鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

イタリアのレジスタンス闘争について勉強したが、フランスに比べても資料は少ない。
権力関係は上下・左右・南北と入り組んでいて、誰が敵で誰が味方かは見方によって変わってくる。
また最近ではイタリア共産党の消滅によって、歴史修正主義が台頭する傾向にある。
まずはとにかく客観的事実を並べて、その上で第二次大戦の含有する歴史的価値観、すなわち立憲リベラル思想と共和主義、さらに民主主義の視点から大づかみに評価すべきであろう。
以前、フランスのレジスタンスについて学んだ。その前にスペイン人民戦線についてもかなり深く学んだ。これらとの共通性と違いに留意しながら総括することも大事な視点だ。
比較という意味ではチトーに率いられたユーゴスラビアのパルチザン闘争、さらにギリシャの武装闘争も学ばなければならないが、これらに関する資料はさらに少ない。
ということで、とりあえずはフランスのレジスタンスを念頭に置きながら共通性を分析してみたい。
1.反ファシズム闘争
イタリアの戦いこそ文字通りファシズムとの直接対決であり、統一戦線の戦いであった。
ファシズムは反立憲主義であり、反共和主義であり、反民主主義である。エマヌエル国王とバドリオによる反ファシスト政権は反共和主義であり、反民主主義であるが、立憲主義であった。したがって反ファシズム統一戦線は、何よりも立憲思想によるファシズム独裁の政治的包囲であった。
2.外国の支配からの解放の戦い
世界の敵となったナチス・ドイツ。その直接支配を受けたものがこれを排除する、という民族的性格を担った闘争であった。(この性格はユーゴ・ギリシャの闘いではより顕著である)
3.左翼が中核を担う戦い
政治勢力として共産党と急進的労働運動が中心を担った。ファシスト支配下の43年3月、トリノから拡大した労働者の経済要求闘争が展望を指し示した、共産党の闘いなしに情勢は切り開けなかった。ソ連が支持・支援したからというのは、共産党が圧倒的支持を獲得した理由にはならない。(逆の理由にはなっても…)
4.連合軍勢力と結合した戦い
もともと米英両国が民主的な国というわけでもないし、左翼に対してはむしろ敵対的感情を抱く国々である。これらの国に反ファシズムの立場を貫かせることは、それ自体が政治闘争である。
戦争中はこれに成功し、戦後は野合することなく原則を貫いた。と私は評価する。
5.スターリンと一線を画する戦い
フランス共産党のトレーズは「人民の子」というキャッチフレーズで売り出したが、トレーズもトリアッチも紛うことなき「スターリンの子」であり、大粛清時代を生き残ったという“後ろ暗い過去”を引き摺っている。
にも拘らず、大衆の支持に支えられて幾多の政治的判断を自力で行った。スターリンもあえてそれには干渉しなかった。しかしそのような “慣れ合い” がほんとうに良かったのかどうかはわからない。

昨日、上原彩子さんのリサイタルに行ってきました。
どこからどういうふうに金が出ているのかわからないが、とにかくめっぽうコストパフォーマンスのいいリサイタルでした。
札幌の隣町、北広島市で行われた演奏会ですが、土曜のマチネーで3千円です。隣町と言っても私の家からはとても近くて、車で1時間足らずでつきます。おまけに会場入口でスタンプを押してもらうと駐車料金がただなのです。
ふつう札幌中心部のホールに行けばタクシー代だけで往復6千円はかかるので、まことにありがたい話です。
それで演奏のほうですが、ドビュッシーの前奏曲第一と喜びの島、シューマンの子供の情景とリストの愛の夢、そして休憩後にリストの巡礼の年から「ダンテを読んで」とつながっています。
上原さんの売りは日本人初のチャイコフスキー・コンクール優勝者ということにつきます。流石にそれだけのことはあって、指回り、タッチいずれも見事なものでした。
ただ、演奏はあまり面白くはないのです。
なぜだろうと、天井を仰ぎながら考えていました。なにかリズム感がないのです。アンコールにやったくるみ割り人形の「花のワルツ」はおはこなのだろうと思いますが、どうもワルツには聞こえない。一方で「子供の情景」はメロディーラインが和音に埋もれてしまうのです。
私は音楽というのはメロディーがまずあって、それにコードが付いて曲になると思っているので、メロディーが聞こえない演奏は好きになれません。
もう一つリズムですが、こちらは音楽にとって必須ではありませんが、「ノリ」はとても大事だろうと思います。ワルツがワルツに聞こえないというのは、やはり相当問題があるのではないでしょうか。
ロシア人は一般的にリズムがだめな人が多いです。韓国の演奏家は一体にノリが良く、グルーヴ感を持っています。
日本人はどうなんでしょうか。結構いい人もいると思いますが、上原さんは若干問題がありそうな気がします。
もっと歌ってほしいと思います。そして体で踊ってほしいと思います。
そういうわけで、CDのサインセールは申し訳ないが遠慮させていただきました。

「忙しい何日間」という思考単位がある。
色んな人とあって、いろんな事実を知って、いろんなことを経験した。
それを納得するためにはもう一回り勉強しなければならないということがわかって、一方ではそんな経験に打ちのめされてヘトヘトになって、歳のせいで回復力が遅いからズルズルともう何日間という日が過ぎていいく。
若い時なら、こういうことは経験値として積み上げられ肥やしになっていくのだろうが、高齢化して精神的なスタミナと記憶力とが同時に落ちていく時代に入ると、ただの「骨折り損のくたびれ儲け」ということになる。余分なことはしないほうが良いのかもしれない。
ただそれを振り返っておくことだけは間違いなく良いことだろうと思う。そこで、この1週間を書き留めておくことにする。
11日の国際部会での議論。
いろいろな人がいろいろな発言をしたが、私の発言は次のこと。
1.リーマンショックから10周年立ったが、それは終わっていない。ねずみ花火みたいに彼方此方跳ね飛びながら、まだ続いている。これがわからないと、今の世界、これからの世界は読み解けない。
2.トランプの政策はすべて反オバマで貫かれている。だからオバマ政策の吟味が必要だ。オバマドクトリンというのは半分はリベラルな素敵な政策だ。残りの半分はエスタブリッシュメントの政策の焼き直しに過ぎない。トランプはそのうちのどちらに反抗しているのか。
議論の中で、アメリカ・ヨーロッパでのリベラル派の動きについて評価を求める意見があった。なかには「連帯」の相手をそちらにすべきではないかという声もあった。
私は、ずるいことに、あるときは、サンダース・コービン・メランションを一体として論じるべきと行った。別なときには、それぞれの特殊性を踏まえないといけないと言った。
そこをもっと説得力を持って語らなければならない。

じつは他にも話がある。久しぶりに天気が良いので、穂別まで行ってきた。恐竜の骨格が掘り出されたので大変夢のとこ度である穂別は学生時代に農村セツルで何回も入ったところなのでその思いもある。

ということで、ものすごいでかい問題意識が残ってしまった。
まずはとにかく書くだけ書いておこう。







イタリア解放闘争(Combattimento della Resistenza Italiana)
言い方は定まってはいない。パルチザンだけでは意味が狭いので、使われない傾向にある。
ネットで使用できる資料は英語もふくめ限られている。
Flag_of_Italian_Committee_of_National_Liberation
  イタリア民族解放委員会の旗


42年に行動党、社会党、キリスト教民主党が相次いで結成された。(いずれも非合法。社会党は再建)
1943年
3月 北イタリア各地の工場でストライキ闘争に勝利。経済要求に基づくものだったが、共産党の影響力が強まる。

43年7月
7月24日 ファシスト党の評議会が開催される。党幹部グランディによる「統帥権と憲法上の大権の国王への返還」の動議が可決され、ムッソリーニが解任される。

7月25日 ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に謁見し報告。その場で身柄を拘束され、ティレニア海の島に逮捕・監禁される。

7月25日 エマヌエーレ3世の指名を受け、パドリオ元帥が首相となる。バドリオは欧州大戦参戦に反対し、すべての職を辞していた。

7月26日 バドリオは就任演説で「戦争は依然続く」と述べる。

7月28日 エマヌエーレ3世、バドリオに対して休戦交渉の密勅を下す。国王の意向を受けたバドリオは、圧倒的に優勢な敵軍に対して対等な戦いをこれ以上続ける事は不可能と判断。

7月29日 ドイツはムッソリーニ支持の立場を明らかにする。ヒトラーはバドリオの寝返りを警戒し、オーストリア国境のブレンナー峠にドイツ軍を集結させローマ進駐の準備を進める。

7月31日 バドリオ政府、連合国側に特使を送り、秘密裏の休戦交渉を開始。

43年8月
8月17日 連合軍、シチリア島の解放を完了。島民は「イタリア万歳、国王万歳」を叫び街に繰り出したとされる。

8月17日 ドイツ軍はピサ・リミニの線を最終防衛線に設定。それより南はいざというときは放棄する戦略をとる。防衛線以北をロンメル将軍が統帥し、以南の作戦はケッセルリンクに委ねられる。

8月 連合軍、バドリオに終戦圧力を掛けるためトリノとミラノに激しい空爆。数千人の犠牲者を出し,多くの家屋を居住不能にする。労働者は戦争継続反対のストライキに立ち上がる。

8月 バドリオ政権、共産主義者や無政府主義者をふくむ政治犯を解放。

43年9月
9月3日 連合軍とバドリオ政権との間に秘密休戦協定が結ばれ、ローマはジュネーヴ条約上の「無防備地域」(Non-defended localitiesとされる。発表は適切な時期まで伏せられた。

9月8日 連合軍総司令官アイゼンハワー、「イタリア政府の休戦」と「イタリア国軍の無条件降伏」を公表。バドリオ政権が休戦協定の公表をためらい続けることにしびれを切らしたたためとされる。

9月8日午後7時 バドリオ首相、連合軍と休戦交渉中であることを認めるラジオ演説。

9月9日 連合軍、イタリア本土のサレルノへの上陸作戦を開始。アヴァランチ作戦と呼ばれる。ドイツ軍は6個師団を投入し反撃。

9月9日 ヒトラーは、ドイツ軍派遣司令官ケッセルリンクにイタリア占領を命じる。ドイツ軍はジュネーヴ条約を無視しローマ市内へ進撃。これに対しカドルナ将軍に率いられたイタリア軍が応戦する。

9月9日 バドリオ政権閣僚、国王一族らは密かにローマ脱出。南部のブリンディジまで逃亡。これに代わり、ローマ市民が2日間にわたり激しい抵抗。トスカナのピオンビノ港では港湾当局がドイツ軍艦の入港を拒否。

