鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

星野盛久さんの「難民がつくった国『邪馬台国』」という文章があって大変良くまとまっている。星野さんという方は在野の研究者らしく、まったく肩書等不明である。

以下紹介させてもらう。

「まえがき」

今まで出尽くした感のある資料をもう一度見直し、整理し、論理的かつ客観的に推論を進めてみることによって、何が見えるのかを明らかにしてみたいと思います。

難民の作った国「邪馬台国」その1 ―弥生人は渡来人だった―

「弥生人の渡来による日本列島の人口増加」

弥生時代を考えるときに、出発点とすべきデータがあります。

(ということで、私も前に引用した小山修三さんの人口分布とその経過が引用される。)

詳細な表が掲載されているが、特徴点を箇条書きにしておく。

1.縄文早期から晩期に至るまで、人口はあきらかに東高西低で、縄文人が北方由来であることを示す。ただし縄文中期に九州に限局した人口の増加があり、朝鮮半島からの一定の人口流入があったことを示す。弥生人を受け入れた九州の縄文晩期人はこれらの人だった(Yハプロで言うC1aかもしれない)

2.縄文人というと東北・北海道を想像するのだが、実際には最大の居住地帯は北関東から信州にかけての一帯であった。しかしこの地帯は縄文後期から晩期にかけて壊滅的な状況を迎える。むしろ東北のほうが持ちこたえているので、寒さだけではないようだ。浅間山の噴火でもあったのか?

3.弥生時代に入って第一次の人口爆発が起きるのだが、これは東日本と西日本では様相が異なっている。関東を中心とした人口増加はある意味では元の勢いを取り戻したということであり、縄文中期に戻った形である。しかし近畿と九州では明らかに人口爆発が起きている。

4.とりわけ近畿の人口増加には注目しなくてはならない。すでに弥生時代において九州の人口を凌駕している。この2つは水稲栽培という点では共通しているが、九州はすでに鉄器時代に入っており、近畿では依然として青銅器時代である。近畿は私の考えでは銅鐸人の生活圏であったと思う。

5.弥生時代日本には九州生活圏(天孫系)、近畿生活圏(長江系)、関東生活圏(縄文系)が鼎立しており、人口ということで見れば、それらは拮抗していた。

6.青銅器から鉄器へという移行の時代として弥生時代をとらえるならば、西暦ゼロ年よりちょっと前までが青銅器時代、弥生後半が九州=鉄器、近畿=青銅器という並立時代。そして鉄器文化が近畿と関東を併合するに及んで、弥生時代が終了するというつかみ方になるのではないか。

7.たしかに九州勢は戦争に強かったから勝利し支配することになったのだが、人口に示される生産力はむしろ近畿のほうが強力であった。武器の優越は次第に失われ、近畿勢が政治的支配権も獲得するようになる。

8.古墳時代(星野さんはあえて土師器時代と称している)に起きた第二次人口爆発は、弥生期の三者鼎立体制を近畿中心体制に置き換えていく。近畿が唯一のビッグパワーとなり、関東に信州をあわせた勢力がかろうじてこれに拮抗する。九州は関東や中国地方にすら抜かれ斜陽の道を歩むことになる。

9.古墳時代の人口爆発は水田耕作のみでは説明できない。水田そのものは弥生期の第一次人口爆発を説明するものでしかない。近畿を中心とした人口爆発は、干拓や排水工事による新田開発抜きに説明つかない。その最初の舞台が大和湖であり河内湖であった。これにより水田面積は一気に増え、それに応じて人口も急増したのである。

10.大規模土木工事による耕地の拡大は水田のみにとどまらなかった。関東平野の中央部に存在した巨大な湿地帯も、同様の方法で耕地に変えられた。これが関東における人口爆発の理由であろう。それは関東平野の主人公(支配者)を縄文人から弥生人に変えた可能性がある。

11.このような経済バランスの変化にも関わらず、九州王朝はかなりのちまで軍事的優位を保ち続けていたと思う。ケンカは絶対ケンカ慣れしているやつが強いのである。九州は鉄器における優位を保ち続けただけでなく、朝鮮半島における北方勢力との闘いで絶えず戦闘技術を高め続けてきた。天孫系の分家を権力の頂点にいただく近畿の田舎者にはなかなか手強い相手である。

12.しかしそのような軍事的優位は自然に縮まってくる。すでに倭の5王の時代には政権交代が差し迫っていた可能性がある。そして西暦500年から550年の間に倭王朝は滅び、権力は次第に大和朝廷へと移っていったのではないだろうか。

(11と12はオミキが入ったための蛇足)

生活保護の不正受給

実態についてあまり良く知らないので、まず客観的な数字を見ておきたい。

まずはウィキペディアの「生活保護の不正受給」の記事

概説に数字がある。

2010年時点における不正受給は、件数ベースで見ると2万5355件で、全体に占める率は1.8%であり、金額ベースで見ると不正受給額は128億7425万円で、全体に占める率は0.38%であった。

内訳としては、「賃金の無申告」が不正の中で約45%を占め最も多く、次いで「年金の無申告」が約25%、「収入を少なく申告したケース」が約10%であった。

これは厚生労働省「社会・援護局関係主管課長会議資料に基づくもののようである。

以下、不正受給の実例が上げられている。見ていくと、それらのほとんどがマスコミによって大々的に報じられたものであり、けっこう覚えがある。

これらは不正受給という範疇を超えた明らかな刑法犯罪・詐欺罪である。

貧困が犯罪の温床である以上、生活保護をめぐる犯罪率が高いのは当然である。

しかし福祉事務所や、生活保護課がそのことに責任を取る必要はない。相手が騙すつもりで「虚偽申請」して来る以上、騙されるのはある程度仕方がない。それは「経営リスク」である。

事後的に警察に通報して、そちらの判断に委ねる他ない。

ただそもそも「憲法の生存権を保障する」という性格を持つ生活保護が、その運営を地方自治体に委ねることが適切かどうか、という問題は問われるのではないか。

名合わせとか前歴照会などは全国で統一すべきものと考える。いまのコンピュータシステムの力から見れば造作ないことと思えるが。

不正就労と賃金の無申告は一番煩わしい問題である。いずれ生活保護を外れて自活の道を取ろうとしたとき、一定の資金は必要である。なんとか貯金のような形で許容できないものだろうか。

パート従業員として月12万-13万円の収入がありながら、無収入であるように装って生活保護費を不正受給していた女性が捕まった。市生活福祉課の職員らが交代で約2週間に亘り張り込んで現場を捕まえた。(生活保護不正、執念の見破り…張り込み2週間 読売新聞 2012年10月3日

まさに「生活保護 なめんな」精神であるが、なぜかむなしい。

よく分からないのだけど、相対的貧困率というのでいろいろ検討がされているみたいだ。

それで相対的貧困率のもとめ方だけど、国民所得の中央値の2分の1以下というのが定義のようだ。

そうすると、中央値が下がってしまうと、相対的貧困率が見かけ上は下がってしまう可能性はないだろうか。

たしか以前赤旗で、所得格差が広がると平均所得は同じでも中央値は下がるという記事があった。

たしか引用した記憶があるのだが、いま思い出せない。

いずれにしても所得格差がどんどん広がっている社会で、相対的貧困率で勝負しても始まらないような気がする。

右翼あたりなら、「相対的貧困率は下がっているぞ」と宣伝の種にしかねない。


これですね
2013年07月10日


生活保護「なめんな」事件への感想

マスコミやネットでは職員バッシングか、「そうだそうだ」の右翼の対応が目立つが、どうもすっきりしない。

彼らの本音は「生活保護課をなめんなよ」ということではないのか。もちろんそれは歪んだ形の反映になっていることも間違いないので、決して褒められたものではないのだが。

むかし、(ひょっとすると今も)共産党系の人はいじめられた。有形無形の差別、嫌がらせが横行していた。

北大を卒業して、本来なら主任・課長と進むべき実績を持ちながら、ヒラのままだったり、地方や外局に飛ばされたりしたものだ。

その最たる部署が生活保護課だったりした。

そこで水を得た魚のように一生懸命やる人もいれば、「落伍者」として生きる人もいた。

生活保護課は本来、生活困窮者を救済し社会復帰の道を開くことが仕事だ。医者と同じ「人助け」の商売なのだ。だから誇りを持って当たるべき職であり、敬意をもって遇されるべき職業なのだ。しかし、現状はどちらかと言えば「人斬り稼業」のようになってしまった。

なぜなら、自治体が生活保護の増加を恥と考え、保護率を減らすように押し付ける傾向さえあるからだ。

それが積み重なると、生活保護課がその名とは裏腹に生活困窮者の切り捨てを目標に掲げるようになる。中には公然と「適正化」を旗印に掲げたところもあった。

そういう職場では、生活保護を受理すれば上司は顔をしかめ、拒否すれば上司の覚えはめでたくなる。ヤバ筋のケースでもつかもうものなら、泣きの涙となる。

だから生活保護課の職員は、一般職員から冷ややかな目で見られるのと同時に、本来の目的からかけ離れた業務を遂行されることで、ますますやる気を失っていくことになる。

いろいろな統計を見ても分かるように、この国では、本来受給対象となるべき人の数に比べて実際の受給者ははるかに少ないのである。「生保以下の生活」を余儀なくされている人は受給者の数倍にのぼる。

つまり対象者の多くが捕捉されていないのであり、それは行政の不作為であり怠慢である。この逆転現象が問題の根っこにはある。問題にされるべきは「不正受給」ではなく「不正不支給」なのだ。

行政は生活保護をなめている。憲法第25条をなめている。それは犯罪と言ってもよい。

「生活保護 なめんな」は、むしろ私たち市民の叫ぶべきスローガンなのだろう。

今回の事件で生活保護課が掲げたスローガンは、いかにも弱気で屈折している。それは受給者に向かってではなく市役所の本庁舎に向けて叫ぶべきスローガンであり、さらには政府・厚労省や世間に向けて叫ぶべきスローガンである。

それならきわめて正しいスローガンだと思う。

たしかに生活保護はアリ地獄的構造になっており、一度ハマると脱出は困難だ。だから滞留し、果てしなく増えていく可能性はある。しかし、ここだけははっきりさせておこう。アリ地獄的構造を変革するのは政治(それも中央政府)の責任であって、生活保護課の任務ではないのだ。


