鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

いま世界の運命を決するような重みをもって語られているニュースが二つある。ひとつはアメリカの財政赤字問題であり、もうひとつはEU内後進国、とくにギリシャの債務問題である。
ギリシャの債務問題は、ラテンアメリカを研究するものにとっては2001年12月のアルゼンチン債務危機と二重写しになって迫ってくる。

20世紀末以来の20年余り、株屋=サラ金連合の支配 が強化されている。そして現在も世界のトレンドに変わりはない。手を拱いていればその先に恐ろしい破局が口をあけているのは間違いない。
いまは流行らないが、学生時代に学んだレーニンの帝国主義論に「資本主義の腐朽化・寄生化」という言葉があった。当時はこれに「不均等発展」論を結びつけて「革命の日は近し」と満足していたが、そんなに簡単なものではない。
ただ肩で風を切るネオリベと「株屋=サラ金連合」の横行を見ると、近代資本主義は放置すれば重商主義・重金主義へと先祖がえりしていくのかと感ぜざるを得ない。医学用語で言えば「退行反応」である。
一体どうしてこのような仕儀に相成ったのか、新自由主義者によれば、「それは戦後世界を支配してきたケインズ主義経済システムが突き当たった壁だ」といわれる。
確かに壁はあった。一種の行き詰まり状況はあった。しかしそれはほんとうにケインズ主義がぶち当たった壁だったのか、レーガン・クリントンによるアメリカ帝国主義の巻き返しに世界が屈した結果に過ぎないのではないか、そこをもう少し冷静に見極める必要がある。

ネオリベとケインジアンの対立は、直接には経済政策をめぐる意見の相違である。しかし本音はそこにははない。それは経済にモラルが必要か、恣意性を排し「神の手」にゆだねるべきかをめぐる対立なのである。
ネオという名はつけても、当節の支配階級の論理は人倫とはかけ離れた「ジャングルのおきて」である。我々はこの弱肉強食の論理が、1929年の大恐慌を初めとする多くの恐慌と、二度にわたる世界大戦争を引き起こしたことを記憶している。そして人類を絶滅させる可能性を秘めた原子爆弾を生み出したことを知っている。
ジャングルの掟は勝つためのすべての手段を正当化する。その典型が強引な資金投入である。サラ金の怖さは取り立てにあるのではない。詐欺的手法まで用いる「貸し込み」に最大の危険がある。
そして、本来国際金融秩序を守らなければならないIMFが貸し込みの旗振り役となったことに、ネオリベの最大の犯罪がある。



共産党の笠井議員が福岡で講演会。参加者の感想でこの言葉が出ている。
ルールなき資本主義では、こと原発問題については対処できないというのがこれまでの私たちの論調であり、これに対して財界はあくまで資本の論理、コストの論理を原発問題にも押し通そうとしているというのが、対決の構図だった。つまり原発問題は特殊なのか特殊ではないのかという対立だ。
しかし、もうひとつの対決の構図が必要だということを、この言葉は示唆している。私たちは原発問題とそれ以外の問題を、同じようにルールなき資本主義が抱える共通の問題としても取り組まなければならないということだ。
そのキーワードは未来破壊性ではないか。
「我が亡き後に洪水来たれ」という言葉が、ルールなき資本主義の本性を表す言葉としてよく使われる。つまり未来と、未来の安全性と、未来が保持すべき伝統を、ひっくるめて売り物にしちゃうということだ。
原発を撤廃すればそれですむという問題ではない。ルールなき資本主義を根本から改革しなければ、同じような未来を破壊するような問題はかならず起きる。
もちろん、原発の持つ「異質な危険性」を他の問題と一緒にしてはいけない。あるいは核兵器の持つ全人類的危険を兵器一般と混同してはならない。
しかし私たちはそこからさらに議論を一歩進める必要があるだろう。それらの持つ異形の危険性を強調した上で、それにもかかわらず危険な道を突っ走ろうとするルールなき資本主義の衝動こそが最も根本的な危険となっていること、その本質的特徴が未来に対する破壊性にあること、したがってルールなき資本主義の克服こそが事態の根本的解決となること、を訴えていく必要があるだろう。

1973年9月11日、ピノチェトによるクーが起こった。ピノチェトはアジェンデのこもる大統領宮殿を爆撃した後突入した。アジェンデは最後まで抵抗した後、遺体となって発見された。
これが自殺なのか軍による射殺なのかについては、長年議論が交わされてきた。
この論争に終止符を打つため、今年5月に遺体を運び出し、検視が行われていたが、19日に司法当局がその結果を発表した。
アジェンデは持っていた自動小銃で頭部に銃弾を2発発射。内1発は遺体内に残っていたとされる。
まぁとりあえず決着はつきましたね。それでピノチェトの罪が軽くなるわけでもないが。

心臓死とされてきたパブロ・ネルーダについても、「毒殺」の疑いがあるとして、今年5月控訴裁判所に対し告発がなされた。(ネルーダは国民的詩人にしてノーベル文学賞受賞者。共産党員で70年大統領選挙の候補となったが、アジェンデを統一候補とするため辞退した。クーの1週間後に自宅で“心臓発作”を起こし病院に運ばれたが、まもなく息を引き取った)

