鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

先程パーティーで、「ヒマというのはないものだ、しかし気持ちの余裕はできる」としゃべった。
みんながいまだに忙しくしているのを見て、若干肩身の狭い思いをして、しかしそれほど縮こまる必要もないと思って、酒の勢いでそうしゃべった。
その時、「尾崎秀実は“ヒマというのはないものだ。新聞を真面目に読むとヒマはなくなる”と、そう言っている」と付け足したのだが、さて歳のせいか、いつどうやって秀実が言ったのかが思い出せない。
そこで帰ってきてから本棚とにらめっこしていて見つかった。岩波新書の『上海1930年」という本だ。著者は息子の尾崎秀樹。

実は秀実が言ったのではなく、羽仁五郎の言った言葉で、しかもかなり秀樹の思いのこもった引用で、どこまで秀実がそう考えていたかは定かではない。
ただそれはどうでもいいことで、中身がいいから、私の頭の片隅に覚えていたのであろうと思う。
引用のレベルを越える可能性があるが、ご容赦願いたい。
 一高、東大と一緒だった森五郎は、しばらくハイデルベルク大学へ留学し、帰国後東大の国史科に入り直し、歴史研究にたずさわるようになっていたが、森姓から羽仁姓に変わった直後に尾崎は彼と会う機会があり、近く上海に特派されるという話から、中国へ行ったらどういうふうに勉強したらよいか、友達付き合いの気安さからたずねた。
 すると羽仁五郎は「新聞を読むことだ」という。
「もちろん新聞を読むのは、仕事のうちだから…」
「そうするつもりだくらいではだめだ。よく読めるようにならなくてはいけない」
「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」
そういわれても、なかなかうまくいくものではない。尾崎は困って、
「じゃ、どうすればよいだろう」とあらためて聞いた。
「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。頭脳の冴えている一番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上に広げ、赤と青の鉛筆を使って、一字一句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
 新聞を通して何が本当か何がウソかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中国が世界がどう動いていくか、新聞はそれを動かそうとしているか、生きるか死ぬかの真剣な勉強として新聞を研究するのだ。
 こういうふうに新聞を素材として勉強すれば、二、三ヶ月で新聞がよく読めるようになる。そして、こうやって、新聞を読んで考えたことを、同じように新聞を真剣に読んでいる友だちに話し、彼らの考えを聞き、討論してみることだ。そうすれば世界の動きが次第にはっきり分かり、自分がどうすればよいか、明らかになる」
「一日のうちで」から後ろは、後年、羽仁五郎が書き記した「青年にうったう」という書物の中の言葉だ。尾崎秀樹の冴え渡るシームレスの筆運びに思わず引き込まれる。

赤旗の国際面に、ベルギーで開かれたある集会がレポートされていた。
新たにアルメニア首相に選ばれたニコル・パシニャンを歓迎する集会で、参加者はすべてアルメニア人。
おそらくは亡命しベルギー近辺に在住している人々であろう。
日頃、アルメニアに関連するニュースなど耳にすることがないから興味が湧いた。
以前からアルメニア、クルドの両民族は気になる存在であった。ともに過去においてジェノサイドの対象とされてきたからである。さらにユダヤ人も含め、中東の三大ディアスポラとなってる。
赤旗の記者は参加者の一人で元ミス・アルメニアだという女性の方に興味があって取材・報道したらしく、アルメニアにはとんと興味はなさそうだ。
そこで我が「物好き社」が代行して報道することにしようと思う。
まずはニュースを探してみる。

【5月8日 AFP】 
アルメニア議会は野党指導者のニコル・パシニャン(Nikol Pashinyan)を首相に選出した。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得し、賛成59、反対42で選出された。
パシニャンは、「私の初仕事は、この国に普通の生活をもたらすことだ。アルメニアに汚職はなくなる。アルメニアは政治的迫害を過去のものとする」と述べた。

アルメニアを知るには、アルメニア人の迫害の歴史、ミニ国家としてのアルメニア国の歴史、そしてパシニャンを生み出した民主運動の歴史について知らなければならないだろう。

とりあえず、例のごとく年表で整理していく。

アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
アルメニア人は自らをハイ、国をハヤスタンと呼ぶ。

アルメニアは、先史時代からその存在が知られていた。
紀元前9世紀 ウラルトゥ王国が成立。紀元前8世紀にはアッシリアまで進出。
紀元前6世紀 ウラルトゥ王国が滅亡。アケメネス支配下のアルメニア人が植民し国際交易に従事。
紀元前331年 アレクサンドロス大王の率いるマケドニア王国の軍勢がペルシアへ侵入
紀元前188年 最初の独立国家「アルメニア王国」を築く。最盛期には黒海からカスピ海までを支配する。
紀元前66年 アルメニア王国はローマに敗れ衰退。ペルシャの支配下に入る。
1世紀頃からキリスト教の布教活動が行われる。
紀元301年 アルメニア、世界で初めてキリスト教を国教とする。
400年頃 アルメニア、ササーン朝の支配下に入る。
その後ペルシャ人、東ローマ、アラブ人、蒙古人、トルコ人が相次いで支配者となった。
10世紀 アルメニアはムスリムと東ローマの境界地帯となり、多くのアルメニア人がキリキアに逃れる。
1198年 キリキアに定着したアルメニア人が、キリキア・アルメニア王国を建設。交易国家として発展。
1375年 マムルーク朝の占領を受け、キリキア王国が滅びる。
1636年 オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアがアルメニアを分割し支配。
1826年 第二次ロシア・ペルシア戦争。ロシアがペルシア領アルメニアを奪取

1877年 露土戦争。アルメニア人はロシアの進出を歓迎。多くのアルメニア人がロシア領へ流入。

1894年 第一次虐殺。サスーンでアルメニア人が武装蜂起。その後の1年で数万人が犠牲となる。
1914年 オスマン・トルコが第一次世界大戦に加わる。敵軍であるロシア軍には18万人のアルメニア人正規兵の他、アルメニア人義勇部隊8千人が加わる。
1915年4月24日 アルメニア人政治家・知識人など約600人が逮捕殺害される。その後の1年で60万人~100万人が殺害される。
1918年 ロシア革命が発生。この隙きをついて民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立される。
1920年 赤軍がアルメニアを制圧。アルメニア社会主義ソビエト共和国が成立。隣国とともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成する。
1965年 虐殺50周年記念集会。これを機にアルメニア語やアルメニア文化が容認されるようになる。
1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。

ということで、ほとんどアルメニアの歴史年表になってしまった。
そういう背景のもとで、今回の首相交代劇がどんな意味を持っているのか、別途稿を起こそうと思う。

リーマン・ショック後の動き 金融政策を中心に

2008年

08年9月
9月 AIG国有化。AIGは大量のCDS(倒産保険)を扱っており、破綻すればリーマンとは比べものにならない位の大混乱が起きるところだった。
9月 日欧の中央銀行がFRBとのスワップ協定によりドル資金を供給
9月 米下院、共和党の反対で金融安定化法案を否決。誰もが予期しなかった事で。株式市場が大暴落!
08年10月
10月 欧米当局が金融機関への資本注入,銀行間取引の保証,預金保護の拡大等を実施。欧米主要中銀が協調利下げを実施する。
10月 米議会、共和党の賛成を得て「金融安定化法」が成立
11月 金融サミット(G20緊急首脳会合)の開催
11月 米FRB,事実上のゼロ金利を実施し量的緩和第1弾(QE1)を導入(2010年6月まで)

