ばれる)を提唱した。多細胞動物における遺伝は生殖細胞によってのみ行われ、体細胞は、遺伝の主体として機能しない。ラマルクの「獲得特性の継承」は否定され、生殖細胞の突然変異を生じる原因は、環境の変化そのものとされる。
1883年 フランスの植物学者アンドレアス・シンパー、葉緑体の起源に関連して、2つの生物の共生という概念を提唱。緑色植物は葉緑素を含む生物と無色の生物との共生関係からできたと主張。
1888 ヴァルダイヤー、細胞分裂の際にクロマチンが凝縮し、棒状の塊を形成することを報告。染色体(クロモソーム)と名付ける。Chromosome とは「色のついたからだ」を示すギリシャ語。
図1 染色体
1902 25歳の大学院生ウォルター・サットン(米)、バッタの生殖細胞で「染色体」を発見。生物が減数分裂すること、遺伝を決める因子が染色体上にあると主張、Genetic Factor と名付ける。その後彼は研究から離れて外科医となる。
1908 コロンビア大学のトーマス・ハント・モーガンら、ショウジョウバエを用いた遺伝学研究を開始。遺伝因子は複数存在すること、相互に独立していることを発見する。それらの遺伝因子は染色体上の一定の部位にに組み込まれていることが確認された。
1911 ウィルヘルム・ヨハンセン、サットンの「染色体上の遺伝因子」をダーウィンのパンゲン にならい「gene」(遺伝子)と呼ぶことを提案する。
遺伝子という単語は概念をたびたび変えており、現在ではDNAのうちタンパク質合成に対応する領域を遺伝子と呼ぶ。ゲノム学で言えばエクソンに相当する。ただしそれ以外の部分も遺伝に関与していることが知られており、いずれ死語化するであろう
。
1920 モーガンら、ショウジョウバエの染色体を研究。ユニークな方法で染色体上に多くのジーンが載っていることを証明する。染色体とジーンの関係についての議論が引き起こされる。
1920 ドイツの植物学者ハンス・ウィンクラーがゲノムなる言葉を造語する。後にウィンクラーはバリバリのナチスとなる。学的業績はとくにない。
ウィンクラーは、「ジーンと染色体を無理に分けずに複合体と仮定して議論を進めたほうが生産的」と主張したのではないか。であれば、ウィンクラーのいう「ゲノム」は、遺伝子(gene)+染色体(chromosome)という解釈が素直である。
1921 染色体の本体をアミノ酸連鎖とするモデルが提起される。遺伝子はポリペプチドで、それをテトラヌクレオチドが保護しているとされる。(染色体の“本体”とは要するにDNAのこと。ポリペプチドは多数のアミノ酸がペプチド結合によって連なった化合物をさす)
後に染色体の意味は拡大解釈され、形態や細胞周期に関わらず、DNAとそれに結合するタンパク複合体一般を指すようになった。これを「広義の染色体」と呼ぶ。
「広義の染色体」においては、DNAがヒストン(タンパク)を巻き込むように存在する。これをヌクレオゾームという。これが連珠状に連なり、染色体を構成する。この場合はゲノムの枠には収まりきらない。この分野の学問がmultidisciplinary であるがゆえの宿命ですね。
1922年 モーガンら、ショウジョウバエの4つの染色体上に座している50個の遺伝子の相対位置を決定。
1926 モーガン、『遺伝子説』を発表。遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子であると主張する。1928 グリフィス、肺炎連鎖球菌における形質転換現象を発見。遺伝情報が転移できることを示唆。
グリフィスは有毒肺炎球菌を加熱して注射した。死滅した有毒菌は病原性を示さなかった。つぎにこれを生きた無毒菌と混ぜて注射すると、豚は肺炎を発症し死んだ。つまり生きた無毒菌の菌体内に有毒菌の遺伝子が入り込み菌を有毒化させたことになる。これを形質転換と呼ぶ。(遺伝子が耐熱性であることを証明した実験でもある)
*グリフィスの実験は後のアヴェリーの実験と合わせて、遺伝子が核酸であることの証明となった。
1929 レヴィーン、核酸にはDNAとRNAの2種類あることを発見。
1930年 木原均、ヴィンクラーのゲノムに関する定義を検討、「生殖細胞に含まれる染色体のセット」とする。遺伝子の存在も確定しない時代の提起であり、有用性は疑問(「ゲノム分析」を参照のこと)。
