鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

もう疲れたのでロシア旅行の話はやめます。とハイっても旅行の話はほとんど書いていません。
さいごにマリンスキー劇場と「眠れる森の美女」の話だけ書いておきます。後はどうでもいい話ばかりです。

強調しておきたいのは、「これは旅行会社の出血大サービスだ」ということです。

たとえ2線級だとしても、これはとんでもなくすごいことなのです。ツァーのオプションでついていて1万6千円なのです。こんなオプションは絶対にありえません!

例えば楽団だけ日本に来て演奏会やれば、それだけで1万6千円です。それを伴奏にして、豪華バレー団がこれでもかと踊りまくるのです。

これが東京に引っ越し公演すれば軽く4万円です。しかもそれを初演の地ペテルブルクのマリンスキーで見られるなら、6万でも7万でも出すでしょう。

天井桟敷ならそれはそれで相談ですが、1回の平土間席の後ろから5列目、貴賓席の真下です。どうします?

しかも!! コロナ騒ぎで、今日を限りに当分閉鎖ということならこれはプレミア付きです。そとで切符をプレミア付きで売ったら10万出しても買う人がいたでしょう。

もっといいましょう。ではなく、もっと言ってもらいましょう!

というページがあります。

眠れる森の美女は、チャイコフスキーのバレエ音楽の中で最も演奏時間が長く、全曲を通した上演には普及している縮小版でも優に2時間を要します。原型に基づく上演の場合、上演時間は3時間に及び、マリインスキー・バレエだけが上演している本格的な眠れる森の美女の上演時間に至っては4時間にも及びます。

そうなんです。私たちの公演ではこれにいつ果てるとも知らない、長いカーテンコールがあって、11時半になって、さすがにつきあいきれず帰ってきました。

正直言ってバレエというのはわかりません。むかしテレビの出始めの頃「バレエへの招待」という連続番組があって、芦原英了さんが司会をしてパ・ド・ドゥとかなんとか解説していましたがさっぱりわかりませんでした。憶えているのは長門美保さんというプリマが、不気味なほどすごい大根足だったということです。

とにかく長い。幕間には2階の待合に行ってグラスワインを貰ってきました。ただです!

フラフラと館内を回ってきましたが、とにかくすごい。暗さが半端じゃないのです。昭和じゃなくて明治の暗さなのです。

むかし子供の頃白熱電灯だけで照らされた大広間に入ったことがありますが、あの明るさと暗さの対比。灯影はほとんど暗闇なのです。出来た頃はまだ電灯でなくてろうそくだったのかもしれない。

座付きの管弦楽団がまたすごい。3管編成なのでしょうか、とにかく狭い劇場には不釣合な音響です。
バイオリンソロなど、まるで耳もとで弾いているみたいな音量です。

とにかく「もうこれで死んでもいい」くらいの音空間に浸ることが出来ました。極楽、極楽!
(その割にはカネ、カネばかりですね)

リャードフを聴いています

閉じ込められて、大好きなリャードフ(Lyadov)を聴いています。

リャードフほど生粋のペテルブルクっ子作曲家はいないでしょう。
ペテルブルクの音楽院を出て、そのまま学校にダラダラと居残って、リムスキー・コルサコフの叱正を浴びながら、大して曲も書かず、従ってというか大して有名にもならず、そのまま一生を終えた人です。
曲はみなエスプリに満ちていて、こういっちゃなんだけどショパンよりもっと上品です。
晩年になってから全音階音楽に手を染め、大規模な管弦楽作品を残しました。しかし大規模なのは編成だけで、あっという間に終わってしまう曲ばかりです。
ディアギレフからバレエ音楽を書けと言われたけど、結局書けずに終わって、その代作がストラヴィンスキーの「火の鳥」というわけです。私が思うにはあれはリャードフのパクリですね。

ペテルブルクに行ったけど、団体旅行なので、リャードフどころか音楽院も見ることができませんでした。
でも、バレーを見に行ったマリンスキー劇場の向かいの修理中の建物が音楽院だと聞いて、「あぁこの辺をリャードフは歩いていたんだな」と、ふと感慨にひたりました。

私の好きな12曲、いずれもピアノ小品ばかりです。

① Valse op.9 n°1
Prelude Op10_1
Prelude Op. 11 - 1 in B minor
④ In the Glade Op. 23
⑤ Musical Snuff Box, Op 32
⑥ Preludes Op. 36 - No. 2 in B flat minor
⑦ Etude Op. 37 in F
⑧ Mazurka Op. 38 in F
Barcarolle Op. 44 F# major
⑩ Preludes, Op.57 Nº1
⑪ Mazurka in F minor Op. 57 No. 3
⑫ Sarabande in G minor

ほとんどはYouTube で聞けると思います。
PS 一応リンクつけときました
ほとんどの楽譜はIMSLPで手に入ります。

独ソ戦とソ連側犠牲者に関する年表

概要

独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、民間人が1200万人の計2700万人。これに対しドイツ兵が390万人、民間人が300万人と推計される。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大である。
ソ連兵の戦初期の捕虜500万人はほとんど死亡。またドイツ兵捕虜300万人中、およそ100万人が死亡した。


1941年

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6月

6月22日 ドイツ軍、バルバロッサ作戦を発動。ソ連に奇襲攻撃。

緒戦において赤軍は各戦場で大打撃を被り、敗れ孤立した将兵は百万人単位で捕虜となった。
ドイツ国防軍の捕虜となったソビエト赤軍将兵の約60%、およそ500万名が死亡。この内280万名が開戦後半年以内に死亡。
イギリス軍、アメリカ軍の捕虜の死亡率は3.6%にとどまる。
収容所の多くは収容施設そのものが存在せず、平原を有刺鉄線と監視塔で仕切っただけのものであった、捕虜たちは、穴を掘って凌ぐほかなかった。冬が始まった時、冬が始まった時、捕虜は防寒服などをドイツ軍により奪われたが、これは致命的だった。
その他、ウィキではソ連POWの扱いについて事細かに記載されている。

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  星印のついたユダヤ人の捕虜
6月23日 リトアニア臨時政府成立

6月26日 ドイツ、西ドヴィナ川の橋確保

7月

7月6日 - 第一次スモレンスク攻防戦

7月9日 - ドイツ、旧国境陣地線(スターリン線)突破

7月15日 - ウーマニの戦い

7月21日 ドイツ、モスクワを空襲

7月23日 - キエフ包囲戦開始

7月31日 フィンランド、ソレントの戦闘開始。冬戦争で失ったカレリア地峡の奪還を目指す。

8月

8月 スモレンスク陥落に伴い、中央軍主力を南部に配置する。

8月5日 - オデッサの戦い

8月9日 大西洋会談開催、大西洋憲章の調印

8月23日 - 第一次キエフ攻防戦

8月30日  ウクライナで数十万のソ連赤軍部隊が壊滅。ドイツ軍がネヴァ川に達する。
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ソ連軍捕虜収容所 建物はなく野ざらしだった


9月

9月4日 - ドイツ軍がレニングラード市内、またペレコープ地峡への砲撃開始

9月8日 レニングラード包囲戦の開始

9月12日 - ロストフの戦い
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 シラミ駆除のため裸にされた捕虜たち
9月19日 ドイツ、キエフ入城

9月24日 - セヴァストポリの戦い

9月29日 第1回モスクワ会談開催

9月29日 ドイツ軍、バビ・ヤールにて、一度に最多の犠牲者を出したバビ・ヤール大虐殺開始

9月30日 モスクワ攻略を目指すタイフーン作戦が開始される。

10月

10月1日 - アメリカ・イギリスがソ連に対し武器貸与約束

10月19日 ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫る。冬の泥濘と降雪により、ドイツ軍の進攻止まる

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ソ連軍兵士の冬服は剥奪され、多くが凍死した
10月20日 - 第一次ハリコフ攻防戦

11月7日 モスクワ市が陥落の危機を脱する。アメリカはこれを見て、ソ連に対する武器・物資援助を開始。

11月15日 - ドイツ軍がモスクワ攻勢再開(秋季攻勢)

ドイツ軍の損害は投入兵力の35%、100万人におよぶ。戦死者は20万人に達する。

12月5日 ソ連軍の冬季反攻開始。ヒトラーはモスクワ戦線の死守を命令。

12月6日 - イギリス、フィンランドに宣戦

12月8日 日本が真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスに宣戦布告

1942年

1月

1月8日 赤軍総司令部、北部で反転攻勢命令を発動。ルジェフ方面へ向かって進軍。前線を西へ押し返したが、ルジェフは落ちなかった。

1月18日 ノヴゴロド州の南部ホルムを赤軍主力が包囲。ホルムはレニングラード包囲部隊の唯一の補給基地だった。3か月後に航空支援により包囲が突破される。ナチスはこれを英雄的な闘いとして宣伝。

1月20日 - ドイツにおいて、ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関するヴァンゼー会議の開催

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5月2日 バッケ食料次官が東部での食糧収奪計画を立案。スラブ人(ポーランド人とロシア人)3千万が餓死することを前提としていることから「餓死計画」と呼ばれる。

5月12日 第二次ハリコフ攻防戦。ソ連軍がウクライナ東部で反撃。ハリコフ奪回を目指す。

5月 ルーズベルト大統領、「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と発言。

6月6日 ヒットラーがみずからコミッサール指令を発する。「完全なボリシェヴィキ」と特定された捕虜は即座に処刑。

6月28日 南部戦線でブラウ作戦始まる。ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的とする。

7月  ヒムラーの指示を受けたベルリン大学教授コンラート・マイヤーが東部総合計画(改訂版)を提出。
「餓死計画」をさらに凶暴化。スラブ人3千万から5千万を追放・消滅させると提案。空白地となった東部にドイツ人が移住することになっていた。

東部計画はポーランド東部のザモシチで実験された。ドイツ人10万人が移住、住民は強制労働を強いられ、一部は絶滅収容所に送られた。(ザモシチはローザの故郷)

8月12日 - 第2回モスクワ会談開催

8月22日 ドイツB軍集団、スターリングラードの大部分を確保。

11月19日 ソ連、天王星作戦を展開。スターリングラード西方で補給線を切断し包囲戦に入る。ヒトラーは退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じる。

11月22日 - ドイツ、ドン川及びヴォルガ川より退却

11月25日 ルジェフに対して再度攻撃。ルジェフはかつてのモスクワ包囲網の一部で、ドイツ軍の突出部となっていた。この闘いは時期的にはスターリングラードの戦いと並行して行われ、火星作戦と呼ばれた。ジューコフ大将が総指揮をとった。ソ連軍はドイツ軍の前に大敗北を喫し、兵33万5千人と1600両の戦車を失った(戦死は10万人)。

12月11日 ドイツ軍が、B軍集団の救出作戦を開始(冬の嵐作戦)。ソ連軍はこれを阻止すため、「小土星作戦」を開始

1943年

1月

1月12日 - イスクラ作戦

1月13日 ニコラエフカの戦い

1月30日 ヒトラー、スターリングラードのドイツ軍に玉砕命令。第6軍司令官パウルス元帥はこれを拒否し投降。

典型的な「どっちもどっち」論
下記は、戦記物作者が陥りやすい現場論議である。
ヒトラーは『総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならない』という仮借ない命令をドイツ軍に下しました。
一方でスターリンもソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する『阻止部隊』を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした。
両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈しました。

2月 コーカサス方面に進出したA軍集団は、かろうじて撤退に成功。

2月19日 第三次ハリコフ攻防戦。ソ連軍はドイツB軍集団を攻撃し、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動。

3月

3月1日 - ドイツ軍がルジェフから撤退開始(水牛作戦)。市民のうち9,000人は射殺されたり拷問を受けたり収容所で飢えたりして死んだ。人口の6分の1はドイツに送られ強制労働をさせられた。

4月13日 - カティンの森事件の発覚

7月4日 ドイツ軍がクルスクの突出部へ先制攻撃。東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員、兵員90万人を投入した。予備兵力は皆無だった。

8月23日 - 連合国軍がベルリンを重爆撃

11月3日 ポーランドのマイダネク強制収容所でユダヤ人大量殺害を実行。「収穫祭作戦」(囚人は血の水曜日と呼んだ)。収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された。
マイダネクでは36万人以上が死亡した。その内訳は、22万人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万人が毒ガス・銃殺により死亡した。

11月6日 ソ連、キエフ奪還

11月22日 - カイロ会談開催

1944年

1月

1月20日 ソ連軍がレニングラード市を解放。

2月1日 ソ連軍によるエストニア攻略作戦が展開。エストニアの抵抗組織がドイツ軍に加わることにより、戦線はナルヴァ川で停滞。

5月9日 セヴァストポリ周辺の枢軸国軍が降伏

6月

6月22日 バルバロッサ作戦開始4周年を期して、ソ連軍のバグラチオン作戦開始。陸空一体の電撃戦を前にドイツ中央軍集団は事実上壊滅。

8月

8月1日 - ワルシャワ蜂起

9月19日 フィンランドがソ連とモスクワ休戦協定締結。


1945年

4月25日 アメリカ軍とソ連軍がエルベ川付近で邂逅(エルベの誓い)

4月30日 ヒトラー自殺

5月7日 ランスにおいて、ドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将がドイツ軍の降伏文書に署名し、ドイツが降伏



前の記事でエジンバラ大学が「新哲学」としてニュートン理論を導入し、その影響を受けたスチュアートが「経済学言論」を書いたとあった。

どうもこの辺の経緯がよく分からなくて、ネットをあたってみた。

とりあえず西脇 与作さんのブログに「微積分の背後へ」という記事があった。読んでみたが、ちんぷんかんぷん。とりあえずゴシップ記事的にまとめておく。

ことのはじめはニュートンの秘蔵っ子学者マクローリンがエジンバラ大学に赴任したことにある。

マクローリンは大学の改革を試み、その土台にニュートン理論をすえた。そしてこれを「新哲学」と呼んだ。

バークリのニュートン批判

1734年、これにバークリが噛み付いた。それが『解析家-不誠実な数学者へ向けての論説』(The Analyst: or a Discourse Addressed to an Infidel Mathematician)という論文である。

不誠実な数学者と名指されているのはニュートンその人である。

バークリはどこに噛み付いたか。

ニュートンの微分積分学の基礎には「無限小」といいう概念がある。

ニュートンはこの概念を用いてライプニッツ派(大陸派)と微積分のプライオリティを争っていた。

バークリは「無限小」=ゼロは、帰納的には証明できないと主張した。それは存在論的な誤解にもとづく論理的な誤謬なのだとし、彼岸性を主張した。

バークリは形而上学が数学の限界を定め、それが内包する哲学的問題を明らかにすると述べた。微分積分学は論理的に緻密でなく重大な難点がある。

「それを放置しておいて、教会の教えの非合理性ばかりを批判することができるか」という言い分だった。この男がずるいのは、いつもドローに持ち込めれば勝ちという作戦をとることだ。不可知論者の真骨頂だ。

無限小と無とゼロ

無限大・∞という概念があるのだから「無限小」もあってよい。それはゼロと同じだがゼロとは違う。

バークリの批判は、存在論的なものと論理的なものとの二つに分けることができる。

存在を極限あるいは無限小に帰することは正当化できない。それに相当するものは何も存在しない。

論理的な観点からいえば、「無限」の比較が行われていることである。

また、バークリは物体の存在なしに空間を考えることはできないとして、ニュートンの絶対空間の存在を否定した。

マクローリンとエジンバラ大学

18世紀スコットランドは自然科学の黄金時代だった。

1717年、エディンバラ大学の卒業生たちによって伝説的なランケニアン・クラブが結成された。そこではもっぱら哲学的、宗教的問題が議論された。

ランケニアンという名は、クラブの会合が行われた居酒屋の主人の名前からきている。

その後、人々や医学者たちは正式に哲学協会を発足させる。マクローリンはその中心人物であった。

ランケニアン・クラブにはじまるスコットランド哲学の形成は、クラークの自然神学や、これに対するバークリの批判を検討することから始まった。

マクローリンは無限小は証明を簡略化するためにだけ使用されたと主張した。さらにマクローリンは、極限によるニュートンの証明が「アルキメデスの方法」(帰謬法)の一般化だったとする。

後は面倒なので省略。

近代開始期におけるスコットランドの意味

実は「医師マンロー伝」を執筆中であるが、多分挫折するだろうと、密かに思っている。

その理由は近代開始期よりマンローの出現に至るまでのスコットランドが、なにか宝の山でもあるかのように多くの頭脳を生み出しているからだ。
それに気を取られていると、肝心のマンローの話がちっとも進んでいかない。

スコットランドの歴史への登場、それはまずスミスとスコットランド派の経済学者の著作から始まった。それはスチュアート・ミルの登場をもっていったん終了するのであるが、それはエジンバラ大学医学部の系譜へとつながっていく。

すなわちチャールズ・ダーウィン、コナン・ドイル、そして我らがドクター・マンローである。

イギリスの中でも決して先進地域とは言えないスコットランド、政治・経済的にはイングランドの後塵を拝していたスコットランドが、なぜ今も光り輝くような経済学の古典を生み出したのか、おそらくその精神がエジンバラ医学の骨格を提供しているのではないか。

一応、ウィキから経済的背景をレビューしてみた。

1688年の名誉革命によって、スコットランドはインの支配下に入った。人口で5倍、経済力で38倍の差があった。

1707年 スコットランドはイングランド王国と合同して、グレートブリテンを形成。

それまでスコットランドの伝統的な味方はイングランドではなくフランスだった。知識人は行動の指針をフランスの啓蒙主義に求めた。

1745年 旧王の勢力がスコットランドで反乱。一時はロンドンの北200キロのダービーまで迫る。ジャコバイトの反乱と呼ばれる。
このあとタータンとキルト、バグ・パイプの使用が禁止された。

1760年以降 ヨーロッパの辺境から産業革命の中心地へと変身していく。

製糸や石炭鉱業が盛んになる。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関車は産業革命の中心となる。

スコットランドが経済成長の中心となった理由。
大学・図書館が整備されたこと。
農牧地の囲い込みが大規模に行われ、都市に豊富な労働力をもたらしたこと。
人件費がイングランドより圧倒的に安かったこと。
があげられている(ウィキ)

18世紀スコットランドの学問状況

これは膨大な作業になるだろうと思い、つい怯み続けてきた。

このたび、インターネットで下記の論文に出会い、議論のヒントが多少見えてきた気がする。
とりあえず、読書ノートとしてアップしておく。


出だしの部分は快調なので、そのまま引用させていただく。
十八世紀後半期をもって経済学史上の最も決定的な画期のひとつと見ることができる。
ケネー『経済表範式』(1767)、ジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767)、アダム・スミス『国富論』(1776)という3つの巨大な経済学体系が、その象徴として聳え立ったからである。
この内、後ろの二つは経済的に後進国であり、政治的にイングランドに従属していたスコットランドの作り上げたものである。
これら「スコットランド歴史学派」は、一つの謎である。
田添が考えるには、

イングランドは、直面する経済・社会問題を次々に認識し、その場その場で対策を樹ててきた。

だがそれでは体系的経済学を発想することさえできない。スミスはそれを「学問研究を全く放棄してしまった」と批判した。

一方、後発のスコットランドは切羽詰った位置に置かれていた。イングランドやフランスのような先進経済に飲み込まれまいとすれば、それに追いつき追いこすことが至上命題であった。

そのためには両国が歩んだコースをたどり、それをセオリー化し、市民社会の形成地図を描き出すこと以外になかった。

このようにして諸範疇を検出し編成する、つまり体系をつくり出すことがスコットランドの使命だったのである。


スチュアートとスミスとマルクス

ここは下世話な話も交えて大変楽しいところであるが、本筋から外れるので省略する。

ごく荒っぽく紹介しておくとスチュアートの著作は歴史的、発生的議論を踏まえておるので大変説得力があるのだが、スミスは彼の議論の曖昧さをついて、要するに重箱の隅をほじくり、取れる揚げ足を取りきってスチュアートを投げ捨てるのに成功した。

その経過を知ったマルクスはスチュアートの歴史的論理を用いてスミスを批判するのだが、結果的には勝手な解釈で議論を混乱させ、しかもなおかつスミスを批判しきれていない、という惨めな状況に陥っている、というのが田添さんの議論のようだ。


スチュアートと「超過利潤」論

田添はスチュアートの理論の内実にも踏み込んでいる。

ステュアートは生産過程を流通から把握するという観点を貫き、利潤範疇に対する内在的な考究を進めた。こうして利潤が流通過程から発生するだけではなく、生産過程にすでに基礎をもつことを明らかにした。

さらにその事をもって、生産過程を中核として近代市民社会が形成される過程を解き明かした。これは重商主義的理解にとどまっていたスミスを凌駕するものである。

スチュアートは有効需要を社会的な発展の原動力として把握した。ステュアートにあっては、賃金が生活資料の価値を規制している。

スチュアートとニュートン

エディンバラ学派については簡単に触れれれているに過ぎない。

ステュアートが学んだエディンバラ大学では18世紀中頃に教育改革が進められた。「新哲学」としてニュートン理論が導入され、それに基づいて教育体系の刷新が進められた。

こうした変革の風はステュアートに強い影響を及ぼした。実証的な歴史過程をふまえた理論的考察が何よりも重視されるようになった。

これ以上については不明である。ニュートンとスコットランド学派については別途検討して見る必要がある。

しかしそれにしても、ここまでふくめて医師マンローを描き出すのはなかなかに大変である。


(4月7日 更新)

我々にとって、たしかに「社会主義の大道」を探ることはだいじなことでしょう。未来社会論というカテゴリーはそれを指しているのだろうと思います。

しかしそれ以上に必要なのは、「社会主義の大道」ではなく「歴史の大道」なのではないでしょうか。
スターリンも見てきて、毛沢東も見てきて、場面によってはそれを反面教師に、それを乗り越える形で、私たちは「社会主義の大道」を学んできました。

ただ綱領(マニフェスト)的見地からみるならば、「社会主義の大道」はもはや主要な問題ではありません。大事なのは、あれこれの路線が社会主義の大道か、それとも脇道とかという「内部論争」ではありません。

大事なのは私たちの目指す「社会主義の大道」が、「歴史の大道」に従っているかどうかです。そのことによって、私たちは社会主義の道が「歴史の大道」であることを主張できるのです。

「歴史の大道」とは何でしょうか。それは20世紀において人類が果たした前進を引き継ぐことです。二つの世界大戦の再現を許さず、平和の道を歩むことです。そして、すべての人間が “人間として平等” であることを認め、人類愛にもとづく世の中を目指すことです。

それが20世紀から引き継ぐべき最大の任務でしょう。

それは世界大戦を引き起こしたものが誰なのかを知ることです。その人類の敵どもが、何を目指して何を行ったのかを知ることです。

同時に、人類の敵と闘い彼らを撃破したのが誰なのかを知り、そのためにどのくらいの血が流されたのかを学ぶことです。

「歴史の大道」は単純に与えられたものではありません。それは私たちに進むべき道として指し示された道なのです。

私たちは「歴史の味方」だった人たちに寄り添い、流された彼らの血を無駄にすることなく、平和と民主主義、人類愛のために戦わなければなりません。これが実践としての「歴史の大道」なのです。

