鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。


2018年03月16日 
「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と財務省は考えているはずだ

で、「このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない」と書いた。

しかしメディアは早くも「佐川疲れ」の様相を呈している。このままでは「築地移転」の二の舞にもなりかねない。改ざん問題が麻生の首もとれないで終わるのなら、むしろその方が立憲主義と民主主義にとっては深刻だ。

きっちりと取れるものはとっておこう。

この問題は国税局長が辞任するのなら、財務大臣も連帯責任を取らなければならない、そういう性質の問題だ。「佐川だ、佐川だ!」と叫ぶのは、人としてあまりにも卑怯未練だ。

「政治主導」という言葉は、そういう意味も持っているのではないだろうか。そこに頬っかぶりしてしまう人には「政治主導」を語る権利はないのではないだろうか。

下記のWebページに松浦武四郎の樺太文書が紹介されている。
ここから抜粋、引用させて頂く。

樺太については、松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に詳しく述べられている。しかし難しくて解読が困難であるので、更科源蔵・吉田豊共訳による「アイヌ人物誌」より抜粋してみたい。

松浦武四郎の時代、和人は樺太を北蝦夷と呼んでいた。
樺太(カラフト)というのはアイヌ人の呼び方である。カラフトとは唐(カラ)人の意味である。
唐人というのは外人の総称であり、中国人というわけではない。
全国樺太連盟のページでは、樺太の語源はアイヌ語で、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)と記されている。松浦武四郎説は現在は否定されているが、当時の和人がそう解釈していた可能性はある。
カラフトのうち、ロシア人はよく赤い衣服を着ているので赤人(アカフト)と呼ばれる。
むかしアイヌは樺太には住んでいず、山丹人とウィルタの世界だった。
山丹人というのは間宮海峡の両側に住むニブフ族のことで、そのむかしは粛慎(オホーツク人)として北海道北部まで住んでいたのが、次第にアイヌに追いやられたものとされる。
山丹人が蝦夷地に来て大陸産の品物を持ちこみ、カワウソ、狐、黄テンの毛皮などと交易した。
その後、アイヌが樺太に進出するようになった。1809年(文化6年)から松前藩はアイヌの居住区を北蝦夷と呼ぶよう指示した。(それまでは北海道と一括して蝦夷地)
北蝦夷を樺太と呼ぶようになったのは明治になってからで、北海道と同じく松浦武四郎の提案による。

松浦による樺太地図(松浦武四郎記念館  蔵
樺太北部
樺太南部

ということで、長い前振りが終わって、ここから
梅木孝昭「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」(道新選書 1997)のノートを開始する。
かなり細かい地図が必要になるが、順次紹介していきたい。

余談だが、松浦のアイヌよりの姿勢がしばしば強調されているが、私の印象としてはむしろ松前藩の悪政と人権無視に対する怒りがまず最初ではないかと思う。
それは津における最初の師、平松楽斎の影響があったと思う。平松は多彩な能力を持ち、民衆の立場に立った知識人であった。大塩平八郎とも接触を持っていたようだ。
松浦の遍歴の時代は天保の大飢饉が日本中を襲った時代だ。それに対して、従来型の武士ではない民衆指向性と科学精神を併せ持った人材が各地に輩出した時代でもある。
おそらくその一部は維新運動の志士ともなったであろうが、それよりもっと広範に草莽の士として分散していたのではないだろうか。松浦は彼のヴィルヘルム・マイスターの時代を経て各地でその息吹きに触れたのではないだろうか。
そういう全国レベルでの人の上に立つものの誠意に引き換え、松前藩のおさめる蝦夷地はあまりにひどかった。人間のクズ共がいかにもクズらしく利を貪っていた。それが許せなかったのが最大の理由であろうと思う。
だから、松浦の抗議とか運動とかの根は意外に浅い。場面場面では闘っているように見えても、意外と権力そのものとの闘いにはなっていかない。全国を歩き回る執念に比べれば、それはずいぶんと淡白なものであった。

もう一つ、松浦という人がスーパーマンであることにまったく異論はないのだが、若干話をふくらませる傾向がある人物であることも疑いなさそうで、まぁ悪気はないのだからいちいち目くじら立てる必要はないのだが、すべてを史実と断じるのではなく一種の「ドキュメンタリ」として見ておくのが良いと思う。ということは、もし客観的事実と合わない記述があれば、そこは一種の創作と判断すべきだろうということだ。

2015年09月16日 


松浦武四郎と樺太
これまで最上徳内と間宮林蔵による樺太探検を勉強してきたが、ここまでやっておいて松浦武四郎の探検を触れないのは片手落ちであろう。
松浦の樺太をふくむ蝦夷地探検は全6回に及ぶが、そのうち2回、樺太まで足を伸ばしている。
これらについて詳しくレビューしているのが梅木孝昭さんの「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」である。
梅木さんはたんなる回顧の旅ではなく、ほとんど松浦武四郎に匹敵するような探検を試みている。
この本は1997年に道新選書の一冊として発行されている。
この本をもとに例によって年表化してみたい。といっても松浦武四郎の日誌は微に入り細に渡るので、メリハリをつけなければなるまい。それは作業しながらおいおい考えることにする。
まず、松浦武四郎の全体像を知るために彼の年譜もあわせて載せておく。(記述の多くを松浦武四郎記念館資料による)。印象としてはこの年表記載がもっとも正確であり、梅木さんの年表には若干の潤色があるかも知れない。
なお樺太全体の年表については私の作成した下記の年表をご参照いただきたい

