鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

ロシア音楽の年表でいろいろ地名が出てきますが、どうもピンときません。
少し勉強してみました。
江戸時代もそうなのですが、俗に「偉人」という人の多くは地方出身です。地方の小エリートが都会に出て勉強し偉くなっていくというのが、この時代(封建時代)の特徴のようです。なぜそうなのか、よくわかりませんが、地方には独自の文化があってその土壌が「偉人」たちを育んだのかもしれません。地方の疲弊は国の文化の多様性を失わせ、国を衰退に導いていくのかもしれません。

それはともかく、地名を地図で探すのですが、著作権の関係なのかまともな地図にヒットしません。グーグル地図は美しくないのですが、地名検索にはこれを使うしかありません。

とりあえず全体が分かる地図を掲載します。(画面上をクリックすると拡大されます)

Russiamap

RUSSIA - EUROPEAN REALM

というサイトからの転載です。

19世紀の地図も探しています。

ありました。

Russland und Scandinavien (Russia in Europe and Scandinavia), 1873

という地図で、ありがたいことにラテン文字表記です。

15 Mb  9345x7606 px

というすごい画像で、光通信でもダウンロードに数分を要します。(ロシアのサイトなので、向こうの問題かもしれない)

こちらは細切れにして紹介します。

1.ヴォトキンスク

まずはチャイコフスキーの生まれたヴォトキンスク。ウィキには次のように紹介されています。

ウドムルト共和国の首都イジェフスクの北東50キロメートルに位置する。カマ川の支流ヴォトカ川が流れることからヴォトキンスクという。

これって分かりますか。

ヴォトキンスク

これがグーグル地図です。ボルガ河畔のカザンから東北東に直線で300キロ、東京―名古屋くらいです。

道路事情にもよりますが、馬車でも5日間でしょうか。

このヴォトキンスク、1873年の地図には名前すら載っていません。相当山奥の田舎町だったようです。

もともとこのあたりはウラルの山の中で、フィン人系の先住民が住んでいましたが、鉱山が発見され、18世紀末からロシア人が入り始めたようです。

チャイコフスキーが生まれた1840年ころには文化のブの字もなかったと思います。

現在ヴォトキンスクは人口10万を数えますが、これは第二次大戦中に重工業がウラル山中に疎開したことがきっかけになっています。戦後は弾道ミサイルの生産拠点となっており、アメリカの監視要員が駐在していたこともあったようですが、その後追放されたとの報道もあります。

最近は人口減少の兆しもあり、前途はなかなか多難と思われます。


いろんなページからチャイコフスキーのボトキンスクでの生活を辿ってみます。

ボトキンスクは鉱山の町で、父イリヤは鉱山で政府の監督官をつとめる貴族でした。といっても、家系的にはウクライナ・コサックの出で、医師であった祖父の努力によって、貴族に叙せられた家系です。

母アレクサンドラはフランス人の血をひく女性で、先妻が死別したための後妻です。アレクサンドラの祖父はフランス革命をさけて亡命してきたフランス人の貴族でした。

母はチャイコフスキー自身が近寄りがたいと思うほどの美人で、フランス語とドイツ語が達者な教養のある女性でした。ピアノも弾き、プロの歌手ではないけれど素晴らしい美声の持ち主だったといいます。

チャイコフスキーが幼い頃は父の稼ぎも良く、彼が4才の時フランス人女性を住み込みの家庭教師として迎えます。ファニー先生は勉強を教えるだけでなく、世界の歴史や童話や易しい小説を読んで聞かせ、いつも側にいて優しく見守ってくれていました。

モーツァルトのオペラやシュトラウスのワルツが大好きで、覚えた節を自分なりにピアノで弾いたりするなど音楽的才能はあったようですが、特別教育を受けた様子はありません。

彼は7歳でフランス語による詩を作り、オルゴールを聞いて一人泣いているような子どもだった。(Rimshotさん

8歳のときに一家でモスクワに出たあと、ボトキンスクに戻ることはなかったようです。

0~8歳までの時期というのは、強烈な印象を残しているものと思いますが、直接ボトキンスクの思い出を題材にした曲というのはないようです。





カティア・ブニアティシュビリというピアニストがいる。名前を憶えるのにだいぶ時間がかかった。
グルジア出身でおよそ30歳くらい。ヨーロッパでは大変な人気らしい。
たいしたコンクール歴もないが、ルックスが良い。豊かなバストでたまらないお色気だ。ムター人気と似通ったところがある。しかしこの人の見せ場はルックスではなく、ハリウッド女優も真っ青のパフォーマンスにある。
独奏は大したことはないが、コンチェルトになると俄然すごい。管楽器奏者の独奏場面では口には笑みをたたえ、目では睨みつける。「にっこり笑って人を斬る」眠狂四郎の趣きだ。
要するに“あんみつ姫”さながらのスーパーわがまま姉ちゃんなのだが、大きな瞳で見つめられてニッコリ微笑まれると、ついその気になってしまうというあんばい。これには男女の差はなさそうだ。
もちろん毎日一緒に暮らしたくはない。Never and Neverだ。

グリークをお勧めする。とくに終楽章はホロビッツの爆演を思い起こさせる。


「労働力価値内在説」なるもの

ここに至って突然論理が晦渋になる。

晦渋なのは著者自身がこんがらかっているからみたいだ。「金子ハルオ氏とのあいだで論争になっている」とか言っているが、金子先生を前に少々態度がデカい。こんなものは論争でもなんでもない。

櫛田さんは、“労働力商品が労働者の身体と不可分な存在形態をもつ”ことを強調する。

それは、私がかつて批判したある言葉を思い起こさせる。「患者は医療の労働主体でもあり労働手段でもあり労働対象でもある」という三位一体説だ。なぜなら、“患者はその身体と不可分な存在形態をもつ”からだ。

やはり「身体と不可分な存在形態をもつ労働力商品」というだけでは不十分だろう、奴隷(人間商品)と同じことになってしまう。無理やり身体と勤労能力を切り離して「ケガと弁当は自分持ち」というのが近代労働者の姿ではないだろうか。


以下、面倒なので論点を微細にわたって検討することはしない。結論部分だけ引用する。

① 労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”、その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

② これは経済学として許容される理論化である。

「…し得る」とか「許容される」と言われれば、まぁ仕方ないが…ということになる。

直接の批判にはならないが、このあたりの話題に関して私の考えを述べておきたい。

動物というのは植物と違って、みずから栄養物を作り出すことはできない。

「生きる」というのは、基本的には消費することである。ただし人類は社会を形成することによって、生産することが可能になった。

ただしそのためには働かなくてはならない。最初は生きる時間のほとんどが働くことだったが、だんだん労働時間は短くなった。そして余暇、すなわち「幸せ追求時間」が生まれた。

