鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

しばらく読みかけにしていた杉谷さんの本を、最後まで読み切った。
読後感はかなり爽快である。
本の後半は化石掘りの体験記である。
最初の、わずか一週間の貧乏オーストラリア発掘旅行で、宝物の大型微化石を見つけてしまったこと、それを世に出すまでのはかりしれぬ苦労。次々に追い越されていく焦り。
宝物探しみたいな研究は本当の学問じゃないとかいう陰口、エトセトラ。
「こんなものを見つけてしまったために、一生を棒に振ってしまった」と言えなくもない人生。
老眼になるほどに顕微鏡を覗き続けて達した現在の境地だということが、実感を持って迫ってくる。
その中で勉強になったのが二つ、
一つは生物化石の確からしさの二つの条件、年代的な確からしさと生物的な確からしさだ。それぞれに何項目もあって厳しく条件付けられている。この「確からしさの条件」は長年の論争の中で積み上げられてきたものだけに、ほかの分野でも十分応用の効くものだと思う。ただ絶望的なまでに煩雑で、とても憶える気にはなれない。一応そういうものがあるということだけは覚えておこう。
二つ目は、そういう過程を経てここ数年のあいだに、それらが生物化石であることがほぼ確定されたということだ。
これは炭素同位元素化石ではなく、しっかりと胞体でもって確認された細胞である。大型微化石として確認されたレンズ型の細胞は、杉谷さんによれば34億年前の南アフリカ、そして30億年前のオーストラリアのものである。その後者に杉谷さんの発見した微化石も関連している。
これで私としても、安んじて年表に書き込むことができる。
もちろん炭素同位元素化石はさらに歴史を遡るであろう。ただしそれは「今はまだ34億年をはるかに遡ること数億年」と言うかたちでしか書けない。

今こそ、第二のストックホルム・アピールが必要だ。

相争う二つの勢力が意地を張り合っている。このような馬鹿げた意地の張り合いなどもうたくさんだ。

一つ間違えば世界を存亡の縁に追い込むような賭けを、世界のすべての人は許す訳にはいかない。

どちらにどのような言い分があるにせよ、世界の人にとっては迷惑千万だ。「撃ってみろや→パーン」は絶対困るのである。

とにかく話し合いのテーブルにつけ。

これがまず一つ、最初の呼びかけだ。

二番目には、とかく東アジアには争いの種が多すぎるということだ。そして東アジア自身も、周囲の非アジア諸国も過剰に反応しすぎていることだ。

北朝鮮問題にも明らかなように、もはや東アジアの問題は東アジアだけでは解決できなくなっている。

まずは関係国すべてが問題を総ざらえして、包括的な解決の方向に向けて歩調を合わせていかなければならない。そうしないと、いつまでたっても東アジア問題は解決しない。それはすべての関係国にとって不利益だ。

懸案問題は、多少時間がかかってもいいから包括的に解決しよう。

これが第二の呼びかけだ。

三番目は、いかなる国も、東アジア非戦の運きに対して妨害となるような行動を起こすなということだ。

あらゆる関係国のあらゆる努力は上の2点に絞って集中されるべきである。

東アジア諸国間には、それ以外にも多くの懸案事項がある。尖閣をふくむ領土問題、慰安婦をふくむ戦後処理問題、人権、拉致問題、関税など数え上げればキリがない。

それらは別途解決されるべき課題ではあるが、国家主権の相互尊重なくしては交渉の土台さえ成立しない。

さまざまな意見の違いは脇において、東アジアにおける多国間の核不使用・平和共存のルール作りを最優先すべきである。このことは、多国間協議の対象国のうち日本と韓国を除く4カ国が核保有国であるという現実を踏まえた時、決定的なポイントである。

各国政府は、以上を踏まえた「東アジアの平和」を目指す相互確認の実現をめざし早急な合意を実現すべきだ。

このような趣旨のアピールが発せられ、大方の支持を得られることが当面差し迫った課題であると思う。

多くの方々の反応を期待する。

前脳は間脳ではない!

ネットで嗅脳の記事をあさっているうちに、次第に腹が立ってきた。

まず「嗅脳は大脳辺縁系である」と決めつける。そして大脳辺縁系の役割をサラサラっと紹介して終わるのである。

大脳辺縁系の説明も偏見に満ちている。「古い、ださい」がひたすら連打される。その分類も、古いのと、超古いのと、それほど古くはないのという具合だ。つまり古いというのは時代遅れで滅びゆく脳だということだ。旅館でいえばトイレもないような旧館で、本館、別館、新館に役割を奪われ、「いずれ建て替えね」とささやかれている建物だ。

私ならこういう。視床と辺縁葉は、1階とロビー階だ。船でいうなら機関室だ。大脳は客室にすぎない。

だいたい間脳という言い方が悪い。いかにも中間管理職と小馬鹿にしている。そこは間脳ではなく前脳だ。脊椎動物が誕生したときから前脳は前脳だ。船長の居場所だ。そこは神経を経由する情報と体液を経由する情報の結節点だ。人間が生きていくための全情報と駆動力がそこに集中する。

大脳は流行りの言葉で言えば“A I”なのであって、衝突を予防したり、慣性飛行を司ったり、囲碁や将棋で無類の力を発揮はするが、それを命じるのは前脳なのだ。
総理大臣と内閣は、官僚機構が充実すれば不要になるだろうか(これはあくまでも脳科学の話であって、哲学や政治の話ではないが)

まぁとりあえずこのくらいでやめておこうか。

とにかく、いまだに「マクリーンの呪い」が世間を呪縛していることには、愕然とする。

これらの機能は聴覚や視覚よりも遅れて発達したのではないかと思う。

なぜなら聴覚も視覚も前脳・中脳・後脳という三脳構造の中にしっかりとハマっているからだ。それに引き換え嗅脳は宙ぶらりんだ。これには魚の時代から三脳構造ができあがっているところに、陸に上がってから急に嗅覚が大事になったので、外付けで嗅覚用の脳をこしらえたという事情があるのだろう。何かを流用した可能性もある。

もうひとつ、聴覚・視覚は感覚だけを脳に伝え、その情報への評価はあくまでも脳が行うが、嗅覚については好きか嫌いかという価値判断を伴って伝えられることだ。

だから良い音楽や良い絵画というのは人によってずいぶん違うが、香水が良い香りで、うなぎの蒲焼きが美味しそうな匂いで、おならが臭いのはすべての人間に共通する。

そこには脳の別館みたいなものがあるのではないか、国内の支店のように現地の生情報を上げても仕方がないので、そこでいったんレポートの形にして上申するということだ。

第三に、終脳を持たない動物にあって、そこにあるのが嗅脳だからだ。前脳の別館として嗅脳ができたのなら、それと同じようにして大脳もできたのではないか、と考えるのはきわめて自然だ。あるいはひょっとして嗅脳そのもの、あるいはその一部が大脳にまで肥大していったのではないか、というのもあながち妄想ではあるまい。
これらは、自説である「三脳説=大脳派生説」の必然的方向である。

ということで、その発生のあたりから調べてみたい。

以前から気になっていた室蘭に行ってきた。
室蘭には出張で何回も行っているのだが、その気で市内を見て回ったことはなかった。
多分、この地図を見てくれれば、誰しも、とっても気になる街だと思う。

室蘭
絵に描いたような良港だ。函館や小樽など比べ物にならない。港であればこうありたいという自然の条件をすべて備えている。広さはお釣りが来るほどで、防波堤など不要だ。後背地も広大だ。
しかし船の時代は終わってしまったから、どうしようもないのだ。
いまは乗換駅だった東室蘭が街の中心になっている。しかし室蘭駅はいまだに室蘭にある。市役所や市立病院やNHK放送局も室蘭にある。
室蘭本線は半島の西側をのたうつように走り室蘭の市街に至る。山裾に線路が敷かれているのだから仕方ないのだが、その海岸沿いは広く埋め立てられて新日鉄や日本製鋼の工場敷地になっているのだから、なんとなく割り切れないところがある。敷地の中を突っ切れば距離は半分で済むだろう。

かつて室蘭は北海道で5番目に大きい街だった。
都市人口推移
北海道が一番威勢が良かった昭和30年、札幌の人口は45万、これに次いで函館が23万、小樽が18万、旭川が14万、室蘭と釧路が11万、夕張が10万、帯広と苫小牧は5万足らずだった。
上の図では2000年までしかないが、2017年の今、状況はさらに惨憺たるものとなっている。

室蘭の地名はアイヌ色が濃厚だ。地図を見ても大黒島と白鳥大橋以外はすべてアイヌ語由来だ。駅名も輪西、御前水、母恋というふうに風情がある。
私は前から山の尾根を走る道路が気になっていた。どうしても一度走ってみたいと思っていた。あるひ、目が覚めて、天気が素晴らしいのに後押しされて、フッと出かけた。
札幌から110キロ、高速を使うと2時間でつく。ただし眠気はかなり強烈だ。100キロで走っていても車が止まっているように感じられる。
インターを降りて、地図でイタンキと書いてあるあたりから山道に入る。予想以上の難コースだ。しかし新日鉄の馬鹿でかい敷地を除けば景色は素晴らしい。日本製鋼を過ぎたあたりから尾根に出る。今度は太平洋が一望される。
地球岬からは噴火湾越しに恵山が目の前だ。これだけ美しい街なのに北海道の観光案内にも載らない理由は、ここがかつて公害の街だったからだ。
新日鉄の煙突から撒き散らされる鉄粉は、室蘭の町を赤茶色に染めた。企業城下町だったからそれを誰もなんとも言わなかった。もう50年も前、学生時代に泊まり込みで公害調査に来たことがある。細かい雪のように鉄粉が街なかを舞っていた。
それがいま高炉の火が消えて初めて美しさを取り戻した。
室蘭は観光の町としてもう一度再起すべきだと思う。
日本人は知らないが、中国人はそのことをよく知っている。地球岬は中国人だらけだ。