ソニーの首切り事件の続報が出た。多賀城の正社員280人を広域配転、基幹社員150人を全員雇い止めする計画に変わりはない。
分かったのはこれらの期間社員が「09年に労働局から偽装請負の是正指導を受けて直接雇用に切り替わった人たち」だということ。つまり最初から切る気満々だったということで、震災は勿怪の幸だったことである。
もうひとつは宮城労働局が、すでに5月に「労使でよく話し合うこと、雇用のルールを理解する」よう「啓発を実施」していたことである。
ソニー労組によれば、会社側は「ご理解をいただきたい」と繰り返すばかりだという。労働局もなめられたものだ。

それにしてもメディアは見事なまでにこの事件をネグレクトしている。週刊現代でさえ報道しない。地方紙もふくめて活字メディアは完全に沈黙。当然ながら放送メディアは一顧だにしない。赤旗の後追い報道ばかり続けるのもたしかに癪ではあるが。

トヨタ自動車の豊田章男社長が新小型ハイブリッド車の生産工場を岩手に建設すると発表した。
ものづくりより金作りに精出した奥田時代から見ると夢のようだ。
年産10万台規模。被災地の復興支援が狙いで、人材確保に向け、若手技術者を養成する学校を設立することも明らかにした。
ソニーよ、爪の垢でもせんじて飲め。

赤旗に乗った放射性物質の流れ図。九州大学と東大の研究グループの作成したもの。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/2/6202ebae.jpg

放射性物質は上昇気流で巻き上げられ、ジェット気流に乗って1日3千キロのスピードで移動。3月18日には米西海岸に到達。22日には欧州各国に到達した。
海水汚染については原子力研究開発機構が計算結果を発表。これによると、黒潮に乗って5年後に米西海岸に到達する見込み。

日本人は世界に対して二通りの挨拶が必要だと思う。
ひとつは地震と津波について、「ご心配いただいてまことにありがとうございました」
もうひとつは原発事故について、「ご心配をおかけいたし、まことに申し訳ございませんでした」
その後には「今後はご迷惑のないよういたしますので、ご安心ください」と加えるとなお良い。

私たちはちゃんと挨拶しているだろうか。
米倉会長は、ヨーロッパでちゃんと挨拶できたのだろうか?
「ごく微量で自然放射能と変わらない」とか「ただちに人体に影響を与えるものではない」などといってないだろうか。「それでも原発続けます」といっているのだろうか。まさか「少量の放射線は人体に良い」などとは言っていないだろうか。


東電による賠償の遅れがはなはだしい。
本来、処理委員会に入るようなケースは例外で、当然ただちに支払うべきケースが滞っている。率直に言って東電には事務処理能力がないし、その気もない。
法に照らせば一次責任が東電にあるのは当然だが、それを言っていても始まらない。行程表を明らかにし、政府が直接乗り出すべきだ。
同時に、基本的なガバナビリティが欠如している東電という会社そのものを破産処理すべきだ。こんな会社に将来の日本のエネルギー政策を任せておくわけには行かない。
とりあえず政府の管理する電力事業を立ち上げ、発電・送電・配電その他を移行すべきではないか。
もちろんこれは過渡的営業形態である。何が何でも国有化すればよいというわけではない。ただ地域独占の民間経営というのは、いかにも不自然である。現在の9電力会社体制というのはいずれ改変されなければならない存在である。
民営を貫くとしても、特殊な法人であることは間違いない。地域独占経営に企業秘密は必要ない。決定・実施過程を徹底的に透明化すべきだ。最低でもNHK並みの規制は必要だ。自民党に献金するなど正気の沙汰ではない。
現場の社員にとっても透明性と政治的中立は不可欠だ。いくら高給をもらったとしても、「あの人東電よ」と後ろ指指されるのは気持ちよいものではない。ここがすっきりすれば、よほどやる気が出るだろう。

厚労省の国民生活基礎調査が発表された。
赤旗の報道では世帯当たりの所得が15年間に114万円も「ガタ減り」したとされている。
ただしこの間に核家族化と高齢化が進行しており、世帯の概念はかなり変わってきているので、「一概には言えないな」と思ったら、さすがに「児童のいる世帯」の比較も同時に出している。これだと減少幅は84万円だ。いずれにしてもありがたくない数字である。
もっともこれは年俸8億円の社長までふくめての平均だから、普通の日本人世帯がどうなっているかは所得階層別で最多の階層を見る必要がある。94年の最多階層は300~400万円だった。10年は200万~300万円台に移っている。これでみても100万円の年収減は明らかだ。
100万円の減少といっても、年収1千万の人が100万減ったわけではない。月給で言えば30万円の給料が20万に減った計算だ。これは生活保護水準ではないか。
この間GDPはどうなっているか。実質GDPで見ると96年が492兆円、10年が540兆円で約50兆円の増加となっている。ドル換算でも、購買力平価換算でも少なくともこれだけの収入減少を説明できるような指標はない。

