鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

第8章 「先史時代の日本」 その2

前回は世界史から見た日本ということで、『序説」の壮大なパースペクティヴを紹介しましたが、今回は日本論に集中します。実はここのところが一番書きづらくて執筆を躊躇していました。

この章では日本に伝来してきた西方文化がどのように日本の先史時代を形成してきたのかについて触れていきます。

といっても先史時代論そのものを展開するわけではありません。マンローの先史時代論がどのような先見性を持っていたのかを明らかにすることが目的です。

マンローには独特の用語があり、それは彼の独特の史観に基づいています。ここでは一般的な用語に置き換えて説明しますが、独特の用語を用いた理由については、必要に応じて説明していきたいと思います。

先史論の基本的な柱は時代区分論と、先史時代をになった人々が誰かという2つの問題に帰すると言えます。

A. 時代区分論

マンローは先史時代を縄文時代と古墳時代とに分けます。これは当時の日本の考古学会の主流だった考えです。

これは天皇制と神話を受け入れざるを得なかった以上仕方がなかったのかもしれません。

そうすると大森貝塚以来、各地で見つかる縄文遺跡はどうも記紀の時代とは結びつかないのです。

そこで縄文時代の文化は一旦絶滅し、その後現代に日本民族の祖先が朝鮮半島から降臨してきたのではないか、という事になっていました。

マンローは古墳時代を鉄器時代ととらえ直すことによりこの分離論に挑みます。そして鉄器時代の前に短いが重要なもう一つの時代、すなわち青銅器の時代があったのではないかと考えたのです。

そして3つの時代は断絶することなく、相互に重なり合って大和王朝の時代へとつながっていったのではないかと考えたのです。

これは当時教科書となっていた、「日本考古学」(八木奘三郎)の水準をはるかに越えたものでした。

現在縄文から有史時代への歴史区分としては弥生時代・古墳時代となっていますが、これをマンロー風に言えば、紀元前7、8世紀から紀元前1世紀くらいの青銅器時代と、その後の鉄器時代になるでしょう。

これは荒いスケッチに過ぎず、とくにヤマト文化との異同は混乱しています。

アバさんはマンローを「伝播主義」と評しています。メソポタミアから青銅器がやってきて鉄器がやってきて、それが波状的に日本に渡来したという考えは、当時は非常にユニークでした。

アバさんはこう書いています。

青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した。その後に、大陸からの新たな集団の進入によって列島に鉄器が広がった。
鉄器文明の作った古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

ここでは青銅器文化が鉄器文化と重なり、鉄器文化の担い手に押しつぶされたことが示唆されています。

B.先史文化の担い手論

マンローの提起は端的に「石器時代の人民はアイヌだった」というものです。

これは日本のアカデミーへの真っ向からの挑戦でした。同時にヨーロッパに広がっていたアイヌ=コーカソイド説にも衝撃を与えるものでした。

もし縄文人がアイヌだとすれば、遺跡分布から見て、アイヌは北海道から沖縄まであまねく広がっていたことになります。

そこに最初は青銅器人、ついで鉄器人が入ってくれば、程度の差こそあれ、それらは混血し、混血しないものは周縁部にし寄せられたという経過が浮かび上がってきます。

ヤマト政権にとって、このような筋書きは悪夢以外の何物でもありません。

ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。

いかし縄文=アイヌの「極論」は、その後の遺伝子学的な方法で確認されました。アイヌ(とくに男性)は縄文人の血統を強く残す種族であることがあらゆる方法で確認されています。

縄文人が生活する日本列島に最初は青銅器人が入ってきて、西日本では縄文人と混血しました。これが日本人の原基となります。

ついで比較的短期の間に鉄器文化を担う人が入ってきて、現日本人を征服する形で諸国家を形成したという経過です。

まことに素晴らしい先見性ではないでしょうか。


最初にタイの経済・社会状況をマクロに抑えておきたい。
タイ王国は、富の約70%を1%の富裕層が保有する世界一の格差社会である。格差が放置されていることから内需の増大は見込めず、中間層が育ちにくい環境が続いている。
格差が大きいということは都市と地方の格差も大きいということであり、貧富の差に加え地方の文化格差も大きい。
したがって地方から都市への人口圧力も大きく、バンコクのスラム街では、約200万人が不衛生かつ狭小な環境での生活を強いられている。そこに住む人は犯罪、流行病、家庭内暴力・性的虐待、麻薬に悩まされていて、識字率も低い。
さらに最近では国際都市バンコクに隣国ミャンマーやラオスからの経済難民も押し寄せている。
バンコクのスラムは、国境を越えて人々が暮らす より)
なお民主派学生・知識人のたたかいは、農村地帯の貧農を支持基盤とするタクシン親子の政権とは性格を異にしており、同一視することはできない。むしろ民主化運動参加者には、タクシン流政治を不潔だとして嫌悪感を持つ人も少なくない。長期的に見てこれは幸せなことではないと、私は思う。
民主派の要求は政治体制の変更である。しかしタクシンの政治は経済の変更である。それは01年の首相就任時に掲げた貧困対策の三本柱、すなわち①農民負債の返済猶予、②低額の健康保険、③庶民銀行の設立だ。
貧困層を味方につけなければ闘いは敗れるだろう。経済政策を掲げなければ、民主化は中途半端に終わるだろうと、私は思う。

以下は今年に入ってからの民主化の動きの経過である。


2020年 タイ民主化運動

1月

2月

民主化運動を担う政党、「新未来党」(FFP)が憲法裁判所により解散命令を受ける。新未来等は昨年の民政移管選挙で躍進し変革の担い手として期待されていた。

3月

末 プラユット首相が非常事態を発令。その後数度にわたり延長される。

4月

は全土を対象に外出禁止令を発動する。

5月

新型コロナウイルスにより非常事態宣言。バンコクはロックダウンされる。

6月 

初め 最大与党・国民国家の力党で派閥抗争が表面化し、執行部の半数が辞表を提出する。

4日 民主活動家ワンチャラーム・サタシット、亡命先のカンボジアで行方不明になる。

市中感染の減少を踏まえ、夜間の外出禁止措置が解除される。非常事態宣言は解除されることなく、繰り返し延長される。

7月 

ロックダウン解除に伴い、学生のデモが再拡大。中高生、女学生を中心のデモとなり、学内えの抗議活動と結合して展開される。

さらに軍事政権の支持派もデモに参加するなどかつてない広がりを見せる。

8月

3日 人権派のアノン弁護士が集会で演説。「タイ社会に寄り添う王室を」と呼びかける。

16日 バンコクの集会に、1万人ないし3万人が結集。クーデター以来、最大規模となる。議会の解散、新憲法制定、批判者に対する弾圧中止の3項目の要求をかかげる。さらに国王ラーマ10世への批判も公然と掲げられる。

9月

5日 バンコクの集会。三本指のピースサインと手首に巻いた白いリボンの高校生が目立つ。

19日 タマサート大学を占拠した学生が、隣接する王宮前広場に進出。5万人以上が参加し、14年以来最大規模となる。リーダーの一人は、国王と王室について糾弾し、王室改革が必要だと訴えた。

20日 続開集会、王室関連予算の透明化や王室への表現の自由などを求めた請願書を警察当局に提出。

10月

13日 バンコクで最大規模の反政府集会。その後連日の集会とデモを開催。

14日 デモ隊の脇を王妃が乗った車が通る。デモ参加者らは3本指を立てて罵声を浴びせる。

15日 プラユット政権は本格的な弾圧に乗り出す。非常事態宣言を発令し、5人以上の集会を禁じる。学生はSNSで直前に複数の開催場所を告知。数カ所に分散して交差点や道路を占拠。

15日 メディア側は規制は「報道の自由を脅かすもの」と反発。

16日 放水によってデモを強制排除。この場面はSNSでライブ中継され批判が集中する。集会はいったん解散。夕方から市内の交差点で集会開催。

16日 プラユット首相が記者会見。「権力を見くびらない方がいい。誰もがいつ死ぬか決まっている。病気か事故か、それともほかのことで。それは今日か、明日かもしれない」と恫喝。

16日 アムネスティ・インターナショナルは「平和的な抗議行動に対する過剰で不当な力の行使で、合法性や必要性を欠いている」との声明。

16日 24時間で20人を越えるデモ指導者らを逮捕。

17日 市内各地に分散してゲリラ集会が開かれ、交通網がまひする。この五月雨集会とデモは、その後も中高生を主体に連日続く。

17日 インラック前首相がSNSでプラユットの退陣を促す。

18日 この日は戦勝記念塔前でメイン集会。約1万人が集まった。

21日 プラユット首相、非常事態宣言を解除すると発表。議会に解決を委ねるよう呼び掛ける一方、辞任の要求は拒否。逮捕者の釈放も拒否。

21日 バンコク中心部で1万人規模のデモ行進。「プラユット首相は退場を」と連呼しながら首相府付近まで進む。

23日 ワチラロンコン国王やスティダー王妃が王室支持者に「あなたはとても勇敢だ。ありがとう」と声をかけた。

24日 タイ議会、憲法改正の判断を先送りする。現行憲法(17年制定)は、250人の上院議員を軍が任命する独裁憲法。

25日 ふたたびバンコク都心部の交差点を占拠し、抗議集会を開催。

11月

16日 国会で憲法改正について議論することが決まる。与野党と反体制派に近い市民グループが計7案を国会に提出。

17日 黄色のシャツの王室支持派がデモ隊と衝突。50人以上が負傷する。デモ隊の一部はバリケードを突破し、国会に向かう。

18日 タイ国会、憲法改正草案を検討する会議の設置を決める。野党がもとめた王室改革などは、改正対象から外れる。


1.何でもウィルス説のおとしあな

日経新聞土曜版の科学面にウィルス学の進歩に関する連載が掲載されている。
先週は、気候変動に及ぼすウィルスの影響が取り上げられていた。

当然ウィルス屋さんに取材して書くわけだから、ほっとけば「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも」みんなウィルスのせいということになる。

そこは取材する側の節度がもとめられることになるのだが、確認しておきたいのはウィルスは生命の起源に位置するものではないということだ。

生命の規定としては内と外、物質代謝、世代交代が必要である。だからそのためのアイテムとしての膜、蛋白・酵素、核酸が必須アイテムとなる。

これらの本質的な生命の要素をウィルスは備えていない。だからウィルスは本質的に寄生的であり、他の生命を前提としている。

したがって、それは何らかの生物から脱落した核酸を主体とする、不完全な「生命」ということになる。

これを前提に話を進めていく。


2.ウィルスの起源

ウィルス論というのは、本質的にウィルスの起源論である。しかし探したら、これが意外とない。ウィキペディアの「ウィルス」の項目では起源問題は触れられていない。
獣医学会のホームページに「人獣共通感染症 連続講座」の一つとして「ウイルスと現代社会」という講義が掲載されている。


この書き出しが面白い
ウイルスがどのようにして生まれたか、その起源については、1940年代にバーネットが3つの仮説を提唱しています。
その後、議論はほとんどなく、1994年にモースがバーネット説について、あらためて詳細な解説を加えています。
ということで、「ウイルスの起源」については50年以上もまともな議論はされてこなかったということにる。今日の日進月歩の科学の発達の中できわめて珍しいことではないだろうか。

そこで3つの仮説だが
① 微生物(たとえば細菌)が退化
② RNAワールドの遺物
③ 細胞の遺伝遺伝子(の一部)が飛び出したもの

ということで、最初は①が有力視されたが、最近はほぼ否定されている。②は面白いが「RNAワールド」そのものが仮説の世界なので、なかなか通説にするにはハードルが高い。消去法で行くと③が有力ということになる。

いずれにしてもすべて仮説であり、結局の所「なにも分かっっちゃいない」ということになる。

これは稿を改める。


3.ウィルス進化説、またはウィルス=ロスチャイルド説

ウイルスが遺伝子を運び、生物を進化させたという仮説がある。これをウィルス進化説という。これを拡大解釈していくと最初に言った「郵便ポストが赤いのも」論になっていくので、他の問題をいろいろ片付けてから「応用問題」として取り組む必要があるだろう。

一応ウィキで概要だけあたっておく。

細胞核ウイルス起源説(viral eukaryogenesis): 2001年にベルにより提唱され、日本でも東京理科大学の武村が主張している。

一言でいうと、DNAウイルスの祖先が古細菌に感染した結果、両者が統合共生するようになり、真核生物の細胞核となったというもの。

だがこの議論はウィルスがなんなのか、どのように発生したのかという、肝心の問題をスルーしているから、いまのところは「お話」である。

なお武村は、「ウイルスだけが生物を進化させたわけでは決してなく、生物が多様な発展を遂げてきた仕組みのごく一部に、ウイルスによる影響があったというにすぎない」と強調している。


4.RNAワールド論についての感想

素人がいうのもなんだが、私はRNAワールド論にはきわめて懐疑的である。

まず第一に核酸が先か蛋白(酵素)が先かというのはタマゴとにわとりの議論であり、少なくとも「タマゴが先」論はありえない。ミラーの実験から見て、「タマゴがなくても子は育つ」ことについては決着済みである。

第二に私は染色体という言葉が嫌いだが、これは有性生殖に伴うシーンなのであって、三種の核酸(RNA)の本来の仕事は、自己複製と蛋白の生成という機能である。DNAはRNA機能のバックアップ媒体であり、DNAによる種の保存というのは核酸に付与された後づけ機能である。
そして自己複製機能の中心はRNAにあるのではなく、リボゾームというカードリーダー付きのアミノ酸チェーン製造機にあるのだ。


ラテンアメリカではこのところ、左翼の復調を思わせる新たな動きが相次いでいます。

1.ボリビアでのMASの勝利

ボリビアでは10月18日の選挙で「社会主義運動」(MAS)が大勝利を収めました。そして11月8日にはエボ・モラレスを支えてきたルイス・アルセが新大統領に就任しました。

この国では、1年前に軍とアメリカの支持を受けた右翼グループがクーデターを起こし、モラレスを追放しました。

彼らはMAS幹部の公職追放と系統的な反MAS宣伝とにより影響力をそごうと試みましたが、国民のMAS支持基盤が非常の強力であったため、権力の維持を断念せざるを得なくなりました。

2.チリ、新憲法制定に圧倒的な支持

チリでは10月25日の国民投票で、ピノチェト時代の憲法の破棄と新憲法の制定が圧倒的に支持されました。

これは軍事独裁時の残滓を最終的に放棄するというだけではなく、選挙の方法をふくめピノチェト時代の復活を二度と許さないという決意の現れです。

国民投票では、市民主導の制憲議会が新憲法を起草することも決まりました。これまでの議会のように軍人に何議席とか上院と下院とか面倒なことはなくきわめて風通しの良いものになります。おそらくこの民主的制憲議会が成立すれば、非民主的な国会は活動を制限されていくでしょう。


3.エクアドル、前大統領派が2月の選挙で圧勝の勢い

コレア前大統領は、2007年に大統領に就任して以来10年間、寡占層と対決しながら国民の権利を守り抜いてきました。

3年前の選挙では副大統領のモレーノに後継を託したのですが、モレーノは国民に背を向け、アメリカ追随とIMF主導の方向に進みました。

これに怒った国民は大規模な反対闘争に立ち上がりました。世論調査でモレーノの支持率は8%前落ち込み、来年2月の選挙を前にすでにレームダック化しています。

裁判所や選管はコレアに様々な罪を押し付け、立候補を禁止し、政治活動を許さず、国外追放しています。

これに対し、コレア派は身代わり候補を立て、中道政党に間借りするなどの対応で登録に成功しました。

4.ブラジル、ルーラ元大統領の出馬を求めるキャンペーン

ブラジルについては山崎先生から貴重な論考を頂いています。AALAニューズの次号から4回連続にわたってご覧いただけることになりました。

ブラジルのトランプ、ボルソナロ大統領の人気はすでに地に落ちています。これに代わり国民の支持を集められる候補として、ルーラ元大統領の人気が高まっています。

ルーラはブラジル史上初めて、左翼勢力の代表として選挙に勝利しました。ルーラの政策は新自由主義に忠実に従ったものでしたが、左翼的な傾向を示し、中南米の団結のためにイニシアチブを発揮しました。

いま、ルーラは汚職の罪を着せられ獄中にあります。国内外に釈放と公民権回復を求める運動が起きています。


5.これらの変化はなにを意味するか

21世紀の最初の10年間、中南米の人々はかつてなく自由で民主的な空気を満喫しました。

それが4年前、トランプの大統領就任とともにアメリカの集中攻撃にさらされるようになりました。

多くの権利が奪われ、ネオリベラリズムの野蛮な掟が復活しました。

そしていまラテンアメリカの人々は、アメリカの手口を見抜き、相次いで反撃の狼煙を上げています。

(日本AALA国際部会での発言原稿)

エクアドル: 勝利に向け最後の直線へ
事実上のクーデターから政権奪還をめざす

コレア大統領の10年間

経済困難とそれによる政治不安が続いていたエクアドルでラアエル・コレアが大統領に就任。この国に政治的安定をもたらし、農民の悲惨な生活の是正に取り組んだ。

コレアは大衆の圧倒的支持のもとに、何回かのクーデターの危機を乗り越え、10年にわたり政権を維持した。

モレノへの政権引き継ぎ

17年5月、コレアは副大統領レニン・モレーノにバトンを渡した。モレーノは自身が車椅子の障害者で、福祉の専門家とみなされてきた。

しかし、モレーノは支持者を裏切り、敵と手を結んだ。メディアが周到に準備された反コレアの一斉キャンペーンを開始した。米副大統領マイク・ペンスがエクアドルを訪問しモレーノの裏切りを称賛した。

エクアドルはキューバ、ベネズエラなどと結んだ米州ボリバル同盟 (ALBA) から脱退し、これと対抗する反共・親米の「太平洋同盟」に加入した。

昨年はじめにはベネズエラの自称大統領グアイドを承認した。キトの大使館は乗っ取られ、追い出された大使らは敵性人として追放された。

モレーノ政権はIMFのパッケージを受け入れた。 40の国家機関のうち13が廃止され、1万人以上の労働者が解雇された。

昨年10月にはモレーノの裏切りと大量解雇に抗議する全国行動が展開された。これに対する弾圧は過酷なものだった。多くの活動家が投獄され、亡命を余儀なくされた。


21年大統領選に向けて

3年間の恥ずべき裏切りと弾圧にも関わらず、コレアへの国民の支持はますます高まった。

21年2月の大統領選に向けコレアは再度の当選を目指し動き始めた。

これに危機感を抱いた国家機関は、コレアの立候補を不可能にするため暴力的手段に打って出た。

政府と検察は、コレアに対し25件に上る犯罪容疑をかけ捜査を開始した。

2020年4月 最高裁はコレアに対し懲役8年の刑を言い渡した。さらに25年間の政治的権利の剥奪も科された。コレアはベルギーに亡命を余儀なくされた。

選挙管理委員会は、コレア個人のみならずコレア派勢力の政治的権利の剥奪にも乗り出した。

当初の届け出団体Fuerza Compromiso Socialは政党登録を抹消され、ついで、選挙のためのキャンペーン組織「希望のための連合」も政治活動を封じられた。

コレア派は休眠政党の民主中道党に宿借りすtるという奇手に出て、候補者登録を狙った。

大統領候補はコレアではなく若い経済学者アンドレス・アラウスをすえ、コレアは副大統領候補に回った。

裁判所は最後に、「いかなる公職であれコレアの立候補を認めない」との決定を下した。

コレア派は、コレアを副大統領で出馬させることを断念。ジャーナリストのラバスコールを副大統領候補として選管に登録申請を行った。
エクアドル大統領候補
       アラウス(左)とラバスカル(右)

コロナでモレーノはレームダックに

4月からエクアドルでコロナが猛威を振るい続けている。感染者の総数は9月中旬までに122,000人に達した。バナナの出荷港グアヤキルでは、街路がコロナで倒れ、放棄された死体で埋まるという前代未聞の事態となった。

8月に行われた世論調査で、モレノの支持率は8%に低下。任期を半年残して事実上のレームダックとなった。

これに対してコレア組が大統領候補のトップに立った。


コレア派勢力の勝利が目前に

南米では10月、春の始まりは政治の始まりでもある。

キトでは、燃料費補助の廃止に抗議するデモが激化した。

政府は抗議行動を避けてグアヤキルに移転した。モレノは「コレア前大統領や、ベネズエラのマドゥロ大統領らが暴動をあおっている」と非難。しかし種をまいて、火をつけたのはあんただろう。

このような戦いの中で、選挙管理委員会はついにアラウスとラバスカルの大統領選出馬を承認した。

今後も反動勢力の巻き返し、謀略など迂余曲折があるだろうが、エクアドルの民衆は着実に勝利へと向かっている。

外環道工事現場の直上で陥没が起きたというニュースは、人類にとって未知のできごとだったのではないか。

多分これまで、鉱山や砕石現場の近くではこれまでも起きていただろうが、それは縦横斜めと掘りまくった上での話だろう。

しばらく前、福岡の駅前通りで道路が陥没したが、あれは地下の浅い部分の崩落だった。

大深度でトンネルを掘る程度の土砂持ち出しが、土砂の陥没を起こすとすれば、それはどういうメカニズムによるのだろうか。

やはり一番気になるのは南アルプスの真下を突っ切るというリニア新幹線のことだ。

少し調べてみる

まずは経過を時系列に並べてみる。(主に日経XTECH記事+東京新聞より作成)

