鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

蘇我韓子(そがのからこ)の戦いぶりが日本書紀に示されている。

4人の将軍は朝鮮半島へ渡り、新羅王を一時敗走させるほど奮戦した。紀小弓は渡海後間もなく戦死する。代わりに小弓の息子紀大磐が参戦する。

この紀大磐が大変困った人物だった。

かれは父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、戦闘の指導権を求めた。そして小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めようとして、小鹿火宿禰と対立した。

小鹿火宿禰は韓子に、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると警告した。状況を知った韓子も大磐と対立するようになった。倭軍の内紛を知った百済の王は、二人の仲を保とうと調停に乗り出した。

百済の王は大磐と韓子を(任那と)百済との国境まで呼び出した。二人はなぜか連れ立って、会見場所の国境に向かった。

その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、大磐に傷を与えることはなかった。

射撃を受けた大磐がとっさに射返したところ、その矢が韓子に当たった。韓子は落馬して河でおぼれ死んだ。

ということで、たいへん冴えない結末に終わっている。

しかしこの記事は大変重要な内容をふくんでいる。

1.465年3月という記載

ここまでしっかりした絶対年代の特定は、大和政権のよく成しうるものではない。河内王朝の天皇家の記述ははるかにおおらかで大雑把なものだ。

直接の出典は百済本紀ではないだろうか。ただし稲目の年齢を考えれば、465年という年はもう一回り降るのではないか。すなわち525年である。

歴史的に見て、465年当時の新羅には百済に対抗するほどの力はない。新羅が三強の一角を占めるのはようやく500年すぎ(智証王・法興王)からである。

そうするとこれは百済の武寧王の死、筑紫の君磐井の乱、継体天皇の即位と死という波乱の時代に直接つながる事件となる。

平仄は全てあってくるのである。

2.朝鮮出兵を命じたのは倭王武か?

この事件を525年とすると、倭王武(日本書紀では雄略に比定)が存命だったとは考えにくい。

倭王武は、かなり長期政権だった。最初の遣使が478年、最後が502年である。中国側文書で確認できるだけで24年だ。

逆に465年とすると、最初の遣使を遡ること13年前に、朝鮮侵攻を指示する立場にあったかどうか、これはかなりの疑問である。

3.4人の将軍

彼らは「四道将軍」と同じく、おそらく王族に属する人物であろう。なかでも紀小弓の軍が最精鋭であったようだ。

彼らは勇猛に戦ったが、紀小弓が戦死するにおよんで、内部に不団結が生まれた。おそらく戦線が膠着し、ロジスティックが齟齬をきたしたのではないか。

4.紀大磐は九州王朝の意向を反映していた

紀大磐はトップリーダーの後継者として、九州王朝の意向を担って着任したと思われる。

したがって兵器、兵糧で優位に立つと同時に、お上をバックにした権威を持って着任したことになる。

彼の主張は戦線の統一と自らの最高司令権だった。だが残りの三人の将軍は面白くない。自分の息子のような若造に命を預けろというのだ。

そこで韓子が大磐の暗殺を企むのだが、返り討ちにあってしまう。

5.韓子死後の国内外情勢

それで倭軍が統一され勢いを盛り返すのなら良いのだが、その後の状況を見るとどうもそうはならない。盟友たるべき百済も、武寧王の死後とんと勢いがない。

倭王朝は兵力の逐次投入という軍事上最悪の事態に追い込まれる。

そして明けて526年 新羅が南加羅を占領した。これに対し倭国は全国に動員をかけ、渡海攻撃の準備に入る。

このとき筑紫の君磐井は「新羅と通じ」、渡海攻撃に反対した。「新羅と通じた」かどうかは問題ではない。おそらく「もう戦争はやめよう」と言っただけだろうと思う。しかしそれは主戦派から言えば「利敵行為」そのものだ。