2009年
3月 10日、日経平均がバブル後最安値を更新(7054円)
4月 米クライスラー、GMが破たん
12月 ギリシャの財政悪化が判明,ギリシャ国債が格下げ

2010年
3月 欧州債務危機が勃発。EUとIMF,ギリシャに金融支援。
5月 欧州中銀,ユーロ圏内の国債買入れを実施。
ギリシャの債務隠し発覚を発端に、スペインやポルトガルやイタリアなどユーロ圏諸国の財務危機へと発展。ユーロの為替レートが暴落する。
7月 米,「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)が成立
11月 米FRB,量的緩和第2弾(QE2)を導入
11月 EUとIMF,アイルランド、ポルトガルに金融支援

2011年
3月 東日本大震災が発生
3月 G7が円高阻止で協調介入を実施
4月 欧州中銀,2回にわたり金利引き上げ。1→1.5%に
10月 円相場,対ドルで史上最高値(75円32銭)
12月 欧州中銀が利下げし年初の1%に戻す。

2012年

3月 ギリシャ,事実上の債務不履行
6月 LIBORの不正操作問題が発覚
8月 「消費税増税法」が成立
9月 米FRB,量的緩和第3弾(QE3)を導入
12月 安倍内閣が成立。アベノミクスが開始される。

2013年
3月 キプロスで預金封鎖が勃発
3月 黒田日銀総裁が就任。インフレ目標(前年比2%)を立て、大規模な金融緩和策を発表。長期国債の大量購入に動く。
5月 円が4年ぶりに100円を割り込む。
6月 ユーロ圏、大量資本注入で合意。欧州中銀は0.25%まで利下げ。
2013年 サマーズ元米国財務長官、「長期停滞論」を提唱。世界的な需要不足と貯蓄余剰によって、潜在成長率が低下したと説明。

2014年
1月 新興国で通貨危機
シャドーバンキングの破綻懸念が高まった中国や、政権崩壊のタイ、経済不安のアルゼンチンやトルコなど、新興国の通貨が暴落。
2月 米FRB議長が交代(バーナンキからイエレンへ)。景気回復に伴い、量的緩和を縮小の方向へ
4月 日本で消費税を増税(5%から8%へ)
6月 欧州中銀,預金ファシリティ金利を△0.1%へ切り下げ。主要国では初のマイナス金利となる。
10月 FRBが量的緩和政策を終了。リーマンショック以降続いた金融緩和が終わる
10月 日銀,追加金融緩和を実施。国債購入を30兆円増加
11月 ロシアルーブルが変動相場制へ移行。経済の低迷でルーブルを支えきれなくなり、通貨バスケット制を放棄。

2015年
1月 ECBが量的緩和政策を開始。月額600億ユーロ相当の国債の買い入れを行っていくと宣言。
8月 中国ショック。当局は景気低迷や上海株式市場の暴落を受けて元安誘導へ転換。
12月 FRB、リーマンショック以降、初めて政策金利を利上げ。
12月 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が設立される

2016年

1月 日銀、インフレ目標の達成困難なためマイナス金利導入を決定。
2月 原油安,中国のバブル崩壊,米国の景気減速懸念などから世界同時株安。
3月 中国と欧州中銀が追加緩和。
6月 消費税の10%への引上げを再延期
7月 英国でEU離脱の国民投票が可決。英ポンドは大暴落
12月 FRBが第1回目の利上げ。その後3回にわたり小幅引き上げ。

2017年 米国の成長率は名目で4.1%に回復。

結果的には黒田総裁は正しく、財務省は間違っていたということになる。
しかし黒田総裁さえも異次元緩和すればインフレが来ると思っていたのだから、五十歩百歩というべきかも知れない。
日本の人口減は、高齢者へのいじめと脅しのキャンペーンを伴っているから、団塊世代は財布の紐を縫い付けてしまった。
1億持っていても、2億でも、もうびた一文も出さない。なぜなら、富裕層の意のままとなってしまった日本という国をもはや信頼していないからだ。
藤井財務相が、消費税引き上げのときに「かならず消費水準は戻る」と言ったが、まったくの誤りだった。消費マインドの冷え込みはもはや構造的なものとなっている。
藤井さんに同情していうなら、団塊の世代にとっては「そういう問題ではない」のだ。財務省幹部は土下座して、見通しの甘さを謝るべきだ。
おそらく団塊の世代が持っていた最大の資産は「欲望」であったろう。
今やその「欲望」は霧消した。団塊の世代が持つ莫大な資産は、致富欲以外の「欲望」を持たないゾンビ貨幣となり、成仏できずに世の中をさまよう。市場撹乱因子だ。
「高齢化社会論」で老後の生活に危機煽りした人間が、実は「欲望」の危機に対して一番鈍感だったということだ。
これをまっとうな資産として生き返らせる唯一かつ単純な方法は、社会保障の改善である。老後が保障されれば彼らは金を出す。少なくとも「リスクオン」のポジションをとるはずだ。「だって墓場まで金を持っていっても仕方ないじゃん」からである。



プラハの歴史

6世紀後半 スラヴ民族がヴルタヴァ川河畔に定住。

623年 サモ王国の形成(30年ほどで滅亡)

9世紀前半 大モラビア国が成立

9世紀後半 プラハ城が構築される。

906年 マジャール人の侵入により大モラビア国が滅亡。

10世紀頃 ヴィシェフラト城が建てられる。2つの城に挟まれて街が発達する。

973年 キリスト教の司教座が置かれる。その後、度重なる戦渦により荒廃。

1198年 プシェミスル王朝が始まる。ボヘミアが世襲王国となる。

1346年 ボヘミア王カレル1世(ルクセンブルク家)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となる。

神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸の整備が行われた。

1348年 プラハに中欧最古のカレル大学(プラハ大学)設立。ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市に発展。「黄金のプラハ」と形容される。

1415年 キリスト教改革派の指導者ヤン・フスが火刑にされる。
ヤン・フスは1370年生まれ、貧農出身でありながら学に優れ、プラハ大学の総長となる。穏健な改革派であったが、「贖罪状」販売に反対し政争に巻き込まれた。

1419年7月 ヤン=ジェリフスキーの「プラハ市庁舎での窓外抛擲事件」が発生。ヤンの組織した暴徒が庁舎に乱入し議員を窓から突き落とす。
ヤンはフス派の神父で、下層市民の立場からカトリックを非難し、実力行動を呼びかけた。

1420年2月 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が「フス派に対する十字軍」を組織。フス派は貴族や庶民が団結し国民軍を作り上げる。
7月 ジシュコフの戦い。ヤン・ジシュカ将軍は、手銃と装甲馬車を用いて十字軍騎士による突撃戦術を殲滅。フス軍はその後も連勝を重ねる。