1932 透過型電子顕微鏡(TEM)の製造が開始される。バクテリオファージT2などが観察されたが、染色法の開発が遅れたため、実用価値はあまりなかった。
1933年 モーガン、染色体説の確立によりノーベル生理学・医学賞を受賞。しかし一方で、遺伝子の実体は不明のままだった。
1934 カスパーソン、DNAは生体高分子であり、これとタンパクが結合して染色体を構成すると発表。ポリペプチドがDNAの本体であるとする「テトラヌクレオチド説」は否定される。
1936-37年頃 日本国内で、〈gene〉に対し,〈遺伝子〉という語をあてるようになる。
当時のジーンの常識に照らして、適切な訳語であったが、ジーンという単語そのものに「遺伝」というニュアンスはない。これが後にゲノム概念を導入するに際し混乱を生んだ可能性がある。遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子というモーガンの“モノ的理解”は当時の最高教義であったと理解すべきであろう。
1944 アベリー(O.T. Avery)ら、肺炎双球菌の研究中に形質転換現象を確認。その後グリフィスの実験をさらに工夫。耐熱残存物の本体がDNAであることを証明した。これを『DNAが遺伝物質であることの実験的証明』として発表。遺伝子の正体がDNAかタンパク質かの論争に決着をつける。さらにDNAが遺伝する化学的物質であると示唆した。
遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子ではなく、まさにDNAそのものだった。しかしそれは謎に対する答えではなく、さらに大きな謎「なぜDNAが遺伝を担うのか」の入り口だった。
1950 E. Chargaff、DNAはAとT、およびGとCの間が水素結合によって結ばれ二つのポリヌクレオチド鎖が向き合っていることを示唆した。
1952 F. Sanger ら、インシュリンの完全なアミノ酸配列を解明。これによりタンパク質がアミノ酸の連結したものであることが確定された。
1952 ハーシェイとチェイス、ファージ(DNAウイルス)が大腸菌に感染するに際し、核酸が菌体内に入ることを確認。DNAが遺伝子そのもの(の一部)であることを直接に確認する。
1952 D.M. Brownら、DNAが五炭糖、リン酸および塩基から成るヌクレオチドの連鎖体(ポリヌクレオチド)であることを証明。
核酸はポリヌクレオチドである。五炭糖にはD-リボースとデオキシ-D-リボースの2種があり、それぞれRNA、DNAとなる。塩基にはA,G,C,U,Tの5つがある
1953 J.D. Watsonと F.H.C. Crick、2重らせん鎖から成るDNAの模型を提唱。
1956 コーンバーグによりDNAポリメラーゼが発見される。DNAポリメラーゼを用い、試験管内でヌクレオチドを重合することによりDNAを合成することに成功。大腸菌のDNAポリメラーゼは5種類、ヒトの細胞は約15種類ある。この発見により、DNAが元のDNAの鋳型から作られることが明らかになる。
1956
1956 タバコモザイクウイルスRNAに関する研究。化学的には純粋な核酸であるが、感染力があり、遺伝的能力をもつことが証明される。
1958 Crick、mRNA翻訳の際、アミノ酸がヌクレオチドを含むアダプター分子によって鋳型に運ばれること、アダプターがmRNAと相補していることを示唆し、 tRNA(transfer:運び屋) の存在を予言する。
1958 クリックがセントラルドグマ(Central dogma)を提唱。遺伝子は(世代継承ではなく)タンパクを作るための情報として位置づけられる。
1959 リボソームがタンパク質合成の起こる場であることが証明される。リボゾームは粗面小胞体の膜の表面に付着した小さな顆粒。細胞1個には約2万個のリボゾーム粒子が存在する。分裂の盛んな胎生期の未分化細胞には遊離のリボゾームが多い。
1959 E. Freese、DNAの一対の塩基対の変化により突然変異が起こると提唱。トランジション(塩基転位)およびトランスバージョン(塩基転換)と名付ける。
1960 DNAの二重鎖が分離・再結合することが発見される。
1960 核酸塩基の一つアデニンが、青酸アンモニウムの濃縮溶液から生成される。
1961 JacobとMonod、遺伝子発現の制御機構について論究、タンパク合成をコードする遺伝子の他に、合成過程を調整する遺伝子(オペロン)が存在すると主張。オペロン説と呼ばれる。