こうして527年、筑紫の君磐井の乱が発生する。多分乱を起こしたのは磐井の方ではなく主戦派の連中だったろう。

筑紫と言っても主たる勢力範囲は今の筑後だろうと思う。戦争が始まれば一方的に食糧基地として徴発される立場の地域だ。

6.蘇我高麗はどうしただろうか

韓子は戦団の司令官として朝鮮半島に出向し、そのまま死んでしまったわけだから、比較的若くして亡くなったのだろうと思う。

つまり490年代の生まれと思われる。これに対し、稲目は生年不詳(一説に506年)で没年が570年だ。享年64歳ということになる。

よく分からないが、20で娘をもうけ40で娘を天皇家に嫁がせ、権力を得て生涯を終えたというなら、この歳数はまぁ妥当なところではないだろうか。

そうすると、高麗が入り込む余地が無い。とすれば、三人のうちどれかは親子ではなく兄弟だったのではないかという推察が浮かんでくる。

ただこれは韓子の死を勝手に60年間降らせた上での推察だから、推察というよりは妄想に近い。あまり深みにはまらないようにしなければならない。

1.大化の改新か乙巳の変か

最近の日本史の教科書には、大化の改新という言葉はない。乙巳の変という呼び方に統一されつつある。

その場合は、本格的な改革は壬申の乱に勝利した天武によって行われたというニュアンスが強く打ち出されているようである。

以前書いたように、私は天智・天武というのはタッグを組んで蘇我を滅ぼしたのだろうと思うし、それは壬申の乱の直前まで一貫していたと思う。

そして、天智の周囲が天武を排斥しようとしたとき、天武は天智の考えを引き継いで反乱を起こしたと考える。その理由は対百済・新羅というよりは対唐関係にあり、難波津にとどまって強談判を迫る唐の使節との対応にあったと思う。

2.今までの教科書では対唐強硬主義が説明できない

大和政権には百済との浅からぬつながりはある。しかし朝鮮南部の利権に関しては関係ない。

今はなき九州王朝には経緯はあったにせよ、それは過ぎた話だ。新羅とも基本的な敵対関係はない。

とすれば船・兵を送ってまで朝鮮の戦いに介入したのはなぜか、それは唐が侵略してきたからである。新羅は唐に服従したからこそ問題になるのであって、そうでなければ新羅と百済がどう戦おうと、どちらが勝とうと関係ない話なのだ。

大和政府が防人を動員し、北九州海岸の防御を固めたのも、唐が攻めてくるという恐怖感のなせる業であったろう。

3.天武はポスト天智政権に怒ったのだ

となれば、唐の使節が難波津に押しかけて、対新羅同盟を迫ったとき、どうすべきかという選択はあまりにも明白なはずだ。

それなのに、天智天皇の周囲は唐の使節を恐れ何も出来ないまま固まってしまった。

これでは、百済を抑えた唐がその勢いで日本にも屈従を強いるのは明らかだ。

だから天武は対唐自主路線を主張したのだ。

以上のように考えてくると、大化の改新から白村江の戦い、そして壬申の乱という流れは、対中国路線を巡る対立という図式で説明できる部分があるのではないか。

以上のような視点から大化の改新前後の状況を見直してみたい。

4.過去記事について

去年の今ごろ、私は壬申の乱絡みで3つの記事を書いている。これが今回の勉強の出発点だ。

最初が 7世紀の年表で、これは一度書いた後3月に増補している。

この時点では、まず勉強という程度で、深く考えていたわけではなかった。

増補の作業を終えた時点で書いたのが、 2015年03月16日 であり、これは天智・天武一体説ともいうべき視点の打ち出しだ。

そしてその後、 2016年05月15日 で、さらに考えが変わった、というか深まった。

5.天智・天武路線の本質

天智・天武路線というのが何かといえば、それは一言で言えば中国主敵論である。そのための「国家動員・統制計画」として大化の改新が位置づけられる。

なぜなら、朝鮮半島で起こった事態の本質は中国による百済支配であったからだ。新羅は戦いの場面で唐と結託することにより生き残りを図ったに過ぎない。

だから唐の力が強大であればあるほど、次に狙われるのが日本であるのは明白だった。

だから、日本は命をかけて国を守らなければならない、というのは天武の思いであった。しかるにポスト天智政権は右往左往するばかりで、ひょっとすると主戦派の天武を売ることで生き残ろうとするかもしれない。

というのが天武の反乱の動機であろう。

6.いわゆる「2つの戦線」での闘い

同時に、政府部内には対中国恭順派の他に、依然として百済再興派や新羅主敵派も根強い。多くの百済からの亡命者を抱えて、その傾向は一層強まる。

「この連中は戦いの妨げになる。もうそういうレベルではないのだ。百済や任那はもう忘れろ、新羅を敵に回すな、新羅を味方にしろ」、というのが正しい戦略だ。

ということで、天武の基本戦略は対中戦争準備論にもとづく新羅との同盟、返す刀で「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのか。



ジョン・バチェラー 年譜

John Batchelor

1854年3月20日 サセックス州アクフィールドに生まれる。

1876年 ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ちイギリス教会宣教会に入会。香港のセント・ポール学院に入学。

1877年(明治10年) 勉学中に熱帯病にて健康を害し、静養のために横浜に来る。北方の地を勧められ函館に来た。アイヌ民族を知り、アイヌ伝道を志す。

78年 札幌に2ヶ月ほど滞在。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。

1879年(明治12年) 信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。

函館でアイヌ青年と会い、その差別と悲惨な生活の実態を知った。

1879年 胆振の有珠と日高の平取を訪問。平取ではアイヌの長老ペンリウクの家に3ヶ月滞在して、アイヌ語を学んだ。

1881 平取に半年間滞在。伝道にあたる。

1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。ケンブリッジなどで再研修を受ける。

1883年(明治16年) 再び函館に帰任した。1884年(明治17年) 同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。

