鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

8月6日 北海道新聞にこのような記事が掲載された。
私の名前も紹介されているので、転載させていただく。

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続き

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堀川さんからは御丁寧なご質問を受け、答えさせていただいた。
しかし何分にも30数年前の調査なので、記憶は不鮮明で、ご期待には添えなかった。
忸怩たる思いである。
ただあの頃は未だ話題にもならなかった、原爆被災者における内部被曝の問題を、おぼろげながらに指摘できたのではないかと密かに考えている。

前期記事 「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」
の冒頭講演 「支石墓に見る日韓交流」を抜粋紹介する。

演者は埼玉大学准教授の中村大介さん

1.支石墓とは

日本では弥生文化の開始期に北部九州で突然出現する。ゆえに弥生文化を考える際にきわめて重要なマターである。

2.支石墓の種類

ドサッとコピペする。東アジアだけでも色々な言い方があるということだ。

支石墓の種類

3.東北アジアの支石墓の源流

遼東半島源流説が主流となっている。石棚墓の源流が長江流域だとする主張があるが、明確な根拠はない。

遼東半島では支石墓に先立ち積石墓の例があり、この墓式の流れと考えられる。

支石墓の開始は紀元前15世紀ころ。紀元前6世紀に一気に拡散したと考えられる。

4.朝鮮半島の支石墓

半島南部では一次葬が主要であり、墓は個人用のものと考えられる。したがって形態は類似していても葬制は異なっている。

南部支石墓は2つの亜型に分かれる一つは浅い湖南式、もう一つは深い嶺南式である。

紀元前2世紀にはすでに衰退が始まった。これは鉄器の流入と符節を合わせている。

5.日本列島の支石墓

分布地は島原、糸島、唐津、佐賀に偏在している。この内、糸島が嶺南式でほかは湖南式である。。

6.支石墓に葬られた人

嶺南の支石墓では弥生人に近い半島住民が確認されている。

糸島・唐津の支石墓で発掘された人骨は縄文晩期人の形質的特徴を持つ人骨が確認されている。


ネット上で、支石墓に関する論説は少ないが、下記の記事が参考になる。
平成26年度 東アジア国際ミニシンポ「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」記録
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。

紀元前1500年頃 遼東半島付近で支石墓が発生。テーブル状形態を示す。

その後 テーブル型支石墓は中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に拡大。

縄文晩期 長崎県大野台・原山に石棚墓群が出現。浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺を伴う。(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
大野台

紀元前500年頃 朝鮮半島が無文土器時代に入る。

紀元前500年頃 支石墓が朝鮮半島のほぼ全域で造設。約4-6万基とされ、世界の支石墓の半数に相当する。分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。

ユネスコ世界遺産に指定された高敞、和順、江華の800近い支石墓群は、青銅器時代の北方式支石墓とされる。
幽里

紀元前400年頃 朝鮮半島西側の中南部と北部九州に支石の丈が低い支石墓が広がる。天井石が碁盤状を呈するため碁盤石とも呼ばれる。テーブル型との境界は全羅北道付近とされる。


紀元前400年頃 朝鮮半島からの強い影響を受け、碁盤石、蓋石墓が松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広がる。支石墓の地下には土壙(どこう)、石棺、石室、甕棺(かめかん)などが設けられる。

紀元前200年頃 弥生時代中期。墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)

紀元前後 弥生後期。支石墓内に細型銅剣が副葬されるようになる。須玖遺跡では多量の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類を出土する

紀元100年ころ 弥生時代終期 日本の支石墓が終焉を迎える。

ヒッタイトと鉄の歴史

ヒッタイト地図
              ヒッタイトの版図

紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。

紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。

紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。

紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)

最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。

紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。

紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。

中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。

紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )

紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる


西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。



とりあえずあまりかまけている暇はない。
マンローの所説を理解するための覚え書き。

1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。

2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。

3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。

4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。

少なくともマンローはそう信じているということだ。



紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前3500年 メソポタミア Mesopotamia文明が発生

紀元前3000年 農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。

紀元前2700年 シュメール人が都市文明を建設。ウル・ウルク・ラガシュなど。

紀元前25世紀 ウル第1王朝時代。大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手した。都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には神殿。

紀元前24世紀 シュメール人都市の勢力は衰え、北方のセム語系のアッカド人によって征服される。

紀元前24世紀 アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアの統一に成功する。さらにシリアや小アジアやアラビアにまで進出。

紀元前23世紀 サルゴン1世の国が東方の山岳民の侵入をうけて滅亡。

紀元前22世紀 シュメール勢力の復興。ウル第3王朝を名乗る。

その後 アムル人がメソポタミアに侵入。アムル人は「西の人」の意味。シリア砂漠に住むセム語系遊牧民。

紀元前20世紀 ウル第3王朝が滅亡する。

紀元前20世紀 印欧語系民族の一支族、中央アジアから移動を開始する。

印欧語族の強さの秘密: 馬を戦闘に使用した。オリエント世界では初めてのことであった。馬に引かせた戦車隊は機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破した。
このためオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成された。
中東BC2千年

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。

紀元前19世紀 小アジアのアナトリア高原に印欧語系のヒッタイト人が進出。

紀元前18世紀 古バビロニア王国の第6代王・ハンムラビが、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展。

ハンムラビ王の功績: 
① 運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める。
② シュメール法を継承・集大成したハンムラビ法典を制定する。「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則にもとづく。これにより領内の多民族を統一支配することが可能になる。

紀元前1680 ヒッタイト王国、古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす。

ヒッタイトはバビロニアを破壊・略奪し引き揚げる。メソポタミア南部には印欧語族のカッシート人が入り、バビロン第3王朝を建てる。

紀元前15世紀 印欧語族フルリ人がメソポタミア北部から北シリア一帯にミタンニ王国を形成。

紀元前1430 ヒッタイト新王国が成立。

紀元前1330 ヒッタイト新王国、ミタンニを制圧する。

紀元前1274 ヒッタイト王国、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争う。カデシュの戦いで引き分けとなり講和条約を締結。

紀元前13世紀末 東地中海全域を巻き込んだ民族大移動。バルカン方面から大量の民族が侵入する。(海の民の襲来)

紀元前1180 ヒッタイト王国が滅びる。民族大移動が原因とされる。ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及する。

紀元前7世紀 アッシリア、鉄製の武器と騎馬戦術によにより全オリエントの統一に成功。

まもなく新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分裂。

紀元前525年 メディア王国の流れをくむアケメネス朝がオリエントを統一

藤崎一郎元駐米大使 「米中関係を打開するために」
(9月2日 朱健栄のセミナーでの発言)

米中の力の差は社会理念の差

いまの米中関係は 2 大大国とまでいわれる関係では全然ないのではないか。軍事的にも経済的にも、そして何よりも理念ということです。

経済だけは大きくなってきたが、その前提はそんなにしっかりしたものではない。
社会も、一党独裁ですべてを決めるという立憲的な脆弱性がまだ残っています。


トランプと習近平

トランプさんがあまりにも乱暴なので、習近平は一時期、自分が世界貿易のチャンピオンであると印象づけるのに成功した。それがたとえばダボスでの習近平主席のスピーチのように主張された。

しかし中国はコロナで間違いをしてしまった。武漢の感染が一段落した後、マスク外交で感謝を強要したり、いわゆる「戦狼」外交が強まった。

その印象があまりにも強かったから、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、インドとの関係などすべて悪くしてしまった。

これが中国の現状だろうと思います。


米大統領選挙を見据えて

まず注目すべきなのが、8 月 6 日の王毅外相の新華社とのインタビューです。ここで王毅は対米 4 原則を打ち出した。対立回避、対話継続、デカップリングせず、ゼロサムゲーム(真剣勝負)はしないというものです。(デカップリングせずの意味は不明)

これに対応してバイデンと民主党は、だいぶトランプとは異なる政策を打ち出しています。

メディアを始め多くの識者(とくに日本国内)はこの点を読み違えています。バイデンの目指すのは強硬化ではなく原則化です。国益ではなく国際的なルールなのです

バイデンは対中で毅然とした態度を取るという立場を出しつつも、「自滅的で一方的な関税戦争はしない」ことを明らかにしています。

なぜなら、その戦略は中国の軍事姿勢を誇大化させ、その反映として米国の軍事肥大を招き、結局は米国の労働者をいためてしまうからです。


事態は中国の受け止めにかかっている

バイデンが勝利することを前提にすれば、アメリカは中国に「原則」をもとめてくる。

原則とは人権と民主主義です。彼らは最初の一年目に「民主サミット」をやるといっている。

そのときに中国がどういう対応をするのか、香港、WHO、台湾問題、ウイグル問題が注目される。あるいは南シナ海、東シナ海でもそうです。

しっかりやらないと、最初の一年目で相当イメージがかわるかもしれません。

その意味でこの前の王毅国務委員の新華社インタビューを大変関心をもってみています。
(いっぽうで、習近平総書記は今月3日に講話を行い、敵対勢力による「5つの企て」を決して承認しないとのべた。習近平は講話で被害者意識を強く押し出し、原理主義的な方向への傾倒を印象づけている)


王毅国務委員・外相の新華社インタビューは以下で閲覧できます。
http://jp.xinhuanet.com/2020-08/07/c_139271507.htm 

感想
誰かが、AALAニュースに転載したのを要約したものである。今後、転載にあたっては転載者の氏名と転載理由を記載していただきたいと思う。
とは言いつつ、なかなか面白い見解ではある。
ただ、立場上言及はできないだろうが、習近平の立場についても理解が必要だろうと思う。
習近平は中国共産党の維持をまっさきに考えるほどケチな男ではないと思う。ただ文革中に泥水も飲んできた人間として、「中間管理層の腐敗とそれを生み出す社会システムは我慢ができない」ということは分かる。そして、ここからが論理が屈曲するのだが、紅衛兵の造反に依拠するのはさらなる愚挙だということも理解する。
となれば、腐敗分子の粛清を思い切ってやるには軍部の力を借りるほかないということだ。
これは実は、多くの「民主政府」がたどる道でもある。民衆の力によって政権についた政府が、その地位を守るために軍部と手を結び、軍の力で強引に困難を乗り切っていくという例は枚挙に暇ない。
棺を覆って初めてその真価が問われることになるのかもしれない。
ただ軍部(人民解放軍)がはしゃぎすぎていることは間違いないので、その動きには厳しい目を注がなければならない。さらに周恩来ー楊潔篪ー王毅の外務担当者の動向にも注意を向け続けなければならないであろう。

マンローは縄文・弥生という時代区分を用いずに、先史時代の日本を描き分けています。
それは日本の先史時代をメソポタミア、アジア北部回廊、中国古代王朝、朝鮮半島と一貫した変化として捉えるために非常に重要な視点を提供しています。
そしてこの世代交代の重要な指標として「ドルメン文化」の考えを突き出しています。しかしながらこの考えはうまくなかったと思います。理由は西欧のドルメンとインドのドルメン、遼河文明、朝鮮の北方式と南方式はそれぞれが起原も発送も異なっているからです。少なくとも朝鮮の北方式と南方式は分けて考えるべきでしょう。

ただマンローがとくに朝鮮半島の南方式(支石墓)を重視したのは大事なポイントです。
マンローは支石墓文化の世界的な共通点として、青銅器時代=鉄器時代の前夜という歴史段階を考えました。それは石器時代と鉄器時代という人類史の二段階の短い移行期であり、とりわけ東アジアでは短縮され、一つの時代としては認識し得ないほど短い場合もあるが、必ず通らなければならないステップだとかんがえたようです。

そしてその考古学的特徴を列挙し、これを先史時代と歴史時代の分岐点として、日本の歴史を考えるよう進めました。
ともすれば陶器の文化、木の文化、稲の文化に目を奪われがちな我々にとって、この世界史的な視点はぜひとも心すべきことです。

この教えは引き継ぐべきではないでしょうか。

ドルメン同根論は破綻したが

ドルメン同根論は間違いなく破産している。マンローは破産したドルメン論にしがみつくことにより、考古学・人類学の主流から外れてしまった。

しかし同根論の根っこにある北方系人種の横移動の歴史は、必ずしも廃棄されたわけではない。

Yハプロ学説が人類学を席巻する20年前までは、HLA、T細胞白血病、HB抗原など多くの研究で、東アジア人の原基は北方を指していたのだ。

さらに、麦、金属器の渡来は中央アジアからの北方ルートを経由したと考えるのが素直である。


中央アジア系人種の横移動

ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

ドルメンの議論を聞いて初めて知ったのは、西ヨーロッパに先住していたのが非印欧系のハプログループG2aだということであり、彼らの時代は紀元前5000年に始まり3000年まで続いたということである。

ハプロGグループは9,500-30,000年前にコーカサスで誕生した。紀元前5000年に一部がヨーロッパに移動した。当初より農耕技術を持っていた可能性がある。

紀元前3000年ころにはハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に駆逐され、混血することなくほぼ絶滅した。これをもってドルメンの時代も終焉を迎えた。

ハプログループG2aは現在もジョージアを中心にコーカサス地方に分布している。彼らの中央アジアにおける生息域は、現在のトルコ・ウィグル系人種のそれと重なっている。

もう一つの北方系ハプロ集団 N系人

おそらくマンローが混同しているのがハプロN人である。

ハプロN人は、20,000年前~25,000年前に、中央アジアでハプロO人と分岐した。シルクロードを経由し東アジアに達したと見られる。

一部は西方向に横移動しフィンランド人の祖先となっている。

N型人は確実な遼河文明の担い手である。古代中国文明の最初期に属する周王朝が、N系人による国家とする主張もある。私は与しないが。

N型が中央アジアから東進するに際して、先住者であるG型人の風習・伝統を身に着けた可能性があるが、人種として直接の血の繋がりはない。

強いて言えばG型人はコーカサス人であり、N型人はアフガンないしタジク人である。

N型人の過剰な強調には要注意

最近N型人の歴史的意義の強調が目立つ。中には通説の書き換えを迫るような提起もある。

注意しなければならないのは、O型人との関係を見誤らないようにすることだ。

最近の考古学的知見によれば、遼河文明のうち夏家店文化の上・下層の境界、すなわち紀元前1500年頃に遼河文明の担い手がN型人からO2人に交代したようである。

遼河文明の人種的交代が紀元前1500年頃とすれば、紀元前1000年ころに始まる黄河流域の周王朝がそれを遡ることはありえず、遼河文明研究者による引っ張り過ぎだろうと思う。

N型人とO型人はどこで分化したか

ウィキの流れ図では、イルクーツク近辺でNとOが分化したことになっているが、今日の通説としてはOはインド経由でインドシナから華南へと進出したことになっている。亜型(C1,C2)への分化のパターンもそちらのほうが説明しやすい。

ウィキによるNOの流れ図


それに華北~東北地方におけるN型人の現代の分布を見ても、明らかに南から北上したO2人がN系人を駆逐し、周辺部へと追いやっていることが明らかだ。

したがってNO人はイラン~アフガンあたりで分離し、O型は南ルート、N型は北方ルートで東アジアに入ったとするのが考えやすい。

N型人は交易民だった可能性がある

N型人はたんに進出し、征服し、支配する民族ではなかったのではないか。

かなり頻繁に東西方向への移動を繰り返し、西方文化を東アジアにもたらした可能性がある。

蒙古族や満州族、ツングース系は古来より土着していたC型人だが、西域回廊を支配していた夏や匈奴、突厥などはN型人だった可能性がある。

北方ルートを通じて麦栽培、青銅器、鉄器という三大文化が持ち込まれたのは、まさにN型人がルートを押さえ、華北を支配した時代と一致する。

マンローの偉大な示唆

何れにせよ、遺伝子解析などなかった20世紀初頭に、マンローが、横移動する民族、支石墓時代(青銅器)から鉄器時代の移行が民族の交代を伴った可能性、などまで念頭に置いていたことには驚くほかない。

私は素人でこれ以上の言及はできないが、学界各氏のご検討をたまわりたいと思う。

「マンローとドルメン論」に関して面白い論文を発見した。

く物の解釈>学知と精神』という表題で著者は 全成坤さんという方。肩書きは高麗大学日本研究センターのHK研究教授となっている。日本語の文章である。

この論文の主眼は、崔南善という日帝時代の考古学者を紹介するものである。
これによると崔南善は「楽浪文化は朝鮮における最古の最大のものである」とし、個々の用具や様式が個別に日本に渡ったのではなく、一塊の「文化」として渡ったと見るべきだということだ。

そしてその論文でドルメンに言及して鳥居龍蔵の研究とゴードン・マンローの見解を紹介しているのである。

申し訳ないが、そこだけ知りたいので抜書きさせてもらう。

鳥居のドルメン研究のきっかけはマンロー博士の慶応大学での講演「日本人の起源」である。
鳥居によれば、マンローは以下のようにドルメン論を提示した。

①日本にはドルメンが多い。その構造はヨーロッパ、アフリカ、インドのドルメンと同じである。またアフリカ、インド、日本にしろ、さらにヨーロッパにしろ、その原始的記念遺構の出土品はすべて閉じである。
②ドルメンを建築した人種は同ーの起源であって、日本の先史時代文化はヨーロッパからインド、さらにまた中央アジア、蒙古、朝鮮を経て入ってきた。

この論旨は「先史時代の日本」にお手も通底している。

これを見た鳥居は、以下の見解に至っている。
①その名称が示しているように、これはテープルであって、決して部屋ではない。ドルメンと古境をわけて考えるべきだ。
②マンローの「日本人は総じてヨーロッパ人と異なる民族とはみなしえない」という説に同意する。

この日欧同一民族説は、現代の私たちには到底認められるものではない。

鳥居はこの点に配慮して、ヨーロッパからの巨石文化論を受け入れ、人種の移動論を展開しつつ、日本における「異なる」古墳形態が生成されたという立場に立つのである。

しかしこれでは紛糾した議論に風を送るようなもので、なんともひどい様になってしまった。

これがゴードン・マンローの負の側面である。

支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。


斎藤文紀「東シナ海陸棚における最終氷期の海水準」 第四紀研究 1998

東シナ海における最終氷期の海水準を検討した。
koukai

この結果、5万~2万5千年前の海水準は黄海で-80±10m,東シナ海で-0±10mと推定された。
最終氷期最盛期ではさらに低く、最低位海水準は-120±10mと推定された。
現在のような海域が広がりはじめたのは第四紀に入ってからである.
氷期は寒冷と同時に結氷による乾燥気候をもたらしてた。
1万3千年以前、黄河は乾燥によって干上がっていた可能性がある。 


という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。
図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。


アクシオンの説明漫画(赤旗日曜版)

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秋本祐希さんが自作した4コマ漫画で、今回の発見の本質をかなり的確に表現していると思います。
リードでは次のように紹介されています。
イラストを使った素粒子の分かりやすい説明が評判の秋本祐希さん。自作の漫画でゼノン実験について解説しています。

 もご参照ください。ダークマターについては別途勉強します。


シャボン玉

この歌を作った野口雨情は、小樽の新聞社に勤めてたそうです。
明治41年(1908)の3月に長女が生まれたのですが、生後8日で風邪をこじらせて死んでしまったのだそうです。

歌詞が出来上がったのは、それから十数年経ってからのことだそうですが、シャボン玉というのはこの女の子のことなのだそうです。

最初に浮かんだ歌詞は一番ではなくて、二番の方だったかも知れませんね。

シャボン玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

この歌詞を鎮魂のフレーズだとすると

風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

と上を向いて歌う、密かな潔さがしみじみ感じられます。


啄木ほどではないが雨情も、伝記を読むと本を投げ飛ばしたくなるほどに醜悪な生き方だ。とくに北海道時代の貧乏暮らし、自堕落な博労もどきの生活には辟易とする。有島の「カインの末裔」を地で行っている。
よくわからないが、これが自然主義文学なのだろうか。




