鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

(45)酒宴の一夜 (Una Noche De Garufa)

HPでは「知らない曲だったのですが、録音が余りにも良いのでつい聞いてしまいます」と書いています。これはキンテート・ピリンチョの演奏のことです。

UNA NOCHE DE GARUFA

こちらはサッソーネ楽団の演奏。親父ギャクではないが颯爽としています。

una noche de garufa-carlos di sarli


録音が悪いせいもあって、ちょっと冴えませんね。

youtubeにはこれしかありません。ピリンチョもありません。さびしい限りです。

(46)ミロンガのすすり泣くとき (Cuando Llora La Milonga)

HP: この演奏(ロドルフォ・ビアジ楽団)は、まさに掘り出し物です。「すすり泣き」といっても日本人の泣き方とはぜんぜん違います。この演奏については、石川さんの紹介にも載っていないし、「めったに歌われないが歌詞もある」というその歌がついているのも価値があります。

Bandoneon Homenaje al Maestro Marcos Madrigal "Cuando llora la milonga" Tango

ビアジ楽団の演奏はありませんが、代わりにこれがよい演奏です。楽団名は良くわかりません。

CUANDO LLORA LA MILONGA

サッソーネ楽団の演奏で、無難な演奏で音もそれなりに良くて、一応お勧め版です。

CUANDO LLORA LA MILONGA

と言いつつ、ガルデルも歌っています。

Bandoneon Tango "Cuando LLora la Milonga" Hugo del Carril

くせがあってあまり好きになれない演奏です。

Francisco Lomuto - Cuando Llora La Milonga - Tango

古い録音で、あえて取り上げるほどの演奏ではなさそうです。



http://www.yorku.ca/robarts/projects/wto/pdf/apd_ito.pdf

国際貿易機構(ITO) その短かくもあでやかな生涯

自由貿易と完全雇用は友か、永遠の敵か?

ダニエル・ドラチェ

The Short But Amazingly Significant Life of the International Trade Organization (ITO)

Free Trade and Full Employment: Friends or Foes Forever?

Daniel Drache, Director, Robarts Centre for Canadian Studies,

York University, Toronto Canada

要約

世界銀行とIMFと一緒に、国際貿易組織(ITO)は、40年代後半に戦後の新国際的組織の中核を形成した。

世界はそのとき、貿易・雇用・開発のためにふたたび歩み始めたばかりだった。そこでは規範となるべき多くの斬新な考えが打ち出された。それは特にITOのハバナ憲章において顕著であった。

現在のWTOはITOの後身にあたる機構だが、本質的には異なっている。ITOはWTOに比べ重要な特徴を持っている。それはWTOのように貿易のみを、あるいは主として貿易をあつかう組織ではないということである。

そのコアとなる部分で、ITOは「世界の諸国は、国際的な貿易、開発を進めようとするなら、雇用の基準や国内政策との間に隔壁を設け、維持することは不可能だ」と宣言した。

その最も際立った特徴は、従来の貿易障壁を減らす野心的な計画の統合であった。それは投資、雇用基準、開発、独占企業問題など広範囲な問題に取り組み、議論し、合意した。

「貿易と関税に関する一般協定」(GATT)は ITOのフレームワークの一部として交渉され合意されたものである。それはITOの多くの成果の一つである。

さらに、ITOは開かれた世界貿易秩序を創設した。憲章はまた国際労働基準の重要性と南の諸国の発達の必要を認めた。

その他にも成果があった。ITOは貿易摩擦が法律の力より、協議と調停によって解決されなければならないという考えを打ち出した。

最後に、ITOは貿易秩序と労働基準の間の組織化されたつながりを確立した。それは世界的な統治の大きな進歩を生じている。

これらの成果にもかかわらず、そして政府が憲章に署名したにもかかわらず、米国議会はハバナ憲章を批准することを拒否した。

ITOは、貿易諸原則の再構築にあたり、国際的な雇用保障を重要な基準としてふくませることに成功した。それは多国間主義の基礎として位置づけられた。そして完全雇用義務が、「自由市場への傾倒」の思想とともに、憲章の核心として盛り込まれた。

ITOの崩壊は、直接の結果として、国際的に完全雇用時代の決定的な終了を意味した。結局は、その終焉が自由市場に偏った自由貿易規範の迅速な席巻を可能にしたことになる。

その「自由貿易」の規範は、その後徐々にその権威とイデオロギーを全ての国際的組織に押し付け、多国間主義の展開に対して立ちはだかるようになった。

本文書は、ハバナ憲章とITOの計画の妥当性を調べることを目的とする。たとえ明らかな欠点があるとしてもその歴史は非常に魅力的である。、

ハバナ憲章は政府、経済学者と普通の人々が捜し求めてきた道に光を投じる。彼らは新しくより強力な国際経済を建設しようとした。そして雇用の目標と開発のために必要なものがお互いに強めあうべきだと考えていた。

(43)ラ・ジュンバ  (La Yumba)

石川さんによると、ラ・ジュンバとは「タンゴのリズムの擬声語」のことだそうです。これだけバイオリンを打楽器扱いされると、バイオリニストは腹が立ってくるのではないでしょうか。レコードで聞くのと実際に生で聞く印象は相当違うかも知れません。

Osvaldo Pugliese - La Yumba

120番目でようやく見つけました。プグリエセのLP版の音源です。他のプグリエセはひどい録音か、“らくだのかんかんのう”で聞くに堪えません。コロール・タンゴの盗み撮りもありますが、手抜き演奏です。

Orquesta Escuela de Tango Emilio Balcarce en Chaillot-Paris 2008 "La Y

パリでのライブ演奏です。大規模な編成ですが、プグリエセ張りのスタッカートが効いています。

La yumba

これはしっとりとした演奏で意外と掘り出し物です。Denis Plante plays Pugliese's Yumba with a string quartet というクレジットが入っています。

La yumba - Ernesto Baffa.wmv

これも掘り出し物、といっては天下のバッファに対して失礼か。古きよき時代のタンゴのにおいがする。プグリエセやピアソラなんてタンゴじゃないよ、とつぶやいているのが聞こえるようだ。

"la yumba" por Quinteto Bordonero

バンドネオン、バイオリン、コントラバスにギター二挺という変わった編成のグループだ。ピアノは無しで、ちょっと古風な響きがする。腕は一流だ。コントラバス叩きの名人技もしっかりとやっている。

(44)エントレリオスの人 (El Entrerriano)

HP: エントレリアーノといえばアニバル・トロイロが定番だが、ピリンチョの演奏は、さまざまな旋律をくっきりと浮かび上がらせ、この曲の隠れた良さを引き出していると思います。トロイロの演奏ももう少し録音が良いと対旋律や低音部の流れが分かるのでしょうが。

EL ENTRERRIANO.wmv

これがカナロのキンテート・ピリンチョによる演奏。トロイロ楽団の演奏はアップロードされていない。

Beltango & Carlos Buono - El Entrerriano

カルロス・ブオノの演奏だが、えらく端折った演奏だ。

ORQUESTA OSVALDO FRESEDO - EL ENTRERIANO - TANGO

悪くはないが、なにせ1927年の録音で標準的音源とはいえない。

国際通貨金融制度の改革

ジョセフ・E・スティグリッツ(コロンビア大学教授)

*現状と問題点

クローバルな金融制度が機能していない。為替相場と金利の変動が激しい。とりわけ開発途上国がそのリスクを負わされている。

世界的な金融危機は「メードインアメリカ」である。米国が世界に輸出したもの。

規制緩和や資本市場の自由化が銀行や金融機関のカジノ化をもたらした。欠陥のある金融制度が危機を急速に世界に伝播させる役割を果たした。

*金融危機はなぜ起きたか

①「正しい規制」の排除

大恐慌後の40 年間、恐慌はなかった。その理由は大恐慌の教訓に学んだからである。

強力な金融規制が実施され、急速な成長をもたらした。

批判者たちは、規制は技術革新を押さえつけ経済成長の妨げになると主張する。

「これは全くバカげた主張です。正しい規制は経済を刺激し、安定と技術革新を促進するものなのです」

②金融部門のインセンティブの一人歩き

市場経済を機能させる中心的課題は、民間のインセンティブを社会的利益に合わせること。

しかし、金融部門のインセンティブと社会的利益の間には大きな格差があります。

金融部門のインセンティブの一人歩きは、過大なリスクテイクや近視眼的な行動をもたらした。

技術革新は、最大利益の獲得に向けられ、経済をうまく機能させるためのルールを弱体化させた。経済成長やリスク管理の高度化にプラスの効果があったものはほとんどない。

③過少投資(investment dearth)、もしくは過剰貯蓄(savings glut)

