鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

「雨の歌」抄 マリー・ウチティローバ(群像の制作者)

嘆きと、空腹と、恐怖と… それから底知れぬ闇
みんなお墓の石になって。ラヴェンスブリュックに眠っている
何かの弾ける音と、ガチャガチャという音と、大声と…それが止まったとき
リディーツェの母は声もなく囁やく
疼く唇たちがリディーツェの歌を囁やく
囁いた歌は、それから
リディーツェの家まで行って、こだまする

ねんねしな、可愛い子
泣くのをおやめ、静かにおし
くまさん人形の夢を見ましょ
それから、お庭でいっしょにいる夢も…
私の歌でお前は眠る
それは「雨の歌」と溶け合うでしょう
…もし、お前が生きていたら

リディーツェ村は、反ナチ抵抗運動へのみせしめのために攻撃された。男はみな殺された。女や子どもはラヴェンスブリュックの強制収容所へ連れてゆかれ、そこでガス室に送り込まれた。最後に村は形跡もなくなった。


申し訳ないが、世界のいたる処にリディーツェはある。残念ながら相対化せざるを得ないのだ。
ただマリー・ウチティローバが制作した子どもたちの群像は、ここリディーツェにしかない。
これも申し訳ない言い方になるが、ウチティローバの群像のリアリティーと芸術性が半端でないのだ。子どもたちの表情に「嘆きと、空腹と、恐怖と」が恐ろしいまでに具象化されている。それは息苦しいほどの圧力で見るものに迫ってくる。
この群像を見るだけでリディツェまで足を運ぶ価値がある。
でも、邪道かもしれないが、世界中を巡演して、世界中の人に見てもらいたい。あえて高飛車な言い方をすれば、“見てもらわれるべき”なのだと思う。

「人間の顔をした社会主義」の意味

チェコ共産党の人と懇談をして、「いま、“人間の顔をした社会主義”をどうとらえ返すか」と質問もしたのだけど、ぶっちゃけた話、通訳さんがまったくだめで、話が通じなかったみたいだ。
チェコ人の通訳なんだけど、市内観光のときにわかったのだけど、そもそも日本語がよくわかっていない人で、勉強もあまりしていない。
この人がインでわからず、アウトでわからず、したがって相手が質問の意味をわからず、答えはちんぷんかんとなって、それをまた通訳が変な日本語でアウトしてくるから、ほぼ「電信ゲーム」状態。
帰ってからネットで調べようということで帰ってきた。

それはこれからの話しだが、とりあえず、「人間の顔をした社会主義」について考えてみたい。

私はそもそも「人間の顔をした社会主義」というのは否定形の表現なのだろうと思う。
変な話だが、1968年のはじめチェコ人の前にあった社会主義は人間の顔をしていなかった。だから人間の顔を取り戻そうという、いわばルネッサンス運動なのだろうと思う。

では「人間の顔をしていない社会主義」というのはどんな顔なのだろう。
私は、それは3つ考えられると思う。ひとつは非人間の顔、つまり無表情なロボットの顔だ。
ひとつは人の権利を侵害して利益を貪る獣の顔だ。
そしてもう一つはソ連やスターリンの意のままになって、国民を裏切る犬(イヌ)の顔だ。どれも人間の顔ではない。

資本主義というのは何よりも獣の顔をしている。弱肉強食を生活の論理としている以上当然のことだ。
社会主義はこの資本主義の論理に対する対抗倫理として生まれている。
なのにその帰結点がイヌの顔になりロボットの顔になるのはどうしてなのだろう。

私が考えるには、人間の顔が社会主義から失われたのは、運動が気高さと優しさを失ったからではないか。
つまりスターリン主義に代表されるこれまでの社会主義運動は、気高さと優しさを本質的に内包していなかったのではないかという問題意識に突き当たる。もちろん社会主義運動は、気高さと優しさで支えられてきた。しかし「ボリシェビキ型社会主義」はそれらの人間的特質をただ単に利用したに過ぎなかった。

今日、チェコにおいて人間の顔をした社会主義、気高さと優しさを基調とする社会主義は実現できないのだろうか。
少なくともチェコ共産党くらいはそういうことを主張しても良いのではないだろうか。
チャスラフスカの凛とした横顔を見るたびに、そんな気がするのである。

チャスラフスカは東京オリンピックで金メダル3個を獲得した。
tyasurahusuka

     チェコの名花チャスラフスカ死去 より 

彼女はプラハの春に賛同し「二千語宣言」に署名し、ワルシャワ条約軍の侵入に抗議した。
宣言への署名を撤回するようにもとめられても、それを拒否し続け、メキシコオリンピックでは抗議の意味から濃紺のレオタードで競技を行った。
チャスラフスカ

         ベラ・チャスラフスカ

より

帰りに成田に着いたら、空港で「ユーは何しに日本へ?」という番組の取材をやっていた。集合時間までの間、何気なしに眺めていたが、想像を超える悪戦苦闘ぶりで、スタッフの頑張りに敬服した。
それはどうでも良いのだが、「スターリンは何しにウィーンに?」というのはどうでも良くない。
先程はBBCの記事を紹介したが、「ヒトラーが同じ時代にウィーンにいた」というのは良いとして、スターリンがウィーンにいた理由ははっきりしない。
そのあたりを示唆した記事を見つけたので、そちらから紹介する。


第一次大戦前のウィーン
第一次世界大戦の前、ウィーンはボルシェビキにとって住みやすい都市であり、レオ・トロッツキのような人々の住み処となっていた。
1913年1月、ヨセフ・スターリンはレーニンの命令でウィーンにやって来た。彼はオーストリアの社会主義者と接触することになっていた。
不運なことに、スターリンはドイツ語を話せなかった。
彼はウィーンで "マルクス主義と民族問題"というパンフレットを書いた。これは後にペテルスブルクの新聞に掲載された。

トロヤノフスキーの家
スターリンは、ウィーンでは、シェーンブルン宮殿の近くのトロヤノフスキーというロシア人の家に住んでいた。トロヤノフスキーは元ツァーリ軍の砲兵士官。中央委員で理論誌の編集委員をつとめていた。裕福であったので自宅にヨシフを受け入れた。
レーニンの命により、ヨシフはウィーンに缶詰になり、オットー・バウアー、カール・レンナー、カール・カウツキーらの民族問題文献を脳みそに詰め込まれた。外国語が読めないヨシフのために、パニンが翻訳にあたった。
スターリンはそこで数週間過ごした後、ウィーンを去りクラコウへ戻った。
ロシア大革命が成功した後、トロヤノフスキーはロシアの駐米大使となった。トロヤノフスキーはメンシェビキの幹部だったが、ヨシフは一宿一飯の恩義を忘れなかったらしい。
長い間、スターリンはSchlobstrabe 30に住んではいなかったと考えられていた。それはウィーンでの滞在が違法であったことを示唆している。彼の "Meldezettel"(住民票)が発見されたのは1977年のことである。

記念プレートを据え付けたわけ
1949年、KPZRはヨシフの70歳の誕生日を祝って、住居の壁に記念プレートを据え付けた。
「オーストリアはロシアのモニュメントを破壊してはならない」という取り決めがあり、そのため1955年以降もそのプレートは生き残った。
これは別な文章だが
1956年のハンガリー動乱に際して、ナジ政府を支持するデモ隊が押しかけ、プレートを剥がそうとした。官憲がこれを阻止したため失敗したという。
だからウィーン第12区のSchlobstrabe 30番地には、いまも “20世紀における最も有名な犯罪者の一人”スターリンに敬意を表する唯一の記念プレートがあるのです。


これだけ書いてしまうと、もうBBCの記事はどうでも良くなるのだが、以下の条は紹介しておいたほうが良いと思う。(いささか勿体ぶった表現だが)

1913年1月、Stavros Papadopoulosという名のパスポートを携えた一人の男が、クラコウからの列車でウィーン北駅に降り立った。
その男は、薄汚れた服装で大きな農夫髭を生やし、質素な木製のスーツケースを下げていた。
「私は机のところに座っていた」と別の男が書いている。彼はクラコウから来た男と会うためにこの駅までやってきた。書いたのは数年後のことだ。
「ノックとともにドアが開けられた。そこには見知らぬ男がいて、こちらに入ってきた」
「彼は背が低く痩せていて、その灰色がかった茶色の顔は痘瘡の痕跡で覆われていた。見たところ、彼の瞳の中には親愛感のカケラもなかった」
こう書いたのは亡命中のロシア人インテリで、急進的な新聞「プラウダ」(真実)の編集人、レオン・トロツキーだった。
そして、そう書かれたのはPapadopoulosではなく、その本名をIosif Vissarionovich Dzhugashvili、仲間内の通称をコバ、そして後年はスターリンと呼ばれることになる男であった。

かなり胃もたれする表現だが、要するにスターリンはドイツ語も話せずに、トロツキーと会うためにウィーンに乗り込んだのだ。
その理由は先程の年表を見ればわかる。レーニンが純朴な田舎の青年を送り込むことで、トロツキーの“受け”を狙ったのだ。しかしトロツキーの印象を見ればわかるように、あまりこの策は成功したようには思えない。
むしろ、トロツキーの“上から目線”がスターリンにトラウマをもたらした可能性もあるだろう。

とりあえず、このくらいで止めておく。
「スターリンのウィーン」は旅の目的からすればきわめてトリビアルな話題である。鈴木頌という男がどういうふうに首を突っ込んでいくかの見本として読んでいただきたい。

若きスターリン 年譜

1878年12月18日 ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)が生まれる(レーニンより9歳年齢下)。生地はゴリ。父は靴職人でアル中。生活苦から幼少期だけで9回も転居。

ゴリ: グルジアの首都トビリシから西へ約76km、人口は4万7059人。

1886年 痘瘡となる。顔にアバタが残る。さらに馬車の事故から左腕にも障害が残る。

1888年 母の尽力でグルジア正教会の推薦を獲得。ゴリの初等神学校に入る。成績は優秀だった。

1893年(15歳) マルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

1894年 ヨシフ、奨学金を得てチフリス (現Tbilisi) の高等神学校に入学。

1895年 ジョージア独立を目指す秘密政治結社“Messame Dassy”と接触。組織員の一部は社会主義者でもあった。

1898年 党の創立大会がミンスクで開かれる。大会は党名を「ロシア社会民主党」と決定。結党宣言を起草したストルーヴェは独断で党名を「ロシア社会民主労働党」とし、以後この名前が定着する。

98年 ヨシフ、Messame Dassyに加入。マルクスやレーニンの本を読む,

1899年 神学校から追放される。公式には授業料不足のためとなっているが、理由は諸説ある。

1899年 退学後もティフリスに残り革命運動に飛び込む。社会民主労働党に加わり、ティフリス地方委員会の専従となる。生計は家庭教師やティフリス測候所の雇員などで支える。

1900年 レーニン、マルトフ、プレハーノフらのグループが新聞『イスクラ』を創刊する。

1901年 気象台を辞め、地下組織で政治活動を開始。その後、バトゥミに逃れ、精油所の労働者となる。バトゥミは国会に面するジョージア最大の港で、トルコとの国境から約20km。

1902年4月 スターリン、バトゥミ精油所の労働者をストライキに組織。捕らえられ、シベリア送りとなる。

1903年 ブリュッセルで『イスクラ』派を中心に社会民主労働党第二回党大会が開かれる。大会はレーニンの党派とプレハーノフ・マルトフらのメンシェビキに分裂。

1903年 スターリン、シベリアのイルクーツクに送られ、そこでレーニン派に加わる。

1904年1月 列車に乗ってシベリアから逃亡、トビリシに潜伏する。その後常にOkhranka, (ツァーリの秘密警察)に追われる身となる。ヨシフはグルジアのメンシェビキあてに「信条」を提出したらしい。

1905年

1月 レーニン派、「多数派諸委員会ビューロー」を創設し新聞『フペリョード』を発行。ボルシェビキと呼ばれるようになる。

1月22日 「血の日曜日事件」(ユリウス暦)が発生。ロシア第一革命が始まる。
メンシェヴィキは革命の性格をブルジョア革命と規定した上で「急進的な革命的反政府党」にとどまると決定。
ボリシェヴィキは「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを掲げ、武装蜂起の準備を進めた。 ウィキペディアより
4月 ボルシェビキが単独で第3回党大会を開く。ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させた。
彼の主たる仕事は、富裕層から軍資金をゆすりとること、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を挑むことであった。ヨシフは金品強要、現金輸送車の襲撃などを通じ資金活動を展開。
7月 ヨシフがエカテリーナ・スワニーゼと結婚。エカテリーナは産後のチフスで死亡。
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        エカテリーナの葬儀 右端がスターリン

1906年

4月 ストックホルムで統一党大会が開かれる。ボリシェヴィキの観点では第4回党大会となる。この大会ではメンシェヴィキが多数派となる。ヨシフもカフカス代表として参加。レーニンと会い感動を受けたと言う。

1907年 

4月 ロンドンでロシア社会民主労働党第5回大会。ボリシェヴィキが多数派となる。ヨシフはレーニンと並ぶボルシェビキ幹部として出席。このとき大会では「銀行強盗禁止」が可決される。

6月 ヨシフがトビリシで現金輸送隊を待ち伏せ。340万米ドル相当の現金を強奪しレーニンに預ける。
この後のヨシフは悪の帝王さながらの活動である。アゼルバイジャンのイスラム教徒を結集しボリシェヴィキグループの設立を手伝った。黒百人組へのテロを強め、誘拐しては身代金をゆすり取った。贋金造りと強盗を行った。
1908年

4月7日 スターリンが逮捕(二度目)される。2年間のシベリアへの流刑を宣告される。

1908年 トロツキーら、ウィーンで『プラウダ』を創刊。党の統一を回復するよう訴え、多くの支持を結集する。

1909年7月 ヨシフは女装してシベリアの流刑地から逃亡。バクーへと戻る。
ヨシフは、ロシア・ビューローの創設とメンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれを拒んだ。
1910年

1月 トロツキーの呼びかけにより、パリで党中央委員会総会が開かれる。各派の代表が分派の清算で合意するが実行されず。

4月 ヨシフ、三度目の逮捕。シベリア流刑となる。
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1911年7月 ヨシフは流刑から解放されヴォログダに移住。

1912年

1月 プラハでボリシェビキ派と党維持派メンシェヴィキによる協議会。解党派を党から追放し新たな中央委員を選出した。

1月 プラハ協議会の直後にロシア国内で一斉逮捕があり、ヨシフは中央委員に繰り上げ選出される。

5月 サンクトペテルブルクで最初のボルシェビキ党の日刊紙「プラウダ」が発行される。ヨシフが編集者となる。

7月 ヨシフが逮捕され、3年間のシベリア送りとなる。38日後に逃亡に成功。

8月 ウィーンのトロツキー・グループ、プラハ協議会に対抗してパリ協議会を開催。レーニン派以外の全グループが参加し「八月ブロック」を形成するが、実質的な成果をもたらすことなく終わる。

年末 ヨシフはボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停を試みた。レーニンはプラウダの編集職を解任するが、その後、クラクフ(現ポーランド)のロシア・ビューローの指導者に指名。

1913年

2月 スターリンがウィーンからサンクトペテルブルクへ戻る。まもなく捕らえられ、シベリア送りとなる。スターリンは収容先から逃亡し、北極圏内の寒村に潜伏。そこで2月革命までを送る。

3月 ヨシフ、レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を発表。「スターリン」という筆名をはじめて使用。「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味する。

1917年3月25日 ヨシフ、2月革命の後解放され、サンクトペテルブルクへ戻る。

ということで、ウィーン滞在はスターリンの最も多忙な時期の一コマだ。そしてこれは、スターリンの生涯における最も長い外国暮らしとなった。
ウィキペディアに掲載されていないということは、公式の年譜にないということだろう。
1ヶ月滞在したというが、前後関係から見ると、おそらくレーニンの命を受けてクラクフからウィーンに来た。次の記事でもわかるように彼はトロツキーと会っている。多分トロツキーと会いに来たのだと思う。隠すほどの話でもなさそうだが、トロツキーとわざわざ会いに来たというのが癪に障ったのだろうか。

ウィーンで泊まったのが市南部メドリング街のルネッサンス・ホテル。超モダンな内装でいささかたじろぐ。
朝、恐る恐る街に散歩に出る。朝と言っても日の出は7時半をすぎるから、まだ薄暗い。
ホテルの南側が堀になっていて、そこを電車が走る。この堀は旧ウィーン市の内外を分ける境界になっていたらしい。地図で見るとここから駅一つ隣がシェンブルン宮殿だ。ぶらりぶらりと通りを歩き始める。駅と宮殿の敷地の中間あたり、通りの南側のアパートにプレートが貼ってあって、何気なしに見上げるとスターリンの住居跡と書いてある。これには流石に驚いた。
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左下の緑がシェーンブルン公園の北東端。ホテルはメドリング駅の北東である。シェーンブルン城壁通りの「」がそのアパートだ。
遠景、近景、パネルと3枚写真を撮ってきたが、パァになったのは前記のとおり。
気を取り直すのに24時間を要した。
ウィキペディアのスターリンに関する記載はきわめて浩瀚だが、ウィーン在留の記録はない。一応次の記事に「年譜」として掲載しておく。
ネットで調べるとたくさんの記事がつかまるが、根っこはすべて同じで、2017年の「BBCマガジン」に記載された下記のもの。これも一応別記事として掲載しておく。
この記事は、アラン・ブロックの著書「対比列伝 ヒトラーとスターリン」(1991年)が出典らしい。この本では第一次大戦前のある時期に、スターリンとヒットラーが同時にウィーンにいたというのがミソになっているようだ。
1200px-Vienna_-_Stalin_Memorial_Tablet

ネットで探していてこの写真を見つけた。建物の外壁はこの色だったが、私の見たプレートは絵はなく文字だけだった。Schönbrunner Schlossstraße 30と書いてあるので同じ場所だろう。


本日、8日間の欧州旅行を終えて帰ってきた。家に電話したら妻が入院していた。
妹に見てもらっていて、訪問看護や介護の支援で無事入院はしていたが、それにしても5日間も知らずに過ごしていた。かなり気が滅入る。
それでも夜、自宅に落ち着いてから資料を整理し始めたが、カメラの写真のTiffファイルを削除しようとしたらJPEGファイルも一緒にやられた。プラハとウィーンの写真は全てアウトとなった。
頭が真っ白になった。しばらく充電が必要だ。

ガルデルについて英語の記事でもよくわからないところがある。
死の直前に作られた曲は4つある。1.下り坂(Cuesta abajo)、2.わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード)、3.帰還(Volver)、4.想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス)
このうち確かなのは「想いの届く日」が最後で、この映画のキャンペーン中に飛行機事故でなくなったことである。「帰還」はその前年34年に作られた映画の主題歌である。「下り坂」(Cuesta abajo)は帰還と同じく34年に作られた映画の主題歌らしい。しかしこれは曖昧である。
一番曖昧なのが「わが懐かしのブエノスアイレス」で、これは34あるいは35年に作られた別人の映画のために、ガルデルがつけた曲らしい。
ただしこの辺は定かでない。ネットでは今のところこれが限界で、後は図書館に行くしかなさそうだ。と言っても北海道の図書館ではあまり期待できないが。

タンゴ名曲百選にあげた曲を作曲年順に並べました。原語も入れるべきでしょう。特に古い曲の場合、作曲時からヒットしたのではなく、後からカバーして大ヒットになった場合もあるので、その年も書き込まなければならないでしょう。
そのうち、少しづつYouTubeにアップしていこうと思います。

19世紀のタンゴ

1890 泣き虫(エル・ジョロン):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)伝アンブロッシオ・ラドリサーニ。
俳優のラドリサーニの作品というが、実際は当時流行した伝承曲らしい。カディカモの歌詞は後年映画主題歌として作られた。

1897 エントレリオの人(エル・エントレリアーノ):(曲)ロセンド・メンディサバル。
古典タンゴの中では最も古い作品。


1898 ドン・ファン:(曲)エルネスト・ポンシオ。


1900年代

1903 エル・チョクロ(とうもろこし):(曲)アンヘル・ビジョルド。
歌詞は1947年にエンリケ・サントス・ディセポロが作った。1953年に「キッス・オブ・ファイアー」と題されて米国のヒット・パレード上位に入った。

1905 混血娘(ラ・モローチャ):(詞)アンヘル・ビジョルド(曲)エンリケ・サボリード。

1906 オテル・ビクトリア:(曲)フェリシアーノ・ラタサ。
アルゼンチン中北部の町コルドバでオテル・ビクトリアというホテルが開かれた。その開業式典の席で初演されたものという。

1907 フェリシア:(曲)エンリケ・サボリード。

1908 7月9日(ヌエベ・デ・フーリオ):(曲)ホセ・ルイ・パドゥラ。
「7月9日」は1816年のこの日、独立宣言が発せられた記念日である。

1910年代

1910 独立(インデペンデンシア):(曲)アルフレド・ベビラクァ。
「革命100年」を祝う祭典(センテナリオ)で初演されたもの。

1910 ロドリゲス・ペーニャ:(曲)ビセンテ・グレコ。
題名はロドリゲス・ペーニャ通りにあるサロン、「サン・マルティン」を冠したもの。

1910 夜明け(エル・アマネセール):(曲)ロベルト・フィルポ。

1915 医学生(エル・インテルナード):(曲)フランシスコ・カナロ。医学部学生のダンスパーティのために作られた。

1916 デレーチョ・ビエホ(わき目もふらず)。(曲)エドアルド・アローラス。
直訳すると「昔の法律」、題名から想像されるように法学部学生に捧げられている。前の年の医学生がヒットしたから柳の下のどじょうを狙ったような気もする。

1916 ラ・クンパルシータ:(曲)G・H・マトス・ロドリゲス。
モンテビデオの無名の学生が作曲。24年にロベルト・フィルポが発掘し、バンドネオン変奏部や対旋律も加えられて大ヒットした。題名は仮装行列の意味で、キューバではコンパルサと言う。

1916 花火(フエゴス・アルティフィシアーレス):(曲)ロベルト・フィルポ&エドアルド・アローラス。

1916 霊感(インスピラシオン):(曲)ペレグリーノ・パウロス。

1916 わが悲しみの夜(ミ・ノーチェ・トリステ):(詞)パスクアル・コントゥルシ(曲)サムエル・カストリオータ。
ガルデルが最初に歌ってヒットさせたタンゴ。捨てられた女への「うらみ節」。それまでガルデルは民謡歌いだった。

1917 エル・マルネ:(曲)エドアルド・アローラス。
第1次世界大戦に於ける激戦地(フランス)を指す。アローラスはフランス系移民だったから祖国の戦勝を祝って書いたのであろう。

1918 バンドネオンの嘆き(ケハス・デ・バンドネオン):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1920年代

1920 気取り屋(チケ):(作曲)リカルド・ルイス・ブリグノロ。

1920 ラ・カチーラ:(曲)エドアルド・アローラス。
「地面に住み昆虫を食べる雀に似た小さな鳥」のことなんだそうですが、想像つきません。

1922 狂女(ロカ):(詞)アントニオ・ビエルゴル(曲)マヌエル・ホベス。
品のいい歌ではないが、百選というと外せない、「そういう曲ってあるよね」という曲

1923 蝶々(ラ・マリポーサ):(曲)ペドロ・マフィア。

1923 五分と五分(マノ・ア・マノ):(詞)C・E・フローレス(曲)C・ガルデル/J・ラサーノ。

1924 ガウチョの嘆き(センティミエント・ガウチョ):(曲)F.カナロ、R.カナロ。
オデオン社のタンゴコンクールで第一位。その時の第三位は「たそがれのオルガニート」であった(うぃき)。

1924 たそがれのオルガニート(オルガニート・デ・ラ・タルデ):(曲)カトゥロ・カスティジョ。

1924 想い出(レクエルド):(曲)オスバルド・プグリエーセ。エドゥアルド・モレーノの歌詞がついている。

1924 淡き光に(A MEDIA LUZ):(作詞)カルロス・セサル・レンシ(作曲)エドガルド・ドナート。
ブエノスアイレスの繁華街「コリエンテス通り348番地」には、扉にこの曲の楽譜が描かれている。

1926 小径(カミニート):(詞)コリア・ペニャローサ(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベ。
ラ・ボカに近い鉄道廃線跡地が「カミニート」公園になっている。