生活保護の総合情報(条件 申請 基準 他)サイト生活保護の捕捉率というページに、あらあらの数字が載っています。

国民生活基礎調査など各種の統計からの推計で9.9%~19.7%という数字が出されている。

最近、厚労省と総務省で別個に捕捉率調査が行われており、厚労省では32%、総務省調査では68%という結果になっている。

厚労省の統計が低値を示すのは、住宅ローンのある世帯が除外されていないためであり、それを調整すれば総務省並みの数字になると思われる。

各種統計からの推計と「実測」にかなりの開きがある原因は、この文章からは不明である。ただ同じ方法で各国の捕捉率を比較すると、ドイツやイギリスはいずれも85%以上となっている。したがって日本の官庁統計には相当の操作が加えられていると見るべきであろう。

とりあえず、一番高い数字を示した総務省の調査を基準とすると、3世帯に一つは、生活保護の受給権を放棄させられていることになる。これをしっかり補足することが生活保護課の業務の第一目的だろう。

最近、特養で数人ほど、何か分からないCRP陽性と貧血の方がいる。症状もない(認知はある)がそのままというわけにも行かず、なんとなくプレドニンを使ってしまった。

1日5ミリだから、べつに副作用もないが、当然のことながらCRPは改善し、遅れて貧血も改善してきた。

結果的にリウマチ性多発筋痛(PMR)でよかったのかなと思っている。ただRFも陽性に出たので困ってしまった。

むかし研修医だった頃は「リウマチにステロイドは使うな」と堅く戒められていた。骨がぼろぼろになった患者の写真を見せられたりして、刷り込まれている。

「もしリウマチならそっちの治療しなければいけないのかな」と思って、雑誌をめくってみると、「とにかくリウマチなら高齢者であろうとなかろうと、リウマトレックス」と書かれている。

しかし副作用のところには恐ろしげなことが書かれている。とても特養で認知+超高齢の、しかも無症状の人に使えるような代物ではない。

だいたいメソトレキセートといえば、私らの世代には抗がん剤だ。使うんなら家族にムンテラして承諾書もらう必要がある。

ところがPMRならプレドニンを使っていれば済む。それも少量で済む。

じつは、私の研修医時代はリウマチ性多発筋痛そのものがあまり知られていなかった時代で、地方会で「PMRの2例」と題して報告した記憶がある。

そのとき文献集めをしたのだが、国内文献で5,6題。洋文献も1ダース程度だった。北大の図書館で巻紙のコピー用紙を一巻き使った記憶はあるが、不思議なことに読んだ記憶がない。

外国ではむしろ側頭動脈炎が注目されていて、スカンジナビアの何処かから「巨細胞がどうの」とかいうレビューがあった。

治療はアスピリンの大量療法で、日本人の胃袋には到底耐えられないような量だった。どこかで「少量のプレドニンが奏功する」という報告があった。その後はプレドニンが標準治療のようになっている。

昔話はさておき、「それではリウマチでないという証拠はあるのか」、と言われるとない。鑑別法を探したが、結論は「鑑別はできない」ということだった。後からリウマチの所見が出てくれば「やっぱりリウマチだったんだね」ということになる。

問題はプレドニンをダラダラと使うか、リウマチの治療に切り替えるかである。リウマチの治療にはやぶさかではないが、リウマトレックス以外の方法はないのか、これが目下一番悩ましいところだ。

むかし小耳に挟んだリマチルとかリドーラとかサラゾピリンはどうなんだろう。しかしこれらはぱっとしないような話しか書いていない。

どうも結論としては、「そうだ、これはPMRなんだ。だからプレドニンで良いのだ」と割り切るのが一番かんたんなようだ。悪性腫瘍が隠れていようと、歌の文句じゃないが「#そんなことなど知りたくないの」だ。そうなればどのみち助かりようはない。

だいたいプレドニンほど有効域が広い安全なクスリはないのだ。副作用は熟知されている。それに5ミリとか2.5ミリなんていうのは鼻くそみたいなもんだ。チラージンやインシュリンと同じで補充療法だと思えばいい。

ということで、CRPと血糖値見ながらダラダラと使うことにした。ひょっとすると低ナトリウムにも効くかもしれんなぁ。


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

連帯精神の二つの源泉: 利他行動と集団協力

先日、「機微」の問題に触れた。人それぞれに想いと行動を結びつけるものとして「機微」というものがあって、そこを互いに掴みながら連帯していくことで、「真の共闘」が形成されるという話だった。

そしてこの「機微」というのは。ことの性格上積極的で能動的なものだから、そこさえつかめばあとは勢いだ、と書いた。

ただこれは連帯精神の一面、「おもんばかり」という作業である。そこには、その前提となる「思いやり」の心が前提となっている。

共闘という作業は「おもんばかり」だけでもけっこう進むだろうと思う。そこにはある程度の共通の思いが存在していて、課題はその思いを探り出すことになるからだ。

しかし共闘は出発点であり、そこから先には砂のような大衆が待ち受けている。我々は砂の一粒一粒を思いやりの心で満たしていかなければならない。

そこで「思いやりの心」だが、実はこれは二つの要素からできている。

ひとつは利他の心であり、もう一つは集団協力の精神である。

この二つの要素は、実はボノボとチンパンジーの比較研究から導き出されたものである。

をご参照いただきたいのだが、実はこれは山本真也(京都大学霊長類研究所ヒト科3種比較研究プロジェクト特定助教)さんの文章チンパンジー・ボノボにみる「徳」の起源の丸写しである。

詳しくはそちらをご覧いただきたいのだが、ボノボにもチンパンジーにも利他行動はある。ただチンパンジー社会では集団協力の傾向が著しく発達しているために、利他行動のほうが見えにくくなっているだけなのだ。

集団協力を中心とする社会関係(群れの掟)の中でも、連帯心とか社会規範は発達する。それは一見利他の心と似ている。しかし、集団という囲い込みを前提とするところに決定的な違いがある。それは本質的に排他的で選別的である。

しかしそれ以前に、自発的で無差別な「利他の心」は生得的に存在するのである。あまり手垢のついた言葉にしたくはないが、エトスとパトスの生物学的説明と言えないでもない。無論この二つは絡みあっている。高次の利他行動は、社会集団の中で習得され、昇華されなければならない。

砂粒に見える人々にも、いわばDNAとして利他的な思いやりの心は潜んでいるのである。それを掘り出して、アパシーという汚れを取り払って、息を吹き返させることが大事なのだ。

これは文学とか芸術とかが担う作業になるのかもしれない。

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

清教徒革命年表 今後の課題

そもそもはパスカルをもう少し勉強しようと思っていたところに、彼の思想にイギリス哲学の影響がないのだろうかと疑問をもって、それじゃ同時代人をと思ってホッブスに手を付けたところ、哲学者としては大したことはないが、リヴァイアサン一発で人権思想の礎を築いたというアイデアマンだということがわかった。

そこで彼の人生を眺めてみると、彼自身が清教徒革命を体現した人物であり、リヴァイアサンが清教徒革命の真髄をすくい取っているからこそ、それが近代政治の礎となったということがわかった。

ということは、清教徒革命を近代政治の曙として勉強しないとならないなということになって、この作業をはじめたわけだ。

1日もあれば片付くと思っていたが、どっこい数日を費やしてしまった。しかも残された課題は山のようにある。

以下列挙していく。

1.なぜスコットランド王がイングランドの後継者に選ばれたのか。選んだのは誰か。

2.火薬陰謀事件(06年)で浮き彫りになった、カトリックとの緊張関係はどう推移していくのか。バチカンはイギリスに干渉しなかったのか。

3.スペインの無敵艦隊を破ったイギリスは、この時点でヨーロッパの覇者になっていたのか。欧州列強の力関係は、この時点でどうだったのか。

4.イングランドとスコットランドは同君連合とされるが、それは対等の関係だったのか。従属関係にあったのか。

5.王権神授説の由来。なぜジェームスはこれを09年の時点で強調したのか。おそらく王権がイングランド国内で軽視されていたからだろうが、ジェームズを王位につけたフィクサーたちは王権神授説をどのように捉えていたのだろうか。

6.ベーコンの話は気になるが、シェークスピアとの関係も含めいずれ考えよう。

7.30年戦争は、「ドイツ農民戦争」もふくめて気になるテーマだ。これもいずれ検討しなければならない。ただイギリスは蚊帳の外だったのだろうか。

8.ピルグリム・ファーザーズは迫害を逃れたと言うが、それほどか弱い存在だったピューリタンがなぜ20年後に天下を取るのか、この変化がわからない。これがわからないと清教徒革命がわからないというくらいの大問題だ。

9.議会が国王に抗議するということは、国民の過半が反国王ということか。その何割くらいがピューリタンか、国教会の信徒はどうだったのか。

10.ジェームズ、チャールズはともにスコットランド出身であり、かれらはスコットランドにおいてはカルヴィン派を容認していたはずだ。どうしてイングランドの国教会を押し付けるのか。

11.スコットランドは国王と戦争し、勝ったあともチャールズを国王とし続けたのか。そうだとすれば、スコットランドにとって国王の地位はどういうものだったのか。

12.国教会の態度が分からないが、一貫して国王を支持したのか。

13.王党派の態度がわからない。途中までは議会派と行動をともにしており、単純なチャールズ派ではないと思うが、なぜ国王を支持したのかを明らかにしなければならない。

14.王党派は貴族と特権商人というが、議会派の主流である長老派も貴族・大商人の代表と書かれている。貴族・大商人の政治的、宗教的色分けはどうなっていたのか。

15.ジェントリーとヨーマンというのがよくわからない。彼らがなぜピューリタンだったのかもわからない。

16.ピューリタンは歌舞音曲を禁じたと言うが、みずからもそういう生活を送っていたのだろうか。シェークスピア以来の芸術家たちは王党派に走ったのだろうか。

17.スコットランドと議会派が東部連合軍を作ったというが、その効果はあったのだろうか。スコットランド側の思惑は何だったのだろうか。

18.クロムウェルは軍内から長老派を排除したと言うが、それはいかにして可能だったのか。それはスコットランドとの同盟に悪影響を及ぼさなかったのだろうか。

19.内戦中に生まれたレベラーズはまことに興味深い組織だ。片手間で済む話ではなさそうなので、クエーカーとも絡めて別の機会に。

20.第二次内乱を起こしたのは誰か、指導者は誰か。国教会はどう動いたか。

21.チャールズ2世はどのようにしてスコットランドに入ったのか。スコットランド政府はこれを受け入れたのか。長老派はどのような態度をとったのか。

22.ミルトンについての記述が1行だけある。もう少し膨らませなければならない。

23.真正水平派・ディガーズも同様。もう少し文献を探す必要あり。

24.クロムウェルはかつての盟友である議会のピューリタン独立派とも衝突し、これを追放した。どこが違っていたのか、どこが気に入らなかったのか。

25.イングランドに併合されたスコットランドの政体はどのようになったのか。たんなるイングランドの一地方なのか。スコットランドの王党派や長老派はどのような扱いになったのか。

