鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

1.土蜘蛛とは何か

日本古代の「土蜘蛛」アンソロジー というページが面白い。

『肥前国風土記』「賀周の里」の項に以下の一節があるという。
昔、この里に土蜘蛛あり、名を海松橿(みるかし)姫といひき。天皇、国巡りしましし時、陪従、大屋田子をやりて、誅(つみな)ひ滅ぼさしめたまひき。時に、霞、四方をこめて物の色見えざりき。因りて霞の里といひき。

この「土蜘蛛」は肥前だけのものではなく、記紀や全国各地の風土記に登場する「一般名詞」である。

「つねに穴の中に居り。故、賤しき號(名)を賜ひて土蛛といふ」(摂津国風土記 逸文)

都知久母(つちくも)、夜都賀波岐(やつかはぎ)などの反乱勢力があり、指導者は「國巣」(くず)と呼ばれた。「狼の性、梟の情」だったため、茨を穴に仕掛けた罠で殺した。(常陸国風土記)

5世紀末ころから九州で横穴式住居(墓?)が始まり全国に広がっているということで、それとの関係もあるのだろうか?

2.天皇に逆らえばすべて土蜘蛛

そもそも神武東征に逆らって殺された八十建(やそたける)も「尾ある土雲」と呼ばれ、だまし討された。

ブログ主は「各地の先住勢力」と言っている。もともとどうかは分からない。縄文人だという説もあるが、明らかに弥生系、天孫系と思われる土蜘蛛もある。

が、何れにせよ叛徒である。そしてその殆どが大和朝廷の勢力によって皆殺しにあっている。いったい「狼の性、梟の情」なのはどちらなのか。

3.土蜘蛛は強力な武装集団だった

「徒衆百八十餘りの人を率い、皇命に逆らいて、降服(まつ ろ)ひざりき」(肥前国風土記)

「土知朱(つちくも)らは力を合せて防ぎ、かつ津軽の蝦夷とはかって、多くの猪鹿弓・矢を城壁に連ねて、官兵(みいくさ)を射つ。このため官兵は進めず」(陸奥國風土記 逸文)

ボスは八握脛(やつかはぎ)と呼ばれた。「其の脛の長さは八つかもあり、力多くはなはだ強し。…その属類多し」(越後國風土記 逸文)
4.土蜘蛛はシャーマン系が多い

また九州、とくに肥前では女性のリーダーが多いのも特徴だ。女性=シャーマンと決めつける訳にはいかないだろうが、小卑弥呼の如き存在なのか。

肥前国・佐嘉の郡・・・・大山田女、狭山田女

肥前国・賀周の郷(唐津市見借)・・・・海松橿姫(みるかしひめ)

肥前国・嬢子山(多久市両子山)・・・・八十女(やそめ)

肥前国・彼杵の郡(大村市)・・・・速来津姫

肥前国・浮穴の郷・・・・浮穴沫姫(うきあなわひめ)


釧路まで医師支援に行ってきた。
夜は当然、飲みに出たが、3日目の夜は流石に飲み疲れて宿で本を読んでいた。今はまともな本屋といえば新本でなく古本屋だ。釧路にも立派な古本屋があって、そこに行くのは出張中のマストのコースとなっている。
古本屋の悪いところは売れない本がいつまでも場所ふさぎをしていることで、3年たっても同じ本が並んでいる。したがって少しづつ探索スポットを変えながら本を漁ることになる。今回は、文庫本のコーナーを眺めてきた。
上海モノがたまたま2冊並んでいて、その並び具合が良くて、高くもないから2冊とも買った。ひとつはちくま文庫の「上海コレクション」、もう一つが福武文庫の「上海読本」、いづれもアンソロジーものである。
読んでいるうちに次第に胸が悪くなってきた。
「魔都上海」というのは、当時の日本人にとっては猥雑な街という意味でしかない。軽いのである。
意外だったのは、芥川龍之介までもがその一員に加わっているということだ。まともな文章は武田泰淳のみである。もっともこれは昭和19年、敗戦間近の上海という特殊事情があるからで、日本人もすっかりおとなしくなってバッサリ首を切られるのを覚悟した状況の上海である。

上海はイギリスを頂点とする列強支配時代の上海(1927年まで)、蒋介石時代の上海(第二次支那事変まで)、日帝が支配を確立するまでの時代(およそ1940年まで)の3つの時代からなる。その後も共産党が48年に上海を解放するまでの時代があるが、この時すでに上海は「魔都」ではなくなっている。
これを1期、2期、3期、と呼ぼう。
1期においては、上海は「魔都」と呼ぶよりは中国革命の希望の星であった。2期においても徐々に力は衰えつつあったとはいえ、そこには中国を変革するための地下水が流れ込んでいた。3期に至って変革勢力は根こそぎにされたが、かろうじて残された列強の影響力を背景に、日帝支配に対する地下の反発は残存していた。テロが頻発し、列強がたがいの出方を探る陰謀が渦巻いていた。これが文字通りの「魔都」の時代である。
だが、日本の文士たちはそんな時代にはお構いなしに、ひたすらつかの間の快楽にのめり込んでいた。彼らにとって「魔都」の意味するものは「色魔のパラダイス」である。それは戦前における浅草六区であり、終戦後の新宿であり、要するにいくばくかの「危険」を伴った猥雑なエロ・グロ・ナンセンスの世界であった。それと背中合わせに想像を絶するような貧困があることを薄々と知りつつも、それには目をつぶるか、ちょっとした調味料くらいに見ていた。
だから彼らは上海の時代背景が1期であろうと、2期であろうと、3期だろうと一向に頓着しなかったのである。肝心なのは時代の流れで没落し、苦海に身を落とした絶世の美女が目の前に現れてくれることだけだった。そんな彼らの心情を最もうまくすくい取ったのが金子光晴だ。金子は村松のように軽佻浮薄ではない。地べたに近い目線から状況を見据えている。だからといって金子に同感するものではないが。
唯一内山書店の店主(金子は内山を先生と呼んでいる)だけが時代を真正面から捉えていたと言っていいだろう。

すみません。あとから読んだ鹿地亘の「上海戦役の中より」が出色でした。この人は戦後民主主義文学の中では少しも評価されていないけど、不思議です。いずれ追跡してみたい人です。



ついで肥前国風土記の話。

瀬川さんは肥前国風土記の中に縄文語(≒アイヌ語)があるといい、それがヴォヴィンの研究の最大の功績だとしている。

もう一つついでに上げるなら、記紀にない景行天皇の九州征服譚が詳述されていることも、肥前国風土記の特徴としてあげられれることが多い。

いずれにしても、いくつか残存する風土記の中でもかなり特異な位置を占める風土記といえるだろう。

まずいちど、「風土記」というものを整理しておこう。

ウィキによると、和銅6年5月(713年)の『続日本紀』に各地の由来をまとめるよう指示した文書が掲載されているという。平城京遷都、古事記完成の直後である。日本書紀の完成はその14年後であるから、風土記の編纂は日本書紀の編纂と平行して行われたことになる。

写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。

ほかに後世の書物に逸文として引用された一部が残るが、信頼できないものもふくまれるようだ。

ということで、肥前風土記の記載に入る。

現存「肥前国風土記」の特徴

1.現存の本を簡略版とする見方が有力

2.『日本書紀』などの先行史料の影響を強く受けている

3.景行天皇や神功皇后の伝説と密接な関係にある説話や土蜘蛛・女性賊長にまつわる説話が多く、国名や郡名の由来については簡略に記されているに過ぎない。

ということで、かなりイデオロギー的なバイアスが強いことに注意が必要だ。景行天皇の件については先行する征服譚との習合とも考えられるが、読み方は難しい。

肥前国風土記では景行天皇となっているが、肥後国風土記(逸文)では崇神天皇となっていて、より嘘っぽい。
そこでは、「崇神天皇の頃、益城郡の朝来名峰で土蜘蛛の首魁、打猴・頸猴が180人余りを率いて天皇に背いたので、天皇は健緒組に命じてこれを討たせた。健緒組が八代郡の白髪山に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告したところ、天皇は火の国と名付けた」となっている。(仮称リアス式
これだと、天皇は大和から出張ってきたというより、筑紫あたりにましましている感じである。