歴史は無謬ではありません。

変革を目指す多くの人たちは、その願いとは別に多くの誤ちを積み重ねてきました。その中には許せない誤ちもあり、甘受せねばならない誤ちもあっただろうと思います。むしろ、正しいものなどなかったという方が正確かもしれません。

肝心なことは、人類は20世紀にどう進歩したのかという視点から流れを見極めていくことです。さまざまな誤りもふくめて、歴史を前進させていく人間の歩みを、全体としてポジティブに受けとめて行くことがだいじなのです。

私たちは審判者ではありません。私たちの仕事は、「社会主義の大道」の視点からあれこれ詮索することにはありません。歴史の審判は歴史がするのです。

メトロノームの針が右に傾いたら反動で左に傾いたら進歩というわけではありません。人間は右足と左足を交互に前に出しながら歴史の歩みを進めていくのです。

だからリアルでしっかりした「20世紀論」を構築し、その上に「21世紀論」と「未来社会」を積み上げなければならないのです。中国批判の上にセメダインで接ぎ木するようなものではありません。

2回めを迎えて、志位さんの綱領改定の講義がますます冴え渡っている。
志位さんの批判の刃は鋭く、快刀乱麻、とどまるところを知らない。
わたしごときオールド・ボルシェビキには、我が身を苛まされる如きマゾヒスティックな快感すら覚える。

今更ながらの話になるが、2000年を迎えるにあたって「来たるべき世紀」の物語は語ったが、20世紀論を語り尽くさなかったことが後悔される。

とくに今回ロシアを旅し、独ソ戦とペテルブルクの包囲戦の実相を知るに及んで、ファシズムというのが20世紀を彩る最大の出来事だったということ、ファシズムとの闘いこそが、民主主義論にヒューマニズムという価値観を付加し、「現代民主主義」の考えを強固にささえていることを実感した。

思えば、20世紀は戦いの世紀だった。本当に数々の戦いがあり、それを世界の民衆は戦い抜いた。そして私達に平和の時代を引き継いでくれた。

ボルシェビズム、スターリン主義、毛沢東主義… いろいろ言われておりそれらに対する批判はまことにもっともなことではある。我々は苦渋を以て「社会主義の失敗」を認めなければならない。

しかし、それにも関わらず、ソ連や中国の人民は多大な犠牲を払って、世界からファシズムを放逐する闘いの先頭に立った。その事を忘れるべきではない。

その事実に思いを致し、その戦いに敬意を払うことは、現下の政策に批判を加えることとはまったく矛盾しない。むしろその敬意こそが、ソ連や中国を批判するうえでだいじな背景となっているのである。



Winamp をもう一度試そうとダンロードして立ち上げたが、海外放送はまったく反応しない。

もう海外放送というのがそもそも潰れたのかと思ったが、ネット放送+海外で検索してみたらまったく話は違っていた。

“Audial Radio Free” というソフトが有って、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。

二通りの録音方法

これで録音するには二通りあって、一つはオンラインでストリーミングを流して、それを先程のようにAudacityで録音する方法である。ただしこれはラジオ放送のエアチェックと同じ原理なので、やってみないと何が取れるかわからない。

音源そのものも、その場でメモしておかないと、なんの曲で誰の演奏でというのがわからなくなる。高齢者には絶望的な作業である。

アプリを落として録音する方法

こちらの方はWinampと同じで、ソフトをダウンロードして立ち上げる。放送局一覧に行って聞きたい番組をクリックすれば音楽が聞ける仕組みだ。

もちろんそれをストリーミング録音することもできる。こちらの方はまだよくわからないが、録音を開始するのは簡単で、ダウンロードのフォルダーにMP3の形式で保存されていく。原音にもよるのだろうがビットレートは320kbというかなりの高品質だ。

有料版というのもあるようでどのくらいの性能差があるのかも不明だ。もう少し経験を積んでからまた報告する。

難点は使い方を説明したサイトが少ないことで、日本語版は会社の取説ページを除けば、数えるほどしかない。そして取説はいかにも取説で、かゆいところをすべて省いてくれている。

ホームページからのダウンロードは複雑

ダウンロードが非常に複雑で、至るところに地雷原が仕掛けてあって、有料版へ向かう落とし穴や、ログインを強制する画面が顔を出す。まるで「ゼルダの伝説」みたいだ(と言ってもまったくのゲーム音痴だが)。

企業のホームページからのアクセスは避けて、ウィンドウズのアプリストアというところから入っていくことにする。


グーグルで “Microsoft Store  Audials Radio Free 日本語” と入れて検索をかける。

Audials Radio Free を入手 - Microsoft Store ja-JP」が真っ先に引っかかるので、そこに入る。


すると下図のページに異動する。
Audials
ここで「入手」をクリックすると
開きますか?
がポップアップで出てくるので「開く」をクリックする。

しばらく微妙な時間が続くと、別のポップアップ画面(ちょっと大きめ)が現れる。
インストール済みです
一瞬行き止まりに入ったみたいで心配だが、上の方に「この製品はインストール済みです」と書いてあって「起動」ボタンがあるので、クリックする。

そこで時計がぐるぐる回って、下の画面に到着する。これでプログラムは開始されたことになる。
起動時画面
ここで検索窓に“Classical” と入れると、局が列挙されるので普通に開けていけばよい。

初期設定については記事を改める。



あたしも馬鹿だねぇ。気がついたら、1年前におんなじことをやって、おんなじように挫折している。


というのがそれだ。

You Tubeの音がひどくなって久しい。ときどき何かオンラインソフトとか、アプリでなにか出物がないかチェックするが、まったくだめだ。
結局、ダウンロードでAACとかビットレーとか書いてあるが、あれは嘘だということがわかってきた。本当に95kbps あればもう少しまともな音がするはずだ。きっと実際の音は50そこそこではないかと思う。というのは、以前ネットラジオからチェックした時、95kbといえばそれなりにハイファイだったと覚えているからだ。 
しかしそれはダウンロードできるファイルのビットレートであり、You Tubeから流れてくる音はそのままオーディオに流してもそれなりに聞けるような気がする。
そこで当分の間、流れてくるストリーム音源をそのままアナログ録音して見ようと思う。

仕掛けは実に簡単だ。You Tubeの音楽を再生して、それをAudacity で録音すればよい。ただし一つだけ準備が必要だ。
Audacity
6段目の左端のウインドウ。“Windows WASAPI” になっているが、デフォールトは “MMI” になっている。そのままだとマウスのクリックとか内蔵マイクの拾った音とか全部入ってしまう。
窓の右側の下向き矢印をプルダウンして、“Windows WASAPI” に変えなければならない。
そこだけ直せば、後はスイスイと録音できる。

まっさらのおろしたてのAudacity ならもう少し仕掛けがいる。
Audacity は Wav 方式で録音することになっている。これをMP3に変換して保存するためにはエンコーダー(Lame) が必要だ。Wavのまま保存してもいいが、無駄だ。所詮それほどの音質ではない。私はMP3の200Kb 固定レートで保存している。演奏時間がわかるので絶対固定レートにすべきだ。

ファイル分割が必要になることがあるが、Audacity でも問題なくできるが、やはりMP3 Directcut が断然楽だ。餅は餅屋で(といってもAudacity は録音ソフトではないが)。

聞いてみての感想だが、ダウンロードファイルより断然良い。高音部のくぐもりが宇宙晴れする。よく今まで我慢して聞いてきたものだと感じる。

録音したままで席を立つと、次のファイルまで延々と録画される。クラシック音楽の場合は、案外それで良かったりする。次のファイルまで録画してしまっても、それはそれで使えることがある。

以前、海外ネットラジオのストリーミング再生できるソフトが流行って、中にはWinamp などストリーミング録音が可能なものもあった。ダラダラと無制限に録音しておくと、ちゃんと曲ごとに区切られてタグも付いてというすぐれものだったが、曲そのものがお仕着せということもあっていつの間にか使わなくなってしまった。

一度探してみよう。

大きな声では言えないが、12日から19日までペテルブルクとモスクワを観光旅行してきました。
毎日、刻々と状況が変わり、帰る前の日には午後と夜の行事がキャンセルとなりました。

帰りの飛行機は肘掛けを上げて、3席独占。臥床して寝ることができました。
それでも成田についたときには思わず客席から拍手がでました
機内ではイタリア帰りという若者が、「あちらではとんでもないことになっている」と話していました。
帰ってきたときは、むしろ日本のあっけなさに「大丈夫かな?」と訝しんだくらいですが、いよいよ本物になってきたようです。

23日、イタリアから到着した40代男性の新型コロナ感染が確認された。

22日のツイッターにはこのような発言も: 「この時期に旅行する神経が分かりません。何故行ってしまったんですか? 帰国して、しかも待機せずとか…」

イタリアのコロナは別物?

どうも日本で感じていたコロナ像と、ヨーロッパを席巻しつつあるコロナは、別人のような印象を受けます。例えて言えばインフルエンザのAとBくらいの違い。

とにかくやたらと人相が悪い。感染力も毒力もエグくて、ファシストの顔をしています。

これから日本に来るのは別のコロナと考えたほうが良いのではないでしょうか。

イタリア・コロナの特徴

とにかく報道の範囲から、イタリア・コロナの特徴を探ってみたいと思います。

1.感染スピードがやたらに早い

25日の時点で全世界の感染者は40万人を超えました。前の日に比べて4万712人増えています。絶対数はばらつきがありますが増加数は圧倒的です。

感染者が10万人に達するまで67日間、次の10万人はその11日後、さらに次の10万人はわずか4日間でした。その多くがイタリア、スペインなど南欧系諸国です。

以下は岩田デノーラ砂和子さんによるものです。
イタリア政府は7日に北イタリア14県の封鎖(行動抑制)を決定しました。各州知事は北イタリアから来た人に14日間の自主隔離を通告しました。
しかし煽る報道も手伝って非常識な人々、およそ数万人が全国に散ったのです。それが各地でトラブルとなりました。実家に到着するも家に入れてもらえず、車で自主隔離を迫られることもあったようです。
これらの混乱は、コンテ首相が「私は家にいます #iorestoacasa」とテレビで語った後、沈静化したようです。
レッドゾーン
            14の封鎖県
2.いまさら仕方ないが “感染者No.0”

イタリアで最初のコロナは1月下旬です。中国人観光客2人がイタリア旅行中に発症しました。

これは孤発に終わったようです。しかし「ステルス・キラー」を通じて生き延びた可能性も否定できません。

1月30日、クルーズ船「コスタ・スメラルダ」でマカオ人女性の疑似患者がいましたが、検査では陰性でした。このため下船予定者1千人がそのまま下船した。

次のケースが2月18日、ミラノ南東60キロでの38歳のイタリア人男性(診断は21日)です。それから1週間以内に900人の感染が確認され、そのうち21人が死亡しました。

経路は明らかになっていませんが、1月中旬に中国とコンタクトがあったドイツ人男性がイタリア人男性と接触していることがわかりました。このドイツ人の勤務先でも陽性者が数人発覚しています。


2.毒性がべらぼうに強い

イタリアで死者が7500人を超えました。すでに中国の2倍に達しています(CSSE)

北部ベルガモ医師会の会長は「自宅で死亡した患者はカウントされていない」と述べています(読売)

注目される研究があります。陽性が確認された約5800例をさかのぼって調査したものです。
これによると、2月20日以前にウイルスはすでに同州南部の広い範囲に拡散していた可能性があるといいます。疫学の専門家の間では、コロナ肺炎に似た症状が昨年秋から確認されており、欧州での感染が早く始まっていたとの見方があるようです(朝日新聞 =河原田慎一)
ソーシャルメディアでは「自分より若い患者に」と人工呼吸器を譲った72歳の神父が話題になっています。(BBC)

スペインでも3400人に到達しました。

木村正人さんによれば

マドリードの高齢者介護施設で17人が死亡、アルコイでも21人が死亡。高齢者介護施設を支援するために軍が動員されています。

遺体を受け入れる場所がなくなり、スケートリンクを臨時の遺体安置所としているそうです。

アメリカは感染者が6万6千人、死者が737人です。インフルエンザが大流行した上にこの数です。


ハグやチークキスとは関係ない

木村一人さんは次のようなイタリア人の意見を紹介しています。
南イタリアではキスしてハグする男性を見かけますが、北イタリアでは基本的にはそんなことはしません。
つまり、もしキスが原因なら“クールな北部人”に多発する事象を説明できない、というのです。

とにかく、そんな生活習慣でこの病気がわかったような気になることは、ぜったいだめです。全く不明のエイリアンが戸口の向こうまでやってきているのです。武漢から昨日まで2ヶ月の経験は、もはや役に立ちません。もう忘れてください。


こういうひどいやつもいる。

古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員というひとで

イタリアの悲劇は中国依存のツケ」というとんでもないデマを振りまいている。
米欧の専門家たちの間では、イタリアが近年「一帯一路」への参加などを通じて、中国との絆を異様なほど緊密にしてきたことが今回の感染拡大の最大の温床となったとする見解が広まってきた。
むかし、朝鮮人部落の子と遊ぶと「あそこの家の子と遊んじゃいけないよ、悪い病気が移るからね」と言われたみたいなものだ。それで病気にでもなったら「ほらご覧、言ったじゃないの」という具合である。この男が違うのは、それを飯の種にしているところだ。

ここまで調べた範囲で中国オリジン説にはなんの根拠もない。欧米では「東洋人は来るな」と殴られたりすることもあるそうだが、この人はそういうリスクも甘受するのか、それとも白人もどきの面立ちなのか?

いずれにしても、学問的に否定されているウワサを、人が苦しんでいるときに垂れ流すのは、しかも他人が言っているように書いて自分の責任を免れようというのは、人間として卑劣の極みだろうと思う。

もうこんなことを言っても役に立たないかもしれないが、もし生き延びる人がいたら、2020年の今日、こんな馬鹿なことを言う人間がいたことを覚えておいてほしい。

大木毅「独ソ戦」を読んでの感想を記す。旅行後の感想もふくむ。

1.犠牲者数への畏怖を持つこと

ソ連側の犠牲者が2700万人というのは、ほぼ動かしがたい数字である

幾多の研究を歴て、人口統計学的に、死者の数字は強固なものになりつつある。問題は民間人の死をどれほどドイツ軍の責任に帰すべきかという線引の問題のみだ。これを厳密に取れば1千万ほど割り引かれる可能性がある。

この法外な犠牲者の数、それに象徴された「生き地獄」への想像力を働かせること、これがすべての出発点である。

2.2700万人はピスカリョフスキ墓地で実感できる

とはいえ、2700万人という数は私にも実感できなかった。

それがやっと実感できたのが、レニングラードのピスカリョフスキ墓地だ。ここに間違いなく、50万の霊が丸太のように埋められている。


3.誰がこのような死をもたらしたのか?

この数字は、戦争による、戦争につきものの死ではない。

邪悪な信念にとりつかれた人間集団の、邪悪な行いによる過剰な死である。それは犠牲者数におけるドイツとソ連との圧倒的な非対称性に明示されている。

大木さんの本のたすきに書かれた「戦場ではない、地獄だ」というのはこのことを表している。

だから私たちは、誰がこの圧倒的かつ非対称的な死をもたらしたのかを、決してゆるがせにできないのである。


4.ヒトラーは3つの戦争を同時進行した

大木さんの主張の根幹はここにある。ヒトラーは3つの戦争を同時進行した。

それは第一に通常の純軍事的な戦争であり、第二にイデオロギーに支配された世界観戦争であり、第三に具体的に敵とみなした相手への絶滅戦争である。


5.原理主義にもとづく世界観戦争

アーリア民族を唯一至高の人間と考える思想に基づく戦略。

戦う相手に降伏を許さない、カイライ政権は一切認めない、住民に一切の権利を容認しない、人間としての平等を認めない、などを基本とする。

それは現地住民のモノ扱い、使い捨て戦略に帰着する。

大木さんは使い捨て戦略の具体的証拠として、二つの「計画」を上げる。

A)東部総合計画

これは1942年6月に採用された計画で、3つの柱からなる。

まず、ポーランドと西部ロシアの住民3千万人をシベリアに送る。
ついで、労働力として残置する1500万人をゲルマン植民者の奴隷とする。
最後に、各国に点在する民族ドイツ人が開拓者として入植する。

B)飢餓計画

これは食料省が企画したもので、ソ連領内からの食料をドイツ本国に供給することを目標としている。

この計画では、現地住民のうち3千万人が餓死することを前提としている。


6.核心となる絶滅戦争

絶滅戦争の典型はレニングラード包囲戦と全期間、全戦線における系統的住民虐殺である。前者についてはここでは省略する。

後者の典型はハイドリッヒの「機動部隊」(41年6月結成)だ。
Heydrichmarke
それは戦争の全期間を通じて90万人を殺害(主として銃殺)した。その対象はユダヤ人とボルシェビキであった。

ヒトラーはボルシェビキとユダヤ人を同じものと考えていた。41年9月アウシュビッツで最初のガス室が作動したとき、その対象はソ連軍捕虜600名であった。


7.ドイツ軍は共犯者、ドイツ国民は無辜ではない

2700万人を死に至らしめたのがナチスであったにせよ、ドイツ軍がそれに積極的に手を貸したことを看過すべきではない。

ここで大木が例証としてあげるのは捕虜の扱いである。戦時捕虜となったソ連軍兵士570万のうち300万が死亡している。ドイツ軍は捕虜に対してなすべき最低の待遇を与えなかった。

国民の多くもナチスの蛮行に気づきながら口をつぐみ、ナチス礼賛を続けた。

ヒトラーへの「共犯性」を覆い隠そうとする歴史修正主義は事実をもって葬り去るべきだ。

それとともに、ソ連の人々が「われわれは莫大な犠牲を払ってヨーロッパと世界をナチズムから解放した」というとき、その声にも謙虚に耳を傾けるべきだと思う。


8.チャーチルの決断

チャーチルは最も強固な反共産主義者であるが、最初にソ連に手を差し伸べた人物でもある。

いろいろな理由が挙げられているが、つまるところ

ひとつは、スターリンは小悪でヒトラーは邪悪の象徴と捉えた。すなわち「人類とその歴史にとっての敵」である。

もうひとつ、この世界戦争はナチス独裁の崩壊を目指す闘いである。独ソ戦はヒトラー対スターリンではなく、ファシズム対ソ連人民の闘いだと考えた。

彼は41年8月の大西洋憲章において、ルーズベルトとこの考えを共有した。

この項は大木さんの意見に全面的に同意するものではないが、私達にとって示唆に富む見解である。




Russia Beyond に「第二次世界大戦によるソ連国民の本当の犠牲者数は?」という記事があって、そこからの引用。

犠牲者数をめぐる議論の経過

1.スターリンは犠牲者数を過小申告した

1946年初めにゴスプラン(国家計画委員会)はより大きい数を報告したが、スターリンは握りつぶした。

1946年 スターリンは「大祖国戦争」に言及。「ソ連は約700万の人々を失った」と発言。犠牲者に関する初めての公式発言となる。

1965年 フルシチョフはもっと大きな数字「2000万人」を示した。ブレジネフも、この数字を一貫して示した。しかし2000万人「以上」と表現した。

ソ連崩壊の後、ロシア当局が公式に認めた推定死者数は再び増加している。

2015年 ロシア国防省が発表した公式の推算が最も新しい、正確なものと言われる。これによると兵士と民間人の両方を含む犠牲者全体が2660万人とされる。

その後2019年までのあいだに、これより新しい数字はロシア当局からは発表されていない。しかしいくつかの研究では、これよりもっと多い数が主張されている。それも踏まえて、2700万人という数が最もあり得べきものとして流布しているのである。

2.どこまでを犠牲者とするか

犠牲者の数は70年かけて700万から2700万まで増えてきたのだが、この数はいったいどこまでの範囲をカウントしたものなのか。

ソ連→ロシア政府当局が対象としているのは、1941~1945年の独ソ戦(大祖国戦争)のみである。

1939~1941年の軍事行動(ポーランドへの侵攻と、フィンランドとの「冬戦争」)、さらに1945年の対日戦は含まれていない。

この犠牲者数は2つのカテゴリーに分かれる。戦闘員と民間人である。それぞれが3つの小類型に細分される。

約1200万人の兵士が戦死したか、行方不明になった。もしくは捕虜になったまま帰還しなかった。

約1460万人は民間人であり、ドイツ軍が占領した地で殺されたか、飢餓や疾病などで死亡した。もしくはドイツに強制連行されたまま帰還しなかった。

2700万人は過小評価? 過大評価?