為替市場の高い変動性は結果として外貨準備の大幅増加を引き起こす。各国は、所得を支出することよりも貯蓄するほうに向かう。

各国は、十分な外貨準備がなければIMFの政策により経済主権を脅かされ、経済社会に悪影響を及ぼすことを学んだ。

その結果、貯蓄を貧困対策や地球温暖化問題に対処するために使用出来なかった。巨額の外貨準備は世界的な総需要を弱めた。

「節約のパラドックス」と呼ばれる現象が起きている。貯蓄マネーは米国の住宅バブルに入っていき、莫大な金額が浪費された。

貯蓄を本来すべきでない国が貯蓄し、浪費を本来すべきでない国が浪費している。

*世界経済が直面する当面重要な問題

①アメリカの過剰消費

世界的不均衡の一部はもちろん米国の過剰消費によるものであり、ドルが基軸通貨であることで促進された。

世界経済を支えてきたのは米国の旺盛な消費でした。その日は過ぎ去りました。二度とふたたび帰ってこないでしょう。

②他の諸国の過剰貯蓄

世界の総需要の弱さは黒字国の予防的な外貨準備積み上げがその主因となっている。

しかし、準備を積み上げればその国は守られるが、世界的には需要不足をもたらすという合併症を伴う。

ケインズは、黒字国が消費しないことが世界的な総需要不足の一因であると強調しました。不幸なことに、これは今後も長期にわたって直面する問題です。

*過剰貯蓄の理由

①投機資金からの防衛 準備を積み上げる最大の理由はグローバルな変動性に対抗するためである。

③輸出主導の成長路線も外貨準備積み上げをもたらす

③資源輸出国の慎重姿勢: 石油価格や天然資源価格の高騰で潤っている資源輸出国は、当然のこととしてまさかの時に備えて十分な貯蓄を持とうとする。最近の商品相場の乱高下はいっそうその姿勢を強めさせている。

④米国の家計貯蓄率も高まるだろう 

家計貯蓄率が高水準となり、政府の赤字削減が起こるにつれ、世界的な総需要が弱くなる。さらに、危機により「予備的準備」への需要が強まる。


*スティグリッツによる解決策の提案

①世界の金融規制制度の改革

当面絶望的。まずは国内規制を。

②世界の準備制度の改革

今後ドルに過度に依存した準備制度に戻っていくとは考えられないが、二つか三つの通貨による制度は、ドル基軸体制よりも一層不安定なものになる。

だからこそ世界的な準備制度を作ることが必要と考えるのです。

これ自体は古い考えであり、ケインズが約75 年前に述べました。おそらくその考えがようやく日の目を見るときがきたといえるでしょう。

③世界の需要を満たすための貯蓄の還流メカニズム

必要とされるのは、明らかにもっと多くの投資を行うことです。危機以前の世界の金融市場はこれに失敗し、資金は結局非生産的使用に回されてしまいました。

よりよい世界の金融制度を作るにあたっての課題はまさにこの問題に対処することなのです。

出所

ポストクライシスの国際通貨体制を考える
~基軸通貨の将来像とアジアの使命~

国際通貨研究所 

「過剰貯蓄が不景気を招く」といっても、別に私たち庶民の話ではない。
スティグリッツが今日の世界の危機は総需要の弱さに起因するといっている。
そしてその総需要の弱さは、アメリカのバブルの崩壊もあるが、主要な要因は貿易黒字国の過少消費と過剰貯蓄にあるといっている。
なぜ貿易黒字国が過剰貯蓄に走るのか、それは金融規制緩和と資本自由化のためだという。東南アジアのある国の首相がスティグリッツに語ったという。
「我々は97年、アジア通貨危機という学校にいた。そこで十分な準備をもたないとどうなるかを学んだ。二度とその失敗は繰り返さない」
長期的に見て自由化は必須の課題ではあるが、それは金融ギャングを野放しにする「自由化」ではない。犬やペットの放し飼いを野放しにして自分の家の垣根だけは厳重に戸締りするというのは、結局自分の首も絞めることにつながる。
過剰貯蓄などしなくても安心して暮らせるような金融・通貨システムを作ることが一番大事な話なのである。しかし自分だけが安全に暮らせればよいという富裕国エゴにも、「そんなことをしても所詮共倒れだ」猛反省を促したい。
 

むかし子供の頃、ゲームといえばメンコかビー玉(静岡ではラムネといっていた)、たまにベーゴマという相場だった。
乏しい小遣いの中から、それらを買い溜めてはゲームに参加したものだ。しかしゲームには名人がいて、結局は負けて巻き上げられる。
あまりひどい負け方をすると、名人は可哀そうがってメンコを貸してくれたり、時にはただでくれたりもする。しかし結局なくなることに変わりはない。後は遠巻きに見物するしかない。
こういうことがしばらく続けば、メンコはすべて名人のものとなり、ゲームは成立しなくなり、宝物だったメンコはただの紙屑となる。
他の遊びがはやり始め、メンコは忘れられる。

分かることは、貿易というのはゲームではないということである。ゲームの論理を当てはめるのはとんでもない間違いを犯すことになる。「国際競争力論者」はここが分かっていないようだ。

ITOの理念を表現したハバナ憲章というのがあって、その理念に立ち帰れというのがスーザン・ジョージの主張だ。
しかしハバナ憲章については原文も、その解説もネットでは読めないことがわかった。分かったのはこのハバナ憲章を提案したのも、そしてつぶしたのもアメリカだったということ。GATTはITO構想の先進国に都合の良いところだけをつまみ食いしたエセITOだということだ。

TPPにしてもFTAにしても、WTOが失敗したための個別撃破作戦であることは明白だ。GATTとその後身であるWTOがいかなる点で先進国中心主義であり、それがITOのそもそもの目的といかなる点で背馳しているのかを明らかにすることは、決して懐古趣味ではない。

世界基軸通貨がいま再び現実的な課題となっている。その基盤となる公正・互恵の貿易システムが同じように現実的な課題とならないわけがない。
TPPに反対する運動は、同時に世界のあるべき貿易体制を訴えていかなければならないだろう。ITOハバナ憲章の現代における再検証が、ネットの世界にも登場して欲しい。

バンコールで検索していて下記の論説にヒットした。

ケインズの忘れられた貿易機関構想」 ルモンド国際版の記事でスーザン・ジョージという人が書いている。この人の肩書きはトランスナショナル研究所(アムステルダム)理事長となっている。

この論文は、通貨問題を世界貿易のあり方と結び付けて論じているところに特徴がある。そしてケインズの思いを新しい国際経済秩序の創造ととらえて、その視点から評価しようとしている。ここが日本のエコノミストには見られない姿勢である。

少し論立てを追ってみる。

①ケインズは、1940年代はじめに世界貿易のルールを全面的に作り替える構想を打ち出していた。

②そのために提唱したのが国際貿易機関(ITO)の創設である。

③さらにITOをささえる国際中央銀行として国際清算同盟(ICU)を設ける。

④そしてICUの管理の下に国際貿易の決済通貨となる 「バンコール」を発行する。

スーザン・ジョージはこのようにケインズの計画の全体像を整理する。そして「多少の修正は必要にしても、基本的な部分は今でも十分通用する」との判断を下している。

ついで著者はこの構想にかけたケインズの「思い」に踏み込んでいく。

①戦争勃発の原因は、他の国を出し抜こうとする諸国の貿易政策であり、それによって引き起こされた市場の争奪戦だった。

②いかなる国であっても、市場を独占して膨大な貿易黒字を累積させる行為は許されない。

そしてそのための保障として国際清算同盟(ICU)の仕組みを考えた。だからICUは「理想」を持つ国際機関なのである。ここがIMFとの根本的な違いである。

①ICUは諸国の中央銀行にとっての中央銀行である。三菱UFJやリソナにとって日銀が中央銀行であるように、日銀や連銀にとってICUは中央銀行なのである。

②ICUは各国に当座貸越枠を設定する。ICUの発行する「バンコール」は輸出によって増え、輸入によって減る。

ここまでは中銀対市中銀行の関係と同じだ。ここからが違う。

③各国の当座貸越枠はプラスマイナスがゼロに近い状態になることが目標とされる。一方的な貿易不均衡は争いの元となるからである。

④限度額を超えた場合、超えた分に対して利子を支払わなければならない。すなわち過大な貿易黒字もペナルティーの対象となるのである。

⑤逆に赤字国は平価の切り下げを求められ、輸出品の価格を下げることを義務づけられることとなっている。(しかしこれは変動相場制の下ですでに実施されている)