2016年12月20日 を作成。2017年02月03日 に1回増補している。その後、つい先日2回めの増補を行ったばかりである。


2017年9月10日、杉谷健一郎「オーストラリアの荒野によみがえる原始生命」(共立出版 2016)を読んだ。題名の印象とは異なり、かなり原始生命全般の解説も展開されており、しかも非常に読みやすい。「論争」の絶えない分野ではあるが、節度のあるレビューとなっていて共感できる。ただし学術論文でないせいもあり、年代表記は必ずしも厳密ではない。こういう文章が年表作者を一番困らせる。


杉谷さんの文章で一番困ったのが、先カンブリア紀の小区分である。

これまで私は仲田崇志さんの分類に従っていた。それが下記の図である。

原始地球

生物の起源~細胞生命の起源~」より転載

ところが、杉谷さんの本では下記のようになっている。(クリックで拡大)
杉谷
片や生物屋さん、片や地質屋さんであるが、それにしてもこれではバベルの塔状態である。

ポイントは二つあって、

①仲田さんの図は//が挿入されているように、不完全な図である。

②仲田さんの図は最終修正が2009年であり、杉谷さんの図は2016年のものである

ということで、どちらを採るかといえば杉谷さんの図を採るしかない。

しかしそれでは、こちらが納得出来ない。

①2009年には仲田さんの図が正しかったのか。

②その後名称が変わったのか

③始生代という言葉は消えたのか

ということで、仲田さんの文章をもう一度チェックしてみた

地質年代表

というページがあって、大変詳しい分類が紹介されている。この図は2017年の更新となっているから、杉谷さんよりさらに新しい。

やや煩雑で、しかも逆順なので、編集して紹介する。

45億6700万年前

地球誕生


冥王時代


40億3000万年前~

太古累代(始生期累代)

原太古代

36億年前

古太古代

32億年前

中太古代

28億年前

新太古代

25億年前 原生累代

古原生代

16億年前

中原生代

10億年前

新原生代

5億4100万年前

カンブリア爆発


顕生累代

古生代

2億5190万年前

中生代

6600万年前

新生代

ということで、旧仲田分類として私が把握していた分類法が間違いで、杉田分類が標準であることがわかった。

始生期という言葉は、いまは主流ではなくなっていることもわかった。英語は Archean で変わっていないから、訳語の問題らしい。おおかた学閥がらみの事情であろうが、太古のほうが適切であろう。


これに基づいて年表を訂正します。たいへんお騒がせしました。

1.「モノから情報へ」は誤り

「モノの時代は終わった。これからは情報の時代だ」と言われる。

身の回りの社会は、たしかに現象的にはそう見える。

しかし、この主張は、それらの情報自体がモノの生産を前提としでいるということを看過している。

というより、利潤率の点で魅力を失ったモノの生産は低賃金従属国に任せて、情報=技術・流通を先進国が独占するという構造を背後に隠している。

(医療・介護をふくめサービス労働を「生産労働」に組み込みたがる論者への素晴らしいプレゼントだ)

2.出産は「女性の生物学的悲劇」

100万年以上もむかしのアフリカのある晴れた日、二本足で立ってみたサルが、両手を使うことを知った。

それから、ヒトの脳とその容れ物は次第に大きくなった。その一方、二本足で立ったがゆえに母親の山道は狭まって、ほかの哺乳動物のように胎内で胎児が十分に育つことは不可能になった。

もしそうすれば、ヒトの母親は難産で死んでしまう。

気の遠くなるような長い生物学的淘汰を経て、未熟のまま子を早産できるような体質を備えたヒト属だけが生き延びられるようになる。

こうして「女性の生物学的悲劇」(ネミーロフ)が始まる。

母親はこの未熟な子を一人前にするのに長い間育児に拘束されるようになる。

以下の本論は若干、時代に制約されて月並みなものになっていくが、この書き出しの2つのエピソードは秀逸で、その筆力も相まっていまも十分に魅力的である。


うかつなことに、「独習指定文献」制度が廃止されたことは知らなかった。いかに不まじめな党員であるかがバレてしまった。

ウィキによると、2004年、「常に変動する政治情勢に対応するため、固定的な独習指定文献制度は時代に合わなくなった」とし、廃止されたのだそうだ。もう13年になる。

廃止直前、2001年ころの独習指定文献は下記のごとし。

初級

『日本共産党第22回大会決定』

『日本共産党綱領』

『日本共産党規約』

『自由と民主主義の宣言』

レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』

マルクス『賃金、価格および利潤』

エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』

『日本共産党第20回大会での党綱領の一部改定についての提案、報告、結語』

宮本顕治『党建設の基本方向』(新日本出版社)

不破哲三『綱領路線の今日的発展』(新日本出版社)

中・上級

レーニン『カール・マルクス』

エンゲルス『ルードウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』

マルクス『ゴータ綱領批判』

エンゲルス『反デューリング論』

レーニン『唯物論と経験批判論』

マルクス『資本論』

レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』

『日本共産党の70年』(新日本出版社)

宮本顕治『党史論』(新日本出版社)

不破哲三『スターリンと大国主義』(新日本新書)

不破哲三『ソ連・中国・北朝鮮――三つの覇権主義』(新日本出版社)

『日本共産党と宗教問題』(新日本文庫)

けっこう読んでない文献が多いなぁ。


私選、独習指定文献

1.ヘーゲル法哲学批判序説

若々しいマルクスの行動宣言で出発点だ。どうしても押さえておきたい。

2.経済学・哲学手稿

「疎外された労働」のところは趣旨としては分かりやすい。「ミル評注」も、ミルの理論も紹介しながら参考程度につけてやるといい。

第三草稿も面白いが、うんと枝葉を落として、うんと背景説明しないとわかりにくい。中・上級に。

3.ドイツ・イデオロギー

人間は食うために生活していること、食うために生活する人間が社会を作ると、どういう社会になるのか、これが良く分かる。

後ろの方の面倒なところはいらない。

4.哲学の貧困

ものすごく読みにくい本だが、プルードン(的なもの)への批判は、この先どうしても押さえて置かなければならない。マルクスは、初めはプルードンとケンカするために経済学を勉強したのだろうと思う。「ドイツ・イデオロギー」の後半部分、「聖家族」をふくめて「偽左翼」経済学への視点を鍛えるべきであろう。
背景説明をふくむ抜粋本があればいいのだが。中・上級に入れる。

5.共産党宣言

これを抜かすなんて信じられない。搾取というのが社会の最大の問題なんだ。

6.賃労働と資本

入門書として読むならこれしかない。これだけ読んでくれれば他は要らないくらいだ。足りないところは必要に応じて補えばいい。

「賃金・価格・利潤」は解説すると余計わかりにくくなるから、やめた方がいい。大事なことはアダム・スミス以来の経済学の決まり事を憶えることだ。

7.フォイエルバッハ論

分かり易いが、たくさんウソが混じっている。それをやり始めると難しくなる。ヘーゲルにはあえて触れないこと。

ほかにエンゲルスの著作、たとえば「家族」、「自然弁証法」、「空想から科学」は副読本扱いにして、指定文献には入れないほうがいい。マンガにすると若い人がとっつきやすいだろう。

8.ザスーリッチへの手紙

「未来社会」論に関して組合主義者が必ず持ち出してくるので、勉強はして置かなければならない。「経済学批判序説」の時代区分はあまりにも雑駁で、「あんなこと言わなきゃよかった」とマルクスは反省していたのだろう。全部読む必要はサラサラないので、抜粋本があると良い。中・上級

9.帝国主義論

レーニンといえばこれしかない。「国家と革命」も「唯物論と経験批判論」も要らない。ただ「何をなすべきか」は、いろいろ問題はあっても「面白いから読め」と勧めたい。

「金融資本を中心とする独占体」という概念は、グローバル化のもとでは大きく変質しているが、不均等発展の理論はいまなおホットだ。

10.極左日和見主義者の中傷と挑発

平和革命をリアリズムに基づいて説得する文書だ。日本共産党が初めて最初から最後まで自分の頭で考えて作った文書で、私には未だに理念的出発点だ。我々は「4.30論文」と言っていたが、東京の人は「4.29論文」と呼んでいる。それがちょっと悔しい。
袴田里見が講演に来て漫画チックな解説をした。岡正芳さんの講義はボソボソとして分かりにくかった。下司さんの発言は見当違い。米原さんが一番スッキリしていた。まぁ自分で読むのが一番だ。

11.現綱領関連文書

不破さんの貴重な置き土産。「冷戦終結論」で一触即発の雰囲気になったときに、不破さんが鮮やかな切り口で事態を収拾したことは忘れられない。とはいえ不破さんの語り口のスマートさに惑わされず、現綱領を自分のものにする必要がある。


