鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

「上達と発達、そして自己形成」という三題噺。何かしら有り難そうでしょう。


フィードフォワードはフィードバックの一種

前野隆司さんの一番言いたかったことは、本の一番最後の部分にあるフィードバックとフィードフォワードのことだろうと思う。

フィードフォワードについて、自分なりに整理してみた。ここから先は前野さんとはなんの関係もない、例によって酒飲み話です。

フィードフォワードの見た目は、フィードバックと違って、トライアンドエラーの枝がない。その分、仕組みがかんたんだから、処理スピードも速い。

フィードフォワードはフィードバックとペアーで語るようなものではなく、むしろフィードバックシステムの一部というか、例外規定として語るべきものなのだろうと思う。

いわば天に向かって枝葉を伸ばしながら突き出した杉の木を、枝葉を取り払って逆さまに地面に突き立てたような恰好をしている。

つまり、一種の逆向きフィードバックのシステムだ。

フィードフォワードの2つの弱点

フィードフォワードには2つ弱点がある。

一つはフィードバックで治験を積み重ねて、前もって「順モデル」を作り上げなければならないこと。これにはそれなりの手間ひまがかかる。最悪の場合は、「順モデル」が出来ないままに終わることすらある。

一つは経験になかった状況が生まれた場合は、一度モデルをご破産にしてフィードバックをやり直さなければならないということだ。


順モデルの形成と、その形成過程

ただその場合、まるっきりの御破算というわけではない。前回順モデルを作ったときの経験は十分に役に立つ。努力しただけのことはあるのだ。

人は、順モデルを作る過程を経験したことで、Way of Thinking を身につけたのだ。ここにモデルづくりのもうひとつの意義がある。

ここで私の主張の1つ目が出てくる。

順モデルの形成は、即自的にはスピードアップを始めとする技の「上達」を意味する。一方、順モデルの形成のための知恵を身につけるのは自己陶冶であり、長い目で見て「発達」のための重要な柱となる。

かくのごとくして、フィードフォワードと発達、自己形成の実践課題が一体のものとなってくる。


フィードバックがいらない2つの場合

フィードフォワードは前もって成功モデル作りの準備が必要だが、その作業は教育により代用できる。

良いコーチがいればフィードバックによる習得過程は大幅に短縮できる。場合によってはジャンプ・スルーできる。

AIの場合もスキルの習得は短縮されるが、教育の場合とは仕掛けが違ってくる。

それは最初からフィードフォワードのシステムとしてプランニングされている。そこにさまざまなフィードバック型の治験を押し込んでいくのだ。

これについては、この記事の中では触れないでおくことにする。


上達のモデルとフィードフォワード

これは別にどうという話ではないが、付け加えておきたいことがある。

前野さんは運動技能の上達に関わる神経系が小脳と書いている。これは明らかに間違いであり、基本的には頭頂葉と書くべきである。

運動技能は明らかに視覚系のシステムに依存している。座頭市や盲目のピアニストなどがいるが、おそらくバーチュアルな視覚機能を用いているのだろうと思う。

運動技能の習得はたんなる視覚ではなく動画的把握が求められる。動画的把握というのは、対照が何処から何処へどのくらいのスピードで移動するのかの把握である。

この動きを動画記録して、記憶装置に入れ込む。そしてこれに応じて身体反応の動きも把握することになる。

これが運動イメージとなる。小脳はこのイメージを受けて筋肉への割り振りスピードの調整などを行う。

こういう大脳頭頂葉と小脳の協調が運動の熟練やマスターの内容をなす。これほど広範な各システムの連携だから、逆に言うとかなり広範に応用が効くのである。

こういうフィードバック→フィードフォワードの繰り返しは、人間の成長の営みを形成する。

一つの行為は積み重なることによって実践となる。それは基本的には多くの人間に共通するのだが、営みではあるが、その組み合わせや頻度は各個人によって異なったものになる可能性がある。

これが能力の発達に伴う個性の発現につながり、Ways of Thinking が Way of One's Life へと収束されていくのではないだろうか。

本日の赤旗、一度読み流してしまったら、何処にあるのかわからないような記事。
14面の社会・総合面という雑然とした紙面に埋もれてその記事はあった。
見出しは
隕石から糖分子検出
サブ見出しが
地球初期、生命の材料に
というもの
主な内容は
隕石の分析で「リボース」が検出されたという情報。
その隕石は2つ。一つはオーストラリア、もう一つはモロッコで発見された。
いずれも40億年以上前に小惑星帯から飛来したもの。(その根拠は明らかにされていない)
これを日本の研究施設(複数)が分析して、そのなかに「リボース」を発見した。

じつは記事の情報そのものより、記者のちょっとした追加情報が面白い。ちょっとしたというが、短い記事の中によくこれだけの情報を詰め込んだなと感心するくらい密度が濃い。

1.40億年前の太陽系

太陽系は46億年前に形成され始めた。超新星爆発で散らばった星間物質がふたたび集まって形成されたと言われる。
45億4000万年前に地球が誕生した。その頃太陽系の外側から冷えてきて、水素化合物が凝集し固体となったためである。
40億年前前後に「後期重爆撃期」があり、小惑星帯から大小の隕石が降り注いだ。

と、ここまでは私がウィキペディアから拾って突っ込んだ記事。

2.原始生命飛来説

現在は、この隕石に乗って生命の材料となる有機物が飛来したというのがほぼ定説になっている。ただしそれだけでは結論を先送りしただけで、隕石の故郷でどのようにして有機物が形成されたかの問題は謎なのだが…

もう一つはどのレベルの原始生命が来たのかも議論の的になっている。有機物が来たことまでは一致するが、アミノ酸についてはいまだに議論が分かれる。タン白や核酸までは流石に無理だろうというのが大方のところだ。

今回の発見は、そのギリギリのところまで迫った研究だから相当の話題になるだろう。記事では東北大学の先生の談話を引用している。
地球外の糖分子が生命の材料の一部となった可能性がある。
そこまで行くと、「材料の一部」と言っても言外に「生命外来」説と受け止めたくなる。

3.リボースの発見とその意義

ここがこの記事の環である。
現在のほとんどの生物はDNAが遺伝情報を担い、RNAが補助してタンパク質を作りますが、
地球初期の生命は、RNAがDNAとタンパク質の両方を担っていた。
…リボースはこのRNAを構成する主要な糖分子である。
と書かれている。

実はこの話は初耳だ。

先日、RNAについては勉強したが(文末に記事一覧あり)、RNA起源説についてはいろいろ弱点も多く、むしろタン白が先で後から作成情報をRNAに預けるようになったのではないかという説のほうが有力なように感じていた。

そもそも、リボゾームという構造が宇宙船の如き構造で、あまりに立派なもので、これがどう作られたのかという謎を解かないと、“使いっぱしりRNA”の意義もわからないのではないかと感じていた次第である。

それにリボースという多糖が怪しい。「リボース(Ribose)は糖の一種で、五炭糖、単糖に分類される」と書いてあるが、その絵(下図)がメチャクチャだ。
D-リボース
{{{画像alt1}}}
フラノース環 (五員環)
{{{画像alt2}}}
ピラノース環 (六員環)
{{{画像alt3}}}
     鎖状構造
    Wikipediaより
なんでこれが一つのグループなのか、私にはさっぱり飲み込めない。端的に言えば核酸の塩基とくっつけるものなら何でもいいということみたいだ。こんなものに生命の源を仮想するのはどう考えてもおかしい。

4.核酸は生命そのものではない

それと核酸というのは生命の“マーカーの集合”であり、生命そのものではない。
「生命というのはタンパク質の存在のあり方」(どうでもいいのだが、一応エンゲルスの言葉)である。核酸の存在のあり方ではない(エンゲルスは核酸など知らない)。

真実を書いた素晴らしい本であっても、本から真実が生まれるわけではない。このアタリマエの事実を踏み外してはならないと思っている。

したがって、この説には現在のところ素直には従えない、というのが率直な感想である。
しかしそれにしても素晴らしい記事で、刺激になった。朝日新聞よりはるかに高水準である。ありがとう。

5.付録 RNA=生命の起源説の歴史

私の以前の記事からピックアップしたものです。

1953年 S.ミラー,始原の大気に相当するメタン,水素,アンモニア,水蒸気の混合ガスを入れたフラスコ内で火花放電をさせ,簡単なアミノ酸をつくりだすことに成功。

1969年 オーストラリアに「マーチソン隕石」が落下。100 種近いアミノ酸が同定される。

1980年 化学反応を触媒することができるRNA分子が発見される。RNA触媒(リボザイム)と名付けられる。

1986年 ウォルター・ギルバート、RNAワールド仮説を提唱。リン脂質を合成するリボザイムができ、細胞膜に包まれたリボザイムが出現、さらにタンパク質やDNAを合成するリボザイムも出現した。

1999年 フリーマン・ダイソン、「ゴミ袋ワールド仮説」
オパーリンのコアセルベートのような原始細胞状構造体が多数できた。そこに自己複製するRNAが取り込まれ、共生するようになった。
これでミトコンドリアも葉緑体もみな説明できる、まさにゴミ袋だ。

下記もご参照ください


前野さんの主張は多岐にわたっており、そう簡単にまとめることは出来ない。

ただ、私の主張に惹きつけて見るなら「心」というのは思考過程のごく特殊な一部だと言うことだろうと思う。

「思考」という行為は、自然に思いが浮かんで来るということではなく、目的を持った過程である。

それは目的により規定された過程だ。そしてその目的が内観的・内省的な方向に向けられたとき、そのような思考過程を「心」の過程と捉えることになるのであろう。

一方、思考過程の多くは自己以外の対象に向けられている。思考というのは意識的な過程であるが、その数十倍、数百倍の頻度で無意識的な過程が営まれている。

この思考過程(意識的か無意識的かを問わず)は、いうまでもなく身体的活動過程の一部である。

人間は1日24時間の活動のほとんどを思考以外の活動に費やしている。

だから自己に向けた内観的な「心の活動」は、意識的な思考活動の一部であしかなく、脳みそを使う活動の中のほんの一部でしかない。

同時にそれは人間の諸活動の中ではほんの一瞬を占める活動でしかない。

これが脳の能動的活動の全体的なアーキテクチャーなのだろうと思う。

ここでは「心」の活動を思い切り絞り込んで定義しているが、もっと曖昧な「心持ち」とか、もっと広く定義することもできよう。しかしパソコンに出来ないような心の活動に絞り込もうという前野さんの意見には大いに賛成である。

前野さんは「心」というのは錯覚だとか誤解だとか言っているが、それはちょっと極論で一種のたとえであろうと思う。
「自分に向けられた、自己を対象とする思考」などという行為は、膨大な日々の人間的活動の中ではきわめてちっぽけな割合しか占めていない。
そこが「心」を考える上での最大のポイントだ、というのを強調するためであろう。

正確に言えば、「心」の活動は決して小さいものでも、とるに足らないようなことでもない。なにせそこから哲学は出発するのだから。

問題はそういうことではなく、それ以外の脳の活動の分野がギガとかテラというレベルで、べらぼうに大きいという事実を踏まえることなのである。


前野さんの最大の理論的功績はフィード・フォワード理論の拡張と、これによる自己意識の形成への道のりなのだが、これについては明日また考える。
たぶん時間軸の導入によりダイナミックな形成過程論を展開できるのだろうと思うが、これは視覚と記憶の問題が深く関わってくると思う。


私がギリシャの自然哲学をまとめて勉強したのには理由がある。
それは前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」という本にたいへん心惹かれたからである。
私のブログを読んでくれている人には分かってもらえると思うが、私は「三脳原基説」を唱えている。
別に独創的な考えではないが、大脳から脳を考える逆立ちした発想に我慢がならないのだ。とりわけマクリーンの「辺縁系」理論にはムカついてしまうのだ。
脳科学者と称する人の妄言にも鳥肌が立つ。あれなら能見正比古の血液型人間学のほうが遥かにマシだ。

脳の進化の歴史ははっきりと教えている。神経管の先端が膨らんで前脳・中脳・後脳を作った。
そのなかで前脳だけが神経内分泌の中枢と結合した。それが視床と視床下部だ。
ここで脳の知覚→運動の連鎖とこれに情動を結びつける「心」の働きが始まった。
だから情動そのものは大脳の発達よりも先行している、とも言える。

ただ「心」は、脳の発達に階層性があるのと同様に階層性がある。ここを知能と結びつけながら、前野さんはかなり掘り下げてた。
だから前野さんの言う「心」は、悟性とか理性とか知性という観念に踏み込んでいる。

だから、こちらにしっかりした「心」の範疇や概念がないと振り回されてしまうなと考えたのである。
哲学に観念論を持ち込み思考をストップする人々との戦いは、むしろ哲学の外の場で争われてきた。この闘いに頭はいらない、必要なのはガッツだけだ。

しかし議論の場に密かに唯名論を持ち込み相対主義の混沌に引きずり込もうとする手合に対しては、厳しい頭脳戦が求められる。
そこで私は、イオニア学派の自然哲学を大づかみにして、自分の座標軸を据えようと考えた。

前野さんのこの本は2003年の出版だ。私は16年前の前野さんに出会ったことになる。そのころの彼はきわめて颯爽としていた。

最近の前野さんの著作を題名から推察すると、もはやその辺の「脳科学者」に成り下がっているようだ。茂木某などの手合にもてはやされて逆上せ上っているのだろうか。日本という国の文化的貧しさの犠牲者かも知れないが、無残である。大変遺憾に思う。


ついで、人名をウィキペディアで追っていくこととする。
彼らの主張は、「ディールス・クランツの断片集」としてまとめられている。

紀元前6世紀  ミレトスのイオニア人社会で自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。タレスは万物の根源(アルケー)は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。
さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。
この辺は、小学校の教室で生徒が次々に手を上げて考えを述べるのに似ている。

略歴をウィキペディアその他から抜き出した。

タレス

紀元前624年頃 - 紀元前546年頃の人。フェニキア人の名門の家系であった。
イオニアに発したミレトス学派の始祖である。
タレス自身の著作は残っておらず、言及した断片から推察する他ない。

彼は万物の根源を水と考えた。
存在する全てのものは水から生成され、やがて水へ回帰していく。万物はDefiniteだが水はUndefiniteである。世界はUndefinite からDehfinaiteされ、やがてUndefinite へと回帰していく。
世界は水からなり、大地は水の上に浮かんでいると考えた。

第一に、「万物の根源は水である」というのは誤りだが、「万物の根源とは何か」という問いを立てたことに功績がある。つまりタレスは最初の回答者ではなく、最初の質問者として意味を持つのだ。

第二に、物質のあり方を、より混沌系で自由度の高いあり方に還元しようとしたことである。固相より液相という還元は非常に本質をついた提起である。ただし液体には形がない。物事を「形あるもの」と考える限り、精霊が宿ることのできない「形なきもの」との往来は素直には頷けないものがあろう。

液相というのは4つの特徴を持つ。
1.可塑性: 「溶けて流れりゃみな同じ」という融通さ
2.相転移の容易さ: 相としての熱エネルギー保持
3.流動性: 流体としての力学エネルギー保持
4.溶媒: 固化だけでなく析出という形で個体の源となる。

これだけでもタレスの水=アルケー論はきわめて優れていて、発展的で多方向的である。

アナクシマンドロス

アナクシマンドロスは紀元前570年頃の人。彼の言葉は断片が伝えられている。
アナクシマンドロスは、万物の根源は「無限なもの」であるとし、それは宇宙に秩序を与えていると説いた。

存在するもの “Da Sein” は時の定めに従って、生成してきたところへ戻り、消滅する。これは必然的である。
万物の根源は「無限なもの」である。そして無限なものの本性は、永遠である。

アナクシマンドロスの言葉は解釈が難しい。一見、タレスからの退歩にすら見える。しかし彼の言う「観察不可能で限定できないもの」(アペイロン)は時間軸そのものを指しているように思える。タレスは事物を空間的自由度を上げることで、事物をより根源的で未定型なものに還元しようとした。

それとおなじように、アナクシマンドロスは事物を時間軸の上において時空的自由度をあげようとしているのではないか。
そして事物を時間微分像(時間軸上の旅人)と描き出すことで、シンボル化とエネルギー付与作業を果たそうとしている。

ただしこれは高度に抽象的な操作になるので、唯名論的な方向にバイアスを受けやすい。それをヘラクレイトスがしっかり受け止めて万物流転につながったとするなら、その意義は大きなものになるのだが…

アナクシメネス

アナクシメネスは万物の根源を「空気」だと考えた。
私たちの魂は空気である。その魂が私たちをしっかりと掌握している。
それと同じように、気息と空気が宇宙全体を包み込んでいるのだ。
これはタレスの二番煎じとしての側面がある。「液体がアルケーなら気体はもっとアルケーだろう」と考えたのだろう。そんなことは少なくとも現代ならすぐに考えつく。

ただ問題は、おそらく当時の人は「空気は空っぽだ」と思っていただろうということだ。つまり「無が有の根源」だと主張している理屈になる。
だから論理的には容易い一歩であっても、常識的にはかなり受け入れにくい説ではなかっただろうか。

アナクシメネスは次のように語っている。
空気は物質を持たないもの、すなわち無に近い。
しかしそれは同時に、無限であって豊かであるはずだ。なぜなら私たちはこの空気が流れ出ることによって、生じるにいたるのだから。
そしてそれは絶対に尽きることがない。
三点セットでミレトス派哲学を見る

この3人を含め、古代ギリシャの自然哲学者たちは、素朴な唯物論者であり、人間も自然の一員であると認識していた。

ミレトス以降の自然哲学

ヘラクレイトス 
紀元前540年頃~480年頃

哲学者は「万物の根源とは何か」を探求してきたが、彼はその議論を、「世界とは何か」の問いに発展させた。

ヘラクレイトスは世界は「在る」ものではなく、「成る」ものだと考えた。

世界は対立するものの調和によって、変化しつつ、その時間ごとに「成立」していると主張した。
人は同じ川に2度入ることはできない。なぜなら、われわれは存在するとともに、存在しないからである
「火」は絶えず変化しその姿を変えながら、火としての特質を保持し続ける。したがって「火」は幻ではない。
世界は「永久に生きる火」である。

ヘラクレイトスは弁証法を貫くことで唯物論の立場に身を置いた。

パルメニデス

反自然哲学派のエレア派を代表する哲学者である。紀元前515年頃 南イタリアの植民市に生まれる。エレア派はピタゴラスの「すべてのものの根源は数字である」という流れを汲み、一種の唯名論の立場に立つ。その議論は抽象的で主観的であり、要するに良く分からない。

ヘラクレイトスを批判し「有るものはあくまでも有り、無いものはあくまでも無い」と主張。
なぜなら「存在するものが存在しなくなり、ある存在が他の存在になる」というヘラクレイトスの論理は不可能である。
川は川であり、水が流れていても川は川として変わらず存在している。
のだから。

しかしこれは反論になっていない。なぜならヘラクレイトスの主張の含意を理解していないからだ。

ヘラクレイトスはパルメニディスのような考えを否定しているわけではなく、それを受け入れた上で、「でも中身は変わっているだろう」と言っているのだ。

デモクリトス

紀元前460年頃~370年頃
エーゲ海北岸のトラケアに位置するイオニア人の植民地アブデラに生まれる。この街はペルシャの支配を嫌ったミレトスの人が移住したことで知られる。
最後の自然哲学者で、イオニア哲学の流れをくむ。

ウィキペディアの「デモクリトス」の記事で「イドニア派」という表記があり、多くの日本語文献がこれを踏襲しているようだが、英語にはこのような言葉はない。「イオニア派」の誤植ではないか。

ソクラテスよりも後に生まれているが、その影響は受けていない。

デモクリトスはエレア派の「あるものはどこまでもあり、あらぬものはどこまでもあらぬ」とするドグマと対決する。

彼は、無限の空虚(ケノン)の中に、目には見えない物体が満たされていると考えた。そして「あるもの」として実体のみならず、「空虚」もあるものとして考えることで、実在と認識をめぐるジレンマを克服した。

そして、小さすぎて目に見えず、それ以上分割できない「原子」(アトム)が、空虚の中で運動しながら、世界を成り立たせているのだとした。

あらぬものは、あるものに少しも劣らずある。

これがデモクリトスの結論である。
こうして認識の相対的限界に規定されない、運動や実在の枠組みを原子論として構築する。実に見事である。

デモクリトスのもう一つの理論的前進は、「無意味な必然である原子が、感覚や意識、さらに魂も形成する」という徹底的な実在的価値観だ。

これに何故、なんとも不格好な快楽主義がくっついてしまうのか不思議だが、これについては無視。

5+1で覚えておけば良い

つまりミレトスの御三家と、その衣鉢を継ぐイオニア派のヘラクレイトスとデモクリトスと覚えておけばよい。+1というのはエレア派のパルメニデスで、この人がヘラクレイトスとデモクリトスの間に入ると納まりが良い。




その後調べていくと、外すわけには行かない功績のある哲学者が何人かいる。とりあえず番外として上げておく。

アナクサゴラス Anaxagoras

紀元前500年頃 - 紀元前428年頃

イオニア出身。紀元前480年、アテナイに移り住み、科学精神を持ち込んだ。

物体は限りなく分割されうるとし、この無限に微小な構成要素を「スペルマタ」(種子)と呼んだ。

ごちゃまぜだったスペルマタは「ヌース」によって整理され、秩序ある世界ができあがった。

(ヌースは理性と訳されているが内因と捉えるのが適切であろう)

ヌースが原因となって、原始の混合体は回転を初めた。それはある一点から始まり、遠心作用で拡大した。
(ビッグバン理論を思わせる)

