鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

参考までにメルケル演説の要旨を紹介する。本日の赤旗に詳報が掲載されている。

  あの恐るべき3月11日から90日たった今日、われわれは次のことを知っている。原子力発電所の三つの原子炉ブロックでは炉心が溶融している。今でも放射 能を帯びた蒸気が大気に排出されている。広い範囲の避難地域はなお長期わたって残存するだろうし、事態収束のめどはなおたっていない。

 日本の劇的な事態が世界にとっての転機であることは疑いない。それはまた、私個人にとっても転機だった。日本のような高度な技術国ですら原子力の危険は確実には制御できないという事実を、われわれは福島の事態から認めざるをえない。

 その認識に立てば、必要な結論を引き出さねばならないし、新しい見方が必要になる。だからこそ私は“新しい見方をすることにした”と明言したのだ。

 私は「福島」以前には原子力の残存リスクを容認していた。高い安全基準をもつ高度技術国ではおよそこうした事故は起こらないと確信していたからだ。しかし、事故は現に起こった。

 問題は、ドイツで同じように恐ろしい地震がおこるかどうか、日本のような破局的な津波があるかどうかではない。「福島」後に重要なのはそんなことではない。

 確かに私は昨年秋、わが国の包括的なエネルギー基本計画でドイツの原発の稼働期間の延長を支持した。しかし私は本日、本議会において誤解の余地がないよう、こう断言する。「福島」は原子力に対する私の見解を変えた。

赤旗の紹介は、各論部分の抄訳なのでかなり読みにくい。つまみ食いのさらにつまみ食いを箇条書きにしておく。

*エネルギー転換についての決断は、社会の価値判断に基づく。それは技術的側面や、経済的側面の判断に先立つ。価値判断のキーワードは持続可能性と社会的責任である。

*福島の事故は三つの事実をもたらした。①日本のような高技術国でも事故は起こる。②事故が発生すれば、収束のめどは立たない。③設計上、絶対安全な原子炉そのものが破壊されることもある。

*人間は、技術的には可能なことでも、すべて行うというわけにはいかない。とりわけ技術の結果が「永遠の負担」という性格を持つ場合は、きわめて厳しい姿勢をとる必要がある。

*いま安全、リスク、危険という概念を新しく規定しなおす必要がある。大規模技術施設においてはゼロリスクということはありえない。技術的なリスク評価は、これまで危険事象の確率で推し量られてきたが、これは原子力の評価については十分ではない。それはリスクの容認しがたい相対化に系統的に導くことになる。

*通常の対リスク戦略では、損害が実際に起こり、そこから徐々に対処法を学んでいく。しかし核施設ではこうした学習過程は排除される。最悪の核事故は未知で予見困難であり、そのリスクを現実の事故の経験から導き出すわけにはいかない。

*結論として、事故の可能性をなくすためには、核技術はもはや使うわけにはいかないということになる。

この報告のキーポイントはリスクの容認しがたい相対化 という点に尽きるのではないでしょうか。
一般にリスク管理の技術学は、どのような技術にもリスクは必ず存在することを前提としています。そして二重の意味でリスクを相対化します。ひとつはリスクの許容範囲を定め、「ゼロではないが安全」というレベルに押さえ込みつつ、もう一方でコスト・ベネフィット比とのバランスを図ることになります。
ところが、「ゼロではないが安全」という安全度の相対化は、こと核技術に限っては、現在の科学・技術水準では不可能なのです。それが今回の福島原発事故で明らかになったのです。
したがって、コスト・ベネフィット比などに今の時点でなお固執するならば原発の内包するリスクの容認しがたい相対化 に系統的に導くことになるのです。ひらったくいえば「煮ても焼いても食えないぞ」ということでしょうか。



菅首相が突然、ソーラー発電などの電力を固定価格で買い取ると言い始めた。
真意がよく分からないが、通産省の一部で主張されている発送電分離へのアドバルーンとも考えられる。いま東電が地域独占によって吸っている甘い水は、他企業にとってはよだれが出るほどの利権だ。発電事業が事実上自由化されるなら、参入を求める企業が続出するだろう。
経団連主流派は既得権益を侵すような企てには猛反発するだろうが、アメリカや韓国の数倍の料金で電気を売り続けてきた連中が「なにをいまさら」で、説得力は皆無に等しい。
しかしいま肝心なことは、東電に公的企業としての責任をとらせることであり、国民のしっかりした監視下に置くことである。そしてエネルギー転換に関する基本的視点をきっちりと打ち立てることである。それ以上のことは菅政権のなすべきことではない。
国民は、原産複合体の解体的出直しを求めてはいるが、エンロン社スキャンダルの再現を望んでいるわけではない。