1818年3月 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて出生。父親は紀州藩地士で庄屋を営む豪農であった。
出生地は須川村となっているが、なかなか探すのは難しい。
伊勢国一志郡は松坂と津に挟まれた農村地帯であるが、江戸時代は紀州藩と津藩の所領が混在していた。
ウィキペディアで調べると、須川村という村名はない。紀州藩領として森須川村というのがあり、これが明治7年に改称して小野江村となっている。改称の理由は不明だが合併とか分割とかではない。
ただし小野江村はその後、肥留村、西肥留村、舞出村、甚目村などを併合している。
昭和30年の第一次合併の際に、小野江村は米ノ庄村・天白村・鵲村と合併し三雲村を形成した。これにより小野江は三雲村内の字名となった。
平成17年の第二次大合併により、三雲町(旧三雲村)は松阪市と合併し、消失した。
大正13年の三重県地図が参照できる。
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1818年 この年伊能忠敬が死亡。
1824年 真学寺で読み書きを習う。(真学寺は曹洞宗の寺で、今も真覚寺として現存している)
1831年(13歳) 津藩平松楽斎の塾で学ぶ。平松は藩校を創設した学者。本草学に秀で、天保飢饉に際し「救荒粥」を案出。ほとんど餓死者をださなかった。神明流剣術の遣い手でもあり、大塩平八郎とも交流があった。
天保の大飢饉: 1833年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化、全国で100万人以上の死者を出した。
1833年 手紙を残して突然家出。江戸で篆刻を学ぶが、見つかり連れ戻される。その後も「遊歴の志ざし止まず」(この項は脚色されているかも)
1834年(16歳) 京都、大阪で見聞。その後北陸・東北の諸国をめぐる。
1835年 江戸に戻り、水野忠邦邸に奉公。その後思いあって出家(真言宗)し文桂を名乗る。(長崎で出家したときに文珪と名乗ったという記載もある)
1836年 ふたたび諸国巡歴。瀬戸内海周辺をめぐり周防に達する。
武四郎は篆刻により旅費を稼いでいた。「是に於て発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に瓢然として浪華の街に下り…」と述べている。
1837年 九州にわたり諸国を遍歴。入国の取締りが厳しい薩摩には曹洞宗の僧形となって入っている。
1837年 天保飢饉の影響が広がる。大塩平八郎の乱が発生。大阪では毎日約200人を超える餓死者。
1838年(20歳) 長崎で大病を患う。これを機に禅僧となり文桂と名乗る。九州の見聞を記した「西海雑志」を著す。
1839年 平戸の田助在曲村の宝曲寺の住職となる。天桂寺も兼務。この年五島列島を旅する。
平戸は松浦武四郎の祖先とされる松浦水軍の発祥の地であり、平戸定着への思いはあったとみられる。
1843年(25歳) 平戸村木引(粉引)免の千光寺に移転。
9月 田助のいか釣り船に便乗して壱岐・対馬に渡り、朝鮮入りを目指す。半月後に「其国禁の厳しければ行くことも難く」断念する。
hiratomura
 松浦市 福島町 伊万里市 佐々町 武雄市 有田町 新上五島町 ... - 西肥バス
1843年 平戸光明寺(真宗の名門)の了縁に師事。詩歌・画を学ぶ。
1843年 長崎でロシア(赤蝦夷)南下の危機を知り、一転蝦夷地を目指す。
1844年(27歳)
2月 伊勢で父母の供養をすませたあと還俗。伊勢神宮に参拝して蝦夷地へ向かう。
9月 津軽半島の港町鯵ケ沢に到着。便が得られず天候悪化のため年内の渡海を断念。仙台藩領唐仁村に達し、そこで越年する。
1845年
1月 いったん江戸に戻り、準備作業。
4月 鯵ケ沢に着き、江差の商人の持舟に便乗。待望の蝦夷地入りを果たす。
4月 江差に人別を入れて身分証明を得、箱舘の商人和賀屋孫兵衛の手代という名目で、東蝦夷地に向かう。海岸線沿いに根室(歯舞諸島および知床岬)までを往復。
10月 箱舘にもどる。
1846年(29歳)
2回目1846
4月10日 第2回調査に向け江差を出発。樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行。名は雲平、法被姿の草履取りとして付き従う。
5月17日 宗谷港に到着。
5月25日 風待ちの後、西ノトロ岬南端の白主を目指すが、「出し風」が強くベシトモナイ(菱苦)まで流される。このため徒歩にて白主にたどり着く。
閏5月1日 白主を出発しアニワ湾内の久春古丹に達する。
番人らが三、四十人おり役人も六人ほど詰めている。アイヌの戸数は二十戸ほど。春二シンで賑わっており、アイヌの漁夫が千人ほども集められていた。
閏5月20日 久春古丹からチベサニ(長浜)に行き、ワワイ(和愛)・チベサの湖を経由して半島の付け根を横断、東海岸のトンナイチャ(富内)に出る。東海岸を北上し、マーヌイ(真縫)の南隣のシララオロ(白浦)へ着いた。
ここまでの通過地名を列挙しておくと、
クシュンコタン→トウブチ(遠淵)→シラリウトル→トンナイチャ(富内)→オチョホカ(落帆)→イヌヌシナイ→ヲショヱコン→ナイフツ(栄浜)→オタサン(小田寒)→マトマナイ(真苫)→シララオロ
白浦にはノテカリマという「全島を統率する」長老(エカシ)が住んでいた。滞在中、たまたまオロッコ人とタライカ人総勢十八人が四艘の船で挨拶にやってきた。
閏5月28日 シララオ口から西海岸クシュナイ(久春内)ヘ出た。これより南に戻る。
ここからの通過地名を列挙しておくと、
シララオロ→マーヌイ(真縫)→山越えで西海岸へ→クシュンナイ(久春内)→ナヨロ(名寄)→ノタシャム(野田寒)→ヒロチタラントマリ(広地)→トコンボ→モイレトマリ→ショウニ→ベシトモナイ(菱苦)→シラヌシ
6月28日 シラヌシに戻る。
7月16日 宗谷へ渡る。この後松浦武四郎は単独で、宗谷-知床岬間のオホーツク海岸を往復。利尻・礼文に渡る。
9月 江差へ帰着する。
1847年 箱館に滞在。松前藩の内情を探る。
1849年(32歳) 第3回目の蝦夷地調査。船で国後島、択捉島に渡り調査。ここまで3回の調査はすべて個人の意志によるもの。
1849年 わが国初の北海道図として「蝦夷大概図」を発行。
1850年 「初航蝦夷日誌」全12冊・「再航蝦夷日誌」全14冊・「三航蝦夷日誌」全8冊が完成。
1854年(安政元年) 日米、日露などの和親条約が締結される。
1854年(安政2年) 宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。翌年には箱館奉行所支配組頭が宗谷場所を引き継ぐ。
1854年 蝦夷、樺太、千島の地図を作成し幕府に提出。松前藩は松浦を幕府のスパイと見て活動を妨害する。
1855年(38歳) 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢される。(正式官名は蝦夷地受け取り渡差図役頭取)
1856年 (39歳) 第4回目の調査。向山源太夫(箱館奉行支配組頭)を隊長とする調査隊の一行に加わる。
4回目1856
3月 箱館を出発。西海岸を北上する。
5月22日 宗谷を出帆し白主に上陸。
前回北限のマーヌイからさらに北上。カシホ、マグンコタン(浜馬郡譚)、シルトル(知取)、トマリケシ(泊岸)、ナヨロを経てタライカ湖畔のシリマヲカ(敷香)に至る。マーヌイまで 引返して西岸の久春内に出たあと、ライチシカまで北上しその後白主に帰還。
8月7日 白主を出帆して宗谷に帰着。その後知床に周り箱館に戻る。

1857年(安政4年)
4月 第5回目の調査 石狩川や天塩川を河口から上流部まで遡る調査。
8月 箱館に戻る。
1857年 松浦武四郎、「蝦夷山川地理取調方」となり「東西蝦夷山川地理取り調べ日誌」を作成。
1858年 (41歳) 
第6回目の調査。蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、十勝、道東地域の内陸部の調査
三回の調査をもとに「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。探検の体験をもとに、アイヌ民族の人口が激減していることを憂い、アイヌの命と文化を守ることを訴える。
1859年 安政の大獄。知己の吉田松陰、頼三樹三郎らが死刑となる。
1861年 「後方羊蹄日誌」・「石狩日誌」・「久摺日誌」・「十勝日誌」があいついで出版される。
1869年 開拓判官となり、蝦夷地を「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した。
1888年 東京の自宅で脳溢血により死去。

明日は佐川さんの国会証言。そこで以前の記事を再掲する。
2017年07月25日 佐川宣寿氏の「着任インタビュー」で転載した
着任インタビュー」である。
2013年に大阪国税局長に就任した際に、納税協会のインタビューに答えたもの。

