鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

前にも一度出しましたが、データがそろったので再掲します。

高齢者の疾病悪化の実態: 老健入所者の医療機関への異動理由の分析

検討の目的

老人保健施設(以下、老健と略す)は、医療機関と在宅をつなぐ中間施設としての役割を担っている。しかし高齢者は加齢と ともに心身機能が低下してくるので、在宅復帰が出来ないまま入所期間が長期化したり、在宅でのケアーが困難となり入所されるケースも多い。この場合、さら に体調が悪化し医療機関への移動を余儀なくされることも少なくない。

今回、老健から医療機関へ異動したケースを分析し、「いわば半病人を全病人にしない」ようにするために、どのような点に留意すればよいのかを検討した。

 

調査対象

当施設は100床の介護型老人保健施設である。2010年7月より2012年6月までのあいだに、110名の利用者が当施設より退所した。

 病状悪化等により医療機関への異動となったのは100ケース(男性32、女性68)であり、これを今回の検討の対象とした。なお複数回にわたり転出・転入を繰り返したケースもあり、実人数としては72人である。

 

表1 転出先の内訳

退所先

 

 医療機関

100

 自宅

5

 その他施設

 院内死

1(心臓突然死)

 

表2 転出者の年齢・性別内訳 ()内は実人数

転出時年齢

*在籍者

79歳以下

 10

 14

24

 

80~84歳

 4

 10

14

 

85~89歳

 11

 15

25

 

90~94歳

 6

 23

29

 

95歳以上

 1

 8

 

各年齢層に分散しているが、79歳以下の比較的若年者で退所者が多い傾向がある。入所時より特定の疾患を有しているケースが多いことが要因と考えられる。*は2012年7月現在の内訳である。

表3 転出者の介護度内訳

要介護度

転出者数

*在籍者数

 

21

 

17

 

26

 

27

 

介護度の高いケースで転院の割合が高くなるが、介護度が高くなくても転出する人は少なくない。*は2012年7月現在の内訳である。

表4 転出者の認知障害度別内訳

認知障害度

転出者数

*在籍者数

 

26

 

57

 

 

認知障害が高度なほど、転出者が多い。この傾向は年齢・要介護度に比べ強い。

 

表5 転出までの入所期間

1年未満

51

(再掲 3ヶ月未満)

24

2年未満

17

3年未満

3年以上

14

半分以上が入所1年未満の転出である。3ケ月未満の入所期間の多くは、複数回退所者である。

 

表6 入所時の主病名(入所の理由となった病名)

脳卒中後遺症

41

認知症

28

骨折など整形疾患

11

心筋梗塞・心不全

イレウス後状態

ガン術後

慢性閉塞性肺疾患

統合失調

認知症はアルツハイマー、レヴィ小体、脳動脈硬化性をふくむ。イレウス後状態の7ケースは二人の入所者が繰り返したものである。認知症が主病名でない場合も、認知障害の合併は多く見られる。

 

表5 転出の理由となった主病名

摂食障害(食思不振・拒食など)

 25

急性腹症(イレウス、胆石など)

 18

肺炎(感染性、誤嚥性など)

 11

骨折など整形疾患

 11

心筋梗塞・心不全

 9

腎・泌尿器系疾患

 6

脳血管疾患

 6

PEG管理

その他

11

急性腹症は同一者の複数回転出があり、実人数は12人である。“PEG管理”はPEG造設した後いったん施設に戻り、その後療養病床に転出したケースである。

 

小括

1.年間50%の頻度で入所者の転出が見られる。そのほとんどが病院への転出であり、自宅復帰の比率はきわめて低い。

2.病院転出者と年齢、要介護度とのあいだには強い関係は認められない。いっぽう、転出者と認知障害度とのあいだには一定の関係が推測される。

3.入所時病名の41%を脳血管障害が占めるが、入所中の脳血管障害の再発はきわめて低い。これに対し整形疾患、心疾患では転入・転出数がほぼ同数となっている。

4.食事・排泄にかかわる不調が転出理由となることが多い。これは認知症の臨床的終末像が摂食・排泄障害に収斂する可能性を示唆する。

5.今後、老健の機能にかかわって、胃ロウ造設と経管栄養の管理が問題となるであろう。特に認知障害度の高いケースで早急な判断が求められる。

 

 

ゲバラとともに散った日系人

恥ずかしながら、今回初めてエルネスト・フレディ・マイムラ(Ernesto Fredy Maimura)の存在を知った。

ゲバラが死んだ後に、日本でもドッとゲバラ物が出た。その当時はトロとけんかしていた頃で、トロ(といってもノンセク系)が持ち上げるゲバラにはさほど興味はなかった。

その後、ラテンアメリカに足を踏み入れてからは、ゲバラは横を走る存在になった。多少、皆さんと歩調を合わせるくらいにはなってきて、古本屋で当時の本をあさった。

ゲバラフリークから「さすがですね」といわれるくらいの本は集めた。しかしそれらの本の中に前村は登場しない。

しかし前村はすでに1968年から、一部の人には「知る人ぞ知る」存在だった。それが「橿原日記」というブログで分かった。

このブログがそもそも面白い。生まれは皇紀2600年だそうだ。本名が応請矩明(読めるかな?)と書いてあるが、読めない。

とにかくその平成20年12月27日号に「ボリビア国籍の日系ゲリラ隊員エルネスト・フレデイ・マイムラ」という記事がある。

ここでまず、昭和44年(1969)の「サンデー毎日2月2日号」が紹介されている。この雑誌で報道写真家の中川市郎氏の特別レポート「ゲバラとともに散った日系人」が掲載されていたことが分かった。

以下、「橿原日記」さんの記事から

Ernesto Fredy Maimura は日系二世、昭和14年(1939)10月18日、ボリビアのベニ州トリニダ市で、洋服生地店を営む日本人の父、アントニオ・マイムラと妻ローサとの間に二男として生まれた。

外科医を目指していた彼は、昭和37年(1962)にキューバにわたり、ハバナ大学の医学部に進んだ。そしてチェコスロバキアとソ連に2年間留学して医学の勉強をした。

彼はハバナに戻った後、ゲリラ隊員を志望し、66年11月27日、チェ・ゲバラのもとでゲリラ戦線を戦うためにボリビアに戻ってきた。

67年8月31日、ボリビア軍と遭遇して銃撃戦になった。ボリビア軍は10人いたゲリラ戦士のうち8人を射殺し、2人を逮捕した。その一人がフレディだった。

フレディは、尋問に黙秘権を行使して、一言もしゃべらないまま銃殺された。

ハバナ首都圏のマリアナオ地区の小学校は「フレディ・マイムラ小学校」と改名された。キューバの革命詩人ロサリオ・イサベルは「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」という詩を書いている。

というお話

これをハバナで前村の母と出会った中川市郎さんが記事に仕上げたというのが、サンデー毎日掲載にいたる経過のようである。

ボリビア日系協会連合会」のサイトに上記の案内が掲載されている。
http://www.fenaboja.com/bo_che_guevara/vallegrande.html
に直接あたっていただければよいのだが、少し、年表との関連で紹介しておきたいと思います。

バジェグランデ(Vallegrande)の町は、サンタクルスの南西300kmに位置しています。途中、サマイパタを抜け、車で約6時間。海抜2,000mです。

と簡単に書いていますが、地図で探すと、コチャバンバとサンタクルスを結ぶ国道4号線上にSamaipataという町があります。そこから、南に伸びる支道に入り南下するとバジェグランデに到着します。イゲラ村はそこからさらに南東方向にあります。地図で見るとコチャバンバ県、スクレ県、サンタクルス県の交点に近いところです。

と書きましたが、サマイパタからバジェグランデに抜ける道は、地図の上からは存在しない。二山ほど越えたパロという町から南に国道22号線があってその先にバジェグランデがある。

山道の300キロを6時間というのはかなりきついでしょう。時速80キロ以上の高速で休憩なしで行かないと無理だと思います。私もサンタクルスから日系コロニーまでバスで往復しましたが、たしかに100キロ近く出していました。

別のブログの管理人は、サマイパタに前泊して翌日の昼の12時にバスに乗り、バジェグランデに4時に着いたとありますから、100キロちょっとでしょうか。どうも地図を見ていてもこの時間感覚がイマイチ分かりません。

閑話休題
バジェグランデについたゲバラの遺体が置かれたのは、「マルタの騎士病院」ということになっていたので、私は剖検室かと思っていました。剖検台というのはだいたいあんな形です。
しかしそこは剖検室ではなく、屋外の洗濯台でした。
…と書いたが訂正します。洗濯台といっても死体の洗濯台で、そこからちょっと先に剖検室があるそうです。

チェ・ゲバラの遺体が置かれ、バジェグランデの市民にも公開されました。

ということです。

"1967年10月9日、10日
世界の人々に知らせる為、村の軍隊と記者によって、チェ・ゲバラの遺体が展示されていた。"


とかっこつきで書かれているのは、おそらく説明板の文句を写したのでしょう。良く分からない説明ですが。Viva Tarija さんのブログによると、実際に村人に公開されて、筆者の知人で実際に見た経験を持つ人もいるそうです。

バジェグランデは小さな町で、中央広場を中心に同心円状に広がっています。病院は中央広場に近く2丁ほど西に行った所です。これに対し、遺体が埋葬された軍用飛行場は、街の南のはずれにあります。
埋葬場所は二ヶ所あって、一つがゲバラとともに戦死あるいは処刑された6人の遺体、そこから少しはなれた場所に、8月31日戦死組12人が集団埋葬されていました。あの女性兵士タニアもここに眠っていたそうです。

イゲーラ村について


イゲーラ村については「ボリビア日系協会連合会」のサイトでも良く分かりませんでした。
Fudaraku Voiceさんという地図マニアの方が検索してくれています。
このサイトの中の ゲバラ終焉の地を見る というページに、イゲラ村の「ここだろう」という地図が載っています。
これを見るとイゲラ村は山稜の上にあり、そこから西に下っていくと、リオグランデ川の流れるチューロ渓谷(La Quebrada del Churo)という位置関係にあることが分かります。
ゆめぽろさんによると、イゲラから歩いて30分ほどでゲバラが捕えられたスポットまでいけるそうです。
SlowFlowさんによると、バジェグランデから来てイゲラに入るちょっと手前から谷に降りるのだそうで、なかなかきつい道のりのようです。そこから少し上ったところにゲバラたちの隠れ家があったそうです。

ネットサーフィンしていたら

日系旅行会社 ヘネシ

ボリビア サンタクルスにある日系旅行会社です。

というサイトにぶつかって、ここではなんとバジェグランデ2泊三日のツァーを募集している。サンタクルス発でお一人様5万円というからバックパッカーの相場から見ればとんでもなく高いし、日本国内で旅行する感覚ならありがちな値段かも、と思う。


ゲバラの死は、イエス・キリストの受難と似たおもむきがある。
目を背けるような写真の連続だが、案外、向こうの人はそう思ってみるのではないだろうか。
8日の午後3時頃、ゲバラはジャングルで負傷し捕らえられ、ラ・イゲーラまで移送された。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/f/af1a57e7.jpg
これがラ・イゲーラに到着したときの写真であろう。顔だけではゲバラとは同定できない。まだ生きている。左上腕を抑えている。左下腿にはかなり経過した傷がうかがえる。靴は靴とはいえない有様になっている。写真に写りこんでいる日差しと影から見て、8日日暮れ時、イゲラ到着直後のものと思われる。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/a/3a76d2a0.jpg
生前の写真。一通りの止血措置は終わり、顔にも精気がある。おそらく9日朝、バジェグランデからのチームが撮った最初の写真だろう。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/c/2/c2869427.jpg
よい写真だ。数あるゲバラの写真の中でも1,2を争ういい写真だ。他の生前写真はすべてゲバラをいやしめている。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/2/a2018432.jpg
処刑直後の写真。教室内ではなく、中庭に連れ出して射殺したことが分かる。タバコをくわえているのが銃殺したテラン軍曹であろう。写真で見る限り射入孔は一つだけだ。みんなでよってたかって撃ったというのは間違い。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/9/e9f3023a.jpg
ゲバラは左胸に手を当て仰向けの姿勢で絶命している。至近距離で撃たれ、銃弾は心臓を貫通し、数秒のあいだは反応したことが分かる。死亡を確認しているのはベレー帽から見て、第二レンジャー中隊長のプラド大尉であろう。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/0/0065b58a.jpg
眉の上の隆起はゲバラの特徴である。この「参った」顔が数分かけて「キリスト顔」に変わっていく、これが見ものである。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/1/e/1e379f89.jpg
おそらくはイゲラ村からヘリに乗せる直前の写真。目もかっと見開かれている。胸が広げられているが衣装は元のままで、「靴」もそのままとなっている。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/f/8/f839f13d.jpg
たぶん、上記の写真と同じ状況で足元方向からの撮影。周りの兵士たちも、この顔はぞっとしなかったろう。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/7/473b7d7b.jpg

こうやってヘリの脚に結わえ付けて運んだという写真。こうしてラ・ゲーラからベジェグランデまで運ばれた。このヘリにはフェリックス・ロドリゲスも同乗していたはず。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/5/45545180.jpg
バジェグランデに着いて、病院に安置されて最初の写真。顔が良く見えるように、首の後ろに板が当てられている。こういう状態で市民が見物したのだろう。口元が緩み、かすかにほほえみを浮かべているよう、完全にキリスト顔。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/d/0/d066867c.jpg
軍のお偉いさんの検分。おそらく右がレンジャー大隊司令官の大佐であろう。「靴」は脱がされている。両手はまだ存在している。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/5/5587e8bf.jpg
これがゲバラの両手。市民への供覧が終わってから司法解剖に回されており、このときに切断したものであろう。手根骨と指骨のあいだがきれいに切離されており、解剖の知識あるものの仕業と思われる。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/8/7/87bae47c.jpg
これが現在の墓。下段の左端がゲバラのもの。

すみません。著作権を無視しての転載しまくり。現在はさすがに食欲がない。


ゲバラの死年表を増補しました。というより整理しました。不正確なところを整理し、長い記述は囲みにまとめました。少し読みやすくなったと思います。
遺体の発掘のエピソードも載せようかと思いましたが、それほどのゲバラ・フリークでもありません。
ネットで見ると、ずいぶん多くの日本人旅行者が現地に行っているようです。
ただ、せっかくボリビアに行ったのなら、「ゲバラの息子たち」がどうがんばっているか、現実にボリビアで起きている革命の様子をもう少し学んでくれたらよいのに、とも思います。
私のホームページにはボリビア革命の様子を載せたレビューもいくつか載せています。ボリビア年表は結構包括的です。

インターネットでいい写真を見つけるとコピーするのだが、たいていは、そのまま眠ってしまっている。
すこし掘り出して、すこし解説を入れて紹介する。
最初はこれ。

スペイン人民戦争の初期。フランコ軍がマドリードを攻めたとき、市の西部のマドリード大学が戦場となった。構内で闘う共和派民兵。
以下、私のスペイン人民戦争年表から抜粋します

11.07 バレラ軍約二万がマドリード総攻撃を開始.西側三方面から突入を図る.マナンサス河にかかるマドリード入口橋に突入した部隊は,民兵隊に迫撃戦を挑まれ,いったん撤退.

11.08 マドリードに最初の国際義勇軍が到着.ドイツ人のハンス・カーレ大隊,フランス人のコミューヌ・ド・パリ大隊,ベルギーのエド ガル・アンドレ大隊,ポーランド人のドンブロフスキー大隊.のちにはドイツのテールマン大隊,イタリアのガリバルディ大隊,フランスのアンドレ・マルティ 大隊が加わる.さらにアラゴンのアナキスト指導者ドゥルティも3千の兵力で防衛軍に参加.詩人ラファエル・アルベルティは「マドリードはあなた方の名に よって偉大になり,光り輝いている」とたたえる.

11.09 ファシスト軍の先陣が大学町付近に到達.カサ・デ・カンポ公園に侵入.第五連隊の三万と,青年同盟の三万が前線防衛にあたる.大学校舎から狙撃する民兵と反乱軍が,一つ一つの建物の中で白兵戦を演じる.夕方までに,国際旅団が大学の確保に成功.

11.09午後 第11国際旅団からなる第一縦隊と,カタロニア統一社会党により構成された第二縦隊が敵陣に向け前進.イバルリは「マドリードはファシストの墓場となるだろう.やつらを通すな!」(No Passaran!)を連呼する.

11.10 モロッコ軍,トレドとプリンス橋で二度にわたり民兵の防衛線を突破.その後,国際旅団の夜襲を受け,甚大な被害とともに押し戻される.マドリ-ド空襲団とドイツのコンドル兵団による強力な空襲攻撃.

11.15 ブエナベントゥーラ・ドゥルティの率いる,カタロニアのアナーキスト部隊3千が、共和派軍支援のためアラゴンからマドリードの前線に参加.その他,スペイン各地から9つの支援部隊が到着,直ちに前線に参加する.