スーザン・ジョージは、「もしこれが実現されていれば、国際貿易は拡大し、労働者の生活も保障され、より多 くの富がより公平に分配され、国際関係はより平和になり、途上国の発展に向けられる資金も増えていたはずだ」と述べている。

しかし、いまの私にはその結論を素直に飲み込めるほどの素養はない。むしろ「他の国を出し抜こうとする諸国の貿易政策や、それによって引き起こされた市場の争奪戦」という状況がいまだに続いている限り、金融政策だけいじってみても無力ではないか、という思いが強い。

世界貿易のルールを全面的に作り替え、平等・互恵の貿易を保障する国際貿易機関(ITO)を創設する課題が先行し、その制度的保障として基軸通貨問題が浮かび上がってくるという関係なのではないか。

おりしもTPP問題が緊急課題として浮かび上がってきていることもあり、ICUやバンコールよりは、「国際貿易機関」(ITO)の歴史的再評価を行うほうが重要と思われる。(ハバナ宣言というのがあるようでこれから探してみる)

 

09年の3月に中国の周小川人民銀行総裁が発表した「国際通貨体制改革に関する考察」という論文は、中国の経済進出の突出を印象付けるものとして注目されたが、その主要な論点である「SDR基軸通貨」構想にも関心が寄せられている。

周総裁はまず提案の理由を以下のように説明する。

「特定の国の通貨(ドルのこと)が準備通貨として使われる場合、それを発行する国(アメリカのこと)は常に自国の利益を優先させ、その政策により世界経済が不安定化する恐れがある」

つまり、ドルを機軸とする現行のIMFシステムは、アメリカの一国支配のシステムであるから、変更しなくてはならないということである。

主権国家の枠を超えた準備通貨の創出を提案している。具体的に、ドルの代わりに、IMFのSDRを準備通貨にすべきだと主張。

そして以下の項目を提案する

①IMFが構成国の外貨準備(の一部)をSDR建てにして集中管理する

②SDRとその他の通貨との(ドルを介さない)決済の枠組みを確立する。

③SDRの機能を政府間の決済機能に留まらず、国際貿易や金融取引に広げる。

④SDRの価値決定を通貨バスケット方式で決め、その構成通貨に新興国の通貨も加える。

これだけの手立てを踏めば、SDRという抽象的な概念がドルと同じような通貨としての機能を持つようになるというのである。

そもそもSDRという概念が理解できないと、この話はちんぷんかんぷんだが、とりあえず簡単な用語解説を載せておく。


SDR(特別引出し権)とは http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/090430world.htm

SDRとは、加盟国の既存の準備資産を補完するために1969年にIMFが創設した国際準備資産であり、IMFのクォータ(出資金)に 比例して加盟国に配分される。SDRはIMFや一部の国際機関における計算単位として使われており、その価値は主要な国際通貨のバスケット(加重平均)に 基づいて決められる。バスケットの構成は、世界の貿易及び金融取引における各通貨の相対的重要性を反映させるよう、5年ごとに見直されるが、2006年以 降、各構成通貨のウェイトは、ドルが44%、ユーロが34%、円とポンドがそれぞれ11%となっている。


70年のニクソンショックの後は、このSDRがドルに代わる国際通貨になるのではないかともてはやされたが、その後トンと噂を聞かなかった。とどのつまり金の裏づけのなくなったドルが相変わらず国際基軸通貨として大手を振っているのが現状だ。最初に聞いたときは「何をいまさら…」という感じがぬぐえなかった。売れ残った商品を倉庫の奥から引っ張り出して、厚化粧を施してもたぶん売れないだろうと思う。

第一に、SDRは拠出金方式だから拠出できない国には無縁の衆生である。中国が世界の金融システムに割り込むためのトゥールとしては便利かもしれないが。

第二に、IMFそのものが賞味期限が切れかかっている。97年の世界金融危機以来、途上国は短期資金の導入にはきわめて慎重になっている。そしてIMFは先進国の債権保障機関でしかないと見通している。

第三に、信用創出機能がない調整機関では、金融危機には根本的に対処できない、というIMF(世銀もふくめて)の抱える本質的な問題がある。SDRが貨幣であるためには、量的調整や長期信用とのスワップをふくむ発行権の独占が必要である。それが出来ない限りは補助貨幣の位置づけに留まらざるを得ない。


かつて、中国外交の軌跡を辿ったときに感じたのは、中国の国際路線は多極化論と多国間主義のあいだを揺れ動いているということである。90年代まではソ連崩壊後の一極構造から多極化へということで、みずからもその極のひとつとなることを目指した。これが江沢民時代になって、進歩と発展の陣営の一員として集団的に行動する方向を打ち出した。そして非同盟運動の打ち出した多国間主義にかなり接近した。

しかし湖錦湯時代になって明らかに多極化論への回帰が強まっている。そして経済発展を背景に大国の一つとしてのプレゼンスを増し、それを国際社会にも求めている。とくにリーマンショック以降はその傾向が顕著になった印象がある。

09年7月の在外使節会議(大使会議)での胡主席の演説が、この転換を規定している(10月13日付記事とされるが、この周総裁の発言もそういう流れで読むべきかもしれない。

1530年までの歴史は文献による異同があまりに多く、出典を明らかにし、その信頼性をコメントしながらでないと何も言えないほどです。
これはエルサルに限ったことではなく中米史全般について言えることです。

一般にこの手の問題が発生したときはスペイン系の論文は信用できません。好き嫌いは別にして、アメリカ人の書いた文章で、後ろに参考文献や引用がズラーッと並んでいる文章でなければなりません。

ウィキペディアも、一般的に信用することは出来ません。やはり論文としてきちっとしていないとだめです。

私自身がきわめてだらしない性格なので、大きなことは言えませんが、これだけ問題が紛糾すると、出典を明らかにしながら書いていかなければならないと思います。

どんな文献があるのか。

とりあえずエルサルについて各説の比較を行います。

あくまで相対的なものですが、ネットで利用できるものとしては、まずはアメリカ国会図書館の文献が一番たしかだと思います。

まずはこれで年表を起こしてみたいと思います。

つぎにウィキペディアの「エルサルバドルの歴史」の記載を明朝体で追加記載します。

ついでウィキペディアの関連項目の中に埋まっている事項を、1ポイント小さい明朝で追加します。さらにインターネット上の記事で、出所が明らかで、かつ比較的信頼度が高いと判断されるものも、1ポイント小さい明朝で追加します。

最後に、いまとなっては出典不明ながら、私のこれまでのファイルの中に存在する事項を1ポイント小さいゴシックで記載します。

その後、各項目の突き合わせをやります。その結果を注釈としてイタリックで書き込みます。

これがうまく行くようなら、ニカラグア、ホンジュラス、エクアドルにもこの方式を適用したいと思います。

スペイン人による征服以前のエルサルバドル

この地での主要な先住民はピピル(Pipil)族だった。ピピル族はナウア(Nahua)人といわれる遊牧民族のサブグループである。

ナウア人は紀元前3000年頃にメキシコ方面から中央アメリカに移ってきた。そして徐々にマヤ帝国の支配下に入るようになった。

マヤ帝国の支配は9世紀まで続き、その後衰退した。ピピル文化はマヤ帝国の水準までは到達しなかった。

ピピル族の国家は11世紀に登場した。それは二つの連邦に組織されたが、その連邦は小規模な都市国家からなっていた。

これがウィキペディアでは下記のようになる。

現在のエルサルバドルは3つの先住民国家といくつかの小国からなっていた。

東部地域はレンカ国(Lenca)、北部レンパ川上流の地域はマヤ人系のチョルティ(Chorti)国となっていた。

二つをあわせると、エルサルがどういう構造になっていたかが分かる。それはそれでよいのだが、カントリースタデイでは「二つの連邦」の名前が分からない。ウィキペディアではそもそも二つの連邦があったことさえ記載されていない。

当時のエルサルバドルにはピピルPipils族とトシュトゥヒル族が住み,前者は西部グアテマラよりに,後者は東部から南部の海岸部に勢力を持っていた.