材料が少なく、感想的な意見である。
 第一にオジャンタ・ウマラの勝利は、左からも右からも極めてクールに受け止められている。選挙についての論評をネットで探したが、少なくとも英語の文章は皆無と言ってよい。「来るべきものが来た」という感じなのだろうと思う。ことに決選投票にすら自派の候補を送り込めなかった伝統的右翼の無力感は察するに余りある。
 第二に、意外なほどの僅差の勝利であった。ケイコ・フジモリが意外なほどあっさりと敗北を認めたため事なきを得たが、これまでのラテンアメリカの伝統から言えば「不正選挙」と騒いでもなんの不思議もない票差である。
 第三に、選挙の過程で党派関係が捻じれ、国政の争点がぼけてしまったことである。一般には革新のウマラ対右翼のケイコという構図なのだが、実は右翼の中に反フジモリ感情は根強い。そして伝統的左翼はと言えば、これも反フジモリなのだ。逆に民衆の中にフジモリ支持層は分厚い。
 ケイコを支えるべき右翼の中からも多くの造反が出た。ノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサはフジモリが当選した時の対立候補で、フジモリを毛嫌いしている。彼は「エイズよりもガンを選ぶ」としてウマラへの投票を選択した。 フジモリの後に大統領を務めたネオリベラリズムの信奉者トレドもウマラ支持を明らかにし、ウマラ陣営に自らの政治スタッフを送り込んだ。
 選挙戦で劣勢に追い込まれたウマラは、反フジモリを前面に押し立てることによって辛うじて勝利をモノにすることができたのだが、これが今後の政策展開の上で足かせとならないだろうか。気がかりではある。
 かつてチャベスがクーデター未遂事件を起こしたあと政界に登場したとき、フジモリ派の装いをとっていた。実は彼は紛れもない左翼であったことが後から明らかになるのだが、ウマラの思想的経歴にはチャベスのような左翼的傾向は明確ではない。
 目下のペルーの経済情勢を見ると、政策選択の幅はそれほど大きいとは言えない。オマラがエクアドルのグティエレス元大統領のような経過を取る可能性も絶無とは言えないのである。

 第4には、これからの中南米を見ていく上で大事なことだと思うが、この選挙が「上り坂の経済」を背景に行われた選挙だということである。これまでの革新候補の勝利は、どちらかといえば「絶望の10年」の末に国民が選び取った選択だった。それに対しこのたびの選挙は、好調な経済を背景に、「これからさらにどう進んでいくべきか」を問う選挙だった。
 そういう点では、戦いの勝利者はウマラというよりUNASUR(南米諸国連合)だったというほうが正しいかもしれない。ということで、これまでちょっと敬遠してきたUNASURの勉強に着手するか。

「窓」と題する久下格さんのブログに、この間(といっても災害発生から5月あたままで)の米政府の動きが詳細に跡付けられています。
もともと私は政治・経済面からのアプローチを主として行うつもりでした。敵は経団連、仇は米倉会長という構図です。
アメリカの戦後支配と干渉の経過については、あまり触れるつもりはなかったのですが、この文章を読むとやはりそこまで見通しながら分析していかないと分からないのだな、と改めて感じました。
ただ、この間の経過では「毒をもって毒を制す」という側面もあったと思います。やはり経団連=東電を軸とするムラ社会構造は我慢ならないものです。
ともあれご一読をお勧めします。

本日の赤旗に内藤正則氏の発言が掲載された。14面の左肩で見逃すかもしれないので紹介しておく。
非常にすっきりした見解である。内藤さんという人の肩書きは「財団法人エネルギー総合工学研究所原子力工学センター」の安全解析部長。相当「偉い」人のようで、日本原子力学界賞を4回も受賞している。しかも東大ではなく東北大学卒だ。

私は、チェルノブイリの後、通産省の委託を受け、過酷事故の拡大を防止するためのプログラムに関わりました。その結論は速やかなガスの放出(ベント)と冷却のための代替注水でした。
ベントと海水注入は、全電源喪失という事態に直面したとき、実施する、しないという選択肢はありません。やるしかないのです。それが何らかの理由で遅れたのであれば、その理由を明確にすべきです。
全電源喪失に直面したら、東電は、事業者としての義務と責任で決断しなければなりません。「官邸の指示」を待たずとも実施すべきことでした。
東電が速やかにベント、代替注水を実行できなかったことの検証が迫られます。

