鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

Oscar Schémel  “It Takes a Lot More Than Votes to Govern 

venezuelanalysis.com April14, 2017 より

最近の世論調査によると、76%のベネズエラ人は、マドゥロ大統領を辞任させるために国際的介入を認めていない。わが国への国際的な軍事介入には87%が反対している。

一方、9割が暴力行為を拒否し、グアリンバ(反政府集団の道路封鎖)を拒否している。

同様に、3人のうち2人は、アメリカ国家機構(OAS)の動きに対して否定的意見を持っている。

この調査は、84%のベネズエラ人が、政府と野党間の対話を促進する国際調停に同意していることを明らかにしている。

ベネズエラ人の83%が対話を支持している。そして67%は対話の優先順位が経済問題を解決することだと考えている。

確かに、今日、ベネズエラは平和、安定と進歩を望んでいる。大多数のベネズエラ人は妥協、均衡、合意、和解​​の気風を望んでいる。

疑いなく野党は「出口」政策を主張している。これはマドゥロに辞任を要求して、公然と反旗を翻す路線である。

国会では、国際機関や他の国が内政に介入し、我が国に対して制裁を課すようもとめている。

立憲制度の崩壊を推進し、街頭を抗議の暴動で燃え上がらせ、軍事的な蜂起を誘発し、政府の経済政策を妨害し、なすべき対話を押しつぶし、よってもって政府の破滅の条件を作り出そうとしている。

この国は解答と解決策をもとめている。その前で、野党は「今すぐマドゥロを取り除く」以外の提案を提示していない。それは彼らがチャベスに行った行為と変わらない。それが無力であるのは試され済みである。

国内外の極右勢力は、政権との併存も政権の交代も提案していない。コンセンサスなど念頭にない。

彼らがもくろんでいるのは、カオスを作り出し、ベネズエラ社会の中にノイローゼをもたらし、チャベス主義を根底から破壊することなのだ。そして国家と民衆の文化を作り直し、人々に絶望を課すことなのだ。

過激な反政府派は、国際社会や国際報道でボリバル政府を弱体化させ、侵食し、評価を下げることには成功するかもしれない。

しかし、そのことで良好なガバナンスと安定のために必要な条件を構築することはできないのだ。彼らにはそれが理解できないでいる。


Oscar Schémel はベネズエラの独立系世論調査会社の社長。このインタビューは暴力的な抗議デモで7人が死んだ日に行われている。

政府への批判はいろいろあるが、野党の抗議デモにはまったく、政権退陣以外の主張が見られないこと、外国の干渉を促していること、道路封鎖など行動に倫理性が見られないことについて、多くの国民が反感を抱いていることが分かる。

話を聞いていると、ますますタイでのタクシン親子政権への、無道な抗議行動が思い浮かぶ。それはまっすぐ軍事クーデターへと結びついていった。

最近のベネズエラの動き(BBCニュースとWkikiをもとに作成。ただしWikiは明確に野党側の立場)

2012年

10月 大統領選挙。チャベスが4選を果たす。投票率81%、チャベスの得票率は54%

2013年

3月 チャベスがガンで死亡。58歳。

4月 大統領選挙。チャベスの後継者マドゥーロ(Nicolas Maduro)が大統領に就任。選挙は僅差であり、野党は不正選挙と糾弾。

9月 大規模な停電。カラカスをふくめ全土の70%が影響を受ける。マドゥーロは「右翼のサボタージュによるもの」と非難。

11月 年間50%にのぼる物価上昇。国会はマドゥーロに1年間の非常大権を与える。マドゥーロは企業の利益率の制限を図る。

12月 地方選挙。与党勢力が10%の差で勝利。政府の経済政策への期待を表す。

2014年

2月~3月 ベネズエラ西部で治安の悪化(poor security)に抗議するデモ。これに呼応して、カラカスでも野党の支援する反政府デモが始まる。警察との衝突で28人が死亡。

11月 政府、石油価格補償を4年間の期限付きで削減すると発表。(これについては記事を参照のこと)

12月 ベネズエラ検事総長(chief prosecutor)、野党指導者マリア・コリーナ・マチャドがマドゥーロ大統領の暗殺計画に関わったと非難。

2015年

2月 政府、カラカス市長レデスマ(野党)が米国の支持するクーデター計画に関わったと非難。レデスマは否定。

12月 国会議員選挙。野党連合が議席の2/3を超える圧勝。最高裁が野党の3議員の当選を無効としたため、マドゥーロの提出する法案を拒否するための議席は割り込む。

2016年

2月 マドゥーロ、経済危機対策を発表。通貨の引き下げ、ガソリン価格の値上げ(20年ぶり)を柱とする。

5月 野党勢力、マドゥーロのリコールをもとめる署名180万筆を集めたと発表。以後、中央選挙委員会への「要請デモ」が繰り返される。

6月 スクレ州でガソリン値上げに抗議する暴動・略奪事件が発生。

9月 野党が数十万人をカラカスの抗議行動に動員。経済危機対策に失敗したとしてマドゥーロの退陣を求める。

10月 中央選挙委員会、署名180万筆は不正の疑いが強いため、国民投票の実施は当面見送ると発表。

10月 国会、「現状はマドゥーロによる事実上のクーデター状態である」と宣言。

10月 野党が提起したマドゥーロ退陣を求める全国行動。主催者発表で120万人が参加。同時に行われた全国ゼネストは低調に留まる。

11月 野党が呼びかけた大統領官邸へのデモは、2002年4月の再現が予想される中で、中止される。

12月 バチカンの調停による政府と野党との対話が決裂する。野党はマドゥーロが立憲体制と民主秩序を侵犯し、人権を侵害し、経済社会的基礎を台無しにしたとし、退陣を要求。

2017年

1月 野党指導者数人が政府転覆を呼びかけたとして逮捕される。与党・野党間の対話の窓口は消失する。

3月 ベネズエラ最高裁(TSJ)、国会議員の不逮捕特権を剥奪すると決定。野党側の言う「憲法危機」が始まる。

4月4日 野党のデモに対し、親政府派の「コレクティボ」が対抗し衝突。警察の他に国家警備隊(GN)が動員される。

4月8日 野党のデモ隊が裁判所を襲撃。野党デモが暴力的となる。

4月12日 ベネズエラのカトリック教会が、警察側の自重を呼びかける。(ベネズエラのカトリックは野党側の政治的拠点)

4月19日 野党勢力、全国動員でカラカス大集会を呼びかける。警察と警備隊は市街からのアクセスを遮断、市内各所で衝突が発生。少なくとも12人が死亡。集会そのものは成立せず。各種報道は数十万ないし6百万人が抗議に参加したと報道。

5月1日 マドゥーロ、制憲議会の設置を提案。全社会セクターの結集をもとめる。

5月 デモ隊と警察との衝突がますます暴力的になり、連日のように死者が発生。

心不全の新治療基準」への補足

NT-proBNPについて

bnp

見てもらえば分かるように、NT-ProBNPはBNPの前駆体からBNPを抜き出した搾りかすの方だ。

したがってBNPを測れば、それに加えてNT-ProBNPを測る必要はない。では何故NT-ProBNPもはかるのか? これについての説明はない。

日本心不全学会のページに「留意点」が載っている。

とにかく失敬なほどに、何も書いてない「留意点」だ。

日経メディカルに「NT-proBNPは心不全検査として有用」という記事がある。2006年の記事で相当古い。

ポスターセッションで、デンマークFrederiksberg 大病院のJens Rosenberg が発表したもの、とされている。

これはNT-ProBNPと心エコーの左心機能との関連を見たもので、LVEF40% をカットオフ・レベルとして上か下かと分けるという、相当荒っぽい調査。

結果としては、感度100%でOKということになった。つまりNT-ProBNPが127ng/L以下ならEF40%以下の心不全はないということだ。

これをコストから考えると、心エコー検査が150ユーロ、NT-proBNP検査が22.50ユーロで、患者1人当たりの診断費用を21ユーロ減らせる。

ということで、別にBNPと比べて優れているとかいう報告ではない。

よくある検査のご質問 というページがあって、「ANPとBNPの使い分けを教えてください。また新しい検査NT-proBNPとの違いは?」という質問に対する答え。

端的に言えば

NT-ProBNPの長所は診断における特異性ではなく、血清で測れることや凍結保存が不要なことなどである。

まぁ、そういうことのようだ。

多分両方調べたら間違いなく査定されるだろう。NT-ProBNPなどという言葉、忘れたほうがいい。脳みそがもったいない。

トロポニンと高感度トロポニンについて

私の循環器専門医としての歴史は10年ほど前に終わっている。その頃の最先端がトロポニンTだった。MB・CPKより早いと言われた。

10年後の今もあまり変わっていないようだ。ただ心筋梗塞だけではなく心不全でもそのときに心筋が傷めば、トロポニンは出てくるだろう、ということは予想できる。実際にMB・CPKはケースによっては著増する。

