鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。


先進国と途上国との関係において、「人権」問題は常にコントロバーシャルでデリケートな問題であった。

「人権侵害、人道的犯罪との戦い」という言葉が、繰り返し内政干渉の政治的道具として使われてきた。

だが私たちは、経験上知っている。先進国の意向に従うものの人権侵害は大目に見られ、先進国に逆らうもののそれは容赦なく罰せられてきたことを。

20年前、ノリエガが支配するパナマは米軍の直接侵攻を受け政府を破壊された。外国の武力侵攻に抗議する人々は、親ノリエガだろうが反ノリエガだろうが、海兵隊の標的となった。

今となって明らかなのは、ノリエガはコンタドーラ・グループの先頭に立ってニカラグアやエルサルバドルへのアメリカの干渉を止めさせようとしたから首を切られたのだ。別に国内で独裁体制を敷いたからでも麻薬カルテルに首を突っ込んだからでもない。

10年経てばそういう話は明らかになる。だから歴史を学ぶ人間は誰でも「アメリカが民主主義を言い出し始めたらクーデターが始まるな」ということは分かるのだ。

ロイターもBBCもそのくらいは百も承知でヤマを張るのだ。だから連中の言うことは決してまともに信じてはいけない。少なくともそれを根拠にして綱領を書き換えるなんて言うことは絶対にやってはいけないことなのだ。

繰り返す。「人権」というのは実に階級的な概念なのだ。むかし北海道選出の国会議員で高崎裕子さんという人がいて、この人の決り文句が「強いものに味方はいらない。弱いものにこそ味方が要るのだ」というセリフだった。
国際政治の中でもこの観点は絶対必要だ。弱い国に向かって叫ぶ「人権」が、「弱い国の強者」の人権にならないよう、私たちは心がけなければならない。


少し遅れましたが、11月はじめに京都外語大学で開かれた「ベネズエラ・シンポジウム」に行ったときの写真を紹介します。

講義では名古屋大学の岡田さんの報告が面白かったです。

1.ベネズエラ問題は人種問題の側面がある

そのことを示すのが下の図です

ベネズエラ人の人種的エイデンティティ

ベネズエラはかつて白人主義をとったこともあり、白人の比率が高いのですが、それでもメスティソが多いのです。

もう一つ、ベネズエラが白人主義をとったということは、白人に人種差別観が強いということを示唆しています。戦前は日本人移民は入国できませんでした。

2.ベネズエラは豊かな国

ニュースを見ているとベネズエラは超貧しい国と誤解されるかもしれませんが、実はとてもゆたかな国なんです。

石油は唸るほどある。国民向けのガソリン代はほとんど無料なのです。少なくとも中流以上の人なら、働かなくても食っていける国です。景気のいいときは、カラカスの下水にはヘネシーが流れているというくらい贅沢をしていました。

それは豊かだと言うだけではなく、富が偏在していることも意味しています。だから非白人系の怒りが燃え上って、それがチャベスを大統領の座に押し上げたのです。

豊かな国ベネズエラには南米諸国から多くに人々が移り住んでいました。その人たちの多くは資産家の召使いとして働いていました。ベネズエラにめぼしい産業はないのでそれより他に働き口はなかったのです。

LA内の人口移動

この表からはいろんなことが読みこめますが、岡田さんの示すようにコロンビア発ベネズエラ行の人口移動が圧倒的だということです。年間53万人にも達しています。

これはちょっと古い1990年の統計です。もう一つの図(ちょっと見えにくいので省略)では、2000年で60.5万人となっています

あらあらですが、20年で1千万人がコロンビアからベネズエラに入って、その多くが不安定就業人口となっていたら、その人たちが経済危機に際してとる手段は帰国でしかないでしょう。

数百万の国外難民がいるのに、あふれかえるような難民キャンプの映像がまったく報道されないのは、こういう事情で説明できるのだろうと思います。

 

3.ベネズエラで殺人が多いのはチャベスのせいではない

岡田さんが証拠として示した図がこれです。

殺人率とインフレ率

ベネズエラで「カラカソ」と呼ばれる民衆暴動が起き、これを憂いたチャベスがクーデターを企てたのが1990年のことです。そして出獄したチャベスが大統領選に打って出て勝利したのが1998年のことです。そのチャベスが今度は逆にクーデターをかけられ、民衆に救い出されたのが2002年のことです。

これらの事件は安定した物価水準にも、増加する一方の殺人事件にもまったく影響を与えていません。“良くも悪しくも”、関係ないのです。

あるとすれば、麻薬カルテルの浸透、隣国コロンビアでの武装闘争の激化でしょうか。

 

岡田さんは別にベネズエラ問題で、どちらに肩入れしているわけではありませんが、メディア(および赤旗)で流されるベネズエラ情報については一定の批判的視点を持っていらっしゃるようです。

 

 

インテルのコアーi7というのは、多分10年の発売だからもう10年になる。
パソコンの世界で10年と言うと遠い昔の話のはずだが、どういうわけか未だにi7だ。一体どうなっているのか。8や9は出ないのか気になって調べてみた。

日本語での情報はほとんどない。
仕方がないので“Quara”という英語のQ&Aサイトで調べた。

Are any laptops using the i8 processor?

という質問に対する答え。

答え1(回答日17年11月)

i8というプロセッサーはない。
Iシリーズの数は3と5と7だけだ。

ベーシックな使い方ならi3で十分。
普通にゲームをしたり、画像・映像・音声を編集するなら、i5が優先される。

i7は、あなたが筋金入りのゲーマーなら選択肢となるだろう。あるいは「最高のプロセッサーがほしいいんだ」と言うんなら、それでもいいかな。

i9が必要になるとはどうしても思わない
あなたは、最近市場に出回っている第8世代のプロセッサのことと勘違いしていないかな。(実際は第10世代が登場している)

答え2 (19年8月)

たしかに i8 & i9 というのはあるけど、それは retro designed cpu socket に差し込むように作られているんだ。

普通のパソコンに i8 & i9 を使う意味はまったくない。

 i7 でさえ、ラップトップで真の能力をできるわけではない。実際のところはその一部を使っているだけなのだ。

答え3(17年11月)

一言申し上げておきますが、i8プロセッサーなどというものは存在しません。

 たしかに i9 は存在しますが、それはデスクトップ型パソコンのものです。
電力を大量に消費するため、ラップトップではバッテリーが持ちません。発熱量も相当なものです。

ただこのQ&Aは少し古いかもしれません。ネットで検索すれば i9をくみこんだラップトップ機が載っています。

たとえば
ThinkPad P73:プレミアム
CPU:インテル Core i9-9880H プロセッサー (2.30GHz, 16MB) vPro対応
Memory: 16GB PC4-21300 DDR4 SODIMM (8GBx2)
Storage: 512GB SSD
販売価格:¥473,484

思えば私は2011年、レノボ初の i7 搭載ラップトップを買ったのですが、5年目にピンクの煙を出してお陀仏しました。修理は断られました。

ただ、目下パソコンのスピード感覚で最大の問題は通信速度かもしれません。とくにワイファイで回線が混み合うとがっかりするくらいスピードが落ちます。

ファーウェイに頑張ってもらって早く5Gになるといいのですが、透明性の問題は深刻になるでしょうね。

人間というのはどんどん億劫になってものぐさになるが、楽になる工夫にはどんな苦労もいとわないものである。
まさにこれがイノベーションの原理なのだが、年齢とってくるとその便利さに対する欲望が減ってくる。今のままで十分、もう俺にはこうやって生きていくのが楽なのだ。ということになる。
これが、一気に変わったのがスマートフォンの導入。結局便利さを実現するための障壁があまりに高すぎたこと、パソコンのときのような親切なおじさんとかお兄さんがだんだん周りにいなくなってきたことが原因なのだろう。

1.活字情報の読み取り

目下はスマートフォンでとった写真ー主に文字情報なのだがーを原稿に落とす作業にハマっている。台形補正のソフトを手に入れて、「読み取り革命」でテキストファイルに変換している。
しかしどうも「読み取り革命」の能力が低いらしく、段組みや表・統計資料については手に負えない。

かえってプリンターにおまけでついた読み取りソフトのほうが成績が良いことすらある。

まぁこちらの方は筋道はついているので、ぼちぼちやっていこうかと思う。

2.英語の翻訳

これはもうグーグル翻訳で十分だ。文学や芸術に手を出す気さえなければ、過去の数万もする「こりゃええわ」等の翻訳ソフトよりはるかに良い。

これだけ良いのだから、和英もできるのかどうか、外国人相手に試してみたいと思っている。

将来的には主要「著作」はすべて英訳してみたいものだ。(アイヌ年表の英語版にはユジノ大学の先生からメールが来た)

4.DSD コンバーター

「PCM-DSD_Converter」という無料ソフトがあって、WAVファイルをDSDファイルに変えてくれる。要はCD規格の44KBを180KBとかに変えてくれるらしい。

要するに原音をオーバーサンプリングして音を足してくれるらしい。そこで実際にやってみたのだが、私の耳ではあまり代わり映えはしない。

みるとファイルのサイズも全然変わっていないので、ひょっとするとやりそこねているのかもしれない。

私のオーディオセットでは、CDとDSDとの違いを鑑別できるわけはないのだから当面諦めることにする。

5.AACをMP3に変更する

私の願いはそう高級なものではなく、ダウンロードしたYoutubeの音をなんとか聞くに耐えるレベルまで持ち上げたいということである。

ことに最近のYoutubeはビットレートが100以下に抑えられているから、中波のラジオの音よりはるかにひどい。

この音をMP3の250KBまでオーバーサンプリングしてついでにちょっと化粧しようと思いついた。

やることは
①AudacityでAACファイルを引っ張り出す
②エフェクトの低域・高域で低音をちょっと引き上げる
③同じくエフェクトのコンプレッサーで音量を揃える。
④編集したファイルをMP3の250KB固定レートで保存する。
というだけのシンプルなものだ。
efekuto

エフェクトの低域・高域をクリックする。低域と高域をそれぞれ1.0づつ上げる。音量が下がるので、エフェクトのコンプレッサーで補正する。これをMP3の250KBで、固定レートにしてファイル保存する。
これで十分音はクリアーになる(というよりクリアーになったように聞こえる)。ながら族には嬉しいことだが曲ごとの音量調整は不要になる。時間が分かるということは途中から聞くのも容易になるということだ。
高音のひしゃげやくぐもりは、改善しないがザラザラとしたささくれ感は随分軽減される。   

当分はこれで我慢するしかなかろう。何回も聞くのならHMVとかで有料ダウンロードもできる。

6.文字起こしソフトの可能性

この後試みたいのが文字起こしだ。これができれば講演のテープ起こしなどが容易になる。

どの程度のものなのか試してみようと思う。いろんなソフトを比較した表があったので、転載させてもらう。

文字起こしソフト比較表


結論的には転載するほどのものではなく、

「googleドキュメントの自動文字起こし」の性能が圧倒的だということだ。

説明はリアルタイムの文字化を前提としているようだが、こちらとしては圧倒的に録音した音声の起こしが多いだろうと思う。

まずはNHKニュースの録音を起こすところから始めたらどうだろうか。やってみたら報告する

中村哲さんの死と、私たちの「自己責任」

中村さんの死をきっかけにふたたび「自己責任」論が噴出するかと思い、2ちゃんや掲示板を覗いてみた。

分かったのは、すでに掲示板というものは存在しないということだ。しかしネトウヨの寄せ場は、yahoo知恵袋などQ&Aサイトにあった。

多くのホームページは受け入れなくなっているから、自分で質問をして自分で答える式のことをやっている。ただし2ちゃんみたいなえげつないのは弾かれるらしい。

正直、どのQ&Aも低調だ。「自己責任」をめぐる議論は、論点が出尽くしているのかもしれない。


1.中村哲は、狙われていると日本政府から通達されていたのに、アフガニスタンに行った。自業自得ですし、なぜ、特別扱いするの?

と参加をうながす挑発的な質問があった。しかし回答数は3つ。

質問は、「自己責任論で一般化できない特別な事例があるのか」ということに帰結するので、答えは「そういう事例はある」ということになる。
ついで、中村さんがそういう事例に該当するのかということになるが、「該当する」ということになる。

ただ議論としては二段階だが、中村さんの事例は「ある」ことを証明すればほとんど終わってしまうので、「自己責任」論者の立場はかなり苦しい。

前半の論理が破綻した瞬間に「げんこつ」が飛んでくるだろう。


2.中村哲さんは日本に引き上げる決断をすべきだったと思わないか。引き上げる勇気を持つべきでした。

相手の出方次第では、自己責任論に持っていこうという、変化球の質問だ。

反論としては、中村さんは引き揚げる勇気も持っていたが、それ以上に残留する勇気を持っていた。私たちには両方ともない。
だから、残留する勇気も、そのためのノウハウも持たない人間が、とやかくいうべき問題ではない。

むしろ、彼の意志をサポートする私たちの責任が問われるべきなのではないか。

中村さんは身に寸鉄も佩びず、戦火のアフガンを生き抜いた。「憲法が守ってくれた」のはその基本的なポジションだ。具体的には自分の責任で自身を守ってきたのだと思う。

批判する側はまずそれをわきまえるべきだ。

彼は死の責任を誰にも問うていない。問うてもいない質問に答えるのは無意味だ。中村さんがその命をかけてあなたに問いかけているのは、「私の生と死は無意味だったのか、無駄だったのか」ということだ。

批判する側には、その問いに答える「責任」がある。


3.憲法9条が僕らを守ってくれると言っていた中村哲先生が、お亡くなりになりました。どういうことでしょうか?

虫唾の走るような質問だ。これに対しては胸のすくような回答がある。多分、何度も試され済みのQ&Aなのだろう。

「シートベルトがあなたの命を守ります」という交通安全のための呼びかけに対して、「シートベルトをしていても亡くなったのはどういうことでしょうか?」とチャチャを入れているのと同じです。

中村さんは、9条が自分達の活動を支え、またその環境を作っているという極めて真っ当なことをおっしゃっているだけで、これで自分は不死身となったなんてことは一言も言ってません。


4.危険を承知で人道支援がしたいから行った訳で、自己責任。

ここまで言う人間もいる。

まず危険な場所で危険を顧みずに犠牲的精神を発揮することになんの問題もない。
ただし危険な任務を出来る限り安全に遂行するのは本人の責任もあるし、周囲の義務でもある。

しかし問題はそれ以前だ。

人道というのは人の道だ。それはあなたにとっても人としての道だ。
人道的行為というのは往々にして無償で、損を覚悟で、場合によっては危険も承知でやるから人道的行為なのだ。
人のためになるからと言っても、それを儲けの対象としてやるんなら、人道的行為とは言わない。

もし人道的行為を行う人がいれば、我々は敬意を払い、それをサポートする「人としての責任」がある。

ジャワ原人の記事が赤旗にのっていた。
随分、現代に近いところまで住んでいて、ホモ・サピエンスとかぶっていたのではないかとも言われたが、結局10万年前にはいなくなったようだというのが今回の記事。
何処かの小さい島には矮性種ホモ・フローレシエンシスが生き残っていたらしい。ガンドンで発掘された原人はかつてはソロ人と呼ばれた。ジャワ原人の子孫であり、これも結構最近まで生き延びていたようだと言われる。なかにはアボリジニーの祖先ではないかという人もいるらしいが、これはDNAで完全に否定されている。
ただそれでもすごいのだ。180万年前にすでに存在が確認されている原人が10万年前まで生き延びていたということはすごいのだ。どうもあの辺りにはコモドアトカゲとかオランウータンのように、生物種を生き延びさせる環境が備わっているようだ。

ジャワ原人
ジャワ原人の記事が気になったのは、たまたまマンローの年譜を編集していて、彼が横浜を根城に遺跡発掘を始めた頃に、インドネシアでジャワ原人が見つかったからである。
「彼にとってはかなりの衝撃だったろうなぁ」と思っている。
その後彼も三ツ沢遺跡で旧石器人のほぼ完全な人骨5体を発見しているから、かなりのインパクトを与えてはいる。しかし所詮は縄文人であり、今ならゴロゴロある。

それはそれとして、とにかくジャワ原人について少し調べてみることにする。


ジャワ原人(ウィキペディア)

170 - 180万年前にジャワ島で住んでいた化石人類である。
オランダ人ウジェーヌ・デュボワが1891年に発見して以来、名称は変遷を遂げている。
デュボアはPithecanthropus erectusと名付けた。ピテクス(サル)+アントロプス(ヒト)の合成語である。
ドイツの生物学者ヘッケルは、東南アジア方面で人類の進化が起こったとし、ピテカントロプスというきざったらしい学名を用意した。
そしてその説を信じたデュボアがジャワ島で原人の骨を見つけたのである。
ピテカントロプスの名は、1920年代になって北京原人が発見されたことから公認された。
しかし戦後になって、それらがすべてアフリカに出自を持つことが確認され、ピテカントロプスという学名は消失した。
現在の正式名はHomo erectus erectusである。


下記はバチェラー年譜においてあったものを別記事としてあげたものである。一記事としてはまだ完成しているとは言えないが、素通りするにも痛ましいので記事として起こす。



イサベラ・バードの北海道の旅 とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ただここには書かれていないが、デニング牧師の影響を無視するわけには行かないと思う。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。デニングは3年前に平取を訪問しており土地勘はあった。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言した。


9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

izaberaha-toryotei

医師マンローについて文献を集めていますが、その経過についての報告です。


1.道庁職員 谷万吉との往復書簡

往復書簡集は
北大に保管されているらしいが、目下アクセスの方法は不明。

最も重要な書簡は36年12月の谷宛書簡
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。

「(谷が)二谷文次郎氏の案内で,自転車で二風谷のマンロー館を訪ね
たのがマンローとの交際の始まりであり,昭和年()のことである。以
来マンローが次第に苦境に陥って行くのを支え,亡くなるまで,この人ほど惜
しみなく助力し,公私にわたって誠心誠意尽くした人は他にあるまい。マンロ
ーは谷氏を何より力と頼み,頼りにし,誰よりも信頼して心打ち明ける手紙を
何通も書いた」
伸顕「アイヌ民族と2人の英国人」より

なお谷万吉は戦後に「ニール・ゴードン・マンロー博士年譜(未定稿)」 1
という資料を編集しているらしい。

谷 万吉, 小山 政弘∥編 北海道史研究会 1975-1976
『北海道史研究』第9号、第10号 抜萃
ということで、明日もう一度図書館に行ってみようと思う。

後日談: 大麻の道立図書館内「北方資料室」に年譜1,2の別刷りが献呈されています。ただ基本的にはすでに組み込み済みでした。

谷万吉には「二風谷コタンのマンロー先生」『赤れんが』第 48 ~ 50 号(1977 年),第 51・53 号(1978 年)という文章もある。
「赤レンガ」という雑誌は自治労傘下の「全道庁」組合の機関誌かもしれません。これもネットでは探せません。


2.セリグマンとの往復書簡

そのセリグマンとの書簡も残されている。

31年2月に書かれた手紙

アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の項目は以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について
②アイヌの宗教の特徴
③中心的祭礼としてのイヨマンテ
④妊娠と分娩にまつわる習慣
⑤病気と治療、呪術、薬草など
⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

谷への書簡が書かれる1ヶ月前の36年11月にも、セリグマンあての手紙が書かれている。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。

38年7月に書かれたセリグマンあての書簡でも、このことは繰り返されている。
「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」(真実は細部に宿るということか?)

しかし、「Ainu Creed and Cult」として出版されたとき、この2章はカットされた。マンローがつけた表題「Ainu Past and Present」は採用されずに終わった。
セリグマンの妻で編集者であるブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

3.容易ならざる手紙

内田さんが紹介した手紙の中にはかなり悲惨なものも混じっている。

38年のセリグマンあての手紙では、生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。
二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

にも拘らず、「詳細で真実な情報を!」とさらに意気軒昂であったのだ。齢70歳にして何たるど根性か。


4.横浜開港資料館「開港のひろば」


という記事がある。
これにより以下の事実が確定

マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていた。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

自著によれば、インド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版した、とある。これがもし性格なら、90年の横浜寄港時に出版に回した可能性がある。

1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前あり。

1905年に、マンローが三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘。


5.木村チヨとの三角関係

もう少し詳しい経過が分かった。どうでも良い週刊誌ネタではあるが、「真実は細部に宿る」のだから、ここは我慢。

21年(大正10)7月 それまで毎年避暑に通っていた軽井沢に、「マンロー医院」を開業した。10月までの季節限定で、外国人避暑客を対象とした施設。これに合わせ神戸から木村チヨが引き抜かれ着任した。(誰が引き抜いたのだろう?)

24年(大正13)3月 マンローと木村婦長の恋愛問題に悩んだアデール夫人は、神経衰弱に陥る。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、アデールを強引にウィーンに赴かせる。

25年(大正14) 「マンロー医院」を母体に「軽井沢サナトリウム」が発足。通年マンローが診療を行う。7~9月は外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。

この間に関東大震災が挟まる。

それでどうなるかは、年表の方をご覧うじろ。

6.慶応大学岡本孝之さんの講義

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

なお岡本さんには「横浜のマンロー」岡本孝之 「考古かながわ」2004年12月号
という文章もあります。ネットで参照可能です。


7.桑原千代子『わがマンロー伝-ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』


1983 年に新宿書房から出された単行本で、身近な人が丹念に事実を調べており、その迫力は圧倒的です。しかし贔屓の引き倒し的なところがあり、細かなところで違和感を感じます。

また記載がトリビアルで、発掘調査の内容や意義、数多く書かれた文章についての論究はほとんど見られません。いうなれば「裏から見たマンロー」です。そうなると天邪鬼なもので、どうしても表から見てみたくなるのです。

8.内田順子さんのレポート
昨日、歴史館に二度目の訪問をしまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録「二風谷におけるマンロー: 最新の調査からわかったこと」が載っています。
実は、全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

上記記述の続きです。

本日、内田さんの講義録を閲覧しました。
「沙流川歴史館年報」の第13号です。札幌では、道立図書館に付設した北海道歴史資料室で閲覧が可能です。

講義はもっぱら、映像のデジタル化に伴う諸作業の紹介ですが、自筆書簡からの引用が非常にためになりました。

その主要部分をかなり年譜に取り込みました。結果的にはさらにかなり分厚くなっています。

なおこの「年報」に折込でついていた年表は内田さんの作成したものではなく、この年行われた「マンロー展」に合わせて館が独自に編集・作成したもののようです。

新たな増補分はすべて2019年11月24日 

に突っ込みました。ただすでにご覧の方には二度手間になるかもしれないので、増補分を下記に挙げておきます。


9.ネットで閲覧可能な主な文献


①平成17年度 国立歴史民俗博物館 民俗研究映像「AINU Past and Present-マンローのフィルムから見えてくるもの」:映画フィルムの資料批判的研究に関連する研究ノート    内田順子
PDFファイルのため直リンクは出来ない。検索窓に署名を入れてグーグルしてください。

② 伝統的知識の公開と「社会関係資本」としての活用 UKにあるマンロー書簡の社会ネットワーク分析を中心に
手塚 薫  国立歴史民俗博物館研究報告 第 168 集 2011 年 11 月
これも①と同じ方法で検索してください。

③ 鷹部屋福平はいろんな文献でくそ味噌に批判されているようですが、最晩年のマンローとおそらく英語での交友があり、あとのことを託されるほどの信頼を得ていました。

*鷹部屋福平「毛民青屋集」に基づいた1940年の二風谷村アイヌ集落に見られた建築物の実態
佐久間 学, 羽深 久
*鷹部屋福平の『橋のいろいろ』(1958 年 石崎書店)

これも未見です。図書館で探してみようかと思っています。

ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」これはおそらく桑原千代子の本を底本にしたものと思われます。

⑦手塚薫 2010「マンロー・谷往復書簡による社会ネットワークの復元とその活用」『年報 新人文学』7 : 216?263。
これも③と同じ手塚さんの文章です。まだ見つけていません。

⑧ラファエル・アバ 2005「ある外国人が見た日本列島の先史文化:N. G. MunroとPrehistoric Japan(1908年)」『北大史学』46 : 1?24。

英国の偉人の生涯をたどる『Great Britons』 - Onlineジャーニー
これもネットで参照できます。 

とりあえずこんなところです。

キューバ封鎖解除決議の内包する国家関係の原則

今年も国連でキューバ封鎖解除決議が解除された。
この決議は正式には「米国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性」に関する決議と言われる。

今までは米国とイスラエルだけの反対だったが、今回はブラジルとコロンビア、ウクライナが加わった。

かつてキューバから、チェルノブイリの子どもたちに対する献身的なケアーを受けたウクライナが、トランプとの取引のために民族の誇りと良心を売ったことは、残念でならない。

しかし、それにも拘らず圧倒的多数の国家がこの決議を支持しているという事実は、この決議に含まれた諸国間関係の原則が今や揺るぎないコンセンサスとなっていることを示す。

そういう観点からこの決議を読み解くことも、意味があることであると思う。

決議に示された国家間関係の4つの原則

そこに示された原則は以下の通りである。

国連憲章の目的と原則を遵守すること。すなわち

1.大小を問わず、すべての国の国家主権は平等であること。

2.いかなる国や国際機関も、他国の内部問題に干渉したり介入したりしてはならない。

3.国家間の通商は尊重されなければならない。交通・航行の自由は制限されてはならない。

4.いかなる国であっても自国の国内法を他国の政府・企業・個人に強制してはならない。

例外としての制裁について

国連は、以上の4つの原則が状況によって制限されることがありうることを認めている。
その際の手段が制裁である。

その内容、目的、手段は厳しく制限されている。それが2005 年の「国連首脳会議成果文書」に示されている。

制裁の意義

制裁は、国連憲章の下で、武力行使に頼ることなく国際問題を解決するための重要な手段である。
それは国際の平和と安全を維持する努力を行うにあたっての重要な手段である。

制裁の内容

制裁の対象は、慎重に選定されなければならない。その目的は明確でなければならない。

実施にあたっては、期待された結果を出すための実効性と、人民や第三国に起こりうる不利益とを厳密に比較することが求められる。
制裁の具体的内容は安全保障理事会で定められる必要がある。

制裁の内容に含んではいけないこと

以下の内容は制裁に含まれてはならない。すなわち内政不干渉の原則を侵犯すること、他国政府を実力で倒すことを目的とすること、テロ活動などを組織・支援・許容することである
(1970 年国連総会で「友好関係原則宣言」として採択)













1週間御無沙汰しました。
理由はSo-netからPlalaに乗り換えるのにえらく手間がかかったからです。例によって取説はまったく役立たず、いろいろ探してやっとわかりました。
結論はたったこれだけです。
103
この絵が出たきたら、上の窓(ユーザー名)に“user”と入れて、下の窓(パスワード)にも“user”と入れればよいのです。
これで終わりなのですが、このことはほとんどのマニュアルに書いてありません。だからみんな泣いているのです。
EzXNetwork というサイトで、
パスワードを自分で設定した覚えがないとか、どうしてもわからない場合はuser、admin、ntt、0000、9999、1111で試してみてください。
というのはそういうことなのです。

もう一つは持続先の設定画面です。
接続先ユーザー名にモザイクが掛かっています。
これもたいへん困るので、プロバイダーからもらったユーザーIDを入れても動きません。
ユーザーIDを入れた後、その後ろに @plala.or.jp をつけなくてはなりません。
この2つがクリアできればそれで終わりなのですが、この2つがしっかり書かれているマニュアルを見つけるのはほぼ不可能です。

悩んでいる人は、このページを読んでください。

1.PPP緑色灯の消えていることを確認

まず前のプロバイダーとの契約を破棄すると、突然、ネットが繋がらなくなります。
これはルーターのPPPというところが切れていることで判断できます。
pppランプ-700x525