1431年 対フス派十字軍が襲来。ポーランド王国からフス派義勇兵6千人が支援に入る。西スラヴ民族がドイツ人に対し優位に立つ。

1433年 ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争。ボヘミアの義勇兵7千名が加わる。

1434年 リパニの戦い。フス派内のターボル派(急進派)がウトラキスト(穏健派)によって壊滅させられる。

1436年 バーゼル公会議。フス戦争が終結。

1439年 ポーランドがフス派への弾圧を開始。壊滅に追い込む。
この後半世紀にわたりハプスブルク家とスラブ・プロテスタント系貴族が覇権を争う。

1490年 ポーランド王家から送られたブラジスラフがボヘミア兼ハンガリー国王となる。

1526年 ポーランド、オスマン・トルコに大敗。ハプスブルク家によるチェコ王国の統治が始まる。

16世紀後半 ルドルフ2世の治世。芸術や科学を愛する王の下、プラハはヨーロッパの文化の中心都市となる。

1618年 プラハ城で「プラハ窓外投擲事件」が発生。三十年戦争に発展。

1620年 ビーラー・ホラ(白山)の戦い。チェコ貴族軍は皇帝軍に敗れ全滅。ハプスブルク(ドイツ人かつカトリック)の支配下に入る。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲される。

ヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結する。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減。
チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧を受け、2世紀以上にわたる「暗黒の時代」を迎える。

1781年 ヨーゼフ2世、チェコ人の人身隷属を廃止。しだいにチェコ人の文化的な再生運動が始まる

1848年 

3月 ドイツ2月革命に並行してプラハ市民による独立運動。

5月29日 プラハに仮政府が樹立。スラブ民族会議を開催する。

6月12日 プラハで急進派の暴動が発生。鎮圧されて革命運動は挫折する。

1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立。チェコ人は強い不満をもつ。

1914年 第一次世界大戦勃発。独立派のマサリクが西ヨーロッパ亡命し、独立運動を開始。

1918年 第一次世界大戦終結に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が解体。チェコスロヴァキア共和国が成立する。初代大統領にマサリク。

1935年 総選挙。ズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる。

1938年 ミュンヘン会談。英仏伊独首脳はドイツのズデーテン併合で合意。ベネシュ大統領はロンドンへ亡命。

1939年

3月 ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体される。

9月1日 第二次世界大戦開始。

1945年5月5日 プラハ蜂起。4日後に解放される。

戦後の動きについては、たぶん膨大になりそうなので、稿を改める。

1968年 プラハの春。

1989年 ビロード革命。共産党政権が崩壊する。

脳神経の解剖学で大脳基底核ほど退屈な領域はない。なぜ退屈か。そもそも「大脳基底核とはなんぞや」ということについて、いっさい触れられていないからである。
かなり教科書を読み込んでも、大脳基底核固有の積極的な働きは書かれていないと言える。

しかし臨床的には、とりわけCT、MRが登場してからはきわめて重要な場所なのだ。脳血管障害の多くはここに集中している。ここがやられた場合の被害も重篤だ。
私の生まれた静岡市用宗というところは東海道本線、新幹線、東名高速という3つの幹線がわずか数百メートルの間隔で並んで走っている。
しかし用宗という町にはなんの重要性もない。高齢化の中で死んだような眠ったような集落に過ぎない。
ついでにいうと私の本籍は三重県鈴鹿郡関町大字沓掛404番地。東海道五十三次でいうと坂下の宿だ。鈴鹿峠にいよいよ登っていくとっつきで、伊賀に逃げる道の分岐点だ。そのT字路がまさに404番地だ。これも土地そのものにはまったく意味はない。
私は、大脳基底核の重要性を終脳の最初の起点という歴史的・文化的重要性に見る。
これまで大脳基底核の重要性を貶める二つの間違った位置づけがされてきた。一つは大脳辺縁系の最外周、下り線最終駅という位置づけであり、一つは錐体外路系という有りもしない経路のターミナルという位置づけだ。
これらの汚れを洗い流してもう一度、終脳の起点、外套の第一ボタンとして位置づけることによって、大脳発達の最初期(古皮質形成)に果たした役割について、もう少し真の姿が見えてくるのではないだろうか。

私の「三脳構造」説は脳の基本はあくまで前脳・中脳・後脳の三要素を基本とするもので、終脳(外套)より先は前脳の背側にある何らかの原基(芽)がいわばポリープ状に増殖したものであるとする考えである。
これはマクリーンの三脳説とは真っ向から対立する概念である。
ただし、終脳の増殖が波状に到来し、基底核、古皮質、新皮質が形成されたことには同意する。それは終脳学の範疇である。
それが大脳に質的変化をもたらす。それはマクリーンの3層構造と見かけ上類似する。

その際肝心なことは、基底核が皮質細胞(ニューロン)の生成工場となっていることである。ここで作られたニューロンが次々と前線に送られ積み重なって皮質を形成していくことが分かってきた。

脳科学辞典の大脳基底核原基の項目

大脳基底核原基は、基底核隆起とも言われる。
終脳(telencephalon)のうち外套 (広義の大脳皮質)の腹側に位置する。
ここで多くの大脳基底核神経細胞と大脳皮質のGABA作動性抑制性神経細胞、オリゴデンドロサイトが産生される。
このうち、GABA作動性抑制性神経細胞は大脳皮質、線条体、淡蒼球、扁桃体、嗅球などの様々な領域に移動する


私が個人的に敬愛する脳解剖学の研究者川村光毅先生が「大脳基底核逍遥」という文章を書かれている。
2010年の発表なので、比較的最近のものと言えるだろう。
情動と音楽の起源―情動の進化と脳機能という若干趣味的な論文の一部である。
口演形式なので、アンバランスを承知の上で、今までどちらかというと関心の低かった、“大脳基底核”について多少詳しく、その重要性に力点を置いた。
とエクスキューズが入っている。

私も気楽につまみ食いさせてもらおうと思う。

大脳基底核の分類
大脳基底核は線条体と淡蒼球、視床下核、黒質に分かれる。
線条体は背側線条体と腹側線条体よりなり、さらに背側線条体は被殻と尾状核に分かれる。

トリの線条体
トリにも線条体がある。これは背側脳室隆起(DVR)を起源とする細胞集団である。
DVRの本態については3つの説があるが、結局の所よくわからない。
2002年にアメリカのデューク大学にトリの研究者が集まって、striatum(線条体)との呼称をpallium(外套)に変更したらしい。
主たる変更理由は、それが哺乳類の線条体ではなく、線条体を覆うような大脳皮質類似の細胞集団であるからということだ。

大脳基底核と遺伝子発現
なぜ呼称が変わったかというと、最大の理由が遺伝子発現の違いだ。
いくつかの遺伝子マーカーで、線条体と大脳皮質との違いをチェックすると、それぞれに特異性が見られる。
面倒なので一つだけあげると、Tbr-1という遺伝子があって、これは哺乳類では皮質のみに発現するのだが、トリでは両方に発現する。
つまりトリの「線条体」は線条体とも言えるし皮質であるとも言えることになる。そこで中をとる形で「外套」ということばを持ち出したらしい。

基底核をふくむ神経回路
ここは面倒なので飛ばす。大脳・基底核・視床がグーチョキパー関係だということ、GABAがブレーキで、グルタミン酸がアクセルだということだけ覚えておく。

ヒトの脳は、1000億個の神経細胞と、1兆個のグリア細胞(神経膠細胞)から成る。

アストロサイト(栄養を運ぶ),オリゴデンドロサイト(ミエリン鞘を作る),ミクログリア(免疫を担う)が主なグリア細胞で,末梢神経系ではシュワン細胞がミエリン鞘を作る。