太陽は「灼熱した石(に過ぎない)」であると説き、太陽神アポロンへの不敬罪に問われ、アテネを追放された。


アルケラオス

アナクサゴラスの弟子で、自然学をイオニアからアテナイにもたらした一人である。

最も過激な意見は以下のもの

生物は土から生まれる。最初の人間もそのようにして生まれた

正しいことや醜いことは自然本来にはなく、法律や習慣によって生じる。


アポロニアのディオゲネス

紀元前460年頃の人。トラキアのミレトス人植民地出身でアテネに移った。

アナクシメネスの空気=起源論を引き継ぎさらに強調。空気は必然的に意識に宿っていると主張。

かなり原子論に接近している。


レウキッポス Leukippos

紀元前440-430年頃 

ミレトスに生まれ、エレアに赴いてパルメニデスに学んだ。

その後デモクリトスの師として原子論を創始した。

1.事物の総体は限りがない

2.宇宙のすべては虚(Kenon)と実(アトム)からなる。

3.アトムは虚に放出され他のアトムと関係する。

4.アトムが集まると渦を生じ、形の似たもの同士が結びつき、物体を生ずる。

レウキッポスの偉いのはイオニア哲学の嫡流でありながら、わざわざエレアに赴いてパルメニデスに学んだことである。
すでにイオニア派の雄アナクサゴラスがアテネに衝撃のデビューを果たし、哲学界を席捲している。ミレトス派の最大の論敵から謙虚に学ぶということはなかなかできることではない。
おそらくパルメニデスのヘラクレイトス批判が相当応えていたのだろう。
こうやってヘラクレイトスを止揚する形で「原子論」を立ち上げたのならば、それはいわばギリシャ古典哲学の粋を集めた理論だったのではないだろうか。
そして、レウキッポス→デモクリトスの原子論がギリシャ古典哲学の最高の到達だとすれば、プラトンの哲学というのは何なのだろうか。それはソフィスト哲学の集大成でしかなかったのではないか。
(すみません。アルコールが入るとつい、だいそれた事を言ってしまいます)


それでウィキペディアで自然哲学の概要をつかんでおきたい。

まずはウィキペディアの「ソクラテス以前の哲学者」の項目

哲学者の多くは、自然と宇宙を自ら思索の対象とした。
彼らは擬人的な神話による説明を排除し、より一般化された非擬人的な説明を求めた。
自然哲学は、宗教から離れ哲学、さらには科学へ至る考え方の転換点となった。

自然哲学は「宇宙はなにから生じるのか」を思索し、次に個別の現象を説明しようとした。
現象については、その現象が生起する原因、現象が生じる機序、その現象を統御する原理が求められた。
その統制原理は「ロゴス」と呼ばれた。
自然現象への問いは、宇宙の究極的構成原理としての原子を仮定するに至った。そして原子の機械論的運動で世界を描像しようとした。

哲学者たちが提示した答えのほとんどは真実とは受け取られなかったが、彼らが答えを求めようとした質問、さらに問いを立て探求するという態度はそのまま受け継がれた。

次が「イオニア学派」の項目

イオニア学派は自然哲学の嚆矢として知られる。
彼らは知覚的な情報を元に、自然・万物の根源である「アルケー」を様々に考察した。

イオニア学派に分類されるのは、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アポロニアのディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどである。

イオニア学派のうちの何人かは「ミレトス学派」と小区分される。

ついで、「ミレトス学派」の項目


紀元前6世紀  ミレトスで自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。

万物の根源=アルケーを追究することを目的とする。

タレスは万物の根源は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。

さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。



ウィキペディアの3つの項目を読んでもさっぱり姿は見てこないが、そういうものなのだろう。

ギリシャ哲学の根っこはソフィストたちの議論の中にあると思って勉強し始めたのだが、どうもそれ以前のミレトスの自然哲学こそが大もとで、議論の論点はすでにそこに出尽くしてるのではないかという気がして、作業が止まってしまった。

そこで、そちらの仕事はとりあえず脇において、ミレトス学派の勉強に取り掛かることにした。

実は、最近「脳はなぜ心を作ったのか」(筑摩書房/2004年)という前野隆司さんの本を読んで、えらく刺激になったのだが、感想があまりに莫大すぎて、どうもまとめようがなくて困っていたところだ。

とりあえずの結論は「哲学しなければいけない」ということだったが、まさにそれがミレトス学派の課題でもある。

そこで、まずこの付近から問題意識を整理していくのが良いかなと思いついた次第である。

「壮大な挫折」に終わるかも知れないが、まずは手を付けてみよう。

まずは背景事実の整理から。

イオニア人とミレトス地方

歴史的/地理的把握
ギリシャ人の南下

世界の歴史まっぷ」というサイトにわかりやすい図があったので転載させていただく。

この絵からわかることは、

1.ハンガリーあたりから北方系の人が南下してきて、ギリシャ半島からエーゲ海に進出し、さらにトルコ(小アジア)の西岸に植民したということだ。

2.南下の波は2回あって、最初が紀元前2千年頃、2度めが紀元前1200年ころだ。最初に南下した人々はギリシャ半島にとどまり、アテネやスパルタなどの都市国家を建設した。
あとから南下した人々は、3つのグループに分かれ、さらに小アジアへと進出した。
しかしこの図からは、彼らが半島を素通りしてエーゲ海へと赴いたのか、それとも例えば半分は半島に残り、残りの半分が進んだのかは分からない。また先住者との関係が友好的だったのか敵対的だったのかも分からない。

3.南下した人々は、おそらく言語的特徴により、3つの地域的グループに分かれた。
エーゲ海の北半分を占めるイオニア人、南半分を占めるドーリア人、またトロイア周辺にはアイオリス人の集団が居住した。
それ以外に、半島の主部には西北方言(アカイア語)をしゃべる雑多な群の人たちが居住していた。
これらのグループの入植順や優劣関係などはこの図からは判定できない。
しかし、良く出来た分かりやすい図である。
ここには掲げないが、もう少し詳しい地図もあって、それではアイオリス人がテーベを中心とするギリシャ半島の主部を支配し、イオニア人の世界にくさびを打ち込む形でトロイアにも進出しているように見える。
想像するに、南下の順はドーリア人、イオニア人、最後に最強のアイオリス人ということではないだろうか。

この点に関して、歴史書の記述はかなり様相を異にしているが、今はその点にはこだわらない。


イオニアとフェニキア人

イオニアはイオニア人が住むからイオニアという身もふたもない話だが、アテネのイオニア人が入植してできたポリス群である。そしてその最大のものがミレトスということになる。

それではイオニア人はなんの軋轢もなしにイオニア地方を手に入れることができたのだろうか?
この辺も、また分からないところである。

そこでまた「世界の歴史まっぷ」のお助けを乞う。
フェニキア人とイオニア

この図でわかることは、

1.第二期のギリシャ人の大移動が終わったあと、連続して地中海各地への進出/植民が始まったこと

2.進出を担ったのは南部、西部へのドーリア人、東部、黒海方面へのイオニア人であり、イタリア半島南部へはアカイア語グループが進出したことである。

3.フェニキア人はすでに制海権を奪われ、寸断されている。ギリシャの卓越した海軍力が伺える。

4.居住地の色分けと進出路の色分けが一致しないのは、解釈のしようがない。他の図を参照する必要がある。

5.この時期にアイオリス人の活動が見られないのは、紀元前1200年頃に起きたとされるトロイ戦争の影響があるのかも知れない。


イオニア人社会におけるミレトスの位置

前11世紀に創建された。最初はクレタ島からの移住者と先住のカーリア人により構成された。

紀元前1千年頃にアテネに征服され、その植民都市となったが、のちにミレトスそのものが80以上の植民地の拠点となった。

前8世紀半ば、イオニアでホメロスの詩編が成立したとされる。

ギリシア語のアルファベットは、前800年頃にフェニキア文字を借りてミレトスでつくられとされている。エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入した。

前6世紀 タレスらミレトス学派を生み、文化の中心となる。

前6世紀に隣国リディア、次にペルシアに服従する。

前500年にペルシア帝国に反乱を起こし、前494年にラデー沖の海戦に敗れて陥落。街は徹底的に破壊された。

この後文化・哲学の中心はアテネに移っていく。


なぜミレトスは自然哲学を生んだのか?

ミレトスの三賢人の思想は自然哲学として一括されているが、人類史に引き寄せてみれば、それは「科学哲学」と呼ばれる方がふさわしいと思う。

事物の根源を突き詰めるということは、科学の精神そのものである。
彼らはまさに「科学して」いたのだ。

もう一つは科学が否応なしに持つ批判精神である。それは既存の常識に対する挑戦であるから危険も伴う。

ミレトスは紀元前1千年から500年にかけて世界の交易の中心であり、知識の集結点であり、人種と文明の交差点であり、自由と平等の街であった。

一言で言えば無国籍都市であった。だからコスモポリタンの発想が支配したのだ。
自然哲学の祖タレスはフェニキア人の出自である。

ミレトスはギリシャ文字を生み出し、ホメロスを生み出した。そして神話の否定者をも生み出したのである。

縄文前期と呼ばれる紀元前5千~6千年頃、満州から沿海州にもかなりの土器文化が認められる。それは熱河省まで及んでいる。
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特徴としては平底であること、網目様文様が施されていることであり、日本の縄文様式と類似している。

しかしこれらの土器文化を担った人々は明らかに日本人と異なる。この頃すでに日本人=縄文人の主体はD2とC1の混血であろうと思われる。

したがって消去法で考えれば、この極東文化の担い手は、今もこの地に住むC2群であろうと思われる。

これらの事実はY染色体ハプロC2群とD2+C1群の相互浸透を強く示唆している。

ただその相互作用が、いかに形成されたのかは不明である。

とくに謎となっているのが、この時期における朝鮮半島の土器文化の「空白」であり、九州南部に1万年前に出現し、鬼界カルデラの噴火を以って消滅した超早期縄文文化の由来である。

この点に関して積極的な意義を持つ論文を見つけた。

イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)

この論文によると、紀元前5世紀の環日本海的減少は、海洋適応(maritime adaptation)と言うのだそうだ。

ロシアで「アムーリア」と称される大領域がある。アムール河口域・オホーツク海・日本海・日本列島の全域を包摂する領域で、この領域の自然が「海洋適応」を生み出したらしい。

「海洋適応」は縄文時代前期(BP 6500~5700 年頃)に著しく進んだ。同時期に生じた海進(marine transgression)と関連するであろう。


京都外語大学ラテンアメリカ研究所主催の「ベネズエラをめぐる状況」講座でのフロア発言
べ講座

2日間の議論、本当に面白く聞かせていただきました。
参考になるかどうかわかりませんが、ベネズエラを取り巻くもう一つの国際環境として、非同盟諸国首脳会議でのベネズエラ評価に関して発言させていただきたいと思います。
ベネズエラはこの間まで非同盟諸国首脳会議の議長国だったのですが、9月のバクー・サミット宣言でも間接的に言及されています。
それが人権に関する考え方です。

アメリカや西欧のメディアを念頭に置いていると思うのですが、人権、人権というが、いちばん大事なのは生きる権利だというのです。
そして今一番世界で危機にさらされているのも生きる権利だと言うのです。

その理由は、経済的不平等がかつてなく進行しているからです。

私達にとって重要なことは、2019年秋の時点で、世界の国の過半数を占める百数十カ国の首脳がこのような人権観で一致していること、それが共通の意志として宣言されているということです。

政治的・思想的自由の権利表現の自由などの権利も重要なものであり、それが遅れた国ではしばしば軽視されていることも間違いありません。

しかし同じように先進国も、遅れた国のこのような人権状況を無視し、人間開発・社会開発の権利を軽視しているのではないでしょうか。

ベネズエラ問題を考える際、「人権」というのがキーワードになっていますが、このような人権観の枠組みの違いが先進国と途上国との間に横たわっています。

一方的な審判、指弾ではなく、共通の思いの形成を検討の基盤に置くべきではないか、ということを指摘させていただきたいと思います。



紀元前700年代 ギリシャ各地にポリス制社会が誕生。ギリシャ文字とゼウス信仰を共有。
ギリシャ文字は紀元前800年代にセム語系のフィニキア文字から案出された。

前750年頃 ギリシャ語で書かれた叙情詩『イリアス』と『オデュッセイア』。吟遊詩人ホメーロスによって作られたとされる。

前700年頃 詩人ヘシオドスが勤勉な労働を称える『仕事と日』を著す。ヘシオドスとホメロスはカルキスにおいて詩を競ったとされる。

前古典期BC657年?508年

前639年 ソロンがアテネで生まれる。

前624年 タレースがイオニア地方のミレトスで生まれる。

ミレトスで自然哲学が始まる。宇宙を構成する物質の根源(アルケー)を探求し、それが水であると指摘。タレス自身の著作は残っていない。

紀元前594 メガラとの戦いに勝利したソロンが、アテネの執政官に選ばれる。「ソロンの立法」により民主制の基盤が定まる。

その後ソロンは後継者ペイシストラトスに対抗しキプロスに追放される。

500年代 ペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)が、『イリアス』や『オデュッセイア』を文字に写す。今日の形にまとめられたのは紀元前2世紀のアレクサンドリアとされる。

前582年 ピタゴラスが生まれる。万物の根源は数であると主張。移住先のシチリアでピタゴラス教団が設立される。

544年 ヘラクレイトスが生まれる。「万物は流転する」とし、「万物の根源は火のように絶えず変転し、エネルギーを生み出す」と説く。

紀元前507 クレイステネスの改革。僭主ヒッピアスをアテナイから追放し、貴族階級を解体。全市を10区(デーモス)へと再編成する。
さらにオストラシズム(陶片追放)と呼ばれるリコール制度を創設することで独裁の復活を阻止する。

古典期BC490年?404年

民主政のもとで、人間と社会、国家(ポリス)のあり方に哲学的関心が向かう。

前500年頃 クセノパネスが活躍。

紀元前499年 イオニアがペルシャに対し反乱。50年に渡るペルシア戦争が始まる。ペルシアは50年間、4回にわたりギリシア遠征を繰り返す。アテネがデロス同盟の盟主となる。

前497年 ピタゴラス、異端とされ追放の末死亡。

紀元前490年 ペルシャ、ギリシャへの遠征を開始。

紀元前490年 マラトンの戦い。第三階級である農民階級が、鎧や盾などを自弁。重装歩兵団の密集戦術(ファランクス)によってペルシアの騎兵隊を撃破する。

485年 プロタゴラスがトラキアで生まれる。アテネで授業料を取って弁論術を教授。最初の成功したソフィストとなる。

他にゴルギアス、アルキダマス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノスも活躍。
「人間は万物の尺度である」とし、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なるという相対主義を主張。

前480年 ペルシャが二度目の進攻。テルモピュライの戦いでレオニダス王ら300人のスパルタ兵が壊滅。

前480年 アテネがサラミスの海戦で勝利。無産階級が三段櫂船(ガレー船)の漕ぎ手として勝利に貢献する。

前479年 プラタイアの戦い。ヘラス同盟軍がペルシャ軍を撃退。このあと大規模な戦闘はなし。

前478年 デロス同盟の盟主アテネが最盛期を迎える。

アテネはギリシア各地から人びとが集まる。アテナイの全市民(男子)が民主制のもとで平等の参政権を持ち、雄弁が力の源となる。イオニアやシチリアなどのギリシア世界の周辺部からおおくの雄弁家が集まり、弁論の作法を教えるようになる。

469年 ソクラテスが生まれる。

前460年 デモクリトスが生まれる。最後の自然哲学者として「万物の根源は原子であり、一定の法則によって動いている」と主張。

前5世紀中旬 イオニアのアナクサゴラスがアテネに移住。自然哲学を持ち込む。

前449年 ペルシャ、ギリシャ支配を断念。カリアスの和約を以ってペルシャ戦争が終わる。

前446年 スパルタとアテネ、「30年の和平条約」を結ぶ。

前440年 ヘロドトスが『歴史』を著す。生涯の内にアテネ、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅した。

431年 ペロポネソス戦争が始まる。30年にわたり断続的に続く。アテネは衰亡の道に入る。

430年 疫病が蔓延し、両軍兵力の三分の一が死亡。

評議会にデマゴーグ(煽動的民衆指導者)が出現し、国策が歪むようになる。ソクラテスは「衰退の要因は相対主義を主張するソフィストにある」と批判。

前430年 ソクラテス、ソフィストを相対主義の詭弁家とし、徹底したディアレクティケ(ディベート)によって真理を追求。

プロタゴラス、『神々について』を著す。「神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。(なぜなら)人間の生が短く、知るには障害が多いから」としアテネから追放される。

ソクラテスの影響を受けたアルキビアデスがアテネの権力を握る。非民主的なやり方で市民の反感を買う。

423年 アリストファネスは「ソクラテスが最もあくどいソフィストだ」とからかっている。

前415年 一旦収まったペロポネソス戦争が再燃。戦いはスパルタ優位で推移する。

404年 アテネがスパルタに降伏。ペロポネソス戦争が終結。アテナイにはスパルタの意を汲む「三十人の独裁政権」が樹立される。

399年 アテネで内戦の末独裁政権が崩壊し、「民主制」が復活する。

399年 ソクラテス(70歳)は民衆裁判所で裁判にかけられ殺される。ソクラテスは非民主制であるスパルタを礼賛したという。

「悪法も法である」と言ったとされるが、悪法は、厳密に言えば、法ではない。

前395年 スパルタへの反感が強まる。コリントス戦争が開始。

前387年 コリントス戦争がアテネ=テーベ連合の勝利に終わる。小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配に入る。その後もギリシャのポリスは内紛を繰り返し衰微していく。

前356年 アレクサンドロスが生まれる。

前338年 カイロネイアの戦い。マケドニアががアテネ=テーベ連合を撃ち破る。


生活保護の最近の数字で、本日の赤旗からコピーしたもの。
8月時点の厚労省調査の報道だ。

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1.受給世帯数は163万件。前年同期より2千件減少でほぼ横ばい。

2.内訳では、高齢者が1万5千件増えた。その分母子・失業者などが減っていることになるから、かなりの変動だ。

ここ数年のうちに100万世帯150万人の高齢者が生活保護で暮らすことになってしまう。

生活保護が貧困者の年金として利用されるのは筋違い

直接には、扶養者、あるいは扶養義務者の貧困化がもたらしているのであろうが、ここまで来ると自助・共助の枠組みを明らかに超えている。

そもそも生活保護というのがとんでもない筋違いだ。

幻の「セーフティー・ネット」

かつて小泉内閣で「聖域なき構造改革」が謳われたとき、竹中大臣は「セーフティーネットはしっかり張ってあるから」と豪語したが、結局それは生活保護でしかなかったということになる。というより、「セーフティー・ネット」などまったく張らず、「張った」と嘘をついただけだっということだ。

お年寄りが安心して暮らせるようにすることは、国民の権利であり、政府の義務である。お年寄りの殆どはすぐる大戦で大きな苦労をされ、戦後復興や高度成長に貢献されてきた人たちであり、人さまに後ろ指さされるような暮らしをしてきたわけではない。
最後の10年や20年、笑って過ごしてもらいたいものだ。それしきのお金が日本にないとも思えないし、日本人がそれほど薄情になったとも思えない。

何らかの形の「貧困高齢者向けの年金制度」の創設が求められている。

綱領改定案(世界情勢論)について

2004年綱領は、20-21世紀論を中核としていた。その根本的立場は今日も正確で有効だ。
改定案はそれを引き継ぐとともに、さらに発展させる。


世界情勢に関する3つの見直し

第一に、21世紀論の具体的展開
具体的には、
①核兵器廃絶にむけた新たな前進、
②平和の地域協力の流れの形成・発展、
③国際的な人権保障の新たな発展

第二に、いわゆる「社会主義国」問題
全面削除、および世界情勢論の全体の組み立ての一定の見直し。

第三に、第五章・未来社会論の改定
発達した資本主義国での社会変革が社会主義・共産主義への大道である。

ここまでが総論部分だ。「社会主義」諸国の削除については異論はない。

個別の改定点

綱領第三章

「世界情勢――二〇世紀から二一世紀へ」の表題を「二一世紀の世界」に変更。

21世紀論の骨子はそのまま残す。

1.人権論を書き加える。

第二次世界大戦までの時期は、人権問題は、国内問題とされ、外国からの口出しは無用という問題として扱われてきました。

21世紀の世界においては、人権を擁護し発展させることは、単なる国内問題でなく、「国際的な課題」となった――国際社会における各国の義務となった。

「人権は国境を超える」論、「民族自決」は人権より低位概念という理論。

2.植民地体制の崩壊のもつ意義を特記

20世紀論における「3つの変化」のうち植民地体制の崩壊が最大の特徴である。

そもそも植民地支配は、民主主義や人権と両立しえません。
民族自決権はあらゆる人権の土台として世界公認の原理でした。
しかし、「植民地体制が崩壊した」のだから、これからは民族自決権より人権のほうが重要になる。

というのが論建てのようです。

綱領第八節―「社会主義をめざす新しい探究…」の削除

これまで「社会主義の事業に対して真剣さ、誠実さ」を尺度としてきた。
その尺度は
*こういう国ぐにの指導勢力と接しての判断
*これらの国ぐにが現実にとっている対外路線
などから判断する以外にない。

これは、後でベネズエラ問題を考える上で重要なポイントとなります。

以下中国評価についての記述が続くがこれは省略。特に異論はない。
ただこれは、中国の話なので、キューバとベトナム、したがって「社会主義を目指す他の国」についてはこの限りではない。

結局、議論の結末としては、「社会主義を目指す」潮流そのものが存在しなくなったということになる。これは事実としてそういう他ない。いわゆる「前進的整理」であろう。

民主主義と人権を破壊し独裁を強めるベネズエラ
ここでキューバを批判するついでに、その論拠として、ベネズエラに想像もつかない非難を浴びせている。さらに「ラテンアメリカに分断を持ち込んで」いるという記述は、事実に即して見れば認めるわけには行かない。

ソ連論についてはジャンプします。

綱領第九節――「世界の構造変化」

「世界の構造変化」が、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しはじめている。
これは新たに書き加えた部分であり、これまでの第9節は第10節となる。

第一〇節 
世界資本主義の諸矛盾から、世界をとらえる。いわば各論部分。
現綱領の第九節の内容をもとに書き加える。

ここで「ラテンアメリカの国ぐに」に触れられている。

米国の強い従属下に置かれていたが、「二〇世紀の終わりから二一世紀に」軍事独裁政権が倒されて、民主主義の覚醒があった。
その結果、米国から自立した地域へと変わった。
しかしこの数年間にベネズエラ危機が分断をもたらした。
今後、平和の地域協力の流れが、ベネズエラ危機をのりこえて発展するよう願う。

なんとも悲しくなるような分析である。

弾力的なアメリカ論

アメリカは、いつでもどこでも覇権主義・帝国主義の政策と行動をとるのではなく、「世界の構造変化」をふまえて、外交交渉による解決を模索する側面も見る。

これは重要な指摘です。事実に即して具体的に見ていく必要があります。
ラテンアメリカにおいては、目下そのような「弾力的」傾向は全くありません。

綱領第一一節 国際連帯の諸課題

二つの国際秩序の選択」という記述を見直す。中国、ロシアによる覇権主義も台頭しているからだ。

このため「国連憲章にもとづく平和の国際秩序か、独立と主権を侵害する覇権主義的な国際秩序かの選択」という、より包括的な規定にあらためた。

三つの流れ」という特徴づけを削除

発達した資本主義諸国・資本主義を離脱した国々・AALAの人民の運動の3つを社会主義への発展の時代的・国際的条件としたが、これをやめる。

遅れた国ぐににおける社会主義的変革の可能性を否定するものではないが、きわめて大きな困難がともなう。
発達した資本主義国での社会変革こそが、社会主義・共産主義への大道である。


この点は一般論としてはきわめてよく分かるのですが、現実的には発達した資本主義国での社会主義革命は実現していません。
逆に遅れた国々で平和的に議会選挙と通じて「社会主義」を目指している国が、現にいくつか存在しています。これらの事実から見て、もう少し謙虚に学ぶべきではないかと思います。

また非同盟運動の志、バンドン会議の精神は、反核運動の枠に押し込まず、もっと多角的に称揚すべきではないでしょうか。

何れにしても社会主義への道はそう単純ではなく、ジグザグとしたコースを歩みながら21世紀を通じて進行していくものと考えるべきでしょう。あまり振りかぶった規定はしないほうが良いのではないかと思います。

今回の綱領改定には多くの理論的前進が見られ、「20世紀の残り物」的理論も随分整理されて見通しが良くなりました。

その分、ラテンアメリカの現実に起きている変化の評価には、あらっぽさが目立ってしまうように思えます。

とりあえずの感想です。

プラトンの思想を眺めていてふと感じたのだが、ソフィストというのはなにか詭弁を弄するやくざ者のように扱われているが、それは違うのではないかということだ。

むしろプラトンは、ソクラテスもふくめたソフィストたちの理論をある意味で集大成したのではないかと考えた。

というのはイデア論の最後に付け加えたパルメニデスの議論が、非常に精緻なものであることに気づいたからだ。

調べてみるとパルメニデスはソクラテスに先行する哲学者であり、その議論はプラトンのイデア論の枠組みには収まりきれない広がりがある。

こういう人々がたくさんいて、それはソクラテスやプラトンにとって心安らぐような仲間ではなかったかも知れないが、そういう星雲状況の中から、それこそ「対話」を通じて、プラトンの著作=イデア論が析出してきたのではないだろうか。

それを思いついたのは、以前勉強した「六師外道」のことを思い出したからだ。


「六師外道」は、釈迦とおよそ同時代にマガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちのことだ。彼らは既存のバラモン教に対する批判者として立ち現れた。

しかし彼らの思想は釈迦によって批判された。

「ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとし、…業を否定した」と。

つまり「六師外道」は素朴なアニミズムに対する否定として登場したが、釈迦は「六師外道」を素朴な唯物論として否定し、あらためて原始宗教を「観念論」として止揚したことになるのかも知れない。

このような「六師外道」と釈迦との関係をソフィストとソクラテス・プラトンとの関係に比定する作業は、なかなか面白そうな課題になるのではないだろうか。

また同じことは春秋戦国の時代についても言えるかも知れない。小国分立状況がこのような思想の百花繚乱をもたらしたのだろうか?

