鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

滝沢修の「風の新兵衛」

あまり見たことのない「大河ドラマ」だが、奇妙に滝沢修の次のようなセリフだけは憶えている。

「風の新兵衛」は町人でありながら討幕運動に関わっている人物なのだが、「なぜか」と問われる。

いまの世の中をまっとうなものにしたいからでございます。そういう運動がいま目の前にある、それを見過ごすことは出来ません。

もちろんそれがお武家の運動であることは承知しているし、もしその運動が成功しても、また別のお武家さまの世になるやも知れぬ、それも承知しております。

その時は、もう一度考えを改めて、今度は町人も分け隔てなく暮らせるように運動するまでです。なんにもしないのでは、なんにもなりません。

何かをすれば、たとえお武家の運動であっても、その中に次の世の芽が育つのではありませんか。それがいつかは花開く、それを信じたいのです。

もちろん、セリフそのままではない。うろ覚えの記憶を元に私が創作したものである。

変なもので、こんなテレビドラマのただのセリフだが、私にとってはマルクスやレーニンの言葉よりも大事な信条になっている。
ところが、このセリフがいつ頃のなんという大河ドラマのものだったかが思い出せない。

例によってネットで調べてみた。以下のようなことがわかった。

この番組は「三姉妹」という67年に放映された大河ドラマだ。このドラマは視聴率から見れば、ほとんど失敗作と言って良い結果だったらしい。フェミニスト路線の走りだったのだろう。私は、こういう歴史改ざん的フィクションをあまり好まない。
三姉妹が岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻という顔合わせ。前二者については、控えめに言ってテレビ向きの人ではなかった。当時は「コマキスト」という言葉が流行ったくらいの人気だったが、私は「サユリスト」だった(もっと言えば芦川いづみだった)。
出演陣を見ると民芸と俳優座ばかり、左翼総出演だ。民芸でさえ右翼に見えた。


それにしても、67年だったのかと感慨を抱く。下宿の部屋にはテレビはなかったから、おそらく晩飯を食いに入った食堂で見たのだろう。セツルメントに誘われて、いつの間にかいっぱしの活動家になって入党し、民青の北大全学委員になって運動野の真っ只中にいた。
すねかじりでありながら、親の思いとは真っ向から反対の方向に突き進んでいくのだから、世間並みの言葉(論理)を欲していたのかもしれない。
asikawa

裕次郎映画の時はどうということなかったけど、この映画一発で参りました

そこに大河ドラマのセリフがはまり、芦川いづみの凛とした美しさがハマったのではないか、そうも思えてくる。

昨日から1泊2日で東京まで行ってきました。
一度に書ききれないほどたくさんの経験をしてきました。
とりあえず、忘れないように書き込みだけしておきます。
1.三鷹まで行って滝平次郎の展覧会を見てきました。大枚はたいてプログラムも買ってきました。いろいろ感想はあるが、いずれ作品も紹介しながら感想を書いてみたいと思います。
2.帰りに駅前通りの喫茶店によってきました。昭和53年に何回か入ったところで、まだやっていることに感心しました。女子医大研修のときに何回か、三鷹中央病院の外来をやりに行ったことがあります。三鷹の駅からバスに乗って4つ目か5つ目かの駅だったかな。それで仕事の帰りに寄りました。一度、隣のテーブルに手塚治虫が座って、編集者と話し込んでいるのに耳をそばだてた思い出があります。
3.夕方からは日本AALAの主催の勉強会が中野サンプラザであって、それに出ました。第一演題が横浜国立大の先生の「ラテンアメリカの政治状況」みたいな話でした。いろいろ言い分もありましたが、おとなしく聞いていました。これも後で紹介します。
4.第2演題が、今回の旅行の主目的だったベネズエラ大使の講演です。時間がないせいもあって米州機構(OAS)からの脱退の問題に集中して話しされました。大使の深刻感は大変なものがあって、60年代のキューバのように明日にでもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という感じで話されていました。これについても2,3日のうちに文章を上げたいと思っています。
5.講演の最中に見覚えのある人が入ってきました。いろいろ考えているうちにニカラグアの大使だと気づきました。これにはちょっと感激しました。そしてベネズエラ問題はラテンアメリカ全体の問題なのだとあらためて気付かされました。もちろん講演の後は大使と交歓を深めました。聞くところによると、あのドゥルセ・マリアはニカラグア大使館の館員になっているようです。ちゃんと給料もらっているかな?
6.会議の後、吉田万三さんたちと繰り出しました。中野の街は大変賑やかでなかなか開いている店がなかったのですが、なんとか腰を落ち着かせることが出来て、総勢6人でワイワイと語り合いました。私はベネズエラに運動を集中させるよう力説しましたが、どう反応してくれるのかな。7月末の総会が楽しみです。
7.結構飲んだと見えて、次の日起きたらもう8時でした。中野サンプラザの上がホテルになっていて割りと感じのよいところでした。16階から19階までがホテルになっているのですが、18階のみが喫煙可になっています。
外から見ても分かるように、中野サンプラザは上のほうが、多分日照権の関係で細くなっています。その分、見晴らしはよい。快適な環境でした。そちら方面に仕事の方にはおすすめです。朝飯はかなり貧弱なので素泊まりのほうが良いかもしれません。
8.朝は阿佐ヶ谷まで行って、多喜二宅のあった馬橋の探索です。北口で降りて線路際の細い道を行くと、予想通りに「The踏切」に出ました。といっても今は高架ですからその下をくぐるのですが。そこから道は車もすれ違えないほどに細く、緩やかにうねりながらどこまでも続いてゆきます。
東京とは思えないほどに静かで、どこかで大工仕事をやっている音が響くくらいです。横に入る道はさらに車も通れないほどに狭く、そのほとんどが行き止まりです。たまにお屋敷もありますが、ほとんどは庭もないような小家が立ち並んでいます。多喜二が住むにはふさわしい環境と言えなくもありません。
大きな稲荷神社があって、その先に杉並第6小学校があって、そこから道は東へと向かっていきます。結局多喜二の家はわかりませんでしたが、街の雰囲気はわかりました。古地図にあった馬橋の風情が未だ残っているということもわかりました。
時計はすでに11時をまわり、6月の直射日光は流石に体にきつい。そこから阿佐ヶ谷駅まで戻りましたが、駅前商店街にたどり着いた頃には体中から汗が吹き出してきました。
9.最後の目的地、高円寺の古書店です。2年前に来て憶えていたと思ったが迷いました。20分ほど道草をしてようやく見つけました。
買った本の題名だけ、とりあえず。
「1億人の昭和史10―不許可写真史」 毎日新聞 1977年
「騎馬民族の道はるか」森浩一 NHK出版 1994年
「古代史  津々浦々」 森浩一 小学館 1993年
10.帰りは結構危うかった。高円寺を出たのが12時半。中野で快速に乗り換えて神田で乗り換えて、あとは浜松町まで快速、と思ったら京浜東北が「信号確認のため」と称してストップ。どうなるかと思ったが、浜松町でモノレールの快速に滑り込みセーフ。
出発1時間前に羽田についた。お陰で靴磨きまで出来た。とは言うものの、崎陽軒のシュウマイは品切れで買い損ね、お土産無しで帰る羽目となった。
11.羽田からの飛行機は乗客確認で20分の遅れ、千歳からの快速は15分待ち、ということで札幌駅に着いたのが18時ちょっと前。ということは飲み屋はもう開いている。それじゃ、というわけで帰宅前にいっぱい引っ掛けてということになる。フクラギのキモとヒモと刺し身をサカナに八海山を、結局三杯も飲んでしまって、我が家についたのが8時半という1日であった。
体のあちこちが近藤選手並みに痛い。明日は起きれるだろうか。

1866年
6月はじめの両軍の布陣
幕府は第一次の時と同じく15万の兵を招集した。それに対し、長州の兵力は4500。
石州では、長州1千人に対して幕府3万。芸州(小瀬川口)では、長州2千人に対し幕府5万。大島でも長州500人ほどに対して幕府は2千人。小倉では、長州1千人に対し幕府2万人だった。(佐賀藩は開戦前より出兵を拒否)
6月5日 幕府軍が長州軍に対し宣戦布告。
6月7日 幕府の軍艦「富士山丸」の周防大島への砲撃が始まる。
6月8日 松山藩兵と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸。長州軍は大島をいったん放棄。
6月12日 下関の高杉は、丙寅(へいいん)丸に乗り込み、大島に夜襲をかける。
6月13日 幕府軍の先鋒となる彦根藩部隊が国境に到達。本来先鋒を務めるべき広島藩はこれを辞退していた。

芸州口

山口県ホームページより

広島から来た山陽道は、小方で二つのルートに分かれます。苦の坂口(中津原口)と大竹口です。一つは旧山陽道で、苦の坂を越えて木野村の中津原から小瀬村へ船で渡り関戸を越えて山中を行く道です。もう一つは海岸ルートで、油見・大竹を経て小瀬川下流を渡り和木村から新港を通って岩国に到るものです。征長軍は、大竹口を追手(大手)と定め、彦根井伊家の軍勢を配置。苦の坂口を搦め手とし、越後高田榊原家の軍勢が配置された。