1926 パリのカナロ(カナロ・エン・パリス):(曲)ファン・カルダレーラ+アレハンドロ・スカルピーノ合作。
フランシスコ・カナロ楽団のパリ公演成功を祝う歌。

1927 さらば友よ(アディオス・ムチャーチョス):(作詞)セサル・ベダニ(作曲)フリオ・サンデルス。
アルゼンチンでは、この曲を演奏すると不吉なことが起こるといわれ、最近では余り演奏されない。

1927 ミロンガのすすり泣くとき(クアンド・ジョラ・ラ・ミロンガ):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1927 悪い仲間(マーラ・フンタ):(曲)J・デカロ/P・ラウレンス。

1928 黄金の心(コラソン・デ・オロ):(作曲)フランシスコ・カナロ。

1928 今宵われ酔いしれて(エスタ・ノーチェ・メ・エンボラーチョ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1930年代

1930 ジーラ・ジーラ:(詞・曲)エンリケ・S・ディセポロ。
不況と政治不安の時代でもあり、この曲はこの年最大のヒット曲となる。「俺は河原の枯れすすき」と通じるものがある。

1931 告白(コンフェシオン):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1932 エル・ウラカン(ハリケーン):(曲)エドガルド・ドナート。

1931 交わす盃(トモ・イ・オブリーゴ):(詞)マヌエル・ロメロ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルがフランスで撮影した映画「ブエノスアイレスの灯」で歌われた。

1934 下り坂(クエスタ・アバホ):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。同名のパラマウント映画の主題歌。作曲者ガルデル自身が主演。

1934 わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード):大歌手ガルデルが自ら主演した映画「下り坂」の主題歌。

1935 古道具屋(カンバラーチェ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。映画「バンドネオンの心」の中の1曲。

1935 想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルが主演した米パラマウント映画の主題曲。とうでもよいが、曲名は正式には帰還(ボルベール)。

1936 ナイフで一突き(ラ・プニャラーダ):(曲)ピンティン・カステジャーノス。ミロンガに編曲したダリエンソのレコードはミリオン・セラーとなった。


1936 郷愁(ノスタルヒアス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。
不慮の死を遂げたガルデルを主人公とした「ブエノスアイレスの歌い手」のために作られた。


1940年代
1942 酔いどれたち(ロス・マレアドス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。1922年に発表された古い曲を、トロイロが発掘してフィオレンティーノが歌ったところリバイバル。
1943 人は(ウノ):(詞)エンリケ・S・ディセポロ(曲)マリアノ・モレス。

1945 さらば草原よ(アディオス・パンパ・ミア):(作詞)イボ・ペライ(作曲)マリアノ・モレス/フランシスコ・カナロ。カナロの音楽劇「パリのタンゴ」の挿入歌。

1946 ラ・ジュンバ:(曲)オスバルド・プグリエーセ。

1947 エネ・エネ(何某):(曲)オスバルド・ルジェロ。若くしてオスバルド・プグリエーセ楽団の第1バンドネオン奏者となり、後にセステート・タンゴの中核として活躍したルジェロの作品。

1948 降る星のごとく(ジュビア・デ・エストレージャス):(曲)オスマル・マデルナ。
1948 南(スール):(詞)オメロ・マンシ(曲)アニバル・トロイロ。ブエノスアイレスの南部ヌエバ・ポンページャ地区を題材とした曲。


1950年代
1951 うそつき女(ラ・トランペーラ):(曲)アニバル・トロイロ。

1952 兵隊風のブーツ(タキート・ミリタール):(曲)マリアノ・モレス。以前は「軍靴の響き」と訳されていた。

1953 来るべきもの(ロ・ケ・ベンドゥラ):(曲)アストル・ピアソラ。

1957 バイーア・ブランカ:(作曲)カルロス・ディサルリ。

1959 アディオス・ノニーノ:(作曲)アストル・ピアソラ。父親ビセンテ(愛称ノニーノ)への愛情と愛惜がこめられた名作。

1960年代以降

1965 ブエノスアイレスの夏(ベラーノ・ポルテーニョ):(曲)アストル・ピアソラ。「ブエノスアイレスの四季」4曲中で最初に作られた。舞台劇「黄金の垂れ髪」のためにピアソラが一晩で書き上げたという。

1974 リベルタンゴ:(曲)アストル・ピアソラ。「自由」と「タンゴ」を組み合わせた合成語。


ハードディスクの隅から、10年も前の文章が出てきました。協立病院の総院長だった時代の経営報告です。
今更なんの役に立つものでもありませんが、61歳のときの苦闘の記録です。中小病院つぶしの攻撃に立ち向かっていましたが、いま考えてみると危機は医療よりも介護再編から来たようです。


未曾有の危機をどう乗り越えたのか

要約

私たちは、創立30周年を迎えた2006年度、空前の経営危機に陥りました。そして、職員の団結と奮闘によって、自力でこの困難を突破することができました。その困難はどんなものだったのか、どのようにして困難は克服されたのかを明らかにし、今後の教訓を汲み取りたいと思います。

最初に簡潔に結論を述べます。主要な困難の原因は、2006年4月の診療報酬改悪と7月からの療養病床における医療区分の導入にありました。直前の当てはめ試算では、両者合わせて年間1億3千万の減収=減益と予想されました。

実際には、2006年の減収は7800万円、減益は7500万円(推計)にとどまりました。

経営改善の第一の要因は、一般病棟での大幅収益増にありました。第三四半期には療養病棟の落ち込みを補って、2005年度並みの収益を確保するまでにいたります。第二の要因は、卸部門などの奮闘により大幅な医薬品・材料費の値下げが実現できたことです。収益増に伴い膨らんだ費用が、これにより一気に圧縮されました。

第三の要因は、病棟再編による効果です。4階病棟の一般病棟化によりベッド運用が効率化し、稼働率が改善しました。障害者加算制の導入により、病床単価も向上しています。

これら三つの要因のうちでもっとも大事なのは収益増です。いち早く収益増を実現できたからこそ、医薬品購入価の引き下げやベッド再編が利いてきたのです。医業収益が減少する中で第二、第三の要因が働いたとしても、「焼け石に水」だったでしょう。まさに「量が質を規定する」のです。

今回の危機がもたらした最大の教訓、それは職員のがんばりに徹底的に依拠すること、それなしに経営改善はありえないということです。また、職員ががんばることによって、それを通じて、現場の中から、次の打つ手がおのずから見えてくるということです。「わからなくなったときは、現場に聞け」という鉄則が、いまあらためて確認されたと感じています。

 

危機の中身はなんだったのか

1.未曾有の赤字

「さし迫る危機、それとどう闘うか」 これはロシア革命の直前にレーニンが書いた有名なパンフレットの題名ですが、昨年の今頃、まさに私たちはそのような心境でまなじりを決していました。

 

入院収益

協立病院事業利益

2006年度

15億9400万円

マイナス1億7000万円

2005年度

16億7200万円

マイナス1億5500万円

2006年度会計で、協立病院は未曾有の赤字を経験しました。最終決算では1億7000万円の赤字となっていますが、これは人件費の圧縮などで赤字幅を調整したことによるもので、これらの支出を2005年並みと仮定すれば、赤字額は昨年比7500万円増の2億3000万円に達します。

これまで道東勤医協では、協立病院の入院部門で生じる赤字を他部門で支える経営構造が定着していました。そのプラス・マイナス・バランスはマイナス1億5000万円程度とされてきました。

したがって、8000万円の利益未達状況が続けば、遅くない時期に道東勤医協は破産の危機に直面することになります。

 

2.危機をもたらしたもの

診療報酬の大幅引き下げ(4月)と療養病床における医療区分の導入(7月)

06年4月時点での予測: 年度当初、私たちは、4月からの診療報酬引き下げと、7月からの医療区分導入に伴う影響を試算しました。

まず4月診療報酬の改悪に伴う減収ですが、これは一般病床を中心に、12ヶ月間で3%と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

一般病棟

10億6400万円

10億3300万円

3100万円

3%

ついで7月の医療区分導入に伴う減収ですが、これは療養病床で9ヶ月で16%の減収と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

療養病棟

6億8500万円

6億0300万円

8200万円

16%

これをあわせると1億1300万円の減収となります。これは原理的にはそのまま1億1300万円の減益となります。

 

3.これに対する我々の経営努力は

じっと黙って去年並みの医療をやっていれば、赤字は2億6800万円まで膨らんだことになります。しかし最終結果を2億3000万円とすれば、私たちは2006年度の奮闘により、3800万円の利益を取り返したことになります。そして2007年度の第一四半期で見る限り、残りの利益未達も克服できる展望を持てる地点まで到達しました。

これからの話は二段構えになります。まず第一段は06年の苦闘の内容です。すなわち「我々はいかなる努力をして、3800万円の利益を取り返したか」という話です。第二段は06年3月以降の話です。すなわち「我々はいかなる努力をして、利益をゼロロク改定前の水準まで向上させたか」です。

 

ゼロロク改定への対応

1.診療報酬引き下げの入院医療への影響

①第一四半期における入院収益の実際の推移。

 

05年度第一四半期決算

06年度第一四半期決算

ダウン幅

ダウン率

病棟全体

4億0800万円

4億0400万円

マイナス400万円

1.7%

一般病棟

2億6600万円

2億5900万円

マイナス700万円

2.6%

療養病棟

1億4200万円

1億4500万円

プラス290万円

 

4月診療報酬改悪の影響はもっぱら一般病棟に現れました。二つの表を一つにしたため見にくいのですが、実際のダウン率は1.7%に留まりました。

これは一般病棟の落ち込みが予想を下回ったことに加え、療養病棟が昨年より実績を伸ばしたことによるものです。すでにここでも職員の頑張りが示されています。

しかし、事業利益は残念ながら大幅に悪化しています。昨年同期に比べ利益は1200万円の悪化を示しています(本部経費を除く)。既存の医療・経営構造のままの頑張りでは、展望は切り開けないことが、すでにこの時点で明らかです。

 

2.医療区分導入に伴う収益の減少とその克服

①医療区分導入で収益は劇的に減少した

 

第一四半期(再掲)

第二四半期(前年同期よりのダウン幅)

第三四半期(前年同期よりのダウン幅)

一般病棟(2A、2B)

2億5900万円

2億6200万円(マイナス90万円)

2億7900万円(プラス810万円)

療養病棟(3、4病棟)

1億4500万円

1億3000万円(マイナス2100万円)

1億3400万円(マイナス1600万円)

病棟合計

4億0100万円

3億9400万円(マイナス1800万円)

4億1300万円(マイナス700万円)

第二四半期に入り、恐れていた医療区分の導入効果が現実のものとなりました。療養病棟は第一四半期に比べ収益を1500万円、10%強も減らしました。前年同期に比べ2100万円の減収です。

しかしそれは、16%=2700万円減という予想に比べればはるかに健闘した内容でもありました。さらに第三四半期に入ってからは、医療区分のランクアップやベッド稼働率の向上などの努力などが実を結び、400万円の回復が見られています。

この間、最大の希望は一般病棟にありました。一般病棟の収益は急速に回復し、療養病棟の収入減を補うようになりました。第三四半期では第一四半期を1200万円、診療報酬改悪前の05年第一四半期を810万円も上回る収益を実現しました。

この結果、収益面だけ見れば、12月末の時点で医療区分導入の影響は克服できたことになります。まさに道東勤医協の底力が発揮された驚異的ながんばりです。

一般病棟Aの新規入院患者数は同じベット数で14名増えました。一般病棟Bにおいては新規入院患者中、緊急・即日入院患者の占める割合が53%から64%へと上昇しました。まさに「泣きながらのがんばり」です。

②医療区分導入は利益の悪化に直結した(内は昨年同期比較)

 

第一四半期

第二四半期

第三四半期

入院部門収益(再掲)

4億0100万円

3億9400万円

4億1300万円

事業費用(病院全体)

6億2000万円

6億1400万円

6億2400万円

利益(病院全体)

マイナス200万円

マイナス2000万円

マイナス1300万円

療養病棟の収益減は100%利益減としてかぶってきます。仮に収益を改悪前の状態に復帰させれば、そのための費用は全て赤字の増加となって現れます。経営構造の悪化です。

しかし喘ぎながらでも収益を増加させれば、それはそれなりに利益の改善に結びついていきます。上の表を見れば分かるように、第二四半期と第三四半期を比べると、収益が1900万円増えたことにより、赤字幅が700万円減っています。

 

③我々の努力は医療・経営構造を変えた: 支出構造の変化

 

05年度第一四半期

第一四半期

第二四半期

第三四半期

人件費

3億1600万円

3億1400万円

3億1500万円

3億3100万円

材料費

1億1900万円

1億2400万円

1億2900万円

1億2600万円

経費

9700万円

9900万円

1億0600万

1億0100万円

第二四半期はもっとも困難な時期でした。収益が減る中で費用の三要素がすべて上昇しています。特に材料費は第一四半期を500万円上回り、昨年同期に比べると1000万円も増えています。

第三四半期は、入院の収支構造が変化したことを典型的に示した時期となりました。第二四半期と比べると、収益が1900万の伸びなのに対して、時間外をふくめた人件費は1600万円も伸びています。これに対し医薬品費は価格交渉の成果により800万円も減少しました。診療材料費が700万円上がっていることを考えると、薬品使用量そのものは増えているはずで、実際には1000万円を超える経営効果を上げていると思われます。これが赤字を減少させる原動力となりました。

 

④収益増に関する若干の考察

私たちはここまでのがんばりで、かなり借りを返すことに成功しました。まず一般病棟のがんばりで収益を1900万円改善させました。ついで医薬品・材料費を節減することで利益を300万円改善しました。また療養病棟のアダプト努力により、400万円収益を増やしています。こうして2006年12月末現在で赤字を700万円減少させました。

一見すると、収益が増えれば増えるほど、それを上回る勢いで費用が増えていき、かえって赤字が増えるように見えます。いっそ、がんばらないほうが良い、人減らし合理化が唯一の解決策のようにも見えます。

しかし、私たちはゼロから出発したのではなく、マイナスから出発したのだということを忘れてはなりません。そこから考えれば、私たちは収益を大幅に増やしただけではなく、利益も立派に生み出しているのです。「稼ぐに追いつく貧乏なし」ということです。

収益増がなぜ大事なのでしょう。

第一に、収益が増えれば政策的選択の幅が広がります。これから語る病棟再編も、収益の着実な増加があったからこそ成り立った作戦でした。第二に、収益の増加は、医療と患者結集が順調に機能していることの反映です。すなわち経営インフラが健全であることの証拠です。第三に、収益増は全職員が気持ちをひとつする闘いの目標となりえます。泣きながらでもがんばれば成果が見える目標です。第四に、それは医療を必要としている人々に奉仕しようとする医療者としての実践と一致するからです。少なくともそれは、経営改善のために患者にしわ寄せしたり、切り捨てたりすることをもとめてはいません。

もちろんそれは出発点であり、その上にさまざまな経営上の工夫が必要とされていることは言うまでもありません。地域の患者状況や医師・看護婦事情によっては、長期的にはダウンサイジングや、特定機能への特化が必要となることがあるかもしれません。しかし収益増=職員のがんばりを出発点としない経営上の「対応」は、いずれ大きな壁にぶちあたるでしょう。

考えてみれば、療養病床制度の導入は「医師労働の軽減、医師不足への対応」などを理由としていましたが、いま考えれば、「楽して稼ごう」式の「対応」の側面が否定し切れません。厚労省にだまされたと愚痴るばかりでなく、だまされた私たちも反省しなくてはならないところがあります。

 

 

3.病棟再編による経営の劇的改善

①病棟再編計画の提起

第二四半期から第三四半期へと、職員の奮闘により経営改善の兆しが見えてきましたが、このままではとうてい持続可能な経営は成り立ちません。医療内容の変化までふくむ構造改善が必要です。

そこで管理部はベッド再編計画を打ち出しました。その柱は①4階病棟を療養病棟から一般病棟に変換すること、②2B病棟(急性期)の障害者加算を返上し、代わりに4階病棟に障害者加算制度と導入すること、③急性期をあつかう二つの病棟の病床数を20床減らすこと、減少分は二つの病棟に計4床の緊急ベッドを配置し、4階病棟を機動的に活用することで補うこと、でした。病床減は4階の看護要員を確保するための余儀ない選択でした。

いくつかのプロジェクトが重なる、複雑な課題でした。議論は難航しました。問題は①病床減で収益への影響はどのくらい出るのか、②4階病棟は一般病棟に変換した上に、障害者加算までとって、看護体制としてやっていけるのか、③今でも窮屈な急性期病棟は病床減になって急患に対応できるのか、④一般病棟は医師数の縛りがあるが、標欠になる危険はないのか、などでした。

管理部は、①病床減による収益減は稼働率アップにより取り戻せる、②同じ人件費で医療区分1の患者20人を診れば一日15万円、これは類アップと障害者加算分で取り返せる、③4階看護体制は二交代制度をとることで立ち上げ可能(持続可能とは言えないが)、④急性期病棟の病床減は、2Bが障害者加算を返上することで対応できる、⑤医師数問題は医師数が確保されている今の間に申請してしまい、あとは残った医師でがんばるしかない、と判断しました。

折も折り、内科常勤医の一人が退職の意向を示しました。総院長が内科スタッフ医師を呼び(といっても総院長をふくめ3名)、医師不足の中での入院ベッド「死守」について、膝を交えて懇談しました。「やりましょう、やるしかないでしょう」という結論でした。

 

②病棟再編による収益の変化

1月まで旧体制、2月を移行期とし、3月1日をもって新病棟体制に移行しました。したがって第四四半期は分析の対象となりません。直前の06年度第三四半期と2007年度第一四半期を比較します。また、収支決算が「06ショック」前と比べてどうかを見る場合、05年度同期との比較が必要です。それを下の表にまとめて示します。

 

06年第三四半期

07年第一四半期

05年第一四半期

入院部門収益(再掲)

4億1300万円

3億9500万円

4億0800万円

事業費用(病院全体)

5億8600万円

5億6000万円

5億6100万円

利益(病院全体)

マイナス1300万円

マイナス100万円

プラス1000万円

 (事業費用から本部費は除いてあります)

収益はやはりベッドの20床減が利いて、第三四半期に比べ1800万円落ちています。しかし第二四半期の収益とはほぼ同額です。基本的には、ベッド減の影響は最小限に食い止められてみてよいでしょう。

利益は本部費を除きほぼプラスマイナス・ゼロまで回復しました。第三四半期に比べ1200万円の改善です。05年度に比べるとまだ900万円ほど足りませんが、この年は特殊だった可能性があり、04年度の同期はマイナス300万円となっています。

 

③事業費用の内訳の変化

 

06年度第三四半期

07年度第一四半期

05年度第一四半期

人件費

3億3100万円

3億2500万円

3億1600万円

材料費

1億2600万円

1億1600万円

1億1900万円

経費

1億0100万円

9400万

9700万円

事業費用は第三四半期に比べ2400万円という驚異的な削減です。内訳を見ると、人件費の600万円減、材料費の1000万円減、経費の700万円減というように軒並み大幅にダウンしています。

人件費減を細かく見ると、常勤職員給与はむしろ増加しており、主として非常勤職員給与の700万円減少によるものです。(法定福利費の1200万円減という怪しい項目もある)

材料費減を細かく見ると、診療材料費が1200万円減少しており、医薬品費はむしろ300万円近く増加しています。外注委託費も変化ありません。もう医薬品値引きの影響はありません。経費の細目も満遍なく減っていますが、光熱水費が400万円減っています。

 

④医療内容との関連

これを医療内容と関連付けてみると、変化が見えてきます。

20床ベットが減ったということは、毎日入院患者が20人づつ減ったということを意味しているわけではありません。ベッドの稼働率と患者回転率が向上すれば良いのです。

 

ベット数

 

 

 

急性期病棟(2A、2B)

89⇒70

 

 

 

慢性期病棟(3階,4階)

95⇒95

 

 

 

医薬品費・検査外注費が変化ないことは、内科系急性期患者の数が変わっていないことを意味します。したがってベッド減の影響は療養型患者に振り向けられていることを意味します。そして医師・看護婦など職員がその後もがんばり続けていることを意味します。

診療材料費の著減は、季節変動に加え、整形外科固定が退職し、外科的処置が減少したこと、つまり、外科系患者の比率が減ってることを意味します。それは収益減に直接結びついています。それは間接的には、内科急患の入院の比率が高まったことを意味します。

非常勤職員の減少は、いわゆる介護重患の比率が減ったことを反映しているかもしれません。これについてはあとで別資料で点検します。一般経費の減少は、職員の間に危機意識が浸透したことの表れかもしれません。

まだ四半期を過ぎたばかりの時点で、長期見通しを語るのは慎重でなければなりませんが、第二四半期に入ってからも引き続き同様の傾向が続いていることから、病棟再編による経営改善は定着しつつあるものと見てよさそうです。

 

 

 

   

さすがは赤旗で、沖縄知事選が正確に評価されている。
昨日の段階では見えなかったことが、明らかになった。
まずこの表がとてもありがたい。

得票推移
前回選挙との比較だ
1.オール沖縄は総投票数が減った中で3万6千も得票を増やしている。これは敵失による勝利ではないということだ。翁長県政4年間のゆるぎのない組織的前進の成果と言える。
2.保守層を結集した勝利だ。前回は保守が3つに分裂した。翁長派、仲井眞派、そして下地派だ。分裂しなくても翁長さんは勝てたのだが。今回は翁長派以外の保守が一本化した。しかし前回票にさえ届いていない。
3.公明票効果が見られない。内地から5千人を動員したという公明党はどこへ行ったのか。差し引き数万の票は間違いなく動いたと思う。だとすると、それを上回る保守票の雪崩現象が起きたとしか考えられない。

つまり、今回の選挙の最大の特徴は前回選挙に始まった中央依存保守の地盤の崩壊と「オールオキナワ」体制の構築が一気に進行したことにある、と言えるだろう。

つぎに竹下記者の署名記事
勝利の方程式=争点隠しx公明動員x期日前投票
が今回に限って効かなかった。「不敗神話」が崩れた。
1.争点隠しが成功しなかった理由は、玉城側が「翁長の遺言」という形で辺野古の争点化に成功したこと。政治アパシー化が進む若者に対してアムロの一言は効いたと思う。投票直前の世論調査で辺野古反対が7割に達した。
名護では2月に争点隠しで負けたが、今回選挙では1800票差をつけた。
2.公明動員が成功しなかった。内地からの動員と締め付けが孤立した。地元メディアの出口調査で、公明支持者の3割が玉城に投票した。
3.期日前投票でも負けた。地元メディアの出口調査で、期日前投票でも玉城が圧倒した。
中祖記者は選挙の全国への影響について書いている
1.自民総裁選の「地方の反乱」と関連しているかもしれない。さらにこの流れは加速されるかもしれない。
2.野党共闘と草の根民主主義はさらに前進するだろう。

ただし、この2.については私はこう書き換えたい。
2’.「オールオキナワ方式」の本質はリベラル保守の反乱であり、野党共闘とは分けて考えるべきだ。リベラル保守の反乱は、全国でも「地方の反乱」としてその萌芽が見られる。
保守の反乱と野党共闘が結びつけば、政治の流れが変わってしまう可能性がある。
赤旗以外の論調にも触れておきたい。

1.異常な反共攻撃について
反共攻撃の先頭に立ったのは右翼のデマゴーグだった。
元東京新聞論説副主幹、長谷川幸洋はこう述べている。(MAG2 NEWS2018年10月05日誰が「玉城デニー当選なら沖縄は中国に」というデマを流したのかより)
こんな人物が知事になったら、沖縄の支持者だけでなく、中国や北朝鮮は大喜びだろう。祝電どころか、祝意表明の代表団を送ってくるかもしれない。そうなったら、歓迎の中国国旗(五星紅旗)が沖縄中にはためくのではないか。光景を想像するだけでも、ぞっとする。(9月26日、夕刊フジ)
もっと露骨に反中国デマを煽っているのが元海上自衛官のジャーナリスト、恵隆之介氏。2013年に『中国が沖縄を奪う日』という、センセーショナルな題名の本を刊行した。これらの文献がベースになって有象無象のネット右翼がSNSなどで誹謗・中傷・デマを繰り返し、国会議員や元市長などの肩書きを持つ人物が無批判に拡散した。
もう一つの攻撃、スキャンダル報道の「王道」としての内閣調査室=週刊文春によるネタである。(週刊文春と内閣調査室は前川問題を水に流し、よりを戻したようだ)
「週刊現代」の記事、「週刊文春の“隠し子”報道について週刊現代


