鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

ちょっとしつこいようだが、葛西中電会長の論説をもう少し考えたい。
結局葛西氏の原発維持論の根拠は電力供給の不安定化と、電力料金の高騰ということになる。つまりはコスト問題に収斂される。

原発事故の被害はコストとして算定することができない

まず基本的立場での相違をはっきりさせておきたいが、原発問題はコスト問題ではない。
それは途方もない地球的災害なのである。しかも事故はまだ進行中なのである。
その放射能の99%はまだ原子炉の地下に潜んでいる。そして巨大な異形を現しつつある。これが地表に出れば、現代科学のすべてを以てしても対抗できない可能性すらある。

JRにたとえるなら、乗客を乗せた新幹線が時速300キロで暴走中なのだ。止める術はもはやない。とりあえず乗客には死んでもらうしかない。しかしそのあとに別の列車が走っている。こちらは止めなければならない。少なくとも安全が確認されるまでは絶対止めるべきだ。
なぜか? 経済より人の安全のほうが大事だからだ。ここが分からないと、JR西日本の山崎社長の二の舞だ。信楽・宝塚の悲劇が再現されることになる。
 
これまで起きてしまった具体的被害もコストとして算定できるものではない。今回の事故で失われたものは10万人規模の人々の生活であり、そこに何世代にもわたって積み重ねられてきた地域の伝統・文化であり、半径30キロの国土の半永久的喪失である。他にももろもろあるが、この三つはもはや取り返しがつかない。

それらをすべて受忍・受容したとして、「せめてゼロからの出発」のために10兆円強の金が必要なのである。

原発コストには三つの構成部分がある

そのうえで、コスト問題に取り掛からなければならないが、葛西会長はコストの三つの構成部分のうちひとつしか語っていない。つまりこれまでのように、何の事故もなしに通常運転を継続している場合のコストのみである。

しかしこれからは、最低でももうひとつのコストを計上しなくてはならない。すなわち10兆円の賠償金を支払っても会社が経営を継続できるだけの保険コストである。
JR東海も過酷事故が起きた場合の保険をかけているだろうし、当然運賃に上乗せしているはずである。しかし東電はしていなかった。
それがどのくらいの規模になるのかは知らないが、これを電力料金に上乗せすれば、コスト論はそれだけでも吹っ飛ぶだろう。

三つ目はこれまでツケ回しにしてきた廃棄物処理コスト、老朽化原子炉の廃炉コストである。
もうすでにそれは目前に迫られている。福島第一原発を廃炉にするためのコストである。浜岡原発もどうせ老朽化はしてきており、いずれは迫られた問題だった。

原発国策論はコスト論の放棄だ

こうやっていろいろ詰めていくと、原発論者は必ず、「原発は国策だった。民間に押し付けられただけ」と開き直るが、それは結局、低コスト論の破綻の自己告白としかならない。
原発擁護論者は、つまるところその理由が低コストだからなのか、安全なのだからか、クリーンだからなのか、それとも原子力推進が国策だったからなのか、そこの立場を明らかにしてから議論を展開すべきだろう。
せめてJRは人命の安全を経営の最高理念として堅持してもらいたい。列車の運行確保はその後の話である。それが分からない人に会長を務めてもらいたくはない。

運転再開には二つの条件が必要だ

ただ、私としては当面の原発運転再開に絶対反対しているわけではない。点検中の原発の再開を認めなければ、それは事実上「すべての原発の即時・無条件・全面廃止」ということになる。
神戸でも、そして今回の救援・復旧活動でも確認されたように、電気はさまざまなインフラのなかでも水・食料に次いで重要な資源である。少なくとも日本においては、電気がなければ人間的生活を送ることはできない。
一定の激変緩和措置が必要という現場の声があれば、耳を傾ける必要があるだろう。

その際には、ひとつは今回の地震と津波の教訓を踏まえた客観的で合理性のある再開基準を提示して、それをクリアできれば再開してもかまわないと思う。
もうひとつは、運転再開がなし崩し的に未来永劫の原発継続にならないという保証が必要だろう。ここを明らかにしない再開論は不誠実であり、脅迫でしかない。
再開論者といえども、国民的合意を目指すのなら、できるだけ速やかに原発の縮小廃止と代替エネルギーへの転換を行う姿勢を明らかにし、誠実に将来エネルギーを探求することで合意を求める姿勢が必要だろうと思う。

あと1年ですべての原発が止まり、深刻な電力危機がやってくるかもしれない、という葛西市の危機感は分からないでもない。しかし、再開した後、人の命と安全性をどうするのかは語られない。そこには葛西氏はまったく危機感を感じていないように見える。葛西氏の論説は、そこの点でどうしても容認できないのである。

というわけで
「それでも原発動かすしかない」とはどこにも書いてない。
ネットで読めるもうひとつの記事がある。「賠償スキーム 東電だけが悪者か」という編集部の論説である。申し訳ないが、こちらの文章は相当質が悪い。自家撞着がいたるところに目に付き、何よりも主張の中身が先ほどの論文「発送電分離より大規模化を」で実質的に論破されているからである。
というわけで、
華々しい見出しの割にはこの特集には「原発動かすしかない」ことを論証した部分は見当たらないのである。こういうのを「羊頭を掲げて狗肉を売る」というのであろう。
というわけで仕方ないので
御大葛西会長の論説を見てみよう。