CHFの予後を見る上でたしかに心筋がどれだけ壊れたかを見ておくことは大事だというのは分かる。多分そのへんはデータが蓄積しているのだろうと思う。

ただ、心不全ではそれ以外にも重要な予後規定因子はたくさんあるから、そのうちの一つということになる。とくに心不全の発症あるいは遷延に心筋の炎症(とくに自己免疫)が絡んでいるかどうかは大事な話だ。

その点で、高感度トロポニンは注目される指標となるかもしれない。であれば、高感度CRPも大事になるかもしれないし、場合によっては何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない。

またACE、ARB、β遮断剤などの効果(あるいは不応例)を見る指標としても使える可能性がある。

心筋線維化指標について

これがどの程度役立つのかは、私には分からない。この10年の間に進歩しているのかも分からない。

ここで挙げられているのは可溶性ST2受容体、ガレクチン_3である。

まず「可溶性ST2受容体」だが、これが説明を読んでもさっぱりわからない。

まず言葉通りの「可溶性ST2受容体」という用語は検索に引っかかっては来ない。

あるのは「可溶性ST2」だ。これは可溶性タイプの「ST2」という意味で、「ST2」というのは「インターロイキンⅠ」に対する受容体のライブラリーの中の一つということらしい。

といってもなんだか分からない、という事情には変わりはない。免疫屋さんの世界だ。

「ガレクチン3」というのも似たようなものらしい。

新語シャワーをバイパスして、結論だけ読みたい人はここがいい。「大日本住友製薬」の「医療関係者さまサイト」に下記のアブストラクトがある。

長期心不全リスクの層別化を目的とした2つの心筋線維化バイオマーカーの直接比較…ST2 対 ガレクチン-3

面倒なことは一切飛ばして結論だけいうと、

ST2 は心不全の予後判定に関して独立した因子となりうる。一方、ガレクチンはまったく役立たない。

ST2は心筋線維化およびリモデリングの有望なバイオマーカーとなっているが、それが多変量解析で立証されたということであろう。

先ほど、「何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない」と書いたのがこれにあたるようだ。

女子医大で研修していた頃、心筋炎のチームと多少関わっていたので、「すべての病気は炎症だ」という気風にいくらか染まっているかもしれない。

「胃炎も炎症だ」と、胃が痛い人にロキソニンを処方して、薬局のひんしゅくを買っている。自験では二日酔いの特効薬はロキソニンである。

ARNIについて

久しぶりの新薬である。薬屋さんはワクワクであろう。

アメリカでも承認されてまだ2年も経っていない。日本ではフェイズⅢの段階だ。

我が国ではARBが圧倒的だが、これは薬屋のキャンペーンのおかげで、老健ではすべて自動的にACE(エナラプリル)に切り替えていた。それでなんの痛痒も感じなかった。

多分、薬価差だけでスタッフ2人分くらいの差額は稼げたのではないかと思う。

今度の薬は「標準治療薬であるエナラプリルをついに超えた薬剤」と宣伝されている。

47カ国985施設が参加した国際共同臨床試験 で、「エナラプリル群に比べてLCZ696群で20%有意に低下」との成績を叩き出した。

しかし内容をよく見ると、率直に言って革命的な薬ではない。悪く言えば、副作用のために発売中止になった薬をARBと抱き合わせて売り出したに過ぎない。つまりは副作用の出ない範囲に減らしただけであって、長期に使えば副作用が出ないとは限らないのだ。

副作用で中止になった薬というのがネプリライシン阻害薬omapatrilatという薬だ。副作用というのはアダラートやα遮断薬に似ていて、血管浮腫や顔面紅潮、起立性低血圧などだ。

これは素人考えでいうと、ARBやβ、アルダクトンを満度に使ってもうまくいかない人にアムロジンをちょっと足してみたらというオプションではないかと思う。

普通アムロジンは1日5ミリまでだが、これを10ミリ、15ミリまで増やしたらなんとかなるかもしれないという選択である。あるいはカルデナリンを5ミリとか10ミリに増やして、とにかく後負荷(アフターロード)を下げてみましょうということだ。

私はこの先に未来はないと思う。

イバプラジンについて

心不全の薬となっているが、紛れもなく抗不整脈薬(Ⅰf ブロッカー)である。しかもフランス発の薬である。

フランスと言えばリスモダンである。これはⅠaだが、使いはじめて40年、いまも日常的に頻用されている。

余談だが女子医大心研の広沢元所長はキニジン大好き人間で、私もその薫陶を受けてかずいぶんキニジンを使った。キニジンとジギを併用して頻脈発作を止めるという、かなり恐ろしいこともやった。

慣れるとキニジンほど強力で安全な薬はない。VTにもばっちりである。難は在庫がないことである。そして薬剤師が怖がることである。

それはさておき、イバプラジンはいまや心不全の標準薬として世界に承認されつつある。

おそらく陰性変時作用に往々にしてつきまとう陰性変力作用がないのであろう。しかしそういう人間が平気でベータを使うのが不思議でならない。

こういうのを事大主義者という。何故ジギではだめなのかの説明はない。もちろんキニジンについても説明はない。

だから私はこの薬は使わないだろう。使うなとは言わないが…


シアノバクテリアと葉緑体の関係

1.わからず屋の教師たち

前にも染色体とDNAとの関係について書いたのだけど、生物学屋さんというのはどうしてこうも分からず屋が多いのか不思議だ。

染色体イコールDNAと書いて平気でいる。生徒が悩んで聞いても質問には答えないでけむにまく。

染色体というのはただの入れ物にすぎないのだ。しかも細胞分裂をするときにだけ現れる引越し屋の梱包のようなものだ。

普段はDNAはぞろぞろと二本鎖のまま核内に折りたたまれている。

その昔、木原さんという遺伝学の大家がいて「染色体こそ遺伝の本質だ」と言った。DNAの存在すら知られていなかったその頃は、それで正しかったのだが、いまは過去の遺物だ。

DNAは生殖の場面での遺伝情報の伝達に留まるものではない。むしろ本態は、蛋白の生成のための情報センターと言うところにある。

旧来の「遺伝子、ジーン、ゲノム」という言葉は使っているが、いまや遺伝とは関係のない話なのだ。遺伝屋さんや染色体屋さんが出張ってくる幕はないのだ。

2.生徒は本当に悩んでいる、教師は本当に分かっていない

シアノ 質問

YAHOO知恵袋に寄せられた質問の一覧である。

検索結果をもっと見る

をクリックするとさらにぞろぞろと出てくる。
要するに、まともに分かるような教え方をしていないということだ。それで回答者も同じような連中だから、質問の意味がわかっていない。


3.問題の本質は何故シアノバクテリアが光合成できるようになったかだ

ここをしっかり説明すれば、他の問題はささいな、どうでも良い話になる。

じつは、シアノバクテリアは光合成を行う唯一の細菌ではないし、最初の細菌でもない。

シアノバクテリア型光合成の前に幾つかの試行例があった。名前は覚えなくてもいいが、緑色無硫黄細菌、緑色硫黄細菌、ヘリオバクテリア、紅色光合成細菌などがある。

それらの能力はいずれも弱く、酸素を発生することもなかった。なぜかというと、光合成の二つの段階(Ⅰ型複合体とⅡ型複合体)のうちどちらかひとつづつしか持っていなかったのである。