グリア細胞はグリア同士で情報をやりとりし,ニューロン活動を修飾し、シナプス形成をコントロールしている。
記憶や学習という脳の高次機能は,実はグリア細胞によって支えられているといえる。
グリア細胞の情報伝達には、ATPや神経伝達物質が利用されている。

この神経伝達物質はニューロンと共有されており、これによりニューロンを賦活したり、場合により死に至らしめる可能性が検討されている。

例えば脳虚血が起きると、ストロサイト内のグリコーゲンが分解され、乳酸アシドーシスをきたす。これにより過剰分泌されたグルタミン酸がニューロンを傷害すると言われる。

図 血管とアストロサイトとニューロン(脳科学辞典より)

nyu-rontoguria
アストロサイトの樹状突起は細かく枝分かれして広がる。その突起の一本は細動脈と接触している。ニューロンはアストロサイトが作る空間の中に神経回路を作る。

グリア研究の歴史

1846年 ウイルヒョーが「神経の間を埋める何らかの物質」の存在を主張。ニカワのような物質かと想像した。

1858年 ウイルヒョー、グリアが細胞であることを発見。結合組織細胞と記載する。

レンホサック、ゴルジ染色法によりグリア細胞を観察。グリアの一種にアストロサイト(星状細胞)と命名。

1889年 ヒス、グリア細胞が海綿芽細胞を起源とするグリア幹細胞(glioblast)から発生すると提唱。

1913年 カハール、アストロサイトがニューロンとは異なった第二の脳細胞であることを明らかにする。

1921年 ピオ・デル・リオ-オルテガ、オリゴデンドロサイトとミクログリアの存在を報告。

終脳は前脳ではないと思う

依然としてマクリーン仮説が大手を振って歩いていることに唖然とする。

1.大脳辺縁系について
おそらく辺縁系というのはブローカが大脳の最深部に古皮質からなるひとかたまりの脳神経集団を見つけて辺縁葉と名付けたことに由来するのではないか。
それにマクリーンが三位一体的な意味付けをしたから、順序が逆になってしまったのだろうと思う。
進化論の立場から見ればそれは前能の辺縁系であって、大脳は辺縁系のさらに辺縁を形成しているのである。

2.終脳について
教科書には前脳が終脳と間脳に分かれたと書いてある。
これも間違いだろうと思う。
前脳は前脳である。それは間脳と呼ばれ、視床と呼ばれているところである。
終脳と呼んでいるところは、前脳に付着した外套である。
そこには大脳の芽が埋め込まれている。嗅神経、松果体などである。これが海馬に記憶され、視床の感情が伝えられる。
これは前脳に対して、まさに外套にあたる機能と構造である。

3.外套について
外套というのは大脳全体を指す用語であるが、一般的に使う用法ではない。せいぜい失外套症候群という使い方しかしない。
しかし、トリの大脳皮質が6層構造は取らなくても哺乳類の新皮質と変わらないことが分かった。そこで以前は線条体と呼んでいたものが外套と呼ばれるようになった。
そしてこの外套はヤツメウナギにも存在することが示された。
つまり、発生学的に見れば大脳は前脳の外套であり、前脳ではない。
この概念を貫くならば、もはや大脳辺縁系という誤解を生む言葉はまったく必要なくなるのである。

4.まとめると
ヤツメウナギ以来、前脳・中脳・後脳という三脳構造は変わらない。
前脳には嗅脳を中心に外套が付着し、これが終脳へと発展する。
前脳は視床と呼ばれるようになり、神経内分泌中枢の視床下部と結合し間脳を形成する。
ただし、終脳を前脳の外套由来とするなら、あえて間脳という必要があるかどうかは留保の余地がある。

主として 脳の進化の5億年、発達の38週間、成長の80年 より作成させていただきました。ただ大脳辺縁系の記載についてはいささか疑問があり、少し編集しております。

38億年前 生命が誕生する。RNAとタンパク質の組み合わせがきっかけとなる。その後DNAが形成され、“共通祖先”が誕生する。
10億年前 単細胞生物が、“従来のままの単細胞生物”と“植物・菌類の祖先になる単細胞生物”とに分岐。
9億年前 単細胞生物のグループからカイメンが分岐した。カイメンには、まだ神経系は形成されず。
8億年前 複数の単細胞生物が集まり、多細胞生物が誕生する。紫外線と活性酸素の存在下でDNAが損傷→再生を繰り返し、これにより多様性を増す。
6億年前 刺胞動物の登場。『散在神経系』と呼ばれる網目状の神経系を持つ。
5億4千万年前 カンブリア紀の開始。海中には多様な生物があふれるようになる。これらは『集中神経系』と呼ばれる“神経節”を獲得した。
約5億年前 原索動物であるホヤの幼生に神経管が発生。神経管の内側で神経細胞がつくられる。(真の祖先は頭索類のナメクジウオとする説もある)
5億2千万年前 無顎類(ヤツメウナギ)の登場。ニューロンの活動を補佐するグリア細胞が発生。軸索を覆うミエリン鞘は未形成。
4億6千万年 顎口類の登場。グリアに加えミエリン鞘を獲得。脳の大規模化に伴い、鼻孔と下垂体の位置が移動し、そのスペースに脳が拡大する。
魚類、脳は脳幹よりなり、3つに分かれる。前脳は嗅覚、中脳は視覚,後脳は耳と側線器に対応する。前脳背側部に外套(パリウム)が付着。
3億7千万年前 両生類の登場。大脳と小脳が小さく、脳幹が大部分を占める。ただし嗅球が大きくなる。
3億1千万年前 羊膜を持つ爬虫類の登場。中脳の後にある“視葉”が小さく、古皮質の嗅覚に頼る。 爬虫類から大型の主竜類が分化。背側脳室隆起が発達し、視床からの入力を受ける。
2億5千万年前 哺乳類が羊膜類より分化し発生。脳容量は爬虫類と同じ。
6層からなる大脳皮質(新皮質)が出現。新皮質にしわができ、感覚野、運動野が誕生。
6千万年前 霊長類の登場。連合野が出現し、より高度な認知や行動が可能となる。
400万年前 サバンナに進出する猿人(アルディピテクス・ラミダス)の出現。頭蓋容量は300mlほど。
280万年前 木材や石を加工して道具を作り出す猿人(ホモ・ハビリス)の出現。ブローカー野が発達しており、複雑な音声を用いた。頭蓋容量は700ml。
150万年前 原人(ホモ・エレクトゥス)の登場。直立二足歩行により発声が容易になり、言語の発達が加速する。ウェルニッケ野も形成されるようになる。
20万年前 ホモ・サピエンスの登場。頭蓋容量は1400mlに増大、

ポピュリズムという言い方はやめよう

一部ジャーナリズムで盛んに使い始めたことから、今ではすっかりポピュリズムという言い方が浸透している。

それは社会学的用語としては正しいかも知れない。(それが社会学の弱点であり限界である)

しかし同じ大衆・庶民を基盤とし、その自発性に依拠し、彼らが抱える不満や怒りを代弁している点は似ているが、似ているのはあくまでそこまでである。

政治的スタンスもその最終目標もまったく逆の政治集団を、社会的同質性を根拠にひとくるめにするのは、政治的対決点がどこにあるのかをあいまいにするためのレトリックでしかない。