11.16 フランコ軍,マンサナーレス川を越え,市内に突入.大学町で1週間にわたる市街戦.

11月末 ファシスト軍,マドリード占領をいったん断念.包囲・持久作戦に切り替える.


ベネズエラの大統領選挙がいよいよ間近に迫ってきた。赤旗読者の方は、選挙の勝敗よりも“チャベスが変質したのではないか”と心配しているかもしれない。そんな心配は必要ない。

もう一人の“改革派”候補が意外に強くて、ひょっとしたら負けるかも、と心配しているかもしれない。それも心配ない。国民の支持は分厚い。

心配なのは、選挙の後に野党が「不正選挙」を騒ぎ立て、「チャベス独裁を打倒せよ」と騒ぎ立て、国内外のマスコミがそれを煽り立て、「労働者のゼネスト」、「企業スト」などが決行されて、街頭での流血騒ぎや、野党が握る自治体での警官の不服従が広がることだ。

既存の学生運動、既存の労働運動は明確に反チャベスのスタンスを取っている。彼らは本当の民主主義に慣れていないのだ。「国民が主人公」であることが不満なのだ。

以下に、イギリス人オブザーバーのブログ記事を紹介する。「野党」のデモを皮肉たっぷりに批判しつつ、「選挙が終わってからがやばいぞ」と警鐘を鳴らしている。何かクーデター前のタイの黄色シャツの「反タクシン」デモを思い起こさせる光景だ。

 

October 1st 2012

A Strange Kind of "Dictatorship"

訳が難しいが、「ヘンテコな独裁」という感じか?

 

今日、7日の選挙を前に、何万もの野党支持者がカラカス市内を行進した。暴力的な雰囲気はなかった。大統領候補エンリケ・カプリレスが群衆にかつがれ、行進した。人々は喝采を送った。

私はいまベネズエラで告発されている「独裁」について考えている。

それは奇妙な「独裁」である。それは何千もの野党支持者が集まり、行進し、「反独裁」の旗を振るのを許している。

それは奇妙な「検閲」である。「反独裁」のデモンストレーションのすべての経過がライブ放映される「検閲」である。それを放映するのは民間メディアであり、それはとんでもなく富裕な企業主によって資金を供給されている。

私は行進を見物していたが、周りには武装警官も丸腰の警官も見なかった。なんという奇妙な「弾圧」の方式であろう。

あるところで、警察ヘリコプターが群衆の頭上でホバリングした。そのとき群集はみんなでホーンを吹いて、空に向って手を振った。

私のイメージでは、「独裁」とは恐怖のうちに生きることである。そのイメージとはどうも食い違っている。

にもかかわらず、何かがこの大規模なデモを突き動かしている。それはなんだろう。

これがイギリスだったら、これだけの人が街頭に飛び出すというのは歴史的な事態である。しかしここでは人々は誰か一人の政治家を支持するために街頭に出る。しかもその政治家は、近いうちに行われる大統領選挙で、大方の予想では負けることになっている人物である。

 

木曜日に、ウーゴ・チャベスもカラカスで選挙の打ち上げ集会を開くことになっている。二つを比較するのは面白い見ものになるだろう。動員者数の比較だけではない。参加者の意気込みとか意見とかがどう違うかだ。

今日の野党の行進では、どこでも大量のビールが売られていた。僕らは見てしまったのだが、それをカメラに撮ろうとしたら断られた。

両方の側の集会動員数が多いということは、一つの事実をくっきりと浮かび上がらせる。すなわちいまベネズエラでかなり危険なことが起きようとしていることだ。

人々はすでに「民主主義の平和協定」とは別れを告げている。それは似通った政策の二つの党派のいずれかに投票するというやり方だ。そういうやりかたは、イギリスではいまだ健全だ。しかしここ、ベネズエラでは、そんなものはとうの昔に葬り去られている。そして彼らにはそこに戻ろうという気持ちはない。

野党は言う、「この国は団結すべきだ」と。しかし貧しい人々は、そんな団結などないことを経験している。金持ちのいう「団結」とは、貧しい人々の存在を否定することだ。人々の尊厳ある人生を生きる権利を無視することだ。何度となくそのことを経験してきた。

今日、カラカスの町には多くの人々が繰り出している。彼らはそう信じているようである。「道は一つだけ!」(Hay un Camino)

しかし、もし彼らの推す候補が日曜日に落選するならば、彼らはその結果を受け入れるだろうか?

By Jody McIntyre


経団連の対中国政策が分からない。
暴動の際には米倉会長が野田首相に「うまくやれ」と持ちかけたそうだが、何をどううまくやれというのかが分からない。
そもそも今日の事態を招いた責任の一端が経団連自身にあるという自覚も反省もない。
いまの経団連の方針は明らかに日米同盟まっしぐらだ。これほどまでに露骨に対米従属を突き進むということは、高度成長を遂げた後はなかった。
日米同盟というのは基本的には中国敵視路線である。この路線をさらに推進すれば、対中関係がうまくいかなくなるのは当たり前だ。いくら政経分離といっても、限度がある。
つまり中国リスクは高まる一方だということだ。それにもかかわらず、日本の産業を構造的に破壊して中国やアジアに進出するというのは、まったく矛盾している。
この矛盾が激化したらどうなるか、日本が再軍備して自ら中国と対峙する他なくなる。日本の海外権益を守るためには、戦前のように軍隊を送り込む他なくなる。
本当にそういう気持ちなのだろうか。

最近多いんじゃないですか。
いや、昔から結構いたかもしれない。
たしかに今の医学部は理工系だし、
いや、昔から理数コンプレックスだったね。
おかげでわたしゃ、ひどい目にあったよ。
なにせ、自慢じゃないが数学0点だったからね。
なんぼ国語が満点でも、とても追いつかない。
何とか滑り込んだものの、教養の数学・物理・化学はてんで歯が立たない。
裏表しっかりやって、お情けで通過。
いまでも放校になった夢を見る。
だから、理工系医師を見るとなぜかいらだつ。
「学者になれなかったから医者になったんでしょう」と見下ろす。
「違うね、前頭葉を使いたかったから医者になったんだ」

http://www.remnet.jp/kakudai/11/kichou.html#hokanoyoso

 平成19年度緊急被曝医療全国拡大フォーラム

「安定ヨウ素剤予防服用の考え方と実際」

放射線医学総合研究所緊急被曝医療研究センター所長 明石真言

(以下は私の抜粋・要約です。間違いがあれば、私の責任です。ちょいと長いので、お急ぎの方は最後の5のところだけ読んでください。なおこの講演は、臨床研修医向けの講習会のもので、厚労省が「こういう方針で基本的にはやってください」という性格のものです。非常に分かりやすく、面白い講演なので、ぜひ一度本文にあたってください)

1.なぜ安定ヨウ素剤を投与するのか

放射性ヨウ素を体内に摂取すると、10~30%ぐらいが甲状腺に沈着します。急性障害を起こして甲状腺機能低下症を起こす可能性がある。将来的に甲状腺の発がんにつながる可能性がある。

放射性ヨウ素が入ってくる前に、安定ヨウ素剤をあらかじめ飲んでおくと、放射性のヨウ素が尿中に排泄されてしまい、甲状腺に沈着するのを防ぐことができる。結果的に甲状腺の被ばく線量を低減する。これがヨウ素ブロックの基本的な考えです。

もちろん安定ヨウ素剤は万能薬ではありません。放射性ヨウ素を甲状腺に沈着させない効果しかない。そのことをまず理解していただくのが重要です。

非常に早期には恐らく効果があるだろうと考えられてきています。体の中に放射性ヨウ素が入ってきている時期ではどうか。この時期においても、まだ完全に放射性ヨウ素が甲状腺に沈着をしないあいだは、安定性ヨウ素が全体のヨウ素を希釈し取り込み率が減るという考えもあります。

1980年に『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌に発表された論文が根拠になっております。これはヒトを使った実験です。健康人にヨウ化ナトリウム(I-123)をワンショットで体の中に入れます。

被検者は三つの群に分かれます。注射の前に安定ヨウ素剤を飲んだ群、それから3時間後、6時間後に飲んだ群です。それぞれの群で甲状腺にI-123が沈着されるのを阻害する率を調べました。

注射の前に安定型のヨウ素剤を飲んでおけば、ほ とんど甲状腺には放射性ヨウ素は溜まらないという結果になります。3時間後、6時間後になってくると急速に阻害率が落ちてしまいます。

同じ論文の中で、安定ヨウ素剤(ヨウ化カリウム)をどれぐらい投与すればいいのかということも検討されています。結論としては30mg以上飲めば十分ということです。

原子力安全委員会の『原子力災害時における安定ヨウ素剤予防服用の考え方について』も、成人の場合で40歳までの場合は、ヨウ素にして76mgという量が設定されています。

原子力災害時における安定ヨウ素剤の投与の基準は各国によって多少ばらつきがあります。IAEAとWHOとでも差があります。我が国では、基本的に1歳の小児の甲状腺の等価線量で安定ヨウ素剤を投与すると決められています。

問題は、ヨウ素を含む製剤は時々副作用があるということです。チェルノブイリ原子力発電所の事故のときのポーランドでのデータでは、成人の場合、大体1万分の6 ぐらいあります。一部の人たちに嘔吐や下痢など、胃腸の症状が見られたという報告がありますが、はっきりと安定ヨウ素剤 によるものかどうかは不明だとされています。

しかし重篤な副作用はそれよりも1,000倍ぐらい低いことがわかっています。若年層ではほとんど報告がありません。それらを十分加味した上で安定ヨウ素剤の投与について決められているということです。

 

2.安定ヨウ素剤の法的位置づけ

安定ヨウ素剤は日本ではどういう法的な位置づけになっているのでしょうか。

実は安定ヨウ素剤についてはまだかなり誤解と間違った投与方法、間違った貯蔵方法が蔓延しているのが現状です。

現在の法律では、指定医薬品ということで、薬局や薬剤師による管理が必要です。医師や歯科医師もしくは獣医師、または病院などの施設の開設者以外は保管することができません。基本的には処方箋で投与するものであるという位置づけをされています。

もう1点、安定ヨウ素剤は薬事法第44条で毒性が強いものとして劇薬指定を受けています。販売したり授与の目的で貯蔵したり陳列してはいけないことになっています。まだこれから法的整備が必要かなと私どもは考えています。

原子力安全委員会では、各戸配布するのではなくて、周辺住民等が避難した場所において安定ヨウ素剤を服用することになっています。医療スタッフがいるところで投与することが望ましいとしています。

 

3.他のヨウ素を含む製剤はだめなのか

どうしてほかのヨウ素を含む製剤を飲んではいけないのかということです。

東海村の事故のときにヨードチンキを飲んだという方もいますし、それからうがい薬を飲んだ人、消毒用の石けんを飲んだ人もいます。それから、コンブを どれぐらい食べればいいのかですとか、自然食品の中に入っているヨウ素をどれぐらい食べればいいのかなど、実はいろいろな問い合わせが来ました。

実際、我々の身近にヨウ素を含んでいる薬はどれぐらいあるのかを少し調べてみますと、ヨードチンキがあったり、うがい薬があったり、消毒用石けんがあったり、そ れから皮膚・粘膜、傷の消毒をする薬があったり、ルゴールや軟膏など、実はたくさんあります。

基本的にはここに書かれているものは飲むために作ったものではありませんし、ヨウ素を体の中に摂取するために作ったものではありませんので、飲まないほう がいい、飲むべきではないというのが基本的な考え方ですが、それでも飲んでしまう人がいます。

では、なぜ飲んではいけないのかということを、あまりこうい う機会に触れることがないので少し触れさせてください。

ヨードチンキの場合ですが、単体のヨウ素が入っていて、それからKIが入っています。ヨウ素剤100mgのためには1ccを飲めば足りる量です。ただエタノールが74.3%、ウォッカ並みの強さです。ウィスキーでもこの半分ぐらいです。もちろん好きな人も いるのでしょうが、子供にこういうものを飲ませるわけにはいきません。

ヨウ素の単体自体は非常に酸化作用が強く、消化管を荒らしたりいろいろな作用があります。

それから、うがい薬があります。 うがい薬に入っているヨウ素はポピドンヨードというもので、ポリビニルピロリドンとヨウ素の製剤で、ポリピニルピロリドンについては食品衛生法や日本薬局 方で人体への摂取は認められていません。

うがい薬の場合は飲むものではありませんが、ウィスキー程度の37%のアルコールが 入っています。うがい薬を14.3ccも飲むのは結構大変なことで、とんでもないことだと思います。メントールやハッカ油が入っていますが、これも消化管や粘膜を刺激する可能性が強くあります。

それから、石けんを飲む人はなかなかいないと思いますが、実際に飲んだ方がいます。消毒用石けんには、ポリビニルピロリドンなど内服してはいけない製剤がいっぱい入っています。日本薬局方、食品衛生法では、食品として我々が口の中に入れるものではないというものばかりで、これも当然のことながら飲むことはできないということになります。

それからいわゆる消毒用のイソジンです。これもポピドンヨードが、つまりポリビニルピロリドンが入っています。それからマクロゴールというものが入っています。これも薬事法、食品衛生法上も内服することが認められていないので、飲むのに適さないということになります。

くどいようですが、ちなみに軟膏などでも、ポピドンヨードという、やはり飲むものではないものも多く含まれています。安定ヨウ素として100mgにするためには軟膏を10g食べればいいのですが、こういう飲み方も食べ方も適切ではありません。

それからルゴール液についても、ハッカ油ですとか、それからフェノールが入っています。ですから、これも飲むのには適さないですし、日本では食品添加物としても実は許可されていないものです。

以上、1つずつ説明させていただきましたが、正しい安定ヨウ素剤以外を飲むことは非常に不合理で、ほかの健康影響が出るということを説明させていただきました。


4.なぜ各家庭に前もって配布をしないのか

安定ヨウ素剤を各戸配布しておけば万が一のときに迅速に投与できると思いますが、どうしてやらないのかということです。実はアメリカでは各戸配布しました。それがどうなったかについて話をさせていただきます。

1981年、アメリカでも多くの原子力施設があるテネシー州で、各家庭への安定ヨウ素剤の事前配布を経験しています。

ご存じのように、テネシー州はあまり大きな州ではありませんが、非常に原子力施設が多くて、外国人立入禁止などの地域が随分たくさんあります。私も一回行ったときに夜迷ってしまって、パスポートを見せろとか、ものすごく厳しい警備に遭ったことがあります。

では、1981年にどんなことをしたのでしょうか。防災訓練で、実際に事故が起こったときに、周辺8kmの各家庭に安定ヨウ素剤を配るのにどのぐらいの時間がかかるのか、どうやったら全員に行き渡るのかというシミュレーションをしたのです。

時間がかかり過ぎて、取りにこない人などがいて、とても100%の人に配ることができませんでした。全員に配ることは難しいという結論に達しました。

そこで、あらかじめ各家庭に安定ヨウ素剤を配っておいたらどうだろうか、というパイロットスタディを計画しました。原子力発電所から8km以内の全家庭(5,591家庭)に3週間ぐらいかけて、安定ヨウ素剤と調査用紙を配りました。

38名の保健師や環境の専門家、救急医療の コーディネータや養護教員など、訓練を受けた人全員を丸一日教育をして、その人たちがこの期間にわたって各戸に安定ヨウ素剤を配布しました。しかし実際には5,591の家庭のうち直接配布できたのが3,000少しでした。留守の人については保健所に取りにきてくださいということで配ったのが700弱あり、合わせて66%です。これだけ時間をかけて66%しか配れなかった、ということです。

2年後の1983年にテネシー州としての結論を出しました。費用の問題からも、安定ヨウ素剤の配布は意味がないということです。

現在テネシー州では、地域に備蓄するということで、各戸配布はしないということになります。日本と同じように、避難してきた住民に対して保健師が配布をします。テネシー州の現在の考え方としては、安定ヨウ素剤を配るよりも避難を最優先させています。

 

5.とりあえず必要なこと

やはり必要なときにヨウ化カリウムを服用するということで、ほかの製剤やヨウ素、またはコンブを食べたりなど、ヨウ素剤が適切に体内に摂取できないようなものを服用するべきではないということについて、やはり教育をもう少しきちんとしておく必要があると思います。

それから各戸配布につきましては、法的問題ばかりではなくて、テネシー州の経験からもなかなかうまくいかないということがあります。それから、もっと困ったことには、その論文には載っていませんでしたが、飲んでしまった人が 10%ぐらいいたということです。前もって飲みなさいと教育したのですが、保管せずにすぐに飲んでおけばいいだろうという人も実はいたということなのです。

我が国でも、救護所へ安定ヨウ素剤を持っていく訓練はしますが、実際には訓練に参加する人の100倍も人口がいるわけです。住民みんなに飴玉を配って、何%の飴玉が口に入るのかというこ とでもやってみないと、なかなか実効的な服用はできないのではないかと考えています。