2.パソコンとルーターの電源を切る

オフにし、10分経ったらまた点ける
この時点でもPPPの緑灯は付きません。

3.パソコンで次の操作を行う

まずブラウザを立ち上げアドレス欄に「192.168.1.1」と入力しましょう。すると、ポップアップ画面が表示されます。クロームではだめでインターネット・エクスプローラー(IE)でないとだめだと書いていますが、実際には逆で、クロームでないと開きません。コピペでなくしっかりと打鍵入力してください。

そこには「ユーザー名」と「パスワード」の入力欄があるのでどちらも入力しましょう。このユーザー名・パスワードは、ユーザー側が任意設定したものになります。

103
これが問題の箇所です。

この説明を読んで「ユーザー名」と「パスワード」を入れられる人がいるでしょうか?
会社がくれた報告書には「お客様番号」とか「認証ID」とか「認証パスワード」とか「ホームグループパスワード」、「無線略号化キー」など、訳のわからない数字や暗号が並んでいます。

この中に、「設定ID記載欄(ルーターPW、無線セキュリティーID等)」という欄があります。
ここに
ルータ ログインID  USER
ルータ ログインPW  USER
と書いてあるのを発見しました。

これが「ユーザー名」と「パスワード」のことだと分かる人がどれほどいるでしょう。
とにかく仕方がないので、皆さん、覚えてください。取説の作成者は国語能力ゼロなのです。

4.接続先設定

ユーザーIDについては、上に書きました。

もう一つ付け加えておかなくてはなりません。
最後の方に「PPPキープアライブに関する設定」というのがあります。
PPPキープアライブに関する設定を行います。

PPPキープアライブ機能 (初期値:使用する)

  PPPキープアライブ機能を使用するかどうかを指定します。

というところですが、「初期値:使用する」をそのままだと、SO-NETのPPPがそのまま残ってしまいます。ここは一旦、更新した上で、再度、「PPPキープアライブ機能を使用する」にチェックを入れなければなりません。

ここまで行くと完成です。



結局、ギリシャ自然哲学の到達点は「非在」ということだ。

非在ということは、2つある。

1.原子論による非在→有関係の乗り越え

一つは諸物の根源は空気だということである。空気というのはなにもないということだから非在であるが、無ではないということだ。

そこにはなにもないようでいて実はある。それが原子だ。

デモクリトスの「原子論」によりギリシャ哲学は非在から有への転換という難問を乗り越えた。

ここから出てくる派生的な見解が、認識の限界と発展だ。

この発展的認識論により相対主義が乗り越えられた。

2.非在・有の相互転移の統一的理解

ヘラクレイトスのすごいのは、アナクシメネスの空気=根源論を解決するために、時間軸の導入によってゼロの概念を生み出し、これにより非在から有が生成されることを説明しようとしたことだ。

実数としてのゼロの概念は、時間軸上においてはごく当然のことだ。すなわち今がゼロであり、未来と過去に向かって正の数直線と負の数直線が伸びていく。

これに対し他のベクトルにはゼロはない。ゼロがあるとしてもそれは相対的なものでしかないし、個別的なものでしかない。

日本橋やオリンポスは、信じる人間にとってのみ中心である。

ところが、今という瞬間をどんどん薄切りにしていくと、だんだん向こうが見えてきて透き通ってくる。

そうして最後は、何もなくなってしまうのではないか、しかしそこには物事が変化していくエネルギーというものが残っているはずだ。それはパンドラの箱の最後に残された“エスペランサ”(希望)だ。

そこでは、非在は希望というエネルギー、すなわち、さまざまな原子のベクトルの集合に転化されているはずだ。

3.非在は証明されなくてはならない

しかしこのような「非在」をめぐるわかりにくい議論は、どこかで終止符が打たれなければならない。

それが物質存在の階層性である。ヘラクレイトスは時間軸の特殊性を強調することで、物質の構造性とリアリティを否定しようとした。

それは頑固な唯物論者の強烈な反撃を呼んだ。そこでデモクリトスが登場し、原子論を提唱することで妥協を図った。モノは消滅しない、しかしそれはアルケーとしての存在の在りようを変える。
原子は単純な妥協ではなかった。

(つづく)

フルトベングラーのまともな録音

信者にはとても嫌みな演題であろうが、やはり気になる。
他になければ我慢して聞くのだが、同じ曲に対していくつも音源があると、その中のどれを聞けばいいのかと、普通の素人は思う。しかし困ったことに、信者はそれが答えられないのだ。
しかも困ったことに、この音源は論外という結論も出せないのだ。
だから、結局私のような素人が入っていて判断するしかない。

一番の問題は第九である。

まず、音源がいくつあるのかを明らかにしなければならない。ついでそれらをリマスターしなければならないのだが、もちろんそれは原理的には無限にあるのだが、一応メインに流布されているエディションを総ざらえしなければならない。

そのためには、まず権威あるあるいは、ありそうな文献によって整理しなければならない。

思い出すと、かつて私はそれをやったことがあるのだ。それが「ウラニア盤のエロイカ」だ。

多分、第九の整理はもっと大変だろうと思う。

まずは「フルトベングラー  第九 録音」と入れてグーグル検索だ。

最初にヒットしたのが、タワーレコードのサイト。
https://tower.jp/article/feature_item/2018/10/17/1114

TAHRA原盤 フルトヴェングラー4つの”第九”が最新リマスタリングで蘇る!

という記事だ。

冒頭の文が以下の通り。

フルトヴェングラーの第9は、亡くなるまでの17年間に13種類の録音があります。

これを聞いただけで早くも戦意消失する。

ただその後救いの手が差し伸べられる。

その中でも特筆すべき演奏はつぎの4種。

それは

1.1942年3月 『ベルリンの第九』
「大戦中の緊迫感に満ちた劇的な爆演」だそうだ。

2.『ストックホルムの第九』
大戦中にストックホルム・フィルに客演した「凄演」だそうだ。

3.『1952年ウィーンの第九』
至高絶美の演奏で彼のベストではないか、と評されている。

4.1954年のルツェルン音楽祭公演
「最晩年の深い思索と境地を感じさせる感動的名演」だそうです。

ということ、まず音源的にはこれに絞っていいのだろうが、史上最も人口に膾炙されている51年のバイロイトがここには入っていないので、これを

5.1951年、バイロイトでのライブ録音
として付け加えておくことにする。

ただし私の個人的思いではあるが、フルトベングラーほど第9にふさわしくない音楽家はいないと思う。
「大戦中の緊迫感」というのは、ドイツがポーランドやユーゴ、ロシアで数十万、数百万の罪なき人々を虐殺するというジェノサイド的状況がもたらした緊迫感なのであって、到底その思いは共有できない。
ヒトラー賛美と民族浄化の進軍ラッパを吹きながら、戦後もいけしゃあしゃあと「芸術」活動を展開し続けた男に賛辞を送る気分にはならない。
藤田嗣治の戦争画を「緊迫感に満ちた劇的な美しさ」とは言えないだろうし、広島の上空に立ち上ったきのこ雲の悪魔的な美しさを、肯定的に眺めることは難しいだろう。


話せばちょっと長いのだが、腕時計の電池が切れて近くの量販店に交換に行ったのだ。
「すぐ出来ますよ」と言われて、要はその間近くで待っていろということだ。
なるほど、量販店のカウンターのそばは、何かと手に取りたくなるようなものが並んでいる。飽きないといえば飽きないのだが、ついいろんなものを買わされてしまうことになる。電池とか懐中電灯とか、USBやスマートホンの小物とかである。老眼鏡や安物時計も目に飛び込んでくる。
なかでも私は、むかしの習性からか、CDやDVDのワゴンがあるとどうしても手にとってみたくなる。

「おっ!」と思わず声を上げてしまったのが、紙製のジャケットに入ったCD。なんと税抜き198円となっている。ワオっと飛びついて、一気に10枚をゲット。これで2200円だ。ひどいものだ。

と、ここまでが前フリ。

そこで買ったものの1枚がカラヤンとウィーンフィルのモーツァルト40番だ。ジャケットには録音が1960年となっている。
何回も再発を繰り返していて私もLP時代に二度買った。最初は中古で、最後は石鹸で洗ったがシャリシャリ・パチパチノイズはとれなかった。二度目はロンドンの名盤シリーズで1000円だったと思う。どちらにしてもシケた話だ。

それで盤の由来を調べてみた。
そうすると、どうも録音は60年ではなく59年らしい。59年の後半にカラヤンとウィーンフィルは半年かけて世界を一周した。日本でもあちこちで演奏したようだ。その出発前にウィーンでLP数枚分の録音を行って、今で言うプロモーションに使ったらしい。その1枚がモーツァルトの40番だ。

ネットで調べると、この盤を60年録音と記載したレコードが結構出回っている。ただしその場合は60年の何月にどこで録音したとかというデータはないので、多分59年録音盤を60年版と称して売っているだけのことだろう。

聴き比べてみると、時々クラリネットが勝手にコブシを入れるのだが、それが同じだ。

ということでこの音源の由来を調べているうちに、ネットで別の音源を発見してしまった。それが本日の主題であるフリッチャイの40番である。この録音は何月かはわからないが、同じ59年で、秋以降なことは間違いない。ムジークフェラインの大ホールでの録音だそうだ。おそらくウィーン交響楽団の秋の定期で振ったついでに録音したのであろう。

白血病になる前のフリッチャイはベルリンが本拠で、RIAS交響楽団を振ってカラヤンのベルリン・フィルと対抗していた人だ。それがわざわざウィーンまで出かけて他流試合の相手と録音を残すというのも変わった話だ。

ただこの録音についてはいろいろな思いがあったのだろうと思う。59年にこの40番を録音して2年後に同じウィーン交響楽団と41番を録音して、その次の年には亡くなっている。

まず考えられる理由は、死ぬ前にウィーンの楽団を振って40番と41番を冥土の旅の置き土産にしたかったのであろう。しかしその直前にカラヤンがウィーンフィルを振った40番が、世界のベストセラーになってしまったことが念頭になかったとは言えないだろう。

とにかく異様なまでの遅いテンポにまずは驚く。「疾走する悲しみ」どころではない。「匍匐前進」だ。

それでも第一主題はまだいいのだが、第二主題に入るともはやエンストでも起こしかねないテンポまで制動される。それというのも、第一主題がこのテンポでなければならないからだ。フリッチャイはそう主張する。そしてその主張は第一楽章の終わる頃には有無を言わせぬ説得力を持って迫ってくる。

ムジークフェラインでの録音にも拘らず音はデッド気味でマイクが近接している。それはポリフォニックな効果を生んでいる。これってセルの音作りじゃない?

そして終楽章のフーガに突っ込んでいくに従い、体中が音で満たされ、溺れていくような錯覚に包まれていくことになるのである。

この演奏を聞き終わってカラヤンをふたたび聞くと、なんとヘルベルト・フォン・チャラヤン(もちろん決してチャラくはないのだが…)

1959年における40番の、この2つのウィーン録音は、1970年のセルの東京文化会館ライブとともに、40番の演奏を語る上で欠かすことの出来ないものだろうと思う。(フルベン信者の皆さん、ごめんなさい)

蛇足だが、41番もすごい。ボディービル・コンテストに出場したモーツァルトという感じだ。ベートーベンの2.5番と言うべきか。
しかし第4楽章はぜひ聞くべきだ。「いいか悪いかじゃない。ジュピターを語るなら、まずこれを聞いてからにしてくれ!」と、フリッチャイが吠えているような気がする。録音は秀逸そのものである。グラモフォンがデッカに対抗してメラメラと燃えていた「リヒテルのチャイコン」時代だ。

関電・同和疑惑 年表

本当は「関電・解同疑惑」と書きたいところですが、いま出ている資料では確実とは言い切れないので、とりあえず関電・同和疑惑としておきます。

かなり調査報道も出てきてディテールははっきりしてきていますが、その割には全体像が見えないもどかしさを感じます。

NHKの記者は一生懸命やってますが、同和絡みの記述がタブーになっているようです。共産党の役割も取り上げられません。渡辺議員が共産党だとは一切書かれていないのです。

口火を切った朝日はもっとひどく、この件については最低です。毎日テレビと東京新聞が僅かに健闘しています。独立系の示現舎がかなり詳細にフォローしています。週刊誌の記事は使っていません。


10月23日  NHKニュースウェブ “関西電力は森山氏の「被害者」なのか?








1928年(昭和3年) 福井県大飯郡高浜町西三松で出生。

1949年 京都府庁に就職。その後綾部市役所に転職。綾部市役所では職員として勤務するかたわら、解放同盟の運動にも熱心であった。

1966年 高浜町で原発誘致に反対する署名が2300筆を集める。

若狭原発

1969年 

国が同和対策事業特別措置法を制定。「同和地区」を指定し、公営住宅の建設や道路の整備などを推進。

12月12日 国から関電に対し高浜1号機の設置許可がでる。翌年には2号機も許可が出る。

12月 京都府綾部市職員だった森山が高浜町役場に入る。浜田倫三町長の招聘によるとされる。浜田町長は、関西電力との固い絆が森山の力の源泉だったと証言。
『長年綾部市において同和行政に取り組まれていた森山栄治氏を企画室主幹に迎え、同和対策のスタートを切ったのである』(高浜町が発行した記念誌)
この異例かつ破格の待遇がどういう経過によるものなのかが不明である。町長が解同に弱みを握られ、押し込まれたという見方が最も素直だろうが。

1970年 森山、出身部落に部落解放同盟を組織、高浜支部を名乗る。県下最初の支部であったため、森山は福井県連合会と高浜支部の書記長となる。『部落解放年鑑』では、高浜支部の所在地は大飯郡高浜町西三松 森山栄治方と記載されている。

1971年 福井県の「客員人権研究員」に就任。2018年まで在任。 

1972年 福井県などに対する“過度な指摘”が問題とされ解同役員を退任(解同中央の声明)。
“過度な指摘”の内容 県の施設で人権大会と呼ばれる大会が開かれ、健康福祉部や県民生活部などの部長が勢揃いして森山さんの前にズラーッと並ぶんです。意に沿わないことがあると激高し、「1時間立たされたまま怒られた職員もいた」(県幹部)
その後も部落解放運動を押し付ける“糾弾”を繰り返す(これについての解同中央のコメントなし)。
1974年 高浜原発1号機の運転が開始される。

1975年 高浜町の収入役に就任。

1975年 「女性教員に対する糾弾」事件。女性教師が“差別発言”を咎められ糾弾を受ける。教員全員を呼び出し横並びにさせ、差別文書を回し読みさせた。“謝罪”を迫られた教師はショックから早期退職を余儀なくされる。解同中央は「解放同盟が関与した差別事件ではない」と弁明。

1977年(昭和52) 町長選に反浜田町長派の有力者が立候補を図る。解同の糾弾を受け脳卒中となる

4月 異例の早さで出世し町助役となる。月給は33万5000円で、町長より高かった。
【濱田倫三町長の議会答弁】給料について助役が高い、町長が安い、ということは別に当たってはおりません。その人の能力に応じて給料は支払われる。
関係者の証言:NHK取材による
「町長より力が強かった。森山を通さないと関西電力の仕事はもらえなかった」(地元の建設業関係者)
「話はすべて、森山助役に持って行った。『天皇』というあだ名が付いた」(別の建設業者)
「自分の気にくわない人をどう喝し、精神的に追い詰めた。商売が追い込まれた人もいた」(地元工事関係者)
「町に対して激高していた記憶があり、とにかく厳しい人だった。一方で二面性のある人だった」(地元関係者)

1978年(昭和53)

4月 関電から高浜町へのウラ金疑惑が浮上。町内の五つの漁協に関電からの「地元協力金」が町を通じて支払われた。浜田町長は報道後の町議会で、総額9億円を関電から受け取ったと明かす。
76年は10月に1億円、12月に1億5000万円、77年は6月に6億5000万円を受領。5漁協に計3億3000万円を支払い、残りを地域振興対策費などに計上した

4月 森山、中日新聞のインタビューにこたえる。「3、4号機の総工費は3500億円。仮に1%をもらったとしても、いくらになるか。全国的に原発立地が困難な中で、高浜町は進んで建設を認めているのだ」 森山が助役だった77~87年は、地元協力金などと呼ばれる電力会社から原発立地自治体への寄付金は約36億円に達した。

「原発反対福井県民会議」のアンケート調査。回答した町民の8割が問題の徹底究明や増設反対を支持。(問題は回答率だが…)

1979年

3月 アメリカでスリーマイル島事件が発生。高浜原発3、4号機の建設への反対の声が強まる。

反原発派の候補が町長選に出馬しようとしたが、推薦人だった元町議を説得し出馬を断念させた。

4月 町議選挙で渡辺孝さん(30歳)が、「もの言えぬ町政にもの言う議員を」のスローガンをかかげ、トップと2票差の2位で当選。初の日本共産党町議となる。
渡辺さんは高浜町で漁師の長男として誕生。中学卒業後、小浜市で旋盤工として働いていた。青年の勉強会で本格的に原発の研究を始め、立候補に至った。
高浜原発3、4号機増設をめぐり関電が寄付した「協力金9億円」の使途が大問題になる。共産党の渡辺町議は、関西電力からの寄付金が、役場関係者の個人口座に振り込まれていたことを突き止めた。
町はカネは個人口座に入ったが、それは漁協に3億7千万円、道路や港の整備に5億4千万円が使われたと説明。関西電力はこのほかにも、森山氏の助役在任中に28億円の寄付金を町に投じている。
渡辺町議
               渡辺孝 町議
1980年 「高浜の海と子どもたちを守る母の会」が集めた「増設に厳しい安全審査を求める署名」365人が署名。
“糾弾”が怖くて表立って『原発反対』とは言えないけれど、内心はそう思っている人が多かった(会の代表の談話)
1982年 「前衛」8月号に「<ルポ>原発のある風景」が掲載され、森山のやり口を紹介。
町政の実質的なボスは森山助役であった。彼は、かつて京都で味をしめた経験を生かし、自分の住んでいる町内の同和地区に組織した「部落解放同盟」を指揮し、誰かれ容赦なく糾弾を繰り返した。町議会までが町長・助役の脅迫に屈し、その親衛隊に成り下がっていた。
…自由にものも言えない空気が町を支配していた。町長・助役は、悪事のやり放題であった。
1985年 3、4号機の運転が開始される。

1987年(昭和62) 関電の幹部向けの「人権研修」の講師をつとめる。講義は毎年行われ、2017年まで30年にわたった。

5月 町助役を退職。関西電力の子会社「関電プラント」の顧問に就任。さらに原発関連の地元建設会社、メンテナンス会社などの顧問を歴任。

森山コネクション2

NHK特集の聞き取り取材
90年代から金品を関西電力の幹部に渡していたことが分かりました。
「上納金、盆暮れには必ず、最低100万置いとかないとダメなんです。森山の運転手が集金に来られる。受注額の数%と…」(高浜町の土木業者)
1996年 法務省人権擁護局より人権擁護の功績により感謝状を受ける。

1999年 町がプルサーマル計画を推進。計画の可否を問う住民投票条例の実現を求めて約2,100人が署名する。

2004年 美浜原発3号機で配管が破損し、噴き出した高温の蒸気で5人が死亡。

2004年 プルサーマル計画導入を推進し、反対派の今井理一町長と対立。

2005年 森山氏、町村合併50周年にあたり、30人の町政功労者の一人として表彰を受ける。町長は「過疎化が進んだが、原発誘致で難局を打開できた」と賛える。

高浜町予算

2005年 原子力事業本部を美浜町に移転。副社長以下、幹部クラスの社員を常駐させる。本部長代理だったのが今回辞任した八木誠会長で、このときから金品の提供を受けるようになった。
八木は出世を重ね、社長、そして会長へと上り詰める。その後任として豊松、鈴木も同じコースを登っていった。こうして原子力事業本部で、森山氏から金品を受け取っていた人物が、社内の要職を占めようになった。幹部たちが受け取った金品は急激に増加し、17年には年間1億円以上に達した。
2007年 原発警備会社「オーイング」の筆頭大株主となる。その後の12年間で10倍に売上を伸ばした。また顧問を勤めた建設会社吉田開発は、無入札による特命発注で売上を6倍に伸ばした。

2009年 福井県人権施策推進審議会委員に就任。18年まで務める。

2010年 任期満了に伴い、高浜町教育委員を退任。

2011年 福島事故。関電の原発は次々と運転を停止。4年連続で大幅な赤字に陥る。

2011年 高浜町議会、関電の下請け会社社長や関電社員を兼ねる議員が「高浜原子力発電3・4号機の再稼働を求める意見書」を議会で強行。反対したのは渡辺議員ただ一人だった。議会は「再稼働について、議会としての意見の一致をみました」と発表した。
ほかの原発立地自治体が、再稼働に向けた地元合意の難しさに直面する中、高浜町ではほとんど反対する声は上がりませんでした。

再稼働ための工事には、高浜原発だけで5,400億円あまりが投下された。森山の会社には少なくとも214億円が注ぎ込まれた。現地への資金投下はさらにエスカレートし、総額3億2千万円に上った。

国も原発が立地する自治体に対して、電源三法交付金を支払っている。1基あたり1,400億円に上る。こういったお金の流れというのが、地元の決定過程をゆがめ、特定の業者に集中的にお金が流れる仕組みを作っている。(NHK特集)

森山コネクション3

2017年 「オーイング」の取締役を退任。自宅を京都市から高浜町に移す。

2018年

1月 財務省国税庁金沢国税局の税務調査を受け、帳簿や資金の提供元や供出先が記されたメモが押収された。

2011年から2018年にかけて、関西電力の八木誠会長や、岩根茂樹社長、豊松秀己副社長、森中郁雄副社長らに、「原発マネー」とおぼしき3億2千万円を渡していたことが、明らかとなる。

2月 関西電力側から約1億6千万円相当を返還。

10月 内部調査委員会を結成。委員長の小林敬は元大阪地方検察庁検事正で、証拠改ざん事件で懲戒処分を受けて退官した人物。

2018年末 第一次内部調査報告。報告書には「お前の家にダンプを突っ込ませる」「お前にも娘があるだろう。娘がかわいくないのか?」といった恫喝の記録。
お茶を出した女子職員に「なんでいまドン!って置いたんだ。俺が部落の人間だからか! 差別だ!」などの事例。
MBSのインタビュー: 90年代に高浜原発の所長だった人物は、「あの人から1時間説教受けたらよくわかります。骨の髄までいかれます。もう2度と出会いたくない。
僕が言われたのは、『家に同和の人間を押し掛けさせる』みたいな話。なんか文句あるんやったら『同和をお前の家に動員かけるで』と脅す」
2019年

3月 90歳で死去。

9月27日 上記情報を朝日新聞が報道。各社が追随。
菅原一秀経済産業大臣は、記者会見で「言語道断。ゆゆしき事態だ」と語る。更田豊志原子力規制委員会委員長は、「まだそんなことがあるのか」「憤りを感じた」と語る。

10月2日 関西電力が記者会見。金品の受領を断ると土下座を強要されるなど、断れない力関係にあったと説明(さぞかし楽しい土下座であったろう。できるなら私も、懐ろに小判を押し込まれてみたいものだ)

記者会見での岩根茂樹社長の発言。(森山氏が)『わしが原子力を反対したらどうなるかわからんのか』といったことを相当強くおっしゃった。(当方としては)地元の理解活動が阻害されるということを恐れた。

10月4日 赤旗、国の電源立地地域対策交付金も同町の建設会社「吉田開発」と森山氏を通じて関電幹部に還流していたと報道(内容はちょっとややこしい)
金沢国税局の税務調査から明らかになったもの。森山は2011年以降、総額3億2千万円の金品を関電幹部らに手渡していた。この金は吉田開発が「手数料」として提供していた。吉田開発は町の公共事業5件を総額約4億5千万円で受注していたが、このうち3億7千万円は電源対策交付金から充当されている。
10月7日 部落解放同盟中央本部のコメント
森山氏は、1969年京都府綾部市職員から高浜町に入庁している。1970年部落解放同盟福井県連高浜支部が結成され、福井県内唯一の解放同盟支部の結成ということもあって、部落解放同盟福井県連合会も同時に結成されている。その結成に尽力したこともあって、森山氏は県連書記長(同時に高浜支部書記長)に就任。2年間書記長の要職に就いている。
2年で書記長職を解任されており、それ以後、高浜町の職員として従事するようになる。

10月9日 臨時取締役会が開かれる。八木会長と森中副社長、右城常務、鈴木常務、大塚常務が退任。

11月22日 資源エネルギー庁、電源立地交付金の約8割が原発向けだと認める。

11月22日 福井県が「調査報告書」を発表。県職員109人が同県高浜町の元助役から金品を受け取っていた。吉田開発が県から60億円の公共事業を受注していた。

11月22日 高浜町の特別監査の結果が報告される。森山が取締役だった警備会社「オーイング」が、20年間にわたり随意契約で580件、1億5千万円の町の業務を受注していた。また「吉田開発」も20年間で、少なくとも136件、約19億円の町の工事を受注した。




前540年  イオニアのエペソスでヘラクレイトスが生まれる。
宇宙の秩序は、いかなる神も、人も造ったものではない。それは常にあったし、今もあり、これからもあるだろう。
この世界は、対立するものの調和によって「変化しながら成る」ものであり、そこに「在る」ものではない。
「われわれは、存在するとともに、また存在しないのである」

存在を突き詰めていくと「非在」に行き着いてしまう。それは空気という非在でもあり、変動という非在でもある。

したがってアルケーは非在を存在とする「成」のエネルギーである。おそらくそれは熱力学、とくにエントロピーの法則を念頭に置いたものだろう。

火は、絶え間なく揺らぎ、燃え続ける点で「変化」であるが、一定の明るさを保ち続ける点で「不変」である。ロゴスとはこのようなものである。
これは物質存在の「量子性」の表現としての「火であるが、エネルギーと存在の相互転換を示唆する言葉もある。
万物は火の交換物であり、
火は万物の交換物である。

このアルケーの規定は、アナクシメネスの空気=根源論を大きく進めるものであり、エネルギー根源論と確率的存在論に踏み込んだものだ。

プラトンはこれを万物流転論に流し込むことによってイデア論の論拠にしようとするが、それではあまりに狭すぎるように思う。

シャクシャイン像をめぐる経過

1970年9月15日  静内の真歌公園(シャクシャインのチャシ遺跡)に、立像が建立される。主体は任意団体「シャクシャイン顕彰会」で、有志の寄付により制作された。

彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので、強化プラスチック製の立像。高さ3.5mで、杖の先までの長さは4.2mあった。
下の写真は
新ひだかアイヌ協会
より転載。

旧シャクシャイン像
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事の名を削り取る。犯行には新左翼の太田竜や足立正生・新谷行も加わっていた。

1972年9月30日 児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」が発刊される。
松前藩への怒りを表した姿ではなく、「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したものです。
1976年 シャクシャイン顕彰会、維持や管理の問題などから静内町に寄贈。

1988年 北海道ウタリ協会(現在は北海道アイヌ協会)は、「アイヌ新法」制定を政府や各党に求めるための決起集会をここで開催。

2007年 「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択される。これに基づき国連の監視機関から日本政府に新たな改善勧告。

2002年 竹中敏洋が死亡。70歳。像のマザーは残されており、再建は困難ではない。

2010年 修復の手が加わることは一度もなく、損傷が強まる。顕彰会有志が町に修繕を提案。町側の反応無し。

2013年 第67回シャクシャイン法要祭。主催者はアイヌ団結の拠り所としてのシャクシャイン像の意義を強調。

2015年 

12月 新ひだかアイヌ協会(大川会長)が像の建て替えを決定する。ひび割れがひどくなるなど老朽化が理由とされる。協会は、アイヌ新法検討を踏まえ、“穏やかな表情”の新像を発注する。「いまはアイヌ民族と和人が共存する時代になった」としてデザインの変更も視野に入れる。
予算は数千万円程度を見込み、協会をNPO法人化し寄付を募ることとなる。