1884 「蝦夷今昔物語」を発表。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

85 平取で禁酒をめぐりアイヌとの関係がこじれ、離村。その後全道各地で伝道。

1886年(明治19年) 幌別村(現在の登別市)に定住、キリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。

1888年(明治21年) 幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。

1888年(明治21年) 札幌にアイヌの小学校『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られたようである)

89 道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。

90 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。

91 平取アイヌとの関係修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。

1891年(明治24年) バチェラー、北海道禁酒会の招聘に応え函館から札幌に移転した。

1891年 自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。

活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。

1892年(明治25年) アイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。

1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に創設される。

1895年(明治28年) 平取と有珠で教会堂を建設した。

96 英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。

1903年 北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が2595人であった。

06年 「アイヌ・ガールズ・ホーム」の教え子の向井八重子を養子とする。

18年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。

1922年(大正11年) アイヌ保護学園を設立する。

1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課嘱託となる。

1924年アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

28 自叙伝「わが記憶を辿りて」を発表。

1932年 スコットランド人医師ニール・マンロー、平取町二風谷に定住。アイヌの診療に携わる。二風谷の共同墓地に葬られる。

1941年(昭和16年) 太平洋戦争が始まる。バチェラーは敵性外国人として追放させられた。

砂原遺跡をどう見るか

砂原遺跡: 成瀬敏郎論文の抄録によれば、

2009年8月8日に、島根県出雲市多伎町に発達する海成段丘堆積層を覆う古土壌から、玉髄製の剥片1点を発見した.

さらに同年8月22日からの予備調査において露頭面に表れた同層中から5点の人工的に打ち欠いた石片が確認された。

これを受けて,同年9月16日~29日にトレンチ掘削による本調査が実施れた.

この結果,約12万年前に形成された古層中から流紋岩や石英製の石器,石核,砕片,破砕礫など15点が出土した.

これらは日本で最も古い石器である可能性がある.

Clipboard01

2009年といえばポスト藤村の時代である。

砂原遺跡に関する報道や「論評」はかなりの数にのぼる。その多くが眉にベッタリと唾を付けたものである。 

日経ビジネスの2009年10月の「武田ジャーナル」というコラム

砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)が、中期旧石器時代の約12万年前の地層から、旧石器20点を発見したと報告。

最古とされてきた金取遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)を約3万年さかのぼる可能性がある。

産経新聞は「捏造問題以降、3万5000年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」との松藤和人教授のコメントを載せた。