といっても自分でやるほどのガッツも時間もない。とりあえず、提起だけしておく。

プラトン年譜を、イデア論形成過程を中心にざっくりと

アテナイの人、貴族出身 紀元前427年 - 紀元前347年

どんな人か

ギリシャの孔子と目される。基本は教育者、哲学者。しかし政治への色気を捨てきれなかった。

哲学的には観念論の創設者であり、形而上学・主体論の提示者である。また方法論としての弁証法の創始者である。

プラトンの弁証法

著作の大半は対話篇という形式で、ソクラテスを主要な語り手とする。

一つの連関と他の連関との類比関係を「対話」(問答)の中で明らかにする弁証法という手法を編み出した。

プラトンの弁証法は認識の手段としてのみ位置づけられている。
内在的弁証法、すなわち事物の現象過程や諸概念の運動としては考えられていない。

ただし青年期にヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想に影響を受けているようだ。

彼の書物の性格

彼は先行したソクラテスらの論客(ソフィスト)の考察や見解を集大成した。まさに著作そのものが諸弁証の集大成「文殊の知恵」であろう。

ソクラテスの死がもたらしたもの

紀元前404年、アテネはペロポネソス戦争に敗れる。親スパルタ派30人による独裁政権が樹立される。  

紀元前399年、プラトンが28歳のとき、ソクラテスが独裁政権により死刑宣告。毒杯を仰いで死した。

対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索した。この頃の著作が『ソクラテスの弁明』『クリトン』などである。

したがってプラトンの内面では、絶えず変遷するモノと、一貫して変化しない「本質」との対話が続いたと思われる。

中期 ピタゴラス幾何学の受け入れとイデア論

紀元前388年 39歳で第一次シケリア旅行。2年にわたり滞在し、ピュタゴラス派およびエレア派と交流する。

この頃の著作が『饗宴』などである。彼はピュタゴラスを全面的に受け入れる。しかしそれは悟性的な知恵であり彼の考える弁証法的な知恵と正面衝突せざるを得ない。

そこで彼は感覚を超えた実存としての「イデア」概念を構築する。「物事」に対する「本質」、感性的知覚に対する知性的認識の優位を主張。これでピタゴラスとの折り合いを図る。

感覚的事象からの脱却は、相対主義から抜け出せないソフィストとの決別も意味する。

真理というのはピタゴラス的なものであり、そこに属人性はない。「それはあなたの考えでしょう」という逃げ口上とは決別できるのだ。

一方において真理はピタゴラス的な悟性的な存在ではなく、そこには理由があり、始まりがある。これがイデア概念の中核となっていく。

このあと、プラトンは「真・善・美」といった迷路に踏み込んでいく。

観念論の完成

さらに思惟的世界を感性的世界から分離してしまう。これにより存在論が認識論に吸収・解消される。

なおこの「国家」という書物は、アリストクラシーを説いていてきわめて評判が悪い。あたかもボルシェヴィズムの教科書のように扱われる。

紀元前387年、40歳のプラトンは、アテネに「アカデメイア」を設立。天文学、生物学、数学、政治学、哲学などを教えた。

50歳頃に、イデア論の集大成となる『国家』10巻が完成した。

紀元前367年には、17歳のアリストテレスが入門した。このときすでにプラトンは60歳だ。アリストテレスはプラトンが亡くなるまでの20年間、ここで学業生活を送った。

観念論と主体論の接合

後期にはイデアそのものではなく、「イデアに対する志向」を本質とすることにより、事物より事物への意識を対象とする主体論に傾いた。

これはソクラテスがピタゴラスの自然学を、「自然がそうである由縁が説明されていない」と批判したことへの対応であろう。

その一方で、シケリアの国政にもふたたび関わるようになった。

晩期には、宇宙が神によってイデアを鋳型として作られたという、客観的観念論に収斂していく。

とかく功成り名遂げ、齢を重ねると、体系化志向が強まるらしい。

これは70歳代の『ティマイオス』、『法律』(12巻)に展開されている。

当然、アリストテレスはこの傾向に激しく反発することになる。


ヘーゲルとの関係で、プラトンの「イデア論」との類似性が気になり調べた。

究極の真理としてのイデア

プラトンにおける究極の真理は「イデア」と呼ばれる。

普通英語でいうと、「理想」という意味になるが、「イデア」論と言われるのは「理想」とはちょっと違い、さらに抽象的なものである。わかりやすく言うと「本質論」であり「真実論」である。ヘーゲル風に言えば「絶対知」である。

プラトンは、師ソクラテスがソフィストの相対主義を克服し絶対的な真理の探究を押し進めたことを高く評価した。絶対的な真理を求める哲学は、思弁哲学と呼ばれる。それは「普遍的な真実の世界」を、感性ではなく思弁によって認識しようとする哲学である。

イデアをもとめたきっかけ

師ソクラテスを理不尽な形で失ったプラトンは、民主政治という衆愚政治に代わる「理想の国家」をもとめた。まさにイデオロギー国家だ。

それを思索する上で「理想とはなにか」を解き明かす作業が始まる。最初の手がかりは、「イデアとは、人間には知りえない本当の知の実体である」というソクラテスの教えであった。

独自のイデア論の構築

しかしそこに至るには「因果関係」や「構造論」、「実体論」などいくつかの段階がある。
人間の認識という行為も、知覚から始まり認知、把握、了解、理論化などの段階を踏むことになる。

また裸の「本質」と価値判断や力動をもふくんだ「真実」の違いも論じなければならない。つまり範疇論、認識論、価値論を含んだ論証を行うための学問的方法論が必要となる。

本質論と不可分の認識論: 弁証法

プラトンはその論証方法として、師の対話法を継承、発展させて「弁証法」という論理を組み立てた。

逆証明の過程を導入することで、論理のステージを引き上げ、観察と三段論法にだけ依拠する自然哲学の経験論を批判的に乗り越えた。

このようなプラトンの考えを、弟子のアリストテレスはイデア論として定義した。

存在と非在の弁証法 究極のイデア論

イデア論とは別の地平で、存在と非在の弁証法が語られていて、このくだり新プラトン哲学の典拠になっているようだ。

『パルメニデス』という本に書いてあるらしい。

「存在、非存在、現われること、静、動、等々の全く抽象的な諸規定をプラトンは純粋なイデアとみなした
とあるが、これはソフィスト仲間の論争に対する介入であろう。ヒントにはなるかも知れないが、しっかりした論建てとは思えない。

『ピレボス』という本には以下のような言及もあるらしい。かなり意訳して紹介すると…

真理は対立した物の同一性である。それは現象・悟性・概念・原因(本質)である。
そこにおいて真理は一体性の表現であり、主体性の表現であり、支配力の表現であり、構造の表現である。
 

第二次の第三者委員会の調査は進行中である。しかし去年にも一度内部調査は行われているのである。第二次の委員会が作られたということは、第一次の内部調査がいかにずさんであったかを証明している。
その内容は発表されていて、関電のホームページで閲覧可能である。

第1回調査委員会の報告の要旨
ほとんどが言い訳と合理化、居直りに終止している報告であるが、そのなかでも以下の核心的事実は消すことができない。
①20人が金品の譲渡を受けていた。
②工事等の案件に関連して要求されることはなかった。
③森山が金品を渡すのは自己顕示欲の表れと考えられていた。
④対応者は金品の出所について深く考えたことはなかった。
⑤当社幹部が森山氏に特別対応した事実は認められなかった。
⑥対応者は後日返却する意図で金品を保管していた。会社としての管理はなされていなかった。
⑦スーツ生地、商品券など一部については費消された。(たしかに全部でなければ一部だよな)
⑧渡された金品の一部は所得税の対象だと指摘され、当該分を納税している。
⑨森山氏には地元重視の観点から工事概算額を提供していた。しかし森山の依頼を受けて吉田開発に発注することはなかった。(強姦犯が「服は脱がせたが、体には触らなかった」と言うが如し)
⑩森山氏はかなりの頻度で金品を持ってきたので、情報提供の見返りとして金品を持ってきているという認識は持たなかった。
⑪返却を押し通すことは困難だったが、機会を見つけて順次返却しており、その大部分は返却済みである。
⑫文書の提供は、秘密文書の指定・解除を行う責任者が行っており、社内ルールに照らして必要な手続きは行われている。しかし工事概算額や発注先を開示したことは適切とは言えない。(これは不適切な行為ではなく、談合であり犯罪行為である)
⑬提供は吉田開発ではなく森山氏に対して行われたのであるが、それが伝達される可能性を考慮しなかったのは軽率であった。

関電と解同

結局問題の根っこはここに行き着くようだ。
60年代末から70年代にかけて、関西では解同の「糾弾」の嵐が吹きまくった。その典型が八鹿高校事件であり、あいつぐ自治体行政への介入だった。

警察は見て見ぬ振りをし、メディアは沈黙した。ときによっては加勢までした。地域で解同とまともに立ち向かうのは共産党だけだった。

なぜ民主主義の世の中でかくも野蛮なゴロツキ集団がのさばったのか、私たちはまだ十分な検証ができていない。

そのかさぶたが剥がれ、血が吹き出したのが今回の関電汚職なのだろうと思う。

おそらく、その腐れ縁は70年代前半、若狭湾に面して次々と原発が建設された時期に形成されたのであろう。

60年代には、運動弾圧のために暴力団が投入された。三池闘争がその典型である。暴力団はしばしば右翼を偽装した。政治団体であれば思想信条の自由の原則が適用される、それを見込んでのことである。

かくして、暴力団による襲撃は組合内の左右両派の激突と描き出され、労働者への国民の支持は失われていった。

流石にヤクザや暴力団を直接雇うのは気が引けたのだが、そこにおあつらえ向きのゴロツキが登場した。それが解同である。

彼らは「人権擁護」を掲げてこの世界に飛び込んできた。警察はそれを理由にして手を出さない。一種の治外法権的な雰囲気が形成された。

朝日ジャーナルや全共闘もそれを煽った。解同の無法と闘う共産党は反人権団体だと逆宣伝された。

それが結果として原発地元をズタズタにし、反原発派を排除し、原発建設への道を掃き清めたことになる。

関電がそれを指示し、資金を投入したという証拠はない。しかしそれが今回の事件で垣間見えたということではないのか。関電の後ろ暗さが解同の暴力行為を助長してきたのではないか。
そのような疑いが捨てきれない。



なお調査委員長を勤めた小林敬という人物は、大阪地検特捜部として「世紀のでっち上げ」を指揮した人物であり、その後罷免されたという経歴の持ち主だ。
秋霜烈日というのは検事としての厳しさを形容する言葉だが、この人は自分より目上の人にはめっきり優しくなってしまう二面性を持っているようだ。そういう人物を調査委員長に指名する関電の傲慢さが、150ボルトの電圧で感じられる。
ウィキペディアには次のような記載がある。
調査にあたって森山元助役から聞き取りをせず、一方当事者の言い分のみを記したことについて指摘されると、「そこまでは思いが至らなかった」と弁解した
これを読めば、第三者委員会の再立ち上げの理由もよく分かる。どっちにしても小林敬という人物、もはや先はないだろう。


森山栄治 経歴

1928年(昭和3年) 福井県大飯郡高浜町西三松で出生。

1949年 京都府庁に就職。

1969年

12月 浜田倫三町長から招聘を受け高浜町役場に入庁。

以後、民生課長、総括課長、企画課長、収入役や助役などを歴任。

12月12日 関西電力高浜原子力発電所1号機に対する設置許可。

1970年 大飯郡高浜町西三松の自宅に福井県内唯一の部落解放同盟支部として高浜支部を組織。「糾弾」を繰り返す。

1970年 部落解放同盟の福井県連の書記長となる。高浜支部の書記長も兼任。

1972年 部落解放同盟中央本部によると、「言動が過激すぎたため、2年で書記長職を解任された」とされるが、経過から見て真っ赤な嘘。

1971年 福井県の客員人権研究員に就任。2018年まで在任。 

1975年 高浜町の収入役に就任。

1977年4月 高浜町助役に就任。

1987年5月 高浜町役場を退職。その後、高浜の建設会社役員、高浜町都市計画審議会委員、高浜町教育委員長等を務める。

1987年 関電プラント(関電子会社)顧問となる。2018年まで在任。

1996年 法務省人権擁護局より感謝状を受ける。

2004年 プルサーマル計画導入を推進し、反対派の今井理一町長と対立。

2007年 原発警備会社「オーイング」の筆頭大株主となる。その後の12年間で10倍に売上を伸ばした。また顧問を勤めた建設会社吉田開発は、無入札による特命発注で売上を6倍に伸ばした。

2009年 福井県人権施策推進審議会委員に就任。18年まで務める。

2010年 任期満了に伴い、高浜町教育委員を退任。

2017年 「オーイング」の取締役を退任。自宅を京都市から高浜町に移す。

2018年

1月 財務省国税庁金沢国税局の税務調査を受け、帳簿や資金の提供元や供出先が記されたメモが押収された。

2011年から2018年にかけて、関西電力の八木誠会長や、岩根茂樹社長、豊松秀己副社長、森中郁雄副社長らに、「原発マネー」とおぼしき3億2千万円を渡していたことが、明らかとなる。

2月 関西電力側から約1億6千万円相当を返還。

10月 内部調査委員会を結成。委員長の小林敬は元大阪地方検察庁検事正で、証拠改ざん事件で懲戒処分を受けて退官した人物。

2019年

3月 90歳で死去。

9月27日 上記情報を朝日新聞が報道。各社が追随。
菅原一秀経済産業大臣は、記者会見で「言語道断。ゆゆしき事態だ」と語る。更田豊志原子力規制委員会委員長は、「まだそんなことがあるのか」「憤りを感じた」と語る。

10月2日 関西電力が記者会見。金品の受領を断ると土下座を強要されるなど、断れない力関係にあったと説明(さぞかし楽しい土下座であったろう。できるなら私も、懐ろに小判を押し込まれてみたいものだ)

10月9日 臨時取締役会が開かれる。八木会長と森中副社長、右城常務、鈴木常務、大塚常務が退任。


というのが、森山に関するあらあらの経過。これだけでも十分すぎるほどの悪漢だ。
しかし、どうも解せない。関電の役員は本当に被害者なのか。
おそらく贈られた賄賂の数百倍~数千倍が関電から森山に流れていただろう。それは消費者の支払った金である。返す先が間違っている。
言うまでもなく関電は独占企業で消費者には選択の余地はない。ある意味でこれは泥棒だろう。泥棒というより強盗でありサギだ。間違いなく刑事犯であり、牢屋に入るべき犯罪だ。
ところが、その後の報道がぱたっと止まっている。これはどうしたことか。
少し調べてみなくてはなるまい。

第18回非同盟運動サミット会議

2019年10月25-26日
アゼルバイジャン共和国のバクー

宣言「バンドンの原則を守り、現代世界の課題への適切な対応を」

BAKU DECLARATION of the 18th Summit of Heads of State and Government of the Non-Aligned Movement (NAM)

抄訳です。公式の引用はご遠慮ください。

前文

2016年9月17〜18日にベネズエラのボリバル共和国マルガリータ島で第17回サミットが開催されました。それは、NAM加盟国および人類全体にとって懸念される主要な問題の解決のために効果的な貢献を目指しました。

それは、バンドン(1955)およびベオグラード(1961)で明確に表現された非同盟運動のビジョン、原則、目的に沿ったものでした。今回のサミットはそれらを引き継いでいます。

私達はすべての人のために平和、平等、協力、幸福の世界を達成することを目指します。私達は世界が豊かな多様性で構成されていることを承認し、国連憲章の目的、原則、規定に対する私たちの強いコミットメントを繰り返します。

人類の政治、経済、社会、文化システムは多様であり、特定のモデルの押し付けはあってはなりません。この点に関して、メンバーの権利と特権を守る決意を表明するものです。私達は主権と政治的独立の原則を守り、対話と寛容の促進へ向けて行動します。

国家の領土保全または政治的独立に対する脅威、武力行使などが、国際的な問題を解決する手段として採用されることはありえません。そのような脅威または武力の行使は、国際法および国連憲章の違反となります。

非同盟政策の具体的な内容とは、植民地主義と新植民地主義、あらゆる形態の外国の介入、攻撃、占領、支配または覇権と戦うということです。

今世界では、武力紛争、拡張主義、テロリズム、分離主義、国境を越えた組織犯罪などの過激な思想が強まっています。それが人権侵害、金融危機、環境悪化をもたらし、世界中の人々に被害を及ぼし続けています。

私達は多国間主義と国際協力の強化をもとめ、そのために非同盟運動の有効性の向上に努めます。私達は国連憲章と「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を支持します。それらは国連の3つの柱である平和と安全、開発、人権を促進するための基本的な戦略です。

章文

(小見出しは私がつけたものです)

私達は以下の目的を達成するために共同で努力します。

A. 非同盟運動の役割強化

*運動の役割を活性化し、現在の政治的現実にふさわしいものにする。

*国際的に平和を支援し、戦争に反対する運動の地位と役割を強化する。

*発展途上国の利益を促進する。公正で、包括的で、透明で効果的な国際システムを構築する。

*正義と公平の原則に基づいて、戦争の脅威、武力紛争、環境ハザード、気候変動、伝染病、極度の貧困などに対処する。

*非同盟諸国への新たな脅威を考慮し、運動内で団結し、国際平和、安全、開発への挑戦をおこなう。

*非同盟運動の有効性を高めるため、加盟国の利益と優先事項を適切かつタイムリーに支援、調整する。ダイナミックで効果的なメカニズムを作り上げる。

B. 国連重視と多国間主義

*国連を核とした多国間主義を支援する。国際秩序の制度的および法的枠組みにおける国連の中心的役割。

*国連の強化と近代化のために、普遍的かつ代表的な組織である国連総会を活性化する。

*国際的な平和と安全の分野をになう国連安全保障理事会の改革。より民主的、効率的で透明性の高いものとする。

C. 国際的な平和と安全

*友好関係と協力に関する国際法の原則を忠実に遵守する。国家が引き受ける義務を国連憲章に従って誠実に履行する。

*内政不干渉の原則をまもる。すべての国の政治的主権、政治的な独立を尊重する。「合法的に構築された政府」に対する不安定化策動を行ってはならない。

*相互不可侵の原則を守る。国家の統一や領土の保全に対する脅威、武力不行使の原則。

*これらの原則を部分的または全体的に混乱させるような、あらゆる試みに反対し続ける。これらの試みに対し、国際社会は必要な措置を講じるべきである。

D. テロへの態度の原則

*あらゆる形態のテロとの闘いにおけるNAMの連帯を強化する。テロを防止し、戦うための協力を強化する。

*テロとの闘いにおいて、非同盟運動は国連憲章・国際法にもとづく義務を積極的に担う。いかなるテロ行為であっても傍観することはない。

*テロリズムはいかなる宗教、国籍、文明、民族集団とも関連してはいない。そうあってはならないことを、非同盟運動は強調する。

*テロリストグループは国家、地域、および国際の平和と安全を危険にさらす。安全な避難所、作戦の自由、移動と徴兵、財政的、物質的または政治的支援を行ってはならない。

*法の正義をもたらすために、適切な場合には引き渡し原則に則って関係者を引き渡す。「適切な場合」にはテロ行為の加害者・支援者、テロ行為の資金調達、計画、準備への参加者が含まれる。