従来の像の存置を主張するシャクシャイン顕彰会はこれに反対。いったんは旧像を残したまま新像も立てることになる。

2018年

9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を撤去した。
重機によってバラバラにされた旧像は産廃扱いで最終処分場に送られた(北方ジャーナル)
顕彰会の会長は「取り壊して撤去するぐらいなら、台座から切り離してこちらに渡してほしいと頼んだのですが、町の答えはノーでした」と語る(北方ジャーナル)
9月23日 新しいシャクシャイン像がお披露目された。
新ひだかアイヌ協会の会長が挨拶。「新しい像は、戦いをよびかけるのではなく、平和と共生を祈る姿に変わった。この像がアイヌ民族の象徴だと思う」
北海道アイヌ協会理事長はアイヌ政策を進めている政府に感謝する挨拶。

10月28日 旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を行う。

シャクシャイン顕彰会は旧像の撤去を「納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画を立てる。町に土地の使用許可を求めているが、国指定の史跡内のため協議は進んでいない。

2019年

9月 新ひだかアイヌ協会の慰霊祭。会長挨拶「シャクシャインは無念の最期を遂げたが、今は共存の時代となった」と強調。

10月20日 旧像前で「静内アイヌ協会」が法要祭。道議や町議ら関係者約50人が出席。

写真家・及川修さんのブログより拝借しました。素晴らしい写真です。見られないままに終わってしまい、惜しいことをしました。
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旧像撤去の経過については下記の記事が詳しい。

平田剛士|2018年11月21日

「北方ジャーナル」新ひだか町発・新しい「アイヌの英傑像」に噴き出す批判【その2】
シャクシャイン像の喪失を生んだ行政の怠慢と責任

ネット上で集められる情報の範囲内だが、次のことが言えるようだ。
1.旧シャクシャイン像は、70年代~80年代のアイヌ民族運動の高揚に際し、一種のシンボルとしての意義が付与されたようだ。
2.それに比例するかのように、静内町側には、旧シャクシャイン像に対し不快感が鬱積していたようだ。撤去に際しての悪意溢れる対応はそのことを示している。
3.しかしシャクシャイン像自体は一種の観光資源でもあり、90年代に入って国際的にもアイヌ問題が注目され、それに対応して政府の「箱もの対応」も強まったことから、見かけ上は尊重する姿勢を取らざるを得なかった。
4.この矛盾が、76年の買取り後の像に対する40年にわたる「ネグレクト」として結果した。像の劣化をもたらした原因は風雨ではなく、一日も早く像が朽ち果てることを待ち望む行政の姿勢であった。
5.そして40年が経ち、像は危険形造物となった。町は建て替えを勧めたのではないか。アイヌ協会を前面に立てて、表面上はNPOを立ち上げ寄付金で賄うことにしつつ、あの不愉快な旧シャクシャイン像を消し去ろうということであろう。(決算報告が残っていれば財源の内訳は判定可能であろう)
6.どちらがイデオロギー的対応かと言うと、間違いなく町の側である。アイヌ民族はシャクシャインの戦いを民族の誇りと考えている。だからそれを顕彰するなと言うのは、きわめてイデオロギー的な対応だ。


2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。


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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に、開業医ロバートマンローの長男として生まれる。一族はスコットランドでは名家のひとつで、祖先は14世紀まで辿ることが可能。

1865年 イギリスの箱館領事館館員のアイヌ墳墓盗掘事件が発覚。横浜の大使館に居た医師ウィリスの要望に基づくものとの説もある。ウィリスもエジンバラ大学卒業。

1869年 英国大使の要望により、外人患者用用地として山手居留地の一部(1千坪)が有償貸与される。(「横浜市史」では1878年とされる。

1876年 コナン・ドイル、エジンバラ大学医学部に進学

1877年(明治10) アメリカ人生物学者エドワード・モース、横浜から東京に向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見。発掘に取り組んだ学生グループから人類学研究者が輩出される。

1879年 

5月 モースが鹿児島に考古学の調査に入る。

79年マンロー、エジンバラ大学医学部に入学。1888年まで10年にわたり在籍。

1882年 エジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンが死去。ダーウィンも医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。「種の起源」(進化論)の発表されたのは59年。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川の河岸段丘で旧石器の発掘作業に加わる。

1886年 チェンバレン、東京大学のお雇い教師として来日。直後よりアイヌに興味を持ち、北海道でバチェラーのもとに一ヶ月程滞在。アイヌの調査やアイヌ語の研究を行う。

1886年 渡瀬庄三郎がコロポックル先住説を展開。これを白井光太郎が批判。

1887年 マンロー、病気療養のため大学を休学。その間チュニジア・イタリアなどを旅行。

2月 坪井正五郎、『東京人類学報告』第12号に『コロボックル北海道に住みしなるべし』を掲載。白井の批判に逐条反論を行う。これに対し小金井良精・マンローらはアイヌ先住説を唱え論争となる。

8月 坪井正五郎、埼玉県吉見の横穴(吉見百穴)を調査。コロポックルが住んでいたと主張。今日では墳墓説で確定したが、坪井は最後まで自説を曲げなかった。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位(MD)はとれず。「医学士」(MB)および「外科修士」の資格を得る。

88年 スコットランドを離れる。ペニンシュラ&オリエンタル汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。
“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)

88年(明治21) イギリス留学から帰った坪井正五郎、解剖学教室の小金井良精らを中心に東京人類学会設立。翌年には合同で北海道へ調査旅行。小金井はその後も、渡道を繰り返す。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O社)の船医になる。
後に妻チヨに当時の模様を語っている。
英国人はインドでも香港 でも現地の人々を激しく差別していた。さらにインド国内のカースト制による激しい階級差別も併存していた。

90年 インド滞在中に執筆した哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を寄港先の横浜で刊行。
アンコナ号は、当時香港-横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。チヨによれば入院は年余に及んだと言う。

8月 33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられる。

1892年 マンロー、退院した後横浜市内の自宅で開業。(病気治癒後、入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務:桑原)

来日後の数年間、マンローの足取りははっきりと掴めていなかったが、岡本らの研究で明らかになってきた。本年譜ではその所説を尊重する。桑原らによる従来説は別記する。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893 年(明治26) マンロー、一般病院の第8代院長に就任。ただしこれは一般病院の「名誉碑」の記載であり、事実とは異なる可能性が高い。

ゼネラルホスピタルは「総合病院」の意味だが、市民は「一般病院」と呼び習わした。マンローは考古学に熱中し休職多く、前院長がその間引き続き代行したという。

1894年(31歳) 日清戦争に日本軍従軍医師として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(33歳) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の娘アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。

95年(明治28) 日本考古学会創立。マンローはこの頃から日本の遺跡に興味を持ち、勉強を開始したと語っている。

1897年 一般病院の外科担当医師となる。このときベルツが同院顧問医だたことから知り合う。ベルツを通じて発掘研究にふたたび興味を掻き立てられる(岡本)

また新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようだ。

6月 長男ロバートが誕生。レッツ家墓碑銘には記載あるが、マンローの戸籍には記載なし。

1898年(明治31) バチェラーの案内で最初の北海道旅行。白老のアイヌ村落を訪問(35歳)

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったという。

1899年(明治32) 

1月 長男ロバートが死去。

4月 北海道旧土人保護法が制定される。実際にはアイヌ民族同化と資産収奪法であった。

7月 内務省、マンローに「医術開業免状」を交付。日本人の診療も可能となる。

1900年(明治33) 

11月 次男のイアンが誕生。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。マンローは講演の中で「貞観(じょうかん)時代」を「テイカン」と誤読した。高畠トクはその誤りを英語で指摘した。直後、マンローは、高畠に秘書兼通訳になってほしいと申し出た。トクは快諾した。

トクは明治10年生で当時23歳。旧柳川藩江戸詰家老高畠由憲・ゆうの次女。実家は明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1902年 東大の御抱え教師チェンバレン、鶴見で大規模な発掘を行う。マンローと交際があり、影響を与えた可能性がある。

1903年(40歳) 

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。(おそらく高畠とくが随行)

冬季 嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。
アデレーは声楽とピアノの得意な令嬢で、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった(いずれも桑原)

1904年

2月 日露戦争開始。

3月 マンローとベルツ、共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘。このとき41歳。

この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。(慶応大岡本孝之氏)
ゼネラルホスピタルの隣接地にメイプルズ・ホテルを開業。病院(サナトリウム)とホテルを兼ねた施設だったが、1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる(岡本)

4月 マンロー、ベルツと前後して二風谷を訪問。(谷の年表に記載なし)

9月 研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。古銭に関する英語入門書として好評を博す。横浜の好事家の集まり「横浜古泉会」が協力。
 
1905 年(明治38)

1月 東京人類学会に自薦入会。この頃学会内では、坪井と小金井らによるコロポックル論争が白熱していた。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、日本で外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る(戸籍謄本にて確認)

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。このときマンロー42歳、トク28歳。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 箱根一帯で発掘作業に入る。早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器時代の遺物とみられるものを発見。(現在縄文時代と呼ばれている時代は、西欧の時代区分では旧石器時代に属する)

8 ふたたび早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。

秋 三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見。その後7ヶ月をかけて発掘調査。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などを検出する。

桑原によれば、一つの縦穴住居跡よりほぼ完全な人骨群が発掘(こども1体、大人4体)された。マンローはこれを“アイノ頭蓋骨”と予想し、小金井に鑑定を依頼、合わせて発掘現場の検分を依頼する。小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断。

三ツ沢遺跡はその後も50年にわたり、日本人学者による調査が続けられた。主体は縄文中期から後期、一部弥生時代遺物も見つかっている。
人骨群は一つの住居跡に埋葬されていた。縄文時代の家族をうかがわせる。

12月 長女アヤメ(英名アイリス)が誕生。月数は多少合わない。

マンロー、遺跡発見の功を認められ、「王立アジア協会」の会員に推挙される。

ベルツ、東大での勤務を終えドイツに戻る。56歳

1906年(明治39)

2月 出産直後のトクを伴い、小樽・忍路のストーンサークルを実測調査する。おそらく縄文人骨の関連でアイヌに興味を持ったのだろう。地主の娘白井セイを通訳見習いとして連れ帰る。(セイは堂垣内元道知事の実母)

5月 人類学会の小金井良晴(解剖)がモンローのもとを訪れる。

7月 小金井良精らが、川崎の南加瀬貝塚の発掘調査。マンローもこれに参加。

マンローは一連の発掘報告の中で、層位的分析に基づいて縄文土器と弥生土器に年代的な差があり、縄文土器にも年代差があることを確認。

夏 この後さらに軽井沢古墳の調査を行う。軽井沢は信州ではなく横浜市西区南軽井沢の前方後円墳。

9月 「日本亜細亜協会誌」に、人骨の発見状況、頭蓋骨の計測所見を記載。いくつかの根拠を元にアイヌ人であると断定する。足立文太郎は、発見された人骨が南方x北方の混合種であると主張。

論文「日本の原始文化」(Primitive Culture in Japan)を「日本亜細亜協会誌」(Vol34-Pt2) に発表。南加瀬貝塚などの調査に基づき、弥生土器の年代評価を提起。


1907年 

6月~8月 東京人類学会雑誌に「後石器時代の頭蓋骨」、「アイヌ模様と石器時代模様」を相次いで発表。足立文太郎説に反論するなど旺盛に所説を展開。
マンローは縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと推定した。学会主流はマンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視した。

1908年(明治41) 

1月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を横浜で自費出版。長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものであった。
先史時代の日本


















































2月 「考古界」誌第6、7篇に「環状石籬と古代建設物の方位」を連載。ストーンサークルについて論じる。イギリスのドルメンに倣い、天体観測施設であると主張。

4月 東大退官後帰国していたベルツが伊藤博文の要請で再び来日。大正天皇(このときは皇太子)の診察を行う。ベルツ、マンローは二人で関西旅行し共同調査を行った(桑原)
実際にはベルツは広島に行き、マンローは京都で分かれて飛鳥の石舞台など大和・河内の古墳を歴訪した(岡本)

5月 権威付けのためにM.D(医学博士)の肩書きが必要と痛感したマンローは、20年ぶりに帰国。母校のエディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。学位論文は「日本のガンーその統計的検討」というほとんどでっち上げの論文だった。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。医学博士の学位を授与される(46歳)
その後、エディンバラ博物館の美術民俗学部門から正式な日本通信員に任命される。マンローはその後6年に渡り、アイヌ資料をふくむ考古学資料2000点以上をエディンバラに送り続けた。

7月 東京人類学雑誌268号に「コロポックルについて」が掲載される。坪井のコロボックル説を詳細に批判。石器、土器の使用はアイヌにも共通している。三ツ沢の縄文人骨がアイヌであることは確認された。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

10月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

10月 マンローの考古学研究状況が「Nature」誌に掲載される。


1909年(46歳)

2月 トク夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。
桑原さんは、とくさんになじるかのような冷たい目を注ぐ。さすがにそれはお門違いでしょう。

ベ平連で有名となった高畠通敏は、トクの義理の孫(養子の子)に当たる。

5月 日本アジア協会例会で、「ヨーロッパの旧石器と日本の遺物」と題して講演。

北海道旅行。東釧路の武佐貝塚を調査し、春採コタンで熊祭を撮影。マンローは件の女性を連れ歩き横浜に戻るとそのまま送り返した(桑原)

1910年(明治43)

5月 日本アジア協会例会で、「いくつかの故物と遺物」(Some Origins and Survivals)と題して講演。

5月 「大逆事件」フレームアップが開始される。

6月 「佐倉義民伝」を見た感激そのままに戯曲「宗五郎、その偉大なる愛」(Sogoro or Greater Love)を自費出版。上演されたかどうかは不明。

8月 日韓併合。

この頃からアイヌが日本の先住民という主張は姿を消し、アイヌ人に関する民俗学的研究に比重が遷る。桑原は、背景に大逆事件があったのではないかと考えている。

1911年(48歳)

1月 「先史時代の日本」第二版を自費出版。エディンバラでも発売される。「いくつかの故物と遺物」を論文として発表。

母死亡。帰国せず。

この頃、生活は極度の混乱。身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変える。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡(茂沢、宮平)で調査に従事。

1913年

8月 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

12月 東京人類学会の坪井会長がペテルブルクで客死。マンローは「坪井教授の業績」を人類学会雑誌に寄稿。

この年、北海道を大凶作が襲う。

1914年(51歳) 

10月 在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(33歳)と3度目の結婚。アデルの母は日本人。
ファブルブラント(James Favre-Brandt)はマンローに対し強い警戒心を持っていたが、すでに1年前から事実婚となっていたため承諾せざるを得なかった。

マンローは病院を3年間休職し、アデルとともに沖縄・九州 を旅行。鹿児島を中心に各地で発掘調査に携わる。これらはすべて親友の大山柏公爵の手配によるもの。

10 月 マンロー、鹿児島に滞在し発掘調査。垂水市柊原(くぬぎばる)の貝塚から「中間土器」を発見。

この年発行の「現代の横浜」によれば、当時の一般病院の院長はウィラーとなっている。留守中の院長職をウィラー前院長が代行したためである。

この年、第一次世界大戦が始まる。

1915年(大正4)

4月 考古学雑誌に「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。鹿児島での調査活動の成果となる。

マンローは土器の文様を主要な根拠にし、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張。後に進出した大和民族に追われ、周辺地に居住したことからツチグモと呼ばれるようになったと判断。また大和民族(南方由来)の象徴として中間土器(弥生土器)を特徴づけ、先住民(北方由来)のアイヌ文様と対比する。その他、熊襲や隼人にも先住民族として関心を寄せる。

9月 休暇2年目は北海道東部を訪れる。アデル夫人、写真技師ミッドワールを同伴する。釧路市内・春採のアイヌコタンを訪問し熊送りを体験。記録をとり写真に収める。また近隣(釧路公園付近)の発掘調査に当たる。
①98年、②09年夏と、マンローは3度も春採のイヨマンテを見たことになる。しかし98年はそもそも行っていない、誤記と思う。09年もトクとの離婚直後で行ける可能性は低い。

12月 亜細亜協会副会長に就任。

この年 北海道で冷害→飢饉となる。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛めたという。

1916年 

4月 釧路での体験と記録に基き、亜細亜協会で「イヨマンテ」について講演。英字新聞 The Japan Advertiser に要旨が掲載される。

5月 休暇3年目はふたたび北海道に入る。アデル夫人、写真技師ミッドワールにコック夫妻が同行。今度は白老に2ヶ月ほど滞在。木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究を始める。この間に、研究の比重は考古学から生きた人間をあつかう民族学へと移っていく。

当初の人類学の範疇は大幅に広がり、大まかに言って形質人類学、民族学、考古学へと分かれていく。このうち民族学は民俗学、あるいは文化人類学とも呼ばれるようになる。マンローの当初目的は日本人のアイヌ起源論にあったが、セリグマンは強引に結論づけるよりはアイヌ文化の実証研究を積み重ねるよう勧めた。

1917年(大正6) 

3月 日本亜細亜協会で「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者(鳥居龍蔵、梅原末治)から反論。(詳細は別記事に)

桑原年譜では、「ドルメン論争で、鳥居らへの反論のため日本的特殊事情に気づき、その後アイヌ研究へと集中していく」と書かれている。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。小金井良精らが招待される。

夏 軽井沢に岳父らとともに避暑に赴く。診療も始める。このあと何年か、軽井沢の医業に集中する。

史料により著述が錯綜するが、現地の証言を元にした桑原の記述が最も一貫している。
これによれば17年が初めての軽井沢避暑体験。岳父と夫妻が現地に滞在する。そのうちに診療もするようになった。はじめは外人タッピングの別荘を借りて診療を開始した。その後、京三度屋裏から萬松軒別館を買い取り、洋風に改造した。そして二、三年後にマンロークリニックとして開業した。

10月 ロシア革命が勃発。

12月 マンローは北海道庁からアイヌの生活実態調査を諮問される。白老での調査をもとに「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年に公表される。この調査を機会に考古学からアイヌ生活・文化に関心が移行。

道庁はアイヌに関する5つの質問を発している。その中心は「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」にあった。
マンローの答えは次の通り。アイヌ=コーカシアン説にとどまらない「Dance with Wolves」範疇を打ち出している。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。
1918年(56歳)

2月 哲学書「生ける者の魂」(Soul in Being)を自費出版。

3月 道庁、マンローの「旧土人に関する調査」上・下を「北海之教育」に掲載。

答申のほぼ全てがアルコール問題。アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらし、これに外来伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。和人の差別がこれを助長しているとし、禁酒を第一の対策とする。
対策としては、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。

この年、米騒動が発生、全国に拡大。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

このあたり、「枯淡の境地」に入ったかのごとく見える。

1921年(大正10)

ドイツ大使館侍医に就任。(58歳)

7月 マンロー、外国人避暑客を対象とする「軽井沢国際病院」の兼任を受諾。この病院は以前からあったが、夏季限定の診療所だった。経営母体は外国人が組織した「軽井沢避暑団」という団体。

以下は桑原からの引用。
マンローは院長就任の条件として、優秀な婦長の就任を持ち出した。マンローは神戸クロニクル社長より神戸万国病院の婦長木村チヨを紹介された。

チヨは1885年生まれでこのとき36歳。香川県高松市のべっこう商の娘で、高松の日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受けた。神戸の万国病院で婦長として働いていたが引き抜かれたという。

21年 京大考古学の浜田、鹿児島での発掘調査から、縄文土器と弥生土器の違いは、時期差によるものであることを証明。開聞岳の噴出物をはさんで上下の関係が決め手となる。

1922年(大正11)

1月 神戸の新聞Japan Weekly Chronicle 社長の怪我を治療。これが契機となり、同紙に、「知性のなぞ」(The Riddle of Mentality)を発表。

9月 内村鑑三がマンロー家を訪問。「多方面にわたる大学者」と賞賛。マンローは内村が交通事故で負傷したとき治療にあたった。

11月 改造社の招待でアインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。このときアインシュタインの依頼でドイツ大使館勤務のユダヤ系女性を診察する。彼女は精神病の疑いをかけられ解雇の危機にあったが、マンローが謙譲であることを証明し解雇を免れたと言う。 

1923年(大正12)

1月 Japan Weekly Chronicle に、「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。相対性理論への傾倒ぶりを示す。

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

夏 金田一京助、二風谷を訪問調査。久保寺逸彦が同行。

8月7日 アデール夫人の父ファブルブラントが大動脈破裂で死去(82歳)。

8月25日 横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻る。

9月1日 関東大震災。軽井沢で働いていたマンローは無事だったが、横浜の自宅は全焼し、機材等は全滅した。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰す。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。焼失した英領事館の敷地内に建てたテントで、怪我人の手当や防疫に奔走した。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。これを機会にマンローは病院を辞し、軽井沢に居を移す。

1924年(大正13) 

1月 マンロー、軽井沢サナトリウム(旧称国際病院)院長に正式就任。7~9月に限っては、外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。夏季以外の閑忙期はマンローがテナントとなって開業していた。
軽井沢サナトリウム

3月 ファヴルブラント家は破産。妻の実家の財力をあてに運営していたサナトリウムは大幅な赤字を計上、マンローは多額の負債を抱える。(桑原によればファブルブラントは破産せず、息子が横浜で経営を再開)

貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になる。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、フロイドあて紹介状を持たせアデールをウィーンに赴かせる。


1925年(大正14) 

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。
セリーグマンは、一般化を焦らず、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう助言。(最も信頼する人間からのきわめて重要な助言だ)

29年 アデール夫人からの音信が絶える。谷宛書簡によれば、この後木村チヨと親密になるとされているが、もっと早くからだろう。

29年 日高・釧路地方のアイヌ遺跡調査のため来道。アイヌに結核が多いことに驚き、研究ばかりでなく救済活動も行うようになった。

1930年 (67歳)

5月 セリーグマン教授自身が推薦者となり、ロックフェラー財団からのアイヌ研究助成金が実現。150ポンドと言うがどのくらいのものか分からない。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月にわたり滞在。ペテゴロウが現地ガイドを務める。

12月25日 イオマンテ(熊祭り)の記録映像を撮影。貝澤正は31年としているが記憶違い。
熊送り

1931年(68歳) 

2月 セリグマンあての手紙。
アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の章立ては以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について ②アイヌの宗教の特徴 ③中心的祭礼としてのイヨマンテ ④妊娠と分娩にまつわる習慣 ⑤病気と治療、呪術、薬草など ⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

7月 二風谷永住を決意。貝沢シランペノより宅地(約5千坪)を購入し登記完了。自宅建築の準備を開始。二風谷を選んだのはバチェラーの勧めだったといわれる。
イソンノアシ
マンローと二風谷の長老イソンノアシ

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

31年 バチェラーはイヨマンテの映像を、「残酷野蛮な行事を公開するのは、民族の恥をさらす心ないやり方」と批判。
マンローは下記のように当てこすり。
ある善良な人たちは、アイヌが熊の血を飲むことに批判的です。でも、血の滴る牛肉を食べ生カキをまるごと飲み込むことは何とも思っていません。最高の文化人たちは、血と肝臓でできた腸詰めをおいしいと食しています。(ある宗教では)神の肉と血が、少くなったのでパンとブドウ酒が用いられるようになりました。
そして「バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。トクの知人のフランス人夫妻に身元を託す。リヨンに絵画と刺繍の勉強に赴く。

6月 邸宅の外側が完成。外から見ると2階建て、中は3階建て。内部の造作は遅れる。邸宅は完成しておらず、借家の方に荷を解く。

8月 ロンドンで第1回国際先史学・原史学開催。マンローは文書参加。「九州の先史時代の遺跡」の原稿を送る。この論文は34年発行の紀要に収録される。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

当時結核が猛威をふるい、35戸のコタンから年間27個の柩を出したと言う。子供を加えると死者の数はその3倍に達した。診療は一切無料で貧窮に喘ぐ患家へは米・卵類を与えた。子供達にはチヨ夫人手造りのビスケット(マンロー・クッキー)が配られた。(桑原千代子

10月 乙部の請負人が自殺。このため邸宅の建設が遅れる。

12月16日 二風谷の仮住まい(商店の倉庫)が火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う。心痛のあまり狭心症発作で倒れる。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1933年(70歳)

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 マンロー邸が完成。木村チヨ名義となる。
白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨ夫人が看護師として手助けした。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」
アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)
マンロー邸入り口
       マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
            湖側に向いた東側面
5月16日 マンロー、北海道釧路市を訪れ上別保の東釧路貝塚で発掘調査。

5月17日 マンロー、釧路考古学会顧問となる。返礼としてテームズ河畔出土の旧石器を考古学会へ寄贈する。チヨとともに講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと直行し入院となる。

6月 日本アジア協会から、二風谷住居火災に対し救援金が贈られる。同時に、多年にわたる研究に対し表彰状が送られる。ドイツ・アジア協会、外人牧師団、軽井沢避暑団からも火災救援金が贈られる。本国の大英学術協会が中心となり救援委員会が設置される。英国の有志からの寄金も到着。

7月 フランスのリヨンに留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で結核を発症。エリオ荘病院で大喀血し死亡。現地滞在は1年3ヶ月にとどまる。遺骨は翌年に戻る。移送したのはギリシャ哲学者瀬川三郎という篤学の士であった。
10_ayame
     アヤメ(アイリス)
7月 療養を終え、そのまま軽井沢で秋まで診療に当たる。その後41年まで、夏季の軽井沢サナトリウムでの仕事(資金稼ぎ)が恒例となる。谷あての手紙では、二風谷での患者は1日2~3名。無料診療費が月平均30~40円かかったとされる。

10月 軽井沢から釧路に移動し、18日をかけて各地を移動。白糠、弟子屈、阿寒、美幌を現地調査。木村チヨ、貝沢善助、若宮カメラマンが同行。
それだけの金があるなら、大家に多少の金は渡すものだろう、と思う。

11月 釧路での調査を終え、二風谷に戻る。

12月 マンロー邸の前庭にアイヌ家屋(チセ)のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。さらに翌年にかけて悪霊払い・病気の平癒祈願の「ウエポタラ」と家の新築祝いの儀礼である「チセイノミ」の記録を行っている。

33年 英国王立人類学研究所の通信員となる。名刺には公式通信員と書かれた。このあと定期に通信が送られている。

1934年 

5 月 セリグマン宛ての手紙。診療のためにひっきりなしに仕事が中断させられると嘆く。原因は研究者の立場を逸脱しているため。
マライーニの述懐: 朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。
マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。
もう一つ、セリグマンあての手紙
8 ヶ月間、ひとことも英語を話していない。Kimura さんとの会話の多くは日本語になります。その結果として、あなた(Seligman)に手紙を書くときは、まるで長らく音信不通だった兄弟と話をしているみたいに、急きたてられるように言葉がほとばしり出るのです。ほっとします!
夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

8月 英字紙に「アイヌの暮らしーいまとむかし」を連載。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

8月 「人生と真実、存在の謎」(Life and Truth, Riddle of Existence)を吉川弘文館より発行。

二谷文次郎の紹介を受けた道庁職員の谷万吉が自転車でマンロー邸を訪ねる。当時谷は平取役場に出向していた。以後マンローと家族ぐるみの交際を続けた。
離婚調停や様々な噂の抑圧に努力し、困窮するマンローに食料品を贈るなど、死亡までの困難な数年間を親身に支えた。マンローは谷を何よりの力と頼りにし、心打ち明ける手紙を何通も書いた(小柳伸顕)

マンローは谷あての手紙で32年末の失火事件についてこう書いている。
その男たちは私心からでなくて、私を日本国の敵と思い込んで放火したのだと思う。
ただし、類焼したM家倉庫の弁済責任を逃れるために、放火説を主張しつづけたという説もある。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で4日間にわたり「熊祭り」映画を制作。セットではなく二谷国松家で撮影された。マンローもこれに協力。久保寺は「マンロー邸で二谷さんとのツーショットをマンローに撮ってもらった」と語っており、下図はその時の“ついでの1枚”であろう。
マンローと二谷
夏季 軽井沢で診療に従事。