9月9日 逃亡したバトリオ政府に代わり、「イタリア国民解放委員会」(CLN)が設立される。6つの政党より構成され、ボノミが委員長に就任。

9月10日 ドイツ軍、ローマ制圧を完了。

9月10日 ドイツ軍はサレルノの連合軍上陸部隊を追い詰めるが、激しい砲撃と降下部隊の挟撃により停滞。

9月12日 ドイツ軍、バルレタ(Barletta)に侵入し市民多数を殺害。

9月13日 ドイツ軍、ムッソリーニ救出作戦を実施。ティレニア海からグラン・サッソへと身柄を移されていたムッソリーニの身柄確保に成功。東プロイセン州ラステンブルグの総統大本営に護送する。

9月15日 米戦艦2隻がサレルノ湾に入り、艦砲射撃を開始。またドイツ軍背後を戦略爆撃で壊滅させ、補給を断絶する。ドイツ軍はサレルノ奪還を断念して後退するが、連合軍も進軍できず。

9月18日 ムッソリーニ、イタリア国営放送を通じて声明。「イタリア社会共和国」(RSI) の建国を宣言。行政府をサロに置く。サロはミラノ東方90キロ、ガルダ湖畔の町。連合国は「サロ政権」と蔑称。
サロ共和国には3つの武装組織があった。第一に正規軍、第二に全国警備隊、第三にファシスト党直属の黒色旅団である。
9月27日 ナポリで市民蜂起。4日間にわたる市街戦の末、市民がドイツ軍を撤退させ連合軍を迎え入れる。
これを描いたのが「祖国はだれのものぞ」という映画。63年制作だ。すごく感激してみたのだが、その後まったく日本では上映されず、DVDにもなっていない。Youtubeでは英語の字幕付きで全編が鑑賞可能だ。(The Four Days of Naples/Le Quattro Giornate Di Napoli" (1962) w. English subtitles
43年10月
10月13日 バドリオは日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告する。
軍の半数近くが枢軸側での継戦を訴えるムッソリーニに呼応してRSI軍に参加した。イタリアは南北に分断された形となり内戦状態に突入した
10月 反撃に出たドイツ軍がほぼ全土を制圧。北部ロンメル元帥が、南部はケッセルリンク元帥が指揮。米82空挺師団は作戦を中止しナポリの線まで撤退。

43年11月
11.14 ファシスト共和党、ヴェローナで党大会を開催。

11月 ミラノで「女性援護グループ」が結成される。パルチザン支援を主目的とする。伝令役は捕まれば処刑される危険があった。約3万5千人の女性がパルチザンに協力。2万人が愛国章を受けている。
Italien,_Rom,_erhängte_Frau
         ローマで首を吊られた女性パルチザン

1944年
44年1月
1月 ローマ南部アンツィオ港の解放作戦が始まる。モンテ・カッシーノの戦いが4ヶ月にわたり続く。
アンツィオ大作戦を書き始めると、延々と果てしなく続くので、ここでは省略。イタリア国民の抵抗運動に絞って掲載する。
1月8日 ヴェローナ裁判が開始される。

1月 連合軍支配区を拠点に「イタリア国民解放委員会」が発展。パルチザンやレジスタンスを結集しバドリオ政権と主導権を争う。
イタリア共産党はガリバルディ旅団を組織。ほかに社会党系のマテオッティ旅団、キリスト教民主党系の自治独立旅団などが存在した。
1月31日 ミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。各地の反ファシスト政治家とパルティザンが結集。委員長にはカドルナが就任。行動党からパッリ、共産党からロンゴの二人が軍事委員として支える。

44年3月
3月 ソ連がバドリオ政権を承認。モスクワから戻ったトリアッチ書記長がバドリオ政権への参加の意志を表明する。トリアッチは反ファシズム統一戦線を提唱、政治的ゼネスト→全国民蜂起の路線を提起。

3月23日 ローマ中心部、ラセッラ通りでパルチザンの爆弾テロ。親衛隊33人が即死、70人以上が重傷を負う。ヒトラーは親衛隊員1人につき、イタリア人50人を処刑するよう指示(現地当局は10人に値切った)

3月24日 アルディアティーネ洞窟の虐殺。イタリア人政治囚335人が処刑される(5人は巻き込まれ犠牲者)。犠牲者のうち75人がユダヤ人。さらにローマの収容所内のユダヤ人1千人がドイツの収容所に送られた)

4月22日 「ローマ協定」が締結される。これを受け、国民解放委員会も加わった国民統一政府が樹立。

44年5月
5月 RSI政府の国防相グラツィアーニ、パルチザン数は北部トスカーナからエミリア地方を中心に7万~8万人に達すると語る。
ドイツ軍がパルチザン掃討にのり出した結果、農村はその犠牲となり、反独感情が高まった。国民解放地方委員会に所属しパルチザンの支持を受けるか、独自の武装組織を結成して抵抗を始めた。
5月 ローマの最後の防衛線カイザー線が連合軍により突破される。

44年6月

6月5日 ローマ、連合軍に解放される。
ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Citta Aperta)はこの間の戦いを描いたもの、ローマ解放直後から撮影が開始され、1年後に完成・公開された。
6月9日 バドリオ政権がローマ入り。この後、バドリオら政府閣僚が総辞職。ボノーミ臨時政権が樹立される。エマヌエーレ3世も退陣しウンベルト王太子を摂政とする。
イヴァノエ・ボノーミは改良社会主義党総裁で、ムソリーニの前の首相をつとめた。43年7月に国民解放委員会議長に就任している。
6月18日 ボノーミは正式にイタリア王国首相に就任し、内務大臣や外務大臣をも兼任する。

6月19日 正規軍とは別に自由義勇軍が創設され、武装抵抗運動を束ねる。国軍反ファシスト派のラファエレ・カドルナ将軍が司令官となる。

6月 北部の武装パルチザンが「北イタリア国民解放委員会」(ミラノ)に統一され,旧軍人と活動家が合流する。諸政党の協力が進む。(行動党,プロレタリア統一社会党,共産党,キリスト教民主党,自由党,労働民主党の6政党)
北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。
44年7月
7月 連合軍、ピサからフィレンツェにかけてのアルノ・ライン(ゴシックラインより南方30キロの防衛線)に到達。

ゴシック線 イタリア

7月 ボノミ政権内にファシズム粛清高等委員会が設立される。

44年8月
8月11日 フィレンツェが陥落。その後連合軍主力は南フランス上陸作戦にうつり、9月以降ゴシック線を境に戦線は膠着。
Florence,_14_August_1944
   8月14日 フローレンスにて(首に巻いたスカーフの色が自慢だった)
8月11日 カドルナ将軍、パルティザン活動を統括・指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下する。

8月 ミラノのロレート広場で政治犯15名が公開処刑。(後にこの広場にムソリーニの遺体が吊るされる)

8月 ボノミ首相、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡。
戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないと断言。北イタリア委員会を「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」と位置づけ、密接な協調をはかる。「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限」を付与する。
9月26日 米第88歩兵師団の3個中隊とパルチザン250人が、ドイツ第290連隊の守る基地を奇襲攻撃。攻略に成功。

44年9月
9月29日 アペニン山脈内のマルツァボット村でドイツ軍による住民虐殺事件が発生。1,836人が殺害される。(この数字は誇張されている可能性あり、最近の記載ではボローニャ近郊の人口7千人のかなり大きな村だ。犠牲者は771人で、内216人が子どもとされる)
中北部農村では集団虐殺が繰り返された。Sant'Anna di Stazzemaの虐殺では560人、マルツァボット虐殺で770人、サルソーラでは20人のゲリラ兵が拷問の後、報復として虐殺された。
9月 このころポー河の渓谷には、モンテ・フィオーリ、オッソラなど15余りのパルチザン共和国が誕生していた。最大のパルチザン集団はガリバルディ旅団(共産党系)で、都市では「愛国行動隊」の名でゲリラ戦を展開。(YoutubeのBella Ciao - Italian Partisans Songという動画が当時の雰囲気を伝えている)

ガリバルディ旅団
             ガリバルディ旅団
ドイツ軍が青年たちを捕まえてドイツへ送り強制労働に就かせていた。部隊は満足な武器もないのに、平野から来た志願者で膨れ上がっていた。
11月25日 ボノミ政権が総辞職。2週間後に第二次ボノミ政権が発足。

1945年
45年1月
1月 連合軍が攻撃を再開。ゴシック線を突破する。ドイツ軍はあらたに「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続ける。

45年4月
4月 ドイツC軍とムソリーニ軍はポー川ラインにまで戦線を後退。

4月19日 CLNが北部主要都市での総蜂起を呼びかける。 

4月19日 ボローニャで攻撃が開始される。
都市ゲリラ イタリア
都市ゲリラ
              ゲリラによる市街戦
4月21日 ボローニャ解放作戦が完了。連合軍司令部の指示の下にパルチザンとポーランド軍2軍団が加わる。1万7210名がパルチザンに参加し、そのうち2064人が殺される。

4月23日 トリノとミラノでゼネストが始まる。

4月24日  パルマとレッジョエミリアが解放される。

4月25日 ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。ムッソリーニはドイツへの逃亡を図る。
女性戦士
     女性ゲリラ戦士
4月27日 ジェノバのドイツ軍が降伏。14,000人以上が捕虜となる。

4月28日 ドイツに向け逃亡中のムッソリーニを捕え,処刑。ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。

パルチザン凱旋 イタリア
            山岳パルチザンの凱旋
20ヵ月の解放闘争で参加者は 25万人。そのうち戦死者は3万 5000人をこえる。虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦女子であった。
4月29日 ドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホフが連合軍に休戦を申しいれ。最終降伏は5月2日。

「医者のくせに」と言われると困るのだが、いまだに「自閉症」という病気がよくわからない。
一応基礎知識として調べておく。

ウィキペディアより「自閉症」
自閉症(Autism)はDSM-IVでは広汎性発達障害(PDD)の一種の自閉性障害(Autistic Disorder)として記載されていた。DSM-Vでは自閉症という障害名は廃止され、自閉スペクトラム症に一括されたが、WHOではまだ使っている。
自閉症の基本的特徴は、3歳位までに表れる。
1.対人反応の障害
2.意思伝達の障害 
3.興味範囲の限局
自閉症は1000人あたり約1〜2人に出現。男女比は5:1。
正常者との間に段階的移行があり自閉症スペクトラムと呼ばれる。
日本での発症率はきわめて高い。
分類は覚えないほうがいい。始終変わるし、非本質的である。疾患概念を広げる方向での分類法は、より恣意的傾向を強める可能性があると思う。

疫学的特徴
父親が40歳以上の場合、30歳未満の約6倍で〜39歳の1.5倍以上であった。母親の年齢は関係なし。(Arch Gen Psychiatry. 63 (9): 1026-1032)
妊娠中にデパケン、SSRIを使用するとリスクが増大する。
虐待や過保護、「テレビの見せすぎ」が原因との認識は明確に否定されている。水銀などの重金属の蓄積が原因だとする説も否定されている。MMRワクチンが自閉症の原因とする論文は捏造であると発覚した。
自閉症スペクトラム指数テストの10の質問で6項目該当すれば「疑い診断」となる。膨大な鑑別疾患があり、こちらのほうがはるかに難しい。「ゴミ箱病名」の典型である。

