鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。


残念ながら、日本語のテキストが圧倒的に不足している。

目下のところは乏しい資料の中から読み解いていく他ない。

1.オランド「左派政権」の自壊と極右の伸長

リベラル勢力の希望を担って船出したオランド政権だったが、就任していきなりのリーマンショックはあまりにも過酷だった。

結局のところ、オランド政権はEUとECBの言うなりに、厳しい経済引き締め策を担わざるを得なかった。政権の実行したことはすべて就任時の公約と逆方向であった。そして逆コースの先頭に立ったのがほかならぬマクロンであった。

政権末期、オランド政権の人気は地に落ちた。昨年の10月行われた世論調査ではオランドの支持率はなんと4%に過ぎなかった。メディアは「4%の人」と揶揄した。

一方で不満層を取り込んだ極右、ネオファシストの人気はうなぎ昇りとなった。

14年の欧州議会選挙は衝撃的だった。国民戦線は25%の得票を獲得し首位となった。その後も各種選挙で25%前後の得票を維持し続けた。左翼はもっとも依拠すべき人たちの支持を失った。

貧困層、労働者・農民などかつて左翼の強固な地盤だった階層が極右に雪崩を打って流れ込んだ。それはアメリカ中西部の「錆びたベルト」地帯の労働者が、一転してトランプの強固な支持者となったのと同じだった。

彼らは絶望のあまり敵を味方と取り違えたのである。

オーストリアでもオランダでも、極右が政権獲得の勢いを示した。今や欧州を極右、トランプ派が席巻しようとしていた。

2.「野党共闘」の兆し

16年11月、大統領選挙を半年後に控えて共産党のロラン党首は思い切った方針を打ち出した。社会党を離れ独自会派「屈しないフランス」(ラ・フランス・アンスミーズ)を結成したメランションを推すことを提起したのである。

それはファシズムの再来に対する深刻な危機意識の表現であったが、現場活動家にはそれは浸透しなかった。これまで通り一次選挙は独自候補で戦い、決選投票で社会党を支持すればよいという経験主義が未だ多数を占めていた。

ロランは統一の提案が全国活動者会議で否定されたあと、活動者会議の頭越しに全国討論を呼びかけ、最後は全党員投票を経てメランション支持を実現した。

これを元に共産党はメランション派と交渉し、大統領選での協力が実現した。これはファシズムを瀬戸際で食い止める上で大変重要な役割を果たしたと思う。メランションが第一次投票で20数%を獲得することがなければ、マクロンを国民的候補として決選投票に臨むことはできなかったろうし、もしそれができなければ今頃ファシズム政権が誕生していたかもしれない。

今年1月 オランド政権の与党、社会党が大統領候補の予備選を行った。ここでは党内左派のアモンが勝利した。ここで社会党は恥の上塗りをした。党首のヴァルスがマクロンを支持すると発表したのである。

アモンはメランションとの1本化の話し合いを試みたが不調に終わった。如何に党内左派といえど、さすがにA級戦犯である社会党と組むのは不可能である。

共産党とメランション派は、オランドが投げ捨てた国民の要求を実現するために、統一して闘った。メランションと野党共闘は若者の受け皿となった。しかし左派政権の裏切りに対する国民の幻滅は深く、その多くが極右へと流れた。

3.大統領選挙

4月に大統領選挙の第一次投票が行われた。財界を代表する共和党のフィヨンは本命と目されたが、スキャンダルが祟り票を伸ばすことができなかった。これに代わり保守系無党派の新人エマニュエル・マクロンが1位を占めた。

マクロンは若いだけではなく超富裕層でもあった。社会党政権で経済相(非党員)として抜擢され、グローバリズム政策を推進した。オランド政権変質の張本人である。富裕層は不安を持ちつつもマクロンに期待した。

これについで極右の国民戦線のルペン候補が2位につけた。得票率はマクロン24%に対しルペン21%と接近していた。恐れは現実となりつつあった。

注目すべきは、左翼に圧倒的な逆風が吹く中で「左派統一候補」のメランションが19%を獲得したことである。フィヨンに僅差の4位ではあったが、ルペン・フィヨン・メランションが20%前後の得票率で肩を並べたことは大きな意味がある。一方社会党のアモンは6%という惨敗であった。これにより左派を代表する勢力が社会党から左派統一に交代しつつあることが示された。


支持率推移

今年1月から第1次投票までの支持率の推移。NHKのサイトから転載。
メランション(赤)が社会党(黄)を追い抜いたのは3月下旬のことである。左派の共闘が大きく情勢を切り開いたことが分かる。
4月下旬になってマクロン人気が落ちた時、危機感からメランション支持がマクロン(橙)に移ったことが示されている。

決選投票での最大の問題事はファシストの政権獲得の可能性である。彼らは「保守主義者」のポーズでファシストとしての顔を隠した。選挙演説では「右も左も結集しよう」とさえ呼びかけた。

しかし多くの国民はそれを見逃そうとはしなかった。それが決選投票での圧倒的な票差となって示された。「ルペンに対する防御壁」となったマクロンは、第一次投票での24%から66%にまで跳ね上がった。これに対しルペンの得票は35%に留まる。

フランス共産党からサルコジ元大統領まで、左派労組の労働総同盟から財界団体まで反極右では一致した。マクロンに投票した有権者の43%は、ルペンの大統領選出を阻止するためだけに投票したという。

おそらくファシストを撃退したと言っても有権者のあいだに勝利感はないだろう。それが政治を良くする引き金になるわけではないし、ルペンの掲げた「反移民・反EU」のスローガンにはかなり同感する余地もあるからだ。

不気味なのは、ルペンが逆風の中で第一次投票から15%も上乗せしたことである。これはコアーなファシズム支持者の他にそれと同じくらいの消極的支持者がいることを示している。投票前の世論調査では最大41%を叩き出している。

4.国会議員選挙

今回、フランス国民は4回も投票しなければならない。大統領選挙の第一次投票と決選投票、それに国会議員選挙の第一次投票と決選投票である。

国会選挙が2回の投票とあるのは小選挙区制のためで、一回目が各政党で順位を競う。そして第1位と第2位の間で決選投票を争うのである。ただし1回目の投票で誰かが圧倒的な支持を集めれば、2回目は行われない。

共産党は第一次大統領選の結果をみて、強い危機感を抱いた。このままでは決選投票にも進めないと危惧したのである。

しかしこれにはメランションは応じなかった。1本化は2次選挙のときにやれば良いと主張したのである。たしかにこれには一理ある。もちろんメランション派が決選投票に残れると踏んだからではあろう。しかし「野党は共闘」こそがメランションの力の背景だということを、メランションは過小評価したのではないだろうか。

6月11日に国会議員選挙の第一次投票が行われた。ほとんどの議席は第一次投票では決せず、j決選投票に持ち込まれた。国会議員選挙はマクロンの一人勝ちであった。

マクロン旋風の原因は、①極右に勝利したヒーローとして期待されたこと。②二大政党制への不信が浸透したことである。ただし小選挙区制のマジックで増幅されたこともある。

左派陣営ではメランション派が多数を占めたが、それでも得票率は11%にとどまった。得票率30%に圧したマクロン旋風に太刀打ちすることはできなかった。共産党は2.7%にとどまった。

大統領選挙でメランションに吹いた風は止まってしまった。記録的な低投票率(棄権が51%)は、とりわけ若者を中心とするメランション派に“選挙疲れ”が出たことを示している。

国会議員は小選挙区であり、伝統や個人的人気なども無視し得ない。大統領選では惨敗した社会党も7.4%を確保している。状況はより困難だからこそ、風頼みではなく政策をしっかりと示し、野党共闘をイメージアップすることがより求められるのではないか。

6月18日に第二次投票が行われメランション派の17議席、共産党の10議席が確定した。

マクロン派     361議席

共和党       126議席

社会党        46議席

メランション派    16議席

共産党        10議席

国民戦線        8議席

国民戦線の議席数は、もともとドブ板選挙を不得意とする上に、大統領選挙での敗北の痛手が大きかったのではないか。共産党の得票率と議席数が乖離してるのは、相当選挙区を絞り込んだためではないだろうか。(情報なしの推測)

5.投票傾向の分析

選挙結果に関するおもしろい分析が提示されているので、紹介しておく。

階層別支持

 

 階級における政治からの「肉離れ」、ないし「原理派」化が見られる。国の民主主義の構造が下から崩れ液状化しつつある。比較的社会保障や労働者保護が浸透しているとされるフランスですらこういう危機的状況になっている。今や格差の進行は文明を揺るがしかねないところにまで進んでいると見るべきであろう。

これを食い止めるにはイギリス総選挙終盤での闘い方、弱者を保護し教育、医療などでポジティブな政策を明確に打ち出すこと。格差是正への方策を、国際的な協力での解決もふくめ明確に打ち出すことであろう。

今回のイギリス・フランスでの選挙はいずれもEU問題が俎上に上げられたが、ルペンの終盤での発言でも明らかなように、逆にこの問題で後戻りはできないことが明確になったと思う。

同時に、リーマンショック→欧州金融・財政危機で反人民的性格を強めたEUを、どうやって諸国民の立場に立つように変革していくかがもとめられることになるだろう。


ロシア音楽にハマってしまい、ある意味で無駄な1週間が過ぎた。

今週末にはAALAの学習会でサンダース→コービン→フランスという三題噺をしなければならない。

材料は一応は揃っているのだがレシピが出来上がっていない。

と言いつつ、とりあえず気になっているアリストテレスの「4原因」を整理したくなった。

日本語の解説はたくさんあるが、我田引水が多いので、サラリと読んでいくことにする。わからないところはどれを読んでもわからないのが普通だ。

「宿題」を探し出すのが作業目的ということになるだろう。

まずは

“what & why”4つの原因説

という河合昭男さんの解説から

はじめに

アリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。鶏は卵から生まれるものであり、鶏のイデアから生まれるなどということはとうてい認められませんでした。

ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。

ということで、のっけから話は難しい。

もちろんアリストテレスのほうが正しいのだが、プラトンも間違っているとはいえない。卵のDNAにはにわとりとなるためのすべての情報が詰め込まれているのだ。

ニワトリの話はさておいて、我々が物事の本質を探っていく時、まずは現象的事実から出発する。武谷三段階説の言うごとく、現象の底には実体(構造)があり、その奥には本質がある。それをイデアと呼んでも差し支えない。

本質というのは、方程式みたいなもので、一種の抽象的な事実だが、それがより深くにあるものの現象形態だったりするわけで、人間の認識というのはそうやってネジをぐるぐると差し込むような形で進んでいく。

これは人間界から見れば認識論の世界である。逆に物事の方から見れば現象論の世界である。同じことだが順序は逆になる。

ただし実在論としては物事の本質はモノそのものから離れることはないわけで、本質が物事そのものから離れることはありえないのである。

こういういくつかの問題がごたまぜにされているのが、プラトンとアリストテレスのすれ違いの原因になっている。

このことはカント(理性批判)によって提起され、フィヒテ(主観論)とヘーゲル(弁証法)によって展開されたものだ。

ただプラトンとアリストテレスの論争を個別問題として考えると、プラトンは本質有を認識論にすり替え、現実性を剥奪してしまっているわけで、アリストテレスの批判は現実性の取り戻しであり、それ自体としては正しい。

次に進もう。

本質はどこにある?