1961 Crickら、遺伝暗号(コドン)の解読。アミノ酸20 種類の情報をつたえる遺伝子が三連文字(triplet)であることを示す。
mRNAの塩基配列をコドンという。1 つのアミノ酸は mRNA の連続した塩基 3 個 1 組の配列によって規定され、この 3 個 1 組の塩基配列をコドンと呼ぶ。従って、コドンは 43 = 64 種類存在する。
1962年 ツメガエルで卵に細胞核を移植し、クローン作成に成功。
1962 リンパ球にT細胞とB細胞の差があることが発見される。。
1962 Watson and Crick、DNAの構造に関する研究により、ノーベル医学生理学賞を受賞。
1962 葉緑体がDNAをもっていることを発見。2年後にはミトコンドリアからも独自のDNAが単離される。(後に葉緑体は多細胞生物内に共生するシアノバクテリアであることが明らかになる)
1965 ヒトの二倍体細胞の in vitro の寿命は、およそ50回分裂までで終了することが発見される。
1965 S. Brennerら、ポリペプチドの末端を指示する暗号(コドン)はUAGとUAAであると推論。
1966 遺伝暗号の仕組みが解明される。A・G・C・Tの4種類の塩基のうち3つを使った“3文字言葉”(コドン)によって、アミノ酸の種類を指令する。
1966 脊椎動物のDNAは多くの反復ヌクレオチド配列を含むことがわかる。
1966 tRNAが、リボソーム上でのポリペチド鎖形成の起点となっていることが発見。
リボゾームは、tRNAを呼び込み、結合する。そのtRNAは三塩基に対応するアミノ酸と結合している。そうするとtRNAの体側にアミノ酸の連鎖が形成されていく
1967 羊水穿刺を行い、そこから得られる胎児の細胞で、遺伝病を診断できることが報告。
1967 mRNAが両側のDNA鎖から生じることが明らかになる。
1968 Okazakiら、新しく合成されたDNAは多数の断片を含む。これらは、短鎖DNAとして合成された後、互いに連結される。
1968 Hubermanら、哺乳類の染色体は、おのおの長さ30μmの単位より成り、独立して複製されることを明らかにする。
1970 酵母のアラニンtRNA遺伝子の全長の合成に成功。
1970 M. Mandelら、塩化カルシウム処理した大腸菌の細胞内にファージDNAを導入することに成功。トランスフェクションと呼ばれる。
1970 制限酵素 HindIIIが分離される。DNAの配列の近くでDNAを特異的に切断する酵素。翌年にはHindIIIを使ってDNAを切断、断片化し、DNA断片の物理的配列を組み立てることに成功。
1972 ベクターDNA分子と外来DNA断片の末端に、ホモポリマーを付加する事によって、DNA分子を結合する方法が開発される。
1972 ユーグレナの葉緑体DNAが、シアノバクテリアのリボソームRNAと相同性を示すことを発見、葉緑体がシアノバクテリアの子孫であることを示した。
1973 ショウジョウバエの翅の成虫原基で、発生過程に従った区画化が起こることが発見される。
1974 RNAレプリカーゼの存在下で、ヌクレオチド・モノマーからRNAが生成することを発見。別の研究でRNAはRNAレプリカーゼの存在なしでも複製することができること、このとき亜鉛が複製過程を補助することが示された。
1974 大腸菌rRNAの3'末端にmRNA上のタンパク質合成の停止と開始コドンが存在することが判明。
1974 熱ショックにより、ショウジョウバエに6種の新しいタンパク質が合成されることが報告される。
1974 酵母ミトコンドリアでゲノムの組換えと分離が起きることが明らかとなる。両親由来のmtDNAが他方と対合し、組換え体を生じる。
1975 サンガー、DNAの塩基配列決定法を確立。DNAシークエンシング法と言われる。DNAポリメラーゼを用いて、 DNAに結合したプライマーからDNA合成を行わせる。これにより塩基配列を決定する。(方法は読んでもさっぱりわからないので省略)
1975 分子生物学者が世界中からカリフォルニア州アシロマに集まり、組換えDNA実験を行うにあたっての研究指針を定めた歴史的規定書を作成した。
1976 ヒト成長ホルモン遺伝子を大腸菌の中で発現させることに成功。
1976 遺伝子工学のGenentech会社が設立される。
