鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

ともあれ、受賞あいさつ程度では流石にもの足りない。五十嵐啓さんの論文を探したが、日本語の文章はほとんどない。
やっと見つけたのが下記の総説
ライフサイエンス 新着論文レビューというサイトに掲載されている。

連合学習における嗅内皮質と海馬との協調的な神経活動の増強 (2014年6月4日)

要 約
① 記憶,とくに「陳述的な記憶」の機能は嗅内皮質により担われている.
嗅内皮質は脳皮質と海馬とのあいだの神経回路を通じて情報を橋渡ししている。
しかし記憶が形成される過程については不明である。
② 最近,嗅内皮質と海馬の神経回路が、(脳波上の)ガンマ波長帯の振動をともなう神経活動により相互作用していることが示された。
③ 今回の我々の研究は、学習中に嗅内皮質と海馬の「神経振動活動の同期」が増強されていることを発見した。(より細かく言えば、嗅内皮質の外側部と海馬のCA!遠位部)
④ さらにこの「同期の増強」が、個々の細胞のスパイク活動の集合と相関していることを明らかにした.
④ これらの結果は、ラットに「匂い-場所連合学習」を行わせ、嗅内皮質および海馬の局所脳電位を同時記録することにより観察された。
⑤ 以上の結果は、神経振動活動が、海馬と嗅内皮質の神経情報を統合させる機能をもつことを示唆した.

かなりわかりやすく書き直したつもりだが、それでも専門用語のオンパレードだ。
さらに私の意訳したところではこうなる。
まずパソコンを想像してほしい。パソコンがUSBで外付けのハードディスク(記憶装置)と接続している。
パソコンからデータをハードディスクに転送するとする。
このときパソコンの出力波形をモニターし、あわせてハードディスクの入力波形をモニターして、これを同時記録する。
そうするとデータの転送中は両者が同じ波形を描くはずだ。それはデータの送受信に特有の波形を描くであろう。
そう予想して実験をやってみると、まさしくその通りになった。
ということだ。
著者はさらに個別の細胞のスパイク発火も調べて、④の結果を得ているが、これについては実験方法が良くわからないので、「多分そうだろう」というレベルで保留しておく。
記憶という機能については、流通型(実行型)情報と貯蔵型(言語型)情報の置き換え(エンコーディング)の問題も絡んでくるので、もっと奥の議論だ。言い過ぎにならないように注意しなければならない。

と言いつつ、私は素人だから何をしゃべってもかまわない。
この実験で強く示唆されるのは、海馬は嗅脳そのものだということだ。
そして嗅覚というのは、動物が陸に上がってから獲得した最新鋭の感覚器だということだ。
そしてほかの感覚がせいぜい中脳止まりの感覚なのに、これは前脳に集中するという偉そうな感覚なのだ。
しかも前脳にすらない記憶装置(したがって評価・判断装置)まで持っている出過ぎた感覚器なのだ。
しかし前脳や中脳はそのうち自前の記憶装置を持つようになる。とくに言語活動が出現してからは言語化し得ない嗅覚は主役の座を追われることになる。まさに「辺縁化」させられるのである。


面白い記事に当たった。きちっとした論文ではないのだが、雰囲気は伝わる。

日本神経科学学会で奨励賞をもらった五十嵐啓さんの受賞挨拶だ。

題名は「嗅覚から記憶へ」というもの。五十嵐さんはノルウェ-科学技術大学でフェローをつとめているらしい。

以下、要旨を紹介していく。見出しは私のもの。

1.嗅神経の流れ

嗅球の単一の僧帽細胞の軸索を顕微鏡で観察すると、軸索は遠く離れた外側嗅内野まで、細くも延々と続いています。
(前項でも明らかなように、嗅神経はさまざまな方向に枝分かれして伸びて行っている。この中から外側嗅内野への流れを本質的な流れとして選択したことがすごい)

外側嗅内野は海馬へと直接投射するため、嗅覚入力は末梢(嗅上皮)から海馬までわずか3シナプスで到達することになります。

(これは発生学的には、嗅覚中枢からひょろひょろと伸びてきたものであることを示唆する。そこで成長が止まったから先端が球状に膨大したのであろう)

2.海馬・嗅内野での匂い情報処理

海馬(CA1領域)と外側嗅内野の間では、課題学習に伴って、匂いを識別するスパイク活動が増加することが確認されました。

「オシレーション活動の同期」が20-40Hz波長帯で起きています。

「オシレーション活動の同期」は、異なる部位間での情報伝達を促進させ、記憶を形成させていることの証明です。

3.記憶の意味

かつて経験したことのある匂いを嗅いで、そのときの記憶がたちどころに蘇る、ということは、私達の日常生活でよく起こることです。

(ニオイというのは、記憶があって初めて意味を成すものだ。前項でもあったように、ニオイというのは「…のようなニオイ」なのだ。「…のようだ」というのは、記憶上の過去の経験と付き合わせて判断することだ。したがってそもそも嗅覚というのは記憶装置を必要とする感覚なのだ)

4.今後の研究方向

今後、シンプルな嗅覚―海馬回路系を用い、感覚情報から記憶への変換様式を明らかにするつもりです。

そのことで、「匂いの記憶」が嗅覚―海馬回路系を通じてどのように実現されているのかが明らかになるでしょう。

さらに、「嗅覚―海馬」モデルの構築を通じて、システムとしての脳機能のメカニズムが個々の脳部位での機能とどう関わるのか、それらがいかに結合すると高次機能が実現されるのかを検討していきたいと思っています。

(ということでなかなか気宇壮大だ。私の嗅脳→大脳皮質仮説から言えば、それが大脳発生の王道だろうと思う。大いに期待したい)

なかなか嗅脳に関する文献がなく、仕方なく範囲を広げてみた。嗅覚と味覚を検索窓に入れてグ-グルしてみたところ、下記の文献がヒットした。
4 章 味嗅覚 - 電子情報通信学会知識ベース
うんざりするほど宣伝まがいの独断的な文章が多い中で、過不足なく事実を記述してくれている。ありがたい文章だ。以下、その大要を紹介する。

4-1 味 覚
(執筆者:小早川達)[2008 年 8 月 受領]
4-1-1 味覚の受容機構 
「塩味」「甘味」「酸味」「苦味」の四つの味が基本味とされている。
日本で 1998 年に池田らが提唱したグルタミン酸ナトリウムやイノシン酸ナトリウムなどの「うま味」が第 5 の基本味といわれ,現在では世界的にこれが認められている.
部位による味質の感度は従来いわれているような局在化は著しくない。
味覚受容の機序は面倒なので省略。

4-1-2 味覚の伝達機構 
味覚のいい加減なところは、顔面神経,舌咽神経,迷走神経が相互乗り入れをしていることである。もともとほかの働きをしていた神経に同乗させてもらう借り物的なところがある。
とにかくそれらの刺激は延髄の孤束核に集約される。
孤束核はそもそもが迷走神経の一次センターで、消化器系,心臓血管系,呼吸器系からの入力が集中される。要するに内臓感覚情報として一パックにされるのである。
嗅神経の集中点は嗅葉→視床下部であり、延髄とは遠くはなれている。したがって味覚と嗅覚はかなり高次のところで出会うことになる。
一次センター(孤束核)からの伝達方向は、とりあえず運動反射系に反映させる経路に向かい、もう一つは視床の味覚中枢に行く。
霊長類では視床でニューロンを変えて、さらに大脳皮質の味覚野に行く。破壊行動実験や誘発電位法などから,島皮質(前頭弁蓋部と島皮質の移行部)が高位中枢であることが確認されている。
嗅覚と統合されるのはおそらく視床内であろう。大脳に行くのはおそらく「味を評価し楽しむ」ためであろう。猫でも好き嫌いはあるが、もう一つ上の「味わう」というレベルがあるようだ。

4-1-3 味覚の皮質における投射 
いろいろ書いてあるが、素直には信じられない。とりあえずはどうでもよいことだ。

4-2 嗅 覚
(執筆者:小早川達)[2008 年 8 月 受領]
4-2-1 嗅覚の受容機構 
Richard Axel らはニオイの受容体の発見をし,これによって彼らはノーベル生理学・医学賞を受賞した.
受容体において,ニオイ物質と受容体は 1 対 1 の関係ではない。組み合せによってニオイ分子が認識されるために,相当数のニオイ分子の認識が可能になる。

4-2-2 嗅覚の伝達機構
嗅球からは直接,前部梨状葉皮質に投射する.五感のなかで,視床を通らず皮質に直接投射するのは嗅覚のみである.
前部梨状葉皮質からは視床下部,島皮質,眼窩前頭野または扁桃体に投射する.
(大脳皮質から視床下部に情報が上行するのは、形式論理的には奇妙な話である)

4-3 人間と味嗅覚
(執筆者:小早川達)[2008 年 8 月 受領]
4-3-1 誘発応答計測 
省略

4-3-2 味覚と嗅覚の違い 
味覚も嗅覚も、味物質が蛋白質に受容され,受容細胞内での化学プロセスの後,イオンチャネルが開き,電気パルスに変換される。
しかし人間という観点から見ると共通点と相違点がある.共通点は両方が化学受容感覚であるということだ。また「快・不快」がほかの感覚と比較してより直接的に想起されることも共通する。
しかし「言語表現」という観点では違ってくる。嗅覚に関しては、「甘い」「酸っぱい」「苦い」に相当する語彙は存在しない.
たとえば「甘い香り」は、ニオイが甘いのではない。「そのニオイが甘い味を連想させるようなニオイ」ということである.
このようにニオイの評価は人間の印象によって大きく影響を受ける.このために「快不快において中立」な嗅覚刺激をつくることが難しい。

