鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

 

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チラシ

  

本日は発言の機会をいただきまことにありがとうございます。

この講演会の主催は「憲法を考える札幌市民集会実行委員会」です。その連続講演会の4回目の会議として本日の話が位置づけられております。」

これが本日の講演会のチラシです。立派なものを作っていただきありがとうございます。


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チラシの文脈では

Ⅰ 世界の平和の流れと憲法9条

Ⅱ 北朝鮮の核開発をどう見るか

Ⅲ 平和と安全に関する法体系のあり方

Ⅳ ラテンアメリカの平和への動き

…北朝鮮問題への国際的な視点を考察し、平和と安全の問題を考える…

 


 

チラシの文句を並べるとこういうことになります。

チラシの中味だとけっこう話が拡散しています。

どうしたら聴衆の皆さんの興味を拡散させずに話をまとめることができるかどうか、考えあぐねているところもあります。

とりあえずは、国際情勢をめぐるさまざまな話題を、究極的には日本国憲法に引きつけて、整理して行くようにと考えています。

これでは広すぎる、とりあえず一点に絞る


国際的な連帯運動の到達を踏まえ、憲法(とりわけ9条)の意味を考える

一応、このような方向で話しさせていただくということで、あらかじめご承知の上で聞いていただけるとありがたいと思います。

これはある意味で学ぶ活動だといえます。

もう一つだいじなのは、日本の護憲平和の運動を国際的に意味づけし、世界につなげる活動ですが、これは後で考えていきます。

皆さんのご期待と少し外れるかもしれませんが、ご容赦願います。

 


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21世紀型連帯運動の特徴

「国際的な連帯運動の到達」の意味するもの

1.すべての国際連帯の課題が、わたしたち自身の闘いと分かちがたく結びついている

中東・アフリカの平和の問題は、日本の憲法改悪の問題と結びついている。

わたしたちの運動は世界の運動と結びついたときに大きく発展する。

2.平和の課題だけではなくすべての闘いが連帯抜きに語れなくなっている

反TPP・反原発の闘い、超国家企業・投機資本との闘い、反共ポピュリズムとの闘い

響き合う各国の闘い(特にこの問題に触れたい)

 


 

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003年 イラク反戦ウエーブ

 

 2月14日~15日の24時間で世界で1千万人がデモに参加した。その多くはインターネットによるものだった。

オーストラリア(人口1千8百万人)では、2月14日にメルボルンで25万人、16日にシドニーで25万人のほか、アデレイド、ブリスベンでそれぞれ10万人など、総計75万人がイラク反戦集会・デモに参加した。

翌15日、ヨーロッパ諸国で空前の巨大な規模の闘いが爆発した。イタリアのローマでは300万人、1都市としては最大の反戦デモが行われた。
スペインでは全国で総計4百万とも5百万とも言われる人びとが街頭を埋め尽くした。マドリードで200万人、バルセロナで150万人、全スペイン国民の10人に1人が反戦闘争に参加したのだ。
ロンドンで200万人、パリで80万人、ベルリンで50万人など、かつてない規模の反戦集会・デモが開催された。

最後の大ウエーブは戒厳態勢下のニューヨークで巻き起こった。デモが禁止されたが75万人が参加した。最後のサンフランシスコでは25万人、市民の3分の1が参加した。

 

写真省略

 


 

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21世紀型連帯運動の三つの分野

21世紀型連帯運動は3つの分野に広がっている

Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

Ⅲ 反ファシズム・立憲主義と民主主義を守る闘いと連帯

この3つの課題は

Ⅰ 平和に生きる権利

Ⅱ 人間らしく生きる権利

Ⅲ 自由に生きる権利

をめぐる課題、と言いかえることもできる。

(これは私の自慢の表です) 

 


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第Ⅰ分野 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

21世紀の戦争は、大小の覇権思想とこれに対する報復が軍事主義の悪循環を形成して拡大してきた。

軍事主義とは何か

紛争の解決を国際法・国際的道義と国際機関を通じた合意によらず、軍事力(脅迫)で解決しようとする政治手法である。

覇権思想と軍事主義の2つを食い止める。とくに軍事主義の手を縛ることで平和の構築に向けて歩みださなければならない。

A) 中東における大小の覇権思想と軍事主義

B) 「新しい北東アジア」の構想を推進する

C) ラテンアメリカにおけるアメリカ覇権主義の危険な動向

D) 核兵器禁止条約の締結がもたらしたもの

E) 日本の平和主義国家から軍事主義国家への変貌を許さない

A) ~ E) それぞれが広範な内容をふくんでいるので、ここでは触れない。(「新しい北東アジア」の構想は後で触れる)

 


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国際テロリズムとの闘い

21世紀の戦争は、大小の覇権思想とこれに対する報復が軍事主義の悪循環を形成して拡大してきた。

国際テロリズムとは何か

大量破壊、暗殺、略取誘拐により政府の行動に影響を与える行動。とくに民間人(ソフトターゲット)に対する無差別攻撃が問題となる。

多くの場合、民族的迫害に対する歪んだ(絶望的)報復行動となっていることが多く、異端的宗教活動を背景とする狂信に支えられている。

土台となる闘い

軍事的報復思想の発生母体を崩し、平和の構築に向けて歩みださなければならない。この課題は反貧困・反格差の課題と、ある程度重複することになるだろう。

1.資源問題などでの富裕層の国際的な横暴を抑えること

2.領土問題などを利用する大小の覇権主義の芽を摘み取ること

3.民族差別を煽る極右・反動勢力の台頭と闘うこと

当面の対応

当面、国連などの国際協力を通じて、

1.異文化理解の強化 

2.貧困の削減と飢餓の根絶 

3.難民の受け入れと支援 

4.非軍事支援の強化

を推進していかなければならない


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第Ⅱ分野 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

A) グローバリズムと経済問題の深刻化

1.ビッグバン 金融自由化: 投機資本の市場撹乱

2.リーマンショック: レバレッジの仕掛けが世界を壊す

3.租税侵食: 超国家企業の出現と国家財政の破綻

基層をなすのは先進国における産業空洞化、労働の不安定化、マーケットの狭小化

B) 格差問題は世界で深刻化している

1.アントニオ・ネグリ「帝国」 2003年

途上国国民の貧困化と流民化

2.ピケティ「21世紀の資本」 2013年

先進国の空洞化と格差拡大。

C) 人間らしく生きる権利が侵害されている

生存権とは、もっとも簡潔に言うと、人間が人間らしく生きる権利のことである。それは「人間らしく生きる」ことを可能にする国家の義務である。

国際的には、国際人権規約のうち、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)が相当する。(A規約については別途検討)


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欧米の社会変革の動きとの響き合い

A) 2011年 反失業青年行動 

リーマンショック→欧州金融危機→PIGSの債務危機→財政引き締め

チュニジア青年失業者の自殺→アラブの春→スペイン、ギリシャの青年行動→ウォール街占拠闘争→アメリカでの最低賃金引き上げ運動

日本では東北大震災のため連動しなかったが、反原発闘争、非正規就業反対・ブラック企業告発で盛り上がる。

B) 2016年 各種選挙での躍進

ギリシャでの反緊縮政党(元共産党)の勝利→スペインでのPODEMOSの前進→サンダース現象→イギリス総選挙でのコービン現象→フランスでのメランション現象

日本でも野党共闘が大いに盛り上がった。さらに揺るぎないものにするためには、青年・学生・若ママ・非正規の要求を組み上げることがだいじだ。


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格差問題是正のために何をなすべきか

1.税制改革、財政改革、働き方改革の「3つの矢」

1.税制改革: 税制を改革し、所得再配分をすすめる。「能力に応じて負担する、公正・公平な税制」の原則。

①間接税から直接税へのシフト、②大企業優遇税制の抑制、③租税回避を許さない、④世界的な「法人税引き下げ競争」の見直し。

2.財政改革: 積極的な公的社会支出(社会保障、教育・研究、子育て)で格差と貧困を是正する。

3.働き方改革: ①労働規制の強化、②非正規から正規へ、「均等待遇」「同一労働同一賃金」の原則を打ち立てる。③大幅賃上げと最賃引き上げなどによりワーキングプアをなくす。


2. 富裕層は強大だ

わずか1%で99%の人たちを支配できる。そのくらい富裕層は強力なのだ。だから99%が本当に力を合わせなければ、この仕組みを打ち破ることはできない



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21世紀型連帯運動の三つの分野

そのⅢ 自由に生きる権利を守る闘いと連帯

1.立憲制とリベラリズム

政治的自由は、国家における民主主義の根幹をなすものである。政治的自由を支えるものとしての「立憲主義」の根幹性は、この間の運動の中で明らかになっている。

1.支配者の恣意による専制支配: 人治政治

2.法による支配: 法治主義(法定主義)

3.立憲主義政治: 国家原則(憲法)に権原を由来する政治

4.共和制国家による支配: 主権在民を前提とした民主主義のシステム

1→4の順に国民の自由度は高まる。これは人間の歴史の中で築き上げられてきたものである。

2.民主主義はリベラルでなければならない

シェリ・バーマンはポピュリズムは反リベラルではあるが、反民主主義ではないという。

これは明らかに誤りだ。ポピュリズムには多数決主義はあっても、自由権(批判的・異端的)を恣意に委ねない保障はない。それは近代的民主主義ではない。

3.立憲政治を民主主義の基礎としたのは戦争法反対闘争の成果

まだいろいろ議論が必要だが、「立憲主義」とリベラリズムを民主主義の前提条件と位置づけたのは、日本の護憲闘争の理論的成果である。

  


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国際的な連帯運動の到達を踏まえ、憲法(とりわけ9条)の意味を考える

Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争

憲法前文と憲法9条 非戦条項の実効性を証明した功績

平和国家としてのプレステージ(まったく生かされていないが)

Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争

憲法25条の先進性

Ⅲ 反ファシズム・立憲主義と民主主義を守る闘い

「憲法は、個人の尊重が目的とされ、人間らしい生活を保障するもの」という教訓

憲法擁護はリベラリズムの核心であり、近代民主主義の第一歩

 

最後にもう一度

「国際的な連帯運動の到達」の意味するもの

1.すべての国際連帯の課題が、わたしたち自身の闘いと分かちがたく結びついている

中東・アフリカの平和の問題は、日本の憲法改悪の問題と結びついている。

わたしたちの運動は世界の運動と結びついたときに大きく発展する。

2.平和の課題だけではなく、すべての闘いが連帯抜きに語れなくなっている

反TPP・反原発の闘い、超国家企業・投機資本との闘い、反共ポピュリズムとの闘い

響き合う各国の闘い(特にこの問題に触れたい) 