最初は余暇のほとんどは支配者のものだった。しかし生産力が拡大するにつれて徐々に余暇は普通の人にも広がるようになった。

余暇というのは労働時間以外のすべてではない。そこから睡眠・食事・通勤などが差っ引かれる。これらは純粋な労働力商品の再生産の時間だ。さらに勉強・子育ての時間も広義の労働力商品の再生産のためのものだ。

それ以外の時間が純粋な余暇である。それを純粋な消費活動(消費的消費)だといってもよい。

この労働力商品の再生産をふくまない「純粋な消費活動」から生まれるもの、たとえ量は少くても本質的な生産物は、衝動にとどまらない人間的「欲望」である。それは希望、意欲であったり、愛や情熱であったり、具体的な物欲であったりする。
たしかに余暇を“労働力商品の生産過程”と規定することも経済学的には許容されるかも知れない。

しかしそのようなワルラス均衡的「経済学」のいかに貧しいことか。

申し訳ないが、以後の文章については省略させて頂く。
最初にも書いたように、以下の記述は卓抜である。

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

できれば、それを生産対消費、労働対享受、充足対欲望、それらを抱合した「生活過程」という枠組みの中でとらえていただきたい。
そして、大きな人類的活動のサイクルの中で、これらを社会発展史的に特徴づけていただきたいと願っている。かならずや経済学(とりわけ剰余価値論)はそのための不可欠なツールとなるだろうと思う。



論文の目次は下記のようになっている。

1 本稿の課題

2 賃金労働者の消費生活過程における価値法則の作用

(1)賃金変動と労働力商品供給構造の変化

(2)労働力商品への価値法則適用の実体的根拠

3 労働力商品の生産過程と労働力商品価値の実在性

(1)耐久消費財・休日の価値村象化問題

① 耐久消費財の価値村象化

② 休日の価値村象化問題

(1)サービス商品と社会的間接賃金

(2)妻子・高齢者の生活費の価値対象化

この内、「1.本稿の課題」 というのが最初の4ページを占め、問題意識が尽くされているので、そこを読んでみたい。

次に進むかどうかはそこを読んでの感想次第ということにしておく。



まったく段落がないので、こちらで小見出しを付けていく。

1.労働力は人間的諸能力の統合体

まず櫛田さんは「労働力は人間的諸能力の統合体」であると定義する。

そして、二つの特徴を上げる。

A) 人間の身体と不可分な存在形態を有する非有体物であって、物質的財貨とは異なる存在形態を有している。しかしながら、労働力は実在的な範疇である。

B) 労働力は十全なものとして生まれながらに人間に備わっているわけではなく、人間の消費活動をつうじて主体的につくりだされる。

前の記事に書いた私の感想からすると、この定義はもはやアウトである。労働力は人間的諸能力のほんの一部でしかない。

しかしながら、あまりこの問題に拘泥するつもりはない。マルクスは資本論執筆の時点では労働力についてはかなり割り切って考えている。

一言で言えば職務遂行能力(Arbeitskraft)である。決められた仕事を、決められた方法で、決められた時間内に遂行する能力である。資本家がもとめている商品はそれである。

2.消費生活過程は“労働力商品の生産過程”

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

この点についてはまったく同感である。

ただし、前段で「労働」の枠組みが人間的諸能力の発揮とイコールになっているので、消費活動が労働力の再生産とイコールになってしまう。

もしそうであれば、ここでいう労働力の再生産過程は、まさに「疎外された労働」とその再生産にすぎない。
人間は食うために働くのであるが、働くために食うのではない。キリストも言うではないか、「人はパンのみにて生きるにあらず」

3.余談: 消費生活過程の最大の生産物は「欲望」

櫛田さんは、労働と享受についての概念を未整理なまま展開するきらいがある。

これは日本のマルクス主義哲学に共通する傾向なのだが、労働の度外れの強調である。例えば芝田進午さんは教育の場には二つの労働があると指摘する。一つは教育労働であり、もう一つは「学習」労働である。そして教育の場とは教育労働と「学習労働」が貼り合わさったものだと主張する。

教育労働はともかくとして、学習することまで労働にふくめるのは明らかな間違いである。

マルクスは労働と享受を2つの人間的活動として対置している。社会的に生産と消費として現れる活動は、諸個人においては労働と享受として現象する。学習は享受する活動なのだ。

享受はただたんに消費するだけではなく、それを喜びとして受け取り、みずからの内的発展・成長の糧とするのである。

単純な享受の過程の中では、欲望は解決され消滅するかのように見えるが、繰り返す営みの中で欲望は多様化し、ゆたかに発展するのである。「豊かさ」とは何よりもまず欲望のゆたかさであり、「豊かな社会」とは欲望に満ち溢れグイグイと成長していく世界なのである。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。(2017年02月19日 カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

これらのことは「経済学批判」に展開されている。「経済学批判」(要綱)は「資本論」の準備稿として軽視される傾向にあるが、経済学の原論的枠組みを確定した重要な文章だ。

まだいいたいことはあるが、このくらいにしておく。


櫛田豊 「労働力商品への価値法則の適用と 労働力価値内在説の展開」 を読みはじめる

森谷尚行先生にそれとなく急かされて、読むはめになった。

まずは題名を見ての第一印象。

正直のところ、のっけからうっとうしい。
1.人間的諸活動と人間的諸能力

経済学的な概念操作としては、労働力も労働力商品も正しいのだが、それら人間まるごとの生活を表現するものではない。

より豊かに、より幸せになろうとする諸活動は、そのすべてが労働の枠にくくれるものではない。そしてそれらの諸活動に対応して養われる人間的諸能力も、労働力の枠にくくれるものではない。

人間的能力のうち勤労能力(戦闘能力と並んで)が取り出され対象とされるのは、社会の誕生、とりわけ階級社会の誕生以来である。
2.人間商品から労働力商品へ

当初、勤労能力はそれが属する諸個人をまるごと含めた「人間商品」(奴隷)として売買された。「労働力」が商品化されるためには、勤労能力をふくめて抽象的なものへの価値付け、数量化が必要である。そのためには、ありとあらゆるものが商品化され莫大な量を持って取引される市場が必要である。