ソコトラ岩をめぐる紛争が最近脚光を浴びている。

Wikipedia より

蘇岩礁は中国における呼称であり、韓国では離於島(イオド)と呼称している。英語名はソコトラ岩 (Socotra Rock) である。以下、ソコトラ岩と呼ぶ。

国連海洋法条約では海面下の岩礁(暗礁)は領土として認められていない。基本的には両国の中間線が排他的経済水域 (EEZ) の限界となる。この場合はソコトラ岩は韓国のEEZ内にふくまれる。中国は、中国側の大陸棚に位置すると主張している。このため現在では両国間で暫定経済水域を敷き、EEZの確定交渉を続けている。

1900年 英国船ソコトラ号(Socotra)が海面下の暗礁を発見。英国の軍艦 HMS Waterwitch が測量を行ない、深度が5.4m以下であることが確認される。

1938年 日本政府が観測施設を設立する計画。第二次世界大戦の勃発によって中断される。

1951年 韓国海軍と韓国登山協会がブロンズの記念碑を設置。ソコトラ岩を含む海域を領海として宣言。中国、日本を含む周辺各国に承認されず。

1952年 韓国がソコトラ岩を内にふくむ李承晩ラインを設定。

1963年5月1日  中国遠洋運輸公司上海分公司の汽船「躍進」号がソコトラ岩に接触し沈没。当初、魚雷3発を受けたと報告され、危うく国際問題になるところだった。

1970年  韓国、ソコトラ岩を4番目の水中地域に指定する。中国はこれを認めず。

1987年 韓国が灯台を設置。

1995年 韓国が海洋調査施設を設置。中国は抗議。

01年 韓国海洋研究所、離於島総合海洋科学基地を建設する。

2006年09月14日 韓国がソコトラ岩に海洋探測基地を建設。中国外務省の秦剛報道官は「東中国海北部の水面下にある暗礁であり、この海域で一方的に行動をとることに反対する」と述べた。

2008年08月 中国国家海洋局傘下のが「中国海洋新息網」が公式に領有権を主張していることが判明。「蘇岩礁は江蘇外海にある岩石であり、排他的経済水域(EEZ)内にある中国領」と説明した。また「最も高い所が4.6メートル、南北の全長が1800メートル、東西の 幅が1400メートル、面積が約2平方キロメートル」と説明。(完全なウソ八百です。08年8月は湖錦湯談話の発表された月です)

2012年

12年初め 中国、船舶と航空機による定期パトロールの対象範囲に含める。

9.23 中国国家海洋局、15年までに無人機監視・モニタリングシステムを構築すると発表。「監視内容と範囲を拡大し、黄巌島や釣魚島、蘇岩島、西沙、中沙、南沙群島の付近の海域を含む全域の管轄海域に総合的な管理コントロール体制を確立する」と説明。

9.24 中韓両国外相がニューヨークの国連総会で会談。「国連の場で正しい歴史を広めていく必要性で一致した」とし、領土問題で日本に共同で圧力をかける意向を示した。

9.25 韓国外交通商省、無人機による監視について、「管轄権行使に万全を期す。支障が出れば、徹底した対応を取る」と述べた。

9.27 済州道議会、「離於島の日」条例制定を見送り。済州道議会は2007年と08年にも条例制定を推進していたが、最終的に廃案となった。

9.27 中国は、自国領と主張する海域に対し衛星を利用したリモートセンシング監視を行うことなどを決定した。

9.27 中国メディア、韓国で「中国の排他的経済水域内にある蘇岩礁の警備強化、中国への強硬策を訴える声が出ている」と伝えた。

10.03 中国は「実務者が個人的意見として説明した」にすぎないと釈明。「管轄区域化する意図はない。排他的経済水域(EZZ)の境界画定交渉でどちらの海域に属するかを決めるべき」と説明。




かなり無意味な争いである。両方の言い分に無理がある。ということでは、中越の領土紛争と似たような性格を持つ。

歴史的に見ると、かなり韓国がごり押しをしてきた経過がある。ただ中国もそれを見逃して来た経過もある。

それがこの数年、急に中国が強腰になっているのが事態紛糾のきっかけである。ただし韓国が被害者顔をしても同情する気にはならない。

問題は、やはり中国の一連の海洋進出と威嚇外交とのつながりである。おそらく東シナ海も南シナ海も黄海もすべて自分の海だと思っているのであろう。


いかすとは「魅力的」「かっこいい」という意味で容姿や服装、小物を中心に目に入った物から目には見えない性格に至るまで様々なものを対象に使われる。いかすはもともと軍隊の隠語であったが、後に一般にも普及。石原裕次郎が映画で使った1958年には流行語になっている。1990年代に『イカ天』の通称で親しまれたバンド勝ち抜き番組タイトル『イカすバンド天国』にも使われるが、『イケてる』という言葉が登場してからはいかさない言葉になっている。
いかすは「(性的)オルガズムに達する」という意味の『いく』から、「いかす=いかせる=女性をオルガズムに達せさせることが出来る」ということで「魅力的」という意味を持ったとも言われる。


日本語俗語辞書に見事な解説が載っていた。私も、どうも最後の2行が語源ではないかと疑ってはいたのだが、しかし子供のころはそんなことも考えずに平気で使っていた。これは俗語というより卑語ですね。
その前は何といったのかな、「いなせ」かな。

英語だと Groovy というのがぴったり、Cool ではやや上品。

ABC、XYズィー、と歌うのがかっこよかった。「イカスじゃないか、西銀座駅前」
これはフランク永井だったかな。
静岡ではこういうのを「トッポい」といっていた。

西銀座駅というのが気になって、調べてみた。Wikipedia によると昭和32年に丸の内線が開業して、銀座線の銀座駅と区別するために西銀座駅と名乗ったそうだ。焼け残りの朝日新聞のビルを見ながら、数寄屋橋のたもとから地下にもぐったところだ。
39年には銀座駅に名称統合するので、西銀座駅は7年間しか存在しなかったことになる。
子供の頃、静岡から出て行って、銀座から東京駅に向かおうとしたら日本橋のほうに行ってしまい、青くなった憶えがある。「気どって地下鉄なんかに乗ったからよ、省線に乗りゃぁいいっけのに」とからかわれた。

昨日の赤旗で、尖閣問題の座談会をやっていて、ちょっと「自画自賛」みたいなところが鼻についたが、ある外交専門家の発言で、「政府の方針に明確な異論を唱えたのは、共産党と東郷和彦だけ」というのがあって、気になった。
ウィキペディアで調べると、東郷和彦は三代続いた外交官で、祖父の東郷茂徳は戦時中に停戦工作を行い、東京裁判では軍部を激しく非難したことで知られているらしい。
本人は私より一つ上、外務省のロシア派幹部だったが、鈴木宗男の疑惑に絡んで首を飛ばされた人物。最近はずいぶんとものを書いているようだ。ホームページには多くのエッセイがある。
と、ここまでが前段。

そのなかで面白かったのが日本の国家権力の4頭構造という観点。
これまでは政・財・官の三頭立てという見方だったが、これにメディアを入れるのが東郷氏のアイデアだ。
政界はメディアに弱い。メディアは財界に弱い。財界は官僚に弱い。官僚は政治に弱い。
という、四すくみだと主張している。非常に説得力のある意見だと思う。

それは、メディアを第4の権力として有機化した点で卓越している。共産党も最近はメディアの反動的役割を重視しているが、まだそこまでは言っていない。

この四頭構造は、公(政・官)と私(財・メディア)という切り方もできるし、表(政・メディア)と裏(官・財)という切り方もできる。ただこの図式の一番の難点は、全体としての対米従属(正確には米軍産複合体への従属)という構造が見えてこないところにある。

もう一つは、東郷氏も留保しているポイントであるが、警察・司法・自衛隊といった、いわゆる「暴力装置」が決してニュートラルな存在ではないということである。

これらの条件を視野から外さなければ、それなりに有効なツールではないだろうか。

加藤教授のホームページに、授業のレジメが掲載されている。
実に驚くべき内容だ。
まずは直接ご覧いただきたい。学問の自由は保障されなければならないが、批判の自由も確保しなければならない。

http://chtgkato3.med.hokudai.ac.jp/lecture/NuclearPowerPlantAccident.pdf


原子力発電所事故が人体に与える影響
北大病院核医学診療科
保健科学研究院
北海道庁原子力防災対策部会委員
泊発電所環境保全監視協議会委員
加藤千恵次

我が北大医学部の核医学の教授が、そう主張したそうだ。
「冗談」で言ったのではない。「原子力防災計画」見直しのための有識者専門委員会で、専門委員 の一人として、堂々と、繰り返し、主張したのだ。
赤旗はこの間の経過を詳細に伝えている。

第二回委員会議事録より
加藤千恵次委員:「普通の昆布ダシの味噌汁を飲んでいればそんなものはいらない。日本人は十分なヨードが甲状腺に常にいる」
第三回委員会議事録より
加藤千恵次委員:「大人はヨードで被曝しません。そういう時は、のりを巻いたおにぎりを配るとか、もっと当たり前のことを柔軟に、その場で大人が考えるということです」
島津洋一郎座長:「言われればその通りだと思います」

加藤委員は、それでオーケーという根拠を、積極的に示さなければならない。
なぜなら原子力安全委員会の判断と明確に食い違っているからだ。

原子力安全委員会の報告書では下記のように記載されている。(記事中の要約を転載)

昆布のヨウ素を吸収するには時間がかかる。したがって原子力災害時における放射線ヨウ素の甲状腺への集積を抑制する措置として適切ではない。

とりあえず、記事の紹介のみで、昆布服用の有効性をめぐる論議は少し調べないと正確なことは言えないが、少なくとも次のことは言える。

①人の命に直結する問題であり、軽率な意見は厳に慎むべきである。
②道の安全指針にかかわる問題であり、公的責任を将来にわたり求められる立場である。
③国の安全指針と真っ向から対立する見解であり、言った責任ははるかに重い。
④「ヨード・ブロック・セオリー」に対する学問的挑戦であり、学者としての覚悟が試される発言である。

核医学検査で甲状腺を調べるとき、相当厳重なヨード制限を行ってからでないと、I_131 やI_127 は甲状腺に取り込まれない。これは医者の常識としてある。しかしそういうレベルの放射能ではないのである。 

ということは、放射線防御医学の専門家でもない人間が、軽々に論じられる話題ではないのである。

付記: ヨード服用など、いざというときにはきわめて部分的な効果しかない。起こってしまったらほとんど終わりだ。ヨード剤の確保に時間を費やすより、まずは逃げることだ。

経団連の米倉会長が、浜岡原発を視察。視察後の会見で、「再稼動に持って行けたら、世界的な模範になる事例だ」と述べた。
さらに「原発は非常に重要なエネルギー源の一つだ。どうしても原発をゼロにするわけにはいかない」とも語った。
もうコメントする気にもならないが、「世界的な物笑いになる事例」だよ、これは。
たとえゼロにしなくても、せめて浜岡は停止すべきでしょう。原発がなくても、静岡じゃ10万人が死ぬんですよ。

9月金融緩和で世界はどうなったのか。
答えは、「なにも変わらない」ということだ。うんともすんとも言わない。
「変わらない」ということは「悪くなっている」ということだ。
瀕死の患者にカンフル剤を注射し、蘇生を図ってきたが、カンフル剤がだんだん効かなくなってきているということだ。
バーナンキも言っている。もうカンフル剤でしのぐのは不可能だ。後は政府の責任だ。
バーナンキがとりわけ念頭においているのは失業率の数字だ。失業率が改善しなければ景気は回復しない。
バーナンキはもともと金融緩和論者だ。食いたくなくても口から溢れるほどに金を突っ込めば、やがて吐き出すだろうと考えていた。それが間違いだと気づいて頭を抱えているのだろう。
金食い虫は国家に寄生して金をむさぼり続ける。彼らの食欲は一向に治まる気配にない。やがて宿主の腹を食い破るだろう。そうなれば共倒れしかないが、それを承知でむさぼり続けるのが、金食い虫の「業」である。

赤旗「経済四季報」から少し数字を挙げておく。
9月6日 欧州中銀(ECB)がユーロ圏諸国の国債の無制限購入を決定。ドラギ総裁は「ユーロ防衛に必要なことをすべてやる」と宣言。
9月13日 連銀(FRB)がQE3を決定。毎月400億ドル(3兆円)の住宅ローン担保証券(MBS)を購入することとなる。
9月19日 日銀が追加金融緩和を決定。あらたに80兆円が資産買取りに回される。
9月末 欧州安定機構(ESM)がドイツで批准される。10月に発足予定。
ということで、今度は中銀が不良資産にあえぐ番になった。
11年末時点で、世界の中銀の保有資産は18兆ドル(1400兆円)。4年間で倍になっている。これは世界のGDP合計の3割に相当する。
中銀がこけたら世界がこける、BISが言わなくても、そんなことは誰でも分かる。わからないのは経団連の欲ボケじじいどもだけだ。


日本ハムが優勝した。シーズン前のおおかたの予想を見事に裏切った。
このチーム、そんなに強いチームではない。去年のホークスといったら、手がつけられないくらい強かった。エース級が3人も4人もいた。プロとアマの違いくらいあった。
しかし、ファイターズは稲葉を除く全員が二軍上がりという強さがある。叩き上げの下士官ばかりだから、こつこつと勝ち星を積み上げる。連勝もしないが、連敗もしない。競った試合はものにする。
強いチームには弱い。スターと違ってここぞという大勝負には弱い。その代わり弱いチームには負けない。相撲で言うと、北葉山とか旭国みたいなものだ。
こういう選手を鍛え上げているから、ヒルマン監督以来、Aクラスをキープしているのであろう(一度の例外を除いて)
こういうチームに梨田監督の「イテマエ」野球は似合わない。栗山監督の「確率」野球が良く似合う。
いまさらながら、「野球は守りから始まる」のである。


赤旗文化面に大森さんという女性弁護士が寄稿している。
題名は「日本軍『慰安婦』の被害事実は明白--無知さらけ出す橋下大阪市長
ポイントは以下の通り

(嫌韓右翼たちは)被害女性たちが日本の軍や警察などの官憲によって、「慰安所」に強制連行されたか否かが最大の問題であるかのように描く。すなわち官憲による強制連行がなければ、彼女たちは自らそこに「稼ぎに行った売春婦であって、日本政府に何の責任もない」とする。
しかしながら彼女たちが「慰安所」で強制された生活の実態を見れば、どのようないきさつでその場所に行ったかはまさに問題ではない。
…この被害事実を直視すれば、このような女性たちの被害は「性奴隷」とされた被害である。



「慰安婦問題」に関しては、以前からいくばくかの違和感を抱いていた。
売春(プロスティテューション)というのは世間一般の耳目を引きやすい。愛情の表現であるべきセックスが売買されるという倒錯があるがゆえであろう。
むかしから売春に対する反対運動というのはあった。ただそれだけ孤立して取り出すと、安っぽいヒューマニズムになりかねない。フェミニズムの立場からの反対運動もあった。ただ売春というのは「性差別」という枠では掬い取れないという思いがある。

わたしは、売春を「労働」に近い観点から眺めるべきだと思う。感性的な内容をふくむだけに、なおさら「労働」の具体的内容ではなく、「労働」の社会的形態、「労働」をとりまく一般的環境から論じるべきだと思う。
強制云々も「強制労働」の一種としての「強制売春」としてとらえていくべきだと思う。そこではじめて、北海道で亡くなった多くの朝鮮人、中国人労働者との共通性を抉り出すことが出来る。
「おじいさんが山へ柴刈りに、おばあさんが川へ洗濯しに」行ったように、男は鉱山で、女は苦界で奴隷労働を強いられたのだ。

橋下というのはネトウヨ代表のようなものだ。ネトウヨとの下品な「論争」に陥ることなく、説得力の強い議論を展開するにはそこがポイントではないだろうか。
もちろんそれ自体が犯罪性を帯びている「売春」という行為を、「労働一般」に還元してはならないのだが、それを承知の上で、まず共通性を強調しておきたい。