マルクス主義というのは、哲学的にはヘーゲルの伝統を継ぐ弁証法論者であると宣言することであり、経済学的にはアダム・スミスとリカードの伝統を継ぐ労働価値説の陣営に立つことである。
運動的には、おそらくはフランス大革命における急進派(百科全書派)の主張を引き継ぐことではないだろうか。サン・シモンやオーウェンはそこからの派生であると思う。
あれこれの「社会主義」的な試みではなく、自由・平等・博愛の三位一体たる「民主主義の精神」の継承者としてみずからを位置づけるべきであろう。
ついでながら
「科学的社会主義」という言葉は心がけとしては正しい。しかし論争の相手が「非科学的」とは限らない。受け取る側に傲慢だと思われる可能性もある。
科学的であろうとすれば唯我独尊ではありえない。内心では確信しつつも、他人との関係では節度を保った使用法が必要である。

何気なく本棚の一冊を手に取った。
有斐閣新書「マルクス…著作と思想」という入門書だ。1982年の初版で私のもっているのは第4刷、85年の発行となっている。非共産党系マルクス主義者の集団著作だ。
おそらく「療養権の考察」を書いていた頃に買った本だ。かなり読み込んだ形跡があるが、「考察」の参考文献一覧には入っていない。独自的意味はないと判断したのだろう。多少「忖度」したかもしれない。
しかし冒頭の望月清司さんの文章はいま読んでもなかなか良いものだ。
考えてみると原光雄さん、三浦つとむさんから始まって、ずいぶん「異端」の文章に影響を受けている。
人間的諸活動を労働過程と享受・発展過程、社会的活動を生産活動と生活過程の統一として考えるのは中野徹三さんの影響だし、受苦と欲望を人間的発展の二つの動因と考えるのはルカーチの影響だ。

当時、私の積み重ねた「学習」の目的は、客観的には「共産主義読本」をいかに合理的に読み解くかということにあった。感想的結論として、「共産主義読本」は度し難い「スターリン的・非レーニン的文書」だと判断した。大きな声では言わなかったが、批判的に読むべきだということを示唆した。

70年代後半から80年代前半にかけては、そういう批判を許容する時代の雰囲気もあった。そのあと理不尽な反動がやって来て、理論課題が組織問題であるかのように攻撃され、かなりの人が「民主的軍国主義者」の犠牲になった。丸山真男が突如攻撃され、古在由重が除名され、「冷戦は終わっていない」と宣言された。
誰かが同志Mの認知症につけ込んだのだろう。

もちろん「異端」を自認する人の多くは「反スタ・スターリニスト」である。かつての北海道AALAの幹部であった中野徹三さんが、いまも進歩的な政治的役割を果たしているとは思えない。しかし本業のところでは傾聴すべきかなりの意見があることも事実であろう。

本日の赤旗2面
ちょと目立たないところに、志位さんの記者会見が紹介されている。
表現は考えられる限りもっとも穏やかなものとなっている。
憲法問題についてはぎりぎり、
「“立憲主義を壊す安倍政権には、そもそも憲法を変える資格がない”という点で野党は結束してきましたが、これからもこの一致点で結束していけると思います」ということで一致点を見出そうとしている。
消費税問題はさすがに同意はできないが、「税制についての考え方は違っても、当面の対応として前向きの合意が得られるようよく話し合っていきたい」と抑えた。
すでに4日の段階で小池書記局長の「共闘推進呼びかけ」が発せられており、トリプル補選を「国政私物化、情報隠蔽のモラルハザード、憲法を踏み破る安倍暴走政治」に対する国民の審判と位置づけた。今回の志位談話はそのための「政策的足かせ」を除くためのものであろう。
おそらく民進党の対応についての関係者議論は、水面下で進行しているに違いない。
その際の暗黙の前提としては、たとえば前項記事の山崎さんの7項目提案が下敷きになるだろう。(ただし第6項はみごとにずっこけたが、第7項はかろうじて維持されている)
念のため該当部を再掲しておく。

(1)安倍首相への批判に争点を絞る
(2)憲法と対共産党の議論は棚上げ
(3)選挙協力は実を取る
(4)「再分配政策」重視を打ち出す
(5)金融緩和継続と消費税率引き上げ延期を確約
(6)フレッシュな顔を前面に出す
(7)仲間割れしない!

これでお互い、とりあえずのトリプル補選での政策的ハードルは乗り越えられる。
あとは「新執行部の方々と、つかさ、つかさでよく話し合っていけば、協力していけるのではないかと期待しています」ということになる。
これは前項記事の松野頼久議員の発言を念頭に置いたものだろう。
いずれにしても、「共産党を除く…」風土の復活を阻止するためには、まさに「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍ぶ」方針だ。
例えば枝野が当選して右派議員が軒並み脱走し、連合が絶縁してもぬけの殻になった民進党が来ても、それだけでは日本を動かすことはできない、と見切った上での判断だ。
ただしこれは市民連合のプッシュがあってこその議論になる。野党共闘というのは野党の共闘ではなく、野党と市民との共闘なのだ。市民連合が「耐えてくれ」といえば耐えるしかない。ポジティブにも、ネガティブにも、そこに、今この瞬間の日本の政治状況がさしかかっている。
トリプル補選の行方がとんでもない重みを持つことになりそうだ。

民進党代表選と野党共闘の行方

9月1日に行われた民進党の代表選挙は、野党共闘の今後を占う上で、興味深いものであった。

しかし、一般メディア上ではこの問題に触れたものはほとんどない。わずかな手がかりをたぐりつつ、野党共闘の見通しについて探ってみたい。

例によって時刻表的に経過を追ってみたい。

1.都議選敗北と仙台の勝利

まずは7月都議会選挙の前後から、

7月2日に都議選が闘われ、小池都知事の与党として結成された「都民ファーストの会」が圧勝した。

まぁこれはいっときのブームみたいなもので、次の都議会まで持つかどうかも怪しい。

これを別とすれば、最大の特徴は自民党の大敗である。色々重なって最悪の状況で迎えた選挙だったから仕方ないにしても、公明党の支援を失った自民党がいかに脆いかが暴露された。

第二の特徴は共産党がブームに埋没せずに、既存陣地を守り、わずかながらも前進したことである。これまでは新党ブームが起きるたびに、その煽りをもっとも受けたのが共産党だった。それを考えると今回の選挙は「共産党ミニブーム」選挙だったと言っていいかもしれない。

ただ、僅差での当選がかなりあることから、これからもこのようにうまくいくとは限らない。

第三の特徴は民進党の惨敗である。これは連合の態度が大いに関係している。連合は民進党を脱走した連中をふくめ、小池新党に肩入れした。彼らは民進党の敗北の代わりに野党共闘派執行部の追い落としを狙った。そして見事に成功した。

「やはり連合なしには民進党は生きていけない」と言うことを、骨身に感じさせた。これによって野党共闘の発展にブレーキをかけようとした。

しかし市民はこれとは逆の反応を示した。都議選の直後に行われた仙台市長選挙では野党共闘の候補(民進党員)が現職市長を破ったのである。

2.股裂き状況と蓮坊体制の崩壊

こうして民進党は完全な股裂き状況に陥った。党そのものの明日を考えれば、野党共闘路線を走るしかない。これはまともな党員であれば誰が考えても分かる。

しかし、最大の支持母体である連合は、共産党をふくむ野党共闘は許せない。そのために、あえて民進党を支持せず自公連合やブーム政党に相乗りすることもいとわない。

こういう状況の中で進退窮まった蓮坊体制は崩壊していく。

7月27日、蓮舫が「党代表を辞職する」と発表した。「二重国籍問題」などという言いがかり的なキャンペーンも、やる気を失わせるには十分だったかもしれない。しかし執行部の取り続けた野党共闘推進姿勢が、強引に押しつぶされたと見るのがもっとも真相をついているのではないだろうか。

さらに連合は揺さぶりをかける。8月8日に 細野豪志が党代表代行を辞任、離党した。

共産党抜きの政界再編をめざすという。おそらくは小池新党や、場合によっては維新まで巻き込む野党連合の形成だ。

しかしこのような政界再編は、民進党の運命そのものを危うくする。かつて連合に見捨てられた社民党や自由党が辿った運命をみずからもたどることになる。

3.右派代表の前原が登場

直ちに次期代表を争うレースが開始れた。当初から前原対枝野の対決になることは明らかだった。

8月17日、前原が突如メディアに登場した。その記者会見は衝撃的でさえあった。

民進党から支持者が離れていく最大の原因は共産党との連携にある。共産党をふくむ野党連合の方針は解消する。

そして消費税増税も実現する、憲法改正にも積極的に取り組む…と驚きの内容が連打された。さぞ連合や経団連は喜んだことであろう。

しかしこのような方針が今の政治状況に見合っているとは到底思えない。これでは民進党の自殺行為ではないのか、と誰しも呆れただろうと思う。

多分言っている本人が一番良く分かっているのではないだろうか。

わたしはこれは練りに練られた一撃ではないかと思っている。党の存続をかけて、連合に詫びを入れたのではないだろうか。このような過激な言明は一度きりで、その後は聞かれていない。

党の解党的出直しのためには強いガバナンスを必要とする。そのためには連合にも頭を下げなくてはならない。

これ以上勝手な想像をしていても仕方ないので、次に進む。

4.前原・枝野の出来レース

8月21日、党首選が告示され、前原誠司と枝野幸男の2人が立候補した。今のところこの組み合わせしか考えられない。

両者の公約は1.自己責任型の社会ではなく支え合う社会を目指す。2.社会の多様性の尊重、3.党を基軸に政権交代を目指す,ことで一致。緊縮財政、消費税増税、金融緩和について意見が分かれる。(buzzfeed