これが私の元ファイル。レンカとトシュトゥヒルは同じものをさしている。両者を突き合わせれば、トシュトゥヒル族が建てた国がレンカ国ということになるが…

Lenca で検索するとウィキペディアで Lenca people という項目が出てくる。これは相当詳しい。

レンカは国の名前ではなく「レンカ人」という概念だ。ホンジュラス南東部とエルサル東部に集団として存在している。現人口は約10万人とされているが、スペインの征服により50万人以上が殺されたと推定されている。ホンジュラスの先住民抵抗運動を率いたレンピラがレンカ人の代表。

ということで、レンカ国は存在しなかった可能性が高い。トシュトゥヒルはとりあえず正文からは抹消しておいたほうがよい。なお Ch'orti' は基本的な生活範囲はグアテマラ・ホンジュラス国境地帯で、あえて取り上げる必要はない。

ピピル族は紀元前3千年頃メキシコから南下したトルテカ,ナウアNahua 族の末裔.その後9世紀にはマヤ帝国の支配下に入った.11世紀にはマヤの支配を離れ,クスカトランとアトラカールの二つの連合王国に再編されていた.

二つの連邦国家の名前が出てきた。しかしウィキペディアにはアトラカールという国名はまったく出てこない。存在そのものが怪しい。抵抗運動の指導者アトラカトルと混同したのではないか。

ピピル族は基本的には農耕民族であったが、多くの大きい都市を建設した。その幾つかは、現代の都市に発達している。たとえばソンソナテでありアウアチャパンである。

ピピル族は勇敢な民族であった。南方へと進出を図るスペイン人に対して決然と対抗した。

その最初がペドロ・デ・アルバラードの率いるスペイン軍との闘いだ。

1524年6月、侵入したスペイン軍は大規模な会戦で敗北し、グアテマラへの撤退を余儀なくされた。

ピピル族抵抗のリーダーの名前はアトラカトル(Atlacatl)で、エルサル人の間では伝説上の英雄として扱われている。

次にウィキペディアの Atlacatl の項目

クスカトラン国の軍を率いた英雄。アルバラード軍がアテウアンに到着しアトラカトルに降伏をもとめた。アトラカトルは住民すべてを山にこもらせた上で、アルバラドを待ち受けた。アルバラド軍が山に侵入したとたん四方から攻撃を受け、軍勢は総崩れとなった。かくして7月4日、アルバラド軍は撤退を余儀なくされた。

2年後の26年8月、ゴンサロ・デ・アルバラド(ペドロの親類に当たる)がサンサルに基地を建設。周囲を徐々に制圧した。

最後に28年にディエゴ・デ・アルバラドが総攻撃をかけた。アトラカトルは捕らえられ絞首刑に処せられた。

ここまではさほど問題となることはない。問題は以下の記載である。

8月 いったんグアテマラに戻ったアルバラドは態勢を立て直し再び出撃。ピピルと同盟を結びトシュトゥヒル族を殲滅.

12 アルバラード,ピピル族のクスカトラン,アトラカール両王国を制圧.ピピル族は山岳部に入り抵抗を続けたため,アルバラードはいったんイシュムチにもどり部隊を再編.

これはかなり眉唾である。深手を負ってグアテマラに引き下がったアルバラードがわずか2ヶ月で前線に復帰し、数ヶ月の戦いの末にピピルを制圧したとは考えにくい。翌年になってもアルバラードは戦闘の指揮を腹心にゆだねているのである。

また、ここでもトシュトゥヒル族が出てくるが、文章を素直に読むと、トシュトゥヒルはひとつの国家であり、ピピルの東ではなく西側、グアテマラとクスカトランの間に存在したと考えたほうがよさそうである。

1525年、第二回目の侵入が行われた。そして1528年に3回目の侵入が行われ。エルサルはスペインの手に落ちた。

1525年に、彼は再び侵攻し、メキシコのアウディエンシアの支配の下に置くことに成功した。

2回目の侵攻はペドロ・デ・アルバラードが直接率いたわけではない。誤解を招く表現である。エルサル征服史に登場するアルバラードは4人いる。一人はペドロその人、二人目はゴンサロで、ペドロの親戚とされるがどういう関係かは不明。しかしこのゴンサロがエルサル征服を実際に行った人物である。三人目がディエゴ(ペドロの弟)。この人が28年に征服の総仕上げを行った。そして同じ28年、4人目のホルヘがサンサルの町を再建した。これら4人の関係については諸説紛々で、追究するのがあほらしくなってしまう。

アルバラードは、この地域をエル・サルバドルと名づけ、最初の知事となり、1541年に死亡するまでその地位にあった。

混乱の最大の元が見つかりました。

下記のサイトはワシントンのエルサル大使館のホームページです。ここにHistory of El Salvador というページがあるのですが、これが間違いだらけなのです。

http://www.elsalvador.org/embajadas/eeuu/home.nsf/

29a8e24e84ab372085256af80057bb56/

6da61722b49b5a3785256b09006eb2b5?OpenDocument

24年6月にペドロがクスカトランに侵攻したというのはいいのですが、17日間の血戦のすえ、アトラカトルは戦死、アルバラドも負傷しグアテマラに撤退、と記載されています。

そして弟のゴンサロが戦闘を継続。いとこのディエゴが25年の4月にサンサルを建設したとあります。そしてサンサルの地をスチトト市の近くのラ・ベルムーダと呼ばれる場所だったと書いています。

この記載はきわめてユニークなもので、他の記事とも矛盾が多いものです。正確な記載を要求したほうがよいかもしれません。

観光案内を見ると、どうもラ・ベルムーダは関係のない記載のようです。28年に再建されたサンサルは現在はシウダ・ビエハと呼ばれるところです。その前25年に建設された場所は、いまはどこか分からないようです。

ラベルムーダには建国直後に作られたアシェンダがあってそこも観光名所になっているようです。

「郵便ポストが赤いのも…」が柳亭痴楽のせりふなのかがどうも確証がつかめなくて、ネット漁りをしていた。

そこで坂口安吾の「“歌笑”文化」という一文に出会った。中央公論の昭和25年8月号に載ったエッセイである。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43193_22385.html

柳亭痴楽の兄貴分に当たる三遊亭歌笑という落語家がいて一世を風靡した。しかし進駐軍のジープにはねられてあっけなく死んでしまった。その死を悼む文章なのだが、どうも褒めているのか貶しているのかわからない文章である。

しかし歌笑をだしにして、芸術家気取りの落語家や通ぶった客を、これでもかこれでもかと罵倒するあたりは実に痛快である。


落語家が、歌笑をさして漫談屋だとか、邪道だというのは滑稽千万で、落語の邪道なんてものがあるものか。落語そのものが邪道なのだ。

落語が、その発生の当初においては、今日の歌笑や、ストリップや、ジャズと同じようなパンパン的現実のもので、一向に通でも粋でもなく、恐らく当時の粋や通の老人連からイヤがられた存在であったろうと思う。

大衆の中に生きている芸術は、常に時代的で、世俗的で、俗悪であり、粋や通という時代から取り残された半可通からはイヤがられる存在にきまったものだ。

それが次第に単に型として伝承するうちに、時代的な関心や感覚を全部的に失って、その失ったことによって、時代的でない人間から通だとか粋だとかアベコベにいわれるようになった畸型児なのである。

だいたい庶民性をまったく離れて、骸骨だけの畸形児となった落語のようなものから、けっして一流の芸術家は現れない。一流たるべき人間は、はじめから、時代の中へとびこむにきまっており、ジャズや、ストリップや、そういう最も世俗的な、俗悪なものの中から育ってくるに きまったものだ。