「誰か、東電内部に、判断を遅らせ実施を妨害した人物がいる」ということを内藤さんは言外に指摘している。ぜひとも検証してもらおうではないか。

ドイツ倫理委員会の勧告の文章を米倉会長ならどういうかと考えてみた。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。

日本経済はその強さを、かつて最高の質だった製品を低コストで売りつなぐ能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野をタコ足食い的な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業に決定的なピンチを与えることになる。
日本は原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を断固として拒否する。

ウーム、分かりやすい。

昨日のメルケル演説に続き、本日の赤旗にはドイツ倫理委員会の勧告を掲載している。
これは2022年までに原発から全面撤退することを定めた政府法案の基礎となる文書だそうだ。
赤旗を直接お読みいただきたいが、気に入った一節を引用しておく。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。ドイツの学術は卓越した位置にあり、エネルギー転換に向けて本質的な技術革新や高性能の解決法が引き続き期待できる。
ドイツは原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を担う。

いいですね。Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt ですね。

私たちもこれと似た経験を数多く持っている。70年代初めの公害闘争は大企業の抵抗を押し切って大幅な規制を加えた。その結果、生産は落ちるどころか、反公害技術はいまや日本の最大の技術資産として輝いている。乱開発から市民が守った自然環境はいまや観光日本の最大の資源となろうとしている。なによりもそれらの闘いは日本の民主主義にとって最大の知的遺産となっている。

それにしても、我らが米倉経団連会長もこのくらいのことは言ってみたらどうかと思うが、過去の発言における品性の低劣さはなんとも情けない。


東電病は人体の主としてエネルギー産出系をおかす寄生虫疾患である。この東電虫と呼ばれる寄生虫は、アメリカ原子力兵器産業という外来種と日本在来の大企業の交配から生じた。元来は政府が輸入したものであるが、その後野生化し、中電・関電など全国9ヶ所のエネルギー系に拡散している。 この寄生虫は尻から「利権」という蜜を分泌し、他の虫を呼び寄せる。正確には「東電を中核とする原子力産業複合体」と呼ばれる。これを東電病と呼ぶのは、発見のきっかけが東電の福島発電所で起きた福島シンドロームによるからである。 体内に入ると虫体を中心に腫瘤を形成する点でエヒノコックス病と類似する。しかし東電病においては腫瘤形成傾向が旺盛であり、50年をかけて巨大化する。ことに免疫機構が作動しなくなると急速に増大する。その結果、中心部は血流不全に陥り壊死・膿瘍化し、些細な外力によっても容易に決潰するようになる。その膿にひとたび触れれば、たちまち猛烈なかゆみを生じ、掻きむしるうちに皮膚は欠落し、真皮、筋肉、骨とともにどろどろの一体と化し、強烈な腐臭を発しながら血膿とともに脱落していく。 これが実際に起きたのが福島シンドロームと呼ばれるものであり、水素爆発、大気・土壌・海水の非可逆的汚染と深刻なエネルギーの欠損をもたらす。スリーマイル症候群、チェルノブイリ症候群と類似の徴候を示すが、腫瘤そのものははるかに大きい。 <症状>たまに小規模なデモなどの免疫反応は起こるが、一般的には自覚症に乏しく、時には膿瘍の破裂まで無症状のこともある。鎮痛作用のある麻薬様の物質を分泌するためと見られる。しかし長年の間に生体防御機構は破壊され、いったん福島シンドロームを発症すると病状は急速かつ不可逆的に進行し致死的結果をもたらすことが多い。 <診断>存在診断そのものはきわめて容易である。しかし有害とはみなされず、「自然放射能のごとく」無害な常在菌としてあつかわれ、ときにはビフィズス菌のように人体にとって有益なものと考えられたため、これまでは放置されてきた。無害学説形成に当たってはとくに東大学派の影響が強い。 <治療>福島シンドロームと呼ばれる終末期の急性症状に対してはほとんど打つ手がない。対症的治療としては「受容」、「受忍」があるが、その効果については「受忍させる」ことも含め多くの異論がある。 治療の基本は免疫賦活療法である。初期の段階では生体は東電虫を異物としてとらえ正常な免疫反応を生じ、排除の体制をとるが、繰り返す暴露により疲弊し免疫寛容を生じるようになる。それどころか東電虫が出す麻薬性物質に依存を生じ、東電虫を渇望するようにさえなる。 根治療法としては外科的切除があるが、これは相当進行してからの治療となるため救命的手術とならざるを得ない。血管豊富な腫瘍であるため、切除前には愛護的な用手剥離と徹底的な血管結紮により十分に周囲組織と離断する必要がある。それでも侵襲は大きく出血量は多い。したがって手術そのものの困難よりも、患者と家族に手術を説得し納得させるタフネスがもとめられる。 <予後>さまざまな困難と紆余曲折が予想されるが、肝腎なことは腫瘍といっても癌ではないということである。手術リスクは高いが、いったん腫瘍の完全切離に成功すれば予後は佳良である。術後も免疫賦活療法の継続は必要であるが、少なくとも放射線治療は不要である。