9月 谷あて書簡。二風谷の自宅及び土地の処分を希望。結局実現はしなかった。

秋 マンローが無許可で病人の治療をおこなっているとの噂が広がる。近隣の医師が流したらしい。これは事実であった。これに対し谷と二谷は診療所開設に努力した。

11月 セリグマンあての手紙
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。
11月 谷の尽力で、診療所開設届を北海道町に提出。①略歴、②二風谷に居住し、アイヌ研究に専念するに至った動機、③二風谷の医療の状況、無料診療の実態、④平取村のアイヌの健康状況について、社会課より質問があり、谷を通して回答。道庁は診療所を認可する。

12月 谷を通して診療所の開設届を提出。静内・新冠・沙流三郡医師会に加入。

午前中は研究,午後は診療に当てていた。午前三時頃には起き研究資料をタイプしていた。これらの資料はロンドンのセリグマンの元に送られた。雪の日の往診


12月 谷宛書簡。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。
1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で住民が石炭塊を発見する。アイヌの人たちと対応を協議する。

1月 二風谷の“マンロー診療所”が正式の営業を開始。
私が見た病気は、結核のあらゆる病型、消化器疾患のほぼ全てが回虫症、トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染、膿痂疹や疥癬は貧困層では当然のことである。心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ないる。精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。(診療所開設届につけられた諮問文)
2月 2.26事件発生。

5月 この月を以ってロックフェラーの研究助成金(2回め)は終了。家計は厳しさを増す。

5月 「“波粒子”理論で人間の生理的過程を説明する」という連載記事を英字紙に発表。おそらく量子力学的説明だろうと思う。

6月23日 アデールと協議離婚成立。最後はスイス領事館への通告のみで終結。アデルは遺産となった3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算した。

ここでも桑原は徹底してマンローの酷薄ぶりをアピール。アデルからは年に数回便りがあったが、マンローは無視。どうにかして離婚出来ないか、そればかり考えていた。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。道庁の仲介にてマンロー夫妻は札幌に出向き面会。その後洞爺湖・有珠方面をめぐり二風谷に戻る。

6月30日 木村チヨと正式に結婚(マンロー74歳、チヨ52歳)。谷は知り合いの弁護士を紹介するなど積極的にかかわる。

7月 この年二風谷にアイヌ家屋調査に入った北大工学部の鷹部屋福平がアぽなし訪問。桑原は敵意に近い反感を顕にしているが、これはチヨの気持ちを反映したものなのか。

7月 論文「アイヌ/むかしといま」が完成。

夏 この年は軽井沢にゆかず、二風谷での研究に専念。マンローは地元民に、二風谷に結核療養所やスケート場を建設する構想を語る。マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。

9月 遺言書を書く。

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     マンローと千代

1938年(75歳)

3月 「ヤイクレカラパ/老アイヌの祈りの言葉」を発表(“Man” Vol38 No3)

4月 イタリア人人類学者のフォスコ・マライニイが、日伊交換留学生として北大解剖学の児玉研究室に着任。二風谷に赴きマンローの指導を受けた。(このとき26歳)

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌの結婚式の記事が掲載される。

7月 セリグマンあての書簡 「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」と、書物への意気込みを語る。いっぽう生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

夏 この年も軽井沢に赴かず。

9月 報知新聞でマンローの経済的苦境が報道される。北海道庁は救済計画を立てたが実現せず。

10月 不仲だったバチェラーが、姪を伴い二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。マンローは切除術を施行。これを機に両者は和解。

10月 アイヌ部落で「マンローはスパイだ」とのデマが発生。マンローは警察に調査を依頼。

1939年

1月 日東鉱山の従業員が「マンローはスパイだ」とのデマを流布。マンローは警察に調査依頼。
二谷から谷への手紙。
最近、先生が二風谷でスパイのデマを撒き散らされている。その源は大方奥のシャモの酒売り店の者と思うが、善良なるウタリ内までその口車に乗せられて、失礼なデマを振り撒いている。(「酒売り」は、火事で仲のこじれた、かつての家主だとされる)
2月 マライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

76歳となったマンロー、自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考え各方面に相談。しかし邸宅は平取村長や日高支庁などの配慮にもかかわらず買い手が見つからなかったという。釧路新聞は「コタンを去るアイヌ博士を救え!」と救援活動を呼びかける。

4月 マンローから谷あて書簡。二風谷では道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲っているようなので気が重い。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。

7月 第二次近衛内閣が成立。

8月 軽井沢で診療。京都の佐伯義男医師が来訪し、考古学・人類学に関する執筆を依頼。これは近衛文麿の援助のもとで日本語で出版する企画であったが、時局の変化により実現せず。

10月 札幌に戻る。北大北方文化研究室で「アイヌの宗教の祈祷・躯疫」講演。医学部解剖学の児玉教授が司会、工学部の鷹部屋教授がマンロー紹介を行う。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

39年 イギリスにおけるマンローの理解者であり、庇護者であったセリーグマン、アフリカで現地調査中に客死。

1940年(77歳)

岩波書店社長の岩波茂雄、マンローの、アイヌ無料診療と人類学への貢献に対し感謝金1千円を贈る。

北大工学部の鷹部屋福平、「毛民青屋集」を著す。この間にマンローの知己を得、58年の『橋のいろいろ』という本の「マンロー先生」という 1 章で回想されている。

先生は旅費を負担し各地のアイヌ古老を呼びよせた。そしてアイヌの風俗習慣は勿論、宗教から天文・数理・彫刻・刺繍・狩猟など細大もらさず聴かれた。それらの話のうち、少なくとも複数のアイヌが一致する言葉のみを著述にうつした。
中でも傑出した役割を果たしたのが二谷国松で、マンローは「私の百科事典」と賞賛していた。
老人達はアイヌ語だが中年以下の人々はほとんど日本語を使うようになり、チヨが東北訛りの強い日本語を英語に通訳してマンローに聞かせた。

1940年の二風谷
    1940年(昭和15)の二風谷集落図 鷹部屋福平の作成したもの
家屋1
家屋2
図3の方は旧土人保護法に基づく資金援助を受けた改良住宅である。手前の坂がマンロー坂と思われる。

夏 軽井沢に出張診療。この夏は特に多忙だった。「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた子の手当。78歳の男には限界です」と書き記す。
「病院関係者はほとんど日本人になったが、皆親切だ。来年もまたきてくれという」谷あて書簡

軽井沢からの帰り、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。

1941年

1月 血尿が認められるようになり、腰の部分のしこりにも気づく。

5月 北大医学部付属病院を受診し腎臓と前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。

10月 診療困難となり二風谷に戻る。チヨ夫人の他に高畠トク、岡田久医師、規久枝嬢が同行。

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

12月 診療を断念、臥床するようになる。福地医師が定期診察を行う。

毎夏の軽井沢出張診療の報酬だけで経済を支え、無料診療を続け、春までの食料の他一銭もない極貧の中で生涯を終った。(桑原千代子

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

1月 健康が優れず、ほぼ病床に伏す(谷の年表)

セリグマンへの手紙: 戦争が始まってから、私の仕事にたいして驚くような豹変振りが続いている。
私が日本国民であること、貧しい人びとに無償で医療を施してきたこと、そして誰にも無害な人物というのがいままでの評判だった。しかし今、そんなことは何の価値もない。

3月 衰弱が進行。岡田医師が応援に入る。

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

死亡前、マンローは後事を鷹部屋に委ねた。家屋敷その他は一括売却された形になっている。記念館として保存したいという意向もあったので、チヨ夫人はすべてを預けたのではないか。その際に預けたのか売却したのかという行き違いはあったかも知れない。
一教授の私費で屋敷を維持するのはそもそも不可能だ。しかし当時としてはそれ以外に道はなかった。さらに鷹部屋は戦後まもなく九州大学に移っており責任を取りにくい立場にあった。
鷹部屋がマンローのことを真剣に考えていたことは疑いない。彼は高畠トクとのインタビューも行っている。桑原の高畠情報は基本的には鷹部屋から得ていたようだ。

4月14日 マンローはアイヌ・プリ式の葬儀を希望していた。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。しかし実際は、聖公会平取教会で函館教会前川司祭の進行で行われた。

遺体は遺言に従い火葬された。遺骨の一部は軽井沢に、他は二風谷のトイピラの丘に埋葬された。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。


軽井沢には妻のチヨの手で墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 イヨマンテのオリジナル・フィルムは、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきた。

マンローは邸とアイヌ関係資料の管理を北大の鷹部屋福平に託した。桑原によれば、鷹部屋は生活に窮しマンロー邸を資料ごと売り払った。(桑原は鷹部屋と面識があったが、この件で裏はとっていない。鷹部屋はマンローに深く関わっており、

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、セリグマンの妻で編集者であるブレンダにより「Ainu Creed and Cult」として出版される。マンローがつけた表題「AINU Past and Present」は採用されなかった。後から加えた2章もカットされた。ブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

1946年 伊福部宗男がマンロー邸で病気療養。この間に長男達が生まれたとされる。同じ建築学関係の鷹部屋が貸していたのであろう。伊福部家は秀才揃いで、宗男の弟がゴジラの昭。

1958 転売を重ねた末、競売にかけられるが買い手はつかず。

1962 ロンドンで「アイヌ:信仰と儀礼」と題する遺稿集が出版される。 

イギリス大使館員のフィゲス、英国文化振興会長のトムリン、競売にかけられたマンロー邸を私費で買い取る。

1965年 戦後転売を重ね、廃屋となっていたマンロー邸が競売に出される。英国大使館の関係者が私費で購入した。

65年 フィゲス、トムソンの訴えに日本人有志も協賛し、「マンロー記念館」設立計画が始まる。地元にも協力会が設立され、主治医の福地医師が会長、二風谷の貝沢正・松太郎が副会長となる。

65年「イヨマンテ」の35mmポジプリントが「発見」される。東京オリンピア映画社が、熊送りの儀礼部分を中心に再編集し、『イヨマンデ 秘境と叙情の大地で』を制作。
映画冒頭
                映画の冒頭
65年 朝日新聞の北海道版にマンロー顕彰運動についての詳細な記事が掲載される。死因等不正確だが、はじめて多くの人に存在を知らせた。

65年末 話は一転。マンロー邸が北大に寄贈されることとなる。三笠宮立ち会いのもとに寄贈式が行われる。

1966年 北海道大学北方文化研究所二風谷分室および文学部二風谷研究室として整備される。
館の管理にかかわった北大事務職員の出村文理は、2006年に「ニール・ゴードン・マンロー博士書誌」を出版。

1969年 伊福部宗男(伊福部昭の兄)が「沙流アイヌの熊祭り」を発表。マンロー没後、邸宅内の資料は鷹部屋福平が管理していたことを明らかにする。貝澤正は、鷹部屋がマンロー館と資料ともども8000円で売り払ったと証言。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去(89歳)。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。チヨは、マンローの死後も軽井沢で婦長として働き、老後は神戸で送った。
マンロー夫婦の旧墓
           マンロー・チヨ夫妻の旧墓

マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…
なお墓碑銘に並ぶ桑原千代子さんはマンローの熱心な紹介者だった。

1927年 ルメートル、「宇宙は原始的原子の“爆発”から始まった」とする。ハッブルやアインシュタインはこれを否定。

1929年、ハッブルは、遠方の銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっている(膨張している)ことを発見。ハッブル-ルメートルの法則と呼ばれる。

1946年 ガモフたちは、熱核反応によって創世が起きたとする。

宇宙の始まりが高密度、超高温度だったとし、核爆発の現象と同様だと捉えた。
そして陽子、中性子、電子、ガンマ線などが、核反応によって様々な元素に転移したと説明した。

1948年 ガモフら、高温高密度の宇宙がかつて存在していたことの痕跡として宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) が存在することを主張、その温度を5Kと推定した。

1948年 ホイル、「定常モデル」を提案。銀河は互いに遠ざかるが、残った空間に新しい銀河が形成されるとする。宇宙論の主流となる。

1949年 ホイル、ルメートルのモデルを "this 'big bang' idea" とからかう。

1951年 教皇ピウス12世、「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」と声明。

1964年 ペンジアスら、マイクロ波の観測中に、ガモフの提唱するCMBを発見。これにより定常宇宙論は力を失う。
宇宙のあらゆる方向から、-270度(絶対0度より3度温かい)の物体の出す電波がやってくる。これはビッグバン当時の超高温の光が減衰したものである。

1980年 宇宙の大構造の発見。素粒子論的宇宙論の誕生。

1989年 NASA 、宇宙背景放射探査のため衛星(COBE)を打ち上げ。CMBが2.726Kであると示す。またCMB温度のゆらぎを検出。

1999年 Ia型超新星が発見。宇宙定数が存在する可能性が示唆される。

2003年 人工衛星WMAPの観測により、宇宙の密度のゆらぎが確認される。またビッグバンに先立つインフレーション理論が大筋では確認される。

ビッグバンに先立って量子の「ゆらぎ」が出現。これにより莫大な数の小時空が誕生。時空が指数関数的な膨張をして宇宙になった。

人間においては、神経回路を駆使する脳の活動(神経活動)が常に行われている。特に覚醒時に活発ではあるが睡眠時においても途切れることはない。

この神経活動のほとんどは無意識下に行われている。その一部が意識された過程となっており、これは広義の精神活動と言える。

意識活動のほとんどは自発的なものであり、とくに意思による操作を求めていない。しかしそれが蓄積されれば一つの傾向を生むだろう。それはひとりひとりの遺伝的特質や生活環境に応じて個別性を帯びており、人間という共通の土台の上で個性を生んでいく。それが習得・発達という側面をもつため、人格と呼ばれることもある。

往々にして混同されるが、これらの事象と「心」の問題はまったく関係ない。

この問題を前野さんは、身体と「心」の比較という切り口で分析している。なかなかに鮮やかな切り口である。

「もしこころが脳にではなく心臓にあるとすれば、それは何をするのだろう」、というのが前野さんの問いかけである。ほとんどすべての精神・神経的な作業は脳で済んでしまうだろう。
とすれば、心臓は他者としてそれを眺め、評価し、我がものとして受け入れる以外にない。西田幾多郎の言う「絶対矛盾の自己同一」だ。なぜなら心臓には自前の作業用具はないからだ。いわば象徴天皇のようなものだ。

例えばなしはこのくらいにするが、脳が思考を我がものとして意識する過程は、現実にはどこかに局在するというわけではない。脳のあらゆる部位でさまざまな様式で繰り返されている。
意識する過程は、時としてスクリーンに投影される。それはきわめて鮮やかであり、視覚領域にあるかのように感じられる。そこに映像として映し出される。それが音像である場合もあるかも知れない。

心は意識の過程を感知するセンサーであり、自分を見つめるBy-standerである。前野さんはそれを「再帰的意識」と呼んでいる。それは個別の意識過程が自分の内部で生じていることを確認する。

人間は「心」という他者を内在するがゆえに、自己の存在証明が可能となるのだ。


「上達と発達、そして自己形成」という三題噺。何かしら有り難そうでしょう。


フィードフォワードはフィードバックの一種

前野隆司さんの一番言いたかったことは、本の一番最後の部分にあるフィードバックとフィードフォワードのことだろうと思う。

フィードフォワードについて、自分なりに整理してみた。ここから先は前野さんとはなんの関係もない、例によって酒飲み話です。

フィードフォワードの見た目は、フィードバックと違って、トライアンドエラーの枝がない。その分、仕組みがかんたんだから、処理スピードも速い。

フィードフォワードはフィードバックとペアーで語るようなものではなく、むしろフィードバックシステムの一部というか、例外規定として語るべきものなのだろうと思う。

いわば天に向かって枝葉を伸ばしながら突き出した杉の木を、枝葉を取り払って逆さまに地面に突き立てたような恰好をしている。

つまり、一種の逆向きフィードバックのシステムだ。

フィードフォワードの2つの弱点

フィードフォワードには2つ弱点がある。

一つはフィードバックで治験を積み重ねて、前もって「順モデル」を作り上げなければならないこと。これにはそれなりの手間ひまがかかる。最悪の場合は、「順モデル」が出来ないままに終わることすらある。

一つは経験になかった状況が生まれた場合は、一度モデルをご破産にしてフィードバックをやり直さなければならないということだ。


順モデルの形成と、その形成過程

ただその場合、まるっきりの御破算というわけではない。前回順モデルを作ったときの経験は十分に役に立つ。努力しただけのことはあるのだ。

人は、順モデルを作る過程を経験したことで、Way of Thinking を身につけたのだ。ここにモデルづくりのもうひとつの意義がある。

ここで私の主張の1つ目が出てくる。

順モデルの形成は、即自的にはスピードアップを始めとする技の「上達」を意味する。一方、順モデルの形成のための知恵を身につけるのは自己陶冶であり、長い目で見て「発達」のための重要な柱となる。

かくのごとくして、フィードフォワードと発達、自己形成の実践課題が一体のものとなってくる。


フィードバックがいらない2つの場合

フィードフォワードは前もって成功モデル作りの準備が必要だが、その作業は教育により代用できる。

良いコーチがいればフィードバックによる習得過程は大幅に短縮できる。場合によってはジャンプ・スルーできる。

AIの場合もスキルの習得は短縮されるが、教育の場合とは仕掛けが違ってくる。

それは最初からフィードフォワードのシステムとしてプランニングされている。そこにさまざまなフィードバック型の治験を押し込んでいくのだ。

これについては、この記事の中では触れないでおくことにする。


上達のモデルとフィードフォワード

これは別にどうという話ではないが、付け加えておきたいことがある。

前野さんは運動技能の上達に関わる神経系が小脳と書いている。これは明らかに間違いであり、基本的には頭頂葉と書くべきである。

運動技能は明らかに視覚系のシステムに依存している。座頭市や盲目のピアニストなどがいるが、おそらくバーチュアルな視覚機能を用いているのだろうと思う。

運動技能の習得はたんなる視覚ではなく動画的把握が求められる。動画的把握というのは、対照が何処から何処へどのくらいのスピードで移動するのかの把握である。

この動きを動画記録して、記憶装置に入れ込む。そしてこれに応じて身体反応の動きも把握することになる。

これが運動イメージとなる。小脳はこのイメージを受けて筋肉への割り振りスピードの調整などを行う。

こういう大脳頭頂葉と小脳の協調が運動の熟練やマスターの内容をなす。これほど広範な各システムの連携だから、逆に言うとかなり広範に応用が効くのである。

こういうフィードバック→フィードフォワードの繰り返しは、人間の成長の営みを形成する。

一つの行為は積み重なることによって実践となる。それは基本的には多くの人間に共通するのだが、営みではあるが、その組み合わせや頻度は各個人によって異なったものになる可能性がある。

これが能力の発達に伴う個性の発現につながり、Ways of Thinking が Way of One's Life へと収束されていくのではないだろうか。

本日の赤旗、一度読み流してしまったら、何処にあるのかわからないような記事。
14面の社会・総合面という雑然とした紙面に埋もれてその記事はあった。
見出しは
隕石から糖分子検出
サブ見出しが
地球初期、生命の材料に
というもの
主な内容は
隕石の分析で「リボース」が検出されたという情報。
その隕石は2つ。一つはオーストラリア、もう一つはモロッコで発見された。
いずれも40億年以上前に小惑星帯から飛来したもの。(その根拠は明らかにされていない)
これを日本の研究施設(複数)が分析して、そのなかに「リボース」を発見した。

じつは記事の情報そのものより、記者のちょっとした追加情報が面白い。ちょっとしたというが、短い記事の中によくこれだけの情報を詰め込んだなと感心するくらい密度が濃い。

1.40億年前の太陽系

太陽系は46億年前に形成され始めた。超新星爆発で散らばった星間物質がふたたび集まって形成されたと言われる。
45億4000万年前に地球が誕生した。その頃太陽系の外側から冷えてきて、水素化合物が凝集し固体となったためである。
40億年前前後に「後期重爆撃期」があり、小惑星帯から大小の隕石が降り注いだ。

と、ここまでは私がウィキペディアから拾って突っ込んだ記事。

2.原始生命飛来説

現在は、この隕石に乗って生命の材料となる有機物が飛来したというのがほぼ定説になっている。ただしそれだけでは結論を先送りしただけで、隕石の故郷でどのようにして有機物が形成されたかの問題は謎なのだが…

もう一つはどのレベルの原始生命が来たのかも議論の的になっている。有機物が来たことまでは一致するが、アミノ酸についてはいまだに議論が分かれる。タン白や核酸までは流石に無理だろうというのが大方のところだ。

今回の発見は、そのギリギリのところまで迫った研究だから相当の話題になるだろう。記事では東北大学の先生の談話を引用している。
地球外の糖分子が生命の材料の一部となった可能性がある。
そこまで行くと、「材料の一部」と言っても言外に「生命外来」説と受け止めたくなる。

3.リボースの発見とその意義

ここがこの記事の環である。
現在のほとんどの生物はDNAが遺伝情報を担い、RNAが補助してタンパク質を作りますが、
地球初期の生命は、RNAがDNAとタンパク質の両方を担っていた。
…リボースはこのRNAを構成する主要な糖分子である。
と書かれている。

実はこの話は初耳だ。

先日、RNAについては勉強したが(文末に記事一覧あり)、RNA起源説についてはいろいろ弱点も多く、むしろタン白が先で後から作成情報をRNAに預けるようになったのではないかという説のほうが有力なように感じていた。

そもそも、リボゾームという構造が宇宙船の如き構造で、あまりに立派なもので、これがどう作られたのかという謎を解かないと、“使いっぱしりRNA”の意義もわからないのではないかと感じていた次第である。

それにリボースという多糖が怪しい。「リボース(Ribose)は糖の一種で、五炭糖、単糖に分類される」と書いてあるが、その絵(下図)がメチャクチャだ。
D-リボース
{{{画像alt1}}}
フラノース環 (五員環)
{{{画像alt2}}}
ピラノース環 (六員環)
{{{画像alt3}}}
     鎖状構造
    Wikipediaより
なんでこれが一つのグループなのか、私にはさっぱり飲み込めない。端的に言えば核酸の塩基とくっつけるものなら何でもいいということみたいだ。こんなものに生命の源を仮想するのはどう考えてもおかしい。

4.核酸は生命そのものではない

それと核酸というのは生命の“マーカーの集合”であり、生命そのものではない。
「生命というのはタンパク質の存在のあり方」(どうでもいいのだが、一応エンゲルスの言葉)である。核酸の存在のあり方ではない(エンゲルスは核酸など知らない)。

真実を書いた素晴らしい本であっても、本から真実が生まれるわけではない。このアタリマエの事実を踏み外してはならないと思っている。

したがって、この説には現在のところ素直には従えない、というのが率直な感想である。
しかしそれにしても素晴らしい記事で、刺激になった。朝日新聞よりはるかに高水準である。ありがとう。

5.付録 RNA=生命の起源説の歴史

私の以前の記事からピックアップしたものです。

1953年 S.ミラー,始原の大気に相当するメタン,水素,アンモニア,水蒸気の混合ガスを入れたフラスコ内で火花放電をさせ,簡単なアミノ酸をつくりだすことに成功。

1969年 オーストラリアに「マーチソン隕石」が落下。100 種近いアミノ酸が同定される。

1980年 化学反応を触媒することができるRNA分子が発見される。RNA触媒(リボザイム)と名付けられる。

1986年 ウォルター・ギルバート、RNAワールド仮説を提唱。リン脂質を合成するリボザイムができ、細胞膜に包まれたリボザイムが出現、さらにタンパク質やDNAを合成するリボザイムも出現した。

1999年 フリーマン・ダイソン、「ゴミ袋ワールド仮説」
オパーリンのコアセルベートのような原始細胞状構造体が多数できた。そこに自己複製するRNAが取り込まれ、共生するようになった。
これでミトコンドリアも葉緑体もみな説明できる、まさにゴミ袋だ。

下記もご参照ください


前野さんの主張は多岐にわたっており、そう簡単にまとめることは出来ない。

ただ、私の主張に惹きつけて見るなら「心」というのは思考過程のごく特殊な一部だと言うことだろうと思う。

「思考」という行為は、自然に思いが浮かんで来るということではなく、目的を持った過程である。

それは目的により規定された過程だ。そしてその目的が内観的・内省的な方向に向けられたとき、そのような思考過程を「心」の過程と捉えることになるのであろう。

一方、思考過程の多くは自己以外の対象に向けられている。思考というのは意識的な過程であるが、その数十倍、数百倍の頻度で無意識的な過程が営まれている。

この思考過程(意識的か無意識的かを問わず)は、いうまでもなく身体的活動過程の一部である。

人間は1日24時間の活動のほとんどを思考以外の活動に費やしている。

だから自己に向けた内観的な「心の活動」は、意識的な思考活動の一部であしかなく、脳みそを使う活動の中のほんの一部でしかない。

同時にそれは人間の諸活動の中ではほんの一瞬を占める活動でしかない。

これが脳の能動的活動の全体的なアーキテクチャーなのだろうと思う。

ここでは「心」の活動を思い切り絞り込んで定義しているが、もっと曖昧な「心持ち」とか、もっと広く定義することもできよう。しかしパソコンに出来ないような心の活動に絞り込もうという前野さんの意見には大いに賛成である。

前野さんは「心」というのは錯覚だとか誤解だとか言っているが、それはちょっと極論で一種のたとえであろうと思う。
「自分に向けられた、自己を対象とする思考」などという行為は、膨大な日々の人間的活動の中ではきわめてちっぽけな割合しか占めていない。
そこが「心」を考える上での最大のポイントだ、というのを強調するためであろう。

正確に言えば、「心」の活動は決して小さいものでも、とるに足らないようなことでもない。なにせそこから哲学は出発するのだから。

問題はそういうことではなく、それ以外の脳の活動の分野がギガとかテラというレベルで、べらぼうに大きいという事実を踏まえることなのである。


前野さんの最大の理論的功績はフィード・フォワード理論の拡張と、これによる自己意識の形成への道のりなのだが、これについては明日また考える。
たぶん時間軸の導入によりダイナミックな形成過程論を展開できるのだろうと思うが、これは視覚と記憶の問題が深く関わってくると思う。


私がギリシャの自然哲学をまとめて勉強したのには理由がある。
それは前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」という本にたいへん心惹かれたからである。
私のブログを読んでくれている人には分かってもらえると思うが、私は「三脳原基説」を唱えている。
別に独創的な考えではないが、大脳から脳を考える逆立ちした発想に我慢がならないのだ。とりわけマクリーンの「辺縁系」理論にはムカついてしまうのだ。
脳科学者と称する人の妄言にも鳥肌が立つ。あれなら能見正比古の血液型人間学のほうが遥かにマシだ。

脳の進化の歴史ははっきりと教えている。神経管の先端が膨らんで前脳・中脳・後脳を作った。
そのなかで前脳だけが神経内分泌の中枢と結合した。それが視床と視床下部だ。
ここで脳の知覚→運動の連鎖とこれに情動を結びつける「心」の働きが始まった。
だから情動そのものは大脳の発達よりも先行している、とも言える。

ただ「心」は、脳の発達に階層性があるのと同様に階層性がある。ここを知能と結びつけながら、前野さんはかなり掘り下げてた。
だから前野さんの言う「心」は、悟性とか理性とか知性という観念に踏み込んでいる。

だから、こちらにしっかりした「心」の範疇や概念がないと振り回されてしまうなと考えたのである。
哲学に観念論を持ち込み思考をストップする人々との戦いは、むしろ哲学の外の場で争われてきた。この闘いに頭はいらない、必要なのはガッツだけだ。

しかし議論の場に密かに唯名論を持ち込み相対主義の混沌に引きずり込もうとする手合に対しては、厳しい頭脳戦が求められる。
そこで私は、イオニア学派の自然哲学を大づかみにして、自分の座標軸を据えようと考えた。