4-3-3 順応
刺激を持続して与えられると感覚強度が時間と共に減衰していく。これを順応という.化学受容感覚の特徴である。
感覚強度の時間による減衰は、受容器における感覚減衰と中枢における減衰とに分けられる。前者を adaptation(順応)と呼び,後者を habituation(馴化)と呼ぶ。
順応は,味物質が嗅細胞のなかの嗅繊毛の受容部位に持続的に結合することによる。
ニオイ刺激に対して「良い印象」を持った場合は強度の低下をもたらし、「悪い印象」をもった場合は順応が起こりにくい。
(施設のワーカーさんたちは順応ではなく馴化しているのですネ、ほんとうにえらい)

4-3-4 快不快
味嗅覚の研究において動物を用いた実験で快不快の研究が数多くあり,それらの結果を基にして人間の「おいしい」「まずい」(もしくは”やみつき”)が語られることが多い.
しかし人間における「おいしい」「まずい」の判断は、もっと複雑な要因の上で判断なされていると考えるべきである.(心より同感します)

「幸せの黄色いハンカチ」の展示を見ていて、ふと説明文に吸い込まれた。

「この映画は典型的なロード・ムービーである」

「あぁそうか」と一応は納得したが、何か喉に引っかかる。単純にそうは言えないのではないか? とも思う。回想シーンが頻繁に挿入されるし、武田鉄矢と桃井かおりの二人の成り行きは、むしろ狂言役による幕間劇ともとれる。

よく考えてみれば、なかなかに複雑な構成なのだ。

ロードムービーってなんだろうと考えているうちに、「母をたずねて三千里」を思い出した。

これぞ、ロードムービーではないか。

もちろん私はアニメ世代ではないから、アニメ版「母をたずねて三千里」の中味は知らない。

多分、子供の頃に絵本でまず接して、大きくなってから「クオレ」を読んで、「あれっ、これって『母をたずねて三千里』そのままじゃん」と気づいたときである。

クオレは子供のときに買ってもらった(と言うか押し付けられた)「世界少年少女文学全集」の一冊である。

当然そんなものは読まない。書棚に並んでいるのを見ただけでゲップが出る。

それがどういう拍子か高校時代にたまたま手にしてしまった。ボロボロ涙を流しながら読んだ覚えがある。

『母をたずねて三千里』もかわいそうな少年の話ではなく、「男はどう生きるべきか」みたいな感じで受け止めた。

だいたいクオレというのは、サルジニア王国を中心にイタリアを統一した直後の話で、「愛国主義美談」の濃厚な本だ。

政治意識が芽生え始めた高校生にとっては、もろに琴線に触れるわけで、自分の思想的と言うか心情的なバックボーンの一部になっているような気がする。


青空文庫でその「母をたずねて三千里」が読める。やはりクオレの一挿話を抄出して一編の童話にしたもののようだ。

ウィキでは、もっぱらアニメについての講釈が展開されるが、長い連載モノにするために相当脚色が加えられているようだ。

多分そのほうがよいだろう。ちょっと原作だけではゴツゴツと『事実』が並べ立てられていて、人物像の膨らませ方が足りないと思う。(それがある意味ではドキュメンタリーっぽさを引き出しているとも言えるが)


三笠の炭鉱について
前回の記事で、三笠には幌内、奔別、幾春別の3つの炭鉱があったと書いたが、少しウィキで調べてみた。
なお三笠という市名だが、明治時代に存在した空知集治監の建物の裏山が奈良の三笠山に見えることから名付けたと言う。最初は三笠山村と言ったらしい。何かがっかりするような話だ。
炭鉱の歴史をざっと見ておく。
1968(明治2)年に幌内で良質な石炭が見つかり、11年後に幌内炭鉱として開業した。さらにその3年後には鉄道が開通した。鉄道は小樽の港までつながり、弁慶号や義経号が走ったのは有名な話である。
86年には幾春別炭鉱も開かれる。昭和5年に住友が奔別で操業を開始した。この炭鉱は明治の時代から小規模炭鉱として開かれていたが、住友が乗り出してきて本格的採掘を始めたもの。

戦後も三笠の鉱山は急拡大を続け、最盛期には人口が6万人を越えた。

もっとも条件の悪かった幾春別炭鉱は、石炭最盛期の昭和32年に早くも廃坑となっている。
65年前後を境にスクラップ化が進み、71年には住友奔別炭鉱が閉山した。
今も残る東洋一の櫓(立坑の深さは735メートルで、櫓の地上高も50メートル)を建ててから、わずか10年後のことだった。
という長い題のページに、内部や近接の写真がアップされている。発表しているのだから許可を貰って中に入ったのだろう。
そこに閉山に至った状況がかんたんに書かれている。何やら想像を絶する大爆発があったようだ。
爆発事故や坑内環境の悪化、そして石炭から石油へというエネルギー転換の波に飲み込まれ、昭和46年に炭鉱は閉山。その後、坑道の密閉作業中にも爆発事故が起こり、5人の尊い命が失われた。

追記
小樽総合デザイン事務局」の記事も見つけました。

下の写真は旧唐松駅に展示されているものだそうです。「奔別」のロゴがついた建物は竪坑櫓というのだそうです。

唐松駅

旧住友奔別炭鉱(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト)

2016.5 奔別炭鉱 2.7k 【空撮】

では動画も見られます。

奔別鉱の経緯については 奔別立坑物語 その一端

が詳しい。

しかし、事故の実態と真相はいまだ不明。

山道を登ったところに奔別の社宅や学校、病院まであったと言うので登ってみたが、その先に人家の有りそうな気配はなかった。
ネットで、そのあたりの景色が映されている。まったくの原野で、所々に人が住んでいたあとがわずかに残されている。結局行かなくて正解だったかもしれない。

当初は炭鉱すべてがだめだというわけではなく、選択的に建設も行われた。筑豊が全部ダメになったあと、坑夫のかなりの部分が北海道へやってきた。「黄色いハンカチ」の主人公もそうやって夕張に流れてきたという設定になっている。
ビルド鉱の一つが最も歴史の古い幌内炭鉱だった。ここでは昭和41年になってから巨大立坑が建てられている。なんと地下1千メートルだ。ここを50人乗りのエレベーターが行き来するのである。(スーパーカミオカンデも地下1千メートル)
その幌内炭鉱も89年に閉山した。すべての炭鉱が姿を消した。