先ほどテレビのNHKニュースを見たが、どうもおかしい。 震災報道では国民一丸となってと呼びかけているのに、ニュース番組が始まるととたんに菅首相が早く辞めるようにという論調だ。 しかも大連立になったらどうなるのか、彼らが何をしようとしているのかはまったく語られない。いたずらに国内対立を煽っているとしか見えない。
公共放送として受信料を聴取しておきながら、明らかに不偏不党の立場を逸脱している。これは東電が公的企業として電気事業を独占しながら、「民間企業」と称して自民党への献金を続けてきたのと同じだ。明白な脱法行為だ。
自民党もおかしい。首相が辞めなければ第二次補正予算の成立を妨害するのか、それは突詰めると被災者を人質にすることではないのか、被災地の人々の救済より政権取りの方が優先するのか。そういう行為は世間では「卑劣」と呼ばれるのではないか?
 そもそも国会は国権の最高機関である。議会が率先して切り開いていくべき課題が目の前に山積しているはずだ。議員立法でも何でもどんどん出したらよい。国民はまさにそのことを国会に期待している。 目を覚ませ! 百年に一度の国家危機を前にこんなことをしていては国会議員として自殺行為ではないか。このままでは、一族の名折れとして将来に汚名を残すことになるぞ。
菅内閣に対する批判も的外れだ。初動の遅れを責任追及しているが、IAEAの指摘にもあるように、複雑な縦割り行政と、中立的独立的な保安機関の不備が初動遅れの最大の原因であり、そのシステムを作り上げた主要な責任は過去数十年の歴代自民党政権にある。まずは深く反省して、改善策を提示してその上で国民の判断を仰ぐべきではないか。 とくに原子力産業複合体にどうやってけじめをつけさせるのか、この方針を明示すべきだ。

21世紀の最初を十年間を、我々は「2001年9月11日」論の中に過ごした。平和と生命の問題ばかりではなく、人権と民族の尊厳、宗教と自由、異なる文明の共存の問題がそこにはふくまれた。
それは1990年11月9日、ベルリンの壁の崩壊に始まった激動の世界、新自由主義と国際金融の横暴、アメリカ帝国主義の専制支配の時代の頂点であり、そこから多国間協調主義への萌芽が生まれ出た時代でもあった。そして24時間の間に世界で1千万の人々が、平和をもとめ、アメリカ帝国主義に抗議して立ち上がった時期でもあった。
同じように、2011年3月11日を、2010年代の世界を特徴づけるモニュメンタル・デイとして位置づけようとする動きが始まっている。日本ではいまだそれどころではない悲惨な状況が展開されているのだが、ヨーロッパではいち早くそのような論調が登場してきている。

それは端的にいえばエネルギー革命だ。
エネルギー革命というと、すでに20世紀から展開されているようにも見えるが、それらは結局石炭なり石油に対するオルタナティブとしてのものであるか、反物質文明的色合いを持ったイデオロギー的運動に留まっている。
これからのエネルギー革命は、持続可能性をもとめる技術革命である。それは資源の持続可能性というよりは人類の持続可能性を模索していく革命となる。
この革命の特徴はもうひとつある。それがまずもって、原発という既存のエネルギーを放棄するところから始まることである。テレビの買い替えとは違う。完全な見通しを持って開始するわけには行かないのである。
しかしそれは人類にとって必ずしも初めてのことではない。東欧の民主主義革命は既存の命令主義的政治構造を破棄することから始まった。そして資本主義への復帰という形態をとって実行された。多国間協調主義は「多極化」=ウェストファリア体制への回帰という見掛けをとりながら進行中である。一時的な混乱と、生活上の困難は覚悟の上で臨まなければならない。