比較

両者の理念は意外に似通っている。ウラで通じ合っているとも考えられる。

両者の公約は1.自己責任型の社会ではなく支え合う社会を目指す。2.社会の多様性の尊重、3.党を基軸に政権交代を目指す,ことで一致。緊縮財政、消費税増税、金融緩和について意見が分かれる。(buzzfeed)

しかし連合との関係では水と油である。だから前原は意図的に連合よりの候補であることを押し出したのではないだろうか。

当選後は枝野と二人三脚でやるという暗黙の了解があった可能性もある。

5.小沢一郎の影

こういう剣が峰での立ち回りは前原一人でできるものではない。

前原の推薦人には旧小沢派の2人が名を連ねる。小沢氏は「前原氏が勝利すれば、野党結集を打ち出すと思う」などと発言したという。(ismedia

地方での投票率は公表されていないが、岩手県選出の民進党国会議員は「全員が前原に投票した」と公言している。

報道によれば、小沢は共産党の不破哲三と太いパイプを持ち、野党共闘のフィクサーの役割を果たしている。

新潟県知事選挙での自由党、森議員の差配はみごとなものであった。民進党抜きで見切り発車した上で、事実上の野党共闘にこぎつけた。誰もその功績が一人、森議員のものだとは思わないだろう。

不破哲三は長年の国会議員経験を持ち、創共協定にも関わるなど、局面では博打も必要なことは分かっている。

前原はこれに乗った可能性がある。表の発言とウラでは意味が違うかもしれないと言われている。

前原の真意は党を割らないことであり、連合とのパイプを残しつつ、議席を確保することである。それは枝野も理解している。

どこまで押しても共産党が黙っているかを推し量りつつ、反共路線を押し出すことで右派の引き止めを図る。

これが前原の胸算用ではなかったろうか。

6.選挙の結果をどうみるか

9月1日国会議員の投票が行われ、前日に締め切った党員の投票と合わせて、前原の当選が決まった。

国会議員 前原 83票 枝野51票

公認予定者 前原 84票 枝野42票

合計 前原250pt  枝野144pt

全てを合計した結果、前原氏502pt、枝野氏332pt

ということで、枝野の予想以上の健闘という側面はあったものの、ほぼおさまり型の結果となった。枝野の顔も立った。

メディアの評価では、「枝野氏の予想外の善戦」で共闘路線への支持が根強いことが示される。「左派系議員を切る純化路線が取りにくくなった」とされる。

これはある意味で、狙い目でもある。

しかし、代表就任に当たっての前原の記者会見はそんな平穏なものではなかった。「厳しい党運営になると思ったのは、無効票の多さだ」と語っている。

国会議員8人は前原支持に回らず、あえて無効票を投じた。これは、共産党との共闘などに不満を持ち、すでに党を離れた細野らと気脈を通じる「離党予備軍」とされる。

連合の神津里季生会長は「目指す国家像が全く違う共産党と選挙で手を組むことはあり得ない」とあらためて釘を差した。

前原の右翼丸出しのポーズは、党内右派からかなり見透かされていると見なければならない。

ここに前原の最大の危機感がある。

7.10月22日までの動き

前原に残された時間・ハネムーン・ピリオドはきわめて限られている。連合がとりあえず差し出口を控えるのは10月22日のトリプル補選までであろう。

選挙次第では、連合は民進党から手を引く可能性もある。流石に維新とは行かなくても小池新党に合流する可能性は高い。そうなれば民進党の社民党・自由党化は避けられない。

各紙の世論調査で前原新代表に「期待しない」との回答は51.2パーセント(共同)で、「期待する」の40.3パーセントをかなり上回った。(連坊就任時は56.9%が期待を示す)

同党の政党支持率も毎日の調査で5%と低迷している。

どうしても議席がほしいとなれば、逆説的に野党共闘への傾斜は不可避である。

9月3日、次期国対委員長予定の松野頼久衆院議員は、「与党との一騎打ちに持ち込まなければ勝てない」と述べ、共産党を含めた野党共闘を維持すべきだとの考えを示した。

松野氏は「(野党共闘を)見直すとは言っても、やらないとは言っていない」と強調。

周囲の状況も慌ただしい。

代表選の翌日、小池都知事が側近の若狭勝衆院議員と会談し、「小池新党」を立ち上げる方針を確認した。

小池氏は「しがらみのない政治であるとか、大改革とか遂げられるような状況を国政でも作っていきたい」と意欲を示した。

山尾議員をめぐる報道も連日続いている。山尾は「保育園落ちた。日本死ね」の質問で一躍有名になったが、もともと経歴は芳しくない。

昨年、ガソリン代支出での不適切な処理を指摘され、「ガソリーヌ」というあだ名で呼ばれていた。

今年の仙台市長選では野党共闘候補を応援し、2週間後の横浜市長選では自公候補を推すという無節操ぶりである。

権力の標的とされ、民進党に残っても目がないと見るや、さっと逃げ出す足の速さは一流である。

今回の不倫疑惑は例によって公安と週刊文春の二人三脚であろうが、権力側が民進党の動向を野党共闘の成否の勘所と見て、攻撃に回ったことの証であろう。

いずれにしても10月のトリプル選挙だ。民進党がどうなろうとそれは民進党の問題だ。しかし権力が野党共闘を阻止するために民進党に的を絞ろうとしているなら、この選挙は天下分け目の戦いになるかもしれない。

追補

山崎元さんはわりと好きなエコノミストである。その山崎さんがダイアモンド・オンラインに面白い記事を載せていた。

前原・民進党は何をすべきだろうか。簡単にまとめるなら、以下の7点だ。

(1)安倍首相への批判に争点を絞る

(2)憲法と対共産党の議論は棚上げ

(3)選挙協力は実を取る

(4)「再分配政策」重視を打ち出す

(5)金融緩和継続と消費税率引き上げ延期を確約

(6)フレッシュな顔を前面に出す

(7)仲間割れしない!

リアルで適確だと思う。ただし民進党にとってはよろしいが、国民にとってよいかどうかは別。


レビコフのピアノ曲はリャードフやリャプノフと比べると本当に雑な作りだ。
それなりのピアニストだったら、忌避するか大げさな響きに編曲するだろう。メロディーも月並みなセンチメンタリズムだ。
ただし、中山晋平の「波浮の港」を聞いて「あぁなんていいんだろう」と思う人にはお薦めだ。
そんなメロディーが次々と湧き出てくる。そんなレビコフの真骨頂が作品8のピアノ小曲集「秋の夢」だ。
全部で16曲からなる。まず右手のメロディがあって、左手は控えめに和音を奏でる。小学生でも演奏できそうな曲ばかりだ。
rebikohu
私はアナトリ・シェルデヤコフのピアノ全曲集を買ったのでそれで聞けるが、You Tubeでは全曲という訳にはいかない。というか、ほとんど聞けない。
ソメロというひとのCDも買ったが、金正恩みたいな写真のジャケットはおよそ反芸術的な雰囲気満載だ。
“Rebikov” で検索してみてください。なんとなくハマること請け合いです。

の抜書(コピペ+私感)である。元ネタがお手軽というわけでは決してない。

Ⅰ リカードの「価値論」の意味

リカードは、スミス価値論の継承者である。彼はスミスの労働価値論を受け継ぎながら、そこにふくまれる曖昧さを排し、それをいっそう純化させた。そして、労働価値論を駆使して、「生産物の諸階級への分配に関する法則」を解明した。

リカードのスミス批判の意義は、個人がどんなにあがいても貫徹する経済の客観的法則を提示するという点にある。

スミスの命題には、個人の行動結果から類推して、それを経済全体の結果であるかのように見なすところがある。しかし経済法則を客観的に適用すれば逆の結果になる。

そこをリカードは示したのである。

という岡さんのコメント。スミス研究者から見れば、いささかカチンとくる叙述となっているかも知れない。


Ⅱ リカードはスミスから何を受け継いだのか

リカードがスミスから受け継いだのは『労働価値説』である。

リカードは、「原理」の中でスミスの所説のポイントを引用し、コメントしている。

1.交換価値(価値)と使用価値(効用)

価値が二つの側面を持っていることについて、リカードは完全に同意している。

スミスからの引用

「価値という言葉には、2つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値 、他方を交換価値と呼ぶことができる」

「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある」

後段の引用は「水とダイヤモンド」の挿話へと続くところである。

リカードのコメント

したがって、こう言える。

効用(使用価値)は交換価値を持つための必要条件ではあるが、効用は交換価値の尺度ではない。

ということで、話を労働の交換価値に絞ることを宣言する。

2.労働は交換価値の源となる

交換価値というのは「ある物の所有がもたらす他の財貨の購買力」であるから、その購買力の源は何かということになる。

スミスからの引用(ちょっと長い)

「あらゆる物の真の価格は、それを獲得する際の苦労と手数とである。それを欲する人に真に費やさせる物である。

ではそれをすでに取得していて、それをなにか別の物と交換したいと思っている人にとっては、それの値打ちとはなんだろうか。

それは交換によって節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである」

「未開の状態での相互交換に際して、物の取得に必要な労働量の多寡は、交換のルールを与える唯一の事情である。

一頭のビーバーを仕止めるのに費やされる労働が、一頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の二倍だとする。