1966年 東京都心から半径約15kmを環状にぐるりとつなぐ東京外環自動車道。東京都内は当初高架道路として建設する予定だったが、住民の反対運動などによって凍結。
外環_日経

2007年 都内部分、地下40mより深い大深度トンネル方式へ変更し工事を開始することとなる。すでに埼玉県と千葉県内の約50kmが完成。現在は東京都内の工事が進んでいる。

2012年 大泉JCT-東名JCT間の6車線16.2kmの工事が始まる。縦て坑を掘りシールド機を入れ、4箇所で掘削開始。総工費は1兆3千億円が見込まれる。
事業概要

2916年 大泉区間の工事費を再評価。1兆7千億円と大幅に膨らむ。

2020年

7月 さらに工事費の値上がり。国土交通省関東地方整備局の試算で2兆4千億と、当初の2倍近くに達する。事業費増大の主な要因は、中央自動車道と接続する中央JCTの地中拡幅部の工事。
当初は馬てい形の断面を想定していたが、円形断面に変更し、施工中の耐力を確保することとなる。
また工事で使う空気の一部が地上に漏出したのを受け、空気不使用の方法に変更した。
この再評価で、投資額に対する経済効果を示す「費用便益比」は1.9から1.01にまで低下。
断面イメージ

9月14日 事故現場直下47メートルをシールドマシンが通過。

東京新聞の取材: 通過前後の10日間、毎朝9時半から夜7時まで10日間揺れが続いた。スマホの震度計アプリで震度2ないし3の揺れ。
現場周辺の計10軒で、外壁のタイルがはがれたり、ブロック塀にひびが入るなど被害が続出。
現場の地下地盤には、礫の割合が高かったため、他工区に比べ振動が大きくなったと考えられる。

10月18日 東京都調布市東つつじケ丘の住宅地で、幅5メートル、長さ3メートル、深さ5メートルにわたって、市道が陥没する事故が発生。
調布の現場

10月26日 東日本高速道路の小畠徹社長が記者会見。「大深度での掘進が地表に影響を与えるとは全く思っていなかった」と述べる。「原因調査に伴うご迷惑」に対して陳謝。

11月2日 東日本高速が付近でボーリング調査を実施。現場から北に約40mの場所で、地下5m付近に空洞の可能性がある事が判明。

11月3日 ボーリング孔から3次元レーザースキャナーやカメラを使って空洞内を調査。

11月4日 地表面から約5mの深さに幅約4m、長さ約30m、高さ約3mの空洞ができていた。空洞内では、深さ1m程度まで地下水がたまっていた。
空洞形成のメカニズムは、蓄積された地盤の体積が振動により縮小したためと考えられる。
空洞の上には、地下2.5~5mの位置に硬い粘土層があり、粘土層の粘着力は十分な地耐力を持つものと判断。

11月5日 東日本高速が有識者委員会を開催。緊急対応は必要ないが、空洞を充填することが望ましいと判断。

11月6日 NEXCO東日本などが調布市内で周辺住民向けの説明会。報道陣には非公開で住民約90人が参加。住民からは「このまま工事を続けるのか現実的な説明はなかった」との声。


原因は一種の液状化

ということで、当初予測した「土砂の持ち出しによる表土の落込み」というメカニズムではなく振動による、「土砂の引き締まり」が一種の「液状化」に類似した副作用をもたらしたということだ。

振動による地盤の体積縮小+地盤中の空気貯留→空洞形成というメカニズムは、それ自体はかなり重大な事故である。

実はこのような事象は、2年前の北海道の大地震でも経験している。札幌市内の新興住宅地で造成された土地が地下の液状化のために陥没した。真下を地下鉄が通る東16丁目通りでも数百メートルにわたって地表が陥没した。

「大深度」信仰の破綻

「大深度での掘進が地表に影響を与えるとは全く思っていなかった」というのが工事監理者の率直な感想、あまりにも率直な感想である。

結論からいえば、地下40メートルというのは「大深度」には当たらないということだ。そのことに対する「想定」がなかったわけだ。

それは、今後の工事のあり方にも関わる深刻な問題である。


超大深度なら安全か?

超大深度で掘削するリニア新幹線では、このメカニズムは地表の陥落のような重大合併症には直接つながらないように思える。分母があまりにも大きいからだ。

しかしリニア新幹線でも間違いなく、この「地塊収縮現象」そのものは発生する。しかもかなり大規模にだ。

長期的に考えると、この空洞形成が間接的に地下水脈に悪影響を与え、水脈のありようを変化させる可能性がある。そしてその帰結が、環境破壊や想像もできない重大事故へと結びつく可能性は否定できない。

なにせ「想定外」なのだから…

ニカラグアのハリケーン被害に緊急の支援を呼びかけます

現地時間で16日の午後10時40分、カテゴリー5(上陸時4)のハリケーン「イオタ」Iotaがニカラグア北東部に上陸した。ニカラグアを襲ったハリケーンとしては、観測史上最も強い勢力だった。

ニカラグアは、2週間前にもカテゴリー4のハリケーン「エータ」が上陸し、甚大な被害を受けている。上陸場所はたった24キロしか離れていない。

ニカラグア政府は、80,000家族がイオタの影響を受けると推定し、直接影響を受けた地域に3,500人の医療従事者、2,350人の警察官、365人の消防士を配置した。

ロザリオ・ムリーリョ副大統領は、生命を守るために必要なすべてのことを行った。全国で4万人が避難したと述べた。

2つのハリケーンは、コロナウイルスのパンデミックで苦しんでいるこの時期にこの地域を襲った。

先住民の漁師であるエンリケ・ロメロは、木枠の家がイータに流されるのを見つめていた。彼は衣服、テレビ、わずかな貯金を失った。

「風、雨はとても強いです。周囲の海の音が聞こえます」と住人のシラ・ダウンズは語った。「これはイータよりも悪くなるでしょう…神が私たちを憐れんでくださることを願っています」

11月25日報道追加分

18日 ムリージョ副大統領、少なくとも16人が死亡したと発表。被災者は40万人を超え、5万人以上が避難中。カリブ海沿岸部は約99.5%が停電に見舞われている。

19日 土砂崩れや洪水による死者は少なくとも18人以上に達した。16万人以上が避難を余儀なくされている。政府の担当者は「少なくとも過去40年で最も強いハリケーンだ」と指摘する。

21日 ニカラグアで21人の死亡が確認された。

25日 ニカラグアのアコスタ財務相は、ニカラグアで44,000近くの家屋が全体的または部分的な被害を受け、7億4300万ドルの経済的損失が発生したと発表。

25日 国連人道問題調整事務所(UNOCHA)、ハリケーンイータで中米7か国の約300万人に影響を与え、最大55億ドルの被害をもたらしたと述べた。

25日 米州開発銀行(IDB)、中央アメリカ全体を襲ったIotaにかんして17億ドルの援助を約束。

支援の相談はAALA事務局へ


11月11日 Today's Debate


Opposing View: But the lesson is not to abandon Medicare for All, Green New Deal, living wages, criminal justice reform and universal child care.

バイデンの勝利は民主主義と科学の勝利

全米の進歩勢力は、ジョー・バイデンを大統領に選出するために多くの努力を費やしました。私はそれをとても誇りに思っています。

ここで明確にしておきたいのは、この選挙が2人の候補者間の通常の競争ではなかったということです。

それは通常よりもはるかに重要な選挙でした。

それは、“私たちの民主主義” を維持し、法の支配する社会を守り、科学の正しさを信じるための選挙でした。

それは、ホワイトハウスの内側にはびこる “病的な嘘” を終わらせるための選挙でした。

そしてアメリカ人は、記録的な投票率で、ドナルド・トランプ大統領を拒否しました。

その人種差別、性差別、同性愛嫌悪、外国人排斥、宗教的偏見、権威主義を投票という行為によって拒否しました。それはとても良いニュースです。


下院と上院での停滞を革新派のせいにする親企業派

それでも、正直なところ、下院と上院での選挙結果は期待外れでした。

ジョー・バイデンが500万票以上を獲得して勝利したのに、民主党は下院でいくつかの議席を失いました。上院でも、これまでのところ1議席しか増やすことができず、過半数は達成できませんでした。

現在、この結果を巡って民主党内で一部の人々が非難を繰り返しています。

企業よりの民主党員は、彼らのいうところの極左グループ、例えば「みんなのメディケア」とか「緑のニューディール」のおかげで、上下議会選挙で負けてしまったと攻撃しています。

下院と上院での選挙敗北のためのメディケア・フォー・オールやグリーン・ニューディールのようないわゆる極左政策を攻撃しています。それはとんでもない間違いです。


実際の中身は革新派の躍進

ここに動かしがたい事実があります:

►今度の選挙には、メディケア・フォー・オールに協賛する112人が立候補しました。そして112人全員が当選しました。

►同じく、グリーン・ニューディールの協賛者98人が今度の選挙に立候補しました。そのうちのたった1人だけが、残念ながら負けました。

パンデミック時に国民皆保険を支援することは、たんに良き公共政策の選択にとどまるものではありません。

気候変動による地球の脅威に直面しているいま、再生可能エネルギーへの大規模な投資を実施することは、公共政策のあれかこれかを選ぶのではありません。

それは総体としての良い政治を選ぶことなのです。


医療・環境・雇用は国民共通の願い

フォックス・ニュース社(社会主義どころか保守の牙城)が投票所で出口調査を行っています。これによると、有権者の72%が「政府が運営する医療計画への変更」を支持していました。

また有権者の70%が「グリーンエネルギーと再生可能エネルギーへの政府支出の増加」を支持しました。

教訓は、「みんなのメディケア」、「グリーンニューディール、生活・賃金・仕事、犯罪に関する司法改革、無差別な育児支援など、国民のための政策を放棄してはならないということです。

そうではなく、いますべての働く人々が感じている経済的困難や絶望について議論し、手を打つことです。

黒人、白人、ラテン系、アジア系、そしてネイティブのアメリカ人。多くの人々は傷つき、助けを求めて叫んでいます。 

私たちはこの声に応じなければなりません。


各州での住民投票について

アメリカ全土で、有権者は進歩的な政策を承認しました。それは何百万もの人々の生活を改善するための方針です。

►フロリダの有権者は、最低賃金を1時間あたり15ドルに引き上げる法案を可決しました。

►コロラド州民は、12週間の有給の家族休暇を提供することに投票しました。

►アリゾナ州は、公教育への資金を増やすために、25万ドル以上を稼ぐ人々への増税に賛成しました。

►アリゾナ、モンタナ、ニュージャージー、サウスダコタの有権者は、「麻薬戦争」からの脱却に投票し、マリファナの合法化を承認しました。

アメリカの人々は億万長者とウォール街がどんどん豊かになるのを見てきました。もううんざりです。

退役軍人が路上で眠り、私たちのインフラが崩壊し、若者は借金が返せずに学校を去っていきます。

彼らは、ほんの一握りの人のためでなくでなく、すべての人のために働く政府を望んでいます。

 それは正しいことであり、道徳的なことです。

それが民主党にとって、選挙に勝つ唯一の方法です。



AALAニューズ向けの話題ではないのですが、選挙の評価をふくめたサンダースのきちっとした発言が、日本語の世界にはまったくないので、ここに紹介しておきます。
過去最多となったバイデン票を押し上げたのは、左派陣営の無私の頑張りだったことがわかります。
いっぽうで上下両院議員選挙で民主党が伸び悩んだのは、国民の声を受け止めきれなかった企業寄りの候補が落選したことを意味します。(サンダースはそこは言葉を濁しているが…)
つまり「エスタブリッシュメントはもはやアメリカで単独支配するのは不可能になった」ということが証明された、ここに今回の選挙の歴史的意義があります。
一方、トランプ善戦の原因は、エスタブリッシュに不満を持つ層を彼らなりの(間違った)方法で掘り起こしたからです。
だからバイデンとエスタブリッシュメント層は選挙に勝ったからといって、「はいご苦労さん」とサンダースたちを投げ捨てるわけには行かないのです。一旦トランプに流れた人々を政権の側に戻すには、右翼ではなく左翼との連携が必要です。このジレンマが今後バイデンを苦しめることになるでしょう。




平成という区切りで日本の金融状況を追ってみましたが、「平成」という区切り方になんの思想性も区切りとしての合理性もないので、なんの意味もありません。
あったのは、規制緩和の名のもとにひたすら格差社会が広がっていただけ、それを誰も見咎めることなく呆然と見守っていただけ、それだけの30年でした。原発村の町会議員のごとく、全員共犯です。

1989年(平成元年)
4月 消費税3%導入
5月 日銀、バブルに対し金融引き締め開始。9年ぶりの公定歩合引き上げ
6月 天安門事件発
11月 独ベルリンの壁崩壊
12月 日経平均株価が3万8915円の史上最高値。
12月 土地基本法公布。金融機関の不動産融資を制限する総量規制を提示。

1990年(平成2年)
1月 株価の暴落。4月までに1万円を越す下げ。並行して円安も進行する。円安・株安・債券安のトリプル安と呼ばれる。地価の高騰だけは止まらず。
3月 大蔵省、不動産関連融資の総量規制を受け入れる。不動産向けの貸し出しを総貸し出しの伸び率以下に抑える。このあと一気に土地バブルが弾ける。
4月 三井銀行と太陽神戸銀行が合併し、太陽神戸三井銀行(後のさくら銀行)発足。
8月 第5次利上げで公定歩合6%に。

1991年(平成3年)
5月 地価税法公布
6月 四大証券による損失補?発覚。野村証券会長が辞任。
7月 景気後退に対応し、公定歩合引き下げ開始。 
4月 富士銀行で総額2570億円の架空預金証書が発覚。その後協和埼玉、東海銀行でも相次いで発覚。
8月 大阪の料亭女将が架空預金証書を担保に3400億円の詐欺。興銀グループからも2400円の融資を受ける。(尾上縫事件)
10月 東邦相互銀行(松山)が経営破綻。伊予銀行の救済合併に際し、預金保険機構が初の資金援助。
11月 宮澤喜一内閣発足
12月 ソビエト連邦消滅
91年 この年はバブル放火による金融スキャンダルが続出。イトマン疑惑で住友銀行会長が辞職。
91年 住専の経営破綻が表面化。住専7社の貸付金は4割が不良債権化。

1992年(平成4年)
1月 地価税実施
3月 東証平均株価2万円割れ。景気減退が止まらず。
3月 地価が公示される。91年の全国平均地価は17年ぶりの下落。この後急速に住宅バブルは崩落する。
3月 大手21行の不良債権は総額8兆円とされる。株価1万円がデッドラインとされ、それを切ると含み益ではカバーできなくなる。
6月 平均株価、1万6千円を割る。
7月 大蔵省の直轄の住宅ローン会社である住専の不良債権が表面化する。
この問題は膨大なので、別掲する。
8月 日銀、金融機関の不良債権が40兆円以上、総貸出残高の7%と試算。公的資金の投入を促す。大蔵省は含み益が尽きるまで公的資金は発動しないとする。
8月 宮沢首相は株価が1万4千を割れば東証一時閉鎖も考える。経団連や日経連は銀行バッシング継続を主張。
8月18日 平均株価が14,300円まで下落。大蔵省は「金融行政の当面の運営方針」を発表。株価対応、融資対応力の確保、不良資産処理の三本柱。公的資金には触れられず。
8月30日 宮沢首相の軽井沢講演。公的資金投入論を主張。「政府は銀行を救済するのではない。国民経済の血液たる金融システムを安定させるのは政府の責務だ」
9月 経済団体は宮沢講演に対して一斉反発。
11月 米大統領選でビル・クリントン勝利

1993年(平成5年)
2月 住専問題が公然化。住専7社の中で日住金の経営が申告となる。農林系金融機関の融資が4割を締めたことから、銀行局長と晨水省経済局長の間で「覚書」が交わされる。
5月 Jリーグ開幕。釜石信金か自主再建断念し、岩手銀行に営業譲渡
6月 皇太子ご成婚
7月 東京サミット開催
8月 非自民8会派による細川護熈内閣発足
9月 記録的冷夏でコメを緊急輸入。
公定歩合史上最低の1.75%に引き下げ

1994年(平成6年)
4月 羽田孜内閣発足
6月 北日本銀行、徳陽シティ・殖産銀行との3行合併を白紙撤
   回。
東京外為市場で1ドル= 100円突破。
自社さ3党連立による村山富市内閣発足
10月 流動性預金金利を自由化(金利自由化完了)
12月 東京協和・安全両信用組合破綻。受け皿銀行設立を発表。
   松下康雄日銀総裁就任

1995年(平成7年)
1月 阪神・淡路大震災
3月 地下鉄サリン事件。東京共同銀行が営業開始
4月 東京外為市場で1ドル= 79.75円と史上最高値。公定歩合
   1.0%に引き下げ
6月 大蔵省、「金融システムの機能回復について」を発表
7月 東京都、コスモ信用組合に業務停止命令
8月 大阪府、木津信用組合に業務停止命令。兵庫銀行破綻処理
9月 大和銀行ニューヨーク支店で巨額損失。公定歩合0.5%に
   引き下げ
11月 米銀行監督局が大和銀行に米国からの撤退命令
12月 住専処理策を決定。一般会計から6850億円支出

1996年(平成8年)
1月 橋本龍太郎内閣発足
3月 太平洋銀行破綻。受け皿にわかしお銀行新設
4月 東京三菱銀行発足
6月 住専処理法、金融三法成立
11月 米大統領選でビル・クリントン再選。橋本首相、「日本版
   ビッグバン」指示。大蔵省、阪和銀行に業務停止命令

1997年(平成9年)
4月 北海道拓殖銀行と北海道銀行が合併で合意。
日債銀「奉加帳」救済決定。
消費税率、5%に引き上げ。
大蔵省、日産生命保険に業務停止命令、戦後初の生保破綻
6月 改正日銀法、金融監督庁設置法成立
7月 タイ通貨パーツ暴落.アジア通貨危機
9月 拓銀と北海道銀行、合併延期を発表
10月 福徳銀行となにわ銀行が合併を発表。
京都共栄銀行か経営破綻し、幸福銀行に営業譲渡へ
11月 三洋証券、東京地裁に会社更生法の適用申請。
北海道拓殖銀行か経営破綻、北洋銀行への営業譲渡を発表。
山一証券か自主廃業、日銀特融発動。
徳陽シティ銀行が破綻、全国で取り付けらしき騒動。
財政構造改革法成立
12月 行政改革会議、1府12省庁への再編を最終報告。
自民党、金融システム安定化のための緊急対策(公的資金)決定

1998年(平成10年)
1月 東京地検か大蔵省金融証券検査官室長らを逮捕。三塚蔵相
   ら辞任
2月 改正預金保険法、金融機能安定化緊急措置法成立。長野オリンピック開催
3月 東京地検、大蔵省証券局総務課課長補佐らを収賄容疑で逮
捕。
金融危機管理審査委員会か大手21行への資本注入を決定。
東京地検、日銀営業局証券課長を収賄容疑で逮捕。松下日銀総裁辞任
4月 速水優総裁の下で改正日銀法施行。
6月 日本長期信用銀行の経営不安表面化。金融監督庁が発足。
   住友信託銀行と日本長期信用銀行が合併交渉入りで合意
7月 参院選で自民党大敗。小渕恵三内閣発足、蔵相に宮澤喜一
元首相
8月 ロシア経済危機、ルーブル切り下げ
9月 与野党が長銀の「特別公的管理」で合意
10月 金融再生法、金融機能早期健全化法等成立。長銀の一時
国有化決定
12月 日債銀の一時国有化決定。金融再生委員会か発足

1999年(平成11年)
1月 欧州単一通貨「ユーロ」導入。三井信託銀行と中央信託銀
   行が合併で合意
2月 日銀、ゼロ金利政策導入決定
3月 金融再生委員会、15行に公的資金注入
4月 整理回収機構発足。国民銀行が経営破綻、幸福銀行も6月
   に破綻
6月 東邦生命保険が自力再建を断念。東京地検が旧長銀経営陣
   3人を逮捕
7月 中央省庁等改革関連法成立。東京地検が旧日債銀経営陣3
   人を逮捕
8月 日本興業銀行、第一勧業銀行、富士銀行が経営統合で合意
10月 住友銀行とさくら銀行か対等合併で合意
12月 与党3党がペイオフ解禁延期を決定