このようなユニバーサルな諸市場、潤沢な通貨供給(とくに新大陸から)、そして経済社会構成体内部での分業の発展の3つを基礎に、産業資本が自立的に登場していくのである。
3.「価値法則の適用」はすでに行われている

前置きが長くなったが、「労働力商品の価値法則の適用」はすでに行われているのである。「人間商品」(奴隷)から労働力商品への転換は、価値法則の適用無くして実現しないと思う。
「価値法則」についての私の理解が不十分かもしれないが、歴史的に考えれば、生産過程に価値法則が適用されたからこそ人間的諸能力から勤労能力が取り出され、労働力として措定され、さらに商品化されると見ても良いのではないか。

浅学ながら、私にはそう思えてしまうのである。

後段の「労働力価値内在説」はよく分からない。おそらく前段の「労働力商品への価値法則の適用」によってもたらされる結論なのだろうが、前段について不承知だから多分読んでもわからないだろう。

最初から分からないだろうと思っている論文を読むのは「いささか辛いな」と考えているところである。


ブラームスのクラリネット5重奏曲といえば、ある意味“暗さ”が売りの曲だ。
それをムード音楽のように演奏している人がいる。
邪道とはいえ、これが意外に良いのだ。
Clarinet Quintet in B minor, Op. 115 - Autumn mood, Johannes Brahms

というYou Tubeのファイル。
Chamber Music Society of Lincoln Center
という団体の演奏で、ライブ録音らしく終わりに拍手が入る。
クラリネットは、一瞬耳を疑うような音を出す。

しかし、それでも良いのだ。
第一楽章の第一主題はスローなワルツだ。「うーむ、そうか」と納得してしまう。

だいたいこの曲の演奏はクラリネット奏者の名で呼ぶことが多い。ウラッハ盤とかライスター盤という具合だ。しかし、この演奏ではクラリネットは5重奏の1メンバーで、タクトは第一バイオリンが握っている。
それが良いのだろう。こちらはブラームスを聞きたいので、ライスターを聞きたいわけではない。
この線で、もう少し上手いグループが演奏してくれないだろうか。






マレー・ペライアのゴールドベルク変奏曲を聞いている。

ずいぶん色々聞いてきたつもりだが、やっぱりこれしかない。

と思って、ついに買う決意をした。

と思ったら、アマゾンで三種類も出ている。

① MURRAY PERAHIA THE FIRST 40 YEARS Box set

これがなんとCD73枚組で2万6千円。

流石に「うーむ」と唸る。生きているあいだに全部聞けるだろうか。

MURRAY Perahia AWARDS Collection Box set

これはCD15枚。なんとかなりそう。値段は4234円という中途半端なお値段だ。タワーレコードでは3622円になっている

MURRAY PERAHIA PLAYS BACH CD, Import, Limited Edition

これがCD 8枚。もちろんゴールドベルクも入っている。3369円。

これは②で決まりだね。

長年、ソニーで録音していたペライアがグラモフォンに移籍して、腹いせにソニーが投げ売りしているらしい。

 

 

2015年04月18日 世界の空港 喫煙スペース一覧 その2
に多くのアクセスをいただいております。

みんな見てくれるのになにもしないのでは申し訳ないので、少し増補します(2017年8月)

というよりも、下記のサイトを見つけたので、そこからのコピーです。別に難しい英語ではないので、そちらに行ってみてください。

Smoking areas at airports

生物の系統樹を見ると、生物の進化には二つのフェイズがあることが分かる。

一つは文字通りの進化で、一つの種が多様化と大型化を伴い、一世を風靡する。

もう一つは種の変化・交代を伴う進化である。
一つの流れが行き着くところまで行き着いて、爛熟するとともに、進化の壁を超えられなくなってしまい頭打ちになる。いわば進化なき多様化である。

そのときに、これまで傍流だった種類の生き物がまったく新たな形で登場し、これまでにない仕組みで状況に適合し、先行者を押しのける形で発展する場合である。

それは個別の種ではなく、「統合的生態系」の進化と言えるかもしれない。生物界全体を一つの概念として捉える観点からの「生物の進化」である。

これが進化の基本であるが、それとは別に地球環境の激変に対する適応という課題がある。

生物はこれまで数次にわたる絶滅の危機を迎えている。もっとも劇的だったのは恐竜の絶滅であるが、それより以前、数次にわたり全球凍結の時代があったとされる。

それは内的必然に伴った発展・進化ではないが、ある意味で、生物・無機物をも抱合した「地球という天体の46億年にわたる成長の歴史」であるのかもしれない。

そこで、種の交代を伴う変化の時代をあとづけてみよう。

1.原始生命体(プロトビオント)→共通祖先

ここの転化は分からないが、細胞膜の完成、解糖系の完成、RNA→DNA、セントラルドグマの完成、…などが継起したものと思われる。

2.共通祖先→真性細菌

とくに葉緑体を取り込んだ藍藻が大繁殖することにより地球の大気組成を大きく変化させた。いま流行りのM&Aである。

3.古細菌(アーキア)の復活

真性細菌の繁殖により傍流と化した古細菌が、核膜を作り出すことにより、真核生物となる。アーキアは細胞内に真正細菌を取り込み、ふたたび主流となる。

これには気象学的変化が背景となっていたかもしれない。

4.多細胞生物の出現

葉緑体を持つ多細胞生物は植物となり、独立生物として発展する。

この時点では従属栄養の多細胞生物は少数で、寄生的な存在であった。

5.肉食動物の出現

従属栄養の多細胞生物は、寄生的存在から独立し、「動物」となり、植物・植物プランクトンをみずからのものとすることで生活するようになった。

それは海綿から発達して三葉虫、甲殻類となるに及んで大繁殖を遂げた。

これに応じて動物をエサとする動物が出現した。軟体動物である。彼らは発達した神経・運動系を持つことで、動物を獲得できるようになった。

6.陸上への進出

海藻が発生する大量の酸素がオゾン層を形成し紫外線を遮るようになった。

この結果地上での生活が可能となり、まず植物が地上に進出した。

ついで甲殻類が気門を獲得し地上に進出する。いち早く上陸した彼らは昆虫類となり、天敵のいないもとで大繁殖する。

7.魚類(脊椎動物)の出現

海中動物の世界では甲殻類、軟体動物の反映の陰で脊索動物が発生する。

幼生時のみ脊索動物の形をとるホヤから、一生変態せずに生きるナメクジウオが生まれ、さらに脊椎動物に近づいたヤツメウナギ、サメの仲間、そしてついに魚類が登場する。

8.脊椎動物の上陸

魚類はその並外れた運動能力によって海中の王者となった。甲殻類は隙間で生き延びる存在に過ぎなくなった。

そして、陸に上がった昆虫を追って脊椎動物も陸上に上がることになる。5億年前に植物が上陸して以来、この3つの出来事はわずか1億年で成し遂げられた。そして「食物連鎖」あるいは「弱肉強食」という、まことに一方的で理不尽な世界がこの世に出現することになる。