6月14日 芸州口から侵入した彦根藩部隊が小瀬川で長州軍狙撃隊の待ち伏せ攻撃を受け潰走。後続の与板藩兵も撤退する。

6月14日 苦の坂を進んだ高田藩1千の部隊が長州軍の奇襲を受け撤退。そのまま戦線を離脱。
6月15日 第二奇兵隊・浩武隊が大島に上陸奪回s苦戦を開始。
6月16日 長州軍、反攻作戦の開始を決定。
6月16日 長州藩の軍艦が対岸に夜襲をかける。高杉の丙寅丸が田野浦、乙丑(いっちゅう)丸が門司浦を攻撃。乙丑丸には坂本龍馬も乗り込んでいた。
6月16日 石州部隊は盟約に基づき津和野藩を無害通過、一気に浜田藩に入る。
6月17日 高杉軍、門司に渡海攻撃。砲台を破壊して引き揚げる。
6月17日 大島の幕府軍は撤退。長州軍の第二奇兵隊が大島を奪回。
6月18日 益田の銃撃戦。福山藩兵が抵抗するが、圧倒的な火力差の前に敗退。
6月19日 芸州口では彦根藩に代わり前線に出た紀州軍と長州軍との激戦となる。
6月22日 芸州口の長州軍が大野に向け進軍開始。その後決着がつかないまま、にらみ合い状態にはいる。広島藩は長州藩と休戦協定を結び、中立の立場をとる。

7月3日 長州軍、門司に上陸した後、大里(だいり)の小倉藩基地を襲撃。他藩は攻撃に対応せず、小倉藩は孤立。長州軍は大里制圧に成功するが、かなりの犠牲を出したため、ふたたび撤退。
7月15日 益田から浜田に向かう長州軍を紀州藩が迎え撃つ。銃撃戦の末、装備に劣る紀州藩部隊は壊滅。
7月17日 鳥取藩、松江藩が浜田から兵を撤退させる。
7月18日 浜田藩主は城に火を放って松江へと逃亡。

7月20日 徳川家茂が大阪城内で死去。一橋慶喜が将軍職を預かる。慶喜は自ら出陣して巻き返すと宣言。
7月27日 石州部隊を加えた長州軍は、本格的な上陸作戦を開始。800名の兵が大里に結集。その後海側部隊と山側部隊に分かれ小倉を目指す。
7月27日 小倉平野への最後の関門の赤坂口で肥後藩兵と衝突。長州軍は4波にわたる攻撃がことごとく失敗。大きな被害を蒙る。海からの艦砲射撃もあり、長州軍はいったん大里まで下がる。
7月28日 熊本軍、小笠原総督と衝突し、兵を引き揚げる。これを知った久留米藩や柳河藩も一斉に撤兵・帰国。

7月29日 家茂死去の報を受けた小笠原総督は戦線を離脱。富士山丸に乗り大阪に引き揚げる。
8月1日 小倉藩は小倉城に火を放ち、南東部の山岳地帯香春(かわら)に退却。その後半年にわたりゲリラ戦を続ける。
8月4日 小倉城陥落の報を受けた慶喜は休戦に動く。

8月21日 家茂の病死を理由に休戦の勅命が下る。長州戦争の終結。
9月2日 慶喜の意を受けた勝海舟が宮島で長州と会談。停戦合意が成立する。小倉藩との戦闘は翌年はじめまで続く。

第一次長州征討作戦が総督の優柔不断によって流産に終わった後、1965年~66年の間はじれったいような日々が続く。江戸表がどう動いたか、慶喜・容保ラインがどう動いたか、朝廷がどう動いたか、薩摩がどう動いたか、個々の動きは事細かくわかっているが、全体の流れが見えないのである。
百人の歴史家や評論家が百の意見を持ち出すから、知れば知るほど混迷に陥るのである。
とにかく慶喜という蝶がひらひら舞うので、目障りだ。
この部分は第二次長州討伐をめぐる動き以外はすべて捨象して眺めることにする。そのことで権力抗争の骨組みが見えてくる。

1965年(慶応元年)
2月7日 薩摩藩、公武合体論から朝廷のもとでの雄藩連合政権論に転換。大久保、小松が上京し、朝廷側近と相次いで会談。長州藩降伏条件のうち、藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予することを提案。
3月2日 朝廷より幕府に薩摩提案に沿った「お沙汰書」が渡る。
3月16日 諸隊が藩軍として承認される。
3月22日 幕府大目付が大阪に入り、諸藩に毛利父子の江戸勾引をもとめる。広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩は協力を断わる。
4月1日 江戸幕府、藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達。尾張藩前藩主の徳川茂徳を先手総督、紀州藩を副総督に任命。
5月13日 桂小五郎が長州に戻り、国政顧問となる。村田蔵六が中心となり近代方式軍隊の編成を開始。
諸隊を整理統合し10隊(奇兵隊・第二奇兵隊・遊撃隊・御楯隊など)編成とする。総督-軍監-小隊長-兵士の位階制度に統一。藩の主力部隊とする。
閏5月16日 将軍家茂は江戸を出発し25日には大阪城に入る。大阪より藩主の来阪を命じるが、長州藩は病気を理由に謝絶。
閏5月16日 将軍家茂は京に入り、長州征討の趣旨を奏上。朝廷は即時進攻を裁可せず。
8月 坂本龍馬の斡旋により、井上・伊藤が長崎でグラバーと面会。薩摩藩の名義でミニエー銃4,300挺、ゲーベル銃3,000挺を購入。
8月18日 大阪の家茂将軍がふたたび長州に督促、本人が病気なら嫡子も可と条件を下げるが、長州はこれも拒否。
9月21日 家茂が京に入り、朝議にて再征勅許を得る。
11月20日 国泰寺で長州藩の使節と幕府側の会談。
12月7日 幕府、31藩に長州征伐の出兵を命じる。

1866年(慶応2年)
1月21日 薩長同盟が結ばれる。薩摩藩代人の坂本竜馬と、長州藩代人の中岡慎太郎(共に土佐藩脱藩)が仲立ちする。
2月7日 幕府老中の小笠原長行が広島に到着。召喚命令を発する。長州藩はこれを拒絶。
3月26日 幕府、改めて長州藩主父子・重臣に広島に出頭するよう命令。
4月14日 大久保利通、薩摩藩は第二次長州討伐への出兵を拒否すると表明。幕府軍の攻め口の一つである萩口は担当藩であった薩摩の撤退により消滅する

なかなか脱がないストリップ嬢の趣である。「太閤は10斗の米を買いかねて、今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い」という戯れ歌も思い起こさせる。
最後は仕方なくて始めた戦争という感じだ。国泰寺の会議を傍聴した近藤勇も「これじゃ、やったって勝ち目はない。何処かで手打ちするしかないんじゃない?」と報告しているらしい。
幕府はそこまで追い込まれていたのである。

「トランプ減税」という赤旗記事が要領よく内容をまとめてくれている。

合田寛さんの談話によるもので、見出しは「財政基盤の掘り崩し」となっている。

まずは中身の紹介。読み込んでいくと、

1.巨大多国籍企業への優遇

2.富裕層への優遇

3.法人税概念の放棄

の3つに分かれるようだ。

1.巨大多国籍企業への優遇

まず、巨大多国籍企業への優遇としては、

A) タックスホリデー構想

タックスヘブンには現在2兆ドルが溜め込まれていると言われる。これを国内に還流させるために、1回限りの低率課税を行うというもの。

税金泥棒に恩赦を与えて、返さなくてもいいよという仕掛けだ。

法の意味は根本的に失われる。

合田さんは、

資金は還流しても、それは自己株の買い取りに向かい、国内投資には向かわない。したがって経済効果はない。

としている。

B) 国外所得免除方式

現在は「全世界所得課税」と言って、会社の全利益に対する課税方式になっているが、この内、海外子会社からの配当には課税しないようにするというもの。

ちょっとややこしいが、海外の子会社の利益をそのまま送金すれば税金を取られるが、タックスヘブンのダミーに送金して、親会社はダミーからの配当を受ける、と言うかたちにすれば税金はかからないということだ。

企業がどうするか、猿でもわかる。これは「国外所得への課税免除」そのものだ。

その結果どうなるか、ますますタックスヘブンに所得を留保することになる。

2.富裕層への優遇

大企業の利益は最終的には個人=富裕層に還元される。直接税中心主義の思想からすれば、そこからしっかり取ればいいという理屈も成り立つ。

しかしトランプ減税はここにもしっかり手を打っている。

A) 個人所得税

個人所得税の税率は、最高税率39%を35%に引き下げる。税率7段階を3段階に「簡素化」するというもの。

「代替ミニマム税」の廃止についても書かれているが、内容がわからないので省略。

B) 遺産税の廃止

日本でいう相続税だ。

これは大きい。直接税思想の根幹に触れるものだ。世襲制が公認され、社会が固定化される。これは社会の自殺行為だ。

アメリカの遺産税の税率は最高で40%、これでも低すぎると思うが…。

3.法人税概念の放棄

トランプは法人税を現在の35%から15%に引き下げると言っている。半分以下だ。これは引き下げというより、そもそも法人税という概念の放棄を意味する。

率直に言って、これは国際問題だ。世界各国が法人税の引き下げ競争をやっている。行き着く先は全世界のタックスヘブン化だ。

もちろん各国は法人税減税以外にも各種の優遇策により企業の税率を抑えている。

トヨタの社長が告白したように、5年間1文の税金も払わないで済ましている会社もある。

それはそれで大問題だが、法人税減税という正面からの攻撃は、税制の根幹に関わってくる大問題だ。

いったい、国家の財政基盤はそれで成り立つのか、国家というものを「夜警国家」に変質させるのか、という根本的な疑問がある。


テレビを見ていたら、「なんとか先生の熱烈討論」とかいうアメリカの討論番組をやっていて、トランプ支持派の人が一生懸命に「アメリカ・ファースト」論を擁護する論陣を張っていた。