風土記に頻出する「土蜘蛛」は縄文人との関係で面白い。

おそらく弥生人が水田、縄文人が海と山という形で住み分けしてきたのが、権力による集中支配という形に移行する際に、縄文人が抵抗を試みたのではないかとされる。

しかし、女性(シャーマン?)が族長を務める場合が多いということから、邪馬台国型権力と大和朝廷型政府の衝突の可能性も考えておく必要がある。

以下、脱線して土蜘蛛の勉強に移ろうと思う。

出雲と東北のエミシ

瀬川さんの本でわかりにくい部分がある。

現代日本人のゲノム分析に触れた部分である。

東北北部の人は、本土人からはやや偏った遺伝子的特徴を見せています。ただしそれはアイヌとの関係を示すものではなく、むしろ出雲地方の人々と似ています。
斎藤成也は東北地方と出雲方言の共通性に注目し、この2つは弥生時代の一時期にかけて渡来した人々ではないかとしています。

むかし松本清張の「点と線」だったか「ゼロの焦点」だったかに「出雲ズーズー弁」のことが載っていのを覚えている。

「しかし、そこまで話を持っていくか?」という気もして、瀬川さんも岩波ジュニア新書『日本列島人の歴史』の記載をなんとなく紹介しているだけなので、紛らわしい記載になっている。


斎藤成也さんは57年生まれだから、米田さんより一回り上。同じ東大の生物を卒業され、米田さんのボスという関係にあるようだ。

ゲノム屋さんで一家をなした人らしく、それで啓蒙本にも手を出しているようだ。

「みんなの縄文」という膨大なサイトがあって、そこに斎藤さんのインタビュー記事がある(。テーマは「最新DNA研究と縄文人」というもの。

対談だから少々言い過ぎの傾向もあるが、要約を紹介する。

1.日本列島人の三段階形成モデル

現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるというのが「二重構造説」である。

私は、これを改変した「三段階形成モデル」を提示したい。つまり渡来民を第二段階と三段階に分けたものである。

三段階説

これは私のC系人説ないし第2縄文人説とそっくりだ。経路は朝鮮半島、時期は紀元前3~2千年ころ。

ただし、縄文人を駆逐して日本人の基層をなしたというのは“?”だ。Yハプロで見る限り、そこまでの影響力はない。拡散範囲は九州北部から瀬戸内海沿岸、そして北陸にかけての日本海沿岸というところではないか。

もうひとつ、C系人はもっと早く、場合によっては縄文人より先着していた可能性も否定はできない。これは古代朝鮮の歴史がもう少しはっきりしないと迂闊なことは言えない。

これについては稿を改めたい。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。

という一節があるが、斎藤さんの議論の特徴(大風呂敷)を示唆している。「核心」となる専門分野での発言は注目に値するが、辺縁分野での発言は相当眉に唾して聞かないと危ないということだ。

2.出雲方言に関して

第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されています。

さすがに、

言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

と語尾は濁しているが、“人類学における梅原猛”の素質は十分あると見た。医者によくいるタイプだ。いずれにしても、明確な根拠が示せない都市伝説的な「言語学」の迷宮にはあまり深入りしないほうがいいと思う。

引き続き瀬川さんの本から、抜き読み。 北海道の縄文人の主食は海棲哺乳類(アザラシ、オットセイ)だったそうだ。 米田穣さんという人が2012年に「縄文時代における環境と食生態の関係」という論文の中で発 表しているそうだ。 これは「同位体食性分析」という方法で明らかになったもので、古人骨のコラーゲンの分析を するとわかるらしい。 亡くなる前の10年間、主として食べていたものの成分が反映されるようだ。 ある意味で意外である。
モヨロ貝塚とか大森貝塚というから、わたしはてっきり魚や貝を食べ ていたのかと思っていたが、それはおかずみたいなものということだ。
縄文人はやることがでかい。 米田さんは、「北海道の縄文人が肉食主体であったのは、彼らがマンモスやオオツノシカに依 存していた旧石器時代人の伝統を受け継いでいたからではないか」と推測している。
なにか縄文人に対するイメージが変わった。縄文の暮らしは結構ダイナミックかつ戦闘的なのだ。むかし「 ギャートルズ」という漫画があったのが思い出される。

ネットで調べたところ、米田穣(みのる)さんは1970年生まれ。東大理学部生物学科を卒業し人類学を専攻されている。

「古人骨の同位体分析による食性復元」と「放射性炭素年代の高精度化」が研究分野で、前者については下記のごとく記載されている。

過去の人びとが環境にどのように適応してきたのかを、骨にのこされた化学的指標から復元する研究を行っている。とくに、タンパク質コラーゲンの炭素・窒素安定同位体比から、日本列島に暮らしていた人類集団を中心について研究を行っている。

「新しい分析手法でこれまで知られていなかった過去の人々の生活ぶりを明らかにしていきたい」というのが目標である。
ということで、2001年度の科研業績が以下の通り
噴火湾沿岸から出土した縄文時代人骨のタンパク質を抽出し、その炭素・窒素安定同位体比および放射性炭素の含有率を測定した。
その結果、北海道の先史時代人骨では炭素および窒素の安定同位体比が非常に高いことが示された。これは海産物から多くの割合のタンパク質を摂取しているためと考えられる。
同時に、放射性炭素年代でも陸上の哺乳類と比べて600年程度、見かけ上古い年代値が示された。これは海獣による海洋リザーバー効果が食物を通じて、古人骨に反映していると考えられる。
…内陸の縄文時代遺跡の人骨を分析したところ、個体によっては数十%のタンパク質が海洋リザーバーに由来している可能性が示され、サケなどの遡上性淡水魚の利用が示唆された。
放射性炭素年代の高精度化は土器の編年変化に比べると、はるかに大きな情報が得られる可能性もあり、成果に期待したいところです。
日本人の起源 5 北海道に暮らした人びとの食生活―北海道の続縄文文化と本州の弥生文化―
日本人への旅 食生態にみる縄文文化の多様性―北海道と琉球諸島から考える
縄文中期末の「人口激減」に関する同位体地球化学と形質人類学による総合的研究
などの論文(題名がいかにも“科研費狙い”っぽい)があるようだが、目下のところネットでの閲覧不能。

以前グアテマラの勉強をしたことがあったが、グアテマラでは依然人口の4割を先住民が占めている。人々は棲み分けを行っていて、先住民の地域ではほとんどスペイン語が通じない。

しかし純粋な先住民生活を送る先住民と同じくらい、スペイン風の生活に馴染んだ民衆がいる。彼らはラディーノと呼ばれる。メスティソ(混血)とほぼ同じ範疇となるが、もう少し複雑な感情の入り混じった表現である。

純粋な先住民はラディーノを通じて交易を行い、必要なものを手に入れる。だから、直接先住民を騙すのはラディーノである。しかし影にはラディーノにノルマを課す白人支配層がいる。ゲリラ戦争のときには、白人に雇われたラディーノ兵士が住民大虐殺の下手人となった。

このスペイン人・ラディーノ・先住民という構図が東北・北海道の縄文人社会にも当てはまるのであろう。

こういう視点でながめると、アテルイで有名な奥羽のエミシの反逆は、スペイン人vsラディーノという構図で見るべきであろう。

ふつうラディーノは支配者とは戦わない。飼い犬が手を噛むようなもので、飼い犬が飼い犬でなくなってしまう。

世上、奥羽戦争は大和朝廷による東北侵略と見られている。だがそうだろうか?