独ソ戦が終わったのはもう74年も前のことだが、数字をめぐる論争はまだ続いており、さまざまな歴史家がさまざまな推算の方法を提案している。

この中でゼムツォフ議員は4200万人説を唱えている。これは実際に死んだ人々だけでなく、戦争のせいで生まれなかった(と推定される)子供たちまで含めており、恣意的と言わざるを得ない。

いっぽうゼムスコフ教授は1600万人説を唱える。なぜなら民間人の1460万人には「飢餓や疾病などで死亡した」例が含まれており、これでは戦争による死と自然死とを区別できない。

民間人犠牲者のカテゴリーは直接殺害された人たち、空襲、爆撃で死んだ人たち、レニングラード包囲戦で亡くなった人たちに限定すべきだと主張する。こうすると民間人犠牲者は450万人となり、総犠牲者は1600万人となる。。

とは言いつつも、多くのロシア国民が2700万という数字を支持しているのも、いわれのないことではない。

数の問題の議論の前に踏まえておくべきこと

まず、ロシアだから、スターリンだからという色眼鏡をかけて議論するのはやめるべきだということである。

そういう人に議論に参加する資格はない。もし参加するなら、心ある人は議論の輪から身を引いていくだろう。

Russia Beyond はこう書いている。
ただ一つ否定できないことがある。大祖国戦争の間に、ソ連は厖大な数の人々を失った。
だが、それによって世界はナチス・ドイツから救われた。
勝利の代償は恐るべきものであった。が、もし敗北していたら?その代償はもはや想像の外だろう。
つまり、犠牲者の数よりも、犠牲の意味を知ってほしいということだ。それはナチズムという人類史の上で最も邪悪な力に対し、ロシア国民が「十字架を背負って」闘ったということだ。だから犠牲者の数が桁違いに大きいのだというのだ。
だから私たちは平和と民主主義のいまを生かされている。
ロシアの死者たちは、いまを生きる者に、そこを知ってほしいと訴えているのではないだろうか。

モスクワでの行き帰りの飛行機でやっていた「邦画」の主人公。
映画は吹き替えで、中国語がかぶっていた。
だから言葉はわからないし、筋はわからない。でもこの横顔が素敵だった。nana
ストーリー的には脇役らしいのだけど、映像的な存在感は主役を上回っていた。
それにしても変な話だけど、今どきの青年に共通する「生活感が乏しいところに生活感がある」という不思議な人畜無害的透明感。女性の半分はブスではなく美しいという、統計的には単純な事実。
水たまりはたいてい泥水なのだが、蒸留水でできた水たまりが、いまにも日なたで干せ上がるみたいなウソっぽいリアルさ。
横置きの黒御影の墓石の「六甲の水」に差し込まれた一輪の白バラのアイミョン的ワールド
こういう世界、嫌いではない。
気持ち悪いクロスオーバーおっさんやなぁ…

ここではピスカリョフの記念墓地のパンフレットの英文を基礎に、封鎖博物館の説明文を加えて文章化した。なお後者は05年の「イスクラ友好友の会」の旅行記より拝借したものである。
さらにインターネット上の「Russia Beyond」の「レニングラード戦をめぐる7つの事実」という記事と写真を付け加えた。
私のオリジナルはまったくない。のりとはさみによる編集であることを記しておく。
なお、年表化した包囲戦の経過については、ウィキの「レニングラード防衛戦」を元に、別途記事を起こそうと思っている。


1.レニングラード包囲戦とは

レニングラードの包囲戦は都市の歴史で最も悲劇的なページです。そして第二次世界大戦の歴史の中で最も悲劇的なものです。

当時のレニングラードはモスクワに首都を譲ったとはいえ人口320万人。今の大阪市より多くの人が住んでいました。520の工場群と72万の労働者。ソ連各地の発電所設備の8割を有する大都会でした。

レニングラードの包囲は1941年の10月から始まり、2年半も続きました。包囲戦の全経過を通じて100万人以上の市民が亡くなりました。ほぼ同数の兵士が戦場と市立病院で死亡しました。市外に避難した者からも数万人の犠牲者が出ました。

ソ連の戦争犠牲者の数は少なめに見積もられてきました。レニングラードでも公式発表は死者67万人ですが、最近の研究では110万人程度と推計されています。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎をふくむすべて)を上回る数です。

世界の戦争の歴史で、レニングラードほど多くの生命を捧げた都市はありません。


2.ナチス・ドイツの最初の標的

ナチス・ドイツの指導者は、攻撃の最初の標的としてレニングラードを選びました。ヨーロッパから最も近く、政治的・経済的・戦略的に重要な場所だったからです。ヒトラーは熱狂的なナチス党員を司令官に選びました。

それはドイツ軍の「バルバロッサ作戦」と呼ばれる東部侵攻計画の柱の一つでした。

レニングラードを目指す北部軍の特別行動部隊は、6月末リトアニアに入ると首都カウナスで1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺しました。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を射殺します。

ドイツ軍北部軍は1日30キロの速度で進攻、7月10日にはレニングラード州に入りました。レニングラードを防衛するソ連軍には兵士も武器も不足していました。

スターリンは将軍たちを粛清するしか能のない男で、レニングラード防衛軍の司令官をモスクワに召喚すると即刻銃殺刑にしてしまいます。本当は真っ先に自分の頭に向かって引き金を引くべきでした。


3.狭まるレニングラード包囲網

ソ連側では数十万のレニングラード市民義勇部隊が突貫工事で縦深壕を設営、これでドイツ軍機動部隊の動きを止めました。レニングラード南方は沼沢地帯が広がり機動戦が展開しにくい地形です。ここに潜んだソ連軍は原始的な白兵戦を挑み、ドイツ軍に多大な出血を強いました。

人々の抵抗は、ドイツ軍にロシア人蔑視と敵視を強めました。「捕虜の列車輸送は車両が汚染される」とし、禁止しました。ナチの「虐殺部隊」は地方の有力者、知識人も「浄化」の対象とするようになりました。

9月はじめ、ドイツ軍はレニングラードの東方の町、ラドガ湖畔のシュリッセンブルクに出て、レニングラードにつながる陸路を遮断しました。街の周囲は事実上、完全に封鎖されてしまいました。
Siege_of_Leningrad_Eastern_Front_1941_06_to_1941_12
   ドイツ軍の侵攻とレニングラード包囲


4.ヒトラーが望んだのは、勝利ではなく絶滅だった

ヒトラーはレニングラードを攻略するのではなく、この都市を地表上から抹殺しようと考えていました。ヒトラーはつぎのような訓令を発します。
レニングラードを密閉せよ。そして飢餓によって弱体化せよ。春には市を占領し、生存者を排除し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする
ドイツ軍参謀本部が作成した「C‐124秘密文書」には、こう書かれています。
…2 総統はサンクトペテルブルクを地表から拭い取ることを決定した。
…4 もし市内の状況が変わって市民が降伏をもとめた場合、彼らの求めは拒否される。なぜなら補給や食料を提供することに関わる問題は、我々によって解決できないし、解決すべきでもないからだ。
われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。
この目標に沿って、ドイツ軍司令部は集中的な爆撃と砲撃を開始しました。水道・電力などの民生施設と食料倉庫が集中的に攻撃されました。こうして市民は水なし、食料なしで生活することを余儀なくされました。
爆撃を受け避難する市民
          爆撃を受け避難する市民
包囲中、市内では15万個近くの砲弾、10万7千個以上の焼夷弾および高性能爆弾が使用されたと推定されています。その結果、市街の500万平方メートル以上が破壊されました。それは建物3つに一つの計算になります。

ドイツ軍はフィンランドと秘密協定を結んでいました。それによると、空襲は街の周辺部から始まり、市民を徐々にネヴァ川両岸の中心部に追い込み、最後に集中爆撃で一人残らず根絶やしにする予定でした。


5.次々に生活が追い込まれていく

一番つらいのは爆撃や砲撃ではありません。なにもない街では生きていくこと、生活することが一番つらいことなのです。
家にも街路にも電気はありません。川岸から氷の穴まで行くのは大変でした。輸送用燃料がないので、どこへ行くにもソリを引いて歩くしかありません。
滑りやすいので、氷穴の脇でひざまずいてバケツで水を掬いました…。飢えで衰弱していたから、水をバケツに掬ってもそれをうまく引き上げられません。家に持ち帰ると水は凍っていて、それを解かして、煮沸して使いました。
壊れた水道から水を
          壊れた水道から水を汲み出す
この年は記録的な寒さで、冬には気温が零下38度まで下がりました。暖房がないのでストーブで床材・家具や本・アルバムなどが焼かれました。

逃げようとする市民は容赦なく射殺されました。射殺するドイツ兵士もやりきれません。そこでドイツ軍は多数の心理カウンセラーを陣地に常駐させました。そして「劣等人種に対する同情は不要である」というナチスのイデオロギーを強力に注入しました。


5.そして飢餓地獄が襲った

包囲が始まった最初の年、秋から冬にかけて最も恐ろしい問題は飢餓でした。まず食料と食料の配給が減りました。

最初は包囲戦開始前の9月2日でした。このとき市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められました。
やせ衰えた家族
             やせ衰えた家族
11月20日から配給はさらに減りました。毎日のパンの配給は事務員、扶養家族、および子供で125グラムに減少しました。 労働者のためには250グラム、前線の兵士のために500グラムが確保されました。

パン以外の製品はほとんどなくなりました。そのパンは “偽物のパン” と呼ばれました。半分は小麦粉ですが、残りは残飯、野草、壁紙などでした。にかわや靴、革のベルトを煮て食べました。耐え難い臭いだったが、塩・コショウ、酢などを加えて飲み込みました。
10歳の男の子は「猫を捕まえた。殺して次の日に食べた。とても美味しかった」と書いています。

ある画家はこう書いています。恐ろしさをある種の気高さにまで昇華しています。
寝台にごろりと横になる。生きる意欲が失せていく。…手紙は誰からも来ない。雪が降っている。みんな死んでいき、雪に被われるだろう。

恐ろしいのはこの飢餓作戦がきわめて科学的な予測の下に、ドイツ人らしい几帳面さで実施されたということです。
軍の諮問を受けたミュンヘン栄養研究所は、飢餓作戦の計画を提出しました。この計画では市民を市内に留め封鎖を継続すれば、市内は飢餓状態に陥り、人々は半年以内に絶滅するだろうと報告しています。ここにナチスの精神の真髄があります。

6.ターニャの日記

この頃、12歳の少女、ターニャ・サヴィチェワが日記を書き始めました。その日記によれば、翌年5月にかけて肉親全員が次々と死んでいきました。

41年12月28日の午前12時  姉ジェーニャが死んだ。
42年1月25日の午後3時 おばあちゃんが死んだ。
3月17日の午前5時 次男リョーカが死んだ。
4月13日の深夜2時 ヴァーシャおじさんが死んだ。
5月10日の午後4時 リョーシャおじさん
5月13日の午前7時半 ── ママ
サヴィチェフ家は死んだ
みんな死んだ
残ったのはターニャだけ
Tanya_Savicheva
44年5月 ターニャはシャトコフスキー病院に入院。1ヶ月に死亡。

市民の声はこのページに数多く記載されています。ぜひご覧ください

街路、工場、そしてアパートで、家族ぐるみの餓死が続いていきました。872日の封鎖の間に100万人が餓死・凍死しました。毎日絶え間なくどこかに砲撃ああり、時々爆撃があって、そのたびにあちこちで死人の群れが発生しました。

まさにこの世の地獄です。ただそれがインフェルノと異なるのは、ナチスという人間集団が作り出した人工の地獄だということです。

第二次世界大戦の現代史的本質は独ソ戦に集中的に表現されています。その特徴を一言で言えば2千万を越える過剰死と過剰殺戮です。その典型がレニングラードにおける市民の餓死です。そしてその典型がターニャとその家族です。

その重さから、子供用のソリが庶民の主な輸送手段になりました。人々はソリを使って水や物を運び、…死体を埋葬地に運びました。毎日、朝日が昇ると、街には白いお棺を載せた橇の長い行列が続きました。
夫をそりで運ぶ
          衰えた夫をソリで運ぶ女性

7.埋葬する場所もなくなった

1942年1月、レニングラードの墓地という墓地が死体で溢れました。市当局は、郊外のピスカリョフスカ駅付近の空き地を確保して、大量の埋葬を許可することにしました。

埋葬は毎日行われました。3千人から1万人が100x10メートルほどの塹壕のような穴に投げ込まれ、一杯になると埋め立てられました。

1942年2月20日は最大の埋葬日でした。一日だけで10,043人もの市民がピスカリョフスキに埋葬されました。
共同墓
    この墓石の後ろの帯塚に千体ほどの遺骨が埋葬されている

7.人々は抵抗を続けた

そんな中でもラジオ放送が続けられました。各アパートに一つラジオが置かれ、毎日2時間くらい放送が流れました。

ラジオで流された詩の一節です。
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。
私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
放送のない間も、ラジオからメトロノームの音が流れ続けました。それは「この音が聞こえる間、レニングラードは生きている」という意味を持っています。

止まってしまったら、それはドイツ軍が放送局を襲ったことを意味します。この音はいまでも深夜の放送で流れ続けています。

メトロノームの音は街頭でも放送された。遅いときは注意報で、速い時は緊急警報でした。

路上には1500ものスピーカーが設置されました。警報は計3740回に及びました。余裕があるときは管弦楽や詩の朗読も放送されたそうです。
路上の拡声器
             路上の拡声器
このような状況にあっては、生きること自体が闘いでした。学校で学ぶこともそうでした。エルミタージュの地下にも学校があって、こどもたちが学んでいました。

寒くてインクは凍りました。子どもたちは自分の手でインクを温めて勉強しました。みな、学校に行きたかったのです。

解放されるまでの間、レニングラードは街ぐるみ前線で、子供もふくめて市民一人一人が兵士でした。人々は農業の経験はありませんでしたが、多くが知識人でした。勉強し経験交流しました。イサク広場の農園では立派なキャベツが出来上がりました。

42年8月、レニングラードの大ホールではレニングラード市民ショスタコービッチの第7交響曲が初演されました。その一部はラジオ放送されました。
団員は徴兵され最前線で戦っていた。演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器に持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。(松浦晋也のL/D
43年1月、レニングラード防衛軍が封鎖突破を目指すイスクラ作戦を開始しました。5日間の激闘の末、ドイツ軍の包囲網を突破し、内陸との回廊の確保に成功しました。
これでレニングラードをふくむ北部戦線は大きな転換期を迎えました。しかしその後も、ドイツ軍の圧力は依然として続きます。

44年1月15日、ロシア北部の解放を目指す一斉攻撃が始まりました。すでにすべての前線で戦闘態勢の維持が困難となっていたドイツ軍は戦闘力を喪失。レニングラード周囲を撤退し70キロ西方へと敗走しました。
解放の日

8.ピスカリョフスキ墓地のいま

レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲があげられました。包囲が始まってから実に872日目のことでした。

しかしその傷跡はあまりにも深いものでした。人々は遺体を集め、街を清め、墓地を整備しました。

いまこのピスカリョフスキ墓地には186の共同墓があります。そこにはこの町で暮らした42万人以上の市民が横たわっています。彼らは空腹、爆撃、砲撃で亡くなりました。そしてそのほかに7万人以上の兵士、レニングラード防衛隊の隊員が葬られています。

dairituzou
        公園の最奥にある女性像、寒かった!

市内には他にも多くの墓地がありますが、ピスカリョフスキの埋葬者が群を抜いています。

(このあと、墓地の整備の歴史が語られているが、省略します)

「ベトナム 手洗いダンス」という歌が評判のようだ。

「内閣官房」というサイトがいろいろの映像をアップしている。

こちらのページは元の映像に日本語の字幕付きでおすすめ。


このページは若者二人のダンス付きで左に英語、右にベトナム語の歌詞がつく。もはや明らかにヒット狙い。


こちらはタイ・バージョンでベトナムの曲にタイ語の歌詞と美男美女のダンスをつけている。


こちらはUSバージョンで、どうもベトナムの米公館でのパーティーのように見える。

19世紀 ロシア文学 年表(文章が長い「年表」です)

2015年12月16日 
と合わせながら読んでください。

1820年 プーシキン、長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表。

1824年 プーシキン、当局に睨まれ、北ロシアの故郷に送られる。この時期に『ボリス・ゴドゥノフ』を執筆する。

1825年 貴族の若手将校たちがペテルブルクで武装蜂起。12月に発生したために「デカブリストの乱」と呼ばれる。

1831年 プーシキンに長女マリアが生まれる。後に「アンナ・カレーニナ」のモデルとなる。

1833年 プーシキン『エフゲニー・オネーギン』

1825年から書き継がれ、8年で完成する。

遊び疲れたオネーギンが田舎の領地に隠棲する。地方貴族ラーリン家の娘タチヤーナは、オネーギンに恋し、思いを打ち明けるがあしらわれる。
オネーギンは友人の許嫁にちょっかいを出し、決闘で殺してしまう。田舎にもいられなくなり、モスクワに戻る。
一方タチヤーナも結婚して公爵夫人となりモスクワに出る。二人は再会し、今度はオネーギンが恋に落ちるが、タチヤーナはこれを拒み離れていく。

1834年 プーシキン『スペードの女王』

こちらは寓話の短編。舞台はペテルブルク。

臆病な賭け好きの青年ゲルマンが、友人の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人を知り、その屋敷を襲う。
彼女は必勝の手を知っており、過去に大勝したことがある。その秘密を教えろと銃で脅迫したところ彼女は死んでしまった。
何日かあとにゲルマンの枕元にアンナの亡霊が立った。そして3-7-1の必勝番号を告げた。
彼は1回目に3,二回目に7で勝ったが、3回目に1の札を引いたら、それがスペードの女王に早変わりし、その女王がゲルマンに微笑みかけた。その瞬間にゲルマンは発狂してしまった。

というわけで、話はほとんど「罪と罰」に重なっている。

1836年 ゴーゴリ『検察官』

ある地方都市。ペテルブルグから検察官がやってくるとの話が持ち上がる。実は査察官らしき人物の正体は貧乏な小役人なのだが、田舎者の無知につけ込んでシコタマ騙し取る。

この偽査察官も田舎の腐敗役人の裏返しに過ぎないから、ユーモアはジャリッと砂混じりだ。

ゴーゴリはウクライナ人でプーシキンの薫陶を受けた。プーシキンが漱石ならゴーゴリは芥川に当たる。超一流の皮肉屋だが、思索家としては復古派にとどまる。

技法と多彩さにおいて追随を許さない。 ドストエフスキーは「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」という。

1837年 プーシキン、決闘に敗れ死亡。彼は決闘マニアだった。


1840年 レールモントフ『現代の英雄』

カフカス勤務のロシア軍将校、ペチョーリンの物語。貴族の出で高い教育を受けたがオネーギンと同じくシニカルで虚無的だ。
しかもなお悪いことに人を残酷な実験や快楽のための材料とみなしている。

レールモントフはデカブリスト敗北後の反動的社会状況に抗議していたと言う。
プーシキンと同じく決闘で死んだが、この作品により、プーシキンと並ぶ近代ロシア文学の創始者とみなされている。


1842年 ゴーゴリ『外套』

ドストエフスキーは「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」と書いた。

貧しい小官吏のアカーキー・アカーキエヴィッチが一大決心をして外套を誂える。外套は彼の生涯の夢になる。
しかし外套ができあがった最初の夜、その外套はペテルブルクの暗闇で剥ぎとられてしまい、アカーキー・アカーキエヴィッチは悲嘆のあまりに死んでしまう。
その後彼の幽霊が出始める。幽霊は嫌味な上司の外套を剥ぎとってしまう。


1840年代 評論家ベリンスキーが「批判的リアリズム」を唱える。

1852年 ゲルツェン『過去と思索』

亡命先のロンドンで自伝の執筆を開始。デカブリストの衣鉢を継ぐビルドゥングス・ロマンとしても面白く、ベストセラーとなる。

1857年 ゲルツェン、雑誌『鐘』を発行。「ブ・ナロード」を提唱し、「革命的民主主義」の先駆的思想家となる。マルクスとは疎遠なままに終わる。

1850年代 ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイらがあいついで文壇に登場。社会問題への関心とヒューマニズムで共通する。

1862年 ツルゲーネフ『父と子』

登場人物の一覧を見るだけで、「絶対に読むものか」と決意を抱かせる小説。読み終わっても登場人物の名が思い出せない。海馬が強烈な拒否反応、ツルゲーネフと聞いただけで総毛立つ思いがする。

1860年代 チェルヌィシェフスキー

1863年 トルストイ『戦争と平和』

全四巻からなる大作である。6年にわたり書き継がれた。
基本的には歴史小説だが、平和=恋愛の場面と戦争=ナポレオンの侵略とが組み合わさり、波瀾万丈の物語となっている。

1866年 チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』

ベリンスキーの社会批評を発展させ、革命的民主主義を提唱。

1866年 ドストエフスキー『罪と罰』

学生崩れの若者が、ナポレオンと自分を比較し、良い企図はあらゆる犯罪を正当化し得ると考える。
彼は金貸しの老婆を殺し金を奪うが、煩悶のあまり警察に自首する。
ドストエフスキーは40年代から活動開始。シベリア流刑となり、戻ったあと本格的な著作活動を開始。

1869年 ドストエフスキー『白痴』

1872年 ドストエフスキー『悪霊』

1873年 トルストイ『アンナ・カレーニナ』

『戦争と平和』についで書かれ、完成に4年を要した。愛と死をめぐる悲劇の物語。

1879年 ラヴロフら『前進』を発刊。これをもとに「人民の意志」を結成。

1880年 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

「正教の神髄を代弁した者」と評される。

父フョードル。強欲で好色な成り上がりの地主。前妻との間に長男のドミートリイ。
後妻は次男のイヴァンと三男のアレクセイを生んだあと死亡。
長男ドミートリイ。野生的な魅力をもつ。堕落した生活を送り、婚約者カチェリーナから借金を背負う。にもかかわらず近所に住む妖婦グルーシェンカを父と争う。
次男イヴァン。理科大を出たインテリで無神論者。兄の婚約者を愛している。
三男アレクセイ。中学校を中退して修道院に身を預けた修道僧。神の愛によって肉親を和解させようとする。
父+三兄弟を軸に入り組んだ人間関係と妬みや憎しみなどネガティブな感情が渦巻く。

1881年 「人民の意志」活動家がアレクサンドル2世を暗殺。

1890年代 チェーホフ『短編小説』

我々にはむしろ劇作家として馴染みが深い。『かもめ』(96年)、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』(01年)、『桜の園』(04年)などが知られている。

1902年 ゴーリキー『どん底』(戯曲)


1907年 ゴーリキー『母』(長編小説)


1.進化史から見たヒトとトリ

海中に暮らす脊椎動物、要するに魚が陸上に上がり始めたのが3億5千万年前の話だ。

それはやがて両生類となり、3億2千万年前には単弓類と双弓類に分かれた。

単弓類は哺乳類となり、進化は緩やかになる。一方双弓類は爬虫類に発展し、生物進化の主流を担うようになった。

爬虫類の中から獣脚類(いわゆる恐竜)が分化し、その一亜型として鳥類が誕生するんは20億年前のこととされる。

哺乳類→霊長類→人類と進化が始まるのは、1億年前の隕石衝突→地球寒冷化以来のことである。

いったん進化の流れから取り残された単弓類が、継体天皇よろしく皇位につくのであるから、そことなく無様で、急拵えだ。

進化系統図

脳みそが大きいと言っても、実は電線だらけで本当に働く神経集団は多くはない。

そこに行くと進化の王道を歩んできた鳥の脳は美しい。おそらくBiomimetics に携わる人たちは実感しているのではないだろうか。

2.トリ脳のすごいところ

どう考えてもカラスの脳は人間それに勝るとも劣らない。哺乳類一般よりははるかに優れているのではないか。おそらく膨大な記憶装置を伴う言語能力だけが鳥にないものだろうと思う。

その能力をあの小さな脳の中にコンパクトに取り込んでいるのだからすごい。

鳥の脳をモデルに人工知能を形成して、記憶装置は外付けにしてファイブGでつないでやれば、大型コンピュータの機能は飛躍的にアップするのではないだろうか。

ということで、鳥の脳モデルを検討してみたい。

3.トリ脳の解剖学的構造

カラス基本脳構造

トリ脳の解剖図である。
基本構造は後脳・中脳・前脳の三脳構造である。前脳を視床と呼んだり間脳と呼んだりするのは、大脳こそ最高の産物と考えるマクリーン風の間違いである。発生学的には大脳は終脳ではなく前脳の突起物であり、眼球は中脳の突起物であり、小脳は後脳の突起物である。

それから上、大脳部分は人間と大きく様相を異にする。人間では髄質がその大半を占めるのに対し、トリでは髄質・皮質の構造は見当たらない。
その代わりに大脳そのものが階層構造を形成する。ある意味で、大脳すべてが皮質で構成されていることになる。これなら5Gもへったくれもない。電線ゼロの直つながりだ。

4.トリ脳の活動領域

カラス脳活動領域


一応、見た範囲で解剖図との対応関係をチェックしておくと

延髄~後脳: 脊髄の上行、脳神経の入力・出力。睡眠・覚醒

中脳: 背側 視覚、感覚統合  腹側 ドパミン作動性神経の中枢

視床: 前脳でのフィードバックループ

線条体: 視床の背側に淡蒼球という結節が付着し、その表面を覆うように形成される。
古皮質ないし原始皮質とも言うべき位置を占め、頭側から尾側に向けて音声学習などの機能が特定されている。最尾側は側坐核とも言われ、学習・意思決定など高次な機能を司るが、これは単独に行われるのではなく弓外套や巣外套の情報を統合した機能と見られる。

外套群: 線条体を弓外套と巣外套が包み、さらにその外側は中外套-高外套と積み上がっていく。


それぞれの階層間には前後関係において一定の機能のつながりが見られるようだ。しかしこの絵を見ただけで、それ以上のことは言えない。さらに学習を深めたい。

この記事は「基軸通貨 75年 ドルへの不安」という日経記事の紹介です。筆者は日経新聞国際部長の発田さんです。

大変要領よくまとめられていて、参考になります。しかしこの記事1発でわかるほどデジタル通貨は甘くありません。

少し話の順序を変えて、議論の流れが飲みやすくなるよう工夫してみました。いくつかの部分には補足的説明も折り込みました。

そのため原文よりかえって長くなってしまいました。ご容赦の程をお願いします。


問題意識 デジタル人民元はドルを揺るがすだろうか?