論文はのっけからけんか腰だ。

現場の映像や風説に恐慌を来した人々が原発反対を唱え、定期点検を終了した原子炉の運転が再開できない状況である。

原子炉が運転再開できないことに憂慮する気持ちは分からないでもないが、言うに事欠いて、その責任が「恐慌をきたした人々」にあるというのはあんまりだと思う。「人々」を愚か者と見下す姿勢が露骨だ。公的企業を預かる経営者として、これだけでも十分「謝罪」ものだ。
現状での運転再開に反対している立派な人もたくさんいる。原発所在地の知事さんはほとんどが保守系の「良識ある」人たちだが、こぞって反対している。恐慌をきたしているのは、被災者を傍らにおいてそろばん勘定に夢中になっている葛西氏自身なのではないか。
この「人々」には強制避難を余儀なくされた数十万の人々もふくまれるのだろうか? このような傲慢な状況判断をする人の意見など聞きたくはないが、もう少し我慢してみよう。

原発を止めれば電力供給の不安定化と電力単価の高騰を招き、それに続く企業の業績悪化、設備投資・雇用の縮小、経済の停滞・空洞化、税収の減少、財政の悪化、国債の信用崩壊などの連鎖は日本経済の致命傷となりかねない。

よくもまぁ並べたものだと感心するが、電力供給の不安定化と電力単価の高騰は混同してはいけない。一時的な不安定化は当然あるし、誰もそのことは否定していない。しかし電力単価の高騰については論証が必要である。

少なくともこれから支払われるべき天文学的な賠償金は、これまで享受してきた電力の単価の一部なのである。日本が半永久的に失った半径30キロの国土は電力単価の一部なのである。いままで払ってこなかっただけなのである。それがもし致命傷なのなら、私たちは間違いなく死ぬのである。

緊急時の責任体制と対処方法を明確に定め必要な資機材を適切に配置し、迅速な動員体制を整え、日常の訓練により十分に習熟しておけば同じ災害に直面しても今回の事態は避けられる。

これって戦時中の隣組長の訓話みたいですね。まさかバケツリレーで火が消せると思っているのではないと思いますが。

原子力を利用する以上、リスクを承知のうえで、それを克服・制御する国民的な覚悟が必要である。今やこの一点に国の存亡がかかっていると言っても過言ではない。

国の存亡とか、日本経済とかいっているけど、結局あなた方の商売のことでしょう。そのために国民にリスクを担えっていうことでしょう。国土が失われたっていいということでしょう。

本件については与党も野党もない。声を一つにして国民に語りかけ、日本経済の血液循環である電力の安定供給を守り抜いてほしい。この一案件だけに限った挙国一致内閣があっても良いのではないかと思う。

やはり、大連立構想の本音はここにあった。

最初の記事は「発送電分離より大規模化を」と題する署名記事

著者はまず菅首相の無能ぶりを批判。その例として「工程表」作成と浜岡原発の停止要請をあげている。しかしこの二つは、アメリカの強い要請を受けて行われた決定であったことが現在でははっきりしている。だから今では原発派でも表立って文句は言わなくなっている。

後は会話体で進める。

確かに原子力利用を推進してきたのは自民党政権だ。しかし14基以上の原発を新設し、電力の5割近くを原子力に依存する「エネ ルギー基本計画」を決めたのは民主党だ。

そうだね、これは同感。

約50年前の原子力損害賠償法の策定時、専門部会の検討では、「原子力の平和利用による利益は大きいが、万一の場合損害は甚大となる。政府が原子力推進を決意するなら、被害者に対する関係ではすべて政府が責任を負う」という答申が出た。
それが政府段階で、「原子力事業といえども民間企業であり、被害者に対して国が責任を負うということはありえない。賠償責任を負う企業がつぶれないように助成を行うことはありうる」という考え方に変化して、 今の原賠法が成立した。

ほう、そうだったのか。これは専門部会のほうが正しいね。

万一被害が生じた場合、本当にこの法律が機能するのかどうかは、先の答申作成に携わった民法学者の我妻栄教授が最も心配していた点である。

まさしくそのとおりになったわけだ。

今回の賠償スキームは、民間企業である東京電力が賠償の前面に立つことになった。

法律どおりだね。

そのため、資金面や人材面での電気事業自体の遂行能力が格段に劣化していくことは免れない。

そうだよね。

政府が補助する段になれば大きな抵抗が発生するだろう。金融機関に債権放棄するよう求めたようなリスクも十分ある。

立法の趣旨からすれば当然だよね。破綻処理に準じることになるね。

結果として、同法の目的の一つである「原子力事業の健全な発達」という点は実現できなくなるだろう。

それは当然だね。そもそもそんなことを原賠法の趣旨に掲げたことが間違いだよね。

原子力事業を民間企業に続けさせるという政策的選択を継続する限りは、今の賠償スキームは持続可能ではない。

そうだね、もうこれっきりにしたいね。

見直しに当たって、重要視しなければならないのは次の2点である。第一に、国と東京電力が連帯して損害賠償を行う仕組みに変更する必要がある。
第二に、法的に電力供給義務が課されている電気事業者の資金調達を確保することである。