ラテンアメリカ財政の特徴は歳入にある。
第一に、歳入がGDPに対して低い。平均歳入額はOECD諸国でGDPの42%であるのに対し、ラテンアメリカでは23%に過ぎない。
第二に、税の捕捉率が低い。純粋な税収はGDP比16%で、OECD諸国の35%と大きな差がある。税収以外の収入がGDP比8%以上を占める。
第三に、直接税の比率(直間比率)が低い。OECD諸国が42%であるのに比し、ラテンアメリカでは25%にととまっている。
第四に、直接税の中でも所得税の占める比率が低い。OECD諸国が27%であるのに対し、ラテンアメリカではわずか4%である。
LATIN AMERICAN ECONOMIC OUTLOOK 2009 による

要するに金持ちがやらずボッタクリの生活を送り、それを政府が支持しつつ、大衆収奪路線を推し進めているわけだ。しかも政府には信頼がないから、取れるところからだけ取って済ましている…というのがラテンアメリカ諸国政府のありようだ。

所得の再配分機能など到底期待できない。共同体など「幻想」どころかお笑い種だ。

こういう歳入構造が歴史的に形成されてきた。そして民衆の上に覆いかぶさってきた。「失われた10年」と「絶望の10年」がその帰結を赤裸々に開示したのだから、この10年間に相次いで誕生した革新政権は、相当長期間にわたって支持され続けるだろうと思う。
ただしその革新政権も、まだ金持ちの懐に手を突っ込んで正当な税を徴収するところまでは至っていない。それが2008年におけるラテンアメリカの状況だ。

ところで、研究報告で、マックス・ウェーバーなどの近代政治学の手法を用いて分析しているのを見かけるが、それは無駄な作業だ。これらの国で通用するのはマルクスだけだ、

16日赤旗によると、ソニーは多賀城市の仙台テクノロジーセンターで首切りをやるという。浸水被害が出たからといって首を切るのは「世界のソニー」としてはなんとも情けないのだが、とくに許せないのは期間社員150人の全員解雇。彼らの平均年収は270万円、150人全員の年俸は4億円だという。
びっくりしたのはソニー会長の年俸。なんと8億円強です。私たち貧乏人にはこんなにたくさんのお金を何に使うのかさっぱり分かりませんが、とりあえず4億ではだめなのでしょうか。
もちろん困っているのは150人に留まるわけではありませんから、それだけでカタがつく話ではありませんが、そのくらいはしないと痛みを分かち合う「一体改革」の名が泣きます。
記事によると期間社員たちは自宅が被災したのに長時間かけて出勤し、泥のかき出し作業に参加したり、避難所から復旧作業に通っていたとのことです。

この赤旗記事は、ぜひ皆さん読んでください。泣けること請け合いです。

若い頃は金などなく、レコードなどめったに買えなかった。せいぜいフォンタナの1200円盤しか手が出なかった。時たま、レコード屋でパンチ穴の開いた今で言うアウトレット盤が出ると、引き出しから大枚二千円をポケットに入れ出かけたものだった。 下宿代が賄いつきで月7千円、生協のC定食が90円の時代である。 そうやって買ったのがクレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のワーグナー序曲集だった。だからこの曲のこの演奏はクレンペラー以外にない。シノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏はまさにクレンペラーそのものだ。それだけで最高だ。 テンシュテットの演奏はそれとはだいぶ違う。しかしこれも良い。 ショルティは、いつも思うのだが、この人は一流ではない。この人からは知性が感じられない。ロゴ付きジャージで高校のブラスバンドを指揮しているのがお似合いだ。 YOUTUBEではもうひとつゲルギエフの演奏が聴かれるのだが、この人はもっと知性がない。ソ連崩壊のドサクサで出現したオナラみたいな人である。猛烈に臭い。行者にんにくが好きな人にはお似合いであろう。 高校時代に駿府会館でショルティ指揮ロンドン交響楽団を聴いた。ベートーベンの4番と7番、いま考えるとクライバーの十八番だ。しかしその頃は4番も7番も知らなかった。 アンコールのハンガリア舞曲第5番だけは鮮烈に覚えている。トロンボーン3本の迫力はすさまじかった。 このときのメイン指揮者は当時89歳のピエール・モントゥー。ドサ回りをショルティとアンタール・ドラティが引き受けた。いま思うととんでもない顔ぶれである。

http://jp.wsj.com/Opinions/Opinion/node_224799

Wall Street Journal Japanese Edition  オピニオン 2011年 4月 19日

東電は必要なら破綻も-電力会社は銀行ではない

星岳雄、アニル・カシャップ、ウルリケ・シェーデ

きわめて論旨明瞭、分かりやすい文章だ。

最初に結論部分から紹介する。

 東電は銀行ではなく、元世界最大手のエネルギー取引会社「エンロン」と同様に考えるべきだ。エンロンは誤った経営判断で破綻に追い込まれた。その破綻は混乱を引き起こしたが、システム全体を不安定化させることはなかった。