中国が発行するデジタル人民元が普及しつつある。
問題はこれがドルを基軸とする国際金融体制を揺るがすことになるか否かである。

それは2種類の議論を内包している。ドルの単一支配体制が人民元により破綻するのかという問題、もう一つはデジタル通貨が国債決済の主役になっていくのかという問題だ。

1.ブレトンウッズ体制とドル本位制

ブレトン・ウッズ協定以来75年間、ドルは世界の基軸通貨であり続けている。

貿易の半分はドル決済だ。各国の外貨準備、証券発行、新興国の対外債務の3分の2がドル建てだ。新興国の中には、普通にドルが国内流通している国も珍しくない。

もともとのドル支配体制は金本位制を背景としていた。フランスが60年代にドル覇権に挑んだことがある。しかし金の大幅流出にも関わらずドル覇権が揺らぐことはなかった。

73年に、ベトナム戦争と財政破綻によりブレトン・ウッズ体制は崩壊した。ドルは金の裏打ちをなくし、世の中は変動相場制の時代に移行した。

アメリカは双子の赤字を抱え困難に直面した。ドルの価値は大幅に下落した。

このとき「基軸通貨ドルを防衛せよ」という共通認識が形成された。実質的には通貨システムの押し付けであったが、形としては先進諸国の合意による通貨システムの再建であった

その後、ドル基軸体制はそのまま続いている。

理由は単純だ。米国に代わる強国が登場しなかったからだ。世界第二の経済大国にのし上がった日本も、総合力において到底かなうものではなかった。


2.中国もドル覇権から抜け出せない

だが21世紀に入って状況は大きく変わりつつある。中国という強力なライバルの登場だ。

いまや中国のGDPは購買力平価ベースでは米国を逆転している。このまま行けば、2030年には市場実勢ベースでも米国を抜くことになる。

とはいえ、中国もかつての日本同様にドル支配の軛のもとにある。

あらゆる通貨の中でドルは特権的地位にある。その特権はとてつもないものだ。

ドルが貿易の決済通貨である以上、各国はドルを持たなければならない。そのために、日本や中国は1兆ドルを超す米国債を保有している。

外国企業はドル調達や為替差損の調整にコストとをかけざるをえない。

一方、米国は経常収支が赤字でも世界から資金を集めることができる。米企業はドルに関する手当てをまったく必要としない。


3.通貨覇権と軍事覇権

米国以外の多くの国にとって、最大の脅威は通貨覇権が軍事覇権を支えていることだ。

イランはトランプ政権成立後に石油収入の8割が減った。外貨準備はあるのに、その9割にアクセスできない。

どうして米国はこのようなことができるのか。それは送金情報を送る国際銀行間通信協会(SWIFT)が決済網を握っているからだ。

米国が対イラン制裁を発動したとき、それが実効化できたのはSWIFTがイランの銀行を決済網から締め出したからだ。そしてSWIFTの運営を握っているのが米銀だからだ。

同じ手口はベネズエラにも適用された。中国の党幹部はSWIFTなどの国債決済網は「米国の覇権維持ド道具」と見ている。


4.米国第一主義がドルへの信頼を揺るがせている

ドルによる通貨覇権への不安は、中国や途上国だけでなく先進国や、金融中枢からも湧き出ている。

ドルは世界システムとしての安定性を欲するが、トランプの自国第一主義はこの考えと激しく衝突するからだ。

自国第一主義というのは、自分の立ち位置を中心に土俵を作るようなものだ。土俵際まで追い込まれたら自分を中心に土俵を書き直すことにする。

これではルールも何もあったものではない。

先年、米国は「世界の警官は続けられない」と宣言した。安全保障分野と同じように世界経済システムの守り手の役割も放棄するなら、もはやドル支配体制の維持に意味はなくなる。

その不安感を典型的に示したのが、昨年8月のイングランド銀行カーニー総裁の講演だ。

デジタル通貨容認論だけが全面に出る形で報道されたが、最も重要なことはトランプ政権への不信感と、ドル依存体制への危機感である。

カーニー総裁は「経済政策をめぐる不確実性」や「あからさまな保護主義」が、通貨システムを介して世界経済を破壊する危険性があると指摘した。そして世界はドル基軸体制から脱却する必要があると訴えたのである。

その延長線上に代替システムの一つとしてデジタル通貨(中銀主導型)の可能性を示唆したのである。



5.デジタル通貨が切り札となるか?

デジタル通貨には長所と欠点がある。

最大の長所は通貨を介入することから来る為替リスクがないことだ。その他にも銀行を通さないことから、金融介入をシャットアウトできること(公的介入さえも迂回できる可能性がある)、簡素でスピーディな手続きも長所としてあげられる。

一方で、大銀行や政府・中銀のバックアップがないから、外部の干渉に弱い。あまりに投機性が高いためにアメリカでは半ば犯罪扱いされてきた。

大資本がバックアップすれば短所はカバーされる

この欠点はピア・トゥ・ピア評価が安定しないことから生じる。それは各国中銀や大手銀行がシステムに介入し、取引の信頼性を担保すれば克服できる。

特に先行しているのが中国人民銀行だ。

いま、IMFや世銀を先頭に多くの国際的銀行ネットワークは米国の影響下にある。これに対して中国は、ブロック・チェーンを使って銀行を通さない決済を広げようとしている。

このブロック・チェーンの先にビットコインを接続すれば、大手金融網とは関係なくもう一つの経済圏が構築される可能性がある。


6.人民元そのものの弱点はそのまま残っている

そこでデジタル人民元に未来はあるかという話になる。

発田さんの指摘によれば、人民元は個人の両替は年間5万ドル以下、海外投資には事実上使えない、浮遊ペグではあるが完全変動相場制ではない、などの制限が残っている。
その結果外国為替市場での取引シェアは2%にとどまっている。

まずは国際通貨にふさわしく、さまざまな制限を撤廃し、ブラッシュアップしなければならない。どちらにしても、人民元が国際化されなければデジタル人民元も国際的なものにはならないだろう。

ただし、ドルの側から人民元に押し込むようなプッシュ要因が今後出現しないとは限らない。あるいはユーロとの協調のような局面も考えられる。

いずれにせよデジタル通貨元年のような様相を呈している2020年、動向を慎重に見極めていく必要がありそうだ。

SDGs(持続可能な開発目標)について

1.SDGsとはなにか

Sustainable Development Goals の略。“s”は複数形の”s”なのでエスディージーズと読む。恥をかかないよう一言。

2015年9月に国連で開かれたサミットの中で世界のリーダーによって決められた、国際社会共通の目標です。

17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない」(leave no one behind)ことを誓っています。

2.なぜSDGsが叫ばれるようになったか

20世紀の最後の20年間、ネオリベラリズムに基づくグローバリゼーションが拡大しました。

これは一部の企業(とくに米国の情報産業)の活性化により景気の回復をもたらしましたが、それと引き換えに貧富の格差の拡大と、貧困層の社会的排除という深刻な問題を生み出しました。

その傾向は特に若者層、発展途上国という地球の未来を担う社会集団に顕著に現れました。

そのために社会のひずみと歪んだ風潮が、世界中のいたる所で強まっています。

3.SDGsは何を目指すか

まず、格差→貧困+差別という連鎖をどう断ち切るかというグランド・デザインが必要です。

それが「社会的包摂」という考え方です。

すなわち地球上の誰一人も取り残さないこと、僧いう世界を実現するという構えです。

ヘイトや差別観にもとづく行動が青年の間に広がっていますが、その多くは自らも差別され貧困に追い込まれているのです。

多くの国で、若者の失業率はふた桁に達し、中には半分以上が失業という状態すら生まれています。青年は社会から排除され、貶められているのです。

これらを解消するには個別の対応ではなく、とくに仕事面での保証が必要です。納得の行く仕事と暮らして行ける賃金は、包摂力のある世界を作る上で必須です。

4.企業の社会的責任 CSR

仕事を具体的に保証しているのは企業です。個別企業というのではありませんが、企業全体の社会的任務が問われて然るべきです。

このような企業の社会的責任を求める考えを「企業の社会的責任」(Corporate Social Responsibility)とよびます。

これはメセナとか社会貢献というのとはレベルの違う話です。あくまでも自主的な企業活動の一部であるとはいえ、一定の社会的合意をもふくむものです。

5.企業への具体的要請

CSRはイギリスのブレア政権で始められ、欧州金融危機さなかのEUで強化され定式化されました。

企業は2つの側面から規定されています。

出資者による所有と運営という面、そして労働者など生産組織に関わる人々、商品やサービスを利用する消費者などです。後者は「利害関係者」(ステークホルダー)と呼ばれます。

EUはこの2つの側面をすり合わせ、それらの共通価値を拡大していくようもとめました。

たしかに利益をどう分配するかということだけに限れば株主と利害関係者はゼロサムの世界にあります。さらに利害関係者の間でもなにかと衝突はつきものです。

しかし企業というのは社会分業の中で役割をにない社会活動の一部を担っているわけですから、その公共的性格は誰もが了解し受け入れなければなりません。

6.企業は何をなすべきか

企業はビジネスを展開するにあたって、企業活動による負の影響を減らさなければなりません。

そのために、少なくとも長期の企業戦略においてはCSRを組み込まなければなりません。労働安全や福祉に加えて、広範な利害関係者への配慮もなされなければなりません。

これは決してネガティブな課題ではありません。ステークホルダーの多様な要求を満たすことは、そのための革新的なサービスを生み出すことに繋がります。

こうして社会課題に対応しつつ企業価値を向上させるという企業活動スタイルに脱皮して行くことがもとめられていると言えるでしょう。

日経新聞「やさしい経済学」(長谷川直哉さん)より

(SDGsをめぐる連載のうち企業責任の部分を要約したものです)

シンポ「朝鮮半島の非核化と東アジア平和構築」
が行われ、その要旨が日本AALAの機関紙に掲載された。

主催者の坂本恵先生のまとめをさらにピックアップして紹介する。演者は南基正さん、李俊揆さん、李柄輝さんの三人である。

A 南基正さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と日韓関係再構築ー2つのプロセスの相互関連」

B 李俊揆さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と東アジア国際秩序の展望」

C 李柄輝さんの発言 「朝鮮半島情勢の新局面と朝鮮の“正面突破”作戦

これはきわめて注目すべき報告。
なぜかと言うと、朝鮮大学校準教授、在日三世という方の日本語で、正確かつ過不足なく共和国のものの考え方が聞けるまたとない機会だからだ。

AALAがこういう形で北朝鮮の考え方を紹介できるのは、とても良いことだと思う。

ここまでが前書き。

1.はじめに

朝鮮はSea PowerとLand Powerが拮抗する場所だ。周辺はみな大国で、朝鮮民族はいつも大国の間で翻弄されてきた。

国力がなければ朝鮮の自主権は担保できない。これが地政学的な宿命だ。

2.社会主義強国論

16年5月に労働党大会で「社会主義強国」が採択された。国力をつけ自決権を確保することと、社会主義建設とを結びつけた路線。

それまでの「先軍政治」路線をあらため、軍から党へ、国防委員会から国務委員会への転換が行われた。

テクノラートが政権の中枢を担い、生産現場の裁量性や部分的な市場経済の導入も行った。

3.社会主義強国論から「正面突破路線」へ

2ヶ月前の19年12月、労働党中央委員会は「正面突破路線」を打ち出した。

これは社会主義強国路線を排除するのではなくその上に積み上げられた路線である。

社会主義強国路線は経済優先への切り替えを目指す計画であるが、それを対外開放のもとに行おうつぃた。

しかしアメリカは経済封鎖に近い制裁を課し続けている。これに対しあくまでも自力更生を貫きながら、制裁攻撃を正面突破しようとする路線である。

同時に軍事的な脅迫に対しても核開発もふくめて対抗していく。なぜなら、この軍事的包囲体制の打破と、新しい平和体制の実現なくしては、真の経済発展はありえないと覚悟しているからである。

4.核開発に至る歴史的経緯

1953年に停戦協定が結ばれた。そのなかで戦争を再燃させないことが約束された。そのために双方が武器を持込むことが禁止された。

しかし米国は58年に韓国に戦術核を持ち込んだ。共和国では米に対する不信が強まった。その結果、共和国は61年の7月にソ連・中国の核の傘に入った。

その後、ソ連が崩壊し韓中が接近。そしてブッシュが共和国に対し核先制使用を宣言した。

これが共和国が核開発を進めてきた理由である。

だから、それらの脅威をなくさなければ核開発を止めることはできない。そして「停戦体制」を終了させ、解体することが完全な非核化の最大の保障となる。

5.18年の米朝共同声明

共同声明での共和国側の主張は次のようなものである。

① アメリカの核脅迫を停止すること
② 共和国への好戦的敵対関係を停止すること
③ アメリカは「最大限の圧迫と関与」外交を停止すること
④ 誠意をもって交渉に臨み、継続させること

最大の難関は核兵器を「最後の一発まで放棄しなければ制裁は微塵たりとも解除しない」ことに米が固執していることにある。

これに対し、中国、韓国、ロシアは異を唱えているが、日本が3国に同調しないのが隘路になっている。

日本が日朝共同声明の精神に立ち帰り、積極的な役割を果たすよう、支援してもらいたい。

記事の途中に突っ込んだが、別記事として起こしておいたほうが良いと思い、別途上げることにした。いわば記事の解説用の脇コラムだと思ってください。

南基正さんの主張の土台には、「戦場国家」ー「基地国家」という地政学的把握がある。
東アジアは、依然として朝鮮戦争で形成された地政学的状況に規定されており、いわば冷戦体制を引きずっている。

朝鮮戦争において半島の南北は前線国家となり、日本は基地国家となった。これはアメリカから見ての関係であるが、それが日韓両国を関係付けるメカニズムともなっている。

しかしこれは偽りの関係であり、他律的な関係でもある。この歴史付けられた不幸な関係を解きほぐすことが、東アジアの真の協同にとって不可欠な課題である。

これは私の感想だが、昨今の日韓関係論に鑑みて、この基本的視点を握って離さないことの重要性を確認すべきだろうと思う。

あえて誤解を恐れずに言おう。

この基本関係に比べれば、日帝支配や慰安婦・徴用工の問題は過去の関係に過ぎない。それらは歴史問題(の一部)として、時間をかけて相互理解を深めるしかない。

もし前向きに関係改善を図るのなら、非核・平和の構造づくり、アメリカへの従属との決別、中国もふくんだ多国間主義の関係づくりが基本となる。

韓国の自覚的な進歩勢力はすでにそのような認識に到達している。

その際は欧州で独仏の同盟が基軸となったように、日韓の平和友好がキーポイントにならざるを得ない。

日本が東アジアの現実をリアルに地政学的に捉えるならば、日韓が連帯し、中国・北朝鮮と一定の緊張をはらみながらも共存・共栄を図るという道すじしか描けないのではないだろうか。

詳しくは下記の記事、とくにその3をご参照ください


シンポ「朝鮮半島の非核化と東アジア平和構築」
が行われ、その要旨が日本AALAの機関紙に掲載された。

主催者の坂本恵先生のまとめをさらにピックアップして紹介する。演者は南基正さん、李俊揆さん、李柄輝さんの三人である。

A 南基正さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と日韓関係再構築
ー2つのプロセスの相互関連」

1.朝鮮半島の平和形成過程と日本の役割

和平の動きが始まって3年になる。日本はこの動きに加わらなければならない。なぜなら日本は“後方基地”として朝鮮戦争に事実上加わってきた当事国だからである。

関係六カ国のうち五か国はそれぞれこの間の和平の動きに関わってきた。日本だけが外れたままである。

そのハードルになっているのが拉致問題である。しかししそれを理由にして、東アジアを平和と希望の拠点へと転換すること、“歴史の課した宿題”を解くことを怠ってはならない。

2.東北アジア非核地帯の可能性

この項は、以前からの南先生の所説であるが、正直むずかしい。

骨組みとしてはこういう論理だ。

東北アジア平和構想の具体的一歩は非核地帯の創設だ。

まず南北だが、これは18年の板門店宣言で基本的認識を共有した。

南北はそれぞれ、戦場国家から脱皮することを選択した。このことは基地国家日本にもそこから脱皮するチャンスを与えている。

ついで韓日だが、これは98年の韓日共同宣言で、韓国が日本の「非核三原則」を評価するという形で価値を共有した。

そして朝日間でも、02年の朝日共同宣言で、北の核問題を国際法に沿って解決するという原則を共有した。

すなわち、日・韓・北の三者間で非核地帯条約へと至る確認は、原理的にはすでに形成されている。

3.日本の市民的イニシアチブがカギを握る

安倍内閣は成立以来、日韓・日朝の関係を冷却化し疎遠化することに傾注している。このため平和構想への道は遠のいているように見えるが、客観的状況はそうではないと思う。

日韓の市民が連帯し平和への動きを強めることは、情勢を大きく動かす可能性がある。とくに日本において憲法改正と軍事化を阻止する闘いが大きな役割を果たすだろう。

B 李俊揆さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と東アジア国際秩序の展望」

題名としてはこちらのほうが大風呂敷で、いわばすべてである。
ただ坂本先生の要約を見ると、実際は南基正さんの緒論の資料的補強を内容としているようだ。

1.平和形成の3つの段階

18年9月の南北首脳会議での共同声明を読み込むと、平和形成過程は3つの段階を念頭に置いていると言う。

① 南北分断体制の克服
② 冷戦構造の2つの柱である朝米関係と朝日関係の改善
③ 東北アジアの安全保障体制と多国間協力

2.6カ国協議体制の意義

6カ国協議はすでに15年間も店ざらしとなっているが、東アジア平和の枠組みとしての先進性を失っていない。

05年の第4回会談で共同声明が出されている。それに基づいて、07年2月に「初期段階の措置」という合意が成立している。

その措置は次の5つである。

①朝鮮半島の非核化
②米朝国交正常化
③日朝国交正常化
④経済及びエネルギー協力
⑤北東アジアの平和及び安全のメカニズム

今、聞き終わったところだが、すごい腕前だと思う。
モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」だが、もとは相当地味な曲だ。
取り立てて美しい緩徐楽章があるわけでもなく、取り立てて壮大なフーガがあるわけでもない。楽器編成は、「これでも交響曲と言うべきか」というくらい簡素で、どちらかといえば「ノリ」で勝負の曲だ。

それを艶っぽく、「これぞモーツァルト」というテクスチュアにして聞かせてくれた。随所に粋なひと刷毛をあしらいつつ、透明さを失わない。

まぁブロムシュテットの腕ということになるのだろうが、そのニュアンスをここまで表現できる楽団としての水準はさすがという他ない。N響の歴史的名演と呼んで良いのではないだろうか。
とにかくすごいリンツだ。カルロス・クライバー以来の衝撃だ。これは冥土の土産話になる。
どうでも良いが、池田昭子さん、相変わらずきれいだけどちょっと老けたかな。第2オーボエに回ったんだ。

李成市(り・そんしと読む。早稲田大学文学学術院)

李さんはなかなか慎重な人で、簡単に尻尾を掴まれるようなものの言い方はしない。あくまでもその専門分野でのエキスパートとして、その矩は越えないように努力してるようだ。
それでも十分にその説は魅力的である、


1. 東アジア世界論における漢字の伝播と受容

西嶋定生は、漢字を媒介に、中国に起源する儒教、漢訳仏教、律令を受容した地域を「東アジア文化圏」と名づけた。

西嶋によれば、東アジアは政治的には「冊封体制」としてシステム化された。この二本柱によって「東アジア世界」が形成された。

しかしながらこの論理は成り立ち得ない。いかにその理由を述べる。

2.東アジア文化圏における例外としての新羅

6世紀以降の新羅は漢字を受容していた。それは中国の冊封を受ける以前からであった。これは「東アジア政治システム」からでは説明できない。

さらに言えば、新羅は純粋な漢文(正格漢文)ではなく「変体漢文」とよばれる新羅的な様式を用いていた。

それは新羅言葉を文字として表現するために、漢字を用いる試みである。それは漢字文化であっても、漢文文化ではない。

このような傾向は法制、儒教、仏教の受容にも同じように見られる。

3.韓国と日本の木簡

現在日本の木簡は、37 万点の出土がある。
中国で木簡が大量に使用されたのは秦漢時代である。日本で使われ始めたのが7世紀なかば、大化の改新ころからなので、長い間隔がある。

最近韓国での木簡出土が増えており、その内容が日本のそれと酷似していることが分かってきた。このため日本木簡の源流を韓国に求めるようになってきた。

問題は、このような類縁関係を生み出した要因である。

百済・新羅木簡の出現は、日本木簡に比べ1世紀ほど先行している。この文字化の流れがどこからどこへ流れているかは、おのずから明らかであろう。

「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」の学習ノートを作ろうと思ったが、途中でやめた。

そもそも冒頭論文の李成市「概説 古代日朝文化交流史」をパラパラとめくってみて、これは面白そうだと買ったのが、家に帰ったらおもしろいのは概説だけだったという笑い話だ。

前記記事では意気込んで、
やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。
と書いた手前、李成市さんの文章だけはちょっと説明しておく。日本の学者というのは在日韓国人の研究者で、日本で学問的素養を積んだという意味である。

はじめに

古代における日朝関係は多元的・並行的である。
日朝関係というより朝鮮三国+倭の4か国関係史と考えたほうが良いのかもしれない。
その際、任那・伽耶の扱いが微妙になるが、事実に即して慎重に議論していくことにする。