では金はどこへ行ったのか?
それを示唆するのが共産党佐々木議員の作成した表である。

財務金融委員会配付資料1. 2008年2月19日 日本共産党 佐々木憲昭

国民所得、雇用者報酬、企業所得と家計の可処分所得、貯蓄の推移

(単位:兆円)

この表で96年と06年を比べると、次のことが読める。
①国民所得は6兆円減った。
②雇用者所得は10兆円減った。
③企業所得は16兆円増えた。
④雇用者所得の減少は貯蓄の減少をもたらした。庶民の懐はすっからかんである。
ただしここには当然08年リーマンショックの影響はふくまれない。

ラテンアメリカの転換の年となった2002年、ブラジルでどういうことが起きたかを振り返ってみたい。

この頃ベネズエラではチャベス政権打倒の運動が激しさを増していた。アルゼンチンではキルチネルが債権者を相手に丁丁発止のチャンバラを演じていた。

アメリカではブッシュがアフガンを襲い、さらにイラクに侵攻すべくキャンペーンを繰り広げていた。それらを念頭に置きながら見ていただきたい。

9月の大統領選挙を控え、革新候補として労働党のルーラが出馬した。前回も惜敗だったが、今度は序盤から圧倒的な優勢。6月の世論調査ではルーラの勝利はゆるぎないものとなったかのように見えた。

7月に入ってから海外資金の流出が急加速した。この結果、通貨レアルが2割近く急落し1ドル=3レアルの壁を越えた。官民あわせ2千億ドルの対外債務はその分ふくらむ。ふくらめば国債格付けは下がる。借り入れ金利は30%に達した.

素人計算だが、5年借りると1万円が3.7万円になる。しかもレアルは2割下がっているから、ブラジルの返済額はレアル換算で4万6千円となる計算だ。サラ金でもこれだけえげつない貸し出しはしないだろう。

8月、IMFは融資要請を受諾。その条件として従来の経済政策の維持を要求.カルドーゾ大統領がルーラに経済政策の維持を迫る.ルーラは基本的に要請を受諾する.

アルゼンチンのときも本当に腹が立ったのだが、IMFの融資というのは金利の支払い分だけだ。つまり支払猶予だ。払わなくてもいいとは言っていない。自分の腹はまったく痛んでいないのだ。それどころか、貸した金はとうの昔に取り返している。

同月末の世論調査では、ルーラ候補の支持率が下降。中道左派のシロ・ゴメス候補(労働者戦線党)とほぼ同率で並ぶ。

これら一連の経過は、すべてアメリカのやらせと見れば、つじつまがあう。しかしこれだけえげつないマッチ・ポンプ作戦を行えば、結局は自分の首を絞めることになる。それがこの10年の動きで実証されている。

ルーラは結局勝利した。カルドーゾ大統領は自党の候補の敗北を代償にして、ブラジルの国家の尊厳と民主主義を守り抜いたことになる。

カルドーゾは01年9.11のあと、以下のように語っている。骨のある政治家である。

我々は世界決定を管理する機構に関して未だ規則を決めていない.しかしそこでは,恐怖に頼らず,非対称でなく、平等かつ貧困の少ない,世界の誰もが望むグローバルな秩序を実現しなければならない.
いっぽうでは,文化、経済、技術、軍事に関して傑出した国が存在し、何かと注意を促し、従わない場合は更に強力なG7に持ち出し、自説を全世界の世論のように強要する。一国のみが世界に命令するのは避けるべきである.野蛮なのは卑怯なテロリストばかりでなく、地球規模で一方的な不寛容を課す側にもある。
一方的に言い分を押し付け、是非を強制するのは交渉ではない。富裕国の利害を先に決定した後で、我々に必要な事項を伝えるのではなく、同時に双方の言い分を聞き交渉することが必要である.

赤旗にドイツの原発代替計画が報道されている。簡単な内容で、風力に期待した計画のようだが、興味あるのはそこではない。
まず第一に、ドイツの原発依存度はそれほど低くはないということだ。現在のドイツの原発は稼働中のものが17基あり、発電量の22.5%を占めている。これを10年後に完全閉鎖するというのだから、日本の経団連が聞いたら眼をむきそうな話である。
第二に、ドイツは電力輸出国だということである。10年まではそうだった。これからは当分のあいだ輸入国になりそうだが、「ドイツは買電国家だ」との宣伝は間違いだ。ただ地域によってはフランスから買ったり、別な地方では売ったりとEU内で融通しあっている。
第三に、代替エネルギー計画の成否は送電・蓄電・節電にかかっていると見ている。高圧送電網の拡充に11億ユーロ、蓄電技術の開発に2億ユーロが投じられる。
とかく日本では「脱原発なんてできっこないよ」という議論が先行しがちだが、ドイツにできて日本ではできないというのでは、「技術立国」の名折れではないだろうか。
電気を湯水のように使うか、さもなくば海外に移転するという会社はどうぞ出て行ってください。長い目で見れば、泣くのはあなたたちだと思います。