我々の使命は、「納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する」ことであります。租税回避や悪質な脱税を行っている納税者に対しては、毅然として厳正に対処していきます。
そのために、我々は厳正に調査・徴収を行って、公平な課税の把握をしていくとともに、悪質な納税者に対しては厳格な態度で制度上可能なあらゆる手段を使って是正させていくことが必要であります。
我々に与えられた使命を着実に果たしていくためには、何よりも国民の皆様に信頼される組織であることが不可欠であります。
国税職員は、納税者に対して法令の遵守を求めるわけでありますので、職員一人一人が高い倫理観を持って、綱紀の厳正な保持に努め、基本を忠実に守って職務に専念しなければならないと考えています。
座右の銘というものは特にありませんが、仕事をする上では、平常心で誠実に取り組むことが大切だと思っております。なかなかいつもそのとおりにはいかないのですが、心がけるようにしております。

下記の文章は私による要約ですので、引用はお控えください。本来の見出しは「制裁非難声明」とすべきであることをお断りいたします。
元の文章は
3月12日付の venezuelanalysis.com 掲載記事 を独立ジャーナリストの加治康男さんが訳したもので、駐日ベネズエラ大使館のホームページにアップされていると思います。
チョムスキーと並んで書かれている Danny Glover は映画俳優でリーサルウェポンでおなじみの人です。
ダニー・グローヴァー
   ウィキペディアより
ノーム・チョムスキーら150人がベネズエラ制裁を非難する声明
Noam Chomsky, Danny Glover & 150 Other Activists Slam US-Canadian Sanctions on Venezuela

<記事のリード部分>
米国とカナダの市民活動家が、ベネズエラに対する制裁措置に反対の声を上げました。
制裁はベネズエラの貧しい弱者を苦しめる、違法かつ威圧的な措置です。
私たちは、ベネズエラの心ある人たちとともに、トランプ大統領と議会に要請します。ベネズエラの諸勢力のあいだで行われている対話を支持し、制裁を解除してください。
この対話はサパテロ元スペイン首相、メディーナ・ドミニカ大統領、チリ、メキシコ、ボリビア、ニカラグアの外相が仲裁にあたっています。フランシスコ・ローマ教皇もこの協議を支持しています。
マドゥロ現大統領と4人の大統領候補は、5月20日に大統領選挙を実施することで合意しました。
米国、カナダ両政府はこのプロセスを支持してください。ベネズエラ国民が民主的に、外国から脅威を受けることなく投票するために協力してください。
オバマ米政権下での制裁措置に加え、トランプ政権による追加制裁措置は、ベネズエラの一般民衆に負担を強いています。この一方的制裁は国際法に違反しています。
150人を超える米国とカナダの活動家は国会議員に次のような手紙を送っています。


【公開書簡: 私たちは制裁ではなく、仲裁を支持します】

私たちは、米国とカナダの政府にもとめます。
ベネズエラに対する違法な制裁を直ちに解除してください。ベネズエラ政府と非暴力派の野党勢力とを仲裁する取り組みを支持してください。
私たちは南北アメリカのすべての国の人々が、主権の尊重に基づく関係を維持することをもとめます。
私たちは違法な制裁措置に深刻な懸念を抱いています。制裁の結果は貧しい、ぎりぎりの生活を送っている人々に最も重くのしかかります。
そしてその国の政治的及び経済的なあり方に、好ましくない変化を強要することになります。
ベネズエラの世論調査によると、大多数の人々が制裁に反対しています。それはマドゥーロを支持しようとしまいと同じです。
いまバチカン、ドミニカ共和国などの国が仲介し、ベネズエラの現状を解決しようと取り組んでいます。しかし制裁は深く分断された状況をより複雑にするだけです。
また制裁は、政府と制憲議会が危機的な経済課題に対処しようとする取り組みを壊しかねません。
アメリカとカナダの政府幹部は、「高尚な」言葉遣いにもかかわらず、ベネズエラ政府に対する好戦的な干渉姿勢を取り続けています。それは民主主義、人権および社会正義を本心では軽視しているからでしょう。
オバマ前大統領は「ベネズエラは米国を脅かす国家安全保障上の脅威である」との発言を残しました。
ニッキー・ヘイリー米国連大使は「ベネズエラは世界を脅かし、ますます暴力のはびこる麻薬国家である」と語りました。
これらの国際舞台での発言は、平和的な紛争解決にはほとんど寄与することがないでしょう。
ベネズエラの政治指導者は新自由主義モデルをきらっています。米国の覇権に異を唱え、米国がラテンアメリカに新自由主義モデルを導入しようとすることに抵抗しています。
だからこそ、ベネズエラは周知の通り、米国の体制転換に向けての努力の主要な対象になっています
もちろん、ベネズエラが世界最大の石油埋蔵国であることも、ワシントンから望まぬ注目を浴びる原因となっています。。
米州機構(OAS)の事務総長ルイス・アルマグロはならず者としか言いようがありません。彼はベネズエラの野党勢力によって任命された「対抗最高裁判所」を公然と支持しました。
この「裁判所」が宣誓式を行うのに、ワシントンDCのOAS本部を提供しました。
アルマグロはベネズエラで最も過激な勢力、暴力を是認する野党勢力をつけあがらせています。それは仲裁の取り組みを妨害するだけでなく、OASの合法的権威を失墜させています。
米国のベネズエラ経済制裁は、ベネズエラの主権を犯し人々の基本的人権を侵害しています。ベネズエラはハイパーインフレと基本物資の不足を解決しようと取り組んでいます。
そういう国に対して経済的な圧力を威圧的で鼻持ちならないやり方で押し付けています。民主主義と自由を前進させるとの名目はウソっぱちです。
私たちは米国の指導者に冷静な発言をもとめます。ベネズエラの政治、経済問題の本当の解決策を探してください。
経済制裁を取り下げ、ドミニカ共和国やスペインのサパテロ元首相、バチカンが主導する仲裁の取り組みを支援してください。

付属: 「米州機構憲章第4章第19条」
いずれの国家または国の集団も、理由の如何を問わず、直接または間接に、いかなる他国の国内または対外の事項に干渉する権利を有しない。この原則は、武力のみならず、国の人格または政治的、経済的および文化的要素に対する他のいかなる形態による干渉または脅威の企てをも禁止するものである。