司会者のなんとか先生は、かなり意図的にトランプ支持派の意見を引き出し、「アメリカ・ファーストで何が悪い?」みたいな雰囲気を作り出そうとしていた。

不愉快で途中でやめてしまったが、「アメリカ・ファースト」論の擁護者は一つも間違っていないのである。だからそこを論点にしてもしょうがないのだ。

問題は、①アメリカ・ファーストが、アメリカン・ピープル・ファーストにはなっていないことだ。②それはアメリカン・エンタープライズ・ファーストであり、③いますでに世界はアメリカン・エンタープライズ・ファーストであり、そのためにアメリカン・ピープルが苦しめられていることだ。

そしてトランプがやろうとしていることは、アメリカン・ピープルの犠牲の上にアメリカン・エンタープライズ・ファーストの世界をさらに広げようとしていることだ。

ということを、事実を持って具体的に明らかにしていくことだ。おそらくアメリカ・ファーストを支持している人たちは、「99%の人たち」であり、本来我々のもっとも心強い味方の人たちのはずだ。

彼らは反ヒラリーであり、反富裕層であった。本来はバーニー・サンダースと心を通わせ合うべき人たちであった。

問題はむしろ、彼らを見る我々の目線の問題にあるのかもしれない。我々はバーニーが彼らを見るように、彼らを見なければならないのだろうと思う。


1863年

京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩が馬関海峡を封鎖。アメリカ商船を砲撃する。


7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。薩摩は甚大な被害を出しつつも撃退に成功。力の差を痛感した薩摩は、その後イギリスと修好を結び技術導入を進める。

8月18日(新暦では9月30日) 「八月十八日の政変」が起こる。孝明天皇の意を受けた会津藩と薩摩藩が長州藩及び三条実美ら尊攘派公家(五卿)を京都から追放する。

1864年(元治元年)

6月 池田屋事件。攘夷派志士多数が殺害捕縛される。
7月19日(新暦では8月20日) 蛤御門の変(禁門の変)。会津藩・薩摩藩との衝突で約3万戸が焼失。(この蜂起に対して、桂小五郎、周布政之助、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重論を唱えたと言われる)

7月23日 朝廷、幕府へ対して長州藩主、毛利敬親への追討の勅命を発す。
7月 幕府は尾張藩・越前藩および西国諸藩よりなる征長軍(35藩、総勢15万人)を編成する。征長総督は尾張藩、副総督は越前藩が務める。

7月27日 三田尻(現防府)で毛利藩幹部会議。藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議する。岩国藩の吉川経幹に対外交渉を集中させる。

8月5日 イギリスを中心とする連合国艦隊17隻が下関の砲台を破壊。この後長州藩は武力での攘夷を放棄。海外技術を積極的に導入し軍を近代化する。

8月13日 幕府の戦略が決定。五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より藩主父子のいる山口を目指すこととなる。

9月06日 吉川経幹が山口に入る。奇兵隊ら正義派は幕府への武備恭順を迫る。これに対し萩側(俗論派)は謝罪恭順を主張。

9月25日 山口で君前会議。藩主敬親は武備恭順を国是とすると言明。

9月25日 会議終了後に俗論派が君主派要人を襲撃。藩論をひっくり返す。

井上馨(聞多)は襲撃により重傷。その後の弾圧により周布は自殺、清水親知(清太郎)も蟄居となる。俗論派は藩主を取り込む。

9月30日 薩摩藩の密使が岩国に入り、岩国藩(支藩)と交渉開始。

10月15日 奇兵隊を含む諸隊(750人)が山口より長府に移動。五卿を奉じて立てこもる。(五卿は長府の功山寺に逗留していた)

10月21日 薩摩藩(密使)は長州藩の所領安堵のために尽力すると書状で意思表明。独自の降伏条件を示す。

10月22日 大阪城に各軍指導部が集結し軍議を開催。広島の国泰寺に総督府、豊前の小倉城に副総督府を置く。18日に五道より攻撃を開始することとなる。

10月24日 薩摩藩の軍代表、西郷隆盛が総督の尾張藩主徳川慶勝と会談。薩摩藩の和平案を提示する。慶勝はこの提案を受け入れ、西郷を全軍の参謀格に据える。(これにより幕府の戦争突入戦略は事実上反故にされた)

10月24日 高杉晋作が萩より脱走。福岡に潜伏。

11月04日 征長総督の命を受けた西郷が岩国に入る。岩国藩主の吉川経幹と会談。三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放で合意。直ちに執行される。

11月16日 岩国藩主が三家老の首を持参し国泰寺に出頭。事情を知らない幕府大目付は強硬な立場で臨んだが、西郷のとりなしで妥協に応じたとされる。(この辺はかなり眉唾)

11月18日 国泰寺の総督府、山口城破却と五卿追放で矛を収める。小倉の副総督府(越前藩)はこの妥協に不満を表明。

11月23日 西郷、国泰寺から小倉に赴き副総督府を説得。

11月25日 高杉が長府に潜入。諸隊に危機感を煽り挙兵を説く。

12月1日 薩摩藩の密使が五卿と面接。九州の五藩による身柄預かりを提示。五卿側は奇兵隊などとともに戦う姿勢を見せ抵抗。

12月08日 奇兵隊総督の赤禰武人、萩派の説得を受け恭順策を提起。軍監の山縣有朋はこれを拒否。

12月11日 西郷、小倉より長府に赴き諸隊(奇兵隊、遊撃隊、御楯隊など)の慰撫を図る。奇兵隊はこれに応じるが、高杉晋作は反対した。

12月15日 高杉が長府で挙兵。元治の内乱が始まる。力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)がこれに従う。間もなく奇兵隊も合流。赤禰は隊を離脱する。

12月27日 征長軍の徳川慶勝総督は解兵令を発する。幕府は不満を表明したが、解兵後のためそれ以上の手立ては取れず。

1865年(元治2年→慶応元年)

1月6日 萩の討伐軍と諸隊が大田街道沿いで激突。

1月16日 10日間にわたる戦闘の末、討伐隊は進撃を断念する。 

1月23日 藩内中立派の斡旋により停戦協定が成立。討伐軍は撤退する。

2月10日 俗論派が中立派要人を暗殺。諸隊の犯行とでっち上げるが、逆に藩内で孤立。

2月14日 俗論派の首領、椋梨藤太が捕縛され、藩は諸隊支配のもとにおかれる。

京都では孝明天皇の信任を得た徳川慶喜(禁裏御守衛総督)、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代・容保の実弟で桑名藩主)のトロイカ体制が権力を握る。江戸の幕閣の意向には全面的に従わず独自の行政を行う。

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし作戦に反対。

明治維新というのは不思議な革命である。

革命という言葉を使ったが、異論もあろうかと思う。

しかしクーデターと言うにははるかに長期かつ大規模である。そして最後には戊辰戦争という国を二分する内戦を経過して初めて成し遂げられた政治権力の交代である。

これが革命でなくして何を革命と呼ぶか。マルクス様にお伺いを立ててもせんのないことだ。

最初から話が横道にそれた。

「明治維新革命」は三段階に分けて語ることができる。最初は攘夷運動だ。これを通じて幕府の権威は大きく揺らぎ、天皇の権威が高まった。しかしこの高揚はイギリスに戦いを挑んだ長州、薩摩の惨敗により幕を閉じる。

第二幕は、京都の動きに目を奪われると複雑だが、軍事的に見れば長州の孤立した戦いの局面だ。それは蛤御門の変から第一次長州戦争、第二次長州戦争と続く。これで負けていたらその後の動きはなかったろう。

第三幕は長州討伐の失敗で権威失墜した幕府が自壊し、戊辰戦争へと追い込まれていく過程で、イギリスの動向も絡んで、かなり陰謀的な様相が強く評価もバラバラだ。

明治維新がなかったら、日本の近代化は10年は遅れていたかもしれないし、逆にもっとスムーズに進んでいたかもしれない。ひょっとすればイギリスの植民地になっていたかもしれない。

しかし肝心なことは、もはや幕藩体制では「明治グローバリゼーション」を乗り切ることはできなかったということである。

これらの内紛を通じてイギリスに「日本には迂闊に手を出さない方がいい」という印象を与えたことであろう。

中国に比べれば日本からのリターンはたかが知れている。しかもやたらと好戦的で事を構えれば相当厄介なことになる、となればとりあえず好きなようにやらせて自壊を待つ、というのが妥当な戦略となる。