シアノバクターはこの二つをⅡ段式ロケットにして一気にエネルギー発生効率を高めたのである。同時に凄まじい量の酸素を発生し始めた。

その革新的なプラントが、シアノバクターの細胞の中に詰め込まれている。いま葉緑体の中に詰まっている諸要素でもある。

4.シアノバクターはこのプラントを自分一人で作ったのだろうか

生徒たちは、こう考えるに違いない。真核生物がシアノバクターを細胞内に住まわせたように、シアノバクターも葉緑体(クロロブラスト)を食ったに違いないと。

実はそういう説もあるのである。

たとえば、緑色硫黄細菌はⅠ型複合体のみをもっている。紅色光合成細菌はⅡ型複合体のみを持っている。

これが合体したらどうなるだろう、とおたがいに思ったとしても不思議はない。

ただ原核生物同士の合体なので、垂直統合とかM&Aとは違って、DNAの問題が絡んでくる。みずほ銀行のようになっては困るのだ。

「運転手は君だ、車掌は僕だ、後の2人は電車のお客」と折り合いをつけなければならない。

まったくの与太話なのだが、何度も失敗した末に「奇跡の大逆転」が起きて、シアノバクターが誕生し、このハイブリッドがプリウスも真っ青の大成功を収めたのでは? と想像するだけでも楽しい。

5.ドジョウが出てきてこんにちは

実証はされていないが、理論的には40億年ほど前に海底の熱水噴出孔に原始生命が誕生したと考えられている。

原始生命にとっては、この暗黒、高圧、灼熱と極低温の世界がエデンの園であったわけだ。

地表の環境が徐々に変わってくると、ソロリソロリと出エデンを図るものも出てくる。

彼らにとってはエネルギーの確保がすべてである。メタンや硫黄などをもとめてさすらう。その中で「どうせここまで来たんだ。太陽光も使おうじゃないか」という連中が現れて、光合成もやるようになる。

これが真性細菌と呼ばれるようになる。海底に残った連中は古細菌(アーキア)と呼ばれる。

地表近くでシアノバクターが大成功をおさめると、古細菌の中からも「ちょっとあちらも覗いてみようか」という連中も出てくる。それがシアノバクターの方からすれば、「ドジョウが出てきてこんにちは」の場面となる。

ドジョウはシアノバクターと遊ぶふりをして、食べてしまう。食べられたシアノバクターは「あなたのために一生懸命働きますから、どうか堪忍してください」ということで、生殺与奪の権を譲り渡して奴隷生活をおくることになる。

というのが筋書きだ。

もっとも古細菌の方から頭を下げて、婿養子に入ってもらった可能性もあるが、そんなことはどうでもいい。

6.共同生活のルール

共同生活は難しい。嫁さんと50年も暮せば身にしみて分かる。心を通わせるとか慈しみ合うなんてぇのは嘘っぱちで、かろうじて折り合いをつけながら、相手を空気のように考えられるようになるのが究極の目標だ。

殺し合わないこと(免疫学的寛容)、助け合うこと、歩調を合わせること、共通の敵に立ち向かうこと、などが思い浮かぶ。

とくに歩調を合わせることが重要だ。成長・増殖の際には1対1の対応が厳密に求められる。そうでないとシアノなしの空細胞や、シアノだらけの過密状況が生まれることになる。

だからシアノバクターは自らのDNAの中から、増殖の扉を開ける鍵(遺伝子)を真核細胞に預けることになる。増殖するための遺伝子は持っているから、真核の方から増殖を開始せよといえば増殖できるが、自分の判断で増殖することは出来ないのである。

 

ミトコンドリアと親細胞の力関係について

真核生物の記載を見ると、古細胞がシアノバクテリアを取り込んで自分のいいように使っているという感じが浮かび上がってくる。

だが果たしてそうなのだろうか。実はシアノバクテリアが古細胞の体に入り込んで、古細胞をいいように使っているという可能性はないのだろうか。

私たちのからだは古細胞を起源とする真核細胞からなっている、と、私達はそう思っている、というか思い込んでいる。

だが私は実は真核生物ではなくてミトコンドリアなのではないか、と思い始めると寝付けなくなった。


そう思い始めたのは、ウィキのミトコンドリアの説明を読んだからだ。

そこにはこう書いてある。

(ミトコンドリアは)酸素呼吸(好気呼吸)の場として知られている。

全身で体重の10%を占めている。

肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には数百、数千個のミトコンドリアが存在し、細胞質の約40%を占めている。

つまり人間の体を動かしているのはミトコンドリアであり、重量からいってもほとんど主役なのである。


一つの企業がある。工場の敷地やインフラは親細胞のものだ。ミトコンドリアはそこで働く労働者にすぎない。

しかし社会主義者はそうは考えない。

工場はそこで富を作り出す労働者のものだ。親細胞は月に一度家賃を取り立てに来る大家みたいなものだ。

そういう考えも成り立たないわけではない。むしろそちらのほうが世の常識に合致している。

たしかに土地は大家のものだ。細胞核という邸宅に住み、土地の登記書はしっかり握っている。自分が死ねばその登記書はその子に渡される。しかし労働者は定年になったらそれで終わりだ。

それで俺はどっちなんだ。あんたはどっちなんだ。

2016年12月20日 を作成。2017年02月03日 に1回増補している。

今回、2回めの増補を行うことにする。

柴正博「はじめての古生物学」(東海大学出版部 2016)とポール・デーヴィス「生命の起源」(明石書店)、ピーター・ウィード他「生物はなぜ誕生したのか」(河出書房新社 2016)を読んだことが理由である。ただし3冊目はまだ読みかけで、読み終わればさらに追補が必要となるかもしれない。

それにしても、この1,2年でずいぶん本が出ているということで、おそらくかなり急速に知見が集まりつつあるのではないか。そのために一種の星雲状況となっているようだ。

前回も書いたのだが、「アミノ酸から始まって生命に至る過程と、LUCAのあいだになお深い断絶がある」

この断絶感は新知見が集まるほど逆に強まってくる。

話の焦点は核酸の形成とRNAからDNAへの情報機能の積み上げにある。しかし、これについて触れた文献はほぼゼロだ。

いろいろな書物からつまみ食いしたせいで、相互に矛盾する記載もあり、何が何やらわからなくなっている。いずれ何かの本で一本化した上で、矛盾するものについては「異説」として掲載する方向で考えている。

ただ所詮、絶対年代の時間軸を作成すること自体が不可能なので、やはり字句で書き連ねるしかないのかもしれない。

ポール・デーヴィスは「生命の起源」の中で生物の本質機能を次の6点にまとめている。

1.代謝機能 ATPを頂点とする合成と消費の三角形

2.「複雑さ」の組織 そう難しく言わんくても生体構造の構築くらいでも良いんじゃないか

3.複製 普通に言えば生殖機能でしょう

4.発達 個体レベルでの進化

5.進化 種のレベルでの進化

6.自律 「自己」の保持ということでしょうか

そして生命とはこれらの機能を付与された「特殊な化学物質」だとしている。

いささか衒学的かつ還元主義的な嫌いはあるが、内容としてはこんなものかもしれない。

ただ、「生物を物質としてみれば」の話であって、これだけでは生物をAIに見立てた「生物機械論」の世界だ。

一方で、生物を「エネルギーの持続的存在のあり方」として見る観点も可能であり、むしろそのほうが本質をついているのではないかとも思う。



1.ベネズエラを日本の国政システムに当てはめてはいけない

たしかにベネズエラ問題は難しい。問題そのものが難しいというより問題の枠組みが難しいのだ。

大統領を頭にいただく共和政治というのがピンと来ないことが最大の難所である。

とくに大統領の権力が強大な国の政治は、我々にはわかりにくい。

アメリカ然り、韓国然りである。そしてラテンアメリカのすべての国も基本的にはこのタイプである。

いっぽうヨーロッパの多くの国は大統領は置くものの、儀礼的なものであり、実質的には議院内閣制である。

したがって、三権分立とはいうものの、実体としての最高権力は議会にある。

日本もほぼこれに近い政体であるといえる。

なぜそうなったかというと、大本は戦後の天皇制廃止に伴う元首の位置づけにあるのだが、これはこれで大問題なので、とりあえずおいておく。

ところが地方自治体においてはアメリカ型のシステムが直輸入されているから、どことなくぎこちない。

2.ベネズエラを東京都政と比較する

とにかくベネズエラの政治システムを考える場合は、日本の国政を考えるよりは例えば東京都政を考えたほうがわかりやすい。

この間、東京都知事は石原から、猪瀬、舛添、小池と目まぐるしく動いてきた。

しかし、いずれも保守系の知事であるから都議会との軋轢はそれほどのものではなかった。小池都知事になってからいろいろスッタモンダがあるが、本質的なものではない。

しかしこれが例えば美濃部さんのような革新都政だと状況はガラッと変わる。

美濃部さんが出す施政方針はことごとく都議会の反対にあった。では美濃部さんは都議会が反対して法案が成立しなかったら、辞職すべきだったのか。あるいは議会を解散し選挙に打って出るべきだったのか。