前の記事
2017年11月18日 

 とあわせお読みください。



を書き始めたのだが、どうにもまとまらない。書くための材料が何か決定的に欠けているような気がして仕方がない。

1週間悩みに悩んで得た結論が二つある。
A)憲法25条の「生存権」は、胸を張って生きていく権利
一つは「生存権」が意味のある生き方をおくる権利だとすれば、それが拒否するのは貧困一般ではなく貧富の差であり、貧富の差が生み出す「差別を伴う格差」だということだ。
貧富の差そのものが差別を生み出す。これは倫理を介在するものではない。月給10万の人は、誇りを傷つけられずに月給100万の人とともに暮らすことは不可能であろう。
格差そのものが生存権の侵害であり、これは慈善ではいかんともしがたいことだ。そういうものとして「生存権」を捉えなければならないということだ。
それで、そこまで踏み込んで条文化したのが日本国憲法の25条だということだ。これは「人を餓死させてはならない」という条文ではない。人口の少なくとも過半数を占めているのは相対的な貧困層なのだから、その人達が胸を張って生きていける社会を作らなくてはならないというのが法律の趣旨だ。
少し調べてみたが、ここまで明確に人間が人間らしく生きていく権利の権利性を文章化した条文はないように思える。国連人権規約が登場するまでは、世界でもっとも進歩的な条文ではなかったか、と思っている。

B) 日本型立憲主義の主張と「自由主義思想」の再評価
もう一つは、近代民主主義の基層をなすものとしての自由主義思想の受け止めである。
これは、一昨年の戦争法反対運動の中でにわかに巻き起こり、いわば「民主主義的立憲主義」という形で民主運動の中に定着しつつある。
この立憲主義の思想的裏付けとなっているのが自由主義思想(リベラリズム)である。リベラリズムは産業資本主義のバックボーンとなってきた思想である。ところがこれが冷戦体制の中で資本主義諸国のブランドマークとして利用され、反動政策を覆い隠すために利用されてきたため、進歩的運動野では比較的軽視されてきた。
冷戦体制が崩壊し、資本主義対社会主義、民主主義対自由主義というレッテルの張り合いが無意味になったいま、もう一度自由主義思想を民主主義の基層に位置づけ直すことが運動論の形成の上で不可欠になっている。
それは安倍政権の対米依存強化と軍事力主義への傾斜を食い止める上でも不可欠の思想となっている。またトランプを筆頭とするデマと民衆扇動によるポピュリズム(ニセ民主主義)の論理を打碎くためにも必須の論理である。
率直に言えば、諸外国では日本ほど徹底したソ連型政治システムへの批判が行われていない。したがってリベラリズムを偉大な正統な歴史遺産として受け止める雰囲気は形成されていない。
しかしリベラリズムの伝統の上にデモクラシーを構築しなければ、近代民主主義は語れないのである。逆説的に言えば、日本の憲法を守る運動はそういう理論的地平を切り開いたのであり、このことは大いに確信を持つべきだろうと思う。

この2つは、憲法9条を守る運動に勝るとも劣らない、日本の民主運動の世界的功績であろうと思う。

ここまでハイドンのピアノソナタにはまり込んで、なんでこんなことまでしなければならないのかと思う。

結局前の記事で、肝心なことが説明できていないからである。

「ウィーン原典版」(ランドン版)というのが結局混乱の元だったのだろう。

こういうことになると、日本語のネット文献はとんと無力である。

調べてみて分かったのはこういうことだ。
ハイドンという人はドイツ人として初めて大衆の支持を受けた作曲家だ。しかも大変息の長い作曲家で、ウィーンで楽譜が売れ始めたのがかなりの歳になってからだ。だから楽譜が売れる前エステルハージの時代にかなりの曲が手書きコピーで流布された。つまり海賊版がやたらと多い人なのである。だから作品目録を作るに当たっては『伝 正宗』のヤマの中から本物を探し出す作業が必要になる。

1926年生まれのアメリカ人ロビンズ・ランドンが、第二次大戦後間もなくウィーンにやってくる。まさに「第三の男」の時代だ。

彼はボストンでの学生時代、ウィーンから亡命してきたガイリンガーというハイドン研究者の講義を受けて感動していた。ウィーンに来てからは、ハイドン研究の大御所ラールセン(デンマーク人)の指導も受けていたといわれる。
溢れんばかりの才気とやる気、それにかなりの資力(パトロン)もあったんだろうと思う、たちまちのうちにウィーンとボストンにハイドン協会を立ち上げてしまった。

彼のハイドン協会は、「不幸なハイドン」のために一刻も早く全集を完成しようと奔走するが、結局それは挫折する。

やがて戦後の混乱が落ち着いてくると、ラールセンは復興資金の集まるケルンに移り、ハイドン研究を継続する。そこにはラールセンより15歳年上のホーボーケン(オランダ人)も結集した。

57年にホーボーケンが作品目録を提示した。ロビンス・ランドンは相当あせったようだ。

ランドンは妻クリスタ(5歳年上)とともにウィーンに戻った。他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く完成させて出版した。これがいわゆる「ウィーン原典版」である。

ピアノ・ソナタに関してはクリスタ・ランドンの名義で別目録を発表、ホーボーケンと真っ向対決の形になった。その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあったともいう。つまり巷の多くの『伝 正宗』を取り込んじゃったわけだ。

結局この混乱は、ロビンズ・ランドンが亡くなることで終りを迎えた。このあと「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手し、新版ではホーボーケン番号順へ並び替えられたというから全面降伏である。クリスタ・ランドンの名は原校訂者として残されているが、その意味は定かでない。
PS
クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。写真も見当たらない。
1921年、ベルリンに生まれる。父親は保守系の政治家だった。39年、クリスタが18歳のときに戦争を嫌ってウィーンに移住。そのままウィーンで終戦を迎えた。ウィーン音楽院を卒業後、当時ウィーンで創設されたハイドン協会に就職する。ベルリンなまりのきつい子だったという回想がある。
このハイドン協会というのがよく分からないが、多分ラールセンが中心となったのだろうが、アメリカからの資金提供を受けていたのではないか。ウィーンとボストンのダブルフランチャイズとなっている。そこに大学を卒業したてのロビンス・ランドンがやってくる。あるいはロビンス自身がフィクサーだったかもしれない。
クリスタは後にロビンスの二度目の妻となる。5歳年上の姉さん女房だから、傷心のランドンにとって慰め役になっていたのかもしれない。
クリスタはハイドン協会の解散後もケルンのハイドン研究所、ウィーンに立ち上げたウィーン原典版研究所と、ロビンスと行動をともにする。
彼女はウィーン原典版の発行と接して、77年になくなっている。ロビンスはその後3度めの結婚をしている。
生前はシューベルトの初期交響曲の校訂に携わったらしいが、ハイドンのピアノソナタにはほとんど研究実績がみあたらない。このことから、この大胆不敵な仕事は実のところロビンスのものではないかとも思われる。


多分、おおくの不正確さをふくんでいると思います。訂正・加筆を期待します。

ハイドンのピアノソナタとナンバリングの歴史

飯森 豊水「J.ハイドン研究における近年の変化について」を下敷きにしながら歴史動向を探る。

1732年3月31日 ハイドンが生まれる。

1761年 ハンガリー貴族エステルハージ侯爵家に副楽長として仕える。

1770年頃 ソナタ(Hob18-19, 44-46)が作曲される。(出版は10年後)

1774年 ヴィーンのクルツベック社から6曲の鍵盤楽器ソナタ(Hob21-26)が出版される。この頃ハイドンにおけるソナタの位置づけが定着。

1776年 「6曲のソナタ」(Hob27-32)が発表され、流布する。

1780年 ヴィーンのアルタリア社から6曲のソナタ(Hob35-39, 20)が出版された。

1783年 ロンドンで3曲のソナタ(Hob43, 33, 34)が出版される。

1784年 シュパイアーで3曲のソナタ(Hob40-42)が出版される。

1789年 2曲のソナタ(Hob48-49が発表される。この頃からクラヴィアに代わってピアノが鍵盤楽器の主流となる。

1800年 ロンドンやヴィーンで3曲のソナタ(Hob 50-52)が出版される。いずれも94年の第2回ロンドン滞在中に書かれたもの。

1810年 ハイドンの死去。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社(以後ブライトコップフ)の代表でハイドンの友人グリージンガーによる伝記が出版される。

1879年 C.F.ポール、ハイドンに関する研究を開始。「グローブ音楽事典」でハイドンの項目を執筆。

1895年 高名な音楽理論家フーゴー・リーマン、ハイドンの手稿を発掘。発表された34作品に新たに発見された5曲を加え39曲とする。

1908年 ブライトコップ社による「ハイドン全集」の編集が開始。

1918年 「ハイドン全集」のうち、ピアノソナタの巻が発表になる。校訂者カール・ペスラーは一挙に52曲へ拡大した。

この全集は全3巻からなり、第1巻に第1-22番、第2巻に第23-38番、第3巻に第39-52番が収められた。彼はこの52曲のソナタを創作年代順に並べることを意図した。しかしとくに第1~17番を作曲順に並べるにはその判断の助けとなる資料がまったく欠けていたといわれる。

1927年 オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケン、ハイドンの楽譜等を写真で複製するなど収集を開始。1千曲のカードを数えるに至る。

1932年 ガイリンガー、「ヨゼフ・ハイドン」を執筆。代表的ハイドン概説書となる。

1933年 ブライトコップ社の「ハイドン全集」が挫折。

1939年 デンマークの研究者 J.P.ラールセン、ハイドン楽譜の真贋に関する先駆的研究。門下にホーボーケン。(ただしホーボーケンはラールセンより15歳年上)

1947年 ボストン生まれのロビンズ・ランドン、ウィーンに軍務で赴任。ラールセンの下でハイドンの研究を始める。

1950年 ボストン・ウィーンのハイドン協会による全集発行の企画がスタートする。ラルセンがシニア研究員、ロビンズ・ランドンが実務を担当した。

1951年 楽譜は4巻まで出したあと中断。全集企画が流産する。

1955年 ケルンに「ハイドン研究所」を設立。ラールセンが初代責任者となる。学問的に緻密な全集を新たに出版することを目的とする。

1955年 ロビンズ・ランドンが『ハイドンの交響曲』を出版。真正の交響曲を特定し、作曲順を推定する。

1957年 ホーボーケン、「ハイドン書誌学的作品目録」を作成。第1巻「20のグループの器楽曲」が発表される。この内「グループ16」(表記はHob.XVI:)がピアノソナタに割り振られる。

ホーボーケンは、すでに整理されているジャンルについてはできるだけそれを尊重するという方針を採る。したがって、ピアノソナタにおいてはペスラーの第1~52番がそのまま踏襲された。

1958年 ハイドン研究所、ハイドン全集の発行を開始。60年までに最初の8巻(ヘンレ社本)を出版。所長はラールセンからフェーダーに交代。

1968年 進まぬ作業に業を煮やしたランドンは、独自の『ウィーン原典版』の作成に乗り出す。この年に交響曲全曲の楽譜が発行される。

1972年 ハイドン研究所ゲオルグ・フェダー校訂の原典版ピアノ全集(ヘンレ社)が発刊される。

1973年 クリスタ・ランドン、ヴィーン原典版を発表。新たに13曲を加え(うち6曲は実体がない)、3曲を排除して62曲とした。全62曲に通し番号を付けなおした。

クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。ウィーン音楽院を卒業後、ハイドン協会にくわわる。49年にロビンスの二度目の妻(5歳年上)となる。77年になくなっている。他にほとんど見るべき実績がないことから、ロビンスの仕事ではないかと思われる。