E. 核兵器のない世界のために

*人類にもたらされる脅威を排除するための努力を倍加する。大量破壊兵器、特に核兵器の存在が人類最大の脅威となっている。

*私たちは、核兵器のない世界を実現するために努力することを決意します。

*非核兵器地帯の強化。とくに中東地域での非核兵器地帯の設立をめざす。

*私達は平和的目的のために原子力エネルギーを開発する国の主権を改めて表明し、その独立性と経済発展を考慮に入れる。

F.  航海の自由と資源の自由な流れ

*私たちはホルムズ海峡、オマーン海、紅海などの国際水域での最近の一連の負の事件について懸念を表明する。中東での石油タンカーおよび商業船に対する挑発的な行動を抑制するようもとめ、国際商業航法およびエネルギー供給の安全性と安定性を維持するよう訴える。

*いま中東地域外のすべての人々をふくむ国際社会全体が、航海の自由と石油やその他の資源の自由な流れを維持するようもとめている。

*そのためには、繰り返しますが、国家の主権、領土保全、独立の原則、内政不干渉を尊重し、国連憲章に記されている原則を厳格に遵守して平和維持活動を行うべきである。これは国際平和と安全の促進における共同努力の重要な要素である。

*平和維持活動を成功させるためには、その基本原則を尊重すること、すなわち、当事者の同意、公平性、および武力の不使用が重要である。

G. 持続可能な開発のための2030アジェンダ

*非同盟運動の加盟国はその共同活動により平和の文化を促進しなければなりません。国家間の平和と信頼を促進するため、努力を動員する必要があります。そのための手段を構築しなければなりません。とりわけ持続可能な平和、連帯を構築するための政治対話と相互理解が必要です。

*「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、普遍的かつ変革的であります。多面的かつ統合的なアプローチが必要です。それは最大の世界的課題です。開発途上国には開発の権利があり、それは尊重されなければなりません。それは世界の持続可能な開発に不可欠な要件です。

*極度の貧困を含むすべての形態と次元で貧困を根絶することは、なお重要な要素の1つです。

*2001年のドーハ開発ラウンドは、貿易交渉における開発の側面の中心的な重要性を再確認した重要な会議でした。開発途上国の利益も反映される多国間貿易システムの構築が必要という認識を共有しました。

*しかし先進国における保護主義の高まりは、特に発展途上国の輸出にマイナスの影響を与える。私達は世界の金融・経済危機が世界貿易に及ぼす悪影響について深刻な懸念を表明する。

H. 一部の非同盟諸国への一方的な強制措置

*非同盟運動は一部の加盟国に対する一方的な強制措置の適用に対する強い非難を表明する。それらの措置は著しい不均衡と不平等をもたらしている。

*それらの措置は国連憲章および国際法、特に国家の非干渉、自決および独立の原則に違反する。それらは人々の生存権に影響を与え、完全な経済的および社会的発展を妨げる。わたしたちはそのような措置の廃止を要求し、その決意を繰り返すものである。

I. 気候変動


J. 南南協力


K. 人権問題

*1993年のウィーン宣言と国際的なコミットメントおよび国内法に従って、すべての人権の促進と保護へのコミットメントを再確認する。普遍性、透明性、公平性、非選択性、非政治化、客観性の基本原則を遵守することにより、人権を強化する必要があることを改めて表明する。

*世界的に認められた人権の包括的な部分として、開発の権利が含まれなければならない。持続可能な平和と繁栄を築くことが、すべての人権の完全な享受を確保することにつながる。

L. パレスチナ:外国人支配下にある人々の自己決定権

*東エルサレムを含むパレスチナ領土の、イスラエルによる占領を完全に終わらせるための、真剣な集団的努力を緊急に呼びかける。状況のさらなる危険な悪化と不安定化を回避するために、迅速に行動しなければならない。

*私たちは外国の占領・植民地支配下にある人々の自己決定権に関する、原則的立場の妥当性と関連性を再確認する。

*国際人道法および人権法を含む国際法、および関連する国連決議、安全保障理事会決議が尊重されなければならない。

*国際社会はパレスチナ問題に対する歴史的、政治的、法的、道徳的責任を自覚し、パレスチナ人の譲渡不能の権利の実現を支援しなければなrない。

*東エルサレム、シリア・ゴランを含むパレスチナ領土のイスラエルによる占領を完全に終わらせなければならない。そのための真剣な集団的努力を緊急に呼びかける。

M. 中東難民の処遇について

*武力紛争の状況にある加盟国において、国内避難民のための恒久的解決策を促進する主要な責任が該当国家にあることを認識すべきである。安全で尊厳のある自主的な返還を含むとともに、人権の尊重、保護および履行を確保することがもとめられる。

*国外から流入した難民については、人類に対する共通の課題として対処する。そのために、多様性に対する寛容と尊重を促進し、文明間および文明内で共通の基盤を模索する。共通の価値、普遍的な人権を重んじ、協力、パートナーシップ、包括を通じて、人種差別、外国人嫌い、不寛容との戦いを進めなければならない。

*国、地域、およびグローバルなイニシアチブを評価し、異文化間の対話を促進する。


もともと長い論文を読むのは苦手なのだが、最近視力の低下、集中力の低下が相まってますますその傾向が強まっている。
だから、たいへん荒っぽいものの言い方になってしまうのだが、赤旗「論壇時評」に載った、たった数行の記事が頷かせるものがある。
山口二郎さんが「野党+市民共闘が拓いてきた道、これからの道」(季論21)という文章の中で言った言葉なのだが、評論者の堤文俊さんの紹介が的を得ていると思う。

いま「共闘」にとって大事なことが2つある。
一つは「方向性の共有」だ。
それは「ゴールは違っていても中間点までは一緒に」という意思の共有だ。
第二は、市民の側にあるのだが、共産党を受け入れることを “あたりまえの政治風景” として受け入れることだ。それは反共主義の最終決算だ。

この2点は、共産党がずっと戦略的課題としてきたことだ。時の政府や権力が振りかざす反動的挑戦に対しては、たしかにその都度 “共闘” してきたが、それはついに明日に向かっての共闘へとは発展しなかった。

ある程度の政策的合意を形作らなければ、長期的な共闘はありえない。未来に向かっての共闘、これこそが真の共闘であり、それが今や実現し始めた。ただし時間の余裕はない。闘う人そのものが今や絶滅しつつあるからだ。

もう一つ、それは「旧社会党・総評的な勢力との合意を経てより広い合意を形成する」という従来型戦略によっては不可能である。それは市民的な合意をの中でマルチラテラールに築き上げていくしかないということだ。

それが気が遠くなるようなすり合わせと実践の過程を経て、ようやく形になろうとしている。そういう地点に我々は到達しつつあるのだ。

日本における共闘というのは、見かけ上は共産党と市民運動、それに連合+社会民主党の3つのグループの共闘だが、運動論的には共産党と市民の共同による「連合」の包囲と攻略なのだ。

それを市民の側からはこう表現しているのだろう。

これは下記記事の増補版である。
2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜

実は、失敗していて、増補版を2017年04月25日の記事に上書きしてしまった。今さら取り返しはつかない。
さらに増補の追加分があるので、それもふくめた増補版を本日付の記事としてアップする。これに伴い“旧増補版”は増補版の表記を消して、2017年04月25日の記事として残すことにする。間違えてそちらに行く人もいるかも知れないので、文章の頭にこの記事へのリンクを貼って置く。



ジョン・バチェラー 年譜



1854年(安政元年)3月20日 イギリス南部のサセックス州アクフィールドに生まれる。11人兄弟の6番目。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、父は市長を 3 期も務めた。


1876年(明治9年) ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ち英国聖公会宣教会に入会。香港にある宣教師養成のためのセント・ポール学院に入学。


1877年(明治10年) 勉学中にマラリアに罹患、療養のために香港から横浜に移動。

5月 さらに冷涼な北方の地を勧められ函館に転地。ウォルター・デニング司祭の指導を受け日本語の勉強を始める。


1877年 バチェラーが函館で伝道を開始。

1878年 3月 バチェラー、函館ではじめてアイヌ青年と出会う。その差別と悲惨な生活の実態を知り、アイヌ民族の伝道を志す。函館の町中で偶然アイヌが日本人から非人間的な扱いを受けている現場に出合わせたとの記載もあり。


1878年 札幌に2ヶ月ほど滞在。開拓使長官黒田清隆とも会見。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。年末には函館に戻る。


1879年(明治12年) 信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。


1879年 アイヌの中心地である胆振の有珠と日高の平取を訪問。平取では、地元長老ペンリウクの下で3ヶ月滞在。これを契機にアイヌへの布教活動を決意する。


1881年 平取に半年間滞在。伝道にあたる。


1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。5ヶ月滞在し、ケンブリッジなどで再研修を受ける。


1883年(明治16年) 再び函館に帰任した。


1884年(明治17年)

1月 東京で同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。当時バチェラーが30歳で、ルイザは41歳。

1月 アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」を出版。著者は<函館英国人バチロル>とされる。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

84年 関西へ講演旅行。その後半年をかけて道内各地を伝道旅行。
バチェラーの足跡

              バチェラーの足跡

1885年 平取で禁酒運動を進めたが、アイヌとの関係がこじれ離村。その後、函館を拠点とし全道各地で伝道。

1885年 「バチラーのスパイ事件」が発生。バチラーが滞在許可条件を守っていないことを理由に、パスポート申請が却下される。のちに告訴内容が不正確と判断され取り下げられる。

1885年 幌別のアイヌ青年カンナリタロウ、聖公会函館教会で受洗。バチェラーにアイヌ語を指導する。


1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別村(現在の登別市)に移して定住する。ルイザ夫人・養女キンらが同伴。牧場で牛を飼い、農作も展開する。その後6年にわたり、キリスト教伝道やアイヌ語教育を実践。


1888年(明治21年) 募金を募り、幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。


1888年(明治21年) 札幌にも『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られた)

1887 年(明治20 年) バチェラーは、本国の伝道教会から、正式にアイヌ民族の宣教師に任命される。


1889年 道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。


1890年 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。


1891年


1月 バチェラー、北海道禁酒会の要請に答え札幌に移転。自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。


1891年 平取アイヌとの関係が6年ぶりに修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。


1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に組織される。バチェラーは伝道の対象を全道各地に拡げていく。樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人も布教の対象となる。


1892年(明治25年) 札幌にアイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになったと言われる。

1893年 バチェラーの私信。


私の蝦夷における16年の経験は、ここでは極度の注意をもって行動しなければならぬことをはっきりと教えてくれました。私のあらゆる行動や行為、言葉がスパイによってマークされています。


1895年(明治28年)5月 平取と有珠で自費で教会堂を建設した。平取町本町の教会は現在、「バチェラー保育園」として運営を続けている。

1895年 バチラーがパスポートを申請するが、滞在許可条件を守っていないとして却下される。バチラーは「私には日本人の敵がいる」と語る。


1896年 バチェラーの要請に応え、英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。約1年半、札幌でアイヌ語を学んだあと、13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。


1897年 有珠のアイヌ豪族・向井富蔵の娘・八重子、バチェラーを頼り札幌に出る。「アイヌ・ガールズスクール」に通う。

1898 年(明治31 年) 札幌北3 条西7 丁目(北海道庁裏)に住宅を新築。ここに離日まで住み続ける。

1899年 「北海道旧土人保護法」が制定される。この頃からバチェラーは政府に協力するようになる。法律制定過程に協力した可能性もある。

1900年 バチェラー、アイヌ教会での説教をアイヌ語から日本語に切り替える。


1903年 大阪で第5回内国勧業博覧会。バチェラーは7人のアイヌを見世物として紹介。

1903年 北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が2595人であった。


1903年 ピウスツキを団長とするロシア帝室地理協会の調査団平取を訪問。


1904年 アメリカのセントルイス博覧会。バチェラーは9人のアイヌを斡旋。

余市生まれのアイヌ人詩人、違星北斗の歌

 白老のアイヌはまたも見せ物に

 博覧会へ行った 咄アー!咄アー!


1906年 バチェラー夫妻、八重子を養子とする。弟の向井山雄にも学資を支援する。


1908年 バチェラー夫妻、八重子とともにシベリア鉄道経由で英国に行く。八重子はカンタベリー大主教から伝道師に任命される。


1912年 バチェラーと八重子、樺太に行き、伝道活動を行う。


1914年(大正3年) 札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。


1913年 バチェラー、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建てる。

1918年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。


1917年(大正6年) バチェラーに洗礼を授けられたアイヌ人江賀寅三、札幌でアイヌ語辞典の編纂に協力する。

1920 年(大正9 年) バチェラー、アイヌ教化団後援会の支援を得てアイヌ教化団を組織。これによりアイヌ学園(後のバチェラー学園)が設立される。アイヌ民族に中学教育を受けさせるために、子供たちを札幌に集める。


1922年(大正11年) アイヌの教育のために、アイヌ保護学園を設立する。(上の記事と重なるか?)


1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働く。


1924年 アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

1927年 違星北斗、平取に滞在してバチェラー幼稚園で働く。2年後に死亡(27歳)


1928年 自叙伝「わが記憶を辿りて」を発表。徳川義親公爵が序文を寄せる。

1931年(昭和6年) 新渡戸稲造を会長とする財団法人「バチェラー学園後援会」が出来る。


1936年(昭和11年) 妻ルイザが札幌でなくなる。享年92 歳。遺骨は円山墓地に埋葬される。


1941年(昭和16年)11月 太平洋戦争の直前、バチェラーは敵性外国人として追放させられた(88歳)


1944年 (昭和19年)4月 郷里サセックス州の生家で逝去。91歳であった。



1.素晴らしさ…自叙伝の一節

バチェラー資料を探しているうちに、次の資料に出会った。
 「HOMAS日本語版ニューズレター」という定期版で、「北海道・マサチューセッツ協会」という団体が発行している。道庁の外郭団体のようだ。その64号に「アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績」という文章が寄せられている。

その中で、バチラー自叙伝「我が記憶をたどりて 」 (昭和3年10月発行)の一節が引用されている。

とても良いので、みなさんにも紹介しておきたい。
「世界の文化の進歩は、凡ての人が皆生存権を有して居る様に、あらゆる民族もまた民族としての生存権が明らかに認められて参りました。之は当然なことであります。日本人が米国や其の他で、差別的待遇を受けて居ることを聞く時に、ほんとうに嫌な気が致します。日本は、大いにその非を責め、又世界にむかって人類平等主義を主張せなければならないと思ひます。それをなす前に、同国民であるアイヌ族が持って生れた其の生存権まで奪ひ去られ、山から山へ追ひ込められて、予防し得る病気のため地上から滅び行かんとして居る事に注目され、其の開発向上策に誠意を示さるることを希望致します。 


2.歴史的限界…アイヌ人=「コーカソイド」説

大シーボルトの唱えたアイヌ白人(コーカソイド)説は、現代版「高貴な野蛮人」説である。
欧州各国はアイヌ人を原ヨーロッパ人の共通の子孫と考え、調査団や研究者を派遣した。
彼らはアイヌ人が日本人によって不当な仕打ちを受けていると思った。

これはバチェラーのみの見解ではなく、アイヌ人の中に分け入った当時の白人に共通する感情であった。

これは密やかな白人優位観の発露であったと言えるだろう。

3.伝道実践と思想・信仰の自由

もう一つ、これはマンローとの論争を通じて明らかになったことだが、アイヌ人の保護も然ることながら、根本的にはキリスト教の伝道であり、思想・文化の押しつけと紙一重の行動であったことである。

この辺は非常に難しくて、民主主義の思想がキリスト教の教えと深いところで結びついているために、剥離が困難なところがある。

例えば、戦後の食糧危機を救ったのは米国のキリスト教団体の力が大きかったし、平成天皇の教師を勤めた女性は戦闘的平和主義者のクエーカー教徒であった。

ただ原理的にはアイヌ人の思想・信仰の自由と觝触する可能性はあったということである。



堀辰雄の作品「美しい村」に出てくるレエノルズ先生は、明らかにマンローのことだ。
以下、関係部分を引用する。
私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
…それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰だれ一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、
爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。
――それ以来、老医師はその妻子だけをスイスに帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。(美しい村)
堀は、1930年(昭和5年)10月に喀血し入院している。その後軽井沢の知人のもとで療養生活を送っている。おそらくそのときにマンローの存在を知ったのであろう。交際した形跡はない。
そして「美しい村」を執筆・発表したのは1933年のことだから、すでにマンローが北海道に転居したあとだ。

堀辰雄の心の「黒い奥底」

“憎まれ通し”というのは創作であろう。その証拠としてあげた火事騒動は二風谷での話だ。
だから堀が、ある意味でっち上げまでしてマンローの悪口を言いふらすのは解せない。
70歳近くなって、北海道の山の中のアイヌ部落へ定着して、現地の人達のために尽くそうというのは、決して“頑固に一人きりで看護婦を相手に暮す”ことではない。少なくとも後ろ指を指すような行いではない。

堀がマンローの悪口を書いた40年ほど前、バチェラーは函館の学生の驚くべき言動を次のように書き留めている。
哀れな者を軽蔑する事は人道に外れた事です。学生達はまるで気狂い程傲慢になって信じ難い事、驚くべき事を申した。実に其点 に於て心の悪い青年だと残念に思いました。
『アイヌ民族は本当の人間では無い。人と犬との混血児だ。人間の子孫で無いから犬程、熊程毛がはえているのだ。言葉はあっても極く僅かで悪い言葉ばかりだ。食べる物は皆何にも料理しない。生のまま食べる。又其外の事も余り野蛮ですから、その中へ行く事は甚だ危険な事 だ』と、斯う学生達は言うのでした。
学生というのは当時の知的エリートであり、もっとも革新的な層を形成していたであろうと思われるが、それにしてこの態度だ。平均的日本人のアイヌ観がいか程であったかが想像される。

堀辰雄の女性観

なにかマンローの女性関係が気になっているようだが、「詩人」らしからぬゲスの勘ぐりだ。「看護婦を相手に」というのも、何か見下した物言いだ。
しかも書いた時点で本人たちは健在なのであるから、失礼千万な話ではある。

私の見るところ、マンローはペール・ギュントのようだ。万年青年で、幾分自己中で放浪癖がある。金には無頓着だ。親兄弟にも無関心だ。女性遍歴は、港々で恋をする懲りない性格の証だ。少々羨ましくもある。

これだけモテるというのは、少なくとも表面的には“良い人”だからだろう。二風谷の住民に最後まで敬愛され続けたのも間違いなさそうだ。臨床医としては理想的な性格かも知れない。
このような人物を「倫理的」に否定しようとする堀の心根には、日本のエリートの浅ましさ、おぞましさを感じてしまう。

主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
を参照しました。
この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。

2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。

1863年6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に生まれる。名門出身で外科医の長男。

1879年 エジンバラ大学医学部に入学。考古学の魅力に取り憑かれる。

1882年 ダーウィンが死去。彼はエディンバラ大で医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗った。

1888年 25歳で大学を卒業。スコットランドを離れる。インド航路の船医となる。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のため29 歳で渡日。そのまま外国人専用の横浜ゼネラルホスピタルに入院。

8月 デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられる。

1892 年(明治25) 入院先の横浜ゼネラルホスピタルで病院長となる。その後軽井沢サナトリウムなどで働く。この間東大のベルツらと発掘仲間として親交を結んだと言う。

1895年(明治28) 横浜の貿易商「レッツ商会」の令嬢アデレー・マリー・ジョセフィンと最初の結婚。令嬢は、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった。

1898年 バチェラーの案内で北海道に旅する。このとき春採コタンでの熊祭りを映像に収める。
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マンローと長老イソンノアシ

1899年(明治32) 北海道旧土人保護法が制定される。実際には旧土人収奪法であった。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。出席した高畠とくは,マンローの日本史についての誤りを指摘する。トクは柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1905年(明治38年) 夏、早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器とみられるものを発見。

1905年(明治38) 横浜市の三ツ沢貝塚を発見し発掘調査。人骨を発掘(こども1体,大人4体)する。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。膨大な費用を私費で賄う。
 
1905 年(明治 38 年)

2月 日本に帰化。 日本名「満郎」と名乗る。当時、外国人同士が日本で離婚手続きを取るのは難しかった。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。

5月 マンローが高畠とくと結婚。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

1908年(明治41) 

マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を出版。権威付けのためにPh.dの肩書きが必要と痛感する。マンローは20年ぶりに帰国し、エディンバラ大で口頭試験を受け博士号を取得する。

1909年 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。トクを離縁。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。

1913年 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

1914年 在日スイス人富豪ファヴルブランの娘アデルと3度目の結婚。財産が目当てだったともいわれる。

1914年 北海道で冷害→飢饉。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。研究の比重は、考古学から生きた人間をあつかう人類学へと移る。

1920年頃 木村千代と知り合う。千代は日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。神戸の病院で婦長として働いたあとマンローのアルバイト先だった軽井沢の病院に赴任。

1923年(大正12)9月 関東大震災。マンローは軽井沢に居を移す。

1924年 軽井沢サナトリウム病院長に就任。婦長の木村チヨと恋愛関係におちいる。

1924年 妻アデルの実家が破産。これがもとで離婚に至る。アデルは神経衰弱となり、ウィーン大学のフロイドのもとに治療に赴く。

1924年 木村チヨと事実婚。(61歳)チヨはマンローを長年無給で支えた。

1924年の出来事に関する記述は、前後関係が錯綜しており、感情も混じえたものとなっています。
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     マンローと千代

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価。

1930年 11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月の間にイオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残す。この映像に対しバチェラーは、「残酷野蛮な行事を公開するのは心ないやり方」と批判。マンローは「一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival
熊送り

1932 年(昭7) 

9月 二風谷永住を決意。チヨと共に二風谷に移る。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

12月 二風谷の仮住まいが火事に遭い多くの物を失う。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1934年 マンロー邸内に撮影用のチセが建てられる。

1935年 道庁職員の谷万吉が二風谷のマンロー館を訪ねる。以後、死亡までの困難な数年間を親身に支える。

1937年(昭和12) アデールと協議離婚成立。同年木村チヨと正式に結婚。アデルは3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算したという。

1941年 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

1942年(昭和17年)4月12日 腎臓ガンのため79 歳で死去。遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬される。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。

軽井沢には妻のチヨの手で分骨の墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。
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             晩年のマンロー

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、『AINU Past and Present』として発表される。