図書館でなんのつもりか短歌の書棚に立ち止まってしまった。
「北二十二条西七丁目」(田村元)という歌集があって、何気なしに手にとってパラパラとめくって、いったん書棚に戻しそのまま行き過ぎたのが、なぜか後ろ髪ひかれる。
結局、借り出して読む羽目になった。
奥付を見ると、77年群馬の生まれ、北大で学生生活を送ったあと、東京で就職。そのままサラリーマン生活を送っているようだ。
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表紙の色さながらに薄雪模様のさらりとした歌風だが、その範囲内で、年齢とともにしみじみ感がにじみ出てきて、味わい深いものがある。

一度通読して、今度は後ろから読んでいくと、これが意外に趣が深い。

いくつかお気に入りをあげておく

しづもれる 空気がありて
昭和へと つながってゐる
乾物売り場

鎌倉で 飲もうよと
妻にメールして
「了解」とのみ 返信を受く

行ったことがないのに
とても懐かしい
友がふるさとと 呼んでゐる町

旧姓を
木の芽の中に置いて来て
きみは小さくうなづいてゐた

春の雨 われを包んで
われをややはみ出しそうなものを
ゆるして

たむらくん
根暗だよねといふことば
轍のように思ひ出します

こんなにも 冬の日差しが明るくて
寂しさの底に
ふるさとはあり

われのみが 「少し太った」
それ以外
変はらぬままの同期三人

この街のどこか
まばらに梅の咲く
登り詰めたき坂道がある

「あってはならない」こと
あまたある世の中に
酒があってもよくて良かった

帰り来て靴を脱ぐとき
ドアノブに立て掛けておく
ななめな気持ち

「上げない」ことにした案件が
消しゴムの角で
小さく丸まってをり

雨を見て 雨の向かうの東京は
見て見ぬふりをして
シャツを取り込む

彼が下宿したのが北22西7で、私はその30年前に北20西6に下宿していた。

そして彼は学問と彼女に未練を残しつつ、「平地に糧を得るもの」となった。
一時はかなり鬱々とした時を過ごしたらしいが、伴侶を得て穏やかさがめぐってきたようだ。

南アフリカとコロナ

南アフリカとコロナに関する記事を4本上げました。









基礎知識がないままに手当たりしだいにノートしたので、どうにもまとまりが付きません。

とりあえず、しばらく冷却期間を置くことにしたいと思います。


アフリカ日本協議会 -Africa Japan Forum-   

以下はあるセミナー報告の紹介である。報告そのものがアップロードされているので、興味のある方はそちらにお越しいただきたい。

はじめに

アフリカでのCOVID-19の状況や対策に関する報道は増えている。しかし中には現実を反映していないものもある。

とくに、4月30日のNHK BS1国際報道2020「南アフリカ・学校まで略奪〜新型コロナで社会崩壊寸前」の報道内容に対しては看過し難い誤りがある。

アフリカ日本協議会の有志会員は、「先入観に基づく報道によってつくられた誤解を解くこと」をもとめた。

このような経過により、緊急Zoomセミナー「新型コロナ:南アフリカの皆さんの報告&報道問題を考える」が企画された。

5月6日、このセミナーは日本と南アフリカ共和国をむすんで行われた。

1.南アにおけるコロナ感染の現状

南アフリカでは新型コロナのPCR検査を累計27万9379件行っています。

(これは5月6日現在の数字。同じ日、日本は26万0190件)

最近は1日1万件以上のペースで実施し、感染者の早期発見・早期隔離により、感染拡大のスピードを抑えようとしている。

南アのコロナ感染者は7572人(5月5日現在)でアフリカで最も多い。しかしこれは積極的に検査を実施しているためでもある。


2.先進的な南アフリカのコロナ対策

3月15日、ラマポーザ大統領は世界に先駆けて国家災害宣言を出した。

3月26日、全国ロックダウンに踏み切った。当初予定では3週間だったが4月末まで延長された。

5月1日からは外出制限や経済活動の制限が一部緩和された。しかし国境封鎖は継続した。

飲食店の営業はデリバリーのみ、酒類やたばこの販売は禁止された。

ロックダウン開始後も感染者は増加しているが、増加スピードは抑制されており、オーバーシュートは見られていない。


3.なぜ南アで先進的な取り組みができたのか

南アフリカのロックダウンはまだ死者が1人も出ていない段階で決定されました。貧困層が多い国内事情の下では、感染が急拡大すると対応が困難になると見込まれたためだ。

結果として早期のロックダウン開始が感染拡大のスピードを抑えました。これはWHOからも高く評価されている。

また日本のLINEにあたる「ヘルスアラート」というシステムを用いて、市民への正確な情報提供を行った。これはWHOがそのまま採用している。

このあと演者をふくめたディスカッションに入った。以下はその主な発言。

吉村さん

4/30のNHK国際報道は、アフリカへの偏見に基づいたセンセーショナルで、きわめて無責任な内容だ。

南アフリカ政府は新型コロナについて積極的に検査を行い、しっかりと情報公開も行っている。

ロックダウンについての大統領のスピーチは、人びとから強く支持されている。

市井の人びとのあいだには、この危機を乗り切るための人種を越えた連帯が生まれている。

高達さん

南アフリカの経済格差は世界一。若年層を中心に失業は深刻で、貧困層が多い。

しかし酒屋の強盗の映像を、食べるものに困った人々が食料品店を襲ったかのように切り取り報じるのは問題だ。スーパーマーケットは開いていて、食料品は問題なく買うことができる。

青木さん

ラマポーザ大統領は、まだ国内で死者が一人も出ていない段階でロックダウンを決断した。この決断は人種ゃ党派をこえて支持されている。

地域にはもともと、犯罪発生、停電や断水の情報を共有するためのコミュニティ・グループが存在した。それがいま地域共助のための組織になりつつある。

フロア発言

必ずしも現実の状況を踏まえない報道が散見される。その背景にはメディアの構造的な問題がある。

紛争や暴力といったアフリカのステレオタイプに沿った記事やストーリーのほうがデスクに受け入れられやすいという事情があるのだろう。

最後に

メディアの情報発信担当者は、先入観や偏見に基づいたネガティブな観点を引き継いでいます。その観点からの報道は、すでに日本の視聴者に一方ならぬ誤解を与えています。

現実に基づいた、バイアスの少ない情報を伝えていく努力をすることが大事ですが、それと同時に闘いが必要です。

ネガティブな情報に偏ったり、特定の意図をもって情報を都合よく歪曲するような報道があった場合に、これをただしていくことがとても大事です。

現場にいる人間としては、この観点をゆるがせにしないことが必要です。

今回の座談会では、このことが確認されました。


ということで、天下のNHK相手に「撃ちてし止まん」というのが小気味好い。

なおより詳細に事実関係に触れられている下記の文章も参照されたい。

NHK BS1国際報道(2020年4月30日放送分)への抗議



Astro Arts というサイトに


という記事があった。

何やらさっぱり分からない。
せめてどういう言葉なのかということだけはおぼろげに掴んでおこう。

電子反跳と呼ばれる現象があるのだそうだ。

それだけなら普通にある現象らしいのだが、ダークマターの検出実験中に予想以上に出たということが話題になっている、らしいのだ。

「へえー、そう」というだけなのだが、それをうまく説明しようとすると、アクシオンという未知の素粒子を前提にしなければならない、らしいのだ。

ここまでまったく意味はわからないが、これから始まる説明で、多少は背景がわかるかも知れないようだ。



1.ダークマター(暗黒物質)

まずはダークマターの話から。

ダークマターはふたつの性質を持っている。

一つは物質だから当然、質量を持っている。したがって他者に対して重力を及ぼす。

もう一つは、光(電磁波)を発しないこと。したがって見えない。すなわち光学観測では見つからない。

これだけ聞くとあまりにも分かりやすく、ダークというのは暗黒というより暗闇の中という意味ではないかと思えてしまう。

「暗くて見えないんだったら、電気つけりゃいいじゃん」ということになる。

しかし話はそんなにかんたんなことではなさそうだ。

2.ダークマターは素粒子である

ダークマターは素粒子である。それは私たちの知る物質がすべて究極的には素粒子であるのと同じである。

しかし素粒子物理学の「標準模型」には出てこない。すなわち「未知の素粒子」である。

なぜ未知なのか。なぜなら観測不能だからだ。

なぜ観測不能なのに、分かるのか。何か、論理が堂々めぐりしているようだ。


3.ダークマターはどこにあるのか

説明にはこう書いてある。
ダークマターは原子や電子などの「普通の物質」より5倍も多く存在する。それは宇宙の全エネルギーの約1/4を占める。
我々の知っている宇宙の5倍がダークマターで埋め尽くされているのだ。

下の図を見ると、素粒子のうち目下人類が確認可能なものは5%に過ぎず、残りはダークマターとダークエネルギーが占めているということになる。
アクシオン

4.ダークマターを検出する

世界でダークマターを検出しようとする実験が行われている。

その一つがイタリアのグランサッソ国立研究所で用いられている「XENON1T」だ。
ダークマターは普通の物質とほとんどぶつからずに通り抜けてしまうが、ごくまれにキセノンの原子にダークマター粒子が衝突する。

そうするとキセノン原子は大きなエネルギーを得て、蛍光を発したり、電子を放出したりすると考えられる。

キセノンを収納した容器の周囲に蛍光や遊離電子を捉える装置を置けば、これを捉えることができるはずだ。
というのが実験の趣旨。

なにか聞いたことがある。これはニュートリノの観測と同じ理屈=“待てばうさぎが跳んできて、ころり転がる木の根っこ”という「待ちぼうけ理論」のようだ。

5.電子反跳と原子核反跳

さぁここからがお立ち会い。第二の主役、「電子反跳」のご登場だ。

キセノンの原子にダークマター粒子が衝突するとき、核にぶつかる場合と周囲を回る電子にぶつかる場合がある。これを反跳という。

しかし今のところ原子核反跳は見つかっていない。

それに対して電子反跳は非常に多いのだが、実はそのほとんどは装置自体に含まれる放射性物質やキセノン中の不純物に由来する「雑音」である。

6.キセノン実験で見つかった原因不明の電子反跳

実験チームではこのすべての電子反跳を数えてみた。すると、既知のノイズ源から予想される発生数を上回る電子反跳が観測されていることがわかった。

その過剰エネルギーの発生源としていくつかが考えられている。その中の一つが
「アクシオン」と呼ばれる未知の素粒子がキセノンの電子にぶつかった。
というものである。

つまり、もしこの「アクシオン仮説」が正しければ、そしてこのアクシオンがダークマター由来のものであるとすれば、人類はダークマターの観察に成功したということになるのだ。

ここからが話しのややこしいところなのだが、結論として「過剰エネルギー=ダークマター由来」仮説は否定されたらしい。つまり話はこれでおしまいなのだ。

下世話な話でいうと、話がおしまいということは、実験は失敗に終わり、その意義は否定され、予算は凍結され、計画は廃棄されるということだ。


7.アクシオンとはなにか

そこでチームのスタッフは「転んでもただでは起きないぞ」と懸命に考えた。

話は2段階ある。一つは過剰な電子反跳を生み出したエネルギー=物質がダークマター由来ということだが、これは否定された。しかし過剰なエネルギーを生み出したものは確かにある。それが何かということだ。そこで考え出されたのが「太陽アクシオン」仮説だ。

そもそも「アクシオン仮説」は、クォークの間に働く「強い力」に関する仮説だ。

素粒子の標準模型と、実験結果の間には食い違いがある。

逆にいうと、「予想外に多い電子反跳」を生み出した犯人がいるとすると、話がうまく説明できるのだ。

そのためには、質量が数keVの素粒子が太陽の内部でたえず作られていると考えると、都合が良いらしい。その太陽アクシオンという素粒子がはるばる地球にやってきて、キセノンの電子に衝突したと考えると話の辻褄が合う。

この素粒子がアクシオンである。その大きさは陽子の百万分の1程度と推定される。


と、ここまでがアクシオンとダークマターをめぐる最近のトピックスである。




つまり「さてこそダークマターのご登場!」と意気込んだものの、どうも別物らしいと分かってちょっと落胆気味だった。

しかしダークマターではないにせよ、新たな素粒子が見つかったことには違いないわけで、あらためてアクシオンの研究が進みはじめた。

それが23日の日経新聞に載った「宇宙の謎解明 粒子を発見?」というちょっと情けない見出しの記事。副題も「暗黒物質観測中に謎の信号」というもので、上の解説を読まないと多分誰もわからないだろうと思う。

ただしゼノン計画の紹介記事は、どの報道を見てもなにか胡散臭いのだ。大げさなばかりで、内容がない。肝心なことは「新たな素粒子の発見!」ということなのだから、これまでの素粒子モデルを紹介した上で、どこがノイエスなのかを主張すべきだが、記事のほとんどはダークマターの解説と、「ぜノン計画がいかに素晴らしいか」の宣伝ばかりだ。

記事のテーマは別のプロジェクトの研究中に、新種の素粒子らしきものが見つかったということだ

しかし自然界のトリチウムが干渉した可能性、ニュートリノの未知の性質に由来するものという可能性は否定できない。

そうならばただのコンタミネーションに過ぎない。新たな素粒子の発見というからには、それなりに、しっかりした説得力のある根拠を示すのが筋というものだろう。

9月5日 文章修正

いつもお世話になっている新藤さんのニュースの紹介です。

まず報道内容から

8月15日、米政府は公海を航行中の石油輸送タンカー4隻を拿捕した。
これらのタンカーは約100万バレル、4億円のガソリンを積んでベネズエラに向かっていた。
米政府は、「友 好国の協力を得て」拿捕したと発表したが、詳細は明らかでない。
押収されたガソリンはヒューストンに送られた。

なぜこのような事件が発生したのか。

司法省はベネズエラ向けのガソリンについて禁輸措置をとっている。理由はマドゥーロ政権が独裁的で、非適法的な政府であるからだと説明されている。
しかしタンカーは公海上を国際法上の違反なしに平和に航海しているのだから、上記の理由で拿捕することは、それ自体が戦争行為あるいは海賊行為に等しい。
そこで司法省は7月に、連邦地裁に対してベネズエラ向け貨物の差し押さえ許可をもとめた。それが今回認められてことから拿捕に及んだということだ。
つまり禁輸措置という制裁行動には、第三国への禁輸おしつけもふくまれるということになる。
米司法省によればタンカーはイラン革命防衛隊が運航にあたっていた。イラン革命防衛隊は米国が「外国テロ組織」に指定している。したがってこれは反テロ行動の一環だ、と主張しているようだ。

赤旗はこの事件を以下のように報道している。
米政府はベネズエラの マドゥーロ 反米政権を『正統性がない』 と見なし、
(その結果)同政権を支援するイラ ンとともに石油禁輸を含む制裁を科しています。
そして、それが国際法上から見ても明白な違反であり、ベネズエラ国民に無用な苦しみを与える行動であること、間違った見解に基づく間違った行動であることには言及していない。

この論理で行けば、いずれキューバ制裁も是認するようになるのかも知れない。


以下は、南アフリカで暮らす日本人男性が感じた、NHK “コロナ略奪” 報道への違和感
という記事からの抜粋

これは7月5日付でYahoo News に投稿されたもので、ノンフィクションライターの井上理津子さんによるレポート。ただし抜粋部分は井上さんが現地で観光ガイドをしている高達さんの発言。

4月30日に、NHK BS1で「南アフリカ・学校まで略奪~新型コロナで社会崩壊寸前」というニュースが流れた。

私は未見

南アフリカ・学校まで略奪〜新型コロナで社会崩壊寸前

5週間のロックダウンを続ける南アフリカでは、その期限を30日に迎えるが、感染者が予想以上に増えていて、延長が検討されている。しかし、経済的な打撃は特に貧困層に顕著に表れている。貧しい黒人が暮らす地区では、収入が途絶えた人々による略奪が続き、その対象が商店から学校へと移っている。悪質なことに、証拠を隠滅するために放火され、200近い学校が破壊された。


という番組抜粋がまだ消えずに残っていた。


現地で観光ガイドをしている高達さんは憤る。

その内容がひどかったんです。スーパー併設の酒屋に黒人の男たちが押し入り略奪した。さらに居合わせた人たちも次々と酒を盗んだ。テレビはそう伝えた上で、「それは人々がロックダウンによって食べるものにも困ったからだ」と印象づけた。インチキ報道でした

男たちはギャングです。彼らが酒売り場に押し入ったのは盗んで転売するのためです。ロックダウン以前からそういった “闇商売” は横行している。そこに居合わせた人たちが、鬱憤晴らしに便乗しただけです。むしろロックダウンしてからのほうが犯罪は減っているのというのが事実です。

ちょうど日本で “ロックダウンしないのか” という声が上がっていたころでしょ? このにゅーすは “ロックダウンするとこうなる” と歪曲して伝えた、NHKの日本政府への忖度報道だったのでしょう。

実際には、南ア政府はずいぶん迅速に動きました。第一次コロナの時期から、子どもや高齢者、障害者への社会手当を半年間増額するなどの手を打ちました。さらに、従来は社会手当の対象外だった18歳から59歳の人たちへの手当を導入するなどの手を打ちました。

もちろんうまくいっていない点もあるが、それは他国も同様です。だから国民の間には政府のコロナ政策を支持する向きが多いのです。


同様の疑念は朝日新聞Globeも表明している

という6月18日付の記事

表現は少しおとなしいが、多量の毒をふくませている。筆者は白戸圭一さん。立命館大学の教授である。

「国際報道2020」は、国際報道における「事実」と「現実」の関係を考える貴重なケーススタディーだったように思う。

番組は、南アを取り上げ、ロックダウンによって貧困層が困窮し、略奪が多発していると伝えた。

映像では大勢の住民が商店を略奪する様子を捉えた映像などが流された。

こうした事実を並べることで、ロックダウンへの不満が強いと示し、「経済活動の再開に踏み切らざるを得なかった」南アの「現実」を伝えた。

と書いた上で、もうひとりの南ア居住者の反論を引用している。

それが吉村峰子さんの発言「事実誤認、途上国への蔑視、差別があまりにも露骨」という文章だ。これは放送直後の5月3日に自分のブログに掲載されている。

さらに5月6日には「アフリカ日本協議会」という市民団体がオンラインセミナーを開催し、吉村さんを含む4人が番組への批判を表明した。

共通する批判点はこのようなものだ。
*南ア政府の感染対策は極めて積極的で計画的だ。
*国民の多くは大統領の感染対策を支持している
*番組では南アの対策が破綻した事になっており、事実と背馳する

それは個別の事実の真偽に対する疑念ではなく、事実の組み合わせによって作られた全体的印象に対する違和感である。

6月5日、東京外国語大学現代アフリカ地域研究センターがオンラインセミナー「コロナ禍とアフリカ」を開催した。

この中の発言から拾うと、

NHKの番組の放映前の4月13~18日のヨハネスブルク大学による世論調査で、ラマポーザ大統領の仕事ぶりに対する国民の支持が73%に達していた。評価しない国民はわずか4%しかいなかった。


これは「国民の不満を前に、大統領の感染対策が瓦解した」という基調で制作されたNHKの番組とは相当趣を異にしている。

5月31日時点で日本の新型コロナ感染者数は1万6851人。これに対し南アは、人口が日本の約半分の5800万人なのに3万967人で、日本より多い。

しかし、同じ時日本のPCR検査数が29万436件だったのに対し、南アは72万5125件だった。南アでは、病院だけでなく、防護服に身を固めた医療チームが車で住宅地を訪問してPCR検査をしていたのである。

これらのことは番組では紹介されなかった。

番組制作者による取捨選択の過程でそぎ落とされた事実は膨大に存在する。

伝えられなかった事実に着目しなければ、制作者が選択した「事実」に基づく「現実」の範囲内でしかアフリカを見ることができなくなってしまうのである。


蛇足になるが、かくいう私もNHKのニュースに影響された一人だ。
 
なにか変だと思いつつも、日本語の情報がなかなか手に入らない状況で気をもんでいた。南アといえば日本AALAの友好国であり、まずはその国が公式に打ち出している情報を正面から受け止めて、そのうえでメディアの投げてくるクセ球をしっかりと受け止めつつ、日本国内の多くの人々に発信していくという姿勢が必要だろう。