そうすると一頭のビーバーは、当然二頭の鹿と交換されることになる」

この2つとも前回の奥山論文で紹介されているおなじみのところである。

スミスはここで一つの定式を打ち出す。
「商品にふくまれる労働量がその交換価値を規定するのである。

だとすれば、労働量の増加は必ず商品の価値を上昇させる。逆に、労働量の減少は必ずその価値を低下させるにちがいない」

リカードからのコメントはとくにない。ここまでの論理(投下労働=価値)について、リカードは全面的に受け止めたとみられる。

Ⅲ リカードはスミスの何を批判したのか

ところが、このあとスミスは価値標準について違う考えを持ち出す。

物の価値は、「それと交換される労働量」あるいは「それが市場で支配する労働量」によっても決まると言ったのである。

「何が“あるいは”だ。ぜんぜん違うじゃないか」とリカードは噛みついた。

リカードは「支配労働」論を認めなかった。そして「ここにスミスの混乱がある」と指摘したのである。

リカードはスミスの混乱の理由を、投下労働論を「初期未開の状態」に限定したことに求めた。「初期未開の状態」に通じることなら発達した社会にもそれは通じるはずだ、というのである。


1. 労働以外の生産手段の価値

ここからあとは、奥山さんの解説とだいぶ話が違ってくる。とりあえずそのまま紹介する。

私感: 労働以外の生産手段の価値についてはスミスにあっては曖昧であった。それらも「労働している」かのような擬人表現が見られる。生産と労働を混同した「労働」原理主義である。これは大地と日光が農作物を育て価値を生み出すという、重農主義の影響もあったのではないか。

リカードはスミスの「労働」原理主義に込められたすり替えを見逃しはしなかった。

ここにリカードは「時間差」というか「経時的観点」を持ち込んだ。リカードは言う。
労働と並んで使用される材料や器具や機械もまた、財貨の価値に貢献する。

それは、それらの材料や器具や機械の生産において投下された労働の量に応じてである。材料や器具や機械は過去の労働の産物である限りにおいて価値にふくまれる。

こうして、過去の労働を持ち込む形で、材料や器具や機械を労働価値説に取り込むことができたのである。

私感: 生産過程においては原材料は「使用価値」として加わるのであって、価格実現過程の話と混同してはいけないと思う。価格実現の話も、その前にまず剰余価値の配分の話を片付けてから取り掛からないとならないと思う。これらはいずれもう少し勉強した上で語ってみたい

② 地代や企業主の才覚の評価

スミスが主張した「労働原理主義」はリカードにおいても受け入れられたのである。ただし「支配労働」の否定という形をとってであるが。

スミスが“苦し紛れに”考えだした「支配労働」は、生産手段が過去からの労働の蓄積であるという考えをすれば、そんなものまでごたまぜにしておばけみたいな労働形態を考える必要はなくなる。

そうなると、支配労働のもう一つの要素である地代や企業主の才覚の評価が問題になる。

これについては、リカードはもう一つの素晴らしいアイデアを考えついた。それは「差額地代論」という理論である。
肥沃な土地は稀少である。だから肥沃でない土地も耕作せざるを得ない。
肥沃でない土地では、同じ量の穀物を生産するのに、より多くの労働の投入が必要となる。
穀物の価格は、最も劣った土地での投下労働量によって決まる。
なぜなら、穀物の価格がそれよりも低いと、最劣等の土地での農業は赤字になり、生産が続けられなくなるからである。
逆に、優等地の穀物は労働量(すなわち価値)を超える交換価値を市場において獲得することになる。したがって、優等地での生産は超過利潤を生む。

その結果、農業経営者間の競争が優良な土地にプレミアムを生むことになる。これが差額地代となる。
地代は農地の豊かさの証明ではなく、農地の相対的な貧しさの反映なのである。
それはマルクス流にいえば、労働の節約による「相対的剰余価値」の変形となる。
これがリカードの地代理論(差額地代論)である。

それではスミスはどう考えていたかというと、

農業では、自然(地力など)や家畜が人間と並んで労働をしていると考えた。そしてそれらが、人間の労働と同様に価値を生み出すと考えた。

そのゆえに、それらをふくめた“労働”の価値として地代が生じると考えた。

この素朴なアニミズムが「支配労働」説のオリジンであったのかもしれない。
リカードは差額地代論を練り上げることで、「支配労働」説の神話的根拠を突き崩したといえるだろう。

さらにいえば、リカードの差額地代論はケネーの農本主義的再生産表の根拠にも侵食しているといえる。

私感: 「差額地代論」はあまりにも鮮やかな一本背負いであるが、それだけに論理だけに寄り掛かるモロさも内蔵している。
これは一口で言えば、“マイナスの労働価値”である。肥沃な土地は生産物をより少ない労働で獲得することができる。この「労働の節約」分がいわゆる超過利潤となり、地代の源泉となるというのである。
ただしこれは究極のところ肥沃でない土地での労働によりあがなわれるので、労働価値の直接の反映ではない。
またそれは生産・分配過程の外で行われるものであり、別途論じるべきものではないだろうか。
リカードはそのあたりにまで考えが回っていなかった可能性がある。

このようにして、リカードはスミスの論理を使ってスミスの「支配労働」を否定した。

これにより原材料や生産手段が価値論に組み込まれ、同時に地代は価値の構成部分からは排除されたことになる。

Ⅳ 労働価値説に基づいた分配理論

ここから先は、スミスの継承というよりリカードが独自に開拓した理論となっていく。

スミスの論理を投下資本オンリー説で再構築していくと、価値はどのように分配されるか。

リカードはこれを賃金、利潤、地代に分けた。これはスミスの価値分解説を踏襲したものである。

賃金はまずもって生存賃金である。それは労働者の生存と再生産を可能にするために必要な生活物資の価値に等しい。

利潤は生産物の価値から、労働の賃金と他の生産手段の価値とを差し引いた残りである。これが資本家階級の所得となる。


リカードは利潤と賃金がトレード・オフの関係にあると提起している。

そして資本主義が発展すると、利潤率は低下する。

これは以下のようなメカニズムで説明されている。

資本が蓄積され、人口が増えると、穀物需要が増える。

それは耕作限界の拡大をもたらす。つまり、肥沃さの劣った土地が生産に引き入れられる。それは穀物の価値の騰貴をもたらし、それが優等地での地代を生む。穀物価値の上昇は、賃金を上昇させ、利潤を低下させる。

利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まり、人口も定常状態に達する。このとき、利潤はゼロ、賃金は相変わらず生存水準で、地代は最大になっている。これがリカードの描く分配の動学である。

私感: これが本当だったら、人類はとうの昔に破滅していたはずで、どこかに誤りがある。
リカードの差額地代論は、地代を賃金・利潤と同一カテゴリーに置くべきでないことを示唆している。また価値と交換価値のより厳密な使い分けを求めていると思う。

リカードの忠実な使徒だったマルクスはこの問題で悩んだ。

搾取者に弔いの鐘はならなかったし、搾取者が搾取される革命も起きなかった。

この結果を見て、マルクスはリカードを離れ、独自の道を模索するようになった。

これについてはまた別な文献で勉強しなければならない。

多少お神酒が入ったところで、もう一度アダム・スミスを語る。

アダム・スミスは画期的な労働価値説を打ち出しながら、「支配労働」というゴミ箱的概念を持ち込むことで、最終的には月並みな「生産費説」(価格=費用価格+平均利潤)に落ち着いてしまった。

労働価値説は生産費説を飾るちょっとおしゃれな彩りにしか過ぎなくなってしまった。

その背景には、①なんでも労働価値という「原理主義」、②これを背景にした「支配労働」論、③「支配労働」論を背景にした「自然価格」論(労働価値=すべてのコスト)という論理上の三段跳び(というか三段落ち)があった。

ところで「支配労働」は、利潤の源泉を労働に求めつつ、利潤と賃金の矛盾をなんとか説明しようとしたところから生まれたトリッキーな議論ではないか。

なぜなら搾取(人為的)を前提とする「自然」価格などあり得ようがないからである。

もう一つは、比較的小さな問題だが、地代まで労働の産物としてふくんでしまったことである。だれでも「流石にそれはないでしょう」ということになる。

ここでリカードゥが立ちはだかった。支配労働なんてくそくらえだ、と。

地代については「差額地代論」で整理がついた。それは利潤論へもつながる論理であり、支配労働論への痛烈な一撃だった。

それでスミスが覆い隠そうとした利潤と賃金の矛盾が、あからさまになってしまった。利潤というのは資本家が生産→販売という過程に紛れ込ませた「詐取」なのではないか、ということになる。

という展開になるのではないかと思うが、まずは勉強だ。

で、勉強は明日だ。もう頭は回らない。アルコールだけが回る。

奥山忠信 「労働価値論の思想と論理-アダム・スミスの遺産」政策科学学会年報 第4号

前項の宮川論文では、議論の前提となるスミスの理論についてさっぱりわからず、読解に大苦労した。
この論文はマル経のものではないが、その分、マルクスの小難しい表現に悩む必要がないだけ読みやすいだろう、と期待して読むことにする。
見出しは、原文の目次を無視して私が勝手につけたものである。
需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題を考え直すために、アダム・スミスの考察を中心に、古典派労働価値論の意義を再確認する。
ということなので、「古典派労働価値論の意義」のところを読めば、後半の「需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題」は読まなくて良いだろうと、ずる賢い発想。