2.中国攻撃のもう一つの側面
沖縄は基地に頼らない経済を目指して動き始めている。それは翁長県政が切り開いた道だ。国政は辺野古に関連して沖縄に対して懲罰的な予算配分をしている。
そのしがらみが崩れるようなことになると、沖縄の基地としての安定性は根底から揺らぐことになる。
翁長さんは2015年「沖縄県アジア経済戦略構想」を発表した。アジアの巨大マーケットの中心に位置する地理的優位性を生かし、国際ビジネス都市に飛躍しようというものだ。
これが基地に頼らない沖縄経済をどう作るかについての回答だ。
「基地に頼らない経済」の最大の柱が観光、特に中国・アジアを対象としたインバウンドが重要になる。
県知事選の舞台裏 2018年10月4日琉球新報では次のように報じている。
クルーズ船が次々と寄港し、国際通りは人波が途切れない。「観光立県」をうたう沖縄は昨年、観光客数が過去最多の939万人に達し、初めてハワイを超えた。
我々は原発立地が潤っても、結局、原発関連企業以外はすたれていく経過をみている。それが沖縄という島全体で起きていることだ。
観光で生きていくというなら基地はじゃまになる。基地関係者ばかりがのさばる政治・経済のあり方は否定されることになる。「嫌なものは嫌だ」と発言し始めれば、国にそれを押さえつける力はない。
だからおそらく最大の顧客になる中国との関係強化を警戒しているのだ。
しかし沖縄だけなぜ観光立国してはいけないのだ? それもまた「お国のため」なのか。










1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。

夜帰ってきてテレビでニュースを見た。驚いた。まさかデニーさんが勝利するとは思わなかった。台風がギリギリ投票に間に合うように、去ってくれたからなのだろうか。
事前の見込みでは組織が期日前投票でぎしぎしと囲い込み、公明党も締め付けを強化しているということで、どうしても足りないなぁと思っていた。各種選挙でも此の処負け続きだったからだ。
天気も組織票の強みを加勢しているかのように思えた。
ところが蓋を開けたらこういう事になった。おそらく沖縄県民の投票行動が劇的に変化したのであろう。他に考えようがない。
前回、翁長さんが勝利したときも、オール沖縄という投票行動パターンが出来上がったが、今回はそれをさらに乗り越える新たな投票行動が示された。その半分は、弔い選挙という事情で説明できるかも知れないが、残り半分はそれ以外の理由だろう。
投票率がどうだったのかが気になるが、もしそれが異常に高いものでなかったとすれば、自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか、ということになる。
おそらくそれは日本全国での立憲・平和勢力の勝利に向けた水路を示してくれることになるだろう。
早急な総括が望まれる。

とりあえず、ちょっと、各紙の報道を眺めてみる。
琉球新報
選挙戦そのものは力づくの組織戦だった

今回の県知事選は激戦が予想された。しかしフタを開けてみると玉城氏が予想外の圧勝。なんと過去最多得票の大勝という結果。

当 396,632 玉城デニー 無新

  316,458 佐喜真淳 無新 =自公維希

  開票100%
投票率は63.24%だった。これは前回選を0.89ポイント下回った。ということだ。

投票行動の組織率を示す期日前投票だが、5日前で全体の約2割に当たる1万6千票まで達した。これは4年前の知事選と比べて2.4倍多い。これまでにまして組織選であったことが分かる。

創価学会は本土から約5千人を沖縄入りさせた。彼らは学会員や自民党員を投票所へ連れて行く役割を負わされている。そのため、選挙期間中の沖縄のレンタカー予約はたくさんの学会員で埋まっている (アエラ)

それを考えると、「玉城氏が世論調査などでは終始リードし、そのまま、逃げ切って当選」という経過は非常にわかりにくい。

ガチガチの組織戦で、しかも組織票は自公が圧倒している。なのに終始玉城優勢だったというのはどういうことだ。

キャンペーンが勝敗を分けた?

キャンペーンを見ていると、出足の良さは弔い、タマ良し、アムロ良しということになろうが、これでは息切れするはずだ。

私が選対なら、デニーへの個人攻撃・中傷を徹底してやる。タレント上がりに任せられるか、あとはデニーの特異な生い立ちを使って過去を根掘り葉掘りと陰険に掘り出していく、週刊文春の得意技だ。場合によってはアムロいじりも辞さない。

ところが、この空中戦が功を奏さなかったばかりか、逆効果になった可能性がある。

出口調査の非公式な集計だが、玉城候補は無党派層や女性からの多くの支持を得たという。
また支持政党別の投票先では、無党派層の7割が玉城氏に投票した。
もちろん立憲、共産、社民の各支持層はほとんどが玉城氏に入れていた。

つまり、風は最初から最後まで玉城側に吹いていた。ただの風ではない。国家権力が総掛かりでねじ込んでもかなわないほどの強風である。
そのさい、アムロの一言は強烈なメッセージになった可能性もある。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております
非政治的だが、非政治的であるがゆえに強烈だ。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは翁長さんのキャッチフレーズで、玉城さんも使ったようだ。激烈なイデオロギーを持ち込んでいるのは誰か、非政治的でオールオキナワ的なのはどちらか。それがアムロのメッセージで鮮明にされている。

逆風を招いた自民党のキャンペーン

地元選対の幹部はこう言っているという。
『対立から対話へ』キャンペーンはおかしい。チャレンジする側のスローガンではない。「女性の質の向上」発言も女性票を遠ざけた。菅長官の「携帯電話料金の4割引き」も、沖縄県民をバカにしているのかとの反発を生んだ。
おそらく現地の頭越しに中央でキャンペーン戦略がねられ、それがいちいち逆効果を及ぼした、ということらしい。つまりは中央のおごりと侮りが常につきまとったのである。

ある国会議員は、『沖縄の人たちはよく戦ってくれた』と話した。集団自決を知る沖縄の人は、本土の人がこういう“愛国漫談”をすると、トゲに触れたように敏感に反発する。
そのことがわかって自民・公明の支持者が逃げた。

デニー玉城+翁長一家のタッグ
翁長は死の直前、後事を託したい人物として指名した。翁長は玉城を「戦後沖縄の歴史を背負い、沖縄を象徴する政治家になる」と評した。
県幹部のひとりは、「意表を突く名前でしたが、すぐに『なるほど』と思いました。翁長さんの着眼には唸らされました」と語った。
沖縄タイムスの記者座談会では次のように語られている
小さな子どもたちが「デニー」と駆け寄る場面が印象的だった。ギターを片手に「ロック」音楽を熱唱した。
ラジオDJになる前の玉城さんは、福祉関係の仕事を努めた後、ロック歌手となりライブハウスで歌っていた。琉球放送に自分の番組を持つようになり、人気ラジオパーソナリティーとして活躍していた。その後さらに政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年には衆院議員に初当選している。
デニー
琉球新報は伝えている。
沖縄県知事選で玉城氏ほど、いわれのない多くの罵詈雑言を浴びせられた候補者がかつていただろうか。
ネット上では玉城氏に対する誹謗中傷やデマが拡散された。模範となるべき国会議員までが真偽不明の情報を発信した。
これに対して反撃に立ち上がったのが翁長前知事の妻、樹子さんだった。
政府があらゆる権力を行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。何なんですかこれは。…そんな人たちには負けたくない。私も一緒に戦う
デニー選対の青年局は、翁長知事の息子の雄治くんがしきった。彼の組織したSNS班がネット選挙を盛り上げた。それもデニーさんの勢いにつながった。

琉球新報社説
玉城氏が当選したことで、新基地建設に反対する沖縄県民の強固な意志が改めて鮮明になった。政府は、前回、今回と2度の知事選で明確に示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。
この期に及んで、なおも新基地を押しつけるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない。
自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか
ということで、最初の問いに戻る。もちろんまだ語るだけの材料は出てきていない。
しかし割れたことは間違いなさそうだ。公明党が割れたというのはありえない。ありえないから割れた人がニュースになるのだ。
自民党が割れたのだと考えざるを得ない。それは翁長さんと保守的保守の間にできた亀裂より、さらに右側に亀裂が入ったのであろう。

聽濤弘「200歳のマルクスなら、どう新しく共産主義を論じるか」という本を入手した。

サラサラと読んでいこうかと思ったが、なかなか面白そうなので、メモを取りながら読んでいくことにする。

「未来社会論を語ること」の重要性

非マルクス主義者は「資本主義の歴史的終焉」を唱えている。しかしマルクス主義者もソ連崩壊後は未来社会を描けなくなっている。

こういう状況の中で(分からないなりに)未来社会論を語ることは重要である。その際に「マルクスが生きていたらどう考えるだろう」という視点が大事だ。
それは20世紀に歪められた社会主義の議論を取っ払うことになる。

ということなので、「マルクスに帰れ」という呼びかけにも聞こえる。ことは個人個人のマルクス観と関わってくる。なかなかしんどい話だ。あまり恣意的にならないように気をつけながら進むことにしよう。

「相対主義」について
聽濤さんは、「究極の真理を一方だけが知っているということは弁証法的にはありえません」という主張を紹介し、「やはり相対主義では社会は変えられない」と結論する。
これは納得できない。
真理は諸個人の間で相対的であるだけでなく、むしろこちらの方が重要なのだが、時の流れの中で相対的なのである。
それを前提として99%以上の確実性と再現性を持てば真実であるとしてよいだろうと思う。真実というのは意味のある事実なので、さらに相対的である。
往々にして混乱するのは事実が知られていない、あるいは隠されている場合である。
もう一つ問題はウソと言い逃れだ。「それはあなたの意見に過ぎない」というのは詭弁だ。後はウソとデマと悪意だ。我々が見抜かなければならないのはそこなのではないか。
マルクスのモットーは「すべてのものは疑いうる」である。これが唯物論者の態度である。

へーゲル弁証法について
ヘーゲル弁証法は物事を「矛盾の統一」と捉え、そこで起こる相克によって新しいものが生まれると説く。絶対真理ではなく相対真理をまずつかみ、それを通して絶対的真理に近づいていこうという論理思考である。
うーむ、微妙に的を外している気がする。「ヘーゲルの」といえばそうかもしれないが、マルクスの弁証法はたんなる論理学ではなく実在のあり方を説明した体系なのではないか。
私はフィヒテ・シェリングの物自体をめぐる議論のなかに弁証法の真骨頂を見ている。
自然弁証法について、最も基本となる矛盾は存在と運動の矛盾である。両者はエネルギーの中に統一体となっている。そこにおいては時間の絶対性が前提とされている。2つの存在の二項対立みたいな話は、それ自体が形而上学である。
もう一つ、運動が存在となるためには熱力学の法則が要求される。これについては目下、必要だという以上のことはよくわからない。

アソシエーション論
「資本主義を克服したあとには、個人の自由な発展が万人の自由な発展に貼るような連合体(アソシエーション)が現れる」でOKというのは何も言っていないに等しい。
これについてはまったくの同感。
ただしアソシエーションというのはたんなる仲良しクラブではなくプルードン主義者への毒をふくんでいることに注意が必要だ。


マルクス未来社会論の原点
聽濤さんはかなりユニークな提案をしている。
共産主義が低い段階で私的所有の廃止を内容としているのに対し、社会主義はそれを成し遂げたあとの自生的な社会形態だと言う。それはマルクスが経哲手稿の中で主張している中身だという。
これは新たな発見なのだろうか。

経哲手稿はまことに難解な書物で、まず誰が言っているのかをはっきりさせていかないと、マルクスが批判していることをマルクスの主張のように受け止めかねない。
哲学に関する手稿
少なくとも三人の主張が並行して進んでいく。すなわちまずヘーゲルの主張、ついでそれに対するフォイエルバッハの批判、そして概ね肯定的にフォイエルバッハを受け止めつつ、ときにマルクスの自説が顔を覗かせる。
ところが話を進めていくうちに、どうもそうではなくなってくる。「あれっ、これってヘーゲルのほうがいいじゃん」みたいになってきて、フォイエルバッハより自分の意見のほうが前面に出てくる。
経済学に関する手稿
こちらは論理構造はそれほど難しくない。ミル評注で獲得した経済学の知識をヘーゲル的論理に基づいて整序しているだけだ。
基本的には青年ヘーゲル派の主張にとどまっていると見ておくべきだと思う。なにせ2月革命の直前だ。世の中不穏な空気に包まれている。時代の空気をいっぱいに吸って「造反有理」の精神で満ち溢れていたと考えるべきだ。
これにサンシモンやオーウェンの社会主義が乗っかっていると見てさほどのズレはなかろうと思う。

当面するライバル プルードン

なぜマルクスがジェームス・ミルを一生懸命勉強したか。それは社会主義者プルードンと論争するためだ。

論争と言ってもパリに出てきたばかりのマルクスにとっては、プルードンはライバルと言うより尊敬すべき先輩だったに違いない。

ただ目指すものの違いは間もなく明らかになった。マルクスは革命をやりたかった。プルードンはもう少し地に足のついた改革をしたかったし、政治権力の打倒は念頭になかった。

もちろんマルクスとて社会主義を否定するものではないが、その前にやることがある。
それが私的所有をめぐる対立として浮き彫りにされた。と言っても浮き彫りにしたのはマルクスで、プルードンからすれば難癖つけられているように思ったかもしれない。

正直言って、マルクスが聽濤さんの言うように主張しているのかどうかはわからない。いろいろな解説書を読んだがそのように読み解いている本を見たことがないので、なんともいいかねる。

ただ下世話にプルードンとの関係を推理すれば、「マルクスの共産主義と社会主義」は、上記のように使い分けられていたのではないかと推測される。

エンゲルスは共産党宣言の序文(1890)で、「1847年には、社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」と言っている。

まぁ、ぶっちゃけた話、そういうことだ。(ぶっちゃけ過ぎだが…)

共産主義の3つの形態

これは左翼の諸潮流をマルクスなりに整理したものに過ぎない。しかも自派の説明は悲しいまでに思弁的で、端的に言えば無内容である。

次に来る社会のスケッチは否応なしに現世と対比して語られざるを得ない。ところが現世の把握はああまりに観念的で情緒的である。

この現世の把握、過去の時代からの変化を前提にした、「未来社会」の弁証法は、この後もかなり揺れている。というより揺れ続けている。

中でももっとも拙劣で形而上学的なのが「経済学批判序説」の時代区分である。だからスターリン学派に重用されたのであろう。

しかし彼の興味の中心は常に「私的所有の廃棄」にあった。マルクス主義者である以上、未来社会を語るにおいて、ここだけは外せないだろうと思う。

この辺については佐藤金三郎さんの「資本論研究序説」が非常に説得的である。

このあと聽濤さんの文章はプルードンとの関係に移っていく。これは私も以前書いていて、非常に気になるところである。しっかり勉強させてもらおうと思う。



土偶の歴史
土偶の概念をすこし整理しておく。
土偶は「縄文的生き方」の象徴と考えられる。
土偶は、人間(特に女性)を模して作られたもので、縄文時代に日本全土で作成された(沖縄を除く)
土偶は時期的にも地域的にも偏りがあり、北方に集中している。これは土偶文化がマンモス人の系統に支えられたものであることを示唆している。

という文章からいくつかのポイントを抜き出しておく。
①土偶の顔
土偶の顔は稚拙というのではなく、意識的に平面化された様式を持っている。それは早期のものから晩期に至るまで一貫している。これは仮面を表すものと思われる。
土偶と同じように土製の仮面が出土する。とくに後期~晩期の東日本に多く出土するようだ。
人間の顔と同じぐらいの大きさで、左右に紐を通すための穴があいているものもある。
②女性シャーマンがモデルか
千葉県さら坊貝塚で、鉢を被せ葬られた人骨が発見されている。
縄文時代中期後葉の中年女性の遺骨で、左腕に、おそらくはシャーマンのシンボルである貝輪をはめている。
③北方文化と女性信仰
女性信仰は農耕社会と結び付けられることが多い。
狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーも兼ねるのが一般的である。しかし農耕・牧畜社会への移行過程で女性の憑霊型シャーマン(天照大神)が出現する。これは男性の祭司的首長と権力分担する。
④土偶とつながる北方文化
土偶は北部ユーラシアの旧石器時代にみられる、いわゆる「ヴィーナス像」の系譜を受け継いでいる。そこにはなんらかの女神崇拝があった。それは処女ではなく母性の象徴である。


ということで、下の図は国立歴史民俗博物館の10641件のデータに基づいて時代別、地域別分類を行ったものである(縄文と古代文明を探求しよう!より転載)
出土分類2
説明文の中で、
都道府県別では岩手県2152個(21.5%)、長野県1140個(11.4%)、山梨県938個(9.4%)となっています。
と書かれていた。意外だった。
私なりにこの図を読み込むと、
1.草創期より存在しているが、紀元前3千年(中期)になって土偶爆発がもたらされた。
2.震源地は東北と考えられ、この土偶文化を持った人々が一気に関東・中部に広がり、土偶(がらみの)信仰を展開した。
3.紀元前2千年以降(後期)では中部の減少と東北の増多が著明である。日本列島の温暖化により居住域が全体として北方へシフトしたのであろうか。
4.紀元前1千年(晩期)になると北方シフトはさらに進み、東北が全出土の過半数を占めるようになる。
5.この時期にこれまで土偶と無縁だった九州四国での出土が増えるが、これは気候では説明がつかない現象である。
 

1万1,000年前(草創期) 三重県松阪市、滋賀県東近江市で最古の土偶。

紀元前8千~7千年(早期前半) 関東東部に定住生活の始まりと一致して土偶が出現。逆三角形や胴部中程がくびれた土偶。

紀元前6千年(早期後半) 東海地方にまで土偶の分布が広がる。

紀元前5千年(前期) ほぼ同様の場所で板状土偶が発達する。

紀元前4千年(前期後半) 顔の表情豊かな土偶が、東海地方から関東地方までの東日本に出現。

紀元前3千400年(中期初頭) 土偶が大きく立体的になる。デザインも複雑となる。四肢・頭部の表現がはっきりし、土偶自体が自立するようになる。 

紀元前3千年(中期前葉) 長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」が新型土偶の到達点。
棚畑遺跡
       縄文のビーナス(棚畑遺跡出土)

紀元前2700年ころ(中期後半) 長野県坂上遺跡出土の土偶
坂上遺跡
           坂上遺跡出土

紀元前2500年(中期の終わりないし後期の始まり) 一旦土偶は消失。この頃寒気のため人口の減少が見られる。 

紀元前2500年(後期初頭) 九州北部~中部に新たに出現。本州の土偶の延長と見られ、寒冷化に伴い縄文人が水平移動したことを示唆する。 しかし西日本を飛び越えて九州という理由はわからない。

紀元前2千年ころ(後期前半) 宮城から神奈川にかけて広く東日本全体に出土。壊さないタイプの土偶が主体となる。

紀元前1500年(後期後半)青森県風張1遺跡の坐像  
青森県風張1遺跡
      青森県風張1遺跡

紀元前1千年(後期~晩期) 山形土偶やミミズク土偶、遮光器土偶(青森県亀ケ岡のものが有名)など。

紀元前1千年ころ(晩期前半) 九州北部を中心に土偶が大量に見出される。 

紀元前4世紀ころ(晩期後半) 九州北部で水田の普及に伴い土偶が激減。環濠集落が出現する頃には消失する(板付遺跡) 

紀元500年 東北地方では、弥生時代前期まで製作。中期から衰退し、後期には消滅。 


日本人の三層構造は今や常識

細かいところではいろいろあるのだが、日本人が重層的に形成されてきたことは疑いのない事実である。
それは第一に縄文人であり、第二に弥生人であり、第三に天孫族である。
ただし第三の渡来人の呼称、渡来の時期、朝鮮半島の人々との関係はまだ確定はしていない。
しかしこれまで弥生人として一括されてきた渡来人が、あらゆる点から見て異なる出自であることは確認されている。

縄文人の源流 2つの旧石器人

これが基本であるが、最近の考古学的知見からは縄文人が少なくとも2つの出自を持つことが明らかになっている。

最初の渡来人は3万8千年前、南方系のナウマン象を追って朝鮮半島からやってきた。
彼らの足跡は関東甲信越を中心に分布している。ここでは彼らをナウマン人と呼ぶ。

ナウマン象そのものは、30万年前に朝鮮から渡来し、その北限は北海道まで及んでいる。
しかしナウマン人の足跡は青函海峡を越えない。

3万年前ころに寒冷期がやってくる。

南方系のナウマンゾウは絶滅した。それと入れ替わるように北からマンモス象が南下した。そしてマンモスハンターもやってきた。

マンモスは青函海峡を越えなかった。しかしマンモス人は越えた。もっと温かいところを目指した。そしておそらく津軽地方でナウマン人と出会った。

2つの文化のハイブリッドが生まれた。それは縄文文化を生む土台となった。

旧石器人から縄文人へ

寒冷気候が卓越する下で、人口では北からのマンモス人が優越した。DNA的にはおよそ4対1である。
1万2千年前に生まれた縄文土器も北の影響が強いと思われる。

一方、主たる生活の糧である象や大型獣がいなくなる中で、狩猟のスタイルが落とし穴へと変更を迫られた。
狩猟だけに頼らない木の実の採集、小規模な漁業も試みられた。
それはナウマンゾウ絶滅後にナウマン人が手に入れた、生き残りのノウハウである。

気候の激変、生産・生活の激変、2つの旧石器人グループの出会いにより縄文人が誕生した。

その頃に日本列島はアジア大陸から切り離され孤立化した。
このために日本には独自の人種による独自の文化が発達し始めた。旧石器人はそのまま縄文人へと移行した。

縄文人の全国展開

縄文人の全国展開は、マンモス人が全国進出しつつ現地のナウマン人と混淆し、縄文文化を拡大していく過程であろう。

縄文文化が全国レベルで成立したのは紀元前5千年ころである。ほぼ均質な漁撈・採集・狩猟のスタイルが広がった。
縄文文化の最盛期は3千年に渡り続くが、その後弥生人の渡来までは徐々に衰退していく。

この3千年をどう亜区分していくかは今後の課題であるが、注目されているのは土偶の分布・意味合いの変化である。
これは弥生時代における銅鐸の分布・意味合いの変化と照応する。

晩期縄文人は縄文人か

他在としては渡来した弥生人と共存した縄文人である。しかし「蝦夷の地が最終的に消滅するまでは共存時代だ」と言うのも引っ張り過ぎだろう。

諸研究では紀元前1千年から始まり、わずか300年で弥生時代ということになっている。つまり九州や中国地方の縄文人が渡来人を受容した時代ということになる。

であれば、彼らは後期縄文人である。その中で、その時期にその場所に住んでいて、渡来人を受け入れ、自らも変容した人々、というふうに狭く考えたほうが良い。




エル・システマの国ベネズエラ なぜ“人権抑圧”と非難されるのか

ある新聞ではベネズエラは人権を抑圧し、表現の自由を認めず、医薬品も与えない。そのために多くの人々がいのちの危険にさらされ、国を逃げ出している…と書き立てています。
果たしてそうでしょうか。
私達は文章やデータでも、それらが根拠のないデマだと証明できます。
しかしそれより前に、私達はベネズエラの人たちの真心を示すことで、「そんなことはありえない」と証明することができます。

それがエル・システマの活動です。

これまでずっとベネズエラでは貧しい人たちは教育や医療、文化や芸術から遠ざけられきました。
20年前、「それは間違いだ。貧しい人たちにも文字や薬やバイオリンが必要なんだ」と叫んで大統領になった人がいます。それがチャベスという人です。

彼は石油のバルブを左に、民衆の側に開きました。こうしてエル・システマという音楽教育のシステムが花咲きました。
そして貧しい子どもたちによる世界的なオーケストラが出来上がりました。

お金持ちは、「そんなことはバラマキだ」といって民衆の側にたった政治、教育、医療をやめさせようとしました。そんなことをするから経済がおかしくなるのだと言うのです。
そしてお金持ちの意見を聞かない政治は民主主義ではないと批判し、暴力的な攻撃を繰り返しました。

考えてみてください。“お金持ちの意見を聞かない政治は民主主義ではない”のでしょうか。
それは逆でしょう。
お金持ちの意見を聞かない政治こそ民主主義でしょう。強いものに味方はいらない、弱いものにこそ政治は寄り添わなくてはいけないのです。

あなたはエル・システマを支持しますか? そして「そんなことはバラマキだ」という意見をきっぱりと拒否できますか?