我々はメディア組織ではない。メディアでさえも情報の取捨に関しては誠意が必要なのだから、ひど梅諸国との連帯を謳う組織が、いい加減な情報に踊らされてはならないだろう。


多分、知っている人はみな知っているのだろうけど、僕には初めてだった。

ウクライナ出身の女性歌手ナターシャ・グジーだ。顔も声も美しい。それ以上に考えがまっすぐで、話が心に染み入る。

オフィシャル・ページからプロフィールを引用する。

ウクライナ生まれ。
ナターシャ6歳のとき、1986年4月26日未明に父親が勤務していたチェルノブイリ原発で爆発事故が発生し、原発からわずか3.5キロで被曝した。
その後、避難生活で各地を転々とし、キエフ市に移住する。
ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳の頃より音楽学校で専門課程に学ぶ。
1996年、救援団体の招きで民族音楽団のメンバーとして来日し、全国で救援公演を行う。

2000年より日本語学校で学びながら日本での本格的な音楽活動を開始。その美しく透明な水晶の歌声と哀愁を帯びたバンドゥーラの可憐な響きは、日本で多くの人々を魅了している。

ということで、You Tubeから彼女の歌のいくつかを紹介しておく。



小松菜奈が見たくて、映画「糸」を見に行きました。かなり客は入っていましたが、それでも満員には程遠い状況でした。

そのためか、入場料が1700円に上がっていました。映画の前に行った床屋さんも200円上がっていました。映画はともかく、床屋さんの値上げは賭けみたいなものです。それまでの値段も相当割高だと思っていましたから、年金ぐらしの年寄客は一気に減ると思います。

それはともかく、

映画は、一言で言えば駄作です。小松菜奈ファンからすれば、ずいぶん金をかけていることは分かるのですが、それが小松菜奈を引き立てる方には役立っていない。
出てくる場面は多くても何やら印象がまったく定まりません。怪人二十面相ではないが「結局、どんな人だっけ?」という感じです。展開は安易で場当たり、伏線ゼロで個々のエピソードも紙芝居のように陳腐です。
それに引き換え主人公の男優の年上の妻は、まことに魅力たっぷりです。ネットで調べたところ榮倉奈々さんというらしい。
とはいえ、こちらはサイドストーリーなので、一体なぜ、彼女が主人公を好きになったのかは一切省略されています。

10回ものの連続テレビドラマの「総集編」というと分かってもらえるでしょうか。
ひたすら筋が混み合って、やたらと役者が多くて、泣かせどころはくどくどと引っ張って、要するに脚本がなっていないのです。だから結局のところ何を言いたいのかさっぱり見えてこない。

なにかむかしの東映の正月映画「赤穂浪士」を思い出してしまった。オールスターの顔見せだから、出演者に粗相の無いように、忖度、忖度。ただし赤穂浪士は、筋はみんな知っているからいい加減でもよいが、こういういかにもありがちな筋を雑然と連ねたんでは何も印象に残らない。

小松菜奈のイメージを大事にしまっておきたい人なら、見ないほうがいいのではないでしょうか。男役の俳優が好きな人なら、ぜひ見たら良いでしょう。榮倉さんファンならなおさらです。いま目をつぶったら榮倉さんの顔しか出てきません。

なお、斎藤工がなかなかかっこよかったことも付け加えておきます。死んだカミさんのお気に入りでした。こちらの話をもっと膨らませてもらったほうが、よほどリアリティのある脚本になったのではないでしょうか。


「革命の上海で…ある日本人中国共産党員の記録」という本を読んだ。
著者は西里竜夫。戦後、長く日本共産党熊本県委員長を務めたらしい。
1977年 日中出版からの発行となっている。
西里

多分、西里さんも中西功さん同様に、戦後は微妙なコースを歩んだのではないか。

38歳で終戦を迎え、釈放された。まもなく日本共産党に入り、40歳で熊本に戻る。同時に熊本県委員長となるが、3年後に委員長を降りている。同じ1950年、中西功(当時共産党選出国会議員)は党中央と対立し除名されている。いわゆる50年問題である。西里も関連していた可能性がある。

50歳で熊本安保共闘の副議長に就任しているが、党における肩書きは不詳である。
以後20年間の経歴は空白となっている。しかし衆議院選挙には毎回出馬、毎回落選を続けているので、日和っている様子はない。そしてこの本を執筆した70歳の時点で、県委員会副委員長となってる。

なおこの本を発表した1977年といえば「文化革命」真っ盛りの頃だ。しかしその話はまったく触れられていない。異様といえば異様だ。

彼はその後さらに10年を生き、80歳で息を引き取っている。

ストーリーはすべて一人称で書かれ、ディテールは異様に詳細だ。日記をつけることなど許されるわけはないので、ややいぶかしさを覚える。

ただ研ぎ澄まされた神経の中で生きた十数年であるので、私ども「ぼーっと生きている」人間には想像もつかないような記憶力が働いているのかも知れない。

豊富な史実が散りばめられているが、もはや私にいちいち拾い上げるほどの根性はない。



日経新聞に恐ろしい記事が載った。秋田博之という記者の署名記事で、土曜版一面のトップである。

見出しを並べると
きょう終戦75年
世界迫りくる無秩序の影
戦後民主主義の岐路に
というもので、民主主義の終末に対して警鐘を鳴らすものだ。
日経も変わったものだ、ふむふむと読みだすと、相当ディテールが異なってくる。
「あれあれ、なんかへんだぞ」と考え出す。
そういう意味では色々と考えさせてくれる記事ではある。

* 記事のレトリカルな特徴

「無秩序」の論拠として記事が強調するのは、国連の弱体化とIMF・世銀体制だ。

この2つは並列ではない。政治的上部構造と経済的土台だ。マルクス主義者でなくてもこれはABCだ。

筆者はこれをあえて並列化して、牛若丸のごとく、ここと思えばまたあちら。さまざまな事象を都合よくつまみ食いする。したがって内容は雑然とし、論旨は錯綜する。

経済の話と政治の話を分けた上で、論理を構築してもらわないと、賛成も反対もし兼ねる。

きつい言葉で言えば、これは酒飲み談義で、天下の日経新聞のトップ記事になるようなレベルではない。

1.国連の弱体化

記事が「無秩序」の象徴としてあげているのは、国連、とりわけ安保理の無力化だ。

その根拠は、シリア内戦。国連は何も出来ないというものだ。リットン調査団扱いだが、まぁなにも出来ていないのはそのとおりだ。

それは認める。

それがなぜなのかということになると、俄然話は変わる。「中国とロシアが拒否権を使いまくっているからだ」というのだが、そもそもシリアは喩え話に過ぎない。

問題は国連弱体化の理由が「中国とロシアが拒否権を使いまくっているから」なのかだが、ことはそれほど単純ではない。

戦後国連が発足して以来、ソ連は拒否権を発動し続けてきた。しかし国連はそれでも存在し続け、少しづつその力を蓄えてきた。

今日国際法体系が強固に築き上げられてきたのは、戦後の国際連合の業績である。それは連続拒否権攻撃を乗り越えて形成されてきた。


2.中国のIMF体制への攻撃

ここで秋田記者は突如として国連の話を止めてしまう。仕方がないので、私も従う。
とりわけ気がかりなのは、強大な経済力を使いもう一つの国際システムであるIMF・世銀体制まで切り崩しにかかっている中国の行動だ。
というのが、記者のもう一つの危機感だ。

こちらもかなりおかしい。

まず第一に、「IMF・世銀体制」に国連並みのプレステージがあるかどうかということだ。
IMF・世銀というが、ブレトンウッズはGATTもふくんでのシステムである(本来はILOもふくまれるべきだと思うが)

「IMF・世銀体制」は中国を排除してきたから、これを戦後経済システムといわれても、中国は素直に納得はできない。

当時の事情によるとはいえ、ドルという一国の通貨を国際決済通貨とするフィクションはいずれは解決すべきものである。

ということが、難癖。

第二には、中国がIMF・世銀体制を「切り崩しにかかっている」という事実認識だ。

2011年10月17日の記事で、「SDR基軸通貨構想について」というのを書いた。

デジタル人民元といい、中国はたしかにドル支配体制に風穴を開けることを願っている。それは通貨システムを壊すことではなく、すべての人に開かれたシステムに作り直し、さらに発展させることである。

それは米国以外のすべての国が願っていることであり、国際金融ゲームの一握りの勝者以外のすべての人にとって好ましいことなのだ。

もちろんそれは長期目標ではあるが。

問題は中国が現在のドル支配体制の代わりに、元による支配体制を目指すことで、それには秋田記者とともに反対したいと思う。

3.私から言いたいこと

このあとの文章も個別には触れたいところがあるが、千鳥足に付き合っていたのでは消耗だ。国連についてだけ述べておく。

国連の人権規約は、人権宣言の後15年もかけてコツコツと議論を積み上げたものだ。しかもその間冷戦はつづき、核の危機も続いた。拒否権発動も続いた。

そんな中で、世界の人々の願いに突き動かされて、国際人権規約が成立に至った。そしてさらに15年の後、日本もこの人権規約を批准した。

もっとあげておこう。植民地がなくなった、人種差別がなくなった、男女差別がなくなった、先住民への差別がなくなった…

これらがすべて戦後わずか100年足らずの間に実現したことである。

私たちには危機感もあるが夢もある。たとえばケインズの提案した世界基軸通貨「バンコール」である。

ドルにしがみつく時代はそろそろ終わるべきだ。

世界の経済と金融が、米国のしがらみから自由になったとき、真のグローバリゼーションが始まるのではないか。

義和団事件の真相

事件の経過を知ろうと思いネットを探したが、さっぱり分からない。

私の予備知識としては、むかし映画で見た「北京の55日」くらいだから、そもそもなんの事件か分からない。太平天国の北京版くらいに思っていたが、ある一つの記事にあたってかなり「目からウロコ」の思いである。

その記事が、コトバンクに掲載された「日本大百科全書」(ニッポニカ)の解説


これにネットから拾ったいくつかの周辺的事実を加え、物語的に仕立ててみた。

1.「義和拳」とはなにか

山東省内に1898年に「義和拳」という秘密結社が結成された。

義和拳そのものは清朝の中期から存在する武術で、武器を持たない民衆の自衛手段として生き延びてきた。

義和拳の売りは、これが白蓮教という信仰と結びついていたことである。

2.白蓮教とはなにか

白蓮教は紀元1100年ころ、南宋に始まった仏教の一派。浄土教系の信仰で半僧半俗で妻帯の教団幹部が男女を分けない集会を催した。

一種の終末思想を持ち、国家や既成教団からも異端視されていた。「最後の審判」では、覚醒した信者だけが救済者の手で救われる。

元末には「紅巾の乱」により元を滅亡させ、明朝を成立させたが、明朝により弾圧された。

その後、白蓮教は秘密結社として生き残り、しばしば反乱を起こしたが、叛徒が白蓮教のレッテルを貼られることもあったようだ。

1796年には清朝の圧政に抗議し、全国で白蓮教徒が「弥勒下生」を唱え反乱。戦いは6年に及び、清朝衰退の原因となる。

その後も、白蓮教はさまざまな分派が秘密結社として活動を続けた。中国における秘密結社の大半は白蓮教に関係している。


3.なぜ義和拳が人気を博したか

白蓮教の流れをくむ義和拳の教えは、「呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかない」という怪しげなものだった。

こういう教えは、不安な世の中に流布する。

朝鮮の支配権をめぐる日清間の戦争(1894~95)は日本の勝利に終わった。

これを見た列強は侵略の牙をむき出して、一斉に襲いかかった。それは中国を分割の危機にさらした。

それは都市部ばかりではなかった。安い商品の流入などで、農村の経済と農民の生活は破壊されていった。

この状況を敏感に感じ取った義和拳の青年達は、キリスト教の布教活動にターゲットを定めて排外主義キャンペーンを広めた。

彼らは教会を焼き、教徒を暗殺した。

それは特権的な立場から固有の文化や信仰を否定し、西洋文明を押し付けるヨーロッパ人への反感を助長し、とりわけ没落農民の人気を獲得した。


4.清朝政府の態度

このような暴力的で非合理的なキャンペーンが何故広がったか、それは清朝政府の態度にも問題があったからだ。

日清戦争の敗北を機に清朝内部での守旧派と洋務派という対立が顕になった。洋務派は95年の日清のあと一時弱体化した。

これに代わり、清朝正統派の勢力が再び力を盛り返した。そのトップに立ったのが西太后である。

彼らは義和拳を弾圧するのが困難とさとり、逆に利用して列強に対抗しようと試みた。

1899年、義和拳は農村の自衛警察である「団練」に組み込まれ、半ば合法化された。

義和拳は義和団と改称し、「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)という時代錯誤のスローガンを掲げ、排外主義を押し出すようになった。ヤクザが合法右翼に成り上がったようなものだ。

これが河北一帯に義和団をのさばらせることになった最大の理由である。


5.義和団、北京へ、そして全国へ

しかしこのような隠蔽工作が長続きするわけはない。義和団はますます跳ね上がりキリスト教会への暴行は目に余るものになる。

各国外交関係者、とくにドイツ外交団は清国政府に強硬にねじ込んでくる。

このような中で、清朝政府は取締りを約さざるを得なくなった。山東省の巡撫が泳がせ政策の責任を取らされる形で更迭され、代わりに李鴻章の子分で洋務派の袁世凱が任命された。

1899年の末に現地入りした袁世凱は大規模な取締りを開始した。そのおかげで山東省の義和団は沈静化したが、彼らは農村に戻ったわけではない。「団練」の職を失った今、故郷に戻っても働き口はないのだ。

失業した青年はまず河北省に流入した。やがて大運河、京漢鉄道沿いに蔓延するようになった。さらに華北全域、満州、蒙古にもあっというまに拡大した。

こんなに山東省の若者がいるわけはないので、全国の失業青年が一斉に市街部に繰り出してきたのだろう。

義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け隊伍(たいご)を分けた。

全体的な指導部はなく、町ごとに「壇」という隊を分け、義和団の単位とした。宗教的指導者が壇の責任者をつとめた。少女たちも「紅灯照」という組織をつくり、戦いに参加した。


6.清政府の宣戦布告

とにかくこうやって広がった打壊しの波は、最後に北京の街にまで侵入してきた。

暴徒は外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。

これに対し列強は、在留民の生命と資産を保護するため、天津に上陸し北京の軍事制圧を目指した。

義和団の暴走を止めることが出来ず、列強の抗議にも回答できなかった清国政府だが、列強の首都侵攻に我慢することは出来なかった。

そして6月17日、ついに宣戦を布告した。

私は政府の宣戦布告というから、てっきり義和団への宣戦布告だと思った。しかしそうではなくて列強への宣戦布告だった。

理非は別として、彼我の力関係を無視したあまりにも無謀な戦争であり、無知な宮廷内官僚による自殺行為である。


7.「北京の55日」

清政府が宣戦布告すると同時に、列強の代表は各々の公館の中に閉じ込められることとなった。いわゆる「北京の55日」の始まりである。

英、米、独、仏、露、伊、墺、日の8か国は、1万4千名よりなる連合軍を編成。北京の開城に向けて行動を開始した。対決の相手は義和団ではなく清国政府の正規軍であった。

7月、双方の主力が天津で対決するが、清国軍の抵抗は脆弱であった。連合部隊はそのまま北京市内になだれ込み、公使館区域の救出に成功した。西太后と光緒帝は北京を脱出して西安に逃れた。

義和団の若者の多くは残虐にも斬首された。

この事件の後、中国は膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになり、植民地化は一層進行した。


8.性格としては「北清事変」というべきだが

事実関係としては、

①清が列強を相手に仕掛けた戦争であり、
②戦争というにはあまりにも短く、
③清国南部はこの戦闘に参加していない

ことから「北清事変」というべきであろう。

「義和団の乱」は北清事変の序章というべきものであるが、義和団「事件」と言うにはかなりの時間経過があり、いくつかの場面の複合でもあるため、「乱」のほうが良いと思う。

また、社会的重要性に焦点を合わせれば、「義和団の乱」として記憶すべきところもあり、入試問題としての憶えやすさも念頭に置けば、「義和団の乱」のままで置くのがベストかと思う。

やはり、この「乱」の主要な側面は、農村の無産青年の思想性と規律性を内包した集団的蜂起だ。



19世紀の末、故郷山東省はドイツの植民地となってしまいました。
キリスト教会が強引な布教活動を行い、
皆、見て見ぬ振りをしていました。
そんなとき、拳法を修行する集団「義和拳」の若者たちが立ち上がったのです。
その中心にいたのが朱紅燈でした。
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朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。

貧しい家庭に生まれ、長じては「遊民」のような生活を送っていたようです。青年時代には白蓮教の影響を受け布教活動にも参加していました。

故郷が洪水に巻き込まれ、長清県へと移りました。

光緒24年(1898)から医業を始め、併せて拳法の道場も開きました。その拳法は「神拳」、会の名を
「大刀会」と名乗りました。

大刀会の会員は急速に拡大し、会は「山東義和会」を名乗るようになりました。そして朱紅燈は著明な指導者と目されるようになっていきました。

当時、山東省を流れる黄河はしばしば氾濫し、至るところで土砂が畑を覆いました。洪水後は干ばつが襲い、人々は食べて行けず、生活はまことに厳しいものでした。

キリスト教の白人宣教師は、西洋列強の力をカサに来て人々を抑圧しました。こうして民衆とキリスト教会の矛盾はますます激化していきます。

同じ1898年9月、朱紅燈は山東省平原縣に「興清滅洋」(西洋を滅ぼし清を再興しよう!)の大旗を打ち立てます、そして会の名称を「義和拳団」と改称します。

1899年春,朱紅燈は茌平に入り、彼の技を各所で繰り広げ、そこの反キリスト教会運動の指導者となりました。
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彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。

十月,朱紅燈は隊伍を率いて李莊、起義に入りました。県知事蔣楷の治安部隊を打ち負かし、清国軍に強力なダメージを与えます。

李莊では、人々をせん動し教会を焼き討ちしました。

その後、朱紅燈の率いる義和拳の一行は、長清、禹城、茌平へと転戦しました。そしてこれまで民衆を弾圧してきた教会指導者に懲罰を加えました。

外国の手先となっていた暴力団にも懲罰を加えました。清軍の包囲を破り弾圧をはねのけました。このことが朱紅燈の名をますます高めました。

しかし朱紅燈の進軍は長くは続きませんでした。12月、彼は内紛によって傷を負いました。

彼は山東巡撫により捕らえられ、済南で公開処刑されました。


現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。

彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。

朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。

実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。

いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。

義和団事件の真相
も参照してください。




「経済制裁」の歴史 年表
杉田弘毅 「アメリカの経済制裁」(岩波新書)より作成

経済制裁: 外交・安全保障上の目的を実現するために他国に課す経済的な強制手段。軍事力を使わない戦争。(杉田氏による定義)

