鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」には45年9月22日に公表された「降伏後における米国の初期対日方針」の他にもう一つの基本文書があったとされている。
それは統合参謀本部からマッカーサー最高司令官に送付された「包括的軍事指令」である。
ジョン・ダワーはこれを占領軍の基本的指導文書であったとしている。
この文書は45年8月下旬、対日初期方針とほぼ同時にマッカーサー宛に草案段階で送付されていた。そして11月になって長大かつ詳細な文書として完成したという。
しかし48年11月まで機密扱いとされたある。
「指令」に示された占領の目的は「初期方針」より広範で、野心的だった。

ということで、どんなものか調べたいと思ったが、全体像がつかめる資料が見つからない。
ネットでグーグル検索すると
History of the Non-Military Activities of the Occupation of Japan, 1945-1951
という資料が国会図書館にあるそうだ。日本語仮訳として「日本占領の非軍事的活動史(GHQ正史)」と題されている。
実際には資料集のようなもので、すでに占領終了年の1951年中に編纂作業を終え、最終的には序説と54編のモノグラフが、マイクロフィルムの形で調製されている。
国立図書館は、1978年度に米国国立公文書館(NARA)から市販されていたマイクロフィルムを購入した。
これを邦訳したものが『GHQ日本占領史』竹前栄治、中村隆英監修 天川晃、荒敬、竹前栄治、中村隆英、三和良一編 日本図書センター 1996-2000 56冊 として発行されているらしい。
あとはいずれ、もう少し資料アサリをしてから…

1.希少糖と酵素
商売の話や教育の話、香川県の振興の話題はじつはどうでもよいのである。
希少糖という言葉が初めて聞いたものであること。それが酵素の働きにより形成されることに、何かメビウスの輪の如き違和感を感じたのである。
生命の起源の勉強の際には、生命要素の最初のコンポーネントとして炭水化物(有機物)が出てくる。これに窒素がくっつくことでアミノ酸→タンパク質・核酸ができる。
タンパク質はとりわけ動物の基本的構成要素であるだけでなく、生命現象の媒介となる酵素のコンポーネントとなっていく。
生命活動(エネルギー代謝)においては炭水化物の同化と異化が規定的な役割を果たすが、その多くの段階に固有な酵素が絡んでいる。
おそらく希少糖というのは生命活動の主流としては採用されなかった糖生成過程なのであろうが、なぜ選ばれなかったのか、なぜ選ばれなかったにも関わらず消滅しなかったのか、ということは考えるだけでも楽しい。
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2.何森さんの経歴
何森健さんは1943年(昭18年)の岡山県生まれ。65年に香川大学農学部卒業。その後、大阪府立大学大学院を修了されている。
その後香川大農学部で一貫して微生物研究に取り組んできた。
そして、大学構内の土から採取した微生物から偶然、それまでにない酵素を見つけた.
その酵素を反応させて果糖から希少糖を作り出す。
1984年に希少糖の一種である「D―タガトース」の生成に成功。その後も次々と希少糖を作り出し「D―プシコース」の生成にたどり着いた。
2000年に果糖から量産する技術を確立した。バイオリアクターを自作するなど工夫を重ねた結果である。

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この研究過程で、希少糖類の生成過程を一般モデル化した「イズモリング」も発表している。
3.赤旗「学問はおもしろい」
というような背景がある程度わかったところで、本日の赤旗記事。「シリーズ 学問はおもしろい」の本人インタビュー。
まずは会社の代表取締役らしく、こんなCMめいた台詞から始まる。
甘いのにカトリーはゼロの等、夢の糖と言われている希少糖…
希少糖は「自然界に存在する量が少ない単糖とその誘導体」と定義されています。
まぁ、ここまで聞くと「学問はおもしろい」という見出しから読み出した人は引いてしまうでしょう。
私も実はそうだったが、田舎大学ゆえの研究の苦労話を聞くうちに話に引き込まれていく。話の引き出しが三段もある人だから油断がならない。

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ミレーの「落ち穂拾い」に例えて、田舎大学の研究者である自分を、刈り残した落ち穂を拾う貧しい農民に擬する。
もう一つは「落ち穂」が実は落ち穂ではないということ。52枚のトランプのカードの1枚であり、それがなければゲームが成立しないことという発想だ。
ただしそれには52枚揃わければ成り立たない「ゲーム」の論理を導かなければならない。
最後の一つが、希少糖研究は実は生物学(微生物学)に根ざしているのだという2階建て理論。つまり一つの希少糖の生成には一つ以上の酵素が必要であり、希少糖探しは酵素(生命)探しなのだということだ。
たしかに希少糖でお金を儲けるより、農学部の食堂裏に空いた思わぬ扉から希少糖を生み出す酵素の世界へと分け入るほうがはるかに面白そうだ。
*何森さんは1992年、香川大学の農学部食堂の裏手から新酵素「DTE」を見つけ、これによって希少糖「D・プシコース」を生成したという。

1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。

藤原 不比等と藤原家の再興

別にここまでやる必要はないかと思ったが、壬申の乱以前の大海人の動きがほとんど記録されておらず、それをもって大したことのない人物だという評価もあるようなので、少し調べておきたい。
そのためには、中大兄、大海人とトロイカ体制で「大化の改新」を推進した中臣が、壬申の乱直前、天智の死の前後にどう動いたかを知っておくべきだろうと思う。
それは客観的には鎌足から不比等にかけて藤原家がどう動いたかでうかがい知ることができるだろう、という「風が吹けば桶屋が儲かる」的論理にもとづく。


614 鎌足が生誕。

鎌足の系譜に触れておく。
南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、初めは軽皇子に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内の蘇我倉山田石川麻呂(反入鹿)を味方に引き入れた。乙巳の変後は中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を切った。

659 不比等、鎌足の次男として生誕。この時鎌足はすでに45歳。

鎌足は男性不妊? 息子は2人しかおらず、長男定恵は乙巳の変の前年644年生まれで15歳の差がある。娘は4人いるが、例えば五百重娘という人物は天武天皇夫人、後に不比等の妻というから、流石に実の娘とは思えない。ということで「不比等御落胤説」も根強い。

670 鎌足が死去。死の直前に天智天皇が見舞う。大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。

671 壬申の乱。中臣(藤原)氏は天智派とみなされ、朝廷の中枢から一掃される。

673 大海人が天武天皇として即位。飛鳥浄御原宮を都とする。

673 不比等、大舎人の登用制度によって出仕。反天武派出身者として下級官人からの出発を余儀なくされた

681 草壁皇子が大津皇子を抑え、皇太子となる。

686 天武が崩御。草壁が事実上の執政となる。大津皇子は処刑される。

689 不比等の名が日本書紀に初出。この時すでに30歳。草壁皇子に仕え、出世したとみられる。

689 草壁皇子が死去(27歳)

697 草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績をしめす。娘の藤原宮子が文武天皇の夫人となる。

698 藤原の称号が不比等の子孫のみに限定して使用されることとなる。これ以外の中臣系は元の姓である中臣朝臣姓にもどされ、政務への関与を禁止される。

720 不比等が死去。61歳。

それにしても、なんともつまらない話ばかりだ。なんだかんだと平和だったんですね。

我ながら7世紀の日本年表はよく整理されたものと思うが、その分、国内状況はかなり端折ってある。これに国内状況を書き込んでいくと、かえって分かりにくくなるだろう。

壬申の乱の経過表はちんまりとまとまってしまっていて、これを大化の改新まで広げると年表としてのまとまりが失われてしまう。

そこで、大化の改新から壬申の乱まで、すなわち中大兄時代を中大兄を中心に跡づける年表が必要だろうということになった。

ただしこの手の年表は既存のもので十分な気もする。そもそも、日本書紀くらいしが原資料はないのだから、あまり御大層なものにはしないで、自分の心覚えとして作成しておくことにする。



621 聖徳太子が死亡。それ以前から政治的影響力を失い、斑鳩に隠棲していたとされる。

626年 蘇我馬子が亡くなる。家督を継いだのが、蘇我蝦夷。

628年  推古天皇が没する。聖徳太子の息子である山背大兄が有力後継者となる。

蘇我蝦夷は山背大兄の有力パトロンである境部摩理勢を殺害し、舒明天皇(田村皇子)を即位させる。

630 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を中心とした第1回の遣唐使が派遣される。
643 蘇我蝦夷は大臣の位を息子の入鹿へ譲渡。
643 蘇我入鹿、山背大兄王の一族を滅亡に追い込む。

644.1 法興寺の鞠の会で鎌足が中大兄に接近。みずから立案した入鹿暗殺計画を打ち明けたという。
644 中臣鎌足、蘇我入鹿打倒の工作を開始。まず皇極の実兄にあたる軽皇子に接近したと言われる。

645.6.12 「乙巳の変」が発生。蘇我倉山田石川麻呂を巻き込んだ中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を斬殺。中大兄がまっさきに切りかかったとされる。