現代においては俗悪な、そして煽情的な実用品にすぎないジャズやブギウギが、やがて古典となって、モオツァルトやショパンのメニュエットやワルツと同じ位置を占めるようになるものなのだ。いかなる典雅な古典も、それが過去において真に生きていた時には、俗悪な実用品にすぎなかったのである。

昔の型から一歩もでることができずに、大衆の中に生き残ろうなどとムリのムリで、 粋とか通とかいわれることが、すでに大衆の中に生きていないことのハッキリした刻印なのだ。

別に何の意味もない、そのまんまである。ふと思い出して、口ずさもうとするのだが、別れたっていいじゃないか、泣くことないじゃないか。あいつだって真剣に愛してくれたんだ。
…の後が出てこない。
いまは便利なもので、グーグルに知っている歌詞を入れて検索するとすぐに答えが出てくる。
昭和33年のヒット曲で歌手は神戸一郎。ほぉーっ、そうだったのか。作詞は西条八十。さすがだ。いかにも東京弁、なかなか田舎ものには使えない言葉遣いだ。
静岡なら「別れたっていいじゃん、泣かなくたっていいじゃん」となる。間違えても「泣くことないじゃないか」とギラは使えない。
それはともかく、その後の歌詞。
ああ 花もしぼむさ
  小鳥も死ぬのさ
と歌謡曲にあるまじき言葉が続くのである。
失恋した女友達を男が慰めるというシチュエーションもかなり特殊だが、それにしてもこの言葉、まったく慰めにはなっていない。いったい花がしぼむのと、小鳥が死ぬのと、二人の恋が終わるのとはどういう関係があるのだ。
柳亭痴楽ではないが、「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな私が悪いのよ。そしてあなたのせいなのよ」という台詞と選ぶところはない。
ひとつ間違えれば、「あんたも死んだら…」とも取れかねない。
だからこの歌、誰もが「別れたっていいじゃないか」は憶えていてもその後が記憶にないのだろう。
それにしてもこの西条八十という男、才能はべらぼうだが、何を考えているのか分からないところがある。

昔の更新記録の文章を再録する。

2006.12.23
 別のことを調べていて、たまたま面白いページに出会いました。「東京行進曲」の裏話が載っていて、二番の歌詞はもともと違っていたということを知りました
 「当時は、マルクス主義の全盛の頃で、〈シネマみましょうか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか〉は最初、〈長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える赤い恋〉だった。西條八十は、当時、ビクターの文芸部長だった岡庄五の「官憲がうるさい」という言葉に折れて瞬時に言葉を組み替えた」のだそうです。まさに「いっそ小田急で逃げましょか」ということです。その類まれな文才と、類まれな無節操さが浮き彫りになったエピソードですね。







バンコールというのはケインズが提唱した世界通貨の名前だ。バンク(銀行を表すゲルマン語)とオール(金を表すフランス語)を合成した用語で、あえて重箱読みにしたところにケインズの思いがあるのかもしれない。

いまその名前がふたたび取りざたされるようになった。それはネオリベラリズムの流れに対抗するものとしてのケインズの復活を示すものと受け止められている。しかし経過を深く読んで行くと、単純な学説間の優劣ではない。それは第二次世界大戦というファシズムに対する生死を賭けた闘いの中で、世界の民主勢力が目指した理想であり、一度は挫折しながらも、パックス・アメリカーナの60年を経て復権しようとしている と捉えるべき側面を持っている。

 

バンコールが話題となってきた理由

08年のリーマン・ショックの影響は激甚だった。それはほとんど金融恐慌といってよい規模のものであった。各国政府は協調して金融支援に当たり、当座の経済崩壊は食い止めた。しかしそれは国家財政に重いツケとなって残った。ギリシャを責めるのはお門違いであり、悪いのは散々道楽をしてツケを国家にまわした銀行やファンドの連中である。そして新自由主義の御旗の下に彼らを保護・育成してきた大国の責任である。

金融資本を規制するのはどうしても必要だが、それでは根本的な解決にはならない。そもそも世界にはどういう経済システムが必要なのか、その根本の所が問われるようになったのは当然のことである。そして一国の通貨に過ぎないドルを世界の基軸通貨とするIMF体制が、諸悪の根源として浮かび上がってきたのだ。

ドル機軸体制の弊害を緩和しようと、あるいはより積極的に打破しようとする動きはこれまでにもあった。その典型がユーロである。そのほかにも静かに進行しているチェンマイ・イニシアチブ(拙稿 たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ を参照されたい)、大騒ぎの割にはあまり進行しないラテンアメリカの決済機関構想などがある。しかし今回のユーロ危機を見るまでもなく、多極化の動きだけではドル支配体制の打破はきわめて困難である。

世界経済の混乱を救うためには世界通貨の創造しかない、そして国際的な決済機関が各国の発展を保障するような形で創設されなければならない。そう考えたとき、IMF創設の際に葬り去られたケインズ構想がふたたび注目されるようになったのは、ある意味では必然のことだったかもしれない。

 

2006.3.09 の更新記録の記事です。そうは言ってもGDP成長率1%くらいは確保しなければだめだし、貿易収支+資本収支+所得収支のトータルでのゼロバランスと考えるべきだと、今では思います。ただケインズの国際通貨論を勉強して、国際関係はプラマイゼロが基本なんだなと改めて感じたので、もう一回引っ張り出してきたしだいです。


 
情勢分析には、現実の動きと傾向をもとにするsituation分析と、もう少し長い目で時代を見るtrend分析があ ります。時代の基本が少子高齢化社会であることは間違いないでしょう。それは単純に考えればGDPの低下であり、総体としての貧困化です。社会心理学的に 見れば意欲や欲望の低下です。
 しかしそればかりでは困るわけで、高齢化社会なりに社会的活力を維持しなければなりません。これは若い人たちにとっての問題ではなく、実はこれから高齢者の仲間入りをする我々の問題なのです。
  日本の社会における強者たちは、「国際競争力を維持し企業活力を高めるためには、いっそうの富と資源の集中が必要だ」と考えています。それが「格差は当 然」の発言を呼び、社会保障の改悪に次ぐ改悪をもたらしています。しかし、この考えには無理があります。それは一時的に企業の意欲を強めたとしても、国内 需要の裾野をさらに冷え込ませ、社会全体の活力を弱める結果にしかならないからです。
 あるべき日本型高齢社会の基本目標として「国際競争力と企業活力の維持」を掲げるのには、そもそも無理があるのです。身の丈にあわせて「持続可能な発展」を追求していくべきです。そのことを国民的理解としなければなりません。
  目指すべき「日本型少子高齢化社会」の基本は、バランスのとれた貿易・財政と、均等社会の維持にあります。GDP成長率ゼロ、貿易黒字ゼロ、資本黒字ゼ ロ、財政赤字ゼロが数字目標となります。そのために大企業に対する社会的規制と裾野型産業の育成、行政による再分配機能の強化を強めなければなりません。
  同時にこの時代には終わりがあること、やがて出生と死亡のバランスが回復し、着実な増勢に向かう時期が来ることも理解しなければなりません。それまでの数 十年にわたる「移行の時代」をいかに作り上げていくのか、いかなる「日本型少子高齢化社会」を実現するのか、それこそが時代の要請する課題です。
 それはなによりも、自らが高齢者となって行く「われらが世代」の課題でもあります。「情勢負け」せず、当事者世代として旗印も掲げ声も上げ、自らの社会活動のあり方を提示していくことがだいじです。

この闘争は遠からず終局を迎えるだろう。しかしその種子は全米、全世界に広がるだろう。
この闘争はいろいろな運動と似ている。日本で言えばテント村運動だ。かつての全共闘やべ平連とも似ている。運動に近づきすぎると全体像を見誤る危険がある。この運動はサーファーなので、肝心なのはサーファーを動かす巨大なうねりだ。つまり労働運動と青年運動の合流だ。
若者は闘いを求めている。文字通り一触即発だ。しかし本格的な闘いに参加するのはためらっている。それは当然だろう。
だから一種のお祭り騒ぎで、権力からも攻撃されないような最小抵抗線を選ぶ。スローガンも一見戦闘的で、実体としてはあいまいなものを選ぶ。本当に闘おうとすれば、一生を棒に振る覚悟をしなければならないからだ。
そこを労働者が後押ししている。後押しするということは、一面からいえば、「この道は一度信じたら逃げられない道なんだよ」という覚悟を迫ることでもある。だからあいまいなスローガンの割には闘いの基本線がぶれない。これが「ウォールストリート占拠闘争」の大きな特徴だ。
もうひとつの巨大な変化は、労働運動自身の階級意識の先鋭化だ。率直に言ってAFL・CIOが占拠運動を支持したことさえ信じられない。かつてのAFL・CIOといえば反動の手先、というより主柱のひとつだった。それが占拠行動の支援に参加するとは時代も変わったものだ。

