鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

1.「イ族」のルーツについて
昨日見たNHKのドキュメンタリー「イ族」はまことに興味深いものであった。
map_yi

番組は四川省の山奥(大涼山)に暮らすイ族を成都三星堆遺跡の青銅器文明人の後裔だと断じていたが、もう少し科学的に証明してほしかった。
とにかく顔立ちがあまりにも日本人であることに驚く。かつて雲南・昆明の少数民族や、北ベトナムの少数民族を見た時の驚きをさらに超えるものがある。Y染色体をぜひ調べてほしいものだ。
断崖で隔絶された尾根に沿って、厳しい気候と痩せた土地にしがみつきながら暮らす人々が、意外なまでの技術・文化を持ち、気品を失わずに生活しているのは感激を抱かせる。
日本で言う「平家の落人部落」そのものである。
観光会社風に言えば「東洋のマチュピチュ」だが、マチュピチュよりすごいところが二つある。一つは生活があることで、一つは文字があることだ。
yizoku
中国まるごと百科事典には下記のごとく記されている。
彜族はプライドが高く、人情、信義と義理を重んじ、客を大切にする礼儀正しい民族。来客があると、さっと駆けつけて出迎えの歌を歌いながら酒を勧め、囲炉裏端の上座に座らせる。
また、彜族の男性は女性をののしったり殴ったりしてはいけないという決まりがあり、“立派な男なら妻を殴らない”ということわざもあり、たとえ敵でも女性は殺さない、という掟がある
ただし、これは一部の人々の話で、「涼山イ族自治州」の州都である西昌は人口57万人、イ族をはじめ28の民族が暮らしているそうだ。いろんな少数民族が混住しているので、「これがイ族の特徴だ」と断定はできない。
西昌
              西昌の下町

2.長江人の基礎史実
これまでの私の記事の中で確認してきた事実を並べてみよう。
南方経由でインド方面から東進してきた人々の集団があった。これはY染色体のハプログループで言うとOの1型に属する人々であった。O型人は先着のC型人を押しのけながら中国大陸南部に定着した。ここから派生したO1b人は、長江流域に広がった。O1人からはさらにO2人が派生し北方へと進出した。
長江流域に定住したO1b人は、1万年前ころに稲作栽培と水田農法を獲得した。それは湖北・湖南に始まり、下流および上流へと拡大した。

長江からさらに北方に進出したO2人は黄河を越えたところでC型人との拮抗関係に入った。

モンゴル~満州に先住するC2人は北方ルートで東方に進出してきた人々と思われ、中央アジアとの接触を保っていた。
5千年前、すなわち紀元前3千年というのは北方諸民族にとってエポックであったと思われる。
まず小麦の栽培が、続いて青銅器文明がメソポタミアからもたらされた。
直接の伝承者であるC型人も、それから技術を引き継いだO2人も、生活スタイルを根本的に変えることとなる。
O2人は小麦を栽培する農耕民に姿を変え、南をうかがうようになる。
青銅器に続いて、紀元前2500年ころには鉄器が伝播した。
黄河と長江が接近する中原では、紀元前2千年ころから鉄器を獲得した黄河文明が長江文明を征服・支配する時代が始まった。圧迫された長江人(O1b人)は、O1b1(一部O1b2)が南下した。残りのO1b2は西方及び北方へと拡散した。西に進んだ長江人は四川省三星堆に青銅器の一大文明を築いたが、これもやがて北方人により滅ぼされる。
番組ではイ族がこの「三星堆」人の末裔であることが「最近の研究により判明した」と断定するが、大変魅力的な提起ではあるにせよ、あまりにも大胆だ。率直のところこれには保留せざるを得ない。
下流域の長江人は北方人の支配を逃れ、山東省から朝鮮半島、北九州へと渡り、弥生文化(とりわけ銅鐸文化)を花開かせることになる。
ただし弥生文化の後半は、長江人(銅鐸人)ではなく征服者(天孫族)の文化であるが…

 2016年10月22日 


3.イ族の民俗学的特徴
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html
もとは蛮族を意味する「夷族」と表記された。
ウィキでは「南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきた」とされているが、この説は否定されつつある。
人は黒イ(武士)と白イに分けられる。黒イは人口の7%。白イがさらに3階層(平民・農奴・奴婢)に分かれるなど複雑な奴隷制度をもつ。
父子連名制によってつながる父系親族集団である。(これらの社会システムは彼らの現状にはまったく似つかわしくない)
言葉は六方言に大別される。互いにほとんど通じない。
彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。約1000年前に創作されたという。象形文字を母体とする音節文字である。日本の「神代文字」とは違いかなりの量で現存し、使用されている。

4.民族の伝承
格言および祭祀などが、祭文の形で蓄積されている。叙事詩『阿詩瑪』もその一つ。
イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とする。その後南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達した。つまり、秦と同じ征服王朝であった可能性がある。
漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称され、強勢を誇った。
大涼山一帯の黒イ集団は、中華民国時代になっても支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれた。
ただ、今回の「天頂に生きる」の引用している文献は既出のものとは違うのかもしれない。


高木正道さんのDigital Essays より
民主主義と自由主義は相互に結びつく傾向が見られるが、これらはもともと別個の原理であって、自由主義的であって民主(主義)的でないことも可能であるし、民主(主義)的であって自由主義的でないことも可能である。
ここで自由主義と呼んでいるものは、憲法学の分野で立憲主義と称されているものとほぼ同じものである。つまり、「立憲主義は自由主義を制度的に実現したものである」
そこで、デモクラシーとリベラリズムの関係を突き詰めていくと、究極的にはこういう粗暴な問題提起が可能となる。
粗暴な民衆支配か優雅な寡頭支配か
答えははっきりしているわけで、優雅な寡頭支配の方がいいに決まっている。
いいか悪いかというより、真のデモクラシーに到達するためにはその道を通っていくしかないのである。
真のデモクラシーに到達する路は、粗暴な民衆支配の先には開けていない。だから一度寡頭支配の路に戻るしかないのである。
ただ、粗暴な民衆支配の時期を経過することが、優雅な寡頭支配、そして真のデモクラシーへの歩みを早めるか否かについては議論が分かれるところであろう。その可能性はいささかなりとも期待したい。


②王権の制限された寡占支配

④近代民主主義(共和制)

①専制支配

③粗暴な「民衆」支配

生産力の拡大にともない、社会システムが進化し、統治システムは①から④へ向かうのであるが、次の3点が必然的傾向となる。

1.①から④の流れは必然である。

2.①から②に向かうが、ときに①から③に向かうこともある。

3.②と③との相互転換はありうる。

4.①から④へ向かうために②を経由するのが必須である。③から④への道はない。


「憲法と人権」という本の一節。

デモクラシーを主張する人の中に、リベラリズムをデモクラシーに収斂させてしまう傾向があったのではないか。

国民が政治における自らの運命の決定者となることがデモクラシーの真髄であるが、それは国民が人間個人として自らの運命の決定者であることを抜きに語ることは出来ない。

これを敷衍すると、
つまりデモクラシーはリベラリズムを前提にして語らなければ、真のデモクラシーとはなりえない。民主主義者は民主主義者である前にまず自由主義者でなければならない。
ということになる。

これを憲法の条文にひきつけてみると、
憲法第13条冒頭 「全て国民は、個人として尊重されなければならない
ということが出発点となる、のだそうだ。
なお原案では、「その人類たることに依り」(by virtue of their humanity)という一節が付けられていた。

そこでは抽象的な政治主体としての「国民」ではなく、個性を持つ諸個人の集合としての「国民」が主権者となるデモクラシーがうたわれている。

幼児性健忘というのがあるそうだ、というより、幼児性健忘というのだそうだ。

例えば自分の記憶を手繰っていくと、それ以上先には遡れないところがある。多分3歳前後らしいのだが、実際にはもっと後のようにも思える。

それより前の記憶は、一度は覚えたはずなのだが、忘れてしまったということになるので、これはまさに健忘症だ。

「覚えたはず」と何故言えるか、それは幼児の行動を観察すれば分かる。幼児は体験したことを体験した片っ端から忘れているわけではない。むしろ鮮明に覚えていると言ってもよい。それは心理実験でも確認されているので間違いない。

だから短期記憶は残されるが、長期記憶が残されないということになる。これは老人性痴呆で短期記憶がまるで駄目になってしまうが、長期記憶は意外と残っていたりするのと逆のパターンだ。

このことは2つの意味を持つ。

まず、短期記憶の装置と長期記憶の装置とは違うものだということだ。短期記憶はとりあえずの記憶装置で必要がなくなれば消えていく。長期記憶の装置はとりあえずの記憶には役に立たないが、一度覚えれば一生モノだ。

おそらく短期記憶は海馬=古皮質で、長期記憶は前頭葉の何処か=新皮質だ。

もう一つは、長期記憶装置が出来上がり、通常営業を開始するのは3歳以後のことだということだ。つまり、人間は大脳皮質が未だ建設途中のまま生まれてくるということだ。健忘症(Amnesia)というと何か病気のように思われるが、そもそも未だ装置が作動していないのだ。

我々は、幼児というと大人のコピーのように考えがちだが、それは間違っている。人間として生まれてきて、それが成長/発達していく過程として幼児期を捉えるのは、正確ではない。
これは発達心理学の第一段階ではなく、むしろ個体発生の過程の最終コーナーの話として理解すべきであろう。

厳密に言えば、幼児はDNA的には人類ではあっても、生物学的には未だ人間ではないのだ。他の霊長類以下かもしれない。

ここのところを勘違いすると「幼児性健忘」という発想が生まれ、言葉が生まれてくる。もちろん、この言葉を用いた人もその辺のことはよくわかっていて、冗談交じりの面白い表現として用いただけだと思うが、言葉が独り歩きすると結構怖い。

こういう仲間内の隠語みたいなものが一般向けの本で使われると、文章全体を読みにくいものにしてしまうので、注意してもらいたいものだ。

「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。

いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。

この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。

三羽烏の由来

まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。

「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。

しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。

トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。

ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか

つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。

考えられる理由はいくつかある。

ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。

まずは5人の生まれと生地を表示する。

パウル・バドゥラ=スコダ

1927

ウィーン

イェルク・デムス

1928

ザンクト・ペルテン

ヴァルター・クリーン

1928

グラーツ

フリードリヒ・グルダ

1930

ウィーン

アルフレッド・ブレンデル

1931

モラヴィア

ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。

austria-map

https://jp.depositphotos.com/31778515/stock-photo-austria-map.html

これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。

だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。

5人の音楽家への道

このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。

彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。

彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。

彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。

その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。

1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。

1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。

キャリアのスタート

戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。

もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。

年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。

ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。

49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。

この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。

ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。

デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。

三羽烏はウェストミンスター社の宣伝?