1949年に群馬県で行われた岩宿遺跡の発掘で2万5000年前のものとされるローム層から遺物が見つかった。

その後、旧石器時代の遺跡が全国各地で見つかるようになったが、いずれも後期旧石器時代(約3万から1万年前)のものだった。

その後、東北大学の芹沢長介氏は、大分県の早水台遺跡で10万年前の石器を発見したと1964年に発表。「前期石器時代はあった」と主張した。

彼の下には志を同じくする弟子たちが集まった。アマチュア考古学研究者だった藤村氏もその1人だった。

と、無料で読めるのはここまで。

自費出版のリブ パブリのブログ 09年10月

今回は、出土した地層の年代が分かりやすいことが特徴だ。年代の根拠は、まず確かだろう。

しかし、石片を観察した稲田孝司・岡山大名誉教授は、接合資料がなく、剥離面が不明瞭などと、石器と認定するのを保留している。

さらに「石器」がまとまりのない散漫な出方をしているのも、問題点の1つだ。石器屑の随伴もないので、人類がここで何をしていたか不明確なのも、大きな弱点である。

東アフリカでは、260万年前の初歩的石器が見つかっており、それは元の石塊にまで復元できるほど、多数の石器が接合する。

もしこれが本物なら、それを残したのは、我々ホモ・サピエンスではなく、おそらくホモ・エレクトスであったということになる。

黒く光る石と黒く動く虫 09年10月

「白石先生のコメント」を紹介している。

私は日本考古学協会で、後期旧石器時代をさかのぼる石器群の評価は次の点の確認が必要と提示しています。

①石器に残された明確な加工痕 人為的な二次加工により石器が製作されていること。

②遺跡が、礫層や崖錐性堆積物などでない場所に存在すること。

③確実な層位的な出土 上下に由来の明らかな火山灰があり、層位的な位置づけが明確であること。

④石器が単独ではなく複数の資料によって確認でき、なおかつ接合資料によって同時性が認められること。

そのうえで、

我々がまず行なうべきことは、誰もが認める後期旧石器時代開始期の石器群の多角的・総合的な研究を蓄積することであろう。

と結論づけている。

日経新聞 2013年6月

砂原遺跡の学術発掘調査団が、石器36点について、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた。

層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることから、約11万年前と判断したという。

松藤和人さんという人だが、芹沢さんの失脚の後、こちら方面の第一人者になっているようだ。

砂原遺跡での快挙に続き、2016年5月には松藤教授率いる学術調査団が長野県大町市平の木崎湖畔の小丸山で、約8万年前の地層から石器と見られる流紋岩を発掘した

という記事がある。発見のきっかけは、

日本旧石器学会の会員である杉原保幸さんが、木崎湖畔で採集した石が石器ではないかと松藤教授に鑑定を依頼したことから始まった。

とあるので、これもどこかで聞いたことがある経緯だ。

アイヌ民族の歴史年表 の改訂を始める


2005年11月作成
アイヌ民族は北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)先住民族をさす。「アイヌ」、あるいは「アイヌモシリ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。し かしさまざまな他称は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
「蝦夷」は日本人(和人)による他称である。古くエミシ、平安末期からはエゾと呼ばれるようになった。さらに古くは毛人と書いてエミシと読まれていた。ここでは広くアイヌ民族と同根の縄文系人として扱っている。
エミシは関東から東北にかけて住み、和人に征服され、同化した縄文系人であるが、当時から北海道の南部地方にも分布していた。

2017年4月 改訂
この年表はあまりに雑多で無思想であり、史料としてすら使えないということがわかってきた。やはりエミシの歴史とは分けなければならない。さらに遡るならば、縄文人が単一民族として日本列島全般(とくに東日本)に分布していた時代と、縄文人が弥生人との接触で「半倭人」化した東北のエミシと北海道の続縄文人に分離した時代とは分けなければならない。
アイヌ人は縄文人の血を濃く残した末裔である。その後朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血により「日本人」が形成されたが、アイヌ人は渡来人と混血せず、北海道に存在した。しかし北海道の北部・東部に居住したオホーツク人とは強く混血しており、この点で縄文人とは異なる。
ということで、第一部・アイヌ民族の形成(擦文時代のおわりまで) 第二部・アイヌ民族抑圧と戦いの歴史 第三部・東北エミシの戦いと同化の過程 みたいな感じに分けていきたいと思う。

「国家隠密法」違反

幕末の頃、最上徳内という探検家がいた。千島や樺太探検で名を馳せた人で、間宮林蔵の兄弟子格だ。

1789年に、根室と対岸の国後島でアイヌの大規模な反乱が発生した。松前藩は酋長たちに言い含めて、首謀者を自首させた。

その上で討伐隊を送り、詮議の上37名を打ち首とした。首は松前に持ち帰られ晒された。

ときあたかもロシアが北海道進出を狙う不穏事態にあり、幕府は事件に驚愕し、松前藩の統治能力を疑った。

かねてより蝦夷の事情に詳しい最上徳内らを派遣し調査にあたらせた。最上徳内は国後・択捉に渡り聞き取り調査を行った。

アイヌ人に日頃より親近感を覚えていた最上は、和人の横暴に激しく怒った。そして報告書の中で承認ばかりでなく松前藩まで断罪した。

幕府としては大いに感じるところがあったと思われる。それはその後の行動で明らかだ。10年後には東蝦夷地を直轄とし、その後さらに松前藩の北海道支配権を奪い、奥州梁川に転封している。

しかし、最上はその激しい糾弾のゆえに危険人物とみなされた。その結果つけられたのが「国家隠密法違反」という名目である。

最上は公儀で情報収集しながら、幕府に裏切られる形で入牢する羽目となった。このエピソードが、何か今日の共謀罪法案と結びついているように思われてし

擦文時代のもう一つの特徴が、オホーツク文化のアイヌ文化への吸収である。

これがどういう吸収であったかはY染色体ハプログループとミトコンドリアDNAの分布からある程度想像できる。

男性においてはオホーツク人の痕跡はほとんど認められず、女性の半分をオホーツク系が占めるということは、明らかに縄文系人がオホーツク人の居住域を征服したということを示す。

男性は駆逐され、女性は縄文人の妻となった。そしてオホーツク人と結婚しなかった約半数の縄文人男性は、縄文人女性を呼び寄せ結婚したということになる。

したがってアイヌ人は4分の3が縄文人で4分の1がオホーツク人という混血民族になる。

生産様式は完全な縄文人形式で、生活様式の一部(とくに女性の生活)にオホーツク系の伝統が残されるという形式ではないだろうか。

もちろん地域的な濃淡(例えばコロボックルの扱いとか)はあるだろうが、そこまでの知識はない。

穴居こそ縄文文化の本質的特徴

ふと思う。「縄文」という言葉を使うのがそもそも矛盾しているのだが、「穴居」こそ縄文文化のより本質的な特徴ではないか。

穴居(竪穴住居)そのものは、北方系民族にはよく見られる住宅形式であるが、弥生人と遭遇し、その文化を吸収する過程でいち早く失われていく習慣である。

ブナ林と古代史」というブログに、江戸時代樺太アイヌの住居について以下のような記載がある。(何の事はない、瀬川さんの文章だ)