26.こんな時にスペインと戦争を始めている。国内はメチャメチャだと言うのに一体どういうつもりなのだ。

27.55年の国王は反乱の内容がわからない。だいたいこのあたりから、文献の量がめっきり減ってくる。清教徒革命がどうして崩壊していくのかを知るのにはだいじなところなのだが。

28.リチャードの護国卿就任にいたる経過、および辞任に至る経過が目下不明。

29.チャールズ2世のドーヴァー上陸は共和側の将軍がお膳立てして行われたようであるが、その詳細は不明。

とまぁ、こんなことを考えながら作業をしていくのだから、情報が増えるに従って、作業スピードはそれに反比例するかのように落ちていく。

もう2、3日は作業を続行してみたいと思う。


革命前期

1603 女王エリザベス1世が亡くなる。処女王として世継ぎを残さなかった。このためヘンリー7世以来続いていたテューダー朝が断絶する。

1603 スコットランド王ジェームズ6世が後継者として迎えられ、イングランド王ジェームズ1世として即位。スチュアート王朝が始まる。イングランドとスコットランドは同君連合となる。

1605 火薬陰謀事件が発生。カトリック教徒の貴族がウェストミンスターの爆破を計画。政府はカトリック教徒抑圧令(06年)を制定し、弾圧に当たる。

ジェームズはメアリ(エリザベスに処刑されたスコットランド女王)の息子でカトリック信者であったが、イングランド国王に即位するにあたり、国教会を尊重する立場を明らかにした。陰謀団はこれに憤激し、国王と政府幹部らを吹き飛ばそうとしたとされる。

1609 ジェームス1世が議会で演説し、王権神授説を主張。

発言の裏にはいろんなことが考えられる。外様として6年我慢していたのが、ようやく権力を発揮し始めた。王権を主張するために議会まで行って訴えなければならないほどに、王権は弱かった。「これからはあんたがたの指図を受けないよ」という宣言

1616    国王の側近だったフランシス・ベーコンが追放される。議会は王へ抗議文

1618 大陸で三十年戦争始まる

1620年 政府と国教会によるピューリタンへの攻撃が強まる。ピルグリム・ファーザーズ、迫害を逃れ新大陸に渡る。

国教会の教義は新教に近いが、カトリック的な形式が残されている。カルヴィン派はこの形式を新教にふさわしいものにしようとした。広義にはカルヴィン派はすべて清教徒である。そのなかで穏健派(長老派)は国教会内での改革を目指した。独立派は国教会からの独立を目指した。狭義には独立派を指して清教徒という。
ピューリタンというのは“ピュアな人”の意味だが、元の使われ方は「頑固者」を指す俗語のようである。同じように、オランダではカルヴィン主義者は「ゴイセン」(乞銭)と自称している。

1621 下院がジェームズ1世への「大抗議」を決議。  

1623 「独占大条令」が議会で成立。エリザベス女王以来の「独占特許」が原則禁止される。実際にはその後も横行したようである。

1625 ジェームズ1世が死去。チャールズ1世が後継者として即位。

1626    チャールス1世、歳入確保のため船舶税を新設、強制公債を発行。

船舶税: 沿岸を襲う海賊と戦うための資金とされる。無意味となった「休眠税」を復活させたもの。ジョン・ハムデン議員は公然と支払いを拒否した。
1628    議会開催、「権利の請願」を採択し国王に提出。
権利の請願: エドワード=コーク議員が中心となり起草。コモン・ロー(慣習法)の尊重、議会の同意を得ない課税や上納金、不法な逮捕・投獄などを止めるようもとめる。その法的拠りどころとして1215年のマグナ・カルタをあげる。
1629 チャールズ1世、「権利の請願」を拒否、議会を解散する。議会は解散にあたり「権利の3箇条」を決議。
チャールズ1世はこのあと議会なしで専制政治を行った。国王の側近のカンタベリー大主教ロードとストラフォード伯の二人が実際の政治にあたったので、この間をロード=ストラフォード体制ともいう。
国教会の教義が強制されてピューリタンは弾圧され、トン税・ポンド税などの関税、船舶税などが拡大された。
1634 清教徒の政治家ウィリアム・プリン、国王夫妻を中傷したとして耳そぎの刑を科せられる。37年にはもう片方の耳も削がれる。その後収監され長期議会の際に釈放。

1637年 チャールズ、スコットランドに主教制度と国教会の祈祷書・儀式を強制する。当時のスコットランドは長老派(プレスビテリアン)が国教となっていた。長老派はエジンバラで国民盟約を結び対抗。

スコットランド国王はカトリックだったが、1567年に国王の不始末が元で政変が起こり、ジェームズが即位した。この時カルヴァン派(長老派)が国教と定められた。

1638 ハムデンを被告とする「船舶税」裁判。「いかなる法律よりも国王の意志がまさる」との判決。
1638 ロンドンの商人ジョン・リルバーン(後のレベラーズ指導者)、チャールズの宗教政策を批判する文書を配布し、投獄される。

1639 第一次主教戦争が発生。スコットランド長老派、教会総会で監督制度廃止を決議し反乱を起こす。両軍はベリックで対峙したが、不利を察知したイングランド軍が闘わずして撤退。

1640年

4 チャールズ1世、スコットランド戦争の費用を捻出するため11年ぶりに議会を開催。議員の多くが戦費のための課税に反対。このため議論は紛糾し、合意が得られないまま3週間で解散。短期議会と呼ばれる。この後チャールズ1世はアイルランド議会(カトリック)からわずかばかりの戦費を調達。

8月28日 第二次主教戦争。ニューバーンの戦いで両軍が激突、スコットランド盟約軍の圧勝に終わる。イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の割譲、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を支払うことで和解。

11月 賠償金財源の確保のため、ふたたび議会を招集。会期が長期にわたったため長期議会と呼ばれる。議会は冒頭、「大諫奏」(大抗議書)を提出。

議会では翌年にかけて国王を追い込むさまざまな決議が上げられた。①独占(エリザベス女王時代・チャールズ1世が特権的商人に独占権を乱発していた)を禁止する。独占に関わっている議員を追放する。②議会の同意のないトン税・ポンド税は廃止、船舶税は不法とされる。③三年に一度は議会を開催しなければならないと定めた「3年議会法」、④暴威をふるっていた星室庁および高等宗務官裁判所を廃止する。これらはほぼ全会一致で採択された。

1641年

5月 ストラフォード伯(Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford)が処刑される。元議会派でありながら国王の右腕となり、辣腕を振るった。

10 アイルランドで反乱勃発。カトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立。プロテスタントのイングランド人入植者数千人を殺害する。その後イングランドとの交渉は難航。

10 アイルランドの反乱が伝えられると、議会ではチャールズが反乱を口実に国王専制を企んでいるという見方が広がる。議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書」を議会に提出する。

「大諫議書」をめぐっては意見がわかれた。王党派が反対に回ったため11票差での可決であった。これを機に議会は王党派と議会派に分裂する。

王党派は爵位貴族や特権商人、ジェントリ保守派などで構成。イギリス国教派が多くを占めた。地域的にはヨークを中心とするイングランドの北部・西部。議会派は大部分のジェントリ(爵位を持たない地方領主)やヨーマン(豪農)、商工業者などで構成。多くはピューリタンであった。ロンドンを中心に東部や南部に支持基盤を持つ。

ただし、王党派といっても「チャールズいのち」というわけではない。むしろかなり怒っている。国王に縛りをかけるさまざまな決議にはすべて賛成している。王党派といっても、カルヴィン派の進出への恐れから消極的に支持しているにすぎないのではないか。


 革命・内戦期

1642年

1月 議会が分裂しているとみたチャールズ1世は、自ら兵を率いて議場に赴き、ジョン・ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求する。議会はこれを拒否する。

1月 チャールズは北部の王党派拠点ヨークに向かい、戦闘準備に取りかかった。これを見た議会は「民兵条例」を採択して軍事権を掌握する。

7月10日 第一次イングランド内戦が勃発。国王派(騎士党)がノッティンガムで挙兵、Siege of Hull で最初の干戈が交えられた。戦闘は各州内部で入り乱れて戦われた。初期は正規軍を中核とする王党派が有利であった。

騎士党と円頂党: 議会派(円頂党ともいう)と王党派(騎士党とも言う)の違いは必ずしも明確ではない。議会派にはピューリタンが多く、国王派には国教徒が多かった。しかし階級的にはジェントリ層が二分されており、単純に階級対立とは言えない。また中間派も多かった。

8月10日 ポーツマス包囲戦。議会派が砦を陥れて勝利した

9月23日 パウィック橋の戦い。騎士たちの活躍により王党派が勝利する。ここまでは一進一退の攻防

議会派の中心は当初は長老派であった。貴族・大商人を代表する長老派は、スコットランドと手を結び、国教会に対して長老主義の教会組織を全国に広げる戦略をとった。
しかし戦闘の展開とともに独立派が台頭してきた。地主や裕福なジェントリの代表たる独立派は、教会は聖職者のものでなく独立した平信徒によって運営されるべきであると主張した。また軍隊の力を背景に国王との徹底対決を主張した。
10月 エッジヒルの戦い。王党派優位のうちに終わり、議会派軍は多大な出血を余儀なくされる。このあと国王軍はロンドン攻略をいったん断念。オックスフォードに本拠をおき北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。