美濃部さんはそうは考えなかった。彼は辞任もせず、都議会も解散しなかった。そして都議会の反対にも関わらず次々と革新的な施策を打ち出し、それを都知事の権限をもって実現していった。そうなると、都議会というのは存在意義を失ってしまう。

そこでいろいろとイチャモンをつけて、あわよくば辞任あるいは弾劾にまで持って行こうとする。

こういう行政と議会とのせめぎ合いになったとき、最後に決めるのは都民の世論である。

いずれにしても都政の進め方について、議会と知事はイーブンの関係にあるのだ。

3.ベネズエラをオバマと比較する

オバマは米国の政治史上もっとも進歩的な大統領だった。そう私は思う。やったことがトータルとしてもっとも進歩的だったとはいえないかもしれない。

核廃絶の思いも、医療保障への思いも、中東和平も、所得格差の是正も、キューバとの国交回復もすべて中途半端のままで終わらざるを得なかった。

ものの考え方はとても進歩的だった。しかし8年間の任期中、オバマはずっと議会内少数与党として行動する以外になかった。

議会、とくに下院は一貫してオバマを拒否し続けた。ではオバマは下院の支持が得られなかったら辞職すべきだったのか?

辞職せずに8年間も大統領の座に居座りつづけたことは、民主主義の破棄行為だったのか。

そうじゃないでしょう。逆でしょう。少なくとも米国の世論はそう考えた。「議会こそ最低」という世論が多数を占めた。だからオバマは8年間も大統領を務め続けることが出来たたのではないか。

ベネズエラのマドゥーロだって、議会で選ばれたのではない。国民の直接投票で選ばれたのです。議会に攻撃されたからといって辞める必要はないのです。

議会から攻撃されても、市民デモで攻撃されても、それが破廉恥な罪によるものでない限り、あらゆる手練手管を使って生き延びる権利もあるし、選んでくれた国民への義務もあるのです。

ここをまず押さえる必要があるのではないでしょうか。

4.議会と行政が対立したときの司法権の重要性

強い大統領制を敷く国においては、議会と行政との対立・ねじれはしばしば起こります。

下手をすれば、大統領の任期中ねじれ現象は続くことになります。

しかし行政を中断することは出来ません。だから世論を二分するような施策は別にして日常の行政は継続されなければならないし、場合によっては事実上の法改正となるような一定の判断もくださなければなりません。これは行政命令の形でくだされます。

こういうときが司法の出番となります。まず行政命令の適法性の判断です。これはさほど難しい話ではありません。過去の判例が事実上の法律となるケースは、日本でもよくあります。もっと大きな変更を加える場合は、既存法体系から言えば厳密な意味で適法ではなくなってしまいます。

その際は合憲性が問われることになります。

もう一つは、大統領が立候補にあたって掲げた公約です。これはある意味で国民の支持を受けた政策提案ということになるので、憲法判断において妥当であれば尊重されることになります。

これらの場合においては、「厳密に言えば適法ではないが、憲法の精神に照らして合法である」という判断がくだされれば、行政はその措置を実行することができるわけです。これはネガティブな意味での立憲主義といえるかもしれません。

それがもっとも極端な形で現れているのが、ベネズエラの状況です。

議会は、少なくとも多数派は、政府提案を一切承認するつもりはありません。ただひたすらに政権打倒に向けて動いています。こういう状況のもとでは議会は実質的に無意味なものになってしまいます。その際は、国の政治は政府が提案し、司法が承認し、これを受けて政府が動くという形にならざるをえないのです。

三権分立というのは議会が寝転べば、他の二権でやりくりするという内容もふくんでいることになります。

このような法原理を踏まえた上で、ベネズエラの政治情勢を見ていくことが必要かと思います。

心不全の治療・管理法が変わるようで、Medical Tribune にその概要が載っている。
簡略に過ぎて実態がよく分からないが、バイオマーカーの統一が図られているようだ。
バイオマーカーとしては従来のBNPの他にNT-proBNPの導入が推薦されている。(いろいろ調べると、NT-ProBNPはBNPの代替にすぎないようで、無視して構わないようだ)
また急性期にはこれに加えて心筋壊死の指標である心筋トロポニンの測定が勧められている。
さらに長期化した際には予後判定に心筋線維化を示すバイオマーカーの測定が推薦されているが、これについてはとくにマーカーの指定は行われていない。(候補として可溶性ST2受容体、ガレクチン_3、高感度トロポニンが挙げられている)
治療の方では以下の点が追加されている。
1.低拍出量型心不全の治療の標準としてβ遮断薬が推薦されている。一部の症例では、抗アルドステロン薬の併用も勧められている。またレニン・アンジオテンシン系が賦活された状況ではACE阻害薬あるいはARBの併用も勧められている。…これは今までと大きな違いはない。
2.ARNI が治療戦略へ追加された。中等症の慢性心不全でACEあるいはARBにトレラントとなったケースで、ANRIへの切り替えが推薦されている。
3.イバプラジンも新たに追加された。低拍出量(LVEF<35%)の心不全で洞頻拍を示すケースでは、積極的使用が勧められている。これはおそらく、「もうジギタリスは使うな」ということであろう。
4.心不全の患者の積極的高圧が勧められている。目標としては<130/80 に設定されている。降圧自体はこれまでも勧められているので、数値目標が目新しいといえば目新しいと言えなくもない。
新聞に載ったのはここまで

ウィキのポイヤウンペの説明は、どうも正直のところ、ぱっとしない。何か他にないかと探していて見つけたのが下記の文献。

中世日本の北方社会とラッコ皮交易 : アイヌ民族との関わりで (改訂版) 関口明(2013)

いつもお世話になるHUSCAPのデジタル書籍である。この中の第三章がポイヤウンペを取り扱っている。

3.ラッコとユーカラ「虎杖丸の曲」…アイヌ民族の成立との関わりで

A. ユーカラの位置づけ

知里真志保はアイヌの物語文学を下図のように分類した(知里

1973a)。

bunrui

普通ユーカラという場合,「人間のユーカラ」に当たる。これをアイヌ史研究の資料として本格的に位置づけたのが知里である。

知里は1973年、ヤウンクルを擦文人、レプンクルをオホーツク人に見立て、ユーカラは民族的な戦争の物語と解釈した。

榎森進は知里の見解を受け継ぎ、ヤウンクルは,人名の語葉表現上の特質から,一筋の河川を中心に形成された河川共同体のひとびとであるとした。

B. 「虎杖丸の曲」が標準

研究のための一次資料は、平取の鍋沢ワカルパ翁から採録した「虎杖丸の曲…変怪の憑依、恐怖の憑依」である。虎杖と書いてイタドリと読む。山野にはびこる猛々しい雑草である。

これは金田一京助が大正2年に採録したものである。

「虎杖丸の曲」は全9段からなり、ヤウンクル同士の戦い,ヤウンクルとレプンクルの戦いなど様々な戦いが語られている。そのうち5段までがラッコの争奪を主因とした戦いである。

主人公(われ)はポイヤウンペである。

C. 「虎杖丸の曲」の構成

第1段 浜益の「シヌタプカ」の山城に生まれ、兄と姉に育てられた。

第2段 石狩の河口に黄金のラッコが出没する。石狩彦(石狩のボス)は捕獲者を募った。褒美には妹を差し出すとした。他の人は失敗し、最後にポイヤウンベが成功する。しかしポイヤウンペは捕らえたラッコを、石狩彦に渡さずに浜益に持ち帰ってしまう。

これを知った兄はこう予言する。

こうなっては自分たちの郷も無事ではすむまい,さらに昔起こったことと同じようなことが新たに起ころう。必ず戦乱が起こるであろう。

第3段 石狩彦の妹,石狩媛はポイヤウンペに嫁ごうと思ったが、ポイヤウンペは無視した。顔に泥を塗られた石狩彦は、シスタプカ(浜益)に戦いを仕掛けた。「黄金ラッコ戦争」が始まった。