しかし傘下の主力組合の名前を見て行くと、それもうなづける。大企業の労働者たちは労働運動から遠ざかり、いまや看護婦や教師やトラック運転手などの周辺産業労働者がAFL・CIOを支える時代となっている。労働運動の再生が問われる時代を迎えているのだ。
NYタイムズに紹介された内部討論の中身を見ると、慎重論者もふくめて、基本的にはやる気満々なのが分かる。「それは俺たちの課題だぜ!」という感じが伝わってくる。
何よりも、この労働者と青年の結びつきに注目しながら、事態を引き続きウォッチして行きたい。


1万人が大行進に参加

10月05日 ALF・CIOのトラムカ議長、「ウォール街に説明責任と雇用創出を求める彼らの決意を支持する」と表明。「若者の行動を横取りするつもりはない」、「われわれは全米でデモ参加者を支援し、今後も互いに協力し合っていく」と述べる。ALF・CIO(米労働総同盟産別会議)はアメリカ最大の労働センターで、1220万人の組合員を組織する。

ニュー ヨーク・タイムズが内部の議論を紹介している。
AFL・CIO幹部 は「今が具体化の時だ」と言い、多くの労組は運動への参加をコミットした。
一部幹部は、彼らは労組を「運動を取り込み運動を疎外する者」とみて反発するだろうと懸念した。
他の幹部は、政府糾弾を叫ぶ極左活動 家に悩まされるのを恐れた。
しかしある労組では、下部組合員から「我が労組はなぜウォール街にいないのか」と突き上げがあったという。

10月05日 占拠運動への連帯デモ行進。参加者は1万ないし2万人規模と推定される。ズコッティ公園(通称・自由広場)を出発し、約1キロ北の連邦ビル前までかねや太鼓を鳴らして「ウォール街を占拠せよ」などと訴えながら行進した。

10月05日 連邦ビル前での打ち上げ集会には運輸関係の労組や教職員組合、看護師の組合など約15の労組、ホームレス支援団体など20以上の市民団体のメンバーも参加した。

参加した労働者は、「若者が声をあげているのは、すばらしいことだ。彼らは大学に行くにも金がなく、学費を獲得するのに大きな借金を背負うが、卒業しても職がない」と連帯の気持ちを示す。

10月05日 夕方後に一部がバリケードを設置。バリケードを押し進もうとする約200人の参加者に対して警察は催涙スプレーで応戦する。この衝突で若者数名が逮捕される。

10.05 抗議活動の拠点になっているリバティスクエアには数百人のデモ隊が泊まり込む。支援の食料・物資が豊富に出回っている。(肥田美佐子のNYリポート

広場には市内や全米各地からの注文で届いたピザや水が常にある。組織はかなり確立されてきて おり、合議を導く「ファシリテーター班」、救急箱を持って歩く「医療班」、食料の寄付や調達を仕切る「フード班」がある。なかでも、メディア班は重要な役割を果たしている。広場の真ん中に発電機を備え、常に数人がパソコンに向かい、合議やデモの様子をほぼ24時間オンライ ンの動画で流すほか、ツイッターやウェブサイトの更新から、警察の暴力を撮影したビデオを動画共有サイト「ユーチューブ」に貼付ける作業をしている。

10.05 ガイトナー米財務長官、占拠運動を念頭に置きながら「市場が提供できない重要な経済機能がある。それは政府と政治が実行すべきだ」と強調。

政界の発言が相次ぐ

10月06日 オレゴン州ポートランドで占拠運動を支持する約4,000人のデモ行進。ほかにヒューストン、タンパ、サンフランシスコ、フィラデルフィア、シカゴ、シアトルなど全米十数カ所でもデモが発生する。

10月06日 オバマ大統領がデモ運動に対して最初の発言。

発言要旨: 米国民は20年代の世界恐慌以来最も深刻な金融危機を経験し、米国の各地、各業界が大きな損失を被った。
②にもかかわらず、金融業界は依然として無責任な行為がはびこっている。
③『ウォール街占拠」』をはじめとする抗議デモからも国民の不満は明らかだ。

10月07日 バイデン米副大統領も 「ウォール街を救うための駆け引きにより、国民に不和が生じている。国民は体制に不公平さ、不平等さを感じている」と語る。

10月07日 エリック・カンター共和党院内総務、「デモ参加者はいずれも暴徒だ」と発言。民主党のナンシー・ペロシ下院院内総務は、カンターを批判し、「民主主義は表現の自由を認めている。デモの主張がウォール街や政治の場に届くように支援する」と発言。

10月07日 ブルームバーグ・ニューヨーク市長、「金融業は市の経済にとって重要な要素で、金融業がなくなれば、公務員に給料を払うことも、街を清掃することもできなくなる」と非難する。

10月07日 英フィナンシャル・タイムズが論評。「大手労働組合も参加したデモでは参加者に無邪気さがなくなり始めた。デモ隊の理想主義にどこか説得力があるだけに、左翼と結びつくのは残念だ」と警告し、「デモ隊はまもなく強制退去させられるだろう。しかし我々は彼らを忘れない」とおちゃらかす。

10月07日 AFL・CIO、占拠運動を支持することを決定。傘下の地方公務員組合連合(AFSCME)と通信労組(CWA)、合同運輸労組(ATU)、全米看護師組合(NNU)の4労組もデモに加わり始める。

10月07日 米民主党、「反企業ポピュリズム」がはらむ危険に対処しつつ、階級闘争の責任を負わされずにそのエネルギーを利用しようと動く。(肥田美佐子のNYリポート

10月07日 “富裕層”からも共感する意見が発せられるようになる。

①ダラス地区連邦準備銀行のフィッシャー総裁は「あまりに多くの人々が仕事を失い、その期間もあまりに長い」とし、デモをする若者たちに対し「不満は理解できる」と述べる。
②ゼネラル・エレクトリック(GE)の金融事業部門、GEキャピタルの最高経営責任者(CEO)を務めるマイケル・ニール氏もロイター通信に「人々は本当に怒っている。理解できる。私が今失業していれば、同じように怒るだろう」と語る。

10月08日 約1千人がズコッティ公園からワシントン・スクウェア・パークまでデモ行進。

10月09日 ワシントンでもホワイトハウス周辺で「人口の1%の富裕層の貪欲と腐敗」に抗議する集会。(参加者は100人程度で、この位は年中行事。あせった外国記者が手近のワシントン取材でお茶を濁そうとしたものか)

10月10日 数百人の大学生がボストン中心部をデモ行進。「企業ではなく教育に資金を」などと訴える。

10月11日 ボストン市内の公園で1週間以上にわたってテント生活をしていた占拠運動参加者が、住居侵入罪で一斉逮捕される。

10月12日 数百人のデモ隊が、JPモルガン・チェース本部前で抗議活動を行う。この行動で4人が逮捕された。

10月12日 ウォール街近くで事務所清掃員や警備員が経済的不平等に抗議するデモ行進。

10月12日 ブルームバーグ・ニューヨーク市長がズコッティ公園を訪れ、14日に同公園を清掃することをデモ参加者らに通告。同時に参加者が法を順守する限り使用継続を認めるとも表明。

10月12日 ロスアンゼルス市議会、「オキュパイ・ロスアンゼルス」運動を支持するとした決議を全会一致で可決。市議会による公的な支持の表明は初めて。

10月13日 占拠運動の全国連絡組織「オキュパイ・トゥゲザー」、最低でも全米118の地域でかつどうが行われ、計画中のものは1367に上ると発表。


 