前野さんのこの本は2003年の出版だ。私は16年前の前野さんに出会ったことになる。そのころの彼はきわめて颯爽としていた。

最近の前野さんの著作を題名から推察すると、もはやその辺の「脳科学者」に成り下がっているようだ。茂木某などの手合にもてはやされて逆上せ上っているのだろうか。日本という国の文化的貧しさの犠牲者かも知れないが、無残である。大変遺憾に思う。


ついで、人名をウィキペディアで追っていくこととする。
彼らの主張は、「ディールス・クランツの断片集」としてまとめられている。

紀元前6世紀  ミレトスのイオニア人社会で自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。タレスは万物の根源(アルケー)は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。
さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。
この辺は、小学校の教室で生徒が次々に手を上げて考えを述べるのに似ている。

略歴をウィキペディアその他から抜き出した。

タレス

紀元前624年頃 - 紀元前546年頃の人。フェニキア人の名門の家系であった。
イオニアに発したミレトス学派の始祖である。
タレス自身の著作は残っておらず、言及した断片から推察する他ない。

彼は万物の根源を水と考えた。
存在する全てのものは水から生成され、やがて水へ回帰していく。万物はDefiniteだが水はUndefiniteである。世界はUndefinite からDehfinaiteされ、やがてUndefinite へと回帰していく。
世界は水からなり、大地は水の上に浮かんでいると考えた。

第一に、「万物の根源は水である」というのは誤りだが、「万物の根源とは何か」という問いを立てたことに功績がある。つまりタレスは最初の回答者ではなく、最初の質問者として意味を持つのだ。

第二に、物質のあり方を、より混沌系で自由度の高いあり方に還元しようとしたことである。固相より液相という還元は非常に本質をついた提起である。ただし液体には形がない。物事を「形あるもの」と考える限り、精霊が宿ることのできない「形なきもの」との往来は素直には頷けないものがあろう。

液相というのは4つの特徴を持つ。
1.可塑性: 「溶けて流れりゃみな同じ」という融通さ
2.相転移の容易さ: 相としての熱エネルギー保持
3.流動性: 流体としての力学エネルギー保持
4.溶媒: 固化だけでなく析出という形で個体の源となる。

これだけでもタレスの水=アルケー論はきわめて優れていて、発展的で多方向的である。

アナクシマンドロス

アナクシマンドロスは紀元前570年頃の人。彼の言葉は断片が伝えられている。
アナクシマンドロスは、万物の根源は「無限なもの」であるとし、それは宇宙に秩序を与えていると説いた。

存在するもの “Da Sein” は時の定めに従って、生成してきたところへ戻り、消滅する。これは必然的である。
万物の根源は「無限なもの」である。そして無限なものの本性は、永遠である。

アナクシマンドロスの言葉は解釈が難しい。一見、タレスからの退歩にすら見える。しかし彼の言う「観察不可能で限定できないもの」(アペイロン)は時間軸そのものを指しているように思える。タレスは事物を空間的自由度を上げることで、事物をより根源的で未定型なものに還元しようとした。

それとおなじように、アナクシマンドロスは事物を時間軸の上において時空的自由度をあげようとしているのではないか。
そして事物を時間微分像(時間軸上の旅人)と描き出すことで、シンボル化とエネルギー付与作業を果たそうとしている。

ただしこれは高度に抽象的な操作になるので、唯名論的な方向にバイアスを受けやすい。それをヘラクレイトスがしっかり受け止めて万物流転につながったとするなら、その意義は大きなものになるのだが…

アナクシメネス

アナクシメネスは万物の根源を「空気」だと考えた。
私たちの魂は空気である。その魂が私たちをしっかりと掌握している。
それと同じように、気息と空気が宇宙全体を包み込んでいるのだ。
これはタレスの二番煎じとしての側面がある。「液体がアルケーなら気体はもっとアルケーだろう」と考えたのだろう。そんなことは少なくとも現代ならすぐに考えつく。

ただ問題は、おそらく当時の人は「空気は空っぽだ」と思っていただろうということだ。つまり「無が有の根源」だと主張している理屈になる。
だから論理的には容易い一歩であっても、常識的にはかなり受け入れにくい説ではなかっただろうか。

アナクシメネスは次のように語っている。
空気は物質を持たないもの、すなわち無に近い。
しかしそれは同時に、無限であって豊かであるはずだ。なぜなら私たちはこの空気が流れ出ることによって、生じるにいたるのだから。
そしてそれは絶対に尽きることがない。
三点セットでミレトス派哲学を見る

この3人を含め、古代ギリシャの自然哲学者たちは、素朴な唯物論者であり、人間も自然の一員であると認識していた。

ミレトス以降の自然哲学

ヘラクレイトス 
紀元前540年頃~480年頃

哲学者は「万物の根源とは何か」を探求してきたが、彼はその議論を、「世界とは何か」の問いに発展させた。

ヘラクレイトスは世界は「在る」ものではなく、「成る」ものだと考えた。

世界は対立するものの調和によって、変化しつつ、その時間ごとに「成立」していると主張した。
人は同じ川に2度入ることはできない。なぜなら、われわれは存在するとともに、存在しないからである
「火」は絶えず変化しその姿を変えながら、火としての特質を保持し続ける。したがって「火」は幻ではない。
世界は「永久に生きる火」である。

ヘラクレイトスは弁証法を貫くことで唯物論の立場に身を置いた。

パルメニデス

反自然哲学派のエレア派を代表する哲学者である。紀元前515年頃 南イタリアの植民市に生まれる。エレア派はピタゴラスの「すべてのものの根源は数字である」という流れを汲み、一種の唯名論の立場に立つ。その議論は抽象的で主観的であり、要するに良く分からない。

ヘラクレイトスを批判し「有るものはあくまでも有り、無いものはあくまでも無い」と主張。
なぜなら「存在するものが存在しなくなり、ある存在が他の存在になる」というヘラクレイトスの論理は不可能である。
川は川であり、水が流れていても川は川として変わらず存在している。
のだから。

しかしこれは反論になっていない。なぜならヘラクレイトスの主張の含意を理解していないからだ。

ヘラクレイトスはパルメニディスのような考えを否定しているわけではなく、それを受け入れた上で、「でも中身は変わっているだろう」と言っているのだ。

デモクリトス

紀元前460年頃~370年頃
エーゲ海北岸のトラケアに位置するイオニア人の植民地アブデラに生まれる。この街はペルシャの支配を嫌ったミレトスの人が移住したことで知られる。
最後の自然哲学者で、イオニア哲学の流れをくむ。

ウィキペディアの「デモクリトス」の記事で「イドニア派」という表記があり、多くの日本語文献がこれを踏襲しているようだが、英語にはこのような言葉はない。「イオニア派」の誤植ではないか。

ソクラテスよりも後に生まれているが、その影響は受けていない。

デモクリトスはエレア派の「あるものはどこまでもあり、あらぬものはどこまでもあらぬ」とするドグマと対決する。

彼は、無限の空虚(ケノン)の中に、目には見えない物体が満たされていると考えた。そして「あるもの」として実体のみならず、「空虚」もあるものとして考えることで、実在と認識をめぐるジレンマを克服した。

そして、小さすぎて目に見えず、それ以上分割できない「原子」(アトム)が、空虚の中で運動しながら、世界を成り立たせているのだとした。

あらぬものは、あるものに少しも劣らずある。

これがデモクリトスの結論である。
こうして認識の相対的限界に規定されない、運動や実在の枠組みを原子論として構築する。実に見事である。

デモクリトスのもう一つの理論的前進は、「無意味な必然である原子が、感覚や意識、さらに魂も形成する」という徹底的な実在的価値観だ。

これに何故、なんとも不格好な快楽主義がくっついてしまうのか不思議だが、これについては無視。

5+1で覚えておけば良い

つまりミレトスの御三家と、その衣鉢を継ぐイオニア派のヘラクレイトスとデモクリトスと覚えておけばよい。+1というのはエレア派のパルメニデスで、この人がヘラクレイトスとデモクリトスの間に入ると納まりが良い。




その後調べていくと、外すわけには行かない功績のある哲学者が何人かいる。とりあえず番外として上げておく。

アナクサゴラス Anaxagoras

紀元前500年頃 - 紀元前428年頃

イオニア出身。紀元前480年、アテナイに移り住み、科学精神を持ち込んだ。

物体は限りなく分割されうるとし、この無限に微小な構成要素を「スペルマタ」(種子)と呼んだ。

ごちゃまぜだったスペルマタは「ヌース」によって整理され、秩序ある世界ができあがった。

(ヌースは理性と訳されているが内因と捉えるのが適切であろう)

ヌースが原因となって、原始の混合体は回転を初めた。それはある一点から始まり、遠心作用で拡大した。
(ビッグバン理論を思わせる)

太陽は「灼熱した石(に過ぎない)」であると説き、太陽神アポロンへの不敬罪に問われ、アテネを追放された。


アルケラオス

アナクサゴラスの弟子で、自然学をイオニアからアテナイにもたらした一人である。

最も過激な意見は以下のもの

生物は土から生まれる。最初の人間もそのようにして生まれた

正しいことや醜いことは自然本来にはなく、法律や習慣によって生じる。


アポロニアのディオゲネス

紀元前460年頃の人。トラキアのミレトス人植民地アポロニア出身で、アテネに移った。変人哲学者のディオゲネスとは別人。

アナクシメネスの空気=起源論を引き継ぎさらに強調。すべての物質は、濃縮化と希薄化によって派生したものとする。

また、意識は必然的に空気に宿っていると主張。かなり原子論に接近している。


レウキッポス Leukippos

紀元前440-430年頃 

ミレトスに生まれ、エレアに赴いてパルメニデスに学んだ。

その後デモクリトスの師として原子論を創始した。

1.事物の総体は限りがない

2.宇宙のすべては虚(Kenon)と実(アトム)からなる。

3.アトムは虚に放出され他のアトムと関係する。

4.アトムが集まると渦を生じ、形の似たもの同士が結びつき、物体を生ずる。

レウキッポスの偉いのはイオニア哲学の嫡流でありながら、わざわざエレアに赴いてパルメニデスに学んだことである。
すでにイオニア派の雄アナクサゴラスがアテネに衝撃のデビューを果たし、哲学界を席捲している。ミレトス派の最大の論敵から謙虚に学ぶということはなかなかできることではない。
おそらくパルメニデスのヘラクレイトス批判が相当応えていたのだろう。
こうやってヘラクレイトスを止揚する形で「原子論」を立ち上げたのならば、それはいわばギリシャ古典哲学の粋を集めた理論だったのではないだろうか。
そして、レウキッポス→デモクリトスの原子論がギリシャ古典哲学の最高の到達だとすれば、プラトンの哲学というのは何なのだろうか。それはソフィスト哲学の集大成でしかなかったのではないか。
(すみません。アルコールが入るとつい、だいそれた事を言ってしまいます)


それでウィキペディアで自然哲学の概要をつかんでおきたい。

まずはウィキペディアの「ソクラテス以前の哲学者」の項目

哲学者の多くは、自然と宇宙を自ら思索の対象とした。
彼らは擬人的な神話による説明を排除し、より一般化された非擬人的な説明を求めた。
自然哲学は、宗教から離れ哲学、さらには科学へ至る考え方の転換点となった。

自然哲学は「宇宙はなにから生じるのか」を思索し、次に個別の現象を説明しようとした。
現象については、その現象が生起する原因、現象が生じる機序、その現象を統御する原理が求められた。
その統制原理は「ロゴス」と呼ばれた。
自然現象への問いは、宇宙の究極的構成原理としての原子を仮定するに至った。そして原子の機械論的運動で世界を描像しようとした。

哲学者たちが提示した答えのほとんどは真実とは受け取られなかったが、彼らが答えを求めようとした質問、さらに問いを立て探求するという態度はそのまま受け継がれた。

次が「イオニア学派」の項目

イオニア学派は自然哲学の嚆矢として知られる。
彼らは知覚的な情報を元に、自然・万物の根源である「アルケー」を様々に考察した。

イオニア学派に分類されるのは、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アポロニアのディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどである。

イオニア学派のうちの何人かは「ミレトス学派」と小区分される。

ついで、「ミレトス学派」の項目


紀元前6世紀  ミレトスで自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。

万物の根源=アルケーを追究することを目的とする。

タレスは万物の根源は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。

さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。



ウィキペディアの3つの項目を読んでもさっぱり姿は見てこないが、そういうものなのだろう。

ギリシャ哲学の根っこはソフィストたちの議論の中にあると思って勉強し始めたのだが、どうもそれ以前のミレトスの自然哲学こそが大もとで、議論の論点はすでにそこに出尽くしてるのではないかという気がして、作業が止まってしまった。

そこで、そちらの仕事はとりあえず脇において、ミレトス学派の勉強に取り掛かることにした。

実は、最近「脳はなぜ心を作ったのか」(筑摩書房/2004年)という前野隆司さんの本を読んで、えらく刺激になったのだが、感想があまりに莫大すぎて、どうもまとめようがなくて困っていたところだ。

とりあえずの結論は「哲学しなければいけない」ということだったが、まさにそれがミレトス学派の課題でもある。

そこで、まずこの付近から問題意識を整理していくのが良いかなと思いついた次第である。

「壮大な挫折」に終わるかも知れないが、まずは手を付けてみよう。

まずは背景事実の整理から。

イオニア人とミレトス地方

歴史的/地理的把握
ギリシャ人の南下

世界の歴史まっぷ」というサイトにわかりやすい図があったので転載させていただく。

この絵からわかることは、

1.ハンガリーあたりから北方系の人が南下してきて、ギリシャ半島からエーゲ海に進出し、さらにトルコ(小アジア)の西岸に植民したということだ。

2.南下の波は2回あって、最初が紀元前2千年頃、2度めが紀元前1200年ころだ。最初に南下した人々はギリシャ半島にとどまり、アテネやスパルタなどの都市国家を建設した。
あとから南下した人々は、3つのグループに分かれ、さらに小アジアへと進出した。
しかしこの図からは、彼らが半島を素通りしてエーゲ海へと赴いたのか、それとも例えば半分は半島に残り、残りの半分が進んだのかは分からない。また先住者との関係が友好的だったのか敵対的だったのかも分からない。

3.南下した人々は、おそらく言語的特徴により、3つの地域的グループに分かれた。
エーゲ海の北半分を占めるイオニア人、南半分を占めるドーリア人、またトロイア周辺にはアイオリス人の集団が居住した。
それ以外に、半島の主部には西北方言(アカイア語)をしゃべる雑多な群の人たちが居住していた。
これらのグループの入植順や優劣関係などはこの図からは判定できない。
しかし、良く出来た分かりやすい図である。
ここには掲げないが、もう少し詳しい地図もあって、それではアイオリス人がテーベを中心とするギリシャ半島の主部を支配し、イオニア人の世界にくさびを打ち込む形でトロイアにも進出しているように見える。
想像するに、南下の順はドーリア人、イオニア人、最後に最強のアイオリス人ということではないだろうか。

この点に関して、歴史書の記述はかなり様相を異にしているが、今はその点にはこだわらない。


イオニアとフェニキア人

イオニアはイオニア人が住むからイオニアという身もふたもない話だが、アテネのイオニア人が入植してできたポリス群である。そしてその最大のものがミレトスということになる。

それではイオニア人はなんの軋轢もなしにイオニア地方を手に入れることができたのだろうか?
この辺も、また分からないところである。

そこでまた「世界の歴史まっぷ」のお助けを乞う。
フェニキア人とイオニア

この図でわかることは、

1.第二期のギリシャ人の大移動が終わったあと、連続して地中海各地への進出/植民が始まったこと

2.進出を担ったのは南部、西部へのドーリア人、東部、黒海方面へのイオニア人であり、イタリア半島南部へはアカイア語グループが進出したことである。

3.フェニキア人はすでに制海権を奪われ、寸断されている。ギリシャの卓越した海軍力が伺える。

4.居住地の色分けと進出路の色分けが一致しないのは、解釈のしようがない。他の図を参照する必要がある。

5.この時期にアイオリス人の活動が見られないのは、紀元前1200年頃に起きたとされるトロイ戦争の影響があるのかも知れない。


イオニア人社会におけるミレトスの位置

前11世紀に創建された。最初はクレタ島からの移住者と先住のカーリア人により構成された。

紀元前1千年頃にアテネに征服され、その植民都市となったが、のちにミレトスそのものが80以上の植民地の拠点となった。

前8世紀半ば、イオニアでホメロスの詩編が成立したとされる。

ギリシア語のアルファベットは、前800年頃にフェニキア文字を借りてミレトスでつくられとされている。エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入した。

前6世紀 タレスらミレトス学派を生み、文化の中心となる。

前6世紀に隣国リディア、次にペルシアに服従する。

前500年にペルシア帝国に反乱を起こし、前494年にラデー沖の海戦に敗れて陥落。街は徹底的に破壊された。

この後文化・哲学の中心はアテネに移っていく。


なぜミレトスは自然哲学を生んだのか?

ミレトスの三賢人の思想は自然哲学として一括されているが、人類史に引き寄せてみれば、それは「科学哲学」と呼ばれる方がふさわしいと思う。

事物の根源を突き詰めるということは、科学の精神そのものである。
彼らはまさに「科学して」いたのだ。

もう一つは科学が否応なしに持つ批判精神である。それは既存の常識に対する挑戦であるから危険も伴う。

ミレトスは紀元前1千年から500年にかけて世界の交易の中心であり、知識の集結点であり、人種と文明の交差点であり、自由と平等の街であった。

一言で言えば無国籍都市であった。だからコスモポリタンの発想が支配したのだ。
自然哲学の祖タレスはフェニキア人の出自である。

前700年からペルシャに滅ぼされるまでの200年余り、羊毛ばさみ、手碾き臼、ぶどう絞り機、起重機が発明された。

イオニアはすべてのものの発祥の地となった。ギリシャ文字、ホメロスの神話、市場経済、貨幣がそれである。しかしそこには官僚制や常備軍や雇い兵制度はなかった。

ミレトスはギリシャ文字を生み出し、ホメロスを生み出した。そして神話の否定者をも生み出したのである。

縄文前期と呼ばれる紀元前5千~6千年頃、満州から沿海州にもかなりの土器文化が認められる。それは熱河省まで及んでいる。
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特徴としては平底であること、網目様文様が施されていることであり、日本の縄文様式と類似している。

しかしこれらの土器文化を担った人々は明らかに日本人と異なる。この頃すでに日本人=縄文人の主体はD2とC1の混血であろうと思われる。

したがって消去法で考えれば、この極東文化の担い手は、今もこの地に住むC2群であろうと思われる。

これらの事実はY染色体ハプロC2群とD2+C1群の相互浸透を強く示唆している。

ただその相互作用が、いかに形成されたのかは不明である。

とくに謎となっているのが、この時期における朝鮮半島の土器文化の「空白」であり、九州南部に1万年前に出現し、鬼界カルデラの噴火を以って消滅した超早期縄文文化の由来である。

この点に関して積極的な意義を持つ論文を見つけた。

イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)

この論文によると、紀元前5世紀の環日本海的減少は、海洋適応(maritime adaptation)と言うのだそうだ。

ロシアで「アムーリア」と称される大領域がある。アムール河口域・オホーツク海・日本海・日本列島の全域を包摂する領域で、この領域の自然が「海洋適応」を生み出したらしい。

「海洋適応」は縄文時代前期(BP 6500~5700 年頃)に著しく進んだ。同時期に生じた海進(marine transgression)と関連するであろう。


京都外語大学ラテンアメリカ研究所主催の「ベネズエラをめぐる状況」講座でのフロア発言
べ講座

2日間の議論、本当に面白く聞かせていただきました。
参考になるかどうかわかりませんが、ベネズエラを取り巻くもう一つの国際環境として、非同盟諸国首脳会議でのベネズエラ評価に関して発言させていただきたいと思います。
ベネズエラはこの間まで非同盟諸国首脳会議の議長国だったのですが、9月のバクー・サミット宣言でも間接的に言及されています。
それが人権に関する考え方です。

アメリカや西欧のメディアを念頭に置いていると思うのですが、人権、人権というが、いちばん大事なのは生きる権利だというのです。
そして今一番世界で危機にさらされているのも生きる権利だと言うのです。

その理由は、経済的不平等がかつてなく進行しているからです。

私達にとって重要なことは、2019年秋の時点で、世界の国の過半数を占める百数十カ国の首脳がこのような人権観で一致していること、それが共通の意志として宣言されているということです。

政治的・思想的自由の権利表現の自由などの権利も重要なものであり、それが遅れた国ではしばしば軽視されていることも間違いありません。

しかし同じように先進国も、遅れた国のこのような人権状況を無視し、人間開発・社会開発の権利を軽視しているのではないでしょうか。

ベネズエラ問題を考える際、「人権」というのがキーワードになっていますが、このような人権観の枠組みの違いが先進国と途上国との間に横たわっています。

一方的な審判、指弾ではなく、共通の思いの形成を検討の基盤に置くべきではないか、ということを指摘させていただきたいと思います。

イオニア地域の形成の時代

紀元前1050年頃 ギリシャ本土からイオニアへの植民が始まる。

776年 オリンピア競技会が始まる。

750年 ギリシャ各地にゼウス信仰を共有する都市国家が成立。

750年 イオニアから地中海・黒海沿岸への植民が盛んになる。市場経済を基礎とする飛び地型都市社会が次々に出現。

750年頃 ギリシャ語のアルファベットが成立。ギリシャ文字は紀元前800年代にセム語系のフィニキア文字から案出された。

前730年頃 ギリシャ語で書かれたホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』が成立。

前700年頃 詩人ヘシオドス、勤勉な労働を称える『仕事と日』と神々の系統に関する「神統記」を著す。ヘシオドスとホメロスはカルキスにおいて詩を競ったとされる。


自然哲学の開花の時代(前古典期BC657年~508年)

前660年頃 ギリシャ各地で立法者・僭主の時代が始まる。

前639年 ソロンがアテネで生まれる。

前624年 タレースがイオニア地方のミレトスで生まれる。

ミレトスで自然哲学が始まる。宇宙を構成する物質の根源(アルケー)を探求し、それが水であると指摘。タレス自身の著作は残っていない。

621年 アテネでドラコンによる立法が始まる。貴族政治が崩れ始める。

600年頃 アテネで中小農民の債務奴隷化が進行。

紀元前594 メガラとの戦いに勝利したソロンが、アテネの執政官に選ばれる。「ソロンの立法」により民主制の基盤が定まる。制度設計はイオニアに範をとったと言われる。

その後ソロンは後継者ペイシストラトスに対抗しキプロスに追放される。

500年代 ペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)が、『イリアス』や『オデュッセイア』を文字に写し、アテネに紹介。今日の形にまとめられたのは紀元前2世紀のアレクサンドリアとされる。

前582年 ピタゴラスが生まれる。万物の根源は数であると主張。移住先のシチリアでピタゴラス教団が設立される。

前561年 イオニアの諸都市、リディアに征服される。

前560 クセノパネスが、イオニアのコロフォンでうまれる。ヘシオドスやホメロスを攻撃したことで知られる。存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限である。神の本性は全体が知性であり思慮である。魂は気息(プネウマ)である。

前560年 アテネでペイシストラトスの僭主政治が始まる。独裁制のもとで土地の再分配を実施。

前550年頃  ミレトスのヘカタイオスがうまれる。ホメーロスなどの信頼性は認めるものの、神話と歴史的事実とは区別して考えた。

前546年 ペルシャがリディアを併合。イオニアの諸都市もペルシャの支配を受ける。

前544年 ヘラクレイトスが生まれる。「万物は流転する」とし、「万物の根源は火のように絶えず変転し、エネルギーを生み出す」と説く。

前538年 イオニアのサモス島で、ポリュクラテスの僭主政治が始まる。

前507 アテネでクレイステネスの改革。僭主ヒッピアスを追放し貴族階級を解体。全市を10区(デーモス)へと再編成する。さらにオストラシズム(陶片追放)と呼ばれるリコール制度を創設することで独裁の復活を阻止する。民主政のもとで、人間と社会、国家(ポリス)のあり方に哲学的関心が向かう。


イオニア文明の衰退とアテネへの移動(古典期BC490年~404年)

前500年頃 クセノパネスが活躍。

紀元前499年 イオニア諸都市で、ペルシャを後楯とする僭主への反乱が勃発。50年に渡るペルシア戦争が始まる。

前497年 ピタゴラス、異端とされシチリアを追放され死亡。

前494年 イオニアの中心都市ミレトスがペルシャに占領される。多くの哲学者がアテネへと逃れる。

前490年 ペルシャがエーゲ海に進出、ギリシャへの遠征を開始。50年間、4回にわたりギリシア遠征を繰り返す。

前490年 マラトンの戦い。第三階級である農民階級が、鎧や盾などを自弁。重装歩兵団の密集戦術(ファランクス)によってペルシアの騎兵隊を撃破する。

前485年 プロタゴラスがトラキアで生まれる。アテネで授業料を取って弁論術を教授。最初の成功したソフィストとなる。

他にゴルギアス、アルキダマス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノスも活躍。
「人間は万物の尺度である」とし、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なるという相対主義を主張。

前484年 小アジア南岸のイオニア植民市でヘロドトスが生まれる。

前481年 アテネを盟主とするギリシャ31カ国連合が成立。

前480年 ペルシャが二度目の進攻。テルモピュライの戦いでレオニダス王ら300人のスパルタ兵が壊滅される。

前480年 アテネがサラミスの海戦で勝利。無産階級が三段櫂船(ガレー船)の漕ぎ手として勝利に貢献する。

前479年 プラタイアの戦い。ヘラス同盟軍がペルシャ軍を撃退。このあと大規模な戦闘はなし。

前478年 アテネを盟主とするデロス同盟がペルシャ戦を継続。盟主アテネはギリシャ諸国家内において最盛期を迎える。アテナイの全市民(男子)が民主制のもとで平等の参政権を持ち、雄弁が力の源となる。

アテネはギリシア各地から人びとが集まる。イオニアのアナクサゴラスがアテネに移住。自然哲学を持ち込む。イオニアやシチリアなどからおおくの雄弁家が集まり、弁論の作法を教えるようになる。

前469年 ソクラテスが生まれる。

前460年 デモクリトスが生まれる。最後の自然哲学者として「万物の根源は原子であり、一定の法則によって動いている」と主張。

前5世紀中旬 

前449年 ペルシャ戦争が終結。ペルシャ、ギリシャ支配を断念。カリアスの和約を以ってペルシャ戦争が終わる。

前446年 スパルタとアテネ、「30年の和平条約」を結ぶ。アテネのペリクレスは戦費を私物化し、パルテノン神殿の建設を開始。

前444年 アンティステネスが生まれる。ソクラテスの高弟となる。袖なしの外套のみを纏い質素な生活スタイルで有名。ソクラテスは「外套の隙間から君の自惚れが見える」と非難した。

前440年 ヘロドトスが『歴史』を著す。生涯の内にアテネ、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅した。

前431年 ペロポネソス戦争が始まる。30年にわたり断続的に続く。アテネは衰亡の道に入る。

430年 疫病が蔓延し、両軍兵力の三分の一が死亡。アテネの指導者ペリクルスも病死する。

評議会にデマゴーグ(煽動的民衆指導者)が出現し、国策が歪むようになる。ソクラテスは「衰退の要因は相対主義を主張するソフィストにある」と批判。

前430年 ソクラテス、ソフィストを相対主義の詭弁家とし、徹底したディアレクティケ(ディベート)によって真理を追求。

プロタゴラス、『神々について』を著す。「神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。(なぜなら)人間の生が短く、知るには障害が多いから」としアテネから追放される。

ソクラテスの影響を受けたアルキビアデスがアテネの権力を握る。非民主的なやり方で市民の反感を買う。

前423年 アリストファネスは「ソクラテスが最もあくどいソフィストだ」とからかっている。

前421年 スパルタが戦争に勝利。ニキアスの和約を結ぶ。

前415年 第二次アテネ・スパルタ紛争。一旦収まったペロポネソス戦争が再燃。戦いはペルシャの支援をえたスパルタの優位で推移する。この間アテネは同盟都市の多くを失う。