たしかに持続しようと思えば、そういう選択しかないね。

冷静に検討されるべきは、東京電力を存続させて、数十年間にわたって賠償事務を行わせるべきなのかどうかである。

そこだよね、問題は。

遠くない時点で、賠償を果たすための組織と、新たに電力供給を担っていく組織とを分離した方がより合理的ではないか。

つまり破綻処理ということだね。当然会社更生法の適用ということになるね。おやおやそこがはっきりしないね。

ということで、最終論旨はあいまいなままだが、さほど目くじら立てるような文章ではない。ただ原発の形を変えた存続を暗黙の前提としていることが根本的な相違だが。

後半の発送電分離構想批判については部分的に共鳴するところも多い。ただし、いま問題なのはそんなことではない。原発以後のエネルギーを、どう新技術により確保していくかだ。それにより電力事業のあり方は規定されてくる。

WEDGEという雑誌が、7月号で「それでも原発動かすしかない」と題する特集を組んだ。いまどきある意味で「勇気ある」発言である。
http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/e/5e039f9e.jpg

しかし赤旗の報道を見ると、発行の背景に問題がいくつかあるようだ。
①この雑誌が新幹線グリーン車に無料で置かれている。ということは公共的企業であるJR東海がこの雑誌を買い取り、閲覧を促していることになる。(グリーン車など乗ったことのない私には無縁だが)
②ウェッジ社はJR東海が出資する出版社である。(ウェッジ社の会社概要を見ると、当初は月刊誌『ひととき』と呼ばれ、10年前から 東海道・山陽新幹線グリーン車に搭載していた。このときの発行者はジェイアール東海エージェンシーであり、ウェッジ社は編集を引き受ける形になっていた。もしそのままだったら、JR東海は発行人として社会的責任を問われることになっていただろう)
③JR東海の葛西社長は、政府の東電に関する経営・財務調査委員会の委員を務めており、この問題に関して公的な立場にある。
④葛西社長は産経新聞5月24日付けで「原発継続しか活路はない」と主張しており(その行為自体が公的立場を逸脱している)、特集とその論調は完全に一致する。
ということだ。会社のアセットの私的流用の疑いが濃厚だが、すれすれ、告発するほどの違法性はない。なかなかうまい手口である。しかしJR東海が、会社全体として原発継続論を広めたがっている異様な雰囲気は漂わせている。東電といい、JRといい、公益に携わる事業の経営者が公的意識を持たないのはいつから始まった悪弊だろうか。
全16ページというから、赤旗の記事紹介だけでは物足りない。ネットで探してみるとメイン記事が掲載されていたので紹介する。(以下は次の枠へ)