昆虫と脊椎動物は同じ動物、同じ生命維持機構でありながら、支持構造も神経システムも陸上への適応過程も、まったく異なっている。

何よりも両者は否応なしに“追うもの”と“追われるもの”の関係に立つ。したがって追うものは圧倒的な大きさを欲するし、追われるものは逃げるスピード(とりわけ飛翔能力)、圧倒的な種の生産力を欲する。

以降の動きは省略するが、言いたいことは、生物の進化は一直線ではなくかなりのジグザグを経ていることであり、むしろジグザグこそが進化の本質だということである。

エンゲルスはこれらの現象を「量から質への転化」、あるいは「否定の否定」という言い方で表現している。基本的には正しい表現ではあるが、何かもう一つ物足りない。乗り越えるという感じが出てこないのである。
というか、ヌーベル・バーグNouvelle Vague

(エンゲルスのいう“量から質への転化”はこの事象のヘーゲル的単純化である)

いわばイノベーションでなく主客の交代を伴うレボリューションということになる。“破壊的イノベーション”という言葉もあるが、自分勝手な自家撞着である。必要なのは“新しい革袋”なのだ。


スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲

それほどの曲とも思わないが、たまたまYou Tube で現役盤以外の二つの演奏を聞くことができた。

みんなピアニストが違うので、しゃべるには分かりやすい。

最初がシュテパンというピアニスト。これは60年代に出たスプラフォン盤らしい。

次が、1978年にヨセフ・ハラのピアノによる演奏。これは1978年11月18日、新宿厚生年金会館でのライブ録音。最後に拍手が入る。

この2枚目については「私のクラシック」というブログに経過が詳しく書かれている。

そして現在現役盤となっているのがパネンカとの共演。1996年日本でのスタジオ録音らしい。

なぜこんなことを書くかというと、私はあまりスメタナ四重奏団の演奏が余り好きでないからだ。

ゲスの趣味だが、どちらかと言えば私は朗々と歌ってほしい。

靴下の上からくすぐられても、余り感じないのである。

最初の頃、「スメタナは録音に恵まれていない」と思っていたが、そればかりでもないようだ。

それになんと言ったって、結成が1942年。ナチス支配下のプラハである。

正直言って結成(96-42=)54年を経たロートル軍団に緊張感など求めようがない。

というわけで、このやや冗長な5重奏曲を緊張感をたたえながら弾ききるのは無理だろうと思う。

聞けばわかると思うが、You Tubeでしか聞けないだろうが、60年代のシュテパンとの演奏が一番良いのだ。

シュテパンというピアニストがよいのだ。節度を保っているが、決して伴奏者の位置に留まってはいない。

どうせすぐ消えるだろうが、一応リンクはしておく。

Dvořák - Piano quintet n°2 - Smetana SQ / Stepan

Dvořák - Piano quintet op.81 - Smetana SQ / Hála

ついでに、私の好きな演奏はこちら

Dvorak, Piano Quintet No 2, Op 81, Juilliard Quartet, Rudolf Firkusny, Piano

フィルクスニーは好きなピアニストで、ドヴォルザークのピアノ協奏曲が良い。

つまりは、新世界交響曲をチェコフィルで聞くかニューヨークフィルで聞くかという趣味の問題。



1.度肝を抜く生々しさ

1500年前の事件なのに、えらく生々しい。日本書紀は事細かに描いている。

しかし書かれた時点からは50年も経っていない。おそらく関係者の何人かは現存していた状況で書かれたものであろう。

細部の精密さに目を奪われて、「壬申の乱」とは一体何だったのかが、ともすれば見失われ勝ちになる危険がある。

2.本質がまったく語られない記述

形態は内乱だが、本質的にはクーデター、ないし宮廷革命であろう。権力の形態はまったく変わっていない。新たな支配層が登場したわけでもない。

大半の人にはどちらでも良い戦いだ。

かといって、家督争いとか、現政権の不満が本筋だということになならないと思う。

もしそうであれば、権力交代は多少の自由化をもたらすであろうが、実際には権力の極端な集中化と軍事化がこのクーデターの帰結だ。

3.危機感を背景にしたクーデターではないか

統制経済、地方への官僚支配の浸透などはまさに戦時体制を思わせるものだ。

戦争に備えるとはどういうことか。それは唐との対決をおいて他に考えられない。

百済が滅亡し、高句麗が滅亡した。次は日本だという恐怖感はおそらく強烈なものであったに違いない。

そして唐の砲艦外交に屈することになれば、属国化は避けられない。天智の変節、そして大友皇子の弱腰外交は許されない、というのが天武を突き動かした最大の動機ではないか。

4.白村江の評価

多くの著書には白村江の敗北とその後の防衛強化が重税をもたらし人々の不満を高めたという風に書かれているが、はたしてそうであろうか。

例えば、朝廷から反天武の戦争に動員をもとめられた九州の大宰府は、日本防衛に手一杯で兵は割けないと断っている。

「そんなことやっている場合かよ!」という怒りの声が聞こえてきそうだ。

ただしそれが正しかったかは判断の限りではない。


最初に地図を転載します。関ケ原町歴史民俗資料館からのものです。
jinsinnnoran


「飛鳥の扉」さんのページから多くを引用させていただきました。
日付は陰暦表記(のようです)

671年

11月23日 天智、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せる。

11月末? 大海人皇子(以後天武で統一)、大友皇子を皇太子として推挙、天智はこれを受諾。天武は皇太子を辞し出家。吉野に下る。

671年12月7日 天智、近江宮の近隣山科において崩御。大友皇子が跡を継ぐ。このとき天智は46歳、大友皇子は24歳。

672年

5月 天武、「大友が天智の陵墓建設を口実に美濃・尾張の農民を集め武装させている」との情報を入手。さらに吉野攻撃の動きも察知。

このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の都からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。

6月

6月22日 天武、美濃へ3人の使者を送り、①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。3人の使者は、村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)

6月24日 深夜、20人ほどの従者と女官とともに吉野を脱出。

6月24日 天武軍、伊賀国名張に入り隠駅家を焼き兵を募る。名張郡司は大友の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。