というのが李さんの所論、大いに同感である。

1.百済と倭国の交流

高句麗が漢城に都を構え南進してきた。
漢城付近に住む人々が、高句麗の南進に対抗するために百済国を形成した。

漢城というのが曰く有りげだ。平壌というなら旧楽浪郡であり漢人と交わった現地人が住んでいたはずだ。その時漢城付近が楽浪の一部だったか、帯方郡だったのかは微妙だ。

2.高句麗と倭国との交流

好太王の頃は倭と南朝鮮の覇を争ったが、6世紀の中頃には落ち目になって、新羅に漢城(ソウル)を奪われている。

おそらく百済と反新羅連合を組み、百済のよしみで倭国にも使節を派遣していたのだろう。ただしそれは倭王朝がすでに消滅し大和王朝が倭国の支配権をにぎったのちである。

この他多くの高句麗人が聖徳太子の元を訪ねた
とされている。聖徳太子は百済とつながる蘇我氏と対抗しようとしたと言われる。
経路は不明だが、日本海側領土の大半はすでに新羅に制圧されていることから、反新羅連合を組んだ百済からであろう。

3.新羅と倭国との交流

591年に新羅が倭典(倭国との外交機関)を設置したという記載があるが、その後はすべて白村江以降の話になる。

その姿は、憎々しいほどに余裕たっぷりである。表向きは日本を立ててはいるが、任那を滅亡させ白村江でも日本軍を壊滅させ、唐の大軍を撃退した新羅の実力は揺るぎないものがある。

それに引き換え、日本は君臣の礼を強要したり、駄々をこねて使節を追い返したり、やることがガキである。いまの首相に似ていなくもない。

とりあえず、いまの私の関心域からは外れるので、内容は省略する。

以下は私の感想だが、

一つは、多元的・並行的に加え、重層的であるということも付け加えたほうがいいのではないか。

半島では古朝鮮族が基本的には駆逐され、消滅している。おそらく南部では日本人に近い遺伝子組成の人々がいて、それが三韓の消失に時をあわせて、記憶の底に沈んでいったのではないか。

それに代わり、中国東北部に出自を持つ人々が多数を占めるようになった。

三韓→三国時代→新羅という半島南部の政治過程は、その民族移動過程の上に乗っかっているのではないだろうか。


やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。


古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」という題で歴博のシンポの記録のようだ。

とりあえず下記年表に追補する形でファクトを拾っていくことにする。


これは下記記事の増補版となっている

ただし、「抜き」とはいっても日本書紀に対応する事実があるものは、注記の形で載せている。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

189頃 80年の戦乱の末、和平が成立。卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

 楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

 当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者はもとは扶余(高句麗北方)からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。公孫淵は斬首に処せられる。魏はさらに海路南進し、楽浪・帯方の両郡を魏の直轄地とする。倭と韓(東濊・韓族)は帯方郡に服属する。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。大夫伊聲耆、掖邪狗らが魏に赴く。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。
(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者の載斯烏越から狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は帯方郡所属の武官、張政を邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。張政は台与を励ます。台与は即位当時13歳とされる。(張政は狗奴国の撃退、卑弥呼の死、後継男王の失敗、台与の就任のすべてにかかわったことになる)
248 国中遂に定まる。壱與は張政らの還るを送らしむ。さらに張政に掖邪狗らの使者を同行させ朝貢。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。この後、倭王讃による朝貢(413)まで中国の史書から倭国の記載は消失する。(この朝貢は日本書紀に神功皇后の挙?として示されている)

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。
三国時代地図

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

346 近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗と戦う。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐した高句麗兵を急襲。5000の首級を挙げる。

371年 近肖古王の率いる百済軍、高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させる。

372年 百済は東晋に朝貢。鎮東将軍・領楽浪郡太守に柵封される。

375 百済、「七支刀」を作成し、倭王に贈与する。これが石上神宮に伝存するものである。

古事記には応神天皇の時代に百済の照古王が和邇吉師を貢上。和邇吉師は論語十巻と千字文一巻を持参したとされる。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

405 百済王死去。倭国で人質となっていた王子が帰国し即位。

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

420 高句麗が宋に朝貢し「征東大将軍」、百済も朝貢し「鎮東大将軍」を下付される。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。

427 高句麗、平壌へ遷都。王都を大城山城に定める。百済に圧力をかける。

428 倭国、50人からなる使節団を百済に派遣。(三史)

429 百済王、妹の新斉都媛(池津媛)貢進する(日本書紀応神紀)

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

435 高句麗、(宋ではなく)北魏に入貢する。

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

439 北方民族の鮮卑が華北を統一。北魏を建てる。

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

471 稲荷山鉄剣がこの年作成される。(辛亥年)

472 百済、北魏に入貢し、高句麗に対する帥を乞う。

475 高句麗が百済の首都、漢城を占領。蓋鹵王を殺害。百済はいったん滅亡。その残党は公州の熊津まで後退し、新たに都とする。

477 百済で佐平、解仇が反乱。文周王を殺して三斤王を擁立。翌年にはさらに三斤王に対しても反乱を起こすが失敗、鎮圧される。

477 倭国、宋に遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。
これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)日本書紀ではこの2年後に雄略は没している。

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。
「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
上表文では朝貢が滞った理由として①高句麗が百済を攻めるために朝貢路が確保できない。②高句麗との戦闘準備中に父済と兄興が急死した、ことをあげている。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

481 高句麗軍がさらに南進。百済・伽耶・新羅の連合軍は泥川の闘いで撃退する。

487 紀生磐(きのおおいわ)宿禰、任那で高句麗に通じて三韓の王になろうとする(憲宗紀)

491 高句麗軍、新羅に攻めこむ。百済は新羅に加勢して高句麗軍を撃退。

496 伽耶が新羅に白雉を送る。

498 百済が済州島(耽羅)を支配下に入れる。(これは日本書紀では継体2年とされる)

501 百済、新羅に対する警戒を強め、国境に柵を設ける。

502 武寧王が百済に戻り即位する。新羅を一大国と認め、連携して高句麗に対抗する戦略をとる。

502 南朝に斉に代わり梁が成立。北魏の混乱・衰退に乗じて華北に進攻。

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)。伽耶諸国の荷知王も梁に遣使。

502 百済の武寧王も梁に朝貢。梁の「支持」を背景に伽耶諸国への進出を図る。

502 倭国、百済の「要請」を容れ、任那4国を割譲(百済本紀に基づく記述とされる)。

503 麻立干、智証王を名乗り新羅を正式国名とする。

503 伴跛(はへ)国、百済の一地方を奪取。伴跛は任那の一国であり、4国の百済割譲を肯んじなかったとみられる。

505 伴跛国、倭国と敵対し戦火を交えるに至る。

505 新羅の第一次対外膨張が始まる。海岸沿いに北上。

513 百済より倭国へ五経博士が来る。五経博士は3年間の交番制で、段楊爾、漢高安茂らが来日する。後に五経の他、医、易、暦などの博士に拡大。

517 近江毛野臣の軍が派遣される。(継体21年の事項。継体初年を497と仮定した場合)

521 新羅が百済に伴われ、梁に初の遣使。

522 新羅が伽耶を影響下に置く。新羅貴族の娘が伽耶国王に嫁す。

523 新羅の法興王、南方の支配域を巡行。伽耶国王はこれに出向き拝謁。

524 新羅、北方の蔚珍(悉直国)を併呑し悉直州を置く。(金石文あり)

新羅の膨張

532 金官国(金官伽耶)が新羅に投降。

538 百済の聖明王、都を熊津から泗沘(扶余)に移す。「周書」、百済に僧尼・寺塔甚だ多しと伝える。

538 仏教公伝の年とされる。552年説もある。

552 高句麗、これまでの大城山城に代え、長安城の築城を決定。新羅の進出に備えたものとされる。

553 新羅、漢山地域(高句麗が百済より奪った地域)を奪取。新州を置く。556年にも百済、伽耶の領土を侵食。

553 日本書紀によれば、倭国が百済に馬、船、弓箭を贈り、卜書、薬物の送付を要請。

554 百済と加良が新羅の管山城を攻撃するが敗退。百済の聖王が戦死する。

554 倭国、百済救援のため新羅に出兵する。

561 新羅、安羅の波斯に築城し、倭軍と対決の構え。

562 大伽耶国が新羅に滅ぼされる。伽耶諸国全域を新羅が征服。

564 新羅、北斉に遣使し冊封される。

568 新羅、東海岸を北上。現咸鏡南道まで版図を拡大。

586 高句麗が大城山城に代え長安城に遷都する。

589 隋が中国を統一。

591 新羅に倭典(倭国との外交機関)が設置される。

595 高句麗の嬰陽王、僧慧慈を日本に派遣。慧慈は20年にわたり聖徳太子に近侍した。
冠位十二階は高句麗の制度を輸入したものと言われる。




この独ソ戦年表は「ヘイトの衝突としての東部戦線」(20年2月21日)から独立させたものです。


スターリンの大粛清: 1936年から1938年までのあいだに、134万人が政治的理由で逮捕された。そしてそのうち68万人が処刑された。
1940年

12月 ドイツ陸軍参謀部、ソ連侵攻作戦「オットー計画」を提示。ヒトラーは計画を了解した上で、「レニングラードとウクライナの占領を第一目標とする」よう指示。これを受けて「バルバロッサ作戦」の策定が開始される。


1941年

6月22日
3時15分 ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃。西部戦線とは別の戦争、劣等民族の「絶滅戦争」と位置づけ、「敵軍事力の殲滅」を狙う。

北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は白ロシアのソ連軍を殲滅したあと、開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する。これに対し、南方軍集団は進撃が遅れる傾向があった。
地図 開戦時

7月 開戦後1ヶ月でソ連軍は壊滅的被害。戦車約3500両、航空機約6000機、兵士約200万人が戦闘不能になる。ミンスク-スモレンスクを守る西部方面軍は壊滅する。ドイツ軍も相当の出血を強いられ、前線は停滞する。

8月 スモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊は南方軍集団の支援に回る。

ヒトラーは中央軍を北方と南方へと転進するよう命じ、モスクワ攻略を遅らせた。
モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していた。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)

8月末 キエフ、ハリコフなどが陥落。この間にソ連軍捕虜は白ロシアで28万、スモレンスクで31万、キエフで66万人に達し、戦傷死を合わせて200万人が戦闘不能となる。

9月 ドイツ軍77個師団がタイフーン作戦を開始。モスクワ攻略に乗り出す。しかし作戦を担う中央軍は戦力分割により手薄となっていた。

モスクワ包囲


10月 ドイツ軍、クレムリンまであと十数キロのところで進撃が止まる。原因としては①ソ連が予備役を動員し戦意を維持したこと、②戦線拡大にも関わらず、輸送手段が劣悪であったこと、③ソ連の焦土作戦で装備の現地調達が困難となったこと、が挙げられる。

11月 ルーズベルト大統領、モスクワが陥落の危機を脱したと判断。ソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切る。

12月6日 ソ連軍、モスクワで冬季大反攻を開始。ソ連軍は満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入。冬季装備の不足したドイツ軍はいったん敗走するが、辛うじて戦線崩壊を回避する。

12月8日 真珠湾攻撃。アメリカは直ちに対独参戦。ヒットラーは、アメリカを支配するユダヤ財閥が、ソ連を操るユダヤ人秘密結社と結託したと判断。ユダヤ人問題の『最終的解決』を命じる。


1942年 

2月 ソ連軍の冬季大反攻が終了。持久戦に移行する。ここまででドイツ軍の死者は20万人に達する。

冬 レニングラードの包囲が続き、多くの市民が飢餓で死亡する。

6月 ドイツ軍のブラウ(青)作戦が発動される。南部戦線にてコーカサス地方の石油資源獲得を目的とする。ソ連軍は戦略的撤退で戦力を温存。スターリングラードの線で戦力を再編成。

ブラウ作戦


8月 ブラウ作戦に参加した第6軍がB軍集団を形成。油田確保を目指すA軍集団と分離しスターリングラードを攻撃。テヘラン回廊の寸断を図る。

攻撃は絨毯爆撃から始まった。出撃回数1600回、使用爆弾1000トンで市街地は廃墟と化した。ソ連軍は待ち伏せと狙撃で「ネズミ戦争」を挑んだ。このためドイツ軍は砲撃や空爆が不可能となった。

11月 ソ連軍、占領されたスターリングラードの奪還を目指す。百万の歩兵と1千台の戦車がドイツ軍の補給路を切断。ドイツ軍第6軍33万の将兵は市内に孤立する。ヒトラーは第6軍の突破撤退を禁止し、死守命令を出す。

1943年

2月1日 スターリングラードを守備するドイツB軍10万人が投降。ほとんどがシベリアに送られ、祖国に帰還できたのは5000人にとどまった。ソ連軍の死者は50万人、民間人の犠牲者は20万人に達する。

2月 コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団は、かろうじて撤退に成功。ブラウ作戦は完全な失敗に終わる。

このあとテヘラン回廊を通じて、ソ連に大量の軍事物資が届き始める。

2月下旬 ドイツ軍、進撃するソ連軍をハリコフで逆包囲し、殲滅する。

7月 ドイツ軍90万人が「城塞作戦」を開始。クルスク突出部を南北から挟撃する。ソ連のT34との戦車戦となるが、10日後にドイツ軍は撤退。これを機に攻守が逆転する。
クルスク
             地図 クルスク戦の配置

7月 連合軍がシチリアへ上陸。ムソリーニは解任・逮捕される。

8月 ハリコフ攻防戦が展開される。ドイツ軍はT34戦車軍と対抗するが後方支援なく、撤退に追い込まれる。

9月 ソ連軍の冬季攻勢が開始される。ハリコフ・キエフが奪還される。ドイツ軍はドニエプル河の西側まで撤退。

1944年

1月 レニングラード解放。約900日間の包囲が終了する。

6月22日 ソ連軍がバグラチオン作戦を発動。陸空一体の電撃戦を展開。圧倒的な物量・戦力差は個別に撃破され、中央軍集団は事実上壊滅する。

1945年

1月 ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢。ポーランドを横断し、ドイツ国境を越える。

4月16日 ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。

5月8日 ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准。

松たか子

本日、パラサイトを見てきた」というのが、2月20日の記事。
実はそのときに気になったのが、上映中の映画のポスター。
「ラスト・レター」というのだ。

松たか子と広瀬すずの共演というか競演。いまを盛り、いずれアヤメかカキツバタ、もうこれは見ないと辛抱たまらない…

とは思ったのだが、さすがにジジイが一人で行くのには気が引ける。
どうしようかと悩んでいたが…、緊急情報!

上映中 / 2月27日(木)上映終了予定

出船を知らせるドラの音が響き渡る。

上映時間は?
なんと1日1回、21時10分から23時20分まで!

しょうがないから行ったのさ、一人で
夜霧の立ちこめる湿原のブラックアイスバーンを突っ切って、江別まで

で、どうだったかって?
おい、夜中の1時にこの記事を書いているんだぜ、

とにかく広瀬すずがきれいだ。うっとりする。美人ではない、可愛いいというのでもない、とにかくきれいなのだ。わかる? この表現…

多分、監督の腕の冴えなのだろう。

これがないと映画じゃない。映画というのはまずこうでなくちゃいけない。

これはこれですごいんだけど、この映画で一番キラキラして魅力的なのは、妹役の女優さん。
七菜

森七菜っていうんだそうだ。
出し惜しみして、ほとんどまともに顔を拝めないまま映画が終わってしまう。これも監督の演出なのだろう。松たか子と広瀬すずさえ写っていればいいのだ、この監督には…

とにかくいい映画だった。筋はどうでもいいのだが、ちょっと「エフゲニー・オネーギン」っぽい。

客はわたしひとり、と思ったらタイトルロールが始まる頃飛び込んできた、中年のおっさん。

とにかく劇場の銀幕を独り占めだ。
極楽、極楽!


ビットコインの歴史

2008年 「サトシ・ナカモト」の名前でビットコインに関する論文が発表される。

2009年1月  ビットコインのオープンソース・ソフトウェアが発表され、運用が開始される。

2009年6月 「資金決済に関する法律」が成立。流通性や汎用性を持つ電子的な決済手段を仮想通貨と定義する。

2010年5月 ビットコインによる商取引が初めて成立する。ピザ2枚が1万ビットコインで売られた。

2012年 欧州中央銀行は「未制御だが、特殊なコミュニティで用いられる電子マネー」と定義。

2013年3月 ブロックチェーンの分岐が起こり、激しい売り攻勢に直面する。米国の国土安全保障省はビットコイン取引所を押収し、FBIはSilk Roadのウェブサイトを閉鎖。

10月 中国のIT大手バイドゥがビットコインによる決済を導入。バンクーバーでビットコインのATMが導入される。

11月 中国を拠点とするビットコイン取引所のBTC China、世界最大のビットコイン取引所となる。

12月 中国人民銀行がビットコインの使用を禁止する。ビットコインの価値は暴落。

2013年 米財務省の金融犯罪取締ネットワーク(FinCEN)、「どの司法組織においても法定通貨としての価値を持たないもの」と定義。半ば犯罪扱いする。

2014年

1月 ビットコインを使ったマネーロンダリングで男が逮捕される。

2月 マウントゴックス、全ての取引を停止。取引IDの改ざんにより送金が繰り返され、480億円相当が引き出された。

6月 エクスペディア、デル、楽天スーパーロジスティクスがビットコイン決済の取扱を開始。時価総額は約8400億円に達する。

2014年 欧州銀行当局、「公的機関の裏づけはないが、支払手段として受け入れられ、電子的に譲渡、保管または取引される」ものとする。
中央銀行によって発行されるデジタル通貨は「中央銀行のデジタル通貨」とされる。

2016年 改正資金決済法が成立。仮想通貨を「弁済や購入・売却、相互交換を行うことができる電子情報上の財産的価値」と再定義。

2017年7月 ロシア人のビーニク、マウント・ゴックスなどから不正に金銭を入手したとして逮捕される。

2018年 資金決済法の再改正。欧米での呼称に従い、「仮想通貨」を「暗号資産」(crypto asset)に変更。

2018年7月 ベネズエラ政府が経済危機への対策として埋蔵原油を裏付けに発行したデジタル通貨「ペトロ」を発行。



世界経済フォーラム(ダボス会議)での仮想通貨・ビットコインに関するトピックス
https://coinpost.jp/?p=128782

ダボス会議でのブロック・チェーンの扱いはトピックスどころではない。ブロック・チェーンのために会議が開かれたというくらいの扱いだ。

上の記事では関連イベントや発表、注目発言をまとめている。

1.6中銀がデジタル通貨研究

共同研究の組織は「CBDC利用可能性評議会」と名づけられた。CBDCは中央銀行デジタル通貨(central bank digital currency)の略称。

今回のフォーラムではフォーラム事務局よりCBDCの枠組み案が提示された。これは全28ページからなり、各国中銀が発行するCBDCが適切かどうかを判定する基準となる。

また、デジタル通貨のガバナンスについても枠組みの設計が必要だとし、国際連合組織の設立を明らかにする。

ガバナンスを構成する要素としては効率性、スピード、相互運用性、金融包摂、透明性の5項目が挙げられている。

2.米ヘッジファンド創業者レイ・ダリオは語る

お金の目的は二つある。交換の手段と富の保存手段だ。現在、ビットコインはどちらにも効果的ではない。

しかしパラダイムシフトの限界が近づいているのも間違いない。国債のマイナス金利化はそのシグナルだ。

3.「大事なのは電子決済」

ヨルダンのデジタル経済相は「大事なのは電子決済で現金取引を排除すること。新たな通貨の発明は必要なし」と語る。

4.時流は逆に金回帰に向かう

イスラエルの歴史学者は、「P to P の信用など空虚だ。トランプの一吹きで吹き飛ぶ」とし、むしろ信頼を内蔵する金への回帰が強まるだろうと主張した。

5.「デジタル・ドル」プロジェクト

米商品先物取引委員会のジアンカルロ前会長が「デジタル・ドル」プロジェクトを発表。
ブロックチェーンを用いて米ドルをデジタル通貨化する。これにより手軽にドルの取引を行う環境の実現を目指す。

6.カリブラCEOが語るリブラ

フェスブック社のザッカーバーグは、仮想通貨「リブラ」の構想を立ち上げ、その関連子会社としてカリブラ社を立ち上げた。カリブラのCEOを務めるデビッド・マーカスが語る。

リブラを小売決済かホールセール型にするかは決まっていない。しかしいずれにせよ、リブラは金融決済を革新し、中央銀行が直面する通貨問題および自国経済の課題を解決する鍵となるだろう。

リブラの銀行からの支持率が低いが、我々の目論見は銀行との競争よりもっと高いところにある。
我々は金融包摂という課題を理解し、リブラをその解決法として試すものだ。

7.リブラ以外のデジタル通貨

Bakkt社は消費者向けの仮想通貨構想を発表した。
仮想通貨だけでなく、バーチャルグッズやデジタル証券、ポイントなどもその対象とするとのことだ。と言われてもなんのことやらわからぬ。

すでに仮想通貨を手掛けているリップル社は、「今後12ヵ月に渡り、仮想通貨企業の自社株発行が続々と行われるだろう」と述べた。

8.「サトシ、ダボスへようこそ」

世界経済フォーラムの会場に大型ポスターが掲示され、人目を引いた。スイス大手金融グループクレディ・スイスが掲示したものである。
satoshi
写真

リブラの台頭や、中国政府によるCBDC発行計画やブロックチェーン戦略などの盛り上がりは、まさに「サトシ・ナカモト」の切り開いた世界が大きく広がりつつあることを示している。

2020年がブロックチェーン元年となる可能性が見えてきた。もし新型ウィルスが鎮火し、トランプが再選されてその無軌道ぶりに拍車が掛かるようなら、一気にドル離れ、中銀離れが進んでいくのかも知れない。

それは金融一極支配の突破口になるのだろうか?