ランドンは他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く出版した。ランドン版に当たる第4番、第7番、第17番~19番、第21番~28番はホーボーケン版には該当するものがない。

ランドンおよびその陣営の研究者たちによる楽譜出版が、その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあった。最大の問題は根拠なしに創作順を推定して全面的に番号づけ直したころにある。

1974年 ケルンのヨーゼフ・ハイドン研究所、ハイドン関連文献の目録作成を開始。

1978年 ホーボーケンの目録第三巻(作品集、作品番号一覧、出版社一覧、被献呈者一覧等のデータ集および追補と訂正)が発行し、全目録が完成。

1976年 ランドン、5巻からなる膨大な『ハイドン:年代記と作品』を刊行。

1984年 アメリカのDover Publications 社、ペスラーの『ピアノ全集』全2巻を復刻・出版。

1994年 ロビンス・ランドンが「新発見のピアノソナタ」とした作品をめぐって論争。これらの楽曲は偽作であると結論された。

2004年 全音楽譜がハイドン:ソナタ集1、2を発行。各15曲が収録されている。いずれもホーボーケン表記を採用。ランドン表記を旧分類とする。

2009年 没後200年を機に、G.ヘンレ社より「ピアノソナタ全集(原典版)全3巻」が発行される。ケルンのハイドン研究所「ヨーゼフ・ハイドン全集」の一部を構成する。

鍵盤音楽担当編集者のフェーダーは、通し番号を付すのをやめ、全54曲を10のグループに分け創作順関係に融通性をもたせた。

2009年 「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手。改訂担当者はライジンガー。ランドン独特の通し番号は旧番号として維持されたものの、並び順はホーボーケン番号順に並び替えられる。

2010年 ペータース社より「マルティエンセン編ピアノ・ソナタ集 全2巻」が発行される。

2013年 「ウィーン原典版ハイドン ピアノソナタ全集」が改訂。日本では音楽之友社から発行。

ハイドンのピアノソナタをまとめ聞きする。
ハイドンをまとめ聞きするというのは、そもそも無理なのである。
そんなことは前から分かっている。わかってはいるが一度やってみたいのである。それが性というものだ。
シンフォニーは10番位で最初に挫折し、それでも頑張って行くと、30番位でなにが何やら分からなくなってくる。
そのへんからは徹底的に流しまくって、聞いたことにして前に進んでいく。
それでも50番位でもうごちそうさまになる。
ニックネーム付きを選んで進むが、それでもパリセットに入る頃には耳がストライキを起こす。
最後は、そんなことで一生を終わるのかという、声が聞こえてくる。これはほとんど統合失調の手前だ。
交響曲で挫折したのなら、弦楽四重奏がどうなるかは火を見るより明らかだ。
それに比べればピアノソナタはかなり気楽に行けるのではないかと、またもや始めた次第。
以前、ピアノトリオはけっこう気楽に進んだので、少し頑張ってみよう。

ピアノソナタを聞くのにあたって最初に困ったのは、名前がばらついていることである。
ばらつくのは決定的な権威がいないからであり、譲りあいの精神が欠如しているからである。
みごとなほどにばらついており、そのばらつきに規則性がない。

バッハとモーツァルトは幸せである。ケッヘルとBWVでとりあえず収まってくれるからだ。
一番不幸なのはスカルラッティで、たいした有名でもないのにL(ロンゴ)とK(カークパトリック)が意地を張り合っている。
それでもまだKとLと名を名乗るから良いが、ハイドンの場合は名を名乗らない。


私のつたない記憶では、かつて一時はホーボーケンに統一しようという流れがあったと思う。
しかしそれはもうない。昔のピアノソナタ第何番に戻ろうとしている。しかし2,3割の人はいまだにホーボーケンにこだわっている。だから同じ曲がまったく違う番号で出てくる。その際鑑別するには曲の調性で判断する。また作品番号もついているのでこれでも推測できる。
とにかく音源がある程度溜まってくるとこれを整理していくだけでも大変なのだ。
ということで、これからハイドンのピアノソナタを聞こうと思っている人のために、あらあらの曲名一覧を提示しておこう。
(なおオヴェ・アンスネスのソナタ集の番名は多分、「ウィーン原典版」の現行版ではなく旧版(ランドン版)を使っているのではないだろうか
一般的に言えば、ここに名前がない曲は聞く必要はないと思っていい。
haydn_PS
なお、ウィキペディアではホーボーケン番号順に曲を並べているが、今日では意味が無いので利用しないほうが無難。ピティナの索引(全音楽譜版?)を使って一覧表を作らないとあとでひどい目にあう。
曲としては、31番、32番、33番、38番、47番、50番、53番、59番あたりが定番曲だろう。
演奏は誰が良いということはないが、録音が新しく良いものが良い。ピアノフォルテやクラヴサンの演奏は避けた方が良い。
ブレンデルがあらゆる面から見て無難。クリーンも良いがブレンデルより粒が小さい。アンスネスの立体感は高音質とあいまって魅力。リフテルはたまにスカがあるので注意。バックハウスは無理やりベートーベンにしようとする。エマヌエル・アックスの盤は思いっ切り残響も入ってピアノしているが、意外に良い。


この記事は、その後180度転換されている。

をご覧いただければ理由はお分かりいただけるであろう。いまさら知らんぷりもできないので、恥をさらしておく。

通し番号記載は、今後姿を消していくであろう。

私もホーボーケン番号順に整理し直すことにする。整理し直したらもういちどブログに掲載することをお約束します。


本日の赤旗記事より。
「哺乳類は恐竜絶滅後に日中活動を急増させたが、にも関わらず夜行性の特性を残している」
というのが骨子のようだ。
科学誌「ネイチュア・エコロジー・アンド・エヴォリューション」にテルアビブ大学グループが載せた研究。
まあ、一つの研究でここまで言えるということはないので、これはディスカッションの一つということになる。
この研究における核心的な事実は、「哺乳類の日中活動が恐竜絶滅後に急増した」ということの証明にある。
その方法だが、
①まず現存する哺乳類の昼夜の行動パターンのデータを収集した。
②そして、それらの行動がいつごろから現れて来たのかを検討した。
その結果、昼夜行動パターンの変化には二つの変革期があったことが明らかになった。
哺乳類の発生から「数千万年前」までのあいだは、ほぼ完全な夜行性であった。
「数千万年前」から時折、日中にも行動するようになった。
さらに6600万年前に恐竜の絶滅したあと、日中活動が急増し昼行動物となった。
ということで、研究を通じて明らかにされたのは話の前半部分。
後半部分、「…にも関わらず夜行性の特性を残している」は討論の中での提起だ。
まず、なぜ哺乳動物は当初は夜行性だったのかということだが、それは恐竜との生存競争の中で強いられたものだ。これについてはすでに確認されたことである。
哺乳類は爬虫類と比べてより優れた生物として登場したわけではない。哺乳類と爬虫類は、生物進化の過程で兄弟のようにほぼ同時発生した。哺乳類は爬虫類に食われる存在であった。だから、変温動物が活動を止める夜間に活動するようになり、それに必要な智慧や能力を身につけるようになった。
これがプレ恐竜絶滅時代の住み分けである。
そこで、当初より昼行性だった爬虫類、鳥類、昼行性魚類の特性を哺乳類が持ち合わせていないという指摘に話が至るのである。
その具体的事例として研究グループがあげるのは、色覚である。
ただ記事では詳細は不明で、下記のような記載のみである。
…色覚は爬虫類などの活動を支えている特性をほとんど有していません。
ということで、視覚一般とは一旦切り離して色覚についての勉強をしておく必要がありそうだ。

なお、「ネイチュア・エコロジー・アンド・エヴォリューション」
という聞きなれない雑誌だが、「ネイチャー」誌の別冊みたいなものらしい。
Nature Ecology & Evolution というサイトがあって、ここに発刊の辞が掲げられている。

生態学と進化の研究コミュニティーのための Nature 関連誌として、オンライン限定ジャーナルNature Ecology & Evolution を2017年1月に創刊しました。

ということで、「注目のハイライト」というリストに
2017年11月7日 古代の哺乳類は恐竜の絶滅後に夜間の活動をやめた
というコンテンツを見つけた。おそらくこれが話のネタなのだろう。

リチャード・ウィルキンソン(以下RW)という経済学者がいる。1943年生まれだから私とほぼ同年代だ。イギリス生まれのイギリス育ちで、どちらかと言えば経済学者というより社会病理学者で、下記のプレゼンテーションで有名になった人らしい。

いかに経済格差が社会に支障をきたすか

これはグーグルでもYou Tubeでもすぐ出てくる。日本語訳までついてくるので大変ありがたい。

非常に説得力のあるプレゼンであるが、かなり畳み込んでくる。しかも最後はやや飲み込みにくい話も出てくるので、終わったあとさっぱり残らない。

活字人間向きに、多少の解説も交えて紹介しておくことにしよう。くれぐれも、これは解説であって転載ではありません。ただし異議があれば直ちに取り下げます。

Ⅰ 格差をめぐる三題噺
最初はGDPと寿命は関係がないという話、次が寿命は所得と関係するという話。そしてこの2つが前提となれば所得格差の少ない国ほど寿命が長いという話。これを統計的に証明する。

GNPと平均寿命

RWが最初に提示する図はGNPと平均寿命の相関で、相関がないことが示される。

所得階層と寿命

この図はイギリスに限ったものだが、所得階層ごとに寿命が決まっていることが明らかだ。最貧と最富者では7.5歳も違う。つまり寿命を決めるのは収入そのものではなく収入の相対ランクだということになる。それにしてもこの図を信じるとすればイギリスというのは相当ひどい国だ。私は71歳と2ヶ月。もしイギリスの最貧層ならもう間もなく死ななければならない。もし中流なら3,4年、うんとお金があればあと7年は生きられることになる。

2.貧富の差と病気や社会問題の関係


これから先のいくつかの図は国別に貧富の差と健康社会問題指数をプロットしたものである。きれいに相関しているが、日本が一番左端というのはにわかに信じがたい。
健康社会問題指数と格差

「平均余命…」というのは字幕が写り込んだもので関係ない。横軸は収入格差で右に行くほどひどいということになる。Index of health and social problems (社会病理指数)というのは、おそらくRWが下記の項目を元に作った計算式だろうと思う。
社会病理指数
これも上に行くほどひどいということになる。
これから先は社会病理指数の各個別項目について図を並べていくことになる。縦軸のベクトルが逆であることに注意。
格差と児童福祉