6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝郡司(あえ 現在の伊賀市北部)が兵約500で戦列に加わる。

6月25日 天武の長男、高市皇子が近江脱出に成功し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で合流。加太(かぶと)越えで伊勢の関に入る。

6月25日 伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 天武軍、朝明の郡家を経て桑名(吉野より140キロ)に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。

6月26日 安八磨郡の多品治(おおのほむじ 太安万侶の父)3千が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。

安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。
多品治(おおのほむじ)は太安万侶の父にあたる。当時は安八磨郡で封戸を管理する湯沐令であった。


6月26日 大友軍、全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。

6月27日 尾張の国司小子部連さひち(ちいさこべのむらじ)が挙兵。2万の兵を率い不破に結集。東海道、東山道の支配権獲得に成功。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば中立化できただけでも御の字であったろう。

6月27日 天武、家族を桑名において不破に向かう。野上に行宮(本営)が置かれ、ワザミガハラに前線本部が置かれる。

東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。


6月30日 天武軍は兵数万を確保。伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。

7月

7月1日 玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。

7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。

7月2日 大伴吹負(ふけい)が倭京(飛鳥)で挙兵。乃楽山(ならやま 奈良市北部)まで進出し陣を構える。

7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。

7月4日? 大和進攻軍の一部が大和・伊勢ルート確保のため伊賀に残留することとなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。また伊賀と近江を結ぶ倉歴(くらふ)道の防衛には田中足麻呂があたる。

7月4日 吹負軍の坂本財の部隊が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。

7月4日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。

7月4日 大伴吹負軍、乃楽山(ならやま 奈良市北部)で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。

7月4日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟の部隊1千人と合流。

7月5日 大伴吹負軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国の朝廷軍と対戦。2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。

7月5日 倉歴の戦い。大友軍の田辺小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。

7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、「たらの」で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。

7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。

7月8日 村国男依(むらくにのおより)らが率いる天武軍の本隊、息長の横河(米原市内)で朝廷軍を撃破。以後進撃を続ける。

7月9日 村国軍、鳥籠山(とこのやま 彦根)の戦いで勝利。

7月13日 天武軍本隊、安河(現野洲川)の戦いで勝利。

7月17日 天武軍本隊、栗太(くるもと 栗東町)の戦いで勝利。このあと最終決戦に備える。

7月22日 天武軍の西岸部隊、朝廷軍最後の防壁となった三尾城(高島町)を陥落。

7月22日 瀬田橋の戦い。近江朝廷軍が大敗し壊滅。

7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。

7月23日 長等山へ敗走した大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束。

7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。

8月

8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。

9月8日 天武は不破を出発し飛鳥に向かう。

673年

2月 大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位する。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになる。皇親(こうしん)政治が行われ、「大君は神にしませば」と神格化が行われる。





AnthropologicAl S cience Vol. 122(3), 131–136, 2014

Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males

Youichi Satoら、

共同研究ではなく、基本的には徳島大学のスタッフの単独調査のようである。(聖マリアンナも一部参加)

アブストラクトでは以下の問題意識が示される。

However, the data of Y chromosome haplogroup frequencies in modern Japanese males is still limited.

そこで彼らは立ち上がった。

We recruited 2390 males from nine populations in seven cities in mainland Japan and typed their Y chromosome haplogroups.

結論としてはこういうことだ。

modern Japanese males appear to be genetically homogenized in mainland Japan

それはそれでけっこうなことだ。

対象及び方法

日本国内7都市の男性住民2390人を対象とした。

内訳は

college students (S) from

①Nagasaki (n = 300)

②Tokushima (n = 388)

③Kanazawa (n = 298)

④Kawasaki (n = 321)

⑤Sapporo (n = 302)

adult males (A) from

⑥Fukuoka (n = 102)

⑦Osaka (n = 241)

⑧Kanazawa (n = 232)

⑨Sapporo (n = 206)

である。

末梢血サンプルを用いてQIAamp DNA Blood kitにより測定した。

都市間差の判定は pairwise FST values による。

結果及び考察

Japanese males belong to 16 haplogroups (Table 1)

頻度はO2b1 (22.0%), D2a1 (17.4%) D2* (14.7%)の順であった。

we did not detect any marked variability among the populations.

ハプロCの内訳を見たところ、

C1 and C3 displayed frequencies of 6.1% and 4.9%, respectively,

であった。

ハプロC(C1 and C3)は福岡のみにやや多い傾向が見られた。

ハプロD は D1, D2, andD3よりなるが、今回の調査ではD1が0.1% D2が 32.1%でD3は皆無であった。

今回の研究では、the frequency of haplogroup D2* peaked in the Fukuoka and Kawasaki students. だった。

haplogroup D2 males are equally spread throughout Japan.である可能性がある。

ハプロOは非常に細かく変異している。

O2b1 frequency in the Fukuoka adults tended to be higherだった。逆にO3a3c and O3a4 frequencies tended to be lowerだった。そもそも福岡ではハプロOそのものが少ない。

O3a3c and O3a4は福岡成人をのぞいて全国に平均して分布している。ハプロOが九州に多いという以前の報告(Hammerら 2006)は否定される。(沖縄も少ない)

結語

 we did not detect any marked variability in the frequency distribution of Y chromosome haplogroups in mainland Japan,

ミトコンドリアDNAの解析 (Shinoda, 2007; Umetsu et al., 2001)によれば、haplogroup M7の南日本優位、haplogroup N9b の北日本優位が示されている。

男性が全国ほぼ均一であることを考えると、男性の移動がより頻繁であることが推測される。

謝辞

Ministry of Health and Welfare, Japan and the Japan Society for the Promotion of Science

あとは下の図の“メタ解析”というか感想

日本人ハプロ

1.ハプロC

これだけ全国が均質化している中でも、ハプロCの地域差は鮮明である。

北からD2人が入ってきた頃、朝鮮半島からも少数のC人が入ってきて、西部にとどまったことを示していると見て良いだろう。

ただC1、C3の比率はどこでも同様だ。日本固有のC1が最初に、ついで同じ朝鮮半島経由で、いわゆる“ツングース”系のC3人が入ってきたと考えられる。

弥生時代前期に渡来人(長江人)を受け入れた縄文晩期人はこれらC人だったのかもしれない。

北海道の一般成人のC3高値はオホーツク人→アイヌ人の流れかもしれないが、それほどまでの影響があるかと言われると…

北海道民500万のうちアイヌ人はたかだか10万人。2%にとどまる。

2.ハプロD

これまで東日本優位と思われていたが、意外にもまったく地域差を認めなかった。サブタイプに分けても差は見いだせない。今のところどう判断してよいのか分からない。

3.ハプロO

ハプロOはO2系とO3系でまったく意味が違う。

O2は弥生人だ。長江文明を原産とし漢人に逐われて、朝鮮半島そして日本へと渡ってきた人々だ。

九州を除けばそれぞれがほぼ均一に分布しており、偏りは見られない。

O3はいわゆる“騎馬民族”だ。満州南部から南下し、先住民(おそらくC3人およびC3人と共生していたO2人)を支配し、あるいは駆逐し最後に九州北部に到達したのがO3aであろう。