1977 アデノウイルス-2のDNA断片から、多種類のmRNAが合成されることが報告。現場でさまざまな組み合わせの選択的スプライシングが起きていると判断される
1977 サンガーら、シークエンシング法を用いて PhiX174ウィルスの全塩基配列を解析し、全を確定した。
1977 哺乳動物のインスリン、インターフェロンを大腸菌で合成させることに成功。翌年にはインシュリンの商業生産が開始される。
1977 前駆体mRNA中に、タンパク質をコードしない介在配列(イントロン)が存在していることが報告される。その後、遺伝子領域にも介在配列の存在が報告された。
とりあえずこれ以上の説明は避けるが、「CDSとORFはほぼ同義と考えてよい。遺伝子(gene)もシストロン(cistron)もほぼ同義である」そうである(大阪医大細菌学教室)。
遺伝子配列のうち遺伝情報がコードされている部分をエクソン(翻訳配列)といい、遺伝情報がコードされていない部分をイントロン(介在配列)という。mRNA前駆体(最上列)はスプライシング(編集)によって長さが縮小され完成型mRNAとなる。
1978 カン、DNA解析を用い鎌状赤血球症の出生前診断に成功。
1978 T. Maniatisら、遺伝子の単離法を開発。真核生物DNAの遺伝子ライブラリー作成に着手。
1978 D.J. Finneganら、ショウジョウバエのゲノム上に散在している反復DNAの詳細な解析を行う。
1980 米国最高裁判所は、遺伝学的に修飾された微生物の特許を法制化。これに基づきGE社は石油の油膜を分解する微生物の特許を取得。
1980 受精卵にクローン化した遺伝子を直接注入することで、初めてトランスジェニックマウスの作成に成功。
1980 DNAマーカーを利用した遺伝子マッピング法が開発される。さらに核酸プローブを利用して遺伝子を染色体上に正確に同定することも可能になる。
1981 ヒトミトコンドリアの全ゲノム配列(17,000塩基)と遺伝子構造が決定される。
1981 L. Margulis、「ミトコンドリア、葉緑体などは、真核生物の祖先に共生体として組み込まれた原核生物である」と提唱。
1981 b・hGHの臨床験がはじまる。1976にはGH遺伝子を79年にはhGH遺伝子を、大腸菌の中で発現させることに成功していたが、生物学的活性を発現させるための工夫が必要であった。
1981 ラウス肉腫ウイルスの腫瘍化を起こす性質は、v-src 遺伝子によってコードされていることを示した。
1982 Eli Lilly 社、組換えDNA技術を用いて製造したヒトインシュリンを販売開始。
1982 米国生物工学情報センターによる塩基配列のデータベース(GenBank)の作製が始まる。日本DNAデータバンク(DDB)もプロジェクトに参加。
1983 ガゼラ、DNAのポジショナル・クローニングによりハンチントン病の遺伝子主座が第4染色体のG8領域にあることを発見。CpGアイランドと名付ける。その後この部分に塩基配列の過誤が発見される。
1983 SV40のがん遺伝子、v-sisは、血小板由来増殖因子(PDGF) の 遺伝子に由来することが分かる。
1984年 ヒトゲノム計画が最初に提案される。ヒトゲノムの塩基配列の解読を目的とする。
1984 パルスフィールド電気泳動が導入される。大きなゲノム断片を分離することが可能になる。
1984 ショウジョウバエのホメオティック遺伝子におけるホメオボックス配列が、マウスにも存在することを示した。この事実はDNA断片の基本的な機能の重要性を示す。
1985 Randallら、遺伝子断片を増幅させるポリメラーゼ連鎖反応(PCR)を応用。DNAの大量複製によりDNAの同定、鑑別が可能になる。
1985 "普遍暗号"では終止コドンに相当するものが、ある種の線虫や細菌では、アミノ酸をコードしている(使いまわし)。
この事もふくめ、遺伝情報コドンは普遍であるという考えが放棄された。検索対象を「遺伝子」に絞ることは明らかに無意味となった。
1986 螢光シークエンサーの開発。塩基を蛍光物質でラベルしレーザー光で検出するもの。オートラジオグラフィー操作が不要となり、速度が数百倍に向上。全自動かつ高速の検出装置が普及しゲノム解読の自動化と効率化がすすむ。
1986 がんウイルスの研究者レナート・ダルベッコ,サイエンス誌に「ヒトゲノム解析計画」への支持を表明。「個々の遺伝子をばらばらに研究するのではなく,ヒトのゲノム全体を研究することが必要だ。そのためにヒトゲノムの配列を全部決定するのが早道」と提唱。