ぜひそうしてください。私達はお金持ちがお金持ちであることに別にこだわりませんが、貧しい人が惨めであることは許せません。なぜなら私達がお金持ちになる確率は1億分の1ですが、貧乏になる確率はいつも2分の1だからです。



1975年 経済学者で音楽家のホセ・アントニオ・アブレウが「音楽の社会運動」をはじめた。
最初の活動はカラカス市街の地下駐車場スペースに集まり共にアンサンブルを演奏することだった。
その時に運動を支えるボランティア・システムとして、エル・システマが創設された。

「音楽の社会運動」というのは、平ったく言えば「音楽で子どもたちを貧困と犯罪から救う」こと、そのために「エル・システマを暴力から隔絶されたサンクチュアリーにする」ことである。
アブレウの考え: 音楽は最も高度な価値、連帯、調和、相互の思いやりと言ったものをもたらす。それは全共同体を統一させる能力と、崇高な感情を表現する能力を持つ。
だから音楽は、社会の発展の要因として認識されなければならない。
1979年 日本人ヴァイオリニスト小林武史がスズキ・メソードに基づいて指導を開始する。
現在は国家が支援する財団であり、正式名称は「ベネズエラの児童及び青少年オーケストラの国民的システムのための国家財団」と呼ばれる。
200のユース・オーケストラと、それらに演奏技術を身につけされる器楽練習プログラムを担っている。
過去 30 年で100 万人の子供たちが活動に加わった。いまも30万人の子どもたちが練習に参加しているが、その70%は貧困層の出身である。
2007年 チャベス大統領は参加者を100万人に増やすプログラム「音楽の使命(Misión Música)」を発表した。
彼はエル・システマを監督するのではなく、貧困層への補助とサービスの拡大と並行させるようにした。
2007年 米州開発銀行(IDB)はベネズエラの音楽教育システムを経済的に評価した。
エル・システマが教育してきた200万人以上の若者の調査を実施し、学校での落ちこぼれと犯罪による経済的損失とを秤にかけた。
エル・システマへの投資は、1ドルあたり1.68ドルも社会に還元されているという結果が導き出された。
エル・システマの成功は世界に広がり、60以上の国・地域で音楽による地域青少年活動が取り組まれている。

シモン・ボリバル・オーケストラ
話はやや複雑である。
最初に作られた選抜メンバーによるオーケストラは「国立青少年オーケストラ」である。
しかしここを卒業した音楽家が成長してきたとき、「シモン・ボリバル・オーケストラ」が結成された。これは現在も活動しているが、最近になって国立青少年オーケストラから移った年少のメンバーが、もう一つのオーケストラを結成した。
このために、従来からのシニアオーケストラは「シモン・ボリバルA」と呼ばれるようになり、ジュニアのほうが「シモン・ボリバルB」と呼ばれるようになった。
つまり125のユース・オーケストラの上に、全国規模の選抜オーケストラが、3つあるのである。
2007年に世界ツアーをおこない、センセーショナルな歓迎を受けたのは「シモン・ボリバルB」である。

追加 ちょっと嫌なこと
オーケストラの指揮者だったドゥダメルがベネズエラ国籍を捨てスペイン人女性と結婚したと言う。人間誰でも豊かになりたいし、その権利はある。
彼はエル・システマを擁護することで国際メディアの十字砲火を浴びていた。そのことは十分同情に値する。しかし貧しい人たちを足蹴にする権利はないだろうと思う。
とにかく世の中ひっくり返っている。


対中制裁もイランやトルコの制裁もベネズエラ制裁も根は一つだ。
アメリカの野蛮な世界制覇の試みに対して、断固として反対しなければならない。
アメリカが新興国をやっつけるときに「民主主義」を持ち出すのは常套手段だ。
しかしアメリカは決して民主的な国ではない。
平等の国でもないし、平和の国でもないし、寛容な国でもないし、進歩的な国でもない。
さらにあえて言うなら、知性的な国でもない。

世界の人々にとって、アメリカの一国主義こそが最も主要な危険になっている。アメリカの一国主義を許さなず、多国間主義にもとづき、正義の共同・統一を目指すことが、最も差し迫った課題となっている。

自由と平等、平和と民主主義、格差の解消という目標に向けて何が必要かを考えよう。その観点からさまざまな国の政策や姿勢を判断しよう。
メディアがある国の「民主主義」について度外れのキャンペーンを始めたとき、その背景に何があるかを冷静に考えることが必要だ。我々はそれで何度も痛い目にあってきた。
ルムンバ、キューバ、ベトコン、ジャカルタ、チリ、コントラ…
アメリカの仕掛けた「民主主義」キャンペーンに、決して踊らされるな!
最小抵抗線で逃げようとするな。正義と真実、民族自決の精神にもとづいて連帯しよう。
これが、現在最も大事な視点である。


宗全以前の山名氏

(煩雑を避けるためできるだけ個人名は省略した)

新田氏一門の義範が上野国山名郷を本貫として山名三郎と名乗った。
源頼朝に従って御家人となり、伊豆の国主に推挙される。

1337年(建武4年) 南北朝時代、山名氏は縁戚の足利尊氏に従い、室町幕府において伯耆国の守護に任じられた。四職家の一つに数えられる。

 室町幕府の重臣は三管領(かんれい)、四職(ししき)と呼ばれた。三管領(かんれい)は斯波氏、細川氏、畠山氏。四職(ししき)は赤松氏、京極氏、一色氏、山名氏が任命される。


全国制覇で戦功を上げた山名氏一族は、丹後・伯耆、紀伊、因幡、丹波・山城・和泉、美作・但馬・備後の守護となり、全国66か国のうち11か国を守ることになる。

1390年(元中7年) 最初の継承紛争。将軍・足利義満の命を得て、惣領の時煕(宗全の父)が放逐される。

1391年(明徳2年) 明徳の乱が発生。将軍義満、時煕を許し惣領に戻す。これに怒った反時煕派が謀反。一時京都を制圧したが、最終的に敗れる。山名氏の守護領地は但馬、伯耆、因幡のみとなる。

応永6年(1399年) 応永の乱が発生。戦功を上げた山名時煕は備後・安芸・石見の3か国の守護職を獲得。

1404年(応永11年) 山名宗全、山名時熙の3男持豊として生まれる。

1428年 時熙が重病になり持豊を後継に指名。6代将軍義教がみずからの側近であった次兄持熙の後継を命令。時熙の病状が回復し後継問題は保留となる。

1430年 細川勝元が生まれる。宗全より26歳の年下。細川氏は畿内、四国、山陽を支配する。

1431年 持豊の次兄持熙、将軍の勘気を受けて廃嫡。このため持豊が後継となることで決着。

1435年 時熙の死。持豊は但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる。

1437年 次兄持熙が相続を不満とし備後で挙兵。持豊はこれを鎮圧。


山名宗全の時代
1441年(嘉吉元年)6月24日 播磨・備前・美作守護を勤める赤松氏が第6代将軍義教を殺害。同席した持豊は脱出に成功。

8月 持豊、但馬から赤松領の播磨へ侵攻し反乱を鎮圧。播磨をあわせ5カ国の守護となる。さらに山名一族で石見、美作、伯耆、備前、因幡の守護職を領有する。

1442年 山名持豊、出家して宗全と号す。以後すべて宗全と記載。

1445年 細川勝元が16歳で管領に就任。以後死ぬまで通算23年間も管領職を勤める。

1447年 細川勝元、持豊の養女を正室に迎える。宗全を舅とする関係になる。
そもそも細川氏にとって最大のライバルは同じ管領家の畠山氏だった。畠山に対抗するために山名氏に接近した。

1448年 幕府最大の実力者畠山持国、後継者を弟の畠山持富から庶子・畠山義就に変更。将軍はこの変更を認めるが、細川勝元・山名宗全らは持富を支持する。

1454年 畠山氏で家督をめぐる内紛が起こる。細川勝元は宗全と手を結び、当主持国の実子義就を追放に追い込む。このあと細川・山名連合が幕政の頂点に立つ。

1454年11月 足利義政、赤松氏の再興を認める。山名はこれに猛烈に反対し、将軍の不興を買う。宗全退治を命じられるが、細川勝元の取り成しで一時隠退することで事態を収拾。但馬に隠居となる。

1454年11月 赤松の一族が播摩で山名氏を攻撃。宗全は但馬から出兵して赤松軍を破る。

1458年 宗全、赦免されて再び上洛、幕政に復帰する。

1459年 関東で享徳の乱が発生。斯波氏は総大将に任じられるが動かず。

1460年9月 畠山氏の後継紛争が再燃。将軍義政が一度失脚した実子の義就を復活させる。細川氏はこれをさらに逆転し、政長に家督を与える。

1460年 義就は排除に抗議し嶽山城に一時籠城する。

1462年 山名宗全の次男の是豊、細川氏の引き立てを受け備後・安芸守護に任命される。2年後に山城守護も兼ねる。
この頃から細川氏は宗全に対する警戒心を強め、親子の離間を図るようになる。

1464年 細川勝元、管領を辞し、畠山政長に禅譲。

1465年(寛正6年) 足利義政の正室日野富子、実子の足利義尚を出産。将来の将軍職を望み山名宗全に接近する。義政は弟義視に将軍位の禅譲の意向だったが態度を変更。

1465年 宗全も細川勝元を警戒、畠山義就・斯波義廉らと結託して細川氏の打倒に乗り出す。

1466年(文正1)

9月 文正(ぶんしょう)の政変。将軍の側近が斯波家の相続に介入。さらに足利義視の暗殺を企画したという。宗全と細川は連携し、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる。

12月 山名氏の支援を受けた畠山義就が挙兵し、大和から入京する。宗全は義就を将軍と対面させ、家督につける。その一方で現職管領の畠山政長が追放される。これは宗全の細川氏に対する公然たる挑戦である。

さらに宗全は、将軍家に強要して斯波義廉を越前、尾張、遠江3国の守護職につける。

宗全の横紙破りにより、細川連合と山名連合との対決の様相を呈する。細川連合は足利義視を担ぎ、山名連合は足利義尚を担ぐ。

応仁戦争の時代
1467年(応仁元年)

1月18日 御霊(ごりょう)合戦。宗全に追放された畠山政長が細川氏の支援を受け反乱。戦闘は半日で義就の勝利に終わり、政長は勝元邸に逃げ込む。これを機に応仁の乱が発生。

4月 細川勝元は領地9カ国の兵を京都へ集結させる。宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。宗全は自軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。東軍は10万を結集。京極氏、赤松氏、武田氏も加わる。西軍は9万を結集。六角氏、一色氏が加わる。

5月26日 「上京の戦い」が始まる。東軍が上京で一斉攻撃。将軍・天皇らを確保する。午後からは西軍が反撃。

8月 周防から上洛した大内氏の軍が西軍に合流。伊予の河野通春ら水軍も動員し西軍が勢いを盛り返す。

10月3日 相国寺の戦い。このあと東軍は劣勢に立たされ洛外で抵抗を続ける。

1468年

7月 足利義政、管領の斯波義廉を解任し、勝元を管領に任命する。

9月 足利義政、義視の排除と実子の義尚擁立に動く。義視は幕府を逃れ西軍に就く。

11月 義視を長とする西幕府が成立。有力守護による合議制の下、義視が発令することとなる。

1469年

4月 西岡の戦い。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城はほぼ制圧される。この後戦線は膠着し、厭戦気分が広がる。

1470年

2月 大内氏の地元で政弘の叔父教幸が反乱を起こす。

1471年(文明3年)

5月 西軍の主力となっていた朝倉孝景が東軍側に寝返る。これにより西軍不利に繋がる。

1472年

3月 勝元と宗全の双方から和解の動き。すでに当事者能力を失い、周辺の勢力の反対を押しきれず。

5月 宗全は自害を試みる。

1473年

3月18日 西軍司令官の山名宗全(持豊)が病没。享年70歳であった。

5月11日 東軍司令官の細川勝元が病没。

12月 義政が致仕、義尚が将軍となる。畠山政長が管領に就任。

1474年
4月 山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃。
1477年(文明9年)
11月11日 応仁の乱が終結。和睦の結果、義尚が9代将軍を継ぐ。

11月 大内政弘、周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵され撤収。西軍は事実上解体される。



ウィキペディアから「応仁の乱」年表を作成しようとしたが、説明が詳しすぎる。すこし簡単なものからはじめてあらすじを理解した上でウィキに戻ろうと考えている。

作業を始めて2時間のところで、一つヒントが湧いてきた。
この内戦は4筋の戦いがある。
第一に8代将軍足利義政の跡取りをめぐる戦いで、一方が弟の義視、もう一方が実子の義尚である。
第二に足利政権の幹部の勢力争いで、一方が伝統の細川氏、もう一方が新興の山名氏である。
第三に三管領の一つ畠山氏の後継者争いで、一方が養子の畠山政長、もう一方が実子の義就である。
第四は同じく管領の斯波氏の後継者争いで、一方が先代実子の斯波義寛、もう一方が養子の斯波義廉である

応仁の乱というのは一言で言えば複合戦争である。さまざまな流れが1点に集中して、轟音を轟かせなから駆けぬいていく時代である。
この4本筋のうち、どれにどのように比重をおいていくかということで、いかようにも料理される。しかし私達は諸英雄を生み出した応仁という時代を理解しなければならないのではないか。

今のところ私が思い描いているのは、細川・山名戦争主軸論である。戦闘の流れを見つめていると、畠山の闘いが非常にクローズアップされてくるようだが、歴史のトレンドということで言うと、鎌倉以来の古い武家社会に代わって、山名宗全が新しい武家社会のあり方を示しているように思える。
基本的には山名の赤入道は、孤立した闘いをしている。味方と言ってもみな味方に引き入れた連中ばかりだ。
足利政権、管領を頂点とする支配システムを敵に回してさんざん鼻面を引き回している。

どうせ年表を作るのなら、「応仁の乱」年表を作るより「山名宗全年表」を作ったほうがはるかに面白そうだ。

さらに調べていくと、応仁の乱が始まる半年前、1466年の終わり頃にさまざまな流れが一挙に一本化することに気づく。
それを強引にまとめたのは、実は山名宗全である。先ほどの4本筋は宗全のもとで一本化されている。それが5月の内戦開始へとなだれ込んでいくという流れになっている。
ところが、ここまで力を発揮した宗全が、内戦勃発後は後景に霞んでいく。これがよくわからない。
どうも一触即発のところまでは持っていっても、ガチンコまでやる気はなかったのではないかという気がしてくる。
ウィキの応仁の乱の項目にも、山名宗全の項目にもこの「空白の3ヶ月」はあまり触れられていない。もう少し調べるか、あまりに膨大な事実の山並みに少々怖気づいている。

ヌルボさん、コメントありがとうございます。
ミスそのものは些細なもので、さっそく訂正させていただきました。
というよりもう20年も前に作った年表にいまでもこれだけ注目されているんだなぁということがわかって、なにか生きていてよかったなぁとしみじみしています。アルコールのせいもあるかもしれません。
前から朝鮮年表はそれなりに注目されていました。
もちろん例によってだらしない年表で、出典を明らかにしていないのでフェイクも拾っている可能性があります。
戦前の年表(いわゆるゼロ年表)はわれながら労作だと思いますが、その分、引用するにあたっては裏取りしていただかなければなりません。
1950年~53年の朝鮮戦争時代はもう少し刈り込んでいかないと、読むのは辛いと思います。米軍の戦記に児島襄とコンデといくつかの戦記物を合わせるとこんなになってしまいました。
やはり軍事行動については別の年表に追い込むべきだろうといまでも反省しています。
一時、私の年表がネトウヨの論拠になってしまったことがあり、これも反省しています。

私の一番言いたかったことは朝鮮共産党の闘いの伝統は埋もれさせてはならないということ、ただ戦後史の中ではその伝統は金日成とスターリンに盗まれてしまったこと、北の影響を受けて歪められながらも、社会主義思想が太い底流となって87年民主化へとつながっていったこと、その後の右翼潮流の巻き返しにもかかわらず、民主各派の分裂と混乱にもかかわらず、韓国左翼が輝きを失わずに来ているのは、日本帝国主義との闘いを貫いた民族左翼の伝統が息づいているためであろうと言うことです。


韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   

韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)     北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降) 

これが、その記事。
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おそらくニューヨーク・タイムズのスクープ記事がきっかけになって、このままでは少し具合が悪いということに気づいたのではないか。(NYタイムズが明らかにしたベネズエラ・クーデターの陰謀

リーマンショックから10年、いま世界の流れの焦点は、アメリカを拠点とする巨大資本による新興国からの収奪にある。トランプ政権の本質はこれら巨大資本の攻勢の先陣を切ることにある。
GAFAを代表とするアメリカ巨大企業、情報リテラシーを利用した巨大投機資本がタッグを組んで新興国攻撃を仕掛けている。
そのターゲットは中国にあり、トルコにあり、イランにあり、ブラジルやアルゼンチンにある。貿易戦争を仕掛け、通貨で痛めつけ、懲罰的経済措置で新興国の持つ成長力を奪い取ろうとしている。
情報産業や投機資本が生み出す富は架空の富であり、どこかで実体の富の成長と交換されなければならない。それは新興国における実体経済の成長力しかない。
ベネズエラやトルコ、アルゼンチンは新興国を屈服させるための生けにえ・見せしめとなっているのだ。ここにベネズエラ問題の本質を見なければならない。大手通信社の尻馬に乗っている場合じゃないんですよ。
人類が生み出した巨大な寄生虫が地球と人類の持つ成長力を吸い尽くせば、大げさに言えば、世界は終末を迎えることになるのだ。これがマルクスの教えだ。


ニューヨーク・タイムズの記事はかなりの長編だ。
リンクだけ張っておく。

By Ernesto Londoño and Nicholas Casey
Sept. 8, 2018

これがメイン記事。

By Nicholas Casey and Ernesto Londoño
Sept. 8, 2018

これがベネズエラ政府側の反応を報じたフォロー記事。ベネズエラ政府の公式な反応についてはNYタイムズが明らかにしたベネズエラ・クーデターの陰謀を参照のこと

By The Editorial Board
Sept. 11, 2018

これが、報道を受けてのNYT社編集部の公式の立場。「赤旗」はこれに近いのかな。

その時何が起きたのか
いまだよくわからないところがある。報道記事だけが頼りなので、情報が錯綜しているところもある。どこがよくわからないのかは記事の中で明らかにしていく。

6日午前3時8分

地震発生。震度7という北海道ではじめての強度の地震が厚真発電所の真下で起こった。1分後に2号機、4号機(出力計130万キロワット)が緊急停止した。

午前3時25分
2号機、4号機が停止した後も稼働していた1号機(35万キロワット)が止まった。

このとき厚真火発の他に奈井江、知内、伊達の3火発が稼働していた(ともに2基中1基)。これら3基は急激な出力変化に耐えられず、自動停止した。これにより北海道内で稼働中のすべての発電機が停止し、ブラックアウト状態となった。

北電は、一部地区への電力供給を強制的に止めて需要を抑える「負荷遮断」を複数回実施した。しかし結局ブラックアウトに陥った。

ここで一休みして説明に入る。
厚真火発(輸入炭専焼)は道内需要量310万キロワットの半分以上の165万キロワットを供給するスーパー火発、言い換えればそれ自体が一極集中のヤバイ存在である。

ただし厚真だけが発電所ではない。以下世に倦む日日  ブラックアウトの謎より引用する。
北電の持つ水力発電所の設備は強大で、主な発電所だけで12ヵ所あり、その発電能力は全体で165万kWに達する。
北電管内の太陽光発電による発電量は132万kW、風力の発電量は38万kWあり、合わせて170万kWに達する。
つまり自然エネルギーによる発電量だけで、厚真発電所の電力生産量の2倍の規模に達する。
主要電源
      日刊「赤旗」より
これにプラスして火発がある。発電能力は以下の通り。
奈井江(石炭 最大35万KW)、知内(重油 最大70万KW)、伊達(重油 最大70万KW)。これは過旗報道によるもので、他については申し訳ないが調べていない。砂川が突如稼働したり、苫小牧が音無しのままだったりと分からないことも多い。
しかしかなりのものになると思う。したがって、いったん全面的な「負荷遮断」を行った上で逐次範囲を区切った再稼働を図るなら、数時間のうちに全面再開することは可能なはずだ。
世耕弘成経産相が大見得を切ったのもそういう計算を元にしていたのだろうと思う。それが当てが外れたのには何かウラがあるはずだ、と私は睨んでいる。


泊原発が危機一髪
6日午前3時25分 第1回目の全電源喪失。これにより冷却用プールの燃料棒を冷やせなくなった。非常用ディーゼル発電機6台を使って冷却は維持された。

いったん外部電源が確保されるが、ふたたび喪失。その後外部電源の喪失状態が続く。

午後1時 喪失から約9時間半後、外部電源が復活。水力発電所の電気を優先的に送り電源を確保したとされる。


ここで原発に関する説明

もし泊が稼働していたらどうなっただろうか、それは原発大好き人間が言うように「救い主」になっただろうか。いえいえそうではありません。
火力発電所が停止することで電力の需給バランスが崩れると、泊原発から発電された電力は「出口」を失う。普通の火発ならここでブレーキが掛かって緊急停止する。
しかし原発は止まらない。
原子炉内にはやがて蒸気がたまってくる。それを排出し、制御棒を注入して核反応を抑え、炉内を冷やすため冷却水を注入する。
これらの操作にはすべて外部電源が必要だ。(すみません、引用先忘れました)
震源地から100キロ、震度はわずか2であり、地震による直接的影響はない。停電による二次被害、すなわち人災である。危険なのは地盤ではなく、北電という会社の経営基盤、安全基盤、技術基盤の脆弱性なのだ。
原発派(大方、北電社内からだろう)のページにこんな記載があった。
泊原発1~3号機は運転を停止しており、原子炉内に核燃料は入っていない。非常用発電機は最低でも7日間稼働を続けることが可能だ。
原子炉に入っていないけれど冷却槽内には入っている。冷却槽がどこにあるかぐらい誰でも知っている。いまだにこんなダマシをしているんだ。我々はポストフクシマ世代なんだよ。



6日早朝 官邸で地震災害についての関係閣僚会議

朝8時 世耕経産相、「北海道電力に数時間での停電復旧を指示」と報道。結局約束は実現せず。

60万キロワットを送ることが可能な本州からの支援ケーブル、系統電源の喪失により自動停止していることが判明。系統電源とは送電のために必要な電源で、北電から供給されなければならない。

6日午後12時 北電が記者会見。水力発電を動かし、火発を順次稼働させると発表。厚真発電所の修復に一週間を要するため、この間道民に節電を要請する。

午後4時 砂川発電所を動かし始め、全体の11%への供給を回復。

6日午後4時 北電の真弓明彦社長が会見。「すべての電源が停止してしまうのは極めてレアなケースだと思う」と述べ、失笑をかう。また緊急停電対応については「あまりに強い揺れで急激な供給力の喪失があったため、間に合わなかった」と説明したそうだ。
17分あれば、揺れが収まってからトイレまで行って便座を上げてスボンを下げてパンツを下げて便座にまたがる暇はあるだろう。「間に合わなかった」という表現が遅刻した学生の言い訳みたいで、思わず苦笑してしまう。

道民の一人として、このときのムカつくような怒りを共有している。夕方くらいまでには直ると思ってたから「おいおい、大丈夫かよ」という感じだ。しかもこいつらまったく「済まない」などとは思っていない、「すみませんが節電に協力してください」という“すみません”しか言ってない。
「きわめてレアなケース」ではなく「あってはならないケース」なのだ。百歩譲って「きわめてレアなケース」だったとしても、それはこちらの言うセリフで、北電側には「きわめてレアなケース」が何故起きてしまったのかを説明する義務があるはずだ。なぜならそれは「レアなミス」なのであり、あなたが起こしたミスだからだ。
医者はミスを犯したときの対応について、40年も前からそのように教育されている。
暗闇の狸小路
     暗闇を迎えた狸小路 スマートホンが道を照らす
7日 原発再稼働派の池田信夫、「大停電の再発を防ぐには、泊原発の再稼動が不可欠だ」と主張。ホリエモンこと堀江貴文も「これはひどい。泊原発再稼働させんと」とツィッター。電源喪失の情報は東京では伏せられていたのだろうか。