(プラトンは)イデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであると(主張しました)

この点にアリストテレスは納得がいきません。

(アリストテレスは)むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎない」と(考えました)

(その方)が自然な考え方である、というのが(アリストテレスの)主張です。

これは最初の論争とは異なるイシューである。にも関わらず同じ「イデア」という言葉を用いることによって議論が混乱してしまっている。

たしかにプラトンの「見える形で取り出すことができないもの」という表現は微妙である。抽象的であることが認識不可能性と同義で語られる可能性があるからだ。

物事の本質は抽象的な形でしか示されない。しかし人間は物事を抽象的な形で把握することもできる。

物事の本質は無限の彼方にあるものではなく、認識し越えることができる。そういうものだ。しかもそれは段階的なものだ。

その諸段階の先はたしかに無限に続いているかもしれないが、モノの持つ現実性から遊離することはない。それは一歩づつ進んでいく我々の認識の進歩の過程から確信できる。

ということで、アリストテレスは正しい。ただしプラトンのイデアを曲解しているきらいが無きにしもあらず。

しかし、プラトンとアリストテレスの議論はあたかも二人が対話しているようで面白い。

デカルトに対するパスカルの批判、ヒュームに対するカントの批判にも同じようなものを感じる。

ものとは?

という長い前置きがあって(私が長くしてるだけだが)、いよいよ本題に入る。

4大原因というのはいかにも羅列的だと思っていたが、河合さんによると、基本的には二つのようだ。

「もの」はその本質である「形相」とその材料である「質料」から成立しているとアリストテレスは考えました。

口幅ったい言い方になるが、これは私が以前提起した「実体論的規定」と「目的論的規定」という物事の二つの側面と重なる。

当然そのものの本質的規定は目的論的内容にあるわけで、それを前提に話を進めなくてはいけない。

それは「民主主義とは何か」論で口を酸っぱくして言ってきたことだ。

ただし、「形相」というのは合目的性そのものではない。この辺は河合さんの解説ではよく分からない。

とりあえず次に進もう。

目的因と始動因

ここからは河合さんの主観がかなり入ってくる。

上の2つは“What”をめぐる規定であるが、物事には“Why”をめぐる規定が必要である、ということで

物事が“そこにある”目的、すなわち目的因

物事が“そこにある”原因、すなわち始動因

の二つが加えられる。

これは“Why”を満足させるための規定だということになる。

哲学者たちは、そもそも「もの」とは何であるかを議論していたわけですがそれは形相と質料です。

多くの哲学者たちが“what”を静的にとらえようとしていたときにアリストテレスはなぜそれがあるか“why”を時間軸で考えたわけです。

と、非常に前向きにとらえている。

しかしそれは違うでしょう。アリストテレスの勇み足と読むべきだろう。

原因も目的も「形相」に内包されたものだ。

ものは我々から離れてものとして自立している。しかし我々との関係においてそれは意味を持たされる。

ヘーゲル流に言えば「ものとして対象化される」のだ。その時初めて「ものとしての時間軸」を与えられ、原因や目的を付与されるのだ。(あえて「意識」という言葉は使わない)

このあとの「情報システムの4原因説」は河合さん独自のもので、本論とは外れるので省略する。


とりあえずの感想としては、

1.4原因説はアリストテレスのプラトンへの反抗として打ち出されたものだ。

2.アリストテレスの一番言いたかったのは、本質内在論だ。それはプラトンの観念論に対する反論であり、その限りにおいて唯物論的である。

3.しかしそこには自己矛盾が多くふくまれている。基本的には「宣言」として読むべきものである。

4.目的論と始動因は言わずもがなの感がある。むしろ意味論としての「形相」論をもっと深めるべきであった。

5.物事にはすべからく内的な能動的な本質があること、それは人間(主体)との関わりにおいて意味を持つこと、この二つがアリストテレスの主張の核心である。

後段については、「事物に対して観照的であってはならない」という議論と直結するだけに、プラトンの反論がほしいところである。

私なら、「結局、客観的なイデアの代わりに人間の主観を対置し、真理を実践と取り替えたただけではないか」と反論するだろう。


「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その3

2017年07月15日

カリンニコフ 1866年~1901年 

カリンニコフはこれまでの作曲家とは異なり、無産階級の出身(父親は田舎巡査)である。

1884年にモスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに数ヶ月で退学した。

その後モスクワ・フィルハーモニー協会の音楽学校で勉学を続けた。食うために忙しかったらしい。卒業したのは8年後のことだった。

92年にチャイコフスキーに認められ歌劇場の指揮者に抜擢されるが、ほどなく結核が悪化し断念。その後は死ぬまで保養地を転々とした。

ラフマニノフも出版を斡旋するなど生活維持に貢献したと言う。

以下の3曲はいずれも療養中のものである。

67 悲しい歌 1893

5拍子の短い歌。カリンニコフのピアノ曲としては最も知られているかもしれない。「雨降りお月さん、雲の上」と同じメロディである。

68 エレジー 変ロ短調 1894

この人はおそらく上流階級が持ち合わせない、ロシア的なメロディーを体に染み込ませていたのではないか。

それをうまく使いこなす技法を音楽学校で学んだのだろう。何分にも情報が少なく、感想的なことしか書けないが。

69 ワルツ イ長調 1894

しゃれたワルツだが、中間部はちょっと泥臭い。この曲まで入れる必要はなかったかと、ちょっと後悔している。

 

レビコフ 1866年~1920年

70 Op8_9 マズルカ イ短調 

おそらく毀誉褒貶、相半ばする人だと思う。私はたとえスベニール曲の作家であるにせよ、もっと位の高い人だと思うが。

モスクワ大学哲学科を卒業。モスクワ音楽院にも通ったことがあるらしいが、主たる勉強の場はベルリンとウィーンで、国内の作曲家の人脈とはあまり接していない。これが人気の上がらない原因かも知れない。

メロディーは大変美しい。ただ曲作りがきわめてシンプルなだけに、演奏する人の思いや手腕によってまったく印象が変わってくる。旅回り一座の台本みたいなものだ。

この曲は強弱とルバート、テンポの揺らし方が命の曲である。

71 Op10_8 ワルツ 小さなワルツ ロ短調

これも同様のことが言える。とにかくメロディーの美しさには心奪われるものがある。

72 Op10_10 ワルツ ロ短調

上に同じ。

シェルデャコフ盤をお勧めする。ソメロは勧めない。金正日顔が気に食わない(と言うのは冗談)。レビコフは無調音楽の方に興味があり、先駆的な試みをしている。ソメロはその種の曲の方に興味が向いているようだ。

73 Op21 クリスマスツリーよりワルツ 嬰ヘ短調

レビコフの同様の曲の中ではもっとも有名な曲で、比較的演奏される機会も多い。

74 Op29_3 秋の綴りから コン・アフィリツィオーネ

この曲はモスクワ室内楽団の弦楽合奏版が良い。

まぁ、この5曲を続けて聞いたら、理屈は不要になる。

75 秋の花々_1 モデラート

この曲集には作品番号がない。

76 秋の花々 アンダンテ

最後の2曲は多少落ちる。しかし雰囲気はある。

本来ならValse Mélancoliqueを入れなければならないのだが、どうも住所がよく分からない。作品2説と作品30説がある。

シェルデャコフのCDは、3枚組のくせに作品2も作品10も作品30もふくまれない。クソ欠陥品であるのか、真偽に疑いが持たれているのか。

当面真偽がはっきりするまではベスト100入りは保留する。

 

スクリアビン 1872年~1915年

77 Op1 ワルツ ヘ短調 1985

作品番号1をこの単品のワルツにつけた理由はよく分からない。

84年(12歳)からズヴェーレフの音楽寄宿学校でラフマニノフらと共に学ぶ。モスクワ音楽院への正式入学は88年だから、習作に近いものだろう。

これと言ったひらめきは感じられないが、よくできたきれいな曲である。

78 ワルツ 嬰ト短調 1886年

作品番号はついていないが作品1の翌年の曲である。はるかに魅力的である。こんな曲は一生のあいだに何曲も作れるものではない。

79 Op2 3つの小品 第1番 練習曲 嬰ハ短調 1887

これはスクリアビンの最高傑作(の一つ)であり、ロシア・ピアノ音楽の最高傑作の一つである。すでにショパンを越えている。

この時スクリアビンは未だ15歳。モスクワ音楽院にも入っていない。もうやることがないではないか。

80 Op3 10のマズルカ 第1番 変ロ短調 1988

作品3は音楽院に入った年から翌年にかけて作られた。すべてが良いのだが、ここでは3曲をえらんでおく。

81 Op3 10のマズルカ 第3番 ト短調

ショパンのマズルカの基準をしっかり守り、マズルカとは何かというところまで踏み込んでいく。

どうでもいいが、スクリアビンが信頼したと言われるフェインバーグの演奏はかなりマズっている。この人のバッハ・平均律を聞けば、羽目をはずしたロシア人が何をするか良く分かる。

82 Op3 10のマズルカ 第6番 嬰ハ短調

リャードフもショパンの真似は非常にうまいが、しかしスクリアビンはモノマネではなく。ショパンになりきり、それをどう発展させるかと考えているように見える。

ある意味怖いところがある。

83 Op8 12の練習曲 第1番 1894

作品3からいきなり6年跳ぶ。

この間いろいろあった。もう音楽院は卒業している。Rコルサコフやベリャーエフの知遇を得たと言うから、ペテルブルクに出たのか。

そして92年に猛練習の結果、右手首を傷める。

相変わらず音はクリアーなのだが、どうもピアニズムの方に行ってしまったようだ。

音はさらに多彩になり、リズムは細かく刻まれる。はたしてそれがショパンの本質なのか。

84 Op8 12の練習曲 第12番 嬰ヘ短調 悲愴

12の練習曲の最後は、ショパンなら「革命のエチュード」である。スクリアビンもそれに従って、それっぽい曲を作った。

85 Op9 2つの左手のための小品 第1番 前奏曲 嬰ハ短調 1894

右手首を故障したスクリアビンは左手で練習を続けた。

その時の作品がこれである。

86 Op9 2つの左手のための小品 第2番 ノクターン 変ニ長調 1894

作品9はたんなるゲテモノではなく、スクリアビンを代表する作品の一つとなっている。

87 Op11 24の前奏曲から第11番 ロ長調 1895

24の前奏曲は数年がかりで書き溜められて97年に発表されているが、この曲は95年のもの。

美しく屈託がないが、このような雰囲気はその後影を潜める。

88 Op12_2 即興曲 アンダンテ・カンタービレ ロ短調

アンダンテ・カンタービレとは言うものの、あまりカンタービレしない。

この曲のあと、次第にスクリアビンは非ショパン化、断片化、無調化していく。そして奇しくも、喧嘩別れした師アレンスキーと同じ43歳で死んでしまう。以降は割愛する。

スクリアビンの病跡学についての和文献はネット上には見つからない。多分統合失調絡みと思うが。
もう少し探してみる。

 