9.28

本日の赤旗で、奔別のホッパーを産業遺産として保存しようという意見が載せられていた。

ちょっと複雑な気分である。

これは一般的な産業遺産ではない。死者を出した大爆発事故の残骸である。

きつい言い方をすれば、爆発リスクを深く考慮せずにヤミクモに掘り進んだ経営者・技術者の失敗の証である。

そして、再建の努力もせず、残骸を棚晒しにしたまま逃げ出した住友の無責任さの証である。

できたときこそ東洋一だったが、間もなく作られた北炭幌内の立坑は、地上高さえ劣るものの深度は上回っている。

肝心なことは、幌内鉱がそれを非勢いかんともし難くなった80年代末まで大過なく運営し、役目をまっとうしたことである。

産業遺産(ヘリテージ)とはそうあるべきものではないだろうか。

人類の愚かさを伝える「負の遺産」として残さなければならないものも世に数多くある。

しかし、奔別鉱の建屋がそれに相当するだろうか。



毎日サンデーの今日このごろですが、本日は好天に誘われて炭鉱町めぐりです。
まずは野幌から夕張鉄道線路の跡地を走る「きらら街道」に入り栗山まで。ここから先が鉄道が見えなくなりますが、栗山を過ぎて南下し由仁の手前、角田というところから左折して山に入っていきます。途中何気なく橋があって、下をいかにも元鉄道らしき細めの道が通っていました。おそらくこれが元夕張鉄道でしょう。ここから先はなかなかの難所で、蒸気機関車がスイッチバックしながら山を登っていったようです。
夕張に行く道路は道道3号線、通称「札夕線」ということで、しっかりと作られています。昔はメインのアクセスだったようですが、今はもっと南側に三川国道という立派な道路ができて夕張川に沿って南夕張につながっています。南夕張からは峠をいくつも越えて日勝峠から道東・十勝平野へと至る大動脈になっています。だから札夕線は夕張へ直接繋がる道路なのに道道のままだということなのでしょうね。
札夕線は富野というところまではダラダラ登りですが、そこからいきなり急坂になります。つづら折りを登り詰めたところにトンネルがあります。まぁ当たり前ですね。
ところが、トンネルを抜けると、そこがいきなり街なのです。なにか異界に飛び込んだようで、これはかなりの衝撃です。
道は間もなくT字路に突き当たります。鹿ノ谷といいます。
鹿ノ谷駅は北海道炭礦汽船の全盛期は、駅周辺の鹿の谷地区は幹部用住居が存在する高級住宅地であり、旧夕張北高校・夕張工業高校に通学する学生で賑わった。
そうです。
夕張の街は夕張川沿いに南北に伸びていてそれを1本の道がつなげています。いわゆる「ふんどし街」です。T字路を左に曲がると、つまり川上に進むと夕張の本町になります。役場や病院(今は診療所)があります。そこからもう少し行くと炭鉱博物館があります。30年位前までは大きな遊園地もあって、けっこう賑わっていました。まぁ今で言えば放漫財政の名残でしょう。
今日はそちらには向かわず右折して南に走りました。
間もなく「黄色いハンカチ」公園の看板があって左折して山に登ります。だらだら坂を登っていく途中に左折すると「黄色いハンカチ」の炭鉱長屋につくのですが、看板を見逃して進んでいきました。
すると大きな日帰り温泉があって、第3セクターの運営のようです。広大な駐車場に車が5,6台。その脇には特養だか老健だかがあって、北海道の田舎ではおなじみの光景です。
ただここが違うのはとんでもない煙突が立っているということ。高さなんと68メートルなんだそうです。この煙突は昭和36年、炭鉱が一番威勢のいいときに建ったそうです。根元の直径が約7メートル、先端も3メートルくらいあるそうです。石炭を精製してコークスを作る工場があったそうですが、いまはそれは影も形もなく、駐車場の片隅にこの煙突だけが残されているのです。元は街のシンボルとして屹立していたものが、今は広場の片隅に巨体を持て余して、「すいませんねぇ」という趣で佇んでいるのがそぞろ哀れを催します。
とにかくこれはすごい産業遺産です。夕張に行ったらとにかくこれだけは見ておいたほうが良いです。
少し道を戻って「黄色いハンカチ」の長屋に向かいました。なかなかいい施設ですが、入場料はちょっとお高い。ただこの施設の維持のために頑張っている人たちの努力を考えると「まぁいいかな」という気もします。
長屋の外見は昔のままですが、一歩中に入るとモダンなギャラリーです。
飾ってあるマツダのファミリアを見ながら、しばし感慨にふけりました。あの映画はけっこう時代をまたいでいるのです。寅さんのような古き良き時代を懐かしみながら作られているのです。あの映画が理想としているのは、映画の時代より10年から20年遡った時代なのです。
昭和52年には、もうすでにバブルの時代に突入していました。ファミリアは買って買えないほどの車ではなかったのです。現にそれから数年後には私の嫁さんがファミリアのXGを買っています。
我が家は嫁さんが貧乏教師の娘なのに贅沢で、私は嫁さんの車の型落ちで乗っていました。結婚したときに嫁さんの親のスバルをもらい、嫁さんがレオーネを買うと私がスバルを運転しました。
「子供を保育所に送り迎えするから」と言っていたのですが、実際に送り迎えしたのは私でした。
スバルが故障ばかりするのでスズキの軽に乗り換え、そのあと中古でダイハツのシャレードに乗っていました。冬の暖房が効かないのには参りました。
つまり車が典型的だったのですが、時代は右肩上がりだったのです。ところが石炭は斜陽だったのです。
いまの若い人はそのへんがわからないから、あれが昭和52年のリアルストーリーだと思ってしまう。そうじゃないんです。あれは戦後30年、人間が少しゆとりを持って人生というものの価値を考え直し始めた時代の精神なんです。
その前には「愛と死をみつめて」のミコとマコの世界がある(なんと吉永小百合のきれいなことか)。「名もなく貧しく美しく」の小林桂樹と高峰秀子の世界があるんです。
たしかにそのように考え直そうとした人間がいた、しかし同じその人間が一方ではけっこうエコノミックアニマルまっしぐらでもあったんです。
まぁそんなことで「黄色いハンカチ」をあとにして国道に戻りました。
第4の見ものが清水沢の飲み屋街です。このあたりには夕張本町とは違う炭鉱がたくさんあったようで、清水沢駅の近くにはたくさんの飲食店があります。三菱大夕張の線路がここに来ていましたから、三菱系の関係者のたまり場だったのかもしれません。
店は全て閉じていて、中には崩れかけたものもありますが、中には「本日定休日」みたいな雰囲気を残す店もあります。まさに廃墟観光の決め技です。かつては夜ともなれば紅灯の巷と化したのでしょうが、今だと夜歩くのにはかなりの度胸が必要かもしれません。
昭和60年頃、私が菊水の病院に勤めていたときには、バスの便が良かったのか清水沢の人が外来に通院していました。その頃はまだ結構鼻息が荒くて、「本町はもう落ち目で、これからは清水沢が夕張の中心だ」みたいなことを言っていましたが、あえなく轟沈したようです。
その清水沢もご覧の有様。いまはもう一つ先の南清水沢が「第二都心」になっています。
それ以上南に行ってもしょうがないので、清水沢から大夕張の方に入りました。夕張には何回か行きましたが、大夕張には行ったことがなくて前から気になっていました。途中、有名な水力発電所跡が見えますが、今回はパスしました。
「時すでに遅し」というのは大夕張もおなじで、北炭系よりさらにひどい。どこもかしこも廃墟と化していました。ただ旧大夕張駅にラッセル車と客車数両が保存展示されているのは嬉しいことでした。誰も監視人などいません。勝手にドアーを開けて乗り込んで、客車の座席に座れるのです。
大夕張の駅からはそびえ立つシュウパロ湖ダムの堰堤が望めます。それを右手に見ながら長ーいシュウパロトンネルを越えると、広々とした人造湖に出ます。湖の向こうは雄大な夕張岳が広がります。
秋雨のシーズンを控えてずいぶん放水したと見えて、かなり干上がっています。湖の中に湖底に沈んだ鉄橋のアーチが半分くらい姿を表しています。あの橋のあたりがかつて殷賑を極めた大夕張の高野炭住が建ち並んでいたあたりでしょう。
あとは湖の西岸を北に進み、三笠に出ました。
三笠と言ってもみんなあまり馴染みがないと思います。結局いくつかの炭鉱町が行政的に束ねられて三笠という名前になっただけで、大きな炭鉱で言うと明治からの幌内炭鉱、住友の奔別炭鉱、それに幾春別炭鉱です。
ここで一番の心残りは奔別炭鉱です。錠がかかった門の向こうには巨大なホッパーと選鉱場、ボタ山などが立ち並んでいます。門の前の地図を見ると正門の脇の道を登っていくと炭住や旧炭鉱病院が軒を連ねる一角があったようですが、今では立入禁止となっています。坂の途中から見下ろすと、建物群の奥行き、巨大さがよくわかります。
いずれここはもう一度訪れてみたいと思います。

神川さんの本で、ひとつ興味ある記載がある。

言語…まずは持って聴覚言語だが、その音響的受容と言語化は利き腕の反対側の側頭葉後半(角回)で行われる。

以下、面倒なので「左脳」と呼ぶ。

これがウェルニッケ(聴覚言語野)だが、「それではその反対側、つまり右脳の側頭葉後半領域は何をしているのか」、ということである。

1.右脳に聴覚言語野は再建できないのか

もちろん耳は両方にあるのだから、それに対応する聴覚野も存在する。これは破壊実験で確認されている。

だからおそらくその先にはウェルニッケとして働ける潜在領域が広がっているはずである。

だから、何かの理由でウェルニッケが機能しなくなったとき、右利きの人が左利きになれば、ウェルニッケ失語は改善するのではないか、というのが素人考えである。

2.右脳の聴覚言語野→は遊んでいるのか

これについては、神川さんがケースを紹介してくれていて、大変面白い。(本人にとっては面白いどころの話ではないのだが)

左脳の角回付近はいろんな機能がかたまっているが、大きく言うと

① 体性感覚(ペンフィールドの絵でおなじみ)

② 聴覚(ウェルニッケ言語野につながる)

③ 視覚(二次情報化された)

の3つだ。

この内特殊なのが視覚で、ここに来る映像は網膜から直接投影されたものではない。これは聴覚との大きな違いだ。

おそらく右脳がダメージを受けても左が健在なら聴覚言語はほとんど影響を受けないだろう。

しかし視覚はそうは行かない。たんに立体視ができなくなるだけではすまないだろう。“Where” 認識が効かなくなるだけではなく、いわゆる動態視力的な認識能力が重大な影響を受けるはずだ。

3.具体的なケース

左の角回がやられると失行・失認が現れる。いわゆるゲルストマン徴候である。

右の角回がやられた場合は、奇妙な失行・失認が現れる。これは半側性空間失認と呼ばれる。

左側だけの失行・失認である。ものを描くと、左半分が空白のまま残される。体の左半分を無視してそれが存在しないように振る舞う。

しかし患者の視野には異常はなく、半盲ではないのである。

これをもって、神川さんは下記の如く結論する。

空間の認識に関しては視路に接した角回に中枢があり、右脳半球が優位と考えると説明がつきます。

そうだろうか?