闘いは殺戮戦となった。ポイヤウンペは攻めてきたチュプカ人、レプンシリ人、ポンモシリ人を撃退した。

さらにレプンクル・モシリ(樺太)の味方を得たポイヤウンペは石狩に乗り込み、石狩援やチュプカ媛を斬り殺した。

その後ポイヤウンベは苦難を潜り披け,ついにシヌタプカの山城に生還し,手創を負って寝ていた養兄・養姉・カムイオトプシなどと勝鬨をあげた。

第4段 シヌタプカではポイヤウンペを迎えて祝勝会が開かれた。岩鎧のシララベツン人,金鎧のカネペツ人が奇襲をかけた。シヌタプカの諸々が倒されたが,最後にポイヤウンベがその仇を討つ。ここで初めて虎杖丸と呼ばれる怪刀がその威力を発揮する。

第5段以降は石狩とのラッコ騒動をめぐる話とは別になるということで省略されている。

D. ラッコが石狩に来ることはありえない

関口さんはラッコは寒流系の動物であり、石狩に来ることはありえないとしている。

つまり,ラッコが登場するそれなりの必然性があった。すなわち、どこからかもってきて放たれたということになる。

ポイヤウンペはそれを捕獲し、シヌタプカに持ち帰り、毛皮とした上で飾ったということになる。手っ取り早く言えば、かっぱらったということだ。

以上


なお最後に関口さんはレプンクル・モシリ(樺太)をウィルタ系と解している。しかしこれはいくつもの推論を重ねて出された仮説であり、そのまま受け取ることは出来ない。

まず、ポイヤウンペの時代が絶対年代としてはあまりに漠然としている。阿倍比羅夫が粛慎を退治した頃の話なのか、北海道からオホーツク人が駆逐されていく8~9世紀の話なのか、樺太からアムール河口まで進出していく時代なのかによって、話は変わってくる。

それから、浜益の人には申し訳ないが、ポイヤウンペの闘いをモヨロ民族とアイヌ民族の戦争だと書いた浜益村史の記述には、かなりの疑問符が突きつけられたことになりそうだ。


その後の検索で、英雄叙事詩の比較研究論— 荻原 眞子

という文書を見つけた。「虎杖丸の曲」のほぼ全文が紹介されている。

もう疲れたので内容の紹介早めるが、是非目を通しておいていただきたい。


次が龍学というサイトの「日本の龍神譚…オヤウカムイ」というページ。

アイヌは相争うこともあった。ポイヤウンペが洞爺湖の竜神オヤウカムイを襲う話は両者に確執があったこと、どちらかと言えば日本海側の勢力が攻撃的であったことを示唆している。

ポイヤウンペが洞爺湖に来ると、オヤウカムイという羽の生えた毒蛇がポイヤウンペを苦しめる。ポイヤウンペは滝の神様にかくまってもらうが、オヤウカムイは羽のある蛇六十匹、ただの蛇六十匹をかり集めて攻める。
滝の神は攻め殺され、ポイヤウンペも全身焼けただれて石狩におもむき、トミサンペッ・コンカニヤマ・カニチセ(トミサンペッの黄金山の金の家)に難を逃れた。(龍学より重複引用)

これは日本海アイヌが胆振のアイヌを攻めた話だ。結局撃退され、ポイヤウンペはほうほうの体で浜益に逃げ帰っている。

注意すべきは胆振アイヌが化け物扱いされていることだ。戦う相手を人間扱いしないのは侵略者に共通する心理機転であり、相手がウィルタであろうと同じアイヌであろうと関係ない。

日高でもオヤウカムイに関する言い伝えがあるらしい。

日高から西部の湖に怪物がいた。全身淡黒色で目の縁と口のまわりが赤く、ひどい悪臭があって、これの棲んでいる近くに行っても、またその通った跡を歩いてもその悪臭のために、皮膚がはれたり全身の毛が脱けおちてしまう。うっかり近寄ると焼け死んでしまう。

のだそうだ。したがって、彼らは退治されて当然ということになる。おそらくオヤウカムイの一族は結局は滅ぼされた。滅ぼしたのはオキクルミということになっている。

アイヌの黎明の英雄神オキクルミは、天上の神々に祈り、大みぞれを降らせ、寒さで動けなくなったオヤウカムイを斬った。

オヤウカムイのために、僅かに次のような挿話が残されている。

アプタ(虻田)の酋長の妻が病み、尋常の加持祈祷では験がなく、蛇神を憑神に持つ特別な巫女に頼んだ所、オヤウカムイが神懸かり、託宣を始めた。

ユーカラの語り口は明らかに侵略者の視点に立っている。このユーカラがアイヌ全体の物語となっているということは、胆振~日高の先住アイヌ人が最終的に征服され、その文化を圧殺されたことを意味しているのではないか。

本日は久しぶりの快晴、上着がいらないくらいの暖かさ。気候に誘われてポイヤウンペの故郷、浜益まで出かけてきた。

以前から気になっていたとことで、スリバチ山の現地を見てみたいと思っていた。

行く前にネットで博物館か、せめて資料館みたいなものがないか調べたのだが、現地には皆無。地元の関心の薄さがうかがえた。

山を崩してしまった明治時代の切通というところを通ったが、切通というレベルではなく、山の3分2をアイスクリームをスプーンでそぎ取ったように、見事に削られている。

切り通したというより、残土を何処かにもっていったのではないかと思わせる。

もう一つ意外だったのは、この浜益の川沿いに平野と行ってよいほどの広々とした田園が広がっていることである。これだけの後背地があれば、一つの国ができる。

それにしても浜益町舎の立派なのには驚き呆れた。4階建てで一部は5階まで達している。今は町ではなく、石狩市の支所にすぎない。


本日前項のブログを再見した。いい写真があったので転載させてもらう。

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平野に突き出した三角の山がスリバチ山の名残。雪の積もった割れ目が切り通し。切通しというよりは土砂採取だったのだろうと思える。

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これが海側から見たスリバチ山。いずれにしても山砦としては絶好のロケーションだ。

 

もう一度ポイヤウンペについておさらいしておこう。と言うより、以前の記事を書いた後、ネット文献もかなり充実してきており、書き直しが必要になった。

以前の記事とは、この2つである。

そこに書かれていたのはごく簡単な紹介で、ユーカラの英雄の一人ポイヤウンベが浜益を拠点としていたということだった。

それだけならそれで済んだのだが、キタムコさんのページで、浜益には巨大が砦があって、それがポイヤウンペの城だったということ、その城が明治時代の開発で跡形なく壊されてしまった、ということを知るにおよんで俄然興味が湧いたのである。

キタムコさんによると、

この山は明治30年まではシヌタプカと呼ばれ、高さは200メートル。頂上は平地となっており、その広さは200x150メートルにおよんだそうだ。

覇者たるに相応しい城ではないか。


ということで、あらためてユーカラとポイヤウンベのお勉強。

まずはウィキペディア

ユーカラに登場する英雄。表記は、ポンヤウンペ、ポンヤンペとも記される。意味は、「小さい・本土の者」。

ポイヤウンペ伝説には2つの系統がある。一つは超能力を持つ神の一人で、分身の術を使って一度に6人の首を切り落としたと言われる。

もう一つの系統が、我々の聞きたい話しである。

① トミサンベツのシヌタプカの大きな城(チャシ)で生まれた。父は樺太方面に交易に出かけ、そこで亡くなった。このため兄と姉に育てられた。

② 「黄金のラッコ」がいて、皆が欲しがった。石狩・川尻のイシカリ彦は「退治したものには自分の妹と宝を与える」と勇者を募った。

③ 東方の人・ポンチュプカ彦、礼文島の人・レブンシチ彦、小島の人・ポンモシリ彦などがこがねのラッコに挑むがいずれもやられてしまった。

④ ポイヤウンペは苦戦の末、名刀「クツネシリカ」の力を借りて「黄金のラッコ」の退治に成功する。

⑤ 彼はそのままラッコの首をつかみ、天空へと去り、真っ直ぐにシヌタプカの城へと逃げ込んだ。

⑥ このことが原因となって大戦となり、それは繰り返された。ポイヤウンペは何度も危機に見舞われたが、そのたびにさまざまな憑神に守られて勝利した。

⑦ 最後は敵方の女性呪術者がポイヤウンペと結ばれて平和が実現する。

⑧ ポイヤウンペに味方したものは「ヤ・ウン・クル」(丘の人)と総称され、敵側の総称は「レプン・クル」(沖の人)といわれた。(戦闘メカ ザブングルとは関係ないようだ)