ジェントリーの一員、オリバー・クロムウェルは議会軍の練度の低さを痛感。「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい」と悟る。私費を投じて熱列信仰者による騎兵部隊「鉄騎隊」(Ironside)を組織・訓練した。
11月 Battle of Aylesbury、Battle of Brentford、Battle of Turnham Green が相次ぐ。
1642年 ピューリタンの訴えによりロンドン中の劇場が閉鎖される。クリスマスのお祝いの禁止など、庶民の娯楽がいっさい禁じられる。

1643年

1月 Battle of Braddock Down、Battle of Leeds。

3月 First Battle of Middlewich、Battle of Hopton Heath、Battle of Seacroft Moor。

4月 Battle of Camp Hill、Siege of Reading、Battle of Sourton Down。

5月 Battle of Stratton

6月 Battle of Chalgrove Field

6月30日 アドウォルトン・ムーアの戦い。フェアファクス軍が敗走するなど、議会軍の弱体さが際立つ。

7月 Battle of Lansdowne、Battle of Roundway Down、Storming of Bristol、Battle of Gainsborough

8月 グロスター包囲戦

9月3日 ロンドン近郊に迫りくる王党派軍を前に、イングランド議会派がスコットランド盟約派と同盟。議会軍の他にスコットランドの支援を受けた東部連合軍(ジェントリー部隊の連合体)が成立。クロムウェルの部隊もここに所属。

9月 Battle of Aldbourne Chase、第一次ニューバリーの戦い

10月 Siege of Hull、Battle of Heptonstall

10月11日 クロムウェルの「鉄騎隊」がウィンスビーの戦いで王党派軍に一矢を報いる。

11月 Battle of Olney Bridge、Siege of Basing House

12月 議会派の指導者ジョン・ピムが末期ガンで死去。

12月 Battle of Alton、Second Battle of Middlewich

43年 ウェストミンスター教会会議が開かれる。国教会を長老教会体制に改革する計画が進む。

1644年

44年 スコットランド盟約派軍が、チャールズの軍との内戦 (Scottish Civil War) を開始。

7月 マーストン・ムーアの戦い。議会軍にスコットランド盟約軍、東部連合軍を加え、王党軍本拠地のヨーク近郊で戦闘となる。クロムウェル鉄騎兵の奮戦で議会派が勝利するが、王党派はなお主力を温存。

1645年

2月 「ニューモデル・アーミー」条例が成立。議会派軍の指揮権を握ったクロムウェル、議会軍司令部から長老派を追放し、軍全体を新型軍に改組する。

6月 ネーズビーの決戦。クロムウェルの率いる「新型軍」が王党派軍を壊滅に追い込む。敗れたチャールズはスコットランドに亡命。これにより第一次イングランド内戦は事実上終結する。

内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

English_civil_war_map_1642_to_1645
45年 内戦勝利後の展望、とくに議会派軍の扱いをめぐり、議会派内の相違が明らかになる。

軍から排除された長老派は、国王派と立憲君主制により妥協を図ろうとした。これに対し独立派は共和制に移行するよう主張した。
45年 議会派勢力内に第三の潮流「水平派」(レベラーズ)が台頭する。彼らの主要な政治基盤は議会派軍の下級兵士内にあり、ロンドンの手工業者・職人層を中心に組織されていた。宗義よりも財産権・参政権を強く求めた。指導者はジョン・リルバーン。

1646年

3月 王党派の本拠地オックスフォードが陥落。ついで国王軍最後の拠点チェスターも陥落。チャールズはスコットランドに逃れる。

5 スコットランド内戦、長老派の勝利に終わる。チャールズ1世は長老派軍に投降する。息子のチャールズ2世は母と弟ジェームズと共にフランスに亡命。その後48年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグに移ったが、翌年初めに共和政府と親交を結ぶオランダ連邦議会の圧力で、フランスへ戻る。

1647年

1月 スコットランド軍、チャールズ1世,イングランドの議会軍に引き渡す。チャールズ1世はそのまま幽閉される。

47年 軍の全権を握ったクロムウェル、議会改正法を提出。王制に制限をかける。議会内で長老派と独立派との派閥抗争が深まる。

秋 「パトニー討論」が行われる。水平派が、人民主権の共和国構想を柱とする憲法草案(「人民協定」)を作成。水兵派は議会に足場を持たないため草案を軍幹部に提出する。クロムウェルの右腕(娘婿)ヘンリ・アイアトンとのあいだに激しい討論が行われる。

1648年

48年 第2次内乱。議会軍の分裂に乗じて国王軍の残存勢力が反乱を起こす。長老派は動揺的態度を繰り返す。独立派は水平派(レベラーズ)と和解して反革命軍に対抗。

48年 長老派を支援するスコットランド軍、チャールス奪回のため侵入。

48年 プレストンの戦い。議会軍が反革命軍に勝利。

12月 「プライドの追放」事件。議会派軍プライド大佐が議会に入る。議会内の長老派を追放し、独立派だけで構成する「残部(ランプ)議会」を形成。クロムウェルはプライドの行動を支持した。一方スコットランドは長老派の弾圧に怒り、王党派を支持するようになる。

1649年

1月 独立派、チャールズ1世を処刑。国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、裁判委員は後に「国王殺し」とよばれた。有力ジェントリは独立派から離れる。

それは将来展望もなく、まず国王殺しから始まった。1月4日下院のみの決議で「国王チャールズ1世処刑のための最高裁判所」が設置された。裁判委員は135名が任命されたが、多くは就任を拒否し実際には60名程度に留まった。
20日から裁判が開始された。国王は「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」とされ、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であると論難された。
27日、死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名した。30日、チャールズ1世はホワイトホール宮殿外の処刑台で、衆人環視のもと断首刑に処せられた。
2月 革命の主導権を握った独立派は、革命の成果の独占を図ろうとした。水平派との同盟を解消し、さらに弾圧に転じた。
3月 独立派議会、君主制の廃止と貴族院の廃止を宣言。

廃止の理由: ①王という職は不必要であり、負担の多いものであり、人民の自由、安全および公けの利益に有害である。②貴族院(上院)も「人民に無用有害」である。
5月 バーフォードの闘い。給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派が反乱。ただちに鎮圧された。指導者リルバーンらは逮捕された。リルバーンは後に政治から離れ、クウェーカー教徒として信仰の道に入る。
5月 残部議会派、共和政府(コモンウェルス)の成立を宣言。国政は一院制の議会と、41名からなる国務会議(大半が議員を兼ねた)が統治することになる。

イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。今後、この国は最高権威すなわち議会によって、王や貴族院なしに統治される。
8月 共和政府のクロムウェル軍、アイルランドに侵攻。11年にわたる アイルランド同盟の支配に終止符を打つ。遠征軍は宗教的な使命感から、、「緑の島を荒れ地に変えた」といわれるほどの残虐行為を重ねた。

49年 ミルトンは国王処刑を非難する出版に対抗して、革命による国王処刑の正統性を弁護する論陣を張ったという。

49年 水平派に替わって「真正水平派」が登場する。ジェラルド・ウィンスタンリーが指導。新政府はこれらの人々を弾圧した。

土地を勝手に掘る人たちという意味で「ディガーズ」とも呼ばれた。

主要な基盤は零細農民で、私有財産制を否定し、土地の共同所有と共同耕作を提唱した。さらに社会改革の徹底、土地の共同所有、男女の法律・教育上の絶対的平等を求めた。この社会主義的な変革要求は、保守化したジェントリたちに危険思想として拒絶された。


1650年

2月5日 スコットランドの長老派政府は、チャールズ2世をスコットランド王として推戴すると宣言。

6月 チャールズ1世の子、チャールズ2世が亡命先のパリからスコットランドに入り即位を宣言。イングランド反抗を目論む。長老派も反イングランド感情からこれを支持する。

6月 イングランド議会はただちにスコットランド進撃を決議。

7月 クロムウェルを総司令官とするイングランド軍1万6千人がスコットランドに侵入

9月 ダンバーの戦い。クロムウェル軍がスコットランド軍を撃破。スコットランド軍の戦死3000、捕虜1万人。このあとクロムウェルはイングランドに戻る。

1651年

1月 チャールズ2世、パース近郊のスコーンで戴冠式を挙行。

9月 クロムウェル軍が再び出動。ウースターで国王軍を殲滅。チャールズは樹上で一夜を過ごした後、フランスに亡命。このあとクロムウェル軍はスコットランドを征服する。

10月 共和政府、スコットランド併合を宣言。

10月 共和国政府はライバル関係にあったオランダを中継貿易から締め出す航海法を制定。オランダ船の出入を禁止し、アジアからの富を満載してくるオランダ船を襲撃し始めた。


クロムウェル独裁期

1652年

5月 第1次英蘭戦争が始まる。2年後にイギリスの勝利に終わる。

5月 共和政府軍、アイルランド平定を完了。教会領の分配が開始される。

1653年

4月 クロムウェル、「残部議会」の解散を要求。クロムウェルは軍隊を率いて議会に乗り込む。この後、クロムウェルの意向に沿った改革が進行。

7月 軍が推薦した議員による「指名議会」が成立。軍が一枚岩でないのを反映して議会も一枚岩ではなかった。議会はジェントリの権益を保護する「コモンロー」をめぐり、廃止派、存続派、中間派に分かれた。

指名議会は別名ベアボーン議会とも称される。ベアボーンは下層階級出身の商人。ベアボーンが議員となったため、残部議会が指名議会を非難するときの格好の標的となった。
議会は王政への復帰を意図してクロムウェルに王位の提供を申し出たが、軍隊が強く反対したため、クロムウェルも断念せざるを得なかった。

53年 指名議会、アイルランドとスコットランドの独立議会を禁止。イングランド議会に議席を与えられたが、定数は不当に少なく抑えられる。

12月 軍隊幹部により「統治章典」が作成される。イギリス初の成文憲法となる。国家元首の地位を護国卿(Lord Protector)と定める。実体としては軍将校とピューリタン急進派の独裁だった。