 東電は重要な日本企業だ。だが、通常の企業に課された法律を免れるほど重要ではない。

 論文はまず、90年代の金融破たんとは違うことをはっきりさせる。

東電は1998年の一部の銀行と同様に支払い不能に陥る可能性が ある。規模も大手行並みに巨大で、経済を機能させるために不可欠である。

だが、銀行と東電のような企業の間には根本的な違いがある。銀行の調達資金は、預金者やその他投資家からの信認が失われればたちまち枯渇してしまう。さらに、ひとつの銀行で支払い不能に陥れば、他の銀行に連鎖する可能性がある。こうした危機の飛び火は金融システムの大部分を危険に陥れかねない。

これに対し、東電の調達資金の大半は長期債券であり、債権者が直ちに返済を要求する仕組みにはなっていない。東電は競争にさらされていない地域的独占企業であり、安定的な収益源があることだ。しかも、東電の破産によって他の電力会社が危機に陥ることはない。

会社更正法に基づく通常の破綻処理では、企業は営業を続けたまま何の問題もなく破産と債務再編の手続きを進めることができる。

東電を通常の破綻処理から免責しようとすれば、安全性と効率を求める市場圧力から東電を隔離することとなり、モラル・ ハザード(倫理の崩壊)という新たな問題が発生する。


毎日新聞の特ダネ  三沢耕平記者の署名入り記事だ。

 政府の支援策の前提となった東電の財務試算が、毎日新聞が入手した内部資料で明らかになった。
 ①賠償総額を10兆円と仮定し、これに火力発電切り替えコストを上乗せする。
 ②電気料金を16%(一般家庭の場合月額1000円程度) 値上げして東電に収益を確保させる。
 ③東電はこの収益を原発事故の賠償に回す。

 試算によると、12年3月期から年2兆円の賠償費用を5年間計上。廃炉費用も2年間で1兆円を計上する。これに年約9000億~1兆円の火発燃料費が上乗せされる。

 電気料収入は約4.6兆円から約5.8兆円に増加。15年には1735億円の最終黒字を確保するシナリオだ。金融機関や社債権者への支払利息は据え置き、株主配当も19年の再開を見込む。

これって賠償というんでしょうかね。さらに銀行からの融資、株、電力債はすべて満額保障どころか利息までつけるというのだから、図々しいにもほどがある。これで株価が一気に上がったわけだ。

 今後は「経営・財務調査委員会」による資産査定が東電の「聖域」にどこまで切り込むかが注目される。
 東電を電力事業部門と債務を引き継ぐ部門に切り分ける「新旧分離」や「発送電分離」など、事実上の東電解体論 にも発展しそうだ。

と書いてあるが、とても発展しそうにはない。

くどいようだが東電は一民間企業だ。その企業が債務超過に陥っている。破たん処理を速やかに行わなくてはならない。いろいろな意味で、これがけじめだ。
問題は二つあって、ひとつは電力という公共財を扱う会社だということ、もうひとつは地域独占会社で、代替をもとめるのが困難ということである。
しかしそれらのことは破たん処理を不可能とするわけではなく、その過程で配慮が必要だということ、国と政府が最終責任を負わなければならないということを意味するに過ぎない。
"too big to fail "は問題ではない(経団連にとってはこれこそが大問題だろうが…)。

不信任案が否決されたあと、さらに菅降ろしの動きが強められている。
問題はアメリカ、とくに軍関係がどういう態度をとるかだ。アメリカが菅を支持すれば、一巻の終わりだ。そういう点では東電ムラも必死だ。
ムラ社会の「なぁなぁ管理」にゆだねられるほどに原子力は甘いものではない。東電の危機管理の内実は惨憺たるものであった。それが白日の下に晒された。
しかしその後の対応こそが深刻であり、そこには目を覆うほどに当事者の開き直りと、ムラ社会の「庇いあい」が横行している。「きっちりとけじめをつけよう」とする構えはまったく感じられない。
原発に対する危機意識よりも、危機意識のなさに対する危機意識が深刻である。
いまや原発問題は電力問題ではない。主要な問題はコストではない。原発管理は端的にいえば核管理なのである。このようなずさんな「原子力大国」をこのままに放置してよいか。このような倫理的に締まりのないムラ社会構造を手付かずで温存し、核の管理をゆだねてよいのか。
このような思いはアメリカ国防総省も国務省も共有していると思われる。