ラフマニノフ 1873年~1943年

89 Op.3 幻想的小品集 第1番エレジー 変ホ短調

ラフマニノフは没落貴族の息子で、父親とは生き別れた。ペテルブルクの音楽院の予科に入るが、素行不良で放校となり、モスクワ音楽院に横滑りした。

そこでも、ピアノ教師がスパルタ式だったことからケンカ別れしている。優等生のスクリアビンとは対象的である。

幻想小曲集は1892年、19歳の作品である。この人が作品番号を付けるのは割りと遅く、卒業制作のピアノ協奏曲第1番が作品1となっている。

それより前からかなりの作品があるようだが未聴である。ただ、スクリアビンが統合失調なら、この人は典型的な双極性障害であり、だめな時はだめだから、意外と大したものはないかもしれない。

この曲はのっけからラフマニノフ節炸裂である。冗舌なのも最初からのようである。

90 Op.3 幻想的小品集 第2番 前奏曲 嬰ハ短調

ピアノ曲の中でもっとも有名な曲。クレムリン宮殿の鐘の音がモチーフになっている。

ヨーロッパやアメリカでラフマニノフの名を一気に高めたと言う。

まぁショパンではないな。

91 Op.5 組曲第1番「幻想的絵画」 第4曲 ロシアの復活祭 ト短調

これまたド派手な曲で、2台のピアノから繰り出される音量は凄まじい。アックスとブロンフマンという肉体はコンビで聴くと、その迫力に圧倒される。

93年の初演で、チャイコフスキーに捧げられている。しかしその直前にチャイコフスキーは急死している。

本筋とは外れるが、チャイコフスキーの死を悼んで作られたピアノ三重奏曲は、ラフマニノフ最高の傑作である(と思う)。

92 Op.16_3 楽興の時 アンダンテ・カンタービレ ロ短調

もろにロシア人の叙情で、ブレスの長さはいささか持て余す。

「幻想的絵画」から3年経った96年の作で、すでに少し落ち込んできているのかもしれない。

93 Op.16_4 楽興の時 ホ短調

ショパンの作品25の練習曲みたいだが、こちらは左手でとんでもないスピードの分散和音を弾き続ける。

94 Op.23 前奏曲第2番 変ロ長調

いったん落ち込んだラフマニノフがふたたびハイになった1903年の作品で、低音部の連打が迫力満点である。

これはリヒテルの59年録音にまさるものはない。

95  Op.23 前奏曲第3番Op23 ニ短調

こちらはちょっと野卑な感じがあるので、「ショパンたち」に入れるのをためらったのだが、ワイセンベルクの演奏があまりにも見事なため、つい入れてしまった。

本当は4番を入れたかったが、100曲に余る。

96  Op.23 前奏曲第5番 ト短調

これも上と同じ理由。59年のリヒテル盤に脱帽。

リサイタルのライブ録音がたくさんあるが、ミスタッチなしに弾ききった人を見たことがない。なかには終盤惨めに自爆した人もいる。

なおこの曲だけは1901年の作曲。

97 Op.34 No14 ヴォカリーズ 嬰ハ短調

ここから先はだんだん、ラフマニノフのうざったさが鼻についてくる。2曲だけ拾っておく。

これはラフマニノフのオリジナルではなく、管弦楽付きのソプラノ独唱を編曲したものである。

98 Op.39 「音の絵」No_2 イ短調「海とかもめ」

後期ラフマニノフには珍しく、お茶漬け風味。鉛色の空を飛ぶかもめ。

私はなんとなく中野重治の「さよなら女の李」を連想してしまう。


グリエール 1875年~1956年

99 悲しきワルツ 作品41の2

最後の2曲となった。はじめはグリエール。長生きした人だが、基本的には最後のロシア・ロマン派である。

スクリアビン。ラフマニノフと聞いた後だとほっとする。

写真を見るとブレジネフ顔だが、人種的にはロシア人ではない。ドイツ人とポーランド人の間に生まれた。生地もキエフである。ついでに言えば平民の出身でプロテスタントであった。

しかしその作風は強烈なロシア主義だ。この曲もいかにもロシア風だ。2台のピアノのための6つの小品の第2曲となっている。


スタンチンスキー 1888年~1914年

100 夜想曲 1907

26歳で死んだ人で、作風からすればもうロシアロマン派を外れるのだが、そういう曲もあるということで…



ということで、かんたんなコメントを入れるだけで1週間もかかってしまった。

しかも、欲求不満が溜まってしまう。事実の不足が感情的表現に補われている。まず上げておいて、あとで編集することにする。

ひょっとすると曲目変更があるかもしれない。


「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その2

2017年07月15日

アレンスキー 1861~1906

34 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

何と言ってもアレンスキーの代表曲である。4本の手20本の指が必然性をもって動いていて、無駄がない。

アレンスキーについては前の原稿で目一杯書いたので、詳しい紹介はしない。

35 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

前の原稿では2曲めのワルツをとってこちらを捨てたが、その前は3曲めになっていた。面倒なのでそのままにする。

皆さんには3曲通しで聞いていただきたい。

36 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 1.学者

学者(音楽学者)をからかっているような題だが、実は真面目に対位法を展開している。ジュノバとディミトロフというブルガリア出身のドゥオが真面目に演奏していてこれがいい。

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

この曲ではクームス盤のほうが華やかで軽やかだ。ジュノバとディミトロフは逆に重い。しかし立派な演奏だ。

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

クームスのCDでは「バレリーナ」(La Danseuse)となっているが、曲の作りは「ホタ」だから「踊り子」のほうがいいと思う。ズシズシと床がきしむような曲である。

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

アンダンテ・ソステヌートでロ長調となっている。楽譜を見たわけではないが、黒鍵だらけだろう。

40 Op.25 4つの小曲から No.2 夢想

アンダンティーノでハ長調となっている。演奏家にとってはずいぶん感じが違うだろう。

この2つはピアノ独奏曲としてはアレンスキー最良の曲と思う。

作品19の1と作品24の2は、良い音源がないため割愛した。

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード(Logaèdes)

この小品集ではこの曲だけが良い。アレンスキーの曲でいいのは、こういうふわふわの曲だ。

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

この曲はほとんどショパンだ。

41と42のあいだで2台のピアノのための組曲(作品33)の第6変奏スケルツォをパスしている。作品36の「24の性格的作品」以降のピアノ作品のほとんどをスルーしている。

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

この時期アレンスキーは絶不調である。この第8曲だけがかろうじて精気を保っている。

この曲にするか、作品53の5曲目「ロマンス」にするか迷ったが、取り替えるのも面倒なのでそのままにする。

44 練習曲集 Op74_6 プレスト(ニ短調)

結局アレンスキーからの選曲が難しくなったのは、作品74を聴いてしまったからである。

最近奇特な人が現れて、作品74の12曲を完全アップロードしてくれた。お陰で、100曲ギチギチに詰まっていた中から3曲も削らなくてはならなくなった。

本当はもっと入れたいのだが。

45 練習曲集 Op74_7 アンダンティーノ(変ホ長調)

とにかく音の響きが分厚く、まったく別人である。ソノリティーは完全にラフマニノフのものだ。

46 練習曲集 Op74_12 アレグロ・モデラート(嬰ト短調)

これがアレンスキーの「白鳥の歌」だ。売れなくなったアイドルが裸になるのとは違う。

もう少し生きていればという感じがする。

リャードフ  1855年~1914年

47 Op.9 2つの小品 1ワルツ ヘ短調 1884

アレンスキーより6つ年上で、活躍を始めたのも少し早いが、息の長い作曲家で、全盛期は少し後ろになる。

これは83年の作品で1曲めがワルツ、2曲めがマズルカとなっている。完全にショパン書法で書かれている。

5人組の後継者とされているがそのような雰囲気はない。なお、アレンスキーもリャードフもRコルサコフの「不肖の弟子」とされている。

48 Op10_1 前奏曲 変ニ長調 1885

この人の曲はとにかく短い。あっという間に終わる。この曲が1分45秒。俳句みたいなものだ。音も割りと節約している。

これがあのトルストイやドストエフスキーを生んだ同じ国の人とは信じがたい。名前まで簡素である。

49 Op.11_1 前奏曲 ロ短調 1886

これがリャードフの代表作。今度は完全にロシア音楽の世界だ。職人技を体得している。

50 Op.23 小品「湿地にて」ヘ長調 1890

ちょっと制作背景は分からないが、ロシア民謡を主題にした舞踊音楽のようである。

51 Op.32 ワルツ「音楽の玉手箱」1893

リャードフでもっとも有名な曲だ。そのためにその手の作曲家と見られている側面もある。

どうでも良いが、Snuff Boxというのは「嗅ぎタバコ入れ」のことで、おそらくオルゴールが内蔵されているのだろう。

ゼンマイが止まってしまう、という演出もある。プレトニョフがアンコールで派手にやっている。

ピティナによると親指酷使曲だそうだ。

52 Op.36 3つの前奏曲 第2番 変ロ短調 1895

またもショパンもどきだ。本物よりうまい、というところがすごい。しかしわずか1分だ。

53 Op.37 練習曲 ヘ長調 1895

「ロシアのショパンたち」にふさわしい曲が続く。これもショパンそのものだ。この人はひょっとすると贋作作家になれるのではないか。

54 Op.38 マズルカ ヘ長調 1895

フランスの香りさえ漂う。しかし終わりにかけてはロシアっぽさが顔を覗かせる。

意外に長いと思うが、これでも3分20秒。

55 Op.44 舟歌 嬰ヘ長調 1898

5分30秒というリャードフにすれば超大作。展開部の盛り上げ方は見事なものだ。やればできる。

youtubeではニコラーエバの名演が聴ける。

56 Op.57-1 前奏曲 変ニ長調 1900

作品57の3つの小曲は1前奏曲 2ワルツ 3マズルカよりなる。ベリャーエフから出版されている。

この頃は作れば売れるという恵まれた環境にいたはずだが、それでこんなもの。これが2分30秒で、次のマズルカは1分20秒。

57 Op.57-2 マズルカ ヘ短調 1905

ひどい話で、1曲めを書いたのが1900年、3曲めがそれから5年後、発表されるのがさらに1年後だ。

58 サラバンド ト短調 1899

作品11とほぼ同じ頃作曲された。作品番号はついていないがちゃんと発表されているようだ。

見事なバッハだが、さすがに恥ずかしかったのだろうか。

こうやって書いていると、リャードフは寡作家だったように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。