全国を12の軍管区に分けて統治、軍政官を置いて地方行政を担当させた。多くが成り上がり軍政官で、支持基盤を欠いていたため、地方行政は混乱する。

農民の貧困の最大の原因となったジェントリーによる「囲い込み」(エンクロージャー)は、むしろこの時期に進行する。


1654年

4月 オランダと講和。第一次英蘭戦争が終了。

4月 スコットランドはイングランドに吸収され、合邦が宣言された。

54年 英西戦争が始まる。共和政府軍がダンケルクを占領。

54年 イングランド共和国とオランダがウェストミンスター条約を締結、オラニエ=ナッサウ家(オレンジ公)のチャールズ2世への援助を断つ。

54年 フランスもイングランド共和国に近付いたため、チャールズはドイツのケルンに亡命。

1655年

3月 国王派の反乱が起きる。反体制勢力への取り締り強化

55年 指名議会で急進派が勢力を拡大。コモンロー廃止の方向が強まる。クロムウェルは議会を解散し独裁を敷く。

1656年

9月 クロムウェル。第二議会を招集

56年 チャールズ2世、スペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに宮廷を構える。最初はブリュージュ、その後ブリュッセル。

1657年

3月 議会は政治安定のため、王政復活を試みる。 「謙虚な請願と勧告」と称する統治章典の改正案を提出。クロムウェルは国王就任にまんざらではなかったらしいが、軍部の反対により構想は挫折。

6月 統治章典の改正。クロムウェルの後継者指名権、貴族院復活などをふくむ新体制(実際に復活したのは60年)。

1658年

58年 クロムウェル,護国卿体制下の第二議会を解散

9月3日 クロムウェル、インフルエンザで死亡。享年59歳。息子のリチャードが護国卿に就任。父親の腹心であったジョン・サーローが彼を補佐するが、すでにタガが外れた共和制の存続は絶望的となる。

1659年

5月 リチャード、強権政治を試みるが議会の反発を前に、辞任に追い込まれる。この後元首不在の状況が続く。

リチャードは、オリバーの3男(2人の兄はすでに死亡)。護国卿となったのが32歳で、実戦の経験もなく人を束ねる器量もなかった。その後王政が復古するとフランスに亡命。政界に関わらず余生を送る。
5月 ニューモデル軍の長老派は残部議会を再招集。この後、議会が影響力を拡大し軍の権威は失墜していく。

10月 残部議会、軍内強硬派ランバート将軍を罷免。翌日ランバートが議会を閉鎖し権力を掌握する。

12月 スコットランド方面軍司令官ジョージ・マンク、ロンドンでランバートと会談。議会の招集を要求する。ランバートがこれを拒否したことから話し合いは物別れに終わる。


1660年

1月 マンク、ランバートの独走を許さず、イングランドに兵を進める。ランバート軍は戦わずに敗走。ランバートは捕らえられる。

2月 スコットランド軍およびイングランド軍総司令官となったマンクの統率の下、長老派もふくめた「長期議会」が再開される。一方でチャールズ2世と連絡を取り、王政復古の道を探る。

4月 王党派も含めた仮議会が招集される。これとともに貴族院が復活。

4月4日 チャールズ2世がブリュッセルからオランダに移り、「ブレダ宣言」を発表。革命中の言動に対する大赦。信仰の自由,革命中に購入された土地財産への保証,軍隊の未払い給与の支払いを約した。諸改革はそのまま引き継がれることとなり、スコットランドとアイルランドに独立議会の再開を保証する。

4月25日 マンクの組織した仮議会が開かれる。王党派が多数を占める。

5月1日 仮議会、「ブレダ宣言」を受けチャールズを正式な君主として認める。これを受けたモンクはチャールズ2世を王位に迎えると発表。共和政府内に反対の声なし。

5月29日 チャールズ2世がロンドンに入る。民衆は熱狂的な歓迎。


クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、さらし首にされる。その妻子も処刑された。ほかに30名の革命首謀者が死刑となる。マンクはアルベマール公・大将軍に就任。

長期議会の初期に可決された改革立法の多くはそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着する。

革命中に王党派から没収された土地は、ほとんどそのままとなる。革命の恩恵を被ったジェントリが、毛織物などのマニュファクチュア経営,炭鉱などを展開。近代イギリス社会の担い手となる。


 

ホッブスの背景となった清教徒革命(Puritan Revolution)について勉強しなければならない。本当に知らないことばかりだ。受験のときは世界史とっているはずなのになぁ。



いろいろサイト巡りをしている間に、これはかなり長期に渡るものだということが分かった。

エリザベス女王の死後、スコットランドのジェームス王が王位を継承したとことから始まり、1640年の王位簒奪とその後の内戦、クロムウェルの権力掌握と独裁への移行、そしてクロムウェルの死と政権の崩壊、王政復帰へという実に60年にわたる「革命」なのだ。

したがって、そこで何が「革命的に変わったか」がよく分からない。それをめぐってさまざまな議論が展開されている。間違いないのは、この清教徒革命とその時代というのが「近代世界の夜明け」を告げているということだ。


そのような「本質論」を横において、政治形態の面からだけ眺めると、それはフランス大革命から(もう少し遡ればルイ14世の死から)、ワーテルローの戦いまでのフランス大革命と比較できるのではないだろうか。とすれば名誉革命は1830年の「7月革命」ということになる。

もしこの比較が正しいとすれば、イギリスはフランスに150年先んじていることになる。本当にそうなのか、それには社会的・経済的土台、なかんづく生産力のレベルを検討してみなければならないだろう。


ということで、清教徒革命を①革命前期、②革命・内戦期、③クロムウェル独裁期の3つに大分けした上で、流れを記載していきたい。(と言っても、とりあえずはコピペの年表づくり)

ホッブスを学んで

学んでというのはウソで、表面をさらっと舐めただけだが、かなり高校時代の世界史で習ったのとは感じが違う。

ホッブスという人の実像はかなり進歩的でリベラルな人だ。君主制を主張したからというのは、当時の実情で見て判断しなければならない。

これからの勉強だが、クロムウェルと清教徒革命とは実際に暮らしていた人々にとってはかなり迷惑な革命だった可能性がある。

なんとなく私にとってはロシア革命とスターリンを連想するのである。

いわゆる「社会主義体制」が崩壊したいま、そこに残っているのは「ブルジョア独裁」のシステムである。

それは「社会主義体制」が成立する前から存在し、いまもそのまま存続している。現代社会が「資本家階級による階級制度」であるという事の本質は変わっていない。

ホッブスのときはピューリタンが支配する共和制が登場し、それに異を唱えるということは王政への復古につながることを覚悟しなければならないわけだ。

ホッブスが本質的には進歩派でありながらも、復古派として活動せざるを得なかったのは歴史の制約であろう。

もちろん、そこには民主主義というもう一つの政治的尺度がある。それは人民の自然権に基盤をおいた原理的に平等な世俗的な社会原則である。

ホッブスは共和派対王権派という対立構図の中で、より根底的な枠組みを提示している。民主主義(法の下での平等)が貫徹していれば、その形式が共和制であっても立憲君主制であっても、それは二義的なものだ。

スターリニズムが荒れ狂う社会のもとでは、資本主義への「回帰」が進歩的なスローガンであったように、クロムウェル独裁政治のもとでは王政復古が進歩的であった可能性もある。

これは当事者の立場に立たないとわからない状況であろう。

他のマイナーな話題にも触れておこう。

高齢者の活躍というと日本ではしばしば伊能忠敬が話題になる。50歳で隠居した後江戸に出て測量を学び、その後の23年間日本地図の作成に没頭した。

ホッブスはというと、一時ベーコンの助手を務めたものの、50歳ころまでは貴族の家庭教師で糊口を凌ぐ生活ぶりで、世間的には無名の人であった。

50歳で自然権を前提とする契約社会論を表して、ようやく名を挙げるが、それは逆に苦難の始まりでもあった。

清教徒に脅されてフランスに亡命し、家庭教師の道を見つけるがこれが後の国王になるという幸運に恵まれた。

しかし当面の暮らしにとっては、それは必ずしも幸運とはいえなかった。

63歳で満を持して発表した「リヴァイアサン」は大当たりを取った。まぁ表紙を見れば分かるようにいかにも対手向きだ。しかしこの書物は共和派からも王党派からも指弾され、フランスでの亡命生活も不可能になった。

その年、必死の思い出クロムウェルに詫びを入れてイギリスに戻る。それから10年間、クロムウェルがどういう思いで生活したかは定かではない。

10年後、クロムウェル政府は崩壊し、王政復古が実現する。フランス時代の教え子であるチャールズ2世が即位する。

とは言ってもホッブスの居心地は決して心地よいものではなかったろう。なにせクロムウェルの軍門に降って、チャールズの下を逃げ出した身だ。しかも「リヴァイアサン」は王党派内の守旧派グループにはすこぶる評判が良くない。

しかしチャールズはホッブスを許し顧問官のポストを与えた。これが73歳である。

ふつうなら後は悠々自適の生活を送ろうというものだが。ホッブスはその後も書きまくる。というより色んな人に論争をふっかけているらしい。

王党派も堪忍袋が切れたのか、議会で「リヴァイアサン」を禁書にするという決議を採決してしまう。

もう一度、ここでチャールズが登場してホッブスを救う。お陰で禁書処分は免れたが、チャールズからきついお灸をすえられ、政治的発言は止めざるを得なくなる。これが80歳のことだ。

その後は文芸論などを書いて暮らし、90歳にして一生を終えることになる。

どうも20年から30年この人の活動期は後ろにずれている。これから見れば私などまだまだ若造だ。

笹子トンネル事故は接触事故による天井板損傷

の記事について西山豊さんから直接コメントをいただきました。私の非礼な「ゲスの勘ぐり」に対して、あらためてお詫びを申し上げるとともに、「公開された資料だけを頼りに、1年余りかけた熟考」の努力に心から敬意を払いたいと思います。

さて西山さんから紹介されたページに早速行ってみました。

ウィキペディアに浩瀚な総説が掲載されていることには驚きました。時代は進んでいるのですね。流石にいささか持て余しています。

また西山さんの原著にも接する機会を得ました。

多分、笹子トンネル崩落の新事実 (2) ―車両の接触事故が引き金か というレビューが元ネタかと思われます。アップロードの日付は2016年12月25日となっています。