病気の本態
私にはどうも脳疾患の気がしてならない。一種の失語症みたいだ。部位的には頭頂葉の聴覚性言語と時間感覚の統合野辺りだろう。
微細脳損傷や脳発育過程の障害、あるいは遺伝子損傷など要するに器質的疾患の可能性が拭えない印象だが、どうなのだろうか。

なぜ自閉症と呼ばなくてはならないのか
この病名の不幸な生い立ちのことも考えると、また統合失調との密かな混同も考えると、アメリカ精神医学会が「この病名は捨てたほうがいい」と考えていることに同感する。
日本語で「自閉症」といえば、世間的には「引きこもり」のように聞こえる。しかしこれはまったく違う病気である。混同を我慢してまで、あえて使う用語とも思えない。
にもかかわらず、これだけ広範に国内外に流布しているのは、この病名をつけられた母親の必死の思いが反映しているからだ。そして需要のあるところ「科学」が生まれ、それで食っていく輩がいるからだ。

そんな「自閉症」の生い立ちを、例によって年表方式で見ていくことにする。


1943年 アメリカの児童精神科医レオ・カナー(Leo Kanner)が早期幼児自閉症」として報告。統合失調が幼児期に発症したものと考えた。「自閉」という言葉は、もともと統合失調の一症状を表す用語である。

1943年 レオ・カナー、自閉症児の母親に温かさや愛情が欠けていると発言。

1949年 レオ・カナー、自閉症が「生来的な母親の愛情の欠如」に関係している可能性があると示唆。

1944年 オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー、現在の高機能自閉症に当たる症例を報告。
この論文は79年に発掘されるまでずっと埋もれていた。

1950年代 ブルーノ・ベッテルハイム、自閉症は母親の愛情不足によるものだと非難。「冷蔵庫マザー」理論と呼ばれる。
ベッテルハイムはユダヤ人収容所にいたあと、アメリカに亡命。小児心理学の専門家という経歴詐称でシカゴ大学の精神分析の教授に上り詰めた。後年セクハラをきっかけに経歴がばれ自殺。
1960年 レオ・カナー、『タイム』のインタビューで、自閉症児の親たちは「たまたま子供を産むのに十分な温かみがあっただけ」と中傷。

1962年 ローナ・ウィングら、英国自閉症協会を設立。娘が自閉症だった。

1964年 バーナード・リムランド(Rimland)が『小児自閉症-行動神経理論に対するその症候群と暗示』を発表。「冷蔵庫マザー」の仮説を批判。リムランドは自閉症の息子を持つ心理学者であった。

1965年 リムランド、アメリカ自閉症協会を設立。

1967年 ベッテルハイムは『うつろな砦-小児自閉症と自己の起源』を発表。自閉症児と強制収容所に入れられた囚人を比較し、「子供には過去に人格を十分に発達する機会がまったくなかった」という結論を引き出す。

1967年 リムランド、自閉症研究学会を創設し、会長に就任。
リムランドの家系調査はかなりの逆偏見に満ちている。①第一子が多い ②男児が多い ③ユダヤ人の子どもに出現率が高い ④両親は専門的管理的職業が多い ⑤家族には精神疾患の発生率が非常に低い ⑥傑出した親戚が多い ⑦外見が魅惑的である
1968年 イギリスの児童精神科医マイケル・ラターが事変症の主体を言語認知障害と主張。自閉症理論の主役となる。

1969年 「アメリカ自閉症協会」の最初の年次大会。来賓として出席したカナーは、「私は自閉症が『先天的なもの』だと言ってきたが、『全ては親のせいだ』と引用されてしまった」と弁解し、事実上「冷蔵庫マザー」を否定。

1979年 ローナ・ウィング、自閉症の人が持つ特徴として「ウィングの3つ組」を提唱。(社会性、交流、想像力)

1981年 アスペルガーの論文がローナ・ウィングの手で英訳・再発表される。高機能自閉症の存在が周知される。(アスペルガーは80年に死去)

1986 社会学者の上野千鶴子、「マザコン少年の末路 : 女と男の未来」を発表。母子密着の病理として自閉症を取り上げ、批判を浴びる。

1988年 映画「レインマン」が制作される。リムランド親子はアドバイザーとなる。(ただし彼が次々と振りまいた網様体病変説や水銀・重金属・ワクチン原因説は証明されていない)


とにかく「自閉症論」の世界は、非学問的な非平和的な党派的な戦士で満ちているのである。


「日本人はどこから来たのか」
海部陽介著 文藝春秋社 2016年

この手の本としてはきわめて新しい。ほとんどの本が2003~2005年に集中して出版されて、その後はほとんど新たなものが出てこない。
そういう意味では干天の慈雨的なありがたみを感じる。
文章はきわめて明快で割り切った書き方になっている。分かりやすいといえば分かりやすいのだが、「そこまで言って委員会」的な雰囲気も漂う。
とくにY染色体ハプロについてまったく触れられないのは奇妙な感じがする。この分野の蓄積がこの15年間、まったく止まっているのも気がかりである。

問題意識は日本人だけでなく、アジア人がどこから来たのかにあるという。
とくに欧米での通説が南方由来説一辺倒になっていて、ゲノム分析以前の日本での研究蓄積が示す北方由来説を無視することに異議を唱えている。

第二には、4万8千年~4万5千年前にペルシャ湾岸から西方、北方、東方へ一斉に人々が進出したというビッグバン説と、それに1万年遅れで日本をふくむ東アジアへの人口進出があったという説とを一連のセットとして見る考えだ。

これについては同感である。

さらに2万年前ころにおそらく南方から漢民族や長江人につながる人々が進出したこと、その中でより北方に進出した漢民族が長江人を駆逐し中原を支配したこと、追われた長江人が日本に逃れ縄文人と混血して日本人を形成したこともおそらく同感できるのではないか。

次に日本人の3つの源流ということだが、海部さんが力を入れていると思われる南方ルートは、港川人などが現代沖縄人とつながっている根拠が乏しいので、現時点では「かつて住んでいた人」という扱いになるのではないか。

海部さんの説では最初に列島入りしたのは朝鮮半島経由の人々で、3万8千年前。そのあと北から入ってきたということになっているが根拠は不明。

3ルート

ツングース系(YハプロのC1系)の人々が対馬海峡を越えて西日本と日本海沿いに分布したことは間違いないのだが、それが樺太経由の縄文人(D2系)に先んじていたかどうかはわからない。

海部さんの本では根拠が示されていないと思う。


教育テレビの「サイエンス・アイ」は私のお好み番組で、毎回ビデオにとって楽しんでいる。
(現在はビデオにとるとは言わないだろうが、何というのだろう)
4月から構成やスタッフが変わり、一層面白くなった。女性ナビゲータの感度が良くなったのが魅力である。
最近の番組でテヅルモヅルの話があって、非常に面白そうなのに、途中からクラウド・ファンディングの話になってしまった。
仕方がないのでネットでテヅルモヅルを検索したが、昭和天皇がコレクターだったという話ばかりでさほど面白いわけではない。
結局、テヅルモヅルの話を面白くさせているのは、この岡西さんという研究者のキャラなのだろうと思い当たる。もちろんファンディングを集めるのだから、自分の研究の意義とかユニークさとか面白さをアピールしなければならないのだが、そのアピールの仕方、“目の付け所”が面白いのである。
岡西さんはテヅルモヅルの研究を風変わりな研究ではなく、“基礎研究”と位置づける。そのことによって、“基礎研究とはなにか”という問いかけをしている。
医者の世界では医学というのは臨床と基礎に分かれる。人間を扱い、病気の診断と治療をするのが臨床医学で、人体の仕組みや働きを研究するのが基礎医学だと考えてきた。
しかし研究の方法論という観点から見ると、そういう構造的な観点からだけ基礎科学を見るのが正しいのだろうかと思える。
むしろ認識過程の問題として事実を収集整理することこそが基礎科学ではないのだろうか、とも思えるのである。
科学はリンネより始まる。
収集し、整理し、統合する過程というのはある意味でひらめきなど必要ない世界である。飽くなき興味と愚鈍な執念とが織りなす世界である。たぶんそれに加えてカネとヒマが必要であろう。
ひらめきはこの作業の中で生まれてくる。このひらめきは膨大な作業の中から生まれてくるから、重要で応用が効くものである。
ということで、少し岡西さんの弁に耳を傾けるとしよう。


『ヴァーチャル生物学入門』というサイトの掲示板に質問が書き込まれていて、回答者が一生懸命各分野の専門家の意見を聞いて答えている。
ゾウリムシの走電性について知りたいのですが・・・。どうして電気を流すとマイナスに移動するのですか?繊毛の動きから 考えたらくるくる回りそうなのに。…どうも納得いかなくて…
みんな一生懸命答えているようなのだが、要領を得ない答えばかりだ。
私ごときに答えられるわけはないのだが、回答者が見落としているポイントが一つありそうに思える。
それは、繊毛運動が発生史的にはまず先行しているということだ。
繊毛の自動性と自立性
繊毛は細胞膜から外に突き出し、おそらくは細胞周囲の化学的環境に合わせて自発的に運動しているのだろうと思う。それを仲介しているのはケミカル・メディエータやホルモンだろう。
後から細胞膜のナトリウムチャネルなどが生まれ、脱分極現象が生まれるようになった。これはスピードが圧倒的に早いので、必要があればしばしば繊毛の自律運動に介入する。
ただし繊毛運動を支配するわけではないし、監視するわけでもない。必要なときにアラームを鳴らすだけだ。
方向転換や逃避反応は電流により起こるのではなく、両者の合成力として、たまさか起こるのであろう。
「一定の刺激を与えると一定の方向へ動く」ことが勘所
この質問でいうと「電気を流すとマイナスに移動する」のではなく「一定の刺激を与えると一定の方向へと動くこと、動く際にもそこに一定の安定性が自動的に担保されていること」が勘所なのではないかと思う。
だから回答にあった、脱分極と過分極というのにはちょっと疑問があって、脱分極だけで十分話しが通じるのではないかと思う。

以下は、「JT生命誌」に掲載された西川 伸一「動物と神経の誕生」の抄録である。
短文ながら非常に深い弁証法をふくんでおり感銘した。

神経細胞はいつから?