私は、両方に視覚関連認識の中枢があり、両者の共同で空間認識が存在しているのではないかとおもう。

つまり言語中枢に関しては明らかに優位・劣位はあるが、空間認識については優劣はないのではないかと思われるのである。下の図で言えば、左脳の言語領と書いてある部分は「言語+空間の見当識」領なのだ。

kakkai

もう一つ、頭頂葉で構成される画像はたんなる空間認識ではないということである。それは画像ではなく映像であり、“時空間認識”のためのイメージなのである。

視覚には“What”系視覚と“Where”系視覚がある。この内“What”系視覚には重大な支障は出ない、視神経→膝上体→視放射が直接侵されているわけではないからだ。

しかし“Where”系視覚、とりわけ時間軸を伴う動的視覚には重大な影響が出る。ここに特徴があるのではないか。


フリッツ・リップマンの自伝から
1918 軍医見習いとしてセダンに赴任。多くの戦病兵を看取る。
1919 戦地から戻ったケーニヒスブルクでインフルエンザが大流行。戦死者を上回る死者を出す中で数ヶ月にわたり治療に当たる。
1920 ケーニヒスブルク医科大学を卒業。臨床実習に入る。
21年 アムステルダム大学の薬理学教室で半年間の研修を受ける。この時、生化学の道に進むことを決意。ふたたびケーニヒスブルク大学に戻る。
27年 国家試験に合格。ベルリンのKW研究所のマイヤーホフ研究室に入る。クレアチンリン酸の研究を開始。この間、ノイベルクの研究室にも顔を出す。
29年 研修期間切れとなったリップマン、ハイデルベルクを離れベルリンに戻る。彼女のいるベルリンに戻りたかったのが本音らしい。
30年の6月にアルベルト・フィッシャーの助手ポストを見つけてベルリンに戻った。しかしすでにユダヤ人に対する迫害は始まっており、リップマンも暴行を受けた。
31年 フィッシャーのコペンハーゲンへの異動に伴い米国に渡る。ロックフェラー協会で1年間の研修。
32年9月 アメリカからロンドンに移る。ここでエムデンとの手紙による交流が始まる。エムデンはこの交流をもとに解糖の全経路を書き上げ、これをエムデン・マイヤーホフ経路と名付けた。(earned him rightly the companionship in the names of the Embden-Meyerhof pathway for the glycolytic cycle)
リップマンによれば、この仕事を実質的に行ったのはエムデンの弟子ゲルハルト・シュミットだった。
ゲルハルト・シュミットについては下記の本が出されている。
Out of Nazi German in Time, a Gift to American Science: Gerhard Schmidt, Biochemist
32年末 アルベルト・フィッシャーの居たコペンハーゲンに移る。7年間のコペンハーゲン時代にピルビン酸の酸化に関する業績を上げる。
39.6 迫りくるナチの侵攻を前にアメリカに亡命。2年間の浪人のあとボストンのMGHに職を得る。
スクイグルという奇妙な言葉は、エネルギーに富むリン酸結合(C~P link)のことらしい。
このあとの話は省略。
ということで、注目するのはただ一つ。32年秋に注目すべき実験結果があり、それにより解糖経路のミッシングリングが解決したこと。それを元にいくつかの補足実験を行ったあと、エムデンが解糖経路の最終案として提示したこと、その際にエムデンみずからが「エムデンマイヤーホフ経路」と名付けたこと。
である。
ただしこれはリップマンが自伝の中で語っていることであり、エムデンの原著を確認したわけではない。
33年にエムデンを主著者として発表されたらしい。「白鳥の歌」ということになる。

エムデンの bio を知ると、どうもリップマンの影が漂う。
ここからはまったく私の想像だが、
第一次大戦が終わる頃、キール大学のマイヤーホフが乳酸説を唱えた。それは一世を風靡しノーベル賞が与えられた。それより前から解糖系に取り組んでいたエムデンとしては面白くない。
そこで乳酸説を批判しつつ独自に解糖系のステップ作りに取り組んだ。
マイヤーホフはベルリンに出たあと、29年にフランクフルトに作られた研究所を任される。エムデンはご近所さんになったマイヤーホフとは口も聞かないという態度を取ったそうだ。
マイヤーホフは乳酸説を否定されるという経過を経て、好気性呼吸との接点を探る方向に転換していく。
ところが、細胞呼吸は先輩ワルブルグの専門領域だ。
そこで登場するのがリップマンで、エムデンをはじめ諸方面との調整を図る。意識的にそうしたかは知らないが、結果的にはそうなっている。
1933年になって、ナチが政権を握ると反ユダヤ攻撃が始まる。エムデンが最初の標的となり、授業にユーゲントが殴り込み、エムデンは講義ができなくなった。そして夏には突然死する。
ワルブルグとマイヤーホフはなお国内に留まるが、中堅研究者はアメリカ・イギリスへと逃げていく。
その中でリップマンは、研究者の知的結集を図ったのではないか。
エムデンの解糖系の骨組みを酵素の発見で補充し、乳酸→アルコールのしっぽを外し、これにエムデン・マイヤーホフの名を冠した。
ピルビン酸からクエン酸への反応過程をアセチルCoAで解き明かし、ワルブルグらの呼吸回路とつなげながら、これをワルブルグの弟子クレブスの功績に帰した。
これでエムデン派の顔もワルブルグ派の顔も立つことになる、ローマンはATPでやっていけばよい…
というのが、目下の私の推理である。

The Roots of Modern Biochemistry--Friitz Lipmann's Squiggle and its Consequences
という本がある。
グーグルブックスでかなりの部分が読める。今アタック中だが、過去の経験から言えば多分挫折するだろう。誰かが手を着けてくれないかな、と願っている。

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エムデン・マイヤーホフの「エムデン」て知ってますか。

エムデン・マイヤーホフ経路というのは標準的な解糖経路として誰知らぬものはないほど有名です。

ただ年表好きの私としては、エムデン・マイヤーホフの経路、およびその名称がいつ確定されたのかを知りたくて、何気なしに調べたのですが、まったく見当たりません。

さらにエムデンがどういう人なのかもまったく紹介されていません。

たしかに、そんなことを知らなくても別に不自由はないのでしょうが、「ちょっと教える身としては恥ずかしくないのか?」、などと思ってしまうわけです。

ということで、年表に組み込んでも良いのですが、一項起こしておきたいと思います。

1.英語版ウィキペディア

とりあえず英語版ウィキから。

フルネームは Gustav Georg Embden

1874年、ハンブルグの生まれだ。ついでに書いておくとマイヤーホフは10年後の84年にハノーバーに生まれているから、10歳年上ということになる。

父は法律家で政治家のゲオルク・ハインリッヒ・エムデン。祖母はシャーロット・ハイネといって詩人ハイネの姉妹だ。

各地の大学で生理学を学び、1904年、30歳でフランクフルト・ザクセンハウゼン州立病院の化学検査部長に就任している。

3年後に彼の研究の業績は検査部を生理学研究所へ、1914年には「栄養生理学の大学機関」(University Institute for Vegetative Physiology)へと発展させることになった。

また14年からフランクフルト・アム・マイン大学で教鞭をとるようになっている。

1925年、エムデンはこの大学の学長となった。

というのが立身出世の物語。

次が研究内容の紹介。

彼の主たる活動の場は糖代謝と筋収縮の関係であった。

彼は最初にグリコーゲンから乳酸に至る諸段階を一つの経路として提起した人だった。

1918年にマイヤーホフは糖が乳酸に壊れていく(Breakdown)と提起した。そのあとエムデンは、その仔細な段階を明らかにすべく研究した。
ウィキにはもう一つのエピソードが載っている。

エムデンは12回もノーベル賞にノミネートされたが、結局受賞には至らなかった。

ただしこれは当時の通例だったようで、ワールブルグも31年の受賞まで46回もノミネートされている。

結局、エムデン・マイヤーホフ経路という名称をいつ誰がつけたのかは、英語版でも不明である

2.
フリッツ・リップマンの回想
このあたりの裏事情というのは、フリッツ・リップマンが書いた回想録に書かれている。Wandering of a biochemist(1971)という自叙伝も刊行されているようだ

個人的なEMBDENとMEYERHOFの間の接触は事実上ゼロだった。例えば、私はシュミットやエムデンらと一度も会わなかった。

ところがリップマンがマイヤーホフの下を離れて解糖系の研究を続けていたとき、エムデンがリップマンを取り込んだらしい。リップマンは元同僚のローマンと計って、エムデンを売り出し、エムデン・マイヤーホフ経路なる言葉を作り出したのではなかろうか。

3.
渋めのダージリンはいかが
ようやく日本語文献を見つけました。上記のブログです。かなり年表のネタが混じっています。
1933 エムデンはヒトラー・ユーゲントの乱入で講義を妨害され、自宅に引きこもって失意のうちに病死した。

それからというもの、この細胞内シークエンスはエムデン・マイヤーホフ経路と呼ばれるようになった。

ただし命名の顛末については下記の1行のみ

エムデンとマイヤーホフはまさしくライバルであり、非常に仲が悪かったようです。

このブログでリンクしている下記のページに行ってみました。

Kagaku to Seibutsu 53(11): 792-796 (2015)

に掲載された木村光さんの「オットー・マイヤーホッフのヒトラーとナチスからの逃脱―ピレネー越えの真相」というエッセイです。

文章の主題であるマイヤーホフの劇的なドイツ脱出についてはここでは触れない。

4.マイヤーホフとエムデン

エムデンは乳酸生成が筋収縮にやや遅れて生ずるとして,マイヤーホッフの乳酸学説を批判した。

彼はグルコース(C6化合物)が,2つのC3化合物に開裂する過程を考察した.

エムデンは自分が作った理論モデルを検証することなく亡くなった。その後の5年間にマイヤーホッフ一派により,エムデンのモデルが検証された.

そのため,解糖系は“エムデン・マイヤーホッフ経路”と呼ばれる.