ラペッティの「リャードフ・ピアノ曲全集」はCDで5枚組だ。チャイコフスキーの7枚組には負けるが、かなりの量である。

買うには買ったが、聴き切ったという自信はない。ひょっとすると未だ掘り出し物があるかもしれない。

前も書いたが、キキモーラは必聴です。ストラビンスキーがリャードフをパクったということがよくわかる。リャードフもRコルサコフのパクリと言えなくもないが。とにかく器用な人だ。

リャプノフ  1859年~1924年

59 Op.1 No.2 間奏曲 変ホ短調 1887

この人は世間的には超絶技巧練習曲をのぞいてほとんど知られていない。

モスクワ出身者はみな和音が分厚く、曲が長い傾向がある。

つまりやや野暮ったいということだが、この人の特徴は多彩でありながら透明度を失わない和音の美しさにある。

ここまでで初めて登場するモスクワ音楽院の出身者である。しかし卒業後はペテルブルクに出て、そちらの教授になっている。

バラキレフの追随者と目され、最後までバラキレフの面倒を見た。たしかにバラキレフっぽい作風だ。

この曲は作品番号は1番だが、この時すでに29歳になっている。かなり遅いスタートだ。それまでモスクワにくすぶっていたようだ。

60 Op.1 No.3  ワルツ 変イ長調

ショパンというよりチャイコフスキーのワルツかもしれない。そこはかとない暗さがある。

61 Op.6_6 前奏曲 ヘ短調 Andantino Mosso 1895

1分38秒という短い曲だが、ロシア風の感傷に満ちている。

62 Op.8 ノクターン 変ニ長調

単体で発表されている。それだけ力を入れたということであろう。演奏時間も7分に達する。コンサート会場で聞けば映えるのであろう。

出だしのメロディーは美しいが、展開部がやや胃もたれする。そういうところはラフマニノフ風である。コンチェルトでも書く気分なのかもしれない。

リャードフなら3分の1に縮めるだろう。

63 Op.11 超絶技巧練習曲 第3番 鐘 1901

誰が聞いてもラフマニノフの鐘を思うかべるだろう。ラフマニノフの曲は1892年の作曲。それから9年後だからリャプノフが知らないわけはない。

しかしそれを承知で書きたかったのだろう。

64 Op.11 超絶技巧練習曲 第6番 嵐

この曲は第3番より3年も早く完成されている。そのまんまの情景である。

まぁ、超絶技巧の練習が目的なんだからしょうがないか。ロシアのショパンと言いながらだんだんかけ離れてきたようだ。

65 Op.36 マズルカ 第8番 ト短調

同じマズルカでもおよそショパンらしくないマズルカだ。リャプノフはバラキレフとともに地方に採譜に出かけたりしており、ナマのマズルカを耳にしたかもしれない。

そのイメージをそのまま膨らませて曲に仕上げたのであろう。これはこれでよい。

66 Op.57 3つの小品 第2曲 春の歌 イ長調

あとはズルズルと創作力が落ちていく。それが人生の最後近くになって、なんともしみじみとした曲を残した。

それが1913年に発表された3つの小品の一つ、「春の歌」である。あの重々しい左手の低音は消え、サラサラと曲が流れる。

それに乗せてなんとも懐かしいメロディーが小川のように流れていく。私としてはリャプノフ最高の曲にランクしたい。


アレンスキーのピアノ小曲を聴く

かなりの数がある。聴くことのできない曲も多い。
曲そのものは平易で、スクリアビンと違って聴くのに苦労することはない。

作品1はカノン形式の6つの小品 (1882)と題されている。コウドリアコフの演奏で聞ける。この中では1曲めの「同情」、3曲めの「行進」が良い。

彼はこの年にペテルブルク音楽院を卒業し翌年にはモスクワ音楽院の講師となっている。

作品8はスケルツォ 変ホ長調の単曲となっている。珍しくチッコリーニの演奏で聞けるが、別に面白いものでもない。

そして1890年に作品15のピアノ組曲が誕生する。29歳というのは比較的遅咲きにも見えるが、その前はかなり長い精神的な落ち込みがあったらしい。

作品15は2台のピアノのための組曲で、これが第1番。第1曲ロマンスはアレンスキーの代表作の一つ。第2曲ワルツもシャレている。第3曲ポロネーズは2台のピアノが大活躍する壮大な曲だが、一人で書斎で聴くには少々うっとうしい。

作品19の3つの小品は、第1番の練習曲のみが聞ける。ショパンの「革命のエチュード」を思わせる佳曲である。もっと演奏されてもよいのではないか。

作品20の前奏曲集は1番のみが聞ける。Bigarruresと題されているが意味が分からない。英語圏の人も苦労しているようだが、とりあえず「極彩色」としておく。ラベルの水の戯れを思わせる曲だが、あえて聞くほどのものではない。

作品23は2台のピアノの組曲第2番。「シルエット」と題されている。作品15の成功に味をしめて作ったものだろう。第1曲は「学者」と題されバロック風の雰囲気でまとめられている。ジュノバとディミトロフの演奏がよい。
3曲め「道化」はこの組曲で一番の佳曲。第5曲「踊り子」はホタのリズムが続いたあと、曲集のフィナーレとなる。

作品24の2つのスケッチは2曲めが良い。まどろむようなメロディーから始まり、悲しみをたたえた第二主題に移行する。良い音の音源がないのが残念だ。

作品25の4つの小曲は1曲めの即興曲がアレンスキーお得意の癒し系音楽だ。2曲めの夢想も出だしの旋律がしびれる。3曲めの練習曲は、曲の最後に「あれっ?」という節が出てくるが、それだけ。4曲目はつまらない。

作品28の小曲集は「忘れられたリズムに寄せて」という副題が付けられている。古いロシアのリズムを集めたものらしい。全部で6曲からなるが、1曲めのLogaèdesはソフトなせんりつで、リズムは普通の4拍子だ。2曲めのPeonは8分の6拍子の速いテンポ。あとの4曲は面白くない。

作品33は、2台のピアノの演奏だ。今度は変奏曲仕立てになっていて主題と9つの変奏から構成される。しかもそれぞれの変奏が舞曲になっているという凝った仕掛けだ。
そのわりには面白くない。面白いのは第6変奏のスケルツォくらいだ。最後の三曲は明らかにショパンのもじりだ。

この曲の前が有名なピアノ三重奏曲だ。エネルギーを使い果たした感じもする。

作品34は子供向けの連弾曲集である。2本の手でも弾けてしまうほど容易な曲だが、意外と面白い。1曲め「おとぎ話」と2曲め「かっこう」終曲「ロシアの主題によるフーガ」が良い。

それにしてもアレンスキー、1894年は書きまくっている。ぐうたらリャードフに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。

作品36、24の性格的作品も94年のものだ。ただし、この曲集はスカが多い。16曲目のエレジーまで聴く気がしない。エレジーもアレンスキーらしくないできだと思う。17曲「夢」、18曲「不安」もよどみ感がある。20番「マズルカ」に至ってようよう乗ってくる。しかし22曲タランテラは出だしはいいのに変な方に行ってしまう。お疲れのようだ。

このあとは96年に練習曲、98年に3つの小品くらいでほとんど作曲はストップしてしまう。

作品41の練習曲は4曲からなる。アレンスキーらしさが戻っている。1曲目の変ホ長調は柔らかく美しい。2曲めも美しいがひらめきはない。3曲めの変ホ短調はベートーベンの悲愴を思わせる佳曲である。4曲目はどうでも良い曲である。

作品42の3つの小品は音源がない。

作品43の6つのカプリースはクームスの演奏で聞ける。第1曲イ短調は作品36のタランテラと同じで、着想は良いのだが発展力が落ちている。第2曲イ長調もとりとめがない。ほかも同断である。

作品46「バフチサライの泉」は特段面白いものでもない。

世紀が変わって1901年、作品52の「海の近くで」という6つのスケッチが発表されている。これも面白くない。同じ年作品53の6つの小品も書かれた。この中では第5曲ロマンスが(だけが)良い。ニコラエーバの演奏がさすがである。
ただアレンスキーの持つ軽やかさが感じられずラフマニノフっぽい。

作品62は2台のピアノのための組曲(第4番)である。第4曲目は「フィナーレ」と題されゴージャスな作りである。

アレンスキーは1861年の生まれだから、20世紀を迎えた時点で40歳。すでにラフマニノフとスクリアビンの時代に移っている。そしてその6年後には亡くなる。

作品63の前奏曲は全12曲だが、そのうちいくつかをYou Tubeで聴くことができる。1曲め(イ短調)は短いが緊迫感のある曲である。12曲め(変ニ長調)もアレンスキーらしさが出ている。しかし取り立てて言うほどのものでもない。

作品65は2台のピアノのための組曲(第5番)である。子どものための組曲と題され、簡素な作りとなっている。子供のためとはいえまったくひらめきがない。どういうわけか最終曲の「ポーランド風に」だけがキラキラ光っている。

作品66はピアノ連弾のための小品集で全12曲からなる。小粒でシンプルだが、1曲めのプレリュード、4曲目のメヌエット、5曲目のエレジー、8曲目の行進曲など往年の面影が戻っている感がある。

作品67の6つのアラベスクは、第2曲ビバーチェや第6曲アレグロリソルートなど新たな響きが持ち込まれている。必ずしも成功しているとは言い難いが。

そして最後が死の半年前の作品74、12の練習曲である。これはまったくの謎である。どうしてこんな曲を書いたのか、書けたのかが分からない。

ここでのアレンスキーはまったくの別人である。第1曲でいきなり完全復活が告げられる。和音は新味が感じられる。第2曲、第3曲はくっきりした旋律線と優しさが印象的である。第4曲は信じられないくらいの分厚いスクリアビン風和音。第5曲のラベル風のアルペジオ、6曲目プレストの調性外し、第7曲アンダンティーノの美しい旋律とこれまでにない和音進行、第9曲のシューマン風、第10曲の推進力、11曲、12曲の力強い旋律線…、まさしく奇跡の12曲だ。

これまできれいごとでやってきたアレンスキーが、初めて自分をモロに出して、意志的な音楽を作り出した。

その瞬間に早すぎる死を迎えたのはまことに痛ましいことだが、死を目前にして初めて意志を明らかにしたとも言えるし、元気だったら相変わらずつまんない曲を書き続けていたかもしれない。そのへんはなんとも言えないのだが、せめてあと1年あればあと一つ書けたのではないかと思う。

ということで、アレンスキーを作曲順に眺めてみると、これだけピアノ曲を書いているにも関わらず、この人は管弦楽・室内楽志向の人だということがあらためて感じられる。
やはり最高傑作はピアノトリオだろう。弦楽四重奏も欠かせない。この人にとってピアノは息抜きないし営業用という感じがする。