キャリア的にもそれほどの差はない

コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。

つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。

ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。

 アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。

1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。

これは別の会社の宣伝。

このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。

ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…

この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。

よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。

それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。

「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。

しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。

成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン

おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。

これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。

そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。

ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。

ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。

Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。

とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。


の作成中に、何度か国際人権規約の条文に関連して発言してきた。「三つの権利」に即した運動として世界の流れを把握する以上、その拠り所としての世界人権宣言と国際人権規約にも触れなければならない。
まずはその形成過程を具体的に振り返ることから、その分析を開始したい。そして国際連帯の中心的理論課題に据えた日本国憲法、すなわち憲法25条の形成過程とその歴史的意義、国際的貢献の可能性についても探っていきたい。

まず年表であるが、主として下記論文により作成した。
まず、あらあらのターミノロジー
国連で定められた人権に関する法体系は国際人権章典(International Bill of Human Rights)とよばれる。これは世界人権宣言2つの国際人権規約、市民的、政治的権利に関する国際規約への第一及び二選択議定書より構成する。
さらに人種差別撤廃条約、国際人権規約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約など23の人権関連条約が人権体系を構成する


1941年 ルーズベルト大統領、年頭教書で「4つの自由」を主張。言論の自由・信教の自由・欠乏からの自由・恐怖からの自由の四つ。大西洋憲章・国際連合憲章の基礎となった。第2次大戦に参戦するための論理建てとなる。
1944 大西洋憲章が締結される。1.全体主義国家における人権の抑圧が戦争に繋がったとの反省に立ち、2.「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うできる平和の確立」をうたう。
1945  国際連合が発足。同時に発効した国連憲章は、前文と第1条で基本的人権および基本的自由をうたう。

前文: 「われらの一生のうちに二度までの言語に絶する悲哀」を前提に、基本的人権と人間の尊厳及び価値と、男女の同権…をあらためて確認

第1条: 人種、性、言語、宗教による差別なく、すべての者の人権および基本的自由を尊重する
1946 国連経済社会理事会内に人権委員会が設立される。国連憲章の具体化のため、単一の国際人権章典の作成を目指す。
1947年 第 4 回経済社会理事会、国際人権章典起草のための委員会を設け、5大国+豪、チリ、蘭を委員国に選出。
1948.12.10 国連第3回総会で「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)が先行・採択される。条約ではなく,「人権に関し諸国家が達成すべき共通の基準」を示したもので、法的拘束力を持たない。東側諸国とサウジ、南アが棄権。

 「すべての人間は、生まれながらにして尊厳と権利とについて平等である」(第1条)

「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位によるいかなる差別」も認められない(第2条)
3条~21条: 市民的、政治的権利
22条~27条: 経済的、社会的、文化的権利

1950年 第5回国連総会、規約草案には市民的及び政治的権利に加え社会権と男女平等の規定を含めることを決定する。また「世界人権宣言」の発表された12月10日を国際人権デーに指定する。
1951年 第6回国連総会、人権規約内容の膨大化に対応するため、A規約(経済的、社会的及び文化的権利)とB規約(自由権)に分割することで合意。ソ連などの諸国は、社会権と自由権に分けず1つの条約とするよう主張。
1954 第10回人権委員会、A、B両規約からなる第一次案の起草を終える。草案は国連第10回総会に提出される。その後国連総会第3委員会での逐条審議が続く。
1959年 児童の権利宣言が採択される。
1961年 世界人権宣言の趣旨を広げる国際民間団体としてアムネスティ・インタナショナルが結成される。
1965年 「人種差別撤廃条約」が締結される。
1966年12.16 第21回国連総会、国際人権規約を採択。

規約は

(1) 経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約,
(2) 市民的及び政治的権利に関する国際規約,
からなる。
(1) はA規約、あるいは社会権規約と略される。
(2) はB規約、あるいは自由権規約と略される。
第1条は両規約共通で「人民の自決権」規定を置く。
自由権規約に関連する選択議定書がある。
1976年 国際人権規約が発効。
1979年 女性差別撤廃条約が締結される。
1979年 日本、国際人権規約を批准。ただしA規約中、公休日の給与支払い、スト権、高等教育の無償化の3点を留保。自由権規約の個人通報制度を定めた第1議定書を先進国で唯一批准していない。
1989年 子どもの権利条約が採択される。

第6条: すべての子どもは、生きる権利をもっています。国はその権利を守るために、できるかぎりのことをしなければなりません。

1989年 死刑廃止を目指す第2選択議定書が採択される。
2006年 国連人権委員会が人権理事会に改組される。
2012年 社会権規約第13条「中等教育及び高等教育の漸進的無償化について」の留保の撤回を閣議決定。(この時点で留保国は日本、マダガスカル、ルワンダの3カ国)


参考
1) 人権宣言(1948)の社会権(第22条から27条まで)の一覧
社会保障を受ける権利
働く権利、同等の勤労に対し同等の報酬を受ける権利、労働組合を組織し、これに参加する権利
休息および余暇を持つ権利
健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利
教育を受ける権利
社会の文化生活に参加する権利
2) A規約(社会権)の第6条から15条
①労働に関する権利 第6条~第8条
②社会保障などに関する権利 第9条~12条
③教育・文化に関する権利 第13条~15条
この中の第11条が「相当な生活水準の享受に関する権利」となっている。
社会権には生存権(より基本的な)はふくまれない。市民的権利(自由権)のトップに「生存、自由、身体の安全に対する権利」が掲げられているが、ここでは生存権は自由権としてあつかわれる。

3) ワイマール憲法第151条第1項(1919年)「経済生活の秩序、経済的自由」
経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない。各人の経済的自由は、この限界内においてこれを確保するものとする。
4)憲法草案 GHQ案(46年2月)第24条 
法律は、生活のすべての面につき、社会の福祉並びに自由、正義および民主主義の増進と伸張を目指すべきである
5)憲法草案 政府案 第23条
法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障、及び公衆衛生の向上及び増進のために立案されなければならない

オーストリア社会民主党 年表

前記記事のごとく、まずは各年表に散らばったオーストリア社会民主党関連の事項を一本化することにした。

転載元は下記の年表である。

2016年11月27日2013年03月30日  
2013年03月28日 

オーストリア併合後の歴史については扱っていない。1885年から1935年までの50年間に限られる。ウィーン学派との論争もふくまれる。「赤いウィーン」も包摂されることになるが、これは全体像が形成された後にエッセンスを取り出す形でまとめていきたいと思う。



1874年 オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下の諸民族の社会主義政党がノイデルフル会議を開催。政党連合を結成。

1888年 政党連合がいったん解体した後、V・アドラーらの尽力で、ハインフェルト大会が開かれる。ラッサール派とマルクス派グループを中心に再統合され、社会主義政党連合としての「オーストリア社会民主労働党」(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。


 ハインフェルト綱領: 労働者の経済的従属・政治的無権利状態からの解放、労働手段の社会化、労働者保護立法の制定、8時間労働制の実施、選挙法の改革など。


1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。
1893年 保守反ユダヤ的なカール・ルエーガーが諸団体を統合してキリスト教社会党を創立。

1895年 ウィーンの評議会議員選挙。キリスト教社会党が過半数を占める。市長にルエーガーが就任。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1899 社会民主党、ブリュン民族綱領を採択。ハプスブルグ帝国を諸民族の連邦に改組する構想を打ち出す。

1890年代 ウィーン大学に社会主義学生グループが形成される。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディングが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。オットー・バウアーは1900年前後にグループに参加。若手理論グループの中核となった。


1900年
1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。
1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1907 バウアー、「民族問題と社会民主党」を発表。民族問題の専門家をして名を挙げる。
1911年 総選挙。社会民主党が最大会派となる。その後チェコ人組織はチェコ社会民主党として分離する。

1914年8月 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。また多民族国家としてのオーストリアの維持を主張する。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

14年11月 バウアー、第一次大戦に応召。ロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送る。

1917年

9月 バウアー、戦争捕虜交換によって帰国。左翼反対派の「カール・マルクス団」に加わる。執行部の戦争協力政策を批判し、プロレタリア国際主義の観点に立ち、無併合・無賠償の平和を要求。