6.13 中大兄の一隊が蘇我本家を襲撃。蘇我蝦夷を滅ぼす。

6.14 皇極天皇、中大兄への譲位を発議。鎌足の提言を容れた中大兄は即位を固辞し、軽皇子を推挙したという。(流石に血だらけの天皇は景色が悪い)

6.14 皇極天皇、古人大兄への皇位継承を打診。古人はただちに飛鳥寺に入り出家。即位の意志なきことを明らかにする。(古人の母は蘇我系)

6.14 皇極天皇、軽皇子へ譲位。軽皇子は孝徳天皇を名乗る。
9月 吉野にこもった古人大兄に謀反の疑い。中大兄は兵を派遣し誅す。
12月 孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都。難波京は空前の規模であったが、この時点で難波京は未完成だった。

646.1 難波京に遷都した孝徳天皇、「改新之詔」4か条を発する。

649.3 蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑い。石川麻呂は難波から脱出するが、飛鳥の山田寺で自害。石川麻呂は中大兄の岳父に当たり、乙巳の変を支持した。
650年 豊璋が難波京に人質(賓客)として滞在していた記録あり。

653 中大兄、難波を廃し倭京に戻るよう提言。孝徳はこれを認めず。中大兄は孝徳の皇后を含む一族を引き連れ飛鳥の行宮に転居。

654.10 孝徳天皇が難波宮で死去。

655.1 皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。斉明天皇は飛鳥周辺で盛んに土木工事を行い、「狂心」(たぶれごころ)と噂されたという。

655 大和朝廷の命を受けた阿倍比羅夫が北方遠征。

658.11 有間皇子の「謀反」事件が発生。

660 百済、唐軍の攻撃を受け滅亡。百済軍の鬼室福信が百済再興を目指し反乱開始。倭国に援軍を要請。
661年
1月 斉明天皇と中大兄ら、難波を出航、筑紫に向かう。

7月 斉明天皇、筑紫の朝倉で薨去。中大兄による称制に入る。長津宮に入り海外の軍政を統括。(朝倉も長津も場所不明)

7月 唐の蘇定方将軍、高句麗の首都平壌に迫る。

662.5 百済の皇太子で人質となっていた豊璋が百済に戻る。長津宮に駐留中の中大兄は位階を与え、5千の軍、軍船170艘とともに百済に送る。豊璋は鬼室福信と合流し、百済王に推戴される。

663年
8月 白村江の戦い。百済・我々の連合軍が完敗。百済王豊章は船に乗り高麗へ逃げ去る。
9月 百済の州柔城は始めて唐 に降る。百済の名は今 日に絶える。 佐平の余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶禮福留ら、弓禮城に至り船を発し日本へ向か う。
663 白村江敗北の報を受けた中大兄、西日本各地に無数の山城を構築し、唐の来襲に備える。
664 豊璋の子善光、百済王を名乗り難波に居を構える。

665年
2月 天智の命にて、百済の百姓男女400人余を近江の神前郡に住まわせる。 

8月 百済亡命者の達率答体春初が城を長門国に築く。達率憶濃福留・達率四比福夫は筑紫国で大野及び橡の二城を築く。対馬や大宰府の水城(みずき)、防人の配備、長門・屋嶋・岡山など瀬戸内海各地の朝鮮式山城の造築が行われた。

不明月 唐の使節・劉徳高が来朝。服従を迫る。このとき劉に対応した鎌足は「大友皇子の天皇後継を願っており、姻戚関係を結びたい」と語ったとされる。劉徳高は大友皇子を高く評価したという
12月 劉徳高が帰国。
666年 是冬 、百済 の男女 二千餘 人が東国に移住。

667.3 中大兄、大津宮を造営。政治拠点を移す。旧百済官僚が大津に結集。

668.1 中大兄が即位。天智天皇を名乗る。

668 唐と新羅の連合軍、倭国を攻めず高句麗攻撃に回る。
669年

10月 中臣鎌足が逝去。中臣一族の中枢は藤原の姓を賜る。
669 佐平餘自信・佐平鬼室集斯等、男女七百餘人を以て近江国蒲生郡に遷す。

669 高句麗が滅びる。
670年

1月 佐平・鬼室福信の縁者である鬼室集斯は位を授けられ、近江国蒲生郡に封される。

豊璋王の弟・善光、百済王の称号を与えられ、朝廷に仕える。善光子孫の敬福は、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した。

670 唐が朝鮮半島全体の支配に乗り出す。新羅は高句麗の残党とむすび唐軍の駆逐に着手。
670 天智が遣唐使を送る。唐が倭国を討伐するとの風聞を確かめる為に、唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている
670 庚午年籍とよばれる大がかりな戸籍が完成する。

671年
1月 天智天皇が即位。(「大友皇子を太政大臣に任じる」とあるがこれがいつのことかはわからない)
9月 天智天皇が病に倒れる。
10月 天智、病に臥す。以て痛む こと甚だし。死を覚悟する。勅して大海皇子を喚び、「朕、疾甚だ し。後事を以て汝に属ける」

大海人は「請う、皇位を奉じて大后に付属せしめよ。大友王をして諸政を奉宣せしめよ。臣は天皇のために出家して修道せむ」と応える。天皇、これを許して袈裟を送る。

10月 大海人は武装解除の上、僅かな手勢とともに吉野に移る。
東宮、即吉野に入る。或る人の曰く、「虎に翼を着けて放すな り」 
11月 対馬国司、筑紫の太宰府に唐の使者、郭務棕からの伝言を伝える。郭務棕は47隻の船で600人を率い対馬に到着。白村江の倭軍捕虜1400名を返還すると伝えてきた。(669年にも同様の記載があるが、重複か)

12月 天智、近江宮の近隣山科において崩御。享年46歳。大友皇子(24歳)が執政となる。「太子は天性明悟、博く古を雅愛する」と評価される(懐風藻)

672年
3月 近江政権、筑紫にて待機中の郭務棕に天智の崩御を報せる。
5月末 郭務棕が筑紫を離れ朝鮮半島にもどる.大和王朝側から甲冑や弓矢、布、綿などが贈られたという。

壬申の乱
結局分けるのが面倒なので、一つにしてしまいました。それでも正味30年です。この時間を生き抜いたのは大海人ただ一人です。いかにこの時間が濃密だったのかがわかります。

