鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

毎年末にNHK教育テレビで「クラシック音楽今年の回顧」みたいな番組をやっていて、毎年それを見るのが楽しみだった。
何か8ミリ映画にとった映像を流すみたいで、絵柄も音質も「良くもこんな絵を流すな」と感動するほどのものだった。
今でも覚えているのがヴィンシャーマンとバッハ・ゾリステンのリサイタルでバイオリンとオーボエの協奏曲の第3楽章を流した場面だった。多分大阪万博ころだったと思うが、まさに鳥肌モノだった。
それからだいぶ経っていたと思うが、クリーブランドがマゼールと一緒にやってきたときの演奏会の触りをやっていた。何かロシアの管弦楽曲ではなかったかと思うが、文字通り光彩陸離たるもので、クリーブランドからこんな音が出るんだ、と感心した覚えがある。
しかしどうもこの組み合わせは長続きしなかったようで、その後いろんな人が指揮者になって、そのたびにどんどんクリーブランドの音も落ちていった。だいたい街そのものが落ち目なのだからしょうがない。ということで、音的にはマゼールの時代がクリーブランドのピークだったのではないかと思う。
そんなことがあったことも忘れていたが、本日たまたまYou Tubeでこの組み合わせのベートーベンの第1交響曲を聞いて、あまりの腕前に腰を抜かしてしまった。
もともとマゼールはこの世代でピカイチの指揮者だと思っていたが、このオケからこれだけの音を引き出すのはやはりこの人しかいなかったのではないか。ただしもう少し禁欲的でも良かったか、という気もする。極彩色だが薄っぺらい。
すこしこの組み合わせの音源を探してみて、また報告する。

1.名誉革命とロック

ロックは17世紀のイギリス思想を集大成しただけではなく、それに自然法と社会契約という骨組みを与えた。

一言で言えば、人間には資産(Property)がある。資産を持つのは自然に与えられた権利である。これを社会の中で守るためには相互の契約が必要である。この契約を安定したものとするためには社会による保全が必要であり、このために国家(という社会形態)が設立されている。

これは国家形成の歴史から見れば、ほとんど空論であるが、出来上がった国家を主体的かつ合理的に運営するためには有効な議論である。

ただこれだけであったら、「そういうふうにも言えるね」程度の話であるが、こういう「契約社会国家」を壊すことは、契約で成り立つ社会そのものを壊すことになるのだから許せない、というところに話を持っていくのだから、俄然説得力を帯びてくるのである。

いずれにせよ、これは富裕層の論理であり、契約を旨とするリバタニアン・ビジネスマンの論理である。「必要なときはこちらから頼むから、お願いだから放っといてくれ。あまり目障りなら潰しちゃうよ」という上から目線の話だ。
2.ルソーによるロックの改作と「一般意思」

このままでは貧民が権利を要求する際の論理建てとしては使えない。そこでルソーが頭をひねった。

ルソーも人間は自然権を持つとし、それを守るために社会契約を結んだとする。ただ自然権というのは資産ではなく、「自由と平等」という抽象である。ここにはすり替えがある。

次に社会契約を結ぶのは人間同士ではなく、人間と社会とされる。社会というのは「全人民の団体たる国家」である。その社会には「一般意思」が形成され法律として体系化される。これが自然法であり、人はこの自然法に従わなくてはならない。つまり、政府・国家は一般意志に従わなくてはならないということだ。

ということで、ロックの自然法思想は換骨奪胎され、詭弁もどきの論理展開により、ほとんどその反対物に転化する。

そこには「一般意思」に名を借りた政府乗っ取りの狙いをはらんでおり、ロックの用心棒国家的思想とは様相を異にする「危険な思想」と化している。

本日は外で飲んで帰ってきて、テレビを見ながらそろそろ寝ようかと思っていたところだった。
とつぜんNHKニュースでとんでもないことを喋り始めた。
ネパールで選挙が行われ、いづれも中国派であるネパール共産党統一派と、ネパール共産党の毛沢東派が連合して政権を担当することになった。
正義の代表である国民会議派は過半数を取れずに政権から離れることになった。

ちょっと待てよ、どこからの情報なんだ。NHKにはカトマンズにもカルカッタにも特派員はいないのか、2000年からの20年間NHKはネパールをフォローしていなかったのか。
とにかくあまりにもひどい報道に唖然とし、ついで憤然とし、受信料支払い義務を認めた昨日の最高裁大法廷の判決は何だったのかと叫んでしまった。
私は、苦汁を飲みこむ気分で最高裁判決を支持する。崩れかけたNHKに対する呼びかけとして、叱咤として、それを支持する。
記者さんよ! とにかくあなたはそういう“受信料”で飯を食っているはずだ。そのためにインドまで派遣されているはずだ。
だから、この私でさえ唖然とするようなおとぎ話は流さないでほしい。人間(知識人)として情けないではないか。
社会としては通用するかもしれないが、こんなニュースを配信したあなたを、私は許せない。

ワイマール共和国の成立史を勉強するうち、もう一つの政治カテゴリーに気づきました。

それが「議会主義」です。

実はこれが議論の焦点ではないかと考えるようになりました。

1.議会主義という言葉を覚悟して使おう

この議会主義は民主主義の意味にもなるし、寡占主義の意味にもなります。そして左翼、とくに戦闘的左翼のあいだでは議会主義の評価が、いまだふらつきがあるように思えるのです。

これまでの勉強でわかったのは、さまざまなイデオロギーが実体的な土台を政治・法律の中においていることです。

言ってしまうと当たり前みたいな話で、「だからイデオロギーなんだよ」といわれてそれでおしまいみたいな話ですが、意外と奥深いのです。

2.リベラリズムと立憲主義の同義性

真っ先にこの事に気づいたのは、リベラリズムと立憲主義の同義性でした。ものの本には「リベラリズムの法的表現が立憲主義である」と書いてあるんですね。

「リベラリズム」というのは自由主義であり、自由を何よりも重要な価値観とする考えです。それは「自由とは何か」という考えを根底に含みますから、まず何よりも倫理学であり実践哲学です。

ただそれはきわめて根底的な問いであり、なかなかはっきりした答えが出せるものではありません。ところが政治・法律の観点から見るとそれはきわめてスッキリしているんですね。

それは人間が社会の中で暮らすしか無いのだから、社会はできるだけ個人の自由を尊重しなければならないというのが原点で、これが「社会は…すべからず」という規範集となって集大成されている。これが法律であり、憲法であり、その具体的適用としての各種施策なんですね。

というより「そうあるべきだ」というのが自由主義の主張であり、それは法律的には「立憲主義」ということになるのです。

以上より、こう言えます。

自由主義・リベラリズムというのは色々な考え方ができるけれど、その中核・実質となるのは立憲主義だということです。

3.デモクラシーと「議会主義」の同義性

同じような論立てで言うと

民主主義・デモクラシーというのは、その中核は「議会主義」なのかもしれない、ということになります。

ということは議会制民主主義、人民的議会主義などという言葉がそもそも変なので、非議会制民主主義というのはありえないのではないでしょうか。

民主主義の反対は寡占政治です。貴族政治とも言いますが、別に貴族でなくとも良いわけで、国民の代表ではないのです。

寡占政治には幅があって究極の寡占は独裁制とか王政ということになります。議員の数があ多くても、被選挙権にいろいろ条件がついて、エリートでなければ議員になれない場合は、厳密な意味で国民を代表していないので、寡占制ということになります。

だから議会主義は代議制であるために一見寡占制にも見えますが、本質的には寡占制の対立物なのです。

こう見てくると、民主主義の根本精神は「法のもとでの平等」主義にあるということがわかります。平ったく言えば「一票民主主義」なのです。

3.政治的平等の持つ意味

そう言ってしまえば身もふたもないようですが、実はこれが妖刀村正的な効果を持っているのです。なぜなら抑圧者、搾取者、収奪者、支配者はつねに国民の少数だからです。

民主主義は大多数の国民が、いざという時には国の主人公となる「可能性」を意味します。その可能性を追求するのが「民主運動」ということになるのでしょう。

話を戻しますが、民主主義というのは巨大な可能性を秘めてはいますが、さしあたっては議会主義だと思います。

大変革期に議会主義が果たして有効な変革手段になるか、それは課題の緊急性にもよると思います。ただ議会主義を放棄すればそれは民主主義という統治手段を一時的にせよ放棄することになります。そういう覚悟を保つ必要があります。

直接民主主義という、条件的にしか存在しない合意形態を持ち出すのは詭弁です。ソヴェートとかレーテとかは主体の“あり方”でしかなく、議会に代わるものとして提示するのはすり替えです。

4.「思想の自由」は民主主義の課題ではない

いずれにしても民主主義は議会主義を中核とするものであり、立憲主義と直接の規定関係はありません。我々がこれまで民主主義と言ってきたものの中には、かなり「リベラリズム」の範疇で捉えなければならないものがありそうです。