ただこれは一つの読解であり、ユーカラの記述そのものではないようだ。

カンナカムイとポイヤウンペの闘い

を読むと、2つのことが分かる

まずポイヤウンペは英雄ではあるが殺人鬼だ。オタサムという村の争奪戦では、敵対国に乗り込んで村人を狂人のように切って切って切りまくっている。

ポイヤウンペは神を恐れず、神と闘い、神を打ちのめしている。すなわち既存の権威を打ち壊している。彼は兄がとりなしに入るまでそれをやめようとしない。

彼はレブンクルが支配する体制の破壊者であったのだろう。だからその凶暴性はヤウンクルからは許されたのである。

第二に、彼の英雄譚は浜益を越えて日高の人にまで語り継がれたということである。日高の人と浜益の人の縦帯を共通の英雄譚として結びつけるとすれば、それはアイヌ民族のオホーツク民族に対する反抗心の表象であったのかもしれない。

ただ、それはオホーツク人に対する逆恨みであるかもしれず、オホーツク人を殺し駆逐する行為を合理化するためのイデオロギーであったのかもしれない。

知里真志保「ユーカラの人々とその生活」では次のように語られている。

この戦争の相手である異民族を一括してユーカラではレプンクル(沖の人)と云うのでありますが,それはつまり「海の彼方の連中」ということ
で, その連中の中には「サンタ」と称していわゆる山丹人が出て来るし, その山丹人の仲間には「ツイマ・サンタ」(Tuyma-Santa)すなわち「遠い・山丹人」と称する中国人も出て来ます。

アイヌ物語 というページがネット上では出色である。ページそのものはリンク切れになっているが、グーグル・キャッシュで読むことができる。

ユーカラにはポイヤウンペ、アイヌラックル、オキクルミ・サマイユンクルなどの英雄が出てくる。いずれもアイヌたちの生活や文化を拓いたものだ。この英雄神たちは半神半人であったり、神であったりさまざまである。

1.ポイヤウンペ

ポイヤウンペは両親がおらず、両親以外の人に育てられている。このような生い立ちは英雄たちに共通する。

彼はある日、自分の憑神に両親のかたきの事を知らされ、かたき討に出陣します。

敵討に行く途中に敵であるものとも、敵でないものとも戦いますが、兄や姉の協力を仰ぎ倒していきます。

敵の首領の妹は巫女であり、未来を読んで主人公の味方になります。その後主人公は勝利し、そのまま首領の妹と結婚し、物語は終わりとなります。

ポイヤウンペが使う刀はクトゥネシリカと呼ばれる名刀で、刀に彫りこまれた夏狐の化神、雷神の雌神・雄神、狼神などが憑き神となっており、それらの神獣が現れ持ち主を救います。

とされており、ウィキペディアの説明とはだいぶ異なる。「ファイナル・ファンタジー」の感覚そのままだ。

ただ、深読みにすぎるが、男どもを皆殺しにし、女どもを妻とするという構図は、アイヌ人のY染色体が縄文の色を強く残し、ミトコンドリアDNAがウィルタやカムチャッカの少数民族と共通するという事実と一致しているようにも見える。

2.アイヌラックル

ポイヤウンペはその弱点もふくめ、一番人間臭い英雄であるが、アイヌラックルはもう少し超人的である。

アイヌラックルという名前がそもそも「人間くさい神・人間と変わらぬ神」という意味らしい。

雷神であるカンナカムイとハルニレの木の精霊でもあるチサニキ姫との間の子で、燃えさかる火の中から誕生したという。

彼は神の子でありながら、地上で人間同様に暮した。人間を襲う鹿を退治したり、魔女ウエソヨマを始めとする魔神や悪魔たちを倒し、雷神の力を持った宝剣で暗黒の国を焼き滅ぼした。

しかし晩年は人間たちに嫌気がさし、どこかへと行ってしまった。

これは乃木大将が軍神に祭り上げられた経過と同じではないか。いずれにしても血生臭さがウリの英雄である。世の中が落ち着いてくると居場所がなくなって何処かに引きこもってしまうというのも、そぞろあわれではある。

いずれにしても、アイヌ人には血を血で争うような過去があり、その闘いの中からアイヌ人という民族が誕生したのだということだ。大和・出雲神話とはまったく異なる世界である。

3.オキクルミ・サマイユンクル兄弟

オキクルミは道央~道南、サマイユンクルはサハリン(樺太)南部~道北・道東にかけて活躍した英雄神です。天から降り、人々に農耕や狩猟などの生活の知恵を授けて回りました。

彼らは兄弟とされており、信仰されているところでどちらかが優位に立ち、どちらかが損な役割になっています。

オキクルミは多くの英雄譚と習合していて、オリジナルのキャラが見えにくいようだ。

この神様たちはかなり和人の匂いがする。

なおこのページには、ほかにヌプリコロカムイ、チロンヌプカムイ、コタンコロカムイ、カムイフチ、カンナカムイ、ウバシチロンヌプカムイなどの名前がリンクされているがたどることは出来ない。

ベネズエラ情勢がかなり緊迫しているようだ。
いまは「…ようだ」としか書けない。情報が不足している。
ただし、過去の経験から言って、ポイントは二つある。
1.ベネズエラの闘いは単純な政治戦ではない。これは階級戦だ。
2.駐在員情報はデマ以外の何物でもない。
ベネズエラは中南米の中でも特殊な国で、中間階級というものはまったく存在しない。駐在員は抑圧階級の中に身を置くしかない。もし中立的な情報を得たければバリオ(スラム)に拠点を構えなければならない。しかしそれではビジネスは成り立たない。
かつて2002年のクーデターのとき、日本では「駐在員の妻」が系統的にデマ情報を流し続けた。多分悪気はなかったと思うが、彼女の流した情報は徹底して反民衆的なものであった。
赤旗の特派員が現地に行ってやっと間違いに気づき、論調を改めた。それまでチャベス擁護の旗を振っていたのは、日本では私だけだった。
APもロイターも白人地区に住んで情報を集めている。駐在員も同じだ。
もっとひどいのがハイチで、このときはJornadaさえも反アリスティードの大合唱に加わった。
ハイチ政府擁護の立場に立ったのは日本では私だけだった。
いま考えれば、59年にカストロが農地革命を決意したとき、「人民裁判」を利用して反カストロのキャンペーンを張ったのも同じ手口だ。
赤旗の特派員はわざわざカラカスまで行く必要はない。ピストレーロが怖いからと言って、カラカスの高級ホテルに泊まって、在留邦人から情報をもらって垂れ流すのなら、赤旗ではなく白旗だ。行かないほうが良い。メキシコでJornadaを読んでいれば十分だ。もし行くならせめてカラカスの西部に宿を取り、スラムの住民と対話せよ。政府関係者や“まともな共産党活動家”から情報をとれ。

「キューバの教育」を主題として大使が講演するというので、にわか仕立ての勉強を始めたが、早くも捕まってしまった。
以前からこの人の文章が気になるのだが、以前は有機農業の分野だったから、「まあそれはそれとして積極的な受け止めなのだから」と見ていたが、最近では医療や教育の分野にまで手を広げて、「キューバこそ理想郷」みたいな話になってきているようで、早い話が、いっときの早乙女勝元さんの「コスタリカ讃歌」みたいな様相になっている。
かなりの人達が、この人の理論に心酔している。私が話すと、そういう結論にはなかなかなりにくいわけで、皆さん何か不満そうである。
とくに統計的な数字をいいとこ取りして、それを寄せ集めていくと実態とはかなりかけ離れたイメージが出来上がってしまう。これは注意しなければならないところだ。
私はこの間、逆の攻撃と相対してきた。
悪い数字だけを積み上げて、たとえばエクアドルはもうだめだとか、ベネズエラは破滅的状態にあるとかいうキャンペーンだ。
わたしは、「共通のマクロ指標で勝負しよう、世銀の数字で勝負しよう」と主張してきた。そして彼らがしばしば労働諸指標、雇用諸指標、貧困諸指標を分析の視野から欠落させることを、発展の持続性の観点から批判してきた。
経済の発展は生産の発展、消費の発展、欲望の発展の三者が揃って初めて持続的発展に至る。途上国の場合は収奪にとどまらない資本蓄積の発展がこれに加わる。