昼から暇だから、テレビのワイドショーを見ている。
松居一代の話題で持ちきりだ。
どう見てもおかしい。まともではない。
そんなことは最初からわかっているのだが、テレビは最初は松居一代の発言を「事実」として追っていた。そんなところにもメディアの衰弱を感じてしまう。
今日は臨床心理士だとか心理学者だとか精神科医などがいろいろ出てきて、聞いたような解釈を加えていた。
それは要するに「はい松井さんの病気は何丁目何番地です」というだけの話だ。しかしそれがコメンテーターそれぞれに違うのだかたら、困ったものだ。
多分臨床的に一番問題になるのは、それが統合障害(昔の言い方だと精神分裂病)なのかどうかの判断だ。
そう言ってもおかしくないような徴候はたしかにふくまれている。しかしどうも違うような気がする。典型的な破瓜病に見られる思い詰めたような深刻感がない。
全体として受ける印象は乖離性障害(昔の言い方だとヒステリーあるいは憑依)だ。しかも発作性というより持続性だから、何らかの器質的脳障害がベースにある可能性が高い。例えば認知症の周辺症状としての被害(物盗られ)妄想だ。年齢から見ればまっさきに思いつくのはアルコール症だ。女性のアルコール症には何度もだまされた経験がある。
ただ明らかな攻撃性と自己防衛機転の脱落(離人症)を伴っており、健忘症の合理化のような現実に対する受身的な開き直りのレベルではすまないところがある。視床ないし視床下部の器質的・機能的障害が伴っていると見るべきかもしれない。

をさらに増補します。

今回のネタ本は

1.ヴェ・ヴェ・ウスタソフ 「国民音楽論…ロシア楽派の歴史」という本で、1883年の出版です。スターソフは5人組のイデオローグとして活躍した理論家です。ムソルグスキーの死を契機に書かれたもので、ムソルグスキー以外はみんな体制派になってしまったと嘆いています。

この本は1955年に三一書房から邦訳出版されています。はたしてこんな本が売れたのでしょうか。

同時代性は面白く、あんなに過激な論客だったキュイが最近は体制に妥協してしまったと嘆いたりしています。

その一方、キュイの音楽作品は最近ずっと良くなって来た。スケルツォと間奏曲はなかなかのものだと評価しています。これは作品20の「12の小曲」と作品21のピアノのための組曲(全4曲)を指しているのでしょう。これについては私も同感です。

2.ジェームス・バクスト(森田稔訳)「ロシア・ソヴィエト音楽史」はずっと新しい本で、1971年に音楽之友社から発行されています。

今回の増補分は主にこちらからのものです。

いつもこうなのですが、引用文献の数が重なってくると相互の齟齬が出てきます。1~2年位の幅で前後関係があります。
そうするとこの間に起きたできごとについて、相対的な前後関係を明らかにすることが困難になります。それは原因と結果という関係のこともあるので、けっこう悩んでしまいます。
とりあえず年表ではそのままにして「文章化」の方で調整をかけたいと思います。




アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


五人組とルビンシュテインの論争に関する、チャイコフスキーの結論。

「無題の器楽曲を作るのは、純粋に叙情的な過程です。それは抒情詩人が詩によって自己を表現するように、音によって心中を打ち明けることです」

みごとに音楽的過程を言い当てていると思う。彼はこの結論を得たあと、標題音楽についても論を及ぼす。

「すべての音楽は標題的です。叙情的作品の場合は作曲家の喜びや苦しみの感情が標題です。しかしその標題は(あえて掲げる)必要がないし、不可能でもあります。これに対し作曲家が外的な刺激を受けて、その霊感を音楽によって表現する場合は標題が必要です。どちらも存在理由を持っています。どちらかを排他的に認めることなどできません」

これも素晴らしい。「標題」を視覚的刺激に留めることなく、より本質的に規定することで、論理の色を抜け出す。

結局、「叙情的な過程」というものが作曲の核心に存在し、それは音楽以外のすべての芸術的過程と共通するものだということになる。

「情」というものを、たんなる刺激の反映ではなく、内的に湧き起こる能動的な力だと理解すれば、叙情か標題かという対立は無意味なものになる。

では内的な力がすべてで、外的な刺激はたんなるきっかけにすぎないのか。そうではない。外的な刺激はそのものが力を持っている。だから外的な力が強い時は、内的な力との合作になる。

これで作曲過程における叙情と標題性の性格は構造化された。ただそれで話は済むわけではない。相争う両派からは折衷派と非難されるかもしれない。

そこでチャイコフスキーは「何のための叙情性であり標題性なのか」を押し出す。

「私の音楽を愛し、そこに慰めと支えを見出してくれる人々の数が増えることを、私は心から願っています」

つまり、出来上がった作品は他の人々にとって「外的刺激」なのであり、その人々の内心に働きかける力なのである。美しい景色や優れた詩のように、心に感動を与え、内的な力を産ましめるように、作品に魂を与え命を吹き込まなくてはならない。

ただ、論争としてはこれで決着がつくのだろうけれど、バッハやビバルディーのような「職人技」の音楽については別な議論が必要になるかもしれない。

(引用はバクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」より)

2017年07月15日


2016年10月30日に 「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選 を投稿した。

それから1年も経たずに改訂版を投稿する。前回の時点ではスクリアビンがしっかり聞けてなかった。また同時代のリムスキー・コルサコフ、グラズーノフなどなどもカヴァーしていなかった。

一応それらも聞いてみたが、結局カリンニコフ、グリエール、スタンチンスキーのほかは取り上げるほどのものはなかった。管弦楽や室内楽の才能とピアノの才能は少し違うらしい。

作曲家別に、おおよそ古い順に並べていく。とは言っても、ほとんどが1885年から2005年にかけての20年間の間にほとんどの作品がかたまっているので、あくまで便宜上のものと考えてほしい。

無調(に近い)の作品は除外した。楽典とか演奏には素人なので、難しいか平易かはいっさい配慮していない。「メロディーいのち」である。

今回は、曲目紹介に私的な感想は入れないと心に決めている。多くはPTNA(ピティナ)の解説の要約であるが、これでは足りないので英語の文献からかなり補充した。

 

グリンカ 1804~1857

1 ノクターン「別れ」 ヘ短調

ミハイル・グリンカは「ロシア音楽の父」と呼ばれる。歌劇「ルスランとリュドミラ」(1842年)の序曲が有名である。

この曲は1939年に作られている。紛らわしいがロシア語では別れのことをラズルカという。石原裕次郎の持ち歌で「別離(ラズルカ)」というのがあるそうだ。

2 マズルカ ハ短調

グリンカが作った6曲のマズルカのうち5番目の作品で、グリンカが39歳のときに作られている。

マズルカはポーランドの舞曲だが、ロシア人も大好きで、この時期ほとんどの作曲家がマズルカを作曲している。

 

バラキレフ 1837年~1910年

3 1864 ひばり (原曲はグリンカ)

バラキレフは18歳でペテルブルクに出て、たちまち頭角を現した。5年ほどのあいだに「5人組」を組織し、国民音楽を唱導した。

この曲は敬愛するグリンカの歌曲をピアノ用に編曲したものだが、内容的にはグリンカの曲を主題にした作曲といえる。(原曲もYou Tubeで聞けます)

4 1859 ポルカ嬰へ短調

ポルカは1830年代にボヘミアで作られ、ドイツに広がった。普通は陽気な2拍子だが、ここでは短調の曲となっている。

スメタナグリンカも短調のポルカを作っている。これはボヘミアからポーランドに広がったポレチュカの影響かもしれない。ショパンはポルカを書いていない。

5 1902 トッカータ 嬰ハ短調

バラキレフは何度も失敗しては立ち直っている。彼は死の前年、72歳の時まで曲づくりしている。これは65歳のときの曲だ。

ただし作品目録を見ると、この年に書いたというより書き溜めた楽譜を在庫一掃的に整理出版したのではないか。

32歳のときの難曲「イスラメイ」と通じるものがある

6 1902 ノクターン No.3 ニ短調

これもトッカータと同様だ。

なおYou Tubeにはあまりめぼしい音源がない。バラキレフのピアノ曲集はCD6枚組と膨大である。多分まだ知られざる歌曲が眠っているだろうと思う。

 

ムソルグスキー 1839年~1881年

7 1859 子供の遊び スケルツォ

ムソルグスキー初期の単品出版曲。展覧会の絵の「チュイリュリーの庭」をしのばせる。

8 1865 子供の頃の思い出 第2曲 最初の罰

ピアノ曲集「子供の頃の思い出」は5曲からなる。1曲めがスケルツォで、子供の遊び・スケルツォとは同名異曲。2曲めが「乳母と私」で、3曲めがこれ。

副題は「乳母は私を暗い部屋に閉じ込めた」となっている。

9 1865 ロギノフの主題による「夢」

日本語の説明は探せなかった。All Music というサイトに短い説明があった。

この頃ムソルグスキーは多くの仲間とともにペテルブルクのアパートを借り、共同生活を送っていた。仲間の一人にロギノフ(V.A. Loginov)という詩人がいた。この曲は彼のために作られ捧げられている。

10 1880 涙の一滴 ト短調

ムソルグスキーの小品の中では最もよく知られた曲。「涙」とも題されているが、原題がUne larmeなので、「涙のひとしずく」とした。

死の前年ということになるが、この時まだ41歳である。年表を参照いただきたいが、この頃彼は仕事を失い、クリミアを演奏旅行していた。「クリミア南岸にて」、「村にて」などの曲があり、最初は100選に入れていたが、今回は割愛した。

 

ボロディン 1833年~1887年

11 「小組曲」より 1.修道院で 嬰ハ短調

小組曲は1985年の発表で、ボロディンの唯一のまとまったピアノ曲集。ベルギーのアルジャントー伯爵夫人に捧げられている。正式な名前はマリー=クロティルド=エリザベト・ルイズ・ド・リケ。

アルジャントーはキュイの作品にも登場する。おそらく5人組のパトロンだったのだろう。

修道院とCDの日本語で書いたが、クヴォンと読む。英語ではnunnery で修道尼の方である。

小組曲は全7曲からなり、それぞれに副題が付けられている。この曲には「大聖堂の円天井の下で少女は神を思うことはない」と題されている。

12 「小組曲」より 2.間奏曲

ボロディンお得意のオリエンタル・ムードである。副題は「彼女は外の世界を夢見る」となっている。

貴族の子女が幼少時に修道院で育てられるのは、よくあることである。少女にとって「外の世界」は夢の世界である。

13 「小組曲」より 7.夜想曲 変ト長調

副題は「少女は満ち足りた愛によって眠りにつく」となっている。

有名な弦楽四重奏曲のノクターンを連想させる、同一フレーズの執拗な繰り返し。

 

キュイ 1835年~1918年

14 Op.20 12の小曲 第8番 子守歌

血筋で言うとキュイはロシア人ではない。

父親はフランス人でありリトアニアに住み着き、リトアニア人を妻とした。当時リトアニアはロシア領だったが、その昔はポーランドと並ぶ大国であった。

最初は土木学者としてキャリアをスタートさせ、1855年クリミア戦争で軍務についたあとは築城術の専門家となった。

音楽ではオペラ作家を目指したが成功せず、「余技」のピアノ曲が名を残すことになった。

キュイは作曲家としては類のない遅咲きである。とくにピアノ曲のスタートは遅い。作品番号1のスケルツォが1857年、22歳である。その後の作品は声楽、合唱、管弦楽曲が主体で、作品1もピアノ連弾曲である。