8日 北海道電力の真弓明彦社長が記者会見。供給電力は350万キロワットまで回復したがピークに比べ1割不足しており、計画停電を検討していると発表。

11日 厚真発電所の点検結果と復旧の見通しを公表。1号機はボイラー管2本の破損、2号機はボイラー管11本が損傷。タービンから出火した4号機は冷却後に点検予定。

12日夜 経産省、北海道停電について「速やかに検証に着手したい」と改めて表明。経済産業省の認可団体「電力広域的運営推進機関」などから停電前後のデータ提出を受けるとする。

14日 北海道電力の真弓明彦社長が「謝罪」会見。ブラックアウトまでの経緯については「検証中」とする。経産省の出方を見ながら小出しに「謝罪」をしているが、本気度ゼロ。

15日 発電機が耐震基準上、最低の震度5相当だったことが判明。東日本大震災後、社内で耐震基準の見直しを議論し、「変更は不要」との結論をだしたという。

19日 苫東厚真火力発電所の1号機(35万キロワット)が復旧。地震前のピーク需要を上回る供給力を確保する。

19日 「電力広域的運営推進機関」が有識者らによる第三者委員会を設置。


まず背景として北海道電力(以下北電)のお家の事情。Diamond Onlineが簡潔にまとめている。

2012年に年次決算が赤字に落ち込んだ。その後3期連続の赤字となった。原発の停止に伴い火力発電所の比重が高まった。燃料費を吸収するために電気料金の値上げを迫られた。
燃費効率の良い厚真発電所への集中が進んだ。厚真の設備利用率は2010年の64%から13年には85%まで増加した。この間リスク分散のための設備投資は行われず、ひたすら泊原発の再開が目論まれた。
14年には3年連続の赤字決算となり、自己資本比率は5.4%にまで落ち込んだ。この赤字に対応するため北電は2年連続の電気料値上げを断行した。
これらの場当たり的な保安・経営方針に対し各界から懸念がいついだ。15年の10月には経済産業省の専門家会合が「北海道電力においては、過去最大級の計画外停止が発生しても大丈夫なよう準備すべきだ。そのために多重的な需給対策を講じるべき」と提言したが、北電幹部には聞き入れられなかった。
16年に北電の真弓明彦社長は、あくまで「泊再稼働によって供給面の正常化を図りたい」と発言し。泊再開と厚真への集中で保安上の懸念、経営上の不安を抑え込む姿勢を強調した。そして「泊原発の新規制基準に対する対応として2000億~2500億円を投じる」と突き進んだのである。
その後もいくつかの機会はあったが、それらはすべて経営上の理由からスルーされた。17年には石狩湾新港のLNG火力発電所を稼働させる方向で話が進んだが、最終的には「道内の電力需要が伸びなかったため」という理由で、稼働を2~3年遅らせることが決定した。
動くことのない原発の維持費は年間700億円、これまで5千億円が注ぎ込まれたことになる。
三重苦
そして今年3月期決算、自己資本比率は10.5%にまで戻したが、キャッシュフローは7期連続のマイナスに終わった。
ある意味で、企業モラル的には全島停電の方向は定まっていた。もはやこれが宿命だったと言っても良い。後はいつ起こるかという問題だけだったのかもしれない。

そろそろやめようかと思ったが、次のような文献を見つけてしまった。
教材発掘 ・ 歌人 山崎方代 (国語科教諭 鈴木 芳明)
というネット文献としては膨大なもの。この文献がどういう由来のものかはさっぱりわからない。多分高校生の国語の授業用に作られた教師向け参考書なのだろうと思う。
本来なら前回記事と統合すべきだろうが、それはかなりしんどい作業となりそうだ。
一応要点だけ、抜き出す形で勘弁させてもらう。

1.方代の生いたち
父龍吉が65歳、母けさが44歳の時の子で、8人兄弟の末っ子だが、長女は里子に出され、5女が家に残りほかはすべてなくなっていた。
大正三年霜月の 霜降るあした生まれて 父の死を早めたり
はウソで、父は90すぎまで生きた。
間引きそこねてうまれ来しかば 人も呼ぶ 死んでも生きても方代である
も、ウソである。ただの強がりだ。
方代はウソつきで、書いてあることをそのまま信じてはいけない。ただ本当なのは彼の生活が半端でなく貧しい辛く悲しいものだったことだ。子供が一生懸命お話を作って、現実とフィクションを交錯させるように方代はウソをついて自分を慰めている。
水呑百姓の子に生まれ、両親が失明する。5女もやがて亡くなる。自分は小学校で学業を終え両親の世話をしながら百姓仕事を続ける。
常の如く めしひの父母を隣家の人にたのみて 野良にいできつ
わからなくなれば 夜霧に垂れさがる黒きのれんを 分けて出でゆく
父と母 しかといだきて 永久に土をたがやす 吾が運命なり
そういうウソをやめて自分に素直になれば、恐ろしいほどの現実が襲ってくる。これは普通の人が感じる現実とおばけの関係と逆になっている。
親子心中の 小さな記事を切りぬいて 今日の日記を埋めておきたり
卓袱台の上の土瓶に 心中をうちあけてより 楽になりたり
庭土をわずかにそめて ひっそりと雪がやんでおる 死ぬるは易し
長じて戦争に行く。その時の歌は、実はあまりない。
息絶えし 胸の上にて 水筒の水が ごぼりと音あげにけり
狂いたる本間一等兵が タラップの闇に 女房の名をよんでいる
たしかに、こんな歌、いくつも書けないだろう。
戦後間もなく傷痍軍人となって復員した。片眼失明で、おそらく交感性眼炎で残る目も弱視となった。おまけにその目でものを見るから、目つきが悪くなる。当然まっとうな職にはつけず、靴修理や沖仲仕など底辺の仕事で食いつないだ。
盗み来し茄子 大根もけずり入れて 一人厳かに夕餉を終る
かくのごと 生きていることを恥じながら もげしボタンをくくり付けたり
今日は今日の 悔を残して眠るべし 眠れば明日があり闘いがある
昭和40年(1965)51歳の時に、それまでずっと方代を庇護してくれていた姉が亡くなった。彼は天涯孤独となって姉の家を出た。
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昭和43年(1968)に戸塚の農家の手つだいとなり、納屋をあてがわれた。納屋には電気がきていた。コンセントに電気コンロや中古電気釜をつないだ。水は近くの市立千秀小学校の運動場にある水道蛇口にバケツをさげて貰いに行っていた。
盲いてゆく 瞼をとじて 遠きひと姉の名を呼ぶ 弟なれば
しかしこの頃から少しづつ方代の歌は評価されるようになった。とくに吉野秀雄の知己を得てからは、全国誌にも歌が掲載されるようになり、とくに郷里山梨での評価が高まった。


ということで、みなさんも気になるだろう。あの歌が出てこないのだ。
安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さんによる書評にある 
ほいほいと ほめそやされて 
生命さえほめ殺されし人が
ありたり

という歌だ。
ある文章では 
中道町では、平成12年(2000)より、教育委員会が方代のホームページを開設していて
方代の四つの歌集である、『方代』、『右左口』、『こおろぎ』、『迦葉』所収のすべての歌を見ることができます。
とあるのでさがしてみたが、それらしきサイトは見当たらない。

多分これがその残骸だろうと思われる。
[PDF]山崎方代全歌集というページだ。
ページはちゃんと開くのだが、中身が空っぽになっている。

グーグルの検索ページでは、見出しの下に
ばわたりてぞゆく. 吸いすてし煙草の. けむりののぼる. のもわれにくわ. えるものと思う. この. われが山崎方代. であると云うこの. 感情をまずはあ ...... 柿の木に礼をつく. して柿の実を梢. に三粒. 挘. ぎ残し. たり. 柿の. 木の梢に止りほい. ほいと口から種. を吹き出しておる. 黄金色の落葉 ...... 一日に異存はない. よ鍋底を顔の照. るまで磨きあげ. たり. ほいほい. とほめそやされ. て生命さえほめ. 殺されし人があり. たり. なるようになっ.
と、一部が書き出されている。ここに歌が載っているので、こういう歌が間違いなく存在するようだ。
“安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さん”の方からも検索をかけてみたが、一向に引っかからない。中野さんは多分弁護士の中野和子さんだろうと思うが確信はない。
まぁいずれ誰かが書いてくれるだろう。こちらにも、正直いまのところそれほどのガッツはない。とりあえず終了。

最初に書いたように、国立科学博物館の旧石器時代を担った人間についての記載は気になる。
それとは書いてないが、3万年前くらいを切れ目にして、違う人達が日本人であった可能性がある。
そんなことを何気なく示唆しているように思えたのだ。
それで歴史をすこし詳しく調べてみた(この世界の研究者はタコツボ掘りばかりで、不毛な定義争いを延々と聞かされるのだが…)。
そんな中で、自分なりに時代区分が見えてきた。

1.無人時代
まず無人時代がある。短ければ3万8千年前、長くても3万5千年前には終わる。
今後、居住を示す新証拠がいくつか出てくるにせよ、4万年前を遡ることはないだろう。それ以前のものはすべて嘘っぱちと考えて良い。

2.ナウマンハンターの時代
ナウマンゾウを追って朝鮮半島から渡ってきた人々がいる。なぜ朝鮮か、それはナウマンが南方由来、つまり朝鮮から来たからである。
ただしナウマンが来たのは30万年前だった。そして、どうやって来たのかはミステリーである。
学者は平気で「朝鮮海峡が陸地だったから」という。しかしそれが陸地だった時代、きっと世界は寒冷だったに違いない。
だとすればなぜ南方系の像であるナウマンが寒冷の地・日本へと歩を進めたのか、さらにそれに飽き足らず、北海道にまで渡ったのか。
誰も説明しないし疑問にすら思っていない。

3.マンモスハンターの時代
とにかく、寒冷期が続けば南方由来のナウマンはいずれ生きていけなくなる。そして死に絶える。
そうするとナウマンハンターも生きていけなくなる。ただし人間はナウマンよりもう少し賢いから、なにかかにか生きる手立ては見つけるだろう。
一方、ナウマンのいなくなった大地には北からのマンモスが入り込む。マンモスがやってくれば、マンモスを追って暮らすマンモスハンターもやってくる。
私は昨日までは姶良がどうのこうのとか言ってきたが取り消す。もっとロングスパンの話だ。
3万年前から2万5千年前までの期間、ナウマンとマンモスは落ち目の俳優と売り出しの若手のように日本列島に共存した。もっともナウマンは北海道南部まで生息したが、マンモスが津軽海峡を渡ることはなかった。
いっぽう人間様はどうかといえば、ナウマンハンターは気息奄々だったのにマンモスハンターは意気盛ん。マンモスの生息域を乗り越え、津軽海峡を乗り越えて本州中部まで進出した。

4.プレ縄文人の形成
ナウマンハンターとマンモスハンターの比率はおおよそ1対4だった。基本的にはマンモスハンターがナウマンハンターをM&Aした。
気温の激変のために、やがて日本列島からナウマンもマンモスもいなくなり、二つのギャートルズ・グループは縄文人へとインテグレートしていくことになる。
彼らは「落とし穴猟」という、より高度な技術を開発することでイノシシ・大鹿ハンターとなり、さらに弓矢という飛び道具の開発により自然の支配とみずからの生き残りに成功した。

5.縄文文化は津軽から
最初の縄文土器は1万6千年前の津軽の外の浜だった。それは津軽の生産力が特別優れているからではなく、そこがマンモス人とナウマン人の最初の出会いの場所だったからだと思う。
マンモス人は先着民であるナウマン人から大いに学んだに違いない。そしてその知識は津軽を中心に日本全土に同心円状に広がっていったに違いない。
私はマンモス人をY染色体ハプロのD2系に、ナウマン人を同じくY染色体ハプロのC1系に比定している。どちらも今では日本人(アイヌ人)以外には絶えてしまったグループである。

日本の旧石器文化

春成 秀爾さんが表を使って編年基準を示してくれている。とりあえずこれを使って年表を作成していくことにする。
旧石器

この表を見ても、いかにみんなが勝手に時代区分を作成しているかが分かる。
数字は“XX年前”という意味だ。“14C”を用いた年代測定値を加 速器質量分析(AMS)法により較正したもので、「精度が高くなった」らしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/40/6/40_6_517/_pdf
 
旧石器時代を前期、中期、後期と分ける分類があるが、国ごとに違っていて、素人を混乱させるだけである。
地質学分類を持ち出す人もいるが、新生代以降については何の役にも立たない。
3つに分ければ十分である。ひとつは土器出現以前の純粋石器時代。ふたつめは縄文土器の出始めの時代。これは細石刃時代とほぼ一致するので、どちらで呼んでもいい。
本質的には細石刃だろうが、有効性という点では縄文草創期であろう。3つ目が本格縄文時代である。

絶対年代で言うと

① 純旧石器時代 一応3万5千年前からということににあるが、もう少しさかのぼっていくだろう。といっても4万年までか。

3期で十分と言いつつ、早くも①を二つの亜期に分ける。すなわち 
A) 温暖期(プレ姶良)と、B) 寒冷期(ポスト姶良)になる。
その境目は2万9千ないし8千年前になる。
自然事象としてはマイナーだが、2つの点で重要である。すなわち、ナウマンゾウと大形鹿がいなくなったことと、縄文人の主役が朝鮮出身者から樺太出身者に変わったこと。である。

② 前縄文期・細石刃時代 土器が確認される最初期が1万6千年前、細石刃が広がるのが1万4千年前と言うから、中をとって1万5千年としてはどうだろうか。
長い重畳期があるので、旧石器人と縄文人は同一民族すなわち主として北から来たD系人と思われる。

③ 本格縄文時代 1万年前から始まるということになっている。前・中・後・晩期と分かれるが、これは別な扱いになる。

飲食店で言うと、① 純喫茶、② 昼は喫茶、夜はスナック、 ③本格縄のれんという分類になる。

なお日本の考古学の世界では①+②を後期旧石器、それより前を前期旧石器と呼ぶらしい。歴史を学ぶものとしては、率直に言ってナンセンスである。



3万5千年前 

気候的には寒冷期が1万4千年前まで続く。

野尻湖時代(広島以北。群馬、長野、千葉など)

大型環状集落と、大型動物(ナウマンゾウやオオツノジカ)を解体するための磨製石斧で特徴づけられる。

これらの大型動物は中期更新世(約43万年前)に中国本土から渡ってきた。当時は温暖であった。

約3万年前  姶良Tn火山の噴火 

この後大型動物の狩りは消滅。ニホンジカ ・イノシシの落とし穴狩りに移る。落とし穴は宮城から鹿児島までの間で発見される。

2万9千年前 岩宿で発見された旧石器はこの頃のものとされる。

2万2千年前 港川人 

現在のところ、①本土の縄文人との類似性はなく、現代オーストラリア・ニューギニア人との類似性が認められる。③先島へは南から、中部圏には九州から渡来した。その時点で
港川人はすでに絶滅していた。


2万年前

地質学的には後期更新世末期  
考古学的には旧石器時代第2期  黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた工具

中国大陸の文化とは似ていず、ヨーロッパの旧石器文化と共通する特徴があり、日本独特と考えられる。

宮城県の薬莱山の文化や座散乱木遺跡がこれに相当する。これらの遺跡では縄文文化への連続性が確認される。

1万6千年前 

太平山元(Ⅰ)遺跡 土器の内側に炭化物が付着、もっとも古い煮炊きの後である。弓矢の使用を示す石鏃も、世界でもっとも古い。

植物食の本格化に合わせ部分的に縄文草創期が開始する(御子柴文化)。

南九州では丸 ノ ミ形磨製石斧や石臼 ・磨石の普及。定住を示唆する竪穴住居もはじまる。

1万4千年前  

シベリアからやってきた細石刃文化。北欧から沿海州そしてアラスカまで広がる。鮭の漁労に関係しており、比較的北方に限られる。

1万年 本格的縄文期(縄文早期)に入る。

紀元前5千年 環状集落と墓地をもつ定住生活に入る。

以前、
という記事で
一首だけ紹介した山崎方代という歌人。思い出して調べてみた。

絵に描いたような日本の貧困
一応経歴をなぞってみる。山梨県右左口村の農家の生まれ。大正3年だから私の父と同じ年だ。
方代(ほうだい)は本名。8人兄弟中5人が夭死したことから、末っ子の方代には「生き放題、死に放題」させようと名付けたらしい。これだけたくさん生んでたくさん死なせたというのは水呑百姓の証だろうが、それを子供の名前にしてしまった父親もひょうひょうとしたものだ。
尋小卒後家業を手伝いながら“田舎の文学青年”としての日々を送る。24歳のとき横浜に転居。姉の嫁ぎ先に身を寄せ、職を転々と変える。
3年後に招集され、ジャワ島、ティモール島を転戦。負傷し右眼失明、左眼視力0.01となる。視力が落ちただけではなく目つきも悪くなった。金子秀雄はこう書いている。
ジ ャワ島の東方のチモール島、その近くのマルメロ島とやらでアメリカの艦砲射撃で物恐ろしい目つ きになってしまった。
復員後は傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。
51年(昭和26年)に横浜の姉の下へ落ち着く。金子によれば
かれには二十も年の違う姉さんがいて、それが横浜で大きな歯科医院を経営し、彼はそこで技工をやっている。
ただ、弱視の彼にどれほどの仕事ができたかは疑問の残るところで、恩給ぐらしの居候というのがありていのところではなかったろうか。
彼は68年に姉宅を出て、戸塚の農家で住み込みばたらきとなる。
72年から鎌倉で間借り生活をはじめる。気のいい大家と奥さんでやっと住み処を見つけたようだ。この頃左眼の視力がいよいよ低下し手術している。
75年 山梨日日新聞に「山崎方代の冬」が掲載され評価が高まる。
85年に肺ガンのため死亡。享年71歳。
まるで絵に描いたような辛苦・薄幸の人生だ。

山崎方代の人となり
ウィキペディアには「特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ」とあるが、そんな思想信条みたいな話ではないだろう。
自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。(甲府市ホームページより)
というのも贔屓の引き倒しだと思う。
むしろ女兄弟のバッチだから人懐こさが身上だと思う。教育はなく弱視で極貧だとなれば、そうそう人並みに扱ってもらえるわけじゃないのが世間というものだ。それだけの話じゃないのかな。
そういう自分を側から見て楽しんでしまおうというのが趣向だ。

ただ晩年には一定の固定フアンがいたらしい。
死んで花実が咲くものかと言うが、2003年には選歌集『こんなもんじゃ』画:東海林さだお
という本が出版され、田澤拓也 『無用の達人 歌人山崎方代伝』2003年という紹介本も出され、2010年には『山崎方代展 右左口はわが帰る村』(山梨県立文学館)という回顧展まで開かれている。

作品の紹介
主な作品(甲府市のホームページの「歌碑一覧」というのがいかにも方代らしい趣向だ)
1  ひる前に ランプのほやを磨きあげ いつものように豆を煮つめる
2  寂しくてひとり笑えば 卓袱台の上の茶碗が 笑い出したり
5  丘の上を 白いちょうちょうが 何かしら手渡すために越えてゆきたり
6  うつし世の闇にむかって おおけなく 山崎方代と呼んでみにけり
11 夜おそく出でたる月が ひっそりと しまい忘れし物を照らしおる

13 遠方より友来たりけり 目隠しをして 鶏小屋の鶏を選べり

14 ふるさとの右左口邨は 骨壷の底にゆられて わがかえる村
18 雲雀子よ早く孵せよ この麦も 少し早いが刈らねばならぬ
19 こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに 吾はおるなり
22 私が死んでしまえば わたくしの心の父は どうなるのだろう









半分に絞ってしまった。ただし、ここには都会生活や戦争の記憶や放浪生活を歌ったものはない。故郷にはアルコール消毒された清らかな作品だけが残されているようだ。これじゃ生き仏だ。
生命(いのち)さえほめ殺されき…もない。
先程も書いたとおり、“自分を側から見て楽しんでしまおう”というのが方代の趣向だ。「ありのままで素直な表現」というのはそのための方便だ。もし素直というのなら“ネジ曲がっているけど素直”なのだ。一茶にも似たところがある。日本的なユーモアだろう。

歌碑にはなりにくそうな歌をいくつか並べてみる。

手の平に 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲りて帰る
夕日の中を へんな男が歩いていった 俗名山崎方代である
外灯の下を通って 全身を照らし出されてしもうたようじゃ
生れは甲州鶯宿峠に立っている なんじゃもんじゃの股からですよ
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

約束があって 生れて来たような気持になって 火を吹き起こす

一生に一度のチャンスを ずうっとこう背中まるめて 見送っている
戦争が終わったときに 馬よりも劣っておると 思い知りたり
かたわらの土瓶も すでに眠りおる 淋しいことにけじめはないよ
かぎりなき 雨の中なる一本の雨すら 土を輝きて打つ














ニフティニュースに樹々希林の追悼記事が載った。

樹木は芸能界で「政治的」と忌み嫌われるジャンルに踏み込むことも厭わなかった。
彼女は事務所にマネージャーも置かず、自分自身で仕事を選び、現場に趣く。
東海テレビ制作の『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』(6回シリーズ)もその一つ。
残留孤児をテーマにした回では…「(戦争は)人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」と言う…
これに対し、普段政治の話をしない笑福亭鶴瓶も、「憲法9条だけはいろたらあかん!」と呼応した。
2015年7月30日、樹木希林は辺野古の新基地建設に反対する人びとが集うキャンプ・シュワブのゲート前に現れた。
座り込みを続ける86歳のおばあ、島袋文子さんの隣に座った彼女は、「沖縄戦から辺野古問題までを熱く語」った島袋さんの手を握り、「辺野古問題を俳優仲間に広める」と応えた。

樹々はその後、沖縄問題にさらに踏み込んでいるようだ。
2016年3月には、沖縄の基地問題に挑んだ映画、『人魚に会える日』の公開記念ショーに出演し語っている。


「遠い島の遠い話になって、私も皮膚感覚で感じることは難しい。沖縄はあまりに美しいから、日本の生贄になっていることも際立って見える。(本作も)生贄が大きなテーマですね」
そして、「この映画がいま誕生したことは、とても意味があることだと思います」と仲村監督らを賞賛している。

昨日、東京に行ったついでに上野の科学博物館を訪れた。
折悪しく連休の只中で、しかも昆虫特別展ということで長蛇の列。レストランも喫茶店も売店もとても入れる雰囲気ではない。
子供も多かったが、流石に科学博物館に来る子供といえばそんなに駆け回ったり大声を出すような人間ではない。これには助かった。
まず元気なうちにと思い、日本館の2階日本人の起源の展示を見に行った。意外とこじんまりとしたもので、30分もあればみ終わるほどのスペースだ。
それだけに説明が非常に濃縮されていて結構ズシンと来る。まず旧石器人。
いちばん、感動したのは世田谷の小学校のグランドを垂直に10メートルも掘り下げている展示だ。
関東ローム層というのは火山灰からなる地層だから、噴火の歴史と照らし合わせることによって、かなり絶対年代の同定ができる。しかもその間に温暖期の海進、段丘の形成などアルので気候変動と火山活動の経緯の中で古代人の活動を絡め取れるという優点を持っている。
さて、前置きが長くなったが、この地層の説明には次のように書かれている。
1.関東地方の旧石器時代は3万8千年前に始まった。
2.これは2万年前までまばらに積み上がっている。
3.旧石器時代の遺物は2万年前を過ぎてから密度を増している。
との所見を提示したあと、次のように説明する。
1.3万8千年前に関東にやってきた旧石器人は朝鮮半島由来とおもわれる。
2.これに対して2万年前から増えてきたニューカマーは北方由来の可能性がある。
ということになると、これから先は私の推理になるが、3万8千年前の渡来人はY染色体ハプロで言うC1人ではないかと思われる。そしてあとから来たのが北方由来のD系人ではないかと思う。D系人は氷河期の寒さに押されて南下してきた。二つの旧石器人は融合し共存してやがて縄文人となっていく。
もともとC系人は南方由来であり、それが北方に進出してついにはベーリング海を越えてアメリカへと広がる。これに対しD系人は現在では日本人とアイヌ人だけだからよくわからないが、ウラル・アルタイ経由で東方に進出した可能性もある。
というわけで、2万年以前に日本にいた旧石器人の話は結構気になる話題であった。