2002年のパンチはより直接的で暴力的だった。ベネズエラでは石油会社を直接統制しようとしたチャベス大統領が、4月にクーデターにより倒された。しかしこのクーデターは実行者の不手際で混乱し、チャベスを支持する民衆と軍のチャベス派の逆襲により頓挫した。しかしこれはアメリカにとっては小手調べのようなもので、その年の12月から1ヵ月半にわたるゼネストこそが力勝負の決戦だった。

時を同じくしてブラジルの大統領選挙が行われた。ネオリベラリズムを信奉する現政権に対し、労働党のルーラ候補を押し立てた左翼が優位に立つと、アメリカはルーラ当選阻止のため大規模な金融介入を行った。ふたたびブラジル経済は大混乱に落ち入り、破綻の瀬戸際まで落ち込んだ。

しかしカルドーゾ大統領は、保守派ながら米国の干渉に対して毅然たる態度を取った。いっぽうでルーラに政策の穏健化を説く一方、このパニックを収拾し選挙への影響を最小限にとどめた。アメリカも現職大統領の捨て身の訴えに耳を傾けざるを得なかった。こうして11月、ルーラが決選投票に勝利し、ラテンアメリカ最大・最強の国ブラジルに革新政権が誕生することになったのである。

ルーラは大統領に就任するや否や、合法性の尊重の名の下にベネズエラの現政権支持を打ち出した。ルーラはフランス人記者に「チャベスが倒されれば次は私の番だ」と語った。こう着状態にあったベネズエラのゼネストは、このあと一気に収束に向かうことになる。

話は戻るが、キルチネルは本質的には保守系の政治家である。ただ次の三点は革新派もおよばないほどの強い信念を持っている。

第一にに反IMFである。IMFというが、アルゼンチン国民にとってIMFも世界銀行も変わりはない。国際金融機関の装いはとっているが、正体はアメリカ財務省である。軍事独裁時代の借金を高金利で膨らませ、国家の財産を身ぐるみはがし、国民を失業と貧困の渦中に突き落とし、とるものがなくなると、「自己責任だ」といって突き放す。

第二反軍事独裁である。彼自身が学生時代に投獄された経験を持っている。しかし最大の理由は軍事政権がアルゼンチン国民に塗炭の苦しみを味わせた対外債務を作り出したことにある。

第三に軍と癒着し、アメリカと癒着し、国を売った既成政治家と、国民を犠牲にして恥じない旧支配層である。デラルア大統領を追い出したデモのスローガンは「みんな出て行け!」であった。恐ろしくアナーキーなスローガンではあるが、当時の民衆の気分をこれだけ的確に表現したスローガンはない。

このなかでもっとも大事なのが、第二の視点である。IMFや既成政治家は目の前にいるから誰でも分かるが、軍事独裁政権についてはすでに30年近く前の話である。しかも軍事政権時代にその恩恵をこうむった人々もいるし、反軍政を唱えたゲリラが国民の支持を受けているわけでもない。

しかし肝腎なことは、いまの経済危機を軍政にさかのぼって構造化することである。そのことにより初めて、経済再建の問題と政治の民主化の課題が切り離しがたく結びついていることが理解できる。そこを抑えているからこそ、キルチネルの政策は一見過激で大衆迎合に見えても、根本のところで揺るがないのであろう。

30年にわたるアルゼンチンの貧困化
第一次軍政が終了した1971年と比較して,
①対外債務は76億ドルから1300億ドルに増加,
②失業率は3%から20%に増加,
③極貧層は20万人から500万人に,貧困層は100万人から1400万人に増える.ちなみにアルゼンチン総人口は3700万人.
非識字率は2%から12%に,機能的非識字率は5%から32%に増加.
これに対し,政治家,組合幹部,企業経営者が国外に移した資産は,総額1200億ドルにのぼる.

シャキーラがアントニオ ・デ・ラ・ルアと離婚した、とのニュースが流れた。ルアはデ・ラ・ルア元大統領の長男で、弁護士としてもマドンナやU2などの契約を仕切る大物。昨年8月には既に別れていたという。

そんなことはどうでもよいが、興味を引いたのは彼らが11年も付き合っていたということ。11年前、デラルアはまだ大統領だった。2001年の末、クリスマスを控えた12月20日ブエノス市内は騒乱状態となり、デラルアは刀折れ矢尽き、午後7時半、群衆に取り囲まれた大統領官邸からヘリコプターで脱出した.そして夜の9時、上院議長に辞表を提出したあと国外に飛び立った。

群衆は「みんな出て行け、一人も残るな!」(Que se vayan todos、Que no se quede ni uno )とのシュプレヒコールを繰り返した。

それは、ネオリベラリズムがアルゼンチンのような“大国”をさえ食いつぶす力を持つ怪物へと成長したことを示す、象徴的な出来事だった。アルゼンチンは破産し、立ち直るすべを失った。

しかし翌年5月に大統領となったキルチネルの下で、アルゼンチンはIMFに頼らずに国家を再建する道を選び、それに成功した。したがって2001年はラテンアメリカがアメリカとIMFの支配を拒否し、自力復興の方向に歩み始める上での画期的な年ともなった。