Ⅰ はじめに 労働価値論の見直し
主流派の経済学は、伝統的に需要・供給曲線を書くところから始まる。そして需要曲線の右下がりの理由を「限界効用逓減の法則」に置く。
しかし仮に限界効用の逓減が正しいと仮定しても、これは消費の特定の場面での話であって、生産過程をふくめて経済活動全体を見渡したものではない。

アダム・スミスやマルクスの経済学に登場する資本家の行動はこのような限界理論とは異なる。
古典派経済学では、市場価格は需給関係で変動するが、自然価格は一定である。需要曲線がどのようにシフトしても、生産費によって自然価格は規定される。
資本は、価格が上がったから供給量を増やすのではなく、利潤量や利潤率を基準に供給量を増減したり、他部門に移動したりする。
だから自然価格は供給量や需要量とは無関係に一定である。(まぁ、相対的には影響を受けにくいということでしょう)
労働価値論は、現在の経済学においては異端派である。
しかし、本稿は、今日の経済学の説く価値論に強い疑問を持っている。
実体経済を考慮すると、むしろ、労働価値論や生産費説をベースとした古典派の価値論の方が現実性を持っているのではないか、と考える。
良いですね、この滑り出し。

アダム・スミスの労働価値論は、1776年に刊行された『国富論』に展開されている。
これまでスミス価値論は投下労働と支配労働の関係、価値分解説と価値構成説の関係で混乱しており評価に耐えないとされてきたが、いま、一定の再検討が求められているのではないか。

Ⅱ アダム・スミスの労働価値論 概要
1.重商主義者とスミス 労働価値論の出発点
スミス価値論を理解するためには分業論を知らなくてはならない。スミスはいう。
分業社会では、人々は商人的な性格を帯びる。相互に利己心を刺激つつ、互いに自分の欲するものを獲得する。だから交換は人間の本性に根差しているということができる。
(論旨とは無関係だが、この記載は利己心を人間の本性とする点でほとんどナンセンスだ。利己心は自己防衛本能とはまったく異なる。利他心と同様に歴史的なものだ)
もともと交換には相互需要の不一致という困難がつきまとう。この困難を解決するために、人々に広く受け入れられる商品を手元に保有しておく必要がある。
それが貨幣である。
この場合、手元に置く貨幣は富として蓄えられているわけではない。
それは購買手段として用いるために、一時的に手元で保存された価値なのである。
このあたりちょっと複雑だが、
スミスは重商主義者のように、富(自己目的としての致富)としての価値保存機能を説いているわけではない。
しかし、貨幣が流通手段(交換の道具)として機能するためには、少なくとも一時的には手元に置いておく必要があることを認めている。その限りでは価値保存機能(マインドもふくめて)も残されているといえる。
スミスは貨幣を、商業社会=文明国の普遍的な「商業の道具」と定義する。そこには、貨幣を「富」とする重商主義に対する批判の意味がある。
スミスにとっての富は、貨幣ではなく労働生産物である。
このあと、奥山さんの記載でちょっとわかりにくい一節がある。
スミスはリカードゥから貨幣数量論だとして批判されているが、それは誤解である。貨幣数量論はヒュームの主張したものであり、スミスはこれを批判している。
ヒュームら貨幣数量論者は、中南米から流入する金銀の増加が貨幣量の増加をもたらしたと説くが、スミスは支配労働の下落による貨幣価値の下落が物価を上げた、と説く。
これは何よりも明確な貨幣数量説批判になっている。
貨幣数量論についてはいずれ機会があれば検討することにする。支配労働については後で触れることにして、次に進む。

3.「国富論」第4章での予告的紹介
貨幣を論じた『国富論』第4章は貨幣論であるが、その最後に、第5章以降の価値論がざっと紹介される。
労働生産物の交換には自然のルールがあり、それが商品の相対的価値あるいは交換価値を決定する。こ
の法則の研究が必要だという。
それはマルクスがスミスを乗り越えつつ目指したものでもある。
① スミスの労働価値論における「自然のルール」
スミスは価値を2つの意味に分ける。
第1に使用価値(value in use)であり、第2に交換価値(value in exchange)である。
使用価値とは、使用に際しての有用性(utility)である。
これに対し交換価値というのは、財の所有を譲渡して他の財を購入する力である。
この辺は資本論の最初のところですね。しかし交換価値の規定はなかなか難しい。難しいということは、曖昧さをふくんでいるということにもつながる。
② いわゆる「水とダイヤモンド」問題
水ほど有用なものはないのに交換価値を持たず、ダイヤモンドは使用価値を持たないのに高い交換価値を持つ。
それはなぜか。
ダイヤモンドの美しさが価値を持つのではない。その使用価値が特殊な故に、人々が獲得するための困難を厭わない、ということに裏づけられている。
希少性や審美性は、より多くの労働に裏づけられて、高い価値を持つのである。
宝石は装飾品としてのほかは何の役にも立たない。その「美しさ」と言う値打ちは、その希少性によって、つまり鉱山から取得する時の困難さと費用によって定まる。
この辺はもう少し言い換えてみよう。
希少性について: ダイヤモンドは希少であるが故に価値を持つわけではない。希少であるが故に、より多くの労働に値するから価値を持つ。
審美性について: ダイヤモンドが使用価値を持たない、ということの意味は、衣食住のレベルの人間生活には役に立たない、という意味である。
美しさの持つ使用価値を否定していたわけではない。
この辺は、人間的欲望(の高次化)との関係で語るとより中身が豊富になりそうだ。

4.「国富論」第5章 生産物の価格について
次が第5章の価値論である。ここから少し話が難しくなってくる。
第5章のタイトルは以下の通り
「商品の真の価格と名目価格について、すなわちその労働による価格と貨幣による価格について」
つまり商品の「真の価格」は労働によって決められるが、それが貨幣で示されたのが名目価格ということであろう。
① 労働の量が価格の根本
スミスは生産につぎ込まれた労働の量が価格の根本だと言っているのである。
「世界のすべての富がもともと購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。
したがって、労働能力を所有する人が、労働と交換に何か新しいもの(商品)を得ようとする時、彼の労働量は購買できる価値と正確に等しいのである」
スミスはこれで、商品の不変の価値尺度をめぐる論争に確固とした方向性を与えた。
② 労働の多様性をどう処理するか
スミスは労働の多様性についても、時間、強度、難易度などは社会的な平均労働に還元できるとした。それは「市場での交渉や取引」によって、大まかながら調整されるのである。
その根拠となったのが「分業の進展による労働の単純化」である。
ここまではまったくその通りで、すばらしい。
5.投下労働と支配労働
ここから投下労働と支配労働の話が始まる。投下労働についてはまったく問題ないが、支配労働というところからおかしくなってくる。
とにかく読み進もう。
分業の進展により単純化された労働は、商品を生産するのに必要な労働である。これを投下労働という。
「あらゆるものの実質価格は、それを獲得するための労苦である」
俗っぽく言えば、労働の負担(cost)が実質価格(real price)なのである。

スミスの労働にはもう一つのカテゴリーがある。それが支配労働である。
支配労働は、分業と交換の社会において特別な意味を持つという。それは労働に何をもたらすか。
スミスはそれを自分の労働の節約として根拠付ける。なぜなら、労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもあるからである。
「彼自身の労働を節約でき、また他人に課すことができる労苦」
とされる。
これはどう考えても不適切なカテゴリーだ。マルクス流にいえば労働ではなく「搾取」だ。
スミスはあらゆるものを「労苦」の成果と考える。ある意味では正しいのだが、言い過ぎだ。
彼は生産手段も原料も地代さえも先人の「労苦」の賜物と考える。だからそれを利用することは他人の労働の成果を「支配」することになるのだ。
ここまで行くと、さすがに常識はずれの「労働」原理主義だ。ただ奥山さんの解説がやや舌足らずになっている可能性もある。
ただ、「労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもある」という主張は示唆に富むところがある。おいおい検討しなければならない。
とりあえず、支配労働については保留して先に進む。

6.貨幣がなぜ必要なのか
このようにして購買と販売は、等量労働の交換に帰結する。スミスは労働を「本源的な購買貨幣」と呼ぶ。
それでは、労働という真実尺度があるにもかかわらず、貨幣がなぜ必要なのか。
貨幣という名目尺度が必要となる理由をスミスは次のように説明する。
第1に、「異なる労働の比を尺度するのは困難である」からである。
たしかに労働の交換は理屈では分かるが、社会的平均労働を個別の交換に当てはめるのは難しい。
第2に、商品は労働と交換されるよりは、商品と交換されることが多いこと。
奥山さんは次のようなコメントを加えている。
それに商品や貨幣は手でつかめるわかりやすい対象物であるが、「労働」というのは抽象的概念であり、自然で明白だとは言えないのである。
たしかに常識的には正しいことだ。ただあまりにも常識的というか、皮相な捉え方ではないかとも思える。

Ⅲ 労働価値論と支配労働説
1.価値分解説と価値構成説
いよいよここから価値分解説と価値構成説の問題に入る。
まず、奥山さんによる定義から
価値分解説: 価値分解説とは、商品の価値は労働によって作られ、労働によって作られた価値が、賃金、利潤、地代に分解される、とする見解である。
価値構成説: 価値構成説とは、商品価値は、賃金、利潤、地代の合計によって成り立つ、とする見解である。
見ての通り、基本となるのは価値分解説であり、価値構成説は「逆もまた真なり」という若干安易な論理である。
ただ後の議論では、価値構成ではなく価格構成説となっているので、かなりややこしくなる。