例えば「思想の自由」をめぐる問題は、まさに自由の問題であり、民主主義一般よりはるかに根底的な問題として捉え返されなければなりません。


以前あげていた年表からワイマール共和国成立史年表を外した残り部分です。
多分、同じ理屈で後半部分がヒトラー政権成立史として分離していくことになるでしょう。
とりあえず、それまでのつなぎとして…

1919年


19年2月

3.02 モスクワで第3インター(コミンテルン)創立大会が開かれる。

4.07 ミュンヘンでバイエルン州政府が倒され、スパルタクス団によるバイエルン・レーテ共和国が成立した。

5.01 ノスケ国防相がミュンヘンにフライコールを派遣し弾圧。レーテ共和国は崩壊する。このあとバイエルンは右翼の拠点となっていく。

6.20 ヴェルサイユ条約受諾をめぐり、民主党が連立を離脱。シャイデマン内閣は崩壊しバウアー内閣が発足。

6.28 ヴェルサイユ条約調印。その後多額の賠償金がドイツを苦しめる。

7.31 ヴァイマル憲法可決:賛成262票、反対75票、棄権1票

8.11 ヴァイマル憲法が公布される。大統領の権限の強い共和制、州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。

11月 ヒンデンブルク前参謀総長が国民議会で証言。「敗戦は背後からの匕首のせい」と述べ、軍は敗北していなかったと主張。

 

1920年

20年3月

3月13日午前 カップ一揆が発生。ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始する。

3月13日午前 エーベルト大統領は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。

3月13日午後 カップは新政府樹立を宣言した。エーベルトはシュトゥットガルトに避難。ゼネストを呼びかける。

3月17日午前 カップが亡命して一揆は終結した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを続行。

3月17日午後 バウアー首相が退陣。ノスケも国防相を解任された。総司令官に就任したゼークトが軍の全権を掌握。

3月 ルール地方で暴動が発生。

6.06 最初の国会選挙。ヴァイマル連合勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が議席を伸ばす。

6月 社会民主党が政権を離脱。中央党と民主党と人民党の3党による中道右派連立内閣が成立。

10月 独立社会民主党、コミンテルンへの参加をめぐって分裂。左派は共産党に合流、右派は翌年社会民主党に復帰。

12月4日 ドイツ共産党がコミンテルンに加盟。コミンテルンは絶対服従を要求。指導者パウル・レヴィは更迭され、ハインリヒ・ブランドラーが書記長に就任。

 

1921年

3.08 連合国軍がデュイスブルク、ルールオルト、デュッセルドルフを占領。

3.20 ポーランドとの係争地帯であるオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われる。ドイツ帰属派が多数を占めたが、ポーランド帰属派の「蜂起」を受けた国際調停により、ドイツ側に不利な分割が行われる。

3.23 ドイツ共産党、ザクセンやハンブルクで「中部ドイツ3月蜂起行動」を展開。コミンテルンのクン・ベーラ(ラーコシ・マチャーシュ)が指導し、中部ドイツのマンスフェルトを占領。軍によって数日後に鎮圧される。

3月 連合国によるロンドン会議。賠償額を1320億金マルクとするロンドン最後通牒を発する。支払い方式は、30年間にわたり年間20億マルクを払い、さらに輸出額の26%を天引きするという過酷なもの。

4.16 独ソ会談で、ソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定める。また軍同士による秘密協定も結ばれる。国内右派は一斉に反発。

5.10 ドイツ政府、ロンドン最後通牒を受諾。

6.24 独ソ協定に努力したラテナウ外相がコンスルによって暗殺される。政府は「敵は右側にいる」とし反政府活動への対処を始めた。

7.21 「共和国保護法」が成立。左右の過激派活動への取締りは強化され治安が回復。

7.29 ヒトラー、DNDAP党首となる。

8.29 バイエルンと政府との紛争。非常事態の布告。

10月 社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。

 

1922年

8月 インフレーション加速。

9月 ムソリーニのローマ進軍。

1923年

1.11 フランス・ベルギー連合軍、ドイツの賠償不履行を理由にルール地方に進軍。石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてる。

1.11 ドイツ政府はフランスへの協力を禁止し、ストライキやサボタージュなどによる「消極的抵抗」を呼びかける。

8.12 「消極的抵抗」が、多大な犠牲を生む中で中止に追い込まれる。インフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となる。

8.13 シュトレーゼマンを首班とする大連合内閣が発足。「消極的抵抗」の打切りを宣言。全国に非常事態宣言。

10.10 ザクセンとチューリンゲンで社会主義政権樹立。ザクセンの社会民主党・共産党政府に対する中央政府の武力介入。バイエルンでも中央政府との紛争。

11.03 社会民主党、ザクセン、バイエルンでの中央政府の対応を不満とし、政府から離脱。

11.8 ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党など極右派がドイツ闘争連盟を結成。ミュンヘン一揆を起こした。エーベルトは全執行権力をゼークト将軍に委任。

11.15 国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行う。1兆紙幣マルクが1レンテンマルクとなる。これによりインフレの沈静化に成功した。

12月 イギリスとアメリカが賠償問題の解決に乗り出す。ドーズ委員会が設置された。

1924年

2.13 非常事態終結を宣言。

4.09 ドーズ委員会、連合国賠償委員会にドーズ案を提出。ドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するもの。ドイツはこれを受諾。

5.04 第2回帝国議会選挙。社会民主党が敗北し、ドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」と批判する国家人民党と共産党が躍進。

12.07 第3回帝国議会選挙。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅したことから、ナチ、共産党ともに後退。

1925年

2月28日 エーベルトが死去、大統領選挙が行われる。右派の推すヒンデンブルク元参謀総長が160万票差で当選

7.14 フランス軍、ルール地区から撤退開始。連合国軍、デュッセルドルフ、デュイスブルク、ルールオルトからの撤兵。

10.5 ロカルノ会議が始まる。ヨーロッパにおける安全保障体制の構築を目指すもの。

 

1926年

4.24 独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結される。

9.08 国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となる。

12.10 シュトレーゼマン、ノーベル平和賞を受賞。

 

1927年

1.31 連合国軍事委員会、ドイツから撤収。

1928年

5.20 第4回帝国議会選挙:SPD、KPDの躍進。DNVPの議席大幅減少。

6.20 ミュラーを首班とする大連合内閣が発足。

8.27 不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)、15カ国がパリに集まり署名。

1929年

6.23 NSDAPがコーブルク市の政権を獲得。

6月 オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金委員会、実質的な賠償金額の削減となるヤング案を提示する。

7.09 フーゲンベルクの指導下に「ドイツ国民請願全国委員会」(DNVP、鉄兜団、ナチ党の連合)が設立される。

11.25 ウォール街で株価大暴落。アメリカ資本の一斉引き揚げが始まる。

 

1930年

6.30 フランス・ベルギー連合軍、ラインラントから期限前に撤兵完了。

7.16 経済財政緊急令公布。帝国議会は緊急令を否決。大統領、議会を解散。

9.14 第5回帝国議会選挙。ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチ党が第2党へ大躍進(12→107議席)

12.01 ブリューニング、緊急令によって財政経済政策を実施。

 

1931年

2月 失業者ほぼ500万人。

3.21 ブリューニング、ドイツとオーストリアとの関税同盟案を発表するが、フランスにより阻止される。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット-アンシュタルト(Kredit-Anstalt)倒産。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたためとされる。これを機にヨーロッパ全土の経済に打撃。

6.05 第2次経済財政緊急令:公務員給与の引下げ、社会保障費と州地方交付金の削減。

6.20 フーバー大統領、西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言(フーバー・モラトリアム)。

7.13 ダルムシュタット・ナツィオナール銀行が倒産。政府はすべての金融機関の業務停止。

11月 バート・ハルツブルクで「国民的反対派」の集会が開かれる。

12.08 「鉄戦線」の編成(社会民主党、労働組合総同盟、労働者スポーツ協会、国旗団、黒・赤・金グループ)。

1932年

1月 コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べる。共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べる。

4月 大統領選挙。ヒンデンブルクは最多得票を獲得、2位にヒットラーが入る。

4月13日 国防相兼内相のヴィルヘルム・グレーナー、ナチの突撃隊と親衛隊に対し禁止命令。その後シュライヒャーの策動で失脚する。

4.24 各州選挙でナチ党上昇。

5.20 オーストリアでドルフス政権誕生。

5.30 グレーナーに代わり国防相となったシュライヒャー、ヒトラーと組んでブリューニング内閣を辞任に追い込み、盟友のパーペンを首相に据える。

7.20 プロイセン・クーデタ。パーペン首相はプロイセン州政府を解任して国家総督を置く。

7.31 第6回帝国議会選挙。ナチスが230議席を獲得し第1党となる。ブルジョワ政党の壊滅的後退。

8.13 ヒトラーが首相任命を要求するが、ヒンデンブルクは拒否する。

9.12 パーペン内閣不信任決議が可決、帝国議会解散。

11.06 第7回帝国議会選挙。ナチ党は後退(196議席)するが、依然として最大政党にとどまる。共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となる。