672年
6月中旬 朝廷が大海人の征討作戦を準備中との情報が吉野に入る。
①近江朝廷は美濃・尾張の国司に 「山陵 (天智天皇の墓)を造るために人を集めよ」と言い、集まった人々に兵器を持たせている。②大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする。
このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の大津京からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集める
6月22日 村国連男依ら3人の武将を美濃国の安人磨郡に急派。①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。
東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。
6月24日
6月24日深夜 大海人皇子は子の草壁皇子,忍壁皇子,鵜野讃良皇女(持統天皇)や数人の舎人らで20人ほど,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を出る。
6月24日 天武の部隊が伊賀国名張に入り隠駅家を焼く。兵を募る。名張郡司は近江政府の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。
6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝(あえ)郡司が兵約500で戦列に加わる。
6月24日 天武の長男、高市皇子(19歳)が近江脱出に成功し、甲賀を越えて伊賀を目指す。
6月25日
6月25日 天武の部隊、大和街道に入り積殖(つみえ、伊賀市柘植)で高市皇子と合流。加太(かぶと)峠を越え伊勢に入る(現在は伊賀も伊勢も三重県)。
6月25日 伊勢国司の三宅連石床(いしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。
6月26日
6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。
6月26日 大津朝廷が全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。
6月26日 安八磨郡の多品治の率いる3千人が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。
安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。多品治はおおのほむじと読む。太安万侶の父にあたる。封戸を管理する湯沐令であった。
6月26日 天武軍、三重郡家→朝明(あさけ)郡を経て桑名郡家に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。
6月26日 村国連男依が美濃郡部隊の司令官となる。高市皇子が到着し不破関の近くに前線本部を置く。東海や東山も軍を発す。
6月27日
6月27日 大海人皇子、高市皇子の要請を受け、不破に向かう。皇后、草壁皇子,忍壁皇子は桑名に残る。不破の近くの野上で、尾張氏の私邸を借りて行宮とする。
6月27日 高市皇子を総大将とする前線本部は和(わざみ)に置かれ、東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結する。
尾張の国司小子部連(ちいさこべのむらじ)が2万を動員したことが特筆されているが、やや過大と思われる。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば東海道、東山道が中立化できただけでも御の字であったろう。
6月30日 朝廷軍は山部王を大将,蘇我臣果安(はたやす),巨勢臣比等(ひと)を副将とし、犬上川(現彦根市)まで進出。先発隊が不破の北を迂回し、大海人軍第2軍の背後から攻撃する作戦。
6月30日 大海人軍の伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。甲賀と伊賀を結ぶ倉歴(くらふ)道に進出。萩野(たらの)を確保し、鹿深(かふか)道から水口にも進出を図る。
この軍伊勢から積殖に入ったのだろうが、そこから大和街道へ向かわず大津に出ようとしている。倉歴道と鹿深道は同じ道。
大津京以前の東海道は、都があった飛鳥を出発し、伊賀名張から伊賀盆地を北上し、柘植を経て、東国へと向かっていた。これが柘植で分岐し鹿深(甲賀)を経て草津に出て東山道と合流し大津に向かうようになった。これが倉歴道(くらふのみち)である。この道は大津京の廃都とともに一旦廃れることになる。
7月1日 玉倉部(不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。
7月2日 戦闘開始(日時が錯綜するのは、二次資料の不正確な引用のため)
7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。大津攻略を目指す近江方面軍で、その一部は琵琶湖北岸から西岸に回る。
7月2日 大伴一族が倭京(飛鳥)で挙兵。大伴吹負(ふけい)と大伴馬来田(まぐた)の兄弟を大将とする。その後大伴軍は京都都の県境・乃楽山(ならやま)まで進出し陣を構える。
7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。二人の副将が離反。
7月4日 
7月4日 大伴軍が乃楽山で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。戦闘は膠着。別隊(坂本財隊)が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。朝廷軍は米倉に火をつけて逃げる。
7月4日 大海人軍の伊賀→大和方面軍は結局、一部が大和街道確保のため伊賀に残留し、残りがならぬ向かうこととなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。倉歴道の防衛には田中足麻呂があたる。
7月5日
7月5日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。(亡命百済人の部隊なら、めちゃ強いだろう)
7月5日 大伴吹負軍、乃楽山で惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。
7月5日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀(大和街道)で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟(おきそめのうさぎ)の部隊1千人と合流。
7月5日 倉歴の夜戦。朝廷軍の田邊小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。
7月6日
7月6日 大海人の大和合同軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国のひきいる朝廷軍と2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。
7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、萩野(たらの)で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。
7月7日
7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。
7月7日 息長横河(おきながのよこかわ)の戦い。現米原市醒ヶ井付近の息長で、村国男依(おより)らの軍が朝廷軍を破る。以後進撃を続ける。
7月9日 鳥籠山(とこのやま)の戦い。現彦根市大堀山で村国男依の軍が朝廷軍を破る。
7月13日 大海人軍が敗走する朝廷軍を追撃。安河(現野洲川)で撃破。
17日 さらに栗太(くるもと 現栗東町)の戦いで朝廷軍を破る。このあと最終決戦に備える。
7月22日 瀬田唐橋の決戦。朝廷軍は総崩れとなる。
7月22日 天武軍の北回り部隊、朝廷軍最後の防壁となった琵琶湖西岸の三尾城(高島町)を陥落。
7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。
7月23日 長等山へ敗走した大友皇子、「走 (にげ)て入る所無 し。乃ち還りて山前 (やまさき)に隠れ、自ら縊る」
7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。
8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。
9月8日 大海人は不破を出発し飛鳥に向かう。
9月15日 大海人皇子はもと蘇我氏の邸宅の跡に建てられた嶋宮に入る。
673年
2月 大海人皇子は飛鳥浄御原宮にはいり、天武天皇として即位する。新羅から金承元が使節として派遣される。
上級役人を皇族で固める皇親(こうしん)政治を開始。「大君は神にしませば」と神格化が行われる。同時に官僚制の見直しで才能を重視した昇進制度の整備。
675年 新羅、王子忠元を派遣。天武天皇は遣唐使は一切行わず、新羅からの使が来朝するようになった。倭国から新羅への使も頻繁に派遣された。その数は天武治世だけで14回に上る。
677年 唐と新羅の戦争状態が終結。

681年
681年 天武の子の舎人親王が中心となって古事記が編集される。
3 日本書紀の編纂作業が始まる。完成までに約40年を要す。

684年 「八草の姓」が定められる。

686年9月 天武天皇が死去。草壁皇子と鵜野讃良皇女が全権を掌握。皇位継承のライバル大津皇子を謀反の容疑で処刑する

689年 鵜野讃良皇女が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を発する。

690年 持統天皇、飛鳥浄御原で即位。

694年 藤原京に遷都。

697年 持統天皇が上皇となり、草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)に譲位。

701年 大宝律令が制定される。二官八省体制がスタート。

702年 持統天皇が崩御。この年遣唐使が30年ぶりに再開される。

707 讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らが虜囚生活を終え帰還

以前から思っていたのだが、中大兄と中臣の蘇我親子に対するテロは、明らかにヤマト王権を守るという明確な目的を持っていた。
1.蘇我一族と蘇我稲目の家系は別物
なんと言ったらいいのか「蘇我氏」は大和政権の一部を形成しているのだが、本質的に「非ヤマト」勢力なのである。しかも倉山田の蘇我とか身内としての蘇我氏もいるので、蘇我と名が付けば全部が「非ヤマト」ではなく、飛鳥に広がる蘇我一族の中で、蘇我稲目に始まる系統のみが「非ヤマト」なのだ。稲目一族は本来の地方豪族の蘇我ではなく、宿借り蘇我なのだ。
分かり易いが不正確な言い方をさせてもらうと、在日の金さんや李さんが金田とか新井とかを名乗るようなものだ。
蘇我稲目一族もかなり血まみれの経過でトップに上り詰めているが、そろそろ露骨なヤクザ路線でなくても権力を保持できるだけのプレステージを獲得しかけていた。
蘇我稲目一族虐殺事件は、明らかに主役・中大兄の激しい殺意に基づいているが、それは預言者中臣に焚き付けられたものであり、被害者意識とジハード観に裏付けられている。
これほどに激しい焦燥感はどこから生じるのであろうか。それは蘇我稲目一家が九州の倭王朝の流れをくんでいるからではないだろうか。
例えば葛城や大伴がたまたま姻戚関係でのさばったとしても、大和政権が乗っ取られ断絶するというほどの危機感は持たないだろう。中臣らが蘇我氏に対して感じる危機感というのは何か異質なものを感じてしまうのである。
彼らが九州王朝の流れをくんでいるという積極的根拠は何もない。しかし、蘇我氏がただの飛鳥の田舎豪族ではないという状況証拠はかなりある。そこを結びつけるものがない。それは蘇我本家の焼き討ちにより焼失したのではないか。

1.「古事記が親新羅で日本書紀が親百済」という伝説
これも例によって読書途中の備忘録なので、飛ばしてもらって結構ですが…
関裕二「古事記と壬申の乱」というPHP新書の一冊。
途中までふむふむと言いながら読んできたが、いきなり発狂した。
古事記が親新羅で日本書紀が親百済だというのだ。
これを大前提にしながら、荒唐無稽な話へと突き進んでいく。
「えっ、そんな話なんかあったっけ」と思いながらネットを探してみたが、結局関さんという人が拡散した情報絡みの記事ばかりだ。
2.「古事記はニュートラルだ」というべき
大体、古事記と日本書紀の成立過程から考えれば、古事記が新羅っぽくなるのも、日本書紀が百済っぽくなるのも当たり前の話だ。
話題がかぶるのは仕方ないにしても、古事記は基本的にはギリシャ神話の世界だし、日本書紀は史記の世界だ。そして古事記は出雲神話を相当取り込んでいて、新羅から出雲へと渡ったスサノオを始祖とする系列の神話が大量に紛れ込んでいる。
これに対し、日本書紀の制作には百済から亡命してきた知識人が深く関わっており、百済本紀の内容も大量に紛れ込んでいる。百済が新羅に対して反感を抱くのは歴史的に見て当然のことである。
さらに言えば、大倭国というのは任那と筑紫・肥前を抱合する倭人国家であり、任那を滅亡させ併合した新羅に対するルサンチマンは倭国も共有している。大和政権固有の伝承を中核とする古事記は、これらに対して関わりは薄い。
これらを以て親百済とか親新羅とか言っても仕方がない話だ。
3.古事記は百済滅亡への関心は薄い
古事記の外交的立場を云々するなら、大化の改新以降の出来事の記載について評価していくしかないと思う。しかしそのあたりを書いた記事は、古事記にはほとんどない。
天智が親百済で、天武が親新羅というのもすなおには納得出来ない。
率直に言えば大和朝廷にとっては百済だろうが新羅だろうが、どうでも良い話だ。問題は中国だ。
中国(唐)は百済に攻め入りこれを滅ぼした。日本は百済を支援して闘ったが敗れた。このとき新羅は唐と結び日本軍を撃破し、百済を滅亡へと追いやったのであるから、どう考えても敵である。
それは天智にも天武にも中臣鎌足にしてもおなじことである。
そして中国は日本に服従を迫り、使者が難波まで来て待機していた。そういう中で壬申の乱が起きたのである。
このあと情勢は一転する、唐は日本を後回しにして高句麗の征服へと向かった。とりあえず国難は遠ざかった。そこへ持ってきて新羅が唐に離反し朝鮮半島からの追い出しを図ったのである。
そうなれば新羅への態度は一変する。日本にとって、新羅は最大最強の敵である唐と闘う同盟国となるのである。
4.独立ほど尊いものはない
だから唐を我が国最大の脅威として立ち向かうことが国策であるとすれば、新羅と闘ったことも、後に同盟国となったのも至極当然の対応であり、天智、天武、持統の個性や、国内事情など何の関係もない。
ただしあるとすれば、難波までやってきて屈服を迫る唐に対して従うか、あくまで闘うかの選択はあったのだ。その選択をしないままに天智は死んでしまった。(あるいはしたのかもしれない)
そして壬申の乱に勝利した天武は屈服の道を選ばずに済ました。
これが基本的な道筋である。
この基本線を踏み外した「解釈」は、まったく説得力を持たない「勝手読み」にすぎない。