2.「支配労働」概念の挿入
スミスの「国富論」の「第6章 商品の価格の構成部分について」の説明を見てみよう。
まず、初期未開の社会におけるビーバーと鹿の交換事例が例示される。
ビーバーを捕獲するのに鹿を捕獲する際の2倍の労働が費やされるとすれば、1頭のーバーは2頭の鹿と交換される。
この場合、交換に参加した狩人たちの労働は純粋な投下労働である。
次に資本家の登場する世界、すなわち資本主義社会である。
そこでは労働だけが唯一の交換の事情ではなくなる。資本家の監督や指揮が、労働者の労働に付け加えられる。したがって、利潤は労働の量には比例しない。
これに加えて、地代が賃金と利潤に続く第3の構成要素となる。
これが価格構成論である。
価格のさまざまな構成要素のすべての実質的な価値は、それらがおのおの購買あるいは支配することのできる労働量によって測られる
とスミスは述べる。
ここから迷走が始まる。「価値」を構成するのは投下労働ではなく、支配労働だというのである。
支配労働とは何か。
価格の中の労働(投下労働)だけではなく、土地の部分、利潤の部分も労働の結果としてみなければならないということだ。「購買できる労働」というのは設備や原材料のことだ。「支配できる労働」というのは労働者を賃金以上に働かせること、つまり他人の労働の「搾取」だ。
これらの要素も、遡及すれば賃金と利潤と地代に分解されるからだ。

3.スミスのドグマ
これがマルクスの言う「スミスのドグマ」だ。
『資本論』、第2部第3篇第19章第2節「アダム・スミス」にこのことが記載されている。
マルクスは「 v+m のドグマ」と批判している。
(スミスにおいては)生産手段部分が消えて、賃金部分(可変資本 v)と剰余価値(m)だけが商品価格になってしまう
と皮肉っている。(あくまでも皮肉である)
ドグマとは独断ということだが、それなりの根拠を持っているので「原理主義」あるいは「暴走」という方が適当だろう。
スミスはここから支配労働の枠を無限に広げていくわけだが、もともとは、この支配労働と投下労働との差分が利潤になるという理屈を持ち出すための概念だと考えてよいのだろう。
いずれにしてもかなり無理があることは間違いない。
奥山さんは支配労働についてわかりやすく例示している。
例えば、労働者が1日に10時間労働して、10個のパンを作ったとする。この内、労働者は8個のパンを消費すれば1日の生活が成り立つとしよう。
8個のパンの投下労働時間は8時間である。資本家は、8時間労働のパンに相当する賃金で、労働者の10時間の労働を支配したことになる。
10時間から8時間を引いた2時間部分が余剰であり、これが利潤の源泉となる。
このスミス独特の剰余労働論と、その根拠となる支配労働の否定(リカードゥ)のジレンマの中からマルクスの剰余価値論が生まれてきたといえる。

3.価値構成説の問題点
① リカードゥの価値構成説批判
価値構成論の論理の危うさは、リカードゥに厳しく衝かれることになる。それが「賃金・利潤相反説」である。
そもそもリカードゥは支配労働を認めず、労働価値論を投下労働価値説で一貫させた。
その場合、賃金が上がれば、商品の価格が自動的に上がることになる。
価値分解論を正しいとすれば、賃金と利潤と地代のうち地代は不変であるから、賃金が上がれば利潤は減ることになる。
これはつまるところ労働価値論からの乖離ではないか、というのである。
② リカードウの『経済学および課税の原理』
第1章は、「価値について」と題されている。
その第1節のタイトルは、次のようなものである。ずいぶんと長い。
「商品の価値、すなわち、この商品と交換される何か他の商品の分量は、その生産に必要な労働の相対量に依存するのであって、その労働に対して支払われる報酬の多少には依存しない。」
むずかしいが重要な提起である。こういうのが続くと、当方の頭はたちまち豆腐状態になる。
私なりに解説してみる。
報酬というのはスミス風に言えば投下労働であるが、結局これは貨幣化された過去の労働であろう。
報酬の「過去」がどうであっても、この度の生産には関係のない話である。あくまでもこの度の生産に投下された「投下労働」が価値を決めるのだ。
であれば、賃金も利潤も、「労働量によって決定された価値量をどう振り分けるか」という事後の問題でしかない。
賃金や利潤の変化が商品の価値を変えることはないのである。
価格は短期的には別問題だが、長期的には価値法則に従わざるをえないだろう。というのがリカードゥの見解である。
③ マルクスの見解
たしかにこの賃金・利潤相反説は、我々にとって大いなるジレンマである。
マルクスはこれを拡大再生産により切り抜けようとした。
仮に賃金が上がり、商品あたりの利潤率が下がったとしよう。しかしその場合でも、商品の販売量が増えれば利潤量は上がり賃金増をカバーできる。
もちろん販売量が増えなければこの論理は通用しないから、危うさをふくんでいることは間違いない。

Ⅳ 市場価格を規定する自然価格
むずかしい話もいよいよ終わりに近づいた。しかしこれまでの疑問点を足がかりにして理論が積み上げられていくから,ますます話がこんがらがってしまう。
奥山さんはこの章を以下のごとく要約する。
『国富論』の「第7章商品の自然価格と市場価格」の章は、市場価格による商品価格の現実的な動きと、それが収斂する重心としての自然価格が説明されている。
そのあと、いきなりわかりにくい言葉が並ぶ。
スミスは、賃金と利潤と地代のそれぞれに、需給の均衡状態を示す自然率があることを説く。そして、この自然率の合計を商品の自然価格と呼んだ。
しかしスミスの場合、原料や道具などの生産手段の価値は、賃金・利潤・地代に遡及的に解消されるので、この3要素の合計としての自然価格は、費用価格に利潤を加えた生産価格である。
市場価格は、供給量と有効需要の割合によって決まり、日々変動することが説かれる。
まぁ、一つの章を5,6行の文章にまとめること自体がそもそも無理なので、多少のわかりにくさはやむを得ない。「イヤなら原文を読め」と怒られてしまう。
とにかく私なりに読み解いてみよう。
スミスはここに来るまでに、2回危ない橋を渡っている。
最初は労働価値論における「労働原理主義」だ。最初に投下された資本以外はすべて労働の産物だ。だから設備も原材料もすべて労働に算入されてしまう。第二には、それらをひっくるめて「支配労働」という概念に集約してしまう。
その上で、支配労働にくくられた賃金、利潤、地代を今度は分解して、それぞれに価格付け(コスト算定)を行う。その合計が「商品の自然価格」というわけである。
したがって、スミスの言う商品の自然価格は、投下労働を真の労働と考える人にとっては実に奇怪なものとなる。
奥山さんが言うように
この自然価格論は、(結局のところ)いわゆる生産費説であり、ビーバーと鹿の交換事例のような労働価値論とは異なる。
したがって、論理不整合である。
私ならもっと露骨にいう。スミスの自然価格論は労働価値説を騙った、生産コスト=自然価格論でしかない。
せっかく労働価値説を発見しながら、現実の世界に妥協を続けて腰砕けになり、労働価値説の言葉で飾り立てた生産コスト=自然価格論に落ち込んでしまったのだ。


奥山さんの結論

アダム・スミスの労働価値論の思想と論理は、以下のように整理できる。

第1に、スミスにとって最も重要な概念は支配労働にある。
分業と交換の社会では、自分の行った労働そのものではなく、支配労働が価値の尺度になる。

それは、自分が行うべき労働を他人にさせる経済システムである。

第2に、支配労働は、投下労働を前提とした概念である。しかし同時に、投下労働こそが本源的な購買貨幣であり、労働なくして何物も得られないことも自明とされる。

第3に、支配労働は価値の真実の尺度であるが抽象的な概念で、現実の尺度財にはなり得ない。

これに対し貨幣は、それ自身の価値が変動する名目尺度に過ぎないが、多くの人々にとって馴染みやすい自然な尺度である。

第4に、資本の登場によって、資本家は資本量に比例した利潤を求めるようになる。利潤は労働と比例しない要素であるが、価格の構成要素となる。

第5に、こうした社会では、労働は唯一の交換の基準ではなくなる。労働者の付加した価値は、賃金と利潤と地代に分解される。

第6に、スミスにあっては、原料や道具も遡及的に賃金、利潤、地代に分解されるので、自然価格は、いわゆる生産費説(価格=費用価格+平均利潤)

自然価格論は投下労働という意味での労働価値論からの修正(逸脱?)である。

第7に、市場価格は自然価格から乖離するが、需給関係が調整されることによって、市場価格は自然価格に向かって調整される。

私の結論は、目下のところない。難しすぎて、理解も曖昧なので、もうすこし勉強してから。
感想としては、スミスの論理は、少なくとも前半は快調そのもので、非常に勉強になった。
これまでマルクスの独創と思い込んでいたものが、実は(萌芽的にではあるが)スミスによってすべて提示されていることがわかった。
マルクスは古典経済学の創始者としてのアダム・スミスに敬意を払いつつ、その後半の脱線部分を修正し、より首尾一貫としたものにしようと努力した。同時にスミスやリカードゥを投げ捨てたその後の経済学者に対し、その擁護者として立ち向かったということになろうか。