1974年 長年にわたり博士を助けた千代夫人が死去。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。

二風谷の展示がすごい

天気があまりに良いので、今年最後と思い遠出した。

高速から日高に入りそこから二風谷に向かった。紅葉が盛りでというか少し見頃を過ぎていて、落葉を敷き詰めた中に楓の紅が強烈な輝きを示していた。

二風谷は以前から気になっていたところで、瀬川拓郎さんは「アイヌ文化の発祥地」とまで言っている。ユーカラの多くもこの地に伝えられたものだ。

明治以降に訪れた外国人の数も異常に多い。いわば研究者のメッカとなっている。

博物館が3つあって、その中で歴史館というのを選んで入場した。理由はただだからである。
そこしか入っていないので他との比較はできないが、良い施設であった。鵡川から幌尻岳までを納めた、5メートルを超える大パノラマは圧巻である。屋上からの眺めも素晴らしいものだった。

二風谷にはかなり金が入っているようだ。ダムとの関係で建設省から入ったか、故萱野議員の政治力で中央からつぎ込んだか、とにかく町立の博物館とは思えない展示だ。

展示は2つの柱からなっている。これには他の展示施設と比べ際立った特色がある。

一つはアイヌの保存していた、あるいは遺跡から掘り出された遺品の数々だ。

立派な大刀や鉄製品、美しい装飾品、それらは日本人の有力者の持ち物に遜色ない。どうも既存のアイヌ観を一旦捨てなければならないようだ。それらの遺品の多くは17世紀後半の樽前山噴火の前のようだ。

しかもその頃は、広範に畑作が行われていた痕跡がある。狩猟・採集生活と言うより農業が生活の基本だったのではないか。ただし本州に輸出するための鳥獣の捕獲は一種の産業として営まれていた可能性がある。それは現金化され、和人の制作した商品と交換された。

この経済的余裕がアイヌ文化の成長をもたらしたのであろう。

もう一つは明治期に二風谷を訪れた外国人の多さである。




以下の4連作になっています
「foobar2000でソニーワイヤレスを鳴らす」ことに成功した。と言っても何かを成し遂げたわけではない。
人さまのサイトで教えてもらっただけなのだ。

koulogさんのブログで、奇跡に出会ったのだ!
2015年3月 1日 (日)
という記事。

記事の中ほどで、主題とは関係なく、「ついでにこういうこともできます」みたいな説明があって
こうする事でWireless Lan経由でハイレゾで信号を送る事が可能になります。
という図があって、それがこれ
capture
この絵のとおりにやったら、まったく音飛びなし。koulogさんが神様に思えてくる。見ずらいと思うのでよく見たければご本人のサイトに行ってほしい。

しかしそれにしても、「なぜ?」なのかさっぱりわからない。狐につままれた気持ちである。

以下の4連作になっています
これで大体わかった。つぎはアプリを使ってスピーカーにワイファイ接続する方法についてだ。

「ワイファイ接続」というが、実はこれが一番苦労したところだ。
はっきり言っておこう。この機械はスマートホン向けのもので、パソコン使いの連中はそもそも眼中にない。そういう機械だ。
ソニーの取説には「ワイファイ接続」の方法は書いてない。自分で調べるしかない。私はこれで土日の2日間、まるまるつき合わされた。MDの移植に続いて二度目の「魔のソニー」だ。
とにかく、このブログを見る人のために、順番に書いていこう。

1.機械の説明

これは比較的簡単。といっても取説は余分なことは書いても必要なことは書かないから、読み解きには一苦労する。

まずは機械の説明。いくつも名称があるので覚えて置かなければならない。正式名は“SRS-HG10”だ。どういう機械かというと「ワイヤレススピーカー」だ。ただしこれはソニーがそう自称しているだけで世間的に通るかどうか走らない。そしていわば愛称として“h.ear go2” という名前もある。これはこの種類のソニーの製品をくるめたグループ名のようである。

ボタンがたくさんあって、分散している。ボタンは無くてもいいのもあるが、必要な操作には足りない。だから、一つのボタンに複数の機能があったり、組み合わせ操作があったり、長押し操作があったり、相当面倒である。
製品の思想としてはスマートホンの外付けとして設計されている。取説もそのように書かれている。そのように使うつもりの人は、このブログを読む必要はない。パソコン用の据え置きの外付けスピーカー機能をもとめる人は、怒りに身悶えしながら、大事なことを覚えていかなければならない。

2.ブルートゥースその他の接続

まず、背中の左上隅にファンクションボタンがあるので、そこを押して見る。上面左奥のランプが左から順番に点灯する。ネットワーク、ブルートゥース、USB、オーディオ・インと並ぶ。後ろ2つは何も操作はいらない。

ブルートゥースは上面のエキストラ・バスを長押しして「ペアリングです」と言われたら、パソコンのブルートゥース画面を開いて、ペアリングすればよい。再生の操作はすべてパソコン側で行う。

音を試し聞きしたが、一言で言ってお話にならない。2千円くらいの外付けスピーカーと何ら変わりはない。これで2万8千円はサギだ。

3.ワイファイ接続(無線LAN接続

機械の名前が3種類あったように、接続の仕方もいくつかある。我々にはワイファイ接続というのが一番ピンとくるのだが、これは無線接続の規格名であり、一般名では無線LANという。ブルートゥースも無線だが、こちらは無線LANとは言わないらしい。

ブルートゥースはいわば親機と子機の接続であり、無線LANの方は同格の機械同士が契約を結んで接続するという関係にある。この契約のプロトコールがワイファイということになる。

テクニシャンはこういう概念論をすっ飛ばしてしゃべるから、言語明瞭・意味不明ということになる。

それで、ワイファイ接続については取説に書かれていない。「別冊に書かれている」となっているが、そんなものは入っていない。どこかネットにあるのだろうが、何処にあるのかも書かれていない。まったくもって不親切な取説だ。

仕方がないのでグーグルで“srs-hg10 wifi接続”と入れて検索した。

ソニーのヘルプガイドで、
というページがヒットした。

ここには3つの方法が書いてある。それぞれについて数行づつ説明が書かれている。

①専用アプリ “Sony | Music Center” を使う
②無線LANルーターのWPSボタンを使う
③パソコンを使う。

私たちのほしいのはこんなものではなく、標準的な方法を唯一つだけ、その代わりもっと丁寧に書き込んでほしいのだ。

この“ヘルプ”が、私を無限地獄に引き込んだ。

正解は結局②のみだった。①は正解の半分しか含まれていナい。③はほとんど不可能だ。

この③に挑んで、まる2日を費やした。「ルーターのWPSボタン」がどうしても見つからなかった。挙句の果てに無線LANルーターの取扱説明書を読んで、やっと分かった。

ルーターの取説

我が家の無線LANルーターには「WPSボタン」がちゃんと着いていたのだ。しかしあまり字が小さいので見逃していたのだ。

1.2つの「WPSボタン」

これに基づいて接続法を説明する。
接続は二段階に分かれる。
まず最初はワイファイスピーカーとルーターを接続する作業だ。まずスピーカーのWPSボタンを押す。
スピーカーのランプがチカチカし始めたらLANルーターのWPSボタンを押す。すると2つの機械がドッキングしてそのランプが付く。
第2段階はパソコンにその接続を認識させることだ。正確に言うとすでに認識はしているのだが、その接続をアクティベートすることだ。

具体的には設定→ネットワークとインターネット→Wi-FiにSRS-HG10のネットワークがあるのでそれを接続する。

これは一度接続すればそれは永続的なものとなるので、「利用可能なネットワーク」には姿を表さない。「既知のネットワーク」には登録されている。


2.ドライバー付きの再生ソフトを接続する

これだけではまだ動かない。最後に音楽再生ソフトをこの接続と関連付けなければならない。

このとき登場するのが、ソニーの音楽再生ソフト「ミュージックセンター」である。

このソフト、スパホ用のアプリを無理やりパソコンに移植したものらしい。不格好でセンスは最悪だ。
しかし当面ワイファイスピーカーにファイルを転送できる唯一のソフトだ。
musicCentor

この写真が立ち上げ時のもの。右肩にある雪だるまのマークを押す。
吹き出しの中から“hear go2”を選択する。これですべての手続の終了だ。

流石にBluetoothとはレベルが違う。ラジカセレベルの音はする。などというとソニーに叱られるか。
もちろん書斎でDAC→プリメイン→Daliにつないだ音と比べては可哀相だ。なにせ値段は10分の1だ。

ワルキューレの葬送音楽を聴いたが、強奏でも音が潰れない。中音源まで分離されて聞こえる。クラシック聞くのなら、ExtraBassは入れないほうが良いだろう。その分音量を上げるのが良い。

とりあえずこれで音は出た。次はFoobarでどうやって音を出そうかという算段に入る。




以下の4連作になっています
foobar2000でワイアレススピーカーを鳴らす

「SRS-HG10」を買ってきて、Wifi環境で鳴らそうと思ったのだが、専用のアプリを使えとしか書いてない。しかもこのアプリ、例によって使い勝手の悪いことおびただしい。取説も取り付く島もない。

そこでいっそfoobar2000で鳴らそうと考えた。多分これでまた3,4日は無駄に過ごすことになるだろうが…

ハウツーIT というサイトに
という文章があった。
これに従って開始することにする。

やることの基本

① foobar2000にUPnP/DLNAのコンポーネントを追加する
② foobar2000を起動させているPCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする。
③ 家庭内のLAN設定やファイアウォール環境によっては多少設定する必要がある。

ということなので、② は多分、①が成功すれば自動的にそうなると思うので、 ③ が面倒になりそうな気がする。

方法

オフィシャルのコンポーネントページを開く。
http://www.foobar2000.org/components

UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Point 0.99.49

というのをダウンロードする。
A、B、C 順なので一番下の方だ。
上にUPnP MediaRenderer Output 1.3.2というのがあるので、間違えないようにする。

ダウンロード先(私の場合はデスクトップ)に“foo_upnp”というDLLが開かれるが、これは直接使うということではないようだ。

Components にApplyする。
するとそこに、UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Pointが組み込まれる。

しかし案の定、これだけでは動かない。

最初の書き方がなんとなく気になっていたが、再生できるようにするのではなく、「PCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする」だけのソフトのようだ。

というページには、その続きが書いてある。

続けて、UPnP MediaRenderer Output コンポーネントを追加します。

これを先ほどと同じ要領でダウンロード→アプライ→インストールします。

コンポーネンツ一覧表に “UPnP MediaRenderer Output” が載っていれば完成です。

すると、デジタルメディアレンダラ―(DMR)を出力先に指定できるようになります。
つまり、DLNA対応オーディオを指定できるようになります。

いよいよここからが最後のコースです。

Fileメニューから Preferences - Playback - Output とたどります。
Device の個所に、デジタルメディアレンダラ―(DMR)であるDLNA対応オーディオがリストされているはずです。

私のパソコンでは
UPnP : foobar2000 Renderer(鈴木頌)[DESKYOP-8kjip59]
と出ました。

これに出力先を変更して再生しようとしましたが、再生できません。”Playback stopped” になってしまいます。

つまりこの文章で一歩先には進んだが、まだゴールにはたどり着けない。そしてこの手の話は1か0かなのです。99%は0に等しいのです。

もう少し頑張りましょう。

ネットの日本語文献では、とりあえず、これ以上めぼしいものはありません。

しかたないので、くやしいけれど、ソニーの取説にもう一度チャレンジします。


もう一度foobarをワイファイ・プレーヤにする手順

ソニーのMusicCenterというソフトで、音を機械にワイファイ送信できるようになった。これまでの仮定で、だいぶ話のすじが見えてきたのだが、まだ最終課題であるfoobarをワイファイの発信元にする手段はできていない。多分、かなりいい線まで行っているのだが、最後のツメができていない感じだ。

もう一度文献を読み直すことにする。今度は余分なことには関わらずにプロシーデュアのみ追求していくことにする。


「ネットワークオーディオ化」というのはわかりにくい言葉だ。オーディオの「ネットワーク化」ということだろう。

著者は「ネットワーク化」には2つの意味があると言う。

一箇所に保管した音楽を別の他の機器からも再生できる(サーバー、クライアント機能)
オーディオ機器を他の機器(例えばスマホ)から操作できる(レンダラー機能)

そしてこれらのネットワークを家庭内で構築することを「家庭内LAN」という。

と、ここまでが前説。

で、foobar2000にUPnP/DLNAコンポーネントを追加することから話が始まるのだが、ここからの手技はすでに勉強した所。

今読み直すと、意外に大したことは書いてないことに気づく。

次がこれも読み直しにいなるが、
これは先程より少し親切で、

UPnP/DLNAコンポーネントのほかにUPnP MediaRenderer Output コンポーネントも入れないと再生はできないということになっている。

逆に言うとこちらがあればUPnP/DLNAコンポーネントはなくても良いということになるのかも知れない。まぁ一応は入れておくが…

「これで、DLNA対応オーディオで聴くことが出来ます」とあるが追加されたデバイスのどれをとってもSRS-HG10では再生されない。

正確に言うとUPnP:hear go2では16秒かだけ再生され、その後Hold状態となる。
このときバッファー値を変えて「適用」ボタンを押すとまた数秒くらい動くがまた中断する(終了ではない)

どうもこれは「ひどい音飛び」に属する現象のようだ。

で、修正を図る。

で、アドバンス設定を色々いじった結論。これはfoobarをいじれば済む話ではなさそうだ。

それで済むのは2014年ころの話。今は無線LANの通信速度がかなり決定的なようだ。

たしかにソニーのMusicCenterという再生ソフトを使っても、2,3分に一度の割で音飛びが発生している。

ソニーよりfoobarのほうが格段に音が良いから、その分無線LANルーターに負荷がかかっているのかも知れない。





ワイファイとブルートゥースがどう違うのか知らなかった。
この度ソニーのワイファイスピーカー「SRS-HG10」を衝動買いして、それが違うということが初めてわかった。

そこで勉強の成果を以下にまとめておく。

USSEN GATE 02 というサイトの
という記事

まずはリード部分から、
スマートフォンの普及に伴い、Wi-Fiと同じくらい認知度の高まりを見せたのがbluetoothです。
そうなんだ。最初はワイファイで、あとからブルートゥースなんだ。

「その詳しい仕組みや両者の違いなど、知らない人も多い」
まさにその通り。

1.Wi-Fiとbluetoothの基本

Wi-Fiの名は、Wi-Fi Allianceという団体が認証した製品のみが名乗ることができます。
大まかにわけて6種類あり、周波数帯と暗号化方式で分かれています。

bluetoothの名は、エリクソン社の技術として始まりました。今では、無線マウスや無線キーボード、スマートフォンなどに利用されており、身近な存在となっています。

両者は対応機器同士を無線で通信する点では共通していますが、通信規格や使用環境には大きな違いがあります。

2.通信規格上の違い

通信速度: 圧倒的にWi-Fiのほうが速いです。bluetoothの通信速度は最大でも24Mbpsですが、Wi-Fi規格は速いものでは6.9Gbpsに達します。60Gbpsの規格も開発されています。

通信距離: bluetoothは届いてもわずか数十メートルですが、Wi-Fiは数百メートル先まで届きます。
ただしWi-Fiは速いものほど直進性が強くなり、障害物の影響を受けやすくなります。

3.利便性の違い

利便性については一概に決めることはできません。

Wi-Fiはワイヤレス・ネットワークを構築するのに用いられます。デバイスは、射程範囲内ならどこでも持ち運ぶことができます。

これに対してbluetoothは、1つの機器を近くの対応機器につなげるものです。
bluetoothは1対1の連携となります。利用したいデバイス同士を「ペアリング」操作で接続します。

消費電力が少ないのは、bluetoothのメリットです。長時間使用する場合に向いています。
Wi-Fiは消費電力が激しく、バッテリーがすぐに消耗してしまいます。

4.ブルートゥースの使い方

スマホはワイヤレスイヤホン、パソコンはワイヤレスキーボードとマウスで使うことが多いようです。

ということで、ブルートゥースの方はあらかた分かった。

で、問題は、音楽を無線で飛ばして良い音で聞く場合、どちらが良いかということだ。まぁ、ここまでで答えはほとんど分かったようなものだが…

そこでDENONの
というページから。

1.Wi-Fiスピーカーの仕組み

ワイヤレススピーカーは大きく分けてWi-FiスピーカーとBluetoothスピーカーの2つのグループがあります。

それぞれ仕組みが違うため、メリットとデメリットがあります。

Wi-Fiは当然Wi-Fiネットワークが利用できる環境でしか使えませんが、Bluetoothは直接無線で接続するためルーターを必要としません。

2.音質はどうか

Wi-FiスピーカーはLAN回線を使用するため、伝送できるデータ量が大きく、高音質な再生が実現できます。

WAVやFLAC、DSDなど高音質なハイレゾ音源の再生に対応しているのは、こちらのタイプです。

Bluetoothは伝送できるデータ量が少なく圧縮されるため、Wi-Fiと比べると音質は劣ります。

3.ネットワークとの関係
Wi-Fiスピーカーのメリットとしては、複数のスピーカーに接続できること、音楽ストリーミングサービスを使えることなどが挙げられます。
ということなので、「SRS-HG10」を買ってブルートゥースで聞くなど愚の骨頂ということになる。













その3

FRB、マネー制御難しく
短期債を月600億ドル購入、長期債は温存
金利安定を急ぐ

ワシントン駐在の川浪記者の署名記事

リード部分

短期金融市場の資金が逼迫している。短期金融資金の不足は短期金利の乱高下を招いている。
FRBは短期国債を月600億ドルづつ買い入れると発表した。

量的緩和の後始末としての量的縮小が、今回の短期資金不足の原因となっている。

FRBはバランスシートを再び拡大することになり、金融政策の「正常化」は一段と遠のいた。

一連の経過は、量的縮小が予想以上に困難であることを示している。

11日のFRB発表の概要

① 短期債の購入を開始する。
② 「これは現在の金融政策を変更するものではない」

量的縮小と短期金利の経過

リーマンショック以降10年でFRBの金融資産は4.5兆ドルに達した。

17年から量的縮小に転じ、これまでの2年間で3.9兆ドルにまで減少した。ただしショック前の資産量は1兆ドル足らずだった。

しかしその量的縮小の影響が短期資金市場にシワ寄せされた。市場から余剰資金が吸い上げられ、民間銀行がFRBに預ける準備預金は3分の2にまで減少した。これが短期金利の乱高下する理由となっている。

政策金利は2%弱なのに、銀行間金利は1時10%まで急上昇した。FRBは引き締めすぎたとの声が上がっている。

7月以降2度にわたる利下げが続いている。今月末に追加利下げが行われたとしても、もはや利下げ効果は期待薄である。
とすれば量的緩和に再び頼らざるを得なくなる可能性が出てくる。

量的緩和の今後

たしかに通貨量は不足している。グローバルには新興国の経済発展がドル需要を高めている。国内的には、財政の拡大と赤字幅増大が民間マネーの吸い上げを引き起こしている。

量的緩和はたんなる金融政策ではなく、経済の拡大に伴う必然的な経過という側面もある。

記事の最後は次の言葉で結ばれている。
量的緩和後のマネーの流れは、いまだに金融当局すら予期できずにいる。
その先にナイアガラが待っているのかどうかは誰にもわからない。


リーマンショック以来の連銀の金融政策は基本的には量的緩和であった。というより金利はすでにゼロ金利まで済ませており、それ以上やるとすれば量的緩和しかなかった。
だから、景気が回復したとき連銀が真っ先にやりたかったのは量的縮小であり、その後に適正金利への復帰という路線であったろうと思う。
私としては以前から気になっていたのだが、量的引き締めのテンポが早すぎたのではないか。
金利の上げ下げは見せやすい。トランプももっぱらそちらに目が向いている。
しかしこの10年間、もっとも有効な金融施策は量的緩和だったのであり、通貨量の調整こそもっとも慎重に行うべきではなかったのかという思いがある。

ということで、この記事には非常に興味があった。

拾った日経新聞日曜版 その2

2.ホルムズ緊張 LNGも影響 海峡通過は14%だが、原油連動がアダに

サウジの原油施設が攻撃され、11日にはイランのタンカーが紅海で攻撃された。

こうした中でLNGの価格も上がっている。16年の底値がトンあたり3万円余だったのが最近では5万円を超える価格にまで達している。

LNGは震災後の原発停止時の救世主となった。あのときはLNGを入手するために四苦八苦した。高いスポット買いを余儀なくされ、しかもパイプラインが不備なためにとんでもない輸送コストを強いられた。これが貿易赤字の大きな理由になった。

現在では日本の発電力の4割をになっている。さらに都市ガスのすべても担っている。

LNG価格は、購入3ヶ月前の原油価格をもとに決められることになっている。なにか変なのだが長年の商慣習らしい。

これはかつてLNG産出国が中東の石油産出国と重複していたことから形成されたらしい。しかし現在では日本のLNG調達先は随分と多様化している。

大まかに言うと豪州4割、東南アジア3割、中東2割、これにロシアとアメリカが合わせて1割という構成になっている。大変覚えやすい。

これだと原油にお付き合いする必要はないし、ホルムズ海峡緊張で右往左往する理由もない。

結局の所、日本は供給先(その多くが石油メジャー)からなめられているということなのだろう。

ただ20年の長期契約がまだ残っているので、これが切れた後は順次、原油非連動型になっていくのだろう。それまではとりあえずスポット外の比率を高めることで対応するものと見られる。










拾った日経新聞日曜版

昨日医局のゴミ箱で捨てられた日経新聞日曜版を拾って読んだ。まさに拾い読みだ。誰も読んだ様子はない。

日曜版の良いのは相場面がないことで、全編読み物で、赤旗日曜版並みの情報量である。クォリティははるかに高い。

サラッと書き留めておく。

1.の「チャートは語る」という連載もの 資金吐き出す株式市場/ 自社株買いが増加/ 過去5年間で通算200兆円、調達額を上回る/
の3本見出し

世界の上場企業は株式発行による調達を減らす一方、市場から株式を買い上げる自社株買いを増やしている、18年には150兆円に達した。

株式発行との差額は5年間の累計で200兆円になった。この傾向は20年前から始まっている。

自社株買いについては3面に解説記事がある。

企業が自社株を買い取ると、この株は議決権がなく配当も支払われない。場合によっては償却されることもある。
これによって企業は配当金を節約でき、何よりも安全性を買うことができるようになる。投資家にとっても一株あたりの利益が改善し、それが配当増となって跳ね返ることになる。
株が金庫に塩漬になれば、それは株式交換などで「現金」化され、M&Aやマネーゲームのチップとなっていく。これはかなり犯罪に近い運用だ。

自社株買いという事態は株式市場にとって2つの意味を持っている。短期的には大量の買いが市場を支えているという側面、長期的には株式市場が徐々に収縮し意味を失いつつあるという側面だ。