純粋なピアノ独奏曲は1877年の「3つの小品」(作品8)が最初である。作曲家デビューの20年後、42歳のことである。金沢摂さんの演奏を聞いても分かるように、この作品で左手のパッセージはほとんど何もしていない。

15 Op.21 組曲 1 即興曲 変イ短調

さらにその5年後、47歳の作品20で、初めて売り物になるピアノ曲を書いたことになる。もっともピアノ連弾曲ではあるが。

そして次の作品21でピアノ曲作家としての才能が花開いた。この曲は4曲からなる組曲の冒頭であるが、なぜ短調なのか分からない。
1885年に出版され、リストに献呈されている。世の「大作曲家」たちが寿命を終えることである。

16 Op.21 組曲 2 Tenebres et lueurs 嬰ト短調

フランス語で「暗闇と光」というらしいが詳細は不明。いかにもそれらしい曲である。

対位法を築城術のごとくに用いているのが印象的。

17 Op.21 組曲 3 間奏曲 変イ長調

これも短いパッセージを積みげていく築城術型作曲法の実例ということになるのか。

18 Op.22_3 ノクターン 嬰ヘ短調

とにかくキュイに関しては日本語文献が皆無にちかい。ソ連時代に軽視された影響もあると思う。

この「4つの小品」も85年、作品21と同時に出版されている。

19 Op.31 3つのワルツより 第2番 ホ短調

1886年の作曲で、第1番 アレグロ イ長調。第2番 アレグレット ホ短調。第3番 アレグレット・モッソ ニ長調からなる。

20 Op.40 ピアノ曲集「アルジャントーにて」 第5番 セレナーデ

キュイは1887年、ベルギーのアルジャントー(Argenteau)を訪れる。ベルギーと言ってもアントワープ周辺のフランス語地域である。

パトロンである伯爵夫人に会うのが目的だったろうが、とにかくこの訪問にあわせて9曲のピアノ小曲集を作った。「9つの性格的小品」と題されており、

1. 西洋より、2. 閑暇、3. 気まぐれに、4. 小さな戦争、5. セレナーデ、6. 談話、7. マズルカ、8. 礼拝堂にて、9. バラードをふくむ。

どことなく聞き覚えのあるスペイン風の曲である。

21 Op.40 「アルジャントーにて」第6番

練習曲“Causerie”(おしゃべり)と題されている。女性のおしゃべりに男性が相槌を打っている。

残念ながらYou Tubeでは以上の2曲しか聞けない。全曲を聴いてみたいものである。

22 Op.64 前奏曲集 第2番 ホ短調

ここからは前奏曲集からの抜粋。

何度も年のことを言うが、この曲集が発表されたのは1903年、すでに68歳である。もちろん書き溜めたものもふくまれているのだろうが、そのみずみずしさは特筆に値する。

You Tubeではいろんな演奏が聞けるが、ビーゲルの演奏した全曲盤はぜひとも買うべきである。アマゾンはとんでもない値段がついているが、タワーレコードならセール価格1142円だ。フィンガーハット盤は他の曲との抱き合わせだが、いずれも情緒たっぷり。こちらも絶対のお薦めだ。

2番は短い舟歌風の曲。メンデルスゾーンの無言歌を連想させる。

23 Op.64 前奏曲集 第4番 ロ短調

魅力的なテーマが提示されるが、展開は比較的簡潔。

24 Op.64 前奏曲集 第6番 嬰ヘ短調 Andante

同じテーマが最初は重々しいマーチ、ついでバラード風に、舞曲を挟んで、最後はエレジーで終わる。映画音楽のような構成。

25 Op.64 前奏曲集 第7番 イ長調

これもメンデルスゾーンの「春の歌」を思わせる簡素な曲。

26 Op.64 前奏曲集 第8番 嬰ハ短調

劇的なテーマの曲。強奏の連続は練習曲に近い。

27 Op.64 前奏曲集 第9番 ホ長調

夜想曲風のゆったりした曲想。もっともショパンに近い。

28 Op.64 前奏曲集 第10番 嬰ト長調

これもショパンのバラードを思わせる曲。

29 Op.64 前奏曲集 第16番 ヘ短調

スクリアビンの真似をしてみました。

30 Op.64 前奏曲集 第18番 ハ短調 Allegretto

メロディーは一番キュイらしさが出ている。

これで一応前奏曲は締切だが、入れなかった曲の中にも良い曲はある。

31 Op92 3つの旋律スケッチ 第1番 モデラート ハ長調

あえて作品92(3 Esquisses mélodiques)の3曲を全て100選に入れてしまった。

この作品は「ピティナ音楽辞典」にも載っていない。IMSLPは真偽を疑っているようだ。

The edition by the Art Publication Society would appear to be the only one to date. The details of how this work was acquired and issued by the Society, and how it was rendered in English, are subject to further investigation.

と書いている。

また英語版ウィキの「作品リスト」の項目ではこう書かれている。

Many individual compositions by Cui have been published over the years, especially in English and French editions, without information as to opus number

私はYou Tubeから拾った。演奏者・アップロード者はルイス・アンヘル・マルティネスという人だ。

発行元のクレジットによれば、1913年の作曲で同年にミズーリ州セントルイス(!)で出版されているとのことだ。実物がアップロードされている。

あとは“Believe or not”の世界だ。

32 Op92 3つの旋律スケッチ 第2番 モデラート ニ長調

1番と2番はロシア民謡風のメロディーに簡潔な左手が添えられている。

33 Op92 3つの旋律スケッチ 第3番

これは明らかに聞き覚えのあるキュイの曲だ。キュイの最高の曲の一つと言ってよい。おそらく真相は、キュイが鼻紙を捨てるようにメロディーを撒き散らしたということだろう。

とりあえず100選に入れてしまったが、いずれ番外編に突っ込むべきかもしれない。佳曲であることは間違いないのだが。


You Tubeには時々とんでもない掘り出し物がある。

リヒテルの1959年の録音で、ラフマニノフの前奏曲作品23の2番というのがそれだ。

まさに「奇跡の演奏」だ。野球で言うと大谷の165キロだ。

ほかに4番も5番もない。

リヒテル年表で調べてみると、リヒテルはこの年に東欧を旅している。

まず4月にワルシャワに行き、5日間連続で演奏会を開いている。録音をしに行ったのかもしれない。ヴィスロッキ指揮ワルシャワ・フィルとモーツァルトの20番、ラフマニノフの2番を入れている。

我々にとっておなじみのラフマニノフがこの時録音されたのかもしれない。

その他にラフマニノフの前奏曲23の2,4,5と32の1,2も入れているようで、この時の録音かもしれない。

6月末に一度ソ連に戻ったあと、10月には東ドイツで2週間、その後11月にはプラハで3日間仕事をしている。この時スメタナホールでラフマニノフの前奏曲を13曲も演奏しているから、こちらかもしれない。

正直言って、新世界=メロディア盤のピアノ協奏曲(ワルシャワ)の録音はひどかった。スプートニクを飛ばした国の録音とは思えない。

こちらの音源はかなりしっかりした音で入っているから、チェコ(スプラフォン)の録音かもしれない。

探してみたが今はもうないようだ。

その代わりに、すごいお宝映像がアップされている

Sviatoslav Richter - Rachmaninoff Prelude op 23 N 2

リヒテルにまだ髪の毛があった時代だ。風前の灯ではあるが。

こいつもすごい映像だ。

ギレリスが空軍の飛行場で、出動前の飛行士たちを前に前奏曲23_5を演奏している。これぞまさしく「戦場のピアニスト」だ。ギレリスは相当必死に「音楽」の意味を考えたであろう。

Gilels - Prelude Op 23 No 5 - Rachmaninoff

「たしかに音的にはあり得るな」、と変に納得してしまう。


アレンスキーを聞いていて、びっくりした。

作品74というおそらく最後に近い番号のピアノ練習曲集だ。

全12曲ということで練習曲集としてのルーチンは踏んでいる。

物の本によると、この人は将来を嘱望されながら酒とバクチで身をもち崩し、最後は結核となり45歳でなくなったらしい。

それが1905年のことであるが、この曲集はその年に作られている。

アレンスキーの作風は保守的で、ミニ・チャイコフスキーみたいな路線を走っていた。最初から交響曲とか協奏曲で売り出した。

ピアノ独奏曲には大したものはなく、2台のピアノのための組曲が5つもある。売れ線狙いであろう。

練習曲というのはかなりピアノ弾きの証しみたいなところがある。みんな結構書いているが、この人は盛りの時期にはほとんど練習曲は書いていないし、書いても面白くもないものだ。

それが死ぬ直前になってとつぜん練習曲集を、しかも完全な形で残した。ある意味で信仰告白とも遺書ともとれる。

そんな曲がなぜかYou Tubeで聞ける。

この人はムラっ気があって、だめな曲はだめなのだが、どういうわけか、ウィキにもとりあげられないようなこの練習曲集が12曲全部素晴らしいのだ。

1番で「えっ」と驚いて、2,3,4、5と進む。6番がすごいデモーニッシュな曲で、ショパンの葬送ソナタの第3楽章みたいだ。

7番が最高で、シンプルな旋律だが和音は世紀末だ。しかし無調の世界へは踏みとどまる。最後の12番は宗教的な香りさえ漂わせる。

参考までに私の「ロシアのショパンたち」100曲にランキンしたアレンスキーの曲は以下の通り。

34 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

35 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

36 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 1.学者

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

40 Op.25 4つの小曲から No.2 夢想

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

44 練習曲集 Op74_6 プレスト(ニ短調)

45 練習曲集 Op74_7 アンダンティーノ(変ホ長調)

46 練習曲集 Op74_12 アレグロ・モデラート(嬰ト短調)