年表と言っても全部を記入するのは、多すぎて不可能。

49 対共産圏輸出統制委員会(ココム)による東側への軍事戦略物資の禁輸措置が発効。

50 米国、朝鮮戦争の敵国となった中国に敵国通商法(TWEA)を適用。通称の禁止を命ずる。違反すれば資産凍結、国内での活動禁止、


79 ソ連のアフガン侵攻。米国など有志連合による制裁。

79 テヘランの米大使館占拠事件。米国は単独制裁で兵器輸出の禁止、金融サービスの停止、在米資産の凍結に踏み切る。

84 ヒズボラがレバノンの海兵隊兵舎に特攻攻撃。米国はイラン制裁を復活。

85 アパルトヘイトを続ける南ア政府に対し、国連安保理による制裁。


89 天安門事件。G7が対中制裁で合意。経済的には武器の禁輸、世銀融資の停止を課す。

90 イラクがクエートを占拠。米国は有志連合を組織しイラクを排除。

92 キューバ民主主義法が成立。米企業だけでなく外国の子会社も貿易を禁止。

96 イラン・リビア制裁法。国外企業もふくめ油田開発を禁止。後にリビアの制裁は解除される。

01 アルカイダによる世界貿易センター爆破。このあと、愛国者法が成立。資産凍結、外為取引の禁止、送金業務の禁止を柱とする。財務省の金融制裁が主流となる。

02 国際銀行間通信協会(SWIFT)が、アルカイダのテロを受け、関連する通信情報の提供に踏み切る。

05 マカオのデルタ・アジア銀行(BDA)、北朝鮮の資金保管先だとして米財務省が「主要懸念先」に指定。BDAは直ちにすべての北朝鮮関連講座を停止。

10 包括的イラン制裁法。これまでの制裁法に金融制裁が追加される。

14 ウクライナ自由支援法。ロシアのエネルギー、国防部門に制裁。

16 IS、国際金融協調により石油売却益の現金化が困難となり、急速に衰退。

16 北朝鮮制裁強化法。金融制裁で第三国をふくめて制裁強化。

18 19年度国防権限法。中国の先端5社の政府調達禁止。

ベトナムの外交政策

 By Shindo

  1. はじめに

723日、ポンペオが猛烈な反中国と反共産主義の演説をした。注目を引いたのは、ベトナムが、台湾、日本と同列に親米国として扱われていることだ。

 

  1. 米越関係はどう変わってきているのか

「抗米救国の戦い」を20年にわたり戦ったベトナムが、今や、米国と密接な関係に入っている。

以下の年表を作ってみた。


1995年、ベトナム、アメリカとの国交を正常化

2009年以降、南シナ海を航行する米空母が、ベトナム軍・政府関係者と提起交流を開始。

20108月、次官級の米越国防政策対話の初会合。これに合わせ空母「ジョージ・ワシントン」が共同演習に参加。

20119月、「防衛協力の推進に関する覚書」が締結される

20137月、オバマ大統領、米越包括的パートナーシップを提唱

20157月、ベトナム共産党書記長が訪米。米越共同声明発表

20165月、対越武器禁輸措置が完全撤廃される。

201610月、米艦2隻がカムラン湾に入る。

20178月、リック国防相が訪米し、マティス国防長官と会談。米空母のベトナム寄港で合意

201711月 トランプ大統領がハノイを訪問し、チョン共産党書記長と会談

20183月 空母「カール・ビンソン」がダナンに寄港。

このように米越関係は驚くほど親密である。


  1. 日越関係はどう進んでいるのか

日本との関係も進展している。内容省略。


  1. 東アジアの持続的平和共同体をめざして

新藤さんはベトナムの外交政策を評価したうえで、下記のごとく総括している。

ベトナムは社会主義の道を歩んでいると言い切れるでしょうか。

ベトナムの外交政策には、中国包囲策としてのパートナーシップが見え隠れしています。

最後に新藤さんは、諸外国との原則的関係として以下の点を強調している。

① 実情をリアルに見たうえで、友好と連帯を進める。

② 非同盟運動の原則(平和5原則+バンドン十原則)

③ 貧困・格差の解消、地球環境の保全



この記事は新藤さんの書いた「ベトナムの対米、対日外交政策」を読んだ私の感想文である。

私が思うに、非同盟諸国との付き合いにはいろいろ事情があるということだろう。
その辺も察した上でたがいに礼儀を尽くし、友好を深めるというのが新藤さんの主張だと思うので、私もまったく賛成である。

「小異を残して大同につく」の視点から、コントロヴァーシャルな話題はできれば避けたいし、手のひら返し的な評価や、ジャーナリスト的なほじくり返しもやりたくない。

しかし人権絡みの議論が出る際は、国際的な評価が迫られる場合も出てくる。その際は、とくに人権そのものよりも、人権の基礎となる社会権・生存権の状況を判断することが重要だろうと思う。そうすれば、乏しい情報を元にいたずらに打撃的な評価をする愚は避けられるだろうと思う。

これを新藤さんの3つのポイントに加え、第4のポイントとして提案しておきたい。



「終戦」というのは正しい

1.8月15日の意味

学生時代、「終戦」というのは間違いで、大日本帝国の「敗戦」の日だと教わってきた。

たしかにそれはそのとおりだが、日本だけでなく世界のファシズム体制が最終的に終わりを告げた日という意味では、「終戦」というほうが感じが出るかも知れない。

ついにふたつの大戦まで至ってしまった、大量殺戮と「総力戦」の政治、そういう時代が終わりを告げた記念日、それが8月15日ではないだろうか。

3.時代を画す三つのエピグラフ

過ぐる時代をどう評価するか、来たるべき時代をどう作るか、それをどう次世代に引き継ぐか、それを確認していく作業が8月15日という日なのだろう。

その作業のための三つの礎がある。そこには繰り返し復唱すべきエピグラフがある。

それは第一に国連憲章、第二に世界人権宣言、第三に日本国憲法である。

A. 国連憲章(1945.4)

前文: われら連合国の人民は、一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から、将来の世代を救うことを決意した。

第1条: すべての人権と自由を尊重し、人種、性、言語または宗教による差別をなくす。


B. 世界人権宣言(1948.12)

前文: 人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした。
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利である。これを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である

第一条: すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。

C: 日本国憲法

前文: われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。

われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

3.三つのエピグラフの意味

私なりの解釈だが、

第二次大戦は、人権を守る戦争だった。

ファシズムが究極の悪である理由は、人権の無視・蹂躙にある。同時にその究極の悪を暴力によって世界に押し付けようとしたことにある。

人権を守る戦いは大きな勝利を収めたが、戦いそのものは未完であって、その戦いを進めることが安定した平和ををもたらす。

人権を守る戦いは、つねに次世代のための戦いでもある。それは名誉ある戦いである。

世界は人権の実現に向けて究極的には前進しつつあることを確認しなければならない。

とりあえずネットで集められる限りで、アフリカにおける感染状況とその特徴を探ってみた。南アに関しては南ア政府の英語版サイトから拾っている。



アフリカ大陸のコロナ感染者数


アフリカの新型コロナ感染者は、まもなく100 万人に達する。

2月14日にアフリカ初の感染者がエジプトで確認された。その後、感染者数が10万人を超えるのに100日間、30万人を超えるのにそれから30日間、50万人を超えるのに16日間とすごい勢いで増加している。

まさに感染爆発ともいえる状況だ。

しかし実は、これらの数は当てにならない。アフリカ大陸は13億の人口を抱えるが、人口が約半分のラテンアメリカでは、感染者300万人、単純な感染者数で6倍、人口あたりの感染者数は12倍となる。

誰が見てもそんなはずはないので、アフリカ大陸では人口100万人当たり4200件の検査しか行われていない。同じ時期、アジアでは7650件、欧州では7万4255件のPCR検査が行われた。

つまりアフリカの患者数が少ないのは、感染が少ないのではなく検査が少ないからだ。それはアフリカの貧しさの象徴だ。


「タンザニアのレポート」

タンザニアのマグフリ大統領は、コロナから国が守られるよう、全国的に3日間の祈りを捧げることを呼びかけた。キューブリックの映画を見るようなシュールな世界である。大統領がこんなお手上げをしていてはいけない。

タンザニアは人口5500万人。東アフリカ地域でもっとも大きく、もっとも人口が多く、もっとも医療が遅れた国だ。WHOは、この国の流行状況についてほとんど情報がないと言っている。

お祈りから1カ月も経たないうちに、マグフリ大統領は新型コロナに対する勝利を宣言した。そして自国への観光を再開し外国人観光客の誘致を呼びかけた。多分コロナ感染者以外の観光客は行かないだろうが。

そして5月初めからは全国レベルの患者数・死亡者数を公表することをやめてしまった。


ただこれには同情すべき理由もある。海外から輸入された検査キットは欠陥品であり、ヤギから採取したサンプルでも陽性反応が出たという。

タンザニア以外ではもっと悪い


データの不足はアフリカ諸国の多くに共通する。公式数値だけ見るとアフリカの大半では新型コロナ禍を免れているようだが、もっと悪いのは確実だ。


政府が感染症の拡大を認めたがらない、あるいは崩壊した医療システムが検証にさらされるのを嫌がる場合もある。若年層が多いこともあり、死者は欧米諸国に比べて少ないが、日本の感染者数と同様であてにはならない。

一部の政府は、たとえ資金援助を受ける機会を逸することになろうとも、感染率に関する情報が表面化することを防ごうとしている。

ブルンジではWHO当局者が対コロナ措置の不十分性を指摘したところ、WHOの駐在員3人が説明なしに国外退去処分となった。その後、ンクルンジザ大統領が死亡、大統領夫人はケニヤに救急搬送された。現地では死因はコロナではないかと囁かれている。

赤道ギニアでは政府が、「WHOは感染者数を水増ししている」と非難し、駐在員の更迭をもとめ、感染データの提供を阻んでいる。

また、貧困と紛争によって疲弊し、調査を行う財力がない国もある。検査キットが致命的に不足し、大規模な検査、監視、接触追跡を実施するには、あまりにも医療システムが疲弊している。


アフリカ全土では人口千人あたり病床数が2ベッド未満しかない。住居内に手洗い場を持ち石鹸のある家庭は人口の約3割とされる。

それでもエイズに比べてましなのは、それが銃とレイプによる感染拡大ではないことだ。とはいえ、ブルキナファソ、ニジェール、マリなどではイスラム原理主義武装勢力や民族主義武装勢力が広範囲で活動しており、地方での調査は不可能となっている。


南アフリカの状況

南アフリカはアメリカ、ブラジル、ロシア、インドに続き、5番目に感染者の多い国となっている。アフリカの感染者100万人のうち50万人が南アフリカに集中している。

PCR検査が不十分にしか実施されておらず、感染者数は50万人よりはるかに多いと考えられている。6月初めの時点では、未処理の検体が6万3000件以上も積み残されていた。それでももちろんアフリカにおいては圧倒的な検査能力だ。

3月には世界的にもいち早く都市封鎖を実行したが、急速な経済悪化と失業者増加に耐えられず、6月には都市部の封鎖を緩和した。

その後7月に再び感染者が増え、ロックダウンを再開した。医療従事者は疲弊し、医療システムは崩壊寸前にある。

7月末、WHOで緊急事態対応を統括するマイケル・ライアンは、南アの現状は今後、アフリカ大陸全体に広がる事態の前兆だと語った。


南アを取り巻く南部13カ国が、極端な天気と新型コロナの影響で、危機に陥っている。約4500万人が飢餓の脅威に直面しており、このうち840万人の子どもが深刻な栄養不良にひんしている。

困ったことにアフリカ・飢餓と来てもまったく危機感が沸かなくなっている我々がいる。


経済マクロ

7月はじめ「アフリカ開発銀行」が2020年の経済見通しを発表した。

大陸全体の経済成長率はマイナス1.7%と予測された。

特に南ア(マイナス6.3%)、ナイジェリア(マイナス4.4%)など主要国の落ち込みが顕著である。

南アのドル建て信用スプレッド(5年物)はコロナ以前の2倍近い約3%に高止まりしている。

国民生活への打撃

新型コロナの影響で南アフリカの大部分の学校が休校となっており、約2000万人の子どもが給食を受けられずにいる。このため一部の子どもたちは、栄養を十分に摂取できないでいる。


都市部の低所得者の困難はより深刻だ。正規の仕事がないため屋台や日雇いなどの非正規雇用で生計を立てているが、政府の閉鎖措置のため、賃金を稼いで生活するのが難しくなっている。



ベネズエラ関連情報で、いつものごとく新藤さんによる提供。

赤旗のベネズエラ記事

8月6日、 しんぶん「赤旗」は、大要次の通り論評した。
グアイドーを支持する野党連合の 27 政党は12月予定の国会議員選挙に参加しないと発表した。
『不正選挙には参加しない』との態度を表明した。
さらに『ベネズエラは人道危機にあり、犯罪的、抑圧的な独裁が支配している。自由で透明な国際的な監視団による選挙が必要だ』と強調した。
選挙管理委員会を任命するのは、国会の役割だが、政府の意を受けた最高裁が勝手に任命した。このように最高裁を野党封じ込めに使うのは政府の常套手段だ。
「赤旗」は野党27 党の一方的な声明を詳細に引用する一方、与党側の反論意見は無視している。そして最高裁についても事実上政府の言うままだと批判している。


ベネズエラの現実と真実

現在野党(右派)は、主要4 党と7つの小政党併せて11 党が、選挙反対野党になっている。

主要4党は、それぞれが選挙参加派と不参加に分かれている。6つの小政党は、選挙に参加し言論で闘う姿勢を示している。

これに対し与党(左派)は政権政党である社会主義統一塔を中心とする10の政党の連合であり、「拡大祖国戦線」(FAP)を名乗っている。そこにはベネズエラ共産党もふくまれている。

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           新藤さんの記事より転載

最近の世論調査では、27党合わせた野党の支持率は、与党連合の75%にしか達しない。

選挙ボイコット派は、このことをよく承知しており、敗北を隠すために選挙をボイコットするのである。

野党勢力減退の理由

与野党勢力比が日本での印象とかけ離れているのは、この数年間の騒ぎが決して国民の支持の下にあったのではないことを示している。

これは過去の与野党得票比を見れば分かる。

過去において両者が拮抗した場面はいくつかあった。しかし現在の力関係はチャベス最盛期のそれに近い。


“難民”は、実はコロンビアからの出稼ぎ者

此処から先は鈴木の個人的な考えである。

“難民” は、この間に経済危機で生活の糧を失い、故郷コロンビアに戻った“ベネズエラ人”の数を反映している。

各種統計で数百万と言われる“難民”には、実は帰るところがあった。だから数百万を受け入れる難民キャンプはついに形成されなかったのである。

難民がどこにどうやって流れたのかについての統計はない。コロンビア政府が発表していないからだ。国連人権事務所や人権NGOも、これについて口をつぐんでいる。

難民はベネズエラに来たコロンビア人である。その多くは都市での不安定職業に従事し、上流階級のためのハウスキーピングを生業としてた。

彼らがもっとも強固な野党支持者であったことは納得しうるし、不況下にあってまっさきに職を失い、国を去ったことも容易に想像しうる。

つまりは上流階級による“資本家ゼネスト”のとばっちりをモロに被ったことになる。もちろん彼らを供し続けることができなくなった上流階級の弱体化も反映しているのだろう。

これが与野党支持率のドラスティックな変化を説明する理由である。

ただし、今の所、それ以上の根拠は持ち合わせていない。


選挙ボイコットは米国の指示か?

新藤さんが指摘し、かつ赤旗の記事が触れていない重要な情報がある。

7 月28 日に米国務省のエイブラムス・ベネズエラ問題特別担当特使の意見表明である。

新藤さんによれば内容は以下の通り
2019 年の国会議員選挙は、自由で正当ではなかった。それは2018 年の大統
領選挙より、一層悪いもので操作されていた。
そして今回選挙が行われれば、それが一層不当なものになると示唆し、選挙に反対する意志を示した。

これを受けて主要4政党は、選挙ボイコットを発表したのである。

これがベネズエラ議会選挙をめぐる騒動のてん末である。

“人権は「普遍」なのか” 

人権概念の発展をあとづけた本を読みたくなり、図書館に行った。意外にも、率直に言って期待に答えるような本はあまりなかった。

とくに1948年の世界人権宣言の後の人権概念の発展過程を、「自由と平等」のもとに整理していくような論考は見当たらない。

なかで題名が刺激的なのと、薄くて2,3時間で読めそうなので、下記の本を借りだした。

岩波ブックレットNo.480 
人権は「普遍」なのか
ー世界人権宣言の50年とこれからー

という本で、人権宣言50周年の記念シンポの記録である。50周年というのは1998年のことだから、かなり古い本ではある。

私が人権宣言(+規約)以降の一大発展と考える「人間開発報告」(93年)と「持続可能な開発」(02年)はここには反映されていない。

1.
最初の講義が「人権の境界」(鵜飼哲)というので、死刑と戦争を題材に人権を語る。聞いただけでうんざりするような「倫理的」命題だ。

「近代ヨーロッパの崩壊とその先に立ち現れる全体主義」などという無内容を乗り越えて、現代人権理論は発展しているし、その一粒一粒としての人権も多彩化している。

それを認めない人との間の議論は不毛だ。

それにしても恐ろしく観念的な議論を繰り返している。

言語学をソシュール派が占拠したように、人権哲学のフィールドにはハンナ・アーレント派がはびこり、腐臭を放っている。

これが、1998年の日本における人権概念と人権思想だったのだということがあらためて想起される。

2.
次の講義が「プロセスとしての人権」(増田一夫)というもので、これぞまさしくアーレントの紹介に過ぎない。

結びの言葉だけ引用しておく。
これから(人権の普遍化に向けて)、私たちが発明していかなければならない政治とは、現在とは別様な世界のあり方、より良い共生のあり方を考える自由の技法としての政治なのです。
何たるレトリカルかつ無内容な、かつアーレント的な文章。2日はいた靴下の匂い!

3.
次の「アジアにおける人権」(坪井善明)はまともな講義。

「飢えというのは物理的な空腹ではなく、それをなんともできない無力感だ」というアジアの人々の声を引用している。

これは非常に大事な指摘だろうと思う。「飢えから逃れ、飢えを克服しようと希望する」ことが人権の核になるのだということを指摘している。

いわば「希望権」だ。それが生存権の根源だ。

坪井さんは“人権は「普遍」なのか” というゲームみたいな問いに、ふたつの補助線を用意している。

一つは歴史的に見ることであり、一つは階級的に見ることである。

フランス人権宣言は革命によって、革命勢力の合意として作られた。

その革命勢力の末裔がベトナムを植民地支配した。

そしてフランス人権宣言は、今度は民族解放勢力の旗印となった。

こうして人権は「普遍化」されたのではないか。

植民地が開放された後も、先進国との間には大きな社会的ギャップが残り、拡大している。

世界はそのような不公平を拒否し、苦闘してきた。そうして人権はさらに多様化し。ブラッシュアップされている。

一方で、欧米諸国の中には過去の植民地支配への反省が見られない人がいる。

彼らは、古いままの人権概念を振りかざして、自分たちの考えの普遍性を僭称しているが、その人権概念が自分たちだけにしか通用しなかった事を忘れている。

このように個別的には、非常に正しい、示唆的な意見をたくさん提起してる。

しかし残念ながら、これを人権枠組みの中に整序するところまではいっていない。

他のシンポジストの意見から見れば、これが時代の制約であった可能性は否めない。

他途中の演題は個別課題の人権なので跳ばす。

4.