前412年 ディオゲネスが生まれる。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。

前411年 アテネで寡頭派が革命を起こす。「400人支配体制」が成立。

前404年 アテネがスパルタに降伏。ペロポネソス戦争が終結。アテナイにはスパルタの意を汲む「30人僭主政治」が樹立される。

前403年 シチリアのディオニュシオス王が全島支配を実現。

前399年 アテネで内戦の末独裁政権が崩壊し、「民主制」が復活する。

前399年 ソクラテス(70歳)は民衆裁判所で裁判にかけられ殺される。ソクラテスは非民主制であるスパルタを礼賛したという。

「悪法も法である」と言ったとされるが、悪法は、厳密に言えば、法ではない。

前395年 スパルタへの反感が強まる。コリントス戦争が開始。

前387年 プラトン、アカデメイアを創設。「プラトンの名において」イオニア自然哲学との決別を宣言。ディオゲネスはイデアを否定。「私は馬を見るが、“馬なるもの”を見ることは出来ない」と批判する。

前387年 コリントス戦争がアテネ=テーベ連合の勝利に終わる。小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配に入る。その後もギリシャのポリスは内紛を繰り返し衰微していく。

前388年 プラトンがシチリアに渡る。

前356年 マケドニアでアレクサンドロスが生まれる。

前338年 カイロネイアの戦い。マケドニア軍がアテネ=テーベ連合を撃ち破る。



生活保護の最近の数字で、本日の赤旗からコピーしたもの。
8月時点の厚労省調査の報道だ。

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1.受給世帯数は163万件。前年同期より2千件減少でほぼ横ばい。

2.内訳では、高齢者が1万5千件増えた。その分母子・失業者などが減っていることになるから、かなりの変動だ。

ここ数年のうちに100万世帯150万人の高齢者が生活保護で暮らすことになってしまう。

生活保護が貧困者の年金として利用されるのは筋違い

直接には、扶養者、あるいは扶養義務者の貧困化がもたらしているのであろうが、ここまで来ると自助・共助の枠組みを明らかに超えている。

そもそも生活保護というのがとんでもない筋違いだ。

幻の「セーフティー・ネット」

かつて小泉内閣で「聖域なき構造改革」が謳われたとき、竹中大臣は「セーフティーネットはしっかり張ってあるから」と豪語したが、結局それは生活保護でしかなかったということになる。というより、「セーフティー・ネット」などまったく張らず、「張った」と嘘をついただけだっということだ。

お年寄りが安心して暮らせるようにすることは、国民の権利であり、政府の義務である。お年寄りの殆どはすぐる大戦で大きな苦労をされ、戦後復興や高度成長に貢献されてきた人たちであり、人さまに後ろ指さされるような暮らしをしてきたわけではない。
最後の10年や20年、笑って過ごしてもらいたいものだ。それしきのお金が日本にないとも思えないし、日本人がそれほど薄情になったとも思えない。

何らかの形の「貧困高齢者向けの年金制度」の創設が求められている。

綱領改定案(世界情勢論)について

2004年綱領は、20-21世紀論を中核としていた。その根本的立場は今日も正確で有効だ。
改定案はそれを引き継ぐとともに、さらに発展させる。


世界情勢に関する3つの見直し

第一に、21世紀論の具体的展開
具体的には、
①核兵器廃絶にむけた新たな前進、
②平和の地域協力の流れの形成・発展、
③国際的な人権保障の新たな発展

第二に、いわゆる「社会主義国」問題
全面削除、および世界情勢論の全体の組み立ての一定の見直し。

第三に、第五章・未来社会論の改定
発達した資本主義国での社会変革が社会主義・共産主義への大道である。

ここまでが総論部分だ。「社会主義」諸国の削除については異論はない。

個別の改定点

綱領第三章

「世界情勢――二〇世紀から二一世紀へ」の表題を「二一世紀の世界」に変更。

21世紀論の骨子はそのまま残す。

1.人権論を書き加える。

第二次世界大戦までの時期は、人権問題は、国内問題とされ、外国からの口出しは無用という問題として扱われてきました。

21世紀の世界においては、人権を擁護し発展させることは、単なる国内問題でなく、「国際的な課題」となった――国際社会における各国の義務となった。

「人権は国境を超える」論、「民族自決」は人権より低位概念という理論。

2.植民地体制の崩壊のもつ意義を特記

20世紀論における「3つの変化」のうち植民地体制の崩壊が最大の特徴である。

そもそも植民地支配は、民主主義や人権と両立しえません。
民族自決権はあらゆる人権の土台として世界公認の原理でした。
しかし、「植民地体制が崩壊した」のだから、これからは民族自決権より人権のほうが重要になる。

というのが論建てのようです。

綱領第八節―「社会主義をめざす新しい探究…」の削除

これまで「社会主義の事業に対して真剣さ、誠実さ」を尺度としてきた。
その尺度は
*こういう国ぐにの指導勢力と接しての判断
*これらの国ぐにが現実にとっている対外路線
などから判断する以外にない。

これは、後でベネズエラ問題を考える上で重要なポイントとなります。

以下中国評価についての記述が続くがこれは省略。特に異論はない。
ただこれは、中国の話なので、キューバとベトナム、したがって「社会主義を目指す他の国」についてはこの限りではない。

結局、議論の結末としては、「社会主義を目指す」潮流そのものが存在しなくなったということになる。これは事実としてそういう他ない。いわゆる「前進的整理」であろう。

民主主義と人権を破壊し独裁を強めるベネズエラ
ここでキューバを批判するついでに、その論拠として、ベネズエラに想像もつかない非難を浴びせている。さらに「ラテンアメリカに分断を持ち込んで」いるという記述は、事実に即して見れば認めるわけには行かない。

ソ連論についてはジャンプします。

綱領第九節――「世界の構造変化」

「世界の構造変化」が、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しはじめている。
これは新たに書き加えた部分であり、これまでの第9節は第10節となる。

第一〇節 
世界資本主義の諸矛盾から、世界をとらえる。いわば各論部分。
現綱領の第九節の内容をもとに書き加える。

ここで「ラテンアメリカの国ぐに」に触れられている。

米国の強い従属下に置かれていたが、「二〇世紀の終わりから二一世紀に」軍事独裁政権が倒されて、民主主義の覚醒があった。
その結果、米国から自立した地域へと変わった。
しかしこの数年間にベネズエラ危機が分断をもたらした。
今後、平和の地域協力の流れが、ベネズエラ危機をのりこえて発展するよう願う。

なんとも悲しくなるような分析である。

弾力的なアメリカ論

アメリカは、いつでもどこでも覇権主義・帝国主義の政策と行動をとるのではなく、「世界の構造変化」をふまえて、外交交渉による解決を模索する側面も見る。

これは重要な指摘です。事実に即して具体的に見ていく必要があります。
ラテンアメリカにおいては、目下そのような「弾力的」傾向は全くありません。

綱領第一一節 国際連帯の諸課題

二つの国際秩序の選択」という記述を見直す。中国、ロシアによる覇権主義も台頭しているからだ。

このため「国連憲章にもとづく平和の国際秩序か、独立と主権を侵害する覇権主義的な国際秩序かの選択」という、より包括的な規定にあらためた。

三つの流れ」という特徴づけを削除

発達した資本主義諸国・資本主義を離脱した国々・AALAの人民の運動の3つを社会主義への発展の時代的・国際的条件としたが、これをやめる。

遅れた国ぐににおける社会主義的変革の可能性を否定するものではないが、きわめて大きな困難がともなう。
発達した資本主義国での社会変革こそが、社会主義・共産主義への大道である。


この点は一般論としてはきわめてよく分かるのですが、現実的には発達した資本主義国での社会主義革命は実現していません。
逆に遅れた国々で平和的に議会選挙と通じて「社会主義」を目指している国が、現にいくつか存在しています。これらの事実から見て、もう少し謙虚に学ぶべきではないかと思います。

また非同盟運動の志、バンドン会議の精神は、反核運動の枠に押し込まず、もっと多角的に称揚すべきではないでしょうか。

何れにしても社会主義への道はそう単純ではなく、ジグザグとしたコースを歩みながら21世紀を通じて進行していくものと考えるべきでしょう。あまり振りかぶった規定はしないほうが良いのではないかと思います。

今回の綱領改定には多くの理論的前進が見られ、「20世紀の残り物」的理論も随分整理されて見通しが良くなりました。

その分、ラテンアメリカの現実に起きている変化の評価には、あらっぽさが目立ってしまうように思えます。

とりあえずの感想です。

プラトンの思想を眺めていてふと感じたのだが、ソフィストというのはなにか詭弁を弄するやくざ者のように扱われているが、それは違うのではないかということだ。

むしろプラトンは、ソクラテスもふくめたソフィストたちの理論をある意味で集大成したのではないかと考えた。

というのはイデア論の最後に付け加えたパルメニデスの議論が、非常に精緻なものであることに気づいたからだ。

調べてみるとパルメニデスはソクラテスに先行する哲学者であり、その議論はプラトンのイデア論の枠組みには収まりきれない広がりがある。

こういう人々がたくさんいて、それはソクラテスやプラトンにとって心安らぐような仲間ではなかったかも知れないが、そういう星雲状況の中から、それこそ「対話」を通じて、プラトンの著作=イデア論が析出してきたのではないだろうか。

それを思いついたのは、以前勉強した「六師外道」のことを思い出したからだ。


「六師外道」は、釈迦とおよそ同時代にマガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちのことだ。彼らは既存のバラモン教に対する批判者として立ち現れた。

しかし彼らの思想は釈迦によって批判された。

「ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとし、…業を否定した」と。

つまり「六師外道」は素朴なアニミズムに対する否定として登場したが、釈迦は「六師外道」を素朴な唯物論として否定し、あらためて原始宗教を「観念論」として止揚したことになるのかも知れない。

このような「六師外道」と釈迦との関係をソフィストとソクラテス・プラトンとの関係に比定する作業は、なかなか面白そうな課題になるのではないだろうか。

また同じことは春秋戦国の時代についても言えるかも知れない。小国分立状況がこのような思想の百花繚乱をもたらしたのだろうか?

といっても自分でやるほどのガッツも時間もない。とりあえず、提起だけしておく。

プラトン年譜を、イデア論形成過程を中心にざっくりと

アテナイの人、貴族出身 紀元前427年 - 紀元前347年

どんな人か

ギリシャの孔子と目される。基本は教育者、哲学者。しかし政治への色気を捨てきれなかった。

哲学的には観念論の創設者であり、形而上学・主体論の提示者である。また方法論としての弁証法の創始者である。

プラトンの弁証法

著作の大半は対話篇という形式で、ソクラテスを主要な語り手とする。

一つの連関と他の連関との類比関係を「対話」(問答)の中で明らかにする弁証法という手法を編み出した。

プラトンの弁証法は認識の手段としてのみ位置づけられている。
内在的弁証法、すなわち事物の現象過程や諸概念の運動としては考えられていない。

ただし青年期にヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想に影響を受けているようだ。

彼の書物の性格

彼は先行したソクラテスらの論客(ソフィスト)の考察や見解を集大成した。まさに著作そのものが諸弁証の集大成「文殊の知恵」であろう。

ソクラテスの死がもたらしたもの

紀元前404年、アテネはペロポネソス戦争に敗れる。親スパルタ派30人による独裁政権が樹立される。  

紀元前399年、プラトンが28歳のとき、ソクラテスが独裁政権により死刑宣告。毒杯を仰いで死した。

対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索した。この頃の著作が『ソクラテスの弁明』『クリトン』などである。

したがってプラトンの内面では、絶えず変遷するモノと、一貫して変化しない「本質」との対話が続いたと思われる。

中期 ピタゴラス幾何学の受け入れとイデア論

紀元前388年 39歳で第一次シケリア旅行。2年にわたり滞在し、ピュタゴラス派およびエレア派と交流する。

この頃の著作が『饗宴』などである。彼はピュタゴラスを全面的に受け入れる。しかしそれは悟性的な知恵であり彼の考える弁証法的な知恵と正面衝突せざるを得ない。

そこで彼は感覚を超えた実存としての「イデア」概念を構築する。「物事」に対する「本質」、感性的知覚に対する知性的認識の優位を主張。これでピタゴラスとの折り合いを図る。

感覚的事象からの脱却は、相対主義から抜け出せないソフィストとの決別も意味する。

真理というのはピタゴラス的なものであり、そこに属人性はない。「それはあなたの考えでしょう」という逃げ口上とは決別できるのだ。

一方において真理はピタゴラス的な悟性的な存在ではなく、そこには理由があり、始まりがある。これがイデア概念の中核となっていく。

このあと、プラトンは「真・善・美」といった迷路に踏み込んでいく。

観念論の完成

さらに思惟的世界を感性的世界から分離してしまう。これにより存在論が認識論に吸収・解消される。

なおこの「国家」という書物は、アリストクラシーを説いていてきわめて評判が悪い。あたかもボルシェヴィズムの教科書のように扱われる。

紀元前387年、40歳のプラトンは、アテネに「アカデメイア」を設立。天文学、生物学、数学、政治学、哲学などを教えた。

50歳頃に、イデア論の集大成となる『国家』10巻が完成した。

紀元前367年には、17歳のアリストテレスが入門した。このときすでにプラトンは60歳だ。アリストテレスはプラトンが亡くなるまでの20年間、ここで学業生活を送った。

観念論と主体論の接合

後期にはイデアそのものではなく、「イデアに対する志向」を本質とすることにより、事物より事物への意識を対象とする主体論に傾いた。

これはソクラテスがピタゴラスの自然学を、「自然がそうである由縁が説明されていない」と批判したことへの対応であろう。

その一方で、シケリアの国政にもふたたび関わるようになった。

晩期には、宇宙が神によってイデアを鋳型として作られたという、客観的観念論に収斂していく。

とかく功成り名遂げ、齢を重ねると、体系化志向が強まるらしい。

これは70歳代の『ティマイオス』、『法律』(12巻)に展開されている。

当然、アリストテレスはこの傾向に激しく反発することになる。


ヘーゲルとの関係で、プラトンの「イデア論」との類似性が気になり調べた。

究極の真理としてのイデア

プラトンにおける究極の真理は「イデア」と呼ばれる。

普通英語でいうと、「理想」という意味になるが、「イデア」論と言われるのは「理想」とはちょっと違い、さらに抽象的なものである。わかりやすく言うと「本質論」であり「真実論」である。ヘーゲル風に言えば「絶対知」である。

プラトンは、師ソクラテスがソフィストの相対主義を克服し絶対的な真理の探究を押し進めたことを高く評価した。絶対的な真理を求める哲学は、思弁哲学と呼ばれる。それは「普遍的な真実の世界」を、感性ではなく思弁によって認識しようとする哲学である。

イデアをもとめたきっかけ

師ソクラテスを理不尽な形で失ったプラトンは、民主政治という衆愚政治に代わる「理想の国家」をもとめた。まさにイデオロギー国家だ。

それを思索する上で「理想とはなにか」を解き明かす作業が始まる。最初の手がかりは、「イデアとは、人間には知りえない本当の知の実体である」というソクラテスの教えであった。

独自のイデア論の構築

しかしそこに至るには「因果関係」や「構造論」、「実体論」などいくつかの段階がある。
人間の認識という行為も、知覚から始まり認知、把握、了解、理論化などの段階を踏むことになる。

また裸の「本質」と価値判断や力動をもふくんだ「真実」の違いも論じなければならない。つまり範疇論、認識論、価値論を含んだ論証を行うための学問的方法論が必要となる。

本質論と不可分の認識論: 弁証法

プラトンはその論証方法として、師の対話法を継承、発展させて「弁証法」という論理を組み立てた。

逆証明の過程を導入することで、論理のステージを引き上げ、観察と三段論法にだけ依拠する自然哲学の経験論を批判的に乗り越えた。

このようなプラトンの考えを、弟子のアリストテレスはイデア論として定義した。

存在と非在の弁証法 究極のイデア論

イデア論とは別の地平で、存在と非在の弁証法が語られていて、このくだり新プラトン哲学の典拠になっているようだ。

『パルメニデス』という本に書いてあるらしい。

「存在、非存在、現われること、静、動、等々の全く抽象的な諸規定をプラトンは純粋なイデアとみなした
とあるが、これはソフィスト仲間の論争に対する介入であろう。ヒントにはなるかも知れないが、しっかりした論建てとは思えない。

『ピレボス』という本には以下のような言及もあるらしい。かなり意訳して紹介すると…

真理は対立した物の同一性である。それは現象・悟性・概念・原因(本質)である。
そこにおいて真理は一体性の表現であり、主体性の表現であり、支配力の表現であり、構造の表現である。
 

第二次の第三者委員会の調査は進行中である。しかし去年にも一度内部調査は行われているのである。第二次の委員会が作られたということは、第一次の内部調査がいかにずさんであったかを証明している。
その内容は発表されていて、関電のホームページで閲覧可能である。

第1回調査委員会の報告の要旨
ほとんどが言い訳と合理化、居直りに終止している報告であるが、そのなかでも以下の核心的事実は消すことができない。
①20人が金品の譲渡を受けていた。
②工事等の案件に関連して要求されることはなかった。
③森山が金品を渡すのは自己顕示欲の表れと考えられていた。
④対応者は金品の出所について深く考えたことはなかった。
⑤当社幹部が森山氏に特別対応した事実は認められなかった。
⑥対応者は後日返却する意図で金品を保管していた。会社としての管理はなされていなかった。
⑦スーツ生地、商品券など一部については費消された。(たしかに全部でなければ一部だよな)
⑧渡された金品の一部は所得税の対象だと指摘され、当該分を納税している。
⑨森山氏には地元重視の観点から工事概算額を提供していた。しかし森山の依頼を受けて吉田開発に発注することはなかった。(強姦犯が「服は脱がせたが、体には触らなかった」と言うが如し)
⑩森山氏はかなりの頻度で金品を持ってきたので、情報提供の見返りとして金品を持ってきているという認識は持たなかった。
⑪返却を押し通すことは困難だったが、機会を見つけて順次返却しており、その大部分は返却済みである。
⑫文書の提供は、秘密文書の指定・解除を行う責任者が行っており、社内ルールに照らして必要な手続きは行われている。しかし工事概算額や発注先を開示したことは適切とは言えない。(これは不適切な行為ではなく、談合であり犯罪行為である)
⑬提供は吉田開発ではなく森山氏に対して行われたのであるが、それが伝達される可能性を考慮しなかったのは軽率であった。

関電と解同

結局問題の根っこはここに行き着くようだ。
60年代末から70年代にかけて、関西では解同の「糾弾」の嵐が吹きまくった。その典型が八鹿高校事件であり、あいつぐ自治体行政への介入だった。

警察は見て見ぬ振りをし、メディアは沈黙した。ときによっては加勢までした。地域で解同とまともに立ち向かうのは共産党だけだった。

なぜ民主主義の世の中でかくも野蛮なゴロツキ集団がのさばったのか、私たちはまだ十分な検証ができていない。

そのかさぶたが剥がれ、血が吹き出したのが今回の関電汚職なのだろうと思う。

おそらく、その腐れ縁は70年代前半、若狭湾に面して次々と原発が建設された時期に形成されたのであろう。

60年代には、運動弾圧のために暴力団が投入された。三池闘争がその典型である。暴力団はしばしば右翼を偽装した。政治団体であれば思想信条の自由の原則が適用される、それを見込んでのことである。

かくして、暴力団による襲撃は組合内の左右両派の激突と描き出され、労働者への国民の支持は失われていった。

流石にヤクザや暴力団を直接雇うのは気が引けたのだが、そこにおあつらえ向きのゴロツキが登場した。それが解同である。

彼らは「人権擁護」を掲げてこの世界に飛び込んできた。警察はそれを理由にして手を出さない。一種の治外法権的な雰囲気が形成された。

朝日ジャーナルや全共闘もそれを煽った。解同の無法と闘う共産党は反人権団体だと逆宣伝された。

それが結果として原発地元をズタズタにし、反原発派を排除し、原発建設への道を掃き清めたことになる。

関電がそれを指示し、資金を投入したという証拠はない。しかしそれが今回の事件で垣間見えたということではないのか。関電の後ろ暗さが解同の暴力行為を助長してきたのではないか。
そのような疑いが捨てきれない。



なお調査委員長を勤めた小林敬という人物は、大阪地検特捜部として「世紀のでっち上げ」を指揮した人物であり、その後罷免されたという経歴の持ち主だ。
秋霜烈日というのは検事としての厳しさを形容する言葉だが、この人は自分より目上の人にはめっきり優しくなってしまう二面性を持っているようだ。そういう人物を調査委員長に指名する関電の傲慢さが、150ボルトの電圧で感じられる。
ウィキペディアには次のような記載がある。
調査にあたって森山元助役から聞き取りをせず、一方当事者の言い分のみを記したことについて指摘されると、「そこまでは思いが至らなかった」と弁解した
これを読めば、第三者委員会の再立ち上げの理由もよく分かる。どっちにしても小林敬という人物、もはや先はないだろう。


森山栄治 経歴

1928年(昭和3年) 福井県大飯郡高浜町西三松で出生。

1949年 京都府庁に就職。

1969年

12月 町長から招聘を受け高浜町役場に入庁。

以後、民生課長、総括課長、企画課長、収入役や助役などを歴任。

12月12日 関西電力高浜原子力発電所1号機に対する設置許可。

1970年 大飯郡高浜町西三松の自宅に福井県内唯一の部落解放同盟支部として高浜支部を組織。「糾弾」を繰り返す。

1970年 部落解放同盟の福井県連の書記長となる。高浜支部の書記長も兼任。

1972年 部落解放同盟中央本部によると、「言動が過激すぎたため、2年で書記長職を解任された」とされるが、経過から見て真っ赤な嘘。

1971年 福井県の客員人権研究員に就任。2018年まで在任。 

1975年 高浜町の収入役に就任。

1977年4月 高浜町助役に就任。

1987年5月 高浜町役場を退職。その後、高浜の建設会社役員、高浜町都市計画審議会委員、高浜町教育委員長等を務める。

1987年 関電プラント(関電子会社)顧問となる。2018年まで在任。

1996年 法務省人権擁護局より感謝状を受ける。

2004年 プルサーマル計画導入を推進し、反対派の今井理一町長と対立。

2007年 原発警備会社「オーイング」の筆頭大株主となる。その後の12年間で10倍に売上を伸ばした。また顧問を勤めた建設会社吉田開発は、無入札による特命発注で売上を6倍に伸ばした。

2009年 福井県人権施策推進審議会委員に就任。18年まで務める。

2010年 任期満了に伴い、高浜町教育委員を退任。

2017年 「オーイング」の取締役を退任。自宅を京都市から高浜町に移す。

2018年

1月 財務省国税庁金沢国税局の税務調査を受け、帳簿や資金の提供元や供出先が記されたメモが押収された。

2011年から2018年にかけて、関西電力の八木誠会長や、岩根茂樹社長、豊松秀己副社長、森中郁雄副社長らに、「原発マネー」とおぼしき3億2千万円を渡していたことが、明らかとなる。

2月 関西電力側から約1億6千万円相当を返還。

10月 内部調査委員会を結成。委員長の小林敬は元大阪地方検察庁検事正で、証拠改ざん事件で懲戒処分を受けて退官した人物。

2019年

3月 90歳で死去。

9月27日 上記情報を朝日新聞が報道。各社が追随。
菅原一秀経済産業大臣は、記者会見で「言語道断。ゆゆしき事態だ」と語る。更田豊志原子力規制委員会委員長は、「まだそんなことがあるのか」「憤りを感じた」と語る。

10月2日 関西電力が記者会見。金品の受領を断ると土下座を強要されるなど、断れない力関係にあったと説明(さぞかし楽しい土下座であったろう。できるなら私も、懐ろに小判を押し込まれてみたいものだ)

10月9日 臨時取締役会が開かれる。八木会長と森中副社長、右城常務、鈴木常務、大塚常務が退任。


というのが、森山に関するあらあらの経過。これだけでも十分すぎるほどの悪漢だ。
しかし、どうも解せない。関電の役員は本当に被害者なのか。
おそらく贈られた賄賂の数百倍~数千倍が関電から森山に流れていただろう。それは消費者の支払った金である。返す先が間違っている。
言うまでもなく関電は独占企業で消費者には選択の余地はない。ある意味でこれは泥棒だろう。泥棒というより強盗でありサギだ。間違いなく刑事犯であり、牢屋に入るべき犯罪だ。
ところが、その後の報道がぱたっと止まっている。これはどうしたことか。
少し調べてみなくてはなるまい。

第18回非同盟運動サミット会議

2019年10月25-26日
アゼルバイジャン共和国のバクー

宣言「バンドンの原則を守り、現代世界の課題への適切な対応を」

BAKU DECLARATION of the 18th Summit of Heads of State and Government of the Non-Aligned Movement (NAM)

抄訳です。公式の引用はご遠慮ください。

前文

2016年9月17〜18日にベネズエラのボリバル共和国マルガリータ島で第17回サミットが開催されました。それは、NAM加盟国および人類全体にとって懸念される主要な問題の解決のために効果的な貢献を目指しました。

それは、バンドン(1955)およびベオグラード(1961)で明確に表現された非同盟運動のビジョン、原則、目的に沿ったものでした。今回のサミットはそれらを引き継いでいます。

私達はすべての人のために平和、平等、協力、幸福の世界を達成することを目指します。私達は世界が豊かな多様性で構成されていることを承認し、国連憲章の目的、原則、規定に対する私たちの強いコミットメントを繰り返します。

人類の政治、経済、社会、文化システムは多様であり、特定のモデルの押し付けはあってはなりません。この点に関して、メンバーの権利と特権を守る決意を表明するものです。私達は主権と政治的独立の原則を守り、対話と寛容の促進へ向けて行動します。

国家の領土保全または政治的独立に対する脅威、武力行使などが、国際的な問題を解決する手段として採用されることはありえません。そのような脅威または武力の行使は、国際法および国連憲章の違反となります。

非同盟政策の具体的な内容とは、植民地主義と新植民地主義、あらゆる形態の外国の介入、攻撃、占領、支配または覇権と戦うということです。

今世界では、武力紛争、拡張主義、テロリズム、分離主義、国境を越えた組織犯罪などの過激な思想が強まっています。それが人権侵害、金融危機、環境悪化をもたらし、世界中の人々に被害を及ぼし続けています。

私達は多国間主義と国際協力の強化をもとめ、そのために非同盟運動の有効性の向上に努めます。私達は国連憲章と「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を支持します。それらは国連の3つの柱である平和と安全、開発、人権を促進するための基本的な戦略です。

章文

(小見出しは私がつけたものです)