労働組合の合流の動き

9月27日 労働者の合流が始まる。週5日制配達に反対する郵便労働者がリバティ・プラザで集会を開く。コーネル・ウェスト教授が演説し2千人の聴衆を集める。

9月28日 全米運輸労組(チームスター)に属するニューヨーク運輸業労働組合が占拠運動の支援を決議する。「ウォール街に集結した抗議者の声は、まさに労働者の家族の声である」との声明を発表。10月05日に大規模な集会と行進を予定し、参加を呼びかける。

9月29日 サンフランシスコで占拠運動に共鳴するグループが銀行への抗議行動を計画していると報道される。

9月30日 2回目の週末を迎え、労働組合の代表含む1,000人以上の参加者が、弾圧に抗議し警察本部までデモ行進を行う。

9月30日 ニューヨークのブルームバーグ市長、「抗議する権利はあるが、抗議に煩わされない権利もある」と述べ、運動を抑止する姿勢を示す。

9月30日 AFL‐CIOのリチャード・トラムカ会長、「労働組合は全国レベル、地方レベルの双方で『ウォール街占拠』に参加している」と発言。

9月30日 ボストンでは労働組合や市民団体など34組織でつくる活動団体が結成され、デモ行進などを実施。ロサンゼルスでは市内の広場から市庁舎までデモ行進。バンク・オブ・アメリカ(BOA)のビルのロビーからの退去を拒否したとして、参加者25人が警察に逮捕された。

9月30日 ニューヨーク市立大の歴史学教授ジェラルド・レニークが、占拠運動を支持するコメント。

今起こっている現象は、金融業とカジノ資本主義を基盤とする奇態な経済モデルの総決算だ。この運動が提起しているのは、“我々には新しい選択肢が必要である”ということだ。その選択肢は、「文明の新しいモデル」というべきものだ。

ブルックリン橋の大量逮捕事件

10月01日 雨模様にもかかわらず、若者など2000人以上がウォール街に集結。「富裕層に増税を!」「99%の米国人よ、声を上げよう!」などと訴えた。集会後ブルックリン橋方面にデモ行進を開始する。

10月01日 ブルックリン橋の大量逮捕事件。5千人のデモ隊を警察が襲い、700人が逮捕される。

10月02日 ブルックリン橋事件の動画が公開される。アップ主は「警察が“参加者が交通に支障をきたした容疑で逮捕するために、橋の車道を歩くよう誘導した」と主張する。

10月02日 昨日の大量逮捕に対する抗議行動に1千人が結集。コロンビア大学のジョゼフ・スティグリッツも抗議行動に参加し発言。

スティグリッツの発言: 2500万人が正規の雇用に就けない現状を考えれば、こうした運動が起きるのは自然で、むしろ遅すぎたくらいだ。現状を変えようという大きな運動の始まりなのだ。

10月02日 オキュパイ・ロスアンゼルスの市庁舎へのデモに3千人が参加。一部は市庁舎周辺で泊り込みを開始する。

10月02日 グーグルとツイッターが、ウォール街での抗議行動に関する記事の検閲に踏み切る。「ウォール街を占拠せよ」をグーグルで検索すると、「このブログは削除されており、ご利用できません」と表示されというもの。またツイッターもアクセス件数の多い、「ウォール街を占拠せよ」のタグの追加を阻止する。

10月03日 参加者数百人が「企業ゾンビ」に変装しウォール街を練り歩く。

10月03日 ニューヨーク市中央労働組合評議会の呼びかけで、全米運輸労組ローカル、介護・看護労働者労組、全米鉄鋼労組、教員連盟、米国通信労働者組合がシティーホールに結集。占拠運動の支援策を協議。

メディアがこぞって占拠運動を取り上げる

10月03日 CNNニュースが全国の占拠運動について報道。ウェブサイトには「革命が起きつつある。ただニュースにならないだけだ」とのスローガンが掲載される。そして全米に広がるこうした動きを「さまざまな人種、性別、政治理念を持った人々による指導者のいない抵抗運動」 と表現。唯一の共通点として「1%による腐敗と私利私欲をもはや容認できなくなった99%が我々だ」と述べ、米国の富裕層とそれ以外の層の間には深い溝があると指摘している。

10月03日 ヘッジファンドの元凶と目されてきたジョージ・ソロスがインタビューに応え、「アメリカでは多くの中小企業が倒産する一方、銀行の不良資産を事実上軽減するような決 定が銀行に巨利をもたらしている。率直に言って(デモ参加者の)気持ちはわかる」と表明した。

10月03日 オノ・ヨーコ、デモを称賛するネット発言。「英雄一人では事をなし得ない。我々一人ひとりが英雄にならなければ」と激励する。

10月03日 ニューヨーク日本総領事館は占拠運動に「興味本位で絶対に近づかない」よう呼びかける。

この日、“興味本位”でリバティスクエアを訪れたある日本人の感想: ほとんどの人に共有された問題意識があることは、リバティスクエアで何人かの人と話せばすぐに気づくことです。
それは雇用不安や借金づけの経済が限界に来て多数の人々が崖っぷちに立たされているということ、その原因は一握りの株主・企業経営者やそれ と癒着した政治家などの富裕層が政治経済を支配して自分勝手な政策をやってきたことにあるという考えです。強欲・利益が人間の尊厳よりも優先される現在の行き過ぎた資本主義を変えなければ明るい未来はない、といった思いです。
富裕層の進めてきた新自由主義政策(自由市場が何でも解決するという考え)は完全に誤りでした。 ミドルクラス幻想はもはや米国でも色あせていて、ほんの一握りの富裕層と虐げられた我らという階級感覚が生まれています。「私達が99%だ」という一番人気のあるスローガンがそのことを象徴的に示しています。この感覚が多くの人に共有されているからこそ、占拠運動への支持が広がっているのだと思います。

「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)運動の経過

 むかし、レーニンの創設した新聞が「イスクラ」といって、火花という意味だそうです。「一片の火花がたちまちのうちに燎原の炎となって燃え広がる」とうたった詩があって、これからとったそうです。そんな学生時代を思い出しました。

運動の引き金

7月13日 カナダのエコ・グループがウォール街での平和的なデモ運動を提案する。これにニューヨークの若者グループが合流。

さまざまなレポートを総合すると以下のようになる。
①カナダのバンクーバーにある環境問題を扱う雑誌「アドバスターズ」の編集者カレ・ラースンが、「アラブの春」革命に感動した。
②ラースンが感銘を受けたのは、ツイッターが若者を結び付け運動の発火点になったことである。彼は同じようにツィッターを出発点にした運動を始めようと思い立った。
③ラースンは、この雑誌が持つブログに、「9月17日にウォール街を占領しよう」との呼び掛けを発表した。
④「米国人の上位1%が、下位90%をあわせたものより、さらに多くの所得を上げている」、「銀行家らは景気のよい時は私腹を肥やし、破産寸前に追い込まれると、政府に借金だけ押し付け、国民を失業者に追い込んでいる」などと主張する。

8月23日 ハッカー集団「アノニマス」がこれに賛同し抗議運動への参加を呼びかける。

最初の占拠運動

9月17日 ウォール街占拠行動がはじまり、推定1,000人が集まる。「われわれは99%だ。強欲で腐敗した1%にはもう我慢できない」がメインスローガンとなる。警察は“リバティ・プラザ”でのテント設置の禁止とデモ規制を行う。このため参加者の多くはウォール街の歩道を歩き続ける。

初日のデモで掲げられたプラカードの内容(ウィキペディアによる): ①政府による金融機関救済への批判 ②富裕層への優遇措置への批判 ③「グラス・スティーガル法」の改正による金融規制の強化 ④高頻度取引の規制

9月19日 この日7人が逮捕される。ウィキペディアによれば、ビルに立ち入ろうとした二人が逮捕され、顔が見えないマスクをつけていた4人組が逮捕される。

9月18日 広場で「総会」が開かれる。5時間にわたる討論の後、翌日からウォール街でデモを展開することを決定。

逮捕につながるような行為はせず、ウォール街の通行人を妨害しないなどを議長団が提案。挙手による投票で満場一致で提案を承認。またデモに行く 「アクション班」と、今後の問題を考える「ディスカッション班」に分かれることでも合意。(「総会」に居合わせた津山恵子さんの貴重なレポート)