地面を深さ1m前後四角に掘り下げ、屋外に通じる煙道を壁に堀崩してカマドを設けるとともに、4本の柱の外周にムシロなどを敷いて寝床とし、その内側を土間とするものであった。

…北海道では擦文文化以降平地住居が普及し、竪穴住居の伝統が中世の間には絶えてしまった。

なぜ住居にこだわるかというと、続縄文までは良いとしても、擦文土器を時代区分の象徴とすることに無理があるように思えるからである。

大和政権の歴史においても、弥生時代を最後にもはや土器による時代分類は用いられず、古墳・飛鳥・奈良時代と続いていくのである。(これ自体ずいぶんご都合主義的な区分だが)

北海道南部の縄文遺跡を見ても、背丈を超えるほどの巨大な竪穴こそが最大の特徴である。

また、肥前風土記などでも、王朝側に抵抗した先住者が穴居生活を行っていたことが示唆される。

擦文土器にこだわらずに擦文時代を眺めると、平地型住居のフロンティアが上陸し、徐々に北上し、やがて北海道全土を占めるに至る時代ということに本質があるように思える。

そして、平地型住居に住む縄文人というのがアイヌ文化の本質であるように思える。

擦文文化における住居はきわめて折衷的である。竪穴住居だが、中央の炉に代わり壁際にかまどがすえられている。この時期に一致して「北海道式古墳」も出現している。

先日、江別市郷土資料館を訪ねたが、縄文式土器の威圧的なまでの激しい押し出しと比べ、擦文式というのはなんとなく精気がない。東北エミシの落ち武者がひっそりと暮らしていたのであろうか、しょぼくれた印象が拭えない。900年ころを境に自然消滅していくということだが、さもありなんと納得させられる。

それは、江別・札幌の擦文土器文化を中核としてこの時代を擦文時代とすることが果たして適当だろうかという議論に発展する。

結局、奥州の安倍一族の没落を最後に岩手➖八戸➖道央低地帯という交易ルートは表向き消滅し、秋田を拠点とする日本海側交易ルートに一本化されていったのではないだろうか。

そうすると、道央低地帯の擦文文化が衰退消滅していく過程が理解しやすいように思える。そして「エミシ+続縄文人の拡散」という事態は、道央低地帯の没落を乗り越えて、遥かに大規模に全道・樺太・千島へと広がっていく。

そしてそれを追いかけるように和人の東北北部・北海道への進出が進んでいく。

後者を須恵器文化と呼ぶなら、この時代は擦文・須恵器併存時代と呼ぶほうが適当ではないだろうか。そして最終的には須恵器文化に擦文文化が吸収され、さらにオホーツク文化の一部も取り込むことでアイヌ文化が成立していくのはなかろうか。

擦文文化

瀬川さんは独特な擦文文化論を展開する。

擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「弥生化した縄文人」がもたらしたものだとされる。

彼らは大和国家の側からはエミシと呼ばれ差別されていた。

擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

擦文文化

瀬川さんは独自の擦文文化論を展開する。

1.擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「和人化した縄文人」がもたらしたものだ。

2.彼らは和人の側からは「エミシ」の名のもとに差別され、圧迫されていた。

3.擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

土器の特徴から見た時代区分

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

「古墳人」について

瀬川さんの「古墳人」という規定について、どうも誤解していたようだ。

それは、大和系の歴史で用いられる古墳時代とか前方後円墳という言葉から来ているのではない。

もちろん、それとのつながりはあるにしても、直接的には東北地方北部の群集墳を象徴とする文化を指しているようだ。

復元された江別古墳群

江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。(江別市郷土資料館)


ということで、

ウィキペディアの解説を通説としてみれば、瀬川さんの論建ては続縄文人の東北進出をふくめ、今のところは「大胆な仮説」にとどまっていると思われる。


カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

“藤沢敦”で検索していたら、あるブログに次のような一節があった。面白いので引用させて頂く。 失礼ながら、ブ ログ名がどれなのか、よくわからないブログなので、リンクだけ貼ら せてもらうことにする。
先の参議院選挙と直接比較することはできないし、その根拠も全くない のだが、安倍政権に対し、野党共闘で勝利した地域が、明治維新勢力 に対する奥羽越列藩同盟を結んだ地方とその地続きであったことによ く類似し、また、古代蝦夷の居住域とその交流地帯とも類似していたこ とに驚きを持った。
これと、琉球・沖縄地方の国家との関係もそうだが、「これらの地方には 、中央集権や、国家に抗する、古代・中世史を貫通する、1500年を越 えた歴史的記憶・身体性を蔵しているのでは?」と、ふと夢想してしまった のである。
うーんとマスコミ風に膨らますと、「縄文人は野党共闘だ!」ということに なろうか。