詳しくはそちらを直接お読みいただければと思いますが、「公開された資料」についてだけ紹介させていただきます。

これは「国土交通省のトンネル天井板の落下事故に関する調査・検討委員会」(事故調)の資料集の査読により発見されたとのことです。

この資料集の194~195ページに、「車両の接触等による天井板の損傷」という項目があるそうです。これは「中日本高速道路(株)報告資料」というレポートを転載したもののようです。

その要旨は以下のごとく紹介されています。

中日本高速道路会社が同社道路管制センター職員等に聞き取り調査をしたところでは、落下事故時に、天井板の損傷の直接的な原因となる事象(車両の天井板への接触等)は確認されていない。

過去には、①、②、③の天井板への車両の接触事故が確認されている…

ということで、それらの事故が紹介されているようです。

この「資料集」がリンクされているので、辿ってみました。

この資料は国土交通省のサイトの

ホーム >> 政策・仕事  >> 道路  >>  中央自動車道笹子トンネル天井板落下事故関連情報  >> トンネル天井板の落下事故に関する調査・検討委員会  >> 資料集

というところに格納されています。

全体の構造はこうなっています。

表紙・目次

・1. 事故概要と調査・検討委員会の設置等の対応経緯

・2. 笹子トンネルの基本諸元・設計・施工・維持管理状況について

・3. 調査・試験結果

この中の第3章第2節 事故区間の観察 というのが164~196ページにわたり記載されており、その中の第7項 車両の接触等による天井板の損傷(中日本高速道路(株)報告資料) というのがこれに当たるようです。

該当ページには事故の態様、損傷程度、点検作業などが表示されており、自動車の写真も掲載されていました。

以上のことから、事故調はこれらの接触事件を認識はしていた ことがわかりました。

ただ、今回の事故に結びつく可能性については検討していなかった 可能性があります。

そうすると、論点は天井板への横方向の外力が天頂部接着系ボルトにどのような影響を与えうるか に絞られてくるわけです。

事故調は「影響は無視しうる」と判断したから無視したのでしょうが、はたして無視しうるのか、ここが事実上の争点になってくるようです。

赤旗としては、この所を事故調の委員に問いただすなどの「裏とり作業」が必要になるでしょう。

それにしてもよく見つけ出したものだと思います。西山さんをはじめとする会の皆様のご奮闘に心から敬意を払いたいと思います。

「考える葦」についての断章

「考える葦」の全文は次のようになっている。(Pensee L200-B347)

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。しかしそれは考える葦である。

かれをおしつぶすために,宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でもかれを殺すのに十分である。

だが,たとえ宇宙がかれを押しつぶすとも,人問はかれを殺すものよりも尊いだろう。なぜなら,かれは自分が死ぬことと,宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。

宇宙は何も知らない。

だから,われわれの尊厳のすべては,考えることのなかにある。

われわれはそこから立ちあがらなければならないのであって,われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。

だから,よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

以下は山田さんの読み込みである。

パスカルが人間の弱さを言うとき,モンテーニュが連想されているといわれる。だが人間が「考える葦」にたとえられるとき、人間の人間たる由縁はものを考える点にあると見なされている。パンセのなかにはデカルトにかなり近い定義もある。「自我は私が思考するところに存在する」

これに対して宇宙は無限なる空間であって,人間はその両極を知りえないまま「無限と虚無との,この二つの深淵の中間」に漂っている。その驚異を前にして私は恐れおののく。

(多分これはデカルトにかなり引きずられての発想であろう。今日では「思考」はそれほど根源的なものではないことが明らかになっている。もっとも根源となるのは宇宙に対して抗うことであり、抗いながら個別的同一性を維持することである)

だが宇宙はそうしたことを何も知らない。それは純粋に物理的な空間であって,昔人の考えた宇宙霊魂などではないからである。

「あらゆる物体,すなわち大空,星,大地,その王国などは精神の最も小さいものにもおよばない。精神はそれらすべてと自分自身とを認識するが,物体は何も認識しないからである」

思考(人間)は物体(宇宙)から截然と区別され,明らかに物体に対して優位に立つ。

空間によって,宇宙は私をつつみ一つの点として私をのみこむ。思考によって私は宇宙をつつむ。

(これはデカルトというよりアウグスティヌスの箴言である。このあと、パスカルはデカルトの主体論・認識的理解に接近する)

人間は考えるために創られている。それは彼のすべての価値である。その思考の順序は,自分から,また自分の創造主と自分の目的からはじまる。

(優れているのはここまで、あとは信仰論にへたり込んでいく。なぜパスカルがここで腰砕けになるのかはよくわからない)

研究の出立点とすべきは,物体的延長の世界を分析することではなく,自らの精神や神を考えることである。よく考えることに人間の尊厳と価値とがあり,そこに道徳の根本がある。

とまぁ、こんなところに落ち着いていくのであるが、これに対してデカルトはどうか。これについては山田さんがけちょんけちょんにやっつけている。

デカルトは無限宇宙を眺めても深淵は見ないし,なんの戦慄も覚えない。

かれはパスカルとは違って,自らの生死や世界の不可思議に身を震わせる繊細な精神の持ち主ではない。むしろ,きめの粗い幾何学的精神で人生・世界を割り切って生きる人である。

神によって与えられたこの生を確信をもって歩みたい,死を恐れずに生を愛しながらこの世界を生きたいと思うだけである。完全な道徳は諸学を踏まえた知恵の最終段階であり,仮りの道徳で当座をしのぐのがデカルトの生き方であった。

「そこまで言うか」とも思う。

パスカルの「考える葦」にはもう一つの側面がある。弱き者としての人間である。人間は考える点でたしかに偉大だが,同時に葦であるかぎりは相変わらず弱きものである。

パスカルはパンセの他の場所でこうも言っている。

人間の偉大さは,人間が自分が悲惨であることを知っている点で偉大なのである。樹木は自分が悲惨であることを知らない。したがって悲惨であるのを知るのは悲惨なことであるが,しかし人間が悲惨であるということを認識しているのは偉大なことである

偉大さがいくら強調されても,人間がそれによって悲惨な存在であることをやめるわけではないのである。

さらに言うなら、思考においてさえも人間の弱さは露呈する。考えることはその本性からしてきわめて偉大だが,「考える」といっても戦争をすることや王になることなど,ろくなことを考えないからである。

結局これも信仰の世界に行き着く。愛の秩序によってその矛盾を脱しえるというのである。パスカルは明らかにデカルトを乗り越え、スピノザ的汎神論の世界に踏み込んだ。しかし乗り越えた瞬間にへたり込んで、論理の世界から逃げ出してしまうのである。

(2)神の存在証明

以下略

以前、パスカルのデカルト批判を積極的に受け止めて評価したことがある。

「我思う、故に我有り」なんていうのは、風呂で屁をへってあぶくが破裂して「くせぇ、故に我有り」みたいな話だ。

それに比べれば「人間は考える葦である」なんてのは、かなり「いい感じ」だよね、という乗りである。

しかしこれで済ませていたのではあまりに情けない。情けないが、今さら原著に当たる馬力もない。

ということで、山田弘明さんの「パスカルとデカルト」(名古屋大学文学部研究論集)という解説を読んでお茶を濁すことにした。

 

イントロ

パスカルがデカルトから受けた影響は大きい。この二人は実際に面識があった。

デカルト批判のなかにパスカルの哲学の基本的スタンスが最も明瞭に現れている。

この論文では両者の交渉の事実関係を見たうえで(第一節),パスカルがデカルトに言及したテキストを分析する(第二節)。

そしてデカルト批判の中で「考える葦」と神の存在証明問題を吟味する(第三節)。

1.交渉の事実関係

実際の交渉を示すものとして,(1)父エチェンヌ・パスカルとデカルトとの関係,(2)デカルトのパスカルへの言及,(3)両者の会見,の三点をとりあげる。

(1)エチエンヌ・パスカルとデカルト

まず父エチェンヌ・パスカル(1588-1651)とデカルトとの関係である。息子パスカルは父からデカルトの読み方を教わったとも言える。

エチェンヌは,デカルトとほぼ同世代の人であり,同じ学者仲間であった。クレルモンの税務署長までなったが,元来が実証的な近代精神の持ち主であり,数学や自然学に通じていた。

アプリオリな理論よりも実験を重視する精神は,息子にも受け継がれた。

1638年,エチェンヌはデカルトの『幾何学』を批判したことがある。まもなく紳士としてデカルトと和解したという。

要するに幼いパスカルは,科学的精神の持ち主である父から,デカルトの評判と同時に批判も耳にしていた可能性がある。これがパスカルが抱いた最初のデカルト像である。

(2)デカルトのパスカル評

一方、デカルトは駆け出しの数学少年パスカルをどう評していたであろうか。

1640年、16歳のパスカルは「円錐曲線試論」を発表した。当時オランダにあったデカルトは,はなはだ冷ややかな態度をとった。

パスカル氏の息子の『円錐曲線試論』を受け取りました。半分も読まないうちに,これはデザルグ氏から学んだものだと思いました。

1647年、二人はパリで面会した。デカルトは水銀柱の実験についてパスカルに“サジェッション”を行っている。

しかしその後、この“上から目線のサジェッション”をめぐって両者に齟齬が生じ、関係は気まずいものとなっていく。

デカルトはパスカルから寄贈された新刊『真空に関する新実験』を読んで,「この小冊子を書いた青年は,その頭が少し真空にすぎるのではないか」と椰揄している。

デカルトから見たパスカルは,叩いておくべき生意気な若造というのが率直なところであったかと思われる。

(3)パスカルとデカルトとの会見

両者がパリで実際に会見したことは,二人の交渉の事実関係の最たるものである。しかし会見の中身についてはデカルト側とパスカル側でかなり異なっている。(内容については省略)

 