エミシといっても。自分の墓を前方後円墳で立てるような人々だ。既得権のいくばくかを奪われたからといって、自分の存立基盤を崩すような戦いをするだろうか。

ひょっとして、奥羽戦争はエミシの首長の方から仕掛けた戦争ではないか?

バイリンガルであることを活かして北方交易を一手に独占していた彼らには、長年の間に相当の財力が備わってきていたはずである。

であればその財力に見合った相応の地位も欲しくなろうというものであろう。とくに「日本人として平等に扱え、二級国民として見下ろすな」という要求は絶対出てくるはずだ。

奥羽戦争が敗北に終わると、こんどはもっとおとなしく自治要求みたいな形の運動に変わってくる。それが奥州安倍氏のような形に結実していくという流れで捉えると、話がずっと見えやすくなってくる。

あるいは平将門の反乱や、関東源氏の勢力拡大も同じ流れで説明できるのかもしれない。

これはラテンアメリカの歴史ではクリオージョの反乱として知られている。スペイン人が支配者であることは変わりないのだが、その中でも現地で代を重ねたスペイン人はイベリア半島から交代でやってくる代官の支配に飽き飽きしていた。

そして本国で政変が起きたのをきっかけに、一斉に反乱に立ち上がっていく。この「独立運動」は成功を収め、新大陸の殆どが共和国として独立していくのである。

鎌倉幕府で頼朝を支えた御家人の坂東武者が、あるいはこのクリオージョ、あるいはラディーノに相当するのかもしれない。

年表作成にあたり 釧路散策 - 石炭列車のある風景 

というページから貴重な図表を拝借させていただきました。ほかに釧路市のホームページ方も転載させていただいております。ぜひそちらもご覧いただくようお願い致します。


1856年に北海道で初めて、益浦岩見ヶ浜のオソツナイ海岸に露出している石炭が掘られる。当初は釧路炭田と呼ばれる。石炭に海水が混じるためまもなく採掘中止。

1871年(明治4) 工部省は、オソツナイの石炭坑を官営事業として再開。翌年廃止。

coal
釧路は石炭の上に乗った街。掘ればどこでも石炭が出てくる。日本における石炭採掘技術の現状より

1857 白糠町の石炭岬で採掘が始まる。外国船の燃料にするためといわれる。

1888年(明治21年) 春採湖南岸の春鳥炭山(大成坑)が開設。川湯の硫黄の精錬や輸送に用いられた。石炭は坑口から駄馬によって丘を越えて久寿里橋付近の船着場まで運び、川舟に積み替えて標茶へと運搬されました。

春採炭鉱

1890年(明治23) 春採炭鉱に大安坑が開かれる。明治43年に小成坑が開かれる。

1891年 『北海道鉱床調査報告』が発表される。釧路炭田の臨海部に位置する別保炭山に注目が集まる。

1893年(明治26) 春採湖の西岸の沼尻から米町(米町本通)を経て貯炭場に至る「米町公道貫通軌道」(約2Km)を敷設。“安田の馬鉄”と呼ばれる。

馬鉄
          
釧路散策 - 石炭列車のある風景より

1894年 函館~釧路~霧多布間に定期航路が開設。

1896年(明治29) 川湯の硫黄の輸出事業が停止。春採の炭鉱事業も停滞。

1897年(明治30) 日本郵船と春採炭鉱との間に納炭契約が結ばれる。

1901年 春鳥炭山が安田炭礦と改称し発足。

1906年 昆布森炭鉱が開業。(昭和41年に再開?)

1906年(明治39) 別保川沿いに別保炭山が開発される。シュムスカルベツ川沿い(別保一鉱)で山形炭鉱(後に釧勝興業)が操業開始。

1907年 クッタクンペ川沿いの二鉱は大阪炭礦が開発。こちらは当初より不振が続いたという。

別保炭山

1914年(大正3年) 春採の安田炭礦が販売不振から休山に至る。

1916年 三井鉱山、釧路~厚岸間の官設鉄道が開通することを受け、別保の大阪炭礦を買収。三井鉱山釧路炭鉱と改称。

1917年(大正6) 大阪の資産家、木村久太郎が安田炭鉱を買収。木村組釧路炭礦が操業を開始。折からの第一次世界大戦景気の中、一気に業績を回復。蒸気で動かす巻揚げ機を取り入れるなどで生産性を上げる。

1919年 木村組釧路炭礦、輸送ルートを変更。春採湖南岸を開削して馬車軌道を敷設。「米町公道貫通軌道」を撤廃し、米町裏の海岸沿いに複線の馬車軌道を敷設。知人の貯炭場に搬入する。ここから船着き場に行かず、はしけで直接船に積み込む。

木村組

1920(大正9) 別保の三井鉱山が春採の木村組炭鉱を引き継ぎ、太平洋炭礦株式会社(三井系)が創業。

1923年 春採第一斜坑開坑。翌年には別保坑でも斜坑開坑。

1923年 太平洋炭礦(初代)が桂恋炭砿を買収。

1923年 入舟町-東釧路間をつなぐ釧路臨港鉄道株式会社が設立される。25年より営業開始。

1925年 太平洋炭礦別保坑、地表近くの採炭を終え斜坑を開く。

臨港鉄道

1938年(昭和13) 太平洋炭鉱が新尾幌炭鉱で増産体制に入る。八千代炭礦、旭炭礦を買収。6年ほどで資源枯渇し閉山となる。

1939年 武佐斜坑が開かれる。低品質で産炭量が少なく4年後に廃止。

1940年 太平洋炭鉱の出炭量が年間100万トンを超える。

1944年 政府の方針で別保坑は休坑となり、鉱員は朝鮮人労働者と共に九州の三井炭鉱へ強制配転される。

1947年 太平洋炭鉱、カッター、ローダー、シャトルカーを配備した興津坑を開設。社運をかけ海底炭の開発に着手。

1849年(昭和24) 別保坑が枯渇し廃止される。設備・スタッフは興津へ移動。

1954年 坑内ガス爆発が発生し、39人が死亡。

1955年(昭和30) この頃から、掘削の主体は海底に移る。南北に走る斜坑「春採坑本卸」の東西に坑道が広がる。

1959年 別保坑周囲の小炭鉱も閉山。双河辺一帯は新興住宅地となる。

1960年 太平洋炭鉱の出炭量、20年ぶりに年間100万トンを達成。

1962年 太平洋炭鉱がビルド炭鉱に指定される。

1963年 臨港鉄道が旅客、手荷物、小荷物の運輸営業を廃止。

1965年 春採~知人間の石炭専用列車に「石炭排出扉自動開閉装置取付セキ号車」編成による「シャットル・トレイン方式」を採用。

1965年 益浦斜坑の開発が始まる。益浦海岸は最初に石炭露頭が発見されたところ。

1965年 栄和炭鉱の深山新坑(昆布森)が操業開始。7年後に閉鎖。

1968年 東益浦部内で機械化のシンボルとも言うべき「SD採炭」が始まる。年間の石炭産出量(出炭量)が200万トンを越える

1060年 太平洋スカイランド本館が開業。

1970年代 第5本坑道に沿って東から西へ採炭現場が転ずる。「第8本坑道」の開削に着手、採炭機械にダブル・シールド・ドラムカッターが導入される。産出量は250万トンに達し黄金期を迎える。

1977年 太平洋炭鉱が最大規模となる。

従業員約5,000人を数え、年間261万トンの石炭を出荷した。鉱域は東西約12キロメートル、南北約10キロメートルの広さで、採炭現場は、海面下-585m、海岸線から沖合6km。坑道の総延長は約240キロメートルにもなりました。