さらに悪いことはそれが上から目線であり、彼らの要求に対し冷淡で無関心であることの象徴となっている表現だからである。おそらく彼らの目は我々をもポピュリストとして眺めているだろう。

例えば、共産党と公明党・創価学会が底辺層の声を代表すると主張し支持者を奪い合ってきた状況が日本にある。
それをもって「共産党も公明党も貧困層を土台にしたポピュリスト政党だ」と、一絡げにすることは、まともな政治学者にとって自殺行為であると思われる。

ナチスもファシストもみな「社会主義者」を自称した。現在の言葉の使用法からすれば彼らこそ「ポピュリスト」の名にふさわしい。

政治学はさまざまな政治集団の性格を、その目的から規定し分類し評価しなければならない。それが政治学の使命である。

そしていま国民大衆の運動の進歩性を規定するのは、民主主義、平和主義、人権第一主義、立憲主義の4基準である。一言で言えば「リベラル民主派」である。

この4基準のいずれかに反する政治勢力はたとえ民衆に支えられた組織であろうと、反政府的組織であろうと支持することはできない。
社会学的に見て共感する余地があったとしても、政治学的には一線を画さなければならないし、場合によっては対抗関係に立たなければならないのである。

そう得心したとき、ポピュリズムという言葉がいかに民主派を見下して虚しく響くことか…

1.大企業と彼らの政府は「恐慌」には興味がない
リーマン・ショック後の10年を年表にしようと思ったが、とても難しい。ファクトが多すぎて取捨選択が困難である。
当初は金融危機の形をとったが、むしろ「2008年世界恐慌」というべきかも知れない。
だから、年表を作るに際しては戦前の「大恐慌」を念頭に置かなければならない。
あの大恐慌はブラックサーズデーに始まり、ファシズムの世界席巻へと発展し、1945年の枢軸国の無条件降伏をもって終わった。
その間に大量失業と飢餓、労働者の抵抗の増大と不寛容化、国際協定の破棄と国際秩序の崩壊が続いた。金融寡占層とその政府はこれらの動きに策を持たず、そもそも関心がなかった。

2.財務省のノーテンキぶり
いま読んで呆れるのが、財務省が2011年5月18日に発表した「国際金融システム改革の主要課題」というレポートで、およそ危機感がまったく感じられない文章である。
1.透明性の向上、国際的スタンダードの確立
2.金融監督の強化
3.国際的な資本移動への対応
4.安定的な為替相場制度の確立
など8本の課題が列挙されているが、どこが問題か、なぜそれが問題なのかは触れられない。
これが東北大震災の2か月後の財務省の状況である。欧州が金融危機のただ中にあり、アラブで民衆の抗議の声が巻き起こり、世界が羅針盤を失い漂流を始めた時点での財務省の認識段階だ。

前の記事の2つの図で11年5月を眺めてほしい。財政出動は何故か腰砕けに終わり、金利は不況下で高止まりし、要するにポジションがまったく感じられない。

3.国連の認識ははるかに深刻だった
同じ時期、国連に提出された「国際金融システム改革に関する報告書」(スティグリッツ報告 2009年9月)はリーマン・ショック後の世界に対するはるかに厳しい認識を示している。
抄出すると…

第二次大戦後最大の危機であった。
①金融市場の心臓部で発生し、世界に拡散した。
②金融危機として始まり、経済危機、社会危機へと拡散した。
③強者が救われ弱者が切り捨てられ、格差が拡大した。

経済主体の力の「非対称性」の拡大
①情報、技術、資金における圧倒的な格差
②その結果、悪しき「権力の集中」が発生
③ブレトン・ウッズ体制の制度疲労

それは市場原理主義の破綻であった。
①金融機関のガバナンス機能の崩壊
②国際金融組織によるフィードバックの欠如
③誤った政策発動
が被害を拡大した。

スティグリッツは当時を振り返りつつ以下のように述べている(2017.10)
リーマンショックに始まった金融危機・ソブリン危機は、その根底において「過剰生産恐慌」である。恐慌を生み出した原因は市場主義経済にある。
サマーズの「長期停滞論」は半分正しい。「先進国は過剰な設備や貯蓄を抱えており、投資機会が存在しない」というのは正しい。しかし「公共インフラ投資や規制緩和などが必要」というのは間違いだ。なぜなら、設備や貯蓄はそれ自体が過剰ではなく、過小消費がもたらした相対的なものだからである。そして過小消費は、所得格差の拡大により構造的に消費冷却がもたらされたために生じているのである。
標準的な市場経済はもはや不能に陥っている。それが社会にも悪影響を及ぼしている。
市場経済は、それ単独では効率的でもなく、安定したものでもないことが証明された。市場原理主義は、経済上の強者は交通信号を守らなくてもよいという主張にほかならない。(要旨)
これらの発言が資本論の中にあったとしても誰も驚かないだろうと思う。

結局、リーマンショックのあとの10年間というのは、通貨対策と債務対策の10年であった。
それは目下のところ、成功したとは言えない。通貨は落ち着き危機は去ったように見えるが、見えないところでは、そのすべてが債務となって積み上がっているのである。

1.切り札は「量的緩和」だった
日米欧の金融政策 - JA共済総合研究所
古金さんという方のレポートだが、リーマン後の10年というタイムスパンを念頭に置いて分析されているところが参考になる。
2つの図で時間軸がずれていることに注意。
金融政策推移
いづれのエリアに置いても、量的緩和が最後の切り札になっていることがわかる。
3つのエリアを対照すると、ユーロ圏の特異性が目につく。
ECBの政策スタンスは今なお強力な金融緩和になっている。マネタリーベースの伸び率は高水準で、一方、実質政策金利は日米に比べ低くなっている。
古金さんはやりすぎだというが、10年間のマネタリベースで見れば、むしろ証文の出し遅れという感がある。
ユーロ危機のときにECBのPIGGS対応は遅く、助けること自体を躊躇していた。その結果、対応が遅れ、その分過剰な対応を迫られたのではないか。ドイツでの反対世論が強かったことも関係しているが、寄り合い所帯の弱点が露呈したのではないだろうか。
しかし助けると決めてからの判断は果敢である。守るべきものとしてのEU、ユーロ圏というコンセンサスがそれなりに存在しているものと思う。
日本の対応は当初は無策で、相対的金利高も放置されていた。13年から金利低下と量的緩和が同時に施行され、危機を脱出した形になっている。これがアベノミクスだ。

2.そして債務は残った
以下の図はいずれも東洋経済オンラインから拝借したものである。
債務推移
08年9月を境に世界は変わったと言える。それまでは債務は増えていたが、債務の対GDP比は不変であった。つまり、債務の増加は生産規模の増大の枠内で増加していたのである。
ところがその後の10年はGDPの増加なしに債務だけが増えているのである。
これは富の絶対的増加なしに富の偏在だけが進んだということを意味する。債務の増加は二次的なものだということがわかる。
政府債務の推移
政府債務の動向を見ると3つのことが言える。
①先進国では金融危機への対処のため一気に1.5倍ほどの財政出動をしたということ。
②しかし13年以降はほぼ蛇口を締めたこと。減らすところまでは行っていないが…
③新興国では「無い袖は触れない」から民衆に直接被害をかぶせたこと。
民間債務の推移