2000年(平成12年)
3月 長銀の国有化終了、外資ファンドに売却
4月 小渕首相倒れる。森喜朗内閣発足
5月 第一火災海上保険に業務停止命令
6月 初の南北首脳会談
7月 金融庁発足。そごう破綻、民事再生法適用を申請。沖縄サ
   ミット開催
8月 日銀、ゼロ金利解除。 10年ぶりの利上げ
9月 日債銀国有化終了。みずほホールディングス誕生
10月 新潟中央銀行か経営破綻。
三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行が経営統合発表。
千代田生命、更生特例法の適用申請
11月 米大統領選でジョージ・プッシュ勝利

2001年(平成13年)
1月 中央省庁再編、1府12省庁体制に
3月 政府、月例経済報告で初の「デフレ宣言」。
日銀か量的緩和政策の採用を決定
4月 三井住友銀行か誕生。小泉純一郎内閣発足
7月 参院選で自民党圧勝
9月 米同時多発テロ事件
10月 米国がアフガ二スタンに侵攻

2002年(平成14年)
1月 UFJ銀行発足
4月 ペイオフ一部解禁(定期預金)
5月 サッカーワールドカップ日韓大会
9月 小泉首相訪朝。
日銀、銀行保有株の買い取り決定。
内閣改造で金融担当相に竹中平蔵氏
10月 竹中大臣がペイオフ本格解禁の再延期を発表。「金融再生
   プログラム(竹中プラン)」決定

2003年(平成15年)
3月 福井俊彦日銀総裁就任。
イラク戦争開戦
5月 外為市場で大規模介入スタート、日銀の量的緩和拡大。
初の金融危機対応会議、りそな銀行への公的資金注入決定
11月 金融危機対応会議で足利銀行の一時国有化を決定

2004年(平成16年)
1月 陸上自衛隊イラク派遣
3月 円売り・ドル買いの大規模為替介入終7
6月 金融庁、検査忌避などでUFJに業務改善命令
8月 UFJと三菱東京か経営統合で合意
10月 新潟県中越地震
11月 米大統領選でジョージ・ブッシュ再選

2005年(平成17年)
4月 ペイオフ本格解禁。 JR福知山線脱線事故
9月 衆院選(郵政選挙)で自民党圧勝
10月 三菱UFJフィナンシャル・グループ発足


2006年(平成18年)
1月「ライブドア」粉飾決算事件
2月 グリーンスパンFRB議長退任、バーナンキ議長就任
3月 日銀が量的緩和の解除を決定
7月 日銀が短期金利の誘導目標引き上げ。 6年ぶり利上げ
8月 日銀、公定歩合の呼称をF基準割引率および基準貸付利
   率」に変更
9月 安倍晋三内閣発足

2007年(平成19年)
2月 日銀が短期金利を追加引き上げ
6月 米国などで初代iPhone発売
7月 参院選で民主党が勝利し、「ねじれ国会」に
9月 福田康夫内閣発足
10月 郵政民営化による「日本郵政グループ」発足

2008年(平成20年)
3月 FRBが米証券ベア・スターンズ救済。 
日銀総裁空席に。4月に白川方明総裁就任
7月 最高裁が長銀事件で旧経営陣3人に無罪判決
8月 北京オリンピック
9月 リーマン・ブラザーズ破綻で「リーマン・ショック」発生。
FRBが保険最大手AIGを救済。
麻生太郎内閣発足
10月 大和生命保険が経営破掟
11月 米大統領選でバラク・オバマ勝利
12月 FRBがゼロ金利導入、量的緩和第1弾(QE1)
12月 大企業の資金調達が途絶える。CP(コマーシャルペーパー、大企業の振り出す無担保の短期約束手形)の買い手がいないとことから、日本政策投資銀行が買い入れに動く。

2009年(平成21年)
1月 発行企業の信用力を表すスプレッド(国債に対する上乗せ金利)は急拡大し、企業の起債が困難になる。
3月 日経平均株価がバブル後最安値7054円
3月 日銀がCPと社債の買いオペを発動。スプレッドが縮小し、起債が容易となる。
8月 衆院選で民主党圧勝、鳩山由紀夫内閣発足へ
11月 政府が戦後2回目の「デフレ宣言」。中小企業金融円滑化法成立

2010年(平成22年)
1月 日本航空が会社更生法適用申請。欧州債務危機が広がる
3月 日銀による社債買い取りがいったん終了。
6月 鳩山首相退陣、菅直人内閣発足
7月 参院選で民主党が過半数割れ
9月 日本振興銀行が破綻、初のペイオフ発動
10月 日銀「包括緩和」導入。資産買入等基金を創設
11月 FRBが量的緩和策第2弾(QE2)
この年、中国がGDP世界2位、日本3位転落

2011年(平成23年)
2月 日銀、中長期的な物価安定の目途(当面1%)を導入
3月 東日本大震災、福島第一原発事故
8月 東京外為市場でIドル=75円95銭の戦後最高値更新。
東京高裁が日債銀事件で地裁判決を破棄し、3人の逆転無罪が確定
9月 野田佳彦内閣発足
10月 東京外為市場で1ドル=75円32銭の戦後最高値更新

2012年(平成24年)
1月 FRBが年2%をゴールとするインフレ目標を導入
5月 東京スカイツリー開業
8月 3党合意に基づく消費増税法案が成立
9月 FRBが量的緩和第3弾(QE3)
10月 政府・日銀が初の共同文書
n月 米大統領選でバラク・オバマ再選
12月 衆院選で自民党大勝。安倍晋三内閣発足

2013年(平成25年)
1月 2%物価目標を柱とする政府・日銀の共同声明
3月 黒田東彦日銀総裁就任
4月 異次元緩和(量的・質的金融緩和)スタート
7月 参院選で自公圧勝。[ねじれ国会]解消
8月 財務省、国の借金か1000兆円を超えたと発表
12月 訪日外国人が年間1000万人を突破

2014年(平成26年)
4月 消費税率、8%に引き上げ
6月 欧廾[中央銀行がマイナス金利導入
10月 FRB#量的緩和政策終了。 
日銀が量的・質的緩和を拡大
12月 安倍首相が消費税率引き上げの延期を表明。衆院選で自
   公圧勝

2015年(平成27年)
3月 欧州中央銀行か量的緩和導入
7月 東芝の不適切決算処理が発覚
12月 FRBが短期金利を引き上げ

2016年(平成28年)
1月 日銀がマイナス金利付き量的・質的金融緩和を決定
2月 長期金利が史上初のマイナスに
4月 熊本地震
5月 伊勢志摩サミット。安倍首相が消費税率引き上げの再延期
   を表明
6月 英国民投票でEU離脱が多数占める
7月 参院選で自公勝利。
日銀が「総括的検証」。
イールドカーブ・コントロール導入
8月 天皇が「お気持ち」表明、生前退位へ
11月 米大統領選でドナルド・トランプ勝利

2017年(平成29年)
7月 九州北部豪雨で40人超の死者・行方不明者。
北朝鮮が核ミサイル開発を加速
10月 衆院選で自公勝利。 
FRBが資産圧縮を開始

2018年(平成30年)
4月 黒田東彦日銀総裁再任。日銀か展望レポートから2%物価
   目標の達成時期を削除
6月 米朝首脳会談
7月 日銀「強力な金融緩和継続のための枠組み強化」導入
9月 北海道胆振東部地震
11月 東京地検、日産自動車のカルロス・コーン会長を逮捕
12月 欧州中央銀行か量的緩和政策終了

2019年(平成31年)
1月 基幹統計である毎月勤労統計の不正調査か発覚
3月 みずほFGが19年3月期に6800億円の損失計上

2020年10月31日
インド共産党(マルクス主義)中央委員会声明

Ⅰ. Covid-19(以下コロナ)によるパンデミック

コロナは米国、インド、ブラジルの順で多く発生している。いま憂慮すべきは、陽性率、死亡率の両方でのインドの増加である。

インド政府とモディ首相は、パンデミックの封じ込めに向けた責任を事実上放棄している。

 さらに深刻なのは、途方も無い数の人々が、病気と景気後退という二重の災難を被っているという事実である。

3月25日に国の封鎖が宣言されて以来、人々の生活はますます苦しくなった。失業者は急増し、飢餓の危険が近づいている。これに対する救済の対策はまったくなされていない。

Ⅱ. 日米豪印戦略対話(Quadrilateral Security Dialogue)は4国軍事同盟化へのステップ

中央政府は、アメリカ帝国主義主導の軍事同盟(QUAD)に深く関わってきた。この度、4国戦略対話は初めて、マラバル沖で2020合同海軍演習を実施する事になった。これは4国軍事同盟化への重大なステップである。

これは、インドがこれまで長年にわたって続けてきた外交政策の、あからさまな否定である。

我が国は独立以来、アメリカ帝国主義との軍事的または戦略的同盟に参加せず、わが国固有の利益のために独立して行動してきた。


Ⅲ. 景気後退

インド中銀(RBI)は、今年度のGDPが9.5%縮小すると予測している。その後、IMFはさらに踏み込んでマイナス10.3パーセントと予測した。

GDP成長率は4年前が8.3%だったのが、昨年度には4.2%にまで低下してきた。さらにその上に、パンデミックにより一段と低下することになる。 過去5年間、経済は衰退し続けている。

①積み重なる悲惨さ:

経済の衰退はとりわけ失業問題に非常に深刻な影響を及ぼした。

労働参加率は劇的に低下し、15億人近くの人々が生計を失っている。

②深刻となる飢餓:

世界飢餓指数は、107か国中94位にインドをランク​​付けしている。

(同調査で、インドは児童、とくに女子の栄養不良率が世界最悪 訳注)

スリランカ、ネパール、バングラデシュ、ミャンマー、パキスタンのすべての近隣諸国は、インドよりも優っている。これが、このBJP政府の政策の悲惨な実情だ。

このような飢餓の苦痛は受け入れられない。

増大する飢餓とは対照的に、インドの最も裕福な50人は、今年になって14%も裕福になった。


Ⅲ. 労働者階級と勤労市民への暴挙

最近の議会で、4つの労働法典が成立した。これに伴い29の既存の労働法が廃止された。これは労働者の権利をブルドーザーで取り除く、嵐のような光景だった。

労働者の権利、労働者保護に関連するほとんどすべての有益な規定が取り除かれ、雇用主を縛るための規制は無力化され、あるいは完全に削除された。

これらの新法は、勤労者を奴隷に変換しようとするものだ。


Ⅳ. 悲惨な農業法案

政府が提出した経済改革のパッケージは、私たちの経済を私的利益に譲り渡すことに等しい。モディ首相はこれを「自立」の名の下に追求している。

 中央政府は、疑問だらけの野蛮な方法で、議会の権威を無視して、農業憲章を押し通した。

これらの新しい法律は、インドの農業、農産物と市場を国内外のアグリビジネス企業に引き渡した。

そして彼らに多大な利益をもたらし、農民と国民の両方には貧しさを課し、インドの食料安全保障を脅かしている。


Ⅴ. 「ヒンドゥトヴァ」計画の執拗な追求

(Hindutvaはヒンドゥ原理主義を国法とするよう求める運動で邪教政党BJPの背骨思想 訳者)

いまインドはパンデミックとロックアウトや生活規制などにともなう混乱のさなかにある。

BJP中央政府は混乱を悪用して、インドを邪教国家に転換しようとしている。

それが「ヒンドゥトヴァ」計画だ。それは強烈で情け容赦のないファシスト的思想だ。

そこにはダリット、女性、イスラム教徒、知識人、野党指導者に対する暴行の増加が伴っている。

以下行動提起とスローガンは略

が意外な好評を博している。Hoick さんのサイトで書かれている歌詞に対する「居心地の悪さ」が、どうも私を含めたみんなに共通しているようだ。

かわのそばを あるいたら きこえてきた はるのこえが あひるたちは おおよろこび しぶきあげて みずにはいる ホラ はなが ラララララ さいてる とりが ララ・・・

まず、現在もこの曲が掲載されているのかを知らなければならない。
道立図書館に行って音楽教科書そのものを探したが、ここには所蔵されていない。
もう一度インターネットに戻って検索サイトを検索した。

神奈川県立総合教育センターが「小学校音楽 教科書題材データベース」というありがたいサイトを起ち上げてくれている。

ここの検索窓に“ワルトトイフェル”と入れて検索した。

小川

それで出てきたのが、全110件のデータだ。この内、圧倒的に多いのがスケーターズ・ワルツだ。

年度ごとにワルトトイフェルで見ていく。

昭和26年度
この年では、学校図書と、教育出版の両方が三年生用にスケーターワルツ(以下SW)を掲載している。

昭和27年度
SWは学校図書社からは消え、教育出版社の3年用に残る。

昭和28年度
SWをふくめワルトトイフェルの名は教科書から姿を消す

昭和29年度
教育出版社の4年生用に「小川」が登場する。作詞者は川口蕗香。SWが鑑賞目的だったのに対し、こちらは表現目的となっている。
SWは消えたままとなっている。

昭和30年度
ところがこの小川は翌年には消失する。SWも消えたままである。

昭和31年度
この年から、「教育出版」社は撤退し、あらたに「教育芸術」社が加わっていいる。
今度はいきなりワルトトイフェルの花盛りだ。SWが学校図書社と教育芸術社の三年用、学校図書社は6年用にも表現目的でSWをアップした。
さらに学校図書社は“そよ風”という曲を5年生の表現用に掲載した。作詞が深尾須磨子となっているが、どのような曲かわからない。
なお

昭和32年度
今度はすべての曲が両社のリストから消滅した。

昭和33年度
教育芸術社は川口蕗香の「小川」を4年生用教科書に復活させた。
この年から「二葉」社という教科書会社が参入し、音楽教科書は三社の競合となった。
「二葉」社はワルトトイフェルを積極的に取り上げ、SWを5年生の観賞用に、さらに“スケート”という曲を5年生用に掲載した。
これはSWのメロディーに歌詞を載せたものと思われる。作詞は小林純一。
さらに4年生用にワルトトイフェルの“朝風のワルツ”という曲も掲載された。こちらの作詞は正木遠音。

昭和34年度
この年ワルトトイフェルは全滅する

昭和35年度
そしてこの年教科書業界が激変する。
これまで10年間双璧を形成してきた学校図書社と教育芸術社に加え、「音楽教育図書」社と「音楽之友」社が加わる。「二葉」社はもう消滅している。
4社は競い合ってワルトトイフェルを取り上げている。4年生向けのSWは4社揃い踏み。それ以外に「音楽教育図書」社は歌唱曲としても取り上げている。作詞は藤浦孝一。
音楽之友社はさらに積極的で、「楽しいスケート」と題名を変え合奏曲用に編曲している。編曲者?は麻葉みのる。教育芸術社も6年生用教科書に器楽バージョンを掲載してる。
SW以外では、音楽之友社が4年生用に「みどりのけしき」、三年生用に「たのしいワルツ」を掲載している。前者は吉川光男、後者は小林純一が詩をつけているが、内容は不明。「小川」は消滅したまま。

昭和39年度
この年のリストから音楽之友社は抜け、教育出版社が再登場。音楽教育と図書社と教育芸術社を加えた4社の競合となっている。
36年から38年のデータはない。
SWが各種バージョンで用いられていることは変わりないが、教育芸術社の4年生用教科書で「風のワルツ」、教育出版社で「小川」が復活している。「小川」の復活は33年以来6年ぶりである。
そして東京五輪を挟んで翌年には、NHKみんなのうたで放送されて、みんなの脳に刷り込まれたことになる。
このときの4年生は現在65歳だから、それ以上の年齢層には学校で習った記憶はないだろう。

昭和42年度
だいぶ面倒になってきたので、この後は「小川」にしぼる。
この年大事件が起こる。「小川」の第二の歌詞ができたのだ。
教育出版は従来の川口蕗香バージョンを4年生の教科書に載せる。これに対し後発の音楽教育図書は「統合版楽しい音楽 4年」で杉俊三作詞の「小川」を載せたのだ。
この辺が話がややこしくなるきっかけだろう。川口蕗香版はたぶん長年教育図書社が確保してきたものだろう。だから権利とか金銭が裏で動いたのではないか。結果、音楽教育図書は川口蕗香版を諦め、新しい詩をつけたのだろう。
この杉vs川口の激突は45年、48年も続いている。そして51年になってついに音楽教育図書が掲載を断念するまで続く。
だからこの頃の小学生、いま55から65くらいの人は杉派と川口派に分かれているはずだ。

昭和54年度
ここでさらに第三の「小川」が現れる。
音楽教育図書は音楽教科書戦線から撤退したようだ。その代わりに東京書籍社という会社が新たに参戦した。
それが叩きつけた挑戦状が、例の青木爽作詞「春の川で」だ。題名まで変えているからまさか同じ曲とは思わない。
だから50歳以上の人は知らないのが当たり前なのだ。
しかもこの年教育出版は川口蕗香バージョンを出し続けている。
これが“三種の小川”の真相だ。

昭和60年度
この年すでに「春の小川で」も東京書籍もリスト上から消失している。
それどころかSWも一切消滅した。
教育芸術社の「風のワルツ」、教育出版の「小川」が残っているのみだ。

この傾向は、昭和の最後と平成の初めまで続いていく。リストは平成13年の一覧を最後に途切れる。



それにしても、教科書会社の栄枯盛衰はまことに激しいものである。その浮き沈みの歴史のひだに「小川」は挟まっている。というより教育出版の川口蕗香バージョン
以外の作品はその荒波の中で揺られ、やがて沈んでいったのだということがわかる。どこかの合唱団の人が掘り起こしてくれた歌詞は、意地悪くいえば、考古学的には貴重な存在である。

それで、流れはよくわかったものの、歌詞が読めない。どこからか探さなくてはならない。もう一つの謎が「NHKみんなのうた」がどの歌詞を採用したのかということだ。もし青木装版ならば私はその放送を聞いてなかったということになる。なぜならその歌詞をまったく聞き覚えがないだけではなく、うろ覚えの歌詞がそれとはまったく異なるからである。

読者も期待しているようだし、もう少し突っ込んで見るほかあるまい。



とりあえず、You Tubeを丹念にあたってみて気づいたこと。
一つは作曲:ワルトトイフェル  作詞:青木 爽 編曲:小林 秀雄  歌:西六郷少年少女合唱団
という演奏がアップされていることだ。どうもこれは「NHKみんなのうた」のエアチェック物らしい。
これで問題の一つは解決した。
もう一つは、では私はどこでこの曲(おそらく川口版)を聞き憶えたのか? これがよくわからない。川口蕗香をネット上で検索したが正体不明である。しかし全国いたる所の校歌を作詞している。だから文部省筋では名のしれた人なのだろうと思う。
ついでながら、楽しいワルツ 小林純一作詞・ワルトトイフェル作曲というのもYou Tubeにアップされていて、これが聞いてみたらまさに「小川」なのだ。つまり第4の小川」なのだ。
ワルトトイフェルの方はとうに著作権切れだから、各社が勝手に詩をつけ題名をつけたらしい。

皆さん、とりあえずこれが目下の調査報告です。むかし映画で五社協定というのがあって、そのために鞍馬天狗や忠臣蔵や次郎長物は各社で勝手に作っていた。だから嵐寛寿郎だったり、大河内傳次郎だったりする。そういう「仁義なき戦い」の一幕だったようで…
なにか疲れた。もう飲もう。

Nov 9, 2020
BOSTON REVIEW by GIANPAOLO BAIOCCHI, MARCELO K. SILVA


の要約です。

「ボルソナロの知性との戦争」または「ボルソナロによる知性の圧殺」

リード部分

ブラジル大統領は大学に対する攻撃は民主主義を脅かしている。それはあの軍事独裁政権の暗い日々を思い起こさせる。

ボルソナロの大学への介入は就任以来25件に及ぶ。彼は教授たちに圧力をかけ、保守派の候補をゴリ押ししてきた。

そのために大学の予算を削減し、ソーシャルメディアでフェイクニュースを拡散し、敵対的な学者への攻撃を煽り立てた。

ボルソナロの2年間、学者への暴力行為と脅迫が続いた。それは軍事独裁だったあの日を思い起こさせるものがある。


これまでの教育改革

軍事独裁が終わった後、教育改革はブラジルの民主化の中心課題となってきた。

とりわけ2003年から2016年にかけての労働党政権の時代に、それは目覚ましい成果を上げた。

軍政以前に進歩的教育学者として有名だったパウロ・フレイレは、軍政時代は弾圧されていた。しかし民主化後は教育改革のシンボルとなった。彼の思想は教育計画の指針となった。

2003年に労働党政権が誕生すると、高等教育に巨大な投資が行われるようになった。19の新しい大学が創設され、173の市と町(主に国の貧しい北部と北東部)に新しいキャンパスが増設された。