ロシアにはまだとんでもないピアニストがひそんでいる。

とにかく後から後から出て来る。

ソコロフのあとはウラジミル・バック、コロリオフ、クシュネローヴァとなるのだが、今回驚いたのがアレクサンダー・ウルヴァロフ。

You Tubeでロシア小曲の演奏家として出てくる。見た目普通のおっちゃんなのだが演奏はすごい。

それで調べたのだが、インターネットには英語の紹介さえない。ドイツ語のサイトにかんたんな紹介があった。

1954年、ペテルスブルクの生まれ。まぁ生まれた時はレニングラードだ。

ペテルブルク音楽院でピアノを学んだ。ショパンコンクールにも参加しているらしい。卒業後は82年からノボシビルスクで教鞭をとった。

1001年にドイツに移住した。ドレスデンの音楽学校でピエノを教えている。









ソ連崩壊のときには相当数のロシア人がドイツに移住しているようだ。東ドイツだけでも大変なのに、ずいぶん頑張って受け入れたものだ。

それが今になって生きているとも言える。苦労は買ってでもせよということか。

ロシアにはまだとんでもないピアニストがひそんでいる。

とにかく後から後から出て来る。

ソコロフのあとはコロリオフ、クシュネローヴァ、ヴォルドスとなるのだが、今回驚いたのがアレクサンダー・ウルヴァロフ。

You Tubeでロシア小曲の演奏家として出てくる。見た目普通のおっちゃんなのだが演奏はすごい。

それで調べたのだが、インターネットには英語の紹介さえない。ドイツ語のサイトにかんたんな紹介があった。

1954年、ペテルスブルクの生まれ。まぁ生まれた時はレニングラードだ。

ペテルブルク音楽院でピアノを学んだ。ショパンコンクールにも参加しているらしい。卒業後は82年からノボシビルスクで教鞭をとった。

1001年にドイツに移住した。ドレスデンの音楽学校でピエノを教えている。

ソ連崩壊のときには相当数のロシア人がドイツに移住しているようだ。東ドイツだけでも大変なのに、ずいぶん頑張って受け入れたものだ。

それが今になって生きているとも言える。苦労は買ってでもせよということか。

どこがすごいかと言われても困るのだが、とにかく小曲を録音しているマイナー・レーベルの演奏家たちとはまったくレベルが違うのである。

論より証拠、

Alexander Urvalov, A. Borodin, Vier Stücke aus "Petite suite"

Alexander Urvalov, C. Cui, Präludium op. 64, Nr. 16, Serenade op. 40, Nr. 5, Walzer op. 31,

Alexander Urvalov, M. Balakirew, Islame


あたりを聞いてもらえば、そのすごさが分かってもらえるだろう。



民主主義とファシズム、ポピュリズムの関係を議論するときに、アリストテレスの「ポリス国家」論を勉強しないとだめだということがわかり、いつものごとくニワカ勉強です。

グールで「ポリス国家+アリストテレス」と入れても、ウィキには「ポリス」でしか出てきません。

最初にヒットするのが アリストテレス『政治学』を解読する Philosophy Guides というページです。すごく読みやすそうにレイアウトされているので、早速トライします。

なお、著者は平原卓さんという哲学者のようです。

最初のところに、

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → 「アリストテレス『政治学』を超コンパクトに要約する

とある。

もちろん、いますぐ概要を知りたいから、そちらに回ることにする。

最初にこう書かれている。

アリストテレスの『政治学』をコンパクトにまとめました。

一番大事なのはポリス(国家)の本質論。その他は実践論でやたらに細かいだけなので、ポイントだけ押さえておけば十分です。

とあるから、まことにありがたい。


目的: ポリスの本質を規定すること。

結論: 人間は善を目的因とする存在。ポリスは最高善を目的因とする存在。なのでポリスは人間にとって本質的なもの。

わかりやすい。ただし「(目的)因」というのが分からない。これは後で調べることにする。

ポリスの本質: 

共同体は家族→村落→ポリスと発展する。ポリスは最終的共同体。

ポリスは「市民」から構成される。(「市民」は実質的にはエリート。だからアリストクラシーというのかな?)

ポリスはたんなる生活共同体ではない。なぜならポリスは最高善を目的因とするから。

共和制:

「市民」による共和制が一番良い。

無産者に支配される民主制はだめ。僭主制、寡頭制ももちろんだめ。

徳治ではなく法治:

徳治は「反徳」治になる危険がある。

望ましい生活:

幸福は「よく」行うことにある。ただし、観照や思考のほうが行動的である。


これで終わりだ。

流石にこれではよく分からない。もう少し詳しく見ていく必要がある。

ということで、 アリストテレス『政治学』を解読する に戻ることにする。

1.ポリスの本質

国家は一つの共同体である。

共同体は「よきこと」のために出来ている。

なぜなら、すべての人間は自分がよいと思うことのために活動するからである。

国家(ポリス)すべての共同体を自己のうちに包括するから、最高最上の共同体である。

<平原さんの解説>

どんな事物も何かしらの目的(目的因)をもっている。

なかでもポリスは「最高善」を目指す本性をもっている。なぜなら「よさ」をめがける共同体の最終段階であるからだ。

それは「ただいっしょに生活するため」のものではない。

2.人間はポリス的動物

国家は(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つである。

また人間は、その自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物である。

人間は、完成されれば動物のうちでも最善のものだだ。

しかし、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となる。

これに関して、 「人間はポリス的動物である」の意味は? という文章が別にあるそうだ。あとで見に行こう

3.よき市民とは?

4.正しい国家体制は?

アリストテレスによれば、国家体制には、王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制があり、特に最初の3つの体制が正しい。王制、貴族制、共和制のなかでも、大衆が参加する共和制が国家体制のスタンダードだ。

これは「つかみ」の文章から前進はしていない

5.行動的生活

「行動的生活」とは、ポリスの政治に関わる生活のことだ。

アリストテレスは、実際の政治行動よりも「行動を目的とした観照」(テオーリア)のほうが行動的だと主張する。

6.プラトンとアリストテレス

プラトンは「国家」の中で「哲人政治」を主張した。哲学者がポリスの王となって統治するのが最も幸福なのだという。

アリストテレスはこれを否定したといえる。


どうもあまり前進したとは言えない。

まぁとりあえず、先程の文章に行ってみますか。

[Q&A]「人間はポリス的動物である」の意味は?

1.「ポリス的動物」は「社会的動物」ではない

市民国家は、きわめて同質的な人間から構成される市民社会と定式化される。

しかし、アリストテレスは「ポリス=社会」と考えていたわけではありません。

2.4原因説

アリストテレスは、存在するものは必ず素材因、形相因、始動因、目的因という4つの「因」を備えていると考えていました。

素材因  とは、事物がそこから生成するところのもの。

形相因  とは、事物の形相(本質、概念)または原型のこと。

作用因  とは、物事を始動または停止させる第一の始まりのこと。

目的因  とは、物事がそのためにあるところのもの。

これは私の考えだが、

今日では次のように言うことができるだろう。

①事物は存在であると同時に過程であること。

②したがって、全てのものには歴史があり未来があり、

③固有のエネルギーがあること。

しかし当面は目的因 が大事である。それは事物と“私”あるいは“私たち”との関係を規定している。

事物を実体論的にだけではなく、目的論的に捉えることが大事だということだ。

3.ポリスの目的因

家族が集まると村落ができる。それは日々の必要だけに限定されない共同である。同じように村落が集まって国家(ポリス)となる。

村落の生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであるが、ポリスの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。

自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であるが、それは究極的に善として求められる。

その究極的目的(最高善)は国家において実現されるのである。なぜなら人間の目的因も「善」だからです。

4.政治学の目的

ポリスはそこに住む自由市民がポリス的動物として、徳を積むことめざす。

それを可能とする条件を探すのが政治学である。



とてもわかり易くてよかったが、「本当にこんなものかいな」という疑問も若干よぎる。

ポリス国家というのは、二面性を持つということ。下に対しては寡頭政治であり、上に対しては共和政治だということ。

結果として人は押し出すが、自分は追い出されたくないというところに帰結する。その口実として衆愚政治の危険が持ち出される。

下層階級の声が高まれば、それは引かれ者の小唄となる。

ただし、現代国家の無機質性に対し、「善」の考えを押し出していることは注目に値する。現代政治の抱えるさまざまなジレンマを乗り越えるためには、大なり小なり前向きの倫理観(たんに悪いことをしないというだけにとどまらない)というものが要求される。私はそれを「思想としての民主主義」と呼びたいが…)

ここに「立憲主義」の素材因  としてのヒントが隠されている可能性はある。


mp3Directcut AAC再生の悩みはみな同じ

2013年06月11日 

2017年04月24日 

ですでに書いてあるが、悩みは世界中同じというお話。

MPeX というドイツのサイトにあるフォーラム。次のような記事があった。

Can't play AAC - can't find MSVC90

When trying to play AAC, I got "The specified module could not be found.", followed by "libfaad2.dll needed etc etc". With libfaad2.dll downloaded and put in the mp3DirectCut folder, I still get the two error popups, except the first one doesn't contain any text.

The second popup says "Runtime Library MSVC90 may also be needed", so perhaps that's what I have to do. But I can't find msvc90.dll anywhere on the internet. I tried with msvc90r.dll but that didn't do anything.

There is no "msvc90.dll". The MSVC lib consists of at least 3 DLLs. There may be more. On Windows 7 and newer the lib should be already present.

Turns out I just had a shitty libfaad2.dll. I downloaded it from http://originaldll.com/file/libfaad2.dll/20662.html and now it works.

君、それは32ビット版のリブファードだよ。

もう一度書いておこう。

mp3Directcut を動かすにはふたつのことが必要だ。

1.ダウンロードしたら、一度デスクトップに移すこと、それから右クリックして管理者権限で実行することだ。

2.AACのファイルはMP3同様にサクサク切れるが、再生はできない。同じフォルダー内にデコーダー(リブファード)を置く必要がある。ダウンロードサイトから落とす時は必ず32ビットで。64ビットでは動かない仕組みになっている。

mp3Directcutは何故か恥ずかしがりのソフトで、立ち上がりソフトの一覧にも入らないし、コントロールパネルのプログラム一覧にも入らない。


本日は夕方から伊藤真(伊藤塾塾長)さんの講義を聞きに行ってきた。
「立憲主義って何?」という題で100分。
まさに立て板に水という感じでさらさらと流れていく。まことに見事な水際だった講義だった。
終わるなり、「はい、本日は質疑応答はございません」ということで、そそくさと会場をあとにした。その足で東京に帰るのだという。
しかし決してつまらなかったというのではない。いくつかの聞き逃せないポイントもあって、きわめて充実した100分であった。正直言うと、歳のせいか最後の15分位は頭が回らなくなるほどであった。
予備校などで東京の人気講師が出張で特別講義をすることもあるようだが、まさにそういう感じだった。
ただし、ただしである。
「立憲主義ってなに?」という演題にもかかわらず、立憲主義ってなんなのか、結局わからなかった。
講義が終わって、「はい、それでは “立憲主義とは何か” レポートを書いてください」と言われるとはたと困ってしまうのである。
話の中身のほとんどは「憲法とは何か」みたいな話であり、憲法改悪を狙う安倍政権の行動は、立憲主義の破壊でもある。したがって憲法改悪策動に反対して闘うことが「立憲主義を守る」戦いである、という一種の循環論法になっているように聞こえてしまう。
主催が「東区9条の会」であり、聴衆のほとんどがおじさん、おばさんばかりだったから、そういう話になったのかもしれない。専門家が集まる会合であればもう少し違った話になったのかもしれない、というのがとりあえずの感想だ。
もう頭も回らなくなってきているので、かんたんに議論の骨組みというか問題の所在について書き留めておきたい。
立憲主義をマグナカルタの思想にもとめるというのは、根本となる考えである。主権在民の意志を憲法という形で定式化し、それで権力の手を縛るというのが立憲主義だ。
これについては一握りの御用学者を覗いて誰しも一致するだろう。
もう一つは「民主主義」が暴走する際に、歯止めとして憲法を位置づけるという考えである。これがなかなか難しい。ナチスを生み出したのもトランプを大統領に押し上げたのも「民主主義」だ、という前提がある。
もちろんその民主主義は真の民主主義ではなく「手続き民主主義」にすぎないので、我々が目指すべきものとしての民主主義そのものではない。
しかし立憲主義を唱える人の中には民主主義に対するペシミズムと密かな貴族趣味への郷愁を忍ばせている向きもある。それはハンナ・アーレントに通じるものがある。
民衆の自律的運動を右でも左でもポピュリストとして一括し、よりあからさまに民主主義への蔑視を公現する人もいる。彼らから見れば、「地獄への道は善意で敷き詰められている」のである。
しかし考えても見てほしい。マグナカルタはすでに千年近い昔の話である。それだけの時間をかけて人類社会はようやくここまで来たのだ。そうかんたんに民主主義に絶望しないでほしい。
「天国への道もそれ以上に善意で敷き詰められている」のである。
社会の進歩は積み重ねだ。最初は法治主義、ついで立憲主義が積み重なって、その上に民主主義の地層が出来上がろうとしているのだ。こういう階層的な構造の構成部分として立憲主義を見ていく視点が必要なのではなかろうか。