ではこのような傾向がどうして生じたのか。

記事ではいくつかの要因を上げている。

① 企業が投資に慎重になり、余った金を還元しようとしている。株主も価値の希薄化につながる増資を嫌う傾向がある。

② 投資マネーが株式から債券へとシフトしている。株式による資金調達額は、この10年間で2割減少している。スタートアップ企業も未公開のままファンドから資金を調達できるようになった。

③ 産業構造の変化が進み、設備投資など多額の資金需要が減少している。



記事はこう結んでいる。

資本主義を支えてきた株式市場は、その存在意義を問われるようになっている。

ちょっと言い過ぎの気もするが…

本日の赤旗国際面はビッグニュースが目白押し。見出しだけ並べても最近の世界の激動ぶりがよく分かる。

1.エクアドル: 政府が燃料費補助廃止を撤回

2.韓国: 検察特捜部を縮小

3.シリア: シリア政府、クルド勢力と連携
米大統領、トルコに制裁

4.ポーランド: 議会選挙 上院で野党が過半数

5.ハンガリー: 野党共同候補がブタペスト市長選挙で当選

6.チュニジア: 無所属の大統領が勝利

7.イラン: タンカー爆発は国家の関与か

8.アメリカ: IMF予測 世界成長を下方修正

9.中国: 対米輸出が前年比22%減となる

これらのニュースの中で、エクアドルがなぜトップ記事になったのかはよくわからない。どうも最近の赤旗国際面はよくわからない。

これらについては、少し背景をふくめて勉強しなければならない。

幕末期 国学や水戸学の一部や吉田松陰ら、「日本書紀」の記述を牽強付会。日本が朝鮮を支配していたと主張。これを論拠として朝鮮進出を唱える。背景に朝鮮侵略で、欧米からの圧迫の代償を得ようとしたと言われる。

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は征韓論に基づく日朝提携論を唱え、勝海舟に献策。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想した。(木戸は後に反征韓論に転換)

1864年 国王の後見となった大院君は、清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始。

1866年

2月 大院君政権が「丙寅教獄」と呼ばれるキリスト教弾圧。フランス人宣教師9人、朝鮮人教徒8000人を殺害。

7月 米国の武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江へ侵入。座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、全員殺害される。

10月 フランス人宣教師殺害に対し報復攻撃。フランス極東艦隊が1ヶ月に渡り江華島を占領、朝鮮軍と戦う。

1867年

1月 八戸事件発生。「八戸順叔」なる香港在住の日本人が、清国広州の新聞に「日本(幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしている」との記事を寄稿。清・朝鮮の疑念を招く。

3月 徳川慶喜がフランス公使ロッシュに、フランス・朝鮮間の調停を依頼する。

7月 老中板倉勝静から対馬藩へ八戸記事を公式に否定するよう命じる。

11月 徳川慶喜、大政を奉還。

1868年

1月(旧暦で慶応3年12月) 王政復古の大号令。錦旗をいただく明治政府が成立。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進展。

1月 新政府は対馬藩を介して発足を通告し、国交確立を望む。朝鮮側は国書の受理を拒否。

これまで外交権を代表する徳川将軍と朝鮮国王は彼比対等の礼をとっていたが、国書は清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含んでいた。

4月 江戸開城。

10月 慶応4年から明治元年へと改元。

11月 新政府、対馬藩を通じて国書を送り、王政復古したことを知らせる。この中で新しい印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたことから、朝鮮政府は受け取りを拒否。

12月 岩倉具視、木戸孝允らが国書受理拒否の事態を受け朝鮮侵略を画策。戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。

1870年(明治3年)

2月 明治政府は特使佐田白茅を釜山に派遣。国交を求めるが拒否される。

4月 佐田白茅は、朝鮮の対応に憤慨し征韓を建白する。「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」とし、参議の木戸孝允が訴えに共鳴。

7月 薩摩藩士の横山安武が、征韓論の非を訴え諫死(切腹)。

12月 岩倉視察団が出発。岩倉・大久保・木戸の三巨頭と伊藤博文らが1年10か月にわたる外遊を行う。「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と批判される。

1872年(明治5年)

1月(明治5年) 対馬旧藩主を朝鮮に派遣し国交を要請。朝鮮はこれを拒否。

5月 対朝鮮交渉は外務省の専管となり、対馬藩の関係は解消される。

8月 外務大丞花房義質が釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に赴き折衝するが不調に終わる。

1872年 大院君の排外鎖国政策がさらに強化される。これに伴い排日の風も強まる。

1873年(明治6年)

伊達宗城が清に派遣され、日清対等の日清修好条規の締結に成功する。朝鮮は再度の国交交渉呼びかけも拒否。

5月 朝鮮が、釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に日本を侮辱した書を掲示。倭館への食糧供給を拒絶する。

6月 閣議で対朝鮮外交問題を議論。板垣退助は居留民を保護するため兵を派遣するよう主張。西郷隆盛は派兵に反対し、まず大使を派遣し直接交渉するよう主張(遣韓論)。

6月 太政大臣三条実美は、閣議を受け、朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を作成。西郷は自身が大使として赴くと主張し即時出兵を抑える。これを板垣・大木・後藤・江藤が賛同。

6月 副使大久保利通、が帰国。そのまま閉居となる。

7月 木戸孝允が帰国。原因不明の脳発作のような持病が出現。そのまま閉居となる。

7月 中国出張から戻った外務卿の副島種臣、遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望する。

8月17日 閣議で西郷の遣使を決定。事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとなる。

8月 三条は明治天皇を巻き込んで決行を抑える。三条の意を受けた伊藤博文がフィクサーとなる。

9月23日 岩倉具視,大久保利通らが欧米視察から急遽帰国。西郷派遣案潰しに奔走し始める。

「10月政変」

10月12日 大久保利通が参議に復帰。副島外務卿も参議兼任となる。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難とし、西郷と対決する意志を固める。

10月14日 参議会議。岩倉と大久保は、内政改革・国力充実を急務として出兵・遣使に反対。西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となる。大隈,大木は大久保に同調。
三条は「軍備が整っていない」ことを口実にし、征韓論を受け入れつつ、西郷の派遣を遅らせようと図る。これには岩倉・大久保・木戸が反発し、辞職の構えを見せる。

10月18日 三条は病に倒れる。副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とする。

10月20日 明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じる。大久保利通の差し金によるとされる。

10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、朝鮮遣使を発令するよう談判。岩倉は自らが太政大臣摂行となった以上、自分の意見を奏上するとし、事実上遣使を拒否。

10月23日 西郷、参議を辞任し東京を離れる。

10月24日 岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、大使派遣の中止案が裁可される。西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を解かれる。大久保・木戸らの辞表も却下される。

10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理される。以降岩倉・大久保政権となる。大久保は内務省への全権集中を図る。

10月25日 西郷らの辞職を受け、の薩摩系官僚・軍人の約600人もが明治政府に辞職を申し出る。

1874年(明治7年)

1月 岩倉が赤坂喰違坂で旧土佐藩士暴徒に襲われる。軽傷を負うが命に別状なし。

1月 板垣、江藤、副島、後藤らが愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出する。

5月 宮古島島民の遭難を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵。この後大久保は右旋回。木戸孝允は出兵に抗議し参議を辞任。木戸は当初征韓論者であったが、外遊後は反征韓論に変わった。

1875年(明治8年) 江華島事件。李氏朝鮮に対して軍艦を派遣。

1875年 日朝修好条規(江華条約)を締結する。朝鮮侵略の突破口。

1876年(明治9年)10月 熊本県で神風連の乱、3日後に「秋月党」の乱が発生。




征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

最大の類似点は、朝鮮政府側に落度がないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。

医療史から見た戦後期の予防接種法と結核予防法の研究
Historical Research of the Preventive Vaccination Law and the Tuberculosis Preventive Law
issued in post 2nd World War Occupied Japan 

研究代表者 渡部幹夫

BCGの有効性(費用対効果)問題は未だに結論がついていない。ついていないがまだ続けられている。論理的、倫理的にはもはや結論を出すべきときと思うが、結核撲滅に命をかけた人々の“亡霊”がそれを妨げているようにも思える。
これは臨床医を長く勤めた研究者による過不足のない論文(の抄録)で、物事を考える上での参考になると思う。


1.研究開始当初の背景

(1)「医療史」という括り

医学の臨床と医療制度の間には大きな哲学の違いがある。しかし、それぞれの領域が独自の哲学で対応してゆける時代ではなくなった。
このことを「医療史」という括りで、社会史として検討することを試みた。

(2)結核予防法と予防接種法

結核予防法と予防接種法は、戦後期被占領下に大きな改正が行われた。それはその後の日本の保健予防行政の中心をなした。
今回はこの二法を医療史研究の中心とする。

2.研究の目的

(1)GHQおよび日本側当局はよくやったのかも知れない

GHQおよび日本側当局は、第二次世界大戦後の劣悪な状況の中で、保健衛生の改善を迅速に行なった。その努力は評価されてよい。 

しかしその施策の中に、現在の保健・医療・福祉の問題と関連する歴史的な事実が多数存在している。
これらについては、戦後期の法体系の成立過程や、国民の受容過程を知ることが必要であると考えられる。

(2)世界で最も強力な予防接種法

日本では被占領下に、世界で最も強力な予防接種法が成立施行された。それは接種事故など多くの問題を起こしてきた。
この予防接種法について、成立過程を明らかにすることが必要である。

(3)結核予防法の改正

戦後占領期には結核予防法が全面改正された。この時期は、結核が国民保健をめぐるビッグイシューを占めた。その故に、当時からその法制度や医療をめぐる議論が活発であった。

なかでも現在もなお議論のあるBCGの接種問題や、法による結核管理について研究目的とした。


3.研究の方法

(1)一次資料

日本の資料として医学医療関係の資料および日本学術会議資料、新聞資料等を参考とした。

GHQ側の一次資料として、国立国会図書館公開のGHQ/SCAP文書を材料とした。

(2)GHQ/SCAP文書

GHQ/SCAP文書としては、① Tuberculosis Control、② BCG Immunization
 Japan の2つを対象とした。

(3)医学的資料
医学的資料は、昭和28年から昭和48年のにわたる結核実態調査報告書(一次から五次)と結核統計総覧(結核予防会編)により研究した。

4.研究成果

(1)BCG論争の総括

昭和26年、新結核予防法が施行され
た。この法律は国民健康保険制度のない時代の国民に非常に歓迎された。

しかし、結核の予防接種としてBCGが法で義務付けられたことから、いわゆる「BCG論争」が医学界、国会、行政、言論界、報道メディアで起こった。

論点は二点に集約できる。
① 結核に対する予防効果が確立していない。法による強制接種は望ましくない。
② 副反応の頻度が高く、無害とは言えない。

社会保障制度審議会と日本学術会議は、この二点から強制接種に反対の立場をとった。
結核予防会及び結核予防審議会は推進の立場をとった。
GHQは接種推進を明確にしたが、厚生大臣は強制接種に躊躇した。日本医師会の態度は不明確である。

この論争は、衆議院厚生委員会のBCG接種推進の決議と厚生大臣の辞任により政治的に終結した。

この論争を通じて問題点も明らかにされた。乾燥ワクチンの不確実性や接種の方法などである。
これについては昭和27年から、BCG接種研究協議会が組織され改善がはかられた。

医学的論争を社会が共有することにより日本の結核医療の体系は「社会的な認知」を得たように思われる。

(2)論争の政治的背景

占領下においても国民の健康についての議論は活発に行なわれた。背景には保健・衛生・福祉予算をめぐる政治的問題があった。
特に厚生行政においてはGHQと日本の学術界を含む状況が反映していた。
結核死亡率推移
その後の五次にわたる結核実態調査では、結核の死亡率の低下は著しい。法律の寄与(ストマイ治療の普及、三者併用の導入など)は明らかである。
患者数は正確な数を掴むことができない。したがってBCGの寄与については確言できない。

(3)旧予防接種法の問題点

予防接種法成立期のGHQ/SCAP文書から、戦後期の日本の防疫上の困難と当時成立した旧予防接種法の問題点が明らかとなった。

昭和23年に成立した予防接種法について、その制度の成立期の問題とその後の問題を研究した。

占領下に成立した予防接種法は、GHQ/PHWにより法制化された。それは極東米軍の軍事的方針によるものであった。
それは日本製ワクチンを広い範囲に、多くの疾患に対して強制接種することを目的とするものであった。

予防接種を嫌がる意識は世界に存在する。また予防接種は科学的に解明されない部分をふくむ医療行為である。

この点で、日本の法制定及びその後の歴史を研究して気づくのは、① 予防接種の慎重接種の考え方の欠落、② 予防医療政策の転換がつねに遅れる傾向である。

1988年 厚生科学研究報告書「世界各国の予防接種対策・特に健康被害救済制度に関する研究」では、この点を強調して下記のごとく著している。
予防接種が法律で義務付けられている国は少なく、日本のような制度を設けている国はほとんどない。

日本では終戦直後に大量の復員兵や帰還者が入国しており、感染症の爆発的な発生が認められた。
チフス
つまり旧予防接種法は、いわばMPが強制的にDDTを頭に振りかけるのと同じ発想だ。牛豚を消毒するのと本質的な違いはない。

しかし、大量帰還は47年末にはほぼ終結しており、感染症は持ち込まれたが拡散せず、そのまま収束に向かっている。すでにこの時点で、これら疾患に対する予防接種の必要は失われている。

(4)著者は結論を慎重に回避しているが…

論文の性格上からか、論文は論争に黒白をつけるのを控えている。しかし文末に以下のような感想を載せている。
英国に滞在して、予防接種やワクチンの安全性に対する社会の対応が、英国では非常に鋭いと感じた。日本との意識の違いは明らかである。

結核の歴史 年表

BC8000 インドやイラン、中東でウシの家畜化が始まる。人型結核菌は牛の結核菌から感染、変異したとされる。

BC7000  イスラエルの人骨(女性と子供の 2 体)から人型結核菌の痕跡が発見された。

BC3000頃 中国・上海の広富林遺跡で出土した女性人骨から、結核発症の痕跡を発見。

BC600  古代エジプトの一ミイラの肺、胸膜、横隔膜、大腿骨から結核菌の細胞壁マーカーが検出された。

AD200頃 鳥取の青谷上寺地遺跡で、弥生時代後期の人の背骨に結核の痕。縄文人に結核菌が見つからないことから、弥生時代に渡来民とともに伝来したと考えられる。

735年 天然痘が筑紫で発生。急速に東方に伝播する。

1510年 梅毒が広東方面から琉球を経て伝来。1~2年で全国に拡大する。

1008年頃 『源氏物語』に、紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しむ記述。

1864年 江戸日本橋の開業医、本間玄洞が内科秘録を発表。1年半で55名の結核患者を診療。その多くは20~40歳で人の集まるところに多発する傾向だとする。

1882年 ロベルト・コッホが結核菌を発見。

1890年 ロベルト・コッホが結核菌の産生するツベルクリン抗原を発見。結核治療目的に開発されたが効果はなかった。

1899年 日本で最初に結核に関する統計調査。人口1万人あたりの死亡者数は15.29人であった。

1907年 ピルケは、結核菌感染者にツベルクリン抗原を経皮投与すると、遅発アレルギーが起こることを発見した。これがツベルクリン・テストのはじめとなる。

1913年 石原修が「女工と結核」を発表。女工の結核死は一般の約3倍と推計した(国家医学会雑誌)

1918年 結核死が史上最高の25.71人となる。諸外国と異なり、常に女が男をはるかに上回つていた。石原は、女工の結核死は一般の約3倍と推計した。

1921年 BCGが初めて人に用いられる。フランス・パスツール研究所のカルメットとゲランが作成したもので、牛型結核菌を13年間、231代継代して得られた弱毒株。BCGはBacille Calmette-Guerinの頭文字をとったもの。

1924年 志賀潔がBCG株の直接分与を受け、持ち帰る。乳幼児期のBCG接種は、結核の発症を52~74%抑えることができるとされる。

1934年 日本での結核患者数は131万5250人、全人口の2%に達する。結核死亡者は13万1525人に達し、うち 15 ~ 34 歳が64%に達する。この後都会では自然免疫の獲得(tuberculinization)により発症率が漸減。

1944年 ワクスマンらがストレプトマイシンを開発。

1947年 死因疾患ランクで1位となる。以後4年間、1位を続ける。

1950年 抗うつ剤として開発されたイソニアジドに抗結核作用があることが発見される。

1951年 日本で結核予防法が制定。BCG接種、結
核検診、化学療法の導入を柱とする。

1952年 ピラジナミドが臨床応用を開始。酸性環境にいる菌に殺菌的に働くが、毒性が強く使用されないままに終わる。

1961年 抗抗酸菌薬エタンブトールが開発されれる。

1961年 半合成抗菌薬リファンピシンが登場。新三者併用の多剤療法で9ヶ月で治療が可能となる。

1992年 WHOが世界結核非常事態宣言を発する。喀痰塗抹検査中心の患者発見,標準化された短期化療を柱とする。

1980年 結核の死因ランキングが10位以下となる。

1986年 米国で6ヶ月の短期化学療法を標準治療として行うように勧告。ピラジナミドの2ヶ月間併用により治療期間を短縮でき、再発を抑えられるとする。

1994年 WHOなどが監視下服薬法(DOT)を推奨。

1996年 日本で10年遅れて4者併用療法を採用。

2003年 BCG接種法が相次いで変更。小中学校でのBCGの中止、乳幼児でのツ半なしでの接種、生後1才までの接種延期など。

2005年 ツベルクリン反応検査が廃止される。

2007年 結核予防法が廃止される。感染症法に統合。

オープンソースの哲学

わたしごとき門外漢には、どこまでがIBMの宣伝でどこまでがエシカルな領域なのかがよくわからないのだが、GAFAのようなプラットフォームが仕切る情報ディストピアの世界に突入していくのか、ネットの本来持っていた開放型世界が広がっていくのかは、非常に気になることなのだ。

米中摩擦もことの経緯はともかくとして、もっと本質的な未来社会論の立場から見て気になる話題だ。

ASCIIxビジネスに掲載されたレッドハット幹部の講演「デジタルリインベンションの “第2章” とは」を読んでみた。(言葉はちんぷんかんぷんである)

ユーザードリブンによるイノベーションが進展するなかで、副産物として生まれたのが、オープンコミュニティーである。レッドハットは、そこに積極的に参加するとともに、オープンソースをエンタープライズ領域でも活用できるようにするための努力をしてきた。

過去10年間において、エンタープライズのイノベーションの中心にあったのは、Linuxである。

Linuxは開発環境のプラットフォームとして最も使われており、パブリッククラウドの54%がLinuxである。Microsoft Azureにおいても、多くのユーザーがLinuxを利用している。Linuxは、エンタープライズにおけるイノベーションエンジンだといえる

だが、オープンソースはエンタープライズの90%の課題を解決できるが、残りの10%の課題は解決できない。このギャップを埋める必要がある。そこに2社が一緒になるメリットがある。

エンタープライズ機能追加の姿勢

IBMは最初にエンタープライズシステムにLinuxを採用したベンダーである。それをきっかけに、約20年間にわたる両社のパートナーシップが発展してきた。

いまやLinux、Container、Kubernetesといった技術からイノベーションが生まれている。クラウド、データセンター、エッジコンピューティング、自動運転などが構築されている。

その結果以下のようなラインアップが形成されてきた。

1.過去7年間かけて、OpenShiftをエンタープライズ分野で活用できるように進化させた。

2.過去5年間で、Linux対応のクラウドレディのポートフォリオを取り揃えた。

3.95%のユーザーがLinux Containerを活用している。企業クラウドの実現において、Kubernetesが不可欠になっている。

4.世界の上位3台のスーパーコンピューターのうち、2台はLinuxで稼働している。上位500位のなかで、最も利用されているOSはLinuxになっている


オープンソースであることが最大の要因

エンタープライズ分野やスーパーコンピューターの分野で、Linuxがこれだけ多くの実績を持っているのは、Linuxがオープンソースであることが最大の要因である。

そしてIBMとの連携の中で、ハイブリッドクラウドを実現するための環境が整って来ているからである。

両社の補完関係は、ハイブリッドクラウド化が進展していくなかで、レッドハット製品や技術を活用することが不可欠となる、という形で進行するだろう。

一方で、生まれるハイブリッドクラウドにおける複雑性をどう解決するかが、ますます深刻な課題となる。そのためにIBMが持つAIを活用する機会がますます増えていくだろう。

さらに、業種ノウハウとしては、IBMの蓄積は圧倒的である。AWSやGoogleよりも蓄積は多く、エンタープライズにおけるLinux活用が加速される土壌が整っている。

「第2章」ではクラウドそのものが進化する

第1章では、AIテクノロジーの部分的導入が進展した。
① ソフトレベルでは、モバイルを活用したエンドユーザーのデジタル化への対応、
② 業務エリアへでは、ITコスト削減やクラウド導入、コールセンターなどが進展した。

これに対し、第2章とはクラウドをエンタープライズで活用する時代である。

そのためには、ハイブリッドクラウドの環境の進展が必要だ。ベンダーロックインのクラウド環境からの脱却、データとアプリケーションの柔軟な活用が不可欠となる。


…ということで、

何やらわからないが、これまでもIBMはLinuxと連携し技術展開を図ってきたが、今回それを一層強化しようということらしい。

その理由をLinuxの側から説明しているのだが、一つはLinuxの持つパブリックなオープン性であり、一つはIBMの持つAIテクノロジーであり、もう一つがIBMの培ってきた業種ノウハウだということらしい。

そして、これらの特質は、クラウドそのものが巨大化し進化する「第2章」において、時代に適応するために不可避となるだろうと見通している。

例えばいま最後のブラックボックスとなっているのがインテルなどのCPUだが、これらのアーキテクチャーもすべてオープン化しないと巨大クラウド環境には適応できないだろう。
私も、スマートフォンを買って初めて知ったのだが、この市場はシステム的には iフォンと、アンドロイドの一騎打ちになっているらしい。
それでアンドロイドはオープンなのだそうだ。それで私はアンドロイドにした。これならファーウェイの開発が米国から妨害されても、負けることはないだろうと考えている。


19.10.02
宮本眞樹子 「見て聞いて感じたベネスエラの今」

ベネスエラに行ってきました!