12.03 シュライヒャーはパーペンを辞職させ、自ら首相となる。パーペンはシュライヒャー打倒を目指すようになり、ヒトラーと組んでヒンデンブルグを説得。

1933年

1.04 ケルンでヒトラーとパーペンの会談。

1.30 ヒトラー内閣発足。

 

NHKスペシャルで「サルの大移動」という番組を見た。まことに面白く、想像力をかき立てる番組であった。
それは、番組の本筋の話とは少々ずれているところがある。
実は、系統進化の話を調べているうちに、爬虫類の時代から哺乳類の時代への移行というのは意外と遅いのではないかという感じがしてきたのである。
大まかに言うとこういうことだ。
哺乳類は爬虫類全盛の時代には日陰の存在であったが、しかし結構したたかに生き延びて、それなりに分化発展していた。
そこに環境激変が来て恐竜類など大型爬虫類が絶滅した。
だから、そのときすでに哺乳類はそれ自身の体系を持って自然史に登場し、その後“それなりの”発展を遂げたのではないだろうか。
というのは、サル以外の哺乳類が、日陰の身だった頃と比べてそれほど生き様を変化させたようには思えないからだ。
動物というのは逃げる生活と捕まえる生活の上に成り立っている。これにさすらうという生活が加わる。哺乳類は爬虫類の辺縁で生活していたから、夜行性であり、高速であり、したがって恒温性である。
しかしこれらの性格は食物連鎖のトップに立った瞬間に不要となる。むしろトップにふさわしい爬虫類性・恐竜性がもとめられることになる。それは聴力や嗅覚、触覚という身の周り的感覚ではなく、視覚中心の感覚系の再構築であろう。
そしてそれに対応できたのは、結局のところ霊長類のみではなかったのか。象や河馬はただ体を大きくするという対応で動物界の頂点に立ったが、その代わりに居場所は制限され、動物としての普遍性を失った。
なぜそうなったか、爬虫類絶滅以来の歴史があまりに短かったからである。生物学的・DNA的進化をするにはあまりにも短い。
しかしサルはそこを、非DNA的な手法で乗り越えた。それが“さすらい”である。
だからサル以降の系統進化は、より非DNA的な手法で解析していかなければならない。
つまり進化学の方法は、爬虫類→哺乳類→霊長類という段階論ではなく、爬虫類+哺乳類→霊長類という観点から構築されなければならないということだ。プレ霊長類とポスト霊長類のあいだに分水嶺を設けることだ。(飛び、渡ることによる、トリと恐竜の分離に類するのか?)
その際のあらたなパラダイムがどんなものなのか、これがこれからの手探り課題となるだろう。

当初ワイマール共和国15年史という形で年表を作成し始めましたが、やっていくうちに興味が拡散してしまいました。ドイツの反戦からスパルタクスの反乱、そしてワイマール共和国の成立に至る過程が、それだけでめまぐるしいもので、とても単一の年表では語り尽くせなくなってしまうからです。

そこでこの間約3ヶ月間を「ワイマール共和国成立年表」として別建てすることにしました。

かつて学生時代は、これを「ドイツ革命史年表」として学んだものですが、今では「ソヴェート」とか「ボルシェビキ」に対する感覚が相当変わっていることもあって、「善・悪」の基準をできるだけ混じえずに俯瞰していくよう心がけたいと思います。

もちろん、歴史に対する進歩の思想は持っているので、ベタに事実を描きだすのではなく、ワイマールの進歩性、歴史的限界、さらにナチス支配を生み出したモノへの批判的分析はきっちりと踏まえていきたいと思います。

1918年

1月8日 ウィルソン大統領が14カ条を発表。大戦の講和原則と大戦後の国際秩序の構想を示す。

1.28 ベルリンで1月ストライキ始まる

3月3日 ブレスト・リトフスク条約が締結される。(ブレスト・リトフスクは一つの地名で、現在のベラルーシのブレスト) ヴェルサイユ条約締結によって消滅する。

3月21日 ドイツ軍が西部戦線に兵力・火力を集中し、一斉攻撃に出る。「カイザー攻勢」と呼ばれる。当初の1ヶ月で防衛線を突破しパリに迫るが、27万人の死傷を出し補給が困難となる。

8月8日 連合国軍が西部戦線で反撃に出る。総勢210万人のアメリカ軍が投入されたことで兵力バランスが崩れ、第2次マルヌ会戦とアミアン会戦によりドイツ軍が劣勢に陥る。

9月29日 ドイツ軍大本営(在ベルギー)のパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長と参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で、ウィルソン休戦提案の受諾を求めた書簡を提出。

10月3日 マクシミリアン(バーデン卿マックス)、帝国宰相に任命され、ウィルソンとの休戦交渉開始。

10月 マクシミリアン、アメリカ側の意向を受け、議院内閣制や普通選挙など専制政治からの脱却を目論む。交渉継続に反対したルーデンドルフを解任。議会多数派の社会民主党はマクシミリアン工作を支持。

10.29 マクシミリアン、カイザーの退位を求める。カイザーはこれを拒否しベルギーのドイツ軍大本営に立てこもる。

10.28 ヴィルヘルムスハーフェンの海洋艦隊で「提督の叛乱」が発生。イギリス艦隊への攻撃を企図する。これに抗議する水兵の叛乱始まる。

10.29 出撃命令を拒絶した水兵1千名が逮捕され、キール軍港に送られる。

18年11月

11.03 オーストリア・ハンガリー帝国が連合国と休戦。

11.03 キールで水兵の釈放を求めるデモと官憲が衝突。暴動状態となる。

11.04 キールで「労働者・兵士レーテ」が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧する。レーテは政府が派遣したグスタフ・ノスケ(社会民主党員)を総督として認め、反乱は鎮静化する。

11.05 キールから出動した活動家により蜂起が拡大。リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、ハノーファー、ケルンがレーテの支配下に入る。

11.07 ミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位する。独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相に就任。他にザクセン、テューリンゲンで社会主義政権が成立。

11月09日

午前 マクシミリアン首相、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言。みずからも首相を辞し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに禅譲する。ヴィルヘルムはオランダに亡命。

午前 ヴィルヘルムの退位を知ったカール・リープクネヒトが王宮に乗り込む。バルコニーから演説し、「社会主義共和国」の宣言(一種の決意表明であろう)をした。

午後 社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマン、議会前に集まった群衆にドイツ共和国の成立を宣言。シャイデマン発言はリープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」を防ぐための独断であったと言う。

午後 ベルリンで終戦を祝うデモ。ローザ・ルクセンブルクなどの政治犯も釈放される。

夕方 社会民主党、臨時共和政府の樹立に向け独立社会民主党への連立を呼びかける。「革命的オプロイテ」も議会に結集し、同意形成のための大衆的働きかけを強める。

革命的オプロイテ: ベルリン市内の職場や工場の組合指導者のグループ。約100名で構成され、12の中核組織を持っていた。政治的には独立社会民主党の左派に属しており、スパルタカス団とも親戚づきあいしていた。

夜10時 社会民主党の呼びかけを受けた独立社会民主党、シャイデマン評議会への参加を決める。

11月10日

午前 社会民主党と独立社会民主党の両党から3名づつの委員からなる「人民委員評議会」が成立。共同議長(首相)にエーベルトと独立社会民主党のハーゼが就任。

午後5時 「政府合意」を受けて労働者・兵士評議会(レーテ)の大会が招集される。3千名近くの代表を結集。会議を主導した「革命的オプロイテ」は、シャイデマン評議会を承認しつつ、いっぽうで「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の結成とレーテによる権力掌握へと動く。

大ベルリン労兵レーテ執行評議会: 労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名の構成とされた。「人民委員評議会」との権限の境界は曖昧なまま残された。

午後 リープクネヒトがレーテの大会で挨拶。軍とエーベルト政府による反革命の危機を訴えたが、統一と団結の声にかき消されたという。

夜 エーベルトと参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー(ルーデンドルフの後任)とのあいだに合意が成立。軍は新政府に協力することになる。

合意事項: 革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、政府は旧来の将校組織を温存すること。(おそらく会談そのものも合意事項も極秘であろう)

11.11 パリ北東コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印される。戦死者180万人、戦傷者425万人。

11月15日 労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容とする。

11月 評議会政府、首都・王宮の治安部隊として「人民海兵団」を組織。クックスハーフェンから召集した水兵とベルリンの水兵部隊より編成される。組織内に急速にレーテが浸透する。

18年12月

12.06 ベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。

12.16 全国労働者・兵士協議会の第1回全国大会がベルリンで開催される。ベルリンのレーテを掌握した急進派は、政治権力をレーテに集中するよう提案する。しかし全国レベルではレーテ集中派は100票にすぎず、国民議会を支持する社会民主党の代議員が350票を握っていた。