11月 ロシアでボリシェビキ革命が発生。


1918年

1月 戦争の長期化に抗議する労働者がストライキ。ロシア革命を受け労働者協議会(レーテ)を結成。

4月 バウアーは左翼民族綱領を提起。民族自決権を容認する。

18年10月

10.03 社会民主党議員団、左翼民族綱領を採択する。スラブ人やラテン系民族の自決を認めると同時に、ドイツ人領域をドイツ系オーストリア国家に統合すると主張。

10.15 バウアー、ドイツ人領域の経済自立は不可能と考え、共和主義ドイツへの併合を提案。

10.16 皇帝カールがオーストリア民族連邦国家構想を発表。しかし帝国内各民族はこれを無視して独立に動く。

10.21 ウィーンの属する下エステルライヒ州の議会にドイツ系国会議員が結集し、ドイツ系国家の立ち上げを検討。キリスト教社会党は立憲君主制と民族連邦国家を主張。社会民主党のアドラーは民族連邦制の断念と民主ドイツへの併合、共和制の採用を訴える。

10.21 議員集会、ドイツ系オーストリア国家の創立、臨時国民議会の成立で合意。議長は国民党、キリスト教社会党、社会民主党の三者による共同制となる。普通平等選挙による制憲議会の立ち上げで合意。

10.30 共和国の要求を掲げる社会民主党のデモ行進。臨時国民議会は社会民主党のレンナーを首班とする国務会議(Staatsrat)を形成する。外相にはアドラーが就任。重病のため次官のバウアーが実務を取り仕切る。

10.31 ウィーンで社会民主党大会が開かれる。基調報告を行ったバウアーは、ドイツ系オーストリア国家の建設、民主共和制の採用、民主ドイツへの併合を提示。社会主義の目標を提示せず。

18年11月

11.03 オーストリア帝国が連合国と休戦条約を締結。旧軍に代わるものとして国務会議は人民軍の創設に着手。

人民軍: 赤軍とは異なり、旧軍の編成はそのまま残され、各大隊ごとに協議会(レーテ)が創設された。同時に国務会議から政治委員が派遣され配置された。政治指導のトップは国防次官ユリウス・ドイッチ(社会民主党員)が掌握した。

11.03 フリードレンダー(夫妻)らがロシア革命路線を支持するオーストリア共産党を結成。ヨーロッパで最初の共産党となる。

11.09 ドイツで革命が発生。これに基づきオーストリア併合論が影響力を増す。

11.11 皇帝カルル、国事への関与を放棄。事実上の退位を宣言。国務会議は民主共和国の樹立を宣言。

11.12 臨時国民議会、ドイツ系オーストリア共和国とドイツへの併合を決議。

この時点でドイツ系オーストリアは食料や原料、さらに製品の販売先を非ドイツ系諸州に頼っていた。ウィーンの労働者部隊が農村の食糧徴発を行ったため、農民の抵抗が強まる。

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

11.21 アドラー外相が死去。バウアーが新外相に就任。

18年12月

12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

12月 連合国のドイツ系オーストリア救護委員会が発足。アメリカの食料品がウィーンに流入。またシレジアの石炭も連合国の分配と流通により可能となる。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

19年1月

1月 バウアー、党機関紙に『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ革命を批判し、政治革命と社会革命とは異なると主張。生産の計画化、組織化を中軸に据える「産業社会化」を社会主義への道として提起した。産業社会化の鍵となる「利害関係者による三者管理協議会」の提言は、革命ロシアの国民経済会議決定(18.5)の影響を受けたものとされる。

19年2月

2.09 共産党が第1回大会。社会民主党の急進派、ロシアから帰還した捕虜グループが加わり、党員数3千人を数える。「すべての権力をレーテ(ソヴェートに相当)へ」とし、レーテ独裁をもとめる。

2.16 制憲議会選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

2.19 リンツのレーテ(労働者協議会)大会、全国レーテ会議の招集を要請。

2月 バウアー外相、フランスの強硬な反対を前に、対独合併策をいったん保留。

19年3月

3.02 ハンガリー共産党が革命を起こし、協議会(レーテ)共和国が成立。ポラーニはプロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

3.21 ハンガリー新政府のベラ・クーンはオーストリアに支援を要請。バウアー、諸般の事情と力関係を理由にハンガリー政府の要請を拒否。

3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーのシュンペーター評: 彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した。

5月4日 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。



ウィーンの住宅事情は劣悪で、郊外では数千世帯が違法に立てた小屋に住み、自給自足の生活を送っていた。ウィーン市行政はこれらの家族を支援することからスタートする。


6月2日 オーストリアあてに講和条約の草案が示される。工業地域の多くが連合国に割譲されるなど、厳しいものとなる。

6月14日 共産党による蜂起計画が発覚。指導者が一斉逮捕される。この頃オーストリア共産党は4万人に党員が拡大。

7月 バウアーが外相を辞任。

8月 ハンガリー・レーテ共和国が崩壊。ポランニはウィーンに亡命。

9.10 草案より条件緩和されたサンジェルマン条約が批准される。ドイツへの併合は禁止される。

10 第二次連合政権が発足。引き続きレンナーが首相に就任。

11 労働者協議会と兵士協議会選挙。社会民主党急進派が「協働団」(SARA)を結成しかなりの支持を集める。

19年 バウアー、「レーテ独裁か民主主義か」を発表。レーテ独裁が客観的諸条件を無視した冒険主義であることを訴える。

 

1920年


6月 総選挙。社会民主党は大幅に後退し政権から離脱。社会化の動きは相次いで挫折する。

5月 第3回労働者レーテ全国大会。社会民主党はSARAの要求を入れ、連合政権より脱退する。

11月 社民党大会。バウアーら指導部はSARAを追放。

20年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

 批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 


1921年

1月 共産党第4回大会。社会民主党を排除されたSARAが共産党に合流。

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。
21年 ウィーン市によるジードルング計画がスタート。ジードルングは家庭菜園付きの郊外型戸建住宅。
1922年
 5月 ザイベルが首相に就任。国際連盟を仲介者として西欧各国に資金援助を申し入れる。オーストリアは,すでに第一次大戦以前から,慢性的な資本不足に悩まされ,金融的に外国に依存していた。
10月 ジュネーブ議定書が取り交される。イギリス,フランス,イタリア,チェ コが3千万ポンドの借款を提供する。列強の圧力を受け、労働者階級との徹底した対決路線をとる。


1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

23年 バウアー、「オーストリア革命」を発表。「封建制から資本主義へは長い移行過程をへなければならなかった。同様に,資本主義から社会主義への途上でも,人類は一連の長い革命的過程を要するだろう」
23年 市営集合住宅の大量建設が始まる。この年のウィーンの失業率は11%(24万人)を超える。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。
24年 フロイトがウィーンの名誉市民に選出される。アドラーは社会民主党の社会教育に尽力する。

1925年

25 社会民主党、農業綱領を発表。近代的農業技術を前提とする小農保護政策を前面に打ち出す。

25年 ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

 市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を探る。

①破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。②「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。

ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。


1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月15日 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1931年

4月 州議会選挙が実施される。保守派内部の地殻変動。キリ スト教社会党,大ドイツ人民党や農民同盟は得票を減らし,ナチスが大躍進をとげる。
5月 クレジット・アソシュタノレト銀行が破産。不況に加え通貨危機に陥いる。


1932年

7月 列強の借款を定めたロ ーザンヌ議定書が調印される。債権者の政治干渉が強まり、労働者へのしわ寄せが強まる。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなくドイツ共産党に対する大弾圧が始まる。

3月4日 エンゲルベルト・ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令が公布され、祖国戦線の名のもとに共産党もナチ党も禁止される。

 ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

3月7日 ドルフスの逆クーデター。第一次大戦時の戦時経済立法権に基づいて統治することを宣言。連邦大統領,キリ スト教社会党,郷土防衛運動,企業家団体,カトリック教会などがこれを支持。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。
33年 ウィーンの失業率が26%(56万人)に達する。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。
5月 「五月憲法」が制定される。選挙に基づく制度はすべて廃止された。

34年 ドルフース、ナチのテロリストにより暗殺される。
34年 実質賃金は大恐慌前に比べ44%の減少をもたらす。

いささか持て余し気味で困っている。
これまであまり材料がない中で、いろんなところから切れ端を拾ってきては継ぎ合わせるという形で「赤いウィーン」年表を作ってきたのだが、上条勇さんの論文を見つけてしまったためにバランスが取れなくなってしまった。
まずとりあえずは論文の中心内容である大戦間のオーストリア社会民主党の歴史をテーマに、別途年表を起こしてみようと思う。

これはおそらく「赤いウィーン」前史と一本化して行くことになると思う。

そのうえで、かなり雑然となってしまった「赤いウィーン年表」を、ウィーンの動きそのものにシボり込む形で整理したいと思う。

そこで少々扱いに困るのがカール・ポランニーのところに書き溜めたハンガリーとブダペストの歴史である。

とりあえずはそのままにしておいて、「ポランニーを知りたい人のためにはオーストリア社会民主党の年表も見てください」、みたいな扱いにするしかないだろうと思う。

上条さんの論文を読んでみてわかったのだが、これまでポランニーのオリジナルの議論と思っていたものが、かなりオットー・バウアーとオーストリア社会民主党の所説を下敷きにしたものだということが分かった。

つまり、ポランニーの言っていることはかなりの程度までウィーンの論壇では共通の話題であったということである。しかもバウアーの議論はもっと前、カール・カウツキーの所説を発展させたものだということが分かってきた。