というブルームバーグの記事が面白い。
これは Four Big Risks to Watch 10 Years After Lehman: Sony Kapoor 
という文章の抄出・和訳らしい。


リーマン・ショック前夜に比べて、世界経済はもっと危険な世界になっているのか、4つのエリアで検証してみた。

1.過去最高の債務水準と質の劣化
世界の債務は過去最高に積み上がっている。質の劣化もある。
ソブリン・民間合わせた債務総額は237兆ドル(約2京6200兆円)となっている。これはリーマン前を70兆ドル上回る。
米国の公的債務は2008年にGDP比65%だったが、今では105%を超える。ユーロ圏の対GDP債務比率も上昇している。
AAA格付けはソブリン11カ国、米企業2社のみで、信用の質は低下を続けている。
各国の財政には景気を下支えする財政投入の余地がほとんどなくなっている。
今後予想される金融政策の正常化が債務コストを押し上げる可能性もある。

2.狭まる金融政策の対応余地
主要各国で量的緩和政策が取られた。それは中央銀行のバランスシートを前代未聞の水準に膨張させた。
政策金利はいまだ過去最低に近い。
ショック再来の場合、金融政策で積極的に対応する余地は限られている。この間取られた“大胆な金融政策”は、もう繰り返すことはできない。
それどころか、金融政策が波乱の原因になる可能性さえある。

3.政治的な混乱
2008年には強固だった政治的安定は、ほとんどの主要国で著しい混乱に陥った。
失われた10年に実質賃金は伸びず、経済面などで不安が強まった。
これまで脇役だった弱小政党が議会で存在感を増し、極右と極左の両方でポピュリズムが台頭した。

4.弱まる国際秩序と信頼の欠如
この10年間に国際的な秩序が弱まり、信頼が失われつつある。
G7やG20といった仕組みが崩れつつある。トランプ政権は、危機対応の枠組みを積極的に破壊しつつある。
常識ある政治センターの存在感が薄れている。とくにEUの求心力低下は深刻だ。


ということで、きれいにまとめられている。
実体経済への影響、失業率の高止まり、途上国経済の失速などは視野の外に置くのか、ポストリーマンの主役となったユーロ危機と円高不況はどう区分けされていくのか、などさらに検討すべき問題がある。
それと量的緩和が当初からとられていたかのような記述には、若干疑問が残る。オーソドックスな対策が成果をあげず、デレバレッジに歯止めがかからない状況の中で、否応なくQEに移行していったように見えるが…
何れにしてもリーマンショックを機に経済漂流の時代が始まり、それは10年を経た現在も着陸することなく続いている。
いわばリーマンショックは漂流元年となっていると言えるだろう。


スティグリッツがビットコインは匿名性が高いのでだめだと言ったそうだ。そうしたらビットコインの相場が見る間に下がってえらいことになっているらしい。
所詮縁なき世界ではあるが、経済学に倫理学を持ち込むのにもなんとなく違和感を感じる。
勉強もしないで言うのもなんだが、紙幣というのはもともと金の代用みたいなものだが、金はまったく匿名の商品であり、「純度X重さ」はどこの国が発行しようと同じはずだ。
汗水流して獲得したお金であろうと、麻薬を売って稼いだ金であろうと金の色に違いはない、まったくユニバーサルなものだ。
ところが現代における貨幣は不換で、その国の信用いかんにより決まる。さらにその信用は為替相場という形で日夜瀬踏みされる。金に比べればフィクションではあるが、逆に色々な規制に熟されて不自由になっている。
そして米ドルが兌換を停止して、世界のほとんどの国が変動相場制になってからは、むしろ為替相場が貨幣の形と働きを規定するようになっている。
であればいっそのこと、国家信用などというものを一切捨てて、相場にすべてを委ねようということになっても不思議はない。
その延長線上にあるのがビットコインではないか。これにより貨幣は匿名性と普遍性を“回復”することになる。
ただしその場合、貨幣の持つ2つの意味が失われる。一つは一定の機関による信用の裏打ちである。もう一つは金が労働により生み出された商品であるのに対し、生産物としての独自性の喪失である。
ただし後者はすでに失われているのだから、いまさら云々すべきものではない。
前者については少し吟味が必要だろうが、一番の問題は信用の裏打ちがなくても持続可能な流通手段となるだろうか。結局はドルという決済手段とどこかでリンクせざるを得ないのではないだろうか。
それは賭場という場所で通用するコインでしかないのだろうと思うが。

現在、問題となっているのはむしろ、取引のたびに常にドル決済を迫られる現在のシステムにあるのではないだろうか。
とくにトランプのような狂人がアメリカの大統領になると、世界の通商・貿易・投資がアメリカの恣意に翻弄されることになる。
その典型がベネズエラで、なんの罪もないのに経済制裁というペナルティーを科され、ドル決済を禁止された。「ドルを持ってこられても、ベネズエラの方とは取引できません。あしからず」という状況が現出されているのだ。同じようなやり方で1年前にアルゼンチンが攻撃され、おかげで政権が転覆されてしまった。
世界で一番米ドルが信頼できるから、みんなが使っているのに、「あんたは気に入らないから使わせません」ということが平気で行われるようになっては困るのだ。
もちろん国際通貨とビットコインとは目的も性格も違う。
しかしビットコインにはドル支配体制に対する風穴という側面もあるのではないか、こんなことも念頭に置きながら、もう少し勉強してみたい。

以下は三井住友銀行の森谷亨さんの談話。森谷さんはリーマンショックをはさむ10年間、ニューヨーク拠点でエコノミストを務めた方である。

07年の初め、サブプライムローンを担保にした「不動産担保証券」と米国債の利回り格差が急拡大した。振り返ると、これがショックの予兆であった。
しかしFRBや米政府もふくめ、みんな事の重大さに気付いていなかった。サブプライムローンの市場規模は実体よりはるかに小さく見積もられていた。
08年3月 ベアー・スターンズが経営破綻。しかしまだ危険は認識されずリスクテイカーの破たんとしてスルーされた。
そして9月、リーマンショックが発生した。その直後、エコノミストはドルの資金繰りをどうするかに集中し、原因の分析は疎かにされた。

1990年代以降の金融資産はデリバティブにより複雑化されている。しかし、ふだんから注意深く眺めていれば必ず見つけられるはずだ。

例えば、問題の一つはサブプライムローンの大量証券化にも拘らず、リスクヘッジがAIGに独占的に集中していたことだ。
この脆弱性は、通常のエコノミストのマクロアプローチだけでは見つけることはできない。

どこで見つけるか。それが金融セクターの収益率だ。金融セクターがボロ儲けし、金融マンの羽振りが異常に良くなるとき、世間で過剰な投機が進んでいる可能性が疑われる。
それは対応するリスクヘッジが行われていないということだ。

リーマン・ショック以降、各国は金融システム規制を強めた。デリバティブ市場も成熟した。しかしこれからも、投資家や金融機関が、未知の世界で過剰なリスクをとる可能性はある。


ということで、リーマンショックの発生要因として、デリバティブ商品が急速に普及したが、隠された商品リスクが実はベラボウに高く、しかも投資家のリスクヘッジが不十分であったということだ。
それをエコノミストが見抜けなかったのは、従来型のマクロアプローチに頼ったからだ。