12.16 ハンブルク代表団、叛乱水兵の意志を代表して軍制の徹底的改革を要求。この改革案は圧倒的多数で決議された。

1.統帥権は文民のコントロールの下に置く(具体的には臨時政府かレーテ)
2.懲戒権は兵士評議会のもとに置かれる。
3.将校の選出権は将兵全員にある。階級章は廃止される。勤務外の上下関係は否定される。
水兵たちは将校団こそが反革命の脅威であることを熟知しており、ここでは譲らなかった。

グレーナー参謀次長との交渉に入るが、軍が難色を示したため先送りとなる。エーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。

12月21日 レーテの全国大会、急進派の提案を否決。社会民主党と共和政府のもとめる国民議会の選挙を受け入れる。レーテの決定を受けた「人民委員会会議」政府は国民議会の選挙実施を決定。

12.23 王宮に居座った「人民海兵団」に対し臨時政府が退去を求める。海兵団はこれを拒否したため、政府は給料の支払いを停止。抗議のデモに軍が発砲しにらみ合いとなる。

12.24 政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立し戦闘は停止されるが、一連の事態を通じて政府と軍との密約が明らかとなる。

これとは別にベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(独立社会民主党)が「保安隊」を組織するなど、ベルリンの権力構造は各派がしのぎを削る状況となる。

12.29 独立社会民主党、人民海兵団の弾圧に抗議し人民委員政府から脱退。ただし国民議会への参加は前提とする。

12.30 ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を主体にドイツ共産党(KPD)が結成される。「全権力をレーテへ」を掲げ、国会選挙のボイコットを決定。「革命的オプロイテ」派はボイコット戦術に反対し、共産党に加わらず。

モスクワから潜入したボルシェビキのカール・ラデックが、ためらうローザ・ルクセンブルクを説き伏せ、ドイツ共産党の結成に踏み切らせたと言われる。

 

1919年

19年1月

1.05 アイヒホルンが解任される。アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城する。

1.05 共産党とオプロイテは、アイヒホルンの罷免に抗議する大規模なデモを展開。武装した共産党系労働者が主要施設などを占拠した。

1.05 ミュンヘンでドイツ労働者党(ナチ党の前身)が結成される。

1.06 社会民主党、弾圧を知らせるビラ「決着の時が近付く」を配布する。

1.06 リープクネヒトやゲオルク・レーデブール(独立社会民主党委員長)は、政府打倒を目的とする「革命委員会」を設立。ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対。

1.06 エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人により「ドイツ義勇軍」(フライコール)を組織。

1.08 独立社会民主党の右派が、エーベルトと「革命委員会」との調停に乗り出す。話し合いは不調に終わり、多くの活動家は戦線を離脱する。

1.09 フライコールがベルリン市内で武力行動を開始。12日に武力対峙は終わり、スパルタクスの残党狩りに移行。

1.12 バイエルンで議会選挙。与党独立社会民主党は180議席中3議席にとどまる惨敗。

1.15 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺される。

1.18 パリ講和会議が始まる。

1.19 国民議会選挙。投票率は82.7%に達する。社会民主党163、中央党91、民主党75、という議席配分となる。この3党で「ヴァイマル連合」を結成し、政権を握る。

19年2月

2.06 ヴァイマル国民議会が始まる。人民委員会議長のエーベルトが(暫定)大統領に選出。

2.10 国民議会、「暫定的ライヒ権力法」を採択する。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存され

2.13 3党連合によるワイマル連合内閣が成立。社会民主党のシャイデマンが首相に選出される。

1.「イ族」のルーツについて
昨日見たNHKのドキュメンタリー「イ族」はまことに興味深いものであった。
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番組は四川省の山奥(大涼山)に暮らすイ族を成都三星堆遺跡の青銅器文明人の後裔だと断じていたが、もう少し科学的に証明してほしかった。
とにかく顔立ちがあまりにも日本人であることに驚く。かつて雲南・昆明の少数民族や、北ベトナムの少数民族を見た時の驚きをさらに超えるものがある。Y染色体をぜひ調べてほしいものだ。
断崖で隔絶された尾根に沿って、厳しい気候と痩せた土地にしがみつきながら暮らす人々が、意外なまでの技術・文化を持ち、気品を失わずに生活しているのは感激を抱かせる。
日本で言う「平家の落人部落」そのものである。
観光会社風に言えば「東洋のマチュピチュ」だが、マチュピチュよりすごいところが二つある。一つは生活があることで、一つは文字があることだ。
yizoku
中国まるごと百科事典には下記のごとく記されている。
彜族はプライドが高く、人情、信義と義理を重んじ、客を大切にする礼儀正しい民族。来客があると、さっと駆けつけて出迎えの歌を歌いながら酒を勧め、囲炉裏端の上座に座らせる。
また、彜族の男性は女性をののしったり殴ったりしてはいけないという決まりがあり、“立派な男なら妻を殴らない”ということわざもあり、たとえ敵でも女性は殺さない、という掟がある
ただし、これは一部の人々の話で、「涼山イ族自治州」の州都である西昌は人口57万人、イ族をはじめ28の民族が暮らしているそうだ。いろんな少数民族が混住しているので、「これがイ族の特徴だ」と断定はできない。
西昌
              西昌の下町

2.長江人の基礎史実
これまでの私の記事の中で確認してきた事実を並べてみよう。
南方経由でインド方面から東進してきた人々の集団があった。これはY染色体のハプログループで言うとOの1型に属する人々であった。O型人は先着のC型人を押しのけながら中国大陸南部に定着した。ここから派生したO1b人は、長江流域に広がった。O1人からはさらにO2人が派生し北方へと進出した。
長江流域に定住したO1b人は、1万年前ころに稲作栽培と水田農法を獲得した。それは湖北・湖南に始まり、下流および上流へと拡大した。

長江からさらに北方に進出したO2人は黄河を越えたところでC型人との拮抗関係に入った。

モンゴル~満州に先住するC2人は北方ルートで東方に進出してきた人々と思われ、中央アジアとの接触を保っていた。
5千年前、すなわち紀元前3千年というのは北方諸民族にとってエポックであったと思われる。
まず小麦の栽培が、続いて青銅器文明がメソポタミアからもたらされた。
直接の伝承者であるC型人も、それから技術を引き継いだO2人も、生活スタイルを根本的に変えることとなる。
O2人は小麦を栽培する農耕民に姿を変え、南をうかがうようになる。
青銅器に続いて、紀元前2500年ころには鉄器が伝播した。
黄河と長江が接近する中原では、紀元前2千年ころから鉄器を獲得した黄河文明が長江文明を征服・支配する時代が始まった。圧迫された長江人(O1b人)は、O1b1(一部O1b2)が南下した。残りのO1b2は西方及び北方へと拡散した。西に進んだ長江人は四川省三星堆に青銅器の一大文明を築いたが、これもやがて北方人により滅ぼされる。
番組ではイ族がこの「三星堆」人の末裔であることが「最近の研究により判明した」と断定するが、大変魅力的な提起ではあるにせよ、あまりにも大胆だ。率直のところこれには保留せざるを得ない。
下流域の長江人は北方人の支配を逃れ、山東省から朝鮮半島、北九州へと渡り、弥生文化(とりわけ銅鐸文化)を花開かせることになる。
ただし弥生文化の後半は、長江人(銅鐸人)ではなく征服者(天孫族)の文化であるが…

 2016年10月22日 


3.イ族の民俗学的特徴
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html
もとは蛮族を意味する「夷族」と表記された。
ウィキでは「南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきた」とされているが、この説は否定されつつある。
人は黒イ(武士)と白イに分けられる。黒イは人口の7%。白イがさらに3階層(平民・農奴・奴婢)に分かれるなど複雑な奴隷制度をもつ。
父子連名制によってつながる父系親族集団である。(これらの社会システムは彼らの現状にはまったく似つかわしくない)
言葉は六方言に大別される。互いにほとんど通じない。
彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。約1000年前に創作されたという。象形文字を母体とする音節文字である。日本の「神代文字」とは違いかなりの量で現存し、使用されている。

4.民族の伝承
格言および祭祀などが、祭文の形で蓄積されている。叙事詩『阿詩瑪』もその一つ。
イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とする。その後南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達した。つまり、秦と同じ征服王朝であった可能性がある。
漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称され、強勢を誇った。
大涼山一帯の黒イ集団は、中華民国時代になっても支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれた。
ただ、今回の「天頂に生きる」の引用している文献は既出のものとは違うのかもしれない。