こうなると、どうも最初からやり直さなければならないということになりそうだ。

もちろん私にはもはやそれだけのガッツもないし、月日も残されていないだろうから、誰かが引き継いでくれるのを期待するばかりだ。





以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの文章を読んでの感想は、見出しの如くなる。
すなわち「戦時性暴力は暴力支配、とりわけ植民地支配の理不尽さがもたらしたものだ」ということだ。
なぜなら、植民地支配こそは近代世界におけるもっとも持続的・系統的な暴力支配だからだ。
「力の論理」と言うが、力は非論理だ。あまりに抽象的と言えば抽象的だが、逆にこの基本方向を見失ってはならない。
1.戦時性暴力と普遍主義
植民地支配を取り除いて考えると、戦時性暴力はフェミニズムとミリタリズムとの「二項図式」のもとに包摂されてしまう。山本さんが危機感を持つのはここにある。

「戦時性暴力」という言葉は、ときに驚くほど無難で耳障りの良いものに変貌しうる。それはきわめて普遍主義的フェミニズムに横滑りしやすい性格を備えている。 

「女性はいつも戦争の最大の犠牲者」といった普遍主義的なミリタリズム批判や家父長制批判の中でこれを論じれば、これらの亀裂はふたたび糊塗されてしまう。
これによって見落とされるのは多様な事象と権力との交差である。
等質的かつ情緒的一体感で結ばれた内集団を前提とするなら、それは「蹂躙される我々の女たち」のイメージを通して、外集団に対する憎悪を掻き立てるプロパガンダにやすやすと手を貸してしまうことになる。
申し訳ないが、この裂帛の気合は女性にしか描き出せない世界で、男性はかしこまるほかない。

2.植民地における性暴力と、入植者の受益者責任
山本さんは下記のようにまとめる。
2001年のダーバン会議以降、「植民地主義とそれに関連する歴史的不正義」という認識が定着しつつある。このアジェンダは今後とも追究される必要がある。
「引揚者」の経験をあらためて政治的に位置づけ直すこと、「戦時性暴力」が誰による誰に向けられた暴力なのかを論じるという「挑戦」の必要と意義が確認されなければならない。
植民地主義への抗議という視点が何故だいじかということで、山本さんは植民地統治の「支配責任」と「受益者責任」と言う概念を取り出す。これは前項記事に触れた「植民者」論と関連するが、受益者責任を問うことなしに論理の円環は閉じないということである。
これを山本さんは「安易な普遍化への誘惑に抗していく覚悟」と表現している。

3.「性奴隷」論 ― 朝鮮人従軍慰安婦問題への視座
ここまでの議論からすれば、朝鮮人従軍慰安婦の問題は、戦時性暴力一般ではなく、「日本軍(軍関係者をふくめ)が植民地支配下の朝鮮人女性に加えた戦時性暴力なのだ」と捉えることがだいじなのだ。
この場合、戦時性暴力は終戦時のソ連軍兵士による性暴力とは異なり、計画的・組織的で持続的であるところに特徴がある。
「強姦」は日本の刑法では「暴行・脅迫を用いて男性器を女性器に挿入すること」と定義されている。これでは慰安所を設立・運営することは性犯罪とならない。女性を性奴隷とする行為全体を性犯罪と捉えなければならない。
「性奴隷」化の犯罪としての凶悪性は、偶発的な性暴力よりはるかに高い。

全体を通して、はやりの表現で言えば「キレッキレの論理」が支配する論考である。

ただ、ここまで切りつけ合わないとならない課題なのかは、いささか疑問を感じるところである。

「歴史の真理」はもう少し叙述的に展開されても良いのではないだろうか。

ただ普遍主義的フェミニズムが、反動派の歴史修正のためのレトリックとして利用されることに抗議するときは、イヤと応とを問わず必要となる論理であろう。


以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの論文 
戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに を、一応通読した。

相当に歯ごたえのある文章である。

1.クレームに込められた思い

山本さんが「奥底の悲しみ」に対して何故クレームを付けたかが分かってきた。山本さんの願いは、「引揚者」問題を全体として「奥底の悲しみ」の方向に引っ張らないこと、もっと大きな文脈の中で位置づけてほしいということだ。

引用のレベルか盗用のレベルかではなく、「反対」と言っている論文を「賛成」と言う番組のために利用してほしくはないのだ。

問題は、引揚者という範疇の特殊性の問題だ。そして戦時性暴力の具体性の問題だ。

山本さんは、個別の戦時性暴力がどういう性格の戦争(戦闘)の下で生まれたのかを追及しないと二項図式的なジェンダー観に陥ってしまうとし、これを「普遍主義」的フェミニズムと呼ぶ。

そして「奥底の悲しみ」がまさにそういう傾向を内包しているからだ。

2.「引揚者」の特殊性

山本さんの引揚者に対する視線には鋭いものがある。安易な感傷は拒絶される。これについてはもう少しあとで触れることにしよう。

まず、日本近現代史という標本箱に、「引揚者」という存在が、冷厳にピン留めされる。この部分の記述は、それだけでも圧巻である。

a.入植者の結末としての引揚者

「引揚者」はまずなによりも「入植者」であった。

入植者には2つの顔がある。

まず第一に植民地支配の紛れもない受益者であること。

第二に、故郷の日本社会においては余されものであったことである。

b.「住所不定・無職」の民としての引揚者

したがって日本の敗戦と同時に、ソ連の襲来を待つまでもなく、どこにも居場所を失った流氓の民となっていたのである。

つまり、歩であろうと、香車・桂馬であろうと大日本帝国のコマであるということ、させられてなったのではなく、主体的意図をもって参加した、そして最後は捨て駒となったのである。

敗戦と同時に「入植者」の多くは関東軍に置き捨てられ、「棄民」となった。

c.帰還移民としての引揚者

「引揚者」は帰ってくることができた「入植者」である。一言で言えば「帰還移民」である。帰還移民というのは、ひっくるめて言えば、移民に失敗した出戻り移民ということである。

「故国」を一度は捨てた彼らにとって、日本の中にいる場所は本来的にはないのである。

d.引揚者の心性の形成

以上のように引揚者という存在のあいまいさを衝いたあと、山本さんはそのあいまいさがもたらす、不合理な心性をも剔抉する。

繰り返し論じられてきたのは、「彼ら」はその背景いかんにかかわらず、概して植民地支配の資任主体という自覚に乏しいということである。

「彼ら」の経験は反戦思想に接ぎ水され、周到に偽装され、「引き揚げの労苦」として収数される。支配者の地位を追われた植民者という彼らの政治性も首尾よく漂白されてしまう。

3.引揚者伝説をどう読み解くか

ということで、結論としては「引揚者」というのは真っ白な受難の民ではないぞ、ということだ。韓国人慰安婦と同列に見るのは、歴史的視点から言えば正しくはない。
ここで山本さんはインドネシアで日本軍の慰安婦とされたオランダ人女性の証言を引き合いに出す。
彼女たちの祖先は幸福な人生を求めて東南アジアへとやってきた。彼女たちの幸福は植民者としてのそれであった。

彼女たちの身を削るような証言活動に植民者の輪郭を強調するのに疑問を感じる向きもあろうが、…被害者同士が反目しあうという事態を招きかねないからこそ、その被害の責任を問う際には、歴史的文脈を重視しつつも序列化を慎重に回避していく必要がある。

今日のネット状況などから見れば、ずいぶん思い切った発言であり、そこには流れにあえて棹差そうとする山本さんの覚悟が感じられる。

 


私の祖父は明治末年に朝鮮(京城の龍山)におそらくは流れ者として「入植」している。そこで父を始め3人の子が生まれ育った。

父はすでに戦前に朝鮮を離れ静岡に流れ者として移住している。戦後、その父を頼って祖父と兄弟が「引き揚げ」てきた。

わたしも「引揚者」に片足突っ込んでいることになる。おまけに北海道に住んでいる限りは、アイヌ人に対する侵略者ということにもなる。

だから、山本さんの文章を読んでいると、何か叱られているような気分にもなってくる。心して臨まなくてはならないな。

私の 山口放送の「奥底の悲しみ」

という記事に

日本学術振興会特別研究員の山本めゆさんが、自身の研究をこの番組で「盗用」された旨、告白しています。 

というコメントが付けられている。

私の一連の記事の内容は「奥底の悲しみ」という番組そのものより、それで触発された「戦後引き揚げ史の全体像」である。性暴力そのものについては申し訳ないが、主要な関心域ではない。

したがってこのコメントに対して正面から対応するつもりはない。しかし山本めゆさんのクレームについては事実問題として知っておく必要があると考えた。

いろいろ調べた結果、「まずは山本めゆさんの言わんとする所を多くの人に知ってもらうことがいちばん大事なことかな」と考えている。選んだのは以下の論文。

山本めゆ 「戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに
日本女性学会学会誌 (2015)

最初に感想を述べさせていただくと、非常に筋の通った立派な考察であると思う。中味はとてつもなく重い。こういうドストエフスキー的な荷物の抱え方はとても私にはできない。

目次は以下のようになっている。

はじめに

Ⅰ. 「引揚げ」を再-政治化する

Ⅱ. 植民地主義史の再審と新たな責任主体

Ⅲ. 普遍主義への誘惑

Ⅳ.  「引揚者」 の経験をいかに読むか

Ⅴ. オランダ人元「慰安婦」の植民者性

VI. 仲介者・協力者・受益者

結びにかえて

今回はこの目次のうち「はじめに」のみ紹介


彼女たちが帰還した引揚港では、引揚援護院の指導のもと性病の治療とともにおびただしい数の中絶手術が実施された。これらの事実は疑いのないものであるが、「特別な注目」に浴さずにきた。