菅降ろし策動は、紛れもなく東電問題に対する幕引き策動である。もちろん菅政権が東電問題を適切に対処できる保証はない。むしろできないと見たほうがよい。しかし自公との連立政権となれば、"やれない"というより"やらない"政府になるだろう。

これは国際的な核管理の戦略に背馳する可能性がある。なぜなら核の管理は一切のあいまいさを許さないからだ。臭いものにふたをして、何もなかったようにやり過ごそうという財界・政界の姿勢に、かつてけじめのない12年戦争へと突き進んだ軍部の体質が二重写しとなってくる。

国際世論は今後原子力に対してさらに批判的になっていくだろう。日本における原発問題のあいまいな幕引きは、各国の戦略専門家の警戒の的となろう。

みずほアジア・オセアニア インサイト 6月14日号
 http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/asia-insight/asia-insight110614.pdf

震災はアジア経済にもさまざまな影響を及ぼすと予測されている。

第一に、サプライ・チェーン問題がある。日本からの部材輸入が途絶えることにより、アジアの生産が減少する可能性である。日本からアジアへの輸出のうち、部材(中間財)の占める割合は、90年の62%から09年の71%に増大している。

第二に、日本経済の悪化に伴う対日輸出の落ち込みである。しかしアジアの輸出先としての日本の存在感は低下しており、現在では10%前後に過ぎない。

第三に、日本企業の対アジア投資・進出の停滞である。シンガポールの経済紙は「国内の復興投資に専念するため、日本企業の対外投資ペースは低下する」との見通しを示している。
しかしこれについては、「日本企業は自然災害のリスクを分散するために、生産拠点のアジア移転を加速させる」との期待も持たれているという。

しかるにタイ現地調査では、自動車生産はすでに旧に復している。その理由は、タイにおける自動車生産の2/3が商用車、残りの乗用車も安価な小型車が主力であり、カーナビやエアコン、高度な駆動系制御装置は搭載していないからだ。

日本総研アジア・マンスリー 2011年6月号
http://www.jri.co.jp/page.jsp?id=19672

内外需の拡大に支えられてアジア経済は安定成長を続けているが、インフレ圧力の増大と東日本大震災の影響が懸念材料となっている。

今年第一四半期の統計を見ると、実質GDPは中国+9.7%、シンガポール8.5%、イン ドネシア6.5%、台湾6.2%、韓国4.2%となっている。輸出の拡大に加えて、民間消費や固定資本形成などの内需が成長を支えている。

いっぽうで、旺盛な資金需要と原油や食料品価格の高騰からインフレ圧力が強まっている。しかし各国通貨の対ドルレート上昇によりかなり相殺されている。各国は金利引き上げで引き締めを図っている。ベトナムでは13%にまで達している。インドでは自動車販売の伸び率が10%台へ低下するなど、利上げの影響が表れ始めている。

こうした中で東日本大震災の影響が顕在化しつつある。マイナス効果として、①日本向け輸出の減少、②原材料・生産部品輸入の減少、④サプライチェーン途絶による減産などがあげられる。いっぽうでは、①日本国内で品薄となった財の調達需要、②日本製品からアジア製品へのシフト、③アジアへの生産移転の加速などがあげられる。

短期的には復興特需などプラス面が前面に出てくる(たとえば韓国では、日本企業による石油製品や LNGなどのエネルギー、ミネラルウォーター、ラーメン、乾電池などの日用生活品調達により対日輸出額が70.1%増となっている)

Asia Weekly (5/23~5/27) 第一生命経済研究所 経済調査部
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/asia/pdf/as11_022.pdf

シンガポール経済動向

4月の鉱工業生産は前年同月比▲9.5%となり、17 ヶ月ぶりにマイナスに転じた。前月+97.2%と大きく増加したバイオ・化学関連が同▲31.6%の大幅減少になるなど、全般的に生産が縮小している。