「原発作業員から健診費を天引き」というニュースは『朝日』の特ダネのようだ。
以下が記事の内容。

記事2012年9月20日10時9分
原発作業員から違法天引き 健診費、厚労省が実態調査へ

東京電力福島第一原発の下請け会社が全額負担すべき作業員の健康診断費を給料から天引きしていたことがわかり、厚生労働省は19日、労働安全衛生法に違反するとして返金するよう指導した。この会社の関係者は「この辺りの業者はみんなやっている」と証言。厚労省は違法な天引きが横行している可能性があるとみ て、実態調査に乗り出す。
 関係者によると、この作業員は6月、福島県いわき市の下請け会社に日給1万3千円で雇われた。法律で義務づけられている健康診断を受けたが、会社が全額負担すべき健診費約1万1千円を給料から天引きされた。さらに一人ひとりの被曝(ひばく)線量を記録する放射線管理手帳の作成費用として約6千円も引かれたという。
 作業員は天引きに加えて違法派遣で働かされたなどとして18日に厚労省福島労働局に指導を求め た。厚労省は悪質な事例とみて下請け会社から事情を聴き、翌日に指導するという異例の早さで対応した。同省の担当者は「事故後、このような天引きが発覚し たのは初めて」としている。
 だが、健診費の「天引き」問題は原発労働の現場では以前からささやかれていた。作業員は朝日新聞の取材に「安全の ための費用を押しつけられた。他の人も引かれているので、みんなに返して欲しい」と主張。下請け会社の関係者も「他の会社でも普通にやっているので違法と思わなかった」と話しており、行政が実態を把握できていなかった格好だ。

率直に言って朝日新聞のこの手の記事はけっこう怪しい。他社のフォローも見た上で判断しなければならない。

【共同通信】2012/09/20
健診費天引き、厚労省が是正勧告 福島原発事故処理の会社

 東京電力福島第1原発事故の収束作業に関わった下請け会社が、負担すべき作業員の健康診断の費用を、作業員の給料から天引きしていたとして、厚生労働省は20日までに、労働基準法違反で福島県いわき市の会社に是正勧告した。

 同省によると、この会社に6月から雇われた男性作業員は健康診断を受診したが、会社は全額負担が義務付けられている健診費をこの作業員の給料から天引きした。また、被ばく線量を記録する放射線管理手帳の作成費用も天引きされていた。

 労基法は、企業側に賃金の全額支払いを義務付けている。

 同省は「原発事故後、このような事案は聞いたことがない」としている。

同じ日付だが、とりあえずのフォローという感じ。「放射線管理手帳の作成費用」もしっかり書き込まれている。

時事通信はもっとサラッとしている。いわゆる「三行記事」だ。

東京電力福島第1原発事故で、福島県いわき市の下請け会社が全額負担すべき作業員の健康診断費用を給料から天引きしていたとして、厚生労働省は20日までに、労働基準法に違反するとして是正勧告した。

厚労省によると、天引きされたのは、6月に雇われた男性作業員で、被ばく線量を記録する放射線管理手帳の費用も引かれていたという。男性は18日に福島労働局に相談した。

毎日新聞 9月26日(水)20時22分配信

 東京電力福島第1原発事故の収束作業にあたる下請け企業(福島県いわき市)が、本来会社が全額負担すべき作業員の健康診断費用を給与から天引きしていた問題で、東電は26日、この企業で同様の違法行為が計9人の作業員に対して行われていたことを明らかにした。

 東電が聞き取り調査して分かった。この企業は労働基準法違反で厚生労働省から是正勧告を受けている。東電は他の下請け企業でも同様の事例がないか調べている。【西川拓】

署名入りなのは、「今後フォローしますよ」という意味か?
どちらかというと、労働基準法違反の事例があって、調べてみたら原発関連の下請け会社だったという書きかたで、いかにも軽く扱っている感じだ。“放射線管理手帳の作成費用”に触れないのは、ちょっと奇妙ではある。

東京新聞2012年9月22日は
淡水化装置で水漏れ 下請け 健康診断費用天引き
という記事で、「ついでにさらっと触れておく」という感じでフォローしている。ここでも“放射線管理手帳の作成費用”については触れられていない。

朝日以外の報道に共通しているのは、労働局に訴えた従業員に直接取材していないことだ。さらに共同通信を除いては、“放射線管理手帳の作成費用”も触れられない。

とりあえず、ここまでの情報で、三つの事実が明らかになった。
①原発作業に従事する東電下請けが健診費用を自己負担させていた。
②放射線管理手帳の作成費用も自己負担させていた。
③そのほかに違法な派遣労働も強制していた。
ということで、①についてはまったく申し開きも出来ない「悪質な違反」であり、ただちに是正しなければならない。ただちに罰則はないようであるが、いわゆる「行政指導」を通じて相当厳しい縛りがかけられるだろう。ただ、原発作業員だからとことさらに取り上げる話でもなさそうだ。
③については、今のところそれ以上の判断は出来ない。
つまり、この記事の本質は“放射線管理手帳の作成費用”の問題だろう。

この点に関してツイッター記事が一つあった。
なすびさんという人のものだ。

原発作業員の給料から業者が健康診断と放射線管理手帳の費用を天引きしていた件。前者は明らかに違法だが、放射線管理手帳は法的根拠がなく原発業界の 「サービス」だ。本来は国が労働安全衛生法に基づく健康管理手帳を発行すべき。厚労省にふざけるなと言いたい。しかも「発覚したのは初めて」だと?

なすびさんは「原発業界」の方かもしれない。それにしても「サービス」とは思い切って言ってのけたものだ。

おそらく、管理手帳の費用云々は関係する法規がないため、記事からは消えていってしまったのだろう。そのことがなすびさんの情報からうかがわれる。しかしこれがないと、この報道の意義はほとんどなくなってしまう。放射線管理手帳の作成費用を本人が払わなければならないという「異常な風景」を、「異常」と認識し糾弾することが何よりも必要と思う。

「本来は国が労働安全衛生法に基づく健康管理手帳を発行すべき」というのは首肯できる。このあたりがどうなっているのか分からないが、放射線取り扱いに関しては特別な規制があるはずだが、おそらく十分なものとはいえないであろう。
ただし、いまは非常時である。法が間に合わない場合、基本責任は業務を命じた管理者にあることは間違いない。6千円を払わせておいて、「サービス」という感覚は理解を超えるものがある。ある意味、人の命を危険に晒しているんですよ。


マーラーの交響曲はなかなかしんどい。というより、聞いていて飽きてくる。
同じように長くても、ブルックナーは手抜きをしながら聞けるから、疲れることはない。マーラーは9回全部全力投球みたいなところがあるから、疲れる。
ヤンソンスは、マーラーにメリハリをつけてくれるので助かる。

ヤンソンスには申し訳ないが、演奏がよいというより録音が良いのが気に入っている。youtubeでいい録音を探すのは意外にむずかしい。録音というよりアップロードの技術だろうが、ほとんどは強奏時の音がつぶれている。高音がちょん切れて耳が詰まったようだ。

室内楽ならそれでも聴けるが、フルオーケストラではいらいらする。
このマリス・ヤンソンス指揮ロイアル・コンセルトヘボウはそういう世界から一歩抜けている音質だ。お勧めします。
(と書いたが、もうyoutubeから削除されているようです)


ひでぇことをする奴がいるもので、
東電の下請け会社が作業員の給料から健康診断費用を違法に天引きしていたそうだ。
ちょっと、短報なので詳細不明、少し調べて続報をあげる。

大内田さんがドイツまで出かけてインタビューした記事。

まず、リード部分

『ヒトラーに抗した女たち』という本で、ナチと命がけでたたかった女性たちを跡付けた、作家のマルタ・シャートさん。アウグスブルクの自宅でその思いを聞きました。

以下がマルタ・シャートの発言から

1934年から44年のあいだに、ヒトラー政権下で1万1900人の人々が処刑されました。…この中にはユダヤ人は含まれていません。
そのうち、1100人あまりが女性でしたが、一般にはその存在すら、知られていませんでした。

…特に1943年、ドイツ軍がスターリングラードで敗北してからというもの、ヒトラーに対する批判自体が、死を意味するようになります。
そういうなかで命を失う危険を承知の上で行動した女性たちは、本当に気高い気持ちを持った人々だったと思います。

…今では想像することさえ難しいかもしれませんが、死刑判決を受けた女性のほとんどが、断頭台で処刑され、その首はそのままゴミ箱に捨てられました。家族は遺体とさえ会うことが出来なかった。
なのに、ナチスはその人たちに裁判の費用、処刑代すべてを請求した。
同胞に対してこれほど非人間的なことがやられていたのです。

以下略

インタビューというのは、しゃべるほうもさることながら、聞き手の腕がものを言う。引き出す技、伸び縮みする距離感、ポイントを抑える業、整理する技、読者を引き込む文章力…
大内田さんは、いかにも女性らしいインタビューを行っていると思う。ただ、このスペースはいかにも狭い。いずれ「婦人通信」あたりにもう少し詳しい記事が掲載されるだろう。


赤旗「主張」が「労働経済白書」を紹介している。

①非正規雇用の労働者は、全労働者の35%に達した。

②非正規雇用の労働者の多くは年収200万円未満で、5年前に比べ低所得者の割合が増加している。

③非正規雇用の労働者が、自分の収入で家計を支えている世帯が増加している。これらの世帯の収入は正規雇用の6,7割の水準にとどまる。

④契約社員の場合、7割以上が2年未満の雇用契約となっており、きわめて不安定である。

⑤20歳から35歳の男性で、正規雇用者の結婚割合は47.6%、これに対し非正規雇用は16.8%で、約3倍の開きがある。

白書は「国内需要の大きな割合を占める家計消費を押し下げている最大の要因は所得の低下」と明記し、非正規雇用の増加が低所得層の増加につながっている、と述べています。

しかし米倉経団連会長は、政府が打ち出した「生活支援」戦略に対し、「充実しすぎで骨太な若者が育つのか」と非難しているようです。どこが「充実しすぎ」なのでしょうか。そもそも非正規雇用の増強が自分の首を絞めているということが、どうしてわからないのでしょうか。

 日本列島の地体構造 読後感想

① えれぇものに手を着けてしまったと思う。なにやら分からない言葉がずらずらと並ぶが、困るのは論理の行く先が果てしなく遠く、何を言わんとしているかが見えなくなってしまうことである。

②勉強になったのは、研究方法の進歩により、「大胆な仮説」など不要になったということだ。それがいまや「土に語らせよ、岩(とくに蛇紋岩)に語らせよ。語らなければ、爆弾で語らせよ」と、著者は主張している。

③1980年代までは、日本列島形成論は「邪馬台国論争」レベルだったらしい。結構地方研究家のレベルが厚くて、ということは中央のアカデミーにあまり権威がなくて、その間隙を縫って大風呂敷を広げる「専門家」が登場するという時代があったようだ。

基本的なストーリーはこういうことのようだ。

④日本は最初南中国地塊の辺縁に位置していた。南中国地塊と北中国地塊は最初別のものだったが2,3億年前に衝突した。そのときヒマラヤ並みの巨大な山脈が形成され、そこから出た膨大な土砂が日本列島を形成する。

⑤その後海洋プレートの沈み込みにより6回の造山運動があり、付加体が成長した。日本列島は構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

⑥日本列島の形成はこれですべて説明できる。フォッサマグナや中央構造線は、二次的・部分的な変化でしかない。観音開きや1000キロ横滑りはもう忘れたほうが良い。

とはいえ、これは地学雑誌だ。考古学で邪馬台国を読み解くようなものだ。荒唐無稽なセオリーは排除されるにしても、これではちょっと物足りない。

もともとの私の疑問は、

①中央構造線はなぜあんなにきれいなのか。

②弧状列島はどうしてできるのか

③日本列島はどうして大きいのか

ということだった。そしてすこし勉強してみて、

④東北・北海道が北アメリカプレートならば、南西日本となぜ、どうやって一つになったのか。

ということだった。

①については「若いから」ということで、とりあえず分かった。

③については、南北中国の衝突の影響ということで分かった。

②はとりあえず、他の文献でわかった。観音開きは不必要だと納得できた。

④については、依然分からない。著者は南西日本こそが日本で、北海道など日本ではないと思っているようだ。

VIII. 日本列島の大構造と太平洋型(都城型)造山帯の新たな視点

 1980 年代から本格的にはじまった日本列島のプレート造山論研究は、受動的大陸縁が活動的大陸縁に転換するという大筋を1990 年代前半に解明した。そしてさらに新たな視点が解明されつつある。

一方で,従来の素朴な造山帯形成史の理解は多くの誤りを含んでいたことが露呈しつつある。

現時点での日本列島の地体構造の特徴およびそこから導かれる太平洋型(都城型)造山帯の基本構造について議論する。

 1)忘れるべきこと

 近年の研究によって誤りであることが明白になった既存の理解・概念が少なからずある。日本列島のテクトニクスを議論する際に無用な混乱を避けるためには,それらは忘れさらねばならない。

 代表的なものは,以下の通りである。

(1)日本列島は地理的に近接する北中国地塊の周辺で生まれ,成長した,

(2)日本列島で最も重要な地質構造はフォッサマグナと中央構造線である,

(3)中央構造線の起源は白亜紀までさかのぼる

(4)日本海は観音開きの回転運動で開裂した,

(5)日本列島の主要な地体構造境界は高角度断層で画される,

(6)黒瀬川帯などの蛇紋岩メランジュ帯は地殻深部から上部マントルにまで達する高角度横ずれ断列帯である,

(7)日本列島の複数の横ずれ断層は1000km を越える変位をもち,日本のある部分はベトナムの近辺から移動してきた,

(8)日本列島は,横ずれ断層で境された複数のテレーンから構成され,それらは両隣の地質体とは成因的関係をもたない,

(9)付加体が形成されなかった期間はプレートが大きく斜め沈み込みしていた,

(10)付加体の成長はつねに海側へと前進する方向でおきた,

(11)いったん形成された弧地殻は消滅せず,大陸縁は海側へ成長し続ける,

(12)島弧が衝突するたびに造山帯の地殻総量が増える,

などの考えである。

今後の日本列島形成史ならびに太平洋型造山運動に関する議論は,これらの誤った概念から脱却して進めなければならない。

 2)日本から世界の造山帯研究へ

 2-1) 造山帯の中核部としての広域変成帯の三次元構造

造山帯の形成は,定常的なものではなくきわめて間欠的である。欧州ではカレドニア,バリスカン,そしてアルプスという3 回の独立した古典的造山運動が識別されてきた。

日本列島には少なくとも6 回の高圧変成作用が起きた。すなわち6 回の造山運動のクライマックスがあった。それらはおのおの間欠的な海嶺沈み込みに対応していた。そのなかで三次元形態が明示されたのは,石炭紀,トリアス紀,白亜紀である。構造浸食に伴う二次的改変のために、相対的に古い高圧変成帯はその形態を失ってしまった

 2-2)造山帯の後背地変遷

 LA-ICP-MS による砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定は,これまでまったく知られていなかった大きな変化が古生代から中生代における日本の後背地で起きたことが示された

トリアス紀中頃におきた南北中国塊同士の衝突によって接合した大陸内に巨大な山脈が形成され,大陸から膨大な量の陸源粗粒砕屑物が海洋側に供給された。それは衝突帯の東北端から太平洋岸の海溝沿いに日本近辺へ運ばれた。

中新世に明瞭な背弧盆である日本海が形成されると,その時点で大陸からの流入は根絶した。中新世以降,日本が完全に大陸から独立した島弧になったことが実証された。

 2-3)花崗岩バソリスの消失

 日本では5 回の花崗岩バソリスの形成と4 回の大量消失が起きた。

従来は斜め沈み込みによる付加プロセス自体の停止というad hoc な説明に終始してきたが,実は構造浸食によっていったん形成された付加体が消失したことになる。

日本列島内の造山帯構成要素の体積比較に関して最も印象的なのは,BTL より下位を占める白亜紀後期以降の付加体および高圧変成岩が莫大な総量をもつことである。

 2-4)構造浸食と蛇紋岩メランジュの形成

 2-5)地体構造境界の階層性

 2-6)大陸地殻の沈み込み

IX.おわりに

 プレートテクトニクスに基づいた造山論は1960 年代末にはじまったが,とくに海洋プレート沈み込みが支配する太平洋型(都城型)造山帯については,日本列島での研究が最も進んだ。とくに構造浸食プロセスと蛇紋岩メランジュ帯形成がもつ地質学的意義は強調されるべきである。

蛇紋岩メランジュ帯は造山帯内の第一級の地体構造境界であり,最優先の検討課題である。

 最後に,本稿で述べた主要な結論を以下に整理する。

 (1)大陸側に分布する飛騨帯および隠岐帯はアジア形成以前に存在した大陸塊の破片をなし,ともに北中国地塊に由来する。

 (2)西南日本の肥後帯は,北中国と南中国地塊との間の2.3 億年前衝突帯の東方延長にあたり,その構造的下位の日本列島の大部分は南中国地塊の縁辺で形成された。

 (3)花崗岩を除く日本列島の表層地殻主部のほとんどは,古生代から新生代の付加体およびその高圧変成部から構成される。しかし古い単元は形成後に二次的に消滅した。前弧域は海洋側への付加・肥大と,大陸側への構造浸食・縮退を繰り返した。

 (4)蛇紋岩メランジュ帯は,過去に起きた構造浸食作用の痕跡である。この面に沿って膨大な弧地殻の消失が起きた。

 (5)太平洋型造山帯内部の地体構造単元境界には,異なる性質のものが含まれる。(略)