2月頃に書いた文章です。とりあえず載せておきます。 事務局からチュニジア・エジプト・リビアの情勢を書けといわれましたが、私には分かりません。チュニジアは海外旅行通の穴場的存在となっており、会員の中にはチュニジアで暮らした方もおられるので、下手に触れると怒られそうです。とりあえずネットで情報を漁って見ました。 とりあえず分かったいくつかのこと。 1.なぜチュニジアだったのか? リビアからモロッコに至るアフリカ大陸北岸、地中海沿いの諸国はマグレブと呼ばれます。歴史的にヨーロッパ諸国の植民地支配を受け、独立を勝ち取った今も深い影響下にあります。なかでもチュニジアはヨーロッパ資本を積極的に受け入れ、マグレブの優等生と呼ばれてきました。 なぜその優等生のチュニジアで革命が起きたのか、それは優等生だったからこそ起きたと考えられます。 チュニジアにしがらみを持たない私のような人間にとっては、今度の革命はきわめて分かりやすい革命です。外資依存の経済開発を進めてゆけば、GDPは増加しても一般国民の窮乏化は進み、対外債務は増え続けます。輸出型産業だけが特権を謳歌し、それに群がる利権集団が政治を牛耳ることになります。 20世紀初頭のメキシコ革命から87年の韓国民主化運動、その他もろもろの革命はすべてこのパターンです。 2.なぜ民衆革命だったのか アラブを知る人にとって、これまでの政治闘争の枠組みはアラブ民族主義かイスラム主義でした。今回の民衆革命はその目標とする価値観がまったく異なっています。経済的不平等に対する怒りと、人間が人間らしく生き、働く権利をもとめる要求がその基礎となっています。これらは一言で言って民主主義の要求です。 まともに考えると、これまでアラブ世界で民主主義という概念がどうして成立しなかったのか不思議なことです。「異なる文明」論で済ますわけにはいかない検討課題です。それが今回の革命によって、民主主義の価値の全世界における共通性が証明されたのだろうと思います。 3.なぜ国民革命だったのか? 前の項の発展形になりますが、今回の革命はチュニジア国民が一体となって闘われた点に大きな特徴があります。宗派もなく人種や部族もありません。逆に言えばアラブの大義もイスラムの原理もありません。民族国家としてのチュニジアという枠組みが統一の基礎となっています。 これは政府の権威が強大化し、その統制の下に国民統合が遂行されたことの裏返しです。そうなると政府も国民の支持がなければ維持することが不可能になります。国民統合が完成しているチュニジアやエジプトでは、基本的には流血を見ることなく革命が成功しました。これに対し、イエーメンやリビアで難航しているのは国民統合の水準がまだ低いためではないでしょうか。 4、アラブ民族主義とイスラム主義の行方 これらの国はかつてアラブ民族主義の旗頭でした。独立闘争の流れを汲む支配政党は、欧州列強の支配に反対しアラブ民族の結束を訴えました。それは同時にイスラムによる宗派支配の否定と国家の近代化、富国強兵主義でした。それまでの伝統社会は近代化という名の収奪強化と労働力の流動化による社会の崩壊に直面し、昔ながらの価値観であるイスラムの教えを盾に抵抗しました。 この流れが決定的に転換したのは第三次中東戦争の惨敗、アラブ民族主義の旗頭であったエジプトのナセル大統領の死、そして1980年のキャンプ・デービッド会談におけるエジプトとイスラエルの「和解」でした。国と民族を守るための富国強兵策が、大量に流れ込む外資の中で権力者の致富の手段に変わり、その外資がやがて債務となって首を締め上げるようになると、かつての愛国者たちは国民の犠牲を省みることのない「売国者」へと変質していくのです。 そのために強圧的な手段がとられるようになり、民主主義的な制度は骨抜きにされ、共産党などの革新政党は非合法化され、労働運動も抑圧されました。シュタージ(秘密警察)国家への変質です。 一時、アラブ民族主義に代わるものとしてイスラム主義が注目されましたが、イランの原理主義政府の抱える矛盾を見ても、その先に未来が期待できないことは明らかです。チュニジアでの新しい変革の波が、民族主義の伝統を踏まえながらどのような形に発展していくのか、これからが注目されます。 蛇足: 「チュニジアの夜」は、youtubeの 「Art Blakey & the Jazz Messengers - A Night in Tunisia」 がお勧めです。URLは http://www.youtube.com/watch?v=FHKyVJ5YfNU&playnext=1&list=PL5E2BF0D93DB4A4B0 です。騒々しいのがお嫌いに人には「Jim Brock - A Night In Tunisia」がよろしいかと思います。URLは http://www.youtube.com/watch?v=MlUTRhNBD4w です。

参考までにメルケル演説の要旨を紹介する。本日の赤旗に詳報が掲載されている。

  あの恐るべき3月11日から90日たった今日、われわれは次のことを知っている。原子力発電所の三つの原子炉ブロックでは炉心が溶融している。今でも放射 能を帯びた蒸気が大気に排出されている。広い範囲の避難地域はなお長期わたって残存するだろうし、事態収束のめどはなおたっていない。

 日本の劇的な事態が世界にとっての転機であることは疑いない。それはまた、私個人にとっても転機だった。日本のような高度な技術国ですら原子力の危険は確実には制御できないという事実を、われわれは福島の事態から認めざるをえない。

 その認識に立てば、必要な結論を引き出さねばならないし、新しい見方が必要になる。だからこそ私は“新しい見方をすることにした”と明言したのだ。

 私は「福島」以前には原子力の残存リスクを容認していた。高い安全基準をもつ高度技術国ではおよそこうした事故は起こらないと確信していたからだ。しかし、事故は現に起こった。

 問題は、ドイツで同じように恐ろしい地震がおこるかどうか、日本のような破局的な津波があるかどうかではない。「福島」後に重要なのはそんなことではない。

 確かに私は昨年秋、わが国の包括的なエネルギー基本計画でドイツの原発の稼働期間の延長を支持した。しかし私は本日、本議会において誤解の余地がないよう、こう断言する。「福島」は原子力に対する私の見解を変えた。

赤旗の紹介は、各論部分の抄訳なのでかなり読みにくい。つまみ食いのさらにつまみ食いを箇条書きにしておく。

*エネルギー転換についての決断は、社会の価値判断に基づく。それは技術的側面や、経済的側面の判断に先立つ。価値判断のキーワードは持続可能性と社会的責任である。

*福島の事故は三つの事実をもたらした。①日本のような高技術国でも事故は起こる。②事故が発生すれば、収束のめどは立たない。③設計上、絶対安全な原子炉そのものが破壊されることもある。

*人間は、技術的には可能なことでも、すべて行うというわけにはいかない。とりわけ技術の結果が「永遠の負担」という性格を持つ場合は、きわめて厳しい姿勢をとる必要がある。