あまり日本では知られていないが、ラテンアメリカは98年と02年の二回アメリカ・IMFの必殺パンチを受けている。98年のパンチはテキーラ・ショックと呼ばれている。これの原因は二つある。ひとつはNAFTA後に国内経済が壊滅し経済危機に陥ったメキシコを震源として、パニックがラテンアメリカ全体に波及したことである。

この第一波の津波は各国とも辛うじて切り抜けた。その後この津波は東南アジアを襲い、中国や日本までも含めて深刻な経済危機をもたらした。その後津波はロシアを襲った。ここでパニックは攻守ところを変えた。東南アジア金融危機においてはヘッジファンドが仕掛け人だった。ところがルーブル危機の場合は欧米資本がかなりの資金を投資していたため、自らの放った火の粉が自らに降りかかってくる結果となった。

資金繰りに窮したヘッジ・ファンドや米証券会社は対ラテンアメリカ債権を現金化することで資金を充当しようとした。そもそも米政府の財務・商務トップは証券会社トップの横すべりである。米財務省はこれを支援するためにIMFの機能を最大限活用しようと図った。

これが地球を一周して戻ってきたテキーラ・ショックの第二波である。とりわけ攻撃が集中したのがブラジルだった。当時ようやく軍事政権時代の経済的混乱を正常化し、回復に向かおうとしていたブラジル経済は、債務の厳しい取り立てを受け、木の葉のように翻弄された。しかしほとんど破産しかかったブラジルは、最後に「潰すには大きすぎる」との米政府の判断で救済された。ヘッジファンドの送り込んだスタッフがブラジル政府の主要財政ポストを握るという条件付だった。

しかし同じように取立てを受けたアルゼンチンは、「どうでもよい国」との扱いを受け、それが最終的破綻へと後押ししたのである。

その象徴的な出来事が10月に起きている。アルゼンチンのカバージョ経済相が、金策のためニューヨークを訪問した.しかしIMFも米財務省も、面会予定がないという理由で会談を拒否した。ていの良い門前払いである.
カバージョといえばかつてドル化政策を導入し、アメリカから救国の英雄とたたえられた人物である。私はこれを「カノッサの屈辱」にたとえたい。


6月29日の記事で、中国とベトナムの南シナ海での紛争が解決の方向に向かい始めたと書いた。その後、フィリピンとの交渉なども始まり、事態は改善しつつあるものと考えていた。
その矢先の7月5日、中国海軍の艦船がベトナムの漁船を漁場から強制的に排除する事件が発生した。AFPの報道によると南シナ海で操業中のベトナム漁船に中国艦船が近づき、魚を差し押さえた上、漁場から連れ出したというもの。
情報の内容からして出所がベトナム側であることは明らか、報道が事件から10日たってからのものであることから、ベトナム側はさまざまな判断の上、この情報をリークしたものと見られる。
中身の異常さもさることながら、党レベルでの合意が軍によって破られたことに強い違和感を覚える。たとえ民主主義の内容やレベルに問題があるとはいえ、党・軍・政府の団結と統制が健在である点で、私たちは中国に対する信頼を構築してきている。党の方針が軍に貫徹しない状況になるなら、それは即中国の政治体制の危機である。
汚職・腐敗もたしかに深刻な問題であるが、東シナ海での石油掘削の事故を隠蔽したこともふくめ、中国の「内向き体質」が強まっているのではないか、鄧小平路線の否定的側面が復活・強化されているのではないか、と心配である。

ラフマニノフの前奏曲ト短調という曲がある。作品番号は23の第5.
YOUTUBEで何気なしに集めてみたら15種類も演奏があった。何となしに聞いてみたが、そんなに良い曲だとは思えない。こけおどし的なところがあって、コンサートで聴けばそのすさまじい音量で圧倒されるかもしれない。とにかく難しい曲だということは分かった。ひとつもミスタッチなしに弾いている人は誰もいない。とくにライブの演奏はほとんど聞くに堪えないほどのものもある。
聴いた順にいくと
1.ベレゾフスキー   やたらと好きな人がいるらしく大量にアップロードされている。ほとんどがロシアのテレビのエアチェックのようだが音質はひどい。この曲の演奏はあまりのミスタッチの多さにメロディーラインさえはっきりしない。
2.ガブリーロフ これもベレゾフスキーと似たり寄ったり。ロシア風のぺたぺた、べしょべしょのタッチだから、救いようがない。
3.ランラン 最初から遅めのテンポで間違いなく弾いている。しかし遅さに理由がなく、メロディーに不自然なアクセントをつけている。たぶんラフマニノフは好きではないのだろう。
4.キーシン コンサートのアンコールで弾いたライブ録音で、正直手抜き演奏。
5.アシュケナージ いまとなっては音が古い。間接音の多いくぐもった録音だ。むかしはこれを、「さすがはデッカ」といって伏し拝んで拝聴したことが懐かしい。ミスタッチは目立たないが、録音テープをつなぎまくっているのだろう、迫力もない。
6.リヒテル なぜリヒテルがヤマハなのか良く分からない。リヒテルの弾くピアノからはピアノの音がしない。札幌のコンサートでは大枚1万円を払って寝ていた。さすがにミスタッチはほとんどない。
7.ベルマン スタジオ録音ではこれが一番だ。一発どりのようでミスタッチもあるが、メロディーラインがすっきりと流れて聴きやすい。安心して身を任せられる演奏である。ただし器は小さい。
8.バレンティナ・リシツァ ソウルのコンサートの録音。コンチェルトのあとのアンコール演奏のようだ。アンコールとは言え相当力が入っている。前半は快調、乗っている。前半だけなら十点満点。ところが中間部の後ろで右手と左手が合わなくなってしまった。そのまま後半のクライマックスに突入していくが、しどろもどろ。最後に終わったときは「無事で良かったね」と拍手。
9.ホロヴィッツ これは良い。ラフマニノフを聴いている気がする。所々にホロヴィッツの独特のキラリが光る。ミスタッチも相当なものだが、終わった後に盛大な拍手があって、「えっ、これってライブだったの」とびっくりした。メトロポリタンでのコンサートとのクレジットがある。
10.ユリアナ・アヴデーバ これは掘り出し物。隠しどりの映像で、「わが子の発表会」を録画したのかと思ったが、何のなんのすごい演奏だ。ミスタッチは少なからずあるが破綻はしていない。しかもピアノが鳴り響いている。メロディーもくっきり浮かび上がり、さすがにホロヴィッツほどには芸術の香りは匂い立たないが技術は一番だ。クレジットを見るとパリのコルトー・ホールでのリサイタル、ピアノはヤマハ。