神経細胞は動物、すなわち動く能力を持った多細胞生物の誕生とともに生まれてきた。(「動く」というのは「移動する」と言うべきだろう)

現存の多細胞生物のうち、海綿動物とセンモウヒラムシには、いわゆる神経細胞は存在しない。

ただし、ゲノム系統樹から見ると、ヒラムシや海綿にも最初は神経細胞が存在し、その後神経細胞を退化させた可能性がある。

神経細胞に必須であるナトリウムチャンネルは、クシクラゲと左右相称動物がそれぞれ独自に発生させた可能性もある。

想定される神経細胞の始源

最初の神経の形態は、現代の神経細胞よりは、もっと普通の細胞に近かったのではないか。ただそれは、外界からの刺激に反応し、その興奮を他の細胞に伝達する能力を備えていたのであろう。
つまりそれは①刺激反応性、②刺激→情報(電流)転換系、③情報伝達力の三点セットである

“興奮性の細胞”は筋細胞と近い関係にある。興奮性細胞系列は一部が神経細胞となり、一部が興奮を力に変える筋肉細胞へと発展した。
神経と筋肉は動物の誕生とほぼ同時に出現している。

その共通の特徴は、細胞の興奮に必要なイオン勾配の維持機能、そのイオンを選択的に通過させ膜電位を発生させるイオンチャンネル、そして興奮を他の細胞へ伝える化学システムにある。

光受容システム

以上は興奮伝達システムの発生学だが、これとは別に別種の情報をいかに神経に乗る情報に変換するかという問題がある。先程の三点セットで言うと、①と②の部分に相当する。

そのひとつが、光受容システムだ。これは必ずしも動物に限らずすべての生物に必要な機能である。
ゴカイの幼生では、
①色素細胞で吸収された光エネルギーが、
②それに結合する神経細胞により神経興奮として受容され、
③その神経細胞が、繊毛上皮とコリン作動性のコンタクトを形成し、
④これにより繊毛の動きを調節する。
Jekely et al, Nature 456, 395, 2008
光や温度、あるいは圧力などの物理変化に素早く対応することは、動物にとって死活条件となる。その際化学的シグナル分子だけでは到底追いつかない。
この神経細胞を獲得したことが動物の生物一般からの旅立ちを可能にした。

神経細胞の入口と出口
ただし、神経細胞の登場というのは、色素細胞・神経細胞のセットがゴカイの幼生で発生するということである。

入り口、つまり色素細胞における物理刺激の感知システムは、すでに単細胞生物でも見られる。
それはクラミドモナス(単細胞生物)のもつイオンチャンネルであり、チャンネルロドプシンと呼ばれる。

“④繊毛の動きを調節する”という問題は、本来は出口議論としてやらなければならない。なぜなら繊毛運動はもともと、単細胞生物にも存在する自律的なものであるからだ。それに神経細胞が干渉し、それを繊毛が受け入れることになる。

神経・筋肉の誕生の進化論的意義

神経・筋肉の誕生をふくむ生体の発達は、生物を多様な環境変化にすばやく対応できるようにした。
このことで生存する個体数は増え、生息可能な環境は多様となる。

神経や筋肉によって、動物の運動性が質及び量の面で大きく高まった。そのことで、動物は急速に地球上の様々な環境へと拡大できた。
ゲノム情報による自然選択が回避可能となり、種の選択圧は下がり、多様性が維持できるようになった。

これが神経誕生の進化論的意義である。

ナトリウム・チャンネル、つまり脱分極メカニズムが神経細胞の本態だというのは説得力がある。またそれが筋細胞においても同様であり、それらは細胞膜上のレセプターが特殊に進化した結果なのだろうと予想される。
チャネル・ロドプシンは色素タンパク質で、光が当たるとナトリウムイオンを取り込むと言われている。とりあえず飛ばしていく。

陸軍秋丸機関による経済研究の結論」 牧野邦昭(摂南大学)

1.秋丸機関の結成
太平洋戦争前、「陸軍秋丸機関」と呼ばれた組織が存在した。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」である。

陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐を中心に組織された。

ノモンハン事件での敗戦をきっかけに、英米との戦争の経済的分析と研究を進めることを目的とした。

運営にあたったのは秋丸次朗主計中佐である。東京帝国大学経済学部に聴講生として派遣された陸軍主計官が主体となった。

秋丸中佐はブレーンとして経済学者を集め、「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合すると共に、わが方の経済的持久度を見極め」ることを目標とした。

学者グループの中心となったのは有沢広巳で、他に武村忠雄、中山伊知郎、宮川実などが集められた。

有沢や中山らにとって秋丸機関での研究は戦後に大きく役に立つものとなった。


2.秋丸機関の活動 

1940 年冬、参謀本部は 1941 年春季の対英米開戦を想定した物的国力の検討を要求した。

1941年1月、陸軍省整備局戦備課は秋丸機関の研究をもとに、

「短期戦でかつ対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は可能である。しかしその後の国力は弾発力を欠き、大なる危険を伴う」と回答する。

6月6日には秋丸機関や三菱経済研究所の研究をもとに「対南方施策要綱」を策定。「綜合国防力ヲ拡充」することを目的とする。

7月に入って陸軍首脳への説明会が逐次開かれた。報告書は『英米合作経済抗戦力調査』と題されている。
『其一』、『其二』に分かれ、前者はマクロ経済分析、後者は対外関係、地理的条件、人口、各種資源、交通力や輸入力、経済構造と戦争準備、生活資料自給力、軍事費負担力、消費規正与件などの各論となっている。


3.秋丸機関の出した結論 

①アメリカの生産能力

米国の石油供給は英国の不足を補つて尚ほ余りある。
軍事物資全体で見ても、一年後にはイギリスの供給を賄い、さらに第三国向けに80億ドルの供給余力を獲得する。

②イギリスの戦闘力
イギリスは海上輸送力が致命的弱点となり「抗戦力ハ急激ニ低下スヘキコト必定」とされる。
またアメリカを速かに対独戦へ追い込み、経済力を消耗させるのも有効である。

③ドイツの戦闘力
この部分は非常に面白いので、後ほど改めて紹介する。

4.秋丸機関の歴史的性格
秋丸機関の結論は国策に沿ったものであり、進歩的性格はまったくない。
秋丸機関の研究は目的合理性を徹底的に追求するものであったが、戦争という目的そのものを疑う存在ではなかった。

5.ドイツの戦闘力

判決一

独逸の経済抗戦力は四二年より次第に低下する。
ナチス政権誕生時には多くの失業者と豊富な在庫品が存在し、企業の操業率は低かったが、…遊休生産力を活用したことで生産力は急速に拡充し、完全雇用に達し生産
力は増強されなくなった。
現在は過去の生産による軍需品ストックに頼っているが、来年からは枯渇し、経済抗戦力は低下せざるを得ない。

判決二

独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用することが絶対に必要である。
従つて独軍部が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期
戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となることが求められる。
もしそれが叶わずに長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるならば、今次大戦の運命もおのずから決定される。
対ソ戦は徒に独逸の経済抗戦力消耗を来たし、来年度以後低下せんとする抗戦力は、一層加速度的に低下する。
その結果、、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる。

「判決三

もしソ連生産力の利用に成功したとしても、未だそれだけでは自給態勢が完成するものではない。
南阿への進出と東亜貿易の再開、維持を必要とす。



日米開戦に至る経過を日大のアメフト騒動と重ね合わせながら考えている。
暴力が発生し容認されるには3つの段階が必要だと思う。
①まず最初は、民主主義の否定。異論の封殺による批判の自由の喪失である。
②ついで、権力構造が変質する。リテラシーが低下し人脈支配がはびこる。
③そして最後に、歯止めを失った権力者が暴走し、暴力へと国民を導く。

①異論の封殺による批判の自由の喪失
おそらく1933年が画期となろう。多喜二の虐殺に始まり宮本顕治ら共産党の幹部がほぼ一網打尽になった。その後もリベラル派の人々による抵抗は続くが、罰せられないテロにより容赦なく潰された。
②軍(統制派)の唯我独尊化
多少なりとも自由な発言は36年の2・26事件で不可能となった。軍の統制派が戒厳令のもとに参謀本部独裁体制を敷いた。永田戦略は中国進出であったから、戦線は停止するどころか一層拡大した。天皇の名のもとに権力を握ったゆえに、皇道派を上回る「皇道派」となった。
③軍の狂気化と常識派の壊滅
39年9月の欧州大戦勃発、三国同盟などありつつも常識派(民主派でもなければリベラル派でもない)が2年にわたり対米非戦の線を死守した。しかしその間に軍部の「狂気化」はますます進行し、誰にも手がつけられなくなった。そして8月の南部仏印進駐とアメリカの石油禁輸が引き金となり、9月御前会議での「国家の狂気化」に結びついた。狂気化過程での海軍の跳ね上がりは火に油を注いだが、火元ではない。
④常識派の最後の抵抗
10月、東條新政権での9月決定の見直しは、常識派の最後の抵抗(天皇の意向を背にした可能性がある)であったが完璧にスルーされた。ハル・ノートはその結果であり原因ではない。最後の可能性があったとすれば東條による粛軍であったろうが、東條自身の思想からは到底考えられない。
⑤日米戦争回避の3条件
中国人民からは到底認められるものではないにせよ、蒋介石政権は満州国を容認した。欧米列強も黙認の方向へ動いていた。ノモンハン後のソ連との関係が残ったが、満州は戦争の火種とはならなかったであろう。
しかし上海事変から南京政府に至る過程は、列強にとって看過しがたいものであった。したがって中支からの日本軍の撤退、重慶政府の承認は日本にとって避けがたいものであった。
南部仏印進駐に至ってはまさに狂気の沙汰である。援蒋ルートの遮断という理屈はもはやない。ここにいたり、日本の戦略は一変し暴走を始めた。
海を超えインドネシアに進出しその石油を確保するのが狙いということは猿でもわかる。その際打倒すべき敵はオランダということになる。これは南シナ海を挟んだフィリピンを領土とするアメリカにとって決して対岸の火事ではない。
したがって緊急度順に並べて
①南部仏印撤退(これはほぼ無条件)
②中国本土(満州を除く)からの撤退(少なくとも撤退の意思と時刻表の提示)
③重慶政府との交渉開始(南京政府との“統合”をふくめ)
はどうしても決断しなければならないのである。