我がブログを振り返ると、2年前にも関さんの本を読んでいた。
その時の感想が
非常に面白かったが、疲れる本でもある。
基本的には「言いたい放題」の本だが、示唆に富む部分もたくさんある。
と書いてある。
2年経ってたまたまおなじ関さんの本を読んで、同じ感想を持つこととなった。関裕二さんの指摘は個々の事例については非常に面白いのであるが、「反中国」が緊急かつ決定的な国是であったという時代背景を絶対に外してはならないのである。このことを強調しておこうと思う。

ギリシャ神話 年表的理解

紀元前15世紀 ギリシャ本土にミケーネ語(文字)を持つミュケーナイ文化が登場。

紀元前15世紀 ギリシャ神話が口承形式で草創

紀元前9世紀~8世紀 ホメーロスの二大英雄叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』が作られたといわれる。

紀元前8世紀 フェニキア文字を元に古代ギリシア文字が生まれる。(ミュケーナイ時代にすでに線文字Bが存在していたが、暗黒時代においてこの文字の記憶は失われた)

紀元前8世紀 詩人ヘーシオドス、『神統記』をあらわす。神々や英雄たちの関係や秩序を体系化し、神話を文字の形で記録に留める。

紀元前5世紀 ギリシャ古典文学の時代。古典悲劇、古典喜劇、歴史など

紀元前4世紀 アケメネス朝ペルシャと三次にわたるペルシャ戦争。アテナイの権威が高まる。

紀元前4世紀 プラトーン、ホメーロスと英雄叙事詩を批判。ポリスより追放すべきと主張。アリストテレスもほら話と批判。

紀元前3世紀 カリマコス(カルリマコス)、アレキサンドリア図書館の図書目録を完成。膨大な記録をもとにギリシャ神話を肉付けする。

紀元前2世紀 アテーナイの文献学者アポロドーロス、『ビブリオテーケー』(ギリシア神話文庫)を編纂。(下の記事と矛盾)

紀元1世紀 アポロドーロスの『ギリシャ神話』(3巻16章+摘要7章)が作成される。紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献を復元し、ヘレニズム化した神話と一線を画する。

遠山美都男さんの「天智と持統」という本にハマっている。
講談社現代新書で2010年の発行となっている。
新書なのだがけっこうおもったるい本で、1日で半分しか進んでいない。
そこまでの感想なのだが、おもったるい理由は日本書紀の天智紀の通説をひっくり返すのが主題だからである。さらに言えば、そのひっくり返し方が新資料を持ち出すのではなく、読み方をひっくり返すやり方だから、「うーむ…」とうなりながらの理解になっていくからである。
こうやってこれまでの説を打ち破りながら「もう一つの天智天皇像」を構築していくのだが、半分読んだところまでの感想としてはあまり説得力はない。
率直のところわかったのは、天智が殺人鬼だということだ。最初に入鹿と馬子を殺し、ついで自分より上位の皇位継承者を殺し、叔父をカイライに仕立てて難波に王朝を建てるが、叔父が気に食わないと放り出して明日香に帰って別のカイライを建てる。叔父の息子(有間皇子)が反乱を企てると、一族郎党皆殺しだ。
なぜそうなったのか。
有間皇子をそそのかした蘇我赤兄臣という人物が「三つの過失」にまとめている。
1.巨大な倉庫を建て、人民から搾取した財をそこに集積したこと
2.長大な運河を掘削し、その工事にあたる人民のために公糧を無駄遣いしたこと
3.船に石を載せて運び、それを丘のように積み上げたこと
これは蘇我赤兄臣が見た658年における状況である。そして有間皇子が天智に反乱するようそそのかす上での根拠である。
天智が孝徳とたもとを分かって大和(倭京)に戻ったのは654年のことであるから、その後の4年間の天智の治世に対する評価である。
であれば、なぜ天智が大和に戻ったか、なぜ土木工事に集中したのか。それは650年から654年ころに起きた情勢の変化に起因しているとみる他ない。そしてなおかつ、その情勢の変化に対する判断において、孝徳と決定的な乖離を生んだと考える他ない。
天智(おそらく天武も)はこのとき、1.もはや難波にいるべきではない、2.国土防衛の工事をあらゆる犠牲を払ってでも行うべきだ、と決断したのではあるまいか。

ここまでの記事に天武(大海人)の名は全く出てこない。それはおそらく彼が天智と完全に一体となって行動しているからであろう。私は以前から、天武こそ天智路線の正統な継承者だと考えている。他の連中が日和ったから天武が立ち上がったのだろうと思う。
この辺を、明日の後半部分で確かめていきたいと思う。

なお、大海人の名が壬申の乱の直前まで出てこないのは、これらの活動に参加していなかったからだとする意見があるが、これは違うと思う。

「藤氏家伝」によれば、とある宴席で、大海人が床に槍を突き刺し、激怒した中大兄が剣を抜いた。鎌足が間を取り持ち、ことなきを得た。(関裕二氏による)


藤氏家伝と言うのは中臣→藤原家の家伝である。だからこのエピソードは鎌足の自慢話だろうが、立場を変えてみてみると、三者はそれほどまでに一心同体の深い関係にあったということだ。だからいちいち実弟・大海人の名をあげる必要はなかったのだろうと思う。


「昭和陸海軍の失敗」(文藝春秋)という本があって、下記のような興味深いくだりがあった。

福田 誤解を恐れずに言えば、この時点で日本の陸軍は「デモクラシーの軍隊」になった。東条英機は岩手、永田鉄山は長野の出身です。…長州閥という地縁、血縁的な関係ではなく、陸士や陸大で好成績を上げたエリートたちが中心になる、ある意味できわめて民主的な形で運営されるようになった。
戸部 「昭和の軍隊のパラドックス」といえるかもしれません。軍隊は出身が民主的にななると政治的になる、…平民出身の将校ほど天皇を持ち出して、独善的にあらぬ方向へ進んでいくようだ。 

ということで、どうもこれはデモクラシーと呼べるようなものではないのだが、それに対するうまい呼び方がない。
似たようなことは歴史上のさまざまな場面で経験することがあり、どうもその評価には手を焼く。「衆愚政治」とバッサリ切り捨てても仕方ないし、ソクラテスのようにみずから毒を飲んで命を断つのも間違いなのだが、これをどう評価しどのように対応するのか。
ここにリベラリズムとかあるいは立憲主義とかいう概念が外挿されるのだろうが…

この本に基づいて 
2016年03月19日
永田鉄山と一夕会 年表
を増補しました。

特集「調査報告・戦時下の犬猫供出」
と言うのは私も初めて聞いた。北海道の人が随分研究しているらしい。昭和15年にはもう国会で議論されている。
いやらしいのはこれが草の根運動として提起され、これを地方権力が支援するという形をとっていることだ。支援すると言っても中味は煽りだ、最後はノルマで強制するのだ。
いずれにしても、「そこまで行ったらもうおしまいだろう」という常識がもう働くなっている事がわかる。常識がどうこうというよりもはや狂気の世界だ。「それはひどいことだ」という感覚がなくなっている。戦争というのは「狂気の社会化」だということがよく分かる。
聞きたい話ではないが、聞いておかなければならない話だ。よくまとまった良い番組だ。

ベネズエラ医療危機の真実が叫ばれていますが、作られた危機だけが声高に叫ばれ、本当の危機は無視されています。これはその一端を報告した記事です。

CORAL WYNTER
Barquisimeto
September 25, 2017

この記事は、グリーン・ウィークリー・ウィークリーが、ララの州都バルキシメトで「命のための女性運動」をになっている活動家カトリーナ・コザレクから取材したものです。

今年の初めから、ここララ州で出産時に76人の女性が死亡しました。これはベネズエラの中で最悪の数字であり、他の国の死亡率の3倍にものぼります。

この州は貧しい黒人が多く住んでいますが、医者も看護師も、黒人女性の扱いは本当にひどいものです。彼らは女性の尻を叩き、名前を呼び捨てにしてこう言います。
「叫ぶんじゃない。お前がセックスをしていた最中にはそんなに叫んでいなかったろう」
これらは、産科病棟のホラーストーリーの一部にすぎません。
本当なら医師はこんなことをしたら免許を失ったり、停止処分を受けたり、刑務所に行く可能性もあります。しかしそのようなことは、これまでのところ起こっていません。