「差別の積極的撤廃」(アファーマティブ・アクション)が施行され、アフロ系学生は公立高等教育の50%を占めるまでになった。


ボルソナロと極右勢力の攻撃

ボルソナロを先頭とする寡占勢力はそれが許せなかった。彼らはボルソナロの大統領就任後、教育分野に集中攻撃をかけてきた。

それはずっと昔から続けられてきた極右による教育攻撃の流れを受け継ぐものである。彼らは長い間、教育部門を文化戦争の重要な前線と見なしてきた。

彼はそれを、「ブラジルの教育の左翼支配」と呼んだ。左翼支配というのはフェミニスト、マルクス主義文化人、「家族の価値観」を否定する急進主義者による支配である。

かれらはずっと「大学の教育の質が低い、学業成績が低い、左翼の養成基地となっている」と、古典的な攻撃を続けてきた。

ボルソナロはさらにこれを煽った。恥知らずなフェイクニュースが撒き散らされた。

例えば、左翼が公立学校で子供たちに同性愛者のライフスタイルを教え込もうとし「ゲイキット」を配布した、学内でマリファナなどの材料を栽培しているなどなど。

そして「政党のない学校づくり」を合言葉に、生徒たちに、教師の発言の隠し撮りとSNSへの投稿を奨励した。

ボルソナロが政権を取ると、取締りの動きはさらに激しくなった。議会で数十の法案が提出された。「ジェンダーイデオロギー」を封殺するため、検閲が認められた。

教科書検定が一層強化され、保守的な教科書以外の採用はできなくなった。

2019年、ブラジルは「思想の自由報告」で、学者の環境の危険度が最悪の国の一つに選ばれた。

最後の拠点・大学への攻撃開始

初等・中等教育への攻撃が集中する中、大学は統治するのがより困難なため後回しになった。最大の障害となったのが大学の自治だった。

69の連邦大学と38の連邦教育機関の総長・学長は評議会で選ばれることになっている。ボルソナロはこれに噛み付いた。彼は上位三者の名簿を提出するよう命じ、その中からボルソナロが選んで任命する方式に切り替えた。

それらの候補者は左派のつながりを事前審査される。

ある大学では、ボルソナロは第三位の候補者を任命した。その候補は評議会の77票のうち3票しか得ていなかった。

大学予算の削減

これらの干渉を正当化し推進するため、ボルソナロは兵糧攻め作戦をとった

2019年に連邦大学の予算は30%削減された。その結果、大学運営システムはほぼ停止状態におちいった。

2020年、政府はさらに進んで、運営予算をさらに40億レアル削減しようとしている。これは大学予算の18%に当たる。

いまや国立大学では暗い廊下、石鹸やトイレットペーパーのない洗面所が当たり前の風景になっている。

予算削減はとくに労働党政権時代に作られた大学に集中している。その典型が、予算の半分以上が削減された南バイア連邦大学だ。バイアは黒人の多い州で、この大学の学長も黒人で女性だ。その学長はインタビューでこう答えている。
支払うべき請求書は山程あります。その中から緊急性を要するものを選び出すのが私の仕事です。大学を運営し続けるためにエアコンはすべてストップしました。

ボルソナロの賭け

大学は軍事独裁政権への抵抗において不可欠な役割を果たした。ボルソナロの大学に対する攻撃は、国の民主主義を脅かしている。

ボルソナロは自らの攻撃力の源を反知性と反左派の感情に頼っている。しかしそれはブーメランのように自分に跳ね返ってくる危険を含んでいる。

思秋期といえば岩崎宏美と思っていたが、You Tubeで中森明菜のカバーがアップされている。
こちらはどうしようもなくすごい。
上手い下手というのでなく、完全に憑依している。
「歌手というのはもうここまでやるしかないのだな」と納得させられてしまう。
まいった、まいった。

いまや社会は多様化し、課題は複雑になった。その間隙をついて「トランプ現象」が湧き出してくる。
民主主義は制度疲労を起こし、その反対物に転化する可能性も現実のものとなっている。
これを新しいシステムに組み替えることは可能だろうか。

これに対する一つの応えが「デジタル直接民主主義」である。
そもそも社会の大規模化に伴い直接民主主義が手続き的に不可能になったところから、間接民主主義が始まったのだが、直接民主主義は、ある意味でデジタルシステムを用いることに可能になってきている。ざっくりいえばビットコインの発想で議論の中立性と正確性を保証しなら、深めて行けないだろうかということになる。

日経新聞の風見鶏に掲載された「デシディム」(Digital-Demmocracyのことか)というプラットフォームを紹介する。
これは一種の「掲示板」だ。しかしたんなる掲示板ではなく、議論の流れや賛否の状況をわかりやすく可視化し、テックで熟議を促す。
と言われてもなんのことやらさっぱりわからない。
だけどすごいらしい。
このプラットフォームを開発したバルセロナは都市再開発の議論には、4万人が参加し、約1500の行動計画が生まれた。
と書いてある。
台湾でもオードリ・タンが関わった「v台湾」というバーチャル議会が開かれた。

このシステムがもう一つ大事なのはこのネットワークが中央集権型ではなく、ブロック・チェーンの技術を用いた分散型ネットワークであることだ。

ここからさきがよくわからない。
国は国民の情報を電子化するが、データは個々人のデバイスの中にある。だからもし公的機関がアクセスしたら、個人はその事実を把握できる。
また個人が公的データを知りたいと行ったときも自由にアクセスできる。ただしアクセスした記録は残る。

行政のデジタル化が課題ととなっているが、根底にはこのような姿勢が必要であろう。

というのが記事の流れだが、私には情報のブロック・チェーンかというのが魅力だ。これでピアー・トゥー・ピアーのレビューが保証され、談論風発のフォーラム型民主主義が実現するのではないか、密かにワクワクする次第である。

ただしこれには報酬がない。インセンティブのないループが果たして回るだろうか、と思う。結局誰かが無償の努力で回していくしかないのだろう。

トランプ時代とはなんだったのだろうか

アメリカ大統領終わろうとしている。
僅差だがバイデンの勝利に終わったようだ。何となく後数年もすれば「あれは悪い冗談の時代だった」ということになるのかもしれない。

今はまだそのように歴史的な出来事とするにはナマナマしすぎるが、そういう視点を持っておくことも必要だろうと思う。

2つの見方がある。一つはきわめて僅差であり、民主対共和という2つの勢力が伯仲していたという考えだ。

もう一つは唯一の超大国である米国で、超大国であるがゆえに生じた現象であり、世界の人々から見れば、歴史的・地理的にきわめて限られた現象だったという見方である。

私は後者の立場に立つ。

その上で、メディアやネット世界でくだされたこの民主対共和の二項対立的な評価を子細に見ていきたい。

というのはその二項対立的評価の世界史的再評価を通じてトランプ現象というものが浮かび上がってくるかもしれないとの思いがあるからである。

下記の評論から学ぶ。



第一の対立 思想的・文化的反動
中絶や同性婚などで、保守対リベラルの対立。ただしこれらは最高裁判決を経て、すでに社会的には容認されている。したがってこれらの主張は、保守主義というよりは反動思想というべきかもしれない。
「保守」はキリスト教原理主義と親和度が高いため、宗教戦争の色彩を帯びる。「宗教の自由」の名のもとに不寛容の雰囲気が支配する。

第二の対立 アメリカ第一主義
ポピュリズムは、従来からの南部プアホワイトと中西部の元産業労働者を基盤とする。白人の負け組集団である。
彼らは2つの攻撃目標を設定する。それは「エリート」と「移民」である。しかし反エリートは口先だけで、反移民は反途上国・反新興国まで広げられ、さらに反有色人種へと拡大した。そして最大の生贄として中国に攻撃が集中された。
攻撃対象が拡大され、攻撃内容が強化されるたびに人々は共感を強めた。

第三の対立 白人至上主義
第二の対立の裏返しとして白人至上主義がある。
この20年の間に、白人有権者の比率は76%から67%へと急激に低下している。フロリダ州とアリゾナ州ではとくに減少が著しい。
白人中間層を基盤とするティーパーティは、白人至上主義を公然と掲げ、社会的分断を促進した。

この3つの対立はいずれも偽りの対立でありトランプの側の主張には根拠がない。

彼らがリベラルとよんで敵視しているものは、法治主義、立憲主義、民主主義そのものである。

彼らがアメリカ第一主義の名のもとに敵視する有色人種とは、アメリカ人以外のすべての国の人々である。

「根拠」とされるものをすべて取り去れば、そこに残るのは憎しみ(ヘイト)だけだ。そこからはなにも生まれない。

中岡さんの議論を聞いていて、

第一の対立 思想的・文化的反動を「思想的・文化的反動」と括ることにいくばくかの違和感を感じざるを得なかった。トランプの思想的後退はもっと根深い、悪魔的なものがあるのではないか?
バイデン自身もここをもっと強調している。
それは科学と科学的真理、まっとうな「良心」に対する挑戦であったと…

今回の学術会議の問題を巡っても、一番の根っこは科学への軽視だ。「科学よりもガバナンスの重要性のほうが上だ」という発想を政府自身がしてしまうのは、とても深刻な問題だ。

とりわけ加藤官房長官の鉄仮面ぶりがとても気になる。彼は自分自身をひどく貶めている。彼は全裸になって股をおっぴろげているみずからに対する自覚がない。佐川の心性に限りなく近づいていくすがたは悲しくさえある。

ピノチェトを埋葬する」という記事の抜粋。10月27日付のNACLA記事で筆者はJoshuaFrensさんというひとです。テキサス大学オースティン校のラテンアメリカ史の助教授という肩書きです。

憲法改正の国民投票に至る経過

去年の今頃、地下鉄運賃値上げ反対の闘争が起きました。それから1年、チリ国民は1980年憲法を書き直すことを国民投票で決めました。

1981年憲法はピノチェト憲法とも言われ、1973年のクーデターと残忍な軍事独裁の最も重要な政治的遺物となっていました。

公式の数字では有権者のほぼ80%が憲法改正の提案を承認しました。

もう一つの投票項目で、新たな市民主導の制憲議会が新憲法を起草することも決まりました。この議会の議員は来年4月の選挙で選出されます。

鈴木: 実はこちらのほうが遥かに重要です。憲法制定議会が招集されるのですが、この議会は従来の議会のように軍人が何議席というような縛りがまったくありません。おそらくこの民主的制憲議会が成立すれば、非民主的な国会は活動を制限されていくでしょう。多くの南米諸国でそういうコースになりました。

その構成は現在の国会とは無関係です。そしてこれは世界で初めてのことですが、議員は男女が同数になるように決められています。

選ばれた議員は約1年をかけて草案を審議します。そして22年に新憲法を提示し、国民投票にかけます。つまり有権者は今回の国民投票の後、議員選挙と憲法を採択するための国民投票と3回の選挙を行うことになります。

憲法改正には軍事独裁への最終的な告別と並んで、もう一つの意味があります。それは軍事独裁のもとで野放しにされた極端なネオリベラリズムを禁止することです。

2019年10月の大闘争

今回の憲法改正に向けての最初の狼煙となったのが、1年前の地下鉄運賃値上げ反対闘争でした。

若者は抗議し、改札口を乗り越え駅に乗り込み、占拠しました。ピニぇイラ大統領(保守派)は戦争状態を宣言し、サンチャゴの街を封鎖しました。

軍隊が街頭に出動しピニェイラは実力行使も辞さないと叫びました。それはかつてのピノチェトを思い出させるものでした。

この脅迫は若者の怒りに火をつけました。若者主導の抗議運動が全国の都市に拡大しました。1~2週の間にチリは“目覚めた”のです。

何千人ものチリ人が毎晩バルコニーや街角に行き、空の鍋やフライパンを叩きました。それは抗議活動に対する政府の軍事的対応に不満を表明するためのものでした。

デモは2020年10月25日に最高潮に達し、100万人以上がサンティアゴの通りに殺到しました。

活動家は市内の「尊厳」広場を占拠し、自らをプリメーラリネア(最前線)と名付けました。重武装の機動隊が何度も襲いかかりますが、彼らは大衆支援のもと踏みとどまります。

年が明けて1月、サンティアゴのリベルタドール通りとオヒギンズ通りの交差点で両者は激突しました。何百人もの抗議者が、催涙ガス容器とゴム弾の標的となりました。

デモ参加者の16歳の若者が「尊厳広場」の脇の橋から突き落とされましたが、それは完全な映像で公開されました。

多くの市民にとって、それは軍政時代を思い起こさせる悪夢です。平和的な抗議者への警察の無差別攻撃は、市民の怒りを呼びました。

多数の人権団体は声明を発表し蛮行を非難しました。治安部隊の蛮行に対し調査せず、説明せず、責任を取らず、取らせずを繰り返す政府への強い怒りが沸き起こりました。

一般市民の決起(Estallido)と参加型民主主義

サンティアゴの小さな近所の広場では、コミュニティの住民が集まり始めました。市民が過去を振り返り、討議しフォーラムを結成しました。それは社会的エスタリドと呼ばれます。(社会的激発という意味)

自分の近所の集会に積極的に参加している歴史家のロミナ・グリーン・リオハによれば、そのような会合は、「新しいチリを建設したい」という願いが「一人ぼっち」ではないことを示しあったのです。

パンデミックの発生は、これらの行動の多くを一時停止させました。それはまた、もともと4月に予定されていた1980年憲法に関する国民投票を遅らせました。

エスタリドは自由で自発的運動なので、リーダーシップを導入するのは困難でした。とくに外部の政治団体や労働団体に属する人にとって組織を動かすことは厄介でした。

学生指導者ノアム・ティテルマンは未経験の、「指導者のない運動」と呼んでいます。

しかしイシューごとにまとまった諸団体が、周りの団体と共感し「多様な運動の単一の要求」として憲法制定運動に収斂していくのは意外に急速でした。

学生運動を先頭とするさまざまな民衆運動

チリの学生運動は世界で最も強力です。彼らは高校生だった2000年から闘い続けてきました。2011年から2年にわたる抗議運動では、教育を市場の論理ではなくではなく、市民権の基本的な社会的権利として体系化するという考えを広めました。

カミーラ・バジェホ、ジョルジオ・ジャクソン、ガブリエル・ボリックなどは国会議員となり活動を続けています。

ミシェル・バチェレの第2政府(2014〜 2018年)の下で重要な教育改革が行われ、初等および高等教育における「営利」機関の歴史的な禁止が実現しました。

その他にも民族グループ、環境グループ、退職者の年金闘争、フェミニスト運動が共同しながら闘いを進めています。

人民連合の運動との比較

チリの歴史家マリオ・ガルセが述べたように、昨年の抗議行動に関係した運動の多様性は、おそらく1970年代初頭に起こったものよりもさらに深遠で民主的だろうとおもわれます。

現代のチリは「社会の動き」そのものが改革を推進しています。伝統的な「社会運動」の概念とはまったく異なるものです。このことから伝統的な政治組織や政党が支持されなくなったことを強調する意見もあります。

アジェンデとUPは、根本的な変化を追求するために、その時代の国内の既存の政治構造の中で働くことを約束しましたが、今日のチリ人は、民主主義が実践される方法と場所を再発明することを念頭に置いています。

これからの見通し

いままで国を導いた市民主導の一連の運動は、間違いなく、昨年の行動を継ぐものであり、新しい社会システムを生み出すものです。

鈴木: このレビューは悪い記事ではないが、意図的に市民運動を持ち上げ、チリ共産党や社会党の運動を軽視していると思う。選挙制度のせいで不当に表舞台から排除されているが、世界で最も活力を持った共産党であることは間違いない。



第7章 「先史時代の日本」 その1

この章と次の章は「先史時代の日本」の紹介です。
この章では主に文化の世界伝播に触れた序説について取り扱い、第8章では日本の先史時代について触れます。
この本の間違いや歴史的限界まで書き始めると大変なことになるので、彼の先見性、埋もれてしまった業績について簡単に述べます。

エジプト・メソポタミア文明

紀元前4千年ころエジプトに生まれた高度な文明は、やがてエチオピア、アッシリア、ペルシャへと拡大しました。

建築・芸術と美学は、何世紀にもわたって高度な完成度に達しました。冶金学、特に青銅、銀、金の技術もかなりの水準に達していました。

中でも青銅器の使用な卓越していたことから青銅器文化と呼ばれます。

メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテスの間の可耕地を巡って、南方のセム人と北方の印欧語系民族(シュメール、パルティアなど)が絶えず交錯していました。

印欧語系民族は一般に遊牧系で、年単位の南北移動や、時には大陸をまたいでの東西移動は彼らの本質的な生活スタイルでした。

彼らは馬の家畜化、車輪(すなわち馬車)の発明、乗馬術の考案など戦闘に必要な多くの発明を成し遂げました。

中でもヒッタイトはクリミアから黒海をわたりトルコ北部に拠点を形成しました。現地で製鉄法を知った彼らはこれを大規模化し、鉄の兵器の優位性を活かしメソポタミアをを平らげ、エジプトにまで進出しました。

遊牧民による文化の伝播

メソポタミアと同様、北方遊牧民も多民族が時代を織りなしています。彼らは過去から絶えることなく、中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していまし。

彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもありました。

アジアの緯度40度から50度の間は、人口の移動、武装遠征、商品の隊商によって、先史時代から絶えず交通があったと言えます。

中国に文明をもたらした内陸交通

中国の初期の入植者は黄河の沖積谷に肥沃な土地を発見しました。農業の重要性は、運河、灌漑、排水、利水の繰り返しにつきます。

入植者は明らかに牧歌的な遊牧民ではなく、土壌の灌漑と栽培の方法に熟練していました。

この部分は明らかに誤りですが、重要な示唆となっています。後に遼河文明が発掘されそれが黄河文明に先行するもので、この文明をになったのが中央アジアの遊牧民だったことがわかりました。

この文明は衰え、漢民族に占領されました。遊牧民は次の天地をもとめ去っていたのかもしれません。

朝鮮半島の歴史とヤマト

紀元前1000年頃、朝鮮半島の北部には古朝鮮が広がっていました。南部には多くの部族がいて小さな王国が割拠していました。

(半島南部に関する記載)
強力な敵との接触時に脱出した人々は、抵抗が最も少ない方向に向かい、占領が黙認された場所に落ち着きました。

先住民は内部の平原を広範に保有し、粗放な農業あるいは放牧を営むのですが、後発組はこれとは競合しませんでした。かれらは河口に近い沖積平野を比較的に限定的に、集約的に使用する農業のスタイルをとったからです。

漢の時代

紀元前350年ころ漢が朝鮮を併合し、半島南側の諸部族を馬韓、弁韓、辰韓に分割・統合しました。

南部に住んでいる人にとっては、海岸から見える対馬の島が魅力的な展望を形成し、海を越えてたっぷりの土地のある日本に引き寄せられました。

秦の時代に鉄器(兵器)が開発され、漢の時代には朝鮮にも導入されました。


日本におけるヤマト族の受け入れ

ヤマト集団が大陸から進出して権力を掌握するまでは、かなりの時間を費やしました。

ヤマト民族は、中東や東アジアからの農業生産システムを受け取とりました。そして農業のより高い生産目標、安定した社会関係を築き、労働システムを支持し調整することで、進歩をもたらす社会関係を発展させました。

最初は海岸沿いの沖積地の小さな帯路のみが支配域で、背後の山には統権が及ばなかったとも考えられます。

具体的に侵略の形をとったと考える必要はありません。しかし他の侵入者との競合、先住民の抵抗などの形で戦いを強いられた可能性はあります。

ヤマトは北の荒れ地にも進出していきました。彼らの背後では先住民が支配者と交流しヤマトの文化を取り入れていきました。



非常に壮大な記述で、日本に類を見ない提起の仕方となっています。

遊牧民族を通じて小麦の栽培、青銅器、そして鉄器が導入され、これを通じて漢民族が発達しました。

それを用いて漢民族が朝鮮半島に進出し、押し出された半島人が鉄器をもって日本に進出し、ヤマト族となった。

ということになりますが、米栽培の技術をもって渡来した民族と、鉄製兵器+騎馬戦法で攻め込んできた民族とは違うでしょう。

そこにマンローはうすうす気づいていますが、突っ張りきれませんでした。時代の限界ですが、逆に言えばその限界の中でよくそこまで至ったなと感心します。


先程、「2020年 バッタの大発生」を上げたが、どうも納まりがつかない。
最初は勢い込んで書いたが、「すごいぞ、ひどいぞ」の繰り返しでは続かない。
6月のナショナル・ジオグラフィックでは、東アフリカ諸国の約1300万人がすでに「深刻な食料不安」に陥っているという。深刻な食料不安とは、丸1日何も食べられないか、食料ゼロの状況のことなのだそうだ。
であればもっと緊急援助が求められても良さそうなものだが、どうもそれほどのものではなかった可能性がある。

それと、パキスタン・インドに飛んでいった連中は今頃どうなっているのだろう。あまり話を聞かないところを見ると死に絶えてしまったのだろうか。あれだけ大騒ぎしたメディアはそれなりのけじめをつけてほしいものだ。

9月のバッタ分布

最近の動きは「スプートニク」の通信が詳しい。これによると、エチオピアの状況は3月ころに比べ、とうてい収まっているとはいえない。あのころ予想された被害は、いまでは現実のものとなっている。過去数十年の間に例を見ないような大損害となっている。