比較的最近になって、へイトスピーチの資源として「引揚げ」という植民地の喪失と帰還史が参照されている。この現象は排外主義の高まりの表現と理解される。

日本軍による性暴力を告発し、被害者への補償と尊厳の回複を姿求する活動の活性化が、「引揚者」 の経験を励起している可能性がある。

基本的にはこの作業は推進すべきものであり、同時に、それをもたらした過去の植民地主義への歴史的検証を伴ってすすめるべきものでもある。

そしてさらに、引き上げ時の性暴力被害の経験が、排外主義的・歴史修正主義的主張の資源となってきたことへの批判的検討、それを許してきた言説的な土壌の点検作業を必要としている。

第Ⅰ節ではまず「引揚者」という呼称に注目する。それを通じて、植民地主義の歴史を呼び起こす。

第Ⅱ節では、 慰安婦への補償運動の議論が 戦後日本社会の自画像にいかなる転換を迫っているかを考える。

第Ⅲ節では、女性を一元的に戦争と家父長制の犠牲者とみなすような普遍主義を批判する。そして複数の権力を視野に入れてアプローチする。

第Ⅳ節・第V節では、オランダ人慰安婦を通じ、「植民者に向けられた性暴力」との向き合い方を模索する。

第Ⅵ節では、仲介者・協力者・受託者といったアクターの存在に光を当てる。


まだ本文に取り掛かる前にコメントするのも変なのだが、こちら側の心構えとして、いくつかのポイントを設定して置かなければならないようだ。

第一には、引揚者への性暴力、慰安婦問題に見られる性暴力は、単純なコインの両側ではないという当たり前の事実である。

第二には、フェミニスムの枠に強引に流し込むような総括はいけないということだ。

第三には、植民者の光と影、侵略→敗北・撤退という歴史を彩る事象として見つめなければならないということだ。
うーむ、気が重い。

以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 

考えてみると、カレイとヒラメの違いについてのうんちくは、スシ屋に行けば歓迎されるかもしれない。エラそうにゴタクを並べると座が白けるかもしれないので、プレゼンには気をつけなければならないだろう。
ほとんどのページが断りなしのコピペで、オリジンがどこかはわかりにくい。このあたりがそれっぽいが…

1.左ヒラメに右カレイ
魚を表向きに置いたとき顔が左にあればヒラメ、右にあればカレイ。ただし例外はある。
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2.口の形の違い
ヒラメの口は大きく歯も発達している。凶暴派。
カレイの口は小さく、歯も発達していない。穏健派。

3.目の違い
カレイは出目、ヒラメの平たい目の中はハート型

4.値段の違い
カレイは煮魚、大衆魚
ヒラメはお刺身、高級魚
漁獲高は、カレイ10 : ヒラメ1

住所
カレイはカレイ目カレイ亜目カレイ科
ヒラメはカレイ目カレイ亜目ヒラメ科

漢字は
カレイは「鰈」
ヒラメは「鮃」

最後に
の鑑別表を転載させていただく
kareitohirame

面白いかどうか、一応メモしておく。
魚にも利き手があって、右利きと左利きがあるそうだ。
魚と言っても魚みんなではない。アフリカのタンガニーカ湖に棲むシクリッドという魚だ。この魚の存在は以前から知られていたらしい。
それで今回は、この魚の脳を調べて、構造の左右差を見つけたという話だ。
赤旗の科学面の囲み記事。出処は「ゲノム・バイオロジー・アンド・エボリューション」という科学誌の11月15日付の記事で、ドイツ・コンスタンツ大学を中心とする国際グループが発表したもの。
1.導入 まずシクリッドについて
タンガニーカ湖というのはアフリカ東部の大地溝地帯にある湖だ。ここは淡水湖で生態系は周囲と孤立している。
この湖にシクリッドという魚がいる。変わった魚で、ほかの魚に後ろから近づいてウロコを奪い、それを餌にしているそうだ。「通り魔」みたいな卑怯なやつだ。これでもやはり肉食といえるのだろうか。
それが、後方左から近づくものと右から近づくものがいて、長年やっているものだからアゴの発達が違っているそうだ。カレイとヒラメの目のようなものだろうか。
2.それでもって本論
コンスタンツ・グループは40匹のシクリッドを捕まえ、脳を調べた。
違いは大きく言って二つある。
一つは「利き手をコントロールする側の視覚を処理する領域」が強く発達していることである。何かわかりにくい話だが、利き手側脳半球の「視蓋」領域が強く発達しているのだそうだ。
もう一つは、視蓋領域の神経細胞のDNAを調べたところ、140個の遺伝子活性で左右差を認めたという。これについては、言っていることがよくわからない。
3.結論はとくにない
それだけの話らしい。結局、我々素人にとっては、シクリッドという魚がいて、右利き左利きがあって、口の形まで違っているんだそうだ、ということ以上のものではない。
これがヒラメとカレイの違いまで話が進むともうちょっと面白いかもしれないが。




慰安婦問題については、慰安婦はなかった式の議論は論外である。南京事件はなかった式の話と同じである。ポスト・トルースの歴史修正主義と言ってよいのだろうと思う。
ただ以前からアジア女性基金のことは気になっている。そこにはっきりしたハシゴがかかっているのに、韓国側がこれをなかったかのように無視し続けている。
これではどうやっても議論が噛み合わない。
今回、「アジア女性基金とわたしたち」という座談会を読んで、私の抱いていた奇異の念が根拠のないものではないことがわかった。
座談会の参加者は大沼保昭、横田洋三、和田春樹の三人である。いずれもアジア女性基金には主体的に関わっており、慰安婦問題には真剣に心痛められている。
結論として三人が三人とも、「あるNGO」(挺対協)の対応には怒りを抱いているが、そのニュアンスは三者三様である。
その経緯については不明であり、判断は難しいところはある。
ただ挺対協の主たる工作対象が国連の人権問題小委員会であり、ここに情報作戦を繰り返し展開していたこと、そしてつぎ込まれた情報にはかなり不正確なものも混じっていることが分かった。
最強硬派の大沼さんは、基金から手渡されたカネの行方まで及んで挺対協を批判しているが、これについてはあえて触れないでおきたい。
肝心なことは国連人権小委員会の下した事実認識が、事実とどの程度一致しどの程度乖離しているかという問題、もし乖離している部分があるとすれば、それはどのように修正されているのか、またはされていないのかという問題であろう。
「どっちにしても日本が悪いのだから…」と、かしこまっていたのではすまない状況になっていると思う。
おそらくは慰安婦問題に関する国連判断の基準となっているのがマクドゥーガル報告である。
これは国連人権委員会の「差別防止と少数者保護小委員会」(いわゆる人権小委員会)にたいする特別報告者ゲイ・J・マクドウーガルの報告だ。
中核的事実認識は以下のごとくである。
女性たちは…これらのレイプ・センターで毎日数回強制的にレイプされ、厳しい肉体的虐待にさらされ、性病をうつされた。こうした連日の虐待を生き延びた女性はわずか 25%にすぎない。
以下、その違法性の根拠が長々と展開されるが、中核的事実はきわめて情緒的な認識に依っている。“25%”はおそらくデマであろう(荒舩清十郎の個人演説会での話が唯一の根拠である)。
こういう極端な感情的議論は事件の正常な解決のためには百害あって一利ない。戦時性暴力の問題はもう少し奥行きの深いイシューなのだろうと思う。




 

スライド1
チラシ

  

本日は発言の機会をいただきまことにありがとうございます。

この講演会の主催は「憲法を考える札幌市民集会実行委員会」です。その連続講演会の4回目の会議として本日の話が位置づけられております。」

これが本日の講演会のチラシです。立派なものを作っていただきありがとうございます。


スライド2

チラシの文脈では

Ⅰ 世界の平和の流れと憲法9条

Ⅱ 北朝鮮の核開発をどう見るか

Ⅲ 平和と安全に関する法体系のあり方

Ⅳ ラテンアメリカの平和への動き

…北朝鮮問題への国際的な視点を考察し、平和と安全の問題を考える…

 


 

チラシの文句を並べるとこういうことになります。

チラシの中味だとけっこう話が拡散しています。

どうしたら聴衆の皆さんの興味を拡散させずに話をまとめることができるかどうか、考えあぐねているところもあります。

とりあえずは、国際情勢をめぐるさまざまな話題を、究極的には日本国憲法に引きつけて、整理して行くようにと考えています。

これでは広すぎる、とりあえず一点に絞る


国際的な連帯運動の到達を踏まえ、憲法(とりわけ9条)の意味を考える

一応、このような方向で話しさせていただくということで、あらかじめご承知の上で聞いていただけるとありがたいと思います。

これはある意味で学ぶ活動だといえます。

もう一つだいじなのは、日本の護憲平和の運動を国際的に意味づけし、世界につなげる活動ですが、これは後で考えていきます。

皆さんのご期待と少し外れるかもしれませんが、ご容赦願います。

 


スライド3

21世紀型連帯運動の特徴

「国際的な連帯運動の到達」の意味するもの

1.すべての国際連帯の課題が、わたしたち自身の闘いと分かちがたく結びついている

中東・アフリカの平和の問題は、日本の憲法改悪の問題と結びついている。

わたしたちの運動は世界の運動と結びついたときに大きく発展する。

2.平和の課題だけではなくすべての闘いが連帯抜きに語れなくなっている

反TPP・反原発の闘い、超国家企業・投機資本との闘い、反共ポピュリズムとの闘い

響き合う各国の闘い(特にこの問題に触れたい)

 


 

スライド4

003年 イラク反戦ウエーブ

 