*ネットで検索したら、正確にはユリアンナ・アブデーエワというのだそうだ。去年のショパンコンクールの優勝者。さすがにうまいわけだ。タッチが深くロシアっぽくないが、最近はロシアも変わってきたのだろうか。ヤマハはショパンコンクールの前から先物買いでスポンサーになっているようだ。

*リシツァは音だけで聴いたときと画像つきで見るのとはだいぶ印象が違う。見事に弾ききってるようにさえ見える。それにしても大女だ。手の大きいことラフマニノフばり。音も大きいが、やはりロシア風のタッチで粒立ちは悪い。快速球ではなく剛球投手だ。
それにしても、こういう風に弾いちゃったらつまらない曲だ。

*驚いた。ベルマンの演奏は79年、ミラノのコンサートでのライブ録音なのだそうだ。ほとんど完全無欠。しかし味はない。音色もさえない。一世を風靡したソ連の「名演奏家」で芸術の香りがするのはギレリスのみ。(そういえばアシュケナージも良かった)

というわけでバリバリを聴きたければアブデーエワ、ミスタッチが気にならなければホロヴィッツというのがお勧めどころです。

安全のコストについての文章が舌足らずになっています。さらに書き込むのも面倒なので、09年11月に書いた更進記録を転載します。

  健康という言葉はきわめて多義的でそのとき、その人の思いによってニュアンスが随分変わって来ます。最大公約数で言えば、健康とは「不健康」でないという意味の形容詞です.「正常」とか「健常」と読み変えることも出来ます。
  「健康診断書」を書くときにいつも困るのですが、一通りの問診や診察、若干の検査結果を見て、「健康である」と診断するのは躊躇します。診断書では「健康 である」とはせず、「異常を認めない」と記載することが多いのですが、世間では「それを健康である」と書いてほしいといってくるのです。「それで良いじゃ ん」ということです。「無病息災」ということですね。
 これが健康に対する日本人の通念ですが、英語のヘルスというのはかなりニュアンスが違って いて、ヘルスというのはかなり意識的に作り出すものという感覚があります。風土の違いがあるのでしょうか、人間というのは放っとけば不健康になってしまう ので、絶えず健康でいられるように努力しなければならないという考えがあるようです。
 戦後教育の一環として「保健・体育」という教科がアメリカ から持ち込まれました。体育の先生といえば暴力団風の感じのいかついおっさんで、それが週1回、ジャージー姿で教室にやってきて、いかにも窮屈そうに「か らだの仕組み」とかの授業をやるのですが、まじめに聞いている生徒などあまりいませんでした。でも高校入試のときは受験科目の一つなので、それなりに参考 書に赤線を引いた記憶があります。昨今はどうなっているのでしょうか?
 余談はさておき、アメリカ人の心の中では、保健という活動と、体育という活動は一本線で結ばれているのです。体を育てる活動と同様に、健康も育てるものであって、たんに守るべきものではありません。健康という状況は自らが主体的に作り上げるべきものととらえられているのです。
  これに対し、日本では健康は一つの生得的な所与と考えられています。人間は放っとけば健康なのであって、それを不健康な生活をして壊してしまうから不健康 になってしまうという風に考えます。これは水に対する考えと似ていて、日本では「水は天からもらい水」なのに、他の多くの国では「水は苦労の末に獲得すべ き貴重な社会的資源」なのです。
 もっと話を膨らませると、結局健康に対する考え方は水に対する考え方によって規定されているのかもしれません。 人間の体の90%は水からできているわけですから、その水をどこからどのように獲得して来るかというのは、人間が自己を物理的に維持する上で決定的な条件 となります。水を獲得するのが困難なほどそれは社会組織の発達を促します。したがってその延長上にある健康・保健のとらえ方も社会的ニュアンスを帯びてき ます。