ただしこれはいったん収まった後の再飛来によるものらしい。当時一番ひどいと言われたケニアではいまやバッタの姿は見られない。


2020年 バッタの大発生

これは1ヶ月ほど前の日経新聞。コロナ禍の状況について書かれた記事の一節である。

18年にアラビア半島南部で発生したサバクトビバッタが海を渡り世代交代を繰り返しながら20カ国以上に広がり続けている。
ケニアでは過去70年で最悪の事態になった。パキスタンは非常事態を宣言した。6月にはインドにも襲来し、ニューデリー郊外まで迫った。
中央アジアや南米でも別の群れが発生した。
国連食糧農業機関(FAO)は、東アフリカだけで2千万人が食糧危機にさらされるだろうと予測する。

ところが、最近は一向にバッタのニュースを聞かない。どうなったのだろうか。

日経の少し前の記事から、順を追ってみよう。

最初は2月4日、カイロの特派員の署名記事。

アフリカ東部で大量のバッタが発生した。1月以降、エチオピアやソマリアで大量発生し、隣接するケニアにも広がった。

現地では農薬を散布しているが、追いついていない。エチオピアでは大群が空を覆い、旅客機が緊急着陸を余儀なくされた。

1月30日、国連食糧農業機関(FAO)は過去70年で最悪の被害となり、1200万人ほどが食糧危機の状態にあると指摘した。

バッタの凄さ:
バッタは自らの体重分の農作物や牧草を毎日消費する。食料確保のため、1億匹ほどの大群が1平方キロにひろがり、約150キロメートルを移動する。
この群れは1日で3万5千人分の食料を食べ尽くす。

大発生の原因:
インド洋西部の海水温度の上昇が、東アフリカの温暖化をもたらし、バッタの大量発生を招いたとされる。
これは「インド洋ダイポールモード現象」と呼ばれる。

農業被害の重大性:
ケニア、エチオピアなど東アフリカの最近の経済成長は3%台が続いてきた。
いずれも農業生産がGDPの3,4割を占める農業国である。農産物は主要な輸出品となっており、減産の影響は各方面に及ぶ可能性がある。

次が3月3日の記事で、こちらはニューデリーの特派員の報告
カイロからの初報よりは格段に詳細である。
見出しは
バッタ大量発生、農作物の被害拡大
アフリカ東部から南西アジアへ波及

まず被害の現状:
ケニアでは1000億~2000億匹のバッタが約2400平方キロメートルの範囲で農作物を襲っている。バッタはタンザニアや南スーダンにも飛来。
東アフリカ全体で約1200万人が食糧危機に陥っている。

インド・パキスタンにおける大発生の予感:
FAOによると、パキスタンとインドの国境に近い地域では2019年8月ごろからバッタの大群が飛来した。そのうち100億匹ほどが現在もとどまり大発生のチャンスをうかがっている。
6月までにバッタの数が500倍に増える恐れがある

大発生の要因:
気象要因としては、東アフリカの温暖化のみならず、砂漠地帯への多雨の影響があるとしている。
これにより繁殖環境が整えられ、繁殖期間が長くなった事が上げられる。

3月13日には、日経と連携するナショナル・ジオグラフィックの科学的解説記事が掲載されている。これは2020年2月25日付のナショナル ジオグラフィック ニュース に載せられた記事の翻訳である。

バッタ大発生の気象学的要因

今年大発生したバッタは、正式にはサバクトビバッタという。乾燥した地域に生息していて、大雨が降って植物が繁茂すると大発生する。

海面温度の上昇は嵐のエネルギーを高め、サイクロンの発生頻度を増やす。

東アフリカとアラビア半島では、過去2年間でサイクロンに複数回見舞われるなど、異常に雨の多い天気が続いた。これが引き金となっているのであろう。

これらの台風の犯人が「インド洋ダイポールモード現象」といわれ、インド洋の東西で海水温の差が生じる現象である。早い話が大平洋におけるエル・ニーニョとラ・ニーニャのインド洋版だと思えばよい。オーストラリア東部の森林火災とも関連する。

バッタ大発生をもたらしたいくつかの偶然

大量発生のきっかけは2018年5月のサイクロン「メクヌ」だった。これがアラビア半島南部のルブアルハリ砂漠に雨を降らせ、砂丘の間に多くの一時的な湖が出現した。ここで最初の大発生が起きた。

サバクトビバッタの寿命は約3カ月で、その間に繁殖する。繁殖の条件がよければ、次の世代のバッタは20倍にも増える。

2018年のサイクロンによって、生息するバッタはざっと8000倍に増えた。

その後アラビアで再砂漠化が進むと、バッタの群れは移動を始めた。2019年の夏までに、それは紅海を飛び越えてエチオピアとソマリアに渡った。

そこにもう一つの不運が重なった。2019年10月に東アフリカの広い範囲で激しい雨が降り、季節外れのサイクロンが上陸したのだ。

またバッタの上陸地点となったイエメンとソマリアでは駆虫剤を散布するだけのお金がなく、バッタの為すがままとなった。

破竹の進撃
図を転載しようと思ったが、著作権を侵害しそうなのでリンク先のみ掲げておく。とても良い図です。


バッタの群れは繁殖を続けながら南に向かった。2020年の1月にはケニアで過去70年で最悪の規模の蝗害が発生した。

ジブチとエリトリアでも蝗害が始まり、2月9日にはウガンダ北東部とタンザニア北部にバッタが到達した。

今後の対策

FAOが国際社会に対し、蝗害に苦しむ5カ国のバッタの駆除と農民・牧畜民の援助のために7600万ドル(約85億円)の緊急支援を呼びかけた。

その後の日経記事はほとんど会員限定記事で読めない。

6月5日にはふたたびナショナル・ジオグラフィックの記事「コロナと同じ深刻さ バッタ禍の第2波が招く食糧危機」

FAOによれば、エチオピア、ケニア、ソマリア、ジブチ、エリトリアの約1300万人がすでに「深刻な食料不安」に陥っているという。深刻な食料不安とは、丸1日何も食べられないか、食料ゼロの状況のことだ。

後はバッタの駆除がいかに難しいかの話。要は高速かつ長距離の移動を行うこと、不安定な風向き次第で常に行先を変えることである。


6月29日はインド発の記事

バッタ大群が、パキスタンと国境を接する西部ラジャスタン州から入り、インド首都郊外にせまる。
地元テレビは、大量のバッタが高層マンションの壁面に張り付き、大群の襲来で空が薄暗くなったと伝えた。

バッタの群れは、27日には首都ニューデリー郊外に到達し、なおも近隣の州へと移動を続けている。


7月6日の「日経ビジネス」

西アフリカのモーリタニアなどでサバクトビバッタの研究を行う国際農林水産業研究センター研究員の前野浩太郎氏へのインタビューとなっている。

冒頭部分だけ読める。

バッタは普段はおとなしい「孤独相」という状態にあります。それが、大量に発生して他の個体とぶつかり合うなどして刺激を受けると、活発に行動する「群生相」という状態に変化し、大群となって各地に農業被害をもたらすのです。

この後記事はピタッと止まる。

9月2日付日経新聞 「世界で害虫被害多発、穀物相場の火種」といかにも日経らしい見出し

国連食糧農業機関(FAO)によれば、4200万人が食糧危機に直面する。南米や中国でも別のバッタが大量発生。中国ではガの被害も懸念される。

その後は読めず。この記事を最後に日経の紙面からバッタの話はバタッと途切れる。

ネットで見つけた最近の記事はなんとスプートニク

10月21日付の記事で「エチオピアで四半世紀ぶりの蝗害 深刻な食糧危機に

エチオピアでは今年1月以降、推定20万ヘクタールの耕地が被害を受けた。この蝗害は過去25年間で最悪のもの。

世界銀行は、バッタの襲来は今年、アフリカ東部やイエメンに85億ドルの損害を与えると予想している。






コロナ大流行 ベネズエラへの恐るべき中傷

最初に口火を切ったのはワシントン・ポスト紙(3月20日)
編集部の見解: ベネズエラでの新型コロナ感染はとくに恐ろしい見通しになっている。
ベネズエラはフロリダから1千マイルの距離にある人口3千万人の国です。
この国はまもなく新型コロナのあらたな震源地となる可能性があります。そしてラテンアメリカの近隣諸国にとって大きな脅威となるでしょう。
5月27日にはジョンズ・ホプキンス大学とヒューマンライツ・ウォッチが、異例の意見表明。
「ベネズエラ政府の発表する新型コロナ関連のデータはばかげた(absurd)数字の羅列だ」

それでこれがその「公式統計」、6月6日現在のもの。感染者が増え始めたのが5月17日、最新データが6月5日となっている。
ベネズエラ コロナ感染データ

それぞれの折れ線の意味は読み取り不能だが、上から順に累積総感染者数、帰国感染者数、回復者数、死者数と思われる。

国内感染者数は少なく、死亡率も低い。これが医学者や人権団体の気に障ったらしい。しかしなぜか?

それは悪意のあるなしにかかわらず、ベネズエラ政府の対応能力に対する侮辱である。

次にベネズエラ政府の対応について示していく。

ベネズエラ政府の対応は迅速であった。3月17日に全面封鎖を開始した。これはラテンアメリカで最初の試みである。

相前後して政府は102万件のPCR検査を実施した。これは人口百万人あたりで3万4千件に相当する。
政府はコロナ禍問題に対する準備ができていたと言えるだろう。


日経新聞の10月26日号トップは、かなり思い切ったオピニョン記事だ。

パクスなき世界、自由のパラドクス」という題で、連載らしいがその1回目。

書き出しを紹介する。

民主主義が衰えている。
約30年前ソ連は崩壊したが、自由と民主主義の旗手だった米国は、その座を自ら降りた。
かつて自由を希求した国々、例えばハンガリーの首相はこういう。
「民主主義は自由主義でなければならないという教義は崩れた」
発言の背景には民主主義への幻滅がある。いまもハンガリーの賃金水準はEU平均の3分の1、人口は民主化後に7%減った。

民主主義を揺らすのは低成長と富の集中だ。世界のGDP成長率は80年代に3%だったのが2%に減った。一方でトップ1%の所得は16%から21%に高まった。

スエーデンの調査機関によれば、世界の民主主義国は87で非民主主義は92で逆転した。

この後記事は続くが、最後は次のような言葉で結ばれる。
法の支配や言論の自由は…誰かが守ってくれるわけではない。未来を守るカギは私たち一人ひとりの手にある。


ということで、それなりに真面目なのだが、肝心のことはスルーしている。
「民主主義を揺らすのは低成長と富の集中」と書いたが、低成長は富の集中の結果だということが明らかにされない。つまり「不平等が経済を窒息させ、民主主義を危機に追い込んでいる」というアタリマエのことがスルーされている。
不平等は民主主義の責任ではない。不平等そのものが罪なのだ。そして資本主義の原罪なのだ。
不平等は富の独占を生じる。
法のもとでの平等は、経済的不平等が進めば進むほど、格差が拡大すればするほど、富の独占が進めば進むほど、毀損されていく。
格差は最初は相対的増大として現れるが、あるところから絶対的増大に転化する。富裕層が貪ることをやめない限り、世界に絶対的貧困、経済的貧困、社会的貧困、文化的貧困が現れる。
貧困状況の遷延と深刻化は、経済の起動力である欲望の減退をもたらす。それは市場の収縮をもたらし、さらなる生産の減退とGDPの減少をもたらす。それはさらに貨幣的富の一方的増大をもたらす。
不況下のバブルこそが資本主義の未来像である。
このサイクルをどこかで絶たなければならない。
それには個々人の社会的人権を最大の目標とした正義の政策体系、すなわち社会主義が必要なのだ。
サンダースの提唱したこの「新しい社会主義」は、いますでにアメリカの若者の心をとらえ始めている。それは資本主義を排除するのではなく、その上に拠って立つ新しい社会経済モデルとして受け入れられなければならない。
これはアタリマエのことなのだ。


デジタル通貨三原則

三原則というとアシモフのロボット三原則を思わせるが、実際はそれほど崇高なものではなく、デジタル人民元とフェースブックに挟み撃ちされた国際金融トラストが「対応の三本柱」をまとめたものに過ぎない。

10月09日、日経新聞より

日米欧の中銀7行+BISがデジタル通貨の発行に関する三原則を確認した。
デジタル通貨三原則

根底には中国のデジタル人民元発行への対応があるが、それだけではなく各国がデジタル通貨への対応を迫られている現状がある。

早い話がビットコインと人民元の挟み撃ちにあっているのであり、その双方が歴史の必然となっているのである。

ここまでがリード

合意書は「モーゼの十戎」のようなもので、あまり役に立つようなものではないが、それだけ安定性はある。

第一原則 CBDC(中銀発デジタル通貨)が、物価や金融システムを撹乱しないこと。

この項目は、危機にあたって各中銀が物価の安定を中心任務とすること、そして金融システムの安定をまもることを記したものだ。

例えば、デジタル通貨が普及している国では、資金移動が容易だから。銀行預金の引き出しが急激に進む。そうすると銀行の経営リスクは高まる。

さらに長期的には、扱いが手軽なデジタル通貨に資金が流れ、銀行預金が減少する可能性がある。それだと、預金を元に貸し出しを行うという銀行のビジネスモデルが崩壊する。

だから既存システムにこれらの問題を生じさせないような制度設計が必要になる。各国中銀は、まずこのような努力を行わなくてはならない。

第二原則 デジタル通貨が既存の決済システムと共存すること

充電式の機械が普及しても、電池の需要がなくならないように、現金に限りなく近いデジタル通貨でも、大規模災害時、遠隔地などでは現金との併用が避けられない。

第三原則 デジタル通貨が決済過程の効率性上昇やイノベーションをもたらすこと

決済は「交換」という複雑な過程の着地点を形成する。そのシステムのイノベーションは一夕一朝には実現しない。(例えば金融面でのドル決済システム)

そこでは国家間、国内諸分野での競争と協力が不可欠だ。

CBDCをめぐる国際的な動き

日銀、欧州中銀(ECB)など6中銀とBISは原則づくりのための協議を重ねてきた。

とくにこれまで距離をおいてきた米連銀(FRB)が途中参加したことで協議の実効性は飛躍的に高まった。

周知のごとく、これらはすべて中国への対抗意識がもたせたものである。

中国の築いたデジタル通貨の仕組みが、貿易相手の新興国にいち早く普及していけば、先進諸国は大きな貿易上の痛手を被る。それだけではなくドルを基軸とする世界金融システムに大きな穴が空くことになる。

その危機感が第二原則に表現されている。

しかし、それは既得権益層の問題意識であって、世界の将来がかかる主要問題は、むしろ国家と「通貨主権」の関係にある。

巨大化した情報産業がデジタル通貨の発行権を握ることによって、世界を支配するようなことはないだろうか。


これは 
の続きというか、おまけです。

今回また行ったというのではなくて、図書館でたまたま見つけた本の紹介です。
堀淳一さんという方がいて、元は北大教授ですが、鉄道の廃線歩きで有名な方。何冊も本を書いていますが、多分これは極めつけ。
昭和40年ころの地図と最近の地図をならべて表記しています。
それを見ると、今さらながらに北海道の無惨な「近代化」を見せつけられる思いです。その中の天北線の北半分の鉄道のあった頃の地図を転載します。
 天北線北半分

          図上、左クリックで拡大します

天北線沿線を車で走ったときは、正直のところ浜頓別以北にはあまり関心がなかったのですが、この地図を見て、線路とはまったく関係のない浜通りばかり走っていたことがわかりました。しかしこの線路はどうしてこうも意味のないところばかりを走ったのでしょう? 突き詰めると、ただひたすら浜頓別というたった一つの街のために作られた線路のようです。
そもそも天北原野というのが不思議な形をしていて、日本海側から少なくとも6本の山並みが縦じわになって連なっています。どうしてこのような地形が出来上がったのでしょう。多分プレート理論で説明できるのでしょうが…
機会があればもう一度、天北線に忠実に走ってみたいと思います。

第7章のための準備

この1章だけで「先史時代の日本」を要約するのはとてもできませんが、「マンロー学」への入り口としてお読みいただければ幸いです。

ということで、「先史時代の日本」の要約を書き始めたところだったが、ふとしたことから、すごい論文を見つけてしまった。

それが先日あげた2020年10月23日 アバさんのマンロー論 である。

当時の考古学の状況、到達点など知らない私には「先史時代の日本」の大著は手に余った。

一応、序説を読んだところでその梗概でお茶を濁そうと思ったが、アバさんは全巻を通読した上で、当時の学会の到達状況も見渡しながら評価しているので、いまのところは決定版と行ってよいだろうと思う。

「伝播主義」史観について

ただし、メソポタミアから西域を伝わってさまざまな文化が伝播してきて、それが中国文明を形づくったという壮大な提起は、アバさんからは壮大なほら話として受け止められているようだ。

この話は実は序説部分に展開されており、中国の先史時代に関する相当の知識がないと読み込めないところである。

支石墓(ドルメン)文化の扱い

さらに支石墓(ドルメン)文化の扱いは慎重にやらないと、せっかくの議論を相殺してしまう恐れがある。

この点については、アバさんの議論に付け加えなければならないので、これだけでもうひとつの章(第8章)を追加したいと思う。

第6章の追補

後もう一つ、アバさんの論文の前半には「先史時代の日本」執筆に至るマンローの考古学的活動の経過が記載されていて、そこにはわたしにとっで新しい事実も含まれているので、第6章の修正もしなければならない。

それまで生きていられるかどうか、少々心配になってきた。

日本のどこかにロイターの言う事なら何でも正しいと信じている人がいるようだ。私はどうもへそ曲がりで、ロイターの言うことは信用ならないと考えている。
セーシェルのニュースもその一つだ。

独立以来初 セーシェル大統領選挙で野党派が勝利

ということで、あたかも独裁勢力に対して民主派が勝利したような扱いだ。しかし実際には左派勢力の統一戦線政府が保守派の政党に敗れたということなのだ。

なにも難しいことを調べなくても良い。ウィキペディアの日本語版をみれば、ちゃんとこう書いてある。

1794年にはイギリス海軍が占領し、1814年にはパリ条約によってセーシェルはモーリシャスとともにイギリス領となった。1872年には民政総督府が置かれ、1903年にはモーリシャスから分離して単独の植民地となった。

1948年には立法評議会選挙が実施されるなど、政治的自治は徐々に拡大していった。1964年にセーシェル独立派のフランス=アルベール・ルネが社会主義政党のセーシェル人民統一党を、イギリス領残留派のジェイムス・マンチャムが保守政党のセーシェル民主党を組織した。

1976年6月29日にイギリスから独立し、民主党のマンチャムが大統領に、人民統一党のルネが首相に就任した。(この後人民統一等は何度も党名を変えている)

しかし翌1977年にルネがクーデターでマンチャムを追放して実権を握り、一党独裁制を敷いた。人民統一党は1978年にセーシェル人民進歩戦線と改称し、1979年には憲法を改正して正式に一党独裁となった.