新しいゲノム概念はコーディング領域(遺伝子領域)とノンコーディング領域に分けられる。ノンコーディング領域は、当初はジャンクDNAと呼ばれていた。現在は遺伝子発現調節情報、RNA遺伝子などが発見され、未解明の生体情報が含まれることが明らかになっている。
1987 酵母人工染色体(YAC)が開発される。これを用いてゲノム断片をクローニング(塩基配列決定)することが可能になる。
1987 ミトコンドリアDNAについて塩基配列の相違を比較した。構築された系統樹によると、現存するすべてのミトコンドリアDNAは、原史のアフリカ女性「イブ」を共通祖先としていることが示された。
1988 電気泳動をゲル状ではなく細管内で行うマルチキャピラリシステムが開発される。これを組み込んだDNAシークエンサーは泳動のための準備が不要で、無人で24時間稼働させることが可能となる。
1988 アメリカでヒトゲノムプロジェクトが正式に発足。この時点で約400種の遺伝子の位置が判明していた。
1988 ハーバード大学が、実験的発癌マウスに対する特許を取得。遺伝的に改変した動物に対して、初めて特許が認められる。
1989 ヒトゲノム計画の国際連携を図るため、日米欧の研究者によりヒトゲノム国際機構(HUGO)が設立される。
1989 マイクロサテライトマーカーが発見される。これによりゲノムマッピングのためのDNAマーカーが容易に入手可能となる。
1990 ヒトゲノム解析プロジェクトの開始。当初は30億ドルの費用と15年の年月が予想された。
1990 ヒトで初めて遺伝子治療に成功。欠損酵素を持つレトロウイルスのベクターを培養し、形質転換細胞を患者に再注入。細胞は増殖し欠損酵素を産生した。
1990 D. Malkinら、ヒトのすべてのガンの50%にp53変異があることを明らかにした。また野生型p53遺伝子がヒトのガン細胞の増殖を抑えることを示し た。
1991 遺伝子データベースのコンピュータによる運用が開始される。この頃多くの疾患関連遺伝子が同定される。
1991 ヒトゲノムプロジェクト(ヒトゲノムの塩基配列の解読作業)が始まる。
1991 日本・欧州を中心に枯草菌のゲノム解析が始まる。6年後に420万塩基対の解読を完了。
1994 フランスのヒト多型研究所、完全なヒトゲノムマップを作成したと報告する。ヒトゲノムの全体を網羅する「物理地図」がほぼ完成,文字配列の解読が詰めの段階に入る。
1994 ベンターら、独自の方式で3万以上のヒト遺伝子を同定。「ネイチャー」誌に発表する。
1995 米国のクレグ・ヴェンターら、全ゲノムショットガン法により、180万塩基からなるインフルエンザ菌ゲノムの解読に成功。あらゆる生物で初めて全ゲノム配列が確定される。その後大腸菌や枯草菌など10種類以上の細菌でも解明される。
1995 核酸プローブの高密度アレイを利用するDNAチップが登場。膨大な遺伝子を同時かつ系統的に解析することが可能になる。
1996 単細胞の出芽酵母のゲノム配列が決定される。
1995 インフルエンザ菌の全塩基配列を完成。引き続きマイコプラズマも。
1996 古生物Methancoccus Jannaschiiのゲノム解析。ほとんどの遺伝子は、他の生物と共通していなかった。
1996 ホメオボックス蛋白は、特定のmRNAの標的配列に結合して、翻訳をコントロールすることが示される。
1997 ユネスコ,「ヒトゲノムおよび人権に関する世界宣言」を採択。ゲノム研究で得られた知識の扱いについて倫理的な問題が浮上する。
1998 多細胞生物として初めて線虫の全ゲノム配列が発表される。単細胞から多細胞への進化の謎にアプローチ可能となる。また受精卵から個体へという動物の個体発生についても手がかりとなる。
1997 クローン羊ドリー誕生
1998 ベンター,全ゲノムショットガンで1億2000万塩基からなるショウジョウバエゲノムの全ゲノムを解読。新型のDNAアナライザー「ABI PRISM3700」が導入され、飛躍的に解析がスピードアップされる。
1998 ベンターが「セレラ・ジェノミクス」社を設立。人の全ゲノムを3年以内に、3億ドル以下で解読すると宣言。
1998 結核菌の全ゲノム配列が決定される。遺伝子の総数は約4000個で,その8割以上についての機能も予測される。