教育の問題は経済よりはるかに難しい。そこには振り出しからイデオロギーが介在するし、産業の発展段階や発展方向に規定されて教育の重点が異なってくるために、教育をどう見るかという国民的・時代的風土の違いがある。そして経済、政治、文化という3つの裾野を持つ複合的分野であるからだ。
できれば、教育学者・教育行政学者のコンセンサスとして、「教育マクロ」ともいうべきガイドラインを設定していただきたい。

キューバに関して私の感想を言うとすれば、小国として、貧困国としては、実によくやっているということだ。
いくつかの指標においては間違いなく先進国と比肩する水準にあるし、凌駕するものさえある。それはいくつかの国際機関によっても確認されている。日本の文部省のホームページでさえ認めている。
だが、それはやせ我慢してのつっぱり=米百俵の精神であることも間違いない。私はむしろそこにキューバの偉さを感じるのであるが、やはりいろいろ無理をしていることも間違いのないところで、教育を実体的にも国家目標としても支える経済的土台を作り上げていくことが、本当の改善につながるのだろうと思う。

キューバの大使がドレメ学院で講演するとのこと。質問が出たらどうしようと、とりあえず準備したのがこの記事。

やっつけ仕事なので、詳しくはそれぞれのリンク先に行ってください。

本当かどうかは知らないが、人生よありがとう というブログ

女と名のつく(赤ちゃんからおばあちゃんまで)90%の女性が、ピアスをしています。ネックレスや指輪、そして綺麗な髪と髪飾り。
マニキュア、ペディキュアは当たり前。

キューバの子どもは、お出かけの時、思いっきりのお洒落をします。
綺麗で可愛らしいお人形さんのようです。見ていても、楽しくなります。

キューバの女性たちのファッション、これは、凄い!
ボリュームいっぱいの女らしさを、飛び切り強調しています。
ピッタリ体のラインを見せた洋服や、スリットがどこまでも(?)入ったスカート、ほとんど着てないに等しいタンクトップ、競うように、セクシー満載です。

厳しいおしゃれ事情

ウェブマガジン「キューバ倶楽部」によると

不思議なのは、洋服もファッション雑貨も売っている店がほとんどなく、ファッション雑誌が一つもないのに、「どうしておしゃれなのか?」ということだ。

キューバは洋服や靴などを、ほぼ外国からの輸入に頼っている。医療や教育、家賃などが無料と社会保障が整っているとはいえ、生活物資の中でもとりわけファッションに回せるお金は少なそうだ。

キューバの人たちに聞いてみると、それぞれ「闇のルート」でやりくりをしているらしい。

おしゃれなキューバさんのこと

というブログの方はハバナでただただ感激しているようです。

買い物なのかパーティーなのか。

老若男にょ、道行く人皆とにかくおしゃれ。体にピタッと合ったキャミソール、新品みたいにキリっとしたシャツ、黄赤青紫オレンジ、原色たっぷりのワンピース…

パラソル

子供の写真。ブログ主さんは感激しているが、私にはよくわかりません。

子ども

 

サンチアゴの子どもたち(バックパッカー記より)

サンチアゴの子ども

バラコアの子どもたち(バックパッカー記より)

パラコアの子どもたち

これが中学生の制服。まあ制服だ。それ以上でも以下でもない。

中学制服

これはウェブマガジン「キューバ倶楽部」から

中学生の踊り

大学生かと思うが

大学生


 

 

以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。

稲子らはいつ帰ったか。

午前2時は論外だが、ではいつ帰ったのかということで、一つの仮説として省線の終電時刻を考えてみた。

稲子は子供を置きっぱなしにしている。翌日は収監中の夫、鶴次郎と面接がある。もちろん面接のとき、監視の目をかいくぐってなんとか他記事虐殺の報を伝えたいから、行かない訳にはいかない。

一行は安田徳太郎を入れて4人だから、阿佐ヶ谷から円タクで相乗りして帰るという方法もないではない。しかし終電で帰れるなら帰りたいのが人情ではないだろうか。

そこでネットで当時の終電の時間を調べてみた。

格好の解説があった。

2015年12月22日付の東洋経済オンラインの記事

JR中央線の「終電時刻」は、どうして遅いのか
昔はもっと遅かった「深夜の足」の意外な歴史

というもの。著者は小佐野記者。

東京ネタだから、札幌の人間にはどうでも良いことだが、現地の人間には面白いだろう。

中央線の終電時刻はなぜ遅いのか。

「特に遅くできる理由があるわけではなく、ご利用されるお客様が多いため」だそうだ。

中央線が遅くまで走るようになったのはいつからなのだろうか。

1934(昭和9)年12月の時刻表を見てみると、最終電車の新宿発は午後11時50分となっている。

ただし、これは浅川(現高尾)行の話で、立川行きは午前0時52分、三鷹行きは午前1時8分、中野行きはなんと午前1時27分まであった。

近距離でいえば、戦前のほうが今よりも遅かったことになる。

理由は、当時は鉄道以外の交通手段、要するに車が少なかったからではないかと記者は推測している。


稲子らの電車は逆方向になるので、本数は少ないにしても同じ時刻くらいまでは走っていたと思われる。。

三鷹発の電車が午前1時頃に阿佐ヶ谷に停まる。これに乗れば東中野、さらに上落合に帰ることは可能なのだ。

実際には終電よりももっと前、11時半ころには家を出たと思われる。

女性陣の介助のもとに安田医師の検屍が行われ、写真が撮影された。その後湯かんして服を着替え、書斎に安置した。そこには稲子の描写した如く10人ほどがすでに集まっていた。

どうしようかと思案してたところに、安田医師が帰るというので、「それでは私たちも」ということになったのではないか。だからもっと早いのかもしれない。

ただ、江口渙の「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる」という時刻はやや早すぎる印象がある。

それにしても、彼女たちの帰った時刻とふじ子の来訪は、本当に一足違いだったようだ。

そして、阿佐ヶ谷駅近くの踏切で彼女たちと入れ違った「同盟」の一団が多喜二宅に到着したとき、すでに彼女の姿はなかった。

本当に、“恋の猫、ふじ子の接吻”は江口渙のみが居合わせた、奇跡的な時空間だったのだ。(江口の創作でなければの話だが…)

連休前に、図書館に行って現物にあたった。それで書いたのが下の記事だ。

本日は、佐多稲子の「2月20日のあと」だ。全集の第1巻にふくまれている。ただし執筆当時は窪川を名乗っていた。
これが、前から一番気になっていた文献だ。
気になるのは2点、
1.稲子らが多喜二宅を辞したのが午前2時ということ。そんなに遅くまでいたはずがない。
2.ふじ子についての記載がまったくないこと。これは書きたくないから伏せたのか、知らなかったのか、ということが判断できない。
この2点とも、原文を読んでもわからないだろうと思っていたが、やはり全文を読んでみないと雰囲気はわからない。
それに加え、紹介した文章に書き漏らした事実の中に何か隠されているものはないだろうか、というのも気になる。
ということで、読み始めた。

稲子はいつ多喜二の死を知ったのか
これは時刻として正確には記載されていないが、おそらく午後6時ちょっと前のことではないだろうかと推察される。
当時、稲子は中央線東中野駅の近くに住んでいたらしい。しかしその時は自宅にはおらず、上落合の中条百合子家にいた。(土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い)
稲子は中条家で晩飯をゴチになるつもりでいた。
その時、中条家の誰かが着いたばかりの夕刊を読んで、「多喜二死す」の報を知った。
すでにラジオでは4時のニュースで事件が報道されていたが、稲子も百合子もそのことは知らずにいた。仲間からの連絡もなかったようだ。
この状況については、細部の記載までふくめて正確だろうと思われる。裏返すと、それからあとの記載については、秘匿されたか記憶が曖昧なのか分からないが、断片的になってくる。大脳生理というのはそういうものかもしれない。
多喜二宅に入るに至る経過
文章は、ここから先は相当曖昧だ。このあと推理を相当膨らませなければならなくなる。
稲子は百合子とともに家を出て馬橋の多喜二宅に向かう。
経路は不明だが、おそらく歩いて東中野まで出て、中央線に乗ったのだろうと思う。
途中で一人の女性と合流して三人になる。名前が伏せられているが、これはおそらく壺井栄であろう。栄も東中野近辺に住んでいたようだ。
三人は阿佐ヶ谷の「同盟員」の家に入った。
これは若杉鳥子のことであろう。
鳥子については下記の記事を参照されたい。(2012年05月10日
若杉邸での情報収集
多喜二宅はがら空き状態だったから、百合子、稲子、栄は鳥子の家を拠点として情報収集にあたったのであろう。
鳥子の夫は庶子とはいえ備中松山藩主板倉子爵の血を引いている。それなりのお屋敷であったはずである。
しかし防衛上の理由であろうか、稲子は西武線沿線の街頭電話から築地署や前田病院に電話して情報を収集した(と書かれている)。