瀬川さんの本で一番ビックリしたのが以下の記述である。

東北は、紀元前1世紀ころから寒冷化により人口密度が希薄化した。それは良いのだが、

4世紀、北海道では続縄文時代後期のはじめ、本州では古墳時代が本格化しつつある頃、

北海道の人々は東北北部に南下していきます。彼らは古墳社会の前線地帯である仙台平野と新潟平野と結ぶラインまで南下しました。
この前線地帯には、幅数十キロにわたって古墳社会の人々と続縄文人が混在する「中間地帯」が形成されました。両者は排他的・敵対的な関係ではありませんでした。

注意しなければならないのは、本州(東北)に住んでいた縄文人は、続縄文人にはふくまれないということだ。彼らがなんと呼ばれるかについては、この文脈上では明示されていない。

おそらく彼らは瀬川さんの言う「古墳人」に抱合されているのだろうと思われる。やはりこの唐突な「古墳人」よりは以前からの言い方である「和人」のほうが、私にはぴったり来る。

つまり「和人」には人種(DNA)としての弥生人、内地縄文人がふくまれているのであろう。そしてそもそも弥生人(現日本人)が渡来人と縄文人の混血なのである。

それはともかく、引用した部分、えらくものの言い方が断定的なのに驚く。「そこまで言って委員会」である。

この引用部分、実は瀬川さんも藤沢さんという方の文章からの引用らしい。

ネット上で藤沢さんの文章を探してみることにする。

瀬川さんの引用元は藤沢敦「古代史の舞台…東北」という文章で、2006年に岩波書店から出された「列島の古代史Ⅰ 古代史の舞台」という本の一節のようである。

急に権威主義になってしまうが、岩波と聞くとさすがに恐れ入ってしまう。

藤沢敦さん。 東北大学のサイトでは55歳にもなっていまだに助手ということで、「教員エレジー」かと思ったが、別のサイトでは東北大学総合学術博物館教授となっていて、「まずまず良かったなぁ」とホッとしている。

倭国の形成と東北

これが近著で、目次を見るとなかなか論争的で面白そうだ。古墳人という言葉を使いたい理由が、東北人の心情としてわかるような気がする。

国立歴史民俗博物館の紀要(2009年)に、「墳墓から見た古代の本州東北部と北海道」という論文の要旨が載っている。

古墳時代並行期においては、南東北の古墳に対して北東北・北海道では続縄文系の墓が作られる。

7世紀以降は、南東北の終末期の古墳と、北東北の「末期古墳」、そして北海道の続縄文系の墓という3つに大別される墳墓が展開される。

つまり、南東北は古墳が終末期古墳になるだけで本質的変化はない。北海道はそのまんまである。

北東北だけが続縄文系から「末期古墳」という異文化に変わるのである。

末期と終末期の違いは分からないが、とりあえず本質的な問題ではない。

北東北でお墓の文化が変わるとき、中に葬られている人も変わるのかどうか、これが最大の問題だろう。ついでに言えば、それがなぜ7世紀なのかも興味ある。

しかしこの「要約」にはそれに対する解答は示されていない。これじゃ要約じゃないじゃん。

最後のフレーズ。

異なる文化間の境界は截然としたラインで区分できない。このことは、文化の違いが人間集団の違いに簡単に対応するものではないことを示している。

よく分からないが、この文章をもって「北海道の続縄文人が津軽海峡を越えて、北東北まで進出した」ということの論拠にはならない。ひょっとすると、瀬川さん言い過ぎているのかもしれない。


墳墓から見た古代の 本州島北部と北海道 の原文が見つかりました。

1.古墳築造域の変遷

《古墳時代前期》

太平洋側では,前方後円(方)墳の分布は,宮城県北部の大崎平野が北限となる。ただし,小規模方墳・円墳は,更に北の迫川流域まで分布し,宮城県域のほぼ全域まで分布する。

《古墳時代中期から後期初頭》

太平洋側では,岩手県奥州市(旧胆沢町)角塚古墳が造られ,分布域が拡大する。

ただし,同時に続縄文文化に由来する,黒曜石製石器の製作とそれを用いた生産活動も活発化しており,古墳分布域の拡大が,続縄文文化の後退を伴う訳ではない。

《古墳時代後期》

6世紀に入ると,古墳築造域は大きく後退する。太平洋側では,宮城県南部の阿武隈川下流域まで古墳分布は後退する。

仙台平野と大崎平野では古墳と続縄文系の墓との,折衷形式の墓が出現する。

《終末期》

7世紀に入ると,古墳築造域は再度拡大する。同時に,竪穴系埋葬施設は姿を消し,横穴形埋葬施設だけとなる。

太平洋側では,前期と同じく,宮城県のほぼ全域に古墳築造域が拡大する。

古墳築造域の広がりは,角塚古墳を除くと前期が最も広い。古墳築造域が拡大していく訳でもなければ,一度確立した古墳築造域が安定して維持され続ける訳ではない。

border

何やら複雑な絵でよく分からないが、境界線が宮城県でずっとウロウロしていること、日本海側はなかなか曖昧なことがわかる。

2. 続縄文系の墓

《初期の例》

弥生時代末に北東北に続縄文文化が拡大した。

古墳時代前期(西暦200~250)には、続縄文文化に由来する,平面形が楕円形を基調とする墓が,北東北にも見られるようになる。

そうなんだ。つまり東北の縄文人には続縄文文化はなかったのだ。それが西暦200年ころから出現するようになったのだ。それは少なくとも、続縄文文化を担う北海道の縄文人が影響を与えたとする以外には考えられないのだ。