最初の図が貧富の差と児童福祉水準で。基本的には同じ傾向。日本が低格差にも関わらず低福祉なのは別の問題があるのだろう。これについてはRWが後でコメントしている。

ただこれらの傾向は先進国にのみ通じる話で、古典的な貧困が支配する途上国では別な話になる。


次にRWは、もう少し情緒的なデータを提示する。最初が格差と他人への信用率の相関をプロットしたもの。次が同じ調査を米国内の各州でプロットしたもの。

格差と他人信頼度

州ごと格差と信用率

米国でもきれいに相関がプロットされることに驚く。NC,AL,MSなど人種問題が絡むと下方に偏位するようだ。

次の図は格差と精神疾患の有病率との関連。どうでも良いがイタリアのノーテンキさは何だ。

格差と精神疾患

次が殺人事件との関連。青のカナダが赤のアメリカに彩りを与えている。

格差と殺人事件

次が格差と囚人数の関連。片対数グラフであることに注意。

格差と囚人数

次が高校中退率。こちらは米国内各州の比較である。

格差と高校中退率

次はちょっと難しいが、重要な図である。

アメリカは、「富の不平等はあるが機会の平等、アメリカン・ドリームは保障されている」と主張する。

この図の縦軸の社会流動性というのは親子の代が変われば社会的地位が変わる、つまり能力本位の世界になっているかどうかの指標だ。

明らかに格差とは負の相関を示し、米国は世界最低だ。

ここでRWは一言、「もしアメリカ人がアメリカン・ドリームを叶えたいのならデンマークに行くべきだ」と会場を笑わせる。

このあと、これまでの図の一覧が示される。

格差との相関一覧



3.格差をめぐる議論とRWの主張
ここまではほぼそのまま素直に飲み込める話である。
次に話はディスカッションに移っていく。

まず、RWはいくつかの作業仮説を提示する。

第一に格差が、社会全体の機能不全を引き起こすということ。

第二に格差を縮小するためのやり方には二つあるとしてスエーデンと日本を取り出す。

スエーデンはそもそも収入格差が非常に大きく、これを税金という所得再配分で調整する。

日本はそもそもの所得格差が低い。租税による所得再配分や社会保障もそれほど行われていない。

この2つの傾向はアメリカ国内各州の特徴付けでも当てはまる。

それはどちらであってもいいので、格差が少なければ良いのである。

次の図はやや意図的なものである。

横軸に親の帰属階層、縦軸に幼児死亡率をとったもので、しかもスエーデンとイギリスの比較を見たものだ。

所得階層と幼児死亡率

イギリスでは所得階層に従ってきれいな相関が見られるがスエーデンはほぼ無関係だ。もう一つの注目点はイギリスの最上層でさえ、スエーデンの平均死亡率より高いということだ。

理由は分からないが、最上層階級の人々にとっても格差のない世界に済むほうが得策だということを示している。

なかなか難しい図であるが、RWは幼児死亡率の他にも5つの指標を用いて、同様の傾向を証明したという。
4.格差と社会的ストレス

RWは次の議論に進む。

このことは格差社会がこのような社会の勝者に対しても悪影響を与えていることを示唆しているのではないか。

そしてその悪影響というのが社会的ストレスなのではないか。

そこでRWは次の図を示す。方法論的には若干疑問が残るが。

ストレスとコルチゾール反応

ボランティアにさまざまな社会的ストレスをかけて、どれが一番コルチゾール(ストレスホルモン)の分泌をもたらすかを検討したもの。

「社会的評価に影響をおよぼすようなタスク」の施行時にもっとも強いストレスがかかったことを示す。


最後にRWは二つの結論を語る。

一つはしっかりしたコントロールをとらなくても、バイアス因子を厳密に取り除かなくても普通に物が言えるデータというのはたくさんあるのだと言うことだ。

これには完全に同意する。数倍から数十倍の差がある群間比較に有意差検定など必要ないのだ。

もう一つは「格差減少のためになにができるのか」ということだ。

下の図がRWなりの答えだ。

解決法


本日の赤旗文化面は「統制された文化」シリーズの第23回。「学校儀式」という文章だ。筆者は有本真紀さんという方、立教大学の先生で「卒業式の歴史学」という著書があるようだ。
本来ならそちらを見なければならないのだろうが、とりあえず失礼させてもらう。
失礼ついでに。有本さんは「歴史学」を伝えたいようだが、こちらは「歴史」のところだけさらわさせてもらうことにする。
1.明治初期
日本に近代学校制度が開始される。最初の「学校儀式」は新年の始業式だけだった。(新年なのか新年度なのか? そもそもなんで4月が新年度なのか)
2.卒業式
1876年(明治9年)に、陸軍戸山学校で卒業式が始まった。翌年には東大、数年後には師範学校や中学校にも拡大する。
どういうわけか、小学校への導入はそれから10年位遅れた(明治20年頃)らしい。
3.唱歌
明治前半期に唱歌を教える風習はなかった。当時の日本人に「みんなで一緒に歌を歌う」という行為は馴染みがなかった。
(この項は、儀式の歴史としてより唱歌の歴史として興味深い。以前にも「故郷を離るる歌」でかじったが、いずれもう一度系統的に勉強してみよう)
4.紀元節と天長節
これが最初の上からの命令に基づく儀式らしい。
1888年(明治21年)、文部省が内命を発した。「国家の祝日に生徒を集めて祝賀式を挙行すること、その式はもっぱら唱歌によるを可とす」というものだ。国家の祝日がいかなるものだったかが、ちょっとこの文章からは判じかねる。
まぁいずれにしても大したものではなさそうだ。
5.教育勅語の発布
1890年(明治23年)に教育勅語が出されると、矢継ぎ早に指令が継ぎ足されて、たちまちのうちに天皇神格化システムが国民を縛り付けることになる。
具体的には翌91年の「小学校祝日大祭日儀式規定」というのが曲者で、御真影への最敬礼・教育勅語奉読・訓話と唱歌斉唱」が事細かに定められた。その2年後には君が代・勅語奉答・1月1日・紀元節など8曲の儀式唱歌が告示されたそうだ。
全国の学校で式次第や振る舞い方までもが画一化し、厳密な指導が行われるようになる。
ここからが大変なことになっていく。巻き尺を持ってスカートの丈を計ったり、君が代の口パクを監視するパラノイアが教育界に跋扈することになる。
時期的には日清・日露へ向けての思想動員と重なるのであろうか。与謝野晶子はこういう教育は受けていなかったから「かたみ(互い)に人の血を流し 獣の道で死」ぬことを拒否したのだ。

ということで、文章の後半は「儀式」が強制化の有効な手段であることが論じられる。そして「儀式の呪縛」からの解放を説くが、「そこまで引っ張るのも何だなぁ…」とちょっと退き気味になる。
いずれにしても貴重なお話をありがとうございます。

どうもタバコを止めてから肉体的には多少良いが、精神的な持続性が落ちてしまったようだ。イライラと腑抜け状態が続く。

あと10年の生命、どう持たせればよいのか思案のしどころだ。

気持ちがひとところに落ち着かず蝶々のようにふわふわしている。

シェーンベルグの「浄められた夜が」演奏次第でずいぶん違う。カラヤンがどうも気に入らなくて、弦楽6重奏のテクスチャー感が出てこない。

エベーヌ四重奏団がすごく気に入ったのだが、弦楽合奏版を捨ててよいのかが気になって探してみたら、小沢指揮サイトウ・キネン・オーケストラの演奏がすごい。ただ、熱演はすごいのだが、やはりこの曲は弦楽6重奏曲だろうと思う。

ベートーベンの大フーガをフル・オーケストラで聴いても、ひたすら低音弦がうっとうしいのと同じだ。

それでなんとなしに小沢のディスコグラフィーを探していくうちに、入江美樹という奥さんが気になって、写真を探したらこんなのが出てきた。

入江美樹
顔はハーフだが体型は純日本風。亡命ロシア人の流れのようで、白人=上流階級ではない類(大鵬とかスタルヒンとか)の流れかもしれない。戦後の北海道にはちらりほらりと見かけたものだ。

滝川クリステルとは品格が違う。

後ろのアンちゃんがいかにも平凡パンチかJUNから抜けだしてきたみたいで、 ワタシ的にはハマってしまう。

あの頃の若者文化の憧れシーンをスカートめくりしたような気分だ。


それでその話がどうつながっていくかというと、小沢が活躍した頃のアメリカのミュージックシーンの話になって、Stu Phillipsの話に跳ぶのだ。ここがどうして跳ぶのかがよく分からない。

海馬の障害なのかもしれないし、私のブログの更新が進まない原因なのかもしれない。

とにかくこのLPが良いのだ。

Stu
ジャケットは相当いやらしい。

それでこのStu Phillips という人が、売れればなんでもいい人なのだ。

それで最大のヒット作がナイトライダーだ。ナイトは夜ではなく騎士の方のナイトらしい。いま考えればAIカーの走りだ。

多分このシリーズは見た。ハッセルホフという下品顔の俳優で“日本ハムの新庄”をさらに崩したけばい顔だ。

音楽はとんと覚えていない。今日び、こんなもの、リズムマシーンソフトでいくらでも作れる。

「見た」記憶はあるが、「さすがにここまでは」というのが

Knight Rider
ということで、肝心なことが書いてない。

とにかく小沢征爾とサイトウ・キネンの「浄められし夜」は見ておいた方が良い。


国際連帯の課題と現状

数年前から痛感しているのだが、あれこれの闘いを取り上げてもそれだけで連帯の課題は見えてこない。

すべての国際連帯の課題が、わたしたち自身の闘いと分かちがたく結びついている

これが21世紀型連帯運動の特徴なのではないか。

そう思って書いたのが、今年2月の総会への情勢報告だった。


国際連帯の三つの課題

(国際連帯の課題と現状  続き)

報告の構成は以下のようになっている。

Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

Ⅲ 反ファシズム・立憲主義と民主主義を守る闘いと連帯

この3つの課題は

Ⅰ 平和に生きる権利

Ⅱ 人間らしく生きる権利

Ⅲ 自由に生きる権利

をめぐる課題、と言いかえることもできる。

 


Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

21世紀の戦争は、大小の軍事主義とこれに対する報復が悪循環を形成して拡大してきた。

この2つを食い止める、とくに軍事主義の足を縛ることで平和の構築に向けて歩みださなければならない。

A) 日本の平和主義国家から軍事主義国家への変貌を許さない

B) 「新しい北東アジア」の構想を推進する

C) 核兵器禁止条約の締結がもたらしたもの

D) 平和のための4つの方向と4つの実践課題 

A) B) C) それぞれが広範な内容をふくんでいるので、ここでは触れない。

D) についてのみ、触れておく。


Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

(続き)

A) 日本の平和主義国家から軍事主義国家への変貌を許さない

B) 「新しい北東アジア」の構想を推進する

C) 核兵器禁止条約の締結がもたらしたもの

D) 平和のための4つの方向と4つの実践課題 それぞれが広範な内容をふくんでいるので、ここでは触れない。

A) B) C)

D) についてのみ、触れておく。

 


 

反軍事・平和擁護の闘い(続きの続き)

21世紀の戦争は、大小の軍事主義とこれに対する報復が悪循環を形成して拡大してきた。

この2つを食い止める、とくに軍事主義の発生母体を崩し、足を縛ることで平和の構築に向けて歩みださなければならない。

この課題は反貧困・反格差の課題と、ある程度重複することになるだろう。

1.資源問題などでの富裕層の国際的な横暴を抑えること

2.領土問題などを利用する大小の覇権主義の芽を摘み取ること

3.民族差別を煽る極右・反動勢力の台頭と闘うこと

を土台としつつ

当面、国連などの国際協力を通じて、

1.異文化理解の強化 

2.貧困の削減と飢餓の根絶 

3.難民の受け入れと支援 

4.非軍事支援の強化

を推進していかなければならない

 


Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

A) 格差問題は世界で深刻化している

B) 欧米の社会変革の動きとの響き合い

C) 格差問題是正のために何をなすべきか

1.税制改革: 税制を改革し、所得再配分をすすめる。「能力に応じて負担する、公正・公平な税制」の原則。①間接税から直接税へのシフト、②大企業優遇税制の抑制、③租税回避を許さない、④世界的な「法人税引き下げ競争」の見直し。

2.財政改革: 積極的な公的社会支出(社会保障、教育・研究、子育て)で格差と貧困を是正する。

3.働き方改革: ①労働規制の強化、②非正規から正規へ、「均等待遇」「同一労働同一賃金」の原則を打ち立てる。③大幅賃上げと最賃引き上げなどによりワーキングプアをなくす。

D) 貿易と投資のルール作り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A.北朝鮮問題 3つの側面
北朝鮮問題とは、なによりもまず核+ミサイル問題です。これについては疑問の余地はありません。
北朝鮮が核+ミサイルに固執する限り、国際的な制裁は必要です。これについても疑問の余地はないでしょう。
ただし疑問の余地が無いのはここまでです。その先には大きな問題が横たわっています。
端的に言えば、それは次の三つです。
1.私たちは北朝鮮にどういう国家(隣国)になって欲しいのでしょう。
2.北朝鮮が核+ミサイルを放棄した場合、私達はなにをしてあげられるのでしょう。
3.北朝鮮だけでなく中国・ロシア・韓国もふくめて東アジアはどういう地域になるべきでしょうか。
B.問題解決のためには「枠組み」の考え方が必要
この3つは次のように言い換えることもできます。
1.日朝両国関係の枠組み
2.非核・平和・安全保障の枠組み
3.東アジア地域の共存・共栄の枠組み
つまり、落とし所とかギブアンドテークとかいう考えが必要なのです。また、大枠と個別論、短期見通しと長期展望のすり合わせなどが必要です。さらに相互信頼の醸成が不可欠です。
これらを念頭に置きながら、解決の方向を見出していかなければ、北朝鮮問題に出口はありません。
もし「こんな国なんか目障りだから潰してしまえ」というのなら、北朝鮮が核+ミサイル開発に固執するのを責めることはできません。
C.6カ国協議
南北朝鮮に米中、さらに日本とロシアを加えた6カ国協議は、事態をコンセンサス方式で進めていく確実な方向としてゆっこうな枠組みでした。これはBの2に相当する枠組みであり、潜在的にはBの3の問題までふくむものでした。

6カ国協議の前段階として、米朝両国と中国という3者による対話の試みがありました。これは北朝鮮の「核疑惑」が発生したときに、中国を仲介者として米国と北朝鮮が接触する枠組みのものでした。

中国が日本、韓国、ロシアに仲介の役割をともに担うよう要請し、すべての関係国が参加する枠組みに拡大したのです。 
したがってあくまでも会議の主役はアメリカと北朝鮮であり、議題も北朝鮮の核問題に限定されていました。
ところが始めて見ると非常に優位性を発揮したのです。まずその公平さです。対立を客観的に眺めることができる仲介国が多く入ることで、多国間の枠組みが大いに力を発揮しました。これによって会談の公明さと公正性が維持され、同時に共通認識も形成されました。
その後、6カ国協議は形骸化しふたたび核開発へと動いていったのですが、いまでもその有用性は保たれていると思います。

多くの関係者は、「この枠組みは、今後、北東アジア地域の多国間協力の土台になり、安全保障協力機構の母体として発展する可能性がある」と期待しています。
D.アメリカ 部外者なのに当事者

6カ国協議の枠組みでおかしなことがあります。一貫して交渉の中心になっているのは北朝鮮とアメリカですから、アメリカは6カ国交渉の当事者そのものです。
しかしアメリカは東アジアの住人ではありません。そういう点では東アジアの平和と安全、相互関係を築くのには関係のない部外者なのです。これは北朝鮮問題を考えるのにあたってはとても大事なポイントです。

94年の朝鮮危機のとき、ラック在韓米軍司令官とレイニー駐韓大使は「米国人の避難計画」を進めました.ラック司令官は「北朝鮮はソウルに向けて最初の12時間に5千発の砲弾を浴びせる能力がある.もし再び戦争となれば死者は100万人に達する.米軍にも10万人の犠牲者が出るだろう」と本国に報告しています.
つまり、アメリカは福島原発の事故の時に東京から逃げ出したように、朝鮮有事の際はソウルから逃げ出し、ソウルを見殺しにするのです。
アメリカの第一戦略目標は長距離ミサイルにあり、ここを一撃できればあとはさほど心配なことはありません。あとは中・短距離ミサイルの射程距離からできるだけ離れましょうということになります。
だからアメリカの抑止力を当てにするとしても、アメリカを守護神と見誤ってはいけません。むしろ暴発の危険は“部外者”であるアメリカの側にあるということを見通して置くべきでしょう。

E.安全→平和→統一の戦略

韓国の盧武鉉元大統領は、現職時代に南北関係の進展の展望についてこう語っています。
1.現在の南北関係から統一に至るまでの戦略的価値の優先順位は、「安全・平和・統一」の順である。まずは南北間の平和定着が優先する。統一論はその後である。
2.「統一」については、「経済統合、文化統合、政治統合」という三段階論を経なければならない。
3.「統一を得るために平和を放棄し戦争を選んだという歴史も存在するが、韓国はそうするわけにはいかない」と表現しました。
朝鮮半島有事となればアメリカの第一撃が北朝鮮の主要施設を壊滅に追い込むでしょう。これに対し北朝鮮の短距離ミサイルや砲撃がソウルや韓国の主要都市に降り注ぐでしょう。
どちらにしても南北朝鮮の人々に最大の犠牲が押し付けられることになります。
このような形での決着は絶対に避けるべきだと思います。
F.北東アジア平和協力構想

日本AALAでは「北東アジア平和協力構想」への賛同署名を行い、大きな成果を上げた。

この「平和構想」は対話の中で諸問題(北朝鮮、尖閣・南沙諸島など)を解決していこうという姿勢である





 

1945年4月 

4月半ば ソビエト軍がベルリンに突入、中心部へ向け侵攻。ヒトラーは南部ベルヒテスガーデンへの疎開案を拒否。ベルリンの総統地下壕を最後の拠点と定める。

4月20日 総統誕生日。ヒトラーは国防軍最高司令部と政府閣僚の避難を許可。ドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。デーニッツはプレーン(Plön)の海軍総司令部に移り執務開始。国防軍最高司令部のカイテル元帥、ヨードル上級大将らもプレーンに向かう。

4月21日 空軍総司令官ゲーリング、国防軍最高司令部・陸軍総司令部の主要メンバーはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開。

4月23日 軍中枢に続き、閣僚もプレーンに移動。プレーン近郊のオイティンで閣僚会議を開催。

4月23日 連合軍がポー川を突破。ムッソリーニはミラノからスイス国境のコモに逃走。

4月23日 ゲーリング、ヒトラーに国家指揮権を移譲を迫る。ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月27日 ムッソリーニ、コモでパルチザンに逮捕される。 即決裁判により処刑される。 遺体はミラノ市のロレート広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬される。

4月27日 ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月28日 早朝 SS全国長官ヒムラーが密かに進めていた和平交渉が失敗。その秘密がBBC放送で全世界に公表される。ヒトラーは激怒しデーニッツを後継者に指名、ヒムラーの解任と逮捕を命令する。

4月30日am 海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領(総統ではない)に指名され、新たな政府を組織した。デーニッツはヒムラーと会見し、ヒムラーが解任されたことを告げるが逮捕に至らず。

4月30日3pm ヒトラーが総統地下壕の一室で自殺。ボルマンを遺言執行人に指名。この時ソ連軍は地下壕から500メートルまで迫っていた。

4月30日深夜 ボルマンら、総統地下壕を脱出。その後行方不明となる。

1945年5月

5月1日 0am ヒムラーとデーニッツの2回目の会談。ヒムラーは首相職を要求したが、デーニッツはすでにヒムラーが連合国から交渉者失格と通告されているとして、これを拒否。

5.01 午後 ゲッベルスとボルマンの共同署名になるデーニッツあて電文が到着。ヒトラーが自殺し、デーニッツの大統領就任が発効した。(このあたりやや事実が錯綜)

5.01 8pm ゲッペルス夫妻、子供を毒殺したあと自決。

5.01 10pm デーニッツ、ハンブルク放送を通じて演説。ヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを明らかにし、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける」と表明。「押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うこと」を最大の任務と位置づける。

5.03 デーニッツ、クロージク財務相を閣僚首班に指名。フレンスブルク郊外の海軍士官学校に内閣を置く。

5月4日 西部戦線のドイツ軍が全面降伏する。

5月5日 ミラノのドイツ軍C軍集団が正式に降伏。イタリアの戦闘が終結。

5月5日 プラハ蜂起が発生。翌日にはソ連軍も到着。

5月6日 デーニッツ、ヒムラーら生え抜きのナチ幹部を解任。連合国との交渉に備える。

5月6日 デーニッツはドイツ軍作戦部長アルフレート・ヨードルに、連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与える。ヨードルがフランス国内(ランス)の連合国遠征軍総司令部に赴き、連合軍への降伏を交渉。

5月7日 48時間の猶予を得たドイツ軍は、西方総軍指揮下の各軍に対して西への脱出を命令。 デーニッツは西方での投降は受け入れ、東方では戦闘を継続し市民や兵士の避難のルートと時間を確保しようとつとめた。

5月8日 連合国軍司令官アイゼンハワーとヨードルが無条件降伏文書に調印。文書は英文のみで、ランスの連合国遠征軍総司令部で調印式。

5月9日 ベルリン郊外(カールスホルスト)の赤軍司令部で、カイテル元帥らドイツ代表が降伏文書を批准。こちらの文書は英・ロ・独文よりなる。旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

5月13日 ソ連軍はすべての進撃を停止。

5月14日 スロベニアでパルチザンとドイツ国防軍・クロアチア独立国軍の戦闘。翌日、ドイツ軍が降伏して戦闘が終了。

5月20日、ソ連政府はデーニッツ政府がどんな権力を持つことも許さないと表明。

5月23日 英軍がフレンスブルクの政府施設に侵入。アイゼンハワー命令に基づき、政府の解散とすべての要員の逮捕を執行。デーニッツらフレンスブルク政府の閣僚が逮捕され、ドイツ政府は解体・消滅する。