つまり“エムデン・マイヤーホッフ経路”と名づけられたのはエムデンの死後だったんですね。そして名付けたのはマイヤーホフと弟子たちだったんですね。
ただこれでも名称の初出と、最初の提案者が分からない。

ついでに木村さんのページから写真を転載させていただく。1949年に米国で撮影されたものだそうだ。木村さんがマイヤーホッフの長男からもらったものだそうである。

seikagakusha
左から右へ.コーレイ(S. Corey),ナハマンゾーン(D. Nachmansohn,自らマイヤーホッフの息子を名乗る),バーク(D. Burk),セント=ジェルジ(A. Szent-Györgyi,ビタミンC,Pの発見で,1937年ノーベル賞),ワールブルグ(O. Warburg,呼吸酵素で,1931年ノーベル賞),マイヤーホッフ(O. Meyerhof,筋肉の乳酸学説で,1922年ノーベル賞),ノイベルグ(C. Neuberg,メチルグリオキサール説その他で発酵化学に貢献),ウォルド(G. Wald,マイヤーホッフの弟子で,目のビタミンAの研究で,1967年ノーベル賞)

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呼吸と発酵の研究史

神川さんの本は光合成の話から始まる。これは的確な発想だと思う。

しかし残念ながら、この頃光合成の明反応についての研究はあまり進んでいなかった。このために光合成の説明が暗反応に偏っていて、生化学的な電子のやり取りの連鎖になっている。ここからは光合成のダイナミックなエネルギー転換の本態は伝わってこない。

やはり光合成には生物物理学的な説明が必要なのだ。

それに比べると嫌気性代謝とTCAサイクルについては、すでに一応モデルが確定していたので、そのまま勉強になる。

変なもので、最新の知見ばかり集めていると、その元をなす理論の習得が意外とあやふやになっている。そのことに気付かされた。

あらためて、神川さんの本に沿って歴史をまとめてみたいと思う。

ただ神川さんの記述だけでは、細部の欠落がかなり大きい。そこはウィキなどを使って埋めていくことにする。


1876 パスツール、発酵過程を研究。アルコール発酵が酵母の働きによることを確認。「発酵は酸素のない状態での微生物の生活である」との結論に達する。

ただしアルコール発酵はやや特殊で、ピルビン酸から乳酸に向かわず、アセトアルデヒドを経由してエタノールになる。このとき付随的に炭酸ガスが発生する。

19世紀末 クロード・ベルナール、筋肉中にある「乳酸」の起源がグリコーゲンであることを示す

1910 アーチボルド・ヒル、光電管 用いた増幅器により、筋肉の発熱量を測定。

1914 ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所が設立される。オットー・ワルブルグは終身研究員となり、細胞呼吸の研究を開始。鉄塩(ヘムタンパク)が細胞呼吸を促進することに気づく。その後の研究により呼吸酵素(チトクロームなど)の存在を予想。
ワルブルグは戦争中に軍歴を重ねていたが、父の友人アインシュタインが研究所に押し込んだといわれる。
1919 キール大学のオットー・マイヤーホフ、筋肉における乳酸代謝の研究を開始する。カエルの筋肉を酸素のない場所で収縮させ、グルコースの消失と乳酸の発生を観察。糖を分解する過程を「解糖」と名づける。

1922 ヒルとマイヤーホフがノーベル賞を受賞。筋収縮のエネルギーが解糖によって賄われていると提唱。「ヒル・マイヤーホフ反応」と呼ばれる。

解糖→エネルギー発生により、その代謝産物としてピルビン酸が発生。これは乳酸に変換され、その大部分はグリコーゲンに再合成される。

1925 ケイリン、好気性生物のヘム蛋白に酸化還元機能があることを発見。チトクロームと命名する。

チトクロームはヘム鉄(ポルフィリン鉄)を持つ複合タンパク質で、ヘム鉄が2価になったり3価になったりすることで電子伝達を行う。

1926 ハンス・クレブス、ベルリン王立生物学研究所に入り、ワルブルグの助手を務める。

1926 ハーバード大学のフィスケがネコの筋肉からクレアチンリン酸を分離。フィスケはさらにATPも発見したが,ローマンより発表が数か月遅れた。

1929 マイヤーホフ、ハイデルベルグのカイザー・ウィルヘルム生理学研究所所長に就任。

1929 デンマークのルンズゴール、マイヤーホフの乳酸ドグマを否定する実験結果を発表。

無酸素下でカエルの筋肉を連続収縮させたところ、70回にわたり収縮を繰り返した。この間乳酸の増加は起きなかった。(ルンズゴールの実験についての神川さんの説明は不正確である

1929 マイヤーホフ門下のローマン、乳酸発酵した筋肉の抽出液にリン酸化合物が存在することに注目、ATPを同定する。

アデノシンというのは、リボースという5単糖がアデニンという塩基に結合したもの。左腕でアデニンとつながり右腕でメチル基を介してリン酸塩とつながる構図だ。

リン酸塩が1つならAMP、2つならADP、3つならATPということになる。

ADP/ATPというのは充電型の乾電池のようなものだ。エネルギーを保存できる、持ち運べる、再利用できるという3つが特徴だ。しかも燃料効率がよい。

なぜこの分子構造なのかは、いづれまた勉強する。

1930 マイヤーホフらによるルンズゴールの追試では、筋収縮が起こらなくなったときにクレアチンリン酸含有量がゼロになった。そして乳酸が増加し始めた。

1930 マイヤーホフはルンズゴールの知見を承認。解糖系のあとに好気性呼吸の過程が続きATPやクレアチンリン酸が生成されるとし、自説を翻す。

1931 ロックフェラー財団の援助を得て細胞生理学研究所が完成。このときカイザー・ヴィルヘルムからマックス・プランク研究所へと改称。所長にワールブルグが就任。

1932 ワールブルグ、フラビン酵素(ビタミンB2)とニコチン酸アミドを相次いで発見。「呼吸鎖」の全容が次第に明らかになる。

ワールブルグは強力な人脈があったようで、ユダヤ人でありながらナチス政権下を敗戦まで生き抜いた。母はプロテスタント父は改宗ユダヤ人のためクォーターとして扱われた。

1933 ナチスが政権を握る。ユダヤ人迫害により多くの研究者が亡命。エムデンはヒトラー・ユーゲントの乱入で講義を妨害され、自宅に引きこもって失意のうちに病死。

1934 ローマン、クレアチンリン酸がATPのバックアップであると推定した。ミオシンにはクレアチンリン酸の受容体はないため、クレアチニンキナーゼの仲立ちによりリン酸をATPに渡し、ATPがミオシンを動かすという仕掛け。

1935頃? マイヤーホフ派の提唱により、解糖経路をエムデン・マイヤーホフ経路と呼ぶことが一般化する。
1937 イギリスに亡命したクレブス、ピルビン酸にオキザロ酢酸を加えるとクエン酸が生成されることを発見。TCA回路を提案。
それまでにコハク酸からオキザロ酢酸への変換、クエン酸からα-ケトグルタル酸への変換は確認されており、最後の橋がかかったことになる。ただしその機序は不明。

1938 マイヤーホフ、ドイツを離れパリに移る。40年にはさらにフランスからピレネー山脈を越えてスペインに逃れ、さらにアメリカに亡命。

1939 アメリカに亡命したリップマン、解糖経路とTCA回路の接続機序を研究。ピルビン酸の取り込みに無機リン酸の存在が必要なことを明らかにした。無機リン酸の存在下でCoAが産生され、これがピルビン酸と反応しアセチルCoAを経てクエン酸に至ることを立証。

1939 ソ連のエンゲルハルト、ミオシンがATPアーゼ作用をもっていることを証明。ミオシンがATPを介してのみ反応する理由が明らかになる。



ということで、エムデン・マイヤーホフの解糖経路もTCA回路も、それ自体は本質的な問題ではなく。生物の呼吸というのが、古細菌の嫌気性解糖経路を前提条件としてはじめて成立するという2階建て構造こそが重要なのだということだ。

まず嫌気的解糖を営む生物の存在があった。大量のピルビン酸が“排泄物”として積み上がった。

一方では藍藻が生み出す大量の酸素が海中に溶け出した。これも一種の排泄物であるが、こちらは細胞毒であるという由々しい問題をはらんでいた。

そこで、必要は発明の母ということで、酸素を用いてピルビン酸からエネルギーを取り出すというスカヴェンジャー生物、すなわちミトコンドリアが登場した。彼の持つ最大の武器がTCA回路だったわけである。

いわばATP産生装置という巨大蓄電池により水と酸化物と酸素の平衡関係を作り出す「大回路」が出来上がったことになる。

作業に実際取りかかると、神川さんの記述だけでは到底足りないことがわかった。ほとんど神川さんのオリジナルは消えている。
それにしても、この時期のドイツの有力な生化学者のほぼすべてがユダヤ人であったという事実には、ただただ驚嘆するほかない。

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神川喜代男 著 「脳をつくりあげた生物の不思議―生命のしくみと進化を探る」