ベネズエラ医療危機をもたらした犯人
ベネズエラの保健システムは州単位に「分権化」されています。まずこのことに注意することが重要です。
保険医療のための資金と、医薬品などの供給は国からまわされて来ます。しかし、それにもかかわらず、州の健康に関する行政上の決定はすべて地方自治体が管理統制しています。
ここララ州の場合、知事は野党のアンリ・ファルコン、州保健部長も野党のルイ・メディナです。
この州の保険医療はひどいものです。薬の不法取引に関わる地下のネットワークが形成されています。それがマドゥロ大統領に対する経済戦争の一環を担っています。
ほとんどの医師や看護師は、上層階級に属しています。だから政府が社会と健康管理システムをどのように運営すべきかについて、私たちとは全く異なるビジョンを持っています。圧倒的に、彼らは野党=ララ州政府を支持するのです。

ベネズエラ人医師が抱える道徳的問題
看護師や医師は、例えば帝王切開を行うと称して、公立病院から出産用医療セットを譲渡するよう要求することがよくあります。しかし多くの医師たちが、その出産用医療セットをヤミ業者に横流ししてしまいます。
ではどうするか。医者や看護師は、患者に「あなたは自分の薬を見つけなければならない」と伝えます。そうすると患者・家族は薬局に行って必要な器具や薬を買い求めなければならなくなります。「まさか、ウソでしょう」と思うでしょう。
しかし本当です。カラボボ州(ララ州の隣)のバレンシア中央病院の病院長は、薬や器具をヤミ業者に横流ししたのがバレて逮捕されました。
メリダ州の病院ではさらにおぞましいことがありました。
ある看護師はある日、街頭での衝突で負傷したチャベス支持者が担ぎ込まれました。このとき一人の看護婦はこの患者に致死的な薬液を注入するよう強制されたといいます。

女性グループが立ち上がった
コザレクらバルキシメトに住む女性グループはこのような状況を打破するために立ち上がりました。彼女たちは、出産キットを医師と看護師を迂回して確保するためのシステムを作り上げました。それは「女性のための地域共同防衛隊」と名付けられました。
それは病院の労働組合が仲立ちするものです。帝王切開の症例が発生したとき、女性グループからの連絡を受けた労働組合が、当局に出産キットの払い出しを代理申請します。キットを受け取った労働組合から患者に手渡すというシステムです。
「私たちはこのシステムによっていくつかの正義をもたらすことができました」と、コザレックは述べています。「病院の労働者と一緒に、私たちはこの状況をコントロールすることができるようになりました」
この社会実験が行われたのはバルキシメト郊外La Carucienaの小規模公立病院でのことです。それは公立病院ですが、死亡事故や不審死の大部分が発生する州都の主要病院ではありません。
コザレックは振り返ります。「これは簡単なプロセスではありませんでした。医者たちはこの試みに反抗しました。先週には、病院の専門医2人が退職すると脅かしてきました」

州幹部を巻き込んだ大泥棒作戦
保険医療の戦線での「戦争」で使用された別の戦術は、泥棒作戦です。すなわち大型・高額医療機器の盗難です。
これらの機器は公的病院のためにチャベス政権が購入したものでした。しかしそれらを現場で使用するのは医師たちです。
医師の多くは個人開業医を兼ねていたり、あるいは転職して開業するつもりです。このような場合、医師は、個人開業のためにそれらの装置を盗むことが往々にしてあります。
何人かの医師は窃盗がばれて刑務所に行きました。しかし多くの医師はうまいことそれを手に入れました。もっとひどいのはそれを転売することです。
しかしそれは盗品買いがいないと成立しません。その先頭に立ったのが野党政治家です。
ララ州の知事も州都バルキシメトの市長も野党所属です。彼らこそが医薬品や医療機器の闇市場ネットワークを構築する主役となったのです。
全国女性連合の闘い
コザレックたちは「全国女性連合」(Unamujer)に結集して、これら野党勢力と対決することになりました。
「私たちは2015年に記者会見を開きました。ララ州での妊産婦の死亡率は高い、そしてさらに上昇しつつあると主張しました」
「私たちは州政府前の広場まで行きました。私たちのビデオカメラが撮影を開始した時、近くの野営事務所から50人ほどが出てきて、私たちに石を投げ始めました。私たちは20人くらいしかいませんでした」
「私たちは、投石者のうちの何人かが知事の有給秘書であることを確認しました」

このあと最後の一言を誰かに聞かせたい

これが現実です。しかしいつものように、この現実はどれも国際的なマスメディアで語られていません。
その代わりに富裕層相手の小商売を営む「庶民」が三段抜きの記事で取り上げられる(しかも外信の受け売り)。これでは創刊90年の歴史が泣こうというものでしょう。