ということで書いていますが、この健康というところを安全という言葉に置き換えればそのまま通用するでしょう。安全は守るべきものではなく、社会の力で作り出していくべきもの、育てていくべきものなのです。したがってそれにはかなりのコストが必要なのです。それを電力料金の値上げという形でまかなうか、節電という努力でまかなうかということになります。
ただ、今の日本では、それだけではすみそうにありません。米倉会長や葛西会長をはじめとする「安全ぼけ」で「欲ぼけ」の財界と闘うというコストがそれに上乗せされるでしょう。

自販機の記事を書いていて思ったのだが、日本は本当に安全な国である。外国なら自販機の半分はぶっ壊されるだろう。自販機は利の薄い商売だから、とても持たない。
よく右翼が憲法改悪=交戦権実現を持ち出すとき、「護憲論者は“平和ぼけ”だ」と言うが、平和ぼけはむしろ右翼のほうではないだろうか。あまりにも安易だ。戦争というもののもつ、不条理で有無を言わせぬ絶対的な怖さを感じていれば、もう少しぎりぎりまで平和でがんばるはずだ。
同じように、これだけの原発事故があってもまだ原発続けますとか、原発はコストが安いと考えるのは「安全ボケ」だ。もちろん作られた原発安全神話があり、国民がそれに乗せられていたというのが主要な問題ではあるが、神武のむかしより「水と安全はタダ」という経験に裏付けられた牢固たる信念もあるのではないか。
ことは原発だけではない。戦後の数年間を除けば日本は他国に侵略されたり占領されたりした経験を持たない。天然の「独立ぼけ」である。だから今も事実上の半占領状態に置かれている沖縄県民に対して、「お国のためにがんばれ」としかいえないのである。

赤旗文化面にデュラン・れい子さんというエッセイストが、日仏の文化の違いを書いている。その中で次のように自販機について触れている。

日本の自販機の設置台数は560万台、1台で家庭の電力消費量と同じだといわれています。

ちょっと気になったので、ネットで調べてみた。冷/温機能つきの販売機(おそらく一番使用電力が高いタイプ)について下記の記載があった。

自動販売機の消費電力と電気代
総容量1.2kWの自動販売機群(定格消費電力600Wの飲料用自動販売機×2台など)を24時間フル運転した場合、1.2kW × 24時間 × 30日 = 864kWh の消費電力が、月あたりに発生します。

これは、自宅付近に自販機を設置したいという人のためのアドバイスのページのようだ。この計算だと1台で月432キロワット・時、年間5千キロワット時というところ。相当なものだ。

ところが総合資源エネルギー調査会省エネルギー基準部会 自動販売機判断基準小委員会 最終取りまとめ という大変長たらしい名前の文書には、下記の表が掲載されている。

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これで見ると5000キロワット・時どころか半分以下の2,200キロワット時だ。ただこれはあまりに低すぎる。2200/365/24だと250ワットになってしまう。いったい自販機の消費電力はいくらくらいなのか。

台数もデュラン・玲子さんの示した数字とはだいぶ違っている。電力を食う飲料や食品自動販売機は280万台程度、他すべてを合わせても434万台に留まる。

顰蹙を買った石原都知事の発言

自販機の消費電力については腹立たしい「論争」があった。
石原慎太郎都知事が4月11日、当選直後の会見で「パチンコや自動販売機で余計な電力を喰うことで日本の経済を疲弊させる」と述べた。さらに15日にはこのふたつの業界に自粛を求め、政令の導入さえも匂わせた。

その根拠は「一日に使用される電力はパチンコが450万kW、自動販売機も450万kW。福島第一、第二原発の発電量(900万kW)とほぼ同じだ」というもの。

ところが、この「電力450万kW」発言はでたらめの数字だった。日本自動販売機工業会によると「自販機1台の消費電力は300ワットほど」。東電管区内の自販機台数は85万台(全国清涼飲料工業会)ということから、単純計算すると自販機の電力消費量は25万5千kWに過ぎない。(パチンコのほうは省略)

人品卑しい石原慎太郎らしい行動だ。やっつけても大丈夫そうな相手を見つけて、彼らをいじめることで巨悪に対する怒りをそらそうという意図が見えすいている。関東大震災のときの朝鮮人狩りと同じだ。しかもとんでもないデマを飛ばしても恬として恥じる気配がない。こんな男に投票した東京都民は全員福島に移り住んでもらうべきだ。

しかし、とりあえずここで言いたいのはそういうことではない。「自販機1台の消費電力は300ワットほど」ということで、250ワットもあながちウソではない。

2000年以前の自販機はかなり電力を消費したようだが、2005年ころから改良されて、約半分にまで軽減されているようだ。家庭一軒あたりの消費量と同じというのは、以前のデータなのかもしれない。