私達は以下の目的を達成するために共同で努力します。

A. 非同盟運動の役割強化

*運動の役割を活性化し、現在の政治的現実にふさわしいものにする。

*国際的に平和を支援し、戦争に反対する運動の地位と役割を強化する。

*発展途上国の利益を促進する。公正で、包括的で、透明で効果的な国際システムを構築する。

*正義と公平の原則に基づいて、戦争の脅威、武力紛争、環境ハザード、気候変動、伝染病、極度の貧困などに対処する。

*非同盟諸国への新たな脅威を考慮し、運動内で団結し、国際平和、安全、開発への挑戦をおこなう。

*非同盟運動の有効性を高めるため、加盟国の利益と優先事項を適切かつタイムリーに支援、調整する。ダイナミックで効果的なメカニズムを作り上げる。

B. 国連重視と多国間主義

*国連を核とした多国間主義を支援する。国際秩序の制度的および法的枠組みにおける国連の中心的役割。

*国連の強化と近代化のために、普遍的かつ代表的な組織である国連総会を活性化する。

*国際的な平和と安全の分野をになう国連安全保障理事会の改革。より民主的、効率的で透明性の高いものとする。

C. 国際的な平和と安全

*友好関係と協力に関する国際法の原則を忠実に遵守する。国家が引き受ける義務を国連憲章に従って誠実に履行する。

*内政不干渉の原則をまもる。すべての国の政治的主権、政治的な独立を尊重する。「合法的に構築された政府」に対する不安定化策動を行ってはならない。

*相互不可侵の原則を守る。国家の統一や領土の保全に対する脅威、武力不行使の原則。

*これらの原則を部分的または全体的に混乱させるような、あらゆる試みに反対し続ける。これらの試みに対し、国際社会は必要な措置を講じるべきである。

D. テロへの態度の原則

*あらゆる形態のテロとの闘いにおけるNAMの連帯を強化する。テロを防止し、戦うための協力を強化する。

*テロとの闘いにおいて、非同盟運動は国連憲章・国際法にもとづく義務を積極的に担う。いかなるテロ行為であっても傍観することはない。

*テロリズムはいかなる宗教、国籍、文明、民族集団とも関連してはいない。そうあってはならないことを、非同盟運動は強調する。

*テロリストグループは国家、地域、および国際の平和と安全を危険にさらす。安全な避難所、作戦の自由、移動と徴兵、財政的、物質的または政治的支援を行ってはならない。

*法の正義をもたらすために、適切な場合には引き渡し原則に則って関係者を引き渡す。「適切な場合」にはテロ行為の加害者・支援者、テロ行為の資金調達、計画、準備への参加者が含まれる。

E. 核兵器のない世界のために

*人類にもたらされる脅威を排除するための努力を倍加する。大量破壊兵器、特に核兵器の存在が人類最大の脅威となっている。

*私たちは、核兵器のない世界を実現するために努力することを決意します。

*非核兵器地帯の強化。とくに中東地域での非核兵器地帯の設立をめざす。

*私達は平和的目的のために原子力エネルギーを開発する国の主権を改めて表明し、その独立性と経済発展を考慮に入れる。

F.  航海の自由と資源の自由な流れ

*私たちはホルムズ海峡、オマーン海、紅海などの国際水域での最近の一連の負の事件について懸念を表明する。中東での石油タンカーおよび商業船に対する挑発的な行動を抑制するようもとめ、国際商業航法およびエネルギー供給の安全性と安定性を維持するよう訴える。

*いま中東地域外のすべての人々をふくむ国際社会全体が、航海の自由と石油やその他の資源の自由な流れを維持するようもとめている。

*そのためには、繰り返しますが、国家の主権、領土保全、独立の原則、内政不干渉を尊重し、国連憲章に記されている原則を厳格に遵守して平和維持活動を行うべきである。これは国際平和と安全の促進における共同努力の重要な要素である。

*平和維持活動を成功させるためには、その基本原則を尊重すること、すなわち、当事者の同意、公平性、および武力の不使用が重要である。

G. 持続可能な開発のための2030アジェンダ

*非同盟運動の加盟国はその共同活動により平和の文化を促進しなければなりません。国家間の平和と信頼を促進するため、努力を動員する必要があります。そのための手段を構築しなければなりません。とりわけ持続可能な平和、連帯を構築するための政治対話と相互理解が必要です。

*「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、普遍的かつ変革的であります。多面的かつ統合的なアプローチが必要です。それは最大の世界的課題です。開発途上国には開発の権利があり、それは尊重されなければなりません。それは世界の持続可能な開発に不可欠な要件です。

*極度の貧困を含むすべての形態と次元で貧困を根絶することは、なお重要な要素の1つです。

*2001年のドーハ開発ラウンドは、貿易交渉における開発の側面の中心的な重要性を再確認した重要な会議でした。開発途上国の利益も反映される多国間貿易システムの構築が必要という認識を共有しました。

*しかし先進国における保護主義の高まりは、特に発展途上国の輸出にマイナスの影響を与える。私達は世界の金融・経済危機が世界貿易に及ぼす悪影響について深刻な懸念を表明する。

H. 一部の非同盟諸国への一方的な強制措置

*非同盟運動は一部の加盟国に対する一方的な強制措置の適用に対する強い非難を表明する。それらの措置は著しい不均衡と不平等をもたらしている。

*それらの措置は国連憲章および国際法、特に国家の非干渉、自決および独立の原則に違反する。それらは人々の生存権に影響を与え、完全な経済的および社会的発展を妨げる。わたしたちはそのような措置の廃止を要求し、その決意を繰り返すものである。

I. 気候変動


J. 南南協力


K. 人権問題

*1993年のウィーン宣言と国際的なコミットメントおよび国内法に従って、すべての人権の促進と保護へのコミットメントを再確認する。普遍性、透明性、公平性、非選択性、非政治化、客観性の基本原則を遵守することにより、人権を強化する必要があることを改めて表明する。

*世界的に認められた人権の包括的な部分として、開発の権利が含まれなければならない。持続可能な平和と繁栄を築くことが、すべての人権の完全な享受を確保することにつながる。

L. パレスチナ:外国人支配下にある人々の自己決定権

*東エルサレムを含むパレスチナ領土の、イスラエルによる占領を完全に終わらせるための、真剣な集団的努力を緊急に呼びかける。状況のさらなる危険な悪化と不安定化を回避するために、迅速に行動しなければならない。

*私たちは外国の占領・植民地支配下にある人々の自己決定権に関する、原則的立場の妥当性と関連性を再確認する。

*国際人道法および人権法を含む国際法、および関連する国連決議、安全保障理事会決議が尊重されなければならない。

*国際社会はパレスチナ問題に対する歴史的、政治的、法的、道徳的責任を自覚し、パレスチナ人の譲渡不能の権利の実現を支援しなければなrない。

*東エルサレム、シリア・ゴランを含むパレスチナ領土のイスラエルによる占領を完全に終わらせなければならない。そのための真剣な集団的努力を緊急に呼びかける。

M. 中東難民の処遇について

*武力紛争の状況にある加盟国において、国内避難民のための恒久的解決策を促進する主要な責任が該当国家にあることを認識すべきである。安全で尊厳のある自主的な返還を含むとともに、人権の尊重、保護および履行を確保することがもとめられる。

*国外から流入した難民については、人類に対する共通の課題として対処する。そのために、多様性に対する寛容と尊重を促進し、文明間および文明内で共通の基盤を模索する。共通の価値、普遍的な人権を重んじ、協力、パートナーシップ、包括を通じて、人種差別、外国人嫌い、不寛容との戦いを進めなければならない。

*国、地域、およびグローバルなイニシアチブを評価し、異文化間の対話を促進する。


もともと長い論文を読むのは苦手なのだが、最近視力の低下、集中力の低下が相まってますますその傾向が強まっている。
だから、たいへん荒っぽいものの言い方になってしまうのだが、赤旗「論壇時評」に載った、たった数行の記事が頷かせるものがある。
山口二郎さんが「野党+市民共闘が拓いてきた道、これからの道」(季論21)という文章の中で言った言葉なのだが、評論者の堤文俊さんの紹介が的を得ていると思う。

いま「共闘」にとって大事なことが2つある。
一つは「方向性の共有」だ。
それは「ゴールは違っていても中間点までは一緒に」という意思の共有だ。
第二は、市民の側にあるのだが、共産党を受け入れることを “あたりまえの政治風景” として受け入れることだ。それは反共主義の最終決算だ。

この2点は、共産党がずっと戦略的課題としてきたことだ。時の政府や権力が振りかざす反動的挑戦に対しては、たしかにその都度 “共闘” してきたが、それはついに明日に向かっての共闘へとは発展しなかった。

ある程度の政策的合意を形作らなければ、長期的な共闘はありえない。未来に向かっての共闘、これこそが真の共闘であり、それが今や実現し始めた。ただし時間の余裕はない。闘う人そのものが今や絶滅しつつあるからだ。

もう一つ、それは「旧社会党・総評的な勢力との合意を経てより広い合意を形成する」という従来型戦略によっては不可能である。それは市民的な合意をの中でマルチラテラールに築き上げていくしかないということだ。

それが気が遠くなるようなすり合わせと実践の過程を経て、ようやく形になろうとしている。そういう地点に我々は到達しつつあるのだ。

日本における共闘というのは、見かけ上は共産党と市民運動、それに連合+社会民主党の3つのグループの共闘だが、運動論的には共産党と市民の共同による「連合」の包囲と攻略なのだ。

それを市民の側からはこう表現しているのだろう。

これは下記記事の増補版である。
2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜

実は、失敗していて、増補版を2017年04月25日の記事に上書きしてしまった。今さら取り返しはつかない。
さらに増補の追加分があるので、それもふくめた増補版を本日付の記事としてアップする。これに伴い“旧増補版”は増補版の表記を消して、2017年04月25日の記事として残すことにする。間違えてそちらに行く人もいるかも知れないので、文章の頭にこの記事へのリンクを貼って置く。



ジョン・バチェラー 年譜



1854年(安政元年)3月20日 イギリス南部のサセックス州アクフィールドに生まれる。11人兄弟の6番目。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、父は市長を 3 期も務めた。

1859年 フランス人でカトリック司教メルメ・デ・カッション、函館に4年間滞在した。アイヌコタンを訪ねるとともにアイヌ語小辞典の編集を手がけた。

1865年 アイヌ墳墓盗掘事件。イギリス領事館員3人と日本人雇員により北海道南部の森,八雲の墓から人骨17体が掘り出された。国際的な問題になりイギリスが謝罪、賠償する

1874年5月 英国聖公会海外伝道協会(CMS)、北海道にウォルター・デニング司祭ら2人の宣教師を派遣。デニングはマダガスカルから、もうひとりも東アフリカから転勤となり、函館の教会で働き始める。


1876年(明治9)

6月 デニングが平取アイヌを訪問。現地調査とともにペンリウクからアイヌ語を学ぶ。


1876年 バチェラー、ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ち英国聖公会宣教会に入会。香港にある宣教師養成のためのセント・ポール学院に入学。


1877年(明治10年) バチェラー、香港にて勉学中にマラリアに罹患。療養のために横浜に移動。


5月 さらに冷涼な北方の地を勧められ函館に転地。デニング司祭の指導を受け日本語の勉強を始める。


1878(明治11)

3月 バチェラー、函館の町中で偶然アイヌが日本人から非人間的な扱いを受けている現場に出合わせる。アイヌの差別と悲惨な生活の実態を知り、アイヌ民族の伝道を志す。

バチェラーの回想

学生達は「アイヌは本当の人間ではない。人と犬との混血児だ。だから犬や熊のように多毛である。何にも料理しないで生のまま食べる。余り野蛮ですからその中へ行くのは甚だ危険」と語った。


札幌に2ヶ月ほど滞在。開拓使長官黒田清隆とも会見。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。年末には函館に戻る。



イサベラ・バードの北海道の旅(1878年)

とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。
当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ここには書かれていないが、2年前に平取を訪問調査したデニングの影響を無視するわけには行かない。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言した。

9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

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1879年(明治12年) バチェラー、信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。


5月 バチェラー、最初のアイヌコタン訪問。胆振の有珠コタンに3か月滞在。


9月 バチェラー、アイヌの中心地である日高の平取を訪問。平取では、アイヌ長老ペンリウクの下で3ヶ月滞在しアイヌ語を学ぶ。これを契機にアイヌへの布教活動を決意する。平取行きはおそらくイザベラの影響もあったのだろう。

1880年 デニングがバチェラーを伴い平取を訪問。バチェラーに平取での伝道活動を委ねる。


1881年 馬車で札幌経由で平取へ。ペンリウクは自宅の敷地にバチラー専用のチセを建て提供する。半年間滞在し伝道にあたる。

1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。5ヶ月滞在し、ケンブリッジなどで再研修を受ける。


1883年(明治16年) デニング、神学上の問題でCMS本部から解任される。聖公会函館教会メンバーが留任要望。バチェラーは勉学を中止し函館に帰任した。


1884年(明治17年)

1月 東京で同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。当時バチェラーが30歳で、ルイザは41歳。

1月 アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」を出版。著者は<函館英国人バチロル>とされる。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

アイヌに関して、日本人のための日本語による書物がない。自分が直に見聞きしたことと日本社会の常識の間にずれがある。記述には誤りがあるかも知れないが,それは作り話しではない。

余、窃カニ思フ。彼ヲシテ、培養正シク教育普及セシムレハ、又以テ本邦人ノ如キ才学アル者トナスヘシ…

84年 関西へ講演旅行。その後半年をかけて道内各地を伝道旅行。
バチェラーの足跡

              バチェラーの足跡

84年 バチェラー、長い伝道旅行を終え平取に戻る。この冬に平取で熊送りを体験したと見られる。「これ(絞殺)は残酷で,いまわしく,品位がない。それを正当化するものはなにもない」と記す。

84年 平取で禁酒・断酒運動を進めたが、日本人による排斥運動が強まる。これの影響を受けたアイヌとの関係もこじれ離村を余儀なくされる。


1885年(明治18) 「バチラーのスパイ事件」が発生。


バチェラーがパスポートの更新を求める。時期を同じくしてバチェラーが滞在許可条件を守っていないとの告訴があり、パスポート申請が却下される。却下には3つの理由があったが、それがいずれも不正確な情報に基づくものと判断され、告訴は取り下げられる。

85年 その後、バチェラーは函館を拠点とし全道各地で伝道。

85年 幌別のアイヌ青年カンナリタロウ、聖公会函館教会で受洗。最初のアイヌのキリスト教徒となる。バチェラーにアイヌ語を指導する。


1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別村(現在の登別市)に移して定住する。ルイザ夫人・養女キンらが同伴。牧場で牛を飼い、農作も展開する。その後6年にわたり、キリスト教伝道やアイヌ語教育を実践。


1887 年(明治20 年) バチェラー、本国の伝道教会から司祭に除され、アイヌ民族の宣教を委ねられる。


1888年(明治21年) 募金を募り、幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。


1888年(明治21年) 札幌にも『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られた)

88年 アメリカ人ヒッチコック、平取を訪問しアイヌ調査を行う。この他90年にはイギリス人ランドー、92年にはオーストリア人アドルフ・フィッシャーがアイヌ調査に入る。

1889年 北海道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。


1890年 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。


1891年


1月 バチェラー、北海道禁酒会の要請に応え札幌に移転。自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。


91年 平取アイヌとの関係が6年ぶりに修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。

91年 カトリックも布教活動を活発化。函館司教区長にベルリオーズ司教が着任し、おもに室蘭地方に伝道した。


1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に組織される。バチェラーは伝道の対象を全道各地に拡げていく。樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人も布教の対象となる。


92年 札幌にアイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになったと言われる。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893年 バチェラーの秘密扱い書簡。

私の蝦夷における16年の経験は、ここでは極度の注意をもって行動しなければならぬことをはっきりと教えてくれました。私のあらゆる行動や行為、言葉がスパイによってマークされています。

1894年 フランスのカトリック教会からベルリオーズとリボーが伝道に入る。(91年の記事との突合せが必要)


1895年(明治28) 

5月 平取と有珠で自費で教会堂を建設した。平取町本町の教会は現在、「バチェラー保育園」として運営を続けている。

1896年 バチェラーの要請に応え、英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。約1年半、札幌でアイヌ語を学んだあと、13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。


1897年 有珠のアイヌ豪族・向井富蔵の娘・八重子、バチェラーを頼り札幌に出る。「アイヌ・ガールズスクール」に通う。

1898年(明治31) 札幌北3 条西7 丁目(北海道庁裏)に住宅を新築。ここに離日まで住み続ける。

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったと言う。

98年 マンローも、この年北海道へ初めて旅した。(要確認)

1899年 日本政府はアイヌ民族の同化を目指すようになる。同化推進のために「北海道旧土人保護法」が制定される。この頃からバチェラーは政府に協力するようになる。法律制定過程に協力した可能性もある。

1900年 バチェラー、アイヌ教会での説教をアイヌ語から日本語に切り替える。

00年 ブライアント看護婦、健康を害し一時帰国、01年に平取に戻る。助手を勤めた金成ナミは幌別に戻る。


1903年 大阪で第5回内国勧業博覧会が開催される。バチェラーは学術人類館の展示のために、7人のアイヌを見世物として紹介。
この学術人類館では琉球人、台湾先住民、ジャワ人、トルコ人、マレー人、インド人などが「展示」された。

9月 ピウスツキを団長とするロシア帝室地理協会の調査団が平取を訪問。1ヶ月にわたり滞在。

11月 平取のアイヌ長老ペンリウクが病歿。

1904年

3月 アメリカのセントルイス博覧会。バチェラーは9人のアイヌ人派遣を斡旋。

余市生まれのアイヌ人詩人、違星北斗の歌

 白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄(アー)! 咄(アー)!

4月 マンローが最初の二風谷訪問。

04年 日露戦争が始まる。バチラーは戦争協力の音楽会を開き、出征兵士を慰問。赤十字社にも寄附金をよせる。

これら一連の方針転換の結果: 聖公会の教会員(道内)は、1903年の 2,595人から19年の 3,392人に増加したのに対し、アイヌ人は 1,157人から 650人に急減した。アイヌ人の構成比は45%だったのが19%にまで落ち込んだ。(小柳)

1906年 バチェラー夫妻、八重子を養子とする。弟の向井山雄にも学資を支援する。


1908年 バチェラー夫妻、八重子とともにシベリア鉄道経由で英国に行く。八重子はカンタベリー大主教から伝道師に任命される。


1912年 バチェラーと八重子、樺太に行き、伝道活動を行う。


1913年 バチェラー、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建てる。(アイヌ教化団の経過記載はかなり異同がある)


1914年(大正3年) 札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。


1918年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。


1917年(大正6年) バチェラーに洗礼を授けられたアイヌ人江賀寅三、札幌でアイヌ語辞典の編纂に協力する。

1920 年(大正9 年) アイヌ教化団の後援会を組織。顧問に徳川義親、佐上信一(北海道庁官)、新渡戸稲造が就任。バチラーが理事長となり、理事には宮部金吾、時任一彦など。

新渡戸はアイヌ民族を未開人・野蛮人と呼び、「強い民族がより弱い民族を扱う」と説いた。


1922年(大正11年) 後援会の援助によりアイヌ学園(後のバチェラー学園)が設立される。アイヌ民族に中等教育を受けさせるために、子供たちを札幌に集める。


1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働く。

1923年 聖公会の手により平取幼稚園が創立される。「社会福祉法人聖公会北海道福祉会バチラー保育園」として現存。


1924年 アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

1927年 違星北斗、平取に滞在してバチェラー幼稚園で働く。2年後に死亡(27歳)

日記にこんな歌を残す

五十年伝道されし此のコタン、見るべきものの無きを悲しむ

沙流川は 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 ささやきつつゆく

平取に 浴場一つ 欲しいもの 金があったら建てたいものを

1928年 バチラー『ジョン・バチラー自叙伝~我が記憶をたどりて』(文録社)を発表。徳川義親公爵が序文を寄せる。このとき74歳。
バチェラーにはこの他に下記の伝記がある。

ジョン・バチラー遺稿『わが人生の軌跡』北海道出版企画センター 93年

ジョン・バチラー(安田一郎訳)『アイヌの伝承と民族』 青土社 95年

1931年(昭和6年) 新渡戸稲造を会長とする財団法人「バチェラー学園後援会」が出来る。

1934年1月 伝道師 エディス M.ブライアントが死去。

1934年 ペンリウクの「頌徳碑」が義経神社境内に建立される。当時の村長が碑文を揮毫


1936年(昭和11年) 妻ルイザが札幌でなくなる。享年92 歳。遺骨は円山墓地に埋葬される。


1941年(昭和16年)11月 太平洋戦争の直前、バチェラーは敵性外国人として追放させられた(88歳)


1944年 (昭和19年)4月 郷里サセックス州の生家で逝去。91歳であった。



1.素晴らしさ…自叙伝の一節

バチェラー資料を探しているうちに、次の資料に出会った。
 「HOMAS日本語版ニューズレター」という定期版で、「北海道・マサチューセッツ協会」という団体が発行している。道庁の外郭団体のようだ。その64号に「アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績」という文章が寄せられている。

その中で、バチラー自叙伝「我が記憶をたどりて 」 (昭和3年10月発行)の一節が引用されている。

とても良いので、みなさんにも紹介しておきたい。
「世界の文化の進歩は、凡ての人が皆生存権を有して居る様に、あらゆる民族もまた民族としての生存権が明らかに認められて参りました。之は当然なことであります。日本人が米国や其の他で、差別的待遇を受けて居ることを聞く時に、ほんとうに嫌な気が致します。日本は、大いにその非を責め、又世界にむかって人類平等主義を主張せなければならないと思ひます。それをなす前に、同国民であるアイヌ族が持って生れた其の生存権まで奪ひ去られ、山から山へ追ひ込められて、予防し得る病気のため地上から滅び行かんとして居る事に注目され、其の開発向上策に誠意を示さるることを希望致します。 


2.歴史的限界…アイヌ人=「コーカソイド」説

大シーボルトの唱えたアイヌ白人(コーカソイド)説は、現代版「高貴な野蛮人」説である。
欧州各国はアイヌ人を原ヨーロッパ人の共通の子孫と考え、調査団や研究者を派遣した。
彼らはアイヌ人が日本人によって不当な仕打ちを受けていると思った。

これはバチェラーのみの見解ではなく、アイヌ人の中に分け入った当時の白人に共通する感情であった。

これは密やかな白人優位観の発露であったと言えるだろう。

3.伝道実践と思想・信仰の自由

もう一つ、これはマンローとの論争を通じて明らかになったことだが、アイヌ人の保護も然ることながら、根本的にはキリスト教の伝道であり、思想・文化の押しつけと紙一重の行動であったことである。

この辺は非常に難しくて、民主主義の思想がキリスト教の教えと深いところで結びついているために、剥離が困難なところがある。

例えば、戦後の食糧危機を救ったのは米国のキリスト教団体の力が大きかったし、平成天皇の教師を勤めた女性は戦闘的平和主義者のクエーカー教徒であった。

ただ原理的にはアイヌ人の思想・信仰の自由と觝触する可能性はあったということである。



堀辰雄の作品「美しい村」に出てくるレエノルズ先生は、明らかにマンローのことだ。
以下、関係部分を引用する。
私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
…それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰だれ一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、
爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。
――それ以来、老医師はその妻子だけをスイスに帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。(美しい村)
堀は、1930年(昭和5年)10月に喀血し入院している。その後軽井沢の知人のもとで療養生活を送っている。おそらくそのときにマンローの存在を知ったのであろう。交際した形跡はない。
そして「美しい村」を執筆・発表したのは1933年のことだから、すでにマンローが北海道に転居したあとだ。

堀辰雄の心の「黒い奥底」

“憎まれ通し”というのは創作であろう。その証拠としてあげた火事騒動は二風谷での話だ。
だから堀が、ある意味でっち上げまでしてマンローの悪口を言いふらすのは解せない。
70歳近くなって、北海道の山の中のアイヌ部落へ定着して、現地の人達のために尽くそうというのは、決して“頑固に一人きりで看護婦を相手に暮す”ことではない。少なくとも後ろ指を指すような行いではない。

堀がマンローの悪口を書いた40年ほど前、バチェラーは函館の学生の驚くべき言動を次のように書き留めている。
哀れな者を軽蔑する事は人道に外れた事です。学生達はまるで気狂い程傲慢になって信じ難い事、驚くべき事を申した。実に其点 に於て心の悪い青年だと残念に思いました。
『アイヌ民族は本当の人間では無い。人と犬との混血児だ。人間の子孫で無いから犬程、熊程毛がはえているのだ。言葉はあっても極く僅かで悪い言葉ばかりだ。食べる物は皆何にも料理しない。生のまま食べる。又其外の事も余り野蛮ですから、その中へ行く事は甚だ危険な事 だ』と、斯う学生達は言うのでした。
学生というのは当時の知的エリートであり、もっとも革新的な層を形成していたであろうと思われるが、それにしてこの態度だ。平均的日本人のアイヌ観がいか程であったかが想像される。

堀辰雄の女性観

なにかマンローの女性関係が気になっているようだが、「詩人」らしからぬゲスの勘ぐりだ。「看護婦を相手に」というのも、何か見下した物言いだ。
しかも書いた時点で本人たちは健在なのであるから、失礼千万な話ではある。

私の見るところ、マンローはペール・ギュントのようだ。万年青年で、幾分自己中で放浪癖がある。金には無頓着だ。親兄弟にも無関心だ。女性遍歴は、港々で恋をする懲りない性格の証だ。少々羨ましくもある。

これだけモテるというのは、少なくとも表面的には“良い人”だからだろう。二風谷の住民に最後まで敬愛され続けたのも間違いなさそうだ。臨床医としては理想的な性格かも知れない。
このような人物を「倫理的」に否定しようとする堀の心根には、日本のエリートの浅ましさ、おぞましさを感じてしまう。

主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
を参照しました。
この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。

2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。

実は二度目の訪問しまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録が載っています。
じつは全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に生まれる。マンロー家は名家で父親も外科医。

1879年 エジンバラ大学医学部に入学。

1882年 ダーウィンが死去。ダーウィンもエディンバラ大で医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川で旧石器の発掘作業に加わる。

1887年 病気療養のため大学を休学。その後チュニジア・イタリアなどを旅行。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位はとれず。

1888年 スコットランドを離れる。P&O汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O汽船会社)の船医になる。

1890年 哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を横浜で刊行。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。

8月 デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられる。

1893 年(明治26) 入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務。第8代病院長となる(30歳)。その後軽井沢サナトリウムなどで働く。この間東大のベルツらと発掘仲間として親交を結んだと言う。

1894年 日清戦争に日本軍軍医として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(明治28) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の令嬢アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。令嬢は、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった。

1897年 一般病院外科担当医師として勤務。(34歳)

1898年 バチェラーの案内で北海道に旅する。このとき春採コタンでの熊祭りを映像に収める。
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マンローと長老イソンノアシ

1899年(明治32) 

長男ロバートが死去。翌年には次男イアンが誕生。

北海道旧土人保護法が制定される。実際には旧土人収奪法であった。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。出席した高畠とくは,マンローの日本史についての誤りを指摘する。トクは柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1903年 

横浜ゼネラル・ホスピタルを退職し個人開業。さらに発掘作業に打ち込む。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。膨大な費用を私費で賄う。

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。この頃から高畠とくとの交際が始まる。

1904年

4月 二風谷を初めて訪問。その後忍路の環状列石を調査。

研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。

 
1905 年(明治38年)

1月 東京人類学会に自薦入会。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る。

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器とみられるものを発見。

8 軽井沢で遺跡の発掘調査。

秋 横浜市の三ツ沢貝塚を発見し発掘調査。人骨を発掘(こども1体,大人4体)する。

12 長女アヤメ誕生(英名アイリス)


1906年

7月 川崎の南加瀬貝塚の発掘調査に参加。

英国の王立アジア協会会員となる。

1907年 

5月 「後石器時代の頭蓋骨」を発表。

1908年(明治41) 

2月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を出版。
権威付けのためにPh.dの肩書きが必要と痛感する。

5月 マンローは20年ぶりに帰国し、エディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

9月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

1909年

4月 とく夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。

エディンバラ大学より医学博士の学位を授与される。(46歳)

夏 釧路で貝塚の調査に当たる。

1910年

6月 戯曲「宗五郎」を自費出版。

1911年

母死亡。帰国せず。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡で調査に従事。

1913年

ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

1914年(51歳) 

在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(28歳)と3度目の結婚。病院を3年間休職。新婚旅行を兼ねて沖縄・九州 を旅行、発掘調査に携わる。

1915年

6月 アデル夫人を同伴して北海道旅行。釧路市内で発掘調査に当たる。
マンローと二谷

12月 「考古学雑誌」に、「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。

日本アジア協会副会長に就任。

1916年 

4月 日本アジア協会で「アイヌの熊祭り」を講演。英字新聞に要旨が掲載される。

5月 夫人らを同伴して白老に滞在。倉庫を改造して無料診療とアイヌ研究に当たる。

(「1915年 北海道で冷害→飢饉。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。研究の比重は、考古学から生きた人間をあつかう人類学へと移る」という記載があったが、翌年の白老での行動を指しているのではないか?)