2.パスカルのデカルト批判

デカルトの影響の大きさを考えると,パスカルがデカルトに直接言及したことは意外に少ない。

言及の内容としては批判的なものが圧倒的に多い。

(1) ノエル神父宛て書簡

デカルトは微細物質説を主張し真空を否定していた。パスカルの真空説はデカルトに真っ向から対立するものであった。

パスカルはノエル神父宛の手紙の中で、デカルトの微細物質説を否定している。

ノエル神父はデカルトの旧師であり,その真空否定説に与していた。パスカルは科学的推論がどうあるべきかを示しながら微細物質説の不合理性を堂々と論じている。

微細物質説は現代の最も高名な,ある自然学者の所論であります。その自然学者は,感知しがたいある物質が宇宙の中にあると主張しています。そのことは神父様もその方の著書の中でお読みになられたと思います。

かれは,その存在が感覚では証明できないことを以ってその存在を信じるよりも,むしろその存在を否定する方により一層の正当性があると断ずる。

パスカルにとって,デカルトはまずこうした点で批判すべき対象であったのである。

(2)「説得術について」

私の基礎学力の問題かもしれないが、このあたりからにわかに村上さんの論旨が読み取りにくくなってくる。

パスカルは「説得術について」という文章を残している。そこでパスカルは一つの言葉を引用する。

「物質は本来,いかにしても思考することができない」

これはパスカルの言葉ではない。1200年前に聖アウグスティヌスが語った言葉である。

このアウグスティヌスの原理と,「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」というデカルトの原理とは,同じ論理の裏返しではないか、というのがパスカルの受け止めである。

第一に、「物質は本来,いかにしても思考することができない」というのは、「物質はその本質において非精神的なものとして措定されている」からである。

ただし、そのものズバリの表現はデカルトの文章にはない。

第二に、パスカルは「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」という命題について、独特の読み方をする。すなわち「わたしの存在を主張するよりも,わたしの本性が考える点にあることを示している」と読む。

難しい言い方だが、「人間には精神(わたし)という“非延長的なもの”があり、その精神(わたし)が考える。したがって考えるということはわたしの個別性を証明する行為である」ということになろうか。

物体の非思考性と精神の非延長性と,この二つが表裏一体をなしてデカルト的二元論を成立させている。そして思考の重要性についてはパスカルも深く賛同している。「考える葦」がまさにそうである。

ここで村上さんは第一命題(アウグスティヌス)の存在を知らなかったデカルトの狼狽ぶりを描いている。

デカルトは,「コギト・エルゴ・スム」がアウグスティヌスの言明に類似していることを知らなかった。さまざまな人からそれを指摘されたデカルトは、図書館で『神の国』を読み,なんとか違いを示そうと考えた。

自分はアウグスティヌスとは違って,考える私か非物質的な実体であって物体とはまったく異なることを言いたかった

というのがデカルトの弁明である。要するに,かれはスコラ的知識の欠如を暴露している。この「事件」をパスカルは下敷きにしているのである。

そろそろ村上さんのとりとめのない無駄話に苛ついてきた。

(4)「パンセ」

『パンセ』においてデカルトの名が登場するのは六つの断章である。いずれも短いフラングメントであって真意を知るのは難しい。

デカルト。大づかみにこう言うべきである。「これは形状と運動とから成っている」と。だが,それがどういう形や運動であるかを説明するのは無益であり,不確実であり,困難である。

村上さんの解釈では、「物体が形状と運動からなっていることは事実だが、物体(自然)は機械ではない。そこには神が必要だ」と主張していることになる。

それはそれとして事実だろうが、パスカルが「神」として持ち出しているのは、もう少し具体的なもの、客観的な「存在理由」ではないだろうか。

だから下記の村上さんの解釈には違和感を覚える。

信仰の問題をぬきにした自然学は,人間の魂の救済に役立だないがゆえに無益であり,真の知識にならないがゆえに不確実である。また無限な宇宙の探究は,有限な人間の及ぶところではないがゆえに困難である。そして「あらゆる哲学」(自然学・形而上学・道徳)は,それが信仰を拠り所としないかぎり学ぶに値しない

パスカルのデカルト批判は,このテーマの下に一貫している。

ここまでの議論を見る限り、明らかにデカルトは形而上学的で、いわば原理主義である。そしてそれはコギトという主観に収斂していく。これに対してパスカルは事実をありのままにとらえ、ますもって受け入れよと言っている。そして事実とは叙述的にしか定義できないと主張している。もちろんそのような諸事実の積み上げと推理によりそれらは真理となっていくし、実験によって動かし難く確証されていくのであるが。

そしてそのような対象的世界、所与としての自然こそがパスカルのいう「神」なのではないか。だからパスカルは「神」の名において「唯物論」を語っているともいえる。マルクス風に言えば「客観的観念論」ということになる。

村上さんはこの言葉をめぐる解釈をるる説明している。しかしあまりにもうっとうしいので、とりあえず飛ばしていくことにする。

ただパスカルは、宗教者としての自分についても語っており、「神」は理神論的レベルに留まるものではない。これは心の内面の問題である。

機械論的自然の原点に神を置き,自然の薀奥を究めてよしとするのは,理性の驕りであり「空しい好奇心」である。数学や自然学などは魂の救済に関して無益であり,全力を傾注すべきものではない。

ホッブス、ロック関連の年表

すみません。不勉強で知らなかったのですが、デカルト・パスカルとホッブス・ロック、それにスピノザが同時代人であることを知りませんでした。

どちらかと言うとデカルトやスピノザは哲学畑で登場するのに対し、イギリスの2人は「社会思想史」というわけのわからない学問の方で登場します。

しかし、ホッブスは1640年にパリへ、ロックは83年にオランダに亡命するなど、両者には明らかに交流があったと思われます。

どちらがより多く影響を与えたか。それは言うまでもなくホッブス・ロックの方でしょう。彼らは革命を闘い、歴史の最前線にいたからです。

ところがその辺が、これまでの知識ではまったく浮かび上がってきません。

少し調べてみます。

ヒュームとルソー・百科全書派については別の機会に回します。ベーコンはとても面白そうですが、こちらもいずれ。


1588 .トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)、聖職者の子として生まれる(-1679)

1588 スペイン無敵艦隊がイギリス海軍に敗北。

1600 イギリスが東インド会社を設立。

1603 日本で江戸幕府が成立。

1605 フランシス・ベーコン(44歳)、「学問の進歩」を発表。

1607 オックスフォード大学を卒業。貴族の家庭教師となる。アリストテレス学派の修辞をきらったという。

1610 ホッブス、貴族のヨーロッパ旅行に随行し最初のヨーロッパ遊学に出る。

1618 欧州で30年戦争が勃発(-48)

1620 ピルグリム・ファーザーズ、プリマス上陸

1620 ベーコン(59歳)。『ノヴム・オルガヌム』(新機関)を発表。「知は力なり」と主張。スコラ哲学を排し実験による研究を重視した。このため経験哲学の祖と呼ばれる。

1620  ホッブス32歳。ベーコンの助手として彼の口述筆記をしたり、著作をラテン語に訳したりする。

1621 ベーコンは大法官(最高裁長官)だったが収賄で失脚。ロンドン塔に一時幽閉される。その後官界を引退。

1625 オランダのグロティウスが「戦争と平和の法」を発表。

1626 ベーコン、鶏の冷凍実験中の発熱が元で死亡(65歳)

1629 ホップズが2度目の大陸旅行でユークリッド幾何学に出会う。

1630 二度目のヨーロッパ遊学(42歳)。ユークリッドの『幾何学』に惹かれたという。

1632 ロック生誕(-1704)。ホッブスとは44歳異なる。

1633 ガリレオ・ガリレイ、68歳で地動説を唱え異端裁判で有罪判決。

1636 ホッブス、ガリレオの理論に共鳴。48歳でガリレオを訪問する。「物体の自然状態は運動にあり、止めなければずっと動き続ける」とする考えを社会に当てはめようとする。実際はベーコンの影響下に経験論的政治学の確立を図ろうとしたものであろう。

ホッブスは事物の第一原理を「運動」(motion)に求め、人間の心の数々の運動の中で特に「死によってのみ消滅する永久不断の意欲」であり、人間の自己保存の衝動に結びつく「力への意欲」に着目した。

1637 デカルト『方法序説』を発表。この頃すでにデカルトは物理学者として名を成していた。ホッブスはデカルトの著作にも触れている。

1640 ホップズ、52歳にして「法学要論」を著す。動く物体としての人間が相互に影響を及ぼす中で、社会が形成されていると主張。王権神授説に対し人民の「自然権」を提唱。人民の委譲を受けた君主が国家を守護するという社会契約説を提唱。

美濃部達吉の「天皇機関説」みたいなもので、王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。

1641 徳川家光による鎖国体制確立。清とオランダのみに門戸が開かれる。

1642 イギリスで内乱(クロムウェル)が勃発。ホッブス、政情不安の中で絶対王政の支持者とみなされ、フランスへ亡命。

ホッブスはもともと王党派的な考え方を持っていたが、クロムウェルによる政治を目にしてからは、政治的なアナーキーに対する憎悪感をいっそう強めた。

1642 ホッブス、『市民論 De Cive』を匿名で発表。ダイナミックな人間の相互作用が、政治力学に与える結果を提示しようと試みる。

1645 イングランド王太子(のちのチャールズ2世)パリに亡命。ホッブズが彼の数学教師となる

1647 ホッブズ、イングランド国教会の洗礼を受ける

1648 30年戟争が終結。ウェストフアリア条約が結ばれる。神聖ローマ帝国の事実上の解体とスイス、オランダの独立。

1649 クロムウェル、チャールズ1世を処刑、共和制を宣言する。10年間にわたる独裁。

1651 「リヴァイアサン」を発刊。

リヴァイアサンの内容については他文献を参照のこと。ただし主権者の意志にただひとつの留保を加えたことを銘記すべきだ。それは「人間の自己保存はあらゆるものに優先する。主権者が自分たちの安全を脅かすような場合には、それに抵抗する権利がある」という考えだ

リヴァイアサン初版の表紙: 巨人リヴァイアサンの体は無数の人間からできている。絵には描かれていないが、リヴァイアサンに対抗するもう一つの怪物がある。それは万人の相争う自然状態をもたらす「ビヒーモス」という存在である。
ビヒーモスの出現による国家の崩壊をふせぐためにはリヴァイアサンを強くする必要があるというのがホッブスの主張だ。

リヴァイアサン

1651 ホッブス63歳、大赦を受けクロムウェル支配下のイギリスに戻る。リヴァイアサンの無神論とカトリック攻撃がフランス政府を怒らせたため居づらくなったとされる。