数度にわたってクーデター未遂が起きるが、観光開発により経済は成長を続けた。

1991年に入ると民主化運動が盛んとなった。1993年には民主的な新憲法が発布された。同年、複数政党による民主選挙が行われた。人民進歩戦線は経済成長を評価されて33議席中25議席を獲得した。

2016年の議会選挙で野党のセーシェル国民連合が議席の過半数を獲得し、人民党のダニー・フォール大統領とのねじれが生じた。

2020年10月には野党連合が大統領選挙、議会総選挙ともに勝利し、43年ぶりの政権交代が実現した。

セーシェル政府のガバナンス(統治能力)は良好であり、アフリカ有数の政府の質を誇る。
(photo1)Japan-Seychelles Summit Meeting
Japan-Seychelles Summit Meeting 
August 31, 2019


ということで独立直後の16年は「独裁」が続いたもののの、それは反独立派との対立と考えられる。その証拠に、16年後の選挙では人民進歩戦線が圧勝している。

その後も「民主主義」のもとで政府・与党は良好なガバナンスを誇ってきた。

おそらく20年以上を経て、住民の間に一種の飽きが出てきた可能性はある。もう少し経過を見ていく必要はありそうだ。


キューバ グランマ紙

october 20, 2020

In Bolivia, MAS is more


ボリビア人民は、軍事クーデターのあとも真実と尊厳を失っていないことを鮮やかに示した。

社会主義運動(MAS)の大統領候補ルイス・アルセは圧倒的に勝利した。2位の候補に20パーセント以上の差をつけて破り、右翼の幻想を打ち砕いた(mas は英語で more である)

キューバのカネル大統領は次のようにあいさつを送った。
「MASのみなさん、おめでとうございます。あなた方はOASと帝国主義のに導かれた裹頭勢力が奪った政治権力を、選挙という方法で奪い返すことができました」
そして「キューバはルイス・アルセ勝利の喜びを分かち合っています。ボリバル主義の理想がよみがえりました」
と強調した。

半日の後、ルイス・アルセはカネル大統領にこう応えた。
「ありがとう、カネル大統領。団結した人々は、選挙という方法により、経済的、社会的、政治的な回復と安定を決意しました。そして我が人民は希望を取り戻しました」
投票の結果は、2019年の選挙後にでっち上げられた茶番劇を明らかにした。その茶番劇の背後には米州機構、リマグループ、そして米国がいた。それは軍事クーデター、エボ・モラレスの国外追放、そして30人以上のボリビア人の命が犠牲になる弾圧へとつながっていった。

しかし人々の意志は非常に強力なものだった。そのため暫定大統領アニェスはMASを合法政党として承認せざるを得なかった。

アルセ候補の当選の弁

当選したアルセは、勝利後の最初の記者会見で、国民統一の政府を建設するつもりだと強調した。彼は過去の過ちに学び、それを克服すると述べた。そして憎しみを捨て和解の道に進む決意を明らかにした。

アルセは副大統領候補のデビッド・チョケファンカとともに、軍事クーデター後に課された新自由主義の悪夢を逆転させようとしている。

彼らにはそれだけの経験と道徳的権威がある。 

ボリビアの経済困難はアニェス暫定大統領の時代にひどくなった。広範に広がった腐敗、天然資源や生産設備の民営化と大企業への譲渡が相次いだ。それはコロナ禍への対応のまずさにより耐え難いものとなった。

こうして尊厳を傷つけられた人々は、平和を目指して投票した。

就任後も、内外の敵が確実に「闇の計画」に着手するだろう。新政府は国民を団結させる複雑で困難な課題に直面するだろう。注意深く信頼を強化し、経済・社会の発展のための道すじを指し示し、コロナへの対応を変換し、発生数や死亡率をコントロールしなければならない。

そしてクーデターによって損壊された国民主権と友好的な国際関係を回復しなければならない。


むかし何かで読んだのだが、「国会で安定した過半数を占めることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に代え…」という一節があった。
まあそれはどうでも良いのだが、今回のボリビアのケースを見ているとまさにそういう実感が湧いてくる。


「キューバとコロナ」学習会のための資料です。

1. キューバの感染状況
ウィキペディアより転載
ky-ba kansenn
7月にはいったん完全な封じ込めに成功したが、その後8月からぶり返し、ばらつきはあるものの平均40~50人の新規感染数で推移している。しかし世界的な動向から見れば抑え込みに成功しているとってよい。死者数もきわめて少ない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その1 訪問診療の威力

システム

ファミリードクターが一人当たり約200世帯を受け持ち、

各家庭を週に1回訪れている。

感染者や要注意対象はさらに頻回の往診を行う。

効果

感染者の早期発見・早期隔離が可能となり、

集団感染のリスクも抑えられ、

医療崩壊も起こらない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その2 濃厚接触者への「濃厚な」対処

濃厚接触者『全て』を2週間入院させる

入院先は陽性者とは別の施設

総入院者は感染者の約3倍にのぼる

濃厚な対処が可能なのは国民的合意のため 

健康は全ての国民に与えられる人権で、

国民ひとりひとりがその獲得に尽力する


 

 

キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その3 新規薬の積極利用

20種以上の薬剤で治療

免疫賦活薬 インターフェロンα 2b、バイオモジュリンT

インターフェロンα 2bはデング熱、HIV-AIDS、B型およびC型肝炎で
有効性が試されている

重症化した患者にはジャスビンザ(Jusvinza)

新規薬を使わざるを得ない理由

アメリカは医薬品まで封鎖している。キューバへの販売は犯罪。
第三国で作った製品でも処罰対象になる。

さらにアメリカはインターフェロンα 2bを使わないよう各国に呼びかけている。

 



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由


その4 圧倒的な医療スタッフ

医師数が多い: 人口1,000人中約8.7人が医師(日本は2.6人)
外国人も多数受け入れている

緊急医療援助国際部隊「ヘンリ・リーブス」
コロナ以前より、28,000人を超える医師たちが世界59ヶ国で医療支援

コロナ後には、あらたに2,800人の医師が24ヶ国で活動。

ヘンリ・リーブスは19世紀末に独立戦争に参加し戦死した米国人

 







下記の文章は
北大史学 第46号 2006年11月30日に掲載された
ラファエル・アバ 「ある英国人が見た日本列島の先史文化ーーN. G. Munroと“Prehistoric Japan” (1908年)」のうち「第3章 Munro著 Prehistoric Japn 」をノートしたものである。


第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。

第3節 『先史時代の日本』の構成

“Prehistoric Japan”に見られる「先史観念」を検討する。
著書の構成を確認したい。
Munroは先史時代の時代構成を原始文化ヤマト文化との二つの部分に分けた。これは当時の本邦学会における主流に従ったものである。ただしヤマト文化はマンローの造語であり慣用的には「古墳時代」である。

原始文化

原始文化は 本文第1章 “旧石器時代″ から、第8章 ”中間型土器″ までからなる。当時の日本の考古学者は「石器時代」と称していた、現在のいわゆる「縄文文化」が中心となっている

第1章では日本列島の旧石器文化存否問題を提起している。マンローは日本の石器時代(縄文時代)を新石器時代とした上で、無土器時代イコール旧石器時代の可能性についても触れている。この部分は戦後、東北大学の芹沢教室が盛んに引用したとのことである。

第8章では弥生土器(中間型)について述べている。注意しなければならないのは、弥生式土器(中間型)が原始文化の最後に付け加えられる形で記載されていることである。

ヤマト文化

゛ヤマト文化″は第9章Some Bronze Vestiges″から始まり、第15章 “The Prehistoric Races″ までの7章からなる。

実際には第9章では現在でいう弥生文化と青銅器との関連を分析する序論部分となっている。弥生文化が原始時代の最後に位置づけられるのに対し、青銅器文化はヤマト文化の端緒期として位置づけられる。ただしこれは青銅器文化をヤマト文化とは異なる独立の時代としたいとの密かな意思の現れである、アバはそのように読んでいる。

第10章から第13章までは現在でいう古墳文化について述べている。


特論部分

ヤマト文化の各章のなかで14,15章は特論部分となっている。

第14章は「石器時代人民」や「ヤマト人」の宗教論であり、第15章は日本列島の人種・住民論に当たる。


章構成の特徴

こうした構成はMunro自身の創見ではない。当時、既に出版されていた2つの概説書、八木奘三郎『日本考古學』と八木・中澤『日本考古學』の構成を基本的に引き継ぎいでいる。

しかしながら、幾つかの点において変更が行われている。例えば、八木が「器物」という一つの章で括ったのを、Munroは「生活用具」、「武器」、「土器」の三つの章に区分している。

おそらく最も注意すべきことは、「人種論」の章が著書中に示す位置である。八木と八木・中澤の概説書ではこの「人種論」は最初に置かれている。しかしMunroは最後の章に置いた。しかもこれは僅か15頁の短文である。

モンローがこの本を書いた目的は、遺物や遺跡という物質的な所産をヨーロッパ人に紹介することにある。だからあまりここでは「人種論」にあまりこだわりたくなかったのかもしれない。

同じような趣旨のベルツの本 “Zur Vor- und Urgeschichte Japans” では人種論が30ページにわたっている。


第4節 マンローの先史文化観

(1)「原始文化」

Munroは日本列島で発見されていた先史文化の考古資料を全体的にどのように理解していたのか。結論を先にいうと、原始文化は「縄文時代」、ヤマト文化は「古墳時代」に相当する。

原始文化の遺跡は貝塚や住居址であり、そこから出土する打製石器と精巧な磨製石器が特徴的である。また遺跡からは常に土器が出土する。この土器は一般に粗製で、ロクロを用いずに製作された。時には非常に精巧な文様のあるものも見つかる。

当時日本の考古学人類学界では「縄文文化」という用語がなく、「石器時代」と括られていた。これはアメリカのE. S.モースの命名(cord marked pottery)である。

その他、骨角製の道具も見られる。この文化はヨーロッパの新石器時代の文化に相当する。ただしヨーロッパと異なって、これらの遺物はドルメンや横穴墓からは出土しない

また、旧石器文化は、この新石器文化に先行して存在する可能性が認められるが、確実な証拠は得られていない。(マンローは縄文時代を新石器時代と考えている。そして日本に旧石器時代=無土器時代があったかどうかは今後の発見に待つとする)

(2)「ヤマト文化」

ヤマト文化の遺跡は墓室や横穴であり、そこからは剣などの鉄器が主体的に出土する。

ヨーロッパの鉄器時代に相当する。しかしそこには青銅器や金属器の石製模倣品も見られる。それらの中には、大陸から直接にもたらされた舶来品も発見される。

「土器」は石器時代と異なる。材質は硬く、ロクロを用いて製作されている。その文様は単純である。

一般には「ヤマト文化」ではなく「古墳時代」という。「古墳時代」という用語は1890年代の前半から散見されるようになるが、明確な定義を最初に与えたのは、八木奘三郎である。

「吾邦上古の時に當りて人々高大なる墳墓を築造し、以て死者の靈魂を慰せしことあり、予は便宜上當時を目して日本の古墳時代と謂ふ」(八木1896)

しかしマンローは、学界において既に定着していたこれらの用語ではなく、「原始文化」(Premitive Culture)と「ヤマト文化」(Yamato Culture)と言い換えた。

ただこの時代区分は、言葉こそ新しいものの、実態としては八木奘三郎の「石器時代」(先史時代)、「古墳時代」(原史時代)とかわらない。

ではなぜ言い換えたのか? それは、第三の文化、つまり青銅器文化の挿入と絡んでいる。


(3)第三の文化としての「青銅器文化」 

剣、鉾、ヤジリ、銅鐸などの青銅器は、九州や瀬戸内海に面する幾つかの地域でのみ発見される、それは原始文化の分布とも、ヤマト文化の分布とも一致しない。大和文化とは時期的に近接しているにもかかわらず、その墳墓の中に発見された例もない。

このことをマンローは問題にしている。

つまり、「この青銅器は原始文化ともヤマト文化とも異なる、もうひとつの文化に属するのではないか」という可能性である。

現在我々の「常識」からみれば、これは当然の結論だといえるかもしれないが、実際に日本の学者のほとんどが青銅器を「古墳時代」のものとして分類していた当時では、こうした認識は決して一般的ではなかった。

例えば、坪井正五郎は1899年に日本における青銅器時代の存在を完全に否定していた。

八木も「日本考古學」(1902)で銅鉾についてこう語っている。
銅鉾は古墳時代の品と見て良いのだろうか。たしかにこれらが古墳中より出た例は多くない。去れ共他の點より考へて時期に大差なしと見て宜しいのではないか。
そこには政治的な問題が潜んでいた。すなわち、「石器時代の物質的な所産は優等である日本人(天孫民族)と無縁だ」と考える人の存在である。

彼らにとっては、石器文化と古墳文化とは、その担い手の間に断絶がなければならなかった。日本人が野蛮人の子孫であってはならないからである。

これが明治時代の日本考古学思想にみられる「青銅器時代」否定論の、一つの思想的基盤である。


(4)「青銅器時代」論の意味

Munroは「青銅器文化」を、たんなる過渡期あるいは中間的な段階としては理解しなかった。それは「原始文化」と「ヤマト文化」との間の関連性においてのみ論じられるものではない。それは、短いがまったく独立した時代だ。

日本列島に最初に青銅器文化と鉄器文化を持ち込んだ「戦士集団」、その供給源は明らかに大陸にある。出発点が詳細に特定できないとしても、これらの集団は「原始文化」の担い手であった列島先住民とは明らかに異なる。その集団は、原住民に対して直接の係わりがない異質な人々だ。

この中では、まず青銅器文化の担い手が列島に流入した。彼らは先住民と混住し、ある種の内的な変化をたどった。そのあとで、大陸からの新たな影響がおよんだ。すなわち鉄器集団である。第二の集団が進入することによって、日本列島は鉄器化した。

これがマンローの考えである。

つまりMunroがいう「青銅器文化」は、後に称された「弥生時代」や「中間時代」と重なり合うにしても、ピッタリと符合することはないのである。


第5節 マンローの歴史叙述スタイル

上記のごとく、時代編成に即して八木の「日本考古學」とMunroのPrehistoric Japanを比べると、「青銅器文化」の認識に最大の違いがあることがわかる。

しかし全体を読み通すと浮かび上がってくるのは、歴史叙述の方法そのものの違いである。
八木は基本的に、非アイヌ説を唱える坪井正五郎の石器時代人民論を受け入れている。その結果、八木は日本列島で発見されていた考古資料を、「石器時代」(先史時代)と「古墳時代」(原史時代)という二つの時代にわけた。

そして両者の間に完全な切断面を設定した。すなわち石器時代の文化の担い手が絶滅、あるいは列島を去った後、古墳文化の担い手である「天孫人種」があらわれた、としたのである。

こうした図式に対して、Munroは次のように考えた。それはより複雑で、侵入と混血、支配と服従、っどうかを繰り返す複数の段階にわけられる歴史であった。

(1)原始文化 (primitive culture)

紀元前1000年より前、原始文化は主に本州、四国と九州に分布していた。北海道ではその数は少ない。ただし北海道は未開拓地が多く、発見が遅れている可能性も考えられる。

原始文化の担い手は、かつて日本の史書で「エミシ」・「エソ」とよばれていたものである。北海道、樺太と千島列島に居住するアイヌはその子孫であろう。

ただし、原始文化においてアイヌは主体的な役割を果たしたであろうが、それは他人種の共存と必ずしも矛盾しない。

原始文化の年代の広がりは今後調査により大きくなるかもしれない。例えば三ツ沢貝塚の堆積層は、これまで発見された貝塚と比べ際立って厚い。それはそれまでに推定されていた年代よりも、古い年代からのものであることを示唆する。

坪井正五郎が設定し、当時一般に受け入れられていた、3000年という年代よりも古い可能性がある。


(2)青銅器文化

3000年前あるいは2500年前、大陸から戦士集団が日本列島に流入する。彼らの手によって初めて金属器の文化が日本列島に現われた。

なぜMunroは「3000年前あるいは2500年前」という年代を与えたのかは明らかではない。伝播主義的な立場に立っていたMunroは、ユーラシア大陸での文明の全体的な伝播を考慮して、その年代を推定した可能性が高い。

中東からの製鉄術の伝播のテンポから考えると、紀元前5世紀ころに日本に到達したのは鉄器ではなく青銅器であったはずだ

青銅器の分布やその出土状況からは、青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した可能性が高い。

すなわち、まず青銅器をもつ集団が西日本の一部分に進入した。その後に、大陸からの新たな影響、および新しい集団の進入によって列島に鉄器が広がった。

この推論には2つの根拠がある

一つは青銅器の出土範囲が九州と瀬戸内海に面する地域に限られていることである(銅鐸は大和国までは発見されている)

一つは鉄器文明の担い手の建造したものと思われる古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

(3)マンロー青銅器文化論の矛盾

以下の一文は、これまでの論理展開とは激しく矛盾する。一応書き出しておく。

青銅の武器は初期のヤマト文化のものであり、青銅器も鉄器も、基本的にヤマトに付随するものであり、決して石器時代の文化から発展したものではない。

石器時代からの内発的発展ではないということについては同意するが、「青銅器が初期ヤマト文化だ」とか、「青銅器も鉄器も、基本的にヤマト文化だ」というのは戯言に過ぎない。


(4)北方へのヤマト文化の進出

(この項すべて疑問ー私)

青銅器文化の分布は九州や瀬戸内海に面する地域に限られるが、鉄器の普及に伴って侵略者が伊勢・近江まで進み、そこは2000年前まで原始文化との境界線となった。

後に「ヤマト人」はより北へ進み、1~2世紀頃関東地方の征服をほぼ完了し、北方への動きはやがて日本の史書にみられる東北の占領へとつながる、

「ヤマト人」による関東の征服という考え方は、当時の視点からみても、かなり曖昧であり、Munroによる「古事記」、「日本紀」などの史書の解釈である。


(5)「中間土器」(intermediate pottery) 

原始文化の土器(縄文土器)としても、ヤマト文化の土器(土師器・須恵器/祝部土器)としても認識できない素焼きのものを「中間土器」として分類した。これは日本の考古学者が「彌生式土器」と呼んでいるものである

「中間土器」は原始文化とヤマト文化が本土で長い期間共存した証拠であり、おそらくヤマトの征服者の要求に応じるため、原住民の製作者が作ったものであろう。それらはヤマト文化の墳墓から出土する素焼きの土器(土師器)や陶質の土器(須恵器/祝部土器)と共時的に製作された

担い手の問題を別にして、Munroの「中間土器論」は、当時の日本の考古学者の「彌生式土器論」との類似性が高く、根本的にかわらないといってよい。ただしそれは、弥生土器が「石器時代」とも「古墳時代」とも異なる特定の時代をあらわすという考え方を表すわけではない。


第6節 Prehistoric Japanの2つの功績

(1)日本列島先住民とアイヌとの連続性の提起

1950年代以降、芹沢長介らは「旧石器文化存否問題」の提起を高く評価した。ただそれは、部分的な側面にとどまり、縄文以前の無土器文化を補強するための材料とされた。

では、この著書の真価はどこにあるのか。

それは八木著「日本考古學」と八木・中澤共著「日本考古學」に次いで、日本で書かれた第三番目の考古学概説書である。

前の2冊と比較しての最大の特徴は、「石器時代の人民はアイヌだった」という仮説を最も有力な説として主張していることである。

「アイヌ先住民説」は、単純に石器時代の文化の担い手が誰だったのかという問題ではない。それは先史時代の日本列島に開花した文化を全体として把握する上で決定的な意味を持つ。そして包括的なモデルを創る上で、これまでとは大きく異なる帰結を導くだろう。

Munroは、日本列島の先住民が現存する「アイヌ」と直接に繋っていると考えた。

そうすると、「原始文化」の担い手は現在まで生き続けていることになる。そうすると、彼らと征服者の役割を果たす「ヤマト文化」の担い手とは、長い期間共存したことになる。さらに、征服者は無人でない地域に進入してきたことになる。

Munroが考えた全体的なモデルは素晴らしいものだが、弱点もある。

約3,500ヶ所の遺跡からの金属器の発見例が唯一つだけであること、古墳からは原始文化との共時的な関連を示す証拠が一つも発見されたことがないこと。にもかかわらず原始文化とヤマト文化との併存を主張するのは強引である。

れはMunroに限らず、当時石器時代人民=アイヌ説の主張者に共通の弱点であった。

(2)青銅器時代の暗示

マンローのもう一つの功績が、青銅器文化を古墳やヤマト文化に属する事物から分離したことである。分離しきれたわけではないが、青銅器文化という時代認識の提唱は、二項対立的な歴史構成を乗り越えた考え方として評価できる。

しかしながら、この「青銅器文化」は弥生土器との間の相互関係を確証することに到っていない。その結果、青銅器文化は不本意な形でヤマト文化に組み込まれ、二元的な構成からの本質的な解放に成功していない。(むしろ弥生時代という時期区分こそが矛盾をはらんでいるのではないかー私)


ついでに英文抄録も訳出しておきます

ニール・ゴードン・マンロー(1863-1942)は、スコットランドのダンディーで開業医の息子として生まれた。
エディンバラ大学医学部を卒業後すぐに(1888年)、海外航路で船医として働き始めアジア(インド・中国)を旅した。
1891年、横浜に来て、自分のクリニックを設立した。また、日本で考古学研究に携わるようになり、東京人類学会、日本考古学協会の会員になった。
一連の発掘調査の後、マンローは1908年に「先史時代の日本」を出版した。これは、彼自身の調査結果と日本の研究者による考古学的調査に関する深い知識に基づいている。
マンローによれば、「先史時代の日本」は「ヨーロッパの読者に先史時代の日本についての考えを与える試み」だったが、実際には、この本は3番目の包括的で体系的な「解説書」だった。
最初に英語で書かれた日本列島の先史時代の文化であった。
1910年代以降、マンローの関心は主にアイヌ文化、特に精神的および宗教的領域に移った。彼の人生の最後の時期に、彼はアイヌの中に住む北海道二風谷に自宅を建てた。
現在、彼は基本的にアイヌ文化研究者として記憶されている。その一方、彼の考古学者としての主な仕事である「先史考古学日本」は、これまで「不公平」な扱いを受けている。マンローが考えた術語や概念についての誤解は考古学文献も含め頻繁に見られる。
この論文は、マンローが発掘された材料に基づいて定義した包括的スキームと、考古学的文化の概念形成に焦点を当てながら、「先史時代の日本」の内容を分析した。

この文章はPDFファイルで読むことができる。…のだがどうやってたどり着いたのか、憶えていない。
最終的にはここからダウンロードに成功した。

Thank you for joining the Academia.edu community.