高木正道さんのDigital Essays より
民主主義と自由主義は相互に結びつく傾向が見られるが、これらはもともと別個の原理であって、自由主義的であって民主(主義)的でないことも可能であるし、民主(主義)的であって自由主義的でないことも可能である。
ここで自由主義と呼んでいるものは、憲法学の分野で立憲主義と称されているものとほぼ同じものである。つまり、「立憲主義は自由主義を制度的に実現したものである」
そこで、デモクラシーとリベラリズムの関係を突き詰めていくと、究極的にはこういう粗暴な問題提起が可能となる。
粗暴な民衆支配か優雅な寡頭支配か
答えははっきりしているわけで、優雅な寡頭支配の方がいいに決まっている。
いいか悪いかというより、真のデモクラシーに到達するためにはその道を通っていくしかないのである。
真のデモクラシーに到達する路は、粗暴な民衆支配の先には開けていない。だから一度寡頭支配の路に戻るしかないのである。
ただ、粗暴な民衆支配の時期を経過することが、優雅な寡頭支配、そして真のデモクラシーへの歩みを早めるか否かについては議論が分かれるところであろう。その可能性はいささかなりとも期待したい。


②王権の制限された寡占支配

④近代民主主義(共和制)

①専制支配

③粗暴な「民衆」支配

生産力の拡大にともない、社会システムが進化し、統治システムは①から④へ向かうのであるが、次の3点が必然的傾向となる。

1.①から④の流れは必然である。

2.①から②に向かうが、ときに①から③に向かうこともある。

3.②と③との相互転換はありうる。

4.①から④へ向かうために②を経由するのが必須である。③から④への道はない。


「憲法と人権」という本の一節。

デモクラシーを主張する人の中に、リベラリズムをデモクラシーに収斂させてしまう傾向があったのではないか。

国民が政治における自らの運命の決定者となることがデモクラシーの真髄であるが、それは国民が人間個人として自らの運命の決定者であることを抜きに語ることは出来ない。

これを敷衍すると、
つまりデモクラシーはリベラリズムを前提にして語らなければ、真のデモクラシーとはなりえない。民主主義者は民主主義者である前にまず自由主義者でなければならない。
ということになる。

これを憲法の条文にひきつけてみると、
憲法第13条冒頭 「全て国民は、個人として尊重されなければならない
ということが出発点となる、のだそうだ。
なお原案では、「その人類たることに依り」(by virtue of their humanity)という一節が付けられていた。

そこでは抽象的な政治主体としての「国民」ではなく、個性を持つ諸個人の集合としての「国民」が主権者となるデモクラシーがうたわれている。

幼児性健忘というのがあるそうだ、というより、幼児性健忘というのだそうだ。

例えば自分の記憶を手繰っていくと、それ以上先には遡れないところがある。多分3歳前後らしいのだが、実際にはもっと後のようにも思える。

それより前の記憶は、一度は覚えたはずなのだが、忘れてしまったということになるので、これはまさに健忘症だ。

「覚えたはず」と何故言えるか、それは幼児の行動を観察すれば分かる。幼児は体験したことを体験した片っ端から忘れているわけではない。むしろ鮮明に覚えていると言ってもよい。それは心理実験でも確認されているので間違いない。

だから短期記憶は残されるが、長期記憶が残されないということになる。これは老人性痴呆で短期記憶がまるで駄目になってしまうが、長期記憶は意外と残っていたりするのと逆のパターンだ。

このことは2つの意味を持つ。

まず、短期記憶の装置と長期記憶の装置とは違うものだということだ。短期記憶はとりあえずの記憶装置で必要がなくなれば消えていく。長期記憶の装置はとりあえずの記憶には役に立たないが、一度覚えれば一生モノだ。

おそらく短期記憶は海馬=古皮質で、長期記憶は前頭葉の何処か=新皮質だ。

もう一つは、長期記憶装置が出来上がり、通常営業を開始するのは3歳以後のことだということだ。つまり、人間は大脳皮質が未だ建設途中のまま生まれてくるということだ。健忘症(Amnesia)というと何か病気のように思われるが、そもそも未だ装置が作動していないのだ。

我々は、幼児というと大人のコピーのように考えがちだが、それは間違っている。人間として生まれてきて、それが成長/発達していく過程として幼児期を捉えるのは、正確ではない。
これは発達心理学の第一段階ではなく、むしろ個体発生の過程の最終コーナーの話として理解すべきであろう。

厳密に言えば、幼児はDNA的には人類ではあっても、生物学的には未だ人間ではないのだ。他の霊長類以下かもしれない。

ここのところを勘違いすると「幼児性健忘」という発想が生まれ、言葉が生まれてくる。もちろん、この言葉を用いた人もその辺のことはよくわかっていて、冗談交じりの面白い表現として用いただけだと思うが、言葉が独り歩きすると結構怖い。

こういう仲間内の隠語みたいなものが一般向けの本で使われると、文章全体を読みにくいものにしてしまうので、注意してもらいたいものだ。

「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。

いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。

この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。

三羽烏の由来

まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。

「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。

しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。

トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。

ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか

つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。

考えられる理由はいくつかある。

ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。

まずは5人の生まれと生地を表示する。

パウル・バドゥラ=スコダ

1927

ウィーン

イェルク・デムス

1928

ザンクト・ペルテン

ヴァルター・クリーン

1928

グラーツ

フリードリヒ・グルダ

1930

ウィーン

アルフレッド・ブレンデル

1931

モラヴィア

ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。

austria-map

https://jp.depositphotos.com/31778515/stock-photo-austria-map.html

これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。

だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。

5人の音楽家への道

このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。

彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。

彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。

彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。

その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。

1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。

1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。

キャリアのスタート

戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。

もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。

年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。

ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。

49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。

この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。

ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。

デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。

三羽烏はウェストミンスター社の宣伝?

キャリア的にもそれほどの差はない

コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。

つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。

ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。

 アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。

1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。

これは別の会社の宣伝。

このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。

ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…

この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。

よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。

それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。

「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。

しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。

成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン

おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。

これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。

そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。

ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。

ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。

Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。

とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。


の作成中に、何度か国際人権規約の条文に関連して発言してきた。「三つの権利」に即した運動として世界の流れを把握する以上、その拠り所としての世界人権宣言と国際人権規約にも触れなければならない。
まずはその形成過程を具体的に振り返ることから、その分析を開始したい。そして国際連帯の中心的理論課題に据えた日本国憲法、すなわち憲法25条の形成過程とその歴史的意義、国際的貢献の可能性についても探っていきたい。

まず年表であるが、主として下記論文により作成した。
まず、あらあらのターミノロジー
国連で定められた人権に関する法体系は国際人権章典(International Bill of Human Rights)とよばれる。これは世界人権宣言2つの国際人権規約、市民的、政治的権利に関する国際規約への第一及び二選択議定書より構成する。
さらに人種差別撤廃条約、国際人権規約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約など23の人権関連条約が人権体系を構成する


1941年 ルーズベルト大統領、年頭教書で「4つの自由」を主張。言論の自由・信教の自由・欠乏からの自由・恐怖からの自由の四つ。大西洋憲章・国際連合憲章の基礎となった。第2次大戦に参戦するための論理建てとなる。
1944 大西洋憲章が締結される。1.全体主義国家における人権の抑圧が戦争に繋がったとの反省に立ち、2.「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うできる平和の確立」をうたう。
1945  国際連合が発足。同時に発効した国連憲章は、前文と第1条で基本的人権および基本的自由をうたう。

前文: 「われらの一生のうちに二度までの言語に絶する悲哀」を前提に、基本的人権と人間の尊厳及び価値と、男女の同権…をあらためて確認

第1条: 人種、性、言語、宗教による差別なく、すべての者の人権および基本的自由を尊重する
1946 国連経済社会理事会内に人権委員会が設立される。国連憲章の具体化のため、単一の国際人権章典の作成を目指す。
1947年 第 4 回経済社会理事会、国際人権章典起草のための委員会を設け、5大国+豪、チリ、蘭を委員国に選出。
1948.12.10 国連第3回総会で「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)が先行・採択される。条約ではなく,「人権に関し諸国家が達成すべき共通の基準」を示したもので、法的拘束力を持たない。東側諸国とサウジ、南アが棄権。

 「すべての人間は、生まれながらにして尊厳と権利とについて平等である」(第1条)

「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位によるいかなる差別」も認められない(第2条)
3条~21条: 市民的、政治的権利
22条~27条: 経済的、社会的、文化的権利

1950年 第5回国連総会、規約草案には市民的及び政治的権利に加え社会権と男女平等の規定を含めることを決定する。また「世界人権宣言」の発表された12月10日を国際人権デーに指定する。
1951年 第6回国連総会、人権規約内容の膨大化に対応するため、A規約(経済的、社会的及び文化的権利)とB規約(自由権)に分割することで合意。ソ連などの諸国は、社会権と自由権に分けず1つの条約とするよう主張。
1954 第10回人権委員会、A、B両規約からなる第一次案の起草を終える。草案は国連第10回総会に提出される。その後国連総会第3委員会での逐条審議が続く。
1959年 児童の権利宣言が採択される。
1961年 世界人権宣言の趣旨を広げる国際民間団体としてアムネスティ・インタナショナルが結成される。
1965年 「人種差別撤廃条約」が締結される。
1966年12.16 第21回国連総会、国際人権規約を採択。