*いま安全、リスク、危険という概念を新しく規定しなおす必要がある。大規模技術施設においてはゼロリスクということはありえない。技術的なリスク評価は、これまで危険事象の確率で推し量られてきたが、これは原子力の評価については十分ではない。それはリスクの容認しがたい相対化に系統的に導くことになる。

*通常の対リスク戦略では、損害が実際に起こり、そこから徐々に対処法を学んでいく。しかし核施設ではこうした学習過程は排除される。最悪の核事故は未知で予見困難であり、そのリスクを現実の事故の経験から導き出すわけにはいかない。

*結論として、事故の可能性をなくすためには、核技術はもはや使うわけにはいかないということになる。

この報告のキーポイントはリスクの容認しがたい相対化 という点に尽きるのではないでしょうか。
一般にリスク管理の技術学は、どのような技術にもリスクは必ず存在することを前提としています。そして二重の意味でリスクを相対化します。ひとつはリスクの許容範囲を定め、「ゼロではないが安全」というレベルに押さえ込みつつ、もう一方でコスト・ベネフィット比とのバランスを図ることになります。
ところが、「ゼロではないが安全」という安全度の相対化は、こと核技術に限っては、現在の科学・技術水準では不可能なのです。それが今回の福島原発事故で明らかになったのです。
したがって、コスト・ベネフィット比などに今の時点でなお固執するならば原発の内包するリスクの容認しがたい相対化 に系統的に導くことになるのです。ひらったくいえば「煮ても焼いても食えないぞ」ということでしょうか。



菅首相が突然、ソーラー発電などの電力を固定価格で買い取ると言い始めた。
真意がよく分からないが、通産省の一部で主張されている発送電分離へのアドバルーンとも考えられる。いま東電が地域独占によって吸っている甘い水は、他企業にとってはよだれが出るほどの利権だ。発電事業が事実上自由化されるなら、参入を求める企業が続出するだろう。
経団連主流派は既得権益を侵すような企てには猛反発するだろうが、アメリカや韓国の数倍の料金で電気を売り続けてきた連中が「なにをいまさら」で、説得力は皆無に等しい。
しかしいま肝心なことは、東電に公的企業としての責任をとらせることであり、国民のしっかりした監視下に置くことである。そしてエネルギー転換に関する基本的視点をきっちりと打ち立てることである。それ以上のことは菅政権のなすべきことではない。
国民は、原産複合体の解体的出直しを求めてはいるが、エンロン社スキャンダルの再現を望んでいるわけではない。

材料が少なく、感想的な意見である。
 第一にオジャンタ・ウマラの勝利は、左からも右からも極めてクールに受け止められている。選挙についての論評をネットで探したが、少なくとも英語の文章は皆無と言ってよい。「来るべきものが来た」という感じなのだろうと思う。ことに決選投票にすら自派の候補を送り込めなかった伝統的右翼の無力感は察するに余りある。
 第二に、意外なほどの僅差の勝利であった。ケイコ・フジモリが意外なほどあっさりと敗北を認めたため事なきを得たが、これまでのラテンアメリカの伝統から言えば「不正選挙」と騒いでもなんの不思議もない票差である。
 第三に、選挙の過程で党派関係が捻じれ、国政の争点がぼけてしまったことである。一般には革新のウマラ対右翼のケイコという構図なのだが、実は右翼の中に反フジモリ感情は根強い。そして伝統的左翼はと言えば、これも反フジモリなのだ。逆に民衆の中にフジモリ支持層は分厚い。
 ケイコを支えるべき右翼の中からも多くの造反が出た。ノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサはフジモリが当選した時の対立候補で、フジモリを毛嫌いしている。彼は「エイズよりもガンを選ぶ」としてウマラへの投票を選択した。 フジモリの後に大統領を務めたネオリベラリズムの信奉者トレドもウマラ支持を明らかにし、ウマラ陣営に自らの政治スタッフを送り込んだ。
 選挙戦で劣勢に追い込まれたウマラは、反フジモリを前面に押し立てることによって辛うじて勝利をモノにすることができたのだが、これが今後の政策展開の上で足かせとならないだろうか。気がかりではある。
 かつてチャベスがクーデター未遂事件を起こしたあと政界に登場したとき、フジモリ派の装いをとっていた。実は彼は紛れもない左翼であったことが後から明らかになるのだが、ウマラの思想的経歴にはチャベスのような左翼的傾向は明確ではない。
 目下のペルーの経済情勢を見ると、政策選択の幅はそれほど大きいとは言えない。オマラがエクアドルのグティエレス元大統領のような経過を取る可能性も絶無とは言えないのである。

 第4には、これからの中南米を見ていく上で大事なことだと思うが、この選挙が「上り坂の経済」を背景に行われた選挙だということである。これまでの革新候補の勝利は、どちらかといえば「絶望の10年」の末に国民が選び取った選択だった。それに対しこのたびの選挙は、好調な経済を背景に、「これからさらにどう進んでいくべきか」を問う選挙だった。
 そういう点では、戦いの勝利者はウマラというよりUNASUR(南米諸国連合)だったというほうが正しいかもしれない。ということで、これまでちょっと敬遠してきたUNASURの勉強に着手するか。