1.ムハンマドの登場
まぁ、とりあえずそれ以上さかのぼる必要もあるまい。
2015年1月に、前国王アブドラ国王が亡くなり、皇太子サルマンが国王に即位した。このときすでに80歳。イブン・サウドのおそらく最後の息子となるであろう。このあとは孫の世代に移っていく。
このとき、息子のムハンマドが国防大臣兼副皇太子に就任している。弱冠29歳である。
このあとムハンマドが父国王の片腕として辣腕を振るい始める。それと同時にサウジがどんどん過激化していくことになるのである。
2.イエーメンへの軍事介入
2015年3月にとんでもない事態が発生する。国防相ムハンマドがイエメンへの軍事介入を決定するのである。イエメン情勢については別の記事に書いているので、そちらを参照していただきたい。ムハンマドの世界戦略は反イランのみでそれしか眼中にない。しかも彼の反イランは反シーア派であってシーア派であればアラブ人であろうとペルシア人であろうとすべて敵である。
いずれにしてもサウジが直接武力侵攻を開始するというのは、まことに青天の霹靂であった。
敵はクーデターにより大統領を追い出したシーア派アラブ人のフーシー派であり、これを湾岸諸国の連合軍が攻撃した。
この戦争は現在に至るも続いており、内戦の結果、イエメン国民がきわめて深刻な危機に陥っていることはよく知られている。
3.イランとの国交断絶
2016年1月、その戦争のさなか、サウジはアメリカとイランとの核合意を不満とし、イランとの国交断絶に打って出た。イエメン侵攻もそうだが、イランとの国交断絶もほとんど理屈がない。国交断絶しなければならないほどの具体的事実がない。とにかく無茶苦茶なのがムハンマドの特徴である。
4.トランプの大統領就任とクシュナーの着任
その後は、オバマ政権がサウジのクレームを受け付けず対イラン交渉を進めたこともあって、派手な動きはなかった。しかしトランプが大統領に就任するとムハンマドはこの好機を決して逃さなかった。
両者を結びつけたのはトランプの娘婿である。中東和平問題を担当するジャレッド・クシュナー大統領上級顧問(トランプ大統領の娘婿)が、秘密裏に何度もサウジに行き来し、トランプ訪問への動きを取り仕切った。
5.トランプのサウジ訪問と支持確認
2017年5月20日、トランプ大統領がサウジアラビアを訪問した。米国はサウジに1100億ドル(約12兆円)相当の武器を輸出することで合意した。
サウジはトランプ訪問に合わせ、スンニ派アラブ諸国を中心に55ヶ国の首脳を集めた「米アラブ・イスラム・サミット」を開催し、米国との友好、中東における盟主ぶりをアピールした。
この功績を引っさげて、ムハンマドが皇太子に昇格した。ムハンマドは国防大臣に加え皇太子となり、さらに「ビジョン2030」という行政・経済改革計画を発案し、最高責任者となる。
すこしさかのぼるが、3月、サルマーン国王が訪日し「日・サウジ・ビジョン2030」が策定されたのは記憶に新しい。このビジョンこそはまさにムハンマドの策定したものであった。
6.カタールを村八分に
これでますます図に乗ったムハンマドは、カタールの村八分工作に打って出る。
5月24日に国営カタール通信がハッカー攻撃を受け、偽ニュースが流された。その中で、カタールの国家元首タミム首長が「アラブ諸国にはイランを敵視する根拠がない」と発言した。
カタールにとってはまったく寝耳に水のニュースだ。その後の報道では隣国UAE(アラブ首長国連邦)の謀略機関がサイトをハッキングして、フェイクニュースを流したのではないかとされている。
カタールは秋田県の面積で、人口220万人の10%超がカタール人で、残りは外国人労働者。世界有数の天然ガス油田を持ち、日本も東北大震災のあとこの国の天然ガスなしには生きていけなかった。国民1人あたり所得は世界一だ。
日本人にとっては首都ドーハの名前が、93年の「ドーハの悲劇」の記憶とともに焼き付けられている。しかし国際的には通信社アルジャジーラのほうがはるかに有名で、NHKも衛星放送で配信している。サウジがいちゃもんを付けてきたのもおそらくアルジャジーラが目障りなのが最大の理由ではなかろうかと思われる。
このいちゃもんが周到に準備されていたことは間違いないようだ。
わずか1週間後にはサウジ、UAE、バーレーン、エジプトのアラブ4ヶ国がカタールとの国交断絶を宣言。国境封鎖と空域封鎖を実施した。これにアラブ域外のいくつかの国が同調した。
これもテロリスト組織との関係を禁じた「リャド合意」違反という理屈はついていたものの、その罰の重さに比べればいかにもとってつけたふうで、ほとんど問答無用のものだった。
リャド合意というのは14年に湾岸協力会議(GCC)諸国が合意したもので、反体制派やテロ組織を支援しないことを約束したものだ。ただしイランがテロリスト国家だという共通認識はない。
UAEは、同国に滞在するカタール国民に14日以内の退去を求める。さらに航空路の閉鎖、領空通過の禁止を打ち出した。
カタールは食糧をイランから緊急輸入する一方、UAEへの天然ガス供給を停止する報復措置の検討に入った。
カタールはアメリカにとって貴重な同盟国。軍事基地も置いているから、このような事態は好ましくない。外交官や軍関係者は相次いで懸念を表明したが、トランプ本人がサウジの立場を支持する発言を繰り返すから困ってしまった。
ウソか本当かは知らないが、「クシュナーがカタールの有力者に5億ドルの融資を依頼、カタール側がこれを拒んだことが一因」(英フィナンシャル・タイムズ紙)との報道もある。
かくするうちにテヘランでも同時多発テロが発生した。イラン政府は、5人の実行犯は、サウジアラビアとつながりがあるISのメンバーだったと主張。
とにかくやることが強引だ。
7.カタールは干渉を拒否
6月21日、調停に入ったティラーソン国務長官にもなぜこれほどまでに挑発をかけるのかが飲み込めない。各国がカタールに対する具体的な抗議内容を明らかにするようもとめた。これに対して出されたのがサウジらアラブ4ヶ国による13か条要求。アルジャジーラの閉鎖、トルコ軍基地の閉鎖、イランとの外交関係の縮小、テロ組織との関係断絶などが提示された。結局のところアルジャジーラの閉鎖だ。
しかしそれはとうてい飲めるものではない。これを飲まされるようならばアメリカも困った立場に立たされるだろう。
7月3日、カタールは仲介役のクウェートに回答書を提出。実質的に要求を拒否した。結局、湾岸諸国も次の制裁までは踏み込めないまま膠着状態に入ってしまった。
その後ティラーソンが湾岸諸国を歴訪し、カタール「封鎖」を解除するよう求めた。これに応じ9月9日にカタールのタミーム首長とサウジのムハンマド皇太子が会談を行うが非難の応酬に終わる。
イエメン問題に続いてカタール問題も未解決のまま、いまだに尾を引いている。にも関わらずムハンマドはクシュナーと組んで次々に揉め事を起こし続ける。
8.反イランのためにはイスラエルとも組む
9月にムハンマド皇太子がイスラエルを極秘訪問した。これはエルサレム・ポスト報道で非公式に明らかにされている。これと時を同じくしてクシュナーがサウジを訪問し、首脳クラスと4日間にわたる協議を続けている。
10月にはトランプがイラン新戦略を発表した。この中でイラン核合意に対しより強硬な姿勢で臨むことが打ち出された。この中でアメリカ、サウジ、イスラエルの三国がどういう取引をしたのか。非常に気になるが、おそらくエルサレムの首都宣言とレバノンのヒズボラの扱いで合意ができたのではないか。
11月にはムハンマドがパレスチナ自治政府のアッバス議長と会談。「極めてイスラエル寄りの和平案をのむよう迫った」(ニューヨークタイムス)とされる。
この結果、12月6日トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と宣言するに至ったのである。パレスチナ人民の英雄的な抵抗にもかかわらず、多くのアラブ諸国は沈黙を守った。サウジアラビアからは形式的な非難声明が出されるに留まる。
9.レバノン首相監禁事件
11月4日、ムハンマド皇太子の率いる『反腐敗最高委員会』、11人の王族を含む約50人を“汚職”で逮捕。その後、拘束者は200人以上とされる。逮捕者の一人はアブドラ前国王の息子で後継候補の1人だったミテブ国家警備隊長だった。
同じ日サウジ滞在中のレバノンのサード・ハリリ首相も巻き添えを食った。ハリリはサウジとの二重国籍を所有しており、おそらく逮捕された誰かにつながっていた人物であろう。これも理屈なんかどうでもよくてとにかく捕まえてしまえという話なのだろうと思う。
ハリリはサウジアラビアで無理やり辞任を表明させられる。この辞任会見でハリリは、「ヒズボラがレバノンを不安定化させている」と主張、「暗殺される可能性がある」と語ったが、結局のところ意味不明の釈明に終わった。
レバノンのアウン大統領は、サウジアラビアがハリリ氏を自身の意志に反して国内に留め置いていると非難。サウジ政府とハリリ氏は否定したが、それにしてもメチャクチャである。
サウジ政府はレバノンに滞在するサウジ市民に対し、国外に即時退去するよう命令。同時に「サウジへの攻撃を止めよ」と警告した。(一体どちらが攻撃しているのか?)
1週間が過ぎ、さすがにサウジへの批判も強まった。窮地に陥ったサウジにフランスが助け舟を出した。9日にマクロン仏大統領がサウジに入り交渉開始。21日にはハリリが解放され、ベイルートに帰還した。ハリリは辞意を正式に撤回しいまもレバノン首相の座にある。
これほどの重大事件にもかかわらず、メディアのほとんどが沈黙を守った。この「監禁」事件については高橋和夫さんが顛末を説明してくれている。
ハリリという首相はレバノン人ながら、サウジアラビアとの二重国籍である。彼がサウジアラビアの不興を買ったのは、イランの影響力の拡大を阻止できなかったからである。彼はシーア派組織ヒズボラをレベノンの政治過程から排除できなかったと非難された。しかしヒズボラの軍事力はレバノン国軍以上である。サウジアラビアの外交を牛耳っているムハンマド皇太子はレバノン情勢にあまりに無知であり、あまりにも荒々しい。
はっきりしたことは、サウジがレバノンに影響をあたえるための有力なカードが失われたということだ。
10.手詰まり感が深まるイエーメン情勢
イエーメンは最悪の状況を迎えつつある。
11月4日にイエメン領内からリヤドに向けて弾道ミサイルが打ち込まれた。これらのミサイルは撃墜されたと報道された。サウジはレバノンの武装勢力ヒズボラによる犯行と主張した。ハリリの監禁もこの事件と絡んでいることは間違いないだろう。
イランはこれを虚偽で危険な主張と非難した。
しかし真相はこのような報道のレベルをはるかに超えていた。実はサウジの迎撃システムはまったく機能せず、ミサイルはそのまま着弾したのである。
サウジは驚愕し、対イエーメン攻撃を強化した。11月6日にはイエメンに人道支援物資を運ぶ経路を封鎖した。国連担当者は封鎖が続けば「何百万人もの犠牲者」が出ると警告している。その4日後には「イエメンで世界最悪のコレラが大発生した」という報道が流された。20万人が感染しているという。
首都サヌアをふくめイエーメンを実効支配しているのはフーシ派(宗派としてはシーア派)で、サウジが支援する前大統領派はアデンの周囲を確保するにすぎない。フーシ派は元大統領でスンニ派のサレハを前面に押し出していた。「アラブの春」で放逐されたこのいわくつきの人物は12月になると動揺し始め、フーシ派との連携解消を発表。サウジアラビア主導の連合軍との関係改善をもとめた。しかし記者会見の2日後には 首都サヌアを移動中「フーシ派」に暗殺されてしまった。
11.粛清事件はムハンマドの弱さの反映か?
11月4日のミサイルはサウジの心臓部に打ち込まれたようだ。それから2日後には大粛清事件が発生している。司法長官は、「11兆円が不正流用された」と指摘し汚職問題として解決しようとしている。しかしサウジの王侯貴族からすれば額が問題ではないだろう。現にムハンマド自身がパリ近郊に3億ドルの「ルイ14世の城」を購入したというニュースが世界中を駆け巡っている。(12.16NYタイムス)
普通に考えれば、イエーメン問題を泥沼に追い込み、防衛大臣なのにリャドにミサイルが打ち込まれるままにされているのでは責任問題であろう。
はたしてイラン憎し、シーア派憎しで、そのためにはイスラエルともトランプとも手を結ぶというのでアラブの大義は果たせるのか、と私がサウジ国民なら当然思うでしょう。

米中の覇権交代: トランプ登場の意味

大西広さんの講演要旨の紹介です。

レーニン「帝国主義論」から見た今日の世界

世界は不均等発展し、アメリカの没落が始まっている。トランプの登場はその象徴である。

BRICSが成長しているのは不均等発展のためである。これらの国は「後発帝国主義国」である。

アメリカは軍事と金融で生き残りを図っている。

しかし「金融覇権」の維持のための手段は、中長期ではアメリカの衰退を加速する。

具体的には金融覇権がドル高状況を必要とし、ドル高政策が製造業の衰退をもたらした。それが国民の反乱をもたらし政治基盤の弱体化をもたらした。

グローバリズム: 経済統合、自由貿易、資本の自由、移動の自由

共通の前提として経済的合理性の原則のもとにコントロールすること。

EUの最大の失敗は、ロシアの影響圏を縮小するという政治的目的で、拡大を急ぎすぎたことにある。

聞いているうちは面白いのだが、論証が不十分なため資料としては使いにくい。刺激にはなります。なお大西さんは「私はマルクス経済学者である」と何度も強調されているが、うんと割引しても「異色の」マルクス経済学者であろう。