 (6)海洋プレートの沈み込みという体制が維持されても,つねに付加体が成長するわけではない。日本列島の海側への成長はきわめて間欠的であった。構造侵食を乗り越えて、約5億年間に約500 km 海洋側へと成長した。

VII. 日本の主要な構造線:

目立つ副次的構造線 vs. 造山帯の大構造を規制する主要構造線

 1)目立つ構造線

 日本列島全体の地質構造を記述する際,これまでは中央構造線やフォッサマグナ(糸魚川—静岡構造線)の説明からはじめるのが一般的・伝統的であった。その背景には,ナウマン以来広く知られたこの2 つの明瞭な構造が日本列島の大構造を支配しているという暗黙の合意があった。

明治初期にはじめてこれらの目立つ構造を発見・記載したナウマンの貢献は特筆されるべきだが,しかし現在のプレート造山論の観点からは異なった解釈となっている。この2つの構造は長期間にわたって日本列島の骨格をつくってきた主要なプロセスとは無関係で,むしろきわめて新しくかつ副次的なプロセスの産物である。

若い地質構造,とくに高角度断層や褶曲軸は、その形成後に二次的な改変を被る時間が短いため,比較的明瞭な直線性を保持していることが多く,その結果として地形図ならびに地質図上で目立つことが多い。古期の地質構造は,重複変形を被った結果,地表での直線性としては認識されにくくなる。

本章では,まず伝統的に注目されてきた日本列島の主要な目立つ構造線についての現代的解釈を整理する。

 1-1) 中央構造線(Median Tectonic Line; MTL)

その起源を中生代白亜紀までさかのぼると考えられてきた。またMTL 沿いに大規模な横ずれ変位を想定する強い固定観念が日本の地質学者の間にできあがった。MTL の両側の基盤岩の年代や地殻深部での三次元形態が不明であったため,MTL 出現期の解釈についてはこのような大きな誤解・混乱が存在していた。

しかし白亜紀から現在に至るまでMTL が横ずれ変位をし続けてきたとみることは,その間に対曲構造やフォッサマグナの形成をはさんでいるのできわめて不自然である。

最近の研究成果に基づくと,中央構造線の本質は大規模な横ずれを伴う高角度断層ではなく,弧に直交する方向の短縮を主体とする低角度衝上断層であることが示された。

古中央構造線(Paleo-MTL)は,おそらく新第三紀の日本海拡大に前弧域の短縮の結果として活動した。

 1-2) 棚倉構造線(Tanakura Tectonic Line; TTL)

 この断層は中新世に日本海が開裂した時にその東端で活動した高角度横ずれ断層である。基本的に日本列島形成史のなかではきわめて若い地質構造であり,主要な造山帯の構造ができた後に二次的に改変をもたらした要素である。

TTL とMTL とを、一連の大規模な大陸縁横ずれトランスフォーム断層とみなす解釈があるが、互いに異質なTTL とMTL がかつて連続していた可能性はまったくない。北米西岸のサンアンドレアス断層と比較することも大きな誤解に基づいている。起源,形成機構,オーダーのどれをとってもまったく異なる。

 1-3)フォッサマグナ(Fossa magna)

 フォッサマグナの西端を限る糸魚川—静岡構造線は,ゆるくS 字状に波曲しながらもほぼ明瞭な直線性を示す断層である。この構造線は西南日本の帯状配列を明瞭に切断している。このことから,フォッサマグナが造山帯の主要構造を二次的に改変する若い地質構造であることは伝統的に理解されてきた。

フォッサマグナは日本海内に生じたトランスフォーム断層の南方延長で弧地殻がリフト化した結果とみなされる。

一方,フォッサマグナの東縁関東平野の厚い堆積物の下に埋没しているため詳細は不明である。しかし,西南日本の東西方向の帯状配列に対し,東北日本は南北方向の地体配列で特徴づけられ,その間に明瞭な構造ギャップがあることは明白である。

フォッサマグナは日本列島の大構造が形成された後にできた副次的な構造の1 つであり,古生代以来の主要な大構造の成立にはほとんど貢献していない。

 2)造山帯の大構造を規制する主要構造線

 上述の見かけ目立つ構造線は,いずれも造山帯の構造を二次的に改変するものにすぎない。日本列島の造山帯全体の構造を規制するより重要な構造線は別に存在する。それらのなかには,いまだに相対的な認知度が低いものも含まれている。

日本列島の形成史を考察する上でとくに重要な5つの構造線がある。長門—飛騨外縁構造線、大佐山—青海構造線、石垣—玖珂構造線、古中央構造線、仏像構造線である。なかでも後三者は太平洋型(都城型)造山帯の内部構造を規制する重要な構造線である。

 2-1) 長門— 飛騨外縁構造線

 山口県西部から山陰地方の海岸沿いに東方へ追跡され,新潟県西部で日本海へと消える。地図上に追跡されるさまざまな時期に変形・変位した断層群の総称である

この境界よりも大陸側の地質体はすべて既存の大陸地殻由来の物質で構成される。これに対し海側に産するものはすべて古太平洋底の海洋プレート沈み込みによってマントルおよび海洋プレートから新たに分離・形成された新規地殻物質である。

日本列島に関係する新規大陸地殻の形成開始を画する第一級の構造境界とされる。日本が南中国地塊縁辺の受動的大陸縁から,活動的大陸縁に転換したことを象徴する境界で,約5億年前にはじまった日本列島独自の地殻形成の開始線と意義づけされる。

 2-2) 大佐山— 青海構造線

 中期高圧変成岩の代表的産地である岡山県の大佐山地域と新潟県の青海地域にちなんで大佐山—青海構造線と呼ぶ。広域の地図上ではNg-HmTL とほぼ一致するようにみえる。

弧—海溝系を特徴づける,弧花崗岩,付加体,高圧変成岩,そして前弧盆帯堆積物という4 種の要素が存することから,前弧地殻がいったん形成され、二次的に消去されたことを意味している。

 2-3) 石垣—玖珂構造線

周防帯の下底として東方へ追跡され,中部日本の上越地域で日本海に没する。西方延長は瀬戸内海西部を横断して九州北部で大きく東へ反転・迂回し,再び豊後水道をわたって四国西部で中央構造線(Neo-MTL)に断たれる。 一方,石垣島において同様な累重関係が確認され,広域に連続する石垣—玖珂構造線と命名された。

石垣—玖珂構造線は日本の付加型造山帯を古生代と,ジュラ紀以降に分ける大きな構造境界をなす。

おそらくジュラ紀付加体の形成がはじまる前に大規模な構造浸食が起こり,先行して形成された古生代後期の造山帯産物が大量に消失したことを暗示している。

 2-4) 古中央構造線

Paleo-MTL は,関東から九州まで追跡されるが,九州東部でS 字状に屈曲し,肥後帯の南縁を通って有明海に抜ける。Neo-MTL は,リニアメントが明瞭な四国と紀伊半島に限定され,Paleo-MTL を切断している。

 2-5) 仏像構造線

沖縄本島から関東まで,ほぼ連続的に2000 km 以上追跡される。

先白亜紀の前弧地殻が構造浸食で消失した前線の痕跡とみなされる。


IV.日本列島の基盤岩の大区分

 

 

V.地体構造区分の単元

 

VI.地体構造境界の分類

中略

 4-1)背弧海盆の両端

 背弧海盆である日本海が開裂したのは中新世である。その開裂テクトニクスについては,海洋底の地磁気縞から復元される南北展張パタンと、陸上の古地磁気データから復元されたの間に大きな不一致があった。現在では観音開きパタンは否定的である。100 km 近い厚さのプレートを回転運動させると反対側でプレートの重複・衝突が生じることになる。しかし,九州西南方の地質にはそのような証拠が見当たらない。

しかし九州西部において,西南日本の帯状配列は南北方向にずれている。おそらく八代海を南北に通過する右横ずれ断層が存在すると思われる。また朝鮮半島の東南方でも,同様に右横ずれ断層が見られる。

 4-2)トランスフォーム断層の延長

 背弧海盆の拡大に伴う変位は,その両端だけで起きるわけではない。日本海の中央部において複数の海嶺が拡大した際にいくつかの大トランスフォーム断層を生じた痕跡がある。

フォッサマグナの起源はこのトランスフォーム断層に沿った右横ずれ変位であった。南方へ押し出されたこの断層の両側は,リフト化して開き,その間に厚い地層を堆積させた。そのリフト西端の崖をなした断層が現在みる糸魚川—静岡構造線に,また東端の崖が関東構造線(柏崎—銚子線)にあたる。

 4-3)島弧前面の短縮境界

良く分からないので略

 4-4)前弧スリバーの陸側境界

 海溝に海洋プレートが大きく斜めに沈み込む場合に,海溝軸に平行な沈み込み成分が前弧域の一部を弧地殻主部から分断し側方へ移動させる。これは前弧スリバーと呼ばれる。四国と紀伊半島を含む南海前弧スリバーがその代表である。

南海前弧スリバーの陸側境界断層にあたるのが右横ずれセンスの中央構造線である。とくに豊後水道から紀伊半島中央部にかけての直線性のよいリニアメントをもつ部分は,活断層として挙動している。しかしその変位は,さほど大きくない。

 4-5)別の島弧の衝突境界

 大陸縁に成長し続ける弧—海溝系に別の島弧が衝突すると,大陸縁の弧—海溝系の地質構造に大きな変化をもたら。とくに伊豆—小笠原弧の衝突は西南日本の帯状配列を大きく湾曲させている。

東海地方の赤石裂線も伊豆小笠原弧の衝突・付加に関連した左横ずれ断層である。


III. 東アジアのなかでの地体構造上の位置づけ

1980 年代には,近隣国でも地質情報の詳細化が進んだ。最も重要だったのは,中国主要部と朝鮮半島の解明であった。またフィリピンやロシア沿海州など造山帯の延長方向にあたる部分との対応関係が明らかになった。

日本列島の地体構造を論じる際には,東アジアの地体構造の枠組みのなかで,その位置づけを確認しておく必要がある。

留意すべき点がふたつある。①日本列島の起源が北中国(中朝)地塊縁か南中国(揚子)地塊縁か,②東アジアの造山帯との関連、である。

まず東アジアと日本列島との地質学関連に関する最近の知識を整理する。

 1) 南北中国間の大陸衝突帯の東延長と古生代日本の帰属

 日本がプレート収束型造山帯として形成されはじめたのは古生代初頭である。その誕生期に最も縁の深かったのは南中国であった。それは三つの理由から説明される。

(1)現在の東シナ海を介した九州と南中国の地殻の連続性,

九州から南西諸島にかけての先新生界基盤はそのまま東シナ海底,そして南中国東縁の大陸地殻に連続するとみなされる。そしてそれに連続する東北日本も南中国地塊に近縁と判断するのが最も自然である。

(2)南北中国の地塊が衝突したとき発生した造山帯の東方延長

南中国が北中国の下に沈み込んで衝突型変成帯が形成された。これは中国本土の秦嶺から山東半島へと連続し,黄海を渡って朝鮮半島では臨津江帯に追跡 される。その東方延長が飛騨山地と北関東の日立地域に存在する。飛騨片麻岩中の砕屑性ジルコンは,現在の北中国地塊の基盤岩の年代とよく一致する。

(3)古生物地理学の所見

古生代化石群集の特徴は南中国との強い関連を示す。

以上のことから,日本列島の主部は基本的に南中国地塊の縁辺で形成・成長したと考えるのが妥当である。

 2) 東アジアの大陸の原型

トリアス紀前半には南中国地塊が南方のインドシナ地塊と衝突・合体した。続いてトリアス紀中頃以降に北中国地塊や北方のモンゴル+ブレヤ地塊の一部が衝突・合体した。

こうして東アジアの大陸の原型がほぼ完成した。その東アジア大陸の外縁を覆うように,付加体などからなる単元が順次形成された。


II. 地体構造区分の研究略史:

これまでに日本に段階的に導入された重要な年代決定手法は次の4 つであった。すなわち,(1)大型化石による生層序学・年代学,(2)火成岩と変成岩の放射性年代測定,(3)微化石層序学・年代学,そして21 世紀初頭の研究前線を切り開く(4)砕屑性ジルコンのU-Pb 年代測定である。

 1)大型化石年代

 近代地質学が日本に定着するまでの19 世紀末から20 世紀半ば(明治から昭和前半)では,堆積岩から産する大型化石が唯一の年代決定基準であった。構成岩石の種類とそれらの化石年代をもとに,複数の地体構造 単元が識別された。これによりフォッサマグナ,中央構造線などの代表的な大規模地質構造が解明された。

しかし,各単元間の定義および帯相互の境界位置などはまだかなり曖昧な状態であった。

 2)放射性年代と微化石年代I

 第二次世界大戦以後は,火成岩および変成岩について放射性年代測定が可能となった。これによって化石を産しない火成岩や変成岩の年代がはじめて具体的に示されるようになった。堆積岩についてもより高い年代分解能をもつ微化石が頻繁に利用されるようになった。

しかし,年代測定を行う機器をもつ研究施設は少なく、日本列島のすべての地体構造単元の年代が明らかにされたわけではなかった。

 3)微化石年代II

1980 年前後には,造山運動の原動力がプレートの収束プロセスであったことが確認された。複雑な堆積岩複合体の実態が過去の付加体であると認識されるようになった。この付加体の年代決定において,微化石層序が決定的な役割を果たした。

簡便な微化石抽出法は急速に普及し,地域地質学と結びついて日本全土から短期間に大量のデータが生み出された。また1990 年前後には,放射性年代マッピング法が導入され,弱変成付加体に明確な年代基準を与えた。この場合も地域地質学と密着した多数の年代測定がなされた。

これらの研究によって,日本列島の基盤岩をなす地体構造単元のほとんどが過去の付加体とその高圧変成部であることが明示された。

 4)砕屑性ジルコン年代学

 21 世紀初頭の現在,新手法として注目されるのが砕屑性ジルコン年代学である。近年の性能改良により,多数試料の迅速測定が可能となった。

この手法の導入により,日本列島の地体構造論において次の2 点について大きなブレークスルーがおこりつつある。

(1)粗粒砕屑岩主体の地層の年代推定が可能となった

(2)高圧変成作用を被った付加体の原岩形成年代を明らかにできるようになった。


日本列島の地体構造区分再訪

磯﨑行雄ほか

http://ea.c.u-tokyo.ac.jp/earth/Members/Isozaki_JG/10Isozaki.pdf

という論文が、包括的で勉強になる。以下はその摘要。

I.はじめに

 日本列島は世界地図のなかでみると極東にあるほんの小さな島国だが,そこには大陸縁辺に発達する造山帯を特徴づける地質学的・地球物理学的特徴が多く観察され,世界で最も詳しく解析されている島弧と呼んでも過言ではないだろう。

日本列島の表層地殻は,おもに強く変形した堆積岩類や変成岩類,そしてそれらに貫入した花崗岩類から構成される。これらの強い変形作用は、日本列島が長期間存続した造山帯の一部であったことを示している。

 造山帯の大構造を理解する際には,地体構造単元の識別およびそれらの間の境界の認定がすべての議論の出発点となる。日本列島の場合,列島にそって帯状配列する複数の「帯」に区分される。

20 世紀後半ではプレートテクトニクス的地質観のもとで,分類や定義が大きく改訂された。しかしその後も一部の潜在的な問題が未可決のままもち越されて現在に至っている。

 21 世紀最初の10 年が経過し,「砕屑性ジルコン年代」測定など、次世代を切開く新しい研究手法が導入され,いま再び新しい変革の時期が訪れた。日本列島を構成する各種地体構造単元や隣接単元間境界の再定義が不可欠となった。

本稿では,地体構造区分に関して,現状の混乱を改めるには具体的にどのように対処すべきかを論じ,再定義を試みる。



…てなことを考えていたら、「大鹿村中央構造線博物館」というページにあたった。
英語ではOshika museum of Japan Median Tectonic Line というのだそうだ。
恥ずかしながら、プレート・テクトニクスというのをテクニックだと思っていた。
構造という意味なんですね。
ここの掲示板で、「やはり」と思わせる論議が盛んに繰り返されている。セオリーそのものが形成過程にあり、けっこう百花斉放のようだ。
それにしても、こんな名称の博物館を作ってしまうなんて、やはり伊那の人は違う。静岡県人なら思いつきもしないろう。

ということで、花サイ列島の話題からは退散することとする。

昨日、日本列島の成り立ちをまとめてみて、なんとなく分かった気になっていたが、なんとなく変だと思う。
いくつかの異なるセオリーが、アマルガムのように接着されているが、どうもおたがいに矛盾があるのではないか?
ユーラシアプレートと太平洋プレートの単純なぶつかり合いであれば、“日本弧状列島”の形成は容易に理解できる。しかし日本がそもそもユーラシアと北アメリカプレートの両方にまたがっているとすれば、俄然話は複雑だ。