これまでD系人=旧石器人で、日本に入ったD系人以外のD系人(D2人)はすべて絶滅した。残ったD系人がそのまま縄文人に横滑りした、と思いこんでいたが、そう簡単な話ではないようだ。
少し関連文献をあたってみたい。

第三の男とウィーン

1945年3月12日 連合軍による大規模な空爆が行われ、ウィーン国立歌劇場やシュテファンドーム、ブルグ劇場、美術史博物館も被災する。

3月末 赤軍が国境を越えオーストリアに進出。

4月1日 ソ連軍、ウィーン郊外に到達。5日からウィーン周辺で大規模な戦闘が始まる。

4月10日 ソ連軍、市内中心部を確保。ナチス時代の措置の無効を宣言。

4月13日 ドイツ軍による組織的な抵抗が終結。ウィーンがナチス・ドイツから“解放”される。

1945年4月21日 カール・レンナー元首相(社会民主党)がウィーンに入る。ソ連の後ろ盾のもとに、国民議会の議長として社会党・人民党・共産党による臨時政府の協議に入る。

4月27日、レンナーと三党の代表者の名義で、1938年のアンシュルスは無劫とし、第一共和国憲法に基づく共和国の再建を宣言する。レンナーを首班とする臨時政府が活動開始。

1945年5月4日 西側連合がウィーン入りする。

7月9日 連合国協定。アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4つの占領区域を握り軍政が行われることとなる。国政の全体は連合国オーストリア委員会が権限を掌握する。

アメリカはザルツブルクと上オーストリア、イギリスはシュタイアーマルク、ケルンテルン、東ティロル、フランスは北ティロルとフォアアールベルク、ソ連が下オーストリアとブルゲンラント、ミュール地区を占領

9月1日 ソ連占領地区により取り囲まれたウィーンは、ベルリン同様に米英仏ソによる四分割統治となる。ウィーンに米英仏軍が進駐を開始。
senryoutiiki

9月24日 レンナー議長のもと「諸州議会」が開かれる。本格的な政府の樹立について合意。

10月20日 連合国司令官、臨時政府の権限を承認。「制限的な主権を有する国家」となる。

10月24日 西側連合国、レンナーをオーストリア政府の代表者として正式に承認。

1945年11月25日 議会選挙。議会での投票の結果、国民党が僅差で社会党を抑えて第1党となる。共産党はソ連軍の略奪行為と法外な賠償要求が嫌われ惨敗。

12月20日 レンナーは全会一致で初代連邦大統領に選出される。レオポルト・フィグル政権が成立するが、実権はレンナーが掌握。

1946年7月に国有化法が制定される。これまでの水道・電気・鉄道に加え、銀行・大企業・炭坑が国有化される。

1947年1月 オーストリアは連合国と講和に向けて交渉をはじめる。ユーゴスラビアがケルンテン地方を要求する。

1948年2月 グレアム・グリーン、ウィーンに赴き、四分割統治下のウィーンを観察した上で脚本を執筆。

1948年10月22日 ウィーンで映画撮影を開始する。
kage
manhole
kanransha
lastscene

1949年 総選挙。反ナチ法で参政権を剥奪されていた国内右派が選挙に参加可能となる。

1949年9月 カンヌ映画祭でグランプリを獲得。アントン・カラスの演奏する主題曲は大ヒットとなる。

1950年 レンナー、現職のままウィーンで死去。

1955年

5月15日 連合国諸国とオーストリア国家条約を締結。

7月27日 オーストリアが主権国家として独立を回復する。社会党と国民党が比例配分主義をとる。共産党は国民の支持を得られず、

10月26日 永世中立国を宣言。

1989年 ベルリンの壁崩壊。多くの東欧からの難民が流入する。


年表づくりの過程で、「赤いウィーンに労音があった」という記事を目にしました。
大変面白い記事で、ぜひご一読をおすすめしたいと思います。
いくつかのポイントを紹介すると、
「赤いウィーン」は労働者向けの音楽普及活動に力を入れた。この活動のコーディネータとなったのはD.J.バッハという人で、シェーンベルクやウェーベルンとも親交があった。
労働者向けのコンサートに取り組んだのはウィーン交響楽団だった。指揮者の一人としてウェーベルンも参加した。
20年代のウィーンではマーラーが流行したが、こういうユダヤ的音楽はナチの力が強くなるにつれて廃れてしまった。

昨日の記事で3つの脆弱性と書いたが、通貨システムの脆弱性、国家財政基盤の脆弱化は良いのだが、金融システムの脆弱化という表現が正しいのかが我ながら気になる。
金融システムと言うと銀行を中心としたハード的な概念になってしまう。たとえばBISの規制強化みたいなものが金融を代表するのかと言うと、むしろそういうものはますます辺縁化しつつあるのではないかという感じもする。
そういう意味ではまさしく「金融システムの脆弱化」なのだが、金融と言うにはもっと広くて漠然としたマーケットがあるのではないか、そこがタガが外れて暴走しているのではないかという感じがする。
我々がこれまで語ってきた市場の需要・供給曲線というのは商品世界のバランスだった。しかし今我々が目の前にしているのは商品を中心として動く世界ではない。それは利子を駆動力とし貨幣を媒介として形成される需要・供給曲線の世界である。
貨幣を媒介とするというのは正確に言うと貨幣の取得権(SDR引き出し権)なのだろう。話がややこしくなるのでとりあえず貨幣にしておくが、金融市場というのは貨幣の取得権の売買が基本となる市場であろうと思う。
それで思い出したのだが、以前マルクスの資本論第3部を学んでいる時に「信用市場」という概念にこだわっことがある。結局私の基礎学力不足のために、それ以上進むことはなかったのだが、今考えてみるとこの「市場」の失調がリーマンショックの本質ではないかと考えてみたくなった。
これまでも過剰生産恐慌に加えて金融恐慌という概念はあったし、マルクスもそれを描いている。

しかし、マルクスの予見したものは「金融恐慌」という枠組みをはるかに超えた、「信用市場」のメカニズムの破綻がありうるということだ。
おそらく商品市場が経済の土台で、その上にそびえるのが信用市場というもう一つのメカニズムなのだろう。マルクスは商品を手がかりに資本主義の生産システムを全面分析していくのだが、その上に信用市場が成立し、独自の論理で動き始めること、そして信用の創出過程の秘密を解き明かすことなしには、資本主義の全容は解明できないだろうということを予感していた。

日経新聞の株屋予想的分析にとどまらず、この課題への手がかりを見出していくことが「経済学」のなすべきことではないだろうか。

をご参照いただければ幸甚です。

1.宮崎さんは中国を買いかぶっている
宮崎さんの話を聞いていると、私はどうも中国経済を買いかぶっているのではないか思ってしまう。
マック価格というのがあるが、私はマックのハンバーガーは嫌いだから(モスバーガーは嫌いでない)、あまりピンとこない。それに対し居酒屋価格というのは大いに実感できる。
わたしが北京に行ったのは2004年のことだ。その時ホテルの隣の地元の人が行く食堂では腹いっぱい飲んで食って800円だった。
北京の物価は日本の10分の1、昭和40年ころの物価だなと感じた。韓国が5分の1だったから、その半分ということになる。
社会インフラはびっくりするほど遅れていて、ほとんど皆無と言ってよいほどだった。
詳しくは「中国の農村医療問題ノート」、「中国の社会保障」、「中国における失業と貧困問題」を御覧いただきたい。
これが15年前だ。それからいかに急成長を遂げたといってもまだ日本には及ばないはずだ。ただ貧富の差はすごいから、上流の人達は日本を追い越しているかもしれない。

2.中国のGDPは見掛け倒し
もう一つ、中国のGDP成長は見掛け倒しだということ。これはリーマンショックの時に相場に逆張りしたから膨らんだだけであって、働いて稼いで勝ちとったGDPではない。日本の高度成長とは中身が違う。
さらに言えば、巨額の投資を行ったにもかかわらず、GDP成長は減速しているわけだから、それは隠れ債務として積み上がっているはずだ。それがどこに潜んでいるかはわからない。こちらが専門家に聞きたいくらいである。公的債務として積み上がっていないのであれば、それは民間債務となっているはずだ。しかしそれは中国政府にとっては同じことで、かえってタチが悪いかもしれない。

3.中国は泣きを入れるだろう
日本でバブルが破綻したとき、凄まじい資産の減損が行われた。金融機関もバタバタと逝った。倒れなくても、例えばオリンパスのように、密かに莫大な不良債権を抱え続けた企業も少なくなかったはずだ。
超優良国日本ですらそうだったのだから、中国がバブル崩壊と人民元の売り浴びせに耐えられるわけがない。
だから中国は必ずどこかでアメリカに泣きを入れるはずだ。
米中の覇権争いだとか、米国が凋落しつつあるなどという見方は見当違いだし、中国経済の不当な買いかぶりだ。
私はそう思う。

4.「盛者必衰」史観の無力さ
宮崎さんの話は、結局米中貿易摩擦を世界史のレベルに還元してしまおうということで、しかもそれは唯物論と言うよりは「盛者必衰の理」という無常観に基づくものだ。
では日米貿易摩擦のとき、なぜ日本は敗れたのだろうか? なぜ中国なら勝てるのだろうか?
そこのあたりを上手く説明してもらえないと、お通夜のときの坊主の「法話」と同じで、屁のつっかいにもならない。
もしわたしがことわざで対抗するなら、「出る杭は打たれる」だ。おそらく鄧小平もそう言っただろう。
「いつかは中国は世界一になるだろう。しかしその時までは隠忍自重が求められる。今はまだ我慢のときだ」
米中の経済関係は基本的にはウィン・ウィンで推移している。トランプの中国批判は言いがかりに過ぎない。
ただしこの関係を続ける限り中国はさらに成長を続けるだろう。それは米国にとって脅威になるかもしれない。
そのように米国の一部勢力が考えたとしてもなんの不思議もない。中国は今もなお共産主義を標榜しているからだ。共産主義の名によって独裁政治を合理化しているからだ。

5.当面の主要な側面はGAFAの“開放”圧力だ
中国の成長が見掛け倒しもふくんでいるとすれば、アメリカの超巨大産業の成長は正味そのものであり、こちらのほうがはるかにでかい。
もし米中経済摩擦を論じるなら、衰亡しつつある米国の反撃と捉えるよりは、4大IT企業“GAFA”による知財攻勢の一環として位置づけたほうが情勢把握としては正確だろう。
日米経済摩擦を思い起こせば良い。たしかに最初はアメリカの自動車産業の悲鳴であったが、90年代に入って様子は一変した。彼らは次々に難題をふっかけ、日本の財産を食い物にし、ハイエナのようにたかり、すべてを奪って行った。
基本的には米国は貿易摩擦問題で決して受け身ではない。彼らは被害者ではなく加害者だ。このことをリアルにアクティブに受け止めるべきではないか。



リーマンショックは終わっていない

2008年9月15日に、リーマン・ブラザーズが経営破綻した。これに端を発して世界規模の金融危機が発生した。
金融危機はそれにとどまらず、生産の収縮、キャッシュフローの縮小、株価の全面安をもたらした。
それは脆弱な新興国にシワ寄せされ、財政危機と通貨危機をもたらした。
先進国は量的緩和を主要な手段として、乗り切りを図った。相次ぐ財政出動で国家基盤は掘り崩され、一方で金余り、金融の投機性は強まった。

要するに、リーマンショックがもたらしたものは、金融システムの脆弱化であり、国際通貨システムの脆弱化であり、国家財政基盤の脆弱化である。
その中で一方では世界中が金でじゃぶじゃぶになり、他方では富の偏在が前代未聞のレベルに広がったといえる。

これらの問題は解決されたのだろうか。これらが解決されない状態で、リーマンショックは終わったと言えるのだろうか。

リーマンショック10年を機に、これらの議論が深まることを期待したい。

最近のニューヨークタイムスに、トランプ政権がベネズエラのクーデター計画に関わっているという記事が掲載されました。
新藤さんのブログで読めますが、機械翻訳のせいかかなり読みにくいようです。
こちらは 9月10日の「TeleSur」の記事です。

これが見出し
ベネズエラ、ニューヨークタイムズ報道を受け米国のクーデター陰謀を非難
これがリードです
ニューヨークタイムズ(以下NYT)の報道によると、米国の当局者はベネズエラのクーデター陰謀者と1年以上にわたり会っている。

ここからが本文です。

NYTは、「米国政府のメンバーが、2017年中頃からベネズエラ軍将校と会合を持っている。これらの軍将校は民主的に選出されたニコラス・マドゥーロ大統領を追放しようと活発に動いている」と報道した。
NYTのロンドーニョとケーシーによれば、陰謀は1年前、2017年8月に始まった。それはトランプが「米国にはベネズエラに対し軍事オプションが有る」と宣言した後に始まった。
それは「クーデターを狙うベネズエラ軍将校たちを励まし、ワシントンと手を結ぶよう促す」ものであった。
米国の当局者との最初の会合で、ベネズエラ側参加者の1人は「マドゥロ政権を打倒するためにベネズエラ軍のグループを説得できる」と伝えた。

報道された内容の多くは、ベネズエラ政府がこれまで繰り返し警告してきたことの確認である。
すなわち、軍事行動に「政治的野党」の活動と米国の関与を統合したマドゥロ政府に対する包括的行動計画である。
米国は一人の職業外交官を指名し会談に出席させた。この外交官は彼らの話を聞き、それについて報告している。
米国の高官は匿名を条件にNYT記者に話した。
  トランプ政権は当初、ベテランのCIA職員、フアン・クルスを派遣することを検討した。 後で「CIAではなく職業外交官を送るのが賢明だろう」と決めた。
 NY Timesの記事は次のように述べている
"2017年の秋の米政府内報告では、「ベネズエラ人は詳細な政打倒計画を持っていないようだ」と報告されている。
彼らはアメリカ人が指導やアイデアを提供してくれることを期待していた。 軍関係者は「暗号化された無線機」を米国に提供するよう頼んだ。その理由として、「選挙実施までの間の暫定政府を設置する計画を策定したので、安全なコミュニケーションの手段を必要としている」と述べた。

ところで、
NYTは「米国の関係者は物質的支援を行っていない」と書いているが、実際には軍事援助も行っていると思われる。
8月4日、国軍81周年記念式典でC4を積んだ2機のドローンが、マドゥロ大統領、いくつかの他の政府関係者、およびゲストを暗殺しようとして爆発した。 その後の一掃作戦の結果、計画の全体像が発覚した。
それは数十人の陰謀参加者の逮捕につながった。 野党のフリオ・ボルヘス議員とオスワルド・ガルシア退役大佐を含む40人以上がこの攻撃に関連している。
これらの装備は高度な準備と能力を要求するもので、大きな軍事組織の存在なしには実行し得ないものであった。
米軍とベネズエラ軍内の関係者がマドゥロを転覆させるために関係結んでいるかどうかは今のところ不明である。 ベネズエラ政府のアレアサ外相は、NYTの報道にもとづき、干渉を続け、軍事的な政府転覆の陰謀を支持する米国をあらためて非難した。



トランプ政権がベネズエラのクーデターを企て、国内のクーデター派を組織しているとのニューヨーク・タイムズの報道は、日本国内でもかなりの反響を呼んでいるようです。

あの「産経ニュース」でさえ、取り上げています。ただみな共同通信の配信なのでそれだけです。


ニューヨーク・タイムズは、トランプ政権当局者が昨年秋から、ベネズエラの反米政権を転覆するクーデターを計画していた軍不満分子の将校らと、数回の秘密会合を持っていたと報じた。

複数の米政府高官と元ベネズエラ軍将校によると、ベネズエラ軍内のクーデター勢力は数百人。
トランプ政権側は「話を聞くだけ聞こう」と考え、複数回極秘に将校らと面会した。しかし、クーデターの具体的な計画はないようだった。

AFPはもう少し率直に書いている。しかし日本AFP以外は無視。

ニューヨーク・タイムズは以下のように報じた。
元ベネズエラ国軍司令官とトランプ政権の当局者が、マドゥロ大統領に対するクーデター計画について秘密裡に協議した。最終的に米国は支援を行わないことになった。
補足報道として、
① 17年8月には、トランプ大統領が米国によるベネズエラ進攻の可能性について側近に尋ねた。
② トランプは、ベネズエラの混乱の収拾のためには「軍事的選択肢」も排除しないと公言している。
というコメントを付加している。


“とんかつ・カツ丼・カツカレー”
というのは、テニスの大坂選手が「いま食べたいものは?」と聞かれての返事だ。さらにデザートは抹茶アイスクリームだと言う。

この人、優勝したのもすごいが、優勝後のインタビューがチャーミングで素晴らしい。
顔立ちや体付き、片言の日本語などから、“日本人の血も混じったアメリカ人”と思っていたが、このセンティメントは日本人のものだ。
それにしても「とんかつ・カツ丼・カツカレー」はみごとなコピーだ。子供の頃から口ずさんでいたのではないかとさえ思わせる。
というのは、カツ丼というのは言わないだろうと思うからだ。今やカツ丼といえば日本人にとってやや郷愁を感じさせる食べ物になっているからだ。香の物の小皿に味噌汁がついてくる。香の物は大方鮮やかな黄色のたくあんが4切れ、ということは輪切りで2枚。この付け合せは天どん、うな丼、親子丼と変わらない。これがお重になるとお吸い物に代わる。
最近の若者にはちょっと古風で、いまなら串カツになるのではないだろうか。
悪者が捕まって、取り調べを受けて、最後にカツ丼を食うと人情刑事に自白するというのが、一時期の刑事ドラマの定番だった。あれは親子丼の具の鶏肉が入っていないやつがカツの上に載っていたのではないか。
それにしても、日本人のソウルフードといえばラーメン、カレー、スパゲッティ。それに続いてとんかつ、コロッケ、餃子となる。
もともとの和食といえばそば・うどんくらい。天ぷらだって元はポルトガルだ。ただしこれらの全てにご飯がつく。これが日本だ。
むかし日本は島国根性でだめだと自己卑下していたが、日本人くらい物好きで好奇心旺盛な民族はないのではないかと思う。
もう一つ、市井の日本人は外国人にも分け隔てなく付き合う。嫌韓だとか、チャンコロだとか、力を背景に威張り散らすのは一部の連中に過ぎない。
それというのも、逆に日本人の均質性が根っこにあるからだろう。均質的だから多様性を受け入れる。ワン・オブ・ゼムになりきれるというのは日本人の特質だろうと思う。ただし日本語の壁は未だにかなり厚い。

「技術の本質」論のない覇権論は虚しい

宮崎さんは「米中の技術覇権争い」という考えを持ち出して、この視点から米中貿易摩擦を裁断しようと図っている。これについてはにわかに承服し難い。

まずは技術の本質論と、技術組織論についてポイントを抑えておきたい。

A) 生産技術の向上という点で、中国の発展は目覚ましいものがある。特に先進技術の場面では世界の先端を行く分野も出ているようだ。ただし、技術というのは総合力なのであって、ルチーン・レベルの高さ、技術の高度な安定性、オーディットの緻密度、人材・資金の組織度、営業事情に即応できる技術能力などの全般にわたって見ていかなければならない。
これは東北大震災の時に日本の技術の奥行きの深さにあらためて感じ入った記憶と重なっている。
こういう総合的な視点から見て、中国の技術水準は米国と覇権を争うレベルに達しているのか。私にはそうは思えない。

B) 軍事技術は民生技術とは別の次元で語られなければならない
原爆、水爆、大陸間弾道弾とソ連は米国に拮抗できるだけの軍事技術を担ってきた。中国も人工衛星を飛ばし有人宇宙飛行を可能にするまでに技術を高めた。北朝鮮は国民を飢餓状態に置きながら、ひたすら軍事技術に磨きをかけ、ついに核兵器とICBMを保有するまでに至った。
的を絞りコストを無視すれば、そういうことは可能なのである。

C) それにもかかわらず、往々にして軍事技術と民生技術とは混同される。
というより意識的に混同させられる。それは多くの場合、政治的に演出させられた「〇〇脅威論」である。そして皮肉なことに、この手の脅威論をおる連中こそがもっとも危険な「脅威」であることが多いのである。
技術の本質を人類の知的財産と考えるなら、それは確かに軍事と非軍事を問わず同じだ。
しかし政治・経済システムの中での“テクノロジー”という概念は組織であり、システムなのだということを踏まえなければならない。
それでなければ、そもそも技術に覇権がつきまとうことの説明ができないではないか。

ということを踏まえた上で、宮崎さんの議論に戻る。

宮崎さんの論点は3つある。
① 「中国の技術覇権を抑え込む」ことでは共和党・民主党を問わず米国内にコンセンサスがある。米国の政財界はこの点では一致して動くだろう。
② 国防総省が活発化し、中国脅威論を発信している。「このままでは米国の技術で開発された中国製兵器が米国に向けられる」というのが彼らの言い分である
③ 中国の二つの企業が世界の特許出願件数で1,2位になっている。個別企業レベルではすでに米国は中国に追い抜かれている。
宮崎さんはこれらの点をもって、「米中の技術覇権争い」の根拠としている。率直に言って、これは経済学者らしからぬ相当あらっぽい論理である。

ただこの記事は連載で、次の日にもう一つ記事が載るので、それをみてから判断したい。


赤旗経済面トップに、「米中貿易摩擦」と題する2日連続の囲み記事が掲載された。
語り手は宮崎礼二さん、聞き手は杉本記者である。
とりあえずお手軽に知識を吸収する目的で着手する。
1回目の見出しは「技術覇権争いが激化」というもので、経済摩擦の原因が技術開発と知財権にあることを示唆している。

貿易摩擦の事実経過
最初にこれまでの事実経過が提示されている。
今回の貿易摩擦激化は、トランプ政権が中国製品に追加関税を課したことに起因する。
追加関税の主たる理由は知財権侵害である。貿易収支の不均衡は表向きの理由にはなっていない。
これまで第1、第2弾が発動され、今週中に第3弾が発動される予定だ。関税額は第1、第2がそれぞれ500億ドルであったのに対し、今回は一気に2,000億ドルまでかさ上げされた。

報復競争の行方
中国は報復関税で反応しており、今回も報復するものとみられる。
しかし中国の対米輸出額は対米輸入額を大きく上回っているので、報復合戦は分がない。先に弾切れになる。
今回、中国は米国の2000億ドル追加関税に対し、600億ドルの報復措置しか取れない。
こうやって米国は、関税では対抗できないところに中国を追い込もうとしている。

いかが本文となる。全体として4つのQ&Aから構成されている。こちらで通し番号をつけておく。

1.トランプ政権の狙い…中間選挙対策
トランプ政権の狙いは2つある。一つは中間選挙対策である。もう一つは中国の先端技術の押さえ込みである。ここでは中間選挙対策に話を絞る。
トランプのもっとも期待する支持基盤はラストベルト(錆びた地帯)やアパラチア地方の工業地帯である。ここでは企業が消滅し工場が海外移転している。そのために労働者は没落し貧困にあえいでいる。
トランプは地域に苦境をもたらせたのが対米黒字国だとし、これらを非難することで支持を集めてきた。大統領選挙のときはメキシコが標的だったが、今回は中国が標的となった。

2.中国をやっつけても他の国に移転するだけ
中国が得意な輸出産業は、低賃金を武器とする労働集約型の分野である。追加関税の品目も服飾品や家具などの消費財に集中している。この分野の生産を、対中関税で米国に移すというのは非現実的な考えである。
現実にはすでにこの分野の生産拠点は中国を離れつつある。アパレル産業などでは中国からその他のアジア諸国への移転の動きが進んでいる。例えばカンボジアやバングラデシュは中国よりはるかに低賃金である。
中国をやっつけるトランプのやり方は、この流れを加速するだけである。それは決して米国に生産ももたらさないし、雇用ももたらさないだろう。