という本を読んだ。ブルーバックス新書で、発行は1995年となっている。いまから20年も前の本だ。

「出会い」というのだろうか、素晴らしい本だ。

実は最初は読む気などしなかった本だ。

「脳をつくりあげた生物の不思議」という題名がどうもピンとこない。なぜ「生命の不思議」ではないのか。

第二に、裏カバーに書かれた著者略歴が、かなりうざったい。

大阪大学医学部卒業なのはよいとして、卒業年次が1953年だ。失礼ながら、今生きているとすれば現役組としても88歳だ。この本を書いたのは66歳ということになる。

脳外科医としてレーザーメスの開発に関わった経歴もある一線の臨床医ではあるが、どうも途中でそちらはリタイアして鍼灸の方に顔を突っ込んできたらしい。

「まあせっかく取り上げたのだから…」と、パラパラとページをめくっていると、これが面白いのである。

95年に書かれた本としては、きわめて内容がアップ・ツー・デートだ。

それにもかかわらず、書きすぎや無理な断定はない。情報を取捨選択する目が大変肥えていると伺わせる。

学生の講義を念頭に書かれているのかもしれないが、あらゆる物事、あらゆる科学的認識を歴史の流れの中で見ているのも、初学者には大変ありがたい。

進化論の立場に立つ以上当然のことであろうが、大脳辺縁系ドグマは事実上否定されている。大脳は脳の進化の最終産物として位置づけられている。

心理学者が乱暴に踏み込んでいる「精神」の領域についても、必要以上の言及は慎重に避け、臨床ケースの検討に絞って論じている。
ちょっと文句もつけておく

ただし、よくまとまっていて、考えを整理するのには役立つが、目新しい事実はないので、そのつもりで。
生化学のところは、やや冗長・散漫に流れ、中味も流石にちょっと古くなった。

ということで、読むべきは第1部「エネルギーから眺めた生物の世界」と第2部「脳から眺めた生物の世界」で、これで約100ページ。

最後の2節は外人がよくやりたがる“博識自慢”だ。まぁご愛嬌であろう。


蛇の第二嗅覚系(ヤコプソン器官)の勉強

「蛇の舌は嗅覚」(星野一三雄さん)を読んで勉強しなければ、と当たってみた。

もちろん私の目的は嗅脳→大脳の発生学的機序を知りたいので、嗅覚そのものにさほどの興味があるわけではない。

さらっと勉強してみた結果、ヤコプソン器官は進化史上のエピソードに過ぎず、さほどの重要性はないことがわかった。

動物にとって必要な感覚は、すでに魚類の段階で一通り出揃っている。そこには嗅覚もふくまれている。

2015年09月26日三脳構造仮説を魚で考える より

3.終脳(従って嗅覚)が良く発達した魚の例としてはウナギやアナゴ、ウツボやマダイ、クロダイがいます。夜行性や暗い海で生活するタラはこの代表例です。魚では嗅覚の役割が大きいようです。


もっとも重要な感覚が視覚であることは魚類の時代から定まっている。
ただ、生活域が多様化するに従い、視覚が駆使できない場面も生まれてくるわけで、従来型の感覚をモディファイしてこれを補っていく必要が出てくる。

こんなことではないだろうか。

だいぶ長い前置きになった。

それでは「ヤコプソン器官」の説明に入る。

1.名称のいわれ

まず「ヤコプソン器官」のいわれだが、これはL.L.Jacobson (1783‐1843)という学者が発見したためである。“b”の音は“ぷ”と発するらしい。デンマーク人の解剖学者らしい。

英語では“Vomeronasal Organ”日本語では鋤鼻(じよび)器官というが、こんな名前は覚えないほうが良い。

2.解剖学的説明

鼻腔の一部が左右にふくらんでできた嚢状の器官である。

嗅覚機能を持ち、嗅球の後部内側の副嗅球からのびた鋤鼻神経に支配される。

ヤコプソン器官は、通常の嗅覚のように吸い込んだ空気に反応するわけではない。ヤコブソン器官に接するのは口の中の空気である。

門歯の裏側の上口蓋に鼻口蓋管という管があり、鼻腔とつながる。ここから入る空気を感受するのである。

上にも述べたとおり、ヤコブソン器官で発生した臭い情報は、鋤鼻神経を経由して副嗅球に至るのであるが、それで嗅神経に合流するかというと、そうでもない。

話をわかりやすくするために、中枢側から流れを追ってみよう。

嗅神経が枝分かれして、在来線は嗅球駅から篩骨というトンネルを通って嗅糸球(鼻の一番奥)に達し、そこから嗅覚受容細胞へと枝分かれする。これに対し嗅神経の支線は副嗅球という駅から鋤鼻神経を通ってヤコプソン器官(鼻中隔)に達するということだ。

川上の方もややこしい。副嗅球から嗅神経に合体するようにみえるが、実は並走しているだけなのだ。ヤコプソン系の嗅覚は扁桃核,分界条を経由して視床下部に達する独自の経路を持っているらしい。

ヒトを含む霊長類では、胎児期に発生したのち退化消失する。鼻口蓋管は骨口蓋の前部にある切歯管としてなごりをとどめている。

3.ヘビのヤコプソン系嗅覚

ヘビは聴覚はほとんどなく鼓膜も欠く。嗅覚は鋭敏でヤコプソン器官が発達している。

ヘビの舌は細長く先が二分されている。これを出し入れしてにおいの微粒子を口内に取り込む。

ひっこめた舌の先端は正しくその開口部にあてがわれ,捕捉した嗅物質を感覚上皮(嗅上皮)に送りこむ

口内に取り込まれた微粒子は鼻口蓋管を経由してヤコプソン器官に接触する。

鋤鼻器は鼻腔と完全に連絡を絶っており、口蓋にのみ開口部を持つ。

舌はまた空気の振動や流れ,温度差などをも感じとるとされる。
蛇の舌
(ニシキヘビには上顎に左右3対の赤外線センサーもあるそうだ。ほんと、いやな奴だね)

4.ヘビ以外の
ヤコプソン系嗅覚

ヘビがすごいことになっているので、ほかの爬虫類も…と思いきや、事情はなかなか複雑である。

トカゲ類・ヘビ類を含む有鱗目では鋤鼻器が非常に発達し、嗅上皮よりも主要な嗅覚器官となっている。

ところが、現生爬虫類を構成する4つの目のうち、カメ目・ワニ目では鋤鼻器はほとんど消失している。ムカシトカゲ目では内鼻孔に開口する盲嚢でしかない。

(爬虫類のうち絶滅群は別掲とされており、恐竜目・翼竜目・魚竜目・鰭竜目・獣形目が設定されている。これらについては後日勉強)

鳥類は、飛行への寄与の少ない嗅覚はほとんど発達せず、鋤鼻器は消失している

ところが、哺乳類ではふたたびヤコプソンが機能し始める。しかしそれはきわめて特殊な儀式的な機能である。

哺乳類の鋤鼻器は一般的な嗅覚を感じるのではなく、フェロモン様物質を受容する器官に特化している。

ほとんどのグループで鋤鼻器が発達し、鼻中隔の前下部に存在する。そして鼻口蓋管と呼ばれる管で口蓋部に開口する。

フェロモン物質を鋤鼻器に取り入れる際、イヌやウマなどの動物ではフレーメンと呼ばれる独特の表情をする。

4.味覚と嗅覚の関係

なぜヘビの時代にこれだけ発達して、その後退化してしまったのか。この辺についての説明は見当たらない。

そこで想像してみる。

感覚は、魚が陸上に上がり両生類→爬虫類と進化する中で意味合いを変えてくる。

外的刺激と感覚器の受容とをつなげる媒体が水から空気に変わったということは、感覚受容体のあり方に根本的な変化を促した。

それはとりわけ嗅覚において顕著だったであろう。

サカナでは基本的に味覚と嗅覚は同一の機序であるはずだ。化学物質の刺激が受容体によって感受され、神経刺激となって脳に送られることに変わりはない。

ただ嗅覚は味覚より遥かに微量の物質に感応しなければならない。したがって味覚の中枢である後脳ではなく、嗅脳という装置を形成し、シナプスを変えて前脳(視床)に至るのである。

5.
ターボ・プロップの発想

その差は陸上に上がると一気に拡大する。味覚は引き続き液体を対象とするのに対し、嗅覚は空気を対象とするようになる。液体クロマトグラフィーと ガスクロマトグラフィーの違いだ。ところが初期のガスクロは液体クロマトの装置を流用しただけで、ひどく性能が悪かった可能性がある。

その懸隔を埋めるために生み出されたのが第二嗅覚系たる「ヤコプソン器官」なのではないか。要するにジェット機の時代にターボジェット・エンジンを作れなかったソ連が、ターボ・プロップでしのいだみたいな話しだ。
(とはいえツポレフは4つの同軸反転プロペラを持ち、最大巡航速度が925km/hという名機であった)

ただそれは生物進化の一時的な寄り道に過ぎなかった。正規の嗅覚がよりいっそう鋭くなり、視覚機能がより高度化する中で、第二嗅覚系の必然性は薄らぎ、やがて退化していく。 

という筋書きを考えたのだが、いかがであろうか。
多分結構いい線をいっていると思うのだが、そうすると次の難題が出てくる。本当に嗅神経の性能は爬虫類→哺乳類のあいだに大幅アップしたのだろうか。もしアップしたとするなら、それはどういう技術革新によるものであろうか。
悩みは尽きない。 


生物の起源を遡って勉強してきたが、その中で感じたことを書き留めておこう。

生物というのは、ただの生命ではない。生命が細胞という形をとった「生命の一種」である。

それはLUCA(共通祖先)までは遡れるが、それより前に細胞という形に至らない「生命活動」があったことは間違いない。「細胞」という存在は、生化学的・生物物理学的に見れば、あまりにも完成されているからである。