《古墳時代中期》

副葬される土器に占める土師器・須恵器の割合が増大し、北海道系の土器はほとんど見られなくなる。

《7世紀以降》

続縄文系の墓は見られなくなる。代わりに「末期古墳」が造られる。

北海道では,7世紀以降も,続縄文系の墓の系譜に連なる墓が造られ続ける。しかし8世紀には,「末期古墳」に類似する周溝をめぐらすようになる。

3.末期古墳

「末期古墳」は,7世紀初頭に出現し,9世紀まで造られ続ける。北東北3県に普遍的に分布するほか,宮城県最北部の迫川流域・北上川下流域にも分布している。

さらに,北海道の道央部の石狩低地帯に分布し,「北海道式古墳」と呼ばれてきたものは,北東北の「末期古墳」と基本的に共通する。

「末期古墳」の様相は,倭における後期から終末期の小規模円墳との共通性が強い。そのため「末期古墳」は,倭の古墳の強い影響のもとに成立したと考えられる

しかし倭の古墳に顕著な,被葬者相互の階層的関係を表現するという社会的機能が,「末期古墳」ではほとんど見出せない。

4. 墳墓を中心に見た異文化間関係と境界 

《古墳時代前期》

北上川中流域から大崎平野に至る南北約60kmの範囲で,古墳文化と続縄文文化の考古資料が相互に入り組んで分布する。

混住帯の幅広さは両者は排他的な関係にはないことを示す。

《古墳時代中期から後期初頭》

角塚古墳が北上川中流域に造られ,古墳分布が拡大する。土師器を伴う方形竪穴住居が,大崎平野や角塚古墳周辺に出現する。

古墳文化と続縄文文化の境界はさらに不明確となる。

角塚古墳に示される政治的関係は,続縄文文化に伴う経済的関係を組み込み,それに支えられていたと考えられる。

《古墳時代後期》

古墳分布域は後退する。仙台平野や大崎平野では,古墳と続縄文系の墓の折衷型式の墓が出現する。

《7世紀初頭以降》

北東北が農耕を基盤とする社会へ転換していった。ただし,大崎平野から仙台平野にかけての地域では,南東北と北東北の様相は混在し,その中でも北へ行くほど,北東北の様相が強い。

そこに刺さりこんで、差別をもたらしたのが大和王朝である。

大和政権から律令国家へ至る中央政権は,仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視していく。そして,蝦夷に対する支配機構である城柵が,仙台平野以北に造られていく

最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれた。これが北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いを生み出した最大の理由である。

「末期古墳」は北海道にも分布する(北海道式古墳)。道央部においては,続縄文系の墓と「末期古墳」が,地域においてのみならず,同じ遺跡の中でも混在している。両者を截然と区分できる境界は存在しない。

5.おわりに

古代律令国家は、「蝦夷」や「粛慎」を截然として“他者”と認識した。その結果として、これら人間集団を他人視する傾向が生まれ、続けられてきた。

しかし、異なる文化間の境界を截然としたラインで区分できないことは明らかである。文化の違いは人間集団のDNAの違いに簡単に対応するものではない。

そもそも「蝦夷」や「粛慎」という他者認識と表裏一体の関係にある,「倭人」あるいは「日本人」という自己認識が、鋭く逆照射されなければならない。

最後の指摘はきわめて重要である。

続縄文時代の北海道は、瀬川さんによれば、以下のように特徴づけられる。

1.交易拡大による宝物の流入

希少な交易産品を独占保有することで、独占的な権益を得た。彼らは和人社会が拡大すればするほど豊かになる仕組みを享受した。

現代で言えば産油国の王様が豊かになるのと同じ経済メカニズムだ。このように豊かな国が、苦労して稲作などする必要があるだろうか、と瀬川さんは問いかけている。

2.狩猟への特化

続縄文人は、農業に携わる努力を狩猟の大型化へと集中した。

瀬棚では、数十の工房跡、数千点のメノウ製のドリルが発掘され、毛皮やなめし革製造のための専門工房の存在が確認されている。

いっぽうで寒冷化は進み、生業的な集落の維持は困難となった。道央・道北の広大な地域が無人の野と化し、そこにオホーツク人が進出してくることになる。

3.「海民」の発達

貿易を担う海上輸送インフラが大いに発達した。北海道の産品は西は秋田、東は八戸あたりに持ち込まれ、和人(バイリンガル)化したエミシとの間で「取引」され、「商品」となった。

「商品」の和人地域への輸送を担ったのは、主として北部九州の「海民」だったと言われる。

それは朝鮮半島から北九州にかけての風習であった「卜骨」が、道内各地で発見されていることから裏付けられる。(しかしY染色体のC1ハプロは青森止まりだ)

このあと話は少し脱線する。

この北九州の「海民」は、東北・北海道の縄文人とも、渡来した弥生人とも異なる特徴を持つ「縄文」人であった。(C1ハプロや、ATLウイルス抗体の分布との相関はあるだろうか?)