署名者

米国
ノーム・チョムスキー 
ダニー・グローバー 市民アーティスト
エステラ・バスケス 「医療従事者労組」副議長
トーマス・ジャムブルン デトロイト大司教区司教
ジル・スタイン 米緑の党
ピーター・ノールトン 全米電気労組議長
アルフレド・デ・サヤス博士 元国連高等弁務官事務所 国連の独立調査官
メデア・ベンジャミン 「コード・ピンク」共同設立者
ダン・コヴァリック 連邦鉄鋼労働組合・顧問弁護士
クラレンス・トーマス ILWU(在サンフランシスコ労働組合)元専従職員
ナターシャ・リシア・オラ・バナン 全米弁護士会会長
チャック・カウフマン グローバル正義同盟・共同コーディネーター
ジェームス・アーリー ラテンアメリカ及びカリブ海諸国におけるアフリカ系人アーティキュレイション
グロリア・ラ・リーバ キューバ・ベネズエラ連帯委員会
カレン・ベルナル カリフォルニア州民主党・革新議員団議長
ケビン・ゼーズ、マーガレット・フラワー 「人民の抵抗」共同議長
クリス・ベンダー 在カリフォルニア州労組
メアリー・ハンソン・ハリソン 「平和と自由のための女性国際連盟」・米国支部長
アルフレッド・L・マーダー 米国平和評議会会長
タミー・ドラマー カリフォルニア州民主党執行委員
グレッグ・ウィルパルト ジャーナリスト
ジェリー・コンドン 「平和のための退役軍人」理事長
チアナ・オカシオ ラテンアメリカ・アドバンスメント・コネチカット州委員会委員長
レア・ボルジャー 「戦争を越えた世界」コーディネーター 
アレクサンダー・マイン 「経済政策研究センター」・上級研究員
ケビン・マーティン 「平和活動及び平和アクション教育基金」議長
ロバート・W・マッケスニー博士 イリノイ大学アーバナシャンペーン校 
バーソニー・デュポン 「ハイチ・リベルテ」取締役
フレデリック・B・ミルズ博士 (米メリーランド州)ボウイー州立大学哲学部
マルシャ・ルンメル (米ウィスコンシン州)マディソン市会議員
モニカ・ムーアヘッド 「労働者世界党」
キム・アイヴス 「ハイチ・リベルテ」記者
シンディ・シーハン Cindy's Soapbox
(聞き覚えのある名のこの人は、息子をイラクで失い、ブッシュの農場前で座り込みをやって有名になった活動家です)
クラウディア・ルセロ 「中南米問題シカゴ宗教指導者ネットワーク」議長
ウィリアム・カマカロ ベネズエラ活動家 ボルティモアフィル・ベリガン
デイヴィッド・W・キャンベル、USWカリフォルニア州カーソン事務局長
アリス・ブッシュ SEIU北西インディアナ支部ディレクター
テレサ・グティエレス 国際アクションセンター共同ディレクター
クレア・デロチェ ニューヨーク拷問に反対する異教徒間キャンペーン
エヴァ・ゴリンジャー ジャーナリスト兼作家 クロスボーダーネットワーク(カンザスシティ)
(ベネズエラ通の弁護士で、チャベス時代から活躍している人です)
アントニア・ドミンゴ ピッツバーク・ラテンアメリカ進出協議会
デイヴィッド・スワンソン 「戦争を克服した世界」ディレクター
(左翼のブロガーとして有名な人)
マットマイヤー 「和解フェローシップ」全米共同議長、
ダニエル・デール牧師 ディサイプルス派キリスト教教会CLRN理事会
キャスリーン・デスセルズ 「八日目の裁きセンター(8th Day Center for Justice)」
マイケル・アイゼンシュチャー 「戦争に反対する米国労組(USLAW)」全国連絡委員会
ポール・ドルダル博士 「解放と公平のためのキリスト教ネットワーク」ディレクター
ダラス・フリードマン博士 チャールストン大学国際学部理事
チャールズ・ダーム司教 「ドメスティック・バイオレンス・アウトリーチ」大司教区理事
ブラス・ボンペイン 南北アメリカ事務所理事長
ラリー・バーンズ 西半球問題評議会南北アメリカタスクフォース理事
シャラット・G・リン博士 「サンノゼ平和・司法センター」元議長
ダニエル・チャベス トランスナショナル・インスティテュート
スタンツフィールド・スミス シカゴALBA連帯
アリシア・ジャッココ 「キューバ平和、正義、尊厳ナショナルネットワーク国際委員会」米国コーディネーター
ディアナ・ボーン「地域行動ニカラグアセンター」コーディネーター
ジョー・ジャミソン クイーンズ・ニューヨーク平和評議会
ジェリー・ハリス 「北米グローバル研究協会」書記
チャーリー・ハーディ 「カラカスのカウボーイ」著者
ダン・シェア 「平和のための退役軍人」全国委員会
クリスティ・ソーントン博士 ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所フェロー
 以下略

カナダ
ジェリー・ディアス UNIFOR会長
(UNIFORは運輸、自動車、通信業界などを網羅した一般労組。組織人員30万でカナダ最大の一般労組となっている)
マイク・パレセック カナダ郵便労働者組合議長
ハーベイ・ビスショフ オンタリオ州中学校教員組合連盟議長
マーク・ハンコック カナダ公務員労組連合議長
ステファニー・スミス ブリティッシュコロンビア州政府職員労組委員長
リンダ・マックイグ ジャーナリスト・作家 トロント
ラウル・ブーバノ 「共通のフロンティア」計画ディレクター 
ミゲル・フィゲロア 「カナダ平和会議」議長
 以下略

1517年
春 教皇・レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「免罪符」の販売を指示。
10月31日 ルター(34)、教会の改革を促す「95箇条の論題」を発表。免罪符について「売る人も買う人も永遠の罪を受ける」と非難。
マルチン・ルター: 1483年に鉱夫の息子として生まれる。ウィッテンベルク大学で神学を教えていた。
1518年
3月 ルター、教皇庁への批判を旺盛に展開。要約はドイツ語に訳され、活版印刷技術により全国に広まる。
4月 ドミニコ会がルター糾弾のキャンペーンを開始。
6月 ルターに対する異端審問が始まる。
10月 ローマ教皇は特使を派遣しルターに出頭をもとめる。ルターはこれを拒否。
1519年
1月 ルター、教皇特使と妥協。双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)。事態はこれでいったん沈静化。
6月 ライプツィヒでルターとエックの公開神学論争。ルターはウィクリフやフスの説にも真理があると主張した。ウィクリフとフスは異端として処刑されていた。
19年 神聖ローマ皇帝選挙。カール5世が皇帝に選ばれる。
1520年
6月 教皇、勅書にてルターに破門を警告。
12月 ルターはヴィッテンベルクの公開の場で教皇の回勅を焼き払う。
20年 ルターの門弟ミュンツァーがツウィッカウへ布教に入る。
トマス・ミュンツァー: 「神の国」の建設を訴えるなど、ルターより急進的だった。その後プラハ、ザクセン、アルシュテットなどを流浪する。

1521年
1月5日 教皇庁がルター(38)を正式に破門する。ルター(38)は異端者と宣告される。
4月 神聖ローマ帝国、ヴォルムス国会を招集。ルターの一切の法的権利を剥奪する帝国追放令を発する。
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世、ルターをヴァルトブルク城にかくまう。
フリードリヒはルターが何者かに誘拐されたように見せかけたと言う。ルターには「騎士ゲオルグ」という偽名が与えられた。
1522年
3月 ルターがザクセン選帝侯の止めるのを押し切り、ウィッテンブルク大学に戻る。この後現地で宗教改革を進める。ルターはヴァルトブルク滞在中に新約聖書を古代ギリシア語から翻訳し、大量に頒布した。
9月 帝国騎士の乱(Ritterkrieg)が始まる。ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らの率いる騎士団が、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃。間もなく鎮圧される。
ジッキンゲン: 神聖ローマ帝国で帝国侍従・顧問官を務める幹部。
フッテン: 精神面の指導者。神聖ローマの桂冠詩人に叙せられた人物。
1524年
2月 フランス王フランソワ1世は、北イタリアに進軍。神聖ローマ帝国も大軍を動員し反撃にでる。
2月 軍の不在をついてドイツ国内各地で農民戦争(Bauernkrieg)が始まる。
1525年
北イタリア戦争が終結。神聖ローマ軍が快勝し、フランソワ1世を捕虜にする。
5月15日 神聖ローマの正規軍を投入することで、農民軍は瓦解。農民戦争が終結する。“首謀者”のミュンツァーは拷問の末斬首となる。ルター派は無傷で残る。
1526年
シュパイエルで神聖ローマ帝国議会が開催される。第1時シュパイエル国会と呼ばれる。ヴォルムス国会のルター追放令を凍結。
1527年
ヘッセン伯フィリップがルター派を熱心に支持。ザクセンも引き続きルター派を支持。
フィリップ(23): 市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行う。首都マルブルクに最初のルター派大学を設立。
1529年
第2シュパイエル国会、教会改革の中止を指示。6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由を求め抗議書(Protest)を提出する。
1531年
1月 シュマルカルデン同盟が結成される。ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン公を軸に、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加。