ブロックチェーン(Blockchain)とりあえずの感想

メリットやデメリットはどうでも良い

どうも困ったことだが、ビットコインやブロック・チェーンを扱う現場の人達が強調する「メリット」というのがさっぱり実感できないのである。

中央依存性が低い
安全性が高い
追跡可能性が高い

というのは、たしかにブロック・チェーンの特徴ではあるかも知れない。しかしだからといってそれが即「メリット」だと言われると、実のところそれはあまり実感できないのである。

「それをメリットだと思う人がやったら?」ということになる。

どうも記事は、ビットコインの相場に手を出そうとしているコンシューマーに、揉み手をしながら近づいてくるセールスマンのような感じで、油断ならない。



邪道が正道に

そもそもビットコインのそもそもの目的は非営利であった。それは金融独占の打破であり、「持たざるもの」に信用の窓地を開放することであった。しかしその目的はとうに失われた。

いまやそれは「口座を持てない人々」とはそもそも無縁な、高度のテクノロジーを利用した金融バクチとして発展しつつある。2018年のダボス会議でソロスは言った。1日で25%も値動きするような通貨は通貨ではない。誤解にもとづくただの投機だ。

業界2位の暗号通貨である「イーサリアム」は、ブロックチェーンを利用した取引を、一桁も二桁も増やそうとしている。
百鬼夜行の世界には詐欺や不祥事が続発してきた。暗号通貨が「暗号」であるゆえの弱点、強力な守りと利便性の矛盾が攻め込まれる隙間を提供してきた。

また中国では暗号資産の技法だけを盗み出して、P to Pとは真逆の「全展望監視システム」の方向に持っていこうとしてる。

鬼と出るか蛇と出るか

私が問うているのはメリット、デメリットという欲得の世界ではない。それが金融支配体制に風穴を開け、ドルの桎梏から抜け出し、脱一極の世界へ進み出す切符になるかどうかを問うているのである。

本来の分散型、ピア・トゥ・ピアの「民主的」な世界的金融システムが展開できるならこれほど素晴らしいことはない。

いわば政治の世界での一極支配対多国間主義という図式を、金融の世界に投影して行きたいのである。

まずは決済機能から

その際、人々が最も期待するのは決済機能であろう。フェアーな決済こそがいま最も求められているものだ。これがないために米国に国内法を発動され、不当な制裁を甘受せざるを得なくなっている。
ここ数年のEU諸国の米国追随ぶりは目を覆うばかりだ。イラン、ベネズエラ、パレスチナなどで米国が横車を押してもフランスもドイツも見て見ぬ振りをする。こんなことはイラク戦争の頃はなかったことだ。


ブロックチェーン(Blockchain)その2


2019-04-27 小俣淳平


#0 ビットコインを知らずしてブロックチェーンは語れず

「いや、ビットコインじゃなくてブロックチェーンが知りたいんですけど」

その気持ちはよくわかります。しかし、ビットコインとブロックチェーンは密接に関わっているものなので、ビットコインを知ることはブロックチェーンを知ることにも繋がります。

ビットコインは2008年にサトシ・ナカモトによって考案されたデジタル通貨です。名前は日本人のようですが、その正体は謎に包まれています。

ビットコインは国家が管理しなくても機能する「お金」として設計されました。これを自律分散型デジタル通貨と呼びます。

そして今まで約10年間一度もそのシステムがダウンしたことがありません。

最近は仮想通貨ではなく「暗号資産」(Cryptoasset)と呼ばれるようになっています。


#1 ブロックチェーンをなんとなくイメージする

世界中のスマホやパソコンが繋がって、蜘蛛の巣のようになって地球を覆っている、皆さんも想像しやすいインターネットのイメージです。

ただその繋がり方が、従来の一般的なインターネットとは違います。
どこかのサーバーにみんなが繋がっているのではなく、個々のパソコン同士が個別に繋がってネットワークを作っているのです。

そのネットワーク上で、正しい取引データを記録した台帳を、みんなで共有し、確認していきます。
そして確認した記録を一区切りにして1ファイルにまとめます。これをブロックといいます。

このブロックはどんどん増えていくので、それを時系列でつなげていきます。みんながその取引の履歴を確認しているので、みんなが安心して取引できるのです。これがブロック・チェーンです。

このようにすると、国や銀行が信用を与えなくても、大勢の人の相互信用で「お金」を作り出すことができます。

#2 ブロックチェーンのメリット

「銀行があるんだから、ブロックチェーンををわざわざ使う必要はない」と思うのは間違いです。

ブロックチェーンにはいろいろメリットがあります。それは銀行などと比べて分散型であることが関係しています。
ブロックチェーンのメリット
          図 ブロックチェーンのメリット

ただし、このメリットの説明は、原理的にはそのとおりであるにせよ、現実にはまだ信じられないところがある。

連載かと思いきや、記事はこれで終わりである。
もう少し関連知識が必要なようだ。



ブロックチェーン(Blockchain)

A. ブロック・チェーン 原理と用語の説明

①「ブロック」と呼ばれるデータの単位を生成する。
一つのブロックにはいくつかの取引の履歴が記録される。これを「トランザクション」と呼び、ハッシュ関数で「暗号化」されている。

②「ブロック」をチェーンのように連結していく。
この方法でデータを保管・蓄積していく。
各ブロックには、「タイムスタンプ」とブロック間のリンクが含まれる。
図 ブロックの内部構造
transaction
一つのブロックを原基として、枝分かれも含めた系統樹が形成される。


ブロックチェーンのデータベースは、対等端末のネットワークで相互管理される。これをP2P(ピアツーピア)方式という。
分散型のタイムスタンプサーバーで管理されるため、「分散型取引台帳」とも呼ばれる

p to p
     取引もWeb型となり、強力なプラットフォーマーが不要となる

B. パブリック型チェーンとプライベート型チェーン

ブロックチェーンの代表的なものにビットコインと イーサリアム がある。ビットコインは通貨の帳簿で、イーサリアムはプログラムの帳簿である。

ビットコインにおいては、やり取りはネットワーク参加者同士で行われ、第三者の参加者により検証される。
検証者は作業の報酬としてビットコインを受け取る。これにより市場でのビットコインの総量は増えていく。そのことでやがて交換・売買の場としてのビットコイン市場が膨らみ、通貨としての機能を発揮するようになる。

誰でもその気になれば、インターネット上でコイン発行作業に参加できる。さらに銀行が特権的におこなってきた検証作業にも参加できる。
これをパブリック型チェーンという。

 運営主体を評価するためにマイニングの市場規模を確保すること、検証に6ブロック(約1時間)程度をかけることがもとめられる。

とりあえずお金の移動を高速化することに特化した通貨をプライベート型チェーンと言う。
このチェーンには管理者がおり、仕組みは簡単だ。難点は、胴元がコケたらすべて一瞬でアウトということだ。

C. ブロックチェーン 使い方の広がり

ブロックチェーンを仮想通貨以外の目的で使う方式が広がっている。それが海外送金だ。
金融機関を経由することで数百円から数千円の手数料が発生するが、ブロックチェーンを利用することで送金が瞬時に可能となり、手数料もタダ同然になる。

ブロックチェーンの一番の魅力は、まだ可能性の段階に過ぎないが、米国の金融支配とドル乱発から離脱できるかも知れないということだ。
商取引もインターネットでピア・トゥ・ピアの正式取引ができるようになれば、大金融資本を介在しない取引が全世界で可能になる。ドルはたんなる「引き出し権」(DSR)の標章に限りなく近づく。

もちろんアメリカはプラットフォーマーを使ってインターネット金融の世界も支配しようと狙っている。しかしいくら支配を強化しようと図ってもネットの世界は原理的には自由で平等だ。

この可能性については、これからもう少し文献レビューを頑張りたいと思っている。

D. ブロックチェーンの発展動向

イングランド銀行、連邦準備制度、日本銀行をふくむ各国中銀も、ブロックチェーンに基づく暗号通貨の発行を研究している。
メガバンクを中心にグローバルな共同開発も急展開している。

今後のブロックチェーンの発展方向としては、暗号通貨の他に取引の自動化、取引や権利の記録への適用などが考えられている。
とりあえず、第1号の完成。

インドの不況が深刻らしい

日経新聞日曜版(16日)の一面トップが「インド、金融不安の足音」というもの

内容は
1.インドが信用不安と景気低迷のダブルパンチを受けている。
2.信用不安が引き金になって景気低迷に拍車をかけている。
3.信用不安の主因は国営銀行がずさんな融資で不良債権を増やしたため。

ということで、ではどういうふうにして不良債権が増えたのだろうか? というのがこの記事の主題。

ニューデリ駐在の馬場記者の分析では、

① 2016年の末に政府が高額紙幣を廃止した。
② 金の置き場に困った人々がタンス預金を銀行に預け入れた。
③ 銀行は金余りとなったが、貸出金利は低下した。
④ この余剰資金はノンバンクに流入した。雨後の竹の子のようにノンバンクが出現し、ずさんな審査でずさんな融資を行った。
⑤ 18年夏、大手ノンバンクのIL&FSが大量の焦げ付きを出し債務不履行に陥った。
⑥ これをきっかけに銀行や監督当局が警戒を強め、ノンバンクへの資金流入がストップした。
⑦ 貸し渋り、貸し剥がしで個人ローンが困難になり、住宅・自動車の販売が激減した。

というスキームである。1990年代のバブル崩壊時の日本と酷似するパターンだ。

一応数字も上げておこう。

①昨年、インドの銀行融資に占める不良債権の割合は8.9%。
②この不良債権率は、この5年間で5%増えた。
③銀行のノンバンク向け融資残高は、18年をピークとして半減している。
④ 経済成長率は4%台に低迷しており、不良債権率を押し上げるという悪循環に陥っている。

ということで、かなり不況は長期化しそうな雲行きである。

世界経済を押し上げてきた中国とインドが失速すれば、ただの金貸し国家にすぎない米国経済がたちまち資金不足に陥るのは目に見えている。

アメリカの強みはドルと金融システム、情報プラットホームの3本柱だが、その中でアキレス腱はAIプラットフォームであろう。

仮想通貨やブロック・チェーンが拡大した際、このフィクションがいつどういう形で崩れるのか、想像力を鍛えなければならない。

はじめに

3月7日に「泊原発を再稼働させない連絡会」の講演会があって、元福井地裁の裁判長の樋口英明さんがお話をされることになっている。

2014年5月、福井地裁で大飯原発運転差し止めの判決が出された。ついで2015年04月、福井地裁で高浜原発運転差し止めの判決が出された。

これらは今日各地で出されている、原発差し止め判決の雛形ともなっているものであり、今一度確認しておくべきであろう。

樋口さんは、この2つの判決を出された方である。演題はずばり「私が大飯原発を止めた理由」となっている。聞かない理由はないだろう。

ただし話は法理論も入ってきて多少むずかしいと思う。少し私なりに勉強した中身を紹介しておきたい。

Ⅰ.判決に至る経過

こういう下世話な話は素人にもわかりやすい。それとこの判決の意味が逆に証明されたことにもなるので、分かる範囲で紹介しておきたい。

樋口英明氏は当時62歳。福井地裁の裁判長を勤めていた。まず2014年に大飯原発の稼働を差し止めている。この判決は名古屋高裁(金沢支部)であっという間にひっくり返された。

高浜差し止め判決については相当の悶着があった。3月になって、関電側は学者や専門機関による意見書の提出を要求、判決の引き伸ばしを図った。

樋口裁判長はこれを認めなかった。すると関電側はその場で裁判官の交代を求める「忌避」を申し立てた。

このような忌避が認められるわけはないが、名古屋高裁でそれが棄却されるまで、一時的に裁判は中断となる。

ところがその間に4月になり、樋口氏は「定期異動」という名目で、名古屋家裁への転勤を命じられた。

樋口氏の後任裁判長は同じ15年の12月に高浜の差し止め仮処分をあっさりと覆した。判決そのものも18年7月に高裁で覆されている。

「グル」だと断定はしないが、相当いやらしい人事である。しかも福井地家裁から名古屋家裁・簡裁といういわば左遷人事である。ただしこの案件が継続審理だったために、旧ポストで仮処分決定を出すことには成功した。

樋口氏はこの職を最後に定年退職となった。



実は不勉強で、14年の大飯原発訴訟と15年の高浜原発訴訟の2つがあることを知らなかった。
したがってその2つの判決の違いもよく分かっていない。両方とも樋口さんの作成したものである。

最初の大飯原発判決は、「人格権」という考えから訴訟の妥当性を導き出し、「万が一」の論理から裁判による差し止めの妥当性を導き出す。

いわば2階建ての論立てになっているが、詰まるところは裁判所の判断権原が司法の責務に由来していることの論証である。

① 人格権の枠組み

人格権は生存を基礎としているから、すべての法分野において、最高の価値を持っている。
人格権は憲法13条と25条に規定された権利である。
それは裁判においても依拠すべき解釈上の指針である。
生存に関わる人格権侵害のおそれがある際は、執行の差止めを請求できる。
また、多数の人格権を同時に侵害する恐れがあるときは、なおさらである。

② 「万が一」の論理

原発に求められるべき信頼性はきわめて高度なものでなければならない。

大きな自然災害や戦争以外で、憲法の人格権がきわめて広範に奪われる可能性は、原発事故のほかは想定しがたい。

かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である。

③ 裁判所の判断権原

①と②からして、原発の安全性判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい。

原発の安全性基準があっても、その事項については裁判所の判断が及ぶ。

原子力規制委員会は新規制基準への「適合性」の審査を行うが、「安全性」については、裁判所の判断が別個に及ぶべきだからである。



大飯原発から1年経って、こんどは高浜に関して同じような訴訟があった。

高浜判決については、少し詳しく勉強した。おそらく判決も大飯から1年経ってさらに踏み込んでいるのであろうと思われる。

判決内容は耐震性評価、使用済み核燃料の保管に関して具体的に踏み込んで問題を指摘している。

念頭に置いているのは明らかに原子力規制委員会の安全性評価である。そこには「規律ある操業」を目標とする委員会への強い批判の声が聞かれる。

1. 基準値震動について

「基準地震動」は当該原発に想定できる最大の地震動である。それを超えれば炉心損傷に至る危険をも含む。

「基準地震動」は計算で出た一番大きな揺れの値ではないし、観測そのものが間違っていることもある。基準地震動を策定する合理的根拠は見い出し難い。

実際には「基準値振動」は何度も越えられている。原発の所在地は20ヶ所たらずだが、この10年足らずのあいだに4ヶ所で「基準地震動」を超える地震があった。

高浜原発の「基準値振動」も過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析に基づいている。高浜のデータだけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

2.「基準値未満なら安全」とはいえない

高浜原発が運転を開始した時、基準地震動は370ガルであった。その後関西電力は、「安全余裕がある」との理由で550ガルに引き上げた。しかしこのとき根本的な耐震補強工事は行われていない。
さらに新規制基準が実施されたのを機に、700ガルにまで引き上げられた。このときも根本的な耐震補強工事は行われないままだった。

原発の耐震安全性確保の基礎となるべき「基準地震動」を、何のしかるべき対応もなしに数値だけ引き上げるということは、無責任な耐震安全性の引き上げと言わざるを得ない。それは関西電力のいう「安全設計思想」とも相容れないものである。

とはいえ、関西電力の基準地震動、700ガル以下なら安全なのだろうか。
実際には700ガルを下回る地震によっても、①外部電源が断たれ、②主給水ポンプが破損し、③主給水が断たれるおそれがある。
関西電力はこのことを自認している。

関西電力は「原発の安全設備は多重防護の考えに基いている」という。しかし、多重防護とは「堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えている」という備えを指すのである。第一陣の備え(外部電源と主給水)が貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えは、多重防護とは言いがたい。そのような「第一陣軽視」の考えは、多重防護の意義からはずれていると思われる。

外部電源と主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿である。外部電源と主給水は安全確保の上で不可欠な役割を担っている。これら「第一次設備」はその役割にふさわしい耐震性を求められる。それが健全な社会通念である。
しかるに、関西電力はこれらの設備を「安全上重要な設備でない」と主張している。だから「安全なのだ」ということになる。このような債務者の主張は理解に苦しむ。

このような考えのもとでは、「基準地震動」である700ガル未満の地震においても、冷却機能喪失による炉心損傷に至る危険が認められると言わざるをえない。

3. 小括

関西電力は他の原発敷地と高浜原発との地域差を強調している。しかしその地域差なるものは確たるものではない。全世界の地震の1割が我が国の国土で発生しているのであり、「日本国内に地震の空白地帯は存在しない」と考えなければならない。

その上さらに、基準地震動に満たない地震によっても、冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るのである。すなわち高浜原発の危険は、「万が一」というレベルをはるかに超える現実的な危険である。

4. 「使用済み核燃料」というもう一つの問題

使用済み核燃料は、将来、我が国の存続に関わるほどの問題である。しかしそれは堅固な施設によって閉じ込められていないのが実情である。格納容器に代わるべきものとして使用済み核燃料プールが位置づけられているが、その耐震性はBクラスにとどまっている。

なぜか? その理由は「使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要する」からである。

そこで「深刻な事故はめったに起きないだろう」という見通しのもとに、姑息的な対応で済まされている。すなわち、「国民の安全を何よりも優先」との見識は前提とされていないのである。


5. 当面、守られるべき住民の安全について

A) 安全性確保に必要な方策

原発の脆弱性を補強し安全性を確保するためには、

①基準地震動の策定基準を見直し、基準地震動を大幅に引き上げ、それに応じた根本的な耐震工事を実施する、
②外部電源と主給水の双方について、基準地震動に耐えられるように耐震性をSクラスにする、
③使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込む、
④使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性をSクラスにする

などの方策がとられなければならない
さらに、中央制御室へ放射性物質が及ぶ危険が予想されることから、耐震性及び放射性物質に対する防御機能が高い免震重要棟の設置が必要である。

しかるに原子力規制委員会が策定した新規制基準は、①~④について規制の対象としていない。免震重要棟については無期限の猶予期間が設けられている。かような規制方法に合理性がないことは自明である。

B) 新規制基準に求められるべき合理性 「万が一」への備え

平成4年の最高裁判決(いわゆる伊方判決)の趣旨は、まず「原発の周辺住民に重大な危害を及ぼす深刻な災害が、万が一にも起こらないようにする」ことである。そのため、「原発設備の安全性につき十分な審査を行う」ことにある。

そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、「深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもない」といえる厳格な内容を備えることである。

しかるに、新規制基準は上記のとおり、緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。新規制基準は合理性を欠くものである。

そうである以上、もはや新規制基準に適合するか否かについて判断する必要はない。そこには、住民が人格権を侵害される具体的危険性が明らかである。


6. 保全(仮処分)の必要性について

高浜原発の事故によって住民は取り返しのつかない損害を被るおそれがある。したがって、本案訴訟の結論を待つ余裕はない。

すでに原子力規制委員会の設置変更許可がなされている現状では、現状を保全する(緊急の)必要性が認められる。



「万が一」論の根拠は最高裁「伊方判決」である。これは1993年の最高裁第一小法廷判決を指す。

「伊方判決」の趣旨は、原発周辺住民のに深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること(一次予防)。そのため、原発の安全性に十分な意を尽くすこと(二次予防)にある。

判決当時にはあまり注目されていなかった部分だ。判決全文(判例倉庫)を読むと、以下の行が出てくる。

原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、
①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、
②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、
③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、
A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、
B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
以上①~③にかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため(努力しなければならない)

これが福井地裁判決の法的根拠を形成しているのである。

ということで、結果的には原告側敗訴でったが、重要な前進があったのである。それが「万が一論」である。

当面の予定

ちょっとつらいのだが、とりあえず原発稼働の停止を命じた福井地裁判決の学習を優先することにする。
まさに転進である。3月7日の学習会、樋口英明さん(元福井地裁裁判長)の「私が大飯原発を止めた理由」の事前学習資料だ。

レニングラード、モスクワ、スターリングラード、及び東部戦線全体の学習はいったんおいて、機関紙の原稿をあげなければならない。

実は、自分に課した任務からすれば、「ブロック・チェーンと仮想通貨」の学習が最優先なのだが、3月12日からのロシア行スタディー・ツァーが間近に迫った今は、急速に事前学習を強めなければならないのだ。

ということで、頭の冴えている午前中にやるべきことをやらなければいけない。(と言いつつ映画に行ってしまった)


モスクワ攻防戦

7月 ドイツ軍、モスクワへの中間点スモレンスクを陥落する。

8月 ヒトラーは中央軍を北方と南方へと転進するよう命じ、モスクワ攻略を遅らせた。この結果9月末までにウクライナを制圧し、ソ連軍100万人を無力化した。

モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していたという説もある。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)

タイフーン作戦発動

9月30日 ドイツ軍が「タイフーン作戦」を発動。モスクワ攻防戦が始まる。

ドイツ軍はモスクワの北部と南部からの両翼包囲を目指した。北方では第3装甲軍と第4装甲軍がモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断しようと試みた。南方では第2装甲軍がトゥーラ南方に進出。主力の第4軍は直接西からモスクワへ進む。

10月7日 初雪が降る。そのあとに道は泥濘地(ラスプティッツァ)となる。ドイツの機甲部隊は大幅に機動力が低下。ソ連のT34戦車と狙撃師団がドイツ軍に出血を強いる。

10月10日 レニングラード防衛軍司令官のジューコフが呼び寄せられ、首都防衛に当たることとなる。共産主義者義勇団など予備兵力を大量動員し、防衛戦を再構築。

10月14日 ドイツ第3装甲軍がヴォルガ川を渡河。モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断つ。

10月25日 ドイツ空軍がモスクワを空襲。消耗が激しい為これを最後に出撃不能となる。

10月末 第2装甲軍がトゥーラ近郊まで到達。

11月7日 革命記念日。赤の広場で恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行。スターリンは首都残留の姿勢を誇示する。

モスクワ攻防戦に突入

11月12日 参謀総長ハルダ―と中央軍集団幹部がオルシャで戦略会議。補給線の厳しさに警戒の声もあったが、中央軍司令官ボック元帥はモスクワへの攻勢を主張し認められる。

11月15日 ドイツ軍が「秋季攻勢」を開始。第2,3,4装甲軍が前進。

11月30日 ドイツ第4装甲軍、モスクワから8kmのヒムキに到達。ここで気温が零下20~40度まで下がり、車両や火器は使用不能に陥る。

ソ連軍の反撃

12月5日 ソ連軍は、ドイツの機動作戦が一段落するのを待って反撃を開始。シベリア軍管区と極東軍管区から抽出した部隊により押し返す。とくに南西方面ではドイツ軍に1万6千人の損害を強いる。

12月6日 補給路の伸び切ったドイツ軍は有効な反撃できず。各軍司令官はモスクワ攻勢の中止と西方撤退を指示。

12月14日 ドイツ軍首脳、限定的撤退を容認。ヒトラーの怒りを買う。

12月19日 ブラウヒッチュ陸軍総司令官が解任される。ヒトラー自らがドイツ陸軍の最高司令官に就任。(山崎は敗北の原因はヒトラーではなく、ブラウヒッチェら軍トップにあったとする)

1942年

1月5日 スターリン、春の全面攻勢を主張。

1月7日 ドイツ軍、モスクワ攻撃を断念。

1月 各地でソ連軍の攻撃が行われたが、"ルジェフ肉挽き機"などいずれも失敗に終わり、深刻な戦力低下をもたらす。

蛇足 戦死者ランキング
ルジェフの戦いは世界戦闘ランキングで堂々の1位に輝いている。戦死者は189万149人。うちドイツ軍が78万人、ソビエト軍が111万149人というものだ。札幌の人口が一つの戦闘で亡くなったというから信じがたい。
ちなみに第2位が第一次大戦におけるソンムの戦いで、戦死者は122万人。第3位がスターリングラードの戦いで、死者72万741人となっている。


これだけ死んだら、2千万、3千万という数字もたしかに納得はする。それほどヒットラーとナチは凶悪だったのだ。そして日本もそれに加担していたのだ。





レニングラード封鎖 その経過

概況

当時、レニングラードは319万人の人口を擁し、520の工場群と72万の労働者を有していた。またソ連の発電所設備の8割が集中していた。

飢餓や砲爆撃によって100万人以上の市民が死亡する。公式発表は死者67万人。最近の研究では110万人程度と推計されている。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。