ハバナからカラカスまで直行便で3時間、お隣、という近さです。
12年ぶりのカラカスは、見たところ変わっていません。朝の通勤ラッシュ、夕方の雑踏、道端の物売り、美人でお洒落で魅力的な女性たち、普通の生活が見えます.
強いて言うなら、警備の人が増えた事でしょうか。

私がベネスエラを訪問していた時、首都カラカスでは、「ノー・モア・トランプ!大集会」と、「女性のための集会」が開かれ、スクレでは「ベネスエラ・キューバ相互連帯集会」が同時に開かれていました、なんとまあ精力的な事でしょう。

スクレ市まで行きました

今回は「連帯集会」に参加するために、カリブ海に面したクマナ県スクレ市に行ってきました。スクレはカラカスから東へ525キロ、海岸沿いのリゾート地でもあります。
島影が浮かび、絵のように美しい海と海産物の美味しいスクレ。ここはボリーバルとっともに南米を解放したアントニオ・ホセ・スクレが生まれた土地で、“栄光の地“と呼ばれています。

街の中心にある「フィデル・カストロ来訪記念彫刻美術館」を訪ね、スクレ像の建つ公園を散歩しました。
ショッピングセンターでお買い物して、ねっとり濃いガトーチョコレート(これが超美味!)にカプチーノのお茶タイム。
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      <買い物に来た女性たちと小さなお店の前で>

夜は海岸通りの公園で、毎週金曜の夜開催されるフィエスタ(お祭り)を楽しみました。
屋台の魚介類を賞味しながら、音楽が高鳴り、若者たちが盛り上がっているのを満喫しました。

”愛の高齢者“プロジェクト

ステージでは、”愛の高齢者“プロジェクトが開催されていました。
美しく着飾った年配女性の、それはそれは優雅で綺麗なダンスが披露されました。終わった後はやんやの喝さいを浴びていました。
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       <”愛の高齢者“プロジェクトの女性たちと>

曲が変わると誘われて、私も一緒に踊りました。日本人が珍しいのか、次々現れる男性を相手に、休む間もなく踊り続けてしまいました。

小腹が空いて、民芸品や手作りお菓子などがずらりと並んだ屋台を冷やかしながら食べ歩きました。
地元の人たちとお喋りしました。気になっていたことを訊いてみました。

「どこに餓死する人が?」

「ここでは食べ物がいっぱいあるけれど、日本のニュースでは食べ物が無くて餓死しそうな人がいるとか、病院に行かれなくて死にそうとか言われているの。本当にそういう人がいるのですか?」

たっぷり太った屋台の女性は笑いながら、「どこに餓死する人がいるのかね?」と聞き返してきました。
そして傍に立っていた二人の男性の太鼓腹を撫でました。このマッチョたちは私を物珍しげに見ていたのです。

周りにいた人たちも、どっと笑いました。そして「どこに餓死する人がいるのかね?」と、互いのお腹をさすりました。訊いた相手がふさわしくなかったかも(^^;)

フィエスタをやらないわけにはいかない

「失礼しました、日本ではそんな風に伝えられているものですから」
私はそう言い訳して謝りました。その女性は言葉を続けました。

「今年の3月、ベネスエラの発電所がテロ攻撃で壊されたの、知ってるでしょ? あの時、3日目が金曜日だった。フィエスタの日よ。
停電だったけど、フィエスタをやらないわけにはいかないもの。それが私たちのお愉しみなんだから。
それでみんなで車を集めて、車のライトで照らして、音楽をかけて、みんなで踊ったのよ」

感動で言葉を失った私、心の中で呟いていました。

「あっぱれ! ベネスエラ人よ!」

カラカスの庶民の生活事情

カラカスに戻ってから、お世話になった人や運転手さんたちにいろいろ質問してみました。
「インフレで物価高になって大変ですね?
 食べるものは調達できるのでしょうか?
 病院や教育費は?
 サラリーは平均どのくらいでしょう?」

答えは次のようなものでした。

「米国の封鎖強化で、インフレは酷い、サラリーが下がってお金は無い。今、サラリーの平均は6万5千ボリーバルだ。年金も少ない。私と同年齢の女性は4ボリーバルでまったく足りない。
 でも、食糧プロジェクトがあるから食べ物はある。政府からの食糧支援は2年前から更に増えた。
 例えば、お米、トウモロコシの粉(主食のパンケーキを作る)、卵、パスタ、油、砂糖、珈琲、ツナの缶詰…いろいろある、
 高齢者や障害者にはミルクなど更に多く支給される(安価で)」

キューバのリブレタ(食糧支援)と同じです。(真紀子さんはハバナ在住)

八百屋さんや小売店に行ってみました。食料品の品数は豊富、キューバは比べ物にならないくらいです。野菜や果物の価格はキューバと同じくらいです。珈琲はキューバの半額です。
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          <カラカスの街の八百屋さん>

* お店には、ベネズエラの側の案内で行ったのではなく、モールの前にあった小さな店にぶらっと寄ったとの宮本さんの説明です(新藤さんの注)

「病院は種類があって無料のもあります、教育費は大学まで無償です。

ガソリンは激安! だから、ヤンキーが狙う

移動中、スタンドでガソリンを入れました。運転手さんが「これで払う」といって、支払いのお札を私に見せました。500ボリバルです。
「え!まさか、それだけ?」 それではトイレチップと同じ金額です。

信じられない私、別の運転手さんに訊いてみました。
「ガソリンはリットル幾らですか?」
「ガソリン1リットルは0.0001米ドル、0.01セントだ」
(お店によって為替レートが若干違いますが、1USドル=20,000~23,000ボリーバル、9月末現在)
「は!そんな激安!?」
「いいかい、40㍑買うとする、100ボリバル払う、60㍑買っても100ボリバル、200㍑買ったとしても100ボリバルだ、要するにいくらでもないのだ、ここではオイルは水よりも安い」

計算が合わないだけでなく頭がついていけません。分かったのは
「だから、ヤンキーが石油を狙うのね」「シー!(その通り)」


宮本眞樹子(キューバ、ハバナより)

ベネズエラ大使らの邦銀口座が勝手に凍結

緊急に拡散することをもとめます。

朝日新聞報道(10月6日)

まずは朝日新聞の報道(平山亜理記者 2019年10月6日18時00分)

SMBC信託銀が駐日ベネズエラ大使らの口座を「凍結」

南米ベネズエラの駐日大使や、大使館員が開設しているSMBC信託銀行の口座が凍結された。

同銀行広尾支店の副支店長は、「トランプ米大統領がベネズエラ政府関係者による米ドル取引を禁じたためである。取引の一部がこの規制に抵触する懸念が生じると判断した」と説明した。

(「ベネズエラへの経済制裁」を理由に挙げているが、米国政府の行動を口実にした勝手なふるまいであることは間違いない : 筆者)

この結果ベネズエラ大使や大使館員は、子どもの学費の支払いやクレジットカードなどの引き落としもできなくなった。

大使が日本の外務省などと交渉し、円の口座は使えるようになったが、米ドル口座は使えないままだ。

朝日新聞の取材に、同行は「米財務省の規制に違反しないかを調べている」と説明。完全な凍結ではないが家賃の支払いなどが窓口で4時間かかった大使館員もいる。

イシカワ大使のメッセージ

2019年10月8日(火) 12:07 

皆さま
お疲れ様です。
今回の銀行の措置については、ご懸念と非難のメッセージをありがとうございます。
措置を知らされてすぐ、外務省に連絡を取り状況を知らせました。
銀行側は国家間の外交関係を定めるウィーン条約に一方的に違反していいます。
またトランプの大統領令は違法で国際法侵害に当たります。このような措置が域外適用されることは間違いです
以上のことを警告しました。
皆さまからの連帯のご支援を得て、これからも銀行側に圧力をかけていくと同時に、制裁の域外適用の危険性を一般に知らせていくつもりです。
イシカワ

なお、新藤さんによると、
トランプ政権の海外口座への凍結措置は、キューバ大使館にも9月にありました。しかしキューバに関しては、友好議員連盟などの協力で解決したようです。

1.ウォーレンに注目すべき理由

これまで我が国の、とくに左翼層の中ではウォーレンはあまり注目を浴びて来なかった。

彼女はエスタブリッシュメントに片足突っ込んでいるし、「社会主義」という過激な言葉も口にしない。

しかし、彼女は1%の富裕層の懐ろにいかに腕を突っ込むかという点では十分に過激だ。

これまでの所、議論の方向としては、サンダースが「民主的社会主義」というスローガンで、正義の社会のイメージ構築に勢力を注いでいる。これに対しウォーレンは、いかに富裕層から金をむしり取るかという議論に集中している。

それはなかなかクロウト受けする議論である。世界の未来を占う上でも、たいへん興味のある、実りのある議論になっている。

おそらくウォール街の銭ゲバたちにとっては、ウォーレンのほうがはるかに気にかかる存在、一番出てきてほしくない候補なのではないだろうか。

サンダースが心筋梗塞で倒れてしまったから、というのでなく、まじめに、21世紀の資本主義にどう立ち向かっていくのかという観点から、ウォーレンの議論を検討して見る必要があるだろう。

2.ウォーレンとは誰か

まずはウィキペディアから。

エリザベス・ウォーレン。今年70歳を迎えた。サンダースほどではないが決して若くはない。

まずこの年齢を我々はしっかり受け止める必要がある。今世界中で、この歳の人間が立ち上がる必要があるということだ。

彼女は1949年、オクラホマで「中流階級の底辺」として生まれた。12歳の頃、父は心筋梗塞で倒れて働けなくなった。彼女は叔母が経営するレストランでウエイトレスとして働いた。

NASAのエンジニアと結婚し専業主婦となったが、娘が2歳になると法学部に進学した。1976年に司法試験に合格し、自宅で弁護士の業務を開始した。

彼女は必ずしも法学者としてのエリートキャリアを上り詰めてトップに来たわけではない。テキサス大学、ペンシルベニア大学、ハーバード・ロー・スクールと積み上げてきた。

おそらくは、かなり論争的で戦闘的なリベラルの代表格として注目される存在であったのだろうと思う。

それが2008年のリーマンショックを機に、政界に踊り出ることになった。

オバマ政権は「不良資産救済プログラム」(TARP)を立ち上げ、その監督のために議会監督委員会メンバーを組織した。ウォーレンは乞われて議長を務めた。

彼女は一気に多忙となり、大統領補佐官、消費者金融保護局の顧問を兼任した。

マイケル・ムーアの映画などに出演し、知名度が上がっていった。

この後のウィキペディアの記載は一方的であり、あまり論理的とはいえない。


3.今必要なのは「勝てる候補」なのか? 「勝つにふさわしい候補」なのか?

いまやバイデンでもウォーレンでも、ひょっとすればサンダースでも勝てるかも知れない情勢になっている。

とすれば大事なのは、「どう勝つのか」ということになる。バイデンで勝っても勝ったことにはならない。ではウォーレンならどうなのか?

フェイスブックのザッカーバーグは「それは最悪だ」という。まずウォーレンはIT大手について、市場を独占し「競争を無力化している」と主張している。

仮にウォーレンが民主党の指名を獲得すれば、ウォール街の大口献金者は共和党のトランプ大統領支援に回るだろう。だがもしウォーレンが勝利すれば、それは自殺行為となるかも知れない。

ここまで主旨を貫けるのであれば、私たちはウォーレンで十分である。はたしてどうだろうか?

4.ウォーレンの政策

そんな状況の中ではじめて日経(10月7日号)がウォーレンの政策を正面から取り上げた。

最初にも取り上げたように、ウォーレンの政策はバラ色の未来を語ることをしない。その代わりに1%の富裕層を徹底して糾弾し、いかにして彼らから金をむしり取り草の根の大衆に振り分けるかに集中している。

その2つの柱がトランプ減税の見直しと富裕層への課税強化策である。

① トランプ減税の見直し

トランプ減税は法人税を35%から21%に引き下げた。これを35%に戻す。
ただしこれをすべての企業に適用するわけではない。法人税再引き上げの対象となるのは、全世界での税引き後利益1億ドル以上の企業のみである。
これは約1200社が対象となるだろう。

② 富裕層減税

最上位層への課税を強化し、10年間で3兆ドル(300兆円)の税収を確保。
これにより改装への社会保障給付を引き上げる。引き上げ幅は25%に達するだろう。

③ いくつかの独占禁止措置

トランプが破棄したグラス・スティーガル法を復活させる。
GAFAを分割し、権力の集中を排除する。
金融機関監視委員会の機能をさらに強化させる。

このように5寸釘を脳天にブスブス打たれてはさすがのGAFAも年貢の納め時というものだ。

Yさんのブラジルだよりを転載します。
YさんはY大学の先生で、ブラジル経済が専門です。
ニカラグア訪問団でご一緒させていただきました。
 ブラジルにきています。PCdoB(ブラジル共産党)の幹部に取材しました
 PT(労働党)とPSOL(ブラジル社会主義自由党)は、時間がなく、取材には至りませんでした。
1 ジルマ・ルセウ(前大統領)の弾劾やそれにいたる2013年頃からの抗議運動には、米国の介入がある。
  ジルマの電話が盗聴されていたのは、報道されたように、周知のことだ。
  ベネズエラやニカラグアへの米国の介入と似ている。
2 米州機構のニカラグア報告は、きわめて批判的で残念だ。
  あれを仕切った委員はブラジル人で、彼はPT派の人だからなおさら非常に残念な状況だ。
  バチェレ(現OAS事務局長・前チリ大統領)のベネズエラ報告も残念だ。とまどっている。
  個人を越えた、組織のなにか力が働いていると考えるほかない。
  (ただバチェレについては「もともと、市民社会との関係が強い人ではないと思う」というようなことを、
  おっしゃったと思いますが、全体に微妙な表現で、完全に理解できませんでした)
3 ただしニカラグアのガバナンスがいいと思わない。
  オルテガの奥さんが副大統領というのは、まあどうかと思うけど。

4 ベネズエラも民主主義の点で問題があるとは思う。しかしそれでも、今は彼らを支持している。
 サンパウロでは長年の友人にききました。彼がいうには、
1 ジャバラトの汚職捜査は、ひどいの一言。PTつぶしの作戦だ。
  汚職そのものは、嘘ではないにしても。
2 ジルマ弾劾も、PTつぶし以外のなにものでもない。弾劾のロジックがおかしい。
  むろんジルマやイグナシオ・ルーラ(元大統領)が完全に白かどうかはわからないが、
  とにかくPTつぶし最初にありきの捜査だ。
3 ボルソナロ(現大統領)は、ブラジルの民主主義的な諸制度をつぶしつつある。
  大学予算カットもひどいし、私の研究すら影響を受けそうな状況だ。
  PT政権は、科学技術の発展を重視していた。ボルソナルは反対の動きだ。
4 ルラのときに国会内で野党票を買収していた。それは事実で、メンサロン事件とよばれた。
  仕切ってたのはディルセゥ議員だが、彼は「good management賞」だ(皮肉)。
  ジャバラトと比較したら少額だった。少額で国会を仕切ってたんだから、
  効率的な金の使い方で“good management”賞だ。ジャバラトの汚職の規模は、それと比べるとでかすぎる。
5 司法がPTつぶしに加担して、おかしくなっている。

 こんな感じです。

2019年9月29日 

萩原伸次郎 「恐慌と信用制度の崩壊」より

重金主義への回帰を阻んだもの

マルクスは金融恐慌を金融危機の本質とみなし、「信用主義から重金主義への転化」と呼んだ。

しかしこれは「3つの要因」により乗り越え可能となった。

1.金本位制からの脱却

第一次大戦後の不況において、英国は長期の不況に陥ったが、金本位制の停止→銀行券の大量発行により負の連鎖を断ち切ることに成功した。

2.大規模財政出動と金融緩和

需要の創出により、実体経済のテコ入れを行い、経済成長とインフレにより財政赤字を解消した。

3.不均等発展と新興国からの富の還流

海外投資が新興国の発展を促し、先進国は金融支配を強めた。その一部が還流し先進国を潤した。
金融恐慌時は資金が一気に流出し、新興国は資金不足に苦しんだ。

リーマンショックと1929年大恐慌の違い

1.アメリカと世界は、銀行を救済するのに全力を上げた。無制限に信用を供与し資金を注ぎ込んだ。

2.その結果、世界大恐慌は起きなかった。

3.並行して行われるべき金融改革は引き伸ばされ縮小され、キャンセルされた。

4.供与された資金は死蔵され、実体経済には還流されなかった。

その結果、経済回復は遅延し、失業は高止まりし、新興国経済・金融・財政は破綻した。貧富の差は一層強まった。ドルの支配力は絶対となった。

30歳代、非正規、短歌      萩原慎一郎さんの歌

この間アイミョンの歌から、以前感心した山田航さんの短歌の話になって、なんとなくその話題が心にわだかまっていたが、これにツイッターという表現形式が絡んでいるのかなと、ふと思いついた。
ツイッターという表現形式は字数的にはおそらく短歌の2、3作分くらいのブレスを持った文学だろうと思う。
そのつぶやきから枝葉をとっていって、息継ぎを入れていくとちょうど短歌になる。
感覚としてはまさにつぶやきであり、問わず語りの、自分に向けての話しかけであり、人知れぬ、人へのひそやかな問いかけでもある。
山田航さんの歌と萩原慎一郎さんの歌はかなり顕著な違いがある。山田さんには冷徹に自らを突き放した仮名性の目がある。萩原さんは敢えて自分から離れず、自分を隠さず、即自の視点を保持しようとしている。

だから優しさがあって読者が癒やされるのだろうと思う。それも一つの技巧なのだろうが、本人には非常に疲れる技巧だろうと思う。

“非正規”がらみに絞っていくつか紹介しておく。


朝が来た

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

夜明けとは ぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

寒夜を走るランナーとすれ違いたる ぼくは自転車漕いでいるのだ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ 書類の整理ばかりしている 

非正規という  受け入れがたき現状を  受け入れながら生きているのだ

階段をのぼりくだりて 一日の あれこれ あっと言う間に終わる

牛丼屋

ぼくも非正規 きみも非正規 秋がきて 牛丼屋にて牛丼食べる

牛丼屋 頑張っているきみがいて きみの頑張り 時給以上だ

「研修中」だったあなたが「店員」になって 真剣な眼差しがいい

頭を下げて 頭を下げて牛丼を 食べて頭を下げて暮れゆく

あした

消しゴムが 丸くなるごと苦労して きっと優しくなってゆくのだ

コピー用紙 補充しながら このままで 終わるわけにはいかぬ人生

もう少し待ってみようか 曇天が 過ぎ去ってゆく時を信じて

あなた

遠くから みてもあなたとわかるのは あなたがあなたしか いないから

作業室にてふたりなり 仕事とは 関係のない話がしたい

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

生きているというより 生き抜いている こころに雨の記憶を抱いて

最後の歌は、自殺の理由を説明しているような気がする。“雨の記憶” がどういう記憶なのか…
なにか “雨の音の記憶” のような気がして、「美しき水車小屋の娘」みたいな情景もふと浮かぶのだが…
知らないままのほうが良さそうだが…

2004年10月3日(日)「しんぶん赤旗」
ここが知りたい特集 バンドン精神
来年50周年 注目される今日的意義
「バンドン精神」とは
宮崎清明記者

非同盟諸国会議(百十六カ国が加盟)の外相会議は、「バンドン精神」十原則の今日的意義を強調している。

1954年、ネール・インド首相と周恩来・中国首相との共同声明で平和五原則((1)領土、主権の尊重(2)不侵略(3)内政不干渉(4)平等・互恵(5)平和共存)が確認された。それは「バンドン会議」に受け継がれた。

バンドン十原則は、平和共存の諸原則を含んでいる。バンドン会議には米国の干渉もあったが、中国の周首相は、「バンドンに来たのは共通の基盤を探るためで、相違をつくり出すためではない」と一致点追求の重要性を説いた。


バンドン十原則のうち、非同盟主義の組織原則に関わると思われるポイント

1.国連憲章に明記された諸原則

2.国家主権の尊重と内政不干渉

3.「集団的防衛機構」は大国のためではない。他国に圧力をかけない。

4.国際紛争は、関係国が選択する平和的手段で解決する。

1.と2.は平和共存五原則の内容を引き継いでいる。

一方、非同盟主義には運動としての側面もあり、その原則も書き込まれている。

1.人種、諸国民の平等

2.相互協力の増進

3.正義と国際的義務の尊重

これらは「責務条項」であるとともに、運動としての非同盟主義の原則である。

これらの課題については、本来はAAPSOのような連帯組織が担い、発展させるべきものであったが、必ずしも成功しているとは言えない。

バンドン

2006年5月30日(火)「しんぶん赤旗」
先制攻撃論を批判
マレーシア首相 非同盟閣僚会議で演説
【ハノイ=鈴木勝比古】

議長国マレーシアのアブドラ首相の行った基調演説。

諸大国がテロとのたたかいでとっている行動は明らかに国際法と文明社会の行動規範に違反している。

人道介入、防衛責任、先制攻撃戦争などの考えを含む新しい概念と教義がわれわれに押し付けられている。

これらすべては、国連憲章に明記された伝統的、普遍的に受け入れられた概念に対する挑戦である。

今日、国際関係で単独行動に訴える傾向がある。これは国連安保理の承認が得られない時に国連の枠外で行動するものである。

われわれはこうした傾向に反対し、国連憲章に明記された諸原則を擁護する。

ということで、ここでは以下のような状況が非同盟運動の理念に反するものと考えられている。

1.諸大国による人道介入の正当化、防衛責任の拡大解釈、先制攻撃の条件附容認などの考え。

2.国連憲章への挑戦と単独行動主義。

これは明らかに大量破壊兵器を口実としたイラク攻撃を念頭に置いたものである。

大西広さんの「香港での暴力デモは運動の破壊者、真の敵は香港財界」という文章がとても良いので、営業妨害にならない程度に紹介する。
「季論21」に近く掲載されるというので、いわば予告編になる。