Your download, N. G. MUNRO AND ‘PREHISTORIC JAPAN’ (1908) – THE PREHISTORIC CULTURE OF THE JAPANESE ARCHIPELAGO FROM THE POINT OF VIEW OF A SCOTTISH PHYSICIAN by Rafael Abad, is too big to email, but here is a direct download link

テキストファイルには変換できず、「読み取り革命」で変換した。デジタル化で先進を切る北大図書館ですらこの有様だから、まさに「先史時代」である。

第6章 人類学研究が絶頂に

三ツ沢遺跡の発掘を機に東大解剖学教室の小金井良精との知遇を得たことは、マンローにとって大きな足がかりになりました。

マンローは三ツ沢の人骨を “アイノの頭蓋骨” と予想し、小金井に鑑定を依頼しました。彼は合わせて発掘現場を訪れ発見場所の検分も依頼しました。

小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断しました。

実は、小金井には大きな声ではいえない実績があったのです。彼はアイヌ人の人骨300体を隈なく調査し、日本人と比較・検討しています。そのおかげでアイヌに関する人類学上の権威になったのです。

その結果いくつかのパラメーターで両者間に有意の違いがあることを発見しています。

小金井 アイヌ
    人類学雑誌に掲載された小金井の講演(結論部分)

小金井の証言に自信を得たマンローは、雑誌に人骨の発見状況や頭蓋骨の計測所見を掲載しました。そしていくつかの根拠を元に、この人骨がアイヌ人であると断定します。

ただこの断定は危うさを含んでいました。小金井は①どちらかといえばアイヌに近い、②積極的にアイヌと断定することではない といっているに過ぎないので、マンローの主張を完全に裏付けるものではありません。

またアイヌ先住説については、南方x北方の混合種ではないかとの意見も出されました。

現在ではアイヌのみならず沖縄もふくめ、仁保人の体内には縄文人の血が色濃く残っている事がわかっています。

だから一歩立ち止まればよかったのですが、さらに突き出してしまいます。

東京人類学会雑誌に東京人類学会雑誌に「アイヌ模様と石器時代模様」を発表。縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのだと主張しました。

これは印象論であり、議論の質を低めるものです。こういう議論に入ってしまうと、アイヌを犬ころだと思っている大方の日本人には受け入れられなくなってしまいます。だからこそ小金井は慎重に数字でもってモノを言うようにしていたのです。

これを見た学会主流は、マンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視します。いかにもやりそうな、こすっからい手口です。

ついでマンローは、小金井らと川崎の南加瀬貝塚の発掘調査を行います。発掘遺物の層位的分析に基づいて、マンローは弥生・縄文土器の年代評価を提起しました。

当時はまだ縄文も弥生もへったくれもなく、石器時代と一括されていた時代です。その先見性は群を抜いていたと思います。

日本の学界の無理解ぶりに失望したマンローは、考古学研究の成果をまとめ出版しました。

これが『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)です。

自費出版されたこの本は、長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものでした。
だから外国人は日本の先史時代に関してマンローの本を読んで興味と関心を持ってやってくるのに、日本人の研究者はそのことを知らないという、困った状況が続いたことになります。



三ツ沢のような大規模な事業を単独で実行した裏には、潤沢な資金とともに有能な事務方がついたことがありました。

それが高畠トクでした。トクは明治10年生。没落士族の娘でしたが、女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた才媛です。

特派マンローの申し出を受け、トクは秘書兼通訳になりました。1900年ころのことと思われます。このあとの十年は生涯にわたり最高の十年でした。

相次ぐ大規模な発掘調査でマンローは名を挙げ、日本の学界にも積極的に関わるようになります。

その話は一旦置いておいて、肉体的・金銭的には相当疲弊していただろうと思います。

妻アデレは声楽とピアノの得意なお嬢様育ちで、実家は横浜でも屈指の貿易商です。流石に夫婦関係もギクシャクしたものになるかもしれません。

桑原さんの本から引用します。

嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。

というから、トクからの聞き取りでしょう。

このあとマンローはアデレと離婚し、トクと結ばれました。

元気になるに従って、マンローは次第に考古学にのめり込むようになりました。

ここで当時の日本の考古学の状況について少し話しておきましょう。

教科書でもおなじみですが、日本の考古学のはしりとなったのが、アメリカ人教師エドワード・モースによる大森貝塚の発掘でした。

モースについてはいろいろな評価がありますが、そのエネルギッシュな進化論の普及活動で日本の考古学の骨格を作り上げました。(「種の起源」の発表は59年で、モースの活動開始は77年)

まずはそれを評価すべきです。

モースの活躍があったとはいえ、考古学研究の中心はイギリスやドイツ系の学者でした。

最初中心になったのはドイツ人シーボルトでした。大シーボルトの次男で、名も同じだったので小シーボルトと称されていました。

彼らの頭には91年にインドネシアで字発見された「ジャワ原人」のことがあったのではないでしょうか。

それは33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが発見し、「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられました。「第二の原人」探しは考古学者の密かなあこがれであったと思います。

おそらく95年ころから、考古学好きグループの刺激を受けて発掘にのめり込んでいったようです。

はっきりしている記録としては、1904年、マンローとベルツの共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘したことです。このときマンローは41歳。

多分それは今までの発掘とは比較にならない大規模なものだったのでしょう。

岡本孝之さんは次のように書かれています。
この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。この病院は1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる。
翌1905年、今度はマンロー単独で箱根の発掘作業に入りました。そこは早川沿いの河岸段丘で何層かの礫層が露出していました。

そこから旧石器時代の遺物とみられるものを発見しています。旧石器と言っても、日本で言う縄文時代です。

しかしこれらは小手調べに過ぎませんでした。この年の秋、横浜市内三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見したのです。

そこは宝の山でした。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などが掘り出されました。

それどころではありません。竪穴住居群が発見され、その一つからはこども1体、大人4体の、ほぼ完全な人骨が発掘されたのです。

これだけの大発見の割に、世間的には知られていないというのも不思議です。さらにいえば全くの個人の意志と私財によって成し遂げられたというのも評価されるべきではないでしょうか。


藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です

弥生時代という時代区分を放棄すべき

「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。

これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは量的な問題だけではないか。

厳密な意味では記紀の作成をもって歴史時代の始まりとすべきだが、先史時代の末期は文書がなかったのではなく紛失した可能性が高い。

卑弥呼の時代、好太王石碑、倭の五王、任那滅亡、日出ずる国文書など、他国の史書により確認される事績はほぼ歴史と考えても良い。


原史(Protohistoric)時代の提起

このようにしてサブ時代区分として、紀元200年から700年まで(古墳時代に相当)を歴史の原史(Protohistoric)時代と考えてもよいのかもしれない。

このようにして先史時代と歴史時代をつなぐ接点は、何を基準にして切断するかという問題でもある。

先史時代と歴史時代は原理的には2つにしか切れないのだが、切り方に2種類あるということになる。

したがって切り方によって異なる2つの切り口が生まれ、これによって先史時代は3つの時期に分かれることになる。

そして外国文献を通じて浮かび上がる500年の「原史」時代(基本的には先史時代の晩期)、先史時代と歴史時代を最終的に分かつ記紀・大宝律令(7世紀末)がもう一つの切り口を提供する。


先史-原史-有史 の切断と統合


武器 道具

石器

鉄器

有史時代


食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代


統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代


人種的には

YハプロD(+C1)

YハプロD+O1(+C1+N)

YハプロD+O1+O2

YハプロD+O1+O2

(O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代


ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。

時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。

ウソのようなホントのはなし

「血液型がO型ならコロナにならない」というので、てっきり都市伝説か、悪くすればフェイクかと思っていたが、なんとNEJMに載った論文なのだそうだ。(New England J of Medicine は世界で最高の医学雑誌と言われている。しかし時々先走ることもある)

出処は 7/25 日経Gooday 30+


イタリアとスペインの患者を対象に行われた臨床研究。

新型コロナで重症化するリスクは、血液型がA型の人で45%高く、O型の人では35%低いことが明らかになった。

「新型コロナの重症化にはどんな危険因子が関係しているのか」
それを探す研究が、世界中で行われている。

その一つが重症化群と非重症化群に分けてゲノム解析の比較をすることだ。

ゲノム解析と言っても、全ゲノムをチェックするような面倒な話ではない。

疾患関連SNPを見つけ出し、その近くの疾患感受性遺伝子を推定するという方法である。(ちょいと面倒なので詳細は略)

今回はイタリアとスペインの4都市の7病院で、呼吸機能の低下した1610人と健常者2200人を比較した。

その結果、A型の重症化リスクは、他の血液型(B型、AB型、O型)の1.45倍になることが明らかになった。

一方、O型の重症化リスクは、他の血液型の人の0.65倍にしかならないこともはっきりした。

これまでも武漢での疫学調査により「新型コロナウイルス感染者はA型の割合が有意に多い」ことが認められていた。

今回の研究ではそれがゲノム解析によって裏付けられた。

アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一

上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)


ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。

従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。

① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)

本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。

特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。

すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)

第一章 モースの時代

1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。

考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。

当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。

翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。

第二章 三宅米吉の時代

1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。

これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。

三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。

第三章 ハ木奘三郎の時代

1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。

八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)

① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)

② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)


第四章 マンローの時代

1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。

この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。

マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。

そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。

(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)


第五章 鳥居龍蔵の時代

1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)

鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。

ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)

アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。

鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。


マンローが横浜に降り立ち、「日本の人」となったのは、1891年5月12日のことのようです。明治で言えば24年。このときのマンローの年齢は28歳でした。

前の章で書いたように、マンローはインドでの生活を断念し香港に拠点を移したのですが、そのことは香港で生活の資を確保するということでした。

記録によると、彼は1890年に香港の汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社に船医として勤務しています。この会社は香港・横浜間の定期航路をもっていて、2週間に1度行き来していたようです。

マンローはこの航路の船医として何度も横浜を訪れました。その間にインドでの体験をまとめた「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という論文集を横浜で発行しています。小生未見ですが、一種の哲学論らしいです。この頃は考古学の道は断念し哲学者への道を模索していたのかもしれません。

香港の生活は1年ほど続きましたが、この間に病気がぶり返し、入院が必要となりました。

このとき馴染みのあった横浜での療養を決意したようです。

横浜に降り立ったマンローはそのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。ここは外人専用病院で、医師もイギリス人でした。入院は年余に及んだと言います。

ここからマンローの日本での生活が起ち上がっていくのですが、その生活環境はかなり特異なものでした。

病癒えたマンローはそのままゼネラルホスピタルの院長に就任します。これはおそらく看板院長ということでしょう。エジンバラ大学出身ということになれば日本では相当の肩書きです。当時の東大にもエジンバラ大学出身のお抱え学者がたくさんいました。

イギリスの領事館は1874年まで横浜にあり、当時も旧領事館を中心に、貿易関係者からなる一種の外人租界が出来上がっていました。

マンローはこの外人租界の中で外人の患者だけを診療し、英語だけしゃべって生活していました。租界に住む外人女性と結婚し、家庭を築きました。

とはいえ、外国人社会の中にマンローもそれなりに溶け込んで行きます。とくに東大医学部お雇いの医師でゼネラルホスピタルの顧問でもあったベルツとの親交は大きな影響を与えました。

ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。

英語ができる日本人たち、たとえば新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようです。




中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
5世紀に現在のハンガリー地域を拠点として広い版図を誇ったアッティラ帝国は、フン族の系統だと考えられている。

過去3000年以上にわたり、遊牧民族はシルクロードをかけめぐった。それにともない、征服王朝をたてた勝者のDNAも拡散していった。

2003年に発表された、中央アジアの多数集団のY染色体の調査では、契丹(遼)時代の起源を持つ系統が8%近くに達するとされている。

ウイグル人は東アジア人と西ユーラシア人の中間に位置している。しかし、ウイグル人自身に多様性があり、東に位置するウイグル人はより東アジア人に、西に位置するウイグル人はより西ユーラシア人に近い。

此処から先はややポレミック

まず、東アジア人の祖先集団とシベリアから南下した集団が5500~5000年前(紀元前3千年)に混血した。
O2とC2との混血を指す?

これは、日本列島では縄文時代中期、黄河流域では仰韶文化から龍山文化への移行期にあたる。

西では、5000~3800年前(紀元前4千年)に、西ユーラシア人と南アジア人の混血があった。これはカスピ海・黒海の北部にいたインド・ヨーロッパ語族(印欧系集団)が南下し、イラン(ペルシャ人)とインドに移住していったイベントに対応していると考えられる。
印欧系とセム語系の混血を指す?

そして、シベリア・東アジアの混血集団と、西ユーラシア・南アジアの混血集団が、中央アジアで3800年前ごろにまず混血し、さらに西暦1240年ごろ(蒙古帝国による制覇?)、第二段階の混血が生じたと推定されている。
「中央アジアで3800年前ごろにまず混血」というのはさっぱり実態がわからない。

斎藤流シルクロード論

ユーラシアの東西交流は、遊牧民が誕生するよりもはるか以前からおこなわれてきた。
バイカル湖の南に位置するマルタ遺跡出土の、24000年前の人骨のゲノムは、現代のヨーロッパ人と南北アメリカ原住民の中間だった。
(こういう斎藤氏の言い方が好きでない)

後略

匈奴の歴史 年表

戦国時代

紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。
戦国時代の匈奴
             戦国時代の匈奴

紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。

紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。

紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。

紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。

匈奴最大版図

紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。

紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。

前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。

前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。

前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。

前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。

前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。

前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する

前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。

紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。

紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。

紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。

紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。

87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。

匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)

匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。

戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。

昨日は頭にきてハニー中野信子をののしったが、それはあまりに志が低い。こちらまで「脳なし科学者」になってしまう。
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まずは各紙論調をチェックすることにした。

赤旗: 3日主張 
任命を拒否された6人は、安倍政権が強行した反動法案に反対してきた。
それを理由に任命しないのだとすれば、憲法第23条が保障する「学問の自由」を侵害するものです。
推薦候補の任命拒否は、「一定の監督権の行使」なのか?→それが問題なのではない。
①「日本学術会議法」第2条、第3条に照らして違法行為なのだ。
② 「日本学術会議法」第7条(83年の法改正で追加された条項)および政府答弁に照らして違法。

菅政権は異常な特質を継承していることが示された。

信濃毎日新聞 9日

政府の言い分には根拠がない。

学術会議は国内の研究者を代表する機関である。それは科学研究や政策のあり方について提言する。その独立を確保することは、学問の自由の制度的な保障となる。

本来、首相には拒否できる余地はない。

しかし18年に内閣府が、「推薦通りに任命する義務はない」とする見解を明確化した。

(なぜなら学術会議は)首相が所轄する行政機関であり、人事を通じて一定の監督権を行使できる。

内閣府は、公務員の選定を国民固有の権利と定めた憲法15条を持ち出す。

また監督権の根拠には、内閣の行政権を定めた憲法65条と、首相が行政各部を指揮監督すると規定した72条を挙げた。

それ自体、独善的な見解であり、受け入れられない。しかも、過去の国会での答弁と矛盾する。

政府が一方的な解釈で権力行使の枠を広げるのは「法の支配」の原則に反する。

朝日新聞 9日 社説

学術会議問題 論点すり替え 目に余る

首相は任命拒否の理由には答えようとしない。

すり替えの事例

1. 同会議の「必要性」の議論

「組織の形態や役割を検討する」と、論点をすり替え。
これは学術会議の側に非があるという「印象操作」に過ぎない。

2.同会議の実情について誇張と歪曲

A   会員が自分の後任を指名することも可能な仕組みだ(首相発言)
実際は、新会員の推薦に際しては性別や年齢、地域性などに配慮している。

B 学術会議は07年以降、答申を出していない(下村元文相)
政府は07年以降諮問していない。しかし答申ではないが、様々な提言を行っている。20年度だけで83本の提言や報告をまとめた。年間5億円の予算は、そのための連絡費に使われている。

C 今回の対応は学問の自由の侵害に当たらない(加藤官房長官)

しかし当該者の研究・発表が、今回の不利な人事につながったのは疑いようがない。

西日本新聞 7日
首相は拒む理由の説明を

重複分は割愛。

今回の6人は安全保障関連法や特定秘密保護法といった政府の法案や政策に批判的な立場を取っていた。政府に盾突くような学者は公職に任命しない。
という姿勢が読み取れる。

このままでは、「政権の意に沿わない学説は認めない」とのメッセージと受け取るほかない。

しかし首相は「一切関係ない」と断言した。それなら拒んだ理由を説明すべきだ。

首相は「個別の人事に関することはコメントを控えたい」というが、これは個別ではない。6人という集団である。

中国新聞 9日
首相の説明なってない

首相説明の翌日になって、政府側は18年に作成した内部文書を公表した。
そこには「首相は人事を通じて一定の監督権を行使することができる」と書いてある。
しかし文書はこれまで公表もされていないし、その適法性は議会を通じて確認されていない。議会ではむしろ83年の答弁書が通念化されている。

いま引きこもりを主人公とした映画を見終わったところである。とても感動的だった。たぶん数多くの実例を踏まえているのだろうと思う。

深く考えさせてくれる映画ではあるが、たぶんそれが病気だということから目をそらそうとする、希望的観点に基づいているのではないか。

「引きこもり症候群」という症候群があるとすれば、それは「自閉症」に基づく症候群であろうと思う。しかし「自閉症」という疾患単位はあるにせよ、そういう本質規定はまったくの誤りである。誤りであるだけでなく、本人と家族をますます窮地に追い込む罪作りな病名であろうかと思う。

自閉症はまず何よりも微細脳損傷と理解すべきかと思う。その損傷部位は一時記憶装置である。

大体が脳の働きの大部分は記憶装置である。判断とか対応というのは、さまざまなイベントを視覚化させ、その画像を短期記憶装置により連続的な事象と捉え、その事象をハンドルにより操作していく技能のことである。

一つ一つの画像に意味はなく、パターン化したシンボルに過ぎない。、それが連続した時にはじめて現象としての意味を持ってくる。いかに画像が鮮明であろうと、その時間軸上での再構築と動態化能力がないと無意味になってしまう。

自閉症の人はこのパターン化、シンボル化ができない。画像はいつまでも画像のままである。

これは一次的には頭頂葉の障害であり、さらにこの情報を二次処理する特定の脳分野の障害であり、反応系の連結障害である。どちらが原因でどちらが結果なのかは不分明である。聴覚情報(嗅覚・触覚も)というのは本質的に連続的なので、生物は発達のどこかの時点で聴覚と視覚を結合させる能力を手に入れたに違いない。

病理学的には発達障害と認知症は同じ病気であるが、病因としてはことなる。こういう視点からの取り組みが必要である。

なぜこのような当たり前の話をするかというと、児童精神医学や教育心理学には変なカリスマがたくさんいて、それを信じる変な実践家がたくさんいるからだ。

くれぐれも「脳科学者」を名乗る怪しげな輩には騙されないように、ご用心を!