3.パリ協定から離脱する時代錯誤
トランプ政権は温室効果ガスの削減に反対しパリ協定から離脱した。アパラチア地方の人々は大喜びしているという。石炭火力発電が復活すれば、石炭を産出するアパラチアが潤うだろうと期待するからだ。
しかし石炭火発は本当に復活するだろうか。産業界はLNGから石炭に再シフトするだろうか。多分そのようなことは起きないだろう。そこには原発と同じように、環境問題だけではなく、経済合理性というもう一つの深刻な問題が横たわっているからだ。

4.中国の先端技術の押さえ込み
ここまではわかりやすい。しかしもう一つの狙いの方はちょっとややこしい。
杉本記者が宮崎さんに提起した質問は、「米中の技術覇権争いが浮上している」という、じゃっかん前のめりの判断が前提となっているが、はたしてそこまで事態は進行しているのだろうか。
そこまで言ってしまうのは米国側の「中国脅威論」宣伝に乗せられ過ぎではないか。
私には、まずはもう少し冷静な事実認識が必要である。

そのために、記事の追いかけを少し外れて、論点を整理しておこうと思う。(以下次項)

チェコ現代史はウィキが抜群の情報量で、これだけでほとんど事足りる。


1918年 ハプスブルグ家が第一次世界大戦に負ける。チェコスロヴァキア国家が誕生。

1938年 ナチスドイツがチェコスロヴァキアを占領。

1945年 チェコスロバキアの“解放”

4月 チェコスロバキア共和国再建 

5月 ソ連進駐軍の支配下におかれる。

1946年 選挙で共産党が勝利。共産党委員長のゴットワルトが首相に就任。

1948年

2月 「チェコ・クーデター」により、共産党が支配体制を確立。社会主義国家に変貌。

6月 ベネシュが大統領を辞任しゴットワルトが大統領となる。

1951年 大規模な共産党内の粛清。スラーンスキー書記長や外相のクレメンティスら14人が告発・逮捕される。独裁を目指すゴットワルト委員長の陰謀によるとされる。

1952年 スラーンスキー、アメリカ帝国主義に加担した「トロツキー主義者・チトー主義者・シオニスト」の罪で、死刑となる。スロバキアの党組織も「ブルジョワ民族主義」と批判され、フサーク書記長は終身刑となる。
チェコスロバキアの共産党はチェコ共産党とスロバキア共産党の2つに分かれていた。一般にはスロバキア共産党は風下に置かれていた。
1953年

3月 スターリンが死亡。ゴットワルトがスターリンの葬儀から戻ったあと死亡。慢性アルコール症と言われる。スラーンスキーが呪いをかけたのかも知れない。
 
3月 ソ連の指示を受けたノボトニーが第一書記に就任。ゴットワルトに代わる党指導者となる。大統領にはザーポトツキーが就任。

1956年 フルシチョフのスターリン批判。チェコでは無風状態が続く。

1957年 ザーポトツキー大統領が死去。ノボトニーが第一書記職のまま大統領も兼任。

1960年 7月 新憲法が成立。「チェコスロバキア社会主義共和国」に改称。
「わが国では資本主義から社会主義への移行に関するあらゆる主要な課題はすでに解決された。社会主義の道としての人民民主主義は十分にその真価を発揮し」ているとする。
1967年

第4回チェコスロバキア作家同盟大会において、作家たちが党批判を行う。

10月 チェコスロバキア共産党中央委員会。ドゥプチェク・スロバキア共産党書紀らはノヴォトニー第一書記を公然と批判。(ドプチェク自身は改革派と言うより中間派に属していた)

10月末 プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモ。官憲により強制解散。

12月 ブレジネフが非公式にプラハを訪問。ノボトニーがみずからへの支持の強化を訴えるが、ブレジネフは「あなたたちの問題だ」として、積極的なノヴォトニー支持を打ち出さなかった。
ノボトニーはソ連軍配備を拒否し、西ドイツ接近を図っていたため。ソ連の不興を買っていたと言われる。
12月末 チェコスロバキア共産党中央委員会総会。ブレジネフのノボトニー不支持発言を受けて、ノヴォトニー批判一色となる。
中央委員会総会の結果、事実上、検閲が廃止された。ノヴォトニーと体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。


1968年 プラハの春

1月5日 続開中央委員会総会において、ノボトニーが退陣。これに代わり、スロバキア共産党第一書記のドゥプチェクがチェコスロバキア共産党第一書記に就任した。ノボトニーは大統領職に留まる。
低迷した経済などの立て直しに向けた改革に乗り出す。市場経済の一部導入など社会主義の枠内で社会・政治制度の民主化を目指す。
1月中旬 ブレジネフがポーランドと東ドイツを訪問。両国首脳は「反社会主義」的影響に懸念を示す。

2月 国防省の幹部で、ノヴォトニーの側近ヤン・シェイナ将軍が公金の不正流用疑惑を受け、アメリカに亡命する。その後、シェイナはノヴォトニーの権力維持のためクーデターを企てていたことが発覚した。

3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任。第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いで辞任。

3月23日 ドレスデンで東欧5カ国会議。チェコがポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアと多国間会談。各国は反革命の兆候を指摘。

3月 ドプチェク、「人間の顔をした社会主義」を提唱。政治犯の釈放や外国旅行の解禁、企業の自主管理など。メディアへの事前の検閲が廃止され、共産党の過去の「粛清」などタブーだった内容も報じられるようになった。

3月 ポーランドで学生デモ。「ポーランドにもドゥプチェクを!」と叫ぶ。

4月 1月に続き党中央委員会総会が開かれる。『行動綱領』が採択された。
「新しい社会主義モデル」を提起し、党への権限の一元的集中の是正、企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革、言論や芸術活動の自由化をうたう。
4月 オルドジフ・チェルニークを首班とする新内閣が発足。52年に「ブルジョワ民族主義」者として終身刑を受けたフサークが復権し入閣する。

5月4日 ドゥプチェクらがソ連指導部と会談。ブレジネフは「ソ連は人間の顔をしていないのか」と不快感を示したと言う。

5月8日 チェコを除く東欧4カ国がモスクワ会談。チェコ国内での軍事演習を前倒しして実施すること、チェコの「健全勢力」を支援することで合意する。

5月末 6月予定のワルシャワ条約軍の合同軍事演習に向けたソ連軍がチェコ入りする。

5月末 党中央委員会総会が開催される。ソ連の圧力を受けて路線をソ連寄りに修正。
右派修正主義の危険性を強調し、国民戦線の枠外における政治組織を「反共活動」とみなす決議。さらに第14回党大会を前倒しして9月に開催することを決定。
6月18日 チェコスロバキア国内でワルシャワ条約機構軍の演習「シュマヴァ」が開始される。国内では軍事脅迫と受け止められる。

6月27日 作家同盟を中心に著名人を加えた「二千語宣言」が発表される。改革推進や共産党の権限抑制が謡われている。発起人は69人、賛同署名は7万に達する。
…最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない…
6月28日 ソ連の新聞「プラウダ」は、この宣言を「反革命への誘いだ」と批判する。

6月30日 合同軍事演習が終了。参加兵力は撤退せずそのまま残留する。

7月14日 ワルシャワで多国間会談。(チェコは欠席し、ルーマニア・ユーゴの参加する多国間会議を求めた)。ソ連を含む5カ国は「反革命勢力との戦いに対する全面支援」を記した共同書簡を採択。

7月29日 ソ連との国境の町チェルナで4日間にわたる両国会談。下記の項目で合意。
共産党の指導的役割の擁護、検閲の復活によるマスメディアのコントロール、非共産党系政治組織の解散、党内改革派の更迭。
8月9日 ブレジネフとドプチェクが二度にわたり電話会談。チェルナ合意の履行につき意見の相違が明らかになる。

8月15日 3日間にわたってソ連共産党政治局会議。チェコスロバキアへの軍事介入が最終決定される(17日)。

8月20日夜 ワルシャワ条約機構諸国が軍事介入を決行。「チェコの人民を、凶悪な反乱分子から守るため」に、ワルシャワ条約機構軍50万が国境を越え侵入。
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    素手で戦車を取り囲む市民・青年
8月21日朝 空挺部隊がプラハ城に降下し、ドブチェク党第一書記やチェルニク首相を拉致し、モスクワへ連行する。
ヴァーツラフ広場では戦車に対し、市民が放送局前にバリケードを築き抵抗。
ワルシャワ条約軍がチェコスロバキア全土を占拠。学生ヤン・パラフはこれに死をもって抗議。全国で100人余りの死者が出た。
8月21日 チェコスロバキア共産党幹部会、軍事介入を非難する声明を採択。党内保守派による多数派工作は失敗。

8月21日 国営放送は国歌を流し続ける。アマチュア無線などによって全世界に拡散される。

8月22日 ヴィソチャニ地区の工場で、第14回臨時党大会が開催された。軍事占領下に1,219名が集まる。大会は軍事介入を非難し、拘束されたドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を採択する。

8月23日 スボボダ大統領ら代表団がソ連を訪問。事態収拾を目指す。東欧首脳は交渉そのものに反対し、軍事占領と革命労農政府の樹立を求める。

8月26日 「モスクワ議定書」が締結された。マスメディアの統制、改革派の更迭で合意。22日の臨時党大会を無効とする。ソ連側の譲歩内容は明らかにされず。

8月27日 ドゥプチェクたち指導部がモスクワから戻る。改革の継続を表明するが、実質的には改革はストップ。

9月26日 『プラウダ』に論文「主権と社会主義諸国の国際的責務」が掲載される。
「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、…全体の利益を守るために、一国の主権は乗越えられる」

11月13日 ポーランド統一労働者党大会でブレジネフが演説。プラウダ論文と同趣旨。その後ブレジネフ・ドクトリンと呼ばれるようになる。

1969年

1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺
ヤン・パラフ
      aquamarine_324さんのページより
3月 ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロバキア・チームがソ連チームに勝利。国民が街頭に繰り出し、自然発生デモとなる。

4月 ドゥプチェクは事件の責任を取る形で第一書記を辞職。ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任。ドゥプチェクは共産党に踏みとどまる。

69年 チェコスロバキア社会主義連邦共和国と改称。

1970年

1月 ドゥプチェクはトルコ大使へと就任。西側に亡命することを期待した人事だったとされる。その前に毒薬を飲まされたとも噂される。

6月 ドゥプチェクやチェルニーク、スムルコフスキーなどの改革派幹部は除名され、「プラハの春」は終焉。ドプチェクは本国に召還され党籍をはく奪される。

1970年 コスタ・ガブラス監督による「告白」が作られる。スラーンスキー事件を描いたもの。
L'aveu

77年 ハベルら、人権擁護を訴える「憲章77」を発表し、同名の組織を結成

1989年、旧チェコスロヴァキアにおいて民主化を求める学生のデモ。これが発端となり、共産党政権が崩壊。「ビロード革命」といわれる。

12月 モスクワでワルシャワ条約機構会議が開かれる。「プラハの春」に介入した5ヵ国はこれが誤りであったことを認めた。

1990年3月 チェコスロバキア連邦共和国に改称。連邦議会議長にドプチェクを指名。

1993年1月、市場経済の移行政策や連邦政府との権限配分などをめぐってチェコとスロヴァキアは対立し、連邦を解消。

1997年に北大西洋条約機構(NATO)加盟、

2002年 宝塚の星組公演で、「プラハの春」が演じられる。

2004年に欧州連合(EU)に加盟


記紀の世界を信じるしかないのだが、相対年代として前後関係が明らかないくつかの大乱がある。
この中には九州王朝のものも紛れ込まされているので注意が必要だが、誰と誰が戦ったのか、誰が勝利したのかは重要だろうと思う。
1.神武の征服
時期はかなり明確に特定できるだろうと思う。卑弥呼より2,3代下った時代の話だ。280年から320年辺りに絞り込まれるのではないだろうか。
神武は九州王朝の組織した東征隊の幹部の一人だ。これに対抗したのは旧出雲系の集団だ。
出自で言えば九州王朝は任那系であり、出雲は新羅系だ。両者とも南朝鮮に存在した高天原をルーツとする天孫文化の後継だ。
神武から8代は九州王朝が権力を握り、その目下の同盟者として出雲系が実権を獲得した。

2.四道将軍によるクーデター
これはかなり細かく書き込まれている。何らかの史実の反映として間違いないだろう。
この崇神朝は武力を持って政権についており、神武王朝を倒したことは間違いない。誰が? 
他にいなければ、それは出雲系ということになる。ただ神武以前に大和に先着していた出雲族ではなく、越前より南下した新羅系の可能性はある。
その後の仲哀の死までの期間が明らかに一つの王朝を指している。東方進出と、吉備・出雲の奪取はこの王朝が強い軍事的ポテンシャルを持っていたことを示している。
ただし景行天皇のくだりは九州王朝からの剽窃であろう。

3.九州王朝による大和支配
これもかなりはっきりしていて、九州を支配しようとした仲哀がだまし討にあった。
仲哀が新羅に行く征かないの話になっているので、九州王朝は高句麗との戦いの最中であろう。
九州に寝返った野見宿禰が仲哀の妾(神功)の子を王に仕立てて、なんば・河内を征服した。
出雲系は反撃したが及ばず、大津まで撤退したあと壊滅した。
河内王朝には在地の大伴・物部がついた。
問題はこの河内王朝をどこまで引っ張るかということで、相当の議論がある。

4.継体の出現と実在王朝への連絡
実在王朝の金石文的確証は飛鳥寺そのものである。
ここから無理のない範囲で尺取り虫風に足を伸ばしていくと、西暦550年位までは足を伸ばせるのではないかと思う。
ここにも記紀のレベルではっきりした武装闘争の経過が残されている。
継体ははっきりしない、長期に渡る王権獲得の戦いが記されているが、肝心なことは王になるための経過ではない。即位して間もなく死んでいることである。そしてその後3代にわたり薄命な天皇が続く。つまり530年から550年までの混乱が問題なのであって、雄略の失脚から530年までは歴史上の空白と考えるべきであろうかと思う。

3と4の間には深く広い溝がある。
ここを埋めるものは3つある。一つは百済本紀である。一つは新羅本紀である。そしてもう一つが記紀である。
ここでは筑紫の君が登場し、蘇我韓子が活躍する。ともに九州王朝の幹部として戦っている。蘇我韓子が直接大和蘇我の祖となったのかどうかは不明だが、蘇我氏の超越的権威の背景となっていることは間違いない。



クロームキャストの使い方がどんどん変わっている。

kuromukyasuto
昨日はついに動画再生用のアドオンである「ゲット・ビデオストリーム」がお陀仏になった。
多分、初めてクロームキャストに触る人はマニュアルが役に立たず途方に暮れているだろう。

わたしはこの手の器械にはまったく弱い人で、スマートホンなど触ったこともない。ツイッターもフェイスブックもSTSとやらもまったく縁がない。
そういうガラパゴス人間が、パソコンでクロームキャスト相手に悪戦苦闘した、その到達段階を記しておこうと思う。

クロームキャストの差し込み、セットアップその他は省略する。これまでのマニュアルで十分間に合う。

現在は何もいらない。グーグルクロムのプルダウンメニューですべて間に合うようになった。
前は、3つの写し方があって、それぞれに異なるマニュアルがあった。クロームキャストの使用法を説明したページにはそれらの記事が満載である。
一応それらを書いておこう。意味はないのだが、不必要だということをわかってもらうには書いておくしかない。
一つはYoutube画面からの動画飛ばし。

nakata
この右から2つ目のアイコンをクリックする方式だ。一番わかりやすいが、貯蔵は聞かない。まとめてみるという訳にはいかない。
2つ目が、さきほどの「ゲット・ビデオストリーム」だ。これを探してダウンロードするのは一苦労だった。住所が断りなしに変わっていて、それ以前に書いた説明書でやろうとすると行方不明になっていて、ひどい目にあう。
しかし、必死の思いで立ち上げたこのアドオンが、昨日見たら無効になっていた。北海道は2、3日停電してネットがつながらなかったから、あるいはもう少し前の出来事だったのかも知れない。
グーグルクロムの右肩画面のアイコンをクリックすると、こんな絵が出てくる。
expired
これで以前はゲット・ヴィデオストリームの選択画面に行ったのだが、今は行かない。
そのかわりに行かない理由と、バージョンアップすれば今までどおりに使えると書いてある。しかしバージョンアップしても、やはり動かない。
現在までの経過でさんざん苦労させられているから、うすうす勘づいた。「またグーグルがなにかやらかしたな」ということだ。
案の定、右肩のプルダウンメニューで新たな細工が加えられていた。
「︙」を左クリックするとプルダウンメニューが出る。この中から「キャスト」を選ぶ。
latest
ここで「ソースを選択」という窓がポップアップする。このあいだまでのこの絵は、うろ覚えだが「デスクトップをキャストしています」だけだったと思う。
この一番下のファイルをキャストというのが、「ゲット・ビデオストリーム」と同じ機能である。また動画以外の画像については「タブをキャストしています」を選択すると出てくる。
さらに「デスクトップをキャストしています」もこれまでとは変わった。これまでは動画アプリで動画ファイルを開いて流しても、それはテレビ搬送画面には反映しなかった。パソコンの画面では動画が流れてるのに、テレビ画面は動画抜きの静止画面が虚しく反映されるばかりだった。
ということで、
まだ使い分けはいまいちはっきりしないが、どうやらそういう使い分けができるようだ。

とにかく、おそらく、多くの人がまだこのことに気づかず戸惑っていると思うので、報告だけしておく。

どうも気になるのだが、「電力の7分の1が太陽光」という赤旗記事のウラが取れない。

岡本記者の計算式は5653万キロワット(7月の最大需要)を、太陽光発電の供給実績800万キロワットで割ったものであろう。
しかし東電自身はそのことを、少なくとも積極的には明らかにしていない。
いちばんの問題は最大需要がキロワット/時であるように太陽光発電の供給実績の単位がキロワット/時なのどうかだ。

ともかく東電の昨年夏実績を調べてみるしかない。ところがこれがない。

仕方がないので、“太陽光発電+ニュース”で類似した報道がないかを検索することにする。

9月3日の朝日新聞DIGITALで
太陽光発電、九電が停止要求の可能性。原発再稼働で供給過多?  電気の需要を超えて供給が増えると、電気の周波数が変動して大規模な停電につながりかねない。

というニュースがあった。
九州では太陽光発電が普及し、4月29日午後1時には電力消費のう8割以上を太陽光発電がまかなった。
九電は太陽光発電による揚水発電などで需給のバランスを調整してきた。これらの調整が難しくなれば「出力制御」する他ない。
九電では原発が再稼働し原発4基態勢になった。このため消費の少ない春/秋には電気が余ることになる。
というのが要旨

スマートジャパン 2018年07月17日
中国電力エリアの太陽光発電が「出力制御枠」に到達、今後の接続は無補償に
中国電力が再エネ電気を受け入れられなくなった。
この後は、再エネ事業者が年間30日を超えた無補償の出力抑制に応じることを前提に、接続を受け入れることとなった。
中国電力への接続は2018年7月11日現在387万kW、さらに接続申し込みは273万kWに達している。

スマートジャパン 2018年6月
このほど閣議決定された「第5次エネルギー基本計画」は再生可能エネルギーが“主力電源”と宣言した。
国のエネルギー基本計画では2030年時点での再生可能エネルギー比率が22~24%、その中で太陽光発電には7%となっている。
これを克服するためには“コスト競争力”を持つことが必要だ。非化石価値取引市場が創設され、経済化が可能になっている。
さらに自家消費を活用することで、系統への負荷を下げることができる。

赤旗とほぼ同内容の記事があった。
中日新聞 2018年7月25日
中部電力の管内は、猛暑で想定を上回る電力需要となっている。
しかし、電力は潤沢に供給され、エアコン使用にも耐えている。
理由は急速に導入進む太陽光発電のためである。太陽光は晴天時に500万~600万キロワットの出力がある。
電源構成の6割を占める液化天然ガス(LNG)は日没後の太陽光の電気が急減する中で出力調整に力を発揮している。
7月の3日間の最大電力は2600万キロワットで、想定していた2500万キロワットを上回った。
それでも供給余力を示す予備率は7%以上あり、中電は節電を呼び掛けていない。
良いことづくめの太陽光だが、今後は「電力余り」が深刻な課題となりそうだ。閑忙期の春、秋には火力発電は出力を絞らざるを得ず、投資回収が難しくなっている。

一方で、関西電力の態度は対照的である。
関西電力の管内で、暑さで冷房需要が増加し、余力が2%しかない「非常に厳しい」状態となった。
関西電力は、東京電力や中部電力など、合わせて5社から計100万キロワットの電力の融通を受けて乗り切った。
関西電力については、新エネルギーの採用率が低いことが挙げられている。平成29年度の関西電力発電量で、新エネルギーの割合は、0.029%しかない。
これにははっきりした理由がある。関西電力は原発に凝り固まっており、いまや前世紀の遺物と化しているのだ。原理主義者・関電のページを見ると唖然とする。それがこの「細野真宏の世界一わかりやすいエネルギーの授業」というページだ。 
正しいか正しくないかという問題以前に、関西電力のホームページとしてこのような記述がいかがなものか? と、思わず苦笑してしまう。電力料金がこのような形で使われることの妥当性は、法的にも問われるのではないだろうか。
kansaidenryoku

テーマ1の「『太陽光発電は原子力発電の27基ぶん』って本当?」という見出しは、小泉元総理大臣が喋った言葉を「無知のたまもの」と嘲っているのだ。
中身は見てくれればわかるのだが、これは稼働率を掛けていない瞬間の数だから、全然話にならないといっている。
しかし御承知のように電気というのは生もので、ピーク時にどれだけ点数を叩き出せるかが問題になるのだ。野球でも最近では打率より得点圏打率や出塁率を評価するようになっている。
「足りなきゃ他人から借りりゃいい」と思っている人に意見されたくはない。
第二に稼働率を言うなら有効稼働率を考えるべきだ。経済的に見た原発の最大の弱点がそこなのだ。とにかく需要がなくても発電し続けなければならない。それは捨てるしかない。
それに比べると、とにかく太陽光はコストが安い。これが決定的な利点だ。ちまちまとやっているから小回りも融通も効く。台風で吹き飛ばされたら、拾ってきてまた据え付ければよい。
問題は火発との折り合いなのだろうが、そのへんはパブリックなコスト負担でもよいのだろうと思う。そうしてもなおかつ安い。

私のアイデアだが、かつての休耕田のように農民を売電地主にしてはどうか。こういう形で整備された平地を残しておくことは、将来の役に立つのではないかと思う。

中野徹三他の共著による「スターリン問題研究所説」という本がある。この本のなかに、スターリンの弾圧に関する3つの統計があった。とりあえず引用しておく。

1.フ秘密報告など
党幹部への弾圧を示す一連の統計である。
17回大会で選出された当中央委員及び候補139名のうち、98名すなわち70%が逮捕され銃殺された。(主に1937~1938年)
…票決権または発言権を持つ1966名の代議員のうち1108名が、反革命的犯罪のカドで逮捕された。
メドベージェフはウクライナの共産党組織に関する数字を報告している。ウクライナの党員総数は1934年の45万人余りから、38年の28万人に減った。
ベールヒンの研究によれば、「36年憲法」草案を準備した憲法委員会の委員32名中、21名が弾圧の対象となりそのほとんどが刑死・自死した。

2.ロバート・コンフェクトの「大粛清」研究
表現がロシア文学風で、回りくどい。
弾圧はすでに1920年代末に始まっているのだが、大粛清というのは37年から始まる。
37年1月までは小弾圧だったかと言うと、決してそうではない。
37年1月時点での収監者・収容者はすでに500万人を数えていた。
それから2年間が、いわゆる大粛清の2年である。
この2年の間に新たに逮捕されたものが700万人いた。つまり合計で1200万が収監者・収容者である。
しかし2年後の38年12月、収監者・収容者は900万人にとどまった。つまり差し引き300万人が死亡したことになる。コンフェクトはこのうち処刑されたものが100万人と推計している。釈放者もいた可能性はある。

3.メドヴェージェフの報告
1956年、第20回大会直後の数ヶ月で500万人以上の政治犯が釈放された。
30年代から50年代に及ぶ被逮捕者・被収容者の延べ数は推測不能である。