6月5日 連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国による主権掌握が発表された。


「原爆の落ちた日」という本がある。半藤一利さんと湯川豊さんの共著になる本で、PHP文庫の一冊となっている。
この本を読んでいて、驚愕の内容に会った。
「大本営戦争指導日誌」というものがあるらしい。
敗戦時に一部が処分せずに残ったのだろうか。現在も閲覧可能のようである。
その昭和19年6月24日の記録には下記のごとく記されていると言う。
「来月上旬には、サイパン守備隊は玉砕すべし。もはや希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは、一億玉砕による敵の戦意放棄を待つあるのみ」
すなわち陸軍統帥部の中においてすら、戦勝の望みはほとんどなかった。
7月1日の戦争指導日誌はさらに驚くべき内容となっている。
「昭和20年春期頃をめどとする、戦争指導に関する第一案を研究す。判決としては、今後帝国は作戦的に大勢挽回のめどなく、しかもドイツの様相もおおむね帝国と同じく、今後逐次“ジリ貧”におちいるべきをもって、速やかに戦争終結を企図すとの結論に意見一致せり」
つまり作戦本部は昭和19年7月のサイパン玉砕をもって、戦闘は終わったと判断したのである。それにもかかわらず、国民にさらに1年余の無駄な抵抗を強いた。
そしてその1年こそが屠殺の1年であった。フィリピンでの大量戦死。本土の絨毯爆撃、とりわけ焼夷弾による無差別の殺戮、非戦闘船舶への魚雷攻撃、そして沖縄での住民100万を巻き込む大量虐殺。広島・長崎の原爆死、満州での大量棄民、戦災孤児や帰還子女の餓死。
これらのすべてはサイパン玉砕後の1年で起きたことばかりである。
これが日本の戦争犯罪者たちの最悪の所業なのである。

機密戦争日誌」というのは、これまでもいくつかの断片が発行されていたようであるが、決定版となったのは平成20年5月1日発行の錦正社版のようである。
編者は軍事史学会で800ページ2万円というからおいそれと手が出る価格ではない。
まず出版社の告知
変転する戦局に応じて、天皇と政府、陸軍及び海軍が、政治・外交指導を含む総合的な戦争指導について、いかに考え、いかに実行しようとしたか?
日々の克明な足跡がここに明かされる。
「機密戦争日誌」とは、大本営政府連絡会議の事務をも取り扱っていた大本営陸軍部戦争指導班(第二十班)の参謀が昭和十五年六月から昭和二十年八月まで日常の業務を交代で記述した業務日誌。
敗戦にあたり焼却司令が出される中、一人の将校が焼却に忍びなく隠匿するなど、様々な経緯を経て防衛研究所図書館に所蔵され終戦から半世紀を経た平成九年に一般公開された貴重な史料。

ただし、半藤さんが示唆するような軍の最高幹部の意見を集約したものではなく、担当将校の所感が綴られたものである。

軍事史学会会長 の伊藤隆さんの挨拶文によると、
残されているのは大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)の業務日誌であるが、その他に各部課でも業務日誌を作成していたと思われる。
しかし第二十班が大本営政府連絡会議の事務をも担当していたという位置から考えて、重要性は高いと判断される。
と、やや控えめの表現になっている。

ネットでとりよせた鷹勇の特別本醸造。
何年ぶりかの鷹勇だったが、一瞬われを疑う。
これは酒じゃないよね、醸造用アルコールだね。だから「特別本醸造」なんだねと納得する。
たしかに鷹勇というのは最初の一口からグッとくる酒ではない。ぐい呑で一杯飲み終わった頃に、「えっ、これってなに」という酒ではある。
それにしても、この愛想の無さはなんだ。見事なまでのドキュメンタリーな乾燥感、口に広がるはずの“かぐわい”がない。上半分がヘラでこそぎ取られたような空虚感、舌に残るのは少々の糠のにおいだけだ。
困ったもんだね。これだけひどいと、ひとにくれてやるわけにもいかない。
だますわけにも行かないから、自決用の手榴弾を渡すように、「鷹勇の最期を確認してください」と言いながら渡すほかないだろう。




このところイライラが募っている。
夜中に咳が続いて、おそらくは左舌区の気管支拡張に、上顎洞感染が重なっているためのものと思われ、これまでもときに悪化・寛解を繰り返してきたが、どうも今回はしつこい。
とりあえず少しタバコを辞めてみて経過を見ようということにした。とはいっても、何度も繰り返された試みであり失敗に終わった試みであるから、半日くらいとタカをくくっていたが、なんと朝から寝るまで吸わずにしまったのである。
そうなると2日目は、禁煙を止めづらくなる。3日目はますますだ。さりとて吸いたい気持ちが軽減したわけではない。そもそも禁煙しようという決意などないのだから、辛いのだけがダラダラ続く。
生活のリズムが3拍子で形成されてきたから、これをどうするのかが戸惑いだ。“食う、飲む、吸う”あるいは“仕事する、飲む、吸う”の3拍子目がない生活というのはどう送るべきなのか、とりあえずは飲む、飲む、飲むでお茶とコーヒーとバターピーナツ
肝心の咳の方だが、たしかに朝の咳込みは多少軽くなったようだが、タバコをやめた努力のわりに見返りは少ない気もする。
明らかな有効性が確認できれば、それで目的は果たせたことになるのだから、その時点で喫煙は再開しようと考えている。ただ後鼻漏の方はいまだに続いており、このままでは週をまたぐことになりそうかな、と覚悟しつつある。
ということで、しばらく根を詰めた作業はしないようにします。
どうでもいいけど
3拍子の名曲をご紹介します。
NELLY OMAR - DESDE EL ALMA

唯物論と経験批判論 あらすじ

序論のかわりに

バークレー批判がまず展開される。おそらくあとから付け加えられたのであろう。率直に言えば不必要に長い。

初めての読者は、飛ばしたほうが良い。とにかくまずマッハから取りかかるべきだ。

エンゲルスの引用

「唯物論にとっては自然が第一次的なもので精神は第二次的なものであるが、観念論者にとってはその逆である」

この両者の間にエンゲルスはヒュームとカントを置き、彼らを不可知論者と呼ぶ。そしてその特徴として、世界の完全な認識の可能性を否定する点をあげる。

その後、ヒュームからの長い引用がある。ハックスレーからの重複引用。バークレイのような悪気はないということを言いたいようだ。

後半はディドロによるバークレー批判を紹介して終わる。

たぶんディドロを発見して「これだ!」と思ってこの序論を書いだのだろう。

第一章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その1

第1節 感覚と感覚の複合

この節では経験批判論の代表者と目される人物が紹介される。

まずマッハの所論の紹介と分析から始まる。

中間結論として、マッハは相対主義を唱えるが、相対主義と弁証法の違いを知らないということを示す。

そしてエンゲルスの言葉、「肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌する」という機械的唯物論批判を対置する。

つまり相対主義は機械的唯物論への罰であり、非弁証法的という点においては五十歩百歩だということである。

この指摘は正しいのだが、その後十分に発展されているとは言い難い。

つぎにアベナリウスの批判に移る。

レーニンの当面の論敵であるボグダノフはアベナリウスの影響を受けたらしく、レーニンはこの二人を串刺しにして批判している

マッハ、アベナリウスに続いてイギリスのピアソンとフランスのポアンカレーが紹介される。

第2節 「世界要素の発見」

ついでレーニンはマッハ主義をマルクス主義に持ち込んだ最初の人物としてアドラーをあげる。

ここからレーニンの舌鋒は鋭さを増す。ここから先はもはや党派闘争の世界だ。

アドラー批判は、つまるところ「マッハもアベナリウスもそんなこと言ってないよ」というものだ。

そしてアドラーの「解釈」を受け継いだのがボグダノフだというわけだ。

アドラーの所説は、観念論者ヴントの経験批判論への攻撃にもとづいている。つまりヴントが徹底した観念論の立場から「マッハは唯物論者だ」と非難した言葉を借りてきて、「ほら、マッハは唯物論者だろう」というこずるい論建てをしている。

そこでヴントの所説の検討に入る。

なお、ここでさり気なく触れられている一文は注目に値する。

…しかし、他方、マッハとアベナリウスの当初の観念論が哲学上の文献で一般に認められているのと同じ程度に、経験批判論が後に唯物論の側に方向転換しようとつとめたことも、一般に認められている。

ということで、マッハの最近の著作(「認識と誤謬」1906)を引き合いに出す。そして折衷主義的な記述を引き出す。

第3節 原則的同格と「素朴的実在論」

ここからはアベナリウスの批判に移っていく。

アベナリウスが観念論でありながら折衷的態度を取っているとのべたあと、その後継者でより強硬な観念論者のエヴァルトらに攻撃が向けられる。

この辺は十把一からげだ。

第4節 自然は人間以前に存在したか?

この領域はマッハらにとってとくに苦手な分野である。そこで彼らの「言い訳」を取り上げてネチネチといじめる。

アベナリウスとその弟子のペツォルト、ウィリーが、しばしばカントやフィヒテを引き合いに出すのに応じて、レーニンもこれを批判するが、どちらかと言えば及び腰である。

そしてその後、今度はロシアの社会民主党内のマッハ派を取り上げる。最初がバザロフである。

自党内部の話だけに攻撃の厳しさは一段と増す。

第5節 人間は脳の助けを借りて考えるか?

これも前節とおなじような経験批判論の弱みだ。

これについてはアベナリウスが「イントロイェクツィオン」という詭弁を思いつき、ボグダノフはそれに引っかかった。

しかし、この詭弁は観念論者ヴントによって暴かれた。

ピアソンはこのような詭弁を用いずに、「意識がどこから来るのかなど関係ない」と開き直った。

第6節 マッハとアベナリウスの唯我論について

経験批判論は主観的観念論であり不可知論であり、最後は唯我論に陥る。

これについては「ネイチュア」誌の寄稿論文(ピアソン批判)と物理学者ボルツマンの文章を載せることで批判に替えている。

今日の私達からすれば、なにもバークレーからディドロ、フォイエルバッハを持ち出すまでもなく、これらの批判で十分であろう。

 

第二章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その2

マッハ批判はすでに終わったが、これから先は党内論争になる。

きっかけはマルクス主義理論家プレハノフが、カントの「物自体」を認めた発言をし、これに経験批判論の連中が噛み付いたことから始まっているらしい。

「エンゲルスと違うじゃないか」とやり始めたので、カント-エンゲルス-プレハノフという一連の理論の評価をしなくてはならなくなった、というのが経過のようである。

というより、レーニンがやりたくて始めたケンカのようだ。

その前にちょっと弁護して置かなければならないが、このときエンゲルスの「自然弁証法」は未発表である。だからエンゲルスの主張は部分的にしか取り上げられていない。

ということはレーニンもエンゲルスの主張を全面的に知った上で論戦に参加しているわけではない。

それにカントはネオカント派だって本格的に勉強したことはなかったはずだから、かなりボロは出ると思う。

これが党内向け論争でなく他流試合であったら、ここまで書くことはなかったろうと思う。さすがに恥ずかしい。

第1節 「物自体」、エンゲルスへの攻撃

この章はまず、チェルノフという人物が「物自体」に関してプレハノフを攻撃したことから始まる。ところが、チェルノフは勢い余ったか、「物自体」の把握についてエンゲルス攻撃まで始めた。