最後の演題が「人権の普遍性と文化の多元性」という、なにか語呂合わせのような演題。

主催者の樋口陽一さんのまとめ的発言となる。

冷戦時代、人権というのは資本主義側の専売特許みたいなところがあって、社会主義国では使わなかった。

ベルリンの壁崩壊の後、「人権」は世界の共通語となったが、そこには人権宣言の中核概念たる人権と、かつて社会主義国からブルジョア的自由だと批判されていたような自由がゴチャ混ぜになっている。

白人有産階級だけがおう歌する自由は、大多数の人にとっては自由の剥奪であり人権侵害である。

現代ではこう言える。自由権のみを以て人権を論じる人がいれば、その意見は無視すべきである。なぜなら、大多数の人々にとって自由権は社会権の上に成り立つものだからである。

このあと樋口さんは人権をめぐるいくつかの誤解に答えている。
人権は西洋人が考え出した贅沢品ではないか?
人権の強調は西洋による文化帝国主義ではないか?
などは間違いだ。
それは支配者の言い種だ。
人民大衆は、人権をまさにもとめている。

南アフリカの苦しみに、心添わせよう

本日の新聞で南アに関する記事が、写真入りで大きく取り上げられている。

どんな内容なのかは、見出しだけ列挙すれば大方見当がつくだろう。

“残忍取締り” ネットに記録
都市封鎖下 南ア警察・軍に批判
人権団体がサイト設立
殴打されて死亡

これについては何も言うまい。ただ出所が例によってロイターであることだけ付け加えておく。

私はこの場に南ア大統領のメッセージ(要約)を掲載して対抗したい。


  Cyril Ramaphosa 大統領

最初のメッセージは3月18日に全国に向け発信されたものである。

親愛なる友人の皆さん

世界は、未曾有の規模の緊急事態に直面しています。コロナウイルスの蔓延は驚くほど迅速かつ広範囲です。

それは境界を知らず、老若男女を問わず、先進国と発展途上国を問わず蔓延しています。 

私は昨日、国民非常事態を宣言しました。これにより緊急時の迅速で効果的な対応システムを構築しようとしています。

避けられない経済的影響が出るでしょう。輸出入の減少、観光客の減少、失業の増大などです。


1.緊急対策

多くの緊急対策が実施されます。

危険度の高い国からの入国禁止、多人数の集まりは禁止、学校の休校、港の全面閉鎖など

社会的距離の確保、頻繁に手洗い、咳やくしゃみじのエチケットをれいこうします。

これらの措置は懲罰的ではなく、公共の安全を徹底する課題です。

2.私たちの心構え

幸運は努力と準備を好むと言ったのはルイ・パスツールでした。南アフリカは準備されています。私たちの科学者と疫学者は世界クラスです。

現時点で最大の危険の1つは、無知と誤った情報です。

ソーシャルメディアでは、偽の未確認のニュースの拡散をやめるべきです。これはすでに緊張した国民の気分を悪化させるでしょう。

他の国々で見られた偏見の表現に屈服してはなりません。偏見はすべての人々に影響を与えるウイルスです。 

感染者や、帰国者への思いやりの翼を広げましょう。困っている人やもっとも貧しい人たちを助けましょう。

「寛容と敬意」は、私たちを人として定義している徳です。私たちは、その価値に忠実であり続けます。 

私たちは決意と目的を持って、断固として行動します。我々は克服しなければならない。なぜなら私たちは南アフリカ人だからです。


次のメッセージは8月1日、「コロナウイルスの国内対応について」と題した大統領のメッセージである。

1.感染の現状について

今日の時点で、南アフリカはコロナウイルスの50万人以上の確認例を記録しました。342,461人が既に回復しており、現在152,676件が今も治療中です。

過去2か月間で感染が急速に増加しました。その後、東西ケープ州、ハウテン州で安定して来ているようです。

残念ながら症例数は世界で5番目となっています。一方死亡数は8,153人、致死率は1.6%に留まり、世界平均よりも大幅に低くなっています。
(ただし実際の死者数はこの数値を超えていると思われる)


2.我々の払ってきた努力

過去数か月にわたって、私たちは前例のないリソースの動員を行ってきました。

すべての州で病院が再編成され、監視システムが整えられました。医療従事者がトレーニングされ、大量の保護具が用意されました。

しかし感染の広がりはそれをはるかに越えていきました。


3.南アのもつ対応力の効果的再配分

これから1ヶ月の間に、国内で生産された2万台の非侵襲的人工呼吸器を配置します。

スタッフのための感染防御具の不足と物流の不具合を解決します。

もっとも緊急の課題として、労働者の懸念と不満に真剣に対応します。

また法執行機関に、物資の調達における汚職および不正行為に関する調査を優先するよう動きます。


4.個人および集団の不法な行動の予防

目の前の医療システムを維持するために、いくつかの措置が取られなければなりません。私たちは、質の高いケアをおこなう多くの病院を誇りに思うべきです。

気持ちが荒んでいるために、酒を飲んで略奪したり医療施設などを襲撃するケースが頻発しました。

アルコールの販売を停止したことで、これらのケースは大幅に減少しました。これからも破壊行動が起こる可能性はあります。警戒を続けなければなりません。

マスクを正しく着用し、他の人から2メートルの距離を保ち、定期的に手を洗うことを守ってください。

私はすべての南アフリカ人に、これらの最も困難な時代に強くて堅実であり続けることを求めます。


どちらも南アの現実の一面を切り取っているのかも知れないが、現地を経験した人の視点はどうなのか、伺いたいところである。ひょっとしてベネズエラのように、どちらから見るかでまるっきり景色が違うのかも知れない。


コロナ禍の中で、人権の著しい不平等と、場合によっては人権侵害が問題になっている。ただ私の気になるのはいわゆる自由権的人権ではなく、社会権・生存権の方である。

私がこの間、口を酸っぱくして言ってきたのは、世界の人権に対する考えは変わってきているということだ。

グローバル化と人権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

ところが20世紀末から急速に国家間の垣根が取り払われ、ヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化してきた。世界は単一化しグローバル経済のもとに置かれることになった。

グローバリゼーションは世界の人民が等しくチャンスを与えれるべきものとして構想されたはずだ。

しかし貧富の差はますます拡大し、途上国に貧困と戦争が蓄積しつつある。ひとりひとりの人間の法と人道のもとでの平等は、実現されたとも前進したとも思えない。

このような状況だからこそ、自由と平等をグローバルに構想することが必要だ。グローバルな世界のもとで、不自由で不平等な、絶望的な状態のもとに置かれているのは不条理である。それは人権の名のもとに救済されなければならないと思う。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。



「人権」論の発展の歴史

これまで人権の主要な内容として自由権が語られてきた。しかし現在は、自由権と生存権とが一体のものとして語られなければならなくなっている。

人権が人間の自由に関する権利だということについては、英国の名誉革命、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言以来変わりはない。

しかし、1948年に国連が世界人権宣言を発し、それ以来国際的な議論を交わす中で、以下のことが明らかになり、世界的な合意となった。

すなわち

自由権の実現を目指す社会的土台、すなわち社会権が、今日の世界における人権の主要な内容だということ。

社会権は、世界のすべての人の法的平等という考えに根ざすこと。

そして基本的生活権(健康で文化的な最低限度の生活)を前提条件とすること。

さらに、社会権が社会開発に伴なって拡大充実することが、真の自由権拡大につながっていくのだという、「発展的人権」の考えが今日の人権の中核をなす考えになっている。

そして今、我々はコロナの時代を迎えた。その結果、人権は生存権に集中して論じられるようになった。世界中のすべての人の人権はコロナの時代を生き抜く権利として提示されている。

それを示す基本文書が4月に発表されたグテーレス国連事務総長の声明である。


コロナと途上国ファースト

考えていただきたい

自由な社会には社会的平等が必要であり、そのためには基本的生活権の確保が必要なのだ。

米国という一つの国家内でも、平等と生存権の重要性は証明されている。「黒人の命も問題なのだ」というスローガンが、今の時点での人権問題の所在を明らかにしている。

新型コロナによる死者の23%は黒人。米国の人口に占める黒人の割合は13.4%なので随分高い。

黒人は低賃金のサービス業で働いているから休めない。集合住宅に住んでいて、公共交通機関で通勤するから、不特定多数の人と接する機会が増える。 

では黒人が病気になったらどうだろう。黒人は貧しいから保険に加入していない。そもそも黒人地域にはまともな病院がない。

このように差別の垣根は何重にも囲われている。黒人の死への道は掃き清められている。これを差し止めるには思い切った社会政策が必要なのだ。「黒人の命も問題なのだ」


国連の提起に真剣に耳を傾けてほしい

途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。多くの国では、そのための資源を十分に確保することができない。

公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒している。

ユニバーサルな生存権を重視するのは、それが今日における人権の主要な側面であるからだ。平等な権利は互助の精神と表裏一体のものだからだ。

4月、このような状況の中で、国連は事務総長報告「新型コロナと人権」を発表した。

少しその勘所を拾っておこう。
ウイルスは差別をしない。貧富を問わず一つの社会全部にとって脅威だ。

新型コロナは、その地域の根本的な差別をあぶり出す。弱者層は一方的に人命を失い、生計の道を絶たれている。

そこでは根の深い不平等があり、それがウイルスの広がりを助長し、さらに不平等を深めている。

それぞれの国でウイルスとたたかうとき、そこに差別があってはならない。いま最も危険に晒されている国々は、それらを排除せず、特別な対策を講じるべきだ。

もしその国がウイルスの拡散を抑えることに失敗すれば、すべての国が危険に晒されることになる。世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くない。このことを明記すべきだ

コロナ対策は基本的には隔離である。それだけに一層、排除と差別は拙劣なアプローチだ。インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのだ。
そして、「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。

国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。

自由権は絶対に必要

自由権は近代社会の中核だ。絶対に外すわけには行かない。

ただその前提が欠如した中では自由権は絵空事だ。途上国や新興国では往々にしてそうだ。ときによっては政治的宣伝手段ともなる。そのことを理解した上で、事実に即してことに当たるべきだ。

それが国連の人権枠組みに関するとらえ方の基本だ。

息子がアマゾンのビデオ・チャンネルを登録して行った。クレジット会社の通知を見たら毎月結構なカネが徴収されている。
しょうがないから見ることにした。
最初に見たのが「わたしを離さないで」という連続テレビドラマ。綾瀬はるかの主演だというので見はじめた。

* 恋愛ドラマというには結構きつい

4年くらい前のドラマだが、中身は恋愛ドラマというには結構きつい。よくこんな番組を民放で作ったものだ。
一種のSFで、iPSから作られた人間が生体移植用の材料として使われる、彼らには普通の人間と同じ人格が備わっているが、唯一自分の生死を自分で決められないという問題がある。というより、家畜と同じでいつ臓器を取られても良いし、その結果死ぬことは当然のこととされる。

つまり人格はあるが人権はないということになる

浮世離れした非常に危うい設定だから、話はどんどん観念的かつ悲観的になっていく。最後は、「これは俺たちのことではないだろうか」という気になってくる。そしてみな死んでしまうことになる(のだろう)…

ドラマでは綾瀬はるかの相手役の男優が非常にうまい。あまりうますぎて、時々「この人、気は確かなのだろうか」と思ってしまうくらいだ。眼に一種の狂気が宿る。
三浦一馬と言って、最近自殺してしまったらしい。

ただ陽光学院の先生方がまったく書き込まれていないので、背景がよくわからないまま筋が突っ走っていく、これだけ長丁場のドラマなら、もう少し脇の筋も描かれるとぐんと厚みが増してくるのだろうが、ただでさえ捻りまくった設定が、ますますねじれてわからなくなるかも知れない。 

* イシグロが書いたのだそうだ

うかつにも見逃したのだが、あとでネットで調べたらこのドラマの原作はイギリスの作家イシグロのものなのだそうだ。

イシグロは日系二世で、このドラマの前後にノーベル文学賞をとった。この作品はイギリスでベストセラーになったのだそうだ。

そう言われて、あらためて考え直すと、このドラマはロボット人間の葛藤劇というだけではなく、それを利用する側の人間もふくめた一種のディストピア社会なのだ。

その中で健気に生きる、一群のロボット人間たちによる、ひとつのビルドゥングスロマンなのだ。そう考えると、この設定は決して突拍子もないSFではない。

かつて戦前から戦中の若者は、天皇の名において社会から死を強要された。生まれた瞬間から死が運命づけられていた。その中で若者たちは喜び、悲しみ、成長していった。ある日突然召集令状が来るまでは。

ドラマとの違いは、その運命と、その死がもてはやされるかどうかの違いでしかない。ウソがてんこ盛りにされた社会からそれらを剥ぎ取れば、それはまさに無残な社会だ。

あるいはアフリカの途上国の人々だ。彼らの生や死は、常にスコップ一杯の生や死として扱われる。50万、百万の死をテレビで聞きながら、私たちはそれを露ほどにも受け止めず弁当をひろげ、お茶のペットボトルに口を当てる、

ただイシグロは、その冷厳な現実を突き出すだけでなく、その中にも生きている意味を掴み取ろうと必死にもがきつづける、人間の生の力強さをも描き出そうとする。そこに若者たちの共感を得ようと訴えている。

とにかく一度ご覧になるようおすすめする。アマゾンプレミアというところに申し込むと見ることができる。中身からすれば契約料は決して高くない。設定は面倒っぽいが、若い人ならやってくれるだろう。
相当ヒマな人でないと見れないだろうが…


人権 (とくに生存権)  備忘録

認識は現状から過去に「なぜ、なぜ?」と遡りつつ進むのだけど、認識した結果を自分なりにまとめて書こうとすると川上から書かないと納まりがつかない。

ただしそうやって書くと見栄えはいいが、認識の深まりとは逆方向なので、わかりにくくなる場合が多い。下手をすると読者は途中で挫折しかねない。そのへんは作者の腕の見せ所だ。

ということを前提にしながら、とりあえず川上からの流れ図を(論証抜きに)説明しておく。


1.人権論は米国流の社会契約論を源流とする

A. バージニア権利章典と独立宣言

B. 合衆国憲法(1787)と権利章典(修正第1条-第10条)

 
2.古い不平等と新しい不平等

A. フランス人権宣言

フランス革命のふたつの任務: フランス流社会契約論と「古い不平等」システムの打倒

米国には「古い不平等」(身分制)はなかった。したがって基本文書において平等に関する言及はない。個々人に備わる基本的人権の考えも見られない。

B. 新しい不平等の出現

米国は南北戦争を経験したが、「新しい不平等の出現は遅れた。

C. 憲法の修正条項としては

*修正第13条・奴隷制廃止(1865)
*修正第15条・黒人参政権(1870)
*修正第19条・女性参政権(1920)

にとどまる


3.立法による社会権の付与

A. 第一次大戦後の貧困救済の動きと社会権・生存権

ヨーロッパでは戦勝・戦敗のいかんを問わずインフレ・貧困などが蔓延した

これに対してふたつのアプローチが行われた。

一つは制定限度の生活を権利として認め、国家に義務を追わせるもの(ワイマール型)。
一つは国家の本来的機能・能動的責務として社会福祉を必須とするもの(英米型)である。この場合生存権の思想は無視したままでも話は進む。

B. ニューディーラーの福祉政策

このような自由権偏重の米国社会を打破したのが、ニューディール政策

とくに35年以降、社会保障制度、全国労働関係法が導入され、法体系として実質的に生存権の保障がなされていく。

後半期の政策はケインズ経済学ではなく、福祉経済学の流れを引き継ぐものとして位置づけられる。


C. 四つの自由

40年の年頭教書でルーズベルトが提示したもの。

人権を自由権と認めた上で、思想・信仰の自由に困窮からの自由、戦争からの自由を付け加えた

困窮からの自由は社会権・生存権、戦争からの自由は平和的生存権を指す。
ルーズベルトはこの4つの自由を「第二の権利章典」と呼んだ。これらの内容は日本国憲法の前文にも書き込まれている。(米国内で一般化しているかどうかは不明)

憲法に社会権・生存権を組み込むのは困難なための論理的曲芸である


4.世界人権宣言から国際人権規約へ

A. 世界人権宣言の重要性と限界

ルーズベルト未亡人で国連代表のエレノアがまとめ上げた。4つの自由を世界の宣言に高めた。

しかし、4つの自由の持つ弱点が持ち込まれた結果、社会権は前文等に「散りばめられている」が条文として定式化されていない。

B. 国際人権規約の成立

社会権・生存権をきちっと書き込むことは48年の宣言採択当時からのものであった。

早速この点について人権委員会での議論が始まったが、冷戦のさなかの議論であるため、多くの困難があった。

結局、18年後に国際人権規約が採択された。規約はA規約とB規約に分かれそれぞれ社会権規約、自由権規約と呼ばれた。

これにより社会権(経済的、社会的及び文化的権利)が国際法の最高位となる人権規約で認められ、かつ自由権と同等の重みを持つものとして位置づけられた。


5.社会権の内容が豊富化

人権規約の採択と並行して、個別課題での条約化が次々に成立した。(年表参照

A. 「人間の安全保障」

ここでは社会権・生存権に関連する2つの前進を挙げたい。一つは93年に国連開発計画 (UNDP) が「人間の安全保障」を提唱したことである。

これは国民の生存を国家安全保障の一環と位置づける考え方である。国民を平和のうちに生かし続けることが、国家防衛と並ぶ政府の基本義務だと規定され、国家の本来責務の一環としてビルトインされた。

これは福祉経済の発想に通じるものである。

B. 社会権擁護が社会開発と結び付けられた

もう一つは、国連サミットで「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択されたことである。

ここでは生存権そのものが発展する権利として位置づけられ、自由権の基礎をなすものとして位置づけられた。

アジェンダでは17項目の「持続可能な開発目標」が掲げられているが、これはそのまま社会権として位置づけられることも可能である。

ある国の人権状況を総合的に見る際、このような「人権マクロ」に基づいて評価することも必要だ。

C. 人権NGOの活動には注意が必要だ

このように国連レベルでは人権概念が大きく変わりつつある。

しかし多くの人権NGOは冷戦構造を引きずり、「自由権こそ人権の核心である」と主張し、自らのものさしに合わせ、「社会主義国や宗教国家など強権国家には、人権委員会の構成国である資格はない」と拒絶してきた。

自由権は今も究極の人権ではあるが、あまりイデオロギー的に扱ってはいけないと思う。もう少し「人権マクロ」を総合評価する中で人権状況を客観的に発展してくれるように望むものである。

国連と人権 年表

1941年8月 ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を発表。全ての人類の「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を保障と平和の確立」をうたう。(後の社会権と平和的生存権に該当)

1945年

4月 「国際機構に関する連合国会議」が開催される。50ヵ国の代表がサンフランシスコに結集。「平和を推進し、将来の戦争を防止するための国際機構」の結成で合意。「国連憲章」を採択する。

国連憲章前文: われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から、将来の世代を救うことを決意した。
…基本的人権、人間の尊厳と価値、男女・各国の同権を尊重する。
第1条: すべての人権と自由を尊重し、人種、性、言語または宗教による差別をなくす。

1946年 国連経済社会理事会が、憲章第68章にもとづき国連人権委員会を設置。委員長はアメリカの国連代表でもあったエレノア・ルーズベルト。スイスのジュネーヴに本拠を置く。国際連合の指示に基づき、人権規定の具体化作業に着手。毎年春1ヶ月程度の全体審議を行う。

1947年

5月3日、日本国憲法が施行される。個人の尊重(13条)、法の下の平等(14条)、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)など、「4つの自由」から取り入れられる

1948年 「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」が採択される。

1948年12月 人権委員会の提案した「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)を採択。ユニバーサルな基本的人権の原則を定めた。このあと、12月10日が人権デーとなる。


当初は単一の国際人権章典の作成を目指していたが、まずは国連総会で世界人権宣言を採択することとなる。「宣言」にとどまったため、法的拘束力はなかった。
「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした」とし、人権を守ることを平和を守る行動の核心に据える。
「宣言」は30の条文からなり、自由権、参政権及び社会権の三種に大別される。第一条。すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
エレノア・ルーズベルトはこの宣言を「全人類のための国際的なマグナ・カルタ」と呼んだ。

1949年 人権委員会は、世界人権宣言後、人権規約案の作成に入る。このとき、権利の内容は自由権及び参政権など市民権と政治的諸権利にとどまっていた。

1949年 「人身売買及び管理売春の禁止条約」が採択される。

1950年 第5回国連総会、人権委員会の報告を受け、「自由な人間」の実現のためには欠乏からの自由、つまり経済・社会・文化的諸権利の確保が必要だと判断。規約草案に社会権規定を含めることになる。

1951年 「難民条約」が採択される。

1951年 第6回国連総会、人権委員会での議論を受け、自由権に関する規約と生存権に関する規約とに分けて2つの国際人権規約を作成することを決定。

1952 年 「婦人参政権に関する条約」が採択される。

1953 年  「1926 年の奴隷条約の改正条約」が採択される。

1954年 人権委員会が起草作業を終了。国連総会(第3委員会)での逐条審議に移る。人権に自由権とならべ社会権をふくめた、規約はA、B、ふたつの構成部分に分けて成文化された。

1955年

4月 バンドン会議などを受けて、非同盟諸国が民族自決権を人権の柱の一つとするよう主張。

67年の国際人権規約の社会権規約と自由権規約の第1条には、「すべての人民は、自決の権利を有する」とし、民族自決の権利を重要な人権としている。
さらに社会権規約は途上国の国内事情などを考慮し、「締約国は規約上の権利の完全な実現を漸進的に達成するために行動をとることを義務づけられる」と規定される。