ということで、明治維新革命は国内評価においても国際評価においても軍事的動向抜きには語れないのである。

その中でも歴史の変曲点となった第二次長州戦争についてより詳しい分析が必要であろうと思う。

ということで、前置きが長くなったが、第二次長州戦争の年表。色々な呼び名があるが、ここでは長州戦争で統一しておく。

その前に、長州戦争の序曲となった第一次長州征討事件の年表。

第一次長州征討についての感想。
とりあえずウィキから拾っただけなので、ウィキ氏の主観が色濃く投影されていると思う。
まずは第一印象ということで。

1.幕府の圧勝だったはず
蛤御門の乱は江戸幕府にとって、絶好のチャンスであった。
はっきりした敵は攘夷派の志士たち、朝廷内の五卿を中心とする尊皇派、そして軍事集団としての長州藩であった。
中間派として孝明天皇の側近集団、親藩並みの地位をもとめる薩摩藩がいた。
この中間派は蛤御門の乱を機に、反攘夷・反長州へとなびいた。
江戸幕府はこの機を逃さず、長州征討の大号令をかけた。
そして武力で長州藩支配地を占領するつもりでいた。和解するつもりなどないから、長州藩へ厳しい講和条件を出した。
そして御三家筆頭の尾張藩を総督とし、戦争計画を着々と進行させた。

2.薩摩の密かな介入
そこに忍び込んだのが薩摩藩(西郷)で、長州藩に密使を送り込んで妥協の可能性を探り、幕府要求を値切った腹案を総督の下に提案した。
諸藩連合の実現と、外様大名の発言力強化を目指していた薩摩にとっては、幕府独裁体制の強化につながる動きは避けなければならなかったろうと思う。
しかし薩摩藩にどのような思惑があったにせよ、これは抜け駆け行為であり、厳しく言えば通敵行為である。

3.徳川慶勝の独断的計画変更
総督はこの提案を受け入れたのみならず、西郷を全軍の参謀格に据えた。
つまり徳川慶勝総督は戦争をしたくなかったのである。そのために当初の目的を曲げてまで、組織規律に逆らってまで戦争回避に動いたのである。
西郷を参謀格に据えるまではかろうじて専権事項といえるが、幕府を代表する幕閣にも、小倉の副総督にも事前に「ホウレンソウ」したとは思えない。

4.自前の軍を持たない江戸幕府の脆弱さ
何よりも不思議なのは、江戸幕府軍が自ら攻撃の先頭に立たなかったことである。
その気になれば、江戸幕府軍単独で長州戦争を戦うことも出来たはずだ。
その代わりに諸藩には戦費を負担させればよい。
もちろん戦争というのはキャンペーンでもあるから、諸藩がこぞって戦争に参加したという形を取ることも大切である。
しかし戦争というのは形でやるものではない。
割当制で戦争をやろうとするなら、諸藩は前を向かずに隣を見る。そこそこお付き合いしましょうということだ。
これが「敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆なるぞ」というものだ。


 

前の記事に水をかけるような記事がある。

m3.comというサイトの

SGLT2i「理想的な利尿薬」の可能性

という記事。

サブ見出しは「心疾患治療薬として既存利尿薬にない優位性と”併用禁忌薬”」

日本高血圧学会総会での旭労災病院の木村玄次郎院長のレポートを要約したものらしい。

いかにも期待させる見出しだが、中身は逆。

* 謳い文句はいろいろあるが、それは一次的な作用であり、二次的には低用量のサイアザイド系利尿薬(フルイトラン1/2錠)と同等と考えられる。

* 利尿剤が効くのはループと遠位尿細管、集合管だけだ。近位尿細管に働いてもそれより川下でキャンセルされてしまう。

* 心不全患者のうちRA系薬、β遮断薬が投与されている群に追加するときのみ有効。利尿剤、抗アルドステロン薬使用群への追加は無効。

* 利尿剤との併用は禁忌。したがって中等・重症例には適用なし。利尿剤が心不全の第一選択となっている日本では使い道なし。ただし利尿剤をガンガン使うのが趣味でないという医師には居酒屋の突き出し程度にはなる。

ということで「体には優しいが非力」という結論になりそうだ。

なんとなく心不全の治療の情報が生煮えで、スッキリしていなかったところに、また新たな情報が入った。

糖尿病の治療薬でSGLT2阻害薬(EMPA)というのがあるらしいのだが、これを使った糖尿病患者で、心血管死が38%減少したというのだ。

血糖降下薬なので糖尿病のない人には使えない。しかしそれだけ効くのなら低血糖に注意しつつ使うという手もあるかもしれない。

以下は

 EMPA-REG OUTCOME試験がもたらす 糖尿病治療の新時代 ・・・・・・・・・・ 片山 茂裕  Online DITN 第456号 2016年(平成28年)3月5日

という記事の要約。

下の図は、これまでの血糖降下剤との比較だ。

enpa
右の列がEMPAだ。いろんなデータがあるが下から3行目の心不全の発症率というのが明らかに低い。他剤で3.0~3.5%程度なのがEMPAでは2.7%にとどまっている。ただし心不全の既往歴という行を見ると、このスタディーの対象患者の心機能は比較的良さそうだ。

もともと、これはEMPAの副作用によって心血管合併症を増加させる危険がないことを実証するためのプロトコールであり、非劣性試験と呼ばれるものである。

なお層別解析で、

65歳以上、アジア人、HbA1c<8.5%、BMI<30でエンパはより有効であった。

というくだりが嬉しい。つまりEMPAはDMの改善を通じてではなく、直接心機能に好影響を及ぼしているらしいのである。



それで「SGLT2阻害薬」と言うのは一体何だということになる。

糖尿病リソースガイド」というサイトから拾ってみる。

SGLTとは、sodium glucose cotransporter(sodium glucose transporter)の略で、「ナトリウム・グルコース共役輸送体」と呼ばれるタンパク質の一種のことです。

と言われても何やら分からない。

SGLTの種類はいろいろあるが、SGLT2は腎臓の近位尿細管に限定的に存在している。

ということで腎臓からの水の出し入れに関係するらしい。ラシックスの逆みたいな働きになるのか。

SGLT2は、グルコースを栄養分として細胞内に再吸収する働きがあります。

普通の人では、グルコースのほとんどは再吸収されます。血糖が異常に上昇すると、SGLT2の再吸収能を超えてしまい、これが尿糖として排泄されます。

糖尿病患者では血糖が上がるに従いSGLT2も増えてきます。これは高血糖を維持させ、糖尿病を悪化させる悪循環をもたらします。

そこで開発されたのがSGLT2の働きを阻害する薬剤です。この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、結果だけ見れば「尿糖排泄促進剤」ということになる。

これは痛風の薬と同じで、尿酸の産生を抑えるザイロリックに対して、尿酸の排泄を促進するユリノームということになる。

もちろん効く薬にはそれなりの副作用もあるわけだが、作用部位が限局していて、作用機序がはっきりしているから、対処の仕方もはっきりしている。

発売されたのが2014年。最初がスーグラ(アステラス)、次がフォシーガ(ブリストル・マイヤーズ)、さらにルセフィ、アブルウェイ、デベルザ、カナグル、ジャディアンスと続く。薬価は200円から300円だが、最後のジャディアンス(ベーリンガー)だけは356円とお高い。これだけでも1万円を超える。

たいてい多剤併用だから薬代だけで月2万円は飛んで行く。老健では絶対に受け入れられない。まぁ来ないだろうが。

副作用の欄には

多尿による脱水。特に腎機能が低下している患者、高齢者には注意

と書いてある。

これが、心不全に効く理由であろう。副作用どころかまさに主作用である。


ここから先は感想になるが、病態生理的に見てとても面白い薬である。

1.ラシックスとの類推

結果的にはラシックスを投与したのと同等の効果をもたらすのであるが、ラシックスのようにヤミクモに近位尿細管をひっぱたくのではなく、水分を溜め込む物質を見つけ、その働きを調整することで適切な利尿を得るという点では、よりソフィスティケートされた手段である。

2.「ナトリウム・グルコース共役体」という概念

いままでのさまざまな臨床経験が、「なるほど、これだったのか」と何か解き明かされそうな感覚が湧いてくる。

いままでは、Na・水 という2者で考えていたが、そこにグルコースという物質を加えることでスッキリ説明できるような現象がありそうだ。

近位尿細管という部位は必ずしも本質的なものではないのかもしれない。ある意味では近位尿細管というのは「ナトリウム・グルコース共役体」の網の目からなるフィルターと考えたほうがいいのかもしれない。

3.「浸透圧利尿」の範疇も再吟味が必要だ

経験的に、開心術後の患者で10%糖液(フィジオゾール3号)が非常に有効なことは知っていた。

手術を終えてICUに入ってきた時点で、患者はいちじるしい脱水に陥っている。急速に体液を補充しなければならない。

その際には肺水腫に注意しつつかなりのスピードでフィジオ3号を入れていた。ある程度入ってくると利尿がつき始める。

利尿がついたら一安心と思うが、実はそれからがやばいので、とにかく追っかけなければならない。利尿が補液量を上回ると血圧がすっと下がって心臓がパタンと停まる。

さりとて入れ過ぎれば、ナースが「ラ音です」と叫ぶ。

さじ加減としてはフィジオ3号で5千くらい入ったら、少しづつハルトマンを加えていく。そうすると利尿も落ち着いてくる。これで7,8時間だ。

エコーで壁運動を見て、ガス分析でBEが安定すればあとはちょっと一息ということになる。

あの頃はそれらをすべて浸透圧で説明していたが、私には10%糖液が浸透圧以外の効き方をしているように思えたものだ。「ひょっとして脳(視床)を介しているんではないか」とか「糖そのものに利尿があるのではないか」である。