これらの問題は克服されつつあるが、投資家のリスク志向体質は変わりようがないから、形を変えて再現される危機はなくならない。
これに巻き込まれないようにするためには、賭場としての市場の生態に精通するしかない。

ということになろう。

おそらくその賭場としての生態を解析しているのが「資本論」の第三部なのだろうと思うが、まだそういう視点からは読み込めていない。

重大な訂正 7月13日
松浦さんから御丁寧な挨拶をいただきました。ありがとうございます。
なお「ベネズエラ投資代理業」というのは私の誤解に基づく虚偽情報でした。正確を期すため、松浦さんご自身の文章をそのまま転載します。
お願いしたいカ所は私の現在の仕事でして、投資代理業ではなく「日本企業向けのベネズエラ情報配信業」にご修正をお願いできますでしょうか。
弊社は日本企業にベネズエラの政治経済情勢は情報提供しますが、債券の売り買いの助言あるいは投資代理は行っていません。
投資業は基本的に金融機関での勤務経験や、コンプラ対応を行うことが出来る人員体制、預託金の支払いなど事業を行うにあたり一定の登録要件がございます。
無登録の業者は罰則の対象になってしまいますので、誤解を生むことがないようご修正をお願いできればと存じます。
今回のベネズエラ講演会のメインは松浦健太郎さんのレポートである。
話は2つあって、ひとつは2017年5月に松浦さんが発表したレポート。もうひとつはその後始まったトランプ政権の経済制裁の評価である。
その間に松浦さんの肩書きは変わっていて、17年5月にはジェトロのカラカス事務所勤務であったがが、現在は独立してベネズエラ投資代理業を立ち上げている。
会社名は株式会社 ベネインベストメント で役職名は代表取締役。会社の活動内容は以下の通り

ベネズエラは原油、金、鉄鉱石、ボーキサイトなどあらゆる資源が眠る大国。
極めて高いポテンシャルを秘める国でありながら不安定な政情、信頼できる情報の欠如、複雑な為替制度など先を見通すことが極めて困難な国でもあります。
ベネズエラでのビジネスは中立で客観的な情報を掴むことが何よりも重要です。
ベネインベストメントは現地に駐在し1,000件以上の投資貿易相談に応じてきた専門家の視点を通して現地の報道、法制度、経済統計などビジネスに必要な情報をお届けします。


まずは駐日大使館のホームページに転載された、「外国プレスが報じないベネズエラのもう一つの真実」という文章の摘要をとる。
これは「ラテンアメリカ時報 2017年 春号」に 「時事解説」として掲載されたものである。

はじめに 
ベネズエラの状況は極めて危機的で現政権が崩壊寸前のような印象を与える。
しかし、それについては疑問を感じている。

3重苦を乗り越えたベネズエラ
現在のベネズエラは一年前と比べると改善しつつある。
とくに2016年前期の状況が深刻だった。
1 つ目は原油価格の下落、2 つ目は電力不足、3 つ目は与党内部の混乱である。
1.原油価格の下落
原油市場は14年7月に急落した。そして15年12 月に2度目の急落があった。ベネズエラの原油
価格は1バレル24.25ドルまで下がった。
政府は財・サービスの輸入切りつめを迫られた。
2.電力不足
ベネズエラは電力の6割を水力発電で賄っているが、水不足で電力不足をきたした。
全国で一日 4 時間の計画停電が行われた。保冷設備が停止し食料品が腐った。
カードが使えず決済ができない。工場稼働も自粛を迫られるなどの影響がでた。
3.与党内の混乱
マドゥーロ政権は危機脱出のためアバッド経済担当副大統領に任命した。一連の引き締め政策は与党幹部議員の抵抗を招いた。
議会の2/3を野党がしめていたこともあり、政府の力は弱体化した。
この2016年三重苦は、政府が副大統領を辞任させ、経済緊急事態令という超法規的な措置をとることで終熄に向かった。
CLAP制度が作られ、生活必需品が直接市民へ低価格で販売されるようになった。

与党の権力基盤は強化傾向にある
17年現在、原油価格は1年前に比べ10ドル上昇した。雨量は多く停電の危険はない。与党の
内部分裂は回避された。
しかし一方で、物不足や高インフレは残っている。CLAPは状況を改善したが十分とは言えない。
世論調査では、マドゥロ大統領を評価する意見が増え始めている。その一方、野党統一党(MUD)の支持は激減した。
以下は松浦さんの所感で、おそらく大事なポイントである。
国会議員選挙で議席の 3 分の 2 を獲得しながら何も有効な対応ができなかった野党にする国民の失望は強い。

野党が国民の意見を代表するために
1.野党大勝の原因
2015年12月の国会議員選挙では、野党が大勝した。しかしこれは過大評価できない。
松浦さんの見方では、
チャベス元大統領は好きだが、マドゥロ政権は支持しないという態度がとられた。交代に重なって景気が悪化したためである。
2.野党はエリート集団である
松浦さんの見方では、
現野党はいつまでも一般大衆を代表する組織にはなれない。なぜなら彼らはエリート層の集団だからだ。
野党はリーダーの総入れ替えを含めた抜本的
な改革が必要だろう。
3.与野党間の三すくみ状況
世論調査では与党支持が3割、野党支持も3割、支持政党なしが4割となっている。

2017年のデフォルトは回避可能か
原油が1バレル60ドル以上なら債務危機は生じない。
45ドル以上なら条件付きで回避は可能。
特に必要なのは、外貨管理制度の維持をあきらめ自由相場制に移行することだ。
ただし自由相場制への移行は公共料金の急騰
をもたらし、与党の支持基盤である貧困層を直撃する。
これが現政権に実行できる可能性は薄い。

政局の見通し
省略

結論
短期的な展望は決して明るいものではない。しかし長期的には極めてポテンシャルの高い国だ。
①世界一の原油埋蔵量、天然ガス埋蔵量も世界8位
②金、ダイヤモンド、鉄鉱石、ボーキサイト、石炭など豊富な地下資源
③国民の消費意欲は旺盛で、必要不可欠な投資が山積している。
参入チャンスを逃さないために日本企業も引き続き同国の動きを注視していく必要がある。

両方とも自家用車で行くしかないところですが、意外とネットでもしっかりした地図がありません。
そこで長雨の合間を縫って、行ってきました。

1.中国人慰霊碑(仁木)
nikitizu
   卍印のところが町営墓地でこの墓地の中に慰霊碑があります
国道5号線を余市方面から南下していくと、仁木の市街に入ります。
やがて、ちょっと見落としてしまうかもしれない信号があります。そこに仁木駅方面左折の標識があります。ここを曲がって1丁ほどで駅に突き当たります。この突き当りを右に(南方向)に曲がって1丁ほど行くと左に踏切があります。このとき右前方には仁木町の役場が見えます。ここで左折して、踏切を渡ってそのまま真っすぐ東に向かいます。
300メートルほど進むと交差点があるので、そこを右に曲がります。曲がらないで直進すると鳥居にぶつかります。これが仁木神社になるようです。右折して200メートルするとまた交差点があるので、今度はそこを左折して山の方に入っていきます。ここが仁木の町営墓地の入口でちょっとした高台になっています。要するに神様と仏さんが隣り合っていることになります。
何回も曲がる道筋で面倒に見えるが、途中にランドマークがあるので迷わないと思う。もちろん自信があれば最少の右左折で行っても構わないです。
墓地の中ほど、朽ちかけた廃屋があり、これが地図の卍印の元になったお寺ではないかと思われます。さらに坂を登っていくと、進行方向左側に下記の写真の塔が見えてきます。これが慰霊碑です。郭沫若の文章が彫られた石碑がありますが、読めません。説明板は見当たりません。
中国人慰霊碑
             中国人慰霊碑(仁木)