エンゲルスは、カントによれば不可認識的な「物自体」を、ひっくり返してすべての認識されていないものは物自体であると主張した。

というのがチェルノフの主張である。

そこで、レーニンは誰かの引用ではなく自分の言葉で長い反論を書いている。

しかしどうも売り言葉に買い言葉で、ポジティブな論証にはなっていない。

マルクスのフォイエルバッハ・テーゼの第二が引用されるが、この場合適切ではない。

これらのテーゼは、まずもって、観照の立場にとどまる唯物論者フォイエルバッハへの痛烈な批判である。

第2節 「超越」について エンゲルスの「改作」

エンゲルスはカントの物自体を少しも否定していない。認識の限界もふくめ承認している。その上で我々の認識限界を広げていくことは可能であり、その可能性は無限であると主張する。

「超越」というのはその時々の認識の限界を超えて、物自体の世界に踏み込むことであり、エンゲルスは科学的な仮説を除いて、原則的にはこれを認めない。そして科学的な立証を要求する。

これらについてレーニンは力説している。ただしさほど説得的ではない。

第3節 フォイエルバッハとディーツゲン 「物自体」の見解

まずフォイエルバッハが取り上げられる。彼が「物自体」を「実在性を伴った抽象体」と定義したことを紹介する。

ディーツゲンについても色々書かれているが、あまり興味ないので省略。

この節の結論。

1907年にはエンゲルスを否認し、1908年には不可知論へとエンゲルスを「修正」しようと試みる…これがロシアのマッハ主義者たちの「最新の実証主義」哲学である。

第4節 客観的真理は存在するか

ここまで行くと、「もうやめておいたほうが良いんじゃないの」と思ってしまう。今ではほとんど「禁句」だ。

むかしスターリン主義の哲学教科書には必ず載っていたが、この言葉には強い違和感を抱いた覚えがある。それこそ形而上学そのものだ。

とにかく第二章に入ってからというもの、レーニンは変調をきたしている。

客観的真理の否定は不可知論であり主観主義である。…自然科学は…その主張が真理であることを、疑うことを許さない。それは唯物論的認識論とは完全に調和する。

これは「すべてのものは疑いうる」とするマルクスのモットーと完全にバッティングする。

ところで、レーニンが引用したヘーゲルの言葉が面白い。

経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、我々はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない、と考える。
この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを産んだ。(エンツィクロペディ)

ウム、たしかにそうも言えるな。

第5節 絶対的真理と相対的真理 エンゲルスの「折衷主義」

まず「マルクス主義は永遠の真理というような独断論を許さない」というボグダノフの言が俎上に載せられる

エンゲルスの「反デューリング論」から長い引用が続く。

ついで今度はディーツゲンの主張に対する論駁が始まる。ただしディーツゲンは部分的に誤りを犯した唯物論者として位置づけられる。

正直のところ、レーニンの論理は相対主義者の尻尾をつかめないまま堂々巡りをしている。

問題は即自・対自という弁証法的な相対論(ヘーゲル論理学が一つの見本)と、ただの相対主義の違いだ。弁証法は相対的真理群を通底する法則を読み込む。ただの相対主義は確率論的にしか操作できない。そして確率論は、そこにとどまる限りでは限りなく不可知論に近い。

このへんはエンゲルスの「自然弁証法」を知らなかったレーニンの不幸だ。

第6節 認識論における実践の基準

これは以前から気になっていたところである。

レーニンはフォイエルバッハの第2テーゼをふたたび取り上げる。

真理が人間の思惟に達するかどうかを実践から離れて提起するのはスコラ学である。

そしてこれをエンゲルスの下記の言葉と結びつけることで議論を始めようとする。

不可知論に対する最良の論駁は実践である。

マルクスの言わんとする所は、「真理」とか「思惟」という概念がそもそもスコラ的であることだ。

エンゲルスの言葉は科学的事実を確認するにあたっては、やや雑駁にすぎる。やはり有無を言わせぬ技術に支えられた実験が必要である。マッハの衝撃波は、当時最新鋭の技術である写真を巧妙に用いた有無を言わせぬ証明だった。

ここでレーニンはマッハの言説を取り上げ、フォイエルバッハの言葉により批判する。


第三章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その3

第1節 物質とはなにか? 経験とはなにか?

第三章はボグダノフらとの党内論争を終え、ふたたびマッハ主義者との論争に戻る。

それぞれの節につけられたタイトルは、ひどく大げさである。正確に表すとすれば、例えば「『物質とはなにか?』についての経験批判論者のおしゃべりとその批判」とすべきであろう。

それにしても、「物質とはなにか?」はデかい。物理学の根本問題だ。一つの節であつかうような話ではない。

ただ、マッハ主義者の「物質」論を蹴っ飛ばすにはこのくらいでも十分なのかもしれない。レーニンはそう思ったのだろう。

まずアベナリウスの物質論から入る。彼は物質論を主張していないということが分かった。

次にマッハ。「物質は要素の連関である」

次にピアソン。物質は一定の感官知覚の群れである。

たしかにこれでは論争のしようがない。

レーニンはマッハがしばしば唯物論の側に脱線しているということに注目している。これについては私も同感である。

第2節 「経験」に関するプレハノフの誤り

「経験」というのはずるい言い逃れである。要するに感覚の集合である。そこから何か特別な概念でもあるかのように議論をこしらえていくのが経験批判論のやり口である。

感覚が経験として記憶されるためには、何らかの整理統合装置と記憶装置が必要である。それは感覚からは作り上げることができない。

ここのところをプレはノフは騙されてしまったらしい。

第3節 自然における因果性と必然性

この問題は端的に言えば「自然の弁証法」に関する議論である。

レーニンは個別の経験批判論者に反論はしているが、一貫した論理は持てないでいる。

彼には武器がない。ある場所では「エンゲルスにはこの問題での言及がない」と泣き言を言っている。エンゲルスの「自然弁証法」は、このとき彼の手元にはなかった。

自然科学的な知識が相当ないと書けない。自然の弁証法は、多くの観察と適切な実験から帰納的に導き出されるものだからである。

たとえばダーウィンについて言及していないことはかなりの欠落であろう。

とくにアベナリウスの弟子のペツォルトには悪戦苦闘している。現象の確率論的な扱いこそ彼らのもっとも得意とする分野だからである。

第4節 思惟経済の原理と世界の統一性

前の記事でも書いたが、マッハの「思惟の経済」はなかなか優れた観点である。知覚として溢れるほどの刺激が脳に飛び込んでくる。巨大コンピュータでなければ到底処理できないほどである。

これを人間は知覚の段階で整理し、諸知覚を統合する過程でさらに切り詰める。そして事物をゲシュタルトとして認識し記憶する。それはもはや感覚ではなく知覚でもなく、いわば「心像」とも呼ぶべき表象である。

このように圧縮し表象化する仕組みをマッハは思惟の経済と読んでいる。内容そのものはきわめて「唯物論的」である。

ただ「経済」はいかにもいただけない。物理学者らしく、語法がガサツなのだ。

これは「今月はちょっとピンチなので経済しました」というのと同じで、倹約の意味だ。語源的にはエコノミーというのは節約という意味であるから、それでも間違いではない。

レーニンも「まったく不器用な、気取って滑稽な言葉」と言っているから、ある程度分かってはいるのだろう。

統一性の問題はペツォルトが提起しているようだが、ペツォルトの真意が不明瞭なのでなんとも評価のしようがない。

第5節 空間と時間

まず、レーニンはフォイエルバッハの言葉を掲げる。

空間と時間はたんなる現象の形式ではなく、存在の本質的条件である。

これは19世紀初頭に打ち出された宣言であるが、いまも妥当である。

ただ極微の世界、宇宙の始まりの世界ではこれらの相互関係はぐちゃぐちゃで、いまだ汲みつくされた認識段階にあるとはいえない。

それらはニュートン力学の世界を相対化しているが、否定しているわけではない。それは宇宙・世界の階層性を示している。

その上でエンゲルスの言葉は説得的である。

時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なのである。

現実の時間というのは生命誕生、あるいは地球誕生以降の物質的運動について時間軸に沿った認識を現実的前提としなければならないということである。

感覚が全てというなら感覚の生まれたあとの時間と言ってもよい。

第6節 自由と必然性

エンゲルスの「自由とは必然性への洞察」に関して、認識論上の意義に関連して簡潔に触れられている。

ただしこれは、デューリングとの論争の文脈の中で出てきた言葉であり、「自由」そのものの本質的な規定ではない。


あらすじと言いながら、だいぶ長くなってしまった。第二分冊の方は稿を改める。




今回の選挙で痛感したのは、日本共産党へのためらいが日本国民のあいだに根強いということだ。

選挙の終盤に来て多くのリベラル派の知識人や活動家が続々と共産党の応援に打って出た。

多くの人々が「共産党へのためらい」と口にしながら、「今度だけは」と支持に回った、と明かした。

これには正直のところ驚いた。驚いた私が遅れているのかもしれない。

このためらいは戦前からの持ち越しではない。権力の反共攻撃にのみ課すわけにも行かない。

結局それは我々自身の問題なのだ。

多分問題は二つある。

ひとつは資本主義をどう見るかだ。資本主義を打倒してコミューン主義を作るのではない、かと言って資本主義に修正を加えて済むとも思っていない。さらにそれを発展させて未来社会を作るのだ。

それは政治体制の話ではなく、経済・社会システムの話だ。したがってその幅は広い。あれか、これかの話にはならない。基本を明らかにし発展的に語ることが大事だ。

もう一つ、政治的理念の問題だ。武装蜂起や独裁のみではなく、思想・文化まで唯一体系に統合したボルシェビズムの清算がまだ徹底されているとはいえない。

レーニンの誤りのうち、いくつかは致命的なものだ。歴史上の評価はいろいろあるが、「マルクス・レーニン主義」の全面放棄を宣言し、いかなる形での残渣も残してはならない。

そのことから直接導かれるのであるが、中国・ベトナム・キューバをふくめて社会主義国家という評価を捨てることだ。「左派民族主義政権」(左派と言えるかどうかは別にして)という表現で十分に内容は伝わる。

コミューン主義という経済・社会システムが「国家」を形成しうるのかという根本的な問題がそこにはある。
以上二つの問題を踏まえて、私は以下の点を提起したい。

1.共産党は、「万人平等の民主主義」を相互承認するに至った人類社会の発展過程を踏まえ、歴史的なものとしての資本主義(とりわけ産業資本主義)を支持する。

2.同時に今日の資本主義には細部の修正では解決し得ない致命的な欠陥があり、それが「99%対1%」の矛盾を引き起こしている。人類は社会発展の次の段階、コミューン主義に移行すべき時を迎えていると考える。

3.1917年に始まるボルシェビズム国家群については、その思いは別にして、コミューン主義とは無縁のものと考える。その独自の意義を判断するについては歴史的な考察を必要とする。

4.「科学的社会主義」という言葉は、共産党が「科学性」を専有しているという意味ではない。それはコミューン主義の経済・社会システムに関する科学的探求という態度(節度)を意味し、それ以上のものではない。