1985年 太平洋炭鉱が国内唯一の稼働炭鉱となる。

1991年 「第8本坑道」が開通。東益浦部内と南益浦部内での採炭は終了。中央西部内と知人部内に採炭の中心が移る。

1996年 社員を500人解雇。東京本社を閉鎖する。

2001年1月 知人部内の旧切羽で自然発火。これを機に炭鉱は閉山の方向に動く。この時点で採掘現場は海面下-684m、海岸線から沖合8kmまで達する。

2001年12月 国内最後の太平洋炭鉱が閉山。第6本坑道(海面下580m)と第8本坑道(海面下675m)は密封され、比較的浅い第5本坑道が残される。

2002年1月 地元企業出資の新会社「釧路コールマイン株式会社」が発足。太平洋炭鉱を引き継ぐ。国の事業を受託し、中国、ベトナム等の海外産炭国を対象として、技術者の受け入れや、技術者を現地に派遣する炭鉱技術の研修事業を実施

2015年 釧路コールマイン株式会社の石炭を活用した釧路火力発電所が設立される。2019年の運転開始を目指す。

2017年04月08日 縄文語、弥生語、現日本語、現アイヌ語の関係

の記事で下記のごとく書いた。

弥生人はそもそも縄文人と長江人の混血である。それは紀元前800年ころ、北九州から始まり徐々に全国に拡散していく。その過程の中で弥生語も形成されていく。

しかし、これは単純すぎる。たしかに稲作技術を持って日本に流入したのは長江人(O2人)であるが、彼らが渡来したとき長江語をしゃべっていたかというと、かなり疑問がある。

同じ長江人の後裔である苗族(モン族)と言語的特徴が全く異なることがその理由である。

また彼らは、直接には朝鮮半島からの移住者として渡来したのであり、当時の朝鮮半島南部で流通していた言語を母語としていた可能性が否定出来ないことである。

第二には、その際に朝鮮南部で流通していたのが古朝鮮語系なのか、扶余語系なのかという問題である。

第三に、対馬海峡の両側に住み長江人の渡来を受け入れた第二縄文人(Y染色体分類上のC系人)が弥生語の形成に関与した可能性はないのかという問題である。

これらは、私にとっては謎に包まれたままである。

これらを検討するには古朝鮮語、扶余語、さらには例の「ツングース語」との関連を分析することが必須となっている。

どっちに転んでも日本語が「孤立語」であるのは間違いなさそうだが、縄文語の孤立性に比べれば、まだ何らかの関連は探し出すことが可能ではないだろうか。

以下は、ヴォーヴィンという研究者による論文の抜書である。

萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布_AlexanderVovin

はじめに

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑である。

ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点ににある。

今回は主にアイヌ語から日本語への借用語を検討する。さらに上代日本列島におけるアイヌ語の分布について考える。

伝統的な意見は、「上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どない」というものである。

 しかし、以下で示すように、アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたということは、もう定説になったと言ってもいいであろう。

地名はいうまでもなく、東北の方言には「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある。


①武蔵

ムサシは万葉集の東国歌では「牟射志」として登場する。発音は“munzasi”である。これはアイヌ語で mún「草」、sa「野原」 、-hi 三人称所有接尾辞(日本語では -hi は -si になる)である。

②足柄

東国歌では「阿之賀利」/asiŋgari または「安思我良」/asiŋgara として登場する。áskar-i は「清い所」である。

③能登

「能登」(上代日本語 nötö)は日本語では解釈でき ないが、アイヌ語の not「岬」である。上代日本語には閉音節がなかったので反響母音ö が付いたと思われる。

こう考えていくと、我が故郷静岡は縄文地名だらけだ。ゆい(由比)、そでし(袖師)、えじり(江尻)、くさなぎ(草薙)、するが(駿河)、てごし(手越)、わらしな(藁科)、もちむね(用宗)、とうめ(当目)、やいづ(焼津)、しだ(志太)などいかにも当て字の意味不明地名がオンパレードだ。
そのど真ん中に「日本坂」があるのが、いかにもだ。

このあとさらに地名考が続くが、“とんでも韓国人”も真っ青の牽強付会も混じってくるので飛ばすことにする。

Windows10 を64ビットにして見えてきたことがある。
最大のものは、恥ずかしながら、増設メモリーが外れていたことだ。
32ビットではメモリーを増設しても4ギガまでしか使えないと言われていたので、4ギガと表示されてもそういうことなのだろうと納得していた。
しかし実はとうの昔にメモリーを4+4=8ギガまで増設していたのである。昨日は64ビットにバージョンアップしたところで疲れ果てて、そのまま寝てしまったのだが、今日パソコンを調べると相変わらずメモリーは4ギガのままだ。Firefoxがフリーズするのも以前のままだ。
「これは変だな」と思いつつも、「それじゃメモリを買ってこなくちゃ」という方に話が行ってしまい、まさかメモリが刺さっていなかったとは思いもよらなかった。
ところが裏ぶたを開けてみてびっくり。なんと2枚買ったメモリのうちの1枚が容器の中で遊んでいたのである。
「これはだめだ」と笑ってしまった。
ということで抑え金具が折れてしまうのではと思うくらいメモリを思いっきり差し込んだ。
そこで再起動してコントロールパネルと見るとなんとしっかりとメモリ8ギガと表示されている。これで一つは片付いた。
ところが8ギガにメモリを上げたにもかかわらず、Firefoxは相変わらずハングアップする.そこで今度はFirefoxの6ビット版をダウンロードして立ち上げた。ありがたいことに32ビット版の属性はすべてそのまま引き継がれた。
これがどうなるかは明日のお楽しみとしよう。

Why isn't there a 64 bit version of Foobar2000 ?
という掲示板があって、46通も意見が寄せられているのだが、会社からのリプライは無し。ただしこれは2008年のスレッドで、その頃のパソコンのレベルとはだいぶ話が違うので、参考にはならない。
英語の壁とテクノ・タームの壁でよく分からないが、圧縮ファイルの再生のときはデコーダーというのを使うが、これは32ビットで十分だそうだ。「64ビットのWindows10にもちゃんと対応できているからそれでいいじゃん」ということらしい。ただしEncoding には64ビットがそれなりに力を発揮するようで、とくにWAVをFLACに変えるときはあると重宝するらしい。それで、64bit wavpack in foobar2000 for encodingというのがあるらしいのだが、これがトラブル続きらしい。まぁ素人が手を出す世界ではなさそうだ。

2017年03月30日に「瀬川拓郎さんの縄文・アイヌ論について」という記事を書いた。あれは1回目のつもりで2,3と続くつもりだったが、多忙に紛れてそのままになっている。

これから読後感を少しづつ書き込んでいくことにする。

1.縄文語、弥生語、現日本語、現アイヌ語の関係

言語学というより、民族の構成の変遷から見て、言語はこう変わって行っただろうという予測が立てられる。

まず1万数千年前に北方から旧石器時代人が進入した。これが縄文人となり、北海道から沖縄まで広く分布する。

縄文人の単一構成であるから、言葉も方言という範囲での多様性はあっても、基本的には縄文語が日本全国の共通語であっただろう。

しかし縄文時代に日本に進入したのは北方からの縄文人ばかりではなかった。紀元前3千年ころに、朝鮮半島から進入した人々(第2縄文人)もいた可能性がある。

彼らはY染色体ハプロはC系の人々であり、ハプロD系である先住縄文人とは異なり、オホーツク人に近い。ただし彼らの人数は少なく(約1割)、言語的には縄文語に吸収されたと思われる。

紀元前800年ころから長江人の流入が始まる。彼らの最初の定着地は北九州を中心とする同心円状の地域であり、水田耕作の拡大に伴い、急速に人口を増し、言語学的影響も強めたと思われる。