1546年 
カール5世(46歳)とカトリック派諸侯がシュマルカルデン同盟への武力攻撃を開始。

1547年
4月 ミュールベルクの戦いで皇帝軍が勝利。プロテスタント派のヘッセン伯やザクセン選帝侯は捕虜となる。
1548年 
カール5世、「アウクスブルクの暫定取り決め」を発表。新旧両教会の合同を定める。北部ではほとんど実施されず。
1551年 
モーリッツ・フォン・ザクセンがフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯、ブランデンブルク辺境伯などとともに神聖ローマに反抗。「君主戦争」と呼ばれる。
1552年 
両者が停戦し、パッサウ条約が結ばれる。捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放される。
1555年 
アウクスブルクにて帝国議会。アウクスブルクの宗教和議が成立。ルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められる。

青空文庫に下記名の文章があった。


まことにありがたい文章である。

文章の由来は少々面倒だが、こういうことだ。

昭和のはじめころ、岩波書店で「カント著作集」というセットを発売した。
その第11巻に『自然哲学原理』が収載された。その翻訳を担当したのが戸坂潤であった。
翻訳が完了したのが1928年(昭和3年)のことであった。戸坂はこの第11巻のために解説を書いた。この解説が脱稿したのが7月のことであった。
文頭あいさつのところに、「読者は「解説」に依頼するべきではないであろう」と書いているが、大きなお世話である。
この『自然哲学原理』をふくむカント著作集・第11巻は翌1929年の7月に発売になっている。
そしてこの解説は、40年後にカント著作集から抜き出され、1966年に戸坂潤全集の第1巻の一部として勁草書房から出版された。
この戸坂潤全集から、青空文庫のボランティアの方が拾い出し、インターネットにアップしてくれたという経過である。
戸坂潤全集の第1巻というのはたしか持っているはずだと思って探してみたらあった。ただしこの文章は巻末付録みたいな扱いで載っているので、気が付かなかった。と偉そうに書いたが、そもそもこの本、ほとんど読んだ形跡がない。多分、古本屋の軒先の均一本で出ていたのを「あぁいたわしや」と買ったのではないかと思う。

カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。

カントとヘーゲルを繋ぐ橋がだいぶ見えてきた。
とくにシェリングの果たした自然哲学での理論的貢献がヒトカタならぬものであったことが実感された。
ただ、その多くがひらめきによるものであり、理論的な詰めが甘かったから、手柄をヘーゲルに横取りされてしまった感がある。
それでも、これまでヘーゲルの弁証法哲学の成果と思い込んでいたことの多くが、実はシェリングの直感に基づいていたということが分かった。
翻って、カントに遡行して行くと、カントが必死になって解き明かそうとしたことの核心が見えてくる。
それは「物自体」概念なのではないだろうか。
以下は作業仮説であって、学習する中でまったく違ったものになるかも知れないが、「予想屋」の工場と思っていてください。
1.カントはライプニッツを批判し、デカルトとヒュームを取り入れて理論を構築したと物の本には書いてある。
これは多分ウソだろう。
理論構築の仕方はどう見てもライプニッツ・ヴォルフのそれだ。じゃがいもと酢キャベツで出来上がっている。
2.モナドを起点に構築されたライプニッツ哲学は、不可知論と主観論によって危機にさらされた。認識論・現象論のダイナミックな過程を念頭に置かなければ体系そのものが崩壊する。
3.そこで一方では「物自体」概念を作って、外界を不可知のものとして遮断し、一方では「理性」概念を作って主観を伴う知性を主体とすることで、物自体への接近を可能にするという道を作った。
というのがあらあらの流れではないかと想像している。

3. シェリング自然哲学からみた人間と自然との関係
「力動的過程あるいは自然学の諸カテゴリーの普遍的演繹」(1800年)より

①可視化の過程
自我はその能動性を、産物を通じて可視的にする。可視化するというのは、時間軸を取り去って3次元の静的世界に構造化することである。
これに対し自然は、その能動性を、産物を通じて可視的にしている。だから自我はそれを構造的に認識することが可能となるのである。
認識の一歩としての視認は、可視的対象を挟んだ自然と主体の分離→結合過程である。
シェリングはその後で「自然の限界において観念論が出現する」と結論する。しかしそれは可視化できない自然が自我の外側に広がっていることを表現しているに過ぎない。それはむしろ実在論であって、それが観念においてしか捉えられないということである。
確率的存在の世界は非在ではない。そこでは物質はエネルギーとして(確率論的に)存在している。
だから、シェリングの立場は、骨の髄まで紛れもなく実在論だ。
②自然過程の頂点における人間の出現
シェリングにおいては、自然過程がその頂点において人間を生み出したのである。
“主体としての自然”は、自己を見るという潜勢的志向を実現するために、自分の有機的部分を人間理性として分離したのである。
ところが超越論的観念論(フィヒテ)は自己意識において成立する“自我”を絶対化する。その場合には“自我”の存立の根拠、すなわち自らと自然との連関が忘却されてしまう。
人間は意識的に「自然から身をもぎ離」そうとする。しかしそれは根底的には「自然自身の志向」なのである。
そこを押さえずに、人間と世界との現実的連関を分断するような観念論は、結局のところ主観的なものに転落する。その絶対性も見せかけのもの、「仮象」となる。
③フィヒテの反発
フィヒテは1801年5月にでシェリング宛に手紙を書いた。この中で「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在する」ものでしかないと主張した。
その後フィヒテは極端な汎生命論まで行き着く(1806 年の通俗講義『学者の本質』第二講義)
フィヒテの結論は「絶対的なものは生命であり、生命は絶対的なものである」と語られる。そこでは自然は「死んで自己のうちに閉じこめられ硬直したもの」としてのみ登場する。
自然は、人間的生命を制限し脅かし束縛するものであり、人間的生命によって「廃棄されるべきもの」である。
これに対しシェリングはフィヒテを切り捨てる。
理性的生命による自然の賦活とは、実際は自然の殺害にほかならない。
そこからは「全面的な精神の死」が帰結せざるをえない。
④自然哲学の営み
この節には名文句が並ぶ。“てにをは”をいじるだけでそのまま転載する。
自然哲学は、自然全体がその潜勢的指向を実現して意識にまで高まってくる際の諸段階を跡づける。それは諸段階に残された“記念碑”をたどる作業である。
理性はいっさいの自己創造者としてみずからを誇るが、自分の後には、みずからの存立根拠としての有機体を引きずっている。
人間は自然存在者であるからこそ、主体としての自然そのものから主体としての力を付与され、主体でありうる。主体として、自然にかかわり、自然との相互作用の中で生き、活動できる。


ちょっと感想
えらい難しい内容だが、言葉の使い方にある程度慣れればきわめて説得力のある議論だ。
一番共感するのは、現代物理学や生物学の到達水準によく照合していることだ。