それとは別系統(新羅系)がさみだれ式に山陰地方に到達し、この一族が大和・畿内にまで到達したのではないかと思われる。

なおこれら一連の図で、長崎と福岡にかなりいちじるしい差が見られるが、一方が学生であり他方が一般成人であるところからも、その解釈には慎重さが必要であろう。

とにかくこれで一応のベースとなる数字が出たことになる。その意義は非常に大きいと思う。

あとは人口移動が少ない農村地帯で、三代以上継続して居住している人のデータをコツコツと集積すべきであろう。


全ゲノム解析でもよいのだが、その際にY染色体ハプロのデータは引き出せるので、とにかく数万単位のデータが欲しいものである。


以前から気になっているのだが、Y染色体ハプロの内訳を調べるのに、基礎となるサンプル数があまりにも少ないことが気になっている。

しかも古い。

2005年前後の数年間に調査が行われたきり、その後大規模なデータ集積が行われていない。要するに崎田さんが先駆的にとりあげ分析した時点から、我々は一歩も前進していない。

あたかも「魏志倭人伝」のように同じデータをいろいろいじっているに過ぎない。

赤旗に時々載る遺伝子がらみの記事を見ていると、どうもミトコンドリアDNAの人も頑張っているし、全ゲノム解析の人が「これからは私達に任せて」みたいなでしゃばり方をしている。

しかしこれだけクリアカットに人種の歴史的動きが辿れる指標は他にないのである。全ゲノムはそれはそれとしてやっていけば良いのだが、現段階ではただ情報にホワイトノイズを追加しているに過ぎない。

なんとか文科省でもう少しこの研究に力を入れてもらえないのだろうか。

と、思っていたところ、やはり世間にはそう考える人がいて、データベースづくりをコツコツとやってくれている。

それが“ちべたん さんの「日本とはなんぞや?」というブログだ。

題名だけ聞くとちょっと引いてしまうが、別に「日本会議」の御用達ではない、普通に真面目なサイトである。

この参考文献のところを見てみると、最初の報告からほぼ10年、まったく研究が止まっていることが分かる。

Tajimaらの2004年の論文。

Senguptaらの2006年の論文。対象日本人は23人。

Nonakaらの2007年の論文。対象日本人は263人。

などのきわめて少数例を対象としたプレリミナリな報告に過ぎず、これで日本人の祖先を云々するのは流石にちょっとおこがましい。

ところが2014年に桁外れの多数例を対象にした調査が行われているらしいのだ。

我々は今後はこのデータ(のみ)を対象にして物を言わなかればならないだろう。

いま、このSatoの2014年調査のデータを探しているのだが、英語の報告は探せるのだが、日本語の原著が見つからない。ちべたん さんはきっとそれを読んでいるのだろうが、ブログではリンク先を明らかにしていない。

…と言いつつ日本語の原著を探したが、みごとにない。

仕方がない、英語の原著を読むことにするか。



赤旗日曜版に載った藤井裕久さんのインタビューが面白い。

残念ながらネットでは読めない。ご購読をお勧めする。

昭和32年、岸内閣で「国防の基本方針」を定めました。

そこには国防の4本柱が打ち出されている。

1番目は国連だ。これには外交も含まれる。

2番めは民生の安定だ。これは国民生活が不安定で格差社会になると、一部の人たちが戦争、武力で事態打開をしようとするからだ。

3番めは自衛権としての自衛隊だ。

そして4番目が日米安保だ。

ということで、現在のアベ政治と順番が真逆になっている。

当時の官房長官、椎名悦三郎は大蔵官僚だった私に、こう言いました。

「この順番が正しいのだ」

平和のために一番大事なことは外交であり、国民生活が安定することだというのです。日米安保は補完で、最後だというのです。

藤井さんは、消費税だけはどうにもならない考えに取り憑かれているが、それ以外は非常に的確な人だと思う。

それにしても安倍晋三、まことに不肖の子・不肖の孫である。



田中美保さんの論文はかなりの衝撃だった。

以前作成したケルト人の歴史年表(2014年01月22日 ケルト人について)が全面否定されたことになる。もっともそれは私の責任ではないが。

「ケルト人について」は主としてウィキペディアからの知識によって書かれているが、

(イギリスでは)そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。

こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されている。

それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。

と引用している。

ウィキは明らかに「ケルト人存在説」だ。イギリス人がごねているようにみえる。

しかし実情はそんなものではない。Y染色体ハプロタイプが明らかに中央ヨーロッパ由来説を否定しているのだ。
さらに衝撃的なのは、アングロサクソン人を自称するイングランド人さえ、遺伝学的には「ケルト人」なのだということ。アングロサクソンは先住民を虐殺したり駆逐したのではなく、その上に君臨したに過ぎないということになる。

問題は、「Y染色体ハプロタイプ」を信じるか否かにかかってる。私には「もはや勝負はついた」としか思えないが。

なおスペイン北部と聞いてバスクを思い起こす人もいるだろうが、バスクと「ケルト」は明らかに異なる。


この話を知って、私はすぐに縄文人のことを思い起こした。

Y染色体の示すところ、縄文人が北から日本列島に入り、沖縄をふくむ全土に分布したように、「ケルト人」はスペイン北部から海岸沿いに北上しブリテン諸島をふくむ西ヨーロッパの海岸沿いに分布した。

時期は縄文人より遅れ、新石器時代に入ろうとする頃であった。それ以前にそれらの土地に旧石器時代人が先住していたとも言われる。

Y染色体で見る限り中央ヨーロッパ人とは違う人種である。ケルトという人々が

紀元前の時代のギリシア人が、アルプスの北側に住む人々をさして、そう呼んだ

のだとすれば、スペインから北上した人々は、語源的には「ケルト人」ではない。

多分、19世紀の時代の物知りが、ギリシャの古い書物から見つけ出したのであろう、と想像される。

いずれにせよ、非アングロサクソン系の「大西洋型ハプロタイプ」人が紀元前後までは広く居住していて、そこに最初はローマ帝国、ついでゲルマン系の人々が侵入してきたわけだ。