サウジの「覇権化」と湾岸諸国の動向
その1. カタール封鎖をめぐる各国の動き

アラブの春からシリア内戦、そしてISと激動が続く中東であるが、報道されない主役としてサウジの覇権主義的行動について注目する必要がある。

といっても私にも「気になる」という以上の情報は目下ないのだが、一番奇異なのはむしろこのメディアの沈黙ぶりなのだ。(ベネズエラでの大はしゃぎとは天地の差がある)

とりあえず気になることとして、

イランへの政治的挑発、カタールへの攻撃(これについては、攻撃そのものもさることながら湾岸諸国連合の私物化が気になる)、イエーメンへの侵略、そしてレバノン首相の軟禁事件(これほどの事件が全くフォロろーされない理由が分からない)

などがある。

湾岸諸国もこれらの動きに無関心ではいられないはずだが、カタール(ということはアルジャジーラ)を除けば、その反応はほとんど報道されない。

おそらく日本語資料はほとんどないだろうが、少しあさってみようかと思う。
2.サウジの本音はシーア派弾圧

サウジの中東覇権戦略は二つの柱があって、その関係が微妙に揺れ動く。

一つはイラン人に対抗するアラブ人世界の団結であり、もう一つはシーア派に対するスンニ派盟主としての対抗である。

アラブ世界の盟主となることはサウジにとっては最も大きな意義があると思われる。またほかのアラブ国家からの支持も期待できる。

イラン人というのはペルシャ人であり、人種、民族が異なる。ただしこれは、トルコ人に対しても言えることであり、その差をあまり強調するのは、イスラムの教えに反することになる可能性がある。

さらにイスラエル、サウジ、イランの間で微妙に成り立っている中東の力関係を改変することには危険もつきまとう。

だから、こちらの戦略を本気で自力で展開する意志はないだろうと思う。(エジプトに担わせて背後で操る手法の継続)

これに対してシーア派への弾圧はもろにみずからの権力基盤に係る課題となる。

中東の多くの国でシーア派教徒数はスンニ派を凌ぐ状況になっている。しかし彼らはそれぞれの国家で下層階級を形成し、不満を蓄積している。

「アラブの春」が各国で展開されたとき、シーア派の不満が表面化した。それは条件さえあればいつでも燃え上がるだけの力を備えている。

これをどう抑えるかという戦略は宗派戦略ではなく階級支配の戦略なのだ。

ここを踏まえて、各国の状況を見ていく必要がある。
3.サウジ対カタールの対立図式

湾岸諸国の政治的立場はサウジ対カタールの対立図式で表される。

カタールは首長国である。UAEが首長国連邦であるのに対し単独で国家を形成している。

前首長のハマドは基本的にサウジとの意見の違いはなかった。しかし現首長のタミームは、「アラブの春」において反政府側の主張を基本的に支持した。さらにエジプトのイスラム同胞団と交流し、ガザのハマスを支援してきた。

これに対しサウジを支持するのはUAEとバーレーンである。クエートとオマーンは、基本的にはサウジに近い立場ではあるが、対立の回避を優先する立場から調停に動いている。

アラブ域外国であるイランとトルコはカタールを支援するというよりは、サウジのアラブ分裂行動に批判を強めている。

とりあえず第1報。


経済の仕組みとその変化をしっかりと整理している文章がなかなか見当たらない。

というより私がこのところ経済の勉強をサボっているのが一番主要な問題なのだが。

私の勉強がストップしたのは、欧州金融危機の後半のあたり。

スティグリッツらが日本の金融緩和策を支持したあたりから、筋道が見えなくなっている。

そこまでのレベルで一応議論を整理しておくと、

リーマンショックから欧州金融危機への移行というのは、基本的には資金の流動性の低下によるものであった。
1.デレバレッジ(逆テコ)が金融弱者を痛めつけた

これは直接の引き金としてはデレバレッジ(逆テコ)による極度の信用収縮であった。商品経済とは直接の関係がない金融不況だった。

2000年代前半の好況局面を通じて信用が極端に拡大し、通貨供給量を大きく上回る信用が形成された。それは見かけ上膨らまされた金融商品、簿価として計上された含み資産などである。

これら通貨の裏付けのない資金はリーマンの破産後、一気に店じまいをかけたが、通貨への還元力の弱い信用、逃げ足の遅い資金ほど大きな犠牲を受けることになった。

その通貨、決済通貨というのはドルである。とりあえずの金融危機が収束したあと、ドルは各国中央銀行に相対的に集中した。

ドルは札束で持っているのが一番強い。しかしそうはいっても、ハダカでさらすわけにも行かないから、どこかの金庫におさまっていなくてはならない。
2.預金の引き出し権が物を言う

そうすると手持ちの資金量は名目の預金量というよりは、その預金の引き出し権の多寡ということになる。怪しげな銀行の当座預金に100万ドル持っていたとしても、その100万ドルが引き出せないのなら意味がない。

では一番確実な銀行(預金先)はどこか、それは米連邦銀行を置いてほかはない。なぜなら彼らは輪転機を持っているからである。次に確実な銀行はどこか。それは日銀である。米連銀内に大量のドル預金を持っているからである。だから商品経済ではなにも円高になる理由などないのに円高になってしまったのである。

話が脇にそれたが、欧州金融危機は各国財務当局や、中銀の体力コンテストになった。そして弱者が敗者となり、勝者も著しく体力を消耗したのである。
3.量的緩和が決め手

この状況を打開するには、とにかく米連銀の輪転機を回すしかない。失われた信用の何割がドルの裏付けを得て復活すれば、経済がふたたび回り始めるのか、どこに資金を注入すればより効率的な回復が望めるのか、このへんはよく分からない。

とにかくバーナンキはグリーンバックスを刷りまくった。8年の任期のうち6年間、量的緩和QE1~3を続けたのである。

結果的に言えば、これは「流動性の罠」を抜け出すのに有効な方法だった。変な言い方だが、異端であり排斥されてきた方法であるにも関わらず成功したのである。

それは方法的にはサプライサイドの調整策であるが、需要創出という側面からはケインジアン的性格の濃いものである。
4.商品市場とは全く別の論理

私の印象としては、これは商品市場とは全く別の論理で動く、もう一つの市場経済世界である。

どうもこれを一緒にして語ってきたから話が混乱しているのではないだろうか。

我々がこれまで語ってきた市場の需要・供給曲線というのは商品世界のバランスだった。しかし今我々が目の前にしたのは商品を中心として動く世界ではなく、貨幣を中心として形成される需要・供給曲線の世界なのではないか。

このあたりはマルクスが資本論第3部で端緒的に触れたところであるが、彼の時代の信用システムはまだ十分に開花されたものではなかったから、理論も展開されたものではない。

むしろ究極的には商品と貨幣により形成される市場経済に規定されるものだという側面が強調された。

しかし信用制度が発達してくれば貨幣と信用により形成される市場が新たに出来上がり、その経済規模が実体経済の十倍以上に拡大すれば、信用市場を管理するためのノウハウは別個のものとして体系化されなければならないだろう。
5.国際決済通貨(ドル)市場の論理
それに加えてグローバル経済では、信用市場の主役は貨幣一般ではなく「国際決済通貨とその引き出し権」を真の貨幣=供給された決済力として考えていくべきであろう。といっても、どこが違うのか自分には何の答えもないが。
今はそういう時期を迎えているのではないだろうか。