阿佐ヶ谷から鷺ノ宮辺りまでカラコロと歩いたことになるが、集まったメンバーから見れば、稲子がこういう「パシリ」的役回りになるのは当然のことであろう。

この辺から、稲子の記憶は曖昧になってくる。「すでに10人近く集まっていた。まだ遺体到着せず」という記載があるが、これは多喜二宅の状況であろう。鳥子邸に10人も人が集まるわけがない。

多喜二宅に向かう

稲子の文章によれば、いろいろ電話した挙句、前田病院の看護婦から、多喜二の遺体がすでに病院を出て自宅に向かったことを知る。他の情報から推しはかると、これは午後9時頃のことであろうと思われる。それから急いで鳥子邸に向かうが、女の夜道だ。到着するのにどう見ても30分はかかる。

ここから先は、文章はさらりとしてほとんど時間の糊しろがないようになっているが、実際には相当の時間が経過しているはずだ。

それから4人で協議して、鳥子は残る、他の3人は多喜二宅に向かうと決めて家を出る。若杉邸から多喜二宅まではさほど遠くはない。間近と言ってもよい。

稲子によれば、

それからみんなで自宅へ向かう。そこにはすでに江口がいた。そのとき母が多喜二の服を脱がせていた。

ということになる。

これで午後10時位で、みんなの時計が合うことになる。

稲子の文章には時計がない

ということで、稲子の文章には時計がない。他の証言と照らし合わせることによって初めて稲子の行動がわかるという仕掛けになっている。

稲子は、行動するにあたって脳内時計とか絶対時間を持たない“時刻音痴”人間なのだ。良く言えば、徹底した現場型、実践優位型人間なのだ。

なのに多喜二宅を退去した「夜中の2時」という時刻だけが、突如、確定的に出現する。これは後着組の話に影響されて、あとから刷り込まれたものではないだろうか。

方向音痴の人に道を聞くことが無駄であるのと同様、時刻音痴の人に時刻を聞くのも無駄である。このことは念頭に置くべきだろう。


下記の記事を見つけた。

出処は日本貿易振興機構(ジェトロ) 海外調査部米州課、日付は2017年4月、最新の情報である。ビジネスの視点から見たキューバの現状がよく分かる。これを要約・紹介しながら、自説を展開してみようと思う。


1.キューバ経済の実力

わかりやすい絵なので引用させて頂く。

出処はECLAなので確実だが、キューバ側がまともな数値を報告しているかが問題。

これが正味のキューバ経済である。ドミニカ並みの貧困国だ。ただしメキシコは石油でもうけている。パナマは運河でもうけている。ドミニカは出稼ぎでもうけている。キューバは何もない。

アメリカの禁輸は以前続いている。ソ連崩壊時のどん底から見ればよくぞここまで這い上がってきたという感じだ。

GDP推移

2.「経済とは何か」を考えてみよう

人々の生活は決して楽ではない。同じように政府の財政も大変厳しい。

ただ、そんな中でも医療・教育の無償はいまだに続けているのだ。耳にタコができるくらい何度も聞いているだろうが繰り返しておく。無料なのだ。

キューバの医療

教育と治安

これは社会主義だからというだけではない。中国では医療費は全額自己負担だ。昔は無料だったが経済が厳しくなったときにやめてしまった。

キューバはどんなに苦しくてもやめなかった。

あまつさえ、チェルノブイリの子どもたちを養育し、世界の若者に医師への道を開き続けてきた。ハイチやインドネシアの大災害のときは率先して医療チームを派遣した。

これは政治の根っこにヒューマニズムを据えて来たからだ。「キューバの社会主義はまず何よりもヒューマニズムなのだ」ということは、頭に入れておいてほしい。

3.貿易と経済の厳しい実情

そうは言ってもカスミを食って生きていくわけにも行かない。率直に現状を見ておくことも必要だ。

貿易

率直に言って、ベネズエラにおんぶにだっこの状況だ。原油が1バレル100ドルのときはベネズエラも鼻息が荒かった。

キューバはベネズエラから潤沢な原油の供給を受けた。その代わりに医療教育のために人的資源を送り貢献した。

このバーターが成功した結果、キューバはふたケタの経済成長を続けることが出来た。キューバの経済規模はソ連崩壊前の水準に復した。

一方、80年代に500万トン以上の生産を上げた砂糖産業は見る影もなく衰退してしまった。その代わりに観光産業が発達し、砂糖の目減りを補っている。

観光

観光客はここ10年足らずで3倍化し、観光収入も1.5倍化している。ただこのままではキャパの不足が足かせとなりかねない。

キューバ経済のもう一つの柱となっているのが、在米キューバ人の家族送金だ。これは今まで厳しく制限されてきたのだが、国交正常化に伴いほぼ自由化された。

家族送金

まだ急増というほどには至っていないが、それでもこの10年間で送金額はほぼ3倍化している。2015年実績では330億ドル、3兆6千億円というからすごいものだ。

ただしこの金には多少なりとも反政府的な色がついており、貰った人間にしてみれば不労所得であるわけだから、いろいろトラブルを生じかねない金でもある。

幸いなことに、米国内の反カストロムードは弱まりつつあり、送金の政治的意図はあまり気にしなくても良くなってきてはいる。

米世論

ギャラップ社の調査では2015年を境に、「キューバ・シー」の声が上回るようになった。在米キューバ人社会でも反カストロ・共和党よりも親カストロ・民主党の割合のほうが高くなっている。時代は変わりつつあるのだ。

キューバの経済改革

ソ連崩壊とその後の経済危機のあいだ、キューバは自立経済を模索した。中国風に言えば改革・開放と市場経済の導入である。

率直に言えばこれらの「改革」が順調に推移しているとは言い難い。それは「改革」がジャングルの掟の導入であり、キューバが目指してきた「ヒューマニズムにもとづく政治」とは根本的に相容れないところがあるからだ。

しかしこの「苦痛を伴う改革」が避けて通れないものであることは、施政者の一致した認識となっている。

それにしても、私などが見れば、もうすこし大胆にやってもいいのではないかと思うが…。

経済改革

キューバ経済の今後

ということで、ジェトロが描く明日のキューバ経済。と言うより短期見通し。

今後の経済

ご覧のようにかなりショートレンジの経済見通しとなっているから、本当はもう少し長期的・構造的な経済開発の視点で論じなければならないのだが、ジェトロという組織の性格上やむを得ないのであろう。

経済構造から言えば、一つは外資導入をどこまで進めるか。もう一つは第三次産業を如何に民間に委ねるか、ひっくるめて言えば資本の論理・市場の論理・多ウクラード社会の論理をいかにヒューマニズムの論理のもとに包摂するかが勝負の分かれ目であろう。

「ディーセント・ワーク」の基準をどこに置くかがポイントになると思う。

蛇足ながら、キューバと北朝鮮の違い

キューバは北朝鮮と似ていなくもない。まず第一に破産国家だ。金を貸してくれる国はない。第二にキューバ革命以来、アメリカの経済封鎖が続いている。アメリカに逆らいたくなければ、キューバとの貿易は遠慮するに越したことはない。第三に、それでもアメリカに逆らい続けている。強烈なイデオロギー国家だと言ってもいい。

しかし似ているのはここまでだ。

キューバは公然と、あるいはひそかに支援する国家に囲まれている。ラテンアメリカ諸国の真の思いはキューバと同じだ。強烈なイデオロギーではあるが、それはラテンアメリカの共通のイデオロギーだ。

もう一つ、アメリカの経済封鎖は今や世界中から非難されている。日本さえその合唱の輪に加わっている。

北朝鮮は政治的にもイデオロギー的にも世界から孤立しているが、キューバはそうではない。孤立しているのはアメリカだ。

最後に、繰り返しになるが、キューバの社会主義イデオロギーは、まず何よりもヒューマニズムに根拠をおいている。たしかに民主主義とか政治的自由とかに問題はあるかも知れないが、「弱者に目をやる優しさ」、ヒューマニズムこそが政治にもっとも必要とされているのではないか、そんな気がする。

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