1.香港の運動は安保闘争だ

安保では外交問題を闘争課題とし、学生が主体となった。暴力学生の妄動も同じだ。

しかし日本では、その後の経過を経て暴力反対が原則となった。それが立憲主義の根拠となった。

日本の運動が獲得したもう一つの原則は、「内政不干渉」という基準である。それは「相手のため」の善意のものであっても介入は認められないという原則である。

2.2つの原則から香港デモを評価する

① 暴力反対の原則からの視点

「民主派」は現在、穏健派、自決派、それに本土派と3分列している。

本土派というのは、本土人の排外と独立を主張する強硬派である。
この強硬派と暴力を伴う過激派学生集団とは重なり合っている。

このあと大西さんは2度にわたる現地調査なども踏まえ、事実に即した評価を行っている。これについては原著を参照されたい。

本土派の理論ではなく、彼らの暴徒・破壊者との性格について許してはならない。それは内政干渉ではなく、暴力反対という連帯の原則に基づいての判断である。

② 内政干渉を認めない視点

これは国際右翼組織との関連を問う問題である。「自決派」の指導者と目されている人物の中に、明らかに国際右翼組織の支援を受けているものがいる。

それは全米民主主義基金(NED)と呼ばれる組織である。NEDは世界各国での政権転覆運動を支援している組織で、アメリカ政府の予算で賄われている。

自決派の多くは平和的活動家であるが、指導層にはかなり怪しい人物がいると見るべきである。

3.いい奴も悪い奴もともに手を携えて

「ぐるみ闘争」になったのは理由がある。不正蓄財や汚職など後ろめたい活動をしている多くの財界人が、引き渡し条例に反対したからである。

彼らは行政長官が「条例改正案は死んだ」と発言すると、手を引いた。

運動が退潮局面に入るとき、暴力的様相を呈するのは日本でも見られた現象であり、店仕舞に入りつつある。

4.中国経済は深く静かに浸透しつつある

香港のGDPは20年前には本土の18%あったが、現在は2.7%に縮小している。

「香港経済」は本土経済との一体化で大きな利益を得た。香港の富裕層は巨利を得たが、庶民の生活は悪化している。

以下、香港の富裕層の驚くばかりの反庶民姿勢が具体的に明らかにされているが、本文を参照されたい。

庶民の生活を苦しめているのは、じつは香港の富裕層なので、それを「敵は中国本土だ」というのは敵から目をそらす結果にもなりかねない。



綿密な現地調査に基づく実証的考察はまことに説得力がある。

私が感心したのは、もうひとつある。それは、各地の民衆闘争を連帯運動の立場から見るときに、「二つの原則」がもとめられるという提起にある。

私はこの提起に大賛成である。これらについては大いに議論してよいのではないだろうか。暴力も裏金も下品という点で同じであり、さらにフェークとかデマとかカルトとかヘイトとかも付け加えられるかも知れない。

もう一つは、ある運動に対して歴史的・客観的評価をする場合の視点とは異なることも認識しておくべきかも知れない。

鈴木章さんの研究

せっかく北大の先生がノーベル賞をとったというのに、その中身を知らないでいたら失礼だとは思っていたが、化学賞と聞いてたじろいでいた。

たまたま、ブックオフで北大出版会の発行したパンフレットを見つけたので、買ってきた。100円の値札をつけたままさらされるのも忍びない思いがして衝動買い。かなり気が重いが読み始めることにする。

2010年のノーベル化学賞は「パラジウムを触媒とするクロスカップリング反応」の開発ということであった。

受賞者は鈴木章さんの他にヘック、根岸英一というお二方。

話は、まずそのクロスカップリングというのがどんなものなのかという話、つぎにその開発がいかに大きな貢献を果たしたかという話、そして鈴木、根岸、ヘックの研究の相互関係、という流れになるだろう。

1.ベンゼン環のカップリングとはなにか

すごくわかりやすく書いてくれているのはありがたいが、かなりの省略もあって、突っ込んでいくとわからなくなる箇所がいろいろある。

まずはこの絵から
ベンゼン環
左上がいわゆるベンゼン環、右上はこれを精密に表したもの。

右下が右側の水素基を他の物質に置換したもの。これを精密に表すと左下の絵になる。

それで以ってやりたいことが、ふたつのベンゼン環の結合(カップリング)なのだ。わかりやすく言えば手品の「マジックリング」、“コンコンスーッ”をやりたいのだ。

これができるとチェーンがどんどん伸びていって、すごい分子量の有機物が作れることになる。

錬金術がさまざまな物質を組み合わせて金を作ることにあるとすれば、カップリングは生命を作り出す可能性を秘めた、とても魅力的な技術なのだ。


2.クロスカップリングの仕掛け

これを可能にしたのが、スズキ・メソッドだ。正式には「鈴木ー宮浦クロスカップリング」と言うらしい。宮浦さんは鈴木さんの同僚で、後任教授となった方らしい。

錬金術の種明かしは3つある。

① 置換する物質を2種類の異なる物質とすること

具体的にはホウ素化合物とハロゲン化合物の組み合わせが一番良いらしい。
異種化合物の組み合わせなのでクロスカップリングという。

② パラジウムを触媒(切断役)とすること

パラジウムは3つの働きがあるようだ。まず最初はホウ素化合物とベンゼン環の結合を切り、ハロゲン化合物とベンゼン環の結合を切る。
次に相互の切断面に付着して両者を結合させる。
その後、ベンゼン環同士が固く結びくと、パラジウムが結合部から離れていくと、双方のベンゼン環は直接結合することになる。

③ ホウ素化合物とベンゼン環のj結合を切る仕掛け

化合物とベンゼン環との結合はパラジウムが切断するのだが、特にホウ素化合物とベンゼン環の結合は強いので、なかなか切れない。

そこでこの化合物を予め塩基液につけておく。これにより結合が陰性荷電され、結合が切れやすくなるのだそうだ。洗濯の前にお湯につけてウルかすみたいなものか。


3.スズキ・メソッドの “売り”

スズキ・メソッドが発表されたのは1979年のことだったが、当時すでにクロスカップリングは「今さらの感があった」と言われる。

そこで鈴木さんたちは、さらに工夫を加える中で「鈴木ー宮浦クロスカップリング」をトップの位置に引き上げていった。

工夫の第一は、ただベンゼン環が結合するだけでなく環と環が直接結合するようにしたことだ。
これはビアリール化合物と呼ばれ、非常に応用性の高いものらしい。

工夫の第二は、これはすでに種明かしの ①として書いたことだが二種類の違ったっ化合物を使うことでビアリールのタイプが複数でなく純正になるらしい。その理由については詳しくは触れられていない。

三つ目は、ワンポット合成ができるということだ。ワンポット合成というのは、一連の化学反応を一つの容器内で次々と起こして、一気に最終目標の物質を作り出してしまうことだ。

四つめ、これは鈴木さん自身の工夫ではないが、水酸化カリの代わりに水酸化タリウムを使うとより分離が良くなるとか、パラジウム触媒の組成を工夫することでより効率を良くしたりの改善が行われているようだ。

最後に、この発明は特許をとっていない。誰でもただで使える。だから四つめのような工夫が生まれてくる。本人は「今後は取らなきゃだめ」と思っているようだが、共同研究者の宮浦さんは「取らない方向」に信念を持っているようだ。

4.鈴木、根岸、ヘックの研究の相互関係

これについては、よくわからなかった。興味のある方は他論文をあたってほしい。

北海道大学CoSTEP 「鈴木章 ノーベル化学賞への道」(北海道大学出版会 2011年)
の読後感想文である。誤りがあるかも知れない、お気づきの節はご叱正を賜りたい。


藤原仲麻呂 一代記

706年 生まれる。父は藤原不比等の長男で、藤原南家の祖である藤原武智麻呂(むちまろ)。

707年 文武天皇が没し阿閇皇女が即位。元明天皇を名乗る。

708年 越後国に出羽郡を建つ。新羅との朝貢関係が確定。兵力の奥羽地方への進出が本格化する。

712年 太安麻呂『古事記』を編纂。引き続き諸国の『風土記』編集が始まる。

720年 隼人、大隅国守殺害。陸奥蝦夷が按察使を殺害。

720年 「日本書紀」が完成。

724年 元正譲位、首皇子即位。聖武を名乗る。

725年 内舎人(うどねり)として仕官。

729年
2月 長屋王の変。左大臣長屋王が謀反を計画したとされ自殺。光明子立后をめざす藤原四兄弟がしくんだ事件と言われる。

8月 藤原光明子、臣籍でありながら皇后となる。旧長屋王邸が光明の宮になる。天平と改元される。

734年(28歳) 従五位下に叙され、政治キャリアを開始。

735年 藤原四兄弟はこれまでの軍縮路線を排し、新羅に軍事的圧力をかける外交方針に転換。

737年
9月 天然痘の流行。光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた武智麻呂が病死。藤原四兄弟が相次いで病死し、藤原南家の勢力は大きく後退する。

737年 藤原南家に代わり、聖武天皇の意向を受けた橘諸兄が政権を握る。唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される。この年の租・負稲を免ず。

738年
2月 阿倍内親王が立太子する。橘奈良麻呂は次の皇位継承の見通しを立てるため、別の天皇を求める動きを示す。

738年 藤原式家の藤原広嗣、大宰府に任命される。対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざける狙いとされる。

739年 橘諸兄、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を復活。諸国の兵士徴集を停止、郡司数を減らす。

740年
9月 新羅に派遣した使節が追い返される。大宰府の藤原広嗣は挙兵を呼びかける。

9月 聖武天皇は大野東人を大将軍とし、1万7,000人を動員する。広嗣は九州の兵5,000人を率いて応戦。

11月 潜伏していた藤原広嗣の一族が捕らえられ処刑される。

740年 仲麻呂、「藤原広嗣の乱」の後、政界へ進出する。

744年 第二皇子安積親王が難波宮に行啓。途上、脚気になり急死。藤原仲麻呂に毒殺されたという説がある。

745年 聖武天皇、流転の末、都を平城京に戻す。大宰府も復置される。

746年 仲麻呂は従三位となり、官吏の選叙と考課を握る式部卿に就任。この後、仲麻呂は人事異動を行うことで自派勢力を拡大。左大臣橘諸兄の勢力をしのぐようになる。

747年 大養徳国を大倭国に改称。

749年 聖武天皇が譲位。仲麻呂の従兄弟に当たる孝謙天皇が即位する(光明皇后は叔母に当たる)。仲麻呂は紫微中台(皇后宮)の長官となり、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立される。

752年 大仏開眼供養会。会の後、孝謙天皇は仲麻呂の私邸を暫時御在所とする。

753年 遣唐使の藤原清河、唐朝で新羅と席次を争う。

755年 橘諸兄が朝廷を誹謗したとの密告。諸兄は左大臣を辞す。

756年
5月 長年、諸兄を引き立ててきた聖武天皇が崩御。

756年 大宝律令にかわって養老律令が施行される。唐制の徹底した模倣を図る。開基勝宝・太平元宝・万年通宝を新鋳。

757年
3月 孝謙天皇、聖武上皇の指名した皇太子の道祖王を廃位に追い込み、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とする。

5月 橘諸兄の子の奈良麻呂、天武天皇の孫を擁立して反乱を企てるが発覚。443人が処罰される大事件となる。

758年
2月 藤原仲麻呂の意向により問民苦使(もみくし)制度が発足。「民の苦しみを問う」ことを理由とし、動揺する地方情勢の鎮静化を図る。

8月 孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位。仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられ、仲麻呂は押勝の名を賜与される。

759年 仲麻呂、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、新羅征伐の準備をはじめる。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画を立案。諸国に常平倉を設置する。

11月 保良宮(ほらのみや)の造営が決まる。平城京の陪都として大津石山に造営を企図。唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづく構想。新羅出兵に伴い軍事的な備えとしての遷居と言われる。

760年
1月 中麻呂、人臣として史上初の太師(太政大臣)に昇格。

6月 光明皇太后が崩御。後楯を失った仲麻呂にとって打撃となる。

761年
10月 保良宮が完成し、孝謙上皇らが移御する。平城京に対して北京とも呼ばれる。

762年
初め 孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになる。

5月 淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住む。孝謙上皇は淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明。

6月 「国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言。道鏡への寵愛を深め、淳仁と押勝に対立するようになる。

763年 孝謙上皇、道鏡を少僧都とする。孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立が深まる。

764年
9月初め 仲麻呂、都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと図る。

9月11日 孝謙上皇、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収。仲麻呂は鈴印の回収を図るが、孝謙方に先手を打たれ敗退。

9月11日 仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、地盤となっていた近江国の国衙を目指す。吉備真備の率いる討伐隊が追い、越前方面を制圧。

9月15日 愛発関の突破をはかる中麻呂軍と守備隊が激突。中麻呂軍は敗れ、近江国高島郡三尾まで後退。

9月18日 三尾の城が落ちる。仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが、勝野の鬼江で捕らえられて斬首される。(59歳)

10月9日 淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。

766年 道鏡が法王となる。

770年 称徳天皇が没。道鏡は下野国に左遷される。

wikiの仲麻呂の記事を中心に、時代背景を書き込んだ。

事実の重み付けはなかなかできないが、今の時代と重ね合わすと、まさにミニ覇権主義の復活と思われる事態が進行していたようだ。

対外政策としては天智政治の復活と言える。つまり中国とは戦わず、新羅に対して臣従を求めるという態度だ。

ただし天智政府は、それを半ば中国から押し付けられた形で選択したのだが、仲麻呂政府はそういう理由とは思えない。むしろナイーブな中国賛美と、朝鮮を統一しすでに日本を上回るような強国となった新羅に対する由緒のない優越感、さらに半島への再侵攻さえも夢見るような攻撃性が見て取れる。

おそらく天武政権以来の権力の集中が強固となり、東北地方への進出がかなりの力の蓄積となったことが、自信になっているのだろう。しかし、8世紀なかばの東アジアの力関係の中で、中国との力関係も不確実な状況の中で、これはあまりにも安易な判断だ。

しかし壬申の乱を包んだ、あの痛いほどの緊迫感はそこにはない。天武の成し遂げたあの大胆な路線転換、すなわちとうと対決してでも日本の独立は守る。そのために仇敵新羅との連盟もいとわない、という決意とは似て非なる夜郎自大である。

それが大方の不信を買った。だからこそ思いもよらぬみじめな自滅に追い込まれたのではないだろうか。


「生きていたんだよな」 
という曲があって、アイミョンという若手のシンガーが歌っている。
おそらくその歌詞は、今後詩人としてのアイミョンを縛り付けていく歌になるだろう。
ユーチューブでいくつか彼女の曲を聞いたが、おそらく彼女は曲作りの能力に長けた人であり、そちらで一流になっていく可能性はあると思う。
ただし超一流かと言われるとそれほどではないかも知れない。
「生きていたんだよな」 という歌は彼女のヒット曲だが、これ以上売れないことを望む。若し売れると、この曲が彼女の首を占めることに繋がりかねない。
この子は世間の見る目の浅はかさを非難しているが、その非難がすごく浅いのだ。自分を投影していないから、切れ味は鋭いが浅いのだ。少女がカミソリで何筋も手首を傷つけるように、鋭く、浅いのだ。だから世間に向けた非難がブーメランになって返って来かねない。そんな危うさを感じてしまうのだ。
青年の状況ははるかに厳しい

これは2012年の歌だ。青年の厳しさ、貧しさはもっと塩辛い。
2012年11月08日  さよなら バグ・チルドレン より

いつだって こころと言葉を結ぶのが 下手だね どうしても固結び
世界ばかりが輝いてゐて この傷が痛いのかどうかすら わからない
たぶん 親の収入超せない僕たちが ペットボトルを補充していく
鳥を放つ。 ぼくらは星を知らざりし犬として 見るだろう 夜空を
打ち切りの漫画のやうに 前向きな言葉を交はし 終電に乗る
地下鉄に轟いたのち すぐ消えた叫びが ずっと気になってゐた
いつも遺書みたいな喋り方をする友人が 遺書を残さず死んだ
雑居ビル同士のすきま 身を潜め 影が溶け合う時刻を待った

西宮から出てきた良家の子女が、北千住に住んでその町を歌うというのもありきたりだ。
北千住はもう少し陰影の濃い街だ。色んなものが吹き溜まっている。中央線の高円寺や荻窪駅を歌うのとちょっと違う。
たしかに有能なシンガーソングライターだし、魅力的な起ち居振る舞いの女性だ。若者世代の良質な部分として、だいじに見守っていこう。

いろいろ調べているうちに、すごい話を聞くことができた。
みなさん是非見てほしい。
「日朝ピョンヤン宣言17周年集会」
カン・ヘジョンさん(韓国ゲスト)の話「日韓関係の現状から考える朝鮮半島の平和と日本」
一言一言がズシンと来るし、なにか嬉しくてうるうるとしてしまう。
ネット主が、「特に後半36:28からの「不買運動」「暴行事件」に関する韓国世論の話は必見です」とわざわざ書いているが、それだけのことはある。

本当に思うのだが、私も随分朝鮮の現代史を勉強してきたが、「大事なのはそこだよね」、といつもそう思ってしまうのだ。
とくに日本人のヒューマン派の人に言いたい。「日本人がこんなに悪いことをしてきたんだ」と知らせることは大事だが、それを両国人民の連帯の踏み絵にするようなことはしてはいけないと思う。それで近づく人も1人か2人いるが、7人か8人は遠ざかっていってしまうし、その半分は嫌韓になってしまうと思う。本人のヒューマンな思いはあるとしても、それでは安倍の援軍になってしまう。
それが東アジアの平和構想にとって役立つとは思えない。好きになればこそ、そのような過去も素直に受け入れられるようになるのだ。




当面する日韓摩擦に関する私の見解は、すでに以下に述べた。





これらの態度を取る前提として、私は古賀茂明さんの見解・認識を基本的に受け入れたい。



そのうえで、私はさまざまな見解の相違をいったん保留した上で、

声明「韓国は『敵』なのか」(7月25日)に結集するよう訴える。

全文はここにある。
平和外交研究所 > オピニオン > 「声明」 韓国は「敵」なのか


その要旨を掲載しておく。

はじめに

韓国に対する輸出規制は即時撤回すべきだ。
それは
①敵対的な行為であり、
②韓国経済に致命的な打撃をあたえかねない危険な行為である。
③「徴用工」問題をめぐる報復行為である。(経過より見て明らかだ)

1、韓国は「敵」なのか

両国関係は特別慎重な配慮が必要だ。植民地支配を受けた韓国では、日本の圧力に「屈した」と見られれば、いかなる政権もアウトだ。

日本にとって得るものはまったくない。①今回の措置は自由貿易の原則に反する。②日本経済にも大きなマイナスになる。③「東京オリンピック・パラリンピック」を前にゴタゴタするのはマイナスだ。

今回のような連鎖反応が起きれば、間違いなく泥沼だ。今回の措置で、両国関係はこじれるだけだ。

まるで韓国を「敵」のように扱っている、とんでもない誤りだ。韓国は、自由と民主主義を基調とする大切な隣人だ。

2、日韓は未来志向のパートナー

日韓友好は98年10月の金大中大統領の訪日を期としている。

金大中大統領は、「日本が議会制民主主義と平和主義を守ってきた」と評価し、ともに未来に向けて歩もうと呼びかけた。

金大中大統領は、なお韓国の国民には日本に対する疑念と不信が強いことを直視しつつ、未来志向で、禁じられていた日本の大衆文化の開放に踏み切った。

この相互の敬意が「日韓パートナーシップ宣言」の基礎となった。

3、「日韓条約と請求権協定」で問題は解決していない

日韓基本条約・日韓請求権協定は両国関係の基礎であり尊重されるべきだ。

日韓基本条約の第2条は、韓国の独立を認め、1910年の韓国併合条約の無効を宣言している。

しかし、①日本は併合は両国の合意だったと主張しており、植民地支配に対する反省も、謝罪もしていない。②元徴用工問題も解決していない。

したがって「国際法、国際約束に違反している」という日本政府の主張は正しくない。

この問題について、双方が議論し、双方が納得する妥協点を見出すことは可能だ。

おわりに

1998年の「日韓パートナーシップ宣言」がひらいた日韓の文化交流、市民交流は両国関係の基本となるものだ。

安倍首相は、日本国民と韓国国民の仲を裂き、両国民を対立反目させるようなことはやめなさい。意見が違えば、手を握ったまま、討論をつづければいいのだ。



要旨だけ読んで批判するのもいけないし、そもそも積極的な意義は大いに評価しなければならないが、率直に言ってやや不満も残る

一番の不満は無駄に長過ぎることだ。しかも長い理由がかなり執筆者の思いに由来していることだ。

その結果、共同声明らしからぬ個人的趣味が、至る処に目につく。仲裁委員会の扱い、慰安婦問題の経過など、明らかに書きすぎだ。

「2、日韓は未来志向のパートナー」は金大中賛美に終止している。赤旗が全文省略しているのはゆえなしとしない。事の正否と関係なしに、原文作成者の節度の欠如に強い違和感を覚える。

もう一つは共通の敵、不和を煽る犯人への反撃のために大同につこうというのが前提のはずだが、そこがどうも曖昧なのだ。敵が見えない。だから大同 につく意味がわからない。
要するに “饒舌な割に腰が引けている” 感じが否めない。


日韓摩擦は早く解決しないといけない。とにかく日本側の “上から目線” がとても気になる。
日本は落ち目なのだ。川上のほうが優位だなどと考えているなら、それはとんでもない間違いだ。
技術開発とシェア争いの激しい分野では、事実はその逆だ。

それをスマホの勉強をしていく中で痛感した。
以下の記述は、まったくお恥ずかしい限りで、若者には当たり前なのだ。
私が知らないだけなのだ。

いまスマホの世界では二大メーカーの寡占市場が成立しつつある。
それがサムソン(ギャラクシー)とファーウェイだ。安いからではない、優秀だからだ。

衝撃的な事実、ファーウェイの3レンズ方式のスマホは、すでにニコンの一眼レフを上回っているということだ。
当然、カメラの性能は世界一で、サムスンを上回っている。しかしCPUの性能やその他のスペックで総合的にはサムソンがかろうじて優位に立っている。
…とのことだが、私にはよくわからない。

すでにアイフォンは過去の遺物で、かろうじてグーグルが追い上げを図っているが、所詮は負け犬のようだ。日本ではソニーのエクスペリアが孤軍奮闘しているが、もはやよほどの愛国主義者であっても選択の対象ではないらしい。

とにかくスマートフォンの関連記事を読んでいると、浦島太郎が玉手箱を開けたような気分に襲われる。
パソコンですべてをカバーできると考えていると、とんでもない考え違いだ。うちに来ているヘルパーさんは2年に一度は買い替えているそうだ。そうしないと時代の進歩に追いつけないらしい。20年前のパソコンの世界だ。

根本的には、スマホを “携帯電話” だと考えているのが間違いなのだ。スマホは通信手段ではなくカメラであり、財布であり、手帳である。そしてこれらの機能はガラケーでは代替不可能なのだ。
これまでパソコンでやってきたすべてのことをスマホに移し替えなければならない。パソコンはスマホ情報の貯蔵器なのだ。

ということで、明日はドコモに行こう。

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