これまでカントがフィヒテからヘーゲルへ発展したと言うことで説明されてきた。
とくにマルクス主義哲学の分野ではそれが主流だった。
ところが勉強してみると、なかなか状況はカンタンではない。それどころか私にはカント→シェリング→ヘーゲルと書きたくなる内容だ。
もう一つは、観念論対唯物論という図式がずっと強調されてきたが、果たしてそうなのだろうかということだ。
むしろ実在論対経験論というか主観論の対抗という側面が主要なのではないかと思う。

シェリングにおける3つの発展
非常に雑駁な感想だが、シェリングには3つの哲学上の発展があったと思う。
それは、自然を自己の根源に据える実在的唯物論の視点、自然と自己を発展の過程のうちにとらえる弁証法の視点、カントの「物自体」の生き生きとした復権と自己との一体化である。
カントが不十分ながらも「物自体」を定式化することによって、宗教と科学精神を分けた。理神論的な曖昧さを残そつつも実在論に向かって大きく踏み出した。
それをフィヒテが、実践概念を持ち込むことによって、ふたたび主観論に引き戻した。
ただしフィヒテの主体論はカントの静的二元論に動きを持ち込み、発展の概念をもたらした。
そしてシェリングがカント的世界にコペルニクス的転回をもたらした。天体が動くのではなく私と私を乗せた大地こそが回転しているのである。
それは、ある意味でカントの「物自体」の復権でもあった。しかも生き生きとした、みずから発展するものとしての自然の復権でもあった。

イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。

より

2. 個別有機体と環境
①環境について
環境という概念は近代の産物である。したがってシェリングの文章には登場しない。しかしシェリングは環境という発想を最初にした人物である。
環境は、主体の内と外を区分する境界領域を意味する。環境は肉体にとって自然の一部ではあるが、訓化された自然、一種の膜である。
②普遍的有機体から個別有機体へ
根源的産出的能動性が単一の肯定的原理として働くこと、それを受容する否定的諸原理が差異性を持つという関係。
「生命と有機体の肯定的原理は、絶対的に一である以上、有機諸組織は本来ただその否定的諸原理によってのみ異なる」
③個別有機体のありよう
自然の個体は、普遍的有機体に同化されず自己を存立しなければならない。
同化されないためには、いっさいを自分に同化しなければならない。有機組織化されないためには自分を有機組織化しなければならない。
この、閉じたシステムとしての有機的物体の内には、外界に抗して均衡を維持するような対立的能動性が働く。
その営為は、たんなる外的刺激に対する反応(因果的受容)ではない。
その行為によって内的なものが外的なものから区分される。その境をなすのが環境(訓化された外界)である。
分かりにくいので噛み砕くと、普遍的有機体というのは環境(自然)と生命主体(個別有機体)をふくんだ全体であり、個別性というのは普遍性への反抗ないし抵抗として存在する。
ただし直接的な抵抗はたちまちのうちに粉砕・吸収されてしまうから、反抗する主体が永らおうとすれば、その周囲に外皮(膜)をまとう必要がある。
生命というのは持続性(持続する反抗)を必要とするからこの環境という外皮は生命にとって必須(特殊な反抗形態としての生命)である。
こう読み解けば、シェリングの自然哲学の素晴らしさが分かってくる。
④個別有機体の発展
個体的有機体は受容と能動性との相互作用、交互限定を通じてみずからを有機組織化する。この二重性を介して外界との交互限定関係も形成される。この二重性は無機的自然の二重性の反映である。
有機的個体は栄養摂取、成長の過程をとおして、二重性としての自分を不断に維持、再生産する。

変な記事があった。
日付は去年の7月30日、立憲議会の投票当日、混乱の極にあった日である。
記事が載ったのは長者番付で有名な財界紙「フォーブス」である。
Congratulations To Venezuela - The Human Development Index Is Up
というもの。訳すと「おめでとうベネズエラ 人間開発指数が上がったよ」ということか。


ベネズエラは、いまや経済的ににっちもさっちもいかない状態だと考えられている。
ハイパーインフレが襲っている。この1ヶ月で物価は50%上昇した。すべての人の体重が食料不足で減少した。子供は医薬品の不足から死にかけている。トイレットペーパー、ビール、ビッグマックは使い果たされた。

しかし、「国民よ心配するな。人間開発指数は上昇したのだ!」 そう報道されている。
いや、違う。これははるか遠いヨーロッパの左翼の連中の所業だ。
ベネズエラはその歴史において最も重要な時代にあります。
私は最初から、ボリバルの革命を重視し、連帯してきました。
過去20年間の社会的成果は疑う余地がありません。
これを証明するためには、「人間開発指数の進歩」に関する2016年版国連報告書を参照するだけで十分です。
レポートは続く。
2015年のベネズエラの人間開発指数は0.767でした。これは188の国と地域のうち71位、トルコと同格にランクされます。人間開発の分野で高開発国に位置する数字です。
1990年代から2015年にかけて、ベネズエラのHDIは0.634から0.767へと増加しました。増加率は20.9%にあたります。
1990年から2015年にかけて、出生時平均余命(平均寿命)は4.6年増加しました。平均教育水準は4.8年に上昇しました。一般教育年数は平均値で3.8年増加しました。
1人当たり国内総生産(GDP)は1990年から2015年の間に5.4%増加しました。
もちろん、この報告はいろいろな読みかたができる。

私の場合、最初は、それが本当に真実であったのか、今も真実なのかをチェックすることから始まった。
(しかしそれは事実だった)
つぎに私のしたことは、HDIはライフスタイルや経済管理を評価するために果たして適当な方法なのか、ひょっとして違うのではないかという違うことだった。
なぜなら、もし経済が誤操作の結果、自由落下している状況のもとでも、HDIが「状況は良好だ」というのなら、それは社会状況の測定システムとしては使えないことになるのではないか?
(しかしそれも事実だった)
HDIは「状況は良好だ」と言っている。
GDPがこれだけ明らかに失敗を示している以上、HDI指標はすべてたんなる憐憫にしか過ぎない。もしHDIが「ベネズエラはうまくやっている」というデータを出すのなら、その測定システムに誤りがあるとしか考えられない。

エディターさん、ご苦労さま。ご同情申し上げます。紛れもない事実を前に思い悩む姿が目に浮かぶようです。もう少し事実に対して素直になれば、楽になると思うのですが。

去年の後半あたりからずっと、国際連帯運動の結集点をもとめる試みが続いている。
ラテンアメリカも後退している。東アジアも先が見えにくくなっている。かろうじてヨーロッパ・アメリカでサンダース・コービン・メランションの運動が希望の星となっているが、国内事情を聞くとそう明るいばかりの話でもなさそうだ。
多分仕方がないのだろう。景気が悪くなると、どうしても目の前の話ばかりになってしまって、明日の世界を語るほどの高揚感は消え勝ちになる。
しかしこういうときこそ夢を語らなければならない。肝心なことは人々が夢で団結することだ。方法で団結する必要はない。

そう考えたのは、たまたまイタリア左翼の話が話題になったからだ。実は、戦後イタリアに行って居着いてしまって、左翼になった日本人というのは結構いるらしい。
実はそういう人とコンタクトがとれるというのでツァーを計画したのだ。しかしいろいろ検討していくうちに、果たしてそういう人たちと今でも思いを共有できるのかということになって、すこし情報を修してからにしよう。日本とイタリアのボルシェビストが傷口をなめ合うようなツァーをしても生産性ゼロだ。