「窓」と題する久下格さんのブログに、この間(といっても災害発生から5月あたままで)の米政府の動きが詳細に跡付けられています。
もともと私は政治・経済面からのアプローチを主として行うつもりでした。敵は経団連、仇は米倉会長という構図です。
アメリカの戦後支配と干渉の経過については、あまり触れるつもりはなかったのですが、この文章を読むとやはりそこまで見通しながら分析していかないと分からないのだな、と改めて感じました。
ただ、この間の経過では「毒をもって毒を制す」という側面もあったと思います。やはり経団連=東電を軸とするムラ社会構造は我慢ならないものです。
ともあれご一読をお勧めします。

本日の赤旗に内藤正則氏の発言が掲載された。14面の左肩で見逃すかもしれないので紹介しておく。
非常にすっきりした見解である。内藤さんという人の肩書きは「財団法人エネルギー総合工学研究所原子力工学センター」の安全解析部長。相当「偉い」人のようで、日本原子力学界賞を4回も受賞している。しかも東大ではなく東北大学卒だ。

私は、チェルノブイリの後、通産省の委託を受け、過酷事故の拡大を防止するためのプログラムに関わりました。その結論は速やかなガスの放出(ベント)と冷却のための代替注水でした。
ベントと海水注入は、全電源喪失という事態に直面したとき、実施する、しないという選択肢はありません。やるしかないのです。それが何らかの理由で遅れたのであれば、その理由を明確にすべきです。
全電源喪失に直面したら、東電は、事業者としての義務と責任で決断しなければなりません。「官邸の指示」を待たずとも実施すべきことでした。
東電が速やかにベント、代替注水を実行できなかったことの検証が迫られます。

「誰か、東電内部に、判断を遅らせ実施を妨害した人物がいる」ということを内藤さんは言外に指摘している。ぜひとも検証してもらおうではないか。

ドイツ倫理委員会の勧告の文章を米倉会長ならどういうかと考えてみた。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。

日本経済はその強さを、かつて最高の質だった製品を低コストで売りつなぐ能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野をタコ足食い的な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業に決定的なピンチを与えることになる。
日本は原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を断固として拒否する。

ウーム、分かりやすい。

昨日のメルケル演説に続き、本日の赤旗にはドイツ倫理委員会の勧告を掲載している。
これは2022年までに原発から全面撤退することを定めた政府法案の基礎となる文書だそうだ。
赤旗を直接お読みいただきたいが、気に入った一節を引用しておく。

ドイツ経済はその強さを、最高の質の製品を作り出すその創造性と能力に負っている。ますます多くの企業が、そのビジネス分野を持続可能な経済の方向に求めるようになっている。原子力利用からの撤退は、そうした企業にさらに多くのチャンスを与えることになる。ドイツの学術は卓越した位置にあり、エネルギー転換に向けて本質的な技術革新や高性能の解決法が引き続き期待できる。
ドイツは原子力からの撤退において世界的に重要な先駆者の役割と責任を担う。

いいですね。Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt ですね。

私たちもこれと似た経験を数多く持っている。70年代初めの公害闘争は大企業の抵抗を押し切って大幅な規制を加えた。その結果、生産は落ちるどころか、反公害技術はいまや日本の最大の技術資産として輝いている。乱開発から市民が守った自然環境はいまや観光日本の最大の資源となろうとしている。なによりもそれらの闘いは日本の民主主義にとって最大の知的遺産となっている。