 2月14日~15日の24時間で世界で1千万人がデモに参加した。その多くはインターネットによるものだった。

オーストラリア(人口1千8百万人)では、2月14日にメルボルンで25万人、16日にシドニーで25万人のほか、アデレイド、ブリスベンでそれぞれ10万人など、総計75万人がイラク反戦集会・デモに参加した。

翌15日、ヨーロッパ諸国で空前の巨大な規模の闘いが爆発した。イタリアのローマでは300万人、1都市としては最大の反戦デモが行われた。
スペインでは全国で総計4百万とも5百万とも言われる人びとが街頭を埋め尽くした。マドリードで200万人、バルセロナで150万人、全スペイン国民の10人に1人が反戦闘争に参加したのだ。
ロンドンで200万人、パリで80万人、ベルリンで50万人など、かつてない規模の反戦集会・デモが開催された。

最後の大ウエーブは戒厳態勢下のニューヨークで巻き起こった。デモが禁止されたが75万人が参加した。最後のサンフランシスコでは25万人、市民の3分の1が参加した。

 

写真省略

 


 

スライド5

21世紀型連帯運動の三つの分野

21世紀型連帯運動は3つの分野に広がっている

Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

Ⅲ 反ファシズム・立憲主義と民主主義を守る闘いと連帯

この3つの課題は

Ⅰ 平和に生きる権利

Ⅱ 人間らしく生きる権利

Ⅲ 自由に生きる権利

をめぐる課題、と言いかえることもできる。

(これは私の自慢の表です) 

 


スライド6

第Ⅰ分野 反軍事主義・平和構築のための闘争と連帯

21世紀の戦争は、大小の覇権思想とこれに対する報復が軍事主義の悪循環を形成して拡大してきた。

軍事主義とは何か

紛争の解決を国際法・国際的道義と国際機関を通じた合意によらず、軍事力(脅迫)で解決しようとする政治手法である。

覇権思想と軍事主義の2つを食い止める。とくに軍事主義の手を縛ることで平和の構築に向けて歩みださなければならない。

A) 中東における大小の覇権思想と軍事主義

B) 「新しい北東アジア」の構想を推進する

C) ラテンアメリカにおけるアメリカ覇権主義の危険な動向

D) 核兵器禁止条約の締結がもたらしたもの

E) 日本の平和主義国家から軍事主義国家への変貌を許さない

A) ~ E) それぞれが広範な内容をふくんでいるので、ここでは触れない。(「新しい北東アジア」の構想は後で触れる)

 


スライド7

国際テロリズムとの闘い

21世紀の戦争は、大小の覇権思想とこれに対する報復が軍事主義の悪循環を形成して拡大してきた。

国際テロリズムとは何か

大量破壊、暗殺、略取誘拐により政府の行動に影響を与える行動。とくに民間人(ソフトターゲット)に対する無差別攻撃が問題となる。

多くの場合、民族的迫害に対する歪んだ(絶望的)報復行動となっていることが多く、異端的宗教活動を背景とする狂信に支えられている。

土台となる闘い

軍事的報復思想の発生母体を崩し、平和の構築に向けて歩みださなければならない。この課題は反貧困・反格差の課題と、ある程度重複することになるだろう。

1.資源問題などでの富裕層の国際的な横暴を抑えること

2.領土問題などを利用する大小の覇権主義の芽を摘み取ること

3.民族差別を煽る極右・反動勢力の台頭と闘うこと

当面の対応

当面、国連などの国際協力を通じて、

1.異文化理解の強化 

2.貧困の削減と飢餓の根絶 

3.難民の受け入れと支援 

4.非軍事支援の強化

を推進していかなければならない


スライド8

第Ⅱ分野 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争と連帯

A) グローバリズムと経済問題の深刻化

1.ビッグバン 金融自由化: 投機資本の市場撹乱

2.リーマンショック: レバレッジの仕掛けが世界を壊す

3.租税侵食: 超国家企業の出現と国家財政の破綻

基層をなすのは先進国における産業空洞化、労働の不安定化、マーケットの狭小化

B) 格差問題は世界で深刻化している

1.アントニオ・ネグリ「帝国」 2003年

途上国国民の貧困化と流民化

2.ピケティ「21世紀の資本」 2013年

先進国の空洞化と格差拡大。

C) 人間らしく生きる権利が侵害されている

生存権とは、もっとも簡潔に言うと、人間が人間らしく生きる権利のことである。それは「人間らしく生きる」ことを可能にする国家の義務である。

国際的には、国際人権規約のうち、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)が相当する。(A規約については別途検討)


スライド9

欧米の社会変革の動きとの響き合い

A) 2011年 反失業青年行動 

リーマンショック→欧州金融危機→PIGSの債務危機→財政引き締め

チュニジア青年失業者の自殺→アラブの春→スペイン、ギリシャの青年行動→ウォール街占拠闘争→アメリカでの最低賃金引き上げ運動

日本では東北大震災のため連動しなかったが、反原発闘争、非正規就業反対・ブラック企業告発で盛り上がる。

B) 2016年 各種選挙での躍進

ギリシャでの反緊縮政党(元共産党)の勝利→スペインでのPODEMOSの前進→サンダース現象→イギリス総選挙でのコービン現象→フランスでのメランション現象

日本でも野党共闘が大いに盛り上がった。さらに揺るぎないものにするためには、青年・学生・若ママ・非正規の要求を組み上げることがだいじだ。


スライド10

格差問題是正のために何をなすべきか

1.税制改革、財政改革、働き方改革の「3つの矢」

1.税制改革: 税制を改革し、所得再配分をすすめる。「能力に応じて負担する、公正・公平な税制」の原則。

①間接税から直接税へのシフト、②大企業優遇税制の抑制、③租税回避を許さない、④世界的な「法人税引き下げ競争」の見直し。

2.財政改革: 積極的な公的社会支出(社会保障、教育・研究、子育て)で格差と貧困を是正する。

3.働き方改革: ①労働規制の強化、②非正規から正規へ、「均等待遇」「同一労働同一賃金」の原則を打ち立てる。③大幅賃上げと最賃引き上げなどによりワーキングプアをなくす。


2. 富裕層は強大だ

わずか1%で99%の人たちを支配できる。そのくらい富裕層は強力なのだ。だから99%が本当に力を合わせなければ、この仕組みを打ち破ることはできない



スライド11

21世紀型連帯運動の三つの分野

そのⅢ 自由に生きる権利を守る闘いと連帯

1.立憲制とリベラリズム

政治的自由は、国家における民主主義の根幹をなすものである。政治的自由を支えるものとしての「立憲主義」の根幹性は、この間の運動の中で明らかになっている。

1.支配者の恣意による専制支配: 人治政治

2.法による支配: 法治主義(法定主義)

3.立憲主義政治: 国家原則(憲法)に権原を由来する政治

4.共和制国家による支配: 主権在民を前提とした民主主義のシステム

1→4の順に国民の自由度は高まる。これは人間の歴史の中で築き上げられてきたものである。

2.民主主義はリベラルでなければならない

シェリ・バーマンはポピュリズムは反リベラルではあるが、反民主主義ではないという。

これは明らかに誤りだ。ポピュリズムには多数決主義はあっても、自由権(批判的・異端的)を恣意に委ねない保障はない。それは近代的民主主義ではない。

3.立憲政治を民主主義の基礎としたのは戦争法反対闘争の成果

まだいろいろ議論が必要だが、「立憲主義」とリベラリズムを民主主義の前提条件と位置づけたのは、日本の護憲闘争の理論的成果である。

  


スライド12

国際的な連帯運動の到達を踏まえ、憲法(とりわけ9条)の意味を考える

Ⅰ 反軍事主義・平和構築のための闘争

憲法前文と憲法9条 非戦条項の実効性を証明した功績

平和国家としてのプレステージ(まったく生かされていないが)

Ⅱ 反貧困・反格差・経済民主主義を目指す闘争

憲法25条の先進性

Ⅲ 反ファシズム・立憲主義と民主主義を守る闘い

「憲法は、個人の尊重が目的とされ、人間らしい生活を保障するもの」という教訓

憲法擁護はリベラリズムの核心であり、近代民主主義の第一歩

 

最後にもう一度

「国際的な連帯運動の到達」の意味するもの

1.すべての国際連帯の課題が、わたしたち自身の闘いと分かちがたく結びついている

中東・アフリカの平和の問題は、日本の憲法改悪の問題と結びついている。

わたしたちの運動は世界の運動と結びついたときに大きく発展する。

2.平和の課題だけではなく、すべての闘いが連帯抜きに語れなくなっている

反TPP・反原発の闘い、超国家企業・投機資本との闘い、反共ポピュリズムとの闘い

響き合う各国の闘い(特にこの問題に触れたい) 

前の記事
2017年11月18日 

 とあわせお読みください。



を書き始めたのだが、どうにもまとまらない。書くための材料が何か決定的に欠けているような気がして仕方がない。

1週間悩みに悩んで得た結論が二つある。
A)憲法25条の「生存権」は、胸を張って生きていく権利
一つは「生存権」が意味のある生き方をおくる権利だとすれば、それが拒否するのは貧困一般ではなく貧富の差であり、貧富の差が生み出す「差別を伴う格差」だということだ。
貧富の差そのものが差別を生み出す。これは倫理を介在するものではない。月給10万の人は、誇りを傷つけられずに月給100万の人とともに暮らすことは不可能であろう。
格差そのものが生存権の侵害であり、これは慈善ではいかんともしがたいことだ。そういうものとして「生存権」を捉えなければならないということだ。
それで、そこまで踏み込んで条文化したのが日本国憲法の25条だということだ。これは「人を餓死させてはならない」という条文ではない。人口の少なくとも過半数を占めているのは相対的な貧困層なのだから、その人達が胸を張って生きていける社会を作らなくてはならないというのが法律の趣旨だ。
少し調べてみたが、ここまで明確に人間が人間らしく生きていく権利の権利性を文章化した条文はないように思える。国連人権規約が登場するまでは、世界でもっとも進歩的な条文ではなかったか、と思っている。