どうもまことに不思議な事件だ。
事件の経過
総武線の幕張本郷駅で、痴漢が捕まり、その置換が取り調べのすきをついて逃げ出し、架線を支える電柱によじ登って立てこもった。
結局2時間後に“保護”されたのだが、なんとズボン、靴下を脱いで下半身はパンツ一丁という、中途半端にハレンチな状態で2時間も頑張ったのだと言う。
男の立てこもった電柱は、電車に電気を送る電線がむき出しではりめぐされ、触れば即死という環境。助かったのは何よりだった。被害者には申し訳ないが死んで許しを請うほどの罪ではない。
よじ登ったのが土曜の夜10時、“保護”されたのが12時と言うから、居合わせた人には大迷惑ではあるが、仕事に差し支える時間ではないから、「まぁ、飲み直そうか」ということかな。
推定される発症機序
発症の機序はおそらくパニック障害で、逃避反応として説明できる。ベースのメンタルには解離性人格障害(むかしで言うヒステリー)があったのだろう。
しかしそれだけで済ませられるかというところが大問題だ。
第一に、「痴漢として捕まった」ことが、瞬間に人格を崩壊させるような強烈なストレッサーになりうるということを示す症例だ。
非常に珍しいケースで、しかも社会病理の一現象の可能性があって、「東京という大環境」抜きには現れない反応ではないか。
第二に、無意識のうちに下着を脱いでしまうというのは、20年くらい前に有名な男性タレントが酩酊して公園で裸になり、警察のお世話になったという事件があった。 別に露出狂というのではなく、人に見せるというのでなく、脱いでみたくなるという意識下の欲望というのがあるのかもしれない。
考察されるべき事件の特殊性
ということで、今回の事件の興味は痴漢行為で捕まった時の心理状態に、他の状況とは異なる特殊性があるのかということ。 もう一つは脱衣行為というのが逃避反応(憑依)の一型としてあり得るのかということである。
これからワイドショーでやるだろうから、少し注意してみておこう。


文献を探していて、面白いサイトにぶつかった。
その中の一編「第34回 日米開戦へ ハル・ノート」と題されている。


もちろん原著にあたってもらえべよいのだが、このページのなかの一部、
東條内閣が発足して、「国策再検討会議」が開かれたというくだりに興味がそそられる。
この会議は「大本営政府連絡会議」という形で10月23日から30日までぶっ通しで開かれたらしい。
ここは別途紹介する価値があると思い、引用させていただく次第である。

1.なぜ会議が組織されたか
東條は開戦派の一員と目されていた。木戸は東條に組閣させるにあたり、9月6日の御前会議の再考を促した。そしてそれが天皇の意向によるものであることを強調した。
いわば「毒をもって毒を制する」以外に日米開戦の回避策はないと考えたようである。

2.会議の始まり
第1回会議(23日)
永野(海軍軍令部総長)は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」と発言。
杉山元(陸軍参謀総長)も「4日も5日も、研究ばかりして費や
せない。今すぐ前進しなければならない」と語った。
ここで東條が統帥部を抑える発言。「統帥部が急いでいるのはわかるが、政府はもっと慎重に、責任ある態度で決定したい。統帥部はこれに反対するのか」

これで会議は本題に入っていくことになる。

3.会議の最初は欧州戦局の見通し
6月の独ソ戦勃発当時の判断は楽観的すぎた。修正が必要だ。
との提起があり「欧州戦線は当初見込みより長期戦になる。独軍の英本土上陸作戦も当分は行われないだろう」と修正された。
しかし「独軍優勢」は変わらず「ドイツ不敗」とされた。

4.日本の石油受給の判断
まず石油受給見通し。
石油貯蔵量は840万トンに達している。
海軍が作戦行動をすると2年間でストックを使い切る見通し。
それに対する対策がひどい。思わずため息が出る。
「スマトラ、ボルネオの蘭印油田地帯を確保する以外に対策はない。それには即時開戦するしかない」
これはかっぱらい・強盗の論理だ。論理破綻を破綻とも思わないほどに愚昧化している。

5.悲惨な輸送力見通し
ついで企画院が輸送力に関する報告を行った。
民需用として最低300万トンの船舶があれば、供給量を確保出来る。
船舶消耗を年間100万トンから80万トンと推定する場合、60万トンの造船能力があれば、300万トン保有は維持可能だ。
緒戦の確実な戦果を活用すれば、座て相手方の圧迫に耐えるのに比べ有利と確信する。
海軍はこれに勝る楽観的見通しを述べた。
船舶消耗は1年目で70万トン、2年目60万トン、3年目40万トン、これに対し造船能力は各40万、60万、80万トンと増加、ゆえに「戦争に耐える国力の維持は可能」なのだそうだ。
「米国は潜水艦を大量に建造して広範囲に活動するだろうから、戦争が進むに連れて被害は増えていくと思われるが…」
「米潜水艦に対しては、十分手当の方法を考えているから心配はない」東郷もそれ以上追及の方法もなく、そのままとなった。
実際には戦争1年目から130万トンが消耗、2年目には179万トン、3年目には378万トンに達した。
南方の石油は1700万トン採掘したが、内地に輸送できたのは550万トンにとどまった。
この実績は、実は海軍自身が予測していたものだ。
10月6日の陸海軍局部長会議で、海軍軍令部の福留作戦部長はつぎのようにかたっている。
南方作戦二自信ナシ。船舶ノ消耗ニツキ戦争第1年度ハ140万トン撃沈サレ、戦争第3年ニハ民需用船舶皆無トナル。自信ナシ。

6.東郷外相の感想
東郷が驚いたのは正確な統計資料の不足。作戦上のことも兵力量など一切秘密。仮定の上に立って検討を進めることになり、それも軍部から「大丈夫」と言われれば反論する材料もなく、沈黙するしかなかった。

危機管理では「マイナス情報重視」が鉄則だが、主観的な数字や甘い判断が混在したのではないか。
精神主義的な開戦論が幅をきかし、物的国力は真剣な論議にはならなかった

日米開戦と軍部

右翼系の人が日米開戦論を書くと、かならずこの3点が引っかかる。
開戦に至るプロセスを詳細に見ても、人の顔が見えてこない。いつ、誰が、どういう理由で、何を目的として開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだ。
第一は戦争に突入した理由をあれこれ並べ立てるが、それらの理由によってメリカとの戦争を始めた理由を合理化できるのか、ここが最後までウヤムヤなのだ。
それらは戦争に至った言い訳にしか聞こえず、戦争をやってはならない理由にしか聞こえない。
もう一つは、誰それは実は戦争回避派であったというのが延々と続くが、それじゃ開戦を推進したのは誰かと言うと、これもまた最後までウヤムヤなのだ。
三番目には東京裁判が間違いだというのはルル述べられるが、東京裁判が間違いだとして、それでは日本を悲惨な戦争に追いやった責任は誰がとるべきなのか、この点についてもさっぱりわからない。
やはり自分なりに事実を点検していかないとだめだなと思っている。
それにはあまり長いスパンは必要なく、昭和16年の初頭からで十分ではないかと思う。
それと、陸軍の動きを中心に据えない議論は参考にすべきではない。戦争に突っ込んでいく先頭に立ったのが陸軍であるのは間違いないからだ。
どうも余分なトリビアル情報が多すぎる。しかも「こちらが正しければあちらが間違い」と言うような情報が飛び交っている。それなのに軍の大本営や参謀本部、陸軍省で何がどう決まっていったのかはさっぱりわからない。思ったより手強い仕事になりそうだ。


昭和16年における日本経済
1940年の実質GDPは、日本が2017億ドルで、米国は9308億ドル。特に軍事力に直結する粗鋼生産量は日本の685万トンに対し、米国は約9倍の6076万トン
石油 日米比

主要輸出品は生糸だったが、96%が米国向けだった。代わりに輸入した米国産綿花を織物などに仕立て、英領インドやオーストラリアなどに輸出。その利益を重工業化に必要な機械類、鉄鋼などの購入に充てていた。

2月11日  野村吉三郎元外相が駐米大使として着任。近衛首相は野村大使を中心に日米交渉に動く。
日本案は
①三国同盟にもとづく参戦はドイツが米国に攻撃された場合のみ
②中国が満州国を承認すれば日本軍は撤退
③米国の仲介による日中和平の実現
アメリカ側は『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』のハル四原則を示したと言う
4月12日 松岡外相とスターリンとの会談が実現。日ソ不可侵条約の締結。
二正面作戦を避けたいソ連と、南進のために二正面作戦を避けたい日本との奇妙な妥協といわれる。
4月16日 日米諒解案が作られる。この前提でアメリカが日華関係の斡旋に乗り出すとされる。
1.日華協定による日本軍の中国撤退、2.中国の満州国承認、3.蒋政権と汪政権合体を骨子とする。アメリカ国内の論調は諒解案よりはるかに厳しいものだった。
4月 松岡外相、三国同盟の堅持を表明。日米諒解案を批判。(批判の論調は正しいものだった)
5月 「国防保安法」が施行される。政府の発表以外は報道することができなくなる。
5月 ABCD包囲網が完成。
まず英米豪の間に太平洋共同防衛諒解が成立(AB網)。ついでこの協定に蘭印(D)が加わり、英米は、豪州と中国に飛行機を譲渡する。
5月 海軍、「米英の全面(石油)禁輸を受けた場合、半年以内に南方武力行使を行わなければ燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」と主張。

6月 ドイツがソ連領内に侵攻。天皇は三国同盟を廃棄し日米交渉に重点を移すよう指示。木戸幸一内大臣はこれを無視したと言う。

6月 駐米大使館付武官補佐官の岩畔豪雄(現役大佐)が帰国、各界に警告活動を展開する。
日米の物的戦力は、以下の比率で明らかです。
鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし日米が戦えば大和魂をふるっても勝てる見込みはありません。

7月2日 御前会議。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を承認。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定される。

7月28日 南部仏印への無血進駐を実施。米領フィリピンが航空機の射程に入る。米英の対日感情は一挙に悪化。

8月1日 アメリカ、日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を全面禁止。イギリスとオランダも同調。
日本軍は米国が南部仏印支柱を黙認するだろうと観測していたという。
ただし40年7月の軍令部研究報告では、仏印を占領すれば米国が石油禁輸で応じ、日本が蘭印の油田を制圧しようとすれば日米は戦争に突入すると予測していた。(角田順)
8月 首相直属の「総力戦研究所」が、「国力的に開戦は不可能、開戦すれば日本は必敗」との結論に達する。「総力戦研究所」の報告について、東條陸相は「実際の戦争では…意外裡なことが勝利につながっていく」と反論。

8月 陸軍省の戦争経済研究班が日米決戦に関して研究報告(林千勝による)。
1)極東の米英蘭根拠地を攻撃。 2)援蒋ルートを攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。 3)まず英国の屈服を図る。の三段階戦略を打ち出す。
米国とは極力戦わず、戦闘となれば日本近海にひきつけて行う(だからハワイ攻撃などはしない)