1959 年 「児童の権利に関する宣言」採択

1960年 国連総会、植民地独立付与宣言を採択。

1965年 国連総会、人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)を採択。

1966年 社会権と自由権を二本柱とする国際人権規約が採択される。

世界人権宣言を基礎として条約化された。人権にかかる諸条約の中で最も基本となるものである。
*社会権規約(A規約)は正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際条約」と呼ばれる。
*自由権規約(B規約)は「市民的・政治的権利に関する国際規約」と呼ばれる。

社会権規約は、すべての者の権利として、労働する権利(6条)、社会保障の権利(9条)、相当の生活水準の維持と飢餓から免れる権利(11条)、教育への権利(13条)などが規定されている。
とくに生存権保障(11条)は「人間の生存と尊厳にとって基本であり中核的権利である」として、差別の禁止(2条2項)とともに直接的義務であり、司法審査に服するとされている。

1973 年 「アパルトヘイト犯罪の禁止及び処罰に関する国際条約」が採択される。

1975 年 「障害者の権利に関する宣言」採択

1979年 国連総会で女性差別撤廃条約が採択される。

6月 日本国は、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)と、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)をともに批准。

国際人権規約の批准は、憲法第98条2項により国内法としての効力をもち、憲法に次ぐ法規範であり、国会制定法よりも優位となる。

1989 年 「児童に関する権利条約」(子どもの権利条約)が採択される。

1993年 ウィーンで世界人権会議、「普遍的・生来的な人権の保護と促進がすべての国家の普遍的義務であるとする「ウィーン宣言・行動計画」を採択。「世界で最も正統性の高い人権思想」といわれる。

1993年 国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)が設置される。人権委員会と連携しながら実務に当たる。

1993年 国連開発計画(UNDP)が「人間開発報告」を発表。「人間の安全保障」を提唱する。

2001年

8月 南アのダーバンで、「人種差別、外国人排斥及び関連不寛容に反対する世界会議」を開催。

植民地主義が人種差別や外国人排斥などの不寛容をもたらして来たとし、「寛容、多元主義および多様性の尊重が包摂的社会を生み出すことができる」と宣言する。

2002年 南アで持続可能開発サミットが開催され、開発と人権が関連付けられる。

2006年 障害者の権利条約が国連総会で採択される。

2006年 国連総会、人権委員会を廃止し、新たに直属の人権理事会を設立。

人権委員会は構造的な脆弱性のもとに、人権ロビーに掻き回されてきた。人権NGOの多くは冷戦構造を引きずり、自由権こそ人権の核心であると主張し、「社会主義国には人権委員会の構成国である資格はない」と批判してきた。

2007年 先住民の権利宣言、国際総会で採択。

2015年 国連サミット、世界人権宣言を基礎とした我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダを採択。17項目の「持続可能な開発目標」を設定する。

目標1:貧困をなくそう
目標2:飢餓をゼロに
目標3:すべての人に健康と福祉を
目標4:質の高い教育をみんなに
目標5:ジェンダー平等を実現しよう
目標6:安全な水とトイレを世界中に
目標7:エネルギーをみんなに そしてクリーンに
目標8:働きがいも 経済成長も
目標9:産業と技術革新の基盤をつくろう
ヒューライツ大阪のサイトより引用
目標10:人や国の不平等をなくそう
目標11:住み続けられるまちづくりを
目標12:つくる責任 つかう責任
目標13:気候変動に具体的な対策を
目標14:海の豊かさを守ろう
目標15:陸の豊かさも守ろう
目標16:平和と公正をすべての人に
目標17:パートナーシップで目標を達成しよう











人権は国連の活動すべての中心にあります。
今まさに、その人権が攻撃にさらされているのです。

1.人権の中核的な理解

 a.人権は人間の尊厳と価値に関わる

それは人類の「希望の地平」を広げ、可能性の範囲を拡大するものです。

人権は「人々の最高の願望」です(世界人権宣言)

 b.人権は世界にとって究極的なツール

それは社会の「持続可能な開発」を前進させるためのツールです。
それは公平・公正な世界を構築するためのツールでもあります。


2.「世界人権宣言」以後の世界の変化

植民地支配とアパルトヘイトは克服され、独裁政権は倒され、民主主義が広がりました。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的権利をすべて詳しく定める画期的な規約も成立しました。

一世代の間に、10億人が貧困を脱しました。飲料水へのアクセスから幼児死亡率の大幅な低下が達成されました。

女性や若者、少数者、先住民その他が指導する人権運動も前進しました。


3.新たな人権の危機

それでも、人権は現在、ますます大きな課題に直面しています。どの国も例外ではありません。

法の支配は後退しています。

戦火の拡大、人身取引と奴隷化が横行しています。

少数者や先住民、移民、難民、LGBTIコミュニティーは「他者」として中傷され、ヘイト行為の標的となっています。

こうしたギャップを極限にまで拡大しているリーダーもいます。人々を分断し、得票数を増やすというねじ曲がった政治的計算が当たり前になっているからです。


4.世界人権宣言の精神を実現すること

私たちの長年の課題は、世界人権宣言の野心を現実世界の場での変化へと転換することです。

経済的、社会的、文化的権利だけで人々の自由への希求に応えられるわけではありません。

国連としての多様な行動を推進していかなければなりません。

第一に人権の前進を目標とする社会開発です。

平和で公正な社会と、法の支配の尊重を軸とする人権に基づくアプローチは、より恒久的かつ包摂的な開発へとつながります。

人々が極貧状態を脱出するのを支援し、女児をはじめ、すべての人に教育を確保し、ユニバーサル・ヘルスケアを保障し、あらゆる人に平等な機会と選択へのアクセスを確保することです。

そのことで、人々はその権利を要求するためのスキルを獲得できます。

それは「誰一人取り残さない」という呼びかけに沿ったものです。あらゆる形態の不平等・差別を撤廃するために取り組みます。

第二に、危機の時代にあっても人権を守ることです。

危機の時代には人権が最も大きな試練にさらされます。

予防がうまく行かず、暴力がはびこってしまうこともあります。

私たちは「人権を最優先に」をモットーに各種危機に取組みます。


5.さいごに

人々は譲ることのできない固有の権利をもとめています。それは戦争や抑圧、貧困で尊厳を奪われている人々も同じです。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的な人権はいずれも、目的であると同時に、手段でもあります。

国連事務総長報告 「新型コロナと人権」
4月23日

大したものではないが、「ウィルスと差別」に関する記載は傾聴の価値がある。


1.新型コロナはインクルージョンを促す

ウイルスは差別をしません。コミュニティ全部にとって脅威であり続けます。

新型コロナが地域的に過度な影響を及ぼす例が見られます。
それはその地域の根本的な構造的不平等と広範な差別を浮き彫りにしています。特定の社会層が、あまりにも不均衡に、人命と生計の両方を失っています。

そこでは根の深い不平等がウイルスの広がりを助長し、それがさらに不平等を深めるという悪循環を生んでいます。

ウイルスの脅威に対応するとき、そこに差別があってはいけません。差別的な慣行は私たちすべてを危険に晒すことになるでしょう。

国は最も危険に晒されている、または過度に影響を受けている特定のグループに対して、特別な対策を講じなければなりません。

インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのです。


2.世界的な連帯が不可欠だ

A. 新型コロナとの戦いがそれを要求している

新型コロナウイルスは人類全体を脅かしており、人類全体が反撃しなければなりません。

しかし、多くの国では、そのための資源を十分に確保することができません。公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒しています。

私たちはすべての国が等しく効果的に対応できるようにする必要があります。

もし一国がウイルスの拡散を抑えるための努力に失敗すれば、すべての国が危険に晒されます。

世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くないのです。

ウイルスは、国境を越えた協力と集団による行動によってのみ打ち負かされるのです。

B. 先進国には低所得国を支援する必要がある

先進国が低所得国を支援することによって、世界的に人権が実現します。

知的財産制度の柔軟な運営が必要です。治療とワクチンは、世界的な公共財であるべきです。

また、新型コロナウイルスの研究のためには、世界的な統計システムの共有が必要です。

ピウスツキの巡回展というのを札幌でやっている。

それが分かったのが本日、赤旗道内版にちらっと載ったのを見た。

明日、道AALAで「コロナと人権宣言」で話をしなければならず、最後の追い込みなのだが、展示会の最終日はまさにその明日、25日になっている。

ということで、急いで行ってきた。


ポスターがパネル6面に並んでいる。朝10時には誰も受付におらず、観客もおらず一人で堪能してきた。

もともと5月にやるはずだったものが、コロナで延期になったらしい。私にとっては幸いであった。

展覧会の主催は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」。
お金をとる方の博物館で私はまだ入ったことはない。
いまどき珍しいが、今回の展示会もすべて撮影禁止である。誰もいないのでとってもわからないが、一応遠慮しておいた。


ピウスツキについて

今回の展覧会は思い切って、ピウスツキが平取に滞在して写真を取りまくったときの記録に集中している。明治の中頃、1週間ほどだけ滞在したときのものだ。

きわめてスッキリした構成だが、わからない人にはわからないだろうと思う。

ピウスツキはポーランド人。当時ポーランドは祖国を失い、ピウスツキは国籍上はロシア人だった。

皇帝暗殺事件に関係したために、シベリアに流刑となり、長いことサハリンで暮らした。

その間に樺太アイヌの女性を娶るなど、現地に溶け込んでいた。とくに蝋管レコードによるユーカラや儀式の音源採集は名高い。

そのピウスツキが平取に来ていた。しかも日露戦争の始まる半年前に。(正確には白老と平取)

このことは私は沙流川博物館の展示で初めて知った。


波乱万丈の生涯

ピウスツキの波乱万丈の生涯については、到底ここで語る余裕はない。

まずは井上紘一氏の力作「ブロニスワフ・ピウスツキ年譜」をご覧頂きたい。必ずや目の回るような臨場感を味わえるであろう。

ただ、この年譜はピウツキの自叙伝に基づいて作成されていると思われ、客観性はどうかと言われると、ちょっと首をひねるところもないではない。函館の停車場で行き倒れのアイヌ人グループを助けたら、それが白老の有力者だったなど言うのは、出来すぎの感がある。

これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。

もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。

ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。

私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。

まぁ、話はこのくらいにしておく。


樋口さんの本を読んでいて、言葉が乱舞していると感じた理由は、一つは権利・人権論の考察がないこと、一つはあまりにも早く各論(リベラル対イリベラル)に入りすぎるからだ。

彼は政治学の総論を書いているのだから仕方がない。
しかしいまは、もっと根っこの方の問題、つまり政治哲学(目的論)が問われているのだろうと思う。

なぜならこの本の出版は去年の12月、つまりコロナ前のことであり、いまはコロナ後だからだ。

自由と平等の関係

近代社会において、人間の権利は自由と平等のうちに存する。

自由と平等は二項対立の関係ではない。人間は自由であるべきだし平等であるべきなのだ。
人間は不自由であってはいけないし、不平等であってはいけないのだ。

だから、人は自由であることを求め、平等であることを求める権利を持っている。

しかしふたつの権利はおのずから重み付けが違う。


自由権は原理的で、平等権は具体的

自由を求め、いかなる差別も拒否する権利は、社会的規範の中で暮らす人間にとってもっとも原理的なものだ。
一方平等を求める権利は、限定的で条件付きのものだ。

自由を求める権利は相対的で主観的なものだが、平等を求める権利には具体的な尺度がある。

平等は算術的な平等を意味するものではない。大事なのは、すべての個人が法のもとでの平等を享受することである。
平等の権利とは、良心に恥じることなく暮らしていく権利である。
そのために「まっとうな」生活水準を保持する権利である。


生存権と福祉の義務

注意しなければならないのは、人々の平等を求める権利に照応するのは「まっとうな」生活水準を保持であるということである。

それは憲法25条に規定された「健康で文化的な最低の生活」の維持である。

それ以下の最低の肉体的生存、あるいは傷病に対する療養などについては、本来は国が国民に対して追うべき福祉の義務に属することである。

それを承知の上で、ゼロレベルからの生存権を含めて、「具体的人権」として考えるべきであると思う。

そしてそれを「平等を求める権利」の発展形として考えるべきであろうと思う。


地球規模で考える自由権と平等権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

しかし、20世紀末から急速にヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化し、ある意味で垣根が取り払われる状況も生まれている。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。

しかしその自由化は偽りの自由化(ネオリベラリズム)であり、強者にとっての自由化でしかない。

もし「世界市民」の社会みたいなものが生まれるとすれば、それは強者の社会でしかなく、弱者には厚い高い国境の壁が妨げとなる。

まずは移住の自由の大幅な拡大が、国際的に合意されなければならないだろう。


世界規模での平等と生存権の考え方

率直に言えば、「まっとうな」生活水準を保持する権利は、途上国においては程遠い現実である。

したがって、ゼロレベルからの生存権をふくめて、「具体的人権」として考える必要がある。

餓死しない権利、集団虐殺やレープから身を守る権利、奴隷労働を避ける権利などから始まり、初歩レベルの教育や医療を受ける権利が緊急に保障されなければならない。

新型コロナに感染しない権利、新型コロナで死なない権利は、まさにここにハマってくるものだろう。

現代民主主義をどう捉えるか

「現実の政治」論というのは三本セットになっています。
*現代政治というのはなにかということ、
*民主主義制度とは何かということ、
*そのなかで人間はどう扱われるのか、
ということの組み合わせです。

現代民主主義というのは現実の政治のあり方で、これは誰のため、なんのための政治なのという視点がまず必要です。

それが「現代」という言葉に凝縮されています。つまり古代でもなく、中世でもなく、近代でもなく現代という時代が要請している政治のあり方です。


民主主義には思想と制度がある

中世においては封建制と身分制度が支配していました。
イギリスやフランスの革命はそれを打ち破って新しい制度を作りました。

それが自由と平等の民主主義制度です。

革命が作り出したものはそれだけではありません。自由と平等は人間にとって何よりも大事なものだという考えです。

これが民主主義思想です。


民主主義思想はリベラリズムと呼ばれるようになってきている

これまで制度としての民主主義と思想としての民主主義は、しばしば混同して用いられてきました。

そのために議論がすれ違うこともしばしばありました。

しかし2015年の有事法制の際に、立憲主義という言葉が民主主義の土台の思想として持ち込まれました。
最近ではより幅広い「リベラル」という言葉も使われるようになりました。

ただあまりにも多くの言葉が一時に持ち込まれたために、頭の中が混乱しています。

例えば最近岩波新書で出た
樋口陽一「リベラル・デモクラシーの現在」
という本を読んでいると、さまざまな言葉が乱舞していて、めまいがしてきます。ちょっと言葉の遊びみたいな気もしてきます。

押さえておくべきは、「リベラル」という形容詞は現代民主主義の思想を表現しており、「デモクラシー」は制度としての民主主義だということです。

これで納まりは良くなるのですが、「リベラル」というのがちょっとうっとうしいのです。
すでに独特の色がついていて、「自由主義」みたいな言い方から、「進歩主義」あるいは「革新的」みたいなニュアンスまでスペクトルが広がっていて、論者ごとにイメージがずれてくる可能性もあります。
そこで「現代」民主主義にしてみたわけです。

「現代の」という形容詞にどう含意していったらよいか、作業としては難しいのですが、多くの人が参加しやすい作業仮説になるのではないでしょうか。

この文章は
去る15日、開かれたニカラグア革命41周年記念学習会での発言に加筆したものです。

ニカラグア革命41周年、おめでとうございます。

ニカラグアは私にとって奇跡の国です。そして昨年ニカラグアを訪れて、もう一つの奇跡を体験しました。

それは「愛と平和、許し」の3つのモットーを加えた政策を打ち立てて、その実現に成功しているからです。

この話はちょっとややこしいので、後回しにして、まずは私がどのようにニカラグアから、奇跡を授けられたかを順番に語っていきます。

1.ニカラグア 最初の奇跡

1979年7月、ニカラグアは革命に成功しました。ソモサ独裁を許さないと決意を固めた若者が、資本家層もふくめて国民の圧倒的支持の下に決起したのです。

1979年という年、ラテンアメリカのほとんどの国が軍事独裁政権の支配のもとにありました。

革命どころか、反政府の意思表示さえ困難な状況にありました。

そんな中、武装したゲリラが一斉蜂起し、武力革命を成功させたのです。

まさにミラクルです。

とはいえ若者たちが作った新政府はか弱いものでした。ソモサを打倒するところまでは一致したものの、資本家はそれ以上の改革には反対でした。

文盲一掃、医療無償化、農地改革の改革三本柱は、至るところで壁に突き当たりました。

しかし若者たちはそれにめげることはありませんでした。愛と平和の旗印を掲げ、教会の改革派と一緒に粘り強く運動を進めました。

2.米国と真っ向勝負した10年間

明日にでも潰れるだろうと思っていた新政府は、結局10年も続くことになりました。これが第二の奇跡です。

米国と資本家の思いのままにならない政府に対し、ついに破壊命令がくだされました。新政府樹立から5年目のことです。

ニカラグアの北と南から米国の雇兵部隊が侵略を開始しました。同時に厳しい経済制裁と、ニカラグアは独裁だというキャンペーンが開始されました。

こうして人口600万、北海道ほどの小国が米国を相手に一騎打ちすることになったのです。私たちは随分支援もしましたが、正直言ってとても太刀打ちできないと思っていました。

しかしそれからの5年間をニカラグア政府は耐えたのです。恐るべきインフレがやってきて、市場からは物がなくなりました。

そして5年後の選挙でついにサンディニスタは政権の座から降ろされました。

5年間の内戦で国の経済はずたずたになり、ニカラグアは中米の最貧国と呼ばれるようになりました。

実は本当のニカラグアの奇跡はここから始まったのです。

3.雌伏の15年とニカラグア革命

政権から降りた後もサンディニスタへの支持はほとんどそのまま維持されました。

アメリカな何度もこの厄介な国から手をひこうとしましたが、そのたびに親米政権が選挙で負けそうになるので、手を引くことが出来ませんでした。

こうして15年が経ち、ついにサンディニスタは政権に返り咲いたのです。しかも新米政権がルールを敷いた選挙で勝ったのです。

今や政党となったサンディニスタは、あのときの大統領オルテガをふたたび大統領に就任させました。

4.安定した多数者革命

それからのニカラグアの政治はもう一つのミラクルでした。

中米最貧国と言われたニカラグアを年率5%の経済成長に乗せ、あわせて医療・教育・福祉の大幅拡充を実現してきました。

とくに愛と平和を基調とする国内宥和政策は、資本家層やカトリック教会からも広い支持を受けるようになりました。

こうしていまでは国内で圧倒的多数の支持を受け、中米でもっとも安全な国として国際的注目を浴びるようになりました。

5.「愛と平和」の革命

ところで1年ちょっと前に、ニカラグアでも学生らの暴動があり国際的に注目されました。
メディアの多くは、サンディニスタ独裁に対して自由を求める若者が決起したと報道しましたが、事実は白黒逆だったのです。

ただここでは事実問題では争いません。この暴動への対処を政権幹部に聞いたとき、またしてもあの言葉が飛び出したのです。

「私たちの対処の基本は愛と平和、そして赦しだ」

こうして明らかな殺人・放火の犯人のほかは恩赦が与えられました。その代わりに社会の中での教育がもとめられました。

「これはソモサの残党、コントラ兵士に対して我々が行ってきたこととおなじことだ」と指導者は語ります。

サンディニスタに批判的な勢力もこれを受け入れ、事態は急速に沈静化に向かいました。残ったのは明らかに米政府や右翼勢力と結びついた雇われ勢力のみとなりました。

私たちがニカラグアを訪問したのは暴動から3ヶ月あとでしたが、もはや暴動の跡はまったく見当たらず、市民もまったく何事もなかったように活動していました。

「愛と平和と赦し」 これが、ニカラグア革命が到達した最大の教訓です。それ自体が奇跡ではないでしょうか。

ただ、学内施設が破壊された国立自治大学だけは、まだ連中への怒りが収まらないようでした。

日本考古学の歩み

ろくに知りもしないでいうのも何だが、年表づくりしてみて、なにか徒労感に襲われる。

記載すべきことと、省略して良いことの重み付けが、そもそもよく分からない。

なんだかんだ言いながらも、考古学が始まって以来すでに100年は立っているはずだ。その100年、考古学は何をやってきたか、それを考古学者は自ら語ろうとしない。

なぜだろうか?