なぜ、ダウンロードをそんなに頑張ったかというと、ベルグルンドのシベリウス全曲を見つけたからだ。
しかも音が素晴らしい。
パーボ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のシベリウス交響曲全集は、極めつけというほかない名盤だ。まったくもって奇跡の演奏であり録音だ。イギリスの片田舎の素人に毛が生えたような楽団のはずだが、これがベルグルンドの薫陶よろしきを得て、名指揮者と有名楽団の演奏をはるかに凌駕する世紀の名演を行ったのだ。
1970年台の録音だから、アナログだし古い。しかしアップロードするに際してすごいリマスターが加えられている。
ハムとランブルを除いて、S/N比が72dbまで向上したそうだ。聞いていると最近のDDDに勝るとも劣らない。
残念ながらビットレートは最近のYou Tubeのしばりで、AAC可変レートで128kbまでに押さえられているが、大型装置で聞いても十分耐えられる音質だ。
ついでにもう一つの演奏も紹介しておく。
同じパーヴォだが、こちらはパーヴォ・ヤルヴィ、ネーメではなくて息子の方だ。オヤジもずいぶん北欧モノを振っているが、息子もその薫陶を受けたのであろう、密かに得意としているようだ。
そのパーヴォ・ヤルヴィとパリ交響楽団との第一交響曲だ。「もういくつ寝るとお正月」が第2楽章に出てくる曲だ。冒頭のクラリネットがなんともいえずとろける。バーンステインとウィーン・フィルの演奏のときもクラリネットが素晴らしかったが、こちらは甘いショコラの風味だ。ヤルヴィはタクトを胸に押し当てたままである。
第3楽章の明快でおしゃれな感覚は、終楽章のゴージャスな音色とともに、これがシベリウスであることを忘れさせてしまうほどだ。音質も良い。ぜひご一聴をお勧めする。
なおヤルヴィの演奏にはフランクフルト放送交響楽団とのものもアップされているが、こちらは凡庸で録音のクオリティーも低い。

5月、6月のトラブル続きですでにファイアーフォックスとはおさらばしているが、グーグル・クロームにまともなYou Tubeのダウンローダーがないため、You Tubeに限ってファイアーフォックスを使っていた。いっときのダウンロード用 Craving Explorer みたいなものである。
ところが、今日になったら、そのアドオンも効かなくなってしまった。しかもファイアーフォックスが自分からアドオンを拒否してしまったのだ。「旧式」というハンがペタンと押してある。
本当に、半年くらい前のファイアーフォックスに戻りたい気分だが、多分そのようなことはできないだろう。「何とかを無効にすれば良い」と書いてあったので試してみたがだめだった。
結局、「アドオンを入手する」というページから新規格対応の「1-Click Downloader」というアドオンソフトを拾ってきた。
なんということはない。3rd party site (www.knowyourvid.com) につながっていて、その機能をただ借りすることになる。しかもなかなかじっくりとやってくれる。ファイル名変更もできないから、じっくり待っているしかない。
とはいえ、結果的にはなんとか落としてくれる。いまのところダンロードの失敗はないから、なんとか当面はしのげそうだ。そのうちもう少しマシなのが出てくるだろう。そもそもクロームにもう少しまともなソフトがあればこんな苦労はしなくていいのだが…

知っている人にはつまらないことでしょうが、私には今まであまりスッキリしていなかったので…

資本論をわかりやすく説明するために、資本というのを資金と言い換えてはどうかなと思ったんです。

「元手」という言葉がある。これは「おカネ」だが、「商売に使えるおカネ」という意味だ。

これがかなり「資本」や「資金」に近い言葉だと思う。

「資」というのはきっと動詞なのだろう。「…に資する」というから「力を与える」みたいな言葉なのかなぁ、それは株であっても預金であっても、換金可能なものだから結局は資金ということになるんではないか、と思ったんですね。

そしたら、全然違っていた。そもそも考え方が全然違っていた。

同じような言葉に「資産」というのがあるが、資本はどうもそちらに近いらしい。

「流動資産」というのに近いらしい。要するに生産の「因」、あるいは「元」をなすものだ。流動しないと「因」にはなれない。

流動資産というのは、資産家がその一部を流動化させているわけだが、それは資産を生産に回そうとしているためである。そうでなければ財産をわざわざ不安定化させる必要はない。

これにたいして「資金」というのは、あくまで、まずもって「カネ」である。流れる力を持つカネと言うより、現に流れているカネそのものである。

というわけで片やストック(資本)であり、片やフロー(資金)である、とも言える。

となんとなくわかった気になるが、「じゃぁ元手というのはどっちなんだい」と聞かれると、たちまちしどろもどろになってしまう。

何かそこには言葉が足りないのである。

「それじゃ、これならどうだ」というのが自己資本という言葉で、会社を経営するのには自己資本と借金が必要だ。両方合わせて運転資金となる。

自己資本というのも変な話で、そもそも他己資本というのはない。それは借金だ。金融機関等からの融資と、有期・有利子の債券発行によるものだ。

つまり、自己資本というのはまさに資本そのものであり、借金であろうと何であろうと、当座自分のために使えるものが資金なのだ、とは考えられないだろうか。

これは貸借対照表の世界になる。資金の方はキャッシュフローの世界になる。

もちろん借金には担保が必要なので、それはいわば固定資産の(書類の上での)強制的な流動化でもある。

株式の話は面倒なので省略。

ということで結論。

① 資本と資金とは違う。

② 資本というのは営利という目的をもつ資産

③ 資金というのは営利のために使えるキャッシュ

③ 資金には自己資本の他に借金もふくまれる。

④ 「元手」は、本人の気持ちとしては自己資本を指すが、客観的には借金もふくめた資金を指している。この気持ちのズレが「連帯保証人」の悲劇を生み出す。

昨日は天気が良いので、ちょっと遠出してみた。

ある町のある喫茶店に入った。シャッター通りの商店街の一角、「英国屋」という。かなり傷んでいるが、かつてはブイブイいわせたであろう店だ。なにせ二階席まである。

おばさんが一人でやっているが、よく見るともはやおばさんではない。薄暗い店内で厚化粧だが、10分もして目が慣れてくると、私といいとこドッコイだ。

カウンター席の片隅に座るが、目の前に灰皿。喫茶店というのはこうでなくちゃいけない。

かれこれ小一時間も座っていたろうか、その間に来るはくるは、おばあちゃんの団体だ。

あとで指折り数えてみると、17,8人は来ている。ちょっとおめかしして、むかしの気分だ。

ここは完全におばあちゃんの社交場だ。

だんだん騒々しくなって、鶏小屋のようになってきたので退散した。

人通りの絶えた商店街、どこからこれらの人々は湧いてくるのであろうか。バスに乗ってやってくるのであろうか、人恋しくて。

しかしこののような残り火もあと数年であろう。

アーケード通りを歩いてみた。かどかどには拓銀や道銀の支店だった建物がそびえている.そして3~4階建ての立派な商家が軒を連ねている。もちろんほとんどが空き家だ。

函館の十字街はもうまったくの住宅街だ。小樽の駅前通りは崩れ落ちた商家が残骸を晒している。

江戸時代の宿場は街並み保存されているが、こういう建物は保存してもらえないのだろうか。
それより、地方の町並み、文化をここまで零落させた中央政治の冷酷さに胸が痛む。

 2006/02/20(月)の2チャン記事


競馬客目当て 路上賭博開帳 
京都府警、容疑で9人逮捕 

  京都競馬場に通う客目当てに、キャラメル箱を使って賭博を開張したとして、 
  京都府警組対二課と伏見署などは19日、常習賭博の疑いで、大阪市住之江区浜口西1丁目、 
  工務店経営伊藤剛容疑者(63)ら男8人と女性1人を現行犯逮捕した。 

  調べでは、伊藤容疑者らは、19日午前10時55分ごろ、 
  京阪淀駅から競馬場に向かう途中の京都市伏見区淀池上町路上で、 
  大阪府枚方市の自営業男性(55)を相手に、キャラメル箱3箱を巧みに置き換え、 
  裏に印をつけた箱を当てさせる賭博を開いた疑い。 

  同署によると、競馬の開催日に合わせて路上に机を設置、 
  客が勝てば賭け金の3倍を返す条件で賭博を開いていた。 
  伊藤容疑者ら男4人が交代で胴元を務め、残り5人はサクラや見張り役だったという。 

京都新聞 

 というわけで、未だにデンスケ賭博はなくなったわけではない。

だまされたことがないからいうのだが、非常に大掛かりで組織的だが、リスクの割には見返りの少ない詐欺で、一種の伝統芸能であり「文化遺産」である。

主犯の職業が工務店経営というのも、いかにもそれらしい。

ところでデンスケの語源となった増田伝助であるが、どうも氏素性がはっきりしない。

多くの記事では栃木県足利警察署の刑事で、一説では署長となっている。

彼が1935年に宇都宮競馬場の場外で行われたいたルーレットもどきの賭博を見抜き摘発したことからその名がつけられたというが、どの記事も伝聞であり、真偽の確かめようがない。

2ちゃんの発言にこんなのがあった。

増田伝助は、1990年か91年頃に亡くなったはず。 
新聞に死亡記事が出てて、デンスケ賭博の語源がわかった記憶がある。

もう少し調べると、

増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。 父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。 親子二代の警察官だ。

というのもある。

そこで増田美正で検索すると、

警視庁第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)

秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機」

と、いずれも佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』に名が出てくる。

ということで、誰かその記事を探し出して紹介してくれると良いのだが…



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