9月6日 御前会議。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をたたき台とした議論となり、「要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と両論併記。天皇は外交優先主義を支持する。
天皇「どのくらいで作戦を完遂するのか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月の見込みでございます」
天皇「支那事変のとき2ヶ月程度で片付くと申したのに、まだ終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして…」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」(近衛日記)
10月2日 アメリカ国務省、近衛首相の提案した日米首脳会談を拒否。
10月13日 野村大使が情勢報告。「アメリカは4原則で突っ張るだろう。交渉の一般的見通しは悲観的だ」
10月14日 陸軍の武藤軍務局長、「海軍が本当に戦争を欲しないのなら陸軍も考える」とし、海軍に下駄を預ける。
10月14日 近衛・東条会談。東条陸相は「9月6日の御前会議を御破算にするなら、陸海軍を抑えるために皇室が首班を担うべき」と主張。東久邇宮内閣論を唱える。
10月16日 近衛内閣は総辞職。近衛は対中撤兵による交渉を図ったが、陸軍大臣東條は一切の撤兵オプションを拒否。国策要綱に基づく開戦を主張。
10月16日 木戸内大臣が東条陸相と会談。木戸は「海軍が自重の方針で一致しなければ皇室は出ない。和平で一致するなら皇室は出る必要がない」と主張。(要は逃げたということ)
10月17日 後継首班推薦のための重臣会議。木戸は「海軍は戦争に乗り気でないため9月6日の御前会議決定は白紙還元」と述べる。そして開戦を主張して来た東条陸相に首相をやらせることで情勢を切り開くという奇策を打ち出す。
10月18日 大命降下。木戸の推挙を受け、後継の東條内閣が成立。外相には交渉派の東郷茂徳を起用。
東郷には「内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うる」ように、陸海両相に対しては「9月6日の御前会議の決定を情勢に合わせ再検討せよ」との天皇の意思が伝えられる。
10月18日 東條が首相に就任。承詔必謹の精神で即時開戦決意を翻し9月6日御前会議の決定を覆す。
陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに右翼クーデターに備えて、内相も兼務する。外相には反枢軸派の東郷茂徳をあてる。

10月22日 軍省局長会議で武藤軍務局長が発言。北支・蒙彊の駐兵維持は絶対に譲れないとする。また海軍軍令部の永野総長は「9月御前会議決定を変更する余地はない」と語る。
10月23日 各省統帥部に11項目の検討項目を示し、国策再検討を指示。これを受けて大本営政府連絡会議が1週間連続でひらかれる。(詳細は東條内閣「国策再検討会議」の顛末で)
初日の会議では次のような発言があった。永野修身は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」杉山元は「研究ばかりして費やせない。今すぐ前進しなければならない」
塚田参謀次長が嶋田海相を「黙れ」と叱りつける場面もあった(杉山元のメモ)
11月5日 御前会議。英米蘭戦を決意する。外交は12月1日零時までとし、武力発動の時期を12月初頭と定める「帝国国策遂行要領」が決定される。
11月5日 東郷、野村らによる最後の外交努力が始まる。東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加える”案は検討に値せず」と拒否。
11月6日 南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令される。
11月13日 野村大使の現状報告。
戦争に対する準備は着々と進め居れり。原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟である。
対独戦には若干の異論あるが、太平洋戦には反対少なきゆえ、この方面より参戦することも充分あり得べし。
11月15日 大本営政府連絡会議、「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」を決定する。イギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとする。
11月17日 東郷外相が国会演説。「太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、交渉の成立に向けて最善の努力」と述べる。
東郷は以下の腹案を持っていたとされる。 ①中国駐兵5年以内に全部撤兵する ②通商自由の原則を中国にも適用する ③南部仏印から撤兵する
11月20日 大本営政府連絡会議は、作戦対象となる南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定。重要国防資源の急速獲得のため軍政を敷くこととなる。
11月20日 東郷外相、仏印撤退と石油供給再開を交換条件とする「最終案」を送付。野村、来栖の両大使がアメリカ国防省にて手交。
11月22日 ハルが乙案に対する暫定協定案を提示。英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議。
「南方進出の停止を約束すれば、経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない」とする。有効期間は3ヶ月とする。これは日本の戦争突入必死と見たアメリカが時間稼ぎのためにダミー提案したとみられる。
11月24日 ハル提案に蒋介石政府が猛反発。取り消しを求める。
11月26日 海軍、真珠湾攻撃部隊に出動命令。
11月26日、1万トン級の10~13隻の日本輸送船団が台湾南方を通過中、米軍機により目撃される。
11月26日 ハル国務長官、4原則に従った「ハル・ノート」を通知。4月16日の日米諒解案にさかのぼって否認したもの。
①多角的不可侵条約の提案 ②仏印の領土主権尊重 ③日本の中国及び仏印からの全面撤兵 の代わりに
④通商条約再締結のための交渉の開始 ⑤日本の資産凍結を解除 ⑥為替レート安定に関する協定締結
⑦太平洋地域における平和維持を提供するというもの。
後に極東裁判時にバール判事は“モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えるほどのもの”と表現するが、それほどではない。
11月26日 日本側はハル・ノートを「最後通牒」として受け取る。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と記されていた。
参謀本部は、満州放棄を認めれば「日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する」と反発。ただし中国からの撤退に「満州」がふくまれるかについては不明。
11月26日 マーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に日本の奇襲攻撃を警告。
もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。
敵対行動が発生した場合はレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。
11月27日 ハル・ノートの提示を知った東条首相は、もしこれを受け入れれば一時小康を得るかも知れないが、それは重症患者に対するモルヒネの小康でしかないと語る。
11.30 海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していたが、嶋田海相と永野軍令部総長はすでに開戦準備を開始していた。
12月1日 御前会議、12月8日の開戦を最終決定する。


この論文は戦時下の日本軍の捕虜対応を総括的に扱ったものであるが、この中に日支事変のさいの捕虜対応についても触れられていて、これが南京事件を招く要因の一つではないかと思えた。
とりあえず関連箇所のみ紹介しておく。

1 「俘虜」観のゆれ
日本軍の捕虜取扱方針は当初より矛盾したものであった。その最大の理由は日本軍に捕虜という概念は存在していないということである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗残の将兵に自死を迫るものであった。
それにもかかわらず諸外国と国際的戦争を行うようになると、近代戦のルールを守るように迫られる。それは本来、日本軍内部にも捕虜という選択肢を導入すべきものとなるはずであったが、その方向には動かなかった。

2.捕虜の取り扱いをめぐる国際法
捕虜の取扱いに関する国際条約には陸戦条約(ハーグ条約)と俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)という2つのものがあった。
陸戦条約は捕虜の取り扱いのみならず、戦争のルールを包括的・概略的に述べたものである。ジュネーブ条約は捕虜の取扱についてより詳細な内容をもち、前者を補完するものと位置づけられる。
後者は
日本は両条約に署名したが、俘虜待遇条約の批准は軍部の反対によって見送られた

3.俘虜待遇条約は批准されなかった
ハーグ陸戦条約は国内において批准されたが、俘虜待遇条約は調印はされたが、批准はされなかった。これは軍部からの強い反対によるものであった。
批准反対の理由は次の4つである。
①日本軍では、捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生しない。だから日本だけが捕虜を待遇する負担を負うことになる。
②敵国の航空機は帰還を考えずに日本を空襲できるから、攻撃距離が2倍になる。
③捕虜が立会人なしに外部の者と面談すれば、何でも話せ、軍事情報が漏れる恐れもある。
④俘虜待遇条約よりも日本軍の懲罰規定のほうが厳格なので、日本軍の罰則を軽減しなければならず、軍紀が緩む恐れがある。

4.俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)はどう扱われたか
1942年 1 月 29 日米国、太平洋戦争が始まって間もなく、英国など交戦相手国から、ジュネーブ条約の扱いについて問い合わせがあった。
日本政府はこれについて「批准しないが準用する」という方針をうちだした。そして俘虜待遇条約を「準用」(apply mutatis mutandis)すると回答した。また赤十字条約についても「嚴重ニ遵守」すると回答している。
交戦相手国はこの「準用」回答を、事実上の適用と解した。しかし日本の受け止めは相当異なっていた。
(この後論文は、とくにフィリピンにおける大量の米軍捕虜の発生を機に、日本軍の捕虜取り扱いがジュネーブ条約から乖離していく経過の分析に入っていくが、ここでは省略する)

5.「準用」の例外としての支那事変
支那事変においては、ジュネーブ条約は「準用」どころか完全に無視されている。なぜなら日本は支那事変は国際法に言う戦争ではないと考えていたからである。したがって、陸戦条約は適応されず、国際法を無視した対応が行われた。
この方針は中国軍将兵に対する酷薄な対応をもたらした。
東京裁判時の武藤章(当時、参謀本部第1部第3課長)の証言によれば、陸軍では「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ、俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」された。
つまり、陸軍は「戦争ではないのだから陸戦条約には従わず、捕虜そのものを捕らない」という方針を採用した。したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。

6.南京事件をもたらした「捕虜非適用」
南京事件では、内輪に見積もっても数万の中国人が殺されている。その多くが民間人に紛れ込んだ中華民国軍の敗残兵、ないしそれと誤認された中国人市民である。
これが一番問題になるのは、敗残兵が投降して捕虜となる道はなかったのかということであろう。国際的に見てこれは明らかに日中両国間の戦争であり、そこには捕虜取り扱いをふくめた戦時ルールが適用、せめて準用されるべきである。
武藤章の言う「捕虜非適用」が「皆殺し」方針なのか、「宣誓解放」方針なのかは判然としないが、「戦陣訓」の敵将兵への適用と見るなら結論は明らかだ。日清戦争時に旅順市内でも、索敵を理由として同様の大量虐殺が発生しており、日本軍の傾向からは偶発的事件とは言えない。
中国各地での戦闘の中で、実際には中国人捕虜はいたし、収容施設も存在した。また現地軍が一定の取扱い規則を定めている事実もある。
しかしこのプリンシプルは動かないのである。ゆえに南京虐殺は「捕虜非適用」の論理の必然的帰結だと見ることができる。

いま朝飯を食いながらテレビを見ていたら、
「省エネルック」というかつてのムーブメントを紹介していた。
実は私はあまり覚えていないのだが、大平首相の頃にオイルショックが襲って、街のネオンサインが消えて大変なことになったようだ。これは多分第一次ではなく、80年ころの第二次オイルショックだろうと思う。
そのときに大平首相が率先して「省エネルック」というモードを提唱したらしい。背広にネクタイで、袖が七分丈になり、当然ワイシャツも半袖になった。
翌年に大平首相が突然死してしまったので、この運動も頓挫してしまったらしい。
まぁ、どうでもよいことではあるのだが、キャンペーンを始めるにあたって大平首相が意義を述べたのだが、妙にそれが気になった。
正確には覚えていないのだが、多分こういったのだろう。
日本は資源に乏しい貧しい国です。石油も鉄も外国から買うしかないのです。
みんなが一生懸命働いて、資源を節約して、外国との貿易を盛んにしなければやっていけないのです。
これは実は私達世代が子供の頃、学校でさんざん教え込まれたレトリックなのだ。
戦前はそれが朝鮮や満州を侵略して、中国に進出する理屈へと横滑りしていった。戦争に負けてしまって徒手空拳の小国になってしまったから、とにかく世界の国々と仲良くして行こうというのが国策になった。
国連に加盟し、ソ連と国交回復した頃は「東洋のスイス」という言葉が真剣に語られたものだ。多分、日本人がいちばん謙虚だった時代だろう。
それが、1980年(昭和55年)の日本国首相の口から語られていたということに、いささか感動を覚える。
戦争を、というより戦後を当事者として知る世代は、20世紀の終わりくらいまでは続いていたと思う。
いまさすがに「資源のない貧しい国」という日本イメージを墨守することは、アナクロであるかもしれない。
「刻苦精励」にすべての実践を落とし込むのは、「昭和イズム」の悪しき側面なのかもしれない。しかしそれと引き換えに謙虚さと平和主義まで流し去るのはあまりに惜しいと言うべきではなかろうか。


日大がヤクザとズブズブなことより、小指に衝撃 とのコメント

メディアはいまや日大の本丸に押し入ろうとしているが、ここに来てコメンテーターの口がにわかに重くなってきた。
内田監督が本業は日大常任理事で人事権を掌握し、事実上日大No.2だと言われている。ということは内田監督の不祥事に対しけじめをつけるのは日大のトップしかいない。平理事の「学長」が出てきても始まらないのである。
では日大のトップである田中理事長とはどんな人物なのか、どうして前面に出ようとしないのか?