数年前にイタリア共産主義再生運動の歴史をたぐったことがある。それはプッツンしていた。いま確認するとプッツンしたきりである。組織はずたずたになり活動家は四分五裂した。一方で民主党(旧共産党)の方はさらに右転落している。
一番はっきりしているのは、イタリア左翼はボルシェビズムに代わる新たな社会主義像を築き上げられなかったということだ。
おそらくそれはフランスにもスペインにもイギリスにも言えることであろう。だから私達がサンダース・コービン・メランション運動を語る際にはヨーロッパ・マルクス主義の再生、あるいはヨーロッパ社会民主運動の再構築と結びつけて語る以外にないのである。
さらに言うなら、我々みずからが日本での活動の経験をもとに社会主義運動構築へのプログラムを持ち、それと照合しながらヨーロッパの人々と語り合うことが必要なのだろうと思う。

このところ、夜は嫁さんのビデオ鑑賞にお付き合いと書いたが、昼はとなると、朝9時のテレ朝、昼のTBSと釘付けになっている。
“仕事”はまったく手につかない。
森友の話が一気に進んだが、「佐川問題」とは笑止千万だ。
「佐川問題」は突き詰めれば(突き詰めなくても)財務局問題であり、財務省問題だ。そういうことでいいのかね。
基本的には財務省は被害者だ。やばい橋を渡らされ、地雷を踏むことになったが、見返りは一つもない。加害者は誰か?
とりあえず「加害者」として見えているのは安倍首相夫人だ。そういう意味ではこの事件は「昭恵夫人問題」だ。今のところは…
解明が進めば(進むとしての話だが)、昭恵夫人の背後で財務省を動かしたものが見えてくるだろう。財務省を詰める力があるのは経産省だけだ。財務局のどこをどう突けば落ちるか、それは官僚にしか分からない。もっとも、正面からの切り込みはできないから、官邸サイドの裏に回って知恵を貸し手を貸したのだろう。(なぜ昭恵夫人“秘書”が経産省から派遣されていたかは不明)
財務省はどこまでこの屈辱に耐えるのだろうか。
この点で特に気になるのがこの間の麻生財務相の言動だ。佐川叩きに加わるというより、その先頭に立っているのはまったく解せない。長期にわたり財務大臣を勤め今も現職である人間としては、立ち位置という感覚が感じられない。この人には財務省サイドの情報より官邸サイドの情報が注ぎ込まれているのだろうか。
もちろん佐川が麻生財相にはからず、独断でやった可能性はある。大臣は知らないほうが良い場合もある。問題は麻生財相がそういうふくみも念頭に置きつつ、事務方幹部を信頼して動いていたかどうかだろう。
現在権力内部でのねじれの回転軸は、この財務省と財務大臣とのねじれにある。
財務省幹部は「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と考えているはずだ。財務省が被害者であることを印象づけたいと考えているはずだ。反撃が必要だとも感じているはずだ。
今後、財務省サイドから麻生追い落としのための情報(「麻生は知っていた」)がリークされてくる可能性もある。公卿集団がどのくらい闘えるかは疑問だが、闘えなければ舐められて終わりだろう。
まだまだ第2ラウンドは終わっていない。
このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない。
その後は加計問題だ。本丸(安倍と経産省)はこちらにいる。

1. 普遍的有機体 
A) 1797年「自然哲学考」(Ideen)より「序論」

精神としての人間は自然の一部である。
自然とは現実の生きた相互連関が織りなす総体である。
「人間と世界とはたえず接触と相互作用が可能でなければならない。いかなる裂け目もあってはならない。ただそのようにしてのみ、人間は人間になる」

(哲学的)自然状態においては、人間は自分をとり まく世界と一体であった。
「哲学」が誕生すると、人間は外界に対して独立し、自由への道を歩み始める。 だから哲学の基本問題となるのは「外の世界(自然)がどのようにして可能か、どのようにして経験可能か」ということである。

人間の意識性と自由な能動性は、自然との現実的連関を前提とする。
したがって自然は、人間精神と同様に能動的主体でなければならない。自然は精神と同じく、自由な生命的なものとして捉えられる。
この自然という主体は、個別の人間を意識主体たらしめ、その自由を可能にする根拠である。それは自然の内的展開を通して行われるのである。

④精神と自然の絶対的同一性
以上の経過は、精神と自然の絶対的同一性をしめす。すなわち「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」というテーゼである。

⑤この絶対的同一性をふくんだものが普遍的有機体である。
それは自分自身で存立し、自分自身を産出し、自己自身を有機組織化する。

⑥自然の根源的産出性は無限な能動性である。
そのため自然の産物も「無形態的」で流動的である。したがってそれが発展するためには無限に阻止されなければならない。 事物は無限に阻止される結果として現象する。

⑦無限に阻止する能動性は、産物として把握された経験的自然である。
(この詳細は展開されない)

⑧二つの能動性の衝突により、根源の能動性は一定の点に収斂するようになる。
この点は繰り返し充実させられ、自分の「領域」を形成する。 これが客体としての自然となる。

B) 普遍的有機体が内包する二つの問題点

これは普遍的有機体としての全体的自然の内部構造の問題である。 第一は、形態的にも質的にも多様な有機体が類としてどのように存立しうるのか。 第二は、普遍的有機体の内部で、個体的有機体と外界をなす物質的自然がどのような関係にあるのか。 これらは以下に述べる第二の課題と大きく関わってくる。

の学習ノートです

はじめに

シェリングは生きた創造的自然という見方を提起した。
それは自然を能動的な主体として捉えた。
そして自然そのものを生成し、形態化する力を備えた主体として把握しようとした。
彼の自然哲学は、その自然の産出過程を描き出そうという試みであった。

シェリングの「主体としての自然」という表現は、ロマン主義的な擬人観ではないかと考えられてきた。
しかし今日では自然を主体として捉える発想は一定の支持を受けるようになっている。

今日、シェリング自然哲学は環境学の立場から3つの点で注目される。
(1)普遍的有機体
前期自然哲学で提示された「精神と自然との根源的同一性」の考えは普遍的有機体という概念を生み出した。
これは「総体としての自然」を一つの有機組織ととらえる考えである。
そして、その中に自我・意識・精神もふくまれる。
(2)個別的有機体
自然が普遍的有機体としてとらえられるとき、その全体的自然のうちで、個別的有機体は規定されるのか。
個別的有機体(例えば人類)は普遍的有機体(環境)の中で、どのようにして存立できるか。
(3)客観的観念論
自然哲学は、主観的なものに一面化された観念論(フィヒテ)に対する批判である。
それは客観的存在の自立性と主観に対する規定性を意味している。
その際に、自我・主観は自然に対してどのように再措定されるのであろうか。

と、ここまでが短い序論。ついで(1)、(2)、(3)について検討に入る。

ベネズエラのアレアサ外相、国連で米国の干渉を非難
Venezuela's Arreaza Condemns 'US Interventionism' in UN Speech

2018年2月26日 teleSUR

「20年近くにわたり、我々チャベス主義者は外国人の介入勢力に嫌われてきた。我々が石油、ガス、金、希少金属、ダイヤモンド、水、肥沃な土地の主権を取り戻すことを熱望し続けているからだ」