規約は

(1) 経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約,
(2) 市民的及び政治的権利に関する国際規約,
からなる。
(1) はA規約、あるいは社会権規約と略される。
(2) はB規約、あるいは自由権規約と略される。
第1条は両規約共通で「人民の自決権」規定を置く。
自由権規約に関連する選択議定書がある。
1976年 国際人権規約が発効。
1979年 女性差別撤廃条約が締結される。
1979年 日本、国際人権規約を批准。ただしA規約中、公休日の給与支払い、スト権、高等教育の無償化の3点を留保。自由権規約の個人通報制度を定めた第1議定書を先進国で唯一批准していない。
1989年 子どもの権利条約が採択される。

第6条: すべての子どもは、生きる権利をもっています。国はその権利を守るために、できるかぎりのことをしなければなりません。

1989年 死刑廃止を目指す第2選択議定書が採択される。
2006年 国連人権委員会が人権理事会に改組される。
2012年 社会権規約第13条「中等教育及び高等教育の漸進的無償化について」の留保の撤回を閣議決定。(この時点で留保国は日本、マダガスカル、ルワンダの3カ国)


参考
1) 人権宣言(1948)の社会権(第22条から27条まで)の一覧
社会保障を受ける権利
働く権利、同等の勤労に対し同等の報酬を受ける権利、労働組合を組織し、これに参加する権利
休息および余暇を持つ権利
健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利
教育を受ける権利
社会の文化生活に参加する権利
2) A規約(社会権)の第6条から15条
①労働に関する権利 第6条~第8条
②社会保障などに関する権利 第9条~12条
③教育・文化に関する権利 第13条~15条
この中の第11条が「相当な生活水準の享受に関する権利」となっている。
社会権には生存権(より基本的な)はふくまれない。市民的権利(自由権)のトップに「生存、自由、身体の安全に対する権利」が掲げられているが、ここでは生存権は自由権としてあつかわれる。

3) ワイマール憲法第151条第1項(1919年)「経済生活の秩序、経済的自由」
経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない。各人の経済的自由は、この限界内においてこれを確保するものとする。
4)憲法草案 GHQ案(46年2月)第24条 
法律は、生活のすべての面につき、社会の福祉並びに自由、正義および民主主義の増進と伸張を目指すべきである
5)憲法草案 政府案 第23条
法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障、及び公衆衛生の向上及び増進のために立案されなければならない

オーストリア社会民主党 年表

前記記事のごとく、まずは各年表に散らばったオーストリア社会民主党関連の事項を一本化することにした。

転載元は下記の年表である。

2016年11月27日2013年03月30日  
2013年03月28日 

オーストリア併合後の歴史については扱っていない。1885年から1935年までの50年間に限られる。ウィーン学派との論争もふくまれる。「赤いウィーン」も包摂されることになるが、これは全体像が形成された後にエッセンスを取り出す形でまとめていきたいと思う。



1874年 オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下の諸民族の社会主義政党がノイデルフル会議を開催。政党連合を結成。

1888年 政党連合がいったん解体した後、V・アドラーらの尽力で、ハインフェルト大会が開かれる。ラッサール派とマルクス派グループを中心に再統合され、社会主義政党連合としての「オーストリア社会民主労働党」(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。


 ハインフェルト綱領: 労働者の経済的従属・政治的無権利状態からの解放、労働手段の社会化、労働者保護立法の制定、8時間労働制の実施、選挙法の改革など。


1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。
1893年 保守反ユダヤ的なカール・ルエーガーが諸団体を統合してキリスト教社会党を創立。

1895年 ウィーンの評議会議員選挙。キリスト教社会党が過半数を占める。市長にルエーガーが就任。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1899 社会民主党、ブリュン民族綱領を採択。ハプスブルグ帝国を諸民族の連邦に改組する構想を打ち出す。

1890年代 ウィーン大学に社会主義学生グループが形成される。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディングが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。オットー・バウアーは1900年前後にグループに参加。若手理論グループの中核となった。


1900年
1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。
1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1907 バウアー、「民族問題と社会民主党」を発表。民族問題の専門家をして名を挙げる。
1911年 総選挙。社会民主党が最大会派となる。その後チェコ人組織はチェコ社会民主党として分離する。

1914年8月 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。また多民族国家としてのオーストリアの維持を主張する。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

14年11月 バウアー、第一次大戦に応召。ロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送る。

1917年

9月 バウアー、戦争捕虜交換によって帰国。左翼反対派の「カール・マルクス団」に加わる。執行部の戦争協力政策を批判し、プロレタリア国際主義の観点に立ち、無併合・無賠償の平和を要求。

11月 ロシアでボリシェビキ革命が発生。


1918年

1月 戦争の長期化に抗議する労働者がストライキ。ロシア革命を受け労働者協議会(レーテ)を結成。

4月 バウアーは左翼民族綱領を提起。民族自決権を容認する。

18年10月

10.03 社会民主党議員団、左翼民族綱領を採択する。スラブ人やラテン系民族の自決を認めると同時に、ドイツ人領域をドイツ系オーストリア国家に統合すると主張。

10.15 バウアー、ドイツ人領域の経済自立は不可能と考え、共和主義ドイツへの併合を提案。

10.16 皇帝カールがオーストリア民族連邦国家構想を発表。しかし帝国内各民族はこれを無視して独立に動く。

10.21 ウィーンの属する下エステルライヒ州の議会にドイツ系国会議員が結集し、ドイツ系国家の立ち上げを検討。キリスト教社会党は立憲君主制と民族連邦国家を主張。社会民主党のアドラーは民族連邦制の断念と民主ドイツへの併合、共和制の採用を訴える。

10.21 議員集会、ドイツ系オーストリア国家の創立、臨時国民議会の成立で合意。議長は国民党、キリスト教社会党、社会民主党の三者による共同制となる。普通平等選挙による制憲議会の立ち上げで合意。

10.30 共和国の要求を掲げる社会民主党のデモ行進。臨時国民議会は社会民主党のレンナーを首班とする国務会議(Staatsrat)を形成する。外相にはアドラーが就任。重病のため次官のバウアーが実務を取り仕切る。

10.31 ウィーンで社会民主党大会が開かれる。基調報告を行ったバウアーは、ドイツ系オーストリア国家の建設、民主共和制の採用、民主ドイツへの併合を提示。社会主義の目標を提示せず。

18年11月

11.03 オーストリア帝国が連合国と休戦条約を締結。旧軍に代わるものとして国務会議は人民軍の創設に着手。

人民軍: 赤軍とは異なり、旧軍の編成はそのまま残され、各大隊ごとに協議会(レーテ)が創設された。同時に国務会議から政治委員が派遣され配置された。政治指導のトップは国防次官ユリウス・ドイッチ(社会民主党員)が掌握した。

11.03 フリードレンダー(夫妻)らがロシア革命路線を支持するオーストリア共産党を結成。ヨーロッパで最初の共産党となる。

11.09 ドイツで革命が発生。これに基づきオーストリア併合論が影響力を増す。

11.11 皇帝カルル、国事への関与を放棄。事実上の退位を宣言。国務会議は民主共和国の樹立を宣言。

11.12 臨時国民議会、ドイツ系オーストリア共和国とドイツへの併合を決議。

この時点でドイツ系オーストリアは食料や原料、さらに製品の販売先を非ドイツ系諸州に頼っていた。ウィーンの労働者部隊が農村の食糧徴発を行ったため、農民の抵抗が強まる。

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

11.21 アドラー外相が死去。バウアーが新外相に就任。

18年12月

12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

12月 連合国のドイツ系オーストリア救護委員会が発足。アメリカの食料品がウィーンに流入。またシレジアの石炭も連合国の分配と流通により可能となる。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

19年1月

1月 バウアー、党機関紙に『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ革命を批判し、政治革命と社会革命とは異なると主張。生産の計画化、組織化を中軸に据える「産業社会化」を社会主義への道として提起した。産業社会化の鍵となる「利害関係者による三者管理協議会」の提言は、革命ロシアの国民経済会議決定(18.5)の影響を受けたものとされる。

19年2月

2.09 共産党が第1回大会。社会民主党の急進派、ロシアから帰還した捕虜グループが加わり、党員数3千人を数える。「すべての権力をレーテ(ソヴェートに相当)へ」とし、レーテ独裁をもとめる。

2.16 制憲議会選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

2.19 リンツのレーテ(労働者協議会)大会、全国レーテ会議の招集を要請。

2月 バウアー外相、フランスの強硬な反対を前に、対独合併策をいったん保留。

19年3月

3.02 ハンガリー共産党が革命を起こし、協議会(レーテ)共和国が成立。ポラーニはプロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

3.21 ハンガリー新政府のベラ・クーンはオーストリアに支援を要請。バウアー、諸般の事情と力関係を理由にハンガリー政府の要請を拒否。

3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーのシュンペーター評: 彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した。