B) 日本型立憲主義の主張と「自由主義思想」の再評価
もう一つは、近代民主主義の基層をなすものとしての自由主義思想の受け止めである。
これは、一昨年の戦争法反対運動の中でにわかに巻き起こり、いわば「民主主義的立憲主義」という形で民主運動の中に定着しつつある。
この立憲主義の思想的裏付けとなっているのが自由主義思想(リベラリズム)である。リベラリズムは産業資本主義のバックボーンとなってきた思想である。ところがこれが冷戦体制の中で資本主義諸国のブランドマークとして利用され、反動政策を覆い隠すために利用されてきたため、進歩的運動野では比較的軽視されてきた。
冷戦体制が崩壊し、資本主義対社会主義、民主主義対自由主義というレッテルの張り合いが無意味になったいま、もう一度自由主義思想を民主主義の基層に位置づけ直すことが運動論の形成の上で不可欠になっている。
それは安倍政権の対米依存強化と軍事力主義への傾斜を食い止める上でも不可欠の思想となっている。またトランプを筆頭とするデマと民衆扇動によるポピュリズム(ニセ民主主義)の論理を打碎くためにも必須の論理である。
率直に言えば、諸外国では日本ほど徹底したソ連型政治システムへの批判が行われていない。したがってリベラリズムを偉大な正統な歴史遺産として受け止める雰囲気は形成されていない。
しかしリベラリズムの伝統の上にデモクラシーを構築しなければ、近代民主主義は語れないのである。逆説的に言えば、日本の憲法を守る運動はそういう理論的地平を切り開いたのであり、このことは大いに確信を持つべきだろうと思う。

この2つは、憲法9条を守る運動に勝るとも劣らない、日本の民主運動の世界的功績であろうと思う。

ここまでハイドンのピアノソナタにはまり込んで、なんでこんなことまでしなければならないのかと思う。

結局前の記事で、肝心なことが説明できていないからである。

「ウィーン原典版」(ランドン版)というのが結局混乱の元だったのだろう。

こういうことになると、日本語のネット文献はとんと無力である。

調べてみて分かったのはこういうことだ。
ハイドンという人はドイツ人として初めて大衆の支持を受けた作曲家だ。しかも大変息の長い作曲家で、ウィーンで楽譜が売れ始めたのがかなりの歳になってからだ。だから楽譜が売れる前エステルハージの時代にかなりの曲が手書きコピーで流布された。つまり海賊版がやたらと多い人なのである。だから作品目録を作るに当たっては『伝 正宗』のヤマの中から本物を探し出す作業が必要になる。

1926年生まれのアメリカ人ロビンズ・ランドンが、第二次大戦後間もなくウィーンにやってくる。まさに「第三の男」の時代だ。

彼はボストンでの学生時代、ウィーンから亡命してきたガイリンガーというハイドン研究者の講義を受けて感動していた。ウィーンに来てからは、ハイドン研究の大御所ラールセン(デンマーク人)の指導も受けていたといわれる。
溢れんばかりの才気とやる気、それにかなりの資力(パトロン)もあったんだろうと思う、たちまちのうちにウィーンとボストンにハイドン協会を立ち上げてしまった。

彼のハイドン協会は、「不幸なハイドン」のために一刻も早く全集を完成しようと奔走するが、結局それは挫折する。

やがて戦後の混乱が落ち着いてくると、ラールセンは復興資金の集まるケルンに移り、ハイドン研究を継続する。そこにはラールセンより15歳年上のホーボーケン(オランダ人)も結集した。

57年にホーボーケンが作品目録を提示した。ロビンス・ランドンは相当あせったようだ。

ランドンは妻クリスタ(5歳年上)とともにウィーンに戻った。他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く完成させて出版した。これがいわゆる「ウィーン原典版」である。

ピアノ・ソナタに関してはクリスタ・ランドンの名義で別目録を発表、ホーボーケンと真っ向対決の形になった。その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあったともいう。つまり巷の多くの『伝 正宗』を取り込んじゃったわけだ。

結局この混乱は、ロビンズ・ランドンが亡くなることで終りを迎えた。このあと「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手し、新版ではホーボーケン番号順へ並び替えられたというから全面降伏である。クリスタ・ランドンの名は原校訂者として残されているが、その意味は定かでない。
PS
クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。写真も見当たらない。
1921年、ベルリンに生まれる。父親は保守系の政治家だった。39年、クリスタが18歳のときに戦争を嫌ってウィーンに移住。そのままウィーンで終戦を迎えた。ウィーン音楽院を卒業後、当時ウィーンで創設されたハイドン協会に就職する。ベルリンなまりのきつい子だったという回想がある。
このハイドン協会というのがよく分からないが、多分ラールセンが中心となったのだろうが、アメリカからの資金提供を受けていたのではないか。ウィーンとボストンのダブルフランチャイズとなっている。そこに大学を卒業したてのロビンス・ランドンがやってくる。あるいはロビンス自身がフィクサーだったかもしれない。
クリスタは後にロビンスの二度目の妻となる。5歳年上の姉さん女房だから、傷心のランドンにとって慰め役になっていたのかもしれない。
クリスタはハイドン協会の解散後もケルンのハイドン研究所、ウィーンに立ち上げたウィーン原典版研究所と、ロビンスと行動をともにする。
彼女はウィーン原典版の発行と接して、77年になくなっている。ロビンスはその後3度めの結婚をしている。
生前はシューベルトの初期交響曲の校訂に携わったらしいが、ハイドンのピアノソナタにはほとんど研究実績がみあたらない。このことから、この大胆不敵な仕事は実のところロビンスのものではないかとも思われる。


多分、おおくの不正確さをふくんでいると思います。訂正・加筆を期待します。

ハイドンのピアノソナタとナンバリングの歴史

飯森 豊水「J.ハイドン研究における近年の変化について」を下敷きにしながら歴史動向を探る。

1732年3月31日 ハイドンが生まれる。

1761年 ハンガリー貴族エステルハージ侯爵家に副楽長として仕える。

1770年頃 ソナタ(Hob18-19, 44-46)が作曲される。(出版は10年後)

1774年 ヴィーンのクルツベック社から6曲の鍵盤楽器ソナタ(Hob21-26)が出版される。この頃ハイドンにおけるソナタの位置づけが定着。

1776年 「6曲のソナタ」(Hob27-32)が発表され、流布する。

1780年 ヴィーンのアルタリア社から6曲のソナタ(Hob35-39, 20)が出版された。

1783年 ロンドンで3曲のソナタ(Hob43, 33, 34)が出版される。

1784年 シュパイアーで3曲のソナタ(Hob40-42)が出版される。

1789年 2曲のソナタ(Hob48-49が発表される。この頃からクラヴィアに代わってピアノが鍵盤楽器の主流となる。

1800年 ロンドンやヴィーンで3曲のソナタ(Hob 50-52)が出版される。いずれも94年の第2回ロンドン滞在中に書かれたもの。

1810年 ハイドンの死去。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社(以後ブライトコップフ)の代表でハイドンの友人グリージンガーによる伝記が出版される。

1879年 C.F.ポール、ハイドンに関する研究を開始。「グローブ音楽事典」でハイドンの項目を執筆。

1895年 高名な音楽理論家フーゴー・リーマン、ハイドンの手稿を発掘。発表された34作品に新たに発見された5曲を加え39曲とする。

1908年 ブライトコップ社による「ハイドン全集」の編集が開始。

1918年 「ハイドン全集」のうち、ピアノソナタの巻が発表になる。校訂者カール・ペスラーは一挙に52曲へ拡大した。

この全集は全3巻からなり、第1巻に第1-22番、第2巻に第23-38番、第3巻に第39-52番が収められた。彼はこの52曲のソナタを創作年代順に並べることを意図した。しかしとくに第1~17番を作曲順に並べるにはその判断の助けとなる資料がまったく欠けていたといわれる。

1927年 オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケン、ハイドンの楽譜等を写真で複製するなど収集を開始。1千曲のカードを数えるに至る。

1932年 ガイリンガー、「ヨゼフ・ハイドン」を執筆。代表的ハイドン概説書となる。

1933年 ブライトコップ社の「ハイドン全集」が挫折。

1939年 デンマークの研究者 J.P.ラールセン、ハイドン楽譜の真贋に関する先駆的研究。門下にホーボーケン。(ただしホーボーケンはラールセンより15歳年上)

1947年 ボストン生まれのロビンズ・ランドン、ウィーンに軍務で赴任。ラールセンの下でハイドンの研究を始める。

1950年 ボストン・ウィーンのハイドン協会による全集発行の企画がスタートする。ラルセンがシニア研究員、ロビンズ・ランドンが実務を担当した。

1951年 楽譜は4巻まで出したあと中断。全集企画が流産する。

1955年 ケルンに「ハイドン研究所」を設立。ラールセンが初代責任者となる。学問的に緻密な全集を新たに出版することを目的とする。

1955年 ロビンズ・ランドンが『ハイドンの交響曲』を出版。真正の交響曲を特定し、作曲順を推定する。

1957年 ホーボーケン、「ハイドン書誌学的作品目録」を作成。第1巻「20のグループの器楽曲」が発表される。この内「グループ16」(表記はHob.XVI:)がピアノソナタに割り振られる。