その理由は下記の経過を見れば分かる。

田中英壽の履歴書

1946年12月 青森県五所川原市に生まれる。

1965年、日本大学経済学部に入学。

1968年 学生横綱となる。

1969年、日本大学経済学部経済学科を卒業し、日本大学農獣医学部体育助手兼相撲部コーチに就任。

1969年 アマチュア横綱となる。その後70年、74年にもアマチュア横綱となる。

1980年 現役引退。同年、朝日スポーツ賞受賞。

1983年 日本大学相撲部監督に就任、久島海、舞の海らを育てる。

1999年学校法人日本大学理事に就任。

2000年日本大学保健体育事務局長に昇格。

2001年日本大学校友会本部事務局長に昇格。

2002年学校法人日本大学常務理事に昇格。

2005年日本大学校友会会長に就任。

2005年 田中常務理事と特定業者とのバックリベート問題が浮上。第三者委員会は「謝礼を受け取ったという極めて濃厚な疑いが残る」という中間報告書を提出。理事長と総長が任期満了となったため、曖昧なまま決着。

2008年 学校法人日本大学理事長に選出される。

1994年 JOC理事に就任。後に副会長に昇格。

2012年2月 会員制月刊誌の「ファクタ」が、「日大田中理事長と裏社会」という連載を開始。

2013年2月 読売新聞、「理事長就任後の6年間で約500万円を受注業者から受け取った」との疑惑を報道する。

田中理事長は大学施設の工事を受注している建設会社から、1回あたり10万円前後で50回以上受け取っていた。この会社の受注件数は同期間に約150件、受注総額は20数億円に上っていた。


9月 山口組六代目組長司忍とのツーショット写真が流出。ブルームバーグなど海外メディアに掲載される。国内メディアは「写真の真偽と流出の背景が不明」だとし、公表を控える。

2014年2月 アメリカ大手ニュースサイトが「東京五輪はヤクザオリンピック」と報道。日刊ゲンダイがこれを紹介。(後出)

9月 日大批判の急先鋒だった右翼系の「敬天新聞」社が襲撃される。事件後、各メディアに「六代目の写真と理事長の写真を掲載したら、敬天と同じ目に遭わす」との脅迫。

2015年4月 維新の牧義夫議員が国会でツーショット写真につき質問。文科省は「日大とJOCからそうした関係はないとの報告を受けている」と答弁。また「文科省は(キックバック疑惑について)事実確認をしたのか」との質問に、スポーツ青年局長は、「第三者委員会の調査の結果、工事発注に伴う謝礼ではないということだった」と答弁する。
文科省は「田中続投はありえない」と考えていたが、竹田JOC会長が「偽写真かもしれない」と異議を唱えたため、続投となった(ファクタ)。
2016年4月 危機管理学部が新設。同時に「スポーツ科学部」も新設。亀井静香元議員(元警視総監)の肝いりで、警察官僚の天下り先として作られたと言う。
危機管理学部の教授陣には、元四国管区警察局長や元埼玉県警本部長などが名を連ねる。警察官採用ランキングでは日大が長年トップを続けている。「司直の手」に委ねた途端、この事件は終わりだ。
4月 祝賀パーティーで森喜朗が来賓挨拶。裏事情を明かす。
田中理事長から亀ちゃんに学部を作るにはどうしたらいいかと相談があり、亀ちゃんから「私や国松さんも協力してよ」と言ってきた。多分前半は半ば嘘で、亀井から持ちかけた話であろう。
2016年6月 日大がファクタ出版を名誉毀損で提訴。勝訴する。請求額2億に対し判決は140万円。読売新聞は名誉棄損で訴えられて、継続記事を断念。

2017年9月 田中英壽理事長が4選される。石井進氏(77)を除く全ての常務理事が交代、内田正人(62、人事)ら4氏が常務理事に昇格する。


つまり記者会見には出られないのだ。もしいま記者会見をすれば、かならず上記の写真について質問される。今の雰囲気なら絶対誰かがやる。国際的にもさらされている写真だ。本人は「偽造写真」と言っているようだが、今日の画像技術からは真贋の区別は容易だ。

例の広報部長がすぐ制止に入るだろうが、記者がかざした写真は白日のもとにさらされる。もはや亀井静香も庇い立ては難しかろう。

これはモラトリアムというサイトからの転載だが、元ネタが「日刊ゲンダイ」の 2014年2月13日号 とのことなので、そのつもりで読んでいただきたい。(画面上クリックで拡大)
田中と森
ということで、田中理事長が引責を求められれば、話はJOCにも及ぶ。悪質タックルで始まった話が東京オリンピックまで波及するということ、例によって日本最大の悪役森喜朗が絡んでくるということになりそうな雲行きだ。


には、下記のような情報が書き込まれている。とりあえず流石にそのまま信用する気にはならないが、いずれ取材が激しくなれば、大手メディアでも取り上げるようになるかもしれない。
酒が入ると彼の口癖は「勉強なんて東大に任せておけばいいんだよ。こっちはな、数と喧嘩だったら誰にも負けねえんだ」。
田中は青森県北津軽郡金木町の出身。太宰治と同じところだが、田中の尊敬する人物は、同じ町出身の吉幾三だそうだ。
「山口組の若頭の高山清司親分とは兄弟の盃を交わしている」と堂々と自慢していたこともあるという。

マックス・プランクの小伝

1858年 プランク、北部の港町キールに生まれる。正式名は Max Karl Ernst Ludwig Planck。当時キールはホルシュタイン公国に属していた。

1859年 キルヒホッフ、黒体放射の熱平衡分布は温度のみに依存すると発表。輻射エネルギーの分布を振動数 νの関数として求める研究が進む。

1874年 プランク、ミュンヘン大学に入学。専攻分野は数学であったが、次第に熱力学に傾倒していった。

1879年 プランク、熱力学の研究のためベルリン大学に転学し、キルヒホフのもとで学位を取得。

1884年 レイリー、マックスウェルの功績を引き継ぎ、電磁気学の単位(アンペア、ボルト、オーム)の標準を定める。レイリーは男爵の爵位名(3rd Baron Rayleigh)。本名は John William Strutt。

1886年 ヴィーン、金属刃端による光の回折を研究。回析のパターンが金属の材質により異なることを示す。ヴィーンの正式名は寿限無のごとし(Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien)。当時22歳でベルリン大学学生。

1890年 ヴィーン、大学卒業後農場経営を継ぐが失敗。やむを得ず大学に戻った(ウィキ)。ベルリン工科大学に籍を置き、ヘルムホルツのもとで研究。

1892年 プランク、ミュンヘンとキールの大学を歴任したあと、ベルリン大学教授に就任。

1896年 ヴィーンが「ヴィーンの変位則」や「ヴィーンの放射法則」を発見。これを応用して「温度と熱平衡分布に関する公式」を発表。

ヴィーンの変位則: 黒体からの輻射のピークの波長(λmax)は温度に反比例し、b/T で示される。比例定数 b は0.29 cm·K とされる。
ヴィーンの放射法則: ヴィーンの公式、ヴィーンの分布式とも呼ばれる。熱輻射における電磁波のスペクトルを与える理論式で、短波長領域における近似式である。

1899年 プランク、光の最小単位に関する定数を提言。プランク定数と名づけられる。
  
とし、ウィーンの公式に代入した。k は ボルツマン定数で、通常はkβをh(プランク定数)として表す。
プランク定数: 光子はエネルギーと振動数の比例関係の上に成り立つ。プランク定数はこの比例関係(ε=hν) をあらわす定数で、h=6.626070040(81)×10−34 Jsで示される。
RJ_Wien_Planck
ミクロの世界より転載

1900年
00年 黒体放射に関するレイリーの式が導出される。
レイリーは物理学会のエジソン。空が青くなる理由を示す(レイリー散乱)、地震の表面波(レイリー波)の発見、アルゴン元素の発見も手がける。寺田寅彦による評伝「レーリー卿」をみよ。
10月 プランク、レイリーの式とヴィーンの公式を検討。2つの公式をつなぐ内挿的公式を考案。ヴィーンの公式は高周波数領域においては実験データと良く一致したが、低周波数ではずれがあった

12月 プランクが「エネルギー量子仮説」を発表。のちに「プランクの法則」と呼ばれる。発表の場はベルリン物理学会のクリスマス講演だった。
物質中の荷電振動子のモードが飛々の値しかとらないことを発見。電子軌道の存在を推定し、軌道内ではε=hν、異なる軌道ではその整数倍となる。
1904年 レイリー、アルゴンの発見により、ノーベル物理学賞を受賞。共同研究者ラムゼーは化学賞を受賞する。

1905年 レイリーの式にもとづく定数が求められる。(ジェームズ・ジーンズによってその誤りが訂正されたのでレイリー・ジーンズの式と呼ばれる)
レイリーは量子論や相対論を嫌悪し、最後まで熱放射を古典物理学で説明する望みを捨てなかった(ウィキ)。
1911年 ヴィーンがノーベル物理学賞を受賞。

1913年 プランク、ベルリン大学総長となる。

1914年
10月 プランク、「世界文明への宣言」に署名する。ドイツの戦争を支援するもの。

1918年 プランク、量子論によってノーベル物理学賞を受賞する。

1930年 プランク、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就任。

1932年 プランク、科学哲学書 『科学はどこへ行くのか』 を発表。理性だけではない直接的な認識の重要性を強調した。

1933年
5月 プランク、ナチのユダヤ人迫害に対し、ヒトラーに直接抗議を行う。第二次世界大戦中もドイツにとどまるが不遇の生活。

1944年 次男のエルヴィン・プランクがヒトラー暗殺計画に加担。敗戦直前に処刑される。(長男は第一次大戦で戦死)