それにしても、我らが米倉経団連会長もこのくらいのことは言ってみたらどうかと思うが、過去の発言における品性の低劣さはなんとも情けない。


東電病は人体の主としてエネルギー産出系をおかす寄生虫疾患である。この東電虫と呼ばれる寄生虫は、アメリカ原子力兵器産業という外来種と日本在来の大企業の交配から生じた。元来は政府が輸入したものであるが、その後野生化し、中電・関電など全国9ヶ所のエネルギー系に拡散している。 この寄生虫は尻から「利権」という蜜を分泌し、他の虫を呼び寄せる。正確には「東電を中核とする原子力産業複合体」と呼ばれる。これを東電病と呼ぶのは、発見のきっかけが東電の福島発電所で起きた福島シンドロームによるからである。 体内に入ると虫体を中心に腫瘤を形成する点でエヒノコックス病と類似する。しかし東電病においては腫瘤形成傾向が旺盛であり、50年をかけて巨大化する。ことに免疫機構が作動しなくなると急速に増大する。その結果、中心部は血流不全に陥り壊死・膿瘍化し、些細な外力によっても容易に決潰するようになる。その膿にひとたび触れれば、たちまち猛烈なかゆみを生じ、掻きむしるうちに皮膚は欠落し、真皮、筋肉、骨とともにどろどろの一体と化し、強烈な腐臭を発しながら血膿とともに脱落していく。 これが実際に起きたのが福島シンドロームと呼ばれるものであり、水素爆発、大気・土壌・海水の非可逆的汚染と深刻なエネルギーの欠損をもたらす。スリーマイル症候群、チェルノブイリ症候群と類似の徴候を示すが、腫瘤そのものははるかに大きい。 <症状>たまに小規模なデモなどの免疫反応は起こるが、一般的には自覚症に乏しく、時には膿瘍の破裂まで無症状のこともある。鎮痛作用のある麻薬様の物質を分泌するためと見られる。しかし長年の間に生体防御機構は破壊され、いったん福島シンドロームを発症すると病状は急速かつ不可逆的に進行し致死的結果をもたらすことが多い。 <診断>存在診断そのものはきわめて容易である。しかし有害とはみなされず、「自然放射能のごとく」無害な常在菌としてあつかわれ、ときにはビフィズス菌のように人体にとって有益なものと考えられたため、これまでは放置されてきた。無害学説形成に当たってはとくに東大学派の影響が強い。 <治療>福島シンドロームと呼ばれる終末期の急性症状に対してはほとんど打つ手がない。対症的治療としては「受容」、「受忍」があるが、その効果については「受忍させる」ことも含め多くの異論がある。 治療の基本は免疫賦活療法である。初期の段階では生体は東電虫を異物としてとらえ正常な免疫反応を生じ、排除の体制をとるが、繰り返す暴露により疲弊し免疫寛容を生じるようになる。それどころか東電虫が出す麻薬性物質に依存を生じ、東電虫を渇望するようにさえなる。 根治療法としては外科的切除があるが、これは相当進行してからの治療となるため救命的手術とならざるを得ない。血管豊富な腫瘍であるため、切除前には愛護的な用手剥離と徹底的な血管結紮により十分に周囲組織と離断する必要がある。それでも侵襲は大きく出血量は多い。したがって手術そのものの困難よりも、患者と家族に手術を説得し納得させるタフネスがもとめられる。 <予後>さまざまな困難と紆余曲折が予想されるが、肝腎なことは腫瘍といっても癌ではないということである。手術リスクは高いが、いったん腫瘍の完全切離に成功すれば予後は佳良である。術後も免疫賦活療法の継続は必要であるが、少なくとも放射線治療は不要である。

先ほどテレビのNHKニュースを見たが、どうもおかしい。 震災報道では国民一丸となってと呼びかけているのに、ニュース番組が始まるととたんに菅首相が早く辞めるようにという論調だ。 しかも大連立になったらどうなるのか、彼らが何をしようとしているのかはまったく語られない。いたずらに国内対立を煽っているとしか見えない。
公共放送として受信料を聴取しておきながら、明らかに不偏不党の立場を逸脱している。これは東電が公的企業として電気事業を独占しながら、「民間企業」と称して自民党への献金を続けてきたのと同じだ。明白な脱法行為だ。
自民党もおかしい。首相が辞めなければ第二次補正予算の成立を妨害するのか、それは突詰めると被災者を人質にすることではないのか、被災地の人々の救済より政権取りの方が優先するのか。そういう行為は世間では「卑劣」と呼ばれるのではないか?
 そもそも国会は国権の最高機関である。議会が率先して切り開いていくべき課題が目の前に山積しているはずだ。議員立法でも何でもどんどん出したらよい。国民はまさにそのことを国会に期待している。 目を覚ませ! 百年に一度の国家危機を前にこんなことをしていては国会議員として自殺行為ではないか。このままでは、一族の名折れとして将来に汚名を残すことになるぞ。
菅内閣に対する批判も的外れだ。初動の遅れを責任追及しているが、IAEAの指摘にもあるように、複雑な縦割り行政と、中立的独立的な保安機関の不備が初動遅れの最大の原因であり、そのシステムを作り上げた主要な責任は過去数十年の歴代自民党政権にある。まずは深く反省して、改善策を提示してその上で国民の判断を仰ぐべきではないか。 とくに原子力産業複合体にどうやってけじめをつけさせるのか、この方針を明示すべきだ。

21世紀の最初を十年間を、我々は「2001年9月11日」論の中に過ごした。平和と生命の問題ばかりではなく、人権と民族の尊厳、宗教と自由、異なる文明の共存の問題がそこにはふくまれた。
それは1990年11月9日、ベルリンの壁の崩壊に始まった激動の世界、新自由主義と国際金融の横暴、アメリカ帝国主義の専制支配の時代の頂点であり、そこから多国間協調主義への萌芽が生まれ出た時代でもあった。そして24時間の間に世界で1千万の人々が、平和をもとめ、アメリカ帝国主義に抗議して立ち上がった時期でもあった。
同じように、2011年3月11日を、2010年代の世界を特徴づけるモニュメンタル・デイとして位置づけようとする動きが始まっている。日本ではいまだそれどころではない悲惨な状況が展開されているのだが、ヨーロッパではいち早くそのような論調が登場してきている。