そのハイブリッドが弥生語であり、これが現代日本語の原型となっていったのであろう。ただし今の私にとって、長江人がどのような言葉を喋っていたのかは不明である。また第2縄文人(ツングース語系)の影響についても不明である。

続いて、紀元前100年ころから、扶余系(天孫族)が進入を開始する。Yハプロで言えばO-2系人である。彼らは支配者として君臨したが数としては多くなかった。

おそらくは弥生語に多少の変化を加えて現代日本語を完成させたのであろう(現代と言っても万葉語であるが)。

いずれにしてもその後は民族構成の変化をもたらすほどの激変はなかったはずであるから、多少の音韻変化はあるにせよ、日本語としての言語構造は変わっていないはずである。


と、まぁ、ここまでは復習半分である。

縄文語から日本語への転換が東北北海道でどう展開されていったのか、どうしてアイヌ語がアイヌ語として残ったのかというのが、今回の主題だ。

これも、いきなり言語学的に行くよりは人種的に見ていくほうが良いだろう。

弥生人はそもそも縄文人と長江人の混血である。それは紀元前800年ころ、北九州から始まり徐々に全国に拡散していく。その過程の中で弥生語も形成されていく。

形成された弥生語の拡散は縄文人との混血化のスピードより早い。生産技術がより高いから縄文人もそれを学ぶ。

したがって一定の時間が経つと、3つのゾーンが形成されることになる。まずは弥生語を話す弥生人の世界である。ついでその外側に弥生語を話す、すなわち弥生化された縄文人の世界が形成される。そしてさらにその外縁に縄文文化を守る縄文人の世界が広がる。

さらに外側には、北方(オホーツク)文化との接触を持つ縄文人の世界も形成されていくのだが、それはいずれ語ることになるだろう。

瀬川さんはこの中間帯を混住地帯という。混住はしているが別言語の別文化だ。しかしこれはいずれ強いものに同化されていく。関東甲信越以北は基本的にはこのやり方で弥生化され、和人化されていく。

その際、言語の転化は最終的・決定的な役割を果たすだろう。

それでは民族の同化はどのような過程をたどるのであろうか。

多分、それについては専門的な研究があるであろうが、とりあえず自分なりに考えておきたい。

用具は最も早くから変わっていくだろう。

東北・北海道の弥生式土器はかなり遅れた。北海道では続縄文式と呼ばれる時代が長く続いた。それが弥生式を一気に飛び越して須恵器・土師器の時代に入る。これが擦文式に相当する。これと同時に多量の鉄器が流入し始める。この遅れと、その後のジャンプアップについてはいろいろ理由があろうが、それはとりあえずおいておく。

次に生活物資の生産様式が変わっていくだろう。

ここで東北と北海道には明らかな違いが生じる。東北は農耕社会に移行し、北海道は基本的には狩猟・採集社会に残されたのである。

生産システムの違いは社会システムの違いを生み出す。東北は階級社会に移行し、北海道は基本的には氏族社会にとどまったのである。

社会システムの変更が社会の隅々にまで行き渡れば、すでに同化したのも同じであるが、残された政治・経済体同士の対立は残る。その総決算として東北におけるエミシの抵抗戦争が起こったのであろう。

かくして東北の縄文人は完全な和人化を遂げ、北海道のアイヌは半和人化の状態に留まったのである。おそらく東北の縄文人はそのご弥生人との混血を遂げ、外見的にも和人そのものになっていく(そもそも和人そのものが長江人と縄文人のハイブリッドである)が、北海道の縄文人は遺伝子的には縄文人そのままに生きながらえることになったのであろう。またアイヌ語は縄文語の古形を色濃く残していることになるだろう。


以上の仮定からすれば、日本語の中にも縄文語の遺残が濃く残されているだろうし、特に古くからの名前が残りやすい地名などでは、縄文以来のものが残されている可能性は十分あるだろう。

それらをアイヌ語を手がかりにチェックしていく作業はなかなか面白いものになりそうだが、いずれなんかの機会に検討してみたい。

「私はダニエル・ブレイク」を観てきた、という事実だけを書いておく。
ちょっと設定がウソっぽいのと、展開の必然性が書き込めていないような気がするのだ。
最後のシーンも、いかにもありきたりだ。
私はイギリス映画がちょっと苦手で、イギリス人のユーモア精神の塩っ辛さがどこか合わない。ふと20年位前に見たハービー・カイテルのブルックリンのタバコ屋の映画を思い出した。アングロ・サクソンの感性がピンとこないところが似ている。
ヘイリ・スキアーズという女優がキリッとして魅力的だ。見せ所もいくつかあって、なかなかうまい。娘役の子もいい感じだ。ドレッドヘアーだが、目鼻立ちは東洋風にも見える。
一番の主役は窓口の役人たちかもしれない。それにしては、描き方があまりにも類型的だ。個性をもう少し書き分けると、その上にいるものたちの影がもう少し見えてくるのだろうが。

ブルックリンのタバコ屋の映画というのが気になったが、「スモーク」という映画があって、そのあらすじを読んでもどうも心当たりがない。たしかちらっとマドンナが出てくるので、それを手がかりに探してみると、「スモーク」の続編みたいな映画で、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というのがあったようだ。多分2本立てで、何かのついでに見たのだろうか、そちらについてはまるで覚えがない。

本日はパソコンいじりの第二弾。Epson のプリンターを買ってきた。
いつも思うのだが、プリンターというのはどうしてこんなに安いのだろう。複写ができて画像ファイルとして保存できるだけでも、もう一つ機械を買ったような気がするのに、ハードコピーまで出来てしまって7,8千円で揃ってしまうというのは実に不思議なものだ。
ただしインク代はべらぼうに高い。結局インク代で元をとっているのだろうなと想像してしまう。しかも使い終わったら捨てるしかないというのが、いかにももったいない。
PX-049Aというのにしたのだが、20台買ってもパソコン1台分だから、気に入らなければ買い換えればいいやという感じ。
そのわりには色々とアヤがついていて、WiFiを使えとしつこく迫ってくる。コード1本つなげればいいだけの話で、A4を2,3枚印刷するだけの話だから、手を伸ばせばプリントが見られるのが一番だ。そんなところに無線など必要ない。たしかに電線が増えて見た目は煩わしいが、所詮はプリンターの存在そのものが煩わしいのだ。
画像処理ソフトとか、いろんな付録がついてくるが、それこそ煩わしい。しかしエプソンについてくるOCRソフトは意外といいのだ。前からそう思っている。
話を戻す。
私がプリンターを買った主要な目的は印刷機能ではない。スキャナーが欲しかったのだ。このブログでは以前から赤旗の切り抜きを直接画像にして記事内に挿入している。
これは勤め先でプリンターがあったから出来たことで、これから自宅で記事づくりをやるとなると、どうしてもこれが必要になる。
さらに記事を写真として取り込んだあと、輝度の調整コントラストや色度の調整をしないと読みにくくなる。だから画像処理ソフトはどうしても必要なのだ。ただし機能はきわめてシンプルのものであることが求められる。
むかしから使っていたのがirfanviewだ。それ以外のソフトは面倒で手が出ない。当面は(多分死ぬまで)これでやっていく。(IrfanViewを使いこなそうは素敵なページだ)
mildseven
これが新プリンターによる第1号写真。