人との待ち合わせのちょっとした隙に本屋に入り、ふらっと買ってしまった本がある。

題名に惹かれての衝動買い。

荻原博子「投資なんかおやめなさい」というものだ。

別に私は株なんかやらないし、どうでも良いみたいなものだが、ふんどしの文句が気になる「銀行・証券・生保 激怒必至」と書いてある。

さほど安い本ではないが、喫茶店でパラパラとめくるには格好のネタかもしれない。

まず「はじめに」から

過激な言葉が並ぶが、ようするに「投資ブーム」が作られたもので、仕掛け人が銀行・証券・生保だということ。こういう儲け話に乗ると大損するからやめときなさい。

ということで、これだけならむかしからのお話。

現代風の味付けはどこにあるかというと、

アベノミクス→金融緩和→金融機関の収益悪化→金融機関の株屋化

ということで、これもさほどの新味はない。

結局、今の「好景気」が金融バブルでありいずれ弾ける。荻原さんは東京オリンピック後にそれが来るだろうと言っている。

その際、「好況局面に入ったにも関わらず、金融緩和を続けているのは日本だけだから、不況になったときに世界のしわ寄せが日本に来るだろう」というのがミソといえばミソ。

それでどうするかというと、荻原さんのご託宣は「タンス預金」だ。

これはどうもいただけない。

年寄りはお金を増やそうとは思っていない。とにかく安全にしたいのだ。ところがいまの世の中安全な方法などというものはないのだ。

まず昔ながらのインフレリスクはある。これだけ金融緩和したのだから、いつ来てもおかしくはない。

もう一つは金融が自由化された以上、為替リスクはいつでもある。

この2つの資産リスクをヘッジしようとすれば、資産を貨幣形態資産と不動産形態資産に分散しなければならない。

もう一つは貨幣資産を邦貨と外貨に分散しなければならない。

この2つのリスク回避は、見た目には投資である。だから投資=資産の形態変化をそのままリスクと考えるのは間違っている。

問題は「儲け気分」をふくらませるかどうかだ。つまリは主観の問題だ。貪らなけければタンス預金よりリスクを回避できる確率は高い。

そういうわけで、20年前なら私は間違いなく荻原さんに全面賛成しただろうが、今は部分賛成にとどまる。

ここまでは結論部分について、その不正確さを指摘したのだが、論立て部分にも相当のあやふやさがある。

とくにインフレとデフレの問題、金融不況と実体経済の不況の問題、通貨問題については混乱状態である。

これらについては、いづれ別に記事を起こして行こうと思う。


『反中国』でジタバタするのはおよしなさい

安倍政権、さらにその背後にいる米日支配層は,反中国の立場から危機意識を燃やして、右傾化、軍国化、対米従属強化に一路突き進んでいるようにみえる。
しかも考えれば考えるほど、日米同盟強化というその方向は、無意味で、不利益で、反国民的なように見えてくる。無意味というよりは反知性的というべきほどに思える。

私はそもそも中国と張り合おうという発想がおかしいのだと思う。張り合って勝てる可能性はほとんどない。そういう時代はもう20年も前に終わっている。
それは中国が強くなっているからではなく、日本がどんどん老衰化しているからである。
反中国派は「中国がどんどん強大化しているから怖い」というが、彼我の関係を冷静に見てみれば怖いのは「日本がどんどん弱小化している」ところにある。
そして、この傾向は、ことここに至ってはもはや防ぎようがないのである。

だから我々が日本の将来を思うとき、肝心なのは中国がどうするかではなく日本がどうなるかである。

人口はどこまで減少するとプラトーに達するのか。その時に総GDPと一人あたりGDPはどのレベルに落ち着くのか、ということは比較的容易に予想できる。

どう予想しても結論は一つ、日本はもはや決して大国ではありえない、ということである。
経済的プレゼンスはもはや台湾、韓国と肩を並べる程度に低下する。
そうなれば政治的結論は唯一つ、東アジアの政治地理学は米中関係を基軸とすることになり、米日・米韓・米台関係は米中関係に規定されて進むしかないということだ。
そうなると、日本の取る道はただ一つ、全方位外交だ。日本の安全はアメリカと中国の双方から保証してもらう他ない。

それを前提とするなら、最小限自衛も日米安保さえも是認しうるかもしれない。少なくとも中国にとっては政策選択の範囲内に入ってくる話であろう。
ただしここまでの話はきわめてマキャベリックな発想を基礎としている。肝心なことは憲法前文にある如く「国際平和のために名誉ある地位を占める」ことであり、そのための積極的なイニシアチブをいとわないことであろう。

日曜美術館という教育テレビの番組を見ていて、五嶋龍というバイオリニストに感心した。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という1枚の絵だけで番組一つ作ってしまうという、かなりのオタク番組である。
それはそれで良いのだが、そこにゲストとして参加した五嶋さんのコメントがなかなかよろしいのだ。
夜の再放送を酒を飲みながらの鑑賞だから、かなりうろ覚えだが、五嶋さんの感想の出発点が良い。
ネットにこの番組の紹介記事があったのでそこからコピーさせてもらう。
(ニューヨークの美術館でワイエスの絵を見て)地味だなと最初は思いました。しかし、数秒後にものすごい力強い絵だと思ったんです。印象がガラッと数秒の間に変わったんですが、…
というのが最初の言葉。
つまりこの絵は、ある意味で罠が仕掛けられているのだ。トリック絵画と言ってもいい。この頃のアメリカの「スーパーリアリズム絵画」にはみな、「絵本の挿絵」といったら良いのか、そういうところがある。
「クリスティーナ」における罠は言うまでもなく異様な手だ。異形と言ってもよい。
これに気づいたとき、鑑賞者は一気に絵の中に引き込まれ、クリスティーナの背中に吸い込まれるわけだ。
そのとき鑑賞者は大波に巻き込まれたみたいに、既視のものとの連関を失い、前後左右・天地がわからなくなる。
これを五嶋さんはこう表現する。
彼の芸術の素晴らしさというのは、見る人によって多分違うメッセージが出てくると思うのです。希望や力強さも感じますが、すごい絶望も感じます。こういう悪夢ってあるじゃないですか、目指すところにたどり着けない。でも、這っていくわけです。
後藤さんの素晴らしさは、最初無難な言葉を探しながら、「こういう悪夢ってあるじゃないですか」という表現に絵の本質を手繰り寄せたところにある。
そして五嶋さんの思いはさらに進んでいく。
アメリカって言うと…がんばれば成功したり裕福な生活を遅れるみたいなイメージがありますが、アメリカでの生活の現実というものをバラ色にせず、そのまま冷たく見せてるなと僕は思ったのです
結局、五嶋さんはこの絵をポジティブな絵だとは見ていない。おそらくこのままでは家までたどり着けないであろうクリスティーナの不安とあせり、それを見つめえぐり出していくワイエスの目の冷たさ…
ただしそうまで言われてしまうと話は身もフタもなくなるから、話題はもうひとりのコメンテーターによる背景説明に移っていく。

ただ、ワイエスの被写体を見るときの冷たさが、彼の心の冷たさなのかと言われるとそうとも言えない。

多くの左翼系・民衆系の作家はまず現実の告発から始まっている。そこには秘められた怒りがある。それがリアリズムという共通土台に乗らなければ共通語とはならないし、叙景の技にはアルチザンとしてのセンスも求められるわけだ。

五嶋さんはこのあたりの作業を次のようにすくい取る。
見えないものを描くにはいろいろなテクニックがあります。…表現したいものを控えめに表現することによって、聞いている側の人がもっと求める。
…音楽というものもそのまま伝えるのではなくて、聞いていただいてそこからまた世界が広がるようにすることが目的です…
ということで、アート的にはワイエスを高く評価するのである。
このあと五嶋さんは文明論、現代論もつまみ食いしていくが、この辺は正直のところピンとこない。
おそらくは長いコメントの中を切り取った言葉なのだろうが、最後の切れ端は余韻を残している。
彼のパワーは一瞬戸惑わせるところがあります。それって今の世代の持つハイペースな感覚の中では必要なのではないかと思います。

正直のところワイエスが20世紀アメリカを代表する画家かどうかについての議論はあると思う(例えばベン・シャーン)。さらに「クリスティーナ」でワイエスを代表すべきか否かについても議論は分かれるのではないだろうか。

しかし、随分勉強させてもらったことは感謝しなければならない。

ドヴォルザークのドゥムキーの演奏をYou Tubeであさっているうちに、何か名前は知らないがえらく生きのいい演奏にあたった。
Queyras,Faust,Melnikov という三人のトリオだ。「3人だからトリオだ、何が悪い」と言われているようで、第一印象はよろしくない。「あんたらハイフェッツかオイストラフのつもりしてるんか」、とタメ口の一つも叩きたい。
名前は多国籍っぽいが例によってユダヤ系か?
しかし演奏は良いんだ。私の好きなのはボーザール・トリオで、録音曲目は限られているけどギレリス・コーガン、ロストロポービッチも良いですね。
トリオというのは音としてまとまっていないと曲としての面白さは出てこないと思う。さりとてたった3人でやるのにあまり人の顔ばかり見ていても仕方ないので、そのへんの兼ね合いなんだろうと思う。
そんでもって、そこはやっぱりピアノ弾きに仕切ってもらわないとうまくいかないでしょう。ピアノはオーケストラの代わりみたいなところがあるのだから…
それでこのトリオも、ピアノが仕切っているみたいに聞こえる。しかし誰が何を演奏しているかもわからなくて、じつに困った団体だ。むかしならレコード会社が有無を言わせず名前つけるのだろうが…

といっているうちに、ドゥムキーが終わって、つぎのファイルが始まった。
Spring Sonata/Isabelle Faust と題されている。画面は静止画面で、バイオリン弾きの女性とピアノ弾きの男性が並んでいる。女性はゲルマン系の美人でこれがファウストでしょう、男はラテンというかひょっとしてアラブ混じり。名前はメルニコフとスラブっぽい。

演奏はバイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ。そもそもそういう曲なんだからしょうがない。むかしのグリュミーを起用したハスキルの演奏もそうだった。

これにケイラスというチェロが加わってトリオになったんだね。了解。
これはギレリス・コーガンのコンビにロストロポービッチが加わったのと同じだ。ギレリスが仕切ったのと同じようにメルニコフが仕切っているのでしょう。

連中がどういうかは別にして、私の心づもりとしてはメルニコフ・トリオとして覚えておくことにしよう。



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