4.エム・マクスードフの研究
「1918年~1958年におけるソ連の人口喪失」という論文にまとめられている。これはあくまで従来のセンサスを用いた推計である。
人口センサスに平常時の死亡率を掛けて、仮定人口を得た。この数と実際の調査結果の差が、公表されていない大量弾圧による人口喪失とした。
「(対独戦争での)750万人を超す兵士の死、600~800万人と言われる非戦闘員の喪失という膨大な数字がある。しかし900~1100万人の人口喪失は、ファシストの攻撃とは直接関係ない数年間に生じている。これこそスターリンの弾圧による喪失にほかならない」
表現がやや面倒くさいが、要するに
1940~45年の戦時中に750万+800万=1550万が死んだ。しかしその前後(実際は多くがその前だろうが)にも1100万の過剰死があった。これはスターリンが殺したロシア人の数である。
ということだ。
以前、第二次大戦でのロシア側死者の数が多すぎると疑問を呈したことがあったが、この大粛清による死亡もあまりにも多すぎる。
敵であればまだしも理解できるにしても、いわば「昨日の友は今日の敵」である。しかも相手は、殺されるまで「自分は友だ」と思っているのだ。
いまだに飲み込めないものを抱えている。
もうすこし他の資料もあたってみたい。


許せない北電の怠慢

おそらく世界的に見ても例のない事態ではないだろうか。500万人が住む島のすべての電気が一瞬にして止まってしまったのだ。これは天災ではなく人災だ。
これだけの重大事故を起こしながら、北電のトップに反省の色が伺えないのも摩訶不思議である。
停電以来私たちの情報はラジオに頼ってきたのだが、ここで北電の代表が喋ったのを聞いた記憶もないし、まして謝罪の言葉も一切聞いていない。
だいたいが、こんなクソマニュアルが作られ、平然としてまかり通っていたところに、北電という組織の企業精神の最大の堕落を感じる。

メディアの情報で下記のことがわかった
① 道内最大の厚真火力発電所が地震によって運転をストップした。
② このため需給バランスが一気に崩れ、他の発電所に過重な負担がかかったため、それらの発電所も緊急停止した。
③ 東京の人の評価では、北電はこれらの可能性を想定していなかった、らしい
というのである。
それならそれで分かった。あとは順次運転を再開して、厚真火発がダウンしたための不足分は、いろいろ融通しましょう、ということになる。
それができないのだ。
6日の朝から日暮れまでは10時間はある。その間になんとかなると誰でも思っていた。
昼前には経産大臣が直接会見し、「4時間以内に復旧させるよう北電に指示した」と語った。これはNHKのラジオでも流された。
しかしそれは遅れに遅れた。というより、北電は為す術を知らなかった。
午後になって、経産省は矢継ぎ早に指示を出した。水力発電をただちに稼働せよ、これによって厚真以外の火発の再稼働を行え、本州からの送電受け入れを開始せよ、救急用に全国から電源車を確保せよ…
まさかと思った電気のない夜がやってきた。これほどまでに北電がアホだとは思わなかった。
しかも反省の色をサラサラ見せない。「受忍せよ」という態度がありありだ。
これはブスの根性悪だ。
「おカミ」として業務を独占している植民地会社の、最悪の面がさらけ出されたということだ。内地並みの水準で見るなら会社の体をなしていない。

電力会社がやってはいけない最大のミスが「全電源停止」だ。そこまで行かないように、何重ものフェイルセーフのネットを掛けていくのがすべてのマニュアルの肝だ。
想定外というが、想定外とは言わせない。地震で発電所が落ちるなんていうことはこれまでいくらでもある。
「周波数が合わない?」
とぼけたことを言いなさんな。子供のいいわけじゃあるまいし。周波数があっていないのはアンタ方の頭でしょう。
それで周波数が合わなかった。「だから俺達は悪くなかった」って言えるのですか。言うつもりなのですか。
これからの時代もっとも怖いのはサイバーテロだ。北朝鮮がミサイル飛ばしたと行ってアラート鳴らしているが、あれは反共宣伝にしか過ぎない。もし北朝鮮が日本を攻撃するならサイバー攻撃に決まっている。発電所1ヶ所壊すだけで北海道がマヒするのだから、これほど美味しい標的はない。
エネルギーの根幹を託されている人間であるなら、そのことに思いを致すべきだ。

ミスは誰でもある。しかし反省しないミスは、ミスではなく犯罪だ。
とりあえず、総務・経理担当以外の会長・社長・執行役員は全員辞職すべきだ。第三者を入れた監査体制を強化するとともに、早急に国の責任で技術監査を行うべきだ。
他の電力会社から人材を突っ込まなくてはならない。とくに保安・技術部門には少なくとも2けた規模で幹部を突っ込まなくてはならない。当然、来たい人など誰もいないだろうから、経産省に一度アマアガリしてから出向してもらうことになるだろう。

これら技術幹部にやってもらいたいのは、技術優先の企業風土の涵養、すなわち集団的技術形成だ。
馴れ合いを排し、異論も受け入れ、叩き合い・磨き合いの精神を引き継ぐことなしに技術は進歩しない。

古本屋で吉田舜さんという方の「古事記は銅鐸を記録していた」という本を見つけ買ってきた。
吉田さんはまったくの市井の研究者で、おそらく退職金の一部をはたいて出版したのではないかと思われる。
中身をパラパラ読み始めたが、30年近くも前の出版で、申し訳ないが少々古い。
一応私なリに整理する。繰り返しが多いので、読み飛ばしていただいても結構です。

1.「銅鐸人」の正体は誰か
A) 銅鐸の使用年代
おそらく紀元前200年前後までは遡る。北九州に始まり徐々に西漸していった。
紀元250から300年位にかなり急速に使用されなくなった。尾張~遠江が最後に使用開始され、最後に中止された地域である。
B) 銅鐸は信仰と関わる用具であった
銅鐸はただ放棄されるのではなく、壊され埋められた。それと同時に銅鐸に関する知識もきっぱりと廃棄させられた。
これは異民族・異文明・異信仰による弾圧と考えられる。
C) 銅鐸人は現在の大和人とは異なる人種
銅鐸人は少なくとも大和王朝につながる人々とは文化的、宗教的に異なる人種である。
彼らは大和人に征服され、服従を強いられ、その文化・信仰を奪われた。ただし殺されたというエビデンスはない。
ここまではガチガチの事実として確認できるだろう。
D) 銅鐸人は稲作を営む青銅器人だ
水田耕作を営んでいる点ではまさに弥生人である。縄文人とも共生し混血していた可能性はあるが、縄文人ではない。
さらに青銅器文明を享受していたことを考えると、彼らが長江文明の流れをくむ渡来人であった可能性は高い。
異なる文明だからこそ破壊されたのである。

2.銅鐸文化を滅ぼした人々
銅鐸の衰退を“ニューカマー”の進出と重ねるなら、彼らは紀元前後に北九州に進出し、さらに200年をかけて山陰地方に拠点を形成しし、紀元300年前後に近畿を、その後の100年で北陸、東海、山陰、山陽を手中におさめたと考えられる。
彼らは朝鮮半島北部からの文化や信仰(天孫信仰)を持ち込んだ。とりあえず天孫族と呼んでおく。
A) 二波にわたる征服
紀元前100年ころに北九州に上陸したのは朝鮮南海岸から来た天孫族で、彼らは北九州を平定した。
おそらく紀元50年から100年の間に東海岸から天孫族の別部隊(新羅)がやってきて出雲から鳥取あたりに上陸した。
B) 新羅→出雲の天孫族の動き
スサノオ系天孫族は出雲から東に勢力を広げ、越前まで勢力を伸ばす一方、山陽に入り河内・大和まで進んだ。
彼らは銅鐸人の国を滅ぼし、逆らうものを殺し、信仰を抑圧し、みずからの文化を押し付けた。
これが纏向王朝で紀元250年ころ、九州王朝における卑弥呼の時代である。
スサノオ系の東方進出と出雲の国譲りとの前後関係はわからない。したがって因果関係もわからない。

以上の点を前提にした議論でないと、どこかに無理が出てくるからその分強引になる。




をご参照ください



ヒッグス粒子がボトムクォークに崩壊
加速器実験で観測成功

というニュースだ。流石にわからない。以前にヒッグス粒子の勉強をしたとき、まったく分からないということが分かった。
ただその中で存在というのはエネルギーなのだなと感じたことだけを覚えている。エネルギーというのは質量にもなるし加速度にもなるし熱量にもなるし光にもなる。とにかくアモルファスですべての源なのだ。
とにかく言葉だけでも再勉強だ。
中村秀生記者がきれいにまとめてくれているので、中身はわからないのに、見てくれだけはよく分かる。

1.ヒッグス粒子について
まず囲みの中の用語解説から、
「標準理論」というのは前に勉強した。
素粒子の世界は17種類の基本粒子からできている。キッズサイエンティストから拝借した表をもう一回展示する。
素粒子
ということでいちばん右下にいるのがヒッグス粒子で、これが他の粒子に質量を与えるとされる。言ってみればこの表はまさにヒッグス粒子のためにあるといっても過言ではない。ニュートンのリンゴはここに落ちてくるのである。
ヒッグス粒子は通常は真空のなかに潜んでいますが、加速器実験によって高いエネルギーを得た真空に一瞬だけ姿を現します。
というなかなか文学的な叙述。
しかもこれは日常の姿に過ぎず、宇宙誕生時には特別な有り様が出現する。

最初、宇宙は高温で真空で、「ヒッグス場」によって満たされていました。すべての粒子は質量ゼロで、その真空の中を高速で動き回っていました。

その後、宇宙の温度が下がっていくと、突然ヒッグス場の状態が変わります。(なぜかは語られないが、気相が液相になるような感じだろうか)

このため粒子がヒッグス粒子と結合し、“重さ”を獲得します。これはすべての粒子について平等に起こるわけではなく、ヒッグス粒子との結合が強い粒子ほど多くの質量を獲得し、その結果重くなります。

ということで、ヒッグス粒子が重さ付けをすることで、エネルギーの一部が物質に変わるプロセスの感じはつかめる。

「物質というのはエネルギーと質量の統一体だ」と言ってもよいのかも知れない。

2.今回の実験の意味

ヒッグス粒子の存在を確認する実験については以前触れたので省略。

基本的にはあの時の実験の流れのようだ。

囲み記事の紹介から類推すると、ヒッグス粒子が存在することは証明できた。そしてそれがヒッグス以外のさまざまな粒子と結合することも証明できた。では結合したあとヒッグス粒子はどういう運命をたどるのか、ということがいろいろ考えられた。

その結果、“素粒子物理学の標準理論”にもとづいて、次のような仮説が立てられた。

ヒッグス粒子はその他の素粒子に質量を与えたあと、みずからも物質を構成する素粒子の一つになります。
その素粒子とは、フェルミ粒子グループの一種である「ボトムクォーク」です。
ヒッグス粒子はみずから崩壊し、二つの「ボトムクォーク」のペアーとなります。
そして今回その仮説を証明することに成功したということのようである。
ただし、実験内容については面倒なため省略する。

3.ボトムクォークとは
中村さんはボトムクォークを以下のごとく説明する。
ボトムクォークなどのフェルミ粒子には、質量の小さい第一世代から、質量の大きい3世代まであります。
…一方、力を伝える素粒子のグループもあり、こちらはボース粒子と呼ばれます。
これは非常にまずい説明である。少なくとも素人には人を煙に巻く“反説明”というべきである。
上の図に基づけば、フェルミ粒子は「物質粒子」で、ボース粒子は「力を伝える粒子」というべきである。
さらにフェルミ粒子には、12種類の物質粒子だけでなく、複合粒子であるバリオンに属する陽子や中性子もふくまれる。
中村さんの論旨はこのあたりから揺れ始める。
記事の冒頭で、「今回の実験はヒッグス粒子が崩壊して2個のボトムクォークになることが証明された」ということになっているが、とんとその話が出てこない。
なにか訳のわからない写真が掲載され、その説明にこう書いてある。
ヒッグス粒子がボトムクォークのペアに崩壊した。
ヒッグス粒子とともにW粒子が生成されるが、このW粒子はミュー粒子とニュートリノに崩壊する。
ということで、実験結果ははるかに多彩で多義的なようである。おそらく複雑で難しいから中村さんは割愛したのだろうが、割愛の仕方が悪いからよけい難しい。

4.中村さんによる実験結果の説明
A) 今回、第3世代クォークであるボトムクォークとヒッグス粒子との結合が観測された。
B) これまでトップクォーク、タウとの結合が観測されているので、物質粒子の第3世代との結合としては3つ目になる。
C) その他、力を伝える粒子グループのWとZ(すなわち弱い相互作用グループ)との結合もすでに以前から確認されている。
ということで、「おいおい、それだけの話しかよ」という感もなくもない。

5.今後の研究目標
この実験に日本チームの代表として加わっている花垣さんの談話。
第1,第2世代の粒子がヒッグス粒子と相互作用するのは稀である。まずは第2世代の中のミュー粒子を標的に観測していきたい。またヒッグスとヒッグス同士の結合も見つけたい。

ということで、解説は滑り出し快調ながら、じゃっかん尻切れトンボに終わっている。もう一度整理して提供していただければと願っている。



太陽光については、相当底が深い問題がある。

Ⅰ 自然エネルギーの中での太陽光の意義
技術的には太陽光がコスト問題をクリアーしたのかどうかという問題が、私としては未解決である。
いつどの記事で書いたかは忘れたが、新たな代替エネルギー問題について震災直後から2年くらい問題意識を持ったことがある。
あのときの自分なりの印象としては太陽光は補助金なしでは行かないし、それが電力コストに乗っかってくるのであれば、主要電源にはならないだろうと考えていた。風力には台風という天敵がある。日本に適当な立地はないと考えた。
当時の結論としては

1.自然エネルギーのどれを選択しようと、それは産業資源として考えなければならない
やるのは発電という基幹産業なので、環境のためにやるのではないということだ。いまのところLNGプラスアルファでやっていけるのであれば、基本それで良い。
2.産業資源なのだから世界中の資源を対象に考える
LNG・石油・石炭・ウランが輸入なのに、自然エネルギーが輸入でいけないということはない。「安全・安心・安価」ならどんどん買い付ければ良い。

3.エネルギー問題の技術的ネックは貯蔵問題だ
電池の改善はどんどん進めるべきだが、規模的には限界がある。揚水は日内サイクルで考える際には有効だが、年間サイクルで考えるには非効率的だ。
やはり液化水素あるいは液化炭化水素による保存・輸送しかないと思う。これの大形プラントがコスト的に引き合うようになれば、タンカーによる輸送、パイプラインの普及などで「ガス・電気一体化」エネルギー供給システムが出来上がるはずだ。

4.経産省が最大の妨害者
発電コストの低下
見づらいが、クリックすれば拡大します。
この間、バイオマスも地熱もメタンもコストは横ばいだが、太陽光の1kwhあたりコスト($)は実に72%も削減されている。他にもいろいろ個別問題はあるにせよ、フクシマ後数年で自然エネルギーのコストは劇的に下がっている。
少なくとももはや絶望的なコスト差はない。総合コストを考えれば原発は廃止し、自然エネルギーに移行すべきなのだ。
もう一つの問題は、世界の意向に逆らって原発にこだわったことだろう。かつて公害を奇貨として技術革新を成し遂げ、世界の生産技術の頂点に上っていったのが日本だった。
それが今は自然エネルギーという巨大なビジネスチャンスを逃し、フラッグ・エンタープライズの東芝を失い、三流国に成り下がったということだ。すべては経産省、とりわけ省内アメリカ・マフィアの責任だろうと思う。

4.私の夢
当時、私にとって最高のアイデアは、三菱商事の提案した「パタゴニアの風」作戦だった。
パタゴニアでは1年中アンデスから吹き下ろす烈風が吹きすさぶ。そのほとんどが不毛の大地である。
ここに数万本の風車を建てると、日本の電力需要がほぼまかなえるそうだ。この電気を現地で液化水素に変えてLNGの船で運ぶ。
LNG価格は原油価格に直結している。中東諸国が直結させているからだ。その原油が50ドル台では、液化水素は到底太刀打ちできないだろうが、これからの原油はシェールガス次第だ。
シェールガスは70ドルが採算ラインだ。だから原油は70ドル以上には上がらない。しかしシェールガスはいずれ採掘禁止になるだろうと思う。ひどい環境破壊だからあちこちでボロが出ると思う。
そうなるとバレル100円の時代の再現もありうる。
その日のために、準備しておくべきではないだろうか。

Ⅱ 2019年問題
もう一つはかなり生々しい問題。
豪雪の札幌ではあまり目立たないが、最近各地では屋根に太陽光パネルという家庭やオフィスが目立つ。ちょっと郊外に出てみると結構な広さの太陽光パネル・ファームが出現している。
これはすべて2009年の太陽光奨励補助金によるものだ。通産省もこんなつもりではなかったのだろうか、フクシマ原発→電力危機を受けて一気に広がった。
普及のつもりでつけた好条件がアダとなって国庫を苦しめている。これが19年に切れる。その後補助金が一気に無くなるのか、大幅減額しつつも存続するのかが一つの問題。もう一つは先程も述べたように、電力会社の不買姿勢だ。
私の見るところ、このままなら補助金は消滅し、電力会社は買わなくなるのではないかと思う。ただ小規模、家庭用なら、蓄電池の普及と結合すれば十分生き残る道はありそうだ。
当面は法律もさることながら、更新・買い替えと修理・維持費用が問題になる。もし法律が事実上なくなれば太陽光パネルも消え去ることになる。経産省が10年間支払い続けた奨励金は一体何だったのかということになる。
この辺の兼ね合いが難しい。予算が厳しいのは分かっているから、経産省が電事連に強力な行政指導を入れて、買電枠を確保することになるのだろうが、電事連が自分の首を絞めるような指導を受け入れるだろうかということもある。
この辺はもう少し勉強してみないとわからない。

下記もご参照ください






フクシマ以後の電力課題は「安全、安定、環境、コスト」である。逆に言えば、いわば四重苦からの出発である。
電源別電力量の推移
            (左クリックで拡大)
2010年度では、石炭、天然ガス、原子力の御三家で85%を占めていた。
それが16年度では原子力が激減(△2,800億kWh)した。それを埋めているのが天然ガス1,100億増と節電1千億kWhである。ほかに太陽光が460億、石炭火発が400億ほど増やしている。

その中で太陽光が電力課題解決の鍵となりそうな様相を呈している。風力と比較してみると、いかに太陽光が日本の基幹電源かが分かる。日本の風はあまりに強すぎ、あまりに気まぐれすぎる。

太陽光発電を進める上で最大の障害となっているのが電力会社だ。
彼らは発送電一体にこだわり、原発にしがみつき、太陽光を最大のライバルと考えている。彼らの発想が変わらないと日本の電力事情は厳しいままだ。

2019年は、太陽光発電の10年の買取義務保証期間が終わる。電力会社はこれを機に契約を打ち切り、買取価格を下げ、原発なしに生きていけない時代の再現を目指している。

しかし否応なしに彼らを動かす市場事態が進行している。
それがこの夏の猛暑だ。

2018/08/21JEPX便り
7月の「100円相場」を検証する
データで見る市場運営の晴れない疑問
という記事を掲載していた。

7月18日、気温上昇による需要増から、関西電力は他電力会社から100万kWの緊急融通を受けた。
何故か。それは関西電力が原発に固執し買電を拒否してきたからである。
その結果どうなったか。電力市場をやり取りする卸電力取引所(JEPX)は、開設以来の最高値100円をつけたのである。

一方で赤旗によれば、買電を受け入れてきた東京電力は800万キロを太陽光で賄った(2017年実績)。これは原子力発電の8基分にあたる。
つまり東京電力並みに買電を受け入れていれば、原発の再開などしなくてもお釣りが来たのだ。(現在は大飯3号・4号で240キロ)
ただし数字の出処は不明である。東京電力のホームページの数字は数の如くとなっている。

東電 太陽光

本日の赤旗一面、
「今年の東電管内
猛暑でも電力安定供給
太陽光が貢献
原発不要 あらためて立証」
という4本見出し。
これでほとんど内容は言い尽くされている。
ただし岡本記者が気づいていないいちばん大事なことは、「供給力のおよそ7分の1を太陽光が支えている」ということだ。

記事の内容は3つあると思うので、それぞれに見出しをつけて紹介する

1.7月の電力使用量
これが実は記事からはよくわからない。
次の文章から類推するしかない。
もっとも電力の需要が多かった7月23日午後2~3時において、東京電力管内の最大需要は5653万キロワット
これがどのくらい多いのか、過去の実績に比してどうなのか、といった評価ができない。

2.発電能力に対する稼働率
「今年7月の1日の電気の使用率」というのが表になって提示されている。
わかったようでわからない表現だが、東電が買電もふくめて保有する発電能力に対する稼働率のことと判断する。
これは1日の間でも刻々と変化するもので、ピーク使用率が問題になる。
表で見ると、おそらく天候によるのだろうが、75%から93%の間で変動している。
東電の判断としては93%が危険ラインとされ、それ以下では「安定的」、それ以上では「やや厳しい」とのサインを出すようだ。

3.発電能力(供給力)の構成
この記事が一捻りしているのはこの部分であろう。
原発8基分にあたる約800万キロワットが太陽光発電で賄われました。供給力のおよそ7分の1を太陽光が支えている計算となります。
発電能力と供給力は厳密に言うと異なるが、とりあえず無視する。
おそらくフクシマ以前は原発が過半数で、太陽光はほぼゼロであったはずだから、これはすごい変化である。
問題はコストであり、これがどう変化したかが大変興味があるところである。
ただし、コストはコスト一般では判断できない。天然ガスや石油の消費は外貨の消耗、輸出入バランスの崩れも伴うからである。

4.自然エネルギーの将来
フクシマの後日本は二つの幸運に救われた。最初は著しい円高であり、資源の高騰はこれにより和らげられた。ついで円安傾向に振れたとき、今度は圧倒的な原油安がやってきた。
これらの幸運で稼いだ時間をLPG、石油依存のエネルギー構造からの脱却にいかに使えるか、これこそが日本に課せられた課題であった。
その方向、代替エネルギーがある程度見えてきたと考えてもいいのではないか。
実はこれは地球環境問題としても迫られていた課題だったのである。ただ「原発」という逃げ道を常に準備しての対策であるから本気モードにならなかった。
それが大震災後わずか6年というスピードで、電力会社の妨害にもかかわらず、太陽光発電の大発展をもたらしたのは、すごいことだ。
この数字は大いに広げるべきだと思う。それにしては7分の1というのはあまりにもアバウトだ。

このあいだ作成した「鳥の出現への道筋 年表」は、当初鳥の進化年表として作成したものだが、ほぼ恐竜年表になってしまった。
これを強引に鳥の年表にしようとすれば膨大なものとなり、収拾がつかなくなると思い、そのままにした。
そしてあらためて鳥の年表を作ることにしたが、これも果たしてうまくいくか、不安を抱えながらのスタートである。

前回の年表でも明らかな通り、そもそも鳥とは何か、どこから来たかということがはっきりしないために、混乱を招いているのが現状である。

翼竜はとりあえず除外するとして、(これはこれで十分すぎるほど魅力的なのだが)、始祖鳥から始めることについては異論がないようだ。ただ始祖鳥以外にも、われこそ元祖、本家を称する連中がいて、そのへんの折り合いは一応つけて置かなければならない。

下の図はウィキペディアからの転載である。「基礎鳥類」という言葉自体が聞き慣れないものであるが、一応この流れで掴んでおこうと思う。孔子鳥などのグループを「旧鳥類」と呼ぶ人もいて、それなりに便利だ。

その後、あまり重要でないいくつかの分岐を経て現生鳥類(Neornithes)が登場する。白亜紀の終わりというから隕石絶滅イベントの直前ということになる。

鳥の意味のある分類は古顎類(ダチョウなど)と新顎類の二つだけで、後は適応系と進化系の区別がついていない。というよりゲノム解析法の導入でずたずたになってしまったという感じだ。

ゲノム解析法の導入の最大の功績は、形質や機能に基づくこれまでの分類が意味がないことを明らかにしたことだ。
鳥の多様性は時間軸の上に形成されているのではなく、一気に水平拡散が広がり、一種のエピジェネティックな「獲得形質の遺伝」がもたらされたのではないかと思う。

そうするとあまり「進化の年表」というふうに追い込んでいくと鳥に逃げられそうだ。

とりあえず生態学の基礎を押さえていくのが利口だろう。

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