退職して6日、早くも怠惰モードというか引きこもりモードに突入している。
最大の理由は、退職の記念品としていただいたパソコンの稼働に四苦八苦しているからである。
このパソコンはThinkPad Edge という。私が就職するときに貸与されたものである。キーボードの脇にシールが貼ってあって、「H22.7.12」納品と書いてある。思えば7年近く酷使してきた「愛器」である。
昔なら5年も使えば“Out of Date”なのだが、昨今は世の中停滞しているから平気で現役だ。
これにLANケーブルを接続してネット環境としていたが、家に持って帰るとさすがに今どき有線LANではない。WiFi環境に適合してもらわなければならない。
ところがこれがからっきしだめで、Deviceを見るとつながるはずなのにまったくうんともすんとも言わない。Lenovoのサイトからダウンロードしたりいろいろ試してみたが、にっちもさっちもいかなくなった。パソコンに強いお兄さんの所に行って頭を下げたが結局駄目だった。
火曜日に決意して電気屋さんに行って修理を頼んだ。おそらく2,3万はかかるものと覚悟していた。ところが電気屋の兄さん、ちょっといじってみて「これはだめだ」とのご託宣。すると「お客さん、修理に出すなら外付けでしのいだほうがいいですよ」ということになった。
売り場からみそ汁の豆腐を半分にしたくらいのツールを持ってきてUSBにつないだ。「バッティングしなければ良いが」と言いつつ再起動すると、みごとにWiFiの候補が並ぶ。
「無線LANの子機」というのだそうだ。定価わずか2500円。「あまり早くはないんですけどね」というのだが、これまでの有線LANよりはるかに速い。今までがいかに劣悪なLAN環境であったかが実感される。
「これで良さそうですね。あとは家に帰ってつなげてみてください。だめならまた考えましょう」と家に帰って、パスワードを入れるとみごとにつながった。2日間かけた難題はこうやってあっけなく解決した。

本番はそのあとだった。
次が32ビットから64ビットへのバージョン・アップ。このために本日朝8時から夜の11時まで15時間を費やした。Output48さんのページを参考にして作業を開始したが、難関が何箇所かある。
①まずWindows10の32ビット版にアップグレードして、それから64ビット版へとアップグレードしなくてはならない。
後になって64bit版でアップグレードできた事を知り、パソコンを確認したら64bit OSに対応していたので、早速、Windows 10 32bitをWindows 10 64bitに変更してみた。
結果オーライだが、Windows7を10にアップグレードしてからでなければ、32を64にはできないということだ。ただというのは、「ただほど高いものはない」というほどではないが、決してただではないのだ。
②起動ディスクを作るのに3時間かかった。SDカードでもよいと思うのだが、USBメモリースティックでなければだめだというのだ。少なくとも4ギガ以上の容量がないとだめだということで、それから電気屋さんに走って、買ってきた。
「他のPC用にインストール メディアを作る」を選択する。
というのが、実は曲者で、アップグレードしようとしているパソコンで作った起動ファイルはうまく動かないのだ。もう一台のパソコンで作るというのが、肝である。これが分かるのに2時間を要した。
③どうやら起動ディスクができたが、今度は起動ディスクを立ち上げるためのBIOSの変更に戸惑った。各種のレポートはそれこそ千差万別であり、機種が変われば品変わる、ということだ。一言でいえば「参考にはならないが気にはなる」という具合である。
私のパソコンのBIOSは買った時のままであり、いろんな説明を見てもBIOSの操作法が全く違う。「今浦島」の心境になった。
しかしBIOSの更新は下手をすれば機械が壊れるというリスクをしょっている。どうしようかと悩んだとき、たまたまどこかの大学のホームページで古いBIOSでブートする方法が載っていて、それで起動ディスクによる起動ができた。
ただし今になって考えると、それはBIOSの問題というよりは、起動ディスクの作り方が間違っていたせいのようだ。
④もう日は沈み、あたりは暗くなっている。起動ディスクによる立ち上げは順調に進み、あと一歩でWindows10-64ビット版がインストールというところまで行った。
だが、ここでどんでん返しが待っていた。Output48さんのページでいうと、OSインストールの手順の8から9の間のところだ。
「ディレクトリーが作れません」ときたものだ。コラムは三択になっていて、ドライバー0のパーテーション1,2,3のどれかを選ぶ仕掛けになっているのだが、どれを選んでも結果は同じ。
ほとんどあきらめかけたところに、どこかのページで「パーテーションは全部つぶしてのっぺらぼうのディスクに書き込まなければならない」と書いてあったのをみつけた。
これは相当怖い話で、三つに分かれていたプログラムを全部フォーマットしなければならない。もし失敗すれば、このパソコンは全く空っぽの箱になってしまう。「まあその時は製品版のWindows10を買うまでだ」と心に決めて全部消した。そして起動ディスクを「えいっ」と走らせた。
なんと動いたのである。
⑤Windows10 64ビット版のインストールが始まった。「あとは治まるところにおさまるだろう」と嫁さんの夕食介助に取り掛かり、ついでに自分の飯(といっても肉まん1個)も済ませて再びパソコンの前に座ると、何たることか、立ち上げプログラムがハングアップしているのである。
それもつまんない話で、マイクロソフトのサインアップ画面がフリーズしているのだ。「キー番号を入れろ」というのだが、そもそもそんな話聞いたことないし、前にも後へも進めない。
とにかく強制終了して再起動してもその画面に戻るので、さすがにこれには参った。もうこのパソコンを捨てるしかない、とあきらめてシャットダウンした。これが夜の10時。
これまで使ってきたパソコンを持ち出してまたセッティングして仕事を始めた。そして30分ほどしてから、未練がましくもう一度スイッチを入れてみた。
なぜか動くのである。そして何回か「次へ」とかなんとか押してるうちに、突然Windowsが立ち上がってしまったのである。
「まさか」と思いつつ、コントロールパネルからWindowsのバージョンを調べてみた。なんとすごいことに、まさにWindows10の64ビット版が立ち上がっているのだ。
いまだにどうしてこのようなことになったのか、自分でもわからない。きっと神様が私のことを不憫に思ったのだろう。
さすがに早い。メモリー増設の効果が初めて体験できた。
Output48さんのページに書かれていない四つの教訓
1.起動ディスクはほかのパソコンで作成すること。
2.BIOSは怖くはない。
3.パーテーションはすべてチャラにすること。
4.マイクロソフトのサインアップは1回電源を落として機械を冷やすと回避できる。
こうやって教訓を垂れることができるのも、成功したおかげだ。もし敗北のまま終わっていたら2,3日は立ち直れなかったろう。
ただ、これだけの苦労する意味が本当にあったのだろうか、とも思う。

「銀座カンカン娘」は昭和24年に上映された同名の映画の主題歌だ。歌がヒットしてそれをネタに映画が作られるというのはよくある話だが、こちらは正統な主題歌だ。

監督は山本嘉次郎、話の泉だったかトンチ教室だったかの常連だった記憶はある。

「カンカン娘」につてはよく知られた逸話がある。これは山本嘉次郎の造語であり、当時の売春婦の蔑称「パンパン」に対して「カンカンに怒っている」という意味だそうだ。

つまり体を売る女性を非難しているのではなく、そうしないと生きられない戦後の世情に対して腹を立てている気持ちを表現したものだそうである。

最初はパンパンというのは米兵相手の売春婦である。それが売春婦一般にまで広がっていくのだが、24年という年がどういう年であったのかはよく分からない。

チリチリのパーマに真っ赤な口紅、派手なカーディガンを羽織って、素足にサンダルというのがお定まりであった。

それが昼日中に銀座の街を闊歩するというのだから、たしかに異形である。皆が眉をひそめるときに銀座生まれの銀座育ちという山本嘉次郎が、「いいんじゃない」と声を上げる、それが銀座のカンカン娘である。

そこには「あんた、そんなこと言えた義理かい」という鋭い切り返しがある。

私は前稿で挙げた賀川豊彦のセリフが頭に浮かぶ。それは「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」と言い放つ賀川への痛烈なしっぺ返しであろう。

この歌の三番には密かにその刃が忍び込まれている。

指をさされて カンカン娘
  ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家がなくても お金がなくても
  男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘

家がなく、お金がなく、人に指を差されて、ナニクソと虚勢を張って、それでも「あの子可愛や」と言われたくて、というのがカンカン娘(数年前まで大和撫子だった)の心の中である。