1945年 プランク、カイザー・ヴィルヘルム研究所の名誉総裁に就任。復興に尽力する。

1946年 カイザー・ヴィルヘルム研究所がマックス・プランク研究所と改名される。

1947年 プランク、ゲッティンゲンにて死去。

何気なく富良野まで行ってきた。
出掛けたのがすでに10時近かったから「大丈夫かな」と思いつつ出掛けたのだが、わずか2時間あまりで行けるということに驚いた。
高速で三笠まで行って、そこから桂沢湖経由で行くのだが、本当の難所は幾春別を過ぎてから芦別市に入るまでと、富芦トンネル付近だけだ。基本的に信号はゼロ、道路工事は常時2,3箇所でやっているがそれだけだ。ほとんどが速度制限なし、追い越しも可能だ。
帰りは、芦別経由で滝川から高速に乗ろうと思ったが、滝川に行くのと岩見沢に出るのと距離・時間ともに変わらないことがわかり帰路も同じ道を選んだ。ただ三笠から岩見沢に抜ける道はすでに家が立ち並ぶ生活道路になっており、信号待ちもかなりある。やはり三笠から高速に乗るのが正解なようだ。
札幌から行って一番のとっつき、38号線の右側に北の峰スキー場に登っていく道がある。その角の喫茶店は感じの良い店だ。ここで無料地図がもらえるので、それを見ながら市内観光に出掛けた。
スキー場からの展望は素晴らしい。富良野盆地を隔てて眼の前に富良野岳、その奥がかすかに噴煙を上げる十勝岳。さらにその奥には雪をかぶる大雪連邦だ。
スキー場付近はもったいないくらい閑散としている。店の半分位は暖簾を掲げているが、あたりには人っ子一人いない。すでに閉店状態となっているところもたくさんある。
ここには外国人観光客は来ていないのだろうか。千歳からのアクセスはニセコより優れていて、西武プリンスもまだ諦めているわけではなさそうなので、これから大化けするかもしれない。
山麓の道路を南に進むと山の中腹に堂々たる高層建築が見えてくる。これが西武プリンスだ。山道を登っていくと今まで見えなかったもう一つの山がホテルの背中に見えてくる。これが芦別岳だ。これも立派な山だ。
コーヒーでも飲んでいこうと思ったが、意外に混んでいる。駐車場は車でいっぱいだ。月曜というのにすごい集客力だなと思ったら、なにかイベントがあったらしい。それで中には入らずにそのまま下ってきた。
途中にチーズ館というのがあったが、正直チーズは買ってまで食べたいと思ったことはない。冷蔵庫の場所塞ぎをしている。
その脇に看板があって道を入っていくと写真の展覧会場があった。
東京から移住して住み着いたという写真家の個人ギャラリーだ。相当のお金持ちらしく、建物の作りは立派なもので、展示された写真も一見に値する。
なんでも高齢のためあと数ヶ月で店終いするそうで、希望すれば展示物も分けてもらえるらしい。何れにせよお早めに。
ドライブのとき、いつも昼めしには苦労する。
どの街でもそうだが、観光地はそれなりでも、旧市街の荒廃ぶりは凄まじい。今回も街の中心部をぐるぐる回ったが、どうもこれはと思える店がない。まあ滝川に行って探すかと離れかけたとき、国道沿いの生鮮卸市場のなかに海鮮丼の店が見つかった。看板を見ると海鮮丼900円とある。ついその値段に釣られて入ってしまった。
値段からはとても信じられない充実ぶりだった。いつまで続くかわからないが、当面は「孤独のグルメ」並みのおすすめだ。
ご多分に漏れず富良野も限界集落だ。しかしもともとが農家のセンターだから、落ちるスピードは比較的遅い。悲惨さがないから気持ち的には落ち着く。
外国人観光が根付くと以外に息を吹き返すかもしれない。札幌からのアクセスの良さを考えれば穴場的存在かもしれない。
帰札後、テレビの夕方のニュースが富良野の話題を2つも流していた。一つはプリンスホテルに倉本聰の企画した高級エストランが店開きしたという話だ。ホテルの駐車場が混んでいたのはこのせいだったのだ。縁なき話である。
もう一つは市内の住宅で殺人事件。83歳の旦那が80歳の妻を刺し殺したという話。妻は車椅子で旦那が介護していたというが、別にそれが原因で殺ってしまったというわけでもないらしい。こちらが年取ったせいもあるが、83という年は、特にいなかでは、高齢者というほどのものではない。
普段仲の良い夫婦だったが「カッとなってやった」ということだ。夫婦喧嘩の決着としては尋常ではない。妻からかなり言い込められたのであろう。しかし台所から包丁を持ってきて車椅子の妻に襲いかかるという図は想像しにくい。知人・友人からは計り知れないDVの積み重ねがあったのだろうか。
ちょっと一筋縄ではいかない事件のようだ。

去年の暮、北朝鮮問題が深刻化したときに下記の文章をブログに掲載しました。
ここでは北朝鮮問題を3つの枠組みに分けて考える必要があると主張しました。
1.日朝両国関係の枠組み
2.非核・平和・安全保障の国際・地域的枠組み
3.東アジア地域の共存・共栄の枠組み
そして、これらの枠組み協議のいずれにおいてもアメリカは部外者なのに、現実には最大の当事者となっている。この矛盾こそが当面する問題なのだと主張しました。
もう一つ道筋問題では、安全→平和→統一を段階を追って前進すること、統一の課題では経済統合→文化統合→政治統合という三段階が重要と主張しました。

2018年04月25日 「米朝関係の新展開について 覚書」という文章、および 「トランプ就任後の米朝関係」という経過表を北海道AALA機関紙に投稿し、あわせてブログにも掲載しました。
また併せて1990年以降の米朝関係を年表化したものを三部に分けて掲載しました(我ながら相当膨大です)。
それが昨日、トランプによる会談中止声明という形で思わぬ展開を見せました。世はアメフト一色、不意を衝かれた感じです。
とりあえずこの1ヶ月の経過を大急ぎでまとめてみました。結論としては前回記事とそれほどの変わりはありません。
4月に敷かれた基本線には変化がないのですが、とくにアメリカ国内で受け止めを巡って様々な思惑が出てきたのが特徴だろうと思います。

以下、この1ヶ月の経過をフォローします。

4月 大統領補佐官に就任したボルトン、北朝鮮を非核化する上で「リビア方式」が有効と主張。

4.27 南北首脳会談

5.01 文正仁(ムン・ジョンイン)大統領統一外交安保特別補佐官、米外交誌に寄稿。平和協定が結ばれた場合、在韓米軍の駐留は不要となると提言。

5.03 ニューヨーク・タイムズ、トランプが在韓米軍の規模削減を検討するよう指示したと報道。

5.04 ボルトン、NYタイムズ記事を否定。

5.04 トランプ、「現時点では在韓米軍の規模削減は検討していない」と表明。また韓国に駐留費の全額負担をもとめる方針も示唆。

5.04 谷内正太郎国家安全保障局長がボルトン補佐官とホワイトハウスで会談。核兵器と弾道ミサイルの完全で恒久的な廃棄を実現する目標を確認。

5.04 ボルトン、韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安保室長と約2時間会談。朝鮮半島で米韓が確固たる同盟を維持していくことを確認する。

5.06 北朝鮮外務省の報道官、米国が「圧力と軍事的な威嚇」を続けていると非難。

5.09 ポンペオ国務長官が二度目の訪朝。北朝鮮政府は拘束していた米国人3人を解放する。

5.10 トランプ米大統領、首脳会談の日時・場所をツイッターで発表。「世界平和にとって非常に特別な時間になるよう、我々2人とも努力する!」と書く。

5.10 ボルトンがワシントンポストに寄稿。「トランプ政権内では、誰も一切、北への幻想を抱いていない」と述べ、核放棄要求で妥協することはないとする。

5.10 ペンス副大統領、共和党の集会で演説。北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を要求。

5.11 米政府、北朝鮮のエネルギー供給と経済再建支援を検討すると明らかにする。

5.11 米韓合同軍事演習。北朝鮮は激しく反発。南北閣僚級会談を中止する。

5.13 ポンペオ米国務長官、非核化を条件として米民間企業による北朝鮮投資を認める可能性を示唆。

5.15 サンダース報道官、ボルトン補佐官の「リビア方式」に言及。「我々の方式だとは認識していない」と述べた。

5.16 金桂寛(キム・ゲグァン)第1外務次官、「一方的核放棄」を迫るボルトン補佐官を「えせ憂国の志士」と罵倒。

5.17 トランプ、北朝鮮非核化は「リビア方式」をとらないと言明。

5.21 ペンス副大統領、FOXニュースとのインタビューで発言。「トランプを手玉に取るべきでない」と北朝鮮を非難。これに関連して「北朝鮮はリビアのように終わるかもしれない」など発言。

5.22 文在寅(ムンジェイン)大統領が訪米。トランプ大統領と会談。南北首脳会談の内容について説明。

5.22 トランプ、米朝関係と米リビア関係は違うと主張。「(米朝が)合意すれば、金正恩は、とてもとても幸せになるだろう」と語る。
「少し失望しているんだが、金正恩は中国の習主席と2度目の会談の後、態度が変わってしまったんだ。それが気に入らない」とも発言。

5.24 北朝鮮が豊渓里(プンゲリ)の地下核実験場を爆破。

5.24 崔善姫(チェ・ソンヒ)外務次官、ペンス米副大統領を非難。「あのような無知で愚かな発言が米副大統領の口から噴出したことに、驚きを抑えられない」と発言。

5.24 トランプによる金正恩あての書簡が発表される。これにより6月12日予定の米朝首脳会談が中止される。核実験場の爆破直後のことであった。

5.24 ホワイトハウス当局、「(交渉に向けた)裏口はまだ開いている。ただ最低限でもレトリックの変更は必要だ」と述べ、崔善姫発言の修正をもとめる。

5.25 金桂寛次官、(会談中止は)「極めて遺憾だ。われわれはいつでも、いかなる方法でも問題を解決する用意がある」との談話を発表。さらにトランプ氏の「勇断」を「ずっと内心で高く評価してきた」と語る。

5.25 マティス国防長官が記者会見。米朝首脳会談が「外交努力で再設定されるかもしれない。私は楽観的だ」と述べる。

以上、経過を見てもらえばわかるように、かなりせこいケンカです。これで首脳会議つぶしてしまったんではあまりにもったいない。
基本的には北朝鮮側の隠忍自重をもとめるべきでしょう。ボルトンがそもそもどのような意図で「リビア方式」を語っているのかも必ずしもはっきりしていません。
ただ用語としての「リビア方式」は北朝鮮がこれだけ嫌がっているのだから、使わないようにすべきでしょう。これは交渉をする上での最低限の礼儀です。

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