東日本大震災による部材供給問題は短期的に生産活動の足かせとなる可能性があり、貿易量の縮小も懸念される。

ざっと見てみたが、大震災の影響評価に関しては隔靴掻痒の感を免れ得ない。アジア経済は日本の大企業を頂点とする垂直分業の関係にあるわけで、たんなる市場関係ではない。

とすれば、その指標は資本関係の諸表に現れてくるはずだが、それはこれからの動きということになるのだろうか。

第二に、この国際分業はそもそも対米貿易摩擦の回避、プラザ合意後の円高不況からの脱却策として80年代後半から進行したものであり、元来は対米迂回輸出のためのシステムであった。

したがって日本・アジアの関係からだけ見ても問題は浮かび上がってはこない。これに米国を加えた総体としてみておかないと、何も見えてこない可能性がある。

とりあえずは日本企業のアジア新規投資の動きに注目しよう。

GDPは日本の経済・社会のパフォーマンスを示すのに有効な指標ではなくなってきている。むしろそれは国民収奪の指標となっている。このことは以前のブログでも書いた。

とくに小泉改革の後はそれが顕著に現れている。20年前と現在を比べて経済がよくなっていると実感する人は誰もいないはずだ。もちろん大量消費のバブル景気がすばらしかったというわけではないし持続可能であったとも思われない。

賃金は横ばいないし微減、非正規労働の急増、社会保障水準の絶え間ない低下、膨大な財政赤字、人口高齢化…。間違いなく日本経済は疲弊しつつある。その疲弊を後押ししたのが小泉改革だが、不思議なことにその間GDPは一貫して増加を続けた。

ここから分かることは、国民の富の総体というものがあって、それは年間総生産の中から蓄積され生産のためのリソース(資源)となっているということ、そしてその総体の増減を表す指標はまだ作られていないこと、しかしそれは間違いなく減少しているということ、すなわち日本がタコ足生活に入っているということ、などである。食う足がなくなった瞬間、日本のGDPが劇的な減少を遂げることは容易に予測できる。

そしていまやGDPではなく国民の生産リソースの総体を増加させるべく、経済・社会政策を転換する必要があるということである。目に見える経済活動ばかりではなく、生産のためのリソースを増勢に転化する必要がある。短期的には「庶民の懐をあたたませる」政策であり、中長期には雇用の安定、収入の安定、老後の安定、教育・育児環境の充実などであろう。

高度経済成長を続けている間は、GDPで経済活動のあらましは判断できるが、生産活動の統計に表れにくい「生産活動」は経済の成熟とともにその比重を増してくる。何をしているのか分からないような商売が増えてくる。

経済学者のなかには、環境=自然資源とGDPとのトレードオフが最大の課題とする意見もあるが、価値が人間の労働によって生まれる限りにおいては、人的ソース (human resources) の量的・質的拡大こそが最大の資源開発と、私には思える。無尽蔵の自然資源が地下に眠っていながら経済発展が大きく立ち遅れた国などいくらでもある。

ともあれ、GDPを経済・社会開発の最高の指標とする時代は終わり、少なくともそれと並んで国民の富の総体の変化を示す指標をさまざまに試みていくことが必要になっている。

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201011/Wolverson.htm

GDPの考え方は、上記の論文「GDPは万能ではない。だが、代替経済指標はあるのか?」(フォーリン・アフェアーズ リポート2010年10月号)が簡潔にして要を得ている。

GDPでは、経済活動が環境の持続可能 性に与える影響などの長期的要因は考慮されないし、所得格差もカウントされない。したがって、GDP成長ばかりを追い求めれば、環境悪化、所得格差の問題 が深刻化する可能性がある。GDPは万能ではない。だがGDP をいかに改善すべきか、あるいは、他のアプローチに置き換えるかについて、エコノミストの間にコンセンサスはない。

大きくいって二つの考えがある。

ひとつは「政治家と有権者が、GDPは社会的充足度を計るための指標と間違って信じ込んでいる以上、たんにGDPをいじる程度では問題の解決にな らない」とするラジカルな考えである。

もうひとつは、たとえばスティグリッツは、「経済政策決定がもっぱらGDPだけを基準に下されるのを避けるために、追加的な指標をGDPに 加える必要がある」と主張し、これにより政策決定者に経済決定のインパクトの全体像を理解させることができると考える。

私の感想だが、それらの意見には、生産活動を根本的に規定するものは総体としての「人間の労働」だ、という観点がない。さらに、人間の豊かな欲望の創出こそが生産活動の推進力だ、という発想がない。

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