家がなくお金もないのは私のせいではない。人を戦争に巻き込んで無一文にして置きながら、頬っかぶりしているあんたたち世間のせいだよ。

「男なんかに、だまされまいぞよ」と言うのは「もう二度と」という意味で、騙されたからこうなってしまったのであって、騙したのは他ならぬ日本政府である。

もっと直截に、そこを非難したのが、「ブラウスの腕をまくり 卑屈な町をのし歩いた」茨木のり子の、わたしが一番きれいだったときだったのだろう。

それにしても、家もお金もなくて「雨に降られて カンカン娘 傘もささずに 靴までぬいで」この娘はどうしたのだろう。

2015年04月06日  もご参照ください。


多分、リンクを辿ってくれる人はそう多くはないだろうから、茨木の歌を再掲しておく。

わたしが一番きれいだったとき

…わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

ついでに

jibunnnokanjusei

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

引き揚げ、浮浪児と扱ってくれば売春婦の問題もどうしても扱わなければならない。

比べてはいけないのだが、それは韓国の従軍慰安婦の数よりはるかに大規模で深刻な社会問題だった。にも関わらず、そこには同情よりも反感を含んだ沈黙が支配していて、今や闇の底に沈んでいこうとしている。

客観的な事実をしっかり踏まえた上で、安易な感情に流されず、かつ目を背けないようにしなければならない。

まずは例によって年表形式で(差別用語とされているものも使うことになる)

1945年

8月18日 内務省が「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達。

9月 特殊慰安施設協会が朝日・毎日新聞・東京新聞に連日の募集広告。「国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム」との内容。

公的指定を受けたRAA(Recreation and Amusement Association)では5万3000人の女性が働いていたとされる。(非公式の推計)

1946年(昭和21年)

1月 東京でMPが「狩り込み」(売春女性の検挙)をはじめる。

3月 連合国軍東京憲兵司令官が「オフリミッツ令」を発する。RAAが廃止される。

その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けがだされている。

11月 板橋事件が発生。MPと日本の警察が通行中の女性を無差別に逮捕して膣検査を行う。

1947年 田村泰次郎の小説『肉体の門』が発表される。

8月 賀川豊彦、『婦人公論』に寄稿。「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンは「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と書く。

1948年 溝口健二監督の映画『夜の女たち』が上映される。

1950年 朝鮮戦争が始まる。日本人慰安婦も朝鮮半島へ連れて行かれたとされる。在日米軍将兵を相手とする街娼は15万人に及ぶ。


ここまで書いただけでも、問題は相当複雑だということがわかる。

1.きっかけは内務省筋で、婦女が危険な目に合わないように、占領軍に前もって女をあてがえという考えだ。

2.しかしその手の女性では到底足りないだろうと、素人女性を騙してその務めに当たらせようとした。ここにすでに階級的視点が露骨に示されている。守るべきは「良家の子女」であり、普通の市民はそのための「醜の御楯」でしかない。

3.占領軍はそれを黙認するどころか督励さえした。そして黒人用、一般兵士用、高級将校用(すなわち自分オンリー用)に分けるようもとめた。内務省は得々としてそれに従った。最近の流行り言葉で言えば“忖度”したのである。

4.にも拘らず、米軍兵士の性欲はそれで押しとどめられるものではなかった。各地で目を覆うような性犯罪が続発した。そして民衆は目を覆ったのである。事件の殆どは闇に葬られた。

5.MPはこれらの暴行に対して見て見ぬふりをした。そして兵士が性病にならないようにのみ意を尽くした。板橋事件は日本人女性をすべからく潜在的性病患者と見ていたからこそ発生した。イスラム教徒ならテロリストだと見る昨今の風潮に通じる。瑞穂の国に性病を持ち込んだテロリストはお前だ!

6.国の施策として、米兵士相手のセックス・ビジネスを展開しながら、日本政府は「醜の御楯」となった大和撫子に対してはきわめて冷淡であった。彼女たちは捨て駒として扱われた。

7.日米両者の密かな育成政策の結果、「需給関係」は徐々に平衡に達するようになった。朝鮮戦争の最中、米兵士相手の女性は10万を超えるほどになった。

8.開き直った彼女たちは、社会のアウトサイダーとして一種の「パンパン文化」を形成した。彼女たちの財力とノンシャランさ、アメリカ文化の威光とは庶民にとってタブーの破壊であり、ある種眩しいものであった。戦後日本の庶民文化を語る上で、彼女たちの存在は避けて通れないだろう。


とここまではいいのだが、肝心の記事が見つからない。肝心というのは、ニヴフ以外にも物の本には色々な北方民族の呼び名が出てきて、それらがとりとめもなく垂れ流され散ることである。

一度これらの呼び名を整理したいと思うのだが、まとめて論じたものが見つからない。

仕方がないので、思いつくままに呼び名を羅列して、その名前でグーグル検索していくことから始めたい。

ウィルタ、ギリヤーク、オロッコ、ニヴフ、オロチョン


1.ウィルタ

Uilta_People

ウィキによれば、下記の通り

ウィルタ(Uilta): 樺太の中部以北に住むツングース系の少数民族でウィルタ語を話す。

「ウラァ(トナカイ)と一緒に生活する人」を意味する自称。

アイヌはウィルタを指してオロッコ(Orokko)と呼ぶ。ただしオホーツク人をまとめてオロッコと呼んでいた可能性もある。ウィルタ協会はこの呼称は蔑称だと非難している。

2002年(平成14年)のロシア国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイスク(旧敷香町)近郊に居住している。

もうひとつの日本文化(アイヌ文化)徒然ブログというブログによると

南樺太に居住して日本国籍をもっていた者は、敗戦後に北海道(主に網走市)へ移住した。ソ連が日本に協力した民族として追放したためである。1978年の時点では網走市に6世帯13人いた。

1975年に「オロッコの人権と文化を守る会」が設立、翌年12月にウィルタ協会が設立された(高教組が一生懸命応援していた。会の中心だった故北川ゲンダーヌさんの名前は私も憶えている)

genda-nu
 inevergiveupさんのブログから


2.オロチョン

先程のもうひとつの日本文化(アイヌ文化)徒然ブログに由来が書かれている。

一言で言えばオロチョンは「架空の民族」だ。

昭和25年に、網走市の観光行事として「オロチョンの火祭り」という催しが始められた。27年には伊藤久男が「オロチョンの火祭り」を歌ってヒットしている。奇妙キテレツな歌詞だが、ウィルタを念頭に置いているようだ。

ところがオロチョン族というのが、実際に存在するのだから話はややこしい。

本来オロチョン族は黒竜江、内蒙古地域に住む人口7000人ほどの少数民族。関東軍の特務機関が対ソ情報収集に当たらせた。特務機関は阿片を用いて工作したと言われる。

観光協会は「アジア地域の北方系民族を総称することばとして使われたことがあるため使用している」と語っているが、実際にオロチョン族とは無関係である。


3.ニヴフ

オホーツク人の後裔と目されている民族である。ニヴフが自称であるが、かつてロシア人によりギリヤークと呼ばれていた。ギリヤークは蒙古帝国以来の古称であるギリミ(吉里迷)の訛ったものとされる。

間宮林蔵はニヴフを「スメレンクル夷」と記している。これはアイヌ人の呼称で、「キツネびと」を意味する。

現在は間宮海峡を挟む両岸に居住する。人口は約5000人。うち半数強2700人ほどがサハリン島に居住する。

ニヴフ語は同系統の言語がない孤立した言語であり、アイヌ語ともツングース諸語とも全く異なる。

南樺太に住んでいたニヴフ人は、敗戦後にウィルタと同じく網走に移住した(させられた)。菅原幸助によれば、1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。