第2章 遍歴の時代 エジンバラから横浜まで

マンローは歴史の話や発掘の話では饒舌ですが、自分のことはあまり語りません。

とくに卒業前後の事情はあやふやです。3つの謎があります。

第一には、病気で学校を休んでいることです。最低でも1年は休んでいます。おそらく結核だったようで、チュニジアで転地療養を行っています。

第二には、きちっとした形で卒業していないことです。日本でもイギリスでも、卒業と医師国家試験とは別になっています。

ところがどうしたわけか、マンローは卒業はしたが医師免許はなかったのです。これだと診療はできません。もしやればモグリということになります。

第三には、第二の疑問とも関連しますが、なぜ卒業と同時に祖国を去ったのでしょうか。1888年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。25歳のことです。

“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)という意見もあって、たしかにそうも言えるかと思いますが、はたしてそれだけでしょうか。

それ以来死ぬまで、マンローはたった一度しか、祖国の土を踏んでいません。父親が死のうが母親が死のうがお構いなしです。むしろそちらのほうが気になります。

88年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。そして外国航路の船医となってインドへ向かいました。

インドでは各地を旅行し発掘調査に関わっています。この間、父ロバートが没していますが、ついに国に戻ることはありませんでした。

さりとてインドでの研究が順調に進んだかというと、そういうわけでもありませんでした。彼はインドの持つ巨大な「混沌」とぶつかり、かなり精神的にまいったようです。

晩年、マンローは最後の妻チヨにインドと香港で見たことを語っています(桑原による)。これをちょっと膨らませて紹介します。

「英国人は傲慢で、インドの人たちを奴隷でも扱うように接していました。それに輪をかけて昔からのカースト制度が人々を苦しめていました。人々は進んだ文明から疎外され、遅れた文明からいじめられていたのです」

このような精神的ストレスに加え、インドの厳しい気候が身体を痛めつけました。おそらくは学生時代に発症した結核が再燃したのだろうと思います。

やがて彼はインドでの研究を断念、香港に移ることにしました。

ここでマンローは別の船会社の船医に就任します。この船会社は香港・横浜間の定期航路を運営していました。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたはずです。

香港に移ったあとも病勢は思わしくなく、マンローは横浜で療養生活に入る道を選びます。これが1891年(明治24)5月のことです。

マンローは横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。その後年余にわたる療養を経て社会復帰します。

彼は横浜に来て病気療養中に「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という文章を書いて出版しています。インド滞在中に執筆した哲学に関する覚え書きのようですが、詳細は不明です。

自分の人類学者として生きていく道を模索し、整理していったのではないかと思います。

ようやく病癒えたマンローは、日本永住を決意。2年後には入院していた横浜ゼネラルホスピタルの院長に就任します。この時齢30歳、放浪の前半生に別れを告げることになりました。




第1章 マンローの学生時代

マンローは1863年にエジンバラ近くのダンディーという町で生まれました。明治維新の4年前ということになります。親は開業医で、一族は14世紀まで辿ることができるという名門です。

まぁ田舎ではよくある話です。島崎藤村みたいなもんだと思ってください。

79年にエジンバラ大学医学部に入学しています。学生の頃から考古学・人類学に興味を抱いていたようです。テームズ川流域で石器時代の遺跡の発掘にも参加していたと言われています。

このころ、人類学と民族学(民俗学)、考古学は未だ分化せず一体のものでした。

そんなときに若き学徒に影響を与えた人物といえば、なんと言っても進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンでしょう。

ダーウィンはマンローより54歳年上ですが、結構長生きしているのでかなり時期的にはかぶります。それになんと言ってもエジンバラ大学医学部の大先輩に当たります。

ダーウィンも、親が医師だから医学部に行ったのですが、どうも血を見るのが苦手だったらしく、途中退学してしまいます。そして大好きだった生物学の道に進むことになります。

卒業後はビーグル号に乗って世界一周しました。航海の途中とりわけガラパゴス諸島で珍奇な生物に出会い、それを機に生物が進化することを確信するにいたりました。

彼の発表した「種の起源」は、人間も含めたすべての生物が単純で原始的な生命から発達してきたという衝撃的な主張で、いわば生物学における地動説でした。

マンローにとってはダーウィンの冒険心と行動力、それに事実の示すところに従う大胆で実証的な理論構築の手法が大きな影響を与えたのではないでしょうか。

マンローの著作を流れる実証的な姿勢、大胆な構想力などはいわばエジンバラ学派のスタイルとも言えるでしょう。それがマンローの思想のバックボーンを形成したのではないでしょうか。

人脈ついでにもうひとりの同窓生を上げておきます。それはシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルです。

エジンバラ大学医学部で3年先輩に当たるので完全にかぶっています。ドイルも進化論を知って無神論者になり、学生時代にモグリの船医をしてケープタウンまで行ったそうです。マラリアになって死ぬ目にあったそうです。こんな命知らずはエジンバラ大学の伝統かもしれません。

大学を出てロンドンで開業したが、あまり流行らないので暇つぶしに書いた探偵小説が大ヒットしてしまいました。ホームズシリーズの第一作が発表されたのが84年のことですから、マンローがテームズ河畔の発掘に加わるなど、考古学に夢中になり始めた頃です。

マンローはホームズの探偵小説を読んでいたのでしょうか。それはわかりませんが、二風谷のマンロー邸の2回の書棚に「緋色の研究」や「バスカービル家の犬」が並んでいたのではないか…、楽しい謎です。

序章 マンローが生まれた国 スコットランド

最初から寄り道ですみません。まずスコットランドの紹介をさせてください。

というのもマンローの行動スタイルや、アイヌに注ぐまなざしは、スコットランドという文化・風土を踏まえて初めて理解できるのではないかと思うからです。

イギリスは大ブリテン島と小ブリテン島からなり、大ブリテン島の3分の2ほどがイングランド、北の3分の1がスコットランドとなっています。

私たちがイギリスと言っている国は、正式には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。

略するときは連合王国(UK)と呼ばれ、これらの地方の総称として使われます。

スコットランドは連合王国とは言うものの、ずっとイングランドの風下に立ってきました。

日本でも東北の縄文人が大和朝廷の支配に組み込まれていきますが、スコットランドも似たような環境にありました。ただ人種や言語・宗教よりは経済。生活水準が大きな違いでした。

その点では、スコットランドは東北というより信州に近いかもしれません。

「イングランドではえん麦は馬の飼料だが、スコットランドでは人間の食料だ」と言われたくらいの差があったのです。

それが18世紀の中頃から急速に事情が変わってきました。アメリカやインド、アジアとの貿易が盛んになり、繊維など輸出を狙った“糸へん産業”が盛んになります。

そしてイギリスは産業革命の時代に突入していきました。

機械制大工業は大量の労働力を求めました。また、原料としての羊毛、動力としての石炭や水力も必要になりました。

そこで目をつけられたのが後進地帯で貧乏国であるスコットランドでした。ほそぼそと粗放農業が営まれていた山野は牧畜地帯となり、そこから多くの過剰人口が吐き出されました。

まさに資本主義のための「根源的蓄積」の舞台となりました。「嵐が丘」の舞台のような荒野に工場が立ち上がり、港へはインドや南米向けの船が出入りし、山からは石炭が運び込まれ、ハイランドから大ぜいの労働者が下ってくる…そんな世界が出現したのです。

スコットランド人ワットの蒸気機関にはニュートン力学がふさわしい教義となりました。スコットランド人哲学者のヒュームは、キリスト教の教えに対して「懐疑論」を提示し、観察と経験に基づく事実を重視しました。「懐疑論」はのちに “恥ずかしがり屋の唯物論” と揶揄されることになります。

スコットランド人経済学者ジェイムズ・スチュアートは利潤がブルジョア的生産過程に基礎をもつことに気づきました。また有効需要が社会発展の原動力だということを突き止めました。

そのゆえに、近代社会が生産過程を中核として形成されると論じました。それはスコットランドにおいて近代工業がどんどん立ち上がっていく姿を前にしての感慨でもありました。

もうひとりの経済学者アダム・スミスは社会の分業化、商業の国際化に伴い、労働が富を生み、富が自立的増殖することを指摘しました。

こうして二人のスコットランド人がイギリス古典経済学の基礎を打ち立てたのです。

彼らは同時代のフランスの啓蒙主義者に倣って「スコットランド啓蒙主義」と呼ばれています。

ジェームズ・スチュアートと剰余価値論の変ぼう

小林昇の解説」から

重農学派が剰余価値説を提唱。
いかなる労働が交換価値をつくり出すか
→いかなる労働が使用価値をつくり出すのか
→いかなる労働が剰余価値をつくり出すのか
への転換。

ジェームス・スチュアートは農業から鉱工業一般に価値論を拡大するに当たり、多くの言葉を生み出し。多くの混乱をもたらしつつ剰余価値の探求を進めた。

もっとも単純化した形態では、スチュアートの主張はこうである。

商品には有用性だけではなく、特有の自然的な性質がふくまれている。これを「内在する価値」(intrinsic worth)と呼ぶ。
これに労働が加えられて商品となるが、そのための労働時間を「有用な価値」(useful value)とよぶ。

つまり商品の売値=交換価値は、材料費(スチュアートのいう内在価値)と労働量=労働時間(スチュアートのいう有用な価値)としてもとめられることになる。

たぶん、スチュアートはケネーの再生産表の厳密な適用によって価値の抽象化に成功したのであろう。

ここには商品の形態は姿を消し、これによって生産の本質が明確に掴まれている。

スチュアートの結論:
原文はこうなっている。

その譲り渡しによって一般的等価(Universal Equivalent)をつくり出す労働を、私は産業(インダストリ)と名づける。

私は次のように読み直す。

(商品の)譲渡によって一般的等価
  “Universal Equivalent”が作り出される。このような商品生産体制を、私は産業  “Industry”と名づける。

スチュアートにあっては生産と労働の分離は行われていない。インダストリーにつながる“労働”については、労働ではなく生産というべきであったと思う。

「生産」という抽象的範疇はまだスチュアートの主張の中には現れない。おそらく産業というのが「生産」の概念を代用しているのであろう。

これは重農説における農業生産と労働の未分離が重石となってのしかかっていたのだろうと思う。率直に言って、それはマルクスにも引き継がれている。

このあと、労働の生産への置換えを注意深く進めながら、議論をたどってみたい。

スチュアートは、将来の資本主義的な生産様式における生産活動を、現在や過去の生産様式と区別する。

この生産活動は生産のブルジョア的形態であって、古代の形態とも中世の形態ともちがっている。

現在は封建的生産からブルジョア的生産への移行期にあり、前者は没落の段階にある。

その違いは、商品の交換過程にもっとも顕著に現れている。

封建時代にも商品はあり、商品が交換される際には貨幣が用いられていた。

しかし、商品は残余ではなく富の基礎形態(交換価値)となった。そして商品の販売は富を取得するための主要形態となった。

このような商品と貨幣のあり方はブルジョア的生産時代に特有のものである。

したがって主要な「生産」の性格は交換価値(富の素材)を生むという抽象的なものとなった。

「マンロー小伝」を書くにあたってマンローの肩書きをどうしようかと悩んでいる。
まず即物的に「医師マンロー」というのはいかがかと思ったが、どうも違う。まず真っ先に違うのは、彼が45歳になるまで医者(ドクター・マンロー)ではなかったことである。
それと、彼は職業として医師ではあっても、きわめて訓練の不足した医師だったことである。だから彼はもし伝記を書いてもらえたとしても、医師マンローとは書いてほしくはなかったろうと思う。

そしてここからが問題なのだが、彼は考古学者であり民俗学者であったのかということである。たしかに主観的には考古学者であり民俗学者であった。ただ学者というほどにマンローはプロフェッショナルであったかと言われると、いささか疑問符がついてしまうのである。

彼は調査(フィールドワーク)も研究も発表もすべて自分のお金でやった。だから彼は職業的研究者ではなくてアマチュアなのだ。

だから結局、彼は「好事家」(ディレッタント)という肩書きに落ち着くのかもしれない。なまじ「日本の硬貨」などという本を出しただけに、そういう印象を持たれることをおそれる。

しかし彼の研究手法は半端な道楽ではない。国籍を日本に移し、すべての生活を日本での研究に注ぎ込み、すべての資産をなげうち、2度の災難で、資料の殆どを灰燼に帰しつつも、最後まで研究に打ち込んだ人を道楽者と言ってはいけない。

とすれば、少なくとも伝記を書く人間としては、彼がどういう人間であったかというよりは、彼が何をもとめ何に生涯を捧げたかをもって彼の肩書きとしなければならない。

だから私は彼を「学徒」とし、「先史日本研究者」と規定したい。アイヌ民俗の研究も、先史日本へのタイムトンネルの入り口ととらえていたのではないだろうか。

ただそうやって生涯、“我を通した”わけだから、多少の偏屈であったことは疑いを容れない。堀辰雄が「風立ちぬ」の作中で出会ったマンローもまたマンローであろうと思う。


61年草稿における機械論
(佐竹『剰余価値学説史執筆の動機』の読書ノートです)

協業や分業による生産力の増大は、社会的労働の無償の自然諸力の表現である。

これに対し、機械は生産諸部面に商品として、不変資本の一部分として入っていく。

それが剰余価値の増大にどう結びつくのはは考察が必要である。

まず考えられるのは、機械の採用は生産規模の拡大を意味するということだ。すなわち、資本の蓄積であり、それによる競争での勝利である。

生産規模が拡大すれば機械の効率が上昇し、剰余価値が増大する。しかし生産規模が拡大するとは限らないから、機械が剰余価値を拡大するとは言えない。

では競争での勝利以外にも機械の導入の意義はあるのか?

ここでマルクスは「機械の採用にかんする八つの要因」を指摘する。

(1)特別剰余価値の生産
(2)絶対的労働時間一総労働日ーの延長
(3)労働強度の増大 (労働効率の改善)
(4)機械導入による単純労働への代替
(5)賃金引上げの要求やストライキへの対抗手段
(6)「労働者たちが労働の生産性向上を我が物にしようと思い上がること」を防ぐ
(7)労働や材料のムダの最小化(労働の連続性や廃物利用など)
(8)機械による「労働の代替」

あげては見たものの、それらの多くは的外れだ。機械の採用の動機ではなく、採用の結果・影響・効果に過ぎない。

マルクスは剰余価値の概念が空回りしていることに気づき、それがスミスのv+mドグマ、重農主義の労働価値への単純な当てはめよるものであることを発見する。
そして資本主義のもう一つの特徴である機械の充当という過程が、この空回りを露呈したと考える。

ここで主格としての資本家が、「人格化された資本」として機能していると規定することにより、新たなパラダイムを獲得するのである。

2 October 2020 Trend (中見出しは訳者による)


OSCEミンスクグループの共同議長の声明についての、
アゼルバイジャン共和国外務省のコメント

1.今回の新たな事態について

「2020年9月27日、アルメニア軍は、アゼルバイジャン共和国との軍事境界線に沿って、大口径の武器、迫撃砲、さまざまな口径の銃砲を発射しました。これはアゼルバイジャンに対するもう一つの新たな攻撃行為です。

今回の侵略行為は、ここ数ヶ月の間にアルメニアが行った挑発行為の継続です。

7月12〜16日のトブズ地区への攻撃、8月23日のゴランボイ方向での妨害行為と武力偵察の挑発、アゼルバイジャン国内の占領地における違法な定住計画の実施、アルメニア政府幹部の挑発的な言動などが続いてきました。

アゼルバイジャン共和国のイルハム・アリエフ大統領は、国連総会の第75回会期の一般討論で、「アルメニアがアゼルバイジャンに対する新たな軍事的挑発の準備をしている」と警告しました。

2.一連の事態におけるアルメニア政府の関与

以下の点に注意を喚起したいと思います。

アルメニア政府の言葉と行いによる挑発行為は、OSCEミンスクグループの共同議長によって仲介された紛争の解決プロセスに障害をもたらしています。

彼らはアゼルバイジャン領内の占領地シュシャで行われた“政権”の発足式に参加しました。

同じく占領下の都市カンケンディでは挑発的な「カラバフはアルメニアだ」という声明を発しました。

占領地区において「新しい領土のために新たな戦争を」の概念を導入しました。

紛争解決交渉において7つの前提条件を提示し、話し合いの形式を変更し、合意のハードルを遠ざけようとしています。

3.アルメニア軍の非人道行為について

アゼルバイジャンに対する軍事侵略の一環として、アルメニアの軍隊は民間人に対してさまざまな犯罪を犯しています。

アゼルバイジャンの民間人と市民インフラを意図的に標的にすることは、今やアルメニア軍の伝統とすらなっています。

それらは国際法、特に国際人道法および1949年のジュネーブ条約とその追加議定書の規範と原則に著しく違反しています。

10月1日の時点で、19人の民間人が殺され、55人が負傷し、200以上の家屋と民間施設が破壊されました。

彼らはナゴルノ・カラバフ地域だけでなく、さらにその周辺地域を軍事占領しています。アルメニアはこれらの作戦で、テロリストグループと傭兵を使用しています。それらの事実は数多くあります。

現在もこの政策は継続されており、過激派の部隊は、アゼルバイジャンに対する新たな侵略行為の一環として広範に利用されています。(当面、この項については訳者は争いません)

4.アルメニアの狙いはなにか

OSCEミンスクグループはこれまでの多くの声明を発し、その中で何度も、「現状(武装占領状態)は受け入れられない」と強調しています。

しかし、アルメニアはこれに反して行動し、武力に基づいて現状を維持し支配体制を強化しようとしています。

アルメニアは占領地を併合しようと狙っており、交渉を通じて紛争を解決することに関心がないことは明らかです

今日まで、アルメニアは国際機関によって採択された多数の決定の要件を遵守していません。

まず第一に、1993年の国連安保理決議822、853、874および884号です。をれらはアゼルバイジャンのすべての占領地からのアルメニア占領軍の撤退を定めたものです。

それどころか、占領黙認の雰囲気の中で、アルメニアは新たな攻撃行為を行っているのです。

この地域の現在の状況に対して、アルメニアの政治・軍事指導者はすべての責任を負っています。

1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。


先程のブログの別記事から

The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science

という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。

1.C系人は8千年前にラオスからやってきた

東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6つのグループに分類できる。

①ラオスのホアビン文化の古人骨(8千年前)
このゲノム配列は愛知県田原市の縄文人に類似。
②~⑥はいずれも紀元前後より新しいもので、それぞれの地域の現生人との繋がりあり。

ということで、インドから到来したC型人(C1)の6つのグループがラオス近辺で分離し散らばっていたこと、その流れが経路は不明ながら本州まで到達していたことが推測される。

蛇足ながら、彼らがナウマンゾウをもとめて日本にやってきたのなら、ナウマンゾウがそうしたように、朝鮮海峡を渡ってやってきたに違いない。

ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。

2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた

もう一つの話題、日本固有種とされるC1a1が中国側のどこかで分岐し、日本に渡来したという情報もあるが、こちらは論理的に無理がある。何よりも、それが5500年前程度ということでは、辻褄が合わない。

私の考えではナウマンゾウを追って4万年前に朝鮮経由で日本に来たのがC系人だ。中国本土のC1人はすでにO1人に置き換わっているはずだ、と思う。

ブログ主も、そこまで攻撃的にはせずに、5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性に照準を合わせたほうが良いと考えている。

5500年前に長江文明の担い手が朝鮮へ、そして日本へやってくる可能性はないとは言えない。しかしそれが意味のあるほどの量を持って実現したのかというと、やはり否定的にならざるを得ない。

ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。

Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。

そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。

現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に圧迫されたためかもしれない。

分布は広範で他系人との混交が目立つ。特に注目されるのが遼河文明の遺跡人骨でN1が60%以上の高頻度で見つかっている。

対となるミトコンドリアDNAハプログループはZ系統である。


次が「知識探偵クエビコ」というかなり専門的なサイト

1.南シベリアのミトコンドリアDNA

記事の前半はC2人の話で、とりあえず飛ばしておく。その次がR人の話で、印欧族と対応するらしい。これも飛ばしていく。

次の話題が、私のテーマと関係ありそうだ。

バイカル湖・アルタイ山脈近くの南シベリアの遺伝子データはY染色体については不足しているので、ミトコンドリアDNAで議論する。

この地域のミトコンドリアは、最初の頃あまり東方要素が強くなく、紀元前1500年あたりから東方要素が増えてくる。

2.C1 人はクロマニヨン人より古い

もう一つ、これはC1人に関する話題で、

C1b系統はオーストラリアにも相当に早い時期に到達していた。C1a系統もヨーロッパの西の端にいて日本にいて、実はアフリカのベルベル人でも見つかってる。二つ合わせたC1系統は、クロマニヨンより古い時代に、かなり世界に拡がってたようだ。

3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人

そして3つ目がヨーロッパのN人だ。

鉄器時代になってすぐの時代、ハンガリーにN人が現れる。ハンガリー語もウラル語族で、マジャール人も元はウラル山脈あたりにいたと言います。フィンランドはNが過半数を超える国です。

4.ウィキペディアの批判

こ之人、ついでに「ウィキペディアのNの項目」も、遼河文明論に関連して批判しています。

Nは日本の周囲のどこを見ても日本よりは高頻度で、普通に各種渡来民にその頻度で含まれていた可能性があります。


こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。








2泊3日で紋別までドライブしてきました。走行距離は700キロ、まあこんなものでしょう。
紋別の夜はとても楽しいものになりました。ホテルで紹介してくれた店がイマイチで、フラフラと歩いていて入ったのが、いわゆるスタンド割烹。
ちょっと敷居は高そうだったが、実際は問題なし。というより刺盛り頼んだきりあとは酒だけという、行儀の悪い客で通したからです。
入って10分もしたら、「お医者さんですか」と見透かされました。それから話が始まったら長いこと。さんざん聞かされました。

この店は唐牛(元全学連委員長)が世捨てびとになって潜行したときに足繁く通った店だそうです。唐牛はしばらく漁師にになって沖に出たそうですが、やがて東京に戻っていきました。その紋別時代いろいろな人(ブント系)が紋別まで遊びに来たそうです。
亭主は奥の部屋から色んな人の色んな本をたくさん引っ張り出してきては、私に見せるのでした。まぁ今の人に言っても「ハアッ?」と問い返されるだけですから、たとえ民青でも話がわかる人が来れば嬉しいのでしょう。
その話がひとしきり終わったあと、亭主が持ち出してきたのがこの話のもとです。
まず浜美枝の自筆のはがきを持ち出してきました。「紋別に来たときに色々お世話になりました」という礼状でした。
もちろん「とりあえず」という簡素なものではあったが、真心のこもったもので感心しました。字体がまたなかなかのものでした。「水茎のあと麗しく」というようなものではない、端的に言うと意志的な、力強い字で、おそらく書字スピードも相当なものだと想像されます。
女優さんというイメージからは程遠いハガキを見せられたあと、今度は2枚の写真。1枚目はロケで紋別を訪れたときの、かなり濃いめの化粧の大柄な美人が、いかにも風の男性とともに写されています。
それが2枚めはプライベートで再訪した時の写真、これが別人のような目鼻立ちで、地味な出で立ちながら、震えてくるほどの美人です。そしてあのはがきを書いた人だなと思わず納得させるイメージです。
多分、こんな人が身近にいたら、好きだとか嫌いだとかいうんではなくて、多分あこがれの対象になるでしょう。
それだけでも、とっても楽しい話を聞かせてもらえました。こういうことがあるから、旅は楽しいのです。



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