5月4日 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。



ウィーンの住宅事情は劣悪で、郊外では数千世帯が違法に立てた小屋に住み、自給自足の生活を送っていた。ウィーン市行政はこれらの家族を支援することからスタートする。


6月2日 オーストリアあてに講和条約の草案が示される。工業地域の多くが連合国に割譲されるなど、厳しいものとなる。

6月14日 共産党による蜂起計画が発覚。指導者が一斉逮捕される。この頃オーストリア共産党は4万人に党員が拡大。

7月 バウアーが外相を辞任。

8月 ハンガリー・レーテ共和国が崩壊。ポランニはウィーンに亡命。

9.10 草案より条件緩和されたサンジェルマン条約が批准される。ドイツへの併合は禁止される。

10 第二次連合政権が発足。引き続きレンナーが首相に就任。

11 労働者協議会と兵士協議会選挙。社会民主党急進派が「協働団」(SARA)を結成しかなりの支持を集める。

19年 バウアー、「レーテ独裁か民主主義か」を発表。レーテ独裁が客観的諸条件を無視した冒険主義であることを訴える。

 

1920年


6月 総選挙。社会民主党は大幅に後退し政権から離脱。社会化の動きは相次いで挫折する。

5月 第3回労働者レーテ全国大会。社会民主党はSARAの要求を入れ、連合政権より脱退する。

11月 社民党大会。バウアーら指導部はSARAを追放。

20年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

 批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 


1921年

1月 共産党第4回大会。社会民主党を排除されたSARAが共産党に合流。

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。
21年 ウィーン市によるジードルング計画がスタート。ジードルングは家庭菜園付きの郊外型戸建住宅。
1922年
 5月 ザイベルが首相に就任。国際連盟を仲介者として西欧各国に資金援助を申し入れる。オーストリアは,すでに第一次大戦以前から,慢性的な資本不足に悩まされ,金融的に外国に依存していた。
10月 ジュネーブ議定書が取り交される。イギリス,フランス,イタリア,チェ コが3千万ポンドの借款を提供する。列強の圧力を受け、労働者階級との徹底した対決路線をとる。


1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

23年 バウアー、「オーストリア革命」を発表。「封建制から資本主義へは長い移行過程をへなければならなかった。同様に,資本主義から社会主義への途上でも,人類は一連の長い革命的過程を要するだろう」
23年 市営集合住宅の大量建設が始まる。この年のウィーンの失業率は11%(24万人)を超える。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。
24年 フロイトがウィーンの名誉市民に選出される。アドラーは社会民主党の社会教育に尽力する。

1925年

25 社会民主党、農業綱領を発表。近代的農業技術を前提とする小農保護政策を前面に打ち出す。

25年 ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

 市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を探る。

①破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。②「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。

ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。


1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月15日 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1931年

4月 州議会選挙が実施される。保守派内部の地殻変動。キリ スト教社会党,大ドイツ人民党や農民同盟は得票を減らし,ナチスが大躍進をとげる。
5月 クレジット・アソシュタノレト銀行が破産。不況に加え通貨危機に陥いる。


1932年

7月 列強の借款を定めたロ ーザンヌ議定書が調印される。債権者の政治干渉が強まり、労働者へのしわ寄せが強まる。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなくドイツ共産党に対する大弾圧が始まる。

3月4日 エンゲルベルト・ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令が公布され、祖国戦線の名のもとに共産党もナチ党も禁止される。

 ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

3月7日 ドルフスの逆クーデター。第一次大戦時の戦時経済立法権に基づいて統治することを宣言。連邦大統領,キリ スト教社会党,郷土防衛運動,企業家団体,カトリック教会などがこれを支持。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。
33年 ウィーンの失業率が26%(56万人)に達する。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。
5月 「五月憲法」が制定される。選挙に基づく制度はすべて廃止された。

34年 ドルフース、ナチのテロリストにより暗殺される。
34年 実質賃金は大恐慌前に比べ44%の減少をもたらす。

いささか持て余し気味で困っている。
これまであまり材料がない中で、いろんなところから切れ端を拾ってきては継ぎ合わせるという形で「赤いウィーン」年表を作ってきたのだが、上条勇さんの論文を見つけてしまったためにバランスが取れなくなってしまった。
まずとりあえずは論文の中心内容である大戦間のオーストリア社会民主党の歴史をテーマに、別途年表を起こしてみようと思う。

これはおそらく「赤いウィーン」前史と一本化して行くことになると思う。

そのうえで、かなり雑然となってしまった「赤いウィーン年表」を、ウィーンの動きそのものにシボり込む形で整理したいと思う。

そこで少々扱いに困るのがカール・ポランニーのところに書き溜めたハンガリーとブダペストの歴史である。

とりあえずはそのままにしておいて、「ポランニーを知りたい人のためにはオーストリア社会民主党の年表も見てください」、みたいな扱いにするしかないだろうと思う。

上条さんの論文を読んでみてわかったのだが、これまでポランニーのオリジナルの議論と思っていたものが、かなりオットー・バウアーとオーストリア社会民主党の所説を下敷きにしたものだということが分かった。

つまり、ポランニーの言っていることはかなりの程度までウィーンの論壇では共通の話題であったということである。しかもバウアーの議論はもっと前、カール・カウツキーの所説を発展させたものだということが分かってきた。

こうなると、どうも最初からやり直さなければならないということになりそうだ。

もちろん私にはもはやそれだけのガッツもないし、月日も残されていないだろうから、誰かが引き継いでくれるのを期待するばかりだ。





以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの文章を読んでの感想は、見出しの如くなる。
すなわち「戦時性暴力は暴力支配、とりわけ植民地支配の理不尽さがもたらしたものだ」ということだ。
なぜなら、植民地支配こそは近代世界におけるもっとも持続的・系統的な暴力支配だからだ。
「力の論理」と言うが、力は非論理だ。あまりに抽象的と言えば抽象的だが、逆にこの基本方向を見失ってはならない。
1.戦時性暴力と普遍主義
植民地支配を取り除いて考えると、戦時性暴力はフェミニズムとミリタリズムとの「二項図式」のもとに包摂されてしまう。山本さんが危機感を持つのはここにある。

「戦時性暴力」という言葉は、ときに驚くほど無難で耳障りの良いものに変貌しうる。それはきわめて普遍主義的フェミニズムに横滑りしやすい性格を備えている。 

「女性はいつも戦争の最大の犠牲者」といった普遍主義的なミリタリズム批判や家父長制批判の中でこれを論じれば、これらの亀裂はふたたび糊塗されてしまう。
これによって見落とされるのは多様な事象と権力との交差である。
等質的かつ情緒的一体感で結ばれた内集団を前提とするなら、それは「蹂躙される我々の女たち」のイメージを通して、外集団に対する憎悪を掻き立てるプロパガンダにやすやすと手を貸してしまうことになる。
申し訳ないが、この裂帛の気合は女性にしか描き出せない世界で、男性はかしこまるほかない。

2.植民地における性暴力と、入植者の受益者責任
山本さんは下記のようにまとめる。
2001年のダーバン会議以降、「植民地主義とそれに関連する歴史的不正義」という認識が定着しつつある。このアジェンダは今後とも追究される必要がある。
「引揚者」の経験をあらためて政治的に位置づけ直すこと、「戦時性暴力」が誰による誰に向けられた暴力なのかを論じるという「挑戦」の必要と意義が確認されなければならない。
植民地主義への抗議という視点が何故だいじかということで、山本さんは植民地統治の「支配責任」と「受益者責任」と言う概念を取り出す。これは前項記事に触れた「植民者」論と関連するが、受益者責任を問うことなしに論理の円環は閉じないということである。
これを山本さんは「安易な普遍化への誘惑に抗していく覚悟」と表現している。

3.「性奴隷」論 ― 朝鮮人従軍慰安婦問題への視座
ここまでの議論からすれば、朝鮮人従軍慰安婦の問題は、戦時性暴力一般ではなく、「日本軍(軍関係者をふくめ)が植民地支配下の朝鮮人女性に加えた戦時性暴力なのだ」と捉えることがだいじなのだ。
この場合、戦時性暴力は終戦時のソ連軍兵士による性暴力とは異なり、計画的・組織的で持続的であるところに特徴がある。
「強姦」は日本の刑法では「暴行・脅迫を用いて男性器を女性器に挿入すること」と定義されている。これでは慰安所を設立・運営することは性犯罪とならない。女性を性奴隷とする行為全体を性犯罪と捉えなければならない。
「性奴隷」化の犯罪としての凶悪性は、偶発的な性暴力よりはるかに高い。

全体を通して、はやりの表現で言えば「キレッキレの論理」が支配する論考である。

ただ、ここまで切りつけ合わないとならない課題なのかは、いささか疑問を感じるところである。

「歴史の真理」はもう少し叙述的に展開されても良いのではないだろうか。

ただ普遍主義的フェミニズムが、反動派の歴史修正のためのレトリックとして利用されることに抗議するときは、イヤと応とを問わず必要となる論理であろう。


以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの論文 
戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに を、一応通読した。