4.糖尿病性昏睡の機序

いまはずいぶん減ったと思うが、昔は年に1人位糖尿病性昏睡の患者が担ぎ込まれたものだ。

こっちの対応はDM医がやるから、私は脇から見ているだけだが、一応心臓の評価はしなくてはならないから、「それじゃお先に」というわけにも行かない。

それとDM屋さんはデータばかり見ていて、患者をあまり見ないので心配なところもある。

また余分なことを言ってしまった。

いま考えると、高血糖でおしっこがジョンジョン出ている状態っていうのは、そのSGLTっていうのはどうなっているんだろう。

きっとノックアウトされているのだろうね。

そうすると、ひょっとすると糖尿病性昏睡というのは病態生理学的にはSGLTがノックアウトされた状態を指しているのかな。

となれば、SGLTはどのような理由で、どのような機序でノックアウトされるのだろうか。多分それはクライシスを脱した後で息を吹き返すのだろうけど、どういう風にして立ち直るのだろうか。

5.ラシックスとの相乗効果はあるのだろうか

ここが一番知りたいところだ。

ラシックス・トラップみたいなものがあって、どっかでラシックスが効かなくなってくる。

ForresterⅢのどん詰まりだ。40→80と増やしていっても聞かない。低ナトリウムと全身浮腫だけが進行していく。

FFバイパスで除水するが、焼け石に水で、下手をすれば心停止を招きかねない。

「入れて出す」のが基本だが、これでは入れられない。

多くの心不全患者はこういう形で雪隠詰めになるか、どこかで突然死するかでお陀仏となる。

この段階で有効かどうか、ラシックスやANPとの相乗効果はあるのか。しょせん延命にすぎないかもしれないが…

6.川下は対応できるのだろうか

この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、ダムの嵩上げをやめてグルコースを下流に放流すれば、川上の洪水は解消される。

しかし放流された川下の住民はどうなるのか。ちょっと心配だ。

まぁ、いままでの排泄促進剤や利尿剤でも大した副作用はなかったからそれほど心配する必要はないだろう。何かあったとしても命に比べれば大したものではない。



本日の赤旗文化面には西谷敏さんの「労基法の精神」を述べた文章が掲載されている。
労基法は以前にも一度勉強したことがあったが、どちらかと言えば条文の内容についてのものであった。そして労基法(労働基準法)が如何に骨抜きにされてきたかを学んだ。
しかし、「労基法の骨」とは何だったのかまでは触れられていなかった。そこを西谷さんが解説してくれている。
1.「人たるに値する労働条件」
労基法の目的は(目標といったほうが適切かもしれないが)、1条1項にある「人たるに値する労働条件」という言葉に尽くされている。
「人たるに値する条件」というのはいろいろあるが、それはまず日本国憲法の精神である。25条の生存権、27条の労働権、13条の個人の尊重を根っこに据えた「人間の条件」である。
西谷さんは「労基法の根底には一種の理想主義があった」と書いている。
2.「労働条件」を守らないのは犯罪
西谷さんの言葉を少々いじらしてもらうと、こういうことになる。
労基法の最も重要な特徴は、「人たるに値する労働」の最低基準を決め、これに違反するものを犯罪として罰しようとしていることである。
ただしこれは予定してはいたが、実施されるには至らなかったらしい。
この後、西谷さんは労基法の辿った運命を書き記している。
*労基法の掲げた理念は実現には程遠い。
*その原因は労基法が時代の変化に応じて適切に改正されなかったこと、労基法違反が相次ぐ中で実質的に骨抜きにされたこと、労働運動が期待に反して大きく停滞してきたことなどによる。(これらの論点については素直には首肯できない)
*「働き方改革」は憲法と労基法の理念を現実化するものでなければならない。しかし現実の動きは逆である。
*制定から70年、労基法はいま現実化と空洞化の岐路に立たされている。
最後の論点は重要だ。空洞化の岐路はとっくに過ぎていたと思っていたが、労基法そのものが、満身創痍とはいえ生き残っていることを、我々はもっと重視すべきなのかもしれない。

2016年04月10日 イーグルスのゲット・オーバー・イット(Get over it)の「訳詞」

が意外と好評なようなので、もう1曲やっちまいました。

Kanas Dust in the Wind 1978

こちらはメロディーとアレンジが売りの曲で、「続ホテル・カリフォルニア」みたいな感じですかね。歌詞はナイーブなものなので、別に訳すまでもないのですが。

You Tubeだと「オフィシャル」版よりオリジナル版のほうがおすすめです。

風に舞う塵

僕は眼を閉じる。

ほんの一瞬なのに

その瞬間は行ってしまう。

僕の夢のすべてが

目の前を過ぎ去っていく。

おかしな話だ。


風に舞う塵だ。

僕の夢は

ただ風に舞う塵だ。


いつもの古い歌が聞こえる。

果てしない海の

一粒の雫のように。


僕らがやっていることと言ったら

ぼろぼろになって

地面に落ちるだけのこと。

そんなこと知りたくもないが。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


さあ、くよくよするな。

大地と大空

ほかに永遠のものなんかないんだ。


時間は脇をすり抜けていく。

有り金はたいても、

たとえ1分でも買えやしない。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


風に舞う塵。そう、

すべてのものが風に舞う塵なんだ。


2016年11月01日 「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

もご参照ください。


いま書いとかないと忘れてしまうと思うので、とりとめないが書いておくことにする。
朝はNHKテレビで南スーダンの問題をやっていた。現地で長年NGOをやってきた何とかさん、NHKの解説委員、元国連職員という肩書が売り物の某大学教授がコメンテーターを務めていた。内容はかなり不満であった。元国連職員氏は日本外務省の出向みたいな人で、国際貢献と「普通の国」論で押してくる。NHK解説委員は「されど憲法があり…」といかにもの口調。これに対してNGO氏の歯切れが意外に悪い。
ディンガ族となんとか族の対立で情勢は厳しい、だから自衛隊は行くなという話で、後半部分はたしかに正しいのだが、前半の情勢評価部分はのっぺらぼうだ。
政府を形成している解放戦線が、何十年も独立闘争を続けてきた民族の代表で、選挙でも圧倒的な支持を受けているということについての申し立てはない。
政府と対立する党派が、長年スーダン側に立って反独立側で動いてきたことについても言及はない。スーダンが独立後も南スーダンへの干渉を続けていることも、その背後に石油の利権をあさる中国がいることも言及されない。
さらに援助とPKOの軍事圧力を背景に政治に容喙する国連の行き過ぎた干渉、OAUと周辺諸国の排除についても言及しない。
私は事の本質は国連の過剰介入と、PKOの権限逸脱にあると思う。「ルワンダの再現」を危惧する人に対しては、大虐殺の主要な危険は反政府側にあり、副次的には政府の治安機能の弱体化にあると主張したい。
治安維持と平和維持という国連本来の機能から考えれば、一番必要なのは政府機能、とりわけ治安維持機能の強化にあるのではないか。
南スーダンを第二のエチオピア、第二のメンギスツ政権にしてしまうのか否か、それが問われているのだろうと思う。
もう一つは先ほどまで行われた石川文洋さんの講演。講演そのものはやや散漫だったが、質疑応答で「シリア、南スーダンなどの現状をどう思うか」との質問に対し、質問の内容を「シリア、南スーダンなどの人々をどう支援すべきか」と修正した上で、こう答えていた。
日本の人々はシリア、南スーダンなどの人々をさまざまな形で支援すべきだ。そこには自衛隊派遣という選択肢はないだろう。人民同士の連帯には武器は必要ない。具体的にはNGOへの支援という形であるべきだ。私たちがそういう姿勢を示し、具体的に形で表せば、それはシリア、南スーダンなどの人々にも国際機関にも評価される」
たしかにそれが憲法前文にいう国際社会での「名誉ある地位」を示すことだ。