1917年 

3月 日本アジア協会で「日本ドンメル時代」を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者から反論。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。

夏 軽井沢に避暑。この年以降恒例となる。現地で診療も始め、旅館を改装してクリニックとする。
軽井沢での肩書きがどうもよくわからない。クリニックの院長なのかサナトリウムの院長なのか?

北海道庁に、「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年、公表される。

1918年

2月 哲学書「存在の魂」(Soul in Being)を自費出版。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

1921年

ドイツ大使館侍医に就任。

7月 軽井沢でマンロー医院が開院。

1922年

アインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。 会見を機に神戸の新聞ジャパン・クロニクルに「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。


1923年(大正12)

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

8月 アデール夫人の父ファブルブラントが死去(82歳)

9月1日 関東大震災。マンローは軽井沢で働いていて無事だったが、横浜の自宅は全焼し、これまでの資料、機材等は全滅。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。医療救済に全力を注ぐ。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。

1924年(大正13) 

妻アデルの実家ファブルブラント家が破産。これがもとでアデルは神経衰弱となる。マンローはアデル夫人をヒステリーと判断し、ウィーン大学のフロイドのもとに治療に赴かせる。

マンロー、横浜の仕事を整理し軽井沢に居を移す。軽井沢サナトリウムの院長に就任する(クリニックは閉鎖?)。
軽井沢サナトリウム

婦長の木村チヨは、日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。神戸の万国病院で婦長として働いたあとサナトリウムに赴任していた。
その後、二人は特別の関係に入り、チヨはマンローを長年無給で支えた。

1924年の出来事に関する記述は、「ニワトリが先か、卵が先か」論争になっており、前後関係が錯綜し、感情も混じえたものとなっています。

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature 」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。

1929年 アデール夫人からの音信が絶える。

1930年 

5月 セリグマンの紹介で、ロックフェラー財団から助成金を獲得。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月の滞在中にイオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残す。この映像に対しバチェラーは、「残酷野蛮な行事を公開するのは心ないやり方」と批判。マンローは「一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival
熊送り

1931年 

7月 二風谷永住を決意。宅地を購入し自宅建築の準備を開始。

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。

6月 邸宅の外側が完成。内部の造作は遅れる。新築の邸宅ではなく借家の方に荷を解く。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

12月16日 二風谷の仮住まいが火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」。狭心症発作で倒れる。

1933年

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 バチェラー邸が完成。木村チヨ名義となる。

マンロー邸入り口
マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
湖側に向いた東側面
5月 マンロー、釧路考古学会顧問となる。チヨとともに北海道釧路市を訪れ講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと向かう。

7月 フランス留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で病死。

10月 軽井沢での療養を終え、ふたたび釧路に向かう。現地アイヌの調査を行う。

12月 自宅前庭にアイヌ家屋のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。

33年 日本アジア協会、ドイツ・アジア協会、軽井沢避暑団、英国の融資から火災救援金が贈られる。


1934年 

マンロー邸の敷地内に撮影用のチセが建てられる。

夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

「人生の真実、存在の謎」を吉川弘文館より発行。

マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。


道庁職員の谷万吉が二風谷のマンロー館を訪ねる。以後、死亡までの困難な数年間を親身に支える。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で「熊祭り」映画を制作。マンローもこれに協力。

夏季 軽井沢で診療に従事。

12月 診療所の開設届を提出し、地域医師会に加入。道庁は診療所を認可する。

1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で石炭が発見される。アイヌの人たちと対応協議。

6月23日 アデールと協議離婚成立。アデルは3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算したという。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。マンローは札幌に出向き面会。

6月30日 木村チヨと正式に結婚。(マンロー74歳、チヨ52歳)
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     マンローと千代

1938年

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌ文化研究記事が掲載される。

10月 不仲だったバチェラーが二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。これを機に両者は和解。

1939年

1月 「マンローはスパイだ」とのデマが流布。マンローは警察に調査依頼。二風谷を離れるよう強く進める。

2月 イタリア人人類学者のマライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

8月 軽井沢で診療。近衛文麿の援助のもとで日本古代史の論文出版にこぎつける。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

1940年

岩波茂雄より研究助成金1千円を贈られる。

1941年

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

1941年

5月 北大病院で前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。10月に二風谷に戻る。

12月 診療を断念、臥床するようになる。

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

4月14日 自宅で告別式。聖公会の地元牧師が式を執り行う。

遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬される。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。
マンロー夫婦の旧墓
マンロー・チヨ夫妻の旧墓
軽井沢には妻のチヨの手で分骨の墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、『AINU Past and Present』として発表される。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。
マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…

二風谷の展示がすごい

天気があまりに良いので、今年最後と思い遠出した。

高速から日高に入りそこから二風谷に向かった。紅葉が盛りでというか少し見頃を過ぎていて、落葉を敷き詰めた中に楓の紅が強烈な輝きを示していた。

二風谷は以前から気になっていたところで、瀬川拓郎さんは「アイヌ文化の発祥地」とまで言っている。ユーカラの多くもこの地に伝えられたものだ。

明治以降に訪れた外国人の数も異常に多い。いわば研究者のメッカとなっている。

博物館が3つあって、その中で歴史館というのを選んで入場した。理由はただだからである。
そこしか入っていないので他との比較はできないが、良い施設であった。鵡川から幌尻岳までを納めた、5メートルを超える大パノラマは圧巻である。屋上からの眺めも素晴らしいものだった。

二風谷にはかなり金が入っているようだ。ダムとの関係で建設省から入ったか、故萱野議員の政治力で中央からつぎ込んだか、とにかく町立の博物館とは思えない展示だ。

展示は2つの柱からなっている。これには他の展示施設と比べ際立った特色がある。

一つはアイヌの保存していた、あるいは遺跡から掘り出された遺品の数々だ。

立派な大刀や鉄製品、美しい装飾品、それらは日本人の有力者の持ち物に遜色ない。どうも既存のアイヌ観を一旦捨てなければならないようだ。それらの遺品の多くは17世紀後半の樽前山噴火の前のようだ。

しかもその頃は、広範に畑作が行われていた痕跡がある。狩猟・採集生活と言うより農業が生活の基本だったのではないか。ただし本州に輸出するための鳥獣の捕獲は一種の産業として営まれていた可能性がある。それは現金化され、和人の制作した商品と交換された。

この経済的余裕がアイヌ文化の成長をもたらしたのであろう。

もう一つは明治期に二風谷を訪れた外国人の多さである。




以下の4連作になっています
「foobar2000でソニーワイヤレスを鳴らす」ことに成功した。と言っても何かを成し遂げたわけではない。
人さまのサイトで教えてもらっただけなのだ。

koulogさんのブログで、奇跡に出会ったのだ!
2015年3月 1日 (日)
という記事。

記事の中ほどで、主題とは関係なく、「ついでにこういうこともできます」みたいな説明があって
こうする事でWireless Lan経由でハイレゾで信号を送る事が可能になります。
という図があって、それがこれ
capture
この絵のとおりにやったら、まったく音飛びなし。koulogさんが神様に思えてくる。見ずらいと思うのでよく見たければご本人のサイトに行ってほしい。

しかしそれにしても、「なぜ?」なのかさっぱりわからない。狐につままれた気持ちである。

以下の4連作になっています
これで大体わかった。つぎはアプリを使ってスピーカーにワイファイ接続する方法についてだ。

「ワイファイ接続」というが、実はこれが一番苦労したところだ。
はっきり言っておこう。この機械はスマートホン向けのもので、パソコン使いの連中はそもそも眼中にない。そういう機械だ。
ソニーの取説には「ワイファイ接続」の方法は書いてない。自分で調べるしかない。私はこれで土日の2日間、まるまるつき合わされた。MDの移植に続いて二度目の「魔のソニー」だ。
とにかく、このブログを見る人のために、順番に書いていこう。

1.機械の説明

これは比較的簡単。といっても取説は余分なことは書いても必要なことは書かないから、読み解きには一苦労する。

まずは機械の説明。いくつも名称があるので覚えて置かなければならない。正式名は“SRS-HG10”だ。どういう機械かというと「ワイヤレススピーカー」だ。ただしこれはソニーがそう自称しているだけで世間的に通るかどうか走らない。そしていわば愛称として“h.ear go2” という名前もある。これはこの種類のソニーの製品をくるめたグループ名のようである。

ボタンがたくさんあって、分散している。ボタンは無くてもいいのもあるが、必要な操作には足りない。だから、一つのボタンに複数の機能があったり、組み合わせ操作があったり、長押し操作があったり、相当面倒である。
製品の思想としてはスマートホンの外付けとして設計されている。取説もそのように書かれている。そのように使うつもりの人は、このブログを読む必要はない。パソコン用の据え置きの外付けスピーカー機能をもとめる人は、怒りに身悶えしながら、大事なことを覚えていかなければならない。

2.ブルートゥースその他の接続

まず、背中の左上隅にファンクションボタンがあるので、そこを押して見る。上面左奥のランプが左から順番に点灯する。ネットワーク、ブルートゥース、USB、オーディオ・インと並ぶ。後ろ2つは何も操作はいらない。

ブルートゥースは上面のエキストラ・バスを長押しして「ペアリングです」と言われたら、パソコンのブルートゥース画面を開いて、ペアリングすればよい。再生の操作はすべてパソコン側で行う。

音を試し聞きしたが、一言で言ってお話にならない。2千円くらいの外付けスピーカーと何ら変わりはない。これで2万8千円はサギだ。

3.ワイファイ接続(無線LAN接続

機械の名前が3種類あったように、接続の仕方もいくつかある。我々にはワイファイ接続というのが一番ピンとくるのだが、これは無線接続の規格名であり、一般名では無線LANという。ブルートゥースも無線だが、こちらは無線LANとは言わないらしい。

ブルートゥースはいわば親機と子機の接続であり、無線LANの方は同格の機械同士が契約を結んで接続するという関係にある。この契約のプロトコールがワイファイということになる。

テクニシャンはこういう概念論をすっ飛ばしてしゃべるから、言語明瞭・意味不明ということになる。

それで、ワイファイ接続については取説に書かれていない。「別冊に書かれている」となっているが、そんなものは入っていない。どこかネットにあるのだろうが、何処にあるのかも書かれていない。まったくもって不親切な取説だ。

仕方がないのでグーグルで“srs-hg10 wifi接続”と入れて検索した。

ソニーのヘルプガイドで、
というページがヒットした。

ここには3つの方法が書いてある。それぞれについて数行づつ説明が書かれている。

①専用アプリ “Sony | Music Center” を使う
②無線LANルーターのWPSボタンを使う
③パソコンを使う。

私たちのほしいのはこんなものではなく、標準的な方法を唯一つだけ、その代わりもっと丁寧に書き込んでほしいのだ。

この“ヘルプ”が、私を無限地獄に引き込んだ。

正解は結局②のみだった。①は正解の半分しか含まれていナい。③はほとんど不可能だ。

この③に挑んで、まる2日を費やした。「ルーターのWPSボタン」がどうしても見つからなかった。挙句の果てに無線LANルーターの取扱説明書を読んで、やっと分かった。

ルーターの取説

我が家の無線LANルーターには「WPSボタン」がちゃんと着いていたのだ。しかしあまり字が小さいので見逃していたのだ。

1.2つの「WPSボタン」

これに基づいて接続法を説明する。
接続は二段階に分かれる。
まず最初はワイファイスピーカーとルーターを接続する作業だ。まずスピーカーのWPSボタンを押す。
スピーカーのランプがチカチカし始めたらLANルーターのWPSボタンを押す。すると2つの機械がドッキングしてそのランプが付く。
第2段階はパソコンにその接続を認識させることだ。正確に言うとすでに認識はしているのだが、その接続をアクティベートすることだ。

具体的には設定→ネットワークとインターネット→Wi-FiにSRS-HG10のネットワークがあるのでそれを接続する。

これは一度接続すればそれは永続的なものとなるので、「利用可能なネットワーク」には姿を表さない。「既知のネットワーク」には登録されている。


2.ドライバー付きの再生ソフトを接続する

これだけではまだ動かない。最後に音楽再生ソフトをこの接続と関連付けなければならない。

このとき登場するのが、ソニーの音楽再生ソフト「ミュージックセンター」である。

このソフト、スパホ用のアプリを無理やりパソコンに移植したものらしい。不格好でセンスは最悪だ。
しかし当面ワイファイスピーカーにファイルを転送できる唯一のソフトだ。
musicCentor

この写真が立ち上げ時のもの。右肩にある雪だるまのマークを押す。
吹き出しの中から“hear go2”を選択する。これですべての手続の終了だ。

流石にBluetoothとはレベルが違う。ラジカセレベルの音はする。などというとソニーに叱られるか。
もちろん書斎でDAC→プリメイン→Daliにつないだ音と比べては可哀相だ。なにせ値段は10分の1だ。

ワルキューレの葬送音楽を聴いたが、強奏でも音が潰れない。中音源まで分離されて聞こえる。クラシック聞くのなら、ExtraBassは入れないほうが良いだろう。その分音量を上げるのが良い。

とりあえずこれで音は出た。次はFoobarでどうやって音を出そうかという算段に入る。




以下の4連作になっています
foobar2000でワイアレススピーカーを鳴らす

「SRS-HG10」を買ってきて、Wifi環境で鳴らそうと思ったのだが、専用のアプリを使えとしか書いてない。しかもこのアプリ、例によって使い勝手の悪いことおびただしい。取説も取り付く島もない。

そこでいっそfoobar2000で鳴らそうと考えた。多分これでまた3,4日は無駄に過ごすことになるだろうが…

ハウツーIT というサイトに
という文章があった。
これに従って開始することにする。

やることの基本

① foobar2000にUPnP/DLNAのコンポーネントを追加する
② foobar2000を起動させているPCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする。
③ 家庭内のLAN設定やファイアウォール環境によっては多少設定する必要がある。

ということなので、② は多分、①が成功すれば自動的にそうなると思うので、 ③ が面倒になりそうな気がする。

方法

オフィシャルのコンポーネントページを開く。
http://www.foobar2000.org/components

UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Point 0.99.49

というのをダウンロードする。
A、B、C 順なので一番下の方だ。
上にUPnP MediaRenderer Output 1.3.2というのがあるので、間違えないようにする。

ダウンロード先(私の場合はデスクトップ)に“foo_upnp”というDLLが開かれるが、これは直接使うということではないようだ。

Components にApplyする。
するとそこに、UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Pointが組み込まれる。

しかし案の定、これだけでは動かない。

最初の書き方がなんとなく気になっていたが、再生できるようにするのではなく、「PCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする」だけのソフトのようだ。

というページには、その続きが書いてある。

続けて、UPnP MediaRenderer Output コンポーネントを追加します。

これを先ほどと同じ要領でダウンロード→アプライ→インストールします。

コンポーネンツ一覧表に “UPnP MediaRenderer Output” が載っていれば完成です。

すると、デジタルメディアレンダラ―(DMR)を出力先に指定できるようになります。
つまり、DLNA対応オーディオを指定できるようになります。

いよいよここからが最後のコースです。

Fileメニューから Preferences - Playback - Output とたどります。
Device の個所に、デジタルメディアレンダラ―(DMR)であるDLNA対応オーディオがリストされているはずです。

私のパソコンでは
UPnP : foobar2000 Renderer(鈴木頌)[DESKYOP-8kjip59]
と出ました。

これに出力先を変更して再生しようとしましたが、再生できません。”Playback stopped” になってしまいます。

つまりこの文章で一歩先には進んだが、まだゴールにはたどり着けない。そしてこの手の話は1か0かなのです。99%は0に等しいのです。

もう少し頑張りましょう。

ネットの日本語文献では、とりあえず、これ以上めぼしいものはありません。

しかたないので、くやしいけれど、ソニーの取説にもう一度チャレンジします。


もう一度foobarをワイファイ・プレーヤにする手順

ソニーのMusicCenterというソフトで、音を機械にワイファイ送信できるようになった。これまでの仮定で、だいぶ話のすじが見えてきたのだが、まだ最終課題であるfoobarをワイファイの発信元にする手段はできていない。多分、かなりいい線まで行っているのだが、最後のツメができていない感じだ。

もう一度文献を読み直すことにする。今度は余分なことには関わらずにプロシーデュアのみ追求していくことにする。


「ネットワークオーディオ化」というのはわかりにくい言葉だ。オーディオの「ネットワーク化」ということだろう。

著者は「ネットワーク化」には2つの意味があると言う。

一箇所に保管した音楽を別の他の機器からも再生できる(サーバー、クライアント機能)
オーディオ機器を他の機器(例えばスマホ)から操作できる(レンダラー機能)

そしてこれらのネットワークを家庭内で構築することを「家庭内LAN」という。

と、ここまでが前説。

で、foobar2000にUPnP/DLNAコンポーネントを追加することから話が始まるのだが、ここからの手技はすでに勉強した所。

今読み直すと、意外に大したことは書いてないことに気づく。

次がこれも読み直しにいなるが、
これは先程より少し親切で、

UPnP/DLNAコンポーネントのほかにUPnP MediaRenderer Output コンポーネントも入れないと再生はできないということになっている。

逆に言うとこちらがあればUPnP/DLNAコンポーネントはなくても良いということになるのかも知れない。まぁ一応は入れておくが…

「これで、DLNA対応オーディオで聴くことが出来ます」とあるが追加されたデバイスのどれをとってもSRS-HG10では再生されない。

正確に言うとUPnP:hear go2では16秒かだけ再生され、その後Hold状態となる。
このときバッファー値を変えて「適用」ボタンを押すとまた数秒くらい動くがまた中断する(終了ではない)

どうもこれは「ひどい音飛び」に属する現象のようだ。

で、修正を図る。

で、アドバンス設定を色々いじった結論。これはfoobarをいじれば済む話ではなさそうだ。

それで済むのは2014年ころの話。今は無線LANの通信速度がかなり決定的なようだ。

たしかにソニーのMusicCenterという再生ソフトを使っても、2,3分に一度の割で音飛びが発生している。

ソニーよりfoobarのほうが格段に音が良いから、その分無線LANルーターに負荷がかかっているのかも知れない。





ワイファイとブルートゥースがどう違うのか知らなかった。
この度ソニーのワイファイスピーカー「SRS-HG10」を衝動買いして、それが違うということが初めてわかった。

そこで勉強の成果を以下にまとめておく。

USSEN GATE 02 というサイトの
という記事

まずはリード部分から、
スマートフォンの普及に伴い、Wi-Fiと同じくらい認知度の高まりを見せたのがbluetoothです。
そうなんだ。最初はワイファイで、あとからブルートゥースなんだ。

「その詳しい仕組みや両者の違いなど、知らない人も多い」
まさにその通り。

1.Wi-Fiとbluetoothの基本

Wi-Fiの名は、Wi-Fi Allianceという団体が認証した製品のみが名乗ることができます。
大まかにわけて6種類あり、周波数帯と暗号化方式で分かれています。

bluetoothの名は、エリクソン社の技術として始まりました。今では、無線マウスや無線キーボード、スマートフォンなどに利用されており、身近な存在となっています。

両者は対応機器同士を無線で通信する点では共通していますが、通信規格や使用環境には大きな違いがあります。

2.通信規格上の違い

通信速度: 圧倒的にWi-Fiのほうが速いです。bluetoothの通信速度は最大でも24Mbpsですが、Wi-Fi規格は速いものでは6.9Gbpsに達します。60Gbpsの規格も開発されています。

通信距離: bluetoothは届いてもわずか数十メートルですが、Wi-Fiは数百メートル先まで届きます。
ただしWi-Fiは速いものほど直進性が強くなり、障害物の影響を受けやすくなります。

3.利便性の違い

利便性については一概に決めることはできません。

Wi-Fiはワイヤレス・ネットワークを構築するのに用いられます。デバイスは、射程範囲内ならどこでも持ち運ぶことができます。

これに対してbluetoothは、1つの機器を近くの対応機器につなげるものです。
bluetoothは1対1の連携となります。利用したいデバイス同士を「ペアリング」操作で接続します。

消費電力が少ないのは、bluetoothのメリットです。長時間使用する場合に向いています。
Wi-Fiは消費電力が激しく、バッテリーがすぐに消耗してしまいます。

4.ブルートゥースの使い方

スマホはワイヤレスイヤホン、パソコンはワイヤレスキーボードとマウスで使うことが多いようです。

ということで、ブルートゥースの方はあらかた分かった。

で、問題は、音楽を無線で飛ばして良い音で聞く場合、どちらが良いかということだ。まぁ、ここまでで答えはほとんど分かったようなものだが…

そこでDENONの
というページから。

1.Wi-Fiスピーカーの仕組み

ワイヤレススピーカーは大きく分けてWi-FiスピーカーとBluetoothスピーカーの2つのグループがあります。

それぞれ仕組みが違うため、メリットとデメリットがあります。

Wi-Fiは当然Wi-Fiネットワークが利用できる環境でしか使えませんが、Bluetoothは直接無線で接続するためルーターを必要としません。

2.音質はどうか

Wi-FiスピーカーはLAN回線を使用するため、伝送できるデータ量が大きく、高音質な再生が実現できます。

WAVやFLAC、DSDなど高音質なハイレゾ音源の再生に対応しているのは、こちらのタイプです。

Bluetoothは伝送できるデータ量が少なく圧縮されるため、Wi-Fiと比べると音質は劣ります。

3.ネットワークとの関係
Wi-Fiスピーカーのメリットとしては、複数のスピーカーに接続できること、音楽ストリーミングサービスを使えることなどが挙げられます。
ということなので、「SRS-HG10」を買ってブルートゥースで聞くなど愚の骨頂ということになる。













その3

FRB、マネー制御難しく
短期債を月600億ドル購入、長期債は温存
金利安定を急ぐ

ワシントン駐在の川浪記者の署名記事

リード部分

短期金融市場の資金が逼迫している。短期金融資金の不足は短期金利の乱高下を招いている。
FRBは短期国債を月600億ドルづつ買い入れると発表した。

量的緩和の後始末としての量的縮小が、今回の短期資金不足の原因となっている。

FRBはバランスシートを再び拡大することになり、金融政策の「正常化」は一段と遠のいた。

一連の経過は、量的縮小が予想以上に困難であることを示している。

11日のFRB発表の概要

① 短期債の購入を開始する。
② 「これは現在の金融政策を変更するものではない」

量的縮小と短期金利の経過

リーマンショック以降10年でFRBの金融資産は4.5兆ドルに達した。

17年から量的縮小に転じ、これまでの2年間で3.9兆ドルにまで減少した。ただしショック前の資産量は1兆ドル足らずだった。

しかしその量的縮小の影響が短期資金市場にシワ寄せされた。市場から余剰資金が吸い上げられ、民間銀行がFRBに預ける準備預金は3分の2にまで減少した。これが短期金利の乱高下する理由となっている。

政策金利は2%弱なのに、銀行間金利は1時10%まで急上昇した。FRBは引き締めすぎたとの声が上がっている。

7月以降2度にわたる利下げが続いている。今月末に追加利下げが行われたとしても、もはや利下げ効果は期待薄である。
とすれば量的緩和に再び頼らざるを得なくなる可能性が出てくる。

量的緩和の今後

たしかに通貨量は不足している。グローバルには新興国の経済発展がドル需要を高めている。国内的には、財政の拡大と赤字幅増大が民間マネーの吸い上げを引き起こしている。

量的緩和はたんなる金融政策ではなく、経済の拡大に伴う必然的な経過という側面もある。

記事の最後は次の言葉で結ばれている。
量的緩和後のマネーの流れは、いまだに金融当局すら予期できずにいる。
その先にナイアガラが待っているのかどうかは誰にもわからない。


リーマンショック以来の連銀の金融政策は基本的には量的緩和であった。というより金利はすでにゼロ金利まで済ませており、それ以上やるとすれば量的緩和しかなかった。
だから、景気が回復したとき連銀が真っ先にやりたかったのは量的縮小であり、その後に適正金利への復帰という路線であったろうと思う。
私としては以前から気になっていたのだが、量的引き締めのテンポが早すぎたのではないか。
金利の上げ下げは見せやすい。トランプももっぱらそちらに目が向いている。
しかしこの10年間、もっとも有効な金融施策は量的緩和だったのであり、通貨量の調整こそもっとも慎重に行うべきではなかったのかという思いがある。

ということで、この記事には非常に興味があった。

拾った日経新聞日曜版 その2

2.ホルムズ緊張 LNGも影響 海峡通過は14%だが、原油連動がアダに

サウジの原油施設が攻撃され、11日にはイランのタンカーが紅海で攻撃された。

こうした中でLNGの価格も上がっている。16年の底値がトンあたり3万円余だったのが最近では5万円を超える価格にまで達している。

LNGは震災後の原発停止時の救世主となった。あのときはLNGを入手するために四苦八苦した。高いスポット買いを余儀なくされ、しかもパイプラインが不備なためにとんでもない輸送コストを強いられた。これが貿易赤字の大きな理由になった。

現在では日本の発電力の4割をになっている。さらに都市ガスのすべても担っている。

LNG価格は、購入3ヶ月前の原油価格をもとに決められることになっている。なにか変なのだが長年の商慣習らしい。

これはかつてLNG産出国が中東の石油産出国と重複していたことから形成されたらしい。しかし現在では日本のLNG調達先は随分と多様化している。

大まかに言うと豪州4割、東南アジア3割、中東2割、これにロシアとアメリカが合わせて1割という構成になっている。大変覚えやすい。

これだと原油にお付き合いする必要はないし、ホルムズ海峡緊張で右往左往する理由もない。

結局の所、日本は供給先(その多くが石油メジャー)からなめられているということなのだろう。

ただ20年の長期契約がまだ残っているので、これが切れた後は順次、原油非連動型になっていくのだろう。それまではとりあえずスポット外の比率を高めることで対応するものと見られる。










拾った日経新聞日曜版

昨日医局のゴミ箱で捨てられた日経新聞日曜版を拾って読んだ。まさに拾い読みだ。誰も読んだ様子はない。

日曜版の良いのは相場面がないことで、全編読み物で、赤旗日曜版並みの情報量である。クォリティははるかに高い。

サラッと書き留めておく。

1.の「チャートは語る」という連載もの 資金吐き出す株式市場/ 自社株買いが増加/ 過去5年間で通算200兆円、調達額を上回る/
の3本見出し

世界の上場企業は株式発行による調達を減らす一方、市場から株式を買い上げる自社株買いを増やしている、18年には150兆円に達した。

株式発行との差額は5年間の累計で200兆円になった。この傾向は20年前から始まっている。

自社株買いについては3面に解説記事がある。

企業が自社株を買い取ると、この株は議決権がなく配当も支払われない。場合によっては償却されることもある。
これによって企業は配当金を節約でき、何よりも安全性を買うことができるようになる。投資家にとっても一株あたりの利益が改善し、それが配当増となって跳ね返ることになる。
株が金庫に塩漬になれば、それは株式交換などで「現金」化され、M&Aやマネーゲームのチップとなっていく。これはかなり犯罪に近い運用だ。

自社株買いという事態は株式市場にとって2つの意味を持っている。短期的には大量の買いが市場を支えているという側面、長期的には株式市場が徐々に収縮し意味を失いつつあるという側面だ。

ではこのような傾向がどうして生じたのか。

記事ではいくつかの要因を上げている。

① 企業が投資に慎重になり、余った金を還元しようとしている。株主も価値の希薄化につながる増資を嫌う傾向がある。

② 投資マネーが株式から債券へとシフトしている。株式による資金調達額は、この10年間で2割減少している。スタートアップ企業も未公開のままファンドから資金を調達できるようになった。

③ 産業構造の変化が進み、設備投資など多額の資金需要が減少している。



記事はこう結んでいる。

資本主義を支えてきた株式市場は、その存在意義を問われるようになっている。

ちょっと言い過ぎの気もするが…

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