相当に歯ごたえのある文章である。

1.クレームに込められた思い

山本さんが「奥底の悲しみ」に対して何故クレームを付けたかが分かってきた。山本さんの願いは、「引揚者」問題を全体として「奥底の悲しみ」の方向に引っ張らないこと、もっと大きな文脈の中で位置づけてほしいということだ。

引用のレベルか盗用のレベルかではなく、「反対」と言っている論文を「賛成」と言う番組のために利用してほしくはないのだ。

問題は、引揚者という範疇の特殊性の問題だ。そして戦時性暴力の具体性の問題だ。

山本さんは、個別の戦時性暴力がどういう性格の戦争(戦闘)の下で生まれたのかを追及しないと二項図式的なジェンダー観に陥ってしまうとし、これを「普遍主義」的フェミニズムと呼ぶ。

そして「奥底の悲しみ」がまさにそういう傾向を内包しているからだ。

2.「引揚者」の特殊性

山本さんの引揚者に対する視線には鋭いものがある。安易な感傷は拒絶される。これについてはもう少しあとで触れることにしよう。

まず、日本近現代史という標本箱に、「引揚者」という存在が、冷厳にピン留めされる。この部分の記述は、それだけでも圧巻である。

a.入植者の結末としての引揚者

「引揚者」はまずなによりも「入植者」であった。

入植者には2つの顔がある。

まず第一に植民地支配の紛れもない受益者であること。

第二に、故郷の日本社会においては余されものであったことである。

b.「住所不定・無職」の民としての引揚者

したがって日本の敗戦と同時に、ソ連の襲来を待つまでもなく、どこにも居場所を失った流氓の民となっていたのである。

つまり、歩であろうと、香車・桂馬であろうと大日本帝国のコマであるということ、させられてなったのではなく、主体的意図をもって参加した、そして最後は捨て駒となったのである。

敗戦と同時に「入植者」の多くは関東軍に置き捨てられ、「棄民」となった。

c.帰還移民としての引揚者

「引揚者」は帰ってくることができた「入植者」である。一言で言えば「帰還移民」である。帰還移民というのは、ひっくるめて言えば、移民に失敗した出戻り移民ということである。

「故国」を一度は捨てた彼らにとって、日本の中にいる場所は本来的にはないのである。

d.引揚者の心性の形成

以上のように引揚者という存在のあいまいさを衝いたあと、山本さんはそのあいまいさがもたらす、不合理な心性をも剔抉する。

繰り返し論じられてきたのは、「彼ら」はその背景いかんにかかわらず、概して植民地支配の資任主体という自覚に乏しいということである。

「彼ら」の経験は反戦思想に接ぎ水され、周到に偽装され、「引き揚げの労苦」として収数される。支配者の地位を追われた植民者という彼らの政治性も首尾よく漂白されてしまう。

3.引揚者伝説をどう読み解くか

ということで、結論としては「引揚者」というのは真っ白な受難の民ではないぞ、ということだ。韓国人慰安婦と同列に見るのは、歴史的視点から言えば正しくはない。
ここで山本さんはインドネシアで日本軍の慰安婦とされたオランダ人女性の証言を引き合いに出す。
彼女たちの祖先は幸福な人生を求めて東南アジアへとやってきた。彼女たちの幸福は植民者としてのそれであった。

彼女たちの身を削るような証言活動に植民者の輪郭を強調するのに疑問を感じる向きもあろうが、…被害者同士が反目しあうという事態を招きかねないからこそ、その被害の責任を問う際には、歴史的文脈を重視しつつも序列化を慎重に回避していく必要がある。

今日のネット状況などから見れば、ずいぶん思い切った発言であり、そこには流れにあえて棹差そうとする山本さんの覚悟が感じられる。

 


私の祖父は明治末年に朝鮮(京城の龍山)におそらくは流れ者として「入植」している。そこで父を始め3人の子が生まれ育った。

父はすでに戦前に朝鮮を離れ静岡に流れ者として移住している。戦後、その父を頼って祖父と兄弟が「引き揚げ」てきた。

わたしも「引揚者」に片足突っ込んでいることになる。おまけに北海道に住んでいる限りは、アイヌ人に対する侵略者ということにもなる。

だから、山本さんの文章を読んでいると、何か叱られているような気分にもなってくる。心して臨まなくてはならないな。

私の 山口放送の「奥底の悲しみ」

という記事に

日本学術振興会特別研究員の山本めゆさんが、自身の研究をこの番組で「盗用」された旨、告白しています。 

というコメントが付けられている。

私の一連の記事の内容は「奥底の悲しみ」という番組そのものより、それで触発された「戦後引き揚げ史の全体像」である。性暴力そのものについては申し訳ないが、主要な関心域ではない。

したがってこのコメントに対して正面から対応するつもりはない。しかし山本めゆさんのクレームについては事実問題として知っておく必要があると考えた。

いろいろ調べた結果、「まずは山本めゆさんの言わんとする所を多くの人に知ってもらうことがいちばん大事なことかな」と考えている。選んだのは以下の論文。

山本めゆ 「戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに
日本女性学会学会誌 (2015)

最初に感想を述べさせていただくと、非常に筋の通った立派な考察であると思う。中味はとてつもなく重い。こういうドストエフスキー的な荷物の抱え方はとても私にはできない。

目次は以下のようになっている。

はじめに

Ⅰ. 「引揚げ」を再-政治化する

Ⅱ. 植民地主義史の再審と新たな責任主体

Ⅲ. 普遍主義への誘惑

Ⅳ.  「引揚者」 の経験をいかに読むか

Ⅴ. オランダ人元「慰安婦」の植民者性

VI. 仲介者・協力者・受益者

結びにかえて

今回はこの目次のうち「はじめに」のみ紹介


彼女たちが帰還した引揚港では、引揚援護院の指導のもと性病の治療とともにおびただしい数の中絶手術が実施された。これらの事実は疑いのないものであるが、「特別な注目」に浴さずにきた。

比較的最近になって、へイトスピーチの資源として「引揚げ」という植民地の喪失と帰還史が参照されている。この現象は排外主義の高まりの表現と理解される。

日本軍による性暴力を告発し、被害者への補償と尊厳の回複を姿求する活動の活性化が、「引揚者」 の経験を励起している可能性がある。

基本的にはこの作業は推進すべきものであり、同時に、それをもたらした過去の植民地主義への歴史的検証を伴ってすすめるべきものでもある。

そしてさらに、引き上げ時の性暴力被害の経験が、排外主義的・歴史修正主義的主張の資源となってきたことへの批判的検討、それを許してきた言説的な土壌の点検作業を必要としている。

第Ⅰ節ではまず「引揚者」という呼称に注目する。それを通じて、植民地主義の歴史を呼び起こす。

第Ⅱ節では、 慰安婦への補償運動の議論が 戦後日本社会の自画像にいかなる転換を迫っているかを考える。

第Ⅲ節では、女性を一元的に戦争と家父長制の犠牲者とみなすような普遍主義を批判する。そして複数の権力を視野に入れてアプローチする。

第Ⅳ節・第V節では、オランダ人慰安婦を通じ、「植民者に向けられた性暴力」との向き合い方を模索する。

第Ⅵ節では、仲介者・協力者・受託者といったアクターの存在に光を当てる。


まだ本文に取り掛かる前にコメントするのも変なのだが、こちら側の心構えとして、いくつかのポイントを設定して置かなければならないようだ。

第一には、引揚者への性暴力、慰安婦問題に見られる性暴力は、単純なコインの両側ではないという当たり前の事実である。

第二には、フェミニスムの枠に強引に流し込むような総括はいけないということだ。

第三には、植民者の光と影、侵略→敗北・撤退という歴史を彩る事象として見つめなければならないということだ。
うーむ、気が重い。

以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 

考えてみると、カレイとヒラメの違いについてのうんちくは、スシ屋に行けば歓迎されるかもしれない。エラそうにゴタクを並べると座が白けるかもしれないので、プレゼンには気をつけなければならないだろう。
ほとんどのページが断りなしのコピペで、オリジンがどこかはわかりにくい。このあたりがそれっぽいが…

1.左ヒラメに右カレイ
魚を表向きに置いたとき顔が左にあればヒラメ、右にあればカレイ。ただし例外はある。
karehira_2

2.口の形の違い
ヒラメの口は大きく歯も発達している。凶暴派。
カレイの口は小さく、歯も発達していない。穏健派。

3.目の違い
カレイは出目、ヒラメの平たい目の中はハート型

4.値段の違い
カレイは煮魚、大衆魚
ヒラメはお刺身、高級魚
漁獲高は、カレイ10 : ヒラメ1

住所
カレイはカレイ目カレイ亜目カレイ科
ヒラメはカレイ目カレイ亜目ヒラメ科

漢字は
カレイは「鰈」
ヒラメは「鮃」

最後に
の鑑別表を転載させていただく
kareitohirame

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