ホーボーケンは、すでに整理されているジャンルについてはできるだけそれを尊重するという方針を採る。したがって、ピアノソナタにおいてはペスラーの第1~52番がそのまま踏襲された。

1958年 ハイドン研究所、ハイドン全集の発行を開始。60年までに最初の8巻(ヘンレ社本)を出版。所長はラールセンからフェーダーに交代。

1968年 進まぬ作業に業を煮やしたランドンは、独自の『ウィーン原典版』の作成に乗り出す。この年に交響曲全曲の楽譜が発行される。

1972年 ハイドン研究所ゲオルグ・フェダー校訂の原典版ピアノ全集(ヘンレ社)が発刊される。

1973年 クリスタ・ランドン、ヴィーン原典版を発表。新たに13曲を加え(うち6曲は実体がない)、3曲を排除して62曲とした。全62曲に通し番号を付けなおした。

クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。ウィーン音楽院を卒業後、ハイドン協会にくわわる。49年にロビンスの二度目の妻(5歳年上)となる。77年になくなっている。他にほとんど見るべき実績がないことから、ロビンスの仕事ではないかと思われる。

ランドンは他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く出版した。ランドン版に当たる第4番、第7番、第17番~19番、第21番~28番はホーボーケン版には該当するものがない。

ランドンおよびその陣営の研究者たちによる楽譜出版が、その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあった。最大の問題は根拠なしに創作順を推定して全面的に番号づけ直したころにある。

1974年 ケルンのヨーゼフ・ハイドン研究所、ハイドン関連文献の目録作成を開始。

1978年 ホーボーケンの目録第三巻(作品集、作品番号一覧、出版社一覧、被献呈者一覧等のデータ集および追補と訂正)が発行し、全目録が完成。

1976年 ランドン、5巻からなる膨大な『ハイドン:年代記と作品』を刊行。

1984年 アメリカのDover Publications 社、ペスラーの『ピアノ全集』全2巻を復刻・出版。

1994年 ロビンス・ランドンが「新発見のピアノソナタ」とした作品をめぐって論争。これらの楽曲は偽作であると結論された。

2004年 全音楽譜がハイドン:ソナタ集1、2を発行。各15曲が収録されている。いずれもホーボーケン表記を採用。ランドン表記を旧分類とする。

2009年 没後200年を機に、G.ヘンレ社より「ピアノソナタ全集(原典版)全3巻」が発行される。ケルンのハイドン研究所「ヨーゼフ・ハイドン全集」の一部を構成する。

鍵盤音楽担当編集者のフェーダーは、通し番号を付すのをやめ、全54曲を10のグループに分け創作順関係に融通性をもたせた。

2009年 「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手。改訂担当者はライジンガー。ランドン独特の通し番号は旧番号として維持されたものの、並び順はホーボーケン番号順に並び替えられる。

2010年 ペータース社より「マルティエンセン編ピアノ・ソナタ集 全2巻」が発行される。

2013年 「ウィーン原典版ハイドン ピアノソナタ全集」が改訂。日本では音楽之友社から発行。

ハイドンのピアノソナタをまとめ聞きする。
ハイドンをまとめ聞きするというのは、そもそも無理なのである。
そんなことは前から分かっている。わかってはいるが一度やってみたいのである。それが性というものだ。
シンフォニーは10番位で最初に挫折し、それでも頑張って行くと、30番位でなにが何やら分からなくなってくる。
そのへんからは徹底的に流しまくって、聞いたことにして前に進んでいく。
それでも50番位でもうごちそうさまになる。
ニックネーム付きを選んで進むが、それでもパリセットに入る頃には耳がストライキを起こす。
最後は、そんなことで一生を終わるのかという、声が聞こえてくる。これはほとんど統合失調の手前だ。
交響曲で挫折したのなら、弦楽四重奏がどうなるかは火を見るより明らかだ。
それに比べればピアノソナタはかなり気楽に行けるのではないかと、またもや始めた次第。
以前、ピアノトリオはけっこう気楽に進んだので、少し頑張ってみよう。

ピアノソナタを聞くのにあたって最初に困ったのは、名前がばらついていることである。
ばらつくのは決定的な権威がいないからであり、譲りあいの精神が欠如しているからである。
みごとなほどにばらついており、そのばらつきに規則性がない。

バッハとモーツァルトは幸せである。ケッヘルとBWVでとりあえず収まってくれるからだ。
一番不幸なのはスカルラッティで、たいした有名でもないのにL(ロンゴ)とK(カークパトリック)が意地を張り合っている。
それでもまだKとLと名を名乗るから良いが、ハイドンの場合は名を名乗らない。


私のつたない記憶では、かつて一時はホーボーケンに統一しようという流れがあったと思う。
しかしそれはもうない。昔のピアノソナタ第何番に戻ろうとしている。しかし2,3割の人はいまだにホーボーケンにこだわっている。だから同じ曲がまったく違う番号で出てくる。その際鑑別するには曲の調性で判断する。また作品番号もついているのでこれでも推測できる。
とにかく音源がある程度溜まってくるとこれを整理していくだけでも大変なのだ。
ということで、これからハイドンのピアノソナタを聞こうと思っている人のために、あらあらの曲名一覧を提示しておこう。
(なおオヴェ・アンスネスのソナタ集の番名は多分、「ウィーン原典版」の現行版ではなく旧版(ランドン版)を使っているのではないだろうか
一般的に言えば、ここに名前がない曲は聞く必要はないと思っていい。
haydn_PS
なお、ウィキペディアではホーボーケン番号順に曲を並べているが、今日では意味が無いので利用しないほうが無難。ピティナの索引(全音楽譜版?)を使って一覧表を作らないとあとでひどい目にあう。
曲としては、31番、32番、33番、38番、47番、50番、53番、59番あたりが定番曲だろう。
演奏は誰が良いということはないが、録音が新しく良いものが良い。ピアノフォルテやクラヴサンの演奏は避けた方が良い。
ブレンデルがあらゆる面から見て無難。クリーンも良いがブレンデルより粒が小さい。アンスネスの立体感は高音質とあいまって魅力。リフテルはたまにスカがあるので注意。バックハウスは無理やりベートーベンにしようとする。エマヌエル・アックスの盤は思いっ切り残響も入ってピアノしているが、意外に良い。


この記事は、その後180度転換されている。

をご覧いただければ理由はお分かりいただけるであろう。いまさら知らんぷりもできないので、恥をさらしておく。

通し番号記載は、今後姿を消していくであろう。

私もホーボーケン番号順に整理し直すことにする。整理し直したらもういちどブログに掲載することをお約束します。


本日の赤旗記事より。
「哺乳類は恐竜絶滅後に日中活動を急増させたが、にも関わらず夜行性の特性を残している」
というのが骨子のようだ。
科学誌「ネイチュア・エコロジー・アンド・エヴォリューション」にテルアビブ大学グループが載せた研究。
まあ、一つの研究でここまで言えるということはないので、これはディスカッションの一つということになる。
この研究における核心的な事実は、「哺乳類の日中活動が恐竜絶滅後に急増した」ということの証明にある。
その方法だが、
①まず現存する哺乳類の昼夜の行動パターンのデータを収集した。
②そして、それらの行動がいつごろから現れて来たのかを検討した。
その結果、昼夜行動パターンの変化には二つの変革期があったことが明らかになった。
哺乳類の発生から「数千万年前」までのあいだは、ほぼ完全な夜行性であった。
「数千万年前」から時折、日中にも行動するようになった。
さらに6600万年前に恐竜の絶滅したあと、日中活動が急増し昼行動物となった。
ということで、研究を通じて明らかにされたのは話の前半部分。
後半部分、「…にも関わらず夜行性の特性を残している」は討論の中での提起だ。
まず、なぜ哺乳動物は当初は夜行性だったのかということだが、それは恐竜との生存競争の中で強いられたものだ。これについてはすでに確認されたことである。
哺乳類は爬虫類と比べてより優れた生物として登場したわけではない。哺乳類と爬虫類は、生物進化の過程で兄弟のようにほぼ同時発生した。哺乳類は爬虫類に食われる存在であった。だから、変温動物が活動を止める夜間に活動するようになり、それに必要な智慧や能力を身につけるようになった。
これがプレ恐竜絶滅時代の住み分けである。
そこで、当初より昼行性だった爬虫類、鳥類、昼行性魚類の特性を哺乳類が持ち合わせていないという指摘に話が至るのである。
その具体的事例として研究グループがあげるのは、色覚である。
ただ記事では詳細は不明で、下記のような記載のみである。
…色覚は爬虫類などの活動を支えている特性をほとんど有していません。
ということで、視覚一般とは一旦切り離して色覚についての勉強をしておく必要がありそうだ。

なお、「ネイチュア・エコロジー・アンド・エヴォリューション」
という聞きなれない雑誌だが、「ネイチャー」誌の別冊みたいなものらしい。
Nature Ecology & Evolution というサイトがあって、ここに発刊の辞が掲げられている。

生態学と進化の研究コミュニティーのための Nature 関連誌として、オンライン限定ジャーナルNature Ecology & Evolution を2017年1月に創刊しました。

ということで、「注目のハイライト」というリストに
2017年11月7日 古代の哺乳類は恐竜の絶滅後に夜間の活動をやめた
というコンテンツを見つけた。おそらくこれが話のネタなのだろう。

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