またもしつこく、古代史の時代区分についての文句垂れ。
西洋史では石器時代→青銅器時代→鉄器時代である。何故この時代区分が東洋史では用いられないかというと、実用面からの理由であろうと思う。つまり青銅器時代が短すぎるからである。
理由は青銅器も鉄器も中東からの輸入であり、青銅器と鉄器がほとんど間を置かずに入ってきたからである。
紀元前3千年ころにシルクロードを経由して青銅器が入り、その500年ほど後に同じルートで鉄が入ってきた。つまり中東が1500年をかけて青銅器から鉄器への移行を果たしたのに対して、中国はそれを3分の1の期間で済ませてしまったのである。
ところが日本では様相が異なる。
長江人は中国北部に青銅器が入った後も、なおしばらくは石器時代のままであった。青銅器文明が四川省を中心に花を咲かせた頃、中国北部ではすでに鉄器時代に突入していた。
鉄器はおろか青銅器さえ十分に持たないまま、長江下流の民は山東半島→朝鮮半島を経て日本にやってきたのである。
強力な鉄器を持つ中国北方の民が朝鮮半島に進出し日本に影響をあたえるのは紀元前100ないし200年頃、漢が楽浪郡を創設する前後のことだ。
したがって晩期縄文時代との並立期をふくみつつ、日本の青銅器時代は紀元前7世紀ころに始まり、九州北部では紀元前後、その他の地域では銅鐸文明が圧殺される西暦200年ころまで続いたと考えられる。この800年ほどの期間、弥生時代のほぼすべてをふくむ時代を青銅器時代と呼ぶのはきわめて自然だと思う。それは銅鐸の時代と完全に重なる。
銅鐸の時代は、西日本で長江人と縄文人のミックスが進み「日本人」が生まれる過程でもある。そして紀元前後から進出した半島の北方人が鉄製武器により支配の手を伸ばしていく時期でもある。
鳥取の二つの遺跡はその過程を鮮やかに示している。
さてこの青銅器に続く時代であるが、基本的には稲作のフロンティアを拡大していく過程である。そして大和朝廷の全国支配の達成を一つの区切りとして有史時代へと移行していく。
この間に九州北部の倭王朝は没落し、「同盟」関係にあった任那は新羅と百済の支配下に降り、半島とのつながりは絶たれた。
大和の北方人(天孫系)は「日本人」と同化し、ここに“単一民族国家”としての「日本」が登場する。この後、北方のエミシ(縄文人)は大和朝廷との闘いに敗れ同化していくが、北海道に渡った縄文人は現地の後期縄文人と結び、オホーツク人を征服しつつ縄文の文化的・言語的アイデンティティを守ることになるが、それは「別史」である。
そういう時代を「古墳時代」と名付けるのは正しいとはいえない。正しくなくても「弥生」は極めて無意味な命名だから実害はないが、古墳時代は時代に誤った印象を与える有害な命名であるから止めたほうがいい。せめて「土師器・須恵器時代」のほうがまだいい。
なぜなら古墳(前方後円墳)は文化の中心性の象徴ではなく、フロンティア性の証だからである。それは時々の水田耕作の前線に沿って形成されている。沼沢地帯が大規模工事によって水田と化していく過程でそれらは形成され、水田開発が終わると大規模古墳のブームは廃れ、さらに東へ北へと移動していくのである。
地図を見れば分かるように、それは吉備古墳群(児島湾の干拓)、大和古墳群(大和湖の干拓)、河内古墳群(河内湖の干拓)、さきたま古墳群(関東平野の干拓)と続き、宮城北部古川の水田開発をもって時代を終えるのである。詳しくは知らないが濃尾平野や中越平野でも同様なできごとがあったのではないだろうか。

干拓を終えた後には整然と区画された美田が広がり、人が張り付いただろう、米作というのはとにかくめちゃくちゃに労働力を必要とする商売だから、人口は急速に増えたであろう。そしてそれぞれが強国となっていっただろう。
これが日本の政治・経済の重心を九州北部から東に向かって移動させたことは疑いない。それを考古学的に象徴するものは何か。それを私は問うているのだ。





ゲノム研究 年表 がグーグル検索で上位にヒットする。

恥ずかしいので少し増補した。

わからないのは相変わらずだが、わからないなりに耳が慣れてきたのか拒否反応は軽くなってきた。

サンガー(70年代)という人とヴェンター(90年代)という人がキーパーソンになっているようだ。この二人の人脈辺りから辿っていくと、もうすこし雰囲気が分かるかもしれない。

文献探しのコツは、生物学者、とくに遺伝屋さんの書いた文章は読まずに弾くこと。脳が乱視状態となる。遺伝子工学の人の話というのは、1本釣りの漁師がトロール漁法を解説しているようなものだ。

むしろ企業関係のページに面白いものがたくさんある。

 韓国の民主・進歩運動の中には、80年代学生運動の潮流が今もなお受け継がれている。

それらの運動の中でNLとPDという2大潮流があった。これからは主要な対立ではなくなっていくのだろうが、それでも折にふれて顔を覗かせるので、知識としては憶えておかなくてはならない。
(ただし、この問題については個々人の古傷に触れることにもなりかねないので、人前でひけらかすような真似はしないほうが良い)

1.「民族解放・人民民主主義革命」論への流れ

1980年代、光州事件以降、学生運動の中に「民族解放派」が広がる。“National Liberation People's Democracy Revolution”の頭文字をとってNLと呼ばれる。

85年末、「科学的学生運動」を唱導した高麗大・ソウル大グループが、「民族解放・人民民主主義革命」を標榜し、急速に全国に勢力を拡大した。

「民族解放・人民民主主義革命」は基本的視点としては日本共産党の60年綱領(旧綱領)の骨子と似通ったところがある。

韓国社会はアメリカ帝国主義の半植民地であり、同時に半資本主義でもあると評価し、当面する革命の性格を民族解放の性格を持つ闘いと規定する。

そこでは植民地半封建社会論と植民地半資本社論が対となった植民地半資本主義論」が土台となっている。しかしこの課題は十分には展開されない。とくに60年後半からの高度成長で、離陸を遂げた韓国経済への評価が蓄積されていない。

アメリカの半植民地とする評価はこれまでの闘いの中から学生たちの共通認識となってきた。それはすでに60年代学生運動にも表されていたが、70年代の反朴政権、民生学連の闘いの中で次第に明らかになった。

そして光州民主化運動への武力弾圧をアメリカが黙認したことから、反米なくして解放なしの声が一気に広がった。これが「民族解放・人民民主主義革命」論に結びついていく。

この新しい潮流は韓国民主運動にとって画期的な意味を持っていた。それはいままでの反軍事独裁、民主化という即自的受け身な対応から、運動全体を革命運動と捉えていく能動的姿勢への転換である。

しかし、この路線は二つの問題を内包していた。

一つは科学的社会主義の軽視である。軽視というより無知であると言わなければならないかも知れない。科学的社会主義に関する文献は制限され入手困難であった。したがって目の前の社会矛盾を解明し、その因って来るところを分析する視角が不足していた。だからすべてを反米の路線に流し込むきらいがあった。

民族解放派は、半植民地・半資本主義という韓国の特殊な状況においては、民族矛盾が階級矛盾に優先するとみなし、学生運動と変革運動の焦点を反米主義と南北問題に集中させた。

レーニンの「帝国主義論」を除けば、科学的社会主義の理論とはかなり縁が遠い思考であった。(韓国版ウィキより)

もう一つは革命の「戦略」に関わる問題である。これにはおそらく75年のサイゴン解放、南北ベトナムの統一という世界史的事件が関係したであろう。これにより民族の悲願である「南北統一」の課題が、革命戦略の中に無媒介的に組み込まれてしまう。

その悲劇的表現が「主体思想」である。

2.NL・PD論争

NLは「自主・民主・統一」(ジャミントン)という大衆組織を立ち上げる。共産党が民青を、革共同が社学同を立ち上げたようなものだ。学生自治会の組織が続き、全大協と韓総連が結成された。さらに社会各方面までふくむ汎民連も結成される。

これに対し、「人民民主派」(PD)が対抗馬として登場した。PDは資本家と労働者の階級矛盾を強調し、マルクス主義の伝統に忠実にしようと考えるグループである。NLが自主派、PDが平等派と呼ばれることもある。

NLは単一の指導理念に基づいて、統一された中央集権的な組織を形成しているが、PDは本来単一政派はなく、いくつかの政派が独立して形成されたものである。組織的にも分立されている。

彼らは韓国社会を「独占資本主義段階にある新植民地主義国家」と規定した。また光州民主化運動についてはまずもって民衆の蜂起と見て、韓国労働者階級の闘いの幕開けと評価した。(韓国版ウィキ)

ようするに評価の視角がまったく異なっているから、議論はすれ違う可能性がある。PDは階級的視点からNLを批判し続けたが、所詮は批判者であって、それが両者の力関係を覆すには至らなかった。

この論争は韓国が抱える問題を、萌芽的には網羅していただけに、いまだに組み尽くすことの出来ない教訓をふくんでいる。ただ時代的制約もあり、両者の問題意識はやや図式的である。

権威主義的工業化の過程で発生した強力な反共権威主義国家にどう立ち向かうかという視点が不十分である。これらの新たな問題を民族と労働者階級の両方の視点で再度検討しなければならないであろう。(崔章集

3.主体思想派

これについては話し始めるとキリがないのだが、要点だけ触れておこう。

主体思想は北朝鮮の国家理念であり、朝鮮労働党の指導理念でもある。

主体思想がNL派の中に最初に持ち込まれたのは、民主化の始まる直前、1986年のことである。金永煥(ヨンファン)が「鋼鉄通信」という文書シリーズを次々と発表し、「首領論」、「品性論」などの主体思想を大学街や労働界に広げた。

NL派の多くはこれに影響を受け「主体思想派」に変わっていく。韓国版ウィキは簡潔に経過を書き記している。

主体思想派は自生的な親北主義者で、北朝鮮の短波放送を密かに聞くことによって、その情勢分析と理論を受容した。

金永煥は自ら民主革命党(ミンヒョクダン)を組織し、北朝鮮の指導を受け、韓国の進歩運動に介入した。

1995年頃からは、学生運動の全体的な衰退と北朝鮮の実状認識、主体思想の創設者である黄長の亡命などで徐々に力を失った。

しかしいまも、もっとも厳しい時期を経験した不屈の闘士たちは健在である。民主革命党の流れをくむ集団は東部連合、蔚山連合の活動家集団などに影響を与えていると言われる。

なおNLの全部が主体思想派に移動したわけではなく、一部は「民族民主革命論」(ND)を主張し、別グループを形成した。彼らは「民族解放左派」を自称したらしいが、その後の経過は不明である。