さらに兵士約50万人が戦死・病死している。

ドイツ軍は、「科学的な方法による破壊」作戦を狙った。これはミュンヘン栄養研究所ツィーゲルマイヤー教授の提案によるもので、兵糧攻めにより制圧する計画である。

国防軍最高司令部の訓令。
レニングラードを密閉せよ。春に我々は市を占領し、レニングラードを平らな地面にする。降伏を要請する声が出ても、それは拒否される。われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。

時刻表

レニングラードの占領のために北方軍集団が編成される。第18軍、第16軍、第4装甲集団の3個軍で構成され、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュヒラー将軍は熱狂的なナチス党員であった。

6月26日 第16軍がリトアニアの首都カウナスに入る。同行した特別行動部隊は1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺する。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を殺害。

6月26日 フィンランドが宣戦を布告し、冬戦争の際に奪われたカレリア地方へ入る。しかし旧国境を越えての侵攻は控える。

7月13日 ドイツ軍機甲部隊、レニングラードの玄関であるルーガ河に橋頭保を確保。その後沼沢地での遊撃戦で消耗し、いったん橋頭堡の強化に注力する。

7月中旬 レニングラード防衛の最高司令官パヴロフ。解任され即座に銃殺となる。

7月後半 第16軍が追いつく。各部隊で投降した赤軍捕虜を射殺する虐殺事件が発生。軍司令部はユダヤ人と政治委員に加え、ソ連の高官、財界の重鎮、地方の有力者、知識人を「浄化」の対象として虐殺した。

8月2日 ドイツ軍装甲部隊が進撃を再開。ソ連軍は機甲師団への補給路をイリメン湖で切断しようと図る。ドイツ軍は激戦の末これを排除。

8月13日 ノヴゴロドが陥落。ルガ防衛線が突破される。

9月8日 レニングラードと内陸部を繋いでいたラドガ湖畔のシュリッセルブルクが陥落。包囲網が完成する。ここを初日として872日もの間、封鎖状態に置かれる。

9月11日  レニングラード防衛司令官ヴォロシーロフ元帥が解任される。ジューコフ上級大将が後任となる。ジューコフのモットーはいつも『後退する兵、士官は銃殺』であった。

10月 ドイツ軍、モスクワ後略に目標を変更。レニングラードは包囲による飢餓作戦へと変更。ジューコフはモスクワ防衛のため異動する。

包囲戦の開始

ドイツ軍がレニングラード爆撃を開始。ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫へ攻撃を集中。砲弾15万発が打ちこまれた。空からは焼夷弾および爆弾10万7千発以上が投下された。

9月中旬 ドイツ北方軍のレープ司令官は、毎日午前10時~午後7時の市内砲撃を指示。脱出を図る民間人は即刻射殺に処することとなる。(彼は戦後も善人扱いされ、天寿を全うした)

9月12日 食料備蓄はバダーエフ倉庫に集中されたままであった。このため食料は一瞬にして失われた。

食料の残量は以下の通り
穀類・小麦粉 35日分
えん麦・粉物 30日分
肉類・家畜 33日分
油脂 45日分
砂糖・菓子類 60日分

9月末 石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木。
水くみ
マイケル・ジョーンズ著 松本幸重訳
路面電車は氷に覆われて立っている。…白い囲い板で覆われた、死体を載せた橇の長い行列が行く。
接着剤、セルロース、松葉、靴底、革のベルト、その他何でも食料になった。
膠、ゼラチンをゆっくり火で数時間煮沸し、塩コショウ、香辛料、酢、マスタードを加えて食べた。臭いは耐え難かった。

11月20日 ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が活動を開始。翌年4月まで通行可能となる。「命の道」と呼ばれたが、ドイツ軍の攻撃にさらされる「死の道」でもあった。
氷上輸送
             ラドガ湖の氷上輸送
1942年

1月 最悪の飢餓状態を迎える。パンの配給券がとまった。暖房が止まった状態で気温マイナス30度まで下がり、1日2万人の死者がでる。

オリガ・ベルゴーリツ
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
3月 ショスタコーヴィチが作曲した『交響曲第7番 レニングラード』が包囲下で初演される。(なぜバルトークはこの曲を笑いものにしたのだろうか)

5月 ソ連軍、レニングラード解放を目指す攻勢を開始。攻勢は失敗に終わり、第2突撃軍が投降する。

6月 ゴヴォロフ砲兵中将がレニングラード方面軍司令官に就任。

夏 ラドガ湖底に29kmにわたる石油パイプラインが敷設された。

8月 ドイツ軍、マンシュタイン元帥の増援部隊をレニングラードに配置。ラドガ湖補給路の切断を狙う。双方が攻勢をかけるが、いずれも失敗し戦線は停滞。


1943年

1月12日 シュリッセルブルク回廊の確保を目指すイスクラ作戦が開始された。
プーシキン市の鉄道駅での攻防戦

プーシキン市の鉄道駅での攻防戦

https://blog.goo.ne.jp/geradeaus170718/e/e7f72bfce1b0650b4c20c802a1399215

1月17日 内陸との回廊が確保され、モスクワへの鉄道路線が奪還される。レニングラード市当局は封鎖の解除と解放を宣言。封鎖後872日にして、独ソ戦は大きな転換期を迎える。

2月5日  ネヴァ川左岸を通る臨時鉄道が開通。ドイツ軍の砲兵陣地を通過するため、「死の回廊」とも呼ばれた。

1944年

1月15日 レニングラード・ノヴゴロド攻勢が始まる。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走。これが事実上の解放となる。

3月にロシアに旅行することになって、目下勉強中である。
「戦争と平和について学ぶ旅」ということで独ソ戦について学ぶのが主要テーマである。
私にとっては、「ウソみたいな犠牲者数」を検証するための旅になりそうだ。
去年、岩波新書でずばり「独ソ戦」という本が出て、従来の疑問にスッキリと答えてくれたように思える。しかしその答えが本当に正しいかどうか、感覚として確かめてみたいという思いである。

目下のところ、私は「4分の1の正義」ということを考えている。国家・政府の支配者は独・ソともに最悪だった。国民レベルでもドイツは邪悪な精神に支配されていた。唯一ソ連の国民のみが相対的にイノセントであった。というのが私の想定である。
そこに自分の軸足を置いて世の中を俯瞰しようというのが、今回の作業の出発点だ。そうでないと何を言っても諸行無常の歴史的ニヒリズムになってしまうからだ。
とりあえず、戦記風に歴史を追っていく。

ウィキペディアによれば
独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、民間人の死者をいれると2000〜3000万人が死亡した。
これは人類史上全ての戦争・紛争の中で一国として最大の死者数である。ソ連軍の被害
大木によれば
1939年にソ連総人口は188,793,000人。
この内、戦闘員が8,668,000人ないし14,000,000人死亡。
民間人4,500,000ないし10,000,000人が軍事行動やジェノサイドにより死亡。
ほかに疫病や飢餓により死亡した民間人が8,000,000人ないし9,000,000人
となっている。
すべてを合わせたソ連の総死者は、ソ連時代は公式には20,000,000人とされてきた。ソ連崩壊後は上方修正され、現在では27,000,000人とされている。

(大木 毅 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』2019年 岩波新書)

一方、ドイツ兵の犠牲者は390万人で、ドイツ民間人は約600〜1000万人である。

大木によれば、西部戦線や南部戦線も合わせたドイツ人犠牲者は、戦闘員が444万人ないし532万人。民間人が150万人ないし300万人とされる。

ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡した。
大木によれば、570万人のソ連軍捕虜のうち300万人が死亡した。

いっぽう、ドイツ兵捕虜300万人の多くは強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した。大木もほぼ同様の数字を提示している。

独ソ戦の目的

独ソ戦の目的というが、ソ連側に目的などない。そもそも戦争などやる気はなかったし、戦争が始まってからもまだ夢見心地だった。

多くの人の見るところでは、バルバロッサ作戦が始まったときと、モスクワを攻めたときと、コーカサスに向かったときは、戦いの意味が違っていた、あるいは変わっていたということのようである。

目標は大きく分けて3つある。一つはソ連の軍事的壊滅であり、ひいてはスラブ民族の浄化へと進む「狂気の目標」であり、ふたつめはソ連政府を解体し、共産主義を地上から消滅させようという反共主義であり、3つ目がソ連生命線論に基づく植民地支配の構想である。

実際の戦闘においてはそれらが重層し、時々において重点を変えていたと思われる。肝心なことはこれらの三点すべてで、ヒトラー・ナチスとドイツ軍指導部は目標をともにしていたということである。そしてそのことが、最近の研究でますます明らかになりつつあるということだ。

ヒットラーは「我々は敵を生かしておくことになる戦争などしない」と言い放つ。
ドイツは東ヨーロッパ支配のための「東部総合計画」を持っていたが、この計画によれば、最終的に3千万人のロシア人・スラブ人が餓死すると見込まれていた。

東部戦線に関する地図はDNAというサイトの動画がわかりやすく、きれいだ。




本日、パラサイトを見てきた。
それまで8番か9話でやっていたのが、アカデミーとったら大きい3番に昇格して上映回数も増えた。
それで見終わった感想といえば、「ウーム」ということになる。
いかにも韓国映画らしい、やや強引だが力でグイグイ押してくる映画だ。
どうしても是枝監督の「万引き家族」と比較してしまうのだが、一言で言えば「艶」がない。艶がないから余韻が残らない。なぜだろうと考えて、やはり4人家族の個性が描けてないことが弱点なのではないかと思う。
映画館を出たあと役者の顔が思い浮かんでこないのである。4人が4人とも薄っぺらい。特におっかさん役がまったく無個性なのが家族全体の印象を希薄にしている。樹々希林とは雲泥の差だ。おっかさん役のキャラで言えばむしろ安藤サクラが相当するのだが、難しい役を見事に実在感を持って演じていた。そこはかとなく色気さえ漂わせていた。
ネタバレになるが、おっかさんが元の女中を蹴っ飛ばして死なせてしまう、あの一瞬はこの映画の肝なはずだ。おっかさんが描けていないから、あのエピソードがまったく生きてこない。
最後はタランティーノばりの血しぶきとなるが、どうもあそこまで行くと引いてしまわざるを得ない。
総合的に見れば万引き家族のほうが数段上だ。
スラムを漫画チックに突き放しているのも違和感がある。私は25年前、北海学園の加藤先生に連れられてソウルの山の上のスラムを訪れた。たしか月見丘と言ったのではなかったか。彼らは朝鮮戦争の頃、北から逃れてきた人たちで、そこはいわば難民キャンプであった。彼らはただ貧しいだけではなくピンミンとして差別されていた。彼らはとても優しくて、ひっそりと、豊かではないが穏やかに暮らしていた。
だから、彼らを相対的貧困層というのではなく、パラサイトと呼ぶのにはなにか強い抵抗を感じてしまうのである。
率直に言って、韓国映画にはもっといいのがたくさんある。あえてこの映画を社会風刺だとか、反差別だとか、あれこれと深読みしなくてもいいのではないだろうか。


新型コロナ肺炎についての所感

今まで水際封じ込め戦略でやってきたので、余分な意見を言って混乱を助長してもいけないと思い、発言を控えてきた。

しかしもうそのような段階を超えて、市中感染症としての扱いが必要になったので、知恵を寄せ集めることも大事かと思う。

知恵と言っても大したことはないのだが、私には2つの心当たりがある。

1.ノロとの類似点

一つは、拡散スタイルが出始めの頃のノロウィルスにとても似ているという印象だ。今でこそ連中もおとなしくなってきたし、こちらもあしらいが分かってきたので、それほどの恐怖はない。

しかし最初の頃は正体がわからなかったから、とにかくその牛若丸並みの神出鬼没ぶりが怖かった。対策チームのキャップは「ヤクザ・ウィルス」と言っていた。どこにでも難癖をつけ、こちらが弱気と見れば襲ってくる。

今はとにかく手→口の接触を避けることが第一で、とにかく「さわるな、触らせるな」が標語である。

特に医療・介護従事者は、就業時間中はつねに手袋をする必要がある。

これが一次予防。つまりスタッフの感染防止で、一種の水際作戦だ。

二次予防が手洗いとうがいである。

これだけ潜伏が長い、しぶといということは、ヒトの防御機構から見てちょいと大人しげで警戒させないのだろう。コソコソと増殖して、ここぞと思ったら一気に発症するんだろうと思う。ヤクザたるゆえんである。逆に言えば、こちらがアラートでいれば、不顕性感染しても発症を防ぐ可能性がかなり高いということだ。

その間は増殖の場たる口腔~咽頭粘膜をうろちょろしているわけで、うがいを強力にするだけでかなりウォッシュアウトできる可能性がある。ノロと違って胃酸には弱いようだから、飲み込んでしまっても構わない。口腔~咽頭粘膜の保清は二次予防・一種の治療と考えられる。

2.下気道炎型のウィルス感染

実は私は2012年に老健施設でウィルス性下気道感染の大流行を経験している。


それがRSウィルス感染である。入所者の3割が発症した。その半分が医療施設への転院を要した。ほとんど防ぎようがない。例の豪華客船並みである。

とにかく最初から下気道感染の形で発症するから、ノーアウト満塁から試合を開始するようなものだ。
熱はさほどないが咳がひどく、見る間に全身状態が悪化してくる。CRPは二桁に達する。

肺炎と言っても最初はウィルス性の気管支肺炎だから、単純写真では分からない。しかしCTをとると一目瞭然だ。CTをとるということは医療機関に送るときにも大事で、そうでないと老人医師の見立てはなかなか信用されない。これで24時間はずれ込む。

3.抗生剤の早め投与が必須

じつはRSウィルスは子供の病気で、しかも軽症で終わる病気だ。教科書にはそう書いてある。
しかし年寄では重症化する。しかも発症してから重症化するまでの間隔が短い。あっという間なのだ。このことはあまり教科書には書いてない。当時は書いてなかった。

かといって片っ端から病院に送っていたのでは、送られる方も持たない。だからICUから一般病室に移す感じで送り返された。
こちらの経営も危ない。経営的にはRSの後遺症はほぼ1年続いた。カルロス・ゴーン並みだ。だから相当真面目に考えた。

これは免疫低下の問題だ。というより、高齢者に半ば常在する肺炎双球菌(そのたぐい)の二次感染がらみだと考えた。

とすれば結論は一つ、早めのクラビットしかない。もう一つは強めの抗炎症薬、例えばロキソニンである。

後者はナースが嫌がった。低体温やら循環虚脱やらが怖いからだ。だから補液をしながら消炎剤を使った。老健だからすべて持ち出しになるが、それでもベットが空になるよりはいい。
もちろんそれでだめなら送ることになるが、かなりそれでがんばれた感じはある。

何も統計など取らないからそれが有効かどうかは分からない。

ただ大きい病院ほど、若い先生ほど抗生物質を使うのを嫌がる。クラリスロマイシンの予防投与は、ほぼ100%切られて戻ってくる。なので、どうしたものかと考えている。


4.RS感染だという根拠

別になにもない。検査はしていない。ただその時の江別保健所の感染症サーベイランスで小児のRSがとんでもない大流行をしていたと言うだけである。

そして感染経路が、床上まで水に浸かった家のように、あちらこちらから水が漏れ出してくるような発症の仕方だったからである。

とにかく面会謝絶にして、ナースや介護士にガウンもどきをさせるくらいしかなかった。

医者一人だからそれで良かったが、病院のように医者がたくさんいるところでは、意思決定は遅れるだろうと思う。タミフルを巡って果てしない議論が続いた医局会議を思い出す。
病院管理医師としてはそこら辺を留意して置かなければならないだろう。

洋楽レコード業界の戦後史

この文章は下記の論文の要約・紹介である。
著者の生明さんはかなりの洋番マニアらしく、うんちくを披露している。生明さんには申し訳ないが、そちらのほうが面白い。
詳細・正確に知りたい人はリンク先へどうぞ。

広島経済大学経済研究論集 第31巻第4号 2009年3月


1.レコード生産の再開と社名復活

昭和20年10月、占領軍は蓄音機やレコードの生産を許可した。

日本を代表する2つのレコード会社、日本コロムビアと日本ビクターは、戦争中に横文字名称禁止令を受けて、それぞれ日蓄工業と日本音響株式会社に解消していた。

戦災を免れた日蓄工業(日本コロムビア)は、早くも10月、ポータブル蓄音機の生産・販売を再開した。また邦楽レコード(SP盤)も生産を開始した。

さらに12月には、洋楽のポピュラー盤,翌46年1月には洋楽のクラシック盤も発売を開始した。

日本音響株式会社(日本ビクター)は工場・倉庫が戦災で焼失したために遅れを取った。

しかしコロムビアの工場にレコード盤のプレスを委託して、昭和21年9月には邦楽の発売に漕ぎ着ける。

それより前、昭和20年12月には日本ビクターの名称に復している。また日蓄工業も昭和21年4月に日本コロムビアに戻した。

2.コンテンツの不足

この段階での音源は、戦前に支給された古い原盤を使用した再発売に過ぎなかった。

昭和20年12月、日蓄工業はアンドレ・コストラネッツ楽団の「ビギン・ザ・ビギン」と「眼に入った煙」(煙が眼にしみる)のカップリング盤を発売したが、
原盤は戦前にアメリカ・コロムビアから支給されていたものである。

昭和21年1月から発売されたクラシック盤も,ワインガルトナー,メンゲルベルク,ワルターなど戦前のコロムビア盤の再発売だった。

3.ライセンス制度への移行

コロムビア,ビクター両社とももとはCBS,RCAの子会社であったが、戦争中は完全に資本関係を断絶していた。

戦後も日本の厳しい保護政策のもとで戦前への復帰は困難であり、RCAとCBSの洋楽2大メジャーは経営を止めたままであった。そこで見いだされたのが「米国吹込み原盤輸入契約」制度であった。

昭和22年にコロンビアが米CBS・コロムビアと,ビクターは少し遅れて昭和25年に,米RCA ビクター社とライセンス契約を交わした。

4.初期のヒット曲…ポップス

昭和24年9月、コロムビアはポピュラー音楽は従来のM盤シリーズに代わりL盤シリーズが発売され、米国の戦後の作品が紹介されるようになった。

うんちく ①
L盤シリーズとは L1000番からのレコード番号が使われたからそう呼ばれるようになったものである(L盤の Lは,Limitedの Lという説と,M盤より1ランク上の Lという説がある)。

いっぽうビクターは、 S 盤シリーズを設けてポピュラーのヒット曲の発売を開始した。S 盤の S は Specialの S といわれる。

このコロンビアの L盤とビクターの S 盤は、 SPレコードの時代における洋楽ポップスの源泉となった。

初期の L盤からはダイナ・ショアの「ボタンとリボン」などの大ビットが生まれ,S 盤からはプレスリーの連続ヒットなどが生まれた。

5.初期のヒット曲…クラシック

コロムビアは昭和24年,新契約に基づく初の新譜として,ワルター指揮ニューヨーク・フィルのベートーヴェンの「運命」を発売した。

ビクターも昭和25年8月,ハイフェッツとビーチャム指揮のロイヤル・フィルによるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を発売した。

以後両者が毎月新譜を発売するという体制が整った。


6.第三勢力とライセンス制(戦前)

戦前、ビクターとコロムビアは,原盤使用のためのライセンス契約は結んでいなかった。なぜなら両者は実質的には海外企業の日本支社だったからである。

両社は昭和2年に洋楽の原盤を持ち込んでプレスをするようになった。

これに対抗する勢力となったのがポリドールとキングレコードである。

日本ポリドール蓄音器商会は、独ポリドールの輸入を扱っていた阿南商会等が設立した、日本資本の会社だった。

大正15年、阿南商会の阿南正茂と,銀座十字屋の鈴木幾三郎がドイツに渡り,ポリドールの製造元であるドイツ・グラモフォンと折衝した。

その結果、ドイツ原盤の日本におけるレコード製造・販売について許可された。このライセンス契約に基づいて、昭和2年に会社が立ち上げられた。

これに続いたのがキングレコードである。
キングレコードは昭和11年(1936)に講談社のレコード部門として独立した。このときテレフンケンとのライセンス契約を結んだ。

テレフンケンは1932年にウルトラフォンという会社を引き継いで生まれた。グラモフォンやコロム
ビアには及ばなかったものの,ベルリン・フィルやアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団などのオーケストラ,ベートーヴェンの交響曲などをカバーしていた。

このことから、キングレコードはビクター,コロムビア,ポリドールに次ぐ第4勢力となった。

うんちく ②
生明さんのうんちくはポリドール、キングに続くというか続けなかった勢力も取り上げている。
日東蓄音器株式会社は西日本の雄と言われたが、ライセンス契約が不調に終わり、命運尽きたらしい。
東京レコード製作所は昭和9年、アメリカのジャズ・コード「ラッキー」と契約し評判となったが、社長が死亡しコロンビアに吸収された。
この他にも西宮市の内外蓄音器商会、名古屋のツルレコードという会社が洋盤をライセンス生産している。
さらにドイツの会社の日本支社というかたちで、は日本パーロフォン,日本オデオンという会社も存在したらしい。

7. アメリカン・ポップス黄金期

1950年代は、アメリカン・ポップスの黄金期であった。それらの音楽はレコードだけではなく,進駐軍のラジオ放送,朝鮮戦争に赴くミュージシャンたちのライブ公演を通じても流れ込んだ。

音楽も含めアメリカ文化の影響力は圧倒的で、レコード市場でも大きな比重を占めるようになった。

日本コロムビアのL盤,日本ビクターのS盤だけにとどまらず、多くのライセンス契約が締結され,アメリカのヒット曲が日本でも続々と発売された。

戦前からのキング,ポリドール,テイチクに、53年レコード事業を開始した東芝も加わり、6社の競争体制となった。

アメリカ側のレコード会社はあまりに煩雑なため省略する。原文をお読みいただきたい。

ヒット曲も量産された。
男性歌手ではペリー・コモ,ナット・キング・コールなど。
女性歌手ではペギー・リー,ダイナ・ショア,ジョー・スタッフォード,ドリス・デイなどである。

8.ジャズなどの発展と群小レーベルの割拠

1940年代から60年代にかけてはアメリカのジャズの発展期・隆盛期でもあった。多くのジャズ専門のレコード会社が誕生し,後世に残る名演名盤を送り出した。

代表的なレーベルを設立順に挙げると,ブルーノート,アトランティック,プレスティッジ,リバーサイド,ヴァーヴ,インパルスなど。

ロックンロールも誕生した。ビル・ヘイリー、チャック・ベリーやリトル・リチャードなどが一つのジャンルを築いた。そしてプレスリーがブレイクして大スターになった。

その後ブリティッシュ・ロックが盛んとなり、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどが生まれる。

アメリカでは哲学的なメッセージとクラッシック音楽を土台とするプログレッシブ・ロックが大きな影響を与えた。

黒人層の音楽が白人にも受け入られるようになり、メジャー化した。リズム・アンド・ブルースがソウル・ミュージックになり、70年代のディスコサウンドにつながって行く。(このくだりは「へぇ?」)