それは端的にいえばエネルギー革命だ。
エネルギー革命というと、すでに20世紀から展開されているようにも見えるが、それらは結局石炭なり石油に対するオルタナティブとしてのものであるか、反物質文明的色合いを持ったイデオロギー的運動に留まっている。
これからのエネルギー革命は、持続可能性をもとめる技術革命である。それは資源の持続可能性というよりは人類の持続可能性を模索していく革命となる。
この革命の特徴はもうひとつある。それがまずもって、原発という既存のエネルギーを放棄するところから始まることである。テレビの買い替えとは違う。完全な見通しを持って開始するわけには行かないのである。
しかしそれは人類にとって必ずしも初めてのことではない。東欧の民主主義革命は既存の命令主義的政治構造を破棄することから始まった。そして資本主義への復帰という形態をとって実行された。多国間協調主義は「多極化」=ウェストファリア体制への回帰という見掛けをとりながら進行中である。一時的な混乱と、生活上の困難は覚悟の上で臨まなければならない。

ラテンアメリカ財政の特徴は歳入にある。
第一に、歳入がGDPに対して低い。平均歳入額はOECD諸国でGDPの42%であるのに対し、ラテンアメリカでは23%に過ぎない。
第二に、税の捕捉率が低い。純粋な税収はGDP比16%で、OECD諸国の35%と大きな差がある。税収以外の収入がGDP比8%以上を占める。
第三に、直接税の比率(直間比率)が低い。OECD諸国が42%であるのに比し、ラテンアメリカでは25%にととまっている。
第四に、直接税の中でも所得税の占める比率が低い。OECD諸国が27%であるのに対し、ラテンアメリカではわずか4%である。
LATIN AMERICAN ECONOMIC OUTLOOK 2009 による

要するに金持ちがやらずボッタクリの生活を送り、それを政府が支持しつつ、大衆収奪路線を推し進めているわけだ。しかも政府には信頼がないから、取れるところからだけ取って済ましている…というのがラテンアメリカ諸国政府のありようだ。

所得の再配分機能など到底期待できない。共同体など「幻想」どころかお笑い種だ。

こういう歳入構造が歴史的に形成されてきた。そして民衆の上に覆いかぶさってきた。「失われた10年」と「絶望の10年」がその帰結を赤裸々に開示したのだから、この10年間に相次いで誕生した革新政権は、相当長期間にわたって支持され続けるだろうと思う。
ただしその革新政権も、まだ金持ちの懐に手を突っ込んで正当な税を徴収するところまでは至っていない。それが2008年におけるラテンアメリカの状況だ。

ところで、研究報告で、マックス・ウェーバーなどの近代政治学の手法を用いて分析しているのを見かけるが、それは無駄な作業だ。これらの国で通用するのはマルクスだけだ、

16日赤旗によると、ソニーは多賀城市の仙台テクノロジーセンターで首切りをやるという。浸水被害が出たからといって首を切るのは「世界のソニー」としてはなんとも情けないのだが、とくに許せないのは期間社員150人の全員解雇。彼らの平均年収は270万円、150人全員の年俸は4億円だという。
びっくりしたのはソニー会長の年俸。なんと8億円強です。私たち貧乏人にはこんなにたくさんのお金を何に使うのかさっぱり分かりませんが、とりあえず4億ではだめなのでしょうか。
もちろん困っているのは150人に留まるわけではありませんから、それだけでカタがつく話ではありませんが、そのくらいはしないと痛みを分かち合う「一体改革」の名が泣きます。
記事によると期間社員たちは自宅が被災したのに長時間かけて出勤し、泥のかき出し作業に参加したり、避難所から復旧作業に通っていたとのことです。

この赤旗記事は、ぜひ皆さん読んでください。泣けること請け合いです。

若い頃は金などなく、レコードなどめったに買えなかった。せいぜいフォンタナの1200円盤しか手が出なかった。時たま、レコード屋でパンチ穴の開いた今で言うアウトレット盤が出ると、引き出しから大枚二千円をポケットに入れ出かけたものだった。 下宿代が賄いつきで月7千円、生協のC定食が90円の時代である。 そうやって買ったのがクレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のワーグナー序曲集だった。だからこの曲のこの演奏はクレンペラー以外にない。シノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏はまさにクレンペラーそのものだ。それだけで最高だ。 テンシュテットの演奏はそれとはだいぶ違う。しかしこれも良い。 ショルティは、いつも思うのだが、この人は一流ではない。この人からは知性が感じられない。ロゴ付きジャージで高校のブラスバンドを指揮しているのがお似合いだ。 YOUTUBEではもうひとつゲルギエフの演奏が聴かれるのだが、この人はもっと知性がない。ソ連崩壊のドサクサで出現したオナラみたいな人である。猛烈に臭い。行者にんにくが好きな人にはお似合いであろう。 高校時代に駿府会館でショルティ指揮ロンドン交響楽団を聴いた。ベートーベンの4番と7番、いま考えるとクライバーの十八番だ。しかしその頃は4番も7番も知らなかった。 アンコールのハンガリア舞曲第5番だけは鮮烈に覚えている。トロンボーン3本の迫力はすさまじかった。 このときのメイン指揮者は当時89歳のピエール・モントゥー。ドサ回りをショルティとアンタール・ドラティが引き受けた。いま思うととんでもない顔ぶれである。

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