大陸プレートと海洋プレートのこすれあいによって生じる変化は、所詮は、接合面の近辺に生じる小規模なものだ。しかし大陸プレートと大陸プレートとの関係というのは、はるかにマクロなものだ。だから二つの大陸プレートの境界で起きる事象は、まずもってこの関係から判断しなければならない。

二つの大陸プレートの経時的な位置関係はどうなっているのか、つまり二つは近づいているのか、それとも遠ざかっているのかということがまず明らかにされなければならない。漂流説の流れに従えば、遠ざかっていると見るのが自然だと思うが。

私には、北アメリカプレート関与説は、「フォッサマグナ」屋さんが、少々図に乗ってぶち上げているだけではないかと思えてくるのだが。

第二にフィリピンプレートを考えに入れないでモデル化すると、日本は三つのプレートの交点になる。その場合に太平洋プレートは両方の大陸プレートに平等の関係でもぐりこんでいくのか、たとえばユーラシアプレートに直角の関係でもぐるなら、北アメリカプレートには斜め45度とかということはないのだろうか。もう一つ、太平洋プレートはただひたすらにもぐるだけなのだろうか。二つの大陸プレートのあいだを押し広げたりすることはないのだろうか。

いろいろ考えていくと、どうも北アメリカプレートをこの議論に持ち込むのは、あまり生産的ではないような気がする。とりあえず陸地のほうはユーラシア・プレート一本で十分説明可能だ。

観音開きセオリーは両方のヒンジが同一のプレート上にあるという前提を要求しているのではないか。(もっとも観音開きセオリーも一方のヒンジを知床岬の先におくという無理を犯している。日本海の膨隆による放射型変形で十分説明可能と思うが)

北アメリカプレートの関与を主張するためには、ユーラシアプレート一本説で説明困難な事象を挙げ、それが二つの大陸プレート説でうまく説明できることを、説得力を持って証明しなければならない。

第三にフィリピン・プレートの関与である。日本列島をほかの弧状列島から分けている最大の特徴はフィリピンプレートによりもたらされているとおもう。つまり大陸プレート側の事情ではなく、海洋プレート側の事情により規定されているのではないか、と思う。

その割にはこのフィリピンプレートの全体像ははっきりしていない。学生時代にはフィリピンプレートなどという言葉すら聞いたことがなかった。(というより、私の情報不足であるが)

これから少し情報を集めてみる。

まずは弧状列島の一般的な成り立ち。

①大陸プレートの下に海洋プレートがもぐりこむ。そのとき海岸線に表面の土を残していく。それがつみあがって海岸べりに山脈が形成される。
②もぐりこんだ海洋プレートはマグマだまりに接して膨らむ。内陸部に入ってから膨らむと、山脈は放射状に縁のほうに押し寄せられる。海の方に落ち込んで行けば山の頂きが列島として残る。

次は日本列島の特殊性
③日本列島の場合真ん中が切れてしまって、弧状の形態を維持できなかった(フォッサ・マグナ)。一説では伊豆諸島が邪魔になって、北側は東の日本海溝へ、西側は南の南海トラフに落ち込んだという。
④やがて海洋プレートのふくらみは消失し、カルデラのようにへっこむ。そこにフォッサマグナを通じて海水が入り込み、日本海を形成した。
⑤フォッサマグナには、その後伊豆諸島方面のフィリピン・プレートが入り込み、新たな陸地を形成した。かつての水路は本州で最大の幅を持つ区域となった。

こんなもんでいかがでしょう。

http://www.saitama-med.ac.jp/jsms/vol31/03/jsms31_183_193.pdf

埼玉医科大学雑誌 第31 巻 第3 号 平成16 年7 月

 

もうやめようと思ったが、ルソーについての面白いペーパーを見つけてしまった。

『ルソーの泌尿器疾患について』という論文で、埼玉医科大学の斉藤先生という泌尿器科のお医者さんが書いたものだ。ルソーのいわば持病だった「尿閉症」を中心に病蹟学(Pathography)的な分析を行っている。

少しそのさわりを紹介しておく。斉藤先生は『告白』をじっくり読み込んで、そのなかから病気についての記載を引き出している。

 

①出生時から小児期まで

「私は死なんばかりの状態で生まれ,育つ望みはほとんどなかった」

②青年期

「息切れがし,圧迫を感じ,知らないうちにため息し,動悸が高まり,喀血した.微熱がでた」

「私は健康な体質だし,それにいかなる不摂生もしないのに,眼に見えて衰弱して行った原因が,どこにあるかわからない」

(ルソーは死ぬと思い,遺言書を書いた)

「眼に見えて衰弱,死人のように青ざめ,骸骨のようにやせていた.動脈は恐ろしくうち,動悸はますます早くなり,たえず息苦しく,ついに衰弱があまりひどくなったので,動くのも苦になった」

「医者たちは,私の病気がぜんぜんわからず,私を気で病んでいるとみなした」

③壮年期(1742~1762,30~50歳)

(ヴェネチアの娼婦と10フランで関係)「私は病気を移されたと,全く確信して館に帰ったので,戻ってやった最初のことは,医師に人をやって,煎じ薬を求めることだった.

彼(医師)は私が特別の体質だから,簡単には感染しないのだと納得させた。そういう病気(梅毒)にはかからない体質だ」

{1758,45歳}

「彼ら(医者)の指示に従えば従うほど,私は黄色くなり,やせて,衰えた。私は大金を払って,消息子を大量に買い込んだ。こんなに高く,苦しくて,つらい手当てをして,気を散らさずに,仕事ができるはずがない」

{1761,49歳}「結石はないが,前立腺が硬性腫瘍にかかって,異常に肥大している。彼は(コーム),私はひどくくるしむだろうが,長生きするだろうとはっきり言った」

 

④晩年・死亡時

1778年7月2日,例のごとく早朝起床して散歩,8時帰宅,朝食,しばらくして突然気分がわるくなる.

「彼は足の裏がちくちくしてとても気持ちが悪い,背骨にそって氷水が流れるような寒気がする.胸が苦しい,発作のときのようなとても激しい頭痛がする.とつぎつぎと訴えました.彼が両手で頭をかかえたのはこのことの表現だったのでしょう.そして,頭蓋骨が割れるようだといいました.この発作ののちに,彼の生命は絶え,椅子から下にたおれました.すぐだき起こしましたが,彼はもう死んでいました」

これはテレーゼの口述だが、死の間際にこれだけの症状を次々に訴えるのはすごいです。

 

以上のごとき論述から、斉藤先生は以下のように推論しています。

診断根拠となる検査所見はないが,ルソーのような尿道のひどい苦しさを訴える疾患には,除外診断として,前立腺症,心身症や神経症的不定愁訴を訴える疾患として,前立腺痛(症)も考えられる.

 いわゆる前立腺症には意思の疎通のはかり難い患者が多い.(臨床医としての実感がこもっています

ルソーが前立腺症かは不明であるが,類似点も認められる.

前立腺症は致死疾患ではないが,患者の訴えに対して,疾患を証明する検査所見が乏しく,精神病との境界領域の疾患とも考えられている.

晩年になって,尿閉症,尿意切迫感が悪化・進行したという記載は見当たらない.あれだけ苦しんだ症状の記載がないことは,青・壮年期にひどかった症状が,老年になって軽減したためと考えられる.

ルソーは医学の知識もあり,ヒポクラテスも知っており,医学を信用しているが,医師を信用せず,医師に対して極端な敵対意識を持っている.さすがに,医師に対して,刃傷沙汰や,暴力行為はしていないが,文の剣で,医師を突きまくっている.

自分の疾患に対する不満がつのって,後に社会に対する不満と重なり,『人間不平等起原論』の起原になったと推測出来なくはない.(ここはちょっと言い過ぎかも知れません)

斉藤先生は精神医学的な評価を慎重に避けていますが、一昔前の精神科医なら、こういうケースには間違いなくパラノイアの診断を下すでしょう。


ついでですが、ルソーの医者の悪口は相当なものです。医者とか坊主なんてのは、陰口を叩かれるのが商売みたいなものですが、それにしてもすごい。

 「自然状態の人間にはほとんど薬が必要はなく,医者はなおさら必要ではない」(『不平等論』48).

 「わたしは医者がどんな病気をなおしてくれるのかは知らない.医者が非常に有害な病気をもたらすことを知っている」(『エミール』上56).

 「自分のためには決して医者を呼ばない.生命があきらかに危険状態にあるときは別だ.その場合には医者もかれを(エミール)を殺す以上に悪いことをするはずはない」(『エミール』上58).

 「賢明なロック(イギリスの思想家)はその生涯のある時期を医学の研究にすごしたが,用心のためにも軽い病気のためにも,子どもには決して薬を与えないように熱心にすすめている」(『エミール』上58).

 「かれらが(医者)なおした病人のうち幾人かはかれらがいなければ死んでいたかもしれない.しかし,かれらが殺した幾百万の人は生きていたことだろう」(『エミール』上108).

 「医者と哲学者は,自分の説明できることしか真実とは認めず,自分の理解力を可能の尺度としている」(『告白』6 巻284).

 「わたしはかれらの技術のむなしいこと,その診療がなんの役にもたたないことの生きた証拠なのだ」(『散歩』115)


もう40年も前のことですが、村上孝太郎という人が参議院選挙に出て当選したのですが、まもなくガンが発見されてそのままなくなってしまったという出来事がありました。運輸省か通産省の次官か局長まで行った人で、ちょうどその頃はやったフォークソングの「走れコータロー」という歌をそのまま選挙運動に使っていました。

この人は、入院してから猛烈に医学書を読み漁ったそうです。たちまちのうちに医者どもの知識を追い抜いてしまい、研修医に指図したそうです。

しかし、そういうことはよくあることなので、医者というのは例え専門医であろうと、臨床医であるかぎりは、深さより広さが求められるものなのです。

言い訳っぽくなりますが、人間というものが全面的である以上、医療の側も全面的であることが要求されるのです。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

お叱りをいただきましたが、すみません。うろ覚えというのは知らないのと同じことだと痛感しました。なにせ学生時代にはこんなこと習っていません。

ウィキペディアのフォッサマグナの項を見るとこう書いてありました。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し…

おお、そうだったのか。こういうのを『観音開き説』というんだ。
日本列島というのは沖縄・千島・アリューシャンのような弧状列島ではないんだ。

もう一つわかったのは糸魚川-静岡線に対応して東側にもうひとつの構造線があり、そこから北は北アメリカプレートに乗っているということだ。
地図を見るとどうも苫小牧から石狩に抜ける線がプレート境界ではないかと思っていましたが、地球の歴史はもっとずっと大規模なものですね。

ついでに、ある情報では「横滑り説」と言うのもあって、日本列島の北と南が中央構造線を境に1500キロもずれたんだそうです。
1500キロというとほぼ日本列島の全長並み、ずれる前は一直線にきれいに並んでいたということになります。
しかしどうも観音開き説との相性が悪い。とりあえずは仮説ということでしょう。

北海道の景観は、たとえば狩勝峠から十勝の大平原を見下ろしたときとか、根釧の果てしなき牧草地帯とか、内地の細やかさとは異なるおおらかな印象である。
しかし地図を見ていると、どうもそう単純ではないという思いがしてくる。

日本地図を見ていると、変だなと思うのは、本州から北上してくる陸地の線が積丹半島で終わってしまっていることだ。樺太から南下してくる隆起もえりも岬で海中に没してしまう。大雪から東に伸びる山並みも知床半島で海中に没し、千島列島のアーチとは微妙にずれる。逆に国後まで南下した隆起は根釧平野のどこにも名残を感じさせない。そしてその南方には釧路から海岸線沿いに歯舞・色丹まで伸びる低い隆起がある。

つまり北海道は大きく言えば、本州系、樺太系、千島系の三つの地質学的構造の交差点になっているということなのだろう。北海道の地形は本州、特に西日本に比べたらずいぶん単純だと思っていたが、地質学的にははるかに複雑なようだ。

ウィキペディアで調べると、本州まではユーラシアプレートの上に乗っかっているが、北海道は北アメリカプレートという別の棚の上に乗っているようだ。

もう少し勉強してみよう。

九州も小さな割に複雑な地形だ。というより、メリハリのない島だ。
鳥瞰してみると、背振山地から五島列島につらなる隆起と、佐賀の関から甑島につながる隆起と、大隅半島からトカラ列島につながる隆起の三本が見て取れる。
しかしいずれも薄ぼんやりとしたもので、たんなる眼の錯覚かといわれれば、そうも思われる。
一応脊梁を成すと思われる熊本・宮崎県境の山地も日田から国分で終わってしまう。むしろ雲仙・阿蘇・霧島の三大火山が地形を規定している。九州島の短い足となる薩摩・大隅半島も、そうなるべき必然性が見えてこない。
北海道が千島のアークと日本列島のアークのヒンジであるのと同様に、九州は沖縄からつながる南西諸島と日本列島のヒンジであるはずなのだが、それを象徴するような地形的特徴が見て取れないのである。

ついでにもう一つ
西日本の天気予報のとき、とても気になるのが佐田岬半島から吉野川河谷を通って紀ノ川河谷とつながる一本の線。この線を西に追っていくと、阿蘇山をもぐって宇土半島から甑島へと続く一本の線が見えてくる。
これって、本当にただの偶然なんだろうか?


毎朝、出掛けにテレビの天気予報が流れる。
たいていは地図がでてそれに気圧の等圧線がかぶさる。気圧はどうでもいいのだが、結果として我々は毎日日本列島の地図を頭に叩き込まれていることになる。
ということで毎日見せられているうちに、ふと頭に浮かんだこと。
日本というのはユーラシア大陸に対して辺縁に並ぶ。それはフィリピン諸島、沖縄諸島、日本列島、千島列島、アリューシャン列島といういくつかの花綵を形成している。そのつなぎ目のところに台湾、朝鮮半島、樺太、カムチャッカ半島が位置している。
それでつなぎ目というのはどういう風につなぎ目なのかということだ。
この四つは見たところの違いが余りにも大きくて、共通点を見出すのは難しい。プレート理論もこれらの四つの接点の共通性をまったく説明していない。
第二には日本列島が琉球諸島、千島列島、アリューシャン列島に比べて桁違いに大きいことだ。果たして同列に論じてよいものなのか?
第三には、フィリピン諸島が厳密な意味では花綵を形成していないことだ。これを花綵の一つとして括ってよいものなのか。それともインドネシア諸島、ボルネオ、ニューギニアなどとまとめて論じるべきなのか。おそらくプレート理論の応用として判断しなければならないのだろうが…
ということで、余りにも見事な花綵形成と余りにもぶざまなユーラシア大陸への接合のしかたとが、どうも納得できない気がしてしようがない。


そろそろ疲れたので、ルソーはお開きにしようかと思う。

ルソーの文章は、そもそもからしてポレミックなものだ。自然人は高貴であり、社会がそれを堕落させていくという筋立ては、一種の反文明論であり。文字通りに受け取ることは出来ない。

ただ、自然人が野蛮人であり、それが社会の中で洗練されていくという常識に対するアンチテーゼとして、逆の面もあるんだよという点では説得力を持つ。

また人間がエデンの園を追われたアダムとイブ以来、原罪を担った存在であるというキリスト教の教えに対する反論でもある。

しかし、それだけではこの議論は持たない。じゃぁどうするんだということになる。そこで「自然に帰れ」ということになるのだが、これ自体も一種のレトリックである。もう一度自然を踏まえて、そこから自由とか理性とかを構築して行こうではないかということだ。

後半になると、こちらのニュアンスのほうが強くなる。それはおそらく論敵との10年間の論争の赴くところであったろう。それが「教育論」という形をとった人倫的共同体の形成への志向であろうと思う。

しかし政治の話は、共同体レベルでは済まされない。「国家主権」の問題が浮かび上がらざるを得ない。そこで自由の意志の発現としての国家主権への自発的従属の主張が登場する。

しかしこれも勢いのなせるところ、「従属こそが自由だ」的なニュアンスで語られる。

しかしこの時代にはそもそも「民主主義」とか「主権在民」という概念はないのだから、「みんなで決めたらみんなで守りましょう」というレベルの話ではないだろうか、「みんなで決める」ことに意義があるのであって、王制主義者が「そんなことでは無政府状態になる」と反論すれば、「決めたら守るのは、決め方がどうであろうと同じだ」てな売り言葉に買い言葉の乗りではないでしょうか。

ルソーは徒党を組むということをしていないので、常に異論派と直接向かい合って暮らしていたはずだ。だから、ルソーを読むときは、ルソーだけでなく、ルソーの向こう側にいる論敵の姿を思い浮かべながら読む必要があるだろう。