2.劉連仁記念碑(当別)
劉連仁tizu
             劉連仁記念碑(当別町)
この記念碑は当別の市街から離れて、かなりわかりにくいところにあります。周辺にこれと言ったランドマークもありません。
多分下記のアプローチが一番わかり易いと思います。
札幌から国道275号線で当別に向かう。この国道は市街に入る直前で右折して月形方面に行ってしまうから、右折せずに真っ直ぐ進みます。この道は橋を渡ると市内中心部になり当別駅で行き止まりになります。
そこまで行かず、橋から2つ目の信号を左に曲がって、そのまま市外まで出てしまいます。
札沼線の踏切を越えてしばらく行くと、田んぼの中を一直線に北進する通りがあるので、そこを右折します。
この道は3キロほどでT字路に突き当たる。ここを左折し西北方向にしばらく走るとやがて山麓に到達し、ふたたび三叉路が現れる。ここをまた左折して、しばらく走る。やがて右側(山側)に記念碑が現れる。地図にでマークしたところです。ほかにものらしいものはないので、「劉連仁記念碑」と書かれた道標を見損なうことはないでしょう。
劉連仁記念碑

2つの丘の間のちょっとした幅の沢になっていて、いかにも隠れ住むには格好の場所とうかがわれる。ここで劉連仁を保護したのが共産党員農民の今野さんだ。その今野さんの息子さんが中心になって記念碑建立を発議した。記念碑は仁木の記念碑がそっけないのに比べ、なかなか芸術的だ。
劉連仁記念碑2
中の空洞を覗き込んでみると丸みを帯びたかなり大きな石球が置かれています。おそらく沢の斜面に壕を掘って住んだ生活を象徴したのでしょう。たしかに言葉に勝る造形だと思います。

どちらもあまり人が訪れることもないのだろうが、やはり説明を書いたプレートがほしいね。これからはひょっとして中国人客が来るかも知れないし…

先日、ベネズエラを知る会の勉強会に出席した。会場にたまたま奥様がいて、ご挨拶させてもらった。
イシカワ大使にはもったいないほどの方である。
まずは写真をお見せする。

大使夫人
左の男性は私ではない。日本AALA連帯委員会国際部長の田中靖宏さんである。いつもより少し鼻の下が長く写っているかもしれない。
大使夫人のお名前はコロン えりかさん。エル・システマ・ジャパンのスペシャルアドバイザーを務めている。有名なオペラ歌手なのだそうだ。
11月に大使が来札するとき一緒に来てコンサートをしてもらえないか聞いたが、残念ながらスケジュールが合わなかった。
で、勉強会の方だが、いずれまた報告する。

ついでにネットの画像。
歌う大使夫人
   被爆のマリアに捧げる賛歌 / 相馬子どもコーラス&コロンえりか
から拾ったもの。
石川コロンえりかさん
この歌は原水爆禁止2015年世界大会(la Conferencia Mundial en contra de las Bombas Atómicas e Hidrogeno)に参加したコロンえりかさんが歌い大好評を博した。彼女の挨拶
被爆70年の大切な年に、皆様とともに私もひとつの決意を表明できました。
そのことにくわえ、音楽によって、皆様とこの思いを共有できました。そのことを感謝します。
そして、
私にとってこれからの新たな力にして参りたいと思います
とりあえずはこのくらいにしておく。えりかさんの祖国、心優しきベネズエラに幸多かれと望む。

とても面白いミュージアムを見つけた。
九段下のしょうけい館というところだ。
九段下の駅の6番出口を出たところだと、ホームページには書いてあるが、地図はない。
入ってよいのかと一瞬ためらうほどのオフィス風な外観だ。
しょうけい館は、戦傷病者の労苦を「承継」するということから名付けられたのだそうだ。別名が戦傷病者史料館。平ったくいうと傷痍軍人の会館だ。
こじんまりとしているが立派な国立施設で、委託運営となっているが天降りであろう。創設時は今上天皇も閲覧しているようだ。
現在は「水木しげるの人生」という企画展をやっている。
mizukisigeru
滝平二郎の沖縄戦の逃避行とイメージがダブルが、こちらの戦後は傷痍軍人であり失業者であったからさらにきつい。
漫画のイメージと実際の水木のイメージが付かず離れずに進行していく。戦後の生存のための“あがきも含め、まさに生きた戦争、戦争の血肉化だ。
ただしテレビドラマのゲゲゲの女房とはだいぶイメージのずれがあるようで、そこから入る人には多少戸惑いがあるかもしれない。

日曜だからなのか。館内はガラガラ。おかげで冷房に当たりながらゆったりとしたひとときを過ごすことができた。

それから神保町へ出て一軒だけ開いていた古本屋で、「稲作の起源を探る」という岩波新書と「恐竜は生きている」という翻訳の入門書を買った。前者が98年。後者は87年の出版だから、この手の本としてはアウトオブデートかもしれない。

オウム幹部の集団処刑に関連して、竹内精一さんの談話が赤旗に掲載されている。社会面のトップではあるが、内容的にはその扱いでよいのかという感もある。一面の何処かに囲みで載せるべきではなかったろうか。
もうずいぶん前の事件なので、ちょっと解説を入れておく。
竹内さんは共産党員で、オウムの本部があった富士山麓の上九一色村の村会議員を務めていた。現地で先頭に立って反オウムの運動に取り組んだ。テレビにもしばしば登場したが,共産党議員の肩書きは慎重に避けられた。テレビではずいぶん多くの解説者が登場したが、多くが警察の垂れ流し情報の受け売りで、竹内さんほど適切な評価を下す人はいなかった。

それで、竹内さんの言いたいことは3つある。
1.集団処刑は「事実」隠しではないか
この事件で解き明かされるべき核心的事実は「多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったか」である。であれば、処刑は事実隠しになるのではないか。
2.オームの狂気を増長させた一連の責任は問われないのか
処刑後の法相会見では、裁かれるべきものが裁いているという後ろめたさが感じられない。
事件の多くは避けられたはずだ。裁く者の過失は相殺されないのか。処刑を命じる権原は毀損されてはいないだろうか。
3.松本死刑囚以外の人の死刑は正しいのだろうか
「死刑反対」の立場ではなく、やれと命令されて殺った人々に、極刑を与えることが正義に値するのか。戦争中の兵隊と同じで、命令されて敵を殺すことが、悪いことには違いないが、それは果たして極悪者なのだろうか
ここで竹内さんは深刻な告白を行う。
私は戦争に行った最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ。
あなた達もオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました
ここで読者は、なるほど竹内さんの生き様にはそういうバックボーンが通っていたんだ、とわかる。
(なおこれは具体的な誰彼の話ではなく、思想の話だと思う)


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