1999 ヴェンターら、ヒトゲノムの塩基配列を、全ゲノムショットガン法で読みとる作業を開始。まもなくヒトの第22番染色体のゲノムが解明された。翌年には第21番染色体のゲノムも解明。
2000年6月26日 クリントン大統領が記者会見。ドラフト配列の解読を終了したと宣言。実際はNIHはまだ90%段階に留まっていた。
2000 リボソームの構造解析。
2001 ヒトゲノムの全解読結果の「第1予稿」(ドラフト)がネイチャー誌に発表される。この時ベンターは99%成功していたという。
2003年4月14日 ヒトゲノム約30億塩基対の解読完了が宣言される。この時点でのヒトの遺伝子数の推定値は3万2615個。
2003 ヴェンターら、大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功。
2004 ヒトの遺伝子数の推定値が2万2287個に訂正。以降も定期的に修正報告がなされている。
2005 次世代型シークエンサーの普及。
2006 マウスiPS細胞の樹立(山中伸弥)
2007 酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築することに成功。
2010 人工ゲノムの細菌への導入に成功。初の合成生命が誕生する。
遺伝子操作はゲノム解読の技術と情報をもとに進められている。操作には次の3つの柱がある。
①クローニング:対象遺伝子を担うDNAを増殖する
②シークエンシング:遺伝子の配列を読む
③過剰発現:解読した遺伝子をタンパク質に翻訳する
2012 シャルパンティエら、ゲノム編集の技術「CRISPER/Cas9」システムを開発。
2015 第3世代型シークエサ-の普及。これにより主要な生物種のゲノム解読はほぼ終了。
2015 中国で「ゲノム編集ツール」を使ってヒト胚のDNAを改変する研究が行われる。ネイチャー誌は「非倫理的研究だ」として厳しく警告。
ゲノム編集: これはDNAの二本鎖切断(DSBs)と、その修復という二つの過程よりなる。標的へのターゲティングとDNA切断にはCRISPR-Cas あるいはTALENが用いられる。修復には二つのパスがあり、相同性組換え(HR)あるいは非相同性末端結合(NHEJ)と呼ばれる。 非相同性末端結合においては、いやおうなく欠損が生じるため、対象となった不良遺伝子はノックアウトされる。 |
ロシア産小麦はたんに輸出量を増やしているだけではない。その間にウクライナは供給不安を抱え、もう一つの小麦輸出国である豪州が天候不順により不作となっている。したがってロシア産小麦は絶対量を増やすだけでなく、世界の小麦輸出に占める割合も高めている。その比率は24%にまで達し、国際価格に対する決定力を握るにまで至っている。最大の輸出国の一つイランでは、ロシアから輸入した穀物の量は、前の年と比べておよそ1.5倍、侵攻前のおととしと比べておよそ2.5倍に増えている。主な輸送ルートはカスピ海経由の船舶航路だ。イランの担当者はNHKの取材に対して、「大事なのは取り引き先の国の要望に沿うことなので、私たちは、ロシア側の求めにもっと応える用意がある」と話している。それは具体的には、イランの先の湾岸地域へ転売することのようだ。それだけではない。帰りの船にはさまざまな物資が積まれ、ロシア経済にとってなくてはならない輸送ルートとなっている。
こんにちは
ふじ子の接吻はどうみても創作でしょう。
築地が9時40分で11時には皆帰り家族は寝てふじ子と江口の二人きっりとなったは笑えるレベルです。
だいたい昭和8年なら阿佐ヶ谷に到着は11時頃でしょう。
* 恋猫の 一途 人影 眼に入れず
* ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫
逮捕の直前まで二人は短く過酷でかつ濃密な生活を「麻布二の橋、三の橋」あたりの隠れ家を転々として過ごしていました。後年多喜二忌に際して、ふじ子がメモ帳に書き留めた句です
* アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌
* 多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋
これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。