省エネが進んでいる

ウソか本当か知らないが、自販機工業協会はとんでもない数字を出している。こういう日本人が、私は嫌いではない。

省エネ法の特定機器に指定された缶・ボトル飲料、紙容器飲料、カップ式飲料自販機は、2005年度出荷機の消費電力量を基準として、2012年度までに業界平均で、次のように低減させることにしました。

指定品目別目標値
缶・ボトル飲料自販機1台当たりの消費電力量を36.3%低減
紙容器飲料自販機1台当たりの消費電力量を27.0%低減
カップ式飲料自販機1台当たりの消費電力量を17.9%低減

この目標がどう達成されたかがグラフで表示されています。


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一世帯あたり消費電力

これは1ヶ月あたりなので、12をかけると3400キロワット時になる。自販機に直すと1.5台分だ。ただ世帯構成員数が急速に減っているので、たとえば一家4人の標準世帯では年間4千キロワット時を超えるというのが相場のようである。

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日本人はサービス精神が旺盛だが、ほとんどマニアックなほどの工夫好き、そして倹約が大好きな国民でもある。だから自販機も、もっと消費電力が減っていく可能性もある。
わたしは外国の暮らしをうらやましいとは思わない。自販機は社会の安全の証しでもある。自販機のある風景は、安全の風景である。街角から自販機が消える日に来てもらいたくもない。「贅沢は素敵なのだ」

原賠法の審議が本格的に始まった。
共産党高橋議員の質問を紹介する。
*東電は請求相手に「立証責任は被害者が行うのが原則」とし、21枚の書類を求め支払いを遅らせている。これまでの仮払額はわずか1064億円、事態に対しあまりにも遅い。相手企業がつぶれるのを待っているのでは?
*6月14日閣議決定で、国は東電を債務超過としないため、「上限を設けず」「何度でも援助する」ことになっており、これでは東電がリストラを実行する担保がない。海江田大臣は「リストラをしっかりやるよういっている」との答弁。
*法案には2兆円の国債を用いて東電に投入することを盛り込んだ。しかも無利子で金利分200億円は国民負担となる。
*東電本体以外の賠償責任がまったく問われていない。必要なのは電力事業の維持であって、債権者の保護ではない。三大メガバンクの債権だけで2兆円の残高がある。これを放棄させれば2兆円の国債はその限りでチャラだ。

当事者のあいだに誠意が感じられないようなら、破綻処理は依然として選択肢だ。せめてそのくらいのことは言えよ、海江田さん!

殺人と過失致死、どこが違うのか。人が死んでしまったわけで、人の命の重さはどちらにしても変わりはない。
両者の違いは加害者の意識の問題だ。ともに悪意はある。片方は殺意であるのに対し他方は未必の故意だ。ただこの未必の故意には相当の幅がある。この場合、個別の案件にしたがって故意の程度が議論の対象になる。
この場合の違いは、本人の意識ではなく、その故意がどのような結果をもたらしうるかという、予想結果の重大性に評価が移っていく。
その観点から考えると原発の事故は、放射能という異形の被害をもたらす点で未必の故意が厳しく問われることになる。
ただ水をさすようで申し訳ないのだが、未必の故意と殺意は、その対処法はまったく異なる。過失致死に対して最高刑はありえない。原発の場合はあくまでも国民の合意に基づいて進めるべきだろう。
しかし殺人事件ではその殺意が厳しく問われる。介護に疲れた夫が妻を殺して後追い自殺というような、情状酌量の余地が大いにある事件であっても、殺意という一点で、加害者は許されないのである。
誤解を恐れずに言うなら、殺人(大量かつ無差別・無制限の)を目的にした核兵器に対しては死刑宣告しかありえない。この点は死刑廃止論者も異論はないだろう。

*哲学的な記述が延々と続くが割愛。
*貨幣について: 貨幣は資本が実存するよりも前、銀行が実存するよりも前、賃労働が実存するよりも前から存在していた。なぜなら貨幣は単純な範疇であり、さまざまな段階の社会諸関係を表現できるからである。
いっぽうインカ帝国では協業、分業など高度な経済形態が生じているが、なんらの貨幣も存在していない。スラブの共同体では、共同体内部では貨幣は出現せず、その境界において、ほかの共同体との交易でのみ現れた。ローマ帝国では、その最大の発展の時代にあっても、現物税と現物給付が基礎となっていた。貨幣制度は軍隊の中でのみ完全に発達していた。

*過去の経済学のマルクスによる回顧と一口評
重金主義は富をたんなる物象として、貨幣の形で措定している。これに対し重商主義は富の源泉を商業活動に求めた。これは一大進歩であったが、この活動自体は金儲けという限定された目的で把握されていたに過ぎなかった。重農主義は労働の一定の形態である農業を富を創造するものとして措定し、富そのものについても貨幣という仮装ではなく、生産物一般として、労働の一般的成果として措定している。しかし重農主義は、農業に生産活動を限定することによって、富の源泉を労働生産物ではなく「土地生産物」と混同してしまった。富を生む活動のいずれの規定性も捨て去ったのはアダム・スミスの巨大な進歩であった。この移行がどんなに困難であり、また偉大なものであったかは、アダム・スミス自身が、なお時折、重農主義に逆戻りしていることからも分かる。

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