私はどうも、最初の階段についての統一した認識がないからだと思う。

私は考古学は何よりもまず集古の学だろうと思う。それはまず博物学として始まり、それが分類され、時間軸上に位置づけられていくことが絶対的な実務だ。

もちろんそれには考える過程も含まれている。だからそれだけで考古学と呼んでよいのかも知れない。

しかし日本の考古学は、絶対的な宿命、「日本人はどこから来たのか」という命題を抱えてきた。

これは今から考えてみれば無理な話で、考古学にそんな問題への答えなど出せるわけがないのだ。

この呪いから解き離れたいまは、安んじて博物学に徹していればよいのだ。それは有史時代の考古学と同じ目的意識だ。

ただゲノム解析というのはきわめてラフなスケッチであり、その間隙を埋めながら先史時代を豊かに描き出すかは依然として考古学の役割である。

あまり卑弥呼云々の歴史学的な要請にこだわることなく(経営的にはゆるがせに出来ないが)、淡々と歩みをすすめるべきではないか。

マンローの位置づけについて

このような日本の考古学の発展史からすれば、マンローはその始祖と言ってもよいのではないだろうか。

その根拠は三つある。

一つはまずなんと言ってもその圧倒的な資料数にある。二度の火災でその多くが灰燼に帰したが、それでも国内外の資料数とその多様性は圧倒的である。

第二には、近代的で大規模な発掘手技と、周囲状況や位層解析もふくめた科学的な分類・整理である。三ツ沢と鹿児島の発掘は今日でも圧巻である。

第三には、考古学を博物学にとどまらせず人類の歴史と結びつけて「先史時代の歴史学」と位置づけたことである。

これは「言わざるべきことを言わない」戒めであるとともに、「言うべきを言いきる」ことの大切さを諭しているのだろうと思う。

マンローがただ一人の始祖というわけではない。数人の外国人がマンローの周囲にあって共同したり支援したりの関係にあった。この「マンロー・グループ」は、広く言えば東京・横浜在住のヨーロッパ知識人社会と言ってもよい。

その代表が東大医学部教授のベルツであり、オーストリア大使館のシーボルト(小シーボルト)である。

マンローの「日本先史時代」論は彼らとの交流の中で生まれ、固められたものであろうと思われる。しかし、それはユーラシア大陸を挟んだ対極にあるブリテン島の歴史を知るものの論理であり、その中で少数者として劣位にあったスコットランド人の思いであったろう。

マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。

これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)

マンローの業績はその俯瞰性や先見性において群を抜くものであった。しかし彼は日本のアカデミーとは隔絶していた。彼の活動の地は横浜に限定され、出版は英語に限られていたから、決して多くの日本人の目に届くものではなかった。

例えばモースのように有能な通訳を抱え、日本人目当てに通俗的な講演会を行っていれば、その影響力は計り知れないものとなったであろう。

なぜマンローは孤高の位置に留まったのか

多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。

これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。

飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。

今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。

今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。




考古学には発達史がない?

はじめに

実はいまだにマンローにハマっていて、とにかくアイヌ研究史の中でマンローが無視されている印象があり、それじゃ考古学の方ではどうなのかと思って調べてみた。

とりあえずの結論としては、マンロー無視は考古学においても同じだということがわかった。

それも驚きの一つではあるが、そもそも日本の考古学には歴史がないということにびっくりした。

まずネットで調べられる範囲で、いろんなキーワードで検索をかけたが、江戸時代の博物学的なものから始まって、貝塚や遺跡が見つかるたびに認識が深まって、先史時代の全容が次第に明らかになっていく…みたいな記載を期待したのだが、今のところ見つけられていない。

昨日は道立図書館に行って検索をかけたのだが、どうもこれと言ったものは見当たらない。

勘ぐると、マンローの名を表に出したくないためにそういう事になっているんでは…とさえ思えてしまう。

マンローは自著に「日本の先史時代」と名付けた。彼の問題意識は鮮明だ。発掘して遺物を見つけ出しては、それらを時系列の中にはめ込んで、「日本の先史時代」を浮かび上がらせることこそが目的なのだ。

無論考古学の内容は他にもある、江戸時代や奈良時代を掘り出し、歴史の内容を豊かにすることも大事なことだ。

しかし、文字のない時代は考古学しか語れない。先史時代は考古学の独占販売なのであり、先史時代を詰めていくことが考古学の最大の目的意識でなくてはならない。

大事なことは考古学的方法ではなく、対象とする時代だ。カッコを付けない考古学は、先史時代(研究)学と呼ぶべきだろう。

考古学は古物を見てものを考える学問だ。だから何を見てどう考えてきたかの歴史が考古学史を形成する。いろいろあって良い学問なのだ。

空がわき道に逸れないようにするためには、学問の歴史を絶えず念頭に置いて考えていかなければならない。

もう一つは、ゲノム解析による日本人の形成過程がかなり明らかになっているので、この道筋に沿って古物を構成していかなければならないということである。

とくにY染色体ハプロの解析は考古学の画期となっており、まさにこれを持って考古学史は有史時代に突入したと言ってよいだろう。

そんなことを念頭に置きながら、雑音のない旧石器と縄文を中心に、年表づくりに取り掛かりたい。当然のことながらマンローとその周囲は大きく取り上げることになる





水戸光圀、古代石碑の記事に従い、栃木県侍塚古墳を発掘。

蒲生君平、古墳を陵墓として崇拝の対象とする。前方後円墳は君平の造語。

木内石亭と弄石社: 石斧や石鏃を古代人の作成したものと判断

1823 大シーボルト、初回の訪日。植物学者として多くの標本を持ち帰る。帰国後に全7巻の『日本』を刊行。
はべらぼうに面白い。一読をおすすめする。
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。

1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。

小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。

1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。

1877 モースが東大の生物学教授となる。偶然車窓から大森貝塚を発見。教室員とともに発掘に取り組む。

小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。

1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。

モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。

1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。

1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。

1895 坪井正五郎、通俗誌に「コロボックル風俗考」を発表。石器時代人はアイヌ人に置き換えられたと主張。アイヌ伝承の「コロボックル」を旧石器人と解釈する。

1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。

1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。

1919 史跡名勝・天然記念物保存法が成立。重要遺跡が「史跡」として保存されるようになる。

1925 大山巌の次男大山柏が大山史前学研究所を設立。

1928 広義の人類学(自然人類学、考古学、民族学)に関心をもつ若手研究者により人文研究会が設立される。江上波夫、岡正雄らが参加。

1928 清野謙次、『日本石器時代人研究』を発表。縄文人骨のマススタディにより「超万世一系」論を提唱。

1930 東京帝大の山内、甲野、八幡らは、縄文土器の編年によって縄文人の歴史を探ろうとし、「編年学派」と呼ばれる。出土層の層位に着目し編成。

1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。

1943 小林行雄、弥生土器の型式と様式をカテゴリー化する。

1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。

1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。

1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。

1960 坪井清足、縄文時代を生産力の停滞と呪術支配の世界として定式化。マルクス主義の公式を当てはめたものとされる。

1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される

1975 下條らにより、磨製石器(弥生時代)の石材研究が一般化。北部九州における石器生産の専業化が明らかになる。

1980 群馬の下触(しもぶれ)牛伏遺跡。旧石器時代・前半期ナイフ形石器群期の遺跡。直径数十メートルの石器ブロックを形成。打ち欠け石器のほか局部磨製石斧も出土。大型哺乳動物の共同狩猟のためのキャンプと考えられる。
後半期ナイフ形石器群期では大型キャンブは消失し、落とし穴による小型獣捕獲(富士山南麓)へと代わっていく。

1981 西田正規、紋切り型縄文観を批判、温暖化に伴う多様化が生活の多様化を生み出したところに縄文時代の特徴を見るべきだと主張。「タコ足的な生業活動」と形容する。

1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。

黒曜石の放射性同位元素分析により、産地の同定が行われるようになる。

1992 三内丸山遺跡の発掘が始まる。780軒にもおよぶ住居跡や大型掘立柱建物が存在したと想定される。ここから豊かな縄文のイメージが広がる。

1999 青森県太平山元遺跡の土器、AMSによる再検討で従来より4千年遡る可能性が指摘。
この土器は日本最古とされ、縄文文様はないが縄文土器に比定される。


どうもはっきりしないが、渡辺氏のその後の文献にはマンローに対する言及は見られない。たぶんセリグマン夫人と渡辺氏は絶交状態に入ったのであろう。
しかし二人が絶交するのは構わないが、とばっちりでマンローまで言及なしというのは、いかにも大人げない。同じ道を歩いた先輩への敬意は、多少の見解の違いはあっても形にあらわすべきだろうと思うが。

なんだろうかとネット上を探したが、みな口をつぐんでいる。やっと見つけたのが木名瀬高嗣「アイヌ民族綜合調査」というPDFファイル。

結構長いので要約紹介する。



1.序

1950 年代の北海道で大規模なアイヌ調査が行われた。それは、「アイヌ民族綜合調査」と呼ばれる。

調査目的は下記のごとく示されている。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。
一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。
アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。

2.「アイヌ民族綜合調査」の組織構造

この調査は日本風の「ミンゾク学」(民族学/民俗学)ではなく、英米流の「文化人類学」「社会人類学」という機能主義的な社会理論のもとに行われた。

調査の構成メンバーは「文化人類学」「形質人類学」そして「北海道諸学者」の三者から成り、「沙流アイヌ共同調査報告」はそのうちの前二者による成果である。

その中核を担ったのは、泉靖一と杉浦健一という2 人の人類学者で、戦後の東京大学文化人類学教室の草創期を担った人物として知られる。
彼らは1952 年3 月刊行の『民族学研究』16 巻3・4 号(合併号)に「沙流アイヌ共同調査報告」で研究論文を発表している。

それらはいわば未完の企図にとどまり、学問領域の内部で再検討の対象として顧みられることはなかった。

「 北海道諸学者」(北海道大学を中心とした)

「北海道諸学者」の分担した調査について東大の研究者はまったく期待していない。「速やかにその報告の発表されるのを待っている」と述べるのみである。

新しい理論枠の影響を強く受けるた中央の「文化人類学」者たちは、旧来からの素朴で記述的な方法に基づく個別民族誌の研究にとどまる者たち(金田一京助や高倉新一郎ら)を区別していた。

それらのアイヌ研究者は北海道ばかりでなく全国の学界に分布した。金田一京助門下で東京学芸大学教授であった久保寺逸彦がそれに相当する。

以下は木名瀬さんのキツーイ総括
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。


3.アイヌの激烈な反応

調査の中心を務めた東大の泉靖一は、アイヌから激烈な反応を受けたという。
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」
「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
これが毎日新聞の署名記事(藤野記者)として書かれたのだが、木名瀬氏によればその記事は
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。

ということで記事が紹介されている。以下その一部
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。
酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。
写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。
財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。
「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」
そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
たしかに木名瀬氏のいうとおりだ。「アイヌこじき」の表現には「夜の街」同様ギックリだ。

渡辺氏がこの調査に参加したどうかは分からない。しかし東大人類学教室所属の渡辺氏がマンローへの「細かな異同」として持ち出したのが、この調査に基づくデータであることは間違いなさそうだ。

それにしても マンロー Labyrinth だな。すっかりハマったね。他にやることあるのにね




イントロダクション
渡辺仁

ブリティッシュ・ミュージアムのデジタル図書にこの本があって、一応全部閲覧可能にはなっているらしいのだが、途中でちょん切れている。
しばらく進むと、突然セリグマン女史の注釈が出てきて、「渡辺氏の文書」にはマンローとの原著との間にいくつかの食い違いがあるというくだりへと続く。

そして突然本文の第1章が始まる。

途中欠落があるのか、とにかく不思議な体裁だ。

とにかく切れるところまで、訳を入れておく



THE AINUは北海道、サハリン南部、そして千島列島の先住民です。 彼らは、そのひげを生やした体、ウェーブのかかった髪、長い頭で有名です。

1939年の北海道のアイヌ人口は16万人と推定されており、1854年からおそらくほとんど変化がありません。サハリンと千島(クリル諸島)にはさらに10,000人が散らばっていた可能性があります。

北海道は、本州の本島の北、北緯41度30分から北緯45度3分、東経140〜145度の間に位置する、約30,000平方マイルの島です。北海道の北端はサハリンから約20海里離れており、北東にはクリル諸島がカムチャッカに向かって伸びています。

 北海道の気候は亜寒帯です。年間平均気温は5.2°Cから7.6°Cの間で変動し、11月から5月にかけて雪が長く続きます。島はモミ、トウヒ、シラカバ、オーク、ニレがよく樹木が茂っています。

 川のほとんどは、島の中心を北から南に流れる山脈に沿って流れています。山ではヒグマとシカが見られ、5月から10月までほとんどの川でサケが回流してきます。かつてアイヌは狩猟や釣りを中心に暮らしており、山菜や果実も採集されていました。

アイヌと日本人の接触は長く続いており、さまざまな形をとっています。 1599年以前は、一般の日本人はアイヌとの接触を制限されていました。

 1599年、北海道の南西端(松前)に根拠地を設立した日本人は、徳川幕府から「松前氏」として認められました。彼らは、松前藩の藩領(松前)として、この地域および隣接地域の所有権を与えられました。松前藩域でのアイヌ人の定住は、すでにそこに確立されたものを除いて禁止されました。

日本の民間人はまた松前藩のエリアの外に住むことを禁じられました。松前はアイヌとの独占的貿易権を有し、沿岸に貿易・漁場を設けました。

 彼らは米、米ワイン、タバコ、塩、フライパン、ナイフ、斧、針、糸、漆器、装身具などを、鮭、皮、工芸品、および満州の装身具や衣類などの本土の特定の商品と交換しました。

この間、アイヌは独立を維持しました。

 しかし1799年、北海道のこの地域は、ロシアの商人の侵略から日本の利益を守るために、徳川幕府の直接の支配下に置かれました。

 当時、北海道沖には外国船(オランダ、ロシア、英国、フランス)がよく見られ、北太平洋におけるロシア人の植民地化が活発化していました。徳川政権は、千島列島がロシアの植民地化するのに危機感を持っていました。(1771)。

 商取引の成立を願ってロシアの船が北海道沿岸にやってきました(1779年)。その後、ロシアは代表を日本に送り、外交関係を結ぶことを望んだ(1792年のラクスマンと1804年のレサノフ)。

 交易所は軍事ポストになり、日本人はアイヌ地域に限られた行政組織を設立しましたが、防衛のために必要な場合を除いて、彼らの内政にほとんど干渉しませんでした。貿易は以前と同様に続きました。

1821年、松前は再び領土を管理し、従来の政策を続けた。アイヌはこれらの沿岸の交易所周辺で日本人によって雇われるようになりました。

1854年から1867年にかけて、北海道南西部は再び徳川幕府の直下に置かれました。1868年に島は日本の領土の一部となり、アイヌ文化を大きく変える植民地化の過程が始まりました。

今日、アイヌ語はめったに話されておらず、その後は高齢者のみが話しています。 純血のアイヌはほとんど絶滅しています。 そして伝統的な経済全体が大幅に変更されました。

日本政府は北海道に行政本部を設置した。

アイヌは日本国勢調査の登録簿に含まれ、それらの領土はアイヌと日本の開拓者の両方に土地の区画を許可するために制定された土地法で政府の財産になりました。

アイヌはサケを釣ったり、…


どうもさっぱりよくわからないのだが、セリグマン女史の言い分によると、渡辺氏はこのイントロダクションで、どうも自分の数字や自分の見解をどしどし突っ込んでいるみたいなのだ。
ひょっとすると、渡辺氏はマンローの所説をあまり読まないで、自分の数字を入れたのかも知れない。

こうなると、どちらが正しいかというのではなく、ある本の紹介を頼まれた人間がとる態度としてどうかということになる。

この話は、とりあえずなかったことにしておこう。真相がわかればその時点で書き込みたい。

マンローーについて書かれた最良の日本語文献は桑原さんのドキュメンタリーです。しかしこれはマンローー亡き後の関係者からの聞き書きを集めたものです。
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。



序文  B・Z・セリグマン

NEIL GORDON MUNROは1863年にエジンバラで生まれ、教育を受け、最終学歴として医学を学びました。

卒業直後、彼は極東へ向かいました。最初はインド、その後香港を経て日本へと旅を続けました。

 1893年に横浜の総合病院の院長になり、時々ヨーロッパに戻ったが、その時から死ぬまで日本を我が家としました。(“時々”と書かれているが、1回のみである)

 彼は日本の先史時代に興味を持ち、とりわけアイヌの人々の伝統と暮らしに関心を集中するようになりました。彼は19世紀末からの20年間に、何度もアイヌの人々のもとを訪れています。これまで出版されたアイヌ関係の著作は次のとおりです。

1.「日本の原始文化」 日本アジア協会の連載記事 Vol。 34、1906。
2.「先史時代の日本」 横浜 1908年 エディンバラ 1911年。
3.「ヨーロッパと日本の巨石群に関する考察」 横浜、1909年。
4.「いくつかの巨石群: 起源と遺物」 横浜、1911。
その他の雑誌にアイヌと自然に関するさまざまな記事を載せています。

彼は貴重な先史時代の遺物のコレクションをエジンバラ博物館に提供しました。

二風谷定住への経過

後年、マンローは軽井沢療養所の院長を務めました。その任が解かれ、軽井沢での診療と並行して長期の自由行動が許可されると、夏は軽井沢で働き、それ以外は北海道に長期滞在するようになりました。

その頃から、彼の主な関心は先史時代の考古学的研究から、アイヌ人の生活に関する民俗学的研究に移っていきました。アイヌの生活を見るにつけ、マンローの嘆きは深くなりました。

当時アイヌの人々は、長年の狩猟と食料収集の生活をあきらめ、農業から生計を立てるために働かざるを得なくなりました。彼らは貧しく、アルコールに溺れ、人生への興味を喪失し退化していました。その数も疫病などにより減少していました。

セリグマンとの出会い

1929年に私の夫、故C. G.セリグマン教授(F.R.S.)は日本を訪れました。軽井沢まで出向いてマンローに会いました。そのとき、セリグマンは1923年の大地震で、マンローのアイヌに関するすべてのメモ、標本、写真が失われたことを知って愕然としました。

マンローは自費でアイヌの研究を行ってきましたが、震災で深刻な経済的損失を被り、研究を続けることができなくなっていました。

セリグマンはそれまでの交流の中で、マンローの正確な観察力とアイヌへの知識、アイヌの人々への親密な観点を確信していました。

そこでイングランドに戻ると、セリグマンはマンローが調査を続けることができるように、ロックフェラー財団に研究資金を申請しました。

 1930年に資金が供与されると、マンローはすぐに北海道の沙流川流域の二風谷に小さな家を建て、そこに定住しました。そしてアイヌの生活と伝統について集中的に研究を始めました。

彼の仕事の方法はクリニックを開くことでした。彼の妻は訓練を受けた病院看護師で、多くの患者をこなすことが出来ました。二人はクリニックに群がったすべての人に無料の治療を与えるました。

アイヌの人々はマンロー夫婦を信頼しました。そして待合室でうわさ話、歌、伝説、むかし話をする用になりました。待合室は、そこに来たすべての人のためのオープンハウスとなりました。