数々の侵入を受けたあとも、「大西洋型ハプロタイプ」は現在に至るまでブリテン諸島人のY染色体の多数派を占めている。

これも縄文人の血が濃く受け継がれる日本と共通するものがある。

イングランドでさえ、64%が「大西洋型ハプロタイプ」であるにもかかわらず、彼らはみずからをアンゴロ・サクソンと信じている。

これは東北縄文人(エミシ)が大和文化に完全に同化して、みずからを生粋の日本人と思っているのと似ている。

そして同化しなかった(しえなかった?)人々がアイルランド人、ウェールズ人、スコットランド人として取り残された。これもアイヌ人の運命と一種似通ったものがある。 

以前にもケルト人の歴史を勉強したが、あまりにも資料が少なく“ポジティブな全体像”を描き出すことはできなかった。

多くの資料は、ギリシャ人に逐われローマ帝国に逐われ、最後はノルマン人に占領され、ブリテン諸島の片隅に逼塞する民としか描かれず、他者にとっての歴史でしかなかった。

今回田中美保さんの論文「アイルランド人の起源をめぐる諸研究と“ケルト”問題」を発見し、その書き出しに大いに期待しノートを作成する。

1.「ケルト人」は創造された人種である

田中さんの問題意識は私にとっては鮮烈であった。

「ケルト」とは実は現代の問題でもある.

アイルランド, スコットランド,ウェールズ,コーンウォール,ブルター ニュなどは,本来,非英語圏・非フランス語圏であり,イ ングランドないしブリテンやフランスといった大国に支 配されてきた歴史をもつ.
当然,彼ら固有の文化も言語も 否定されてきた.それゆえ,言語や文化の復興・振興の名 のもとにこれらの地域が集い,その際,「ケルト」という 看板が付けられるという事情もある。

このような「ケルト」神話は,近代に,各地域のナショナリズムの高揚などの影響を受けて創造されたものである.

しかし,その「ケルト」観が,歴史的事実として誤用されてきたのである.

…いまだに商業ベースでは「ケルト」という言葉が踊っている.経済効果があるからか,「ケルト」神話はなかなか消えないのである.

…本稿では,とくに分子遺伝学者たちの研究に注目しつつ,アイルランド人の起源について考えていきたい.

ということで、「そもそもケルト人という言い方が間違いである」と断言している。

2.分子遺伝学者たちの研究

(1) ブライアン・サイクスの研究

サイクスの研究は,①アイルランド人、②スコットランド人とピクト人、③ウェールズ人、④イングランド人とサクソン人・デーン人・ヴァイキング・ノルマン人に分けて,それぞれの歴史やDNAについて論じている.

アイルランドの男性の圧倒的多数は「大西洋型ハプロタイプ」と呼ばれるY染色体を持っている。

「大西洋型ハプロタイプ」の比率は、アイルランドで80~95%、スコットランドが72.9%,ウェールズが83.2%,イングランドでさえ64%を占める。

さらにスペインのバスク地方やガリシア地方でも見られる。

サイクスは,ミトコンドリアDNAなども合わせて検討し、次のような結論を出している.

中央ヨーロッパからアイルランドやブリテン諸島への大規模な移住の証拠は何もない。ゲノムのレベルでは,アイルラ ンド人は中央ヨーロッパの人々との特別に近い類似性は ない。

いわゆる「島のケルト人」と「大陸のケルト人」とは遺伝学的に見て無関係である。

これは従来のケルト由来説の否定である。
それまでは、中央ヨーロッパの いわゆる「ケルト人」の中心地から鉄器時代に大量の移住 があったとされていた。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々の大部分は,農耕が始まった頃にイベリア半島から移住した。

このとき、ブリテン諸島にはヨーロッパ大陸から来ていた中石器時代(約1万1500年前~約6000年前)の人たちが先住していた。
(2)その他の研究

重複する部分や曖昧な論争部分を避けて、付加的事実をあげておく。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、新石器時代(約6000年前~約4000年前)にイベリア半島北部から大西洋側に沿ってブリテンとア イルランドに入植した。(スティーヴン・オッペンハイマー)

つまり、「ケルト人」を鉄器時代に中央ヨーロッパから渡来した人衆と定義するならば、そのような「ケルト人」は実際には存在しなかったということになる。

したがって、ブリテン諸島人の骨格をなす「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、「ケルト人」ではない、ということになる。


ただ、その上で「大西洋型ハプロタイプ」人を「ケルト人」と称することにしようという人(例えばサックス)もいる。

3.アイルランド人研究者の発言

(3) P・マロリー『アイルランド人の起源』2013年

アイルランド人自身による研究の代表としてマロリーを上げる。

マロリーによれば、アイルランド島が今日の形や大きさになったのは,1万2 千年前から1万年前で非常に遅い。アイル ランドはユーラシアで最も人の定住が遅かった地の一つ である。

ア イルランドの多くの起源がブリテンにある。最初の入植者はスコットランド,マン島,ウェ ールズなどであろう。

11世紀後半にアイルランドで編纂された 起 源 伝説 『ア イル ラン ド来 寇の 書』はアイルランド人自身による起源伝説である.

物語では、最後にアイルランドに来寇したとさ れるのが,「スペインのミール(Míl Espáinne)」である.

多くの研究者がスペイン由来説の傍証としてこの物語を上げるが、肝心のマロリーは、中世アイルランド の学者たちによって,古典研究にもとづいて創造されたも のであり,決して「記憶」によるものではないと主張している。

同じように分子遺伝学的所見に対しても、「未だ不確実なもの」として批判的なスタンスを取っている。



最近、メールを開くといろいろな人のツイッターが飛び込んでくる。

面白いものも中にはある。全体的にツィッターだと、一言だけだから勢いが良い。本音むき出しになる。

1.孫崎さんのツィッター

細野氏離党意向、どうぞどうぞ。即実行して下さい。慰留しなくていいよ。

…細野氏、離党決意、大歓迎。決意を揺るがすことなく決行して下さい。

気持ちはわかるが、もうすこし民進党の動き注意深く見守る必要があると思う。

やはり、まだ当分、日本を変える上で民進党という党の全体像を見ていかなくてはならない。

1年前、民進党が野党共闘の方向にこんなに近づくとは想像できなかったのだ。民進党は野党共闘の方向に決定的に動くのかの瀬戸際にある。逡巡したり抗ったりする気持ちはひとりひとりの党員の胸中にあるだろう。