4.ツングース系語族

ツングースも本来の意味を離れて嫌韓派御用達の用語となっている。

ツングースという呼称はヤクート人がエヴェンキ人を「トングース」と呼んでいたことに由来するという。

シベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族を指すとされている。DNA的にはモンゴル系とほぼ相似である。

したがってウィルタはツングースに含まれるが、言語系統の異なるニヴフは含まれないということになる。

もともと、満州北部の民族が黒竜江沿いに北上し、各地に拡散したといわれる。しかしこれには多くの異説(珍説)があり、Y染色体ハプロ(C2系)との突き合わせが必要である。

オホーツク人

アイヌを語る上で欠かせないのがオホーツク人だが、あまり知られていない。というか、私は勉強してこなかった。

Y染色体から見れば、アイヌ人はかなり純系の縄文人だが、ミトコンドリアDNAからすれば、縄文人とオホーツク人の中間に位置するというのが特徴だ。

両者の差は、縄文人がオホーツク人を征服したことを意味する。駆逐したのでもなく、混住したのでもない。

文字には残っていないが、ここが決定的な勘どころだ。


まずはウィキで「オホーツク文化」の記事を読む。

1.「オホーツク文化」の定義

5世紀から9世紀までオホーツク海沿岸に栄えた古代文化。

人骨の遺伝子調査は、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性を示す。

『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力である。

2.時期区分

土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。さらにオホーツク文化に先行するものとして、樺太南西端の「鈴谷文化」(紀元前1世紀~)があった。

前期 5世紀から6世紀。オホーツク海沿岸、樺太の南半分におよぶ。十和田式土器を特徴とする。

中期 7世紀から8世紀。東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及ぶ。

後期 9世紀から10世紀。土器の様相が各地で異なる。北海道北部のオホーツク文化は消滅。13世紀には樺太でも消滅。

3.生活

北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点があった。熊などを狩り交易用の毛皮を入手した。

この生活スタイルから考えると、たしかにアイヌとの平和共存は難しい。

4.遺伝子

樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近い。

アムール川下流域のウリチ、カムチャツカ半島のイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有する。

ミトコンドリアDNAのハプログループY遺伝子をもつ。この遺伝子はアイヌ民族の2割に存在するが、縄文人や和人にはない。

人骨の形質学的研究によると、続縄文人や擦文人とは非常に異なった顔かたちをしていたとされる。

5.オホーツク人がいた頃の気候

400年頃~ 恵山グループが急に消失し、後北・江別文化のものが全道に広がってゆく。気候の変化(寒冷化)に伴うと考えられる。

600年頃~ 寒冷期が終わり、徐々に温暖化に向かう。

900年頃~ 温暖期が始まる。東北地方の稲作化が一気に拡大。エミシは狩猟民に特化し、大和政権との交易を拡大。

ゲノム分析から以下の結論が導き出される

①アイヌ人は寒冷期に東北~渡島に下った縄文人、すなわちエミシが再び北上したものである。
②アイヌ人が南下した後の北海道には、北方のオホーツク人、カムチャッカ人が到来し定着した。
③エミシは沿岸部に侵食し、ついで奥地へと分け入った。先住民たるオホーツク人は駆逐されあるいは制圧され、エミシの支配下におかれた。

これについての解釈は別記事を起こすこととする。

としつつ、光合成に埋没してしまったのだが、書棚に積んであった瀬川拓郎「アイヌと縄紋―もう一つの日本の歴史」(ちくま新書 2016年)を読んでみて、意を強くした。

縄文人の起原については細部に異論がないわけでもないが、縄文人再北上説については学ぶものが多い。

以下、該当部分(82ページ~)を抜き出していく。


西暦0年~ 気候が寒冷化。東北北部での水稲耕作が断絶。ほぼ無人の原野と化す。

300年~ 北海道の続縄文人が東北北部に南下。仙台平野と新潟平野を結ぶ線まで進出。「古墳人」との混住ゾーンが形成される。

この結果、続縄文人は狩猟と獣皮の交易に特化した。北海道には鉄器が大量に流入。

300年~ 続縄文人の南下と同時に、オホーツク人がサハリンから北海道に南下。オホーツク海沿岸に広がるとともに、天売、焼尻、奥尻などの島に進出。

450年~ 「古墳人」が混住ゾーンを越えて北上。東北北部(現在の岩手北部から八戸にかけて)に進出する。

岩手北部の中半入遺跡では農耕、馬の飼育が行われ、前方後円墳も作られている。また皮なめしの工房跡も見つかっている。

500年ころ 岩手北部・八戸で、続縄文人の痕跡が消え、「古墳人」の遺構のみとなる

500年~道北や道東のオホーツク人遺跡にも本州産の鉄器が流入する。

544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。

600年ころ オホーツク人が奥尻島に拠点建設。夏の間漁撈をおこなったとされる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

658年 越の国主の阿部比羅夫が180艘の船で日本海を北上。齶田・渟代(あぎた・ぬしろ)のエミシと戦う。さらに有間浜に進み渡利嶋のエミシを召し集め饗応する。さらに粛慎と戦い、ヒグマ皮70枚を獲得する。

659年 越の国主の阿部比羅夫が二度目のエミシ征服作戦。このとき粛慎と戦い49人を捕虜とする。

660年 越の国主の阿部比羅夫が200艘の船で日本海を北上。北海道に渡り弊賂弁嶋(へろべのしま)の粛慎を撃つ。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。


ということで、ここまでの記述については私のアイヌ年表の方にも組み込もうと思う。

ただ瀬川さんの記述には、時に筆が走り出す傾向があり、ウラが取れていないところもある。

たとえば、北海道の続縄文人が東北に渡ったという記載は、続縄文文化が東北地方に広がったという考古学的事実に基づいていると思われる。しかし、これについては、東北(さらに関東信越)に古来より在住した縄文人との関係がはっきりしないと、かんたんには首肯できない。

また、続縄文人と共存した東北北部の先住民が「古墳人」だとすると、アテルイやエミシたちは「古墳人」だったことになる。そもそも「古墳人」の概念が弥生人との異同を問われることになる。

私は「古墳」とか「古墳時代」という規定そのものに疑問をもっているので、もう少し厳密な用語が必要ではないかと思う。とりあえず、年表では「和人」の言葉を当てたが、生粋の和人から見れば、北海道の続縄文人と交易する「和人もどきの縄文人」だった可能性もある。

言語学の問題は深入りしないほうがいいと思う。「タミル語起源論」みたいなところに入り込まないよう、目下のところは「お遊び」くらいに突き放しておいたほうがいい。

とはいいつつも、DNA解析を基礎に据えて、これまでの常識にチャレンジしていく瀬川さんの姿勢には、強い共感を覚えるところがあり、さらなる理論の発展を心から期待する。

 かな打ち込みを済ませてスペースキーで変換すると、変換候補を表す窓が出てくるのだが、これが変換対象の字列にかぶさってくる。結局変換できないまま一旦確定して、また打ち込み直す。

特に再変換の際に著しい。これが苛立たしいのだが、なんとかならないだろうか。

① Google 日本語入力の「プロパティ」画面から「入力補助」タブを選択し、「カーソル周辺に入力モードを表示する」のレ点を外せばよいというのが書いてあったが、これはだめだ。

②オプションを開いて、プライバシータブをクリックし「一時的にすべてのサジェスト機能を無効にする」にチェックを入れる

というのもあったので試してみる。

これだとたしかに入力中に候補枠が出ることはない。変換モードにしたときの候補枠も、文字列から離れて表示される。

なぜかぶるかというと、変換の設定というよりは「予測変換」というおせっかいな仕掛けが災いしているらしい。

とにかくこれで、あのうざったい候補窓にいらつくことはなくなりそうだ。

いのっすプログ」さんに感謝します。

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