マンローは多くの長老(エカシ)と知り合いになりました。マンローは「友」とか「先生」と呼ばれました。エカシはマンローの貴重な情報提供者となりました。

1932年、2番目の不幸がマンローを襲いました。12月のある朝、夜明け前に、マンロー夫婦の自宅兼クリニックである二風谷の茅葺きの住居が焼失しました。

マンロー夫妻は炎から脱出しました。マンローはアイヌの研究メモを保管していたブリキの箱をなんとかして救いました。しかし彼のすべての所持品、彼の本、彼の写真や他の科学資料は焼けてしまいました。

北海道の冬の厳しい寒さは老マンローを痛みつけました。健康は損なわれ、その後遺症は彼を一年者あいだ苦しめ続けました。いつ軽井沢に戻って夏季療養所で仕事をしたのか、また年間を通じて北海道に留まったのかは定かではありません。

しかし、彼は屈しませんでした。

セリグマンはさらなる助成金を申請しました。 1933年にロックフェラー財団はもう一度寄付を行いました。さらに王立協会と英国科学振興協会からも助成が行われました。 日本アジア協会からの支援もありました。

大英協会内のアイヌ研究小委員会が結成され、これには現在、ダリルフォード教授、ラグラン卿、F.S.A。、アーサーD.ウェイリー、C.H.、C.B.E.、F.B.A。が含まれ、私自身が議長を務めています。

1934年、モンローはセリグマンあての手紙で、永遠にアイヌに留まるつもりだと書いています。

この手紙の中で、アイヌに関するさまざまな研究成果が語られています。

彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。

村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。

 マンローはまた妊娠、出産、精神の瞑想、病気の治療に関連する儀式の映画などを撮影しました。儀式の踊り、醸し酒の儀式、そして熊を犠牲に捧げる儀式も撮影されたといいます。

 残念ながらこれらの映画は消失し、最後の一巻だけが英国に届きました。それは 現在、王立人類学研究所が所蔵しており、1933年1月10日から展示されていました。

 最近、ポジティブが元のネガから作成され、1961年9月のアテネの Comité International du Film Ethnographique et Sociologique (文化人類学映像に関する国際委員会)の会議で示されました。

クマの儀式は、すべてのアイヌの儀式の中で最もよく知られています。マンローも何度か目撃しましたが、彼の本のなかではきちっとした説明はされていませんでした。

マンローは、「家の中で行われる祭りはイヨマンテの前半を構成する。それは新築祝いの式典に似ている」と述べ、儀式のために準備されたイナウの写真をセリグマンに送りました。

熊送り(イヨマンテ)のため、熊の子が捕らえられました。熊の子は細心の注意と敬意をもって世話をされ育ちます。熊の子は神の代表として、ときには神(カムイ)自身として扱われました。

適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。 

マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。

そのため後の出版に際して、私(編者 B.Z.セリグマン)はマンローが映画(イヨマンテを撮影したもの)のために書いたキャプションから作成した説明を追加しました。

アイヌはまた狩により捕らえた熊を殺すときも類似の儀式を行いました。マンローはその儀式も何回か見ていますが、これについて書かれた報告は見当たりません。

この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。

マンローの最晩年

さて研究発表ですが、さまざまな悪条件により、マンローの予想よりも作業の進行が遅れがちになりました。二風谷の冬の厳しい気候と陸の孤島のような孤独な生活は、彼の健康を著しく損ないました。

マンローは出来上がった原稿の大部分を、1938年頃までにセリグマンに送りました。その間セリグマンは、マンローがなんとか生活できるようにと個人的な資金源からお金を集めました。

それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。

これらのポイントについて、マンローとセリグマンの間に手紙のやり取りがあったのですが、それは1941年の日本の世界大戦への参戦によって突然打ち切られてしまいました。


マンロー夫人と “貞操帯

戦後、私(セリグマン)はイギリス領事館から「マンローが1942年4月に亡くなった」という知らせを受け取りました。そのあとマンローの妻の住所はわからないままでした。

マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。

長老はマンローに、女性が服の下に身に着けていた秘密の貞操帯(ウプショロクッ)によって魔法の力を行使できると言っていました。

(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)

マンロー夫人はアイヌの女性たちにエカシの言葉を伝え、女性は自信を感じるようになりました。そのおかげで、マンローはこの主題を追究できました。そしてウプショロクッがアイヌの社会組織で重要な役割を果たしていることを発見できたのです。

マンロー夫人はアイヌの女性5人に、自分のウプショロクッの正確なコピーを織るよう依頼しました。そして出来上がったウプショロクッはのちに大英博物館に与えられることになりました。


マンローの研究態度

アイヌの習慣に関するマンローの記事が、メディアにたくさん掲載されたのは1934年のことです。彼は秘密のガードルが母系相伝することを報告しました。さらにそれらの持つ魔法の力、共同体における意味と重みについて言及しました。

マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。

アイヌの文化には考慮に値する価値があり、彼らは不条理な迷信だけを信じている未開の民ではありません。

 マンローはこの見解を一貫して強調しました、アイヌ人には、不合理に見えるかもしれない信念や儀式があります。それを記録するとき、彼はヨーロッパの民俗習慣と比較し共通点を見出すために苦労しました。

 実際、彼の未発表の記事の1つに発表の機会が与えられたため、彼はこの本をアイヌに対する「寛容の嘆願」にすることを意図していました。

もちろん、いまこの本を読んでいる読者にとって、そのような嘆願は不要です。だからそのような「奴隷の言葉」は省略されています。

マンローの関心は、北海道南部の沙流渓谷の二風谷でとどまるものではありません。彼は地区の情報提供者と協力し、道北の北見を何度か訪問しています。彼はサハリンにも調査に行くつもりでしたが、それはできませんでした。

彼の主な情報提供者は、アイヌの伝承にまだ精通している年配の男性と女性でした。

もしマンローの努力がなかったら、その知識の大部分は彼らと共に消えたでしょう。なぜなら、古い生活様式は日本(内地)の影響力が増大する下で急速に姿を消し、新しい生活条件では古い儀式、信念、伝説は無視されたからです。

彼の情報提供者は、もう誰も生きているとは思えません。

マンローーはたくさんの素晴らしい写真を送ってきました。その写真とオリジナルの原稿はすべて王立人類学研究所に寄託されています。多くがこの本に掲載されています。しかし残念なことに、英国に届いたのは写真だけであり、ネガをたどることはできませんでした。

何が渡辺氏との見解の違いを生み出したか

戦争中の出版は不可能でした。終戦の後、改めて出版への模索が始まりましたが、原稿を校訂できる有能な人物を見つけることが大変困難でした。

幸運なことに私たちは、ロンドン大学に留学していたすでにさんとめぐりあうことができました。

 彼は東京大学人類学部人文研究所の講師で、東京アイヌ合同研究委員会の研究委員でもありました。彼には1950年から1952年までの4回にわたる現地フィールドワークの経験がありました。このため彼の援助は非常にありがたいものでした。

原稿についての一般的なコメントに加えて、彼は自分の経験と日本語およびその他の情報源から得た脚注を追加し、この本の歴史的意義についての紹介を書きました。

渡辺氏はマンローが準備した論文を閲読しましたが、他の記事や材料は見ていません。

彼は多くの細部にわたる違いや誤りを指摘し、マンローの主要な解釈の一つを批判しました。これらの訂正、追加情報は、すべて脚注に組み込まれています。

私は事実問題での違いを検討する際には、いくつかの条件を考慮する必要があるとかんがえます。

すでに述べたように、マンローーは20世紀前半の数十年にアイヌの住む地域を訪問し、1930年からはそこに住み、12年後に二風谷で亡くなるまで、そこは彼の家になりました。

1930年代ですでに、若い世代は古い慣習を守っていませんでした。彼の信頼できる情報提供者はすべて高齢者でした。彼の情報は、長老との話し合いのなかで知った出来事に補足され、基づいていました。

1950年代に東京共同研究委員会と渡辺氏が調査を行ったとき、宗教的思想は、すでに生きている信念というよりも、神学のシステムとして理解されていたかもしれません。
これが解釈の主な違いのいくつかの理由になっているでしょう。

事実の違いに関して、マンローは二風谷地区と他の信頼できる地区を参照したと指摘しました。彼は地区ごとのバリエーションの存在を予測していました。

「霊返し」の儀式

渡辺氏との解釈上の主な違いは、植物の精神的本質に関するものです。

 マンローは、シランバカムイという植物の神があり、すべての植物はシランバカムイからラマト(精神または魂)を枝分かれさせていると述べています。

木にもラマトがあります。木の種類によっては、他の種類よりも霊的な力が強いため、より神聖であり価値があります。

渡辺氏は、すべての植物は「霊の化身であり、すべての獣、鳥、魚、昆虫はカムイ族の霊である」と述べています。「カムイの国では霊は人間の形をしていて、人間として生きる」が、アイヌの村を訪れると「木や草などに変装」するのだそうです。

マンローによれば、この本で「霊返し」と訳した式典は、化身と霊を引き離し霊をカムイの地に帰すことです。

渡辺氏によると、野菜で作られた捧げものは、しらんばカムイという単一神ではなく、それぞれの植物の霊からその美徳を引き出しているといいます。

動物の世界に関しては、解釈の違いはそれほど大きくありません。

アイヌはすべての動物がカムイであると信じてはいないと考えています。しかし同じ種のなかに良い動物と悪い動物がいることを示唆しています、そしてこれはクマ、ヘビ、キツネとスズメバチで特に注目されます。

悪い動物からの保護は、カムイ族の首長に訴えることによって得ることができます。なぜなら良い首長は自分の悪い部下を抑制することができるからです。


アイヌ語の発音と語尾音について

主に口唇、口蓋、および口蓋音に関して、渡辺氏との違いも発生します。

マンローーはそれらをb、d、g(シランバ、イオマンデ、オンガミ)として、渡辺氏はp、t、kとして音訳します。 私はマンローのスペルを保持しました。一貫性を保つために渡辺氏のスペルを変更する必要がありました。

この決定を支持するために、私は二風谷(ニブダニ)がマンローが住んでいた村の公式の住所であることに言及しておきます。

アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。

しかし、マンローが残した材料を検討した後、私たちの委員会は、「アイヌの過去と現在」まで語るには不足していると判断しました。そしてこの本には、「儀式と信仰、そしてアイヌの日常生活への影響」に限定して扱うのが最善であるという結論に達しました。

 マンロー本来の意図を反映するためには、ノートからラグラン卿が編集した「アイヌの家の建設」に関する記事、それに狩猟技術、織物、その他の活動に関するノートが、やがて全面公開されることが望まれます。

この本の章別構成について

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、および第11章は、マンローの書いたとおりに掲載されます。

第 6、7、8、9、10章では、マンローが書いたいくつかの個別の記事に含まれる文章、彼のオリジナル作品に散在する情報、および多数のメモを整理したもの、さらにCGセリグマンへの手紙から抜粋し編集したものです。これら貴重な資料は、私が知る限り、いまだかつて公開されていないものばかりです。

 マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。

私は社会的組織に関する第12章を作成しました。マンロー自身の仕事から、祖先崇拝、母性、愛国心などを抜き出し、戦後に現場で働いていた日本人作家の情報も付け加えました。これによりシークレットガードルに関するマンローの情報についてもより広い視野から科学的に追跡できるでしょう。

 読者は、第2章、第3章、および第4章が大変かもしれません。カムイ、イナウはアイヌにとって非常に重要であり、注意深い説明と写真はマンローの誠実さへのオマージュです。

これらの章を読み飛ばしたいと思ったら、飛ばして構いません。後で間違いなく興味が生じるでしょう。これらの章は参照としても使用できます。


マンロー夫人との接触

英大使館員だったヒュー・ギブ氏の努力により、1959年10月にマンロー夫人と連絡をとることができました。彼女は夫のアイヌ研究がようやく出版されることを知って喜こびました。

彼女の証言により、オットマンローの死の際にフォスコ・マライーニが二風谷にいたこと、マンローが彼にタイプ手稿がいっぱい入ったリュックサックを託したことが明らかになりました。

私は出版社を介してマライーニに手紙を送りました。マンローの手紙で言及されていた未発表資料、貴重な映画がようやく見つかるのではないかと期待を膨らませました。

6か月後、彼はリュックサックを持ってロンドンのわたしのところまで来てくれました。しかし残念ながら、中身は作成した本のカーボンコピーと、付録Iとして本に付け加えたいくつかの伝説とメモだけでした。

謝辞

私は英国協会の委員会のすべてのメンバーに感謝します:

マンローの本のオリジナルの活字書を読み、渡辺氏に援助を与えてくれたフォルデ教授に。

アイヌ語と日本語の単語のスペルと翻訳をチェックしてくれたArthur Waleyに。

特にラグラン卿は、この作品の改訂と再編において、より簡潔にするために努力していただきました。  彼はまた、インデックスを作成してくれました。

アイヌに関する最新の書誌を紹介してくれたワシントン州議会図書館のW. H.ギルバート氏に感謝します。王立人類学研究所の司書であるカークパトリックさんには、このリストを確認していただきました。この本の主題に直接関係する作品のみを含めることにしました。

B. Z. S.

London, 1962



を大幅加筆した。
 
「日本のがん」の紹介はこの文章に突っ込むのは、かなり無理があるが、当座のしのぎということで我慢しておく。読者の皆さんはここは飛ばしてよい。

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。

斎藤環の「直接会うのは暴力」だろうか
赤旗の「朝の風」の激賞の吟味

赤旗の「朝の風」で斎藤環の「直接会うのは暴力」という発言を捉えてこれを積極的に捉えた考察が掲載された。
誰とどこで会うかは人権の問題だ。…人間だから直接会うのが当然という前提を見直す必要がある。
などなどだ。

言葉が踊っている。花から花へ舞っている。世間ではこういうのを「哲学」という。

ただ、そもそもの言い出しっぺである斎藤環という人がどういう人で、どういう背景でこのような物言いをしているのかがわからないと、なんとも常識的な判断がしにくい。

6月20日号のヤフーニュース

「朝の風」子が見た元ネタは、ヤフーニュースの6月20日号だそうだ。 

題名はえらく長い。
精神科医・斎藤環が語る、コロナ禍が明らかにする哲学的な事実 「人間が生きていく上で、不要不急のことは必要」

ということで、いわば至極当たり前のことで、特に社会から半ば引退して好き勝手に引きこもっている団塊世代には、共感さえ覚える。

「強いられた引きこもりさん、ようこそいらっしゃいました」ということだ。

斎藤さんは精神科医で引きこもりが専門だそうだ。ここで対象とするのは社会不適応としての引きこもりだ。

つまり現在この瞬間、引きこもりには三種類あることになる。

一つは病的(と言っていよいか)な引きこもり、これは思春期の病気で中年まで引っ張っている人もいる。斎藤さんは非社会性と呼んでいる。
ふたつは好き好んでの引きこもり、活字三昧で、世の中高みの見物、私などがその典型だ。
三つが新種のコロナ性引きこもりだ。この人達はやる気満々で、ある人はこの生き方に満々と闘志を燃やしているし、ある人はフラストが溜まって、日暮れになると紅灯の巷へという場合もあろう。

それで、斎藤さんという人はウィキで調べると、言葉の料理人みたいな人で、和風、洋風、中華、いかようにでも言葉を操って概念らしきものをこしらえる人のようだ。
一応精神科の教授の肩書きもあるので臨床もやっているのだろうが、まずはメディアへの露出が命の人らしい。

だから「直接会うのは暴力」くらいのことは平気で言う種類の人かもしれない。私なぞはどうも苦手で、虫酸が走る。

ただこういう人が実際あってみると案外社交的で如才なかったりすることもあるので、予断は禁物だが。

ヤフーニュースの主な内容

斎藤さんが最近『中高年ひきこもり』という本を発表した。ちょうどコロナでステイホームが強いられたので、話題性はある。

途中まではなんの変哲もない臨床医学の話。「その辺が落とし所かなと思います」なんてセリフは常識人そのものだ。

そこから、急に
なぜ人は直接会おうとするのか。
それは人が直接会うことは暴力であるからだ。
という台詞が飛び出す。
それで
そういう露悪的な言い方をするのは…直接会って話をすることに耐えられない人もいることを想像してほしいからです。
という風につながっていく。つまりは「直接あって話すのは結構精神的には重労働なんだ」ということを「暴力だ!」というキャッチコピーでまとめちゃったということなのであろう。

「朝の風」子は見事にその疑似餌に引っかかったという具合。しかも自身の思いで斎藤さんの言葉を膨らませている。

ただし、インタビューの最後でこうも言っており、バランス感覚はしっかり保たれている。

非常に憂鬱なのは私も同じですけれども、ストレスをあえて引き受けていかないと、精神のバランスは保てないので、私も一緒に取り組んでいきたいと思います。

つまりは小学校の頃の夏休み明けと同じだ。やすみにあきて学校に行きたい気分と、また規則と日課で体も心も縛られることへの拒否感。

この斎藤さんという人言葉遣いは時に過激だが、医学的判断としては結構常識的な人に見える。ただ、
「直接会うのは暴力」というフレーズはウケ狙いっぽくていただけない。人が生きていくための最低の強制というのはあり、その源となっているのは自然・社会のパワーだ。この強制的なパワーをゲヴァルトというならたしかに「暴力」ではあるが…


G614 の話

ちょっと長い前置き

実はロシアから帰ってくるに当たり、イタリアでの新型コロナが恐ろしく毒性が強くてバタバタと死んでいる、という話でかなりスリルを感じたことを覚えている。
ブログにも、イタリアコロナは武漢コロナとはレベルが違う、中東からヨーロッパに渡る間になにか突然変異したのではないかと書いた。

ただその頃はウィルスの強弱ではなく環境因子のほうがはるかに大きいと言われ、イタリアの状況を聞いているとそれで納得したところもあった。

しかし今になって統計的に観察してみると、やはりアジアとヨーロッパではケタが違うとしか思えない。

たとえは悪いが包丁を振り回す通り魔と、榴弾砲やカラシニコフであっという間に数百人をなぎ倒すテロリストの違いみたいなものだ。

この印象の違いは米国の両岸を見ると鮮明になった。

同じ国で生活水準や医療にさほどの差があるとも思えないが、東海岸の新型コロナの凶悪さは別格である。

そこに持ってきて学会で突然変異の可能性の話が出てきたから、気になる。

おそらく数ヶ月の間にアジア型亜種はヨーロッパ型亜種により淘汰されるだろう。

秋以降に第二波が来るとすれば、それはヨーロッパ型になるのではないかと気になる。

そのためにはヨーロッパ型コロナのウィルス学的特徴を踏まえておく必要があるのではないか。

と、ここまでが長めの前置き

G614 変異の新型コロナ

4月末、世界最大の非営利生物医療研究機関、フロリダ州のスクリプス研究所は、細胞の受容体ACE2に結合するスパイクS蛋白質の2箇所のアミノ酸が変化していることを発見した。

それはひとつは、S1サブユニットの結合ドメインであり、もう一つはS2サブユニットの境界にあるN-末端から614番目のアミノ酸である。

この2箇所は、感染当初(2020年1月)はアスパラギン酸(D614)だったが、時間が経つにつれて次第にグリシン(G614)に変化していった。

突然変異(D614→G)の割合は、2020年1月、2月には見られなかったが、3月に(26%)、4月(65%)、5月(70%)と次第にG614の割合が増加していた。

3月以前は中国も含めてアジアとアメリカで殆どがD614型だが、イタリアではすでにG614が優勢だった。

それが3月以降は中国とシンガポールを除き、ほとんどがG614に変化している。日本でも3月以降はほとんどがG614型である。

D614とG614の毒性を比較するために、マウスの白血病ウイルスにD614と突然変異型G614を入れた偽ウイルスを作った。

これをヒト胚性腎細胞に感染させ、感染率を観察した。突然変異型G614のスパイクを持つウイルスの感染率はD614に比し感染率は9倍であった。同様の結果はインド各地での感染ウイルスのスパイク蛋白質の分析からも示されている。

ただし日本でも、すでに3月にはG614への変換は終了しているにもかかわらず、欧米のような爆発的な感染拡大は見られない。

日本での感染者数の少なさは、必ずしもG614からだけでは説明しきれないかもしれない。

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