4.生産・輸送手段の大型化に伴う階層分化

墓の副葬品を見ると、この時代、首長が富のほぼすべてを独占している。

砂沢遺跡の意味するもの

砂沢遺跡は弘前市の北はずれ、岩木山の東麓にあたる。昭和62年に弥生時代前期(2300年前)の水田跡が見つかった。

近隣の田舎館村垂柳遺跡からは、弥生時代中期の水田跡が発見されており、この時代に津軽平野で水田耕作が行われていたことは確実となった。

これら水田は紀元前1世紀には寒冷化のため放棄された。弘前で水田が復活するのは6世紀まで下る。

同時に出土した遺物は「砂沢式」と呼ばれ、弥生式のスタイルを受け入れつつも、基本的に縄文後期の様式を示している。
このことから縄文人が渡来人の技術を受け継ぎ水田耕作を行ったことは確実である。


   砂沢の土器、縄文と弥生の両方の様式が混合する

砂沢土偶
  砂沢で発掘された中空土偶はもろに縄文


つまりだ。

縄文人が弥生人に同化せず、服従もせず、彼らの文化をそっくり保持しながら、水田耕作を行ったということだ。

これを敷衍すれば、

縄文人が縄文人でありつつ、和人の支配を受けずに前方後円墳を作るのもまったく可能だということだ。

さらに敷衍すれば、弥生時代とか、古墳時代とかいう時代区分は、こと縄文人にとっては意味が無いということだ。

日本書紀の景行紀に肥後(熊襲?)討伐作戦が延々と展開されている。豊後の国風土記にも、それの簡略化された事項が記載されている。
日本書紀の編纂と風土記はほぼ並行して進められており、豊後の国風土記の史実としての先行性は認めがたい。
風土記の編纂は太宰府の指示の下に進行されたと言われており、日本書紀の記録も豊後の国風土記の記載も、大宰府に存在した資料に基づいているものと思われる。大宰府の役人がそれを用いて九州を景行天皇一色に染めようとしたのであろう。
これは九州王朝による火の国征討作戦である。大和政権が景行天皇の時代に豊後に上陸して阿蘇の山並みを超えて肥後を目指したという蓋然性は低い。
筑紫王朝が肥後を征討するため豊後周りの迂回→側面攻撃作戦を取るというなら理由はよく分かる。
まずは日本書紀の記載を見ていこう。


碩田國の速見邑に入った天皇の一行を村長の速津媛(はやつひめ)が迎える。彼女は近くの「鼠の石窟」に白と青という土蜘蛛が潜んでいると讒言。また直入郡禰疑野(ねぎの)にも打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という3人の土蜘蛛がいる。是の五人は強力で、また衆類も多く、皇命に従おうとしない。

進軍を妨げられた天皇は、来田見邑に留り陣を設営した。群臣と議りていわく「今多に兵衆を動かして、土蜘蛛を討たむ」と宣言した。

そして民兵を募り武装させ、掃討作戦に乗り出した。

山を穿ち草を排ひて、石室の土蜘蛛を襲いて、稲葉の川上でこれを破った。

「山野に隠れてば、必に後の愁いを為さむ」として、其の輩を殺す。血流れてつぶなきに至る。

と、これが「鼠の石窟」の戦い。次が禰疑野の戦い。

復、打猿を討たむとして、ただに禰疑山を渡る。時に賊虜の矢、横に山より射る官軍の前に流ること雨の如し。天皇、更に城原に返りまして、水上に卜す。

便ち兵を整えて、先ず八田を禰疑野に撃ちて破りつ。ここに打猿え勝つまじと謂いて「服はむ」と請す。然れども許したまはず。皆自ら谷に投りて死ぬ。(まぁ突き落とされたんでしょうね)



という状況で、いずれにしても「流ること雨の如」き矢が浴びせられたというから相当大規模な戦闘だ。天皇軍も一時退却を余儀なくされるほどの激しさだったことが伺える。それとともに、敗残兵を掃討しようとしなかった土蜘蛛側のツメの甘さが印象的だ。
そしてこの戦闘でも、敗れた土蜘蛛は全員が虐殺されている。天皇軍の民衆に対する冷酷さもきわめて印象的だ。

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