3.NLのフロント組織

NLイコール主体思想派と断定するには躊躇を覚える。また87年民主化以降は非公然中核組織とフロント組織という分類も意味がなくなりつつあるが、存在そのものが違法とされる主体思想派にとっては、まだこういう色分けも必要であろう。

フロント組織は次々と登場しては消えていく。憶える必要もないが、一応名前はあげておこう。

まず89年1月に全国民族民主運動連合(全民連)が結成された。これは当局の厳しい弾圧により間もなく消滅した。

ついで91年末には、全民連を再建する形で民主主義民族統一全国連合 (全国連合)が発足した。NLが指導する在野運動勢力14団体のアンブレラ組織である。

97年、民革党事件を機に「全国連合」は公然活動を停止し、事実上の解散に追い込まれた。

2007年、NLは全国連合を解消し、あらたに「韓国進歩連帯」を結成した。韓米FTA阻止、非正規職撤廃、平和協定の締結と駐韓米軍撤収、国家保安法撤廃など4大課題を掲げているが、南北統一の課題は避けられている。

いっぽう、NL活動家の多くは、民主労総が中心となって結成された合法政党「民主労働党」に集団入党した。彼らは組織的力量にものを言わせ民主労働党の多数派となった。

民主労働党の流れは統合進歩党へと続いたが、現在では統合進歩党そのものが消滅している。

これに対し、PDは単一組織としてのまとまりは強力ではないが、今日その主力は労働党に結集しているとみられる。

民主労働党が結成されたとき、PDの多くはこれに結集しPD派を形成した。2008年には民労党から分かれ「進歩新党」を結成した。12年には総選挙での得票率が規定に届かず解散、翌年「労働党」として再発足した。

その間、多くの活動家がリベラル派の正義党に鞍替えしている。



97年9月、初めて韓国を訪れたとき、まだ韓総連は元気だった。街頭で機動隊と「激突」していた。

その2年後に梅香里を訪れたとき、団結小屋には機動隊から奪ったヘルメットや盾などの「戦利品」がうず高く積まれていたが、すでにそれは過去のものだった。

「民革党事件」以来、NLはおとなしくなった。しかしその残党は民労党内に潜り込んで多数派を形成していたのである。

それやこれやも、ここ10年位ですっかりおとなしくなった。パククネを大統領の座から追い落としたとしても、国家保安院の牙城はいささかも揺らいではいない。

かえすがえすも、「主体思想」がいかに韓国の民主運動に暗い影を落としたか、その戦闘性を知るだけに悔やまれてならない。


もう一度1985年の時点に立って、問題点をおさらいすることも必要かと思う。そんな思いもふくめながら、この文章を書いてみた。
下記もご参照ください

「北」の影響:カンチョル・グループの場合
(付)韓総連の自己紹介
韓国の労働運動(1998年)


まさに寿命という感じだ。
最後は、立ち上げただけで「メモリーが不足」でアウトになる。この間、メモリーを8ギガに増設し、「Free Memory」というアドオンも積んでみたが、結局立ち直ることはできなかった。
「Flush Player]との相性の悪さもあったし、なにか「Windows 10」に負けたという感じなのかもしれない。

実は私はいま、パソコンを3台も持っている。いろいろ経過があるのだが、買ったのは1台だけで後の2つは頂いたものだ。そのうちの1台は職場で貸与されて使っていたものを退職時にいただいたものだ。これはすでに2010年から使い込んでいる。いまも日常使用しているのがこの機械で、新品はそのまま眠っている状況だ。
これはネイティブのWindows10ではなく、7からバージョンアップしたもので、しかもそのときに32ビットから64ビットにあげている。何もそこまでしなくても良かったのだが、行きがかり上やってしまった。多分それがパソコンにいろいろ負荷を与えているのだろうと思う。

マイクロソフトに負けたという話だが、
むかしインターネットが始まった頃は灯台がマークされた「Netscape」というブラウザーが主流だった。ところが「Microsoft」が「Internet Explorer」(IE)というブラウザーを出して割り込んできた。最初は「Netscape」もだいぶ抵抗していたが、「Windows」がバージョン・アップするたびに追い詰められて最後は消えていった。きっと対抗アプリが使いにくくなるような細工を施すのだろう。
同じやり方で、松茸や一太郎も「Microsoft IME」の前に屈していった。

数年前から、あらたにブラウザーでは「Firefox」、日本語入力ソフト(昔はFEPと言っていた)では「グーグル日本語入力」が登場し、Microsoft 製品を圧倒するようになった。Windows 7からWindows 10 へのバージョン・アップはこのようなライバルを蹴落とす狙いを秘めているのではないだろうか。
しかしグーグルはこれまでの弱小・独立系企業とはわけが違う。「Microsoft」のバージョン・アップにもしっかりと対応し、さらにシェアを広げつつある。
ぎゃくにIEをやめて新しく開発したという「Microsoft Edge」は、IEをも下回る粗悪ブラウザーである。「Microsoft」の開発者にはユーザー・ファーストという発想が欠如しているようだ。

というわけで「Microsoft Edge」の使い勝手の悪さにも辟易だし、どうしようかと考えていたが、結局「グーグル・クロム」でしばらく様子を見ることにした。
変な話だが、「Firefox」から引っ越してみて、反応の速さにちょっと感激した。と言うより「Firefox」の遅いことに気付かされたという感じか。
クロムだが、操作法はやはり一種独特のものがある。メニューバーがないのは便利そうで一手間煩わしい。もっともこれは慣れの問題かも知れない。
あとは、以前からの問題だが、You Tubeのダウンロードが制限されることはかなり辛い。積み込み可能のアドオンがかなり弾かれてしまうのである。
You Tube の閲覧に関してはこれまで通り「Firefox」を使うことになりそうだ。
結論から言うと、「Firefox」はかつての「Netscape」の道をたどることになりそうな気がする。

 

「7月3日体制」下のエジプト

シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。

 

はじめに

(この「はじめに」がえらく長い)

2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。

それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。

それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。

長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。

①ムバラクの逆転無罪判決

2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。

2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。

②軍部による統治の「正常化」

2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。

表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。

スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。

③ムスリム同胞団への怒り

一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。

長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。

1. 軍が提示した2度目の行程表

2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。

7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。

このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。

「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。

一度目の工程表: 2011年革命の総括

2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。

左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。

同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。

ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。

大統領選挙と同胞団の心変わり

革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。

当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。

長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。

新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。

大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。

議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。

そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。

これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。

そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。

彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。

米国の同胞団へのスタンス

米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。

7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。

このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。

新工程表の意味

今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。

新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。

新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。

また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。

つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。

6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。

2.新憲法の内容

3.大統領選挙とその結果

4.議会選挙制度改革

5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧

権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。

2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。

12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。

2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。

テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。

6.外交政策

2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。

とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。

これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。

石油・天然ガス資源情報」というサイトに地味に面白い記事が載っている。

マスコミの国際情報というのは、普通は必要な情報は載らず、むしろ本質を覆い隠すような情報のみが載せられることになっている。

このページは半ば情報誌とも呼べるものだが、意外に本当の情報が載っている。

中でも面白かったのが「アラブの春から4年…混迷する中東・北アフリカ諸国」という連載だ。全6回から構成され、執筆者がそれぞれ異なる。

ネットでは2~6回が読める。順次紹介しておく。


第2回 アラブの政変とイスラエル 中島 勇

はじめに

「中東については予想をしてはいけない」という格言がある。現状は、この格言のとおりである。

そこには多様な要素が複合的に絡んでおり、分析や評価の視点も当然ながら多数ある。

その中で、イスラエルの「アラブの春」評価は特異だがリアルでもあり、注目に値する。

①アラブの政変をイスラエルは全く予測していなかった。

②イスラエルとの和平を維持してきた独裁者が追放されたことに驚き、未知の政治勢力が出現することを警戒している。

③イスラエルは、戦略的資産と見なすエジプト・ヨルダンとの和平を順守することを最大の目標にしている。

1.エジプト政変の意味

政変が起きた国の民衆は、独裁政権に怒りの声を上げたが、イスラエル非難の声はほとんどなかった。イスラエルという国やその社会には関心がないのかもしれない。

エジプト政変で、イスラエルの過去30年の努力は無に帰した。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障戦略上の最も重要な基盤であった。

イスラエルが昔も今もそして今後も、最も警戒する相手はエジプトである。エジプトはイスラエルと25年間の間に4回も戦った。

第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シナイ半島で本格的な近代戦に突入し、激しい消耗戦を行った。劣勢に立ったイスラエルは機甲部隊によるスエズ運河の逆渡河作戦を強行、エジプト軍の補給路を絶つことでようやく挽回した。

1979年の和平条約で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。反対する入植者らをイスラエル軍は力ずくで排除した。こうして獲得したのがエジプトとの和平である。

第4次中東戦争の後、現在まで約40年間戦争はない。両国間には1件の和平協定違反もない。スエズ運河が戦争のために閉鎖されることはなくなった。

米国はエジプトとイスラエルの和平を維持するために、外国援助総額の半分近くの支援を両国に対して行った。「米国は和平を金で買った」と言われた。

ムバーラク体制が崩壊した時、イスラエルはその冷たい和平が破綻するかもしれないと恐れた。

2013年7月の第二革命でムルスィー大統領が、エジプト軍によって解任された。2014年1月に新憲法が国民投票で承認された。そして国防相・参謀総長のシーシーが大統領に選出された。