橋本努さん、ありがとう

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Rousseau%20Emile.pdf

で、『エミール』の梗概を作ってくれている。北大経済学部の人らしい。

えっ!というか、あの「ハイエク+マルクス」の橋本先生じゃん。経過については私のホームページの 更新記録 2008.05.20 を参照してください。

それで、一時間もあれば、さわりには触れることができるし、「さしあたり全文を読む必要はなさそうだな」ということも分かる。

気に入ったところだけ抜き出しておく。教育に興味のある人は橋本先生のページへどうぞ。

第一編(上巻)

・【社会秩序と自然秩序】

「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間として生活するように自然は命じている。
生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ」

・【活動重視の教育】

「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。」

・【自然の弟子】

「教育は生命とともにはじまるのだから、生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ」

第二編 子ども時代(~12,13 歳)

・【将来に備える教育について】

「人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人々に対して、あらゆる年齢の人々に対して、人間に無縁でないものに対して、人間的であれ」

第三編 青年期の直前(12,13 歳~15 歳)

第四編 第二の誕生(中巻)

・【人間の弱さから生まれる社会】

「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。

わたしたちのひとりひとりが、ほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものから、わたしたちのはかない幸福が生まれてくる。

・【自分自身に満足することの幸福】

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている」

・【人々を高く評価しないが軽蔑しない】

「一般的にいって、エミールはだれの考えにも反対しないで、自分の考えを述べる。かれはなによりも自由を愛好しているし、率直に語ることは、自由の最も美しい権利の一つなのだから。」

「エミール」の第4巻に「サヴォア助任司祭の信仰告白」という節があるそうだ。そこが当局の気に入らなかったところで、その後のルソーの運命を決めたようである。

それはまた、後のカントの自由観に大きな影響を与えたという。

以下は、土橋貴さんの「ルソーについて-自律としての自由」という文章の要約

http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/03/24_0102/24-01.pdf

人間の意志を決定する原因は何か。それは彼の判断だ。では、判断を決定する原因は何か、それは彼の知的能力だ、判断する力だ。決定する原因は人間自身のうちにある。それ以上のことになると、私にはもうなにも分からない

あらゆる行動の根源は自由な存在者の意志であり、私の外にある何者によっても決定されないでそうすること、まさにそういうところに私の自由がある

このポイントを、カントが自律という言葉で展開していった。

「だからルソーは、自律の精神としての“自由を通し平等を作っていく”決意を固めたのである」

土橋貴さんによれば、「社会契約論」では以下のように述べられている。

人間は、自然環境下では自然の法則下で生き、脱自然状態下では他者に縛られ生きてきたが、今後は新しい共同関係を作りながら、自律としての自由を作っていかなければならない。

どこかで聞いたようなせりふですね。

 とりあえず、グーグルで検索して上のほうからの文章に眼を通した。多くはエッセー風であり、それほど中身の濃いものではないが、とりあえず感じはつかめると思う。


「学問・芸術論」 1750年

「学問と芸術の進歩は人間の風俗を堕落させたか、それとも磨き上げたか」

ルソーは「堕落させた」と答えた。

人間は自然状態では自分の能力と欲求が一致していた。文明が進歩すると、自分の力以上の欲望が生まれた。これにより社会的な不平等、悪徳や争いが生まれる。

 

  「人間不平等起源論」 1755年

市村正也さんのページなどから引用)

①「人間とは本質的に善いものであり、堕落しているのは社会のほうである」

「人間の社会を礼讃したければいくらでもするがよい。しかし、実際の社会は利害が入り乱れ、人間が互いを憎み合い、想像しうる限りのあらゆる悪を互いにし合っている」

「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」

「あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる」

②自然人のあり方

「(自然人たちは)他人に危害を与えようと考えるよりは、受けるかもしれない危害から身を守ることに注意を払った。」

「自分が受けた乱暴はちょっとした不運とみなされた。乱暴を罰すべき不正とは見なさず、仕返しも考えなかった」

「彼らは虚栄心も尊敬も軽蔑も知らず、君のもの自分のものという観念も持たず、正義の観念もなかった」

「真の自然状態においては、人は自分のことを、自己を見つめるただ一人の観察者と見なしている。そして、宇宙のなかで自分に興味を持つただ一人の存在と見なしている。そして、自分自分の価値を判断できるただ一人の人間と見なしている。
だから、自分の能力の範囲を越えるものと比較することはありえない。だから、その比較によって生まれる感情、すなわち優越感や劣等感が、心の中に芽生えることはあり得ない。同じ理由で、自然人たちは憎悪も復讐の欲望も持つことができないだろう」

③社会が人間のゆがみをもたらす

「人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。未開人は自分の知っているものしか欲しが らない」

「(人々の行き来が始まると)人々は様々な事物を比較するようになる。そして無意識のうちに価値と美の観念を獲得し、それが選り好みの感情を生み出す。お互いに会うことによって、人々は会わずにいられなくなる。嫉妬心が愛とともに目覚める。

「人間たちがお互いに相手を評価し始め、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成され始めると、誰もがその権利を主張した。侮辱された人間は、そこから起こる被害よりも自分個人に対する軽蔑が我慢ならない。自分に示された軽蔑を、自分で自分を尊敬する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は残忍になった」

「すべてに人間は、真の欲求ではなく他人の上に立ちたいという熱意を持つようになり、その結果お互い危害を加え合う傾向が生まれた」
「富めるものは、支配する快楽を知ると、たちまち他のあらゆる快楽を軽蔑した」

④贅沢と欲求

ルソーは人間が家族を作り、住居を持ち、簡単な道具を使うようになるにつれて欲求がどう変化するかを述べている。

「欲望が自然でなく、差し迫ったものでなくなると、それにつれて情念はますます増加する。いっぽう、それを満足させる力も増加するのである」

「簡素な生活と、限られた欲求とを持った人々が、多くの余暇を持つようになる。そしていろいろな安楽を手に入れるために、その余暇を利用した。 
「自分の肉体と精神とを軟弱にし続けると、これらの安楽は習慣となる。それによって安楽の魅力は失われる。同時にその安楽が真の欲求に変質してしまうから、それを奪われる苦しみは、それを持つことが心地よかっただけにいっそう激しいものとなった」

 

長山雅幸さんによれば、人間の不平等には八つの段階があるとされる。

第一段階: 人間関係が全く欠如している状態。純粋自然状態と呼ぶことができる。そこでは「自然人」は、野獣のような生活をし、その本能が求め る以上の欲求を持たない。

ルソーはこのような孤独な野蛮人を完全に幸福なものとして描いている。なぜならば、彼は独立しており、満たされているからである。

第二段階: 各自がお互いに一時的に関係を結ぶのにとどまる。

第三段階: 人口の増大、幾多の偶然による火や石器、金属器の発明などにより、固定した住居・家族が発生する。すなわち、社会組織の始まりである。

諸個人の交流が一般化し、それを通して競争と優越の観念など、様々な悪徳が生まれる。そして財産の発生によって、人間の平等の危機は本格化する。しかし、これはまだ社会の原初的段階にすぎない。

第四段階: 農業と冶金の技術の発明により、原初的社会状態から更に発達した社会状態へと移行する。分業が生まれ、その中から不平等が発生する。この不平等はその諸形態の中でも最も有害なもの、貧富の差へと帰着する。

「或る土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会の真の創始者であった」

第五段階: 終わりなき戦争そして恐怖の時代。富者と貧者とは容赦なく憎しみあう。悪徳は今や普遍的なものとなる。

第六段階: 終わりなき戦争と恐怖から逃れるために「政治社会」が設立される。

第七段階: この政治社会から政府が生まれる。

第八段階: 政府は専制政治へと転化し、個人が無となることによって諸個人間の平等が再建される。これこそが不平等の最終段階であり、「自然状態」への回帰なのである。

 

「社会契約論」 1762年

長山雅幸さんによれば…

人間は自由なものとして生まれたはずなのに、今日の社会では「いたるところで鎖につながれている」、しかも「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのである」

こういう疎外状況を、何が正当なものにしているのか、ということである。すなわち政治的権力であり、それを可能にした政治体としての社会契約である。

主権」とは政治についての決定権である。それまでは君主に「主権」があるとされてきた。君主主権の観念は絶対王政を支える強力な根拠となっていた。(王権神授説)

 ロックやモンテスキューは、「主権概念」を、理論的には不必要なものとして、実践的には危険なものとして退けてきた。それに対し、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存すると言う「人民主権」の概念を打ち立てた。

ただ、「主権」は民衆の意志とは異なる「一般意志」の表現であり、独裁権も排除していなかった。他方において、民主制は神々から成る人民にしか適さない程に「完全な政府」であり、「人間には適しない」とされている。

彼はその証拠としてイギリスの選挙制度をあげる。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」

(Wikiquoteより)

「自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである」

「単なる欲求への服従は奴隷となることであり、人が自らの命じる規律に従うのは自由となることである」

「社会の秩序は自然から生じたものではない。社会の秩序は慣習の上に基礎付けられている」

 

 「エミール」 1762年

苫野一徳さんの文章などから引用)

①最初のテーゼ: 「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手の中では悪になる」

「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ」

自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である」

「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる。不幸は物がないということではない。むしろ物が欲しいと感じるから不幸なのである」

②「人は子ども時代というものを知らない。…いつも子どもを大人に近づけることばかりに夢中になり、大人になるまでの子どもの状態がどのようなものであったかを考えようとはしない」

「私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」

「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備せよ」

③「あらゆる情念の源は自己愛である。ここから、自らに近づく人たちへの愛が生まれる。人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ」

④「エミール」が禁書となった理由は、〈サヴォワ助任司祭の信仰告白〉という部分。

「人間は自由だ。神は、人間が自分で選択して善を行うように、人間を自由なものにしたのだ」という一節で、カントはこれに感激し『実践理性批判』を構想したとされる。

⑤苫野さんによれば、

よく言われる「自然に帰れ」というルソーの言葉とされるスローガン。しかしルソーは、実は「自然に帰れ」とはひと言も言っていない。

これはただちには首肯しがたい。言葉通りには言っていないかもしれないが、それに近いことはけっこう言っていると思う。すこし他の文献を当たってみる。

 

朝ラジオを聞いていたら、今年はルソーの生誕300年ということ。世界史の授業ではおなじみだが、まじめに勉強したことはない。これからもあまり勉強しようとも思わないが、一応年譜だけは作成しておく。

ねたは主にルソー音楽年譜とウィキペディアによる。


1712年 ルソー、スイスのジュネーヴに生まれる。父イザーク・ルソーは時計職人、母シュザンヌ・ベルナールは出産直後に死亡。 叔母のシュザンヌ・ルソーに育てられた。

25年 父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師や法律家に預けられたのちに彫金工に弟子入りをする

28年3月 奉公先を出奔し、ジュネーヴを離れ、放浪生活を送る。

アヌシーでヴァランス夫人に出会う。トリノの救済院に入り、カトリックに改宗する。

29年6月 アヌシーのヴァランス夫人のもとに帰り、そこで生活することになる。ヴァランス夫人から歌と音楽を習う。

29年10月 アヌシーの大聖堂聖歌隊員養成所の寄宿生となり、楽長ル・メートルに音楽を学ぶ。

30年 ふたたび放浪の旅に出る。

31年 シャンベリに逗留していたヴァランス夫人に再会を果たす。一説では「愛人」となったとされる。このあと10年間はシャンベリにとどまり、音楽家の道を歩む。

1740年 シャンベリを出て、リヨンでマブリ家の家庭教師を務める。

1741年5月 家庭教師の仕事に失敗しシャンベリのヴァランス夫人のもとに戻る。

1742年 パリに出て数字記譜法を売り込むが失敗。このころディドロ、コンディヤックらと親しくなる。

1743年 ヴェネツィア駐在大使モンテギュの秘書としてヴェネツィアに向かう。

1744年 大使モンテギュとたびたび衝突した結果、職を辞して、フランスに帰る。

1745年 リシュリュー公の依頼で、ヴォルテール作詩ラモー作曲のコメディ・バレエ『ナヴァールの王女』の修正を行う。ラモーはこれを不快に感じ圧力をかけたという。

1745年、下宿の女中テレーズ・ルヴァスールを愛人とする。10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。

1749年 ディドロの依頼で、『百科全書』の音楽関係項目を執筆する。

1749年 ディドロ、『盲人書簡』を発表。王制批判の罪で逮捕・投獄される。神の存在を否定するような「過激な唯物論哲学」を展開したため、教会の怒りを買ったといわれる。

1750年 ディジョンアカデミーの懸賞論文に応募。ここで投稿した論文「学問・芸術論」で一等を獲得する。ルソーの「学問・芸術否定論」は各界に反響を呼ぶ。

ルソーは49年夏のある日、ヴァンセンヌ城に幽閉されたディドロに会うために、パリの街から8キロの道を歩いていた。途中、携えていた雑誌「メルキュード・フランス」に眼を通していると、ディジョン・アカデミーの懸賞論文の告知に目が留まった。そして「学問・芸術の進歩は風俗を堕落させたか、それとも深化させたか」という論文テーマに感情がほとばしったという。(土橋貴さんによる)

1751年 ポーランド王が批判。ルソーは、「悪の第一の源は不平等であり、不平等から富が生じた」、そして「富から奢侈と無為とが生まれ、奢侈から美術が生じ、無為から学問が生じた」と反論。

1751年 百科全書の刊行が開始される。1780年までの30年間に全35巻が刊行された。ディドロやダランベールが中心となり,ヴォルテール,モンテスキュー,ルソー(音楽担当)なども加わった。

1753年3月 『村の占い師』がオペラ座で初演され、大成功。

1752年 ルソー、「ボルド氏への最後の回答」を発表。社会の不平等の源が「所有」であると展開される。

1755年6月 初めての大作『人間不平等起源論』が出版される。

1755年9月 ルソーが百科全書の記載でラモーを批判したことから、ラモーが激怒。公開論争になる。

1756年春 パリ郊外のモンモラシに移り住む。危険思想とみなされたためとされる。『政治制度論』の執筆に取り掛かる。

1756年 ヴォルテールの『リスボンの災禍にかんする詩』を批判。絶交状態となる。

ルソーは上昇志向が強く、俗に言う「目立ちたがりや」で他人からの高い評価を求めた人だった。自分の主張を完全に受け入れないと許せないという性格から、しばしば友人とも絶交状態となった。(ルソーの教育論

1761年 書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』を発表。ベストセラーとなる。

1762年 『社会契約論』を発表。『政治制度論』からの抜粋・要約として書かれたもの。『政治制度論』そのものは未完に終わる。

1762年5月 教育論『エミール』が刊行される。自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定される。

「エミール」という架空の生徒(金持ちの孤児で、健康な子ども)が、生まれたときから一人前の人間になっていくまでの教育論。このなかの「サヴォア助任司祭の信仰告白」と題する部分が問題にされた。

1762年6月 ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命する。

1765年 『コルシカ憲法草案』を著わす。個人の自由のためには平等が必要であると考え、極端な富の不平等を否定し、私有財産に対する批判を強めた。

1766年 ルソー、ロンドンに到着し、大歓迎を受ける。

1770年 亡命先のイギリスで、パトロンだった哲学者ヒュームと不仲になり、偽名でパリに戻る。当局は「過去の人」となったルソーを、高齢を理由に黙認。

亡命中から執筆していた『告白』、「対話」を書き上げる。自己の魂の世界や自然の中での自己の安らぎの世界を描く。

1775年 コメディー・フランセーズで『ピグマリオン』が上演され、熱狂的な大成功をおさめる。

1778年7月 『孤独な散歩者の夢想』を執筆中にエルムノンヴィルにて死去する。


年譜を通じて浮かび上がってくるのは、ルソーというのはフランスの石川啄木だなということだ。

人に取り入るのがうまいというのか、人を虜にする魅力があるというのか、一般教養もそれほどなく、音楽も正規の教育を受けたわけでもない。それなのに、あれよあれよと出世の階段を昇っていく。

それなのに、いつも誰かとぶつかっては喧嘩を始める。面倒を見てくれた人を平気で足蹴にする。子供を産ませては孤児院に放り込むという具合だ。

この人はおそらくそううつ病だと思う。欝のフェイズがはっきりしないが、とにかく1750年から60年までの10年余りを全力疾走で駆け抜けたのではないだろうか。

もうひとつ、この人の「自然人」には「はぐれもの」としての孤独な生い立ちが反映していると思う。人間が類として、群れとして把握されない。しかも自分より上流の人々に対する憧れが、ひそかに投射されている。