1655 さまざまな論争を手がける中で 『物体論 De Corpore』、 『自由、必然、偶然に関する諸問題』、『人間論 De Hormine』などを出版する。

1660 王政復古。チャールズ二世はホッブス72歳を相談役に据える。

1661 ルイ14世の親政開始。

1661 ニュートン、19歳で万有引力の法則を提唱。

1662 ロンドン王立協会が設立される。『哲学会報』を刊行。

1663年 スピノザ、『デカルトの哲学原理』

1666 下院、「リヴァイアサン」を発禁処分にするよう決議。チャールズ二世の拒否権発動により実現せず。この後、ホッブスの言論活動は抑制される。

1670 パスカルの論集「パンセ」が発表される。

1670年 スピノザ『神学・政治論』。

1674 スピノザ、『エチカ」

1679 ホッブス、91歳で死亡。

1681 ホップズ『哲学者と法学徒との対話』、死後に発行される。

1683 ロック、ジェームズ2世の王位継承に反対し、51歳でオランダに亡命。

1688 イギリスで名誉革命が勃発。王権の優位を覆す。

1688 ロックがイギリスに帰国。

1689 イギリスで権利章典が制定される。

1689 ロック『統治二論」。社会契約説にもとづく市民社会の政治原則として、人民の抵抗権・革命権を唱える。

1690 ロック『人間悟性論」を著す。ニュートン原理に基づきイギリス経験論哲学を整理する。

笹子トンネル事故からもう4年を経過したのだ。ずっと気にはなっていたのだが、何か事故原因がスッキリせぬまま時間が過ぎ去ってしまった。

やはり、アンカーボルト屋さんの「絶対に抜けない」という、必死とも思える訴えがどうしても耳に残ってしまうのである。

たしかに国土交通省の引抜き試験でも、工法そのものに「強度に問題はない」と結論付けられている。ということで、なんとなく迷宮入りしてしまった感がある。

7日の赤旗一面トップはその原因に関する記事。「おぉ、そうだったのか」と思わず膝を打ってしまう。名探偵ポアロの出現だ。

以下記事の概要を紹介する。

まず見出しを並べておく。

笹子トンネル天井板 トラック接触 事故前に2回

中日本高速 対応せず 崩落誘発か

技術者・学者グループが調査

この関連記事が15面にあって、こちらの見出しは

点検 12年の空白

中日本高速 笹子トンネル 天井板上部

見逃し、撤去引き伸ばし

ということで、だいたい見出しだけ見れば中身がわかるくらいしつこい。

結局、見出しのほとんどは調査グループの報告の要点であるから、まずはこの調査グループについて紹介しよう。

グループの名称は「笹子トンネルの真相を探る会」。詳細は不明だが、技術者や大学教授らで形成され、代表は大阪経済大学の西山豊教授。

会の趣旨は、事故の原因究明と、関係者の刑事告発をすすめること、いわゆる「中立機関」ではなく、行政から独立したものである。

当然、会社側の協力を得られる可能性はなく、公表された資料の分析・検討で得られた結論ということになる。そのことはあらかじめ念頭に置いておいたほうが良い。

報告の中核的事実は、崩落事故以前に起きた3回の事故。中日本高速の作成した資料の中から探し出したものである。

トラックが接触して上りトンネルの天井板を損傷させた事故は明らかになっているもので3回あった。このうち2回は大事故であった。

1回目は2000年。この時の事故の詳細は不明。

2回めの事故が発生(発覚?)したのは05年9月。発生現場は目撃されていないが、4地点で計540メートにわたって接触痕が見つかっている。

3回めは08年6月。このときは高さ25センチ、オーバーのトラックが進入し、3キロにわたって天井板と接触したまま走行した。

とうことで、ちょっと信じられない事故だ。それが1度ならず3回も起きているということだから、高さ制限ゲートも設けていなかったとしか思えない。それ自体が刑事罰に相当する大問題だ。

以上が第一の核心的事実

次が事故後の対応だ。

そもそも天井板は吊り下げ強度を基準にして設計されているはずで、横からぶつけられることなど想定していないだろう。

アンカーボルトの吊り下げ強度は一気に低下する可能性がある。そんなことはサルでも分かる。

だから想定外の状況に対して、しっかりと点検しなければならないはずだ。

それで次の表が、会社側資料に基づく点検実績。

ごちゃごちゃとして分かりにくいが、要するに1回目の事故の後を除けば、何にもしていないのである。

点検

ただ私には、こういった点検が行われたかどうかという以前の、技術屋としてのイロハが欠如しているところが決定的な問題だと思う。

高さ制限の遵守、接触事故の予防策と対応策、横ずれ負荷による引っ張り強度減弱の可能性、これらは道路屋として最低限頭において置かなければならない話なのではないだろうか。

医者なら三度やったら間違いなくクビだ。こいつらは反省さえしていない。

以前、私はこう書いた。

手抜き工事も、点検の手抜きも明らかだ。しかし、それはそれとして、調査の核心は技術的な問題がなかったかどうかだ。いかにして落ちたのかを明らかにしないと、なぜ落ちたのかという理由は見えてこない

反省を込めて書き直す。

なぜ落ちたのかという理由 が明らかになれば、いかにして落ちたのか はどうでも良くなる。落ちるべくして落ちたのだ。

以上が第二の核心的事実

そして最後の核心的事実。

すなわち、接触事故で損傷した部分が落ちたのだ、ということ。

崩落部

まさに落ちるべくして落ちたのだということだ。


「西山豊」で検索したら下記のレビューにヒットした。

笹子トンネル事故を考える 科学者の社会的責任から

「日本の科学者」(むかし読者だったことがある。いまでも続いているんだ)の2013年7月号の記事である。

西山さんの肩書は数学者であり、こちら方面はシロウトである。しかしよく調べている。残念ながら、この時点では結論としては「施工ミスではなく設計ミスだ」というところに留まっている。

ゲスの勘ぐりだが、ひょっとすると内部、あるいは調査委員会筋からの情報提供があったのではないか。

2013年01月09日

2013年01月09日

2013年01月09日

2013年01月10日

2013年01月10日

2013年03月17日


追記 西山さんからコメントをいただきました。コメントに対するリプライを下記に掲載しました。

アントニオ・ネグリ的な「帝国」が姿を現しているのかもしれない。
資本はその本質上祖国を持たない。マルクスは「資本が祖国を持たない以上、労働者も祖国を持たない」と言った。しかし当時は、それは「万国の労働者よ、団結せよ」という呼びかけに終わるしかなかった。
世界資本主義が成立しようとする今、労働者は祖国を失い、砂のように流動化しつつある。それはゴビ砂漠が万里の長城を飲み込むように、いたるところで国境を超え、既成政治を越えて流動化しつつある。これがマルチチュードだ。それはネット世界のヴァーチャルな存在ではない、生贄としての生身のマルチチュードだ。

では国家はそうやって世界資本主義の前に無力化し、消滅し、1%の富裕層による単一市場国家、ネグリのいう「帝国」が誕生するのだろうか。それはありえない。
グローバル資本は、寄生虫が宿主を必要とするように、本質的に国家と国境を必要とするからである。彼らはゲバルトを必要とし、ゲバルトにより囲まれた安全地帯を必要とするからである。
イギリスの移民排斥、その延長線としてのEU離脱は、古き良き時代への懐古に過ぎず、決して庶民本来の要求ではない。
イギリスは移民先進国である。ロンドンの下町に行けば、生粋のイギリス人を探すほうが難しいくらいだ。
イギリスの庶民の苦しみは移民の増加によるものではなく、実体経済の空洞化によるものである。イギリスはあらゆる経済自主権を放棄することによって、「世界一金融資本に優しい国」となり、金融マーケットとしての地位を確保した。
その過程で庶民の暮らしは無視され、その多くが無為徒食の民となることを強いられた。
今そうやって獲得した金融マーケットとしての地位がEUによって侵食されようとしたから、金融資本家は離脱の動きを煽った。彼らには彼らの意のままになる「国家」が必要だったのである。
貧富の差の拡大を基盤として、この金融資本家たちの相矛盾した行動が、社会の混乱を煽っているのである。
トランプには国内産業の保護と、みずからもその一員である金融資本やグローバル企業の保護という政策矛盾がある。同じようにヒラリーについた金融資本家にも矛盾がある。
いま世の中はこうした矛盾に満ち溢れているが、それは1%の超富裕層対99%の貧民という構図がもたらしたものだ。そしてその構図がいまだ多くの人に明示されていないという過渡的状況がもたらしたものだ。
しかし多くの人々がエスタブリッシュメントの支配に耐えきれず、行動に移り始めたという根本的な流れを、我々は見落としてはならない。
「民」を先進国に移転するのではなく、「富」を途上国に移転すべきだ。劣悪な労働条件を先進国に持ち込むのではなく、ディーセントな労働条件を途上国に広げるべきだ。
世界中に膨大な貧困があり、有り余るほどの欲求があり、世界中に未開拓の労働力があるのだから、社会の生産力はまだまだ大幅に向上できるはずだ。
そのために諸国家にはまだし残したことが莫大にあるはずだ。EUの積極的側面を無視するわけではないが、その前に国家が資本から自立し、庶民政治の拠点として再活性化されるべきだ。「死滅する」には早すぎる。
これが2016年から17年にかけての流れだ。たしかに物騒な局面を含んではいるが、この庶民の動きの底流を信じよう。

ネグリ自身について書いた記事もあったはずだが、目下見当たらない。


そもそも先史時代の年表を作成しようと思ったのだが、とにかく異説が多すぎて仕事にならない。
少なくとも2000年以前の文献はほとんど役に立たない。
困ったことに、「何年に作成しました」というクレジットは大抵入っていないから、文献あさりは徒労どころかむしろさらなる混乱を招く。それこそ世紀の年表の他に先史時代の研究史の年表を作らなければならないほどだ。
信頼に足る(ということは欧米の研究実績を踏まえた)本を一冊手に入れて、熟読玩味したほうが良さそうだ。
いったん作業は中止し、できかけの年表はゴミ箱に捨てることにする。
年明け早々、馬鹿なことをしてしまった。

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