シーシー政権はガザのハマースを国内のムスリム同胞団と同じと見なし、厳しい対応を開始した。エジプトとガザの間にある密輸用の地下トンネルのほとんどが封鎖された。

シナイ半島では、エジプト治安部隊と武装勢力(密輸貿易の担い手)との衝突が増加した。イスラエルは、エジプト軍が治安作戦で戦車や装甲車を使用することを認可した。

この結果、ガザへの物資の約95%が停止している。ガザ経済は、今や過去最大の危機に瀕している。

2.イスラエル国内体制の変化

テルアビブでも若者の占拠運動が行われた。そのデモは11年9月には約40万人規模に拡大した。

デモ隊は、少数の財閥が国民経済の30%を支配している状況に抗議し、より平等な富の分配や社会的正義の実現などを要求した。

デモ参加者らは貧困層ではなく、学生や若者、教師や技術職など専門職の中間層が主体だった。左派も右派も抗議行動に合流した。

イスラエルは建国以来、「社会主義」的な経済形態を取っていた。しかし1980年代末から民営化を進めた。

軍需企業が蓄積した知識と経験が、民営化によって市場に出た。その結果、イスラエルはハイテク国家に変貌した。

毎年約5%の経済成長を維持した。国民1人あたりの収入は、1990年の約1万5,000ドルから2009年には2万8,100ドルとなり、ほぼ倍増した。

しかし、国内の貧富の格差も同じテンポで拡大した。それに対する不満が表面化したのである。

3.イスラエルとパレスチナ問題

1993年、イスラエルはパレスチナと政治交渉を決断した。パレスチナの反占領運動は戦車に石で立ち向かった。パレスチナの若者に対してイスラエル軍は銃撃を加えた。その映像は世界中で報道された。

イスラエルは国際的な非難にさらされた。米国のユダヤ人社会でさえ厳しく批判した。イスラエルは、パレスチナ人の反占領運動を力で鎮圧できないことを明確に知った。

1994年に成立したパレスチナ自治政府はすでに実体を整えた。イスラエルは、パレスチナ国家が新たな脅威となることを警戒している。その一方、PAを解体して、パレスチナ人を再び統治する意図もない。

イスラエル人の多くが政治に無関心になった。その結果、組織票を持つ宗教政党の得票の相対的な比率が上昇した。それにつれイスラエル社会の宗教化・右翼化・内向き志向が増大した。

「民主国家イスラエル」が、非西欧的な宗教国家に変質する危険性が高まっている。イスラエルを批判するイスラエル人やユダヤ人は「自虐的イスラエル人、ユダヤ人」として非難されるようになった。

4.国政に変化の兆し

民衆の不満は2013年の国会選挙で鮮明となった。中道派政党の新党イェーシュ・アティド(未来がある党)が、初めての選挙で19議席を獲得して第2党になった。

これは世俗派の中産階級の有権者の投票が増加したためとされる。

これは安全保障コストへの無言の問いかけとなっている。東エルサレムやヨルダン川西岸を維持するために、国民生活の安定を犠牲にして、国家の予算を使うべきかという問いである。

ネタニヤフ首相は、決定を先延ばししている。

最近、韓国の政治動向をフォローしていなかったので、今回の大統領選挙の結果を聞いて、「韓国左翼が変わったな」と実感した。
1.社会労働党の躍進と没落
とにかく韓国の世論は右へ、左へと激しく揺れるので、底流を見据えながら個々の動きを評価するのは大変だ。
国民的与望を担って登場したノムヒョン政権だったはずなのが、大した失政を繰り返したのでもなくどんどん支持率を落として、最後には議会に弾劾されるまでに至る。
ところがノムヒョンの応援団がウリ党を起て、総選挙をやったら圧勝する。それなのに半年もしたら、支持率が30%を切る。それが美容整形で二重まぶたにした途端に50%にまで回復する。
そんな中で、民主労働党は一時期は議会第三党にまで上り詰めたが、一心会(親北派)をめぐるスキャンダルであっという間に崩壊していく。
2.主体思想の清算
「親北派」キャンペーンは権力による一大攻撃ではあるが、金日成カルトともいうべき集団が存在したことも間違いない。韓国民主運動はさまざまな困難を抱えているが、「主体思想」との関係を清算し、南北統一へのロードマップを再構築することは中でも最大かつ緊急の課題であった。
思えば2006年以後、今日まで10年間の道のりはそのために費やされたと言っても過言ではない。
そのなかで、もっとも原則的かつ果敢に「自主派」とのたたかいを進めてきたのが、進歩新党であった。私はそう思っている。
3.進歩新党のもつ意味
進歩新党の闘いには二つの側面がある。
第一には親北派との呵責なき戦いである。親北派と対立してきた「平等派」の古参活動家は動揺を繰り返した。一つは自分をより高く売り込むための取引であり、一つは民主労働党のパトロンである民主労総の動向である。もちろん、底流には、民主化運動以来ともに闘ってきた「主体派」の仲間への絶ち難い信頼と友情の関係もあっただろう。
しかし、いまは直近の動向ではなく、真の未来を目指さなければならないのだ。そこには揺らぐことのない一貫性が必要だ。
第二には、資本からの真の独立である。進歩勢力と言ってもさまざまなスペクトラムがあるが、資本からの真の独立と科学的社会主義の視点の確立がなければ、原則と現実的妥協との境目が見えなくなってしまう。
政党である以上、選挙での勝利はもっとも重要なイシューであることは間違いない。とくに韓国では選挙で一定の数を獲得しないと政党要件が消失してしまうという厳しい状況を抱えている。しかし階級政党の意義と任務はそれに尽きるものではない。綱領的立場が選挙戦術に矮小化されてはならないのである。
3.統合進歩党から正義党へ
この二つの立場をもっとも原則に守ったのが進歩新党だった。
そしてその立場を貫けずに民主労働党とのなし崩しの再統一、「統合進歩党」の結成に向かっていったのがシム・サンジョン(沈相奵)らだった。(シムが尊敬すべき人物であることは疑いないが、彼女の方向が金大中2世であることは冷静に見ておくべきだと思う。求められているのは「揺るぎない党」である)
統合進歩党は民主労総の強力なイニシアチブのもとで創設された。さまざまな政治潮流が「統合」されないままにくっついた。「多様性こそが新党の特徴」と公然と述べる国民参与党まで入ってきた。
こういう雑然さこそ民主労働党主流派(親北派)の意図するところであった。党の骨格人事は彼らがガッチリと握っていたからである。
それから半年もしないうちに、統合進歩党の実体は暴露された。親北派は表立っては一言も喋ることなく、実力で議席やポストを抑えてしまったのだ。
激怒したシム・サンジョンらはふたたび党を飛び出して、「正義党」を結成することになる。このドタバタ劇の最大の成果は、民主労働党に代えて自らを民主労総のお抱え政党とすることに成功したことである。
逆に民主労総の後ろ盾を失った民主労働党→統合進歩党は坂道を転げ落ちるように転落していく。機を見るに敏な連中は次々と正義党に鞍替えした。残された親北派は体制の立て直しを図るが、2013年8月に2回めの情報院の攻撃を受け瓦解していく。こうして民主運動の全戦線において親北派は市民権を失うに至った。
4.進歩新党の苦闘
進歩新党も、何度も滅亡の危機に陥った。
最初は社会党との合併で自力強化を図った。しかしこの「社会党」は言っている言葉の割にはへなちょこで、どこか強い力との連合で自分を売り込もうというオポチュニスト集団だったようだ。つぎは環境主義者との連合を図ったが、こんなもの最初からうまくいくわけがない。正義党が結成されると、かつて同じ思いを共有した政党であるがゆえに、かなりのメンバーがそちらに移っていく。
そのなかで進歩新党は未組織労働者の中にかなりの拠点を形成したようだ。彼らはいま労働党と名を変え活動を継続している。弱小とはいえ、活動を継続していけるだけの確かな力を蓄えたようだ。
5.金世均の予言
最後に2008年1月にソウル大の金世均教授が書いた文章を引用しておく。私は韓国政治の基本をついた文章としていまだに正確だと思う。

民主労働党は究極的な政治的目標を持たないまま、議会主義と合法主義、代理主義と官僚主義の道に堕ちた。民主労働党は、民族主義と社民主義の不幸な結婚が誕生させた政党であり、社会的関係の根本的な変革を望む多くのヒラ党員の社会主義的あるいは社会主義指向的な熱望を、民族主義的、社民主義的、議会主義的展望の中に閉じ込める政党だった。
党に未来がないだけではなく、既成の派閥のいずれにも未来はない。NL派は、民族問題を、階級問題や反帝・反戦問題などすべての問題に優先する左派民族主義勢力である。これに対しPD派は、当初は社会主義的な指向を持つ単一の勢力だったが、その後、体制内的改革を追求する社民主義勢力との寄り合い状態となり拡散した。
新しい進歩政党は民主労働党の内部革新や第二の創党運動の中にはない。「資本主義の克服を公に明言し、その克服のために闘う社会主義的労働者階級政党」が展望されなければならない。民主労働党内のすべての階級的左派勢力が、組織的な所属と路線の違いを越え、進歩政党運動の全面的な再構成のために、共に力を合わせていくべきだ。

それから10年の後、いま金世均さんがどう言っているのかを知りたいところである。

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