ただそのありさまは想像の範囲を出ない。そこには、3つの要素があったであろう。

① 膜の形成と囲い込み、② 代謝、これは2種類に分かれる、a エネルギーの獲得と利用、b 体成分の合成と異化、③ 増殖

である。

そして①→③の道筋をとって生命が進化したことも間違いないと思う。

すなわち膜の形成こそが最大の要素である。そのチャンスは高温高圧下、エネルギーが溢れかえり、分子が次々に衝突し、化学反応が密集する条件のもとでしか実現しないだろう。確率論的な話だが…

(かと言って、深海底の熱水湧出孔が生命の出自だというのではない。地球誕生直後の重爆撃期に、早くも「生命」が登場した理由を説明しているのである)

膜の形成以前に、さまざまな無機的な化学反応があった。マンガンなどの触媒を中心に、化学反応群が継続して発生するクラスターがいたるところに形成される。

それがある日、膜をかぶり他所とのあいだに境を作ることになる。膜内では有効成分の濃縮が起こる、無効成分の排除が起こる。

こうして代謝経路が積み上げられ、完成していくことになる。またアミノ酸や核酸の合成経路も組み込まれることになる。

②bと③については、RNAワールド論争の渦中にある。まだ不明なことが多く、語るに至っていない。

こういう理解は、実はオパーリンのコアセルベート・ドグマそのままである。

日進月歩のこの世界で、1927年に提起されたこのドグマがいまだに真理性を保ち続けているのは、驚異的であると言わざるをえない。

ついでに言っておきたいのは、このような生命の生成から定着へと至る発展過程の論理が、人類社会の発展過程にも適応できないだろうかという着想である。

まぁ、いわばマルクスの史的唯物論の発展型バージョンである。

ヒトは小魚の群のように群れて泳いでいたのが、膜を作ることにより安定し、定着し、密度を上げることにより膜内構造を作り始める。

やがて光合成装置を取り込むことにより、農耕社会へと入っていく。

そこへ荒野の彼方から真核生物がやってきて、人々を村ごと飲み込んでしまう。彼らは細胞内に農耕民を住まわせる一方、核膜の中にみずからを隔離し、王として君臨する。

と言った具合だが、ここから先はダボラ話になるのでやめておく。


流石に有名曲だけあって、You Tubeでもずいぶんとたくさんの演奏が聞ける。
本日聞いたのはブーレーズ、モントゥー、ミュンシュ、レイボヴィッツ、カラヤンの旧盤と新盤、ラトル・BPO、ブラッソンというところ。この倍くらい音源がある。カラヤンの旧盤はツェラーのフルートというのが売りになっているが、You Tubeの音質はかなりの低レベル、新盤は85年のものらしいが、どうしようもなくうざったい。
ラトルの音源は05年の東京ライブらしい。何故か音がくぐもっている。一つひとつの音は素晴らしいのに残念だ。ブーレーズはいつもながら好きでない。嫌なやつだ。
モントゥーの録音は来日直前のものであろう、ステレオだ。デッカのおかげで素晴らしい音がとれている。ミュンシュの録音も引けをとらない。モントゥーはロンドン交響楽団、ミュンシュはボストン交響楽団で最高の技術水準だ。
レイボヴィッツはLPからの盤起こしで、音そのものは良いのだが低調の雑音が気になってしまう。
いろいろ聞いていると、この曲はフルート協奏曲ではなく、かなり指揮者次第で変わってくる曲だということが分かる。ワグナーを聞いているのではないかと錯覚することさえある。それはレイボヴィッツ盤を聴いていると良く分かる。
ということで、ミュンシュには悪いがこの曲向きではない。減点法で行くとモントゥー盤かなということになる。ブラッソンもとてもいいのだが、オケのレベルがちょっと物足りない。
まぁ今日はこんなところで。


EUはどこへ行くか

イギリスの離脱、フランス大統領選での熱い論戦が示すように、EUがどこへ行くのかは重大な問題となっている。

そのEUの最高機関である欧州議会が開かれている。13日にユンケル委員長が施政方針演説を行い、翌日から討議が始まった。

ユンケル演説の骨子は以下の通り。

1.EUはギリシャの債務問題や難民流入、ユーロ懐疑派の台頭という危機を経験した。しかしEUは「打ちのめされ、傷ついた」状態から回復しつつある

2.経済成長が再開した。「欧州に流れが戻った。絶好の機会が訪れている」

3.すべての加盟国に訴える。ユーロ通貨圏や他のEU機関に参加しよう。ユーロはEU全体の通貨となるべきだ。

4.日本とEPAで合意に達した。米国とのFTAも交渉を加速させよう。対中国ではインフラやハイテク製造業、エネルギー分野における欧州企業買収を制限し戦略的利益を守る。

5.常任のEU財務相を置く。欧州安定メカニズム(ESM)を拡充し欧州版国際通貨基金(IMF)の創設を検討する。


討議の中で明らかになったのは、雇用の問題、富の不平等、福祉・貧困対策、労働条件などで問題が山積しているということであり、その根底にあるリーマン・ショック後10年に渡る緊縮政策の是非だ。

この間の緊縮政策は結局、多国籍企業の利益に沿ったものでしかなかった。

欧州では1億2千万人が貧困に陥っている。失業者は2千万を超えている。これは緊縮政策の結果であり、まさに「欧州の失われた10年」となっている。

「労働者は雇用を脅かされ、農家は農産物価格の低迷で市場から締め出され、失業者は放置されている」(欧州統一左翼)

「労働者は労働力柔軟化政策のもとで、長時間労働、劣悪な労働環境、低賃金で働かされている。これが社会的ダンピングとなって、さらに負の連鎖を引き起こしている」(欧州統一左翼)

これらの事態の原因のすべてがEUにあったのか、各国政府が担うべき責任は分からない。(ユンケルはルクセンブルクの首相だった時、アマゾンと租税優遇措置を取り決めた。この件については、現在も欧州議会税制特別委員会が調査を続けている)

しかしはっきりしていることがある。たとえその原因の多くが各国政府の責任であったとしても、それを救うためにEUは作られたはずだ。

少なくとも犠牲を助長するような政策であってはならないはずだ。

これらの点で、EUがその存在意義を問われる状況はこれからも続くことになろう。
EUの存在意義を欧州共同防衛というような内容に変質してはならないはずだ。それは多国籍企業のためのEUに変質するときの隠れ蓑にすぎない。


このあいだ、前原新体制について思いを巡らしたところだが、事態は思わぬ方向へと急展開しつつある。
率直に言えば、総選挙の動きは半ファシスト安倍政権の思惑が暴走したものとしか思えない。
前原構想の目標
前原構想というのは、一言で言えば二大政党制の復活であった。二大政党制は小選挙区制とペアーとなった、日本の政治システムづくりの「目標」であった。小選挙区で自民党が長期低落を続ければ、いずれ独裁か革命かという選択を迫られることになる。どちらにしても政治の不安定化は避けられない。
だから、とくに財界を中心にかなりテコ入れも行い、民進党の政権掌握までこぎつけた。
民進党政権は3つの傾向を生んだ。民進党の右傾化(経団連の御用政党化)、自民党の半ファシスト化、そして共産党をふくむ(排除しない)リベラル勢力の伸長である。
半ファシスト勢力とリベラル勢力の対立という構図の中で、民進党(財界主流)は谷間に落ち込んだ。そこからの復活を目指すにはどうしたらよいか、というのが前原の問題意識であったろう。
「共産党を除く」路線が桎梏となっている
それは「リベラル右派」(というものがあるとして)の悩みでもある。結局「共産党を除く」路線が清算されない限り出口がないのだが、そこには未だ踏ん切りがつかない。( 
だから前原は「共産党とは志を同じくせず」と言いつつ、党利党略的に選挙協力はして(させて)、民進党の生き残りと二大政党制の再建を図ったのだろうと思う。
それは明らかな建前と本音の矛盾であり、経団連・連合は前原を信用はしなかった。しかしトリプル補選までは様子を見ようとしていた。
そこを安倍半ファシスト勢力は容赦なく衝いてきた。
これが大まかな構図ではないだろうか。
安倍政権は本来は異端
押さえておかなければいけないのは、安倍政権は日本の支配層にとって異端だということである。
ひとつは極端な右翼思想をバックボーンとし、反中国・反北朝鮮の推進役である。
もう一つは財政再建、金融引締めのオーソドックスな経済政策に対抗して、赤字国債・量的緩和というヘテロな政策を断行したことである。
アベノミクスが打ち出された時、ときの経団連会長はこれを面罵した。しかし兎にも角にもアベノミクスのもとで円高は是正され、日本企業は息を吹き返し、今や空前の利益を上げている。
いっぽう、正統派が打ち出した消費税増税は惨憺たる結果をもたらした。
今や彼らはアベノミクスの前に拝跪し、みずからのビジョンを失ったまま金儲けに奔走しているのである。
半ファシストとの関係を断て
ヒトラーが登場した時、ドイツ経済界の大勢はナチスにきわめて批判的であった。しかし彼らは最終的にはヒトラーの驥尾に付し、十分に儲け、そして第二次大戦へと突き進んでいった。
いま、そういう時代を迎えようとしているのではないか。
小池・細野ラインでの政界の再編はありえない、もはやそのような余裕はないと、臍を固めるべきではないだろうか。反共リベラルの諸氏よ!
需要創出を中核とする経済政策への切り替えを
そして同じヘテロでもリーマンショックをもたらしたグリーンスパンと、それを(欧州を犠牲としてだが)再建したバーナンキの違いくらいは理解すべきだ。(2013年08月05日 バーナンキの変節
変えられない(短期的には)世の流れというものはある。健全化一辺倒の経済政策の誤ちを総括し、内需拡大を中心とするヘテロ政策を組み込んだ新たな経済ビジョンを構築すべきではないか。
最後に、山崎元さんの「民進党への提言」を再掲しておく。これは財界(連合)への提言でもある。

前原・民進党は何をすべきだろうか。簡単にまとめるなら、以下の7点だ。

(1)安倍首相への批判に争点を絞る

(2)憲法と対共産党の議論は棚上げ

(3)選挙協力は実を取る

(4)「再分配政策」重視を打ち出す

(5)金融緩和継続と消費税率引き上げ延期を確約

(6)フレッシュな顔を前面に出す

(7)仲間割れしない!