ベネズエラの外交トップは、スイスで人権理事会会議に出席し各国高官に語りかけた。

アレアサ外相は言った。ボリーバルの言葉を引用した。「アメリカ合衆国は自由の名のもとに、南北アメリカ大陸に悲惨を広げることを望んでいる」と。

アレアサは述べた。「トランプ米国大統領がベネズエラを脅かしている、そして我が国への制裁を課し、マドゥロ大統領を打倒しようとしている」と。

「この人権理事会が戦争を起こしたい人にハイジャックされることは許されない」

アレアサはティラーソン米国務長官の最近のコメントを指摘した。その中で彼は公然と、ベネズエラの民主党政権の打倒を提案し、次の選挙の結果を認めないと述べた。

アレアサ外相は、「それはベネズエラが今年受けた105の国際的な言葉による攻撃のほんの一部に過ぎない」と付け加えた。

マドゥロは、野党が「平和のための対話」に参加するよう400回以上も呼びかけている。しかし、彼らはそうしなかった。そうしたくないからだ。
アレアサは強調した。
野党は、4月22日の選挙に参加することにも同意しなかった。その日は彼らの提案した日だ。

彼はさらに、米国政府を非難した
「ベネズエラに人道的危機がある」という話を世界に信じさせたこと。それは南米諸国への介入を意図したものだということ。
一方で、国連の独立人権調査官アルフレド・デ・サヤスの最近のコメントの意味を強調した。

先週、サヤスは「ベネズエラに人道危機はなかった」と述べた。
「もちろん欠乏、不安、不足はある。しかし何十年も国連で働いて、アジア、アフリカ、中南米の国々の状況を知っている人なら誰でもわかる。ベネズエラの状況は人道的危機ではない」
サヤ発言の詳細は下記をご参照ください
2017年12月25日 ベネズエラ:国連人権専門家の最新報告

アレアサはこう付け加えた。「にも拘らず、メディアの報道がベネズエラは破滅の危機にあると報道するのは、なぜか。それは、ベネズエラが経済戦争を仕掛けられているからだ」

そして「さらにベネズエラは金融封鎖、法外な密貿易などに苦しめられている。これらの問題を解決するために国際連帯が必要・不可欠だ」と述べた。

アレアサはまた指摘した。
「ベネズエラの人々は給与増や年金制度などの社会計画の恩恵を受けている。障害者には奨学金が渡され、失業率は6%に低下した。600万人以上の家族が“供給・生産地方委員会”の恩恵を受け、200万の家が分配された」

「ベネズエラは、人権擁護のために国連と協調している。他の国々は人権を軽視し違反している。
人権は神聖でなければならない。私たちはそれらに違反することはできない。なぜならそれは人類の防衛にとって不可欠なものだからだ」

多分、いつまでも続くわけはないし、病気が病気だから、終わればそれで終わりだと思うから、毎晩嫁さんと付き合ってビデオを見ている。
仕事はしない、活動もしない、頭は使わない、体も使わない、こんな生活は相当フラストが貯まるが、それに慣れてきた自分にもっとフラストがたまる。
難しいビデオはダメだから、テレビドラマのシリーズのビデオ化されたものを片っ端から見るということになる。
名前をあげようと思ったら殆ど憶えていないことに気がついた。そこでメモ代わりに見たものを書いておく。
まずは「結婚しない男」という連続ドラマだ。主演が阿部寛と夏川結衣の組み合わせのラブコメディだ。全15作くらいある。これが終わってから、嫁さんが阿部寛をリクエストするようになった。こんなの何処が良いのかと思うが、まぁ好き好きだから仕方ない。
落ちこぼれ高校生を東大に入学させる高校教師の連続ドラマというのを借りてきた。実にバカバカしくて見る気になれないが、嫁さんが見たがる以上付き合わざるを得ない。
次が阿部寛がCM作家をクビになって専業主婦をやるという設定のドラマ。いささか飽きた。
その次がヤクザが介護ヘルパーになるという荒唐無稽のドラマ。草彅たけしの主演で、ここにも夏川結衣が顔を出す。これも嫁さんが食いついて強引にご相伴させられた。
それが終わるのを待って、夏川結衣の「結婚前夜」というのを見た。これはNHKの5話完結のドラマで、マイフェアレディが下敷きになっている。脚本が素晴らしい。さすがNHKだ。
こういう映画は嫁さんと並んで見るのがいささかしんどい。お互いそこそこ心当たりはあるであろうから、横眼でちらっと見られる瞬間がけっこうズキッと来る。
夏川結衣という俳優は美人じゃない。少なくとも一目惚れするようなご面相ではないが、なにか変に魅力的だ。どちらかといえば嫌いではないが、人前で、とくに女性に「この女優さん良いね」というのが下心をさらけ出して言うようで、ひょっとはばかられてしまう女優だ。
「あら、こんな人がいいの?」と言われそうな感じ、「あれっ、俺の最初に付き合った彼女みたい」とふと過去を振り返ってしまいそうな感じ、とにかく何か気になってしまう女優さんである。
あと面白かったのが「ナニワ金融道」で、途中からはけっこうコメディーになってしまったが、1、2作目は相当迫力あった。コメディではあるが、いしだあゆみがゲストで出た番組はロードムービーの趣もあり、単作としても最高だった。
吉永小百合の「母と暮せば」は泣きの涙、嫁さんと代わる代わるにティッシュの箱に手を伸ばしていた。
私の母は4人兄弟。母以外はすべて男で、すべて医者になった。長兄が大学でセツルメントもどきにはまったらしい。当局に赤色分子として目をつけられたようだが、とにかく昭和5年ころに無事に医者になって、なった途端にコレラもどきで死んじまったようだ。
次兄は静岡で開業し金持ちになった、末弟は北大に行って学者になった。母はこの弟のようになってほしかったようだが、後年になってからは「長兄の血なんだね」と言って諦めた。父は「歯医者でも良いんじゃないの」と密かに思っていたが、そのような道は母の念頭にはなかった。


変なサイトを見つけてしまった。
76京大過激派の人権破壊;作詞・作曲集:反戦絵画:エッセイ
最近のブログ記事を見ると、作者はどうも統合失調の世界に入っているようだ。
ただその記録を読む限り、70年代後半の京大過激派が完全に思想崩壊していることはわかる。そして周りが息を潜めて、過激派が自壊するのを見守っている状況も分かる。
みんな逃げたのだ。民青に任せて。
しかし民青は権力ではないからそこまで仕切れない。だから最後は機動隊が出てきて言うとおりにさせられた。
過激派をおだて上げた「朝日ジャーナル」は沈黙し権力支配へ道を明け渡した。民青に対しあれ程までに居丈高だった新左翼は、権力には羊のように温和であった。全共闘を天まで持ち上げ、民青を悪しざまに罵った人々は、今はそのことにはなかったかのように口をつぐんでいる。

いま野党共闘を語るとき、我々にはあのときの思い出が滓のようにたゆたっている。「野党共闘」は、あのときバリケードの外にいた人間と、内にいた人間のあいだの共闘という意味を内包している。
そこをあいまいにする言葉として立憲主義が用いられるのなら、それは拒否しなくてはならない。民主という概念は決して捨ててはならないものだろうと思う。
だから全共闘思想の誤りは折に触れて突き出していかざるを得ない。「戦後民主主義」は虚妄ではなく野党共闘の出発点なのだ。


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