選挙後に、応援してくれた多くの人々との対話が始まるであろうが、真の意味で心通う対話を展開するためには、以上の立場をより明確にする必要があろう。

そして多くの良心的な人々が持つ「共産党へのためらい」をじっくりと聞き出し、共産党の路線をより開かれたものにしていくことであろう。

共産党の良さは「みんなで決めてみんなで実行」というところにあるので、それを言葉の問題にせず、内外での対話促進に結びつけてほしいと思う。


いまびっくりしている最中です。
チョ・ソンジン(seong-Jin Cho 趙成珍)というピアニスト。あまりにも素晴らしくて、あっけにとられています。
もともと韓国のピアニストは好きで、独特のグルーブ感はとても日本人の及ぶところではないと思っていましたが、ついにここまで来たかという感じです。
2015年のショパン・コンクールで優勝、ポロネーズ賞も併せて受賞したそうです。
というより、もはや世界のトップランナーとして完成しています。
私はツィマーマンが好きで、いわゆる「世界最高」だと思っていますが、彼がのして来たのはショパンコンクールを受賞してから数年後のことです。
逆にポリーニは受賞のときが一番で、その後は玄人筋の評判は良かったものの、私にとってはピンとこない存在でした。
ダン・タイ・ソンはコンクールで燃え尽きてしまったようです。ユンディ・リーはただの雑技団です。
しかしチョ・ソンジンはそういうレベルをはるかに超えています。ピアノ界の大谷です。
技巧も素晴らしいし、音色も最高ですが、それ以上にずば抜けた芸術的センスに惚れ惚れしてしまいます。
それは英雄ポロネーズとかスケルツォの2番のようなとりとめない「駄作」から物語を紡ぎ出す、センスの絶妙さに現れています。
You Tubeで探すと韓国には芸術的センスに溢れた人たちが山ほどいます。訴えてやまない国民性が芸術に向いているんでしょうね。
「嫌韓」の方にぜひ一度見てもらいたいと思います。きっと考えが変わるでしょう。
ピアノ協奏曲第1番
ピアノソナタ第2番
チョ・ソンジンは第一次予選にノクターンの作品48の1を選びました。この曲はルビンステイン風にエレジーっぽく弾くか、ポリーニみたいに行進曲風に行くかでずいぶん印象が違ってきます。
最初からずいぶん難しい曲を選んだもので、その冒険が必ずしも成功しているとは思えません、


You Tubeにはショパンコンクールで優勝したあとのベルギーでのコンサートもアップされています。正直に言えば弛緩しきっています。このままではダメでしょう。

マッハの良いところ、悪いところ

マッハの良いところは勇敢なことだ。悪いところは乱暴なところだ。

この2つの素質があると、超大作がいくらでも書けてしまう。良くも悪くも分かりやすい。

乱暴だからといってそれほど馬鹿にしたものではない。かなりの点で革新的で、示唆的だ。

惜しむらくは弁証法がない。論理を駆動させるのはマッハで、その対象はみずから動かない。マッハには「もの」をして語らせようという気風がない。


ウィキから言葉を拾っていく。

1.『力学の発達』

ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、「形而上学的な要素」が入り込んでいるとして批判した。

「形而上学」というのは彼の決まり文句で、「古臭い、決まりきった既成概念」くらいの意味だ。

彼は時空間には絶対というものはないとし、ニュートン力学の及ばない世界があると主張した。

「マッハの原理」というのは、「物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる」とするものである。

これをアインシュタインが、特殊相対性理論の構築への足がかりにしたということで有名になった。ただしヒラメキのためのヒント以上のものではなかったようだ。

要するに「自分が動いていないとすれば宇宙が動いていることになる」ということらしいが、もちろん逆の可能性(地動説)もあるわけで、万事が相対的ではないかという主張らしい。

マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したそうだが、これはマルクスの「すべてのものは疑いうる」というモットーに類似している。

これは至極まっとうな本のようである。松岡さんの紹介によると、第4章第4節の「科学の経済」という一節にこう書いてあるそうだ。

あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し、予写することによって、経験とおきかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ。

事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側面(ゲシュタルト)だけを模写する。

われわれは模写するときには、いつも抽象しているのだ。

十分すぎるほどに唯物論的(レーニン的な意味で)だし、現代の脳科学の水準から見ても妥当だ。

ただ、ニュートン力学を「力学的物理学」と呼び、それに代えて「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだと訴えたそうだが、こちらは少々ピント外れだ。

ビッグバン以降、この世はエネルギーで満たされている。それがときどき「現象」として目に見える形で現れる。それだけの話しだ。

彼は「音速の壁」を突破した男として、世の中のあらゆる壁はぶち破れると思い込んだのではないか。

マッハは以上のような論建てのあと、「物理学的現象学」を提起する。それは、物理学から形而上学的カテゴリーを排除し、感性的要素の複合体を対象とするのだそうである。

排除されるカテゴリーには「実体」、「因果」、「絶対運動」(エネルギー)などがふくまれる。(野家啓一

フッサールはマッハの一元論に賛同しつつも、志向性の概念が欠けていることを批判した(両者の間に論争があったらしい)という。

また同様にマッハは、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判したそうだ。

思うに「積み上げ方式」の構築的な科学論と対蹠的な位置に立っていたのであろう。

2.認識論への言及

認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。

マッハの認識論の核心は「要素一元論」と呼ばれる。

主-客二元論や物心二元論を捨て、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだというものである。

意識が完全にめざめるやいなや、人間は誰しも、すでに出来あがった世界像を裡に見出します。

それが出来あがったのは当の本人がこれといって意識的に参与するからではありません。

むしろ反対に、人々は自然および文明の賜物として、何かしら直接的に了解されたものとして、出来合いの世界像を受取ります。

これは、「認識の分析」(1894)という解説本の一節らしい。「出来合いの世界像」というのはDNA的、生得的世界像のことか。とすれば、これは正しい。

気持ちとしては意識の形成における「感覚」の役割をもっと大事にしようということであろう。これ自体については大賛成である。人間の高次精神は、元はと言えば感覚的知覚の集合である。

このあとに前記記事の文章が続く。

我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、音、感触、等々)から成り立っている。

「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない。

因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる。

騎虎の勢いでカントの物自体も吹き飛ばしたことになる。

これを日夜食うか食われるかの生存競争にいそしんでいる生き物はどう受け取るだろうか。天敵の口の中で噛み砕かれる瞬間、「これは感覚の関数関係にすぎないのだ」と納得するのだろうか。

この「感覚」至上の、あえて言えば形而上学的な認識論への突然のジャンプは、流石に世の指弾を浴びたようである。ルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクらがこれを批判したとされる。

3.ウィーン学団への影響

マッハはこのほか心理学、生理学、音楽学などさまざまな分野の研究を行ったそうだ。

各分野に影響を及ぼしたというが、どちらかと言えば学問的というよりカリスマ的な影響力であろう。

そのカリスマとしての最大の「功績」がウィーン学団の結成(1929)であった。

これはウィーン大学のシュリック、ハンス・ハーンを中心とする科学者、哲学者のグループで、論理実証主義を標榜した。

彼らの多くがナチスの台頭に伴い米国に亡命し、以後米国にその考えが広がっていくことになる。

ウィーン学団については「科学的世界把握 ― ウィーン学団」というページが詳しい。詳しいが難解である。


私の感想であるが、

端的に言えばマッハは十分に唯物論的である。少なくともニュートン力学を批判するとき、彼は唯物論者と言ってもいい。

ところが、認識論に足を踏み込んだとき決定的な間違いを犯した。

マッハは、時空の絶対性を前提にしたニュートン力学に本質的な批判を加えたのであるが、それに代えて「感覚」を至上のものとして持ち込んだ。

それは「感覚」という神の復活であり、彼が忌み嫌ったはずの「形而上学」への復帰である。

レーニンが、対立の主要な側面を唯物論VS反唯物論にあると考えたのは正しいのだが、それはマッハが非弁証法的で形而上学的であったからだ。

唯物論の立場というのは、物質の客観的存在を認めるかどうかにとどまるものではない。自然にはエネルギーがあり、運動があり、あえて言えば「発展」があるということを認めるということだ。

一言で言えば「自然の弁証法」を認めることが唯物論の立場である。

マッハは非弁証法的であったがゆえに、すべての存在を「自然の過程」(エネルギーの流れへの抗い)として捉える唯物論の立場に立ちきれず、感覚至上主義へと漂流していってしまったのである。

考えてみると大阪の歴史がよくわかりません。私の念頭には歴史上何回かフアーっと登場して、いつの間にか消えていきます。

難波京、堺と石山本願寺、豊臣秀吉の大阪城、元禄時代の繁栄、幕末・明治初期の沈滞、大正の大大阪時代、戦後の地盤沈下です。これらの歴史的現象はいつも「なぜ」の問題を素通りしていきます。

まず、年表づくりをやりながら、「なぜ」の問題を追求してみたいと思います。

大阪市立図書館の年表が便利なので、これを骨格にしながら膨らませてみたいと思います。

 

 

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる

645(大化元) 都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する
1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺(実体としては城そのもの)を建立。上町台地に寺内町がつくられる

1532(天文元) 摂河泉で大規模な一向一揆がおきる

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。

現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別とすれば、戦国時代までは低湿地だったところがほとんどです。秀吉はそこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけをよくするとともに、掘り上げた土で周囲を土盛りさせました。こうして低湿地が、人の住める町にかえられました。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、現在の大阪の町の原型ができあがっていきました。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 幕府が大坂を直轄領とし、大阪城を再建。城代・町奉行をおく。

江戸時代になると、西のほうの湿地にもたくさんの堀川が掘られ、市街地がさらに広げられていきました。大阪は「水の都」と呼ばれるようになりました。

大阪新田

     江戸時代の新田の開発

1600年台後半 船場、天満地区に三大市場が栄える。
1703(元禄16) 近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。「上方文化」の花が咲く。

歌舞伎・浄瑠璃、あるいは落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪に中心が移ってきます。たくさんの町人学者が生まれ私塾が建てられました。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。
堂島の相場が全国の米相場の基準となりました。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになりました。多くの大名が中之島などに蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていました。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 緒方洪庵が適塾をひらく。官制の学問にとらわれない私塾が発展。

1868年(明治元) 大阪が開港場となり川口居留地ができる、舎密局をひらく。

1869年 廃藩置県に伴い、大阪の繁栄のもとであった蔵屋敷が廃止される。豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

明治政府は硬貨や大砲の工場を大阪に設けたので、そこから近代的な工業の知識や技術が、大阪に根づいていきました。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通
1884(明治21) 東京(都部)の人口135万人

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪市ができる。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。

繊維工業がさかんになると、大阪は工業都市として再生し、人口も増え、市街地が広がっていきました。
1895(明治28年)住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市第1次市域拡張、大阪築港起工式。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、その内側を9メートルの深さにするもので、人工的に築いた港という意味で、「築港(ちっこう)」と呼ばれました。
築港大桟橋

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人
1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。
ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。
1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立
1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。
県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)
1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 空襲で市内の大部分が焼ける、10月の市人口107万人、府人口280万人

焼夷弾攻撃により約21万戸の家が燃え、1万人以上の人が死に、3万5千人あまりの人がケガをしました。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる

 人口は各資料ごとに相当違う。
1873_

 1920_
前後の数字を見ると、大阪の首位は統計のトリック(とくに東京区部の扱い)によるものの可能性が高いようだ。


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