もご参照ください

蛇の舌は嗅覚」(星野一三雄さん)だという記事から。
Q.ヘビの舌はなぜ二股に分かれているの?  なぜヘビは舌をチロチロ出し入れしているのか?
A.ヘビは舌で「臭いを嗅いでいる」からです。 私たち人間やイヌなどは「鼻」で臭いを感じ取ります。 しかしヘビは「ヤコプソン器官」という器官で感じています。
ヤコブソン器官は、ヘビ以外の動物では退化してしまっています。 ヤコプソン器官は口の中の上顎の部分にあります。
ヘビは空気中に舌を出すことで、空気中の「臭い物質」を舌で絡め取り、 ヤコプソン器官に運んで臭いを感じ取っています。
ヤコプソン器官は1対ありますから、それに対応して舌も2つに分かれています。 そうすると「立体的に臭いを感知」できることになります。 また時間差を利用して、臭い物質の来る方向を感じることもできます。 

ということで、「ヤコプソン器官」というのを勉強しなければならない。またこれまで舌は味覚に関与する器官だと考えてきたが、考えを改めなければならない。
たしかに舌の神経支配は単純ではない。味覚も甘みと苦味によって感じる部位が違ったりと、いろいろ複雑だが、なぜそうなのかを考えてみたことはなかった。
以前「フロント脳」というアイデアを考えたことがあった。顔面にはさまざまな近くが集中している。
この内視神経と聴神経はそれぞれに中枢がしっかりしているが、嗅覚・味覚・触覚については動物ごとにかなり違ってくる。
その進化の流れの中に大脳の起源が潜んでいるのであろう。

ウィキの解説を元ネタとし、最近の知見を加えてある。

1868 メタンガスが微生物の働きにより発生することが確認される。

1922 高度好塩菌が分離される。

1936 嫌気性培養の技術が発達し、メタン菌が発見される。分離は1947年まで下る。

1962 高度好塩菌の細胞膜が真正細菌とは異なり、エーテル型脂質で構成されていることが分かる。

1970 好熱好酸菌が発見される。細胞壁はS層単独で構成されるが、熱に対して極めて安定。

1970 好熱好酸菌の細胞膜が好塩菌と同じくエーテル型脂質で構成されていることが明らかになる。後に古細菌の特徴として注目され、古細菌の定義となる

1976 カール・ウーズ(Woese)ら、16S rRNA配列を用いて生物の分類を開始。16S rRNAは細胞中に大量に存在するため、PCRが開発されていない当時でも配列の比較が可能だった。

1977 メタン菌、好熱菌(45°C以上で活動)が高度好塩菌と同じエーテル脂質の細胞膜を持つことが確認される(Makulaら)。これら三種は16S rRNA配列も近似していることがわかった。

1977年 ウーズら、三種の細菌を古細菌“Archaebacteria”という概念で括り、原核生物が古細菌および真正細菌からなると提唱する。

それ以前は古細菌の概念はなく、それぞれが真正細菌の特殊系として括られていた。

1982 110℃で増殖する古細菌(超好熱菌)が、海底の熱水噴出口で発見される。(今日では古細菌以外にも超好熱性を示す生物が確認されている)

1984 レイクら、古細菌の1系統であるエオサイト(=クレン古細菌)が真核生物の祖先となったと提唱。エオサイト説と呼ばれる。(Lake の系統樹そのものはかなりポレミックである)

1986 真性細菌、古細菌のいずれにおいても、古いものほど好熱菌が多いことが指摘される。

1989 遺伝子解析により、古細菌が真正細菌よりも真核生物に近いことが報告される。ただし困ったことに、細胞膜は真核生物は真正細菌と同様エステル系細胞膜である。

1990 カール・ウーズら、3ドメイン系統樹を作成。原核生物と真核生物の分岐よりも以前に、古細菌と真正細菌の分岐が起きたとする。

ウーズはLUCAについては否定的で、遺伝的仕組みが成立していない複数の生物が先行したとする。(プロゲノート説)
系統樹
1993 好熱性古細菌も真正細菌と同じ環状DNAを有することが発見される。ここから環状ゲノムを有する共通祖先の存在が提唱される(コモノート説)

1996 超好熱性メタン菌の全ゲノムが解読される。遺伝子の半数以上が古細菌独自のものであった。

1996 古細菌のタンパク合成経路が明らかになる。DNA→リボゾーム機構は、真核生物のそれの祖先型とみられる。

2009 古細菌がTCA回路を持つことが明らかになる。ミトコンドリアではなく細胞膜付近のコンポーネントで行われる。解糖系はEDもしくはEM経路に類似。

2014 古細菌の代謝機能関連遺伝子のいくつかが、細菌からの水平遺伝子獲得によることが明らかになる。

2015 エオサイト仮説を補強するロキ古細菌群が発見される。「ロキ」は北極海の深さ3千メートルの熱水噴出口の名前。遺伝子的には、これまでの候補に比べて真核生物にかなり近いという。

系統樹2

2015 新種の古細菌による脳脊髄炎の集団発生が報告される(Sakiyama)。

2017 ロキよりさらに真核生物に近縁とされるアスガード古細菌群が報告される。古細菌は新種が続々と発見されており、エオサイト候補もさらに更新されていく可能性がある。

* やってみて感じたのだが、LUCAの話は当分問題になりそうもない。LUCAの前の不完全な生命体にとってのゴールでしかない。
ミトコンドリア・イブのようなもので、「きっとそんなのがいたんだろうなぁ」程度の話にしかならない。そのほとんどは古細菌の研究で明らかになってしまうだろう。
古細菌と真核生物を結ぶ線はほぼ見えてきた。これはこれで非常に面白い。
しかしそれよりも肝心なのは、古細菌がすでに持っているDNA、リボゾーム、細胞膜、TCA・解糖系といったコンポーネントがいかに形成されて、いかに一体化していったかという問題であり、それらはLUCA以前の問題である。RNAワールド(真偽はともかく)とLUCAを結ぶ線は限りなく不透明である。

フランスの政治-かんたんな紹介

1.フランスの政治の歴史

フランスでは1789年にフランス大革命が起こりました。革命派の人々はルイ16世の王政を倒し、共和制を宣言しました。

それは「自由・平等・博愛」を宣言しました。これはフランスばかりではなく、現代の民主主義の精神的基礎となっています。

この考えはアメリカにも受け継がれ、日本の憲法もその流れのもとにあります。

自由の女神

ニューヨークの「自由の女神」はアメリカ独立を祝してフランスが送ったもので、アメリカの民主主義のシンボルとなっています

フランスは進歩と文化の中心地となりました。文学・絵画・音楽などの世界で、パリは世界の芸術の首都となりました。

そのフランスも、19世紀の後半にはアフリカ・アジアに植民地を抱える帝国主義の一国となります。例えばベトナムも半世紀にわたりフランスの植民地支配に苦しめられました。

しかし、ドイツでナチが政権を握った時、フランスでは「人民戦線」が政権を掌握し、庶民のための多くの改革が成し遂げられました。

バカンス(夏休み)という制度もこの時のものです。

人民戦線
1940年、フランスはナチス・ドイツに占領されてしまいました。しかしフランス人の心は占領されませんでした。芸術家をふくむ多くの人々がレジスタンス(抵抗)に立ち上がり、命がけで祖国と民主主義を守りました。
レジスタンス
レジスタンスのメンバーであった彼は、ナチスに捕らえられ銃殺される前に微笑んだという。 

第二次大戦後は、国内の経済荒廃に加えベトナムやアルジェリアなどの植民地を失い苦境に立たされますが、依然として高い文化的プレステージを背景に強い影響力を保ち続けています。

政策的にはアメリカ主導のグローバリズムとは一線を画し、ドイツとの共同による国際経済新秩序の形成を目指してきました。

国内的には労働者・農民の発言力が強く、二度にわたり社会党が政権を握るなど左翼色が濃いのが特徴でしたが、リーマン・ショック後の長引く不況の中で企業よりの政策が強まっています。

それに対する批判が左翼の方向には向かわず、極右の排外主義に傾いているところに、目下の危険があるといえるでしょう。
こういう状況の中で2017年の総選挙が行われました。
おおかたの予想では社会党政権の地滑り的大敗北、左翼勢力の後退、極右勢力の躍進、場合によっては「国民戦線」の政権就任というものまでありましたが、その中で左翼のメランションが予想外の健闘、「国民戦線」の挫折という結果となりました。
この中でとりわけ目立ったのが若者の決起でした。その原因は何か、若者の政治回帰はどのようにして実現したのかがとりわけ興味深いところです。
そのあたりが今回のお話で聞きたいところです。


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