それは日本国民の揺れる気持ちをある意味で代弁しているのだろうと思う。

揺れるということがある意味ではすごいことなのだ。

2.小池書記局長の発言

内閣改造があったが、革命という言葉をね、軽々しく使わないでほしいと思います。人づくり革命(担当相)と。革命っていうのはもう政治権力が変わるわけですよ。ある階級からある階級に政治権力が変わるような重い言葉だと思う。

私も気持ちとしてはよく分かる。「共産党は革命政党だ」と叩かれ続けて、頑固に守り続けてきたその言葉を大事にするのは当然だ。

だけど、「革命」は本来共産党の専売特許じゃない。ある意味で人民主権を端的に表した言葉だ。「人民は反人民の政権を打倒する権利がある」ということで、ある意味では憲法の精神だ。もっと日常的に使われてほしいという気もする。


不破さんの文章が赤旗のオンライン版にないか探したが、今のところなさそうだ。やはり日刊「赤旗」を購読せよということか。

ところが、グーグル検索で、ほぼ同じ内容をもっとくわしく説明した文章が見つかった。

2014年7月10日の紙面に掲載された「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」(2) 追跡 マルクス「恐慌の運動論」

という記事である。

読み飛ばしていたようで、そんな記事があったことは記憶しているが、中身には憶えがない。以下、紹介していく。

草稿のなかで65年の恐慌論の転換を知ったときは「衝撃でした」と力を込めた不破さん。何回も草稿を読み返して確かめるうち、「それまでなかなか理解できなかった記述が、発見前の“前史的”部分と発見後の“本史的”部分を分けて読むと、はっきり分かり、理論的発展の裏付けになりました」と語りました。

ということで、不破さんはこれをみずからの“大発見”と自負しているようだ。

マルクスの65年以前の考え

①恐慌の根拠
資本家は、できるだけたくさん利潤を得るために労働者の賃金を抑えようとします。一方、商品の買い手としての労働者にはできるだけ大きな消費者であることを望みます――マルクスはこの矛盾に恐慌の根拠を見ました。

②恐慌の運動論

利潤率が資本主義の発展とともに低下してゆくことは、スミスやリカードウも気がついていました。

マルクスは、利潤率の低下が、「不変資本」の比率が「可変資本」に比べて大きくなることに伴う当然の現象であることを解明しました。

マルクスはこの発見を「恐慌=革命」説と結びつけ、恐慌の反復をこの法則の作用によって説明しようとしました。


マルクスの65年の大発見

マルクスの発見した運動形態は、「流通過程の短縮」と呼ばれるものです。

資本家の商品を消費者ではなく商人資本に販売すると、商品が貨幣に転化される時間が先取りされ、それによって「流通過程が短縮」され、再生産が加速・拡大されるというのです。

これによって、「架空の需要」による生産がすすみ、恐慌が準備されます。

(もう一つは信用制度です)信用制度によって商人資本 は、銀行から貨幣を借り入れて、買った商品を「売ってしまうまえに、自分の購入を繰り返すことができ」、「架空の需要」が拡大されます。

こうして、消費の制限を超えて生産が拡大し、ついには恐慌に至る(のです)

ということで、産業資本家、商人資本、銀行が三位一体となって流通過程を高速度回転させるのが恐慌の原因だということになる。

うーむ、それだけでは「世紀の大発見」と言うにはちょっと物足りないな。やはり剰余価値生産という生産様式がそれらを必然的に帰結するという論証がないと…

うろ覚えだが、大谷さんによると、たしか第3部のこの部分を書いていて、マルクスが何かに気づいたことは間違いないようだ。第3部の清書を一時中断して、第二部の該当部分(流通過程)のところにマルクスは戻っている。
第1部以来、剰余価値説を中核概念としながらこの概念が弁証法的に発展して総過程へとつながっていくはずなのに、いきなり「流通過程の短縮」という外来的な概念が混入してしまった(混入させてしまった)ために、首尾一貫性が途絶してしまう。このままでは「流通過程の短縮」は超時代的なメカニズムになってしまう。このためにマルクスは論理構築過程の再検討を迫られたのではないだろうか。
それにもかかわらず、論理の再構築に向かわせるほどに、このアイデアは強烈だったといえるのかもしれない。

ただ私としては、マルクスが “需要(欲望)の再生産” 過程を一貫して自然成長的なものとしてみていることに無理を感じる。ここが分析されないと、結局二つの命題は接ぎ木状態のままだし、最終的な価格の実現も説明できないのではないかと感じている。ケインズ的、ないし福祉経済学的な知見を資本論の論理の中に繰り入れる作業が必要ではないだろうか。

不破さんの連載が始まった。きっとまた長いだろう。

というのは、本日の4回目に至って、突然、本題が飛び出したからである。連載というのは、前置きが長いといつの間にか真面目に読まなくなる。

こちらもうろたえて数日前の新聞を引っ張り出してみたが、やはりどうということは書かれていなかった。

ひと安心して本日の記事を読む。

連載の名前は「資本論刊行150年に寄せて」、本日の記事名は「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」となっている。

不破さんによれば、恐慌論が初めて展開されたのは1865年のことだと言う。

57年草稿(経済学批判要綱)以来、マルクスは利潤率低下の法則を恐慌の原因としてたが、このときに考えを変えたのだそうだ。不破さんは、恐慌に関するマルクスの「新テーゼ」を次のように説明する。

新展開の眼目は商人資本の役割に注目したところにありました。それが再生産過程を現実の受容から離れた「架空の軌道」に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深刻化させるという資本主義独自の運動形態…


不破さんはこの発見を「資本論の転換点とも言える劇的な瞬間でした」とやや大げさな書き方で表している。

言葉通りに信じると、私が読み飛ばしていたところに大発見があって、それを不破さんが掘り出したということになる。

それで、それがどこかというと

資本論草稿の第3部の第18章の一部だそうだ。

あれっ、ここは結構熟読しているところだよなぁ。

不破さんはこう書いている。

特別に恐慌論らしい標題がついているわけではないので、読み過ごされがちのところですが、ここでは商人資本の役割に焦点をあてながら、新しい理論展開の筋道が詳しく説明されています。

資本論全巻の中で、マルクスの恐慌論にせまる唯一の貴重な文章ですから、ぜひ目を通していただきたいと思います。

不破さんによる新説ということなのか、ある程度学者の共通認識となっているところなのか。


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