だから出来上がった自然人のモデルは、階級社会の現実にはありえないおとぎ話の主人公であり、リアリティーに欠けている。


私が何をやっているかというと、9月16日の記事
「米国従属経済」シリーズの「金融編」が始まる
で以下の問題を自問したが、まだ答えが出せないでいるためだ。


①ユーロ円の由来
②ユーロ円を用いた債券を発行することの意味は? それを外国銀行が扱うことの意味は?
③何の金利が自由化されたのか。市中銀行? 海外金融機関の日本国内での営業?
③円転換とはドル売り円買いのこと?ドル買いについてはとうなった?
④為替先物取引とは? 実需原則とは?
⑤海外銀行の「内国民待遇」とは、銀行経営の完全自由化ということか?
⑥ドル高政策を採れば、円安になるのは当然だ。なぜそれをドル高政策失敗の原因とするのか?
⑦大蔵省はどう抵抗し、どう押し切られたのか?
ものすごい宿題が残された。ここが分からないと次回の記事には進めない。



見えてきたのは、最初は日本の「護送船団方式」に焦点が当てられたことだ。大蔵省・日銀が外貨割り当てを通じて支配し、各銀行が横並びで企業に資金を提供する方式が、日本の輸出をドライブした。その結果が円とドルの不均衡をもたらした、という理屈だ。

そして護送船団方式を支える二つの柱として、為替先物取引の制限と円転換の規制が槍玉に上がった。

ここまでが第一部だ。この規制を取っ払えば、円・ドル間の流通は盛んになり、市場原理がはたらいて、為替レートは落ち着くところに落ち着くだろうと考えられた。

ところが、実際にはうんともすんとも反応がなかった。この二つが円安・ドル高傾向を支えていたとする見方は、結果として間違っていたことになる。

それはつまるところ、ドル高万歳論を唱えていたリーガン財務長官の間違いであった。アメリカにとっての課題は「ドル高とそれに見合う円高」ではなく、「ドル安・円高」を導くことにあったのである。

ここからが第二部である。方針の変更は、第二期レーガン政権の発足とそれに伴う財務長官の交代によって促進された。リーガンに代わったベイカーは、G5による協調介入路線を打ち出した。

それは日本だけでなく世界の主要通貨に対する「ドル安」を容認する政策だった。そして、そういう協調体制の下で日本に円切り上げを迫ったのである。この時点で日本に選択肢はなかった。

つまり、レーガンを“団長”とする使節団=黒船の来航は、プラザ合意とは異なる思想と戦略の下に行われたということである。

ここを一緒くたにした議論は、混乱を生むのではないか。

第一の論理 安全神話
3.11の前、原発を支えていたのが「原子力は安全」という論理だった。途中からは「地球に優しいクリーン・エネルギー」という宣伝も加わった。
これは3.11そのものにより破綻した。
第二の論理 原発は安いという論理
これも3.11前から流布されていた宣伝だが、3.11のあともしばらく続いた。今でも経営者の一部はそう考えている。しかし、安全コストがふくまれていないという点では、反論できない。
それにLNG専焼の火発のコストを隠していたが、これだと実際にはコストは同等である。送電コストを載せれば低くなる。
第三の論理 原発がなければやっていけない
これが目下の最大のアピールポイントだが、これはいつまでも使えるわけではない。火発の建設そのものは原発よりはるかに容易である。都会に隣接した埋立地さえあれば用地取得や、送電設備などは1年以内に可能である。
第四の論理 貿易収支の悪化。同等の発電量生産に要する価格はLNGよりウランのほうがはるかに安い。これは事実である。
しかしトータルコストとしてはLNGのほうがはるかに安い。経団連が好きな「国際競争力」の観点から見てもLNGのほうが有利である。
さらにLNGの高価格は、商社等の不当な吊り上げによる影響が大きい。文句を言うなら、そちらに言って欲しい。

結局、論争を通じて明らかになったのは、これらのいくつもの論理は原発維持の本当の理由ではないということだ。

真の理由は核開発能力の維持にある。
24日付赤旗の15面に森本防衛大臣の発言が載っている。

国の基本として、原子力を持つということは、たんにエネルギーの問題ではない。
…非常に大事な抑止的機能を果たしている。
…(原子力を)決して捨てるべきではない。


この発言は、今年1月に北海道で行った講演会でのものだ。まだ防衛大臣に就任する前のことだが、財界をふくめた米日支配層の「本当の理由」を述べたものとしてとらえるべきだろう。


結局、「対米従属」の連載を読むために、参考書を一編読むことになった。

西田達昭さんの論文を勉強させてもらい、例によって年表風にまとめてみた。ネタ本は宮崎義一「複合不況」(岩波新書92年)という本らしい。

「転換期の日本経済 -プラザ合意・バブル経済・グロ-バリゼ-ション-」

http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/jinbun-PDF/09.nishida.11.pdf

 

Ⅰ レ-ガノミックスと金融自由化

1.レ-ガノミックス

1981年1月 レ-ガン政権が発足。軍事力の強化と経済の再建を柱とした「強いアメリカ」の復活をめざす。

経済の再建策は「レ-ガノミックス」と呼ばれる。①所得税を中心とする大幅な減税、②歳出削減、③政府規制の緩和、④金融引締め政策の4本柱を骨格とする。

これらの政策のうち、歳出の削減は実現せず、逆に支出は拡大した。それは財政赤字の急拡大をもたらすことになる。

1982年11月 米国の景気が好調に転じる。以後長期にわたり好況が続く。減税の持つ所得拡大効果が反映したものとされる。この好況は一言で言えば「借金バブル」であった。

同時に行われた金融の強力な引締めが、アメリカの実質金利を大幅に上昇させた。(どうもこの景気拡大政策と禁輸引き締め政策の並行が良く分からない)

この高金利に引き寄せられ、資本が世界中からアメリカに流入し、ドル高が生じた。

1984年末 アメリカは経常収支赤字の急拡大により純債務国へ転落する。

 

2.日本の金融自由化

1983年11月 レ-ガン大統領一行が訪日。日本の金融市場・資本市場の開放を強く迫る。

アメリカ側主張の背景となったのは、「ソロモン報告」といわれる。これはスタンフォ-ド大学のエズラ・ソロモン教授が執筆したことから名づけられたもの。ドル高の原因は、日本の金融市場・資本市場に問題があると指摘する。「郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」の世界だ。
①ドル高は円安のせいだ。②円安は外国資本が流入しにくいからだ。③外資が流入しにくいのは円が投資先としての魅力に乏しいからだ。④魅力に乏しいのは閉鎖的で規制が多すぎるからだ。…という具合で、「風が吹けば桶屋が儲かる」風の強弁である。まともな学者の議論ではない。実態として日本国内にはすでに金余り現象が生じていた。トレンドとしては金は出て行くものであり、入ってくるのものではなかった。

1983年11月11日 竹下大蔵大臣とリ-ガン財務長官が共同記者会見。先物為替取引における「実需原則」の撤廃など8項目の合意内容を発表。

1984年2月、3月、4月 3回にわたって日米円ドル委員会が開かれる。

1984年4月1日 先物為替取引における「実需原則」が撤廃される。

1984年5月末 日米円ドル委員会が「報告」と「金融の自由化および円の国際化についての現状と展望」を発表する。

1984年6月1日 円転換規制が撤廃される。事実上の外資の自由化。外貨資金が自由に円に転換できるようになり、国内資金として使えるようになる。(円転換規制は一部、1980年12月の新外為法によって緩和されていた)

円転換規制: 銀行がドルやユ-ロ円などの外貨を円貨に転換することを制限するもの。これにより外貨を円に転換し資金を調達することが可能になる。ただしコ-ル・手形、国内CDの調達コストに比べ有利でなければ、あまり意味はない。

1984年末 ドルレ-トもドルの長期金利も低下せず、日米金利差は3%程度を持続。実需原則と円転換規制の撤廃を受け、日本企業のいわゆる「財テク」が本格化し、対米証券投資が増大。法人企業の対外証券投資が金融機関による投資を上回る。アメリカの財政赤字をファイナンスする結果となる。(ファイナンス畑の人は書かないのだが、80年代前半は日本が第二次石油ショックに苦しみ、その苦境をアメリカへの“集中豪雨型輸出”で打開し、その結果、日米貿易不均衡が一気に顕在化した期間として記憶しておくべきだろう)

 

Ⅱ 「プラザ合意」から「バブル経済」へ

1.プラザ合意

1985年1月 レ-ガン政権第2期がスタート。楽観主義者ドナルド・リ-ガンに代わりジェ-ムズ・ベ-カ-が財務長官に就任する。ベ-カ-は、これ以上のドル高政策は継続できないと判断。

1985年9月20日 東京外国為替市場の円相場、1ドル=242円まで上昇。

1985年9月22日 G5の大蔵大臣および中央銀行総裁が、ニュ-ヨ-クにあるプラザ・ホテルで会談。

プラザ合意は、一言でいえば、アメリカが日本に対し円高誘導により対日債務を半減させるための“合意の強制”であり、他の三国はただの立会人に過ぎない。ただ、為替レートの変更は債務削減にとどまらなず、日本の対米投資の激増など多面的な影響を及ぼすことになるが、そこまでの思いがあったとは思えない。

1985年9月24日 日銀が協調介入を開始。「ドル売り円買い」のための市場介入をおこなう。円、一気に200円台前半に上昇。

1986年1月29日 澄田日銀総裁、公定歩合を0.5%引き下げ4.5%とすると発表。この時点で1ドル=200円の大台を突破。

1986年3月18日 円相場が1ドル=180円を突破。日銀はニュ-ヨ-ク市場で「ドル買い円売り」介入に踏み切る。4月1日からは東京市場でも介入開始。

円売りと外貨準備の蓄積に伴い、新券が大量発行された。円の余剰資金は政府短期証券の売却(売りオペ=要するに逆向きのインフレ政策)によって吸収される予定であったが、市中には未吸収の過剰流動性が滞留し、「カネ余り現象」を来たした。

1986年末 対ドル円、150円台まで上昇。巨額な外国為替差損が発生する。法人企業部門の対外証券投資は、対前年ほぼ25%減少する。

1987年2月 公定歩合、2.5%まで引き下げられる。ここまで5回の引下げが繰り返される。この後再び生命保険等の機関投資家を中心に対米投資が活発化。前年比75%の増加を示す。

日本の生命保険24社の総資産は、87年3月末で対前年17.4%増の65兆4000億円に達する。このうち40%が有価証券形態での運用、さらに11.47%(7.5兆円)が対外証券投資に当てられる。「ザ・セイホ」の名はウォ-ル・ストリ-トで注目を浴びる存在となる。しかしその後もさらに進行した円高のため、1兆7000億円(投資額のの20%強)という巨額の外貨建て損失を生じた。この損失は株式相場の高騰から得たキャピタル・ゲインで埋め合わされた。

1988年1月 円高が1ドル=121円のピークに達する。

2.バブルの発生 大企業の銀行離れと企業財テク

1987年2月9日 中曽根臨調路線がすすむ。低金利のなかでNTT株が上場。160万円の初値がつき、一時301万円にまではね上がるなど、証券ブ-ムに拍車をかける。

企業は銀行借入金を抑制し、転換社債・ワラント債の発行や増資など有価証券発行を通じて資金を獲得するようになった(エクイティ・ファイナンス)。株式の発行は本来の長期的収益を目指す設備投資ではなく、キャピタル・ゲイン目当ての短期的運用(一種の自己勘定取引)にも用いられるようになった。

1987年4月 東証1部平均株価が2万3216円まで上昇。時価総額は350兆円にまで達する。これは1986年度名目GNPの335兆円に匹敵する規模で、完全にバブル状態。

1987年 全国銀行の貸出残高に対する不動産担保融資の割合が20%台に達する。株式等有価証券担保融資の割合も2.5%まで及ぶ。企業の銀行離れ現象が進み、銀行の貸し出し業務が停滞したための現象とされる。これにより資金を調達した企業は、土地・株式購入や特金・ファントラへの運用をさらに拡大。

1989年5月 公定歩合が引き上げられる。以後1年のあいだに3回引き上げられ、最終的にバブル崩壊の引き金となる。

1990年 株価の崩落が始まる。株式、債権、円がそろって値下がりしたため「トリプル安」と呼ばれる。株価は2年後に最高値の半分に落込む。


結局、実需原則円転換規制 が分かれば良かったのだ。
読んでいて、こんな気もしてきた。
バブルというのは銀行が斜陽産業となっていく過程に咲いたあだ花だったのだ。従来型の通常業務における銀行というのは、バブル崩壊で屋台骨が揺らぎ、ビッグバンでとどめをさされたのだとも考えられる。
生き残りを図る銀行は、自ら自己勘定取引を行うようになり、投機資本そのものと化していく。
これをおかしいと指摘したのがボルカーだ。


1997年問題にヒントを与えるグラフを見つけた。

第5章 金融自由化 - 経済社会総合研究所

というファイルで、図は下に示したものである。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/c/6/c6c3058f.jpg

64年というのは東京オリンピックの年で、日本が本格的に高度成長を開始した年である。

驚くべきは、この成長の時代を通じて、日本の企業は資金不足に悩むことはなかったのである。74年のオイルショックのときさえ、手元資金はいくらか減少にしても資金調達額そのものはかげりを見せなかった。民の懐は豊かで、奥行は深かったのである。

78年以降は明らかに変化が見られる。調達額の増加と平行して手元資金の余剰額も増加し始める。高度成長が一段落し、企業が成熟し、資金を使いきれない状況が生まれ始めたことになる。金余り時代の到来である。

この余り金が行き先を求めてもがいていたのが84年~85年の状況である。その一部は米国債や海外投資に向かった。そこで日米委員会・プラザ合意・前川レポートの三点セットが登場する。

そこから90年までの5年間は“狂気の5年間”である。企業は本業そっちのけで資金をかき集め、手元資金さえ突っ込んで投機に熱中した。いま思えば、この時期の経営責任者こそは“A級戦犯”である。

90年に見事にバブルははじけとんだ。その後92年までは落ち込んだとはいえ資金調達には余裕はあったが、資金不足には歯止めがかからなかった。そして92年にはついに手元資金がマイナスに落ち込む。

ここからがドラスティックだ。資金調達は急速に落ち込みほぼゼロとなる。ぎゃくに資金不足は一気に解消され、収支バランスがあわせられる。土地は塩漬けとなり、資産の簿価は下がり、現金・預金はタンスにしまいこまれた。企業はリストラに精を出し、経済は停止した。

この危機を公共投資が回復させる。赤字国債の発行と大規模公共事業だ。医療・福祉に向かうべき資金も、企業救済を目的とする公共事業に回された。

94年から97年にかけての動向は微妙で神経質だ。大規模公共投資で上向こうとするがすぐ中折れする、という状況が繰り返される。今から考えると、資金不足の解消は見せ掛けだけで、ほとんど粉飾に近いものだった。オリンパスの飛ばし事件は象徴的だ。

そして97年だ。これを機に企業は自己資本と内部留保の積み増しにひたすら励むようになる。一方でオイルショックにもびくともしなかった資金調達能力は、坂を転げ落ちるように低下していく。

国民と企業の関係が、97年を機に様変わりしていることがわかる。それまでは国民から資金を集め、生産に投資しその利益により手元資金を生み出すという構造であった。しかし97年以降は国民から収奪し、それを手元に蓄えることにより企業が維持されるという構造になっている。国民の富は日ごとに失われ、ひたすらに企業へと移転されている。

そういう風に、このグラフを読み解いたが、如何であろうか?

実需取引の原則

為替の先物予約を行うときの原則である。
先物取引は「貿易取引(輸出入)や貿易外取引(投資)などの実需取引(キャッシュフロー)が背後にあるときに限られる」というもの。

外国為替管理法にもとづいて大蔵省令が発令され、為替先物取引を規制していた。
規制の根拠は、「実需を伴わない為替取引は投機につながり、為替相場の安定が損なわれる恐れがある」という考え方による。
これには欠点もあり、とくに企業が手持ち外貨を持たないことは、迅速な取引や契約に大きな制約となる。また為替変動に対する柔軟性がないため、為替リスクをまともにかぶることになる。

1984年4月に撤廃された。
要するに外貨不足時代の規制であり、時代遅れとなったことは否めない。しかしそれに変わり為替投機を規制する方策は採られないままだった。

現在では自由にいつでも為替予約が可能になったので、企業による為替投機取引も増加することになった。なぜなら為替リスクのヘッジをとる操作と、ディーリング操作には外見上の相違はないからである。

1985年のプラザ合意の後、劇的な円高が進行した。日本の機関投資家は膨大な為替損をこうむることになる。このときに先物為替予約のドル売りヘッジが爆発的に拡大することになる。

ということで、変動相場制に移行後も円安を続けられた制度的根拠として、目の敵にされたのではないだろうか。
大蔵省が反対したのも、高邁な理由というよりも、自己の権益が喪失することへの抵抗ではないだろうか。
もう一つはプラザ合意への布石としてみるということだろう。
ドル高につられてアメリカに吸い寄せられた日本のドルを、一気に半減させたのだから、アメリカとしては大成功だ。
二階に上げて、梯子をはずし、最後に突き落とすという寸法だ。ヘッジといっても二階から落ちてきた人に座布団1枚差し出すようなものだろう。


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