コンビニに行ったら、こんな雑誌が出ていて、つい買ってしまった。
10年くらい前まではよく買っていた雑誌だ。おまけのCDにフリーソフトがずいぶん載っていて、大半は何の役にも立たないのだが、なんとなく使ってみるのが楽しかった。
ここ最近は手にはとってみるものの、別にそそられるものもなく、そのまま書棚に戻していた。考えてみればよく持ったものだというべきかもしれない。
最終号らしく全編が「裏と表のパソコン20年史」という特集で埋め尽くされている。その世界の先頭を走ってきた老舗雑誌だけに、ツボを押さえた書きぶりである。つい3時間かけて読み通してしまった。
ぜひお読みになるようお勧めする。CDが2枚もついているが、別に必要なものはない。
考えてみれば、これはネットが繋がりにくく高価だった時代の代替物である。
ダウンロードするだけでも大変で、その上ソフトの使い方の説明もなかった。もっと昔、NECの頃はソフトというのは買うものであった。そして教科書と首っ引きで操作を覚えるものであった。一太郎や松も、桐や花子もそうやって憶えたものだ。
書棚にはウィンドウズ関係の説明書が5,6冊は並んでいた。
今やネットは光で瞬速、説明書もネットでいくらでも手に入る。
もっとも私が学術・研究活動から離れ、趣味の世界でしかパソコンを使わなくなったためでもある。
もはやエクセルを使って統計処理したり、それをパワーポイントで仕上げたりしなくなって久しい。今使えと言われても、MS-DOSを使うより難しい。
パソコンの世界はたしかに驚異的に進歩した。しかし案外変わっていないと言えば変わっていないのかもしれない。
パソコン操作の基本はすでにNEC98シリーズで完成している。Windowsの出現というのは端的に言えばインターネットとの連動だろう。それさえなければ案外今でもNECを使っていたかもしれない。
私がホームページをはじめたのは97年の5月ころだと思う。初めて買ったウィンドウズのパソコンで「簡単ホームページ接続」というのがあって、富士通のプロバイダーにつながるセットが組み込まれていた。それを使って立ち上げたのである。いまでもその頃のhttpアドレスにリンクしている人がいる。
その前にはマックを使っていて、Niftyのサイトにつながってからインターネットに再接続する仕組みになっていたが、人にセットしてもらってもすぐ切れてしまう。
話が横道にそれた。
最初のネットは遅かった。コンテンツも乏しかった。もっぱら英語のサイトを検索していた。そのうちADSLというのが出てきて10倍位のスピードになった。ただこれは特殊な仕掛けが必要で自宅では利用できなかったから、休みの日に医局のパソコンで落としまくって、それを自宅で処理するという日々であった。
それが2003年になって光が使えるようになって、インターネット環境が激変した。通信速度の飛躍的な増加がパソコンのあり方を一変させたのである。
多分あとは量的な増大であろう。CPUの高速化、記憶容量のギガ→テラ化、ネット情報の巨大化だ。あまり革命的な変化があったとはいえない。
ということで、パソコン=インターネットの進化は
1.OSの進化とGUIの普及…NEC98
2.インターネットとの連動…Windows95
3.光通信の普及…Windows XP
の3つがエポックといえるのではないだろうか。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

郷原さんの記事で、出会い系バーの実体について下記の文章がしばしば引用されている。
何もそこまでも、と思いつつもやはり気になって読んでしまった。

【前川前文科次官「出会い系バーで貧困調査」報道に必要なのは、事実の検証であり人格評価ではない/『彼女たちの売春』著者・荻上チキさんに聞く】

というページだ。6月2日のアップロードとなっている。
最初に荻上さんの著書の表紙を転載しておく。
出会い系

ものすごく話題が豊富なので、要点をまとめるのに苦労するが、狙いを前川問題に絞る(ように努力する)

1.出会い系バーは「売春」の交渉の場か
間違ってはいませんが一面的です。
出会い系バーは18歳未満は入れません。児童買春はできません。
多くの女性や男性は売買春が目的です。半数以上がワリキリをやっていると思います。
しかし全員ではありません。ご飯に行ったりお茶をしたり、カラオケに行く人もいます。
女性側が「ワリキリやってないです」と断わることもある。
社会科見学的にくるような人、調査や取材に来る人もいますね。
2.出会い系バーは管理売春ではない
出会い系バーは、業者が女性を囲って行われる「管理売春」ではありません。
だから外形的に判断はできません。めぼしいマッチングに恵まれずただ帰ることもあります。店に行った=買売春した、とはなりません。
出会いがあると、トークルームに入り、そこで交渉をします。「売春交渉はやめてください」と書いてありますが、それは警察への言い訳です。
女性は最初のうちは茶飯だけで稼ごうとお店に通うものの、「あの子は茶飯だけだよ」と噂になると声をかけられなくなり、ワリキリます。
3.出会い系バーのメリット
女性にとっては営業努力が軽減できる、誰かがいて安全だなどのメリットがある。
ハウジングプアの女性が1割近くいて、家のない女の子の場合、雨風がしのげます。
「JK見学」系とは、まったく異なる形態のものです。(またJKが出てきた)
4.出会い系バーと貧困の結びつき
女性の全員が貧困とは限りません。ただ、貧困状態にある人は割合的に多いです。
住処の貧困であったり、DV被害者だったりする人が平均よりも多い。
24時以降に居場所がない場合、出会い系バーは選択肢となる。
5.「小遣いを渡す」ということ
ちょっと説明がわかりにくいが、「小遣いを渡す」というのは独特の業界用語らしい。セックスの代価ではない。
昔は忘年会の帰りにタクシーに乗ると、「近くですまないが、二千円上乗せするから」と言って乗せてもらったことがある。
その上乗せ分が「小遣い」に相当するようだ。
6.調査にしては回数が多すぎる?
菅官房長官は「調査だったら1回か2回じゃないですか」という。
本気でやるなら、1、2回で調査は終わりません。それはただの「見物」「見学」です。
ぼくは前川さんを擁護しているのではなく、調査を擁護しているんです。
7.前川さんは清廉潔白だという主張について
良い人アピールも、悪い人アピールも議論の本質ではないでしょう。
だから、読売新聞が「出会い系バー通い」という情報だけで、(前川さんの)説得力を奪おうとしたことに驚きました。

まぁ、とにかくいろいろ勉強になります。前川さんが偉い人だということもよくわかりました。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

検索していくうちにいろいろな文章が引っかかってくる。よく経験するのだが、グーグルの検索は最初の2,3ページは似たような記事が多くて「こんなものか」と思うのだが、それを越えると石混じりの中にところどころ玉が混じっている。

今回はこれがそうだ。

「郷原信郎が斬る」というブログの読売新聞は死んだに等しいという記事だ。6月5日付となっている。

相当ごつい文章で、いささか胃もたれがするが、この問題に正面から取り組んでいる。

まず、問題の読売記事の全文が紹介されているが、これが前出の記事とだいぶ違う。

こちらが全文のようなので、あらためて紹介する。

文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ(ア)。

関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある(イ)。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる(ウ)。

複数の店の関係者によると、前川前次官は、文部科学審議官だった約2年前からこの店に通っていた。平日の午後9時頃にスーツ姿で来店することが多く、店では偽名を使っていた(エ)という。同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった。店に出入りする女性の一人は「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」と証言した(オ)。

昨年6月に次官に就いた後も来店していたといい、店の関係者は「2~3年前から週に1回は店に来る常連だったが、昨年末頃から急に来なくなった」と話している。

読売新聞は前川前次官に取材を申し込んだが、取材には応じなかった。

「出会い系バー」や「出会い系喫茶」は売春の温床とも指摘されるが、女性と店の間の雇用関係が不明確なため、摘発は難しいとされる(カ)。売春の客になる行為は売春防止法で禁じられているが、罰則はない(キ)。

前川前次官は1979年、東大法学部を卒業後、旧文部省に入省。小中学校や高校を所管する初等中等教育局長、文部科学審議官などを経て、昨年6月、次官に就任したが、天下りのあっせん問題で1月に引責辞任した。

郷原さんの理論は次のような組み立てになっている。

1.記事の中で直接的事実は二つだけ

記事の中で、前川氏の行為そのものを報じているのは二つに留まる。

それ以外は、出会い系バーの実態等に関する一般論だ。それは「援助交際が目的」と“推認”させようとする伏線になっている。

二つの事実とは

①前川氏が出会い系バーに頻繁に出入りしていたこと。「同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった」ことである。

②店に出入りする女性の一人の発言。「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」

ということで①は紛れもない事実だが、それが買春目的であるとする根拠は、②の女性の「値段の交渉をしていた。私も誘われた」という発言のみである。

すなわち、この記事の核心的事実は一女性の発言によってのみ成り立っていることになる。

ただし「何の値段」の交渉をしていたのかは不明瞭である。前川氏に肉体交渉の意図がなかったことは各社の証言に明らかである。

2..どうしてこんな記事が掲載されたのか

読売記事については、二つの可能性が考えられる。

一つは、官邸サイドから情報を入手しただけで、何の取材も行わずに、「関係者証言」をでっち上げた可能性である。

もう一つは、前川氏が「交渉」「値段の交渉」を行っていたという曖昧な表現で誤った「印象」を与えようとした可能性である。なぜなら関係者取材をすれば、前川氏の目的は明らかだからだ。

前者であれば、「関係者証言のねつ造」という重大な問題となる。

後者であれば、曖昧な言葉で事実とは逆の誤った印象を与えるものである。

どちらも、新聞報道として到底許されることではない。

実は、1と2のあいだに長い論証部分がふくまれているのだが、いささか骨っぽくて要約するのは困難である。直接ご一読いただければよろしいかと思う。


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