9月19日 広場に残った青年ら500人がニューヨーク証券取引所前を練り歩く。行動は午前9時半の株式市場 取引開始時と、午後4時の取引終了時の2回。段ボールのプラカードや太鼓・ラッパを持って歩道を歩くだけ。その後この行動が日課として定着する。

1.jpg

MikSの浅横日記より拝借

9月19日 カレントテレビがデモを取材。以後カレントテレビは連日抗議行動を報道。取材に当たったオルバーマン記者は、「なぜ主なニュース番組でこの抗議運動が取り上げられないのか? もしこれがティーパーティーの運動だったら、主要メディアは毎日トップで取り上げているだろう」と批判した。

9月19日 オバマ大統領、今後 10年で約3兆ドルの財政赤字を削減する計画を発表。その約半分を「ブッシュ減税」の廃止など、高所得の個人や企業に対する増税でまかなう計画。

9月22日 黒人人権運動のグループによる2千人のデモがウォール街占拠運動に合流。このとき行進参加者2人が逮捕される。

9月23日 ガーディアン紙やニューヨーク・タイムスが占拠運動を批判的に紹介。警察はリバティスクエア(正式にはズコッティ公園)の「占拠」については基本的に不介入の姿勢 をとる。(世間の注目と共感の高まりがリバティスクエアを支え守っているのは確かだと思います、とのコメントあり)

9月23日 「シカゴを占拠せよ」と呼びかけた連日デモが始まる。

9月23日 米Yahoo!、抗議行動のサイト名(occupywallst.org)をふくむメイルをブロッキング。ヤフーは事実を認めたうえで、スパムフィルターの誤動作によるものだとし謝罪。

最初の衝突 80名が逮捕

9月24日 週末に合わせ全米から参加者が結集。警察は「住宅地区への行進でいくつかの通りが混乱した」ことを理由に大量逮捕に乗り出す。この取締りで少なくとも80人が逮捕された。

9月24日 弾圧の模様がインターネット上でアップロードされ、「若い女性が警察官に催涙スプレーをかけられる」場面が注目を集める。

9月24日 津山さんのレポートによれば、1000人あまりの新手の参加者が自発的にデモ行進を敢行。このデモ隊がニューヨーク市警と衝突し、100人近い逮捕者が出たという経過のようだ。

「一網打尽」方式: 現場にいたスペイン人のマリウスさん(19)によると、警察は何もしていない女性2人に催涙ガスを使用し、動揺した通行人も含む90人あまりが、警察が 広げた赤い網の中に囲い込まれ、逮捕された。警察は、逮捕者を運ぶ車両が足りないため、通りかかったニューヨーク都市交通局のバスを止め、全員を警察署まで運んだという。

9月25日 「アノニマス」がYOUTUBEに動画をアップロード。警察に対し「36時間以内に残虐行為があれば、ニューヨーク市警をインターネット上から消去する」との“脅迫”を発表する。

9月26日 占拠運動、催涙スプレー事件の当該警察官の収監と警察委員長の辞任を要求。この日の夕方、映画監督のマイケル・ムーアがリバティ・プラザで演説を行う。またチョムスキーが運動を強く支持するとのメッセージを発表。(マイケル・ムーアは2009年製作の『キャピタリズム:マネーは踊る』の終場面、ウォール街を包囲するといって単身で金融機関のビルに突進する)

歴史的な会談だと思うが、赤旗の扱いは大きくない。

そもそも2005年7月 温家宝首相とベトナムのファン・ヴァン・カイ首相が昆明で会談している。このときフィリピンをふくめた3カ国で南シナ海の油田の共同探査を早期に開始することで合意した。
これが進行しないまま、ふたたび両国は独自の開発計画を進行させ、そのたびに軋轢が強化された。

その動きを先行したのは中国側であった。とくに08年末のリーマンショックとそれに続く世界金融危機で、米国の地位は相対的に低下したと評価した中国が、強硬な外交姿勢に転じたことが背景にあるとされる。
赤旗の連載「9.11から十年 世界はどう変わったか」では、09年7月の在外使節会議(大使会議)での胡主席の演説が、この転換を規定していると見ている。
演説内容は詳しくは述べられてはいないが、湖錦湯は「外交を前向きに、主導的に行う」と述べ、国際秩序構築に積極的な姿勢を示したという。

…その後、09年から10年に南シナ海や東シナ海での領土問題などさまざまな問題で、米国や周辺諸国とのあいだで摩擦が起こりました。

もちろんこの記事は日本共産党の公式見解ではなく、囲み記事の中の一説に過ぎない。それにもかかわらず、この指摘は重要である。

これに対し、1年半後の10年12月、戴秉国国務委員が論文「平和発展の道」を発表。この中で「中国が米国に取って代わって世界に覇を唱えるというのは神話である」と述べた。これは湖錦湯の強硬路線を批判したものとされる。

こういう中国党・政府の二つの傾向を伏線に南沙問題を見ると、かなり見えなかった部分が見えてくる。それは戴秉国に代表される「正統派」が、湖錦湯の押さえに回っている流れである。

尖閣問題で最終的に落しどころを決めたのも戴秉国であった。南沙問題でベトナムと交渉し和解の方向を打ち出したのも戴秉国だった。

私のブログの6月28日付にはこう書いた。

南沙諸島をめぐり緊張が続いていた中国とベトナムの間で、高官級の会談が持たれ、「平和的解決」の方向で一致したと報道された。
中国側の交渉代表は戴乗国であり、合意は党レベルのものと考えられる。とりあえず、紛争化の危険は回避されたと見てよいだろう。

さらに以下のように付け加えた。

鄧小平の直系と言われる現在の湖錦湯政権ではその印象が薄れつつあるが、いずれ国際的に括目されるような中国外交が再登場すると確信していた。

その後一進一退があって、今回の首脳会談である。
合意内容に目新しいものはない。むしろベトナムは率直に相違の存在を明らかにしている。とすればこの会談の目的は何か。それは湖錦湯本人を会談の場に引きずり出したということに尽きる。

2005年の公式合意でさえ、首相級の合意であった。それから見ると中越両党の書記長同士の会談というのは最高級の合意である。戴秉国に代表される「正統派」は、みずから作り上げた合意を書記長に認めさせたことになる。



どうも電力料金が国際的に見て高いのか安いのか曖昧だったが、赤旗の調べで一端が明らかになってきた。
国際比較で見ると、利用者が払う金額はアメリカや韓国より数倍高い。しかしヨーロッパでは日本を上回る電力料金となっている。
今回、赤旗が調べた結果、日本の電力料金は本来はずっと安いことが分かってきた。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/6/e6298e77.jpg

非常にわかりにくい図だが、ひらったく言えば規制部門というのが一般家庭分、自由化部門というのが大企業ということになる。

自由化部門というのは電力会社と個別企業との交渉により料金を決める部門で、そんなことができるのはかなりの規模の企業しかありません。

左の棒グラフで分かるのは大企業が電力の2/3を消費しているということです。一方右側の棒で分かるのは、東電は大企業からはほとんど利益を取っていないということです。

つまり、東電は大企業には原価販売し、それによる“逸失利益”を一般家庭や中小企業にしょわせて経営を維持していたことになります。ということは一般家庭は使った電力の3倍の利益分を払っていたことになります。

この記事には原価として計算されるコストがいくらなのかの記載がないため、これ以上は分かりません。
しかし、もし自由化部門がなければ、みんながイーブンに負担していれば、日本の電力料金はかなり安いものとなったでしょう。

そういえば思い当たるところがあります。
原発事故直後に、東電関係者などが「日本の電力料金は安い」といっていたのは、おそらくこの原価のことを指していたのでしょう。日本の電力料金が安いとならないと、原子力発電を続ける口実がなくなるからです。

そして、その後の料金論争の中で口を濁すようになったのも、原価と料金の乖離のためでしょう。

たしかに原発による電力料金は安かったはずです。なにせ車検もとらず、自賠責もかけずに車を運転するようなものですから、そのぶんは安いはずです。
なのに消費者が払う電力料金は、決して安くない。それがなぜなのかという問題に、東電関係者や大企業は口をつぐまざるを得なかったということではないでしょうか。

この記事は、このほど公表された東京電力に関する経営・財務調査委員会の報告書を分析することによって作成されたもので、記事を読んでも悪戦苦闘のあとが覗えます。ご苦労様でした。

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