さらに1960年代のフォークソングも一つのウェーブとして浮かび上がった。その中心にいたボブ・ディランはロック歌手に変身する。

これらのレーベルはマッチのラベルのごとく多様で錯綜している。もはやオタクの世界であるので、ここでは省略する。

9.日本と欧米レーベルの整理統合

70年代に入るころから、アメリカのレコード産業に変化が生まれてきた。ポピュラー音楽のレーベルが少しずつ統合され始めた。

そしてWEA、MCA 、ポリグラムの3社の誕生につながった。これに戦前からのCBS コロムビア,RCA ビクター,EMIを加えたビッグ・シックスが覇を競う時代となった。

この頃日本は戦後成長から高度成長に移行し、62年には貿易自由化,63年には為替自由化,1967年からは資本自由化に踏み切った。

この中で世界のビッグ・シックスと日本がどう組み合わさっていくのかが問われる。

順に見ていくと、最初は1968年CBS レコードとソニーとの合弁だった。翌年には東芝音楽工業が英国EMI、キャピトルと合弁して東芝EMIが生まれる。日本グラモフォンはドイツ・グラモフォンとの合弁会社となった。

以下列挙すると
松下電器+日本ビクター+フィリップスで日本フォノグラム
パイオニア+渡辺プロダクション+ワーナーの顔ぶれで,ワーナー・パイオニア
日本ビクター+RCA の折半出資によるアール・ブイ・シー
日本ビクター+MCAの合弁でMCAビクター

という形で、 6つの世界のメジャーの合弁化が完成したことになる。
この間のゴタゴタで、日本コロンビアとキングレコードが提携先を失い没落した。日本コロンビアは2017年に上場廃止。キングレコードは2000年にクラシック盤の供給を停止。レコード会社としては健在。

キングレコードとライセンス関係を結んでいた英デッカも80年にポリグラムに買収され、ポリグラムはシーグラムに買収され、ユニバーサル・ミュージックの傘下に入る。

以下略

以下は
(広島経済大学研究論集 1987) の摘要である。
2018.07 髙山裕二「ポピュリスムの時代」の情報も追加しました。ただし高山さんの主張には相当異論があります)


かなり辛口の評論になっているが、30年後の今書けば、かなり受け取り方は違ってくるのではないかと思う。今日読んでみると、清家さんが弱点と見ていることが、むしろ非常に新しい視点を展開しているようにも思える。
清家さんは、ルルーが思想家ではなくジャーナリストで、宣伝コピーづくりの名手と評しているように見えるが、たしかに卓見である。しかしかなり水準の高いジャーナリストであったことも間違いないところであろう。

ルルーの思想

1.ソシアリスム(socialisme)の提起

ルルーは宣言する。
私は著述家ではなく信仰者である。その信仰の対象は人類全体 Humaniteである。私はこの信仰を理解し、それに仕えたことを幸福に思う。
ソシアリスム(socialisme)は引力の如き科学的法則である。それは社会的倫理としては協同(アソシエート)である。それは実践としては、多数者階級の物心両面での向上である。

その元になるのは人々の心の繋がり(連帯)であり、生き生きとした日々の暮らし(知情意の備わった営み)であり、それが世代を超えて巡っていくこと(円環の連鎖)である。

2.サン・シモン派への接近

ルルーの評論家としてのスタートは、メッテルニヒ反動のさなかであった。一方でイギリスを起点に産業革命の波が広がり、自由を標榜したブルジョアが革命を裏切り「ブルジョア貴族制」を構築しつつあった。

フランス大革命の共和主義は、カルボナリ党やフリーメーソンを経由してサン・シモン派に流れていった。ルルーもこの流れの中に居た。

サン・シモンの主張
人間による人間の搾取がこれまでの人間関係の基礎だった。これからは協同した人間による自然の開発が進められなければならない。
そのためには、最も数の多い貧困者階級の生活を物心両面から改善すべきである。
理想の社会建設を志向する精神が彼らを惹きつけたと考えられる。


3.サン・シモン派からの離脱

ルルーはジロンド派のコンドルセが唱える「進歩と完全化」を称揚した。そしてコンドルセを引き継ぐサン・シモンに影響されるようになる。

しかしサン・シモンによる「進歩と完全化」は、やがて「宗教」へと収斂していく。「組織は調和的になるほど、宗教的性格を帯びるようになる」のだそうだ。

ルルーはサン・シモンの調和的世界を尊重したが、宗教化は首肯しなかった。絶対者を前提とするかぎり、自由も平等も否定されていく可能性があると見たためである。

彼はサン・シモン派から離れ、「独立評論」誌を立ち上げた。ここから彼の眞面目が発揮されるようになる。

ルルーとサン・シモン派の間にはもう一つの決定的な違いがあった。

サン・シモン派はエリートに指導される社会を構想した。ルルーは共和主義者でありデモクラットであり社会主義者であった。

ブルジョワジーの特権は認めない。ルルーは特権階級の支配の代わりに、代議制政治を「進歩のための必然的道具、不滅の形態」と位置づけた。


4.ルソーとルルー

フランスに社会主義理論が形成されていくのは7月王政下である。何故か?

ナポレオン後の反動政治は、フランス革命を闘った人々にとって耐え難い屈辱であった。さらにフランスにも波及しつつあった産業革命が、多くの貧困層を生み出し、人間の不平等に拍車をかけた。

だから自由・平等の精神は、否応なしに社会主義の色彩を帯びざるを得なかった。これがその理由である。

ルルーは人民主権を唱える点ではルソーの後継者であったが、契約理論は受け入れなかった。彼の立場は一種の全体論であった。
人間一人一人は社会全体の反映である。各人はそのままで人類全体であり、一個の主権である。
そして主権論の立場から、それを否認されたものとしてプロレタリアを位置づける。

ここで有名な言葉「自由・平等・博愛」が飛び出す。
フランス革命と全人類の遺産である,自由・平等・博愛,一言で言えば人民主権がないがしろにされている。
これは「独立評論」の1842年9月号に載せられた「金権政治論」の一部のようである。


5.多数者革命の提案

現在おこなわれているブルジヨワジーとプロレタリアとの闘争は,労働要具を持たない階級とそれを持っている階級との闘争である。
ルルーはこう宣言する。

しかし、ルルーは契約論ではないので、労働者階級の階級闘争という視点には立たない。
彼が念頭に置くのは、労働者階級と言うよりはフランスの3,500万の国民のうちの3,400万人のたたかいである。まさに多数者革命なのである。

彼は、無産階級が政治的権利と経済的権利をもとめて議会の改革と憲法改革に立ち上がるよう訴える。

以降の論考については省略する。


本日の赤旗に掲載された記事。
再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紹介である。
三谷幸喜が発表記者会見で披露したのが「ひかわなにお ほほはあみあみ」という呪文。
詳細は記事を読んでいただきたい。
三谷は「試験に出ます!」と会場を笑いの渦に包んだらしいが、赤旗にはそのくだりはない。
主人公が悪漢というのが面白い。三谷のことだから、シェークスピアもどきのハチャメチャになっていくのだろう。
筋立て命の芝居になるのだろうから、あまり時代考証で画面をこ汚くしないでほしい。
いっそのこと「ひかわなにお ほほはあみあみ」を題名にしてしまったらどうか、とも思う。それまで長生きするとするか。
三谷
 画面をクリックすると原寸大になります。

征韓論の思想的背景

征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

① 朝鮮側に落ち度はない
最大の類似点は、朝鮮政府側に、少なくとも武力干渉を受けるような落ち度はまったくないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

② 日本側には下心がある
もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。朝鮮のためとか東アジアのためとかいうのはおためごかしに過ぎない。
初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。

③ 朝鮮は橋頭堡
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

④ 帝国主義時代の世界政治の論理
大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。


をご参照ください。

アナーキー・イン・ジャパンと言うサイトに面白い文章があったので紹介する。

1922年(大正11)に書かれた大杉栄の文章がそのまま掲載されているのだが、中身はバクーニンが書いたプルードンとマルクスの評価だ。

興味のある方はそちらへどうぞ



1845年7月、バクーニンは官憲の追及を逃れ、はじめてパリへ行った。そこで彼はプルードンやマルクスとも相知った。

バクーニンは、この二人からはもっとも大きな影響を受けた。後年、彼はこの二人を次のように批評している。

プルードン

プルードンは古い理想主義の伝習を打ち破ろうとした。しかし彼もまた矯正することのできない理想主義者であった。

彼は本当の道を発見する天才であった。力強い天才で革命的な思索家であった。しかし、いつもその理想主義のために、もとの誤謬に落ちていった。

彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、その方法を知らなかったことである。

マルクス

マルクスは思想家としては優れている。彼は史上いっさいの政治的、宗教的、法律的進化が経済的進化の原因ではなくって結果だということを主張した。

それは彼が発明したのではないが、その原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼のものだ。

マルクスは、僕とは較べものならないほど学者だった。すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。

彼の談話は、いつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、そこに卑劣な憎しみがあまりにしばしば入ってきた。

われわれの間には、隔てのない親しみというものは、決してなかった。僕は彼を不実で危険な見栄坊だと言った。

マルクスはプルードンよりも、自由についてもっと合理的な理論の上に立てるかもしれない。しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ。

(後略)

つまり社会主義の大道を本能的に知っていたのはプルードンだった。しかし彼はその大道を進むすべを知らなかった、ということになるのだろうか。
マルクスに対しては本質的な批判はない。ただ強権的で陰謀的だという性格的欠陥が俎上に載せられている。たしかに資本論であれこれの学説を批判するとき、しばしば人格的な否定まで論が及ぶことがしばしばある(例えばマルサス)。
実際にはその主張を受け入れ、取り入れる場合にすらそうするのだ。
私達はそのへんも考慮しながら読んでいく必要があると思う。

ウィキペディアのルルーに関する記事は簡潔に過ぎ、不当に過小評価している。

ピエール・ルルー(Pierre Leroux)
1797年4月7日 - 1871年4月

ウィキペディアによれば、ルルーは思想家と言うよりは一種のコピーライターで、「三の組」とよばれる基本原理まとめるところに妙技がある。

例えば神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。社会経済は家族、国家、財産から成り立っており、という具合に続いていく。

ということで、かなり辛口の評価となっている。
この記事の著者によれば、この評価は Encyclopædia Britannica によっているらしい。

ただこの記事は著しく不十分であり、例えばフランス革命の3つの標語「自由、平等、博愛」の作者であること、社会主義という言葉を、今日の用法で用い始めた人物であることが書かれていない。(初期社会主義 人物と思想

もう少し調べて書いた紹介文が必要であろう。

下記論文が見つかった。この文章からとりあえず年譜を作成する。

広島経済大学研究論集 1987


1797年 パリ郊外に職工の息子として生まれた。父親の死により

1808年 リモナデ、イエ(ソーダ水販売業)の父が死去。

1809年 パリ市の奨学金を得てレンヌのリセに通う。

「ルルーは自らの稼ぎにより家族を支えることを強いられた」とか、「学校を退いて石工として働いた」というのは嘘。
学校に入る前に父は死んでいる。石工(macon)ではなく、フリーメーソンになったという意味。

1814年 リセを卒業。植字工として身を立てる。

1817年 イギリス旅行。進歩的政治に触れ社会改革を志す。熱烈な炭焼党員となる。

炭焼き党(Charbonnerie)はイタリア、フランスを基盤とする革命的秘密結社。フランスでは1820年末時点で 8万人が加盟。

1824年 「le globe」(地球)紙の創刊にたずさわる。

「ル・グローブ」を編集したのはデュボワであった。デュボアはルルーとはリセ時代からの旧友。当時は(師範大学を出てリセ・シヤルルマーニュの教授を勤めていた。ルルーはデュボワの“控えめな共同作業者”であった。

反動的な王制l復古時代に芸術・宗教・政治の自由を鼓吹し、欧州諸国に広く講読された。

1825年 ルルー、サン・シモンと知遇を得る。

1827年 ルルー、「ル・グローブ」に最初の署名記事「ヨーロッパ連合論」を発表。徐々に雑誌の中核の役割を果たすようになる。

1830年 

7月 第二次フランス革命。「ル・グローブ」グループの多数派が新政府支持に乗り換え、雑誌は経営危機に陥る。ルルーは「ル・グローブ」のgerant (発行責任者)となりフィリップ派との合流を拒否。

1831年

1月 「ル・グローブ」はサン=シモン教の準機関誌になる。ルルーとサント=ブーヴは共同声明『無能な自由主義との訣別』を発表。

2月 サン=シモンの教義の普及のためブリユツセル, リエージュ, リヨン,グルノーブルを歴訪。

11月 ルルー、サン・シモン教の教祖アンファンタンと衝突。サンシモン教と断絶。

11月 ルルー、「ル・グローブ」を離れ、「百科評論」に移る。「百科評論」は1819年創刊の自由主義の雑誌出会ったが、サン=シモン教会離反グループの機関誌となる。1835年版まで続く。

1833年 ルルー、レノー と共に『新百科全書』の刊行に着手。「19世紀における人類の知識の一覧表を提供する,哲学,科学,文学,産業辞典」をめざす。

33年 レノーと共に, 『人権協会共和派原理』を発表。

1834年 評論集『個人主義と社会主義』を発行。

1835年 6月 サンド(当時31歳)はサント=ブーヴの紹介でルルーと知り合い、熱烈なルルー賛美者となる。金銭的援助を惜しまなかった。

ショパンとワケアリになりマジョルカ島に渡ったのは38年。

1840年、論文『De l'humanite 』を発表。人道主義哲学に基づくものとされる。

1841年11月 『新百科全書 』が終刊。ルルーはジョルジュ・サンドとともに『独立評論』を創刊する。1年後にルイ・ブランに経営権を引き渡す。

1845年 サンドの援助を得て雑誌「社会評論ープロレタリア問題の平和的解決」を発刊する。

1848年

2月 2月革命が勃発。ルルーは共和制を主張する。

4月 ルルーは立憲議会に立候補するが落選。6月の補欠選挙で選出される。

6月 6月蜂起の直後,ルルーは「勇敢に敗北者の弁護をひきうけた」(コミューン政府の弔文)

49年5月 立法議会選挙。ルルーは再選を果たす。自ら経営する日刊紙『真正共和制』を発行。急進的社会主義者としばしば対立。

1851年12月 ルイ・ボナパルトのクーデターのあとロンドンに亡命。ルイ・プラン、カベらと社会主義雑誌の発行を企画するが果たせず。ジャージー島での農業経営に入る。

1858年 ジャージー島で哲学,政治,文学を扱った雑誌「希 望」を刊行。

1859年 大赦の後帰国するが、政界を事実上引退。マルクスはインターナショナルの中央評議会にルルーを指名。

1871年 4月12日 脳卒中にて死亡。



1.時代遅れになった「科学的社会主義」の表現

「社会主義の大道」論の根拠になっているのは、おそらく「科学的社会主義」論でであろうと思う。

しかし「科学的社会主義」言い方はもはや正確とは言えないと思う。科学的社会主義という言葉は、私の記憶では、第十何回かの共産党大会で打ち出された言葉だろうと思う。それまでは「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」と言っていたのを、それでは個人崇拝になってしまうというので言い換えて使うようになったのではないか。

この言葉が生まれた根拠はエンゲルスの書いた「空想から科学へ、社会主義の発展」という入門書から来ているものと思われる。

改称の狙いは社会主義的思想をマルクスの片言隻句に求めるのではなく、その後の理論的成果も組み入れて幅の広い思想として捉えようとするものであった。

しかし昨今のような「野党は共闘」の時代には、かえってその狭さが目立ってしまう。マルクス主義的な社会主義思想を「科学的」と断定することは、それ以外の社会主義を「非科学的」と切り捨てる趣きがある。

だから逆に、「マルクス主義的社会主義」と相対化した言い方のほうが、共闘勢力からすればむしろ自然ではないのかとも思う。「マルクス主義的社会主義」もあれば、「ケインズ左派的社会主義」もあると言った表現である。

2.社会主義の淵源は百科全書派にある

そもそも社会主義は人々が思い浮かべた明日の世界像の集大成なのだ。

それと、労働運動や社会実験を廃棄にした考えではなく、もっと哲学的に考え抜いた社会主義の概念、すなわち「人道的社会主義」の考えからもっと学ぶ必要があるのではないか。

社会主義は個人主義や自由主義より劣ったものではなく、それらの弊害に苦しめられた人々から生まれた新しい考えである。

彼らは旧世界にいたずらに反抗するのではなく、それを不正義のシステムとして認識しようとした。そしてそれを克服するための一段高い倫理を考えぬいた。だからそれは現世の掟より新しく、高級で崇高なものなのだ。

空想的であることは悪いことではなく、素敵なことなのだ。人道的であることは弱々しいことではなく、強靭な思想と信念であることを表現している。

客観的に見れば、マルクスの明らかにしたのは、それが夢ではなくしっかりとした根拠を持っているということなのであって、夢が正しいとか間違っているとかいう評論ではない。

ここではマルクスの主張に基づき形成された社会主義イメージを「マルクス派社会主義」としておく。そして19世紀前半を中心に出現した諸思想は、「初期社会主義」として一括する。


3.自由・平等・博愛こそ、社会主義の根幹

エンゲルス以来、空想的社会主義といえばサンシモン、フーリア、オーウェンと相場は決まっているが、どうも私は違うように思う。

社会主義はあれこれのモデルの中にあるのではなく、三次にわたるフランス革命を通じて研ぎ澄まされてきた思想なのだろうと思う。

「社会主義」については、まずそういう押し出しをすることが大事ではないかと感じる。

そういう点で、フランス革命をさらに前に進めようとした思想家の中には、まだまだ注目すべき人がいるのではないかと思う。

ガローディ『近代フランス社会思想史』(1949)では以下のような人々が列挙されている。

①ラムネーのキリスト教的封建的ロマン主義

②ブルードンのブルジョワ的無政府主義。

③その間をただようサン=シモン主義者ピエール・ルルー

④フーリエ主義者ヴイクトル・コンシデラン、

⑤サン=シモン主義からフーリエ主義に移行したコンスタン・ベクール。

⑥ジャコパン民主主義の伝統に立つ共産主義者ラボンヌレー,ラオチエール, ピヨーなど。

⑦19世紀フランスの唯物論的共産主義の代表者であるデザミ、ブランキ

ほとんど聞いたこともないような人物ばかりである。これらの人物像から集合論理として社会主義を探っていく作業が必要だ。それこそが「社会主義の大道」につながる営為ではないかと思う。


4.イギリスとドイツの社会主義

イギリスで思想家として注目するとしたら、それは父ジェイムズ・ミルではないか。「ミル評注」のミルである。

もうひとり、フランス以外で注目しなければならないのはヘーゲルであり、資本主義の成長の必然性とともにその没落をも予想しているのは流石である。


1821年 ヘーゲル、「法の哲学」を発表。

1821年 ジェイムズ・ミル、政治経済学綱要を発表。

1828年 ブオナローティ、『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』を上梓。七月革命の結果に失望した共和主義者の関心を集める。
バブーフは共産主義という言葉を最初に用い、“完全な平等”という意味を込めた。政府機構の奪取と改革を唱えるが、社会システムでは農地分配の改革を求めるにとどまった。

1831年 リヨンで職工の蜂起

1832年 ピエール・ルルー、「socialisme」を「personnalite」の対比語として用いる。
原義としては「社会化論」というニュアンスとされる。ルルーはフランス革命に際して「自由、平等、友愛」の語を普及させた人物である。

1848年

2月 『共産党宣言』が発表される。社会主義の理論に資本主義の分析を加え、科学的に強化する。

フランス 2月革命、ドイツ3月 革命

1862年 第一インターナショナルが設立される。労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議する。

1871年 パリ・コミューン。世界初の社会主義政権が誕生。

1984年 イギリスでフェビアン協会が発足する。

1889年 第二インターナショナルが結成される。議会制民主主義による平和革命の路線は「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を主張する「教条主義」と呼ばれた

1890年 ドイツ総選挙で社会主義労働党が躍進。このあと社会民主党と改称する。

1896年 ベルンシュタイン、議会制民主主義による平和革命の路線を提唱。「修正主義」と呼ばれる。暴力革命やプロレタリア独裁を主張するカウツキーらは「教条主義」と呼ばれた

1914年 第一次世界大戦が勃発。第二インターナショナルは崩壊。

おあつらえ向きの資料がないので、とりあえず暫定版。
しばらく時間がかかるでしょう。実はその前にしなければならないことが二つ、三つあります。

「社会主義の大道」を考えるにあたって

そもそも社会主義とは何なのか一度整理して見る必要がある。

1.社会主義の定義(所有論としての社会主義)

2.社会主義の歴史(空想的社会主義と科学的社会主義)

3.資本主義か社会主義か(社会システムとしての社会主義)

4.自由主義か社会主義か(平等論・博愛論としての社会主義)

5.社会主義と民主主義(政治システムとしての社会主義)

それぞれが大変に重い理論課題ではあるが、社会主義の歴史を見ていく中で、「大道」も含めて、かなり答えは見いだせそうな気もする。

ということで、例によって年表づくり

社会主義の年表へ

私にはイラン革命の2つの側面がどう組み合わさっているのかがよく分からない。
ひとつは非常に馬鹿げたイスラム原理主義の側面だ。中身は革命と言うには程遠い中世世界への後戻りで、それに暴力性を帯びた過激性がついてまわる。
これは戯画としての革命だ。
もう一つは、非常に優れた世界観と民主主義の観点を併せ持つ外交の世界だ。
これを最初に感じたのは2005年だったか、日本AALAが主催したシンポジウムで、イランの大使が発言した中身だった。
あの「コーランを批判した」との理由で、日本まで来て大学の教授を刺殺する狂気の部隊(スレイマニはその司令官だった)の祖国が、どうしてこのような格調高い考えと協調できるのか。
ずっと気になっていたが、そろそろ一度そのへんを洗い出して見る必要がありそうだ。

イラン・イスラム共和国年表

(固有名詞にやたらと“ー”を入れたがる原理主義者が居ますが、全部外させてもらいます。私はクーバともニカラーグァともべネスエーラとも書きません)

1979年

1月 イラン・イスラム革命。パーレビ国王が追放される。

2月 最高指導者ホメイニの下でイスラム共和制を採用。
①イスラム原理による超封建的独裁、②近代社会と資本主義への憎悪、③革命の輸出を路線とする。
無神論者・不可知論者は死刑イスラムからの離脱も死刑となる。同性愛者も死刑。

11月 アメリカ大使館人質事件。52人のアメリカ人を444日間にわたり人質とする。
事件の背景:革命政府は国王の財産の返還と、身柄の引き渡死を要求。米国はこれを拒否した。

1980年

4月 米国、イランに対する国交断絶と経済制裁を実施。

4月 ヘリコプターによる救出作戦が失敗に終わる。空中衝突で8人の米兵を失う。

9月 イラクのフセインがイランに侵入。イラン・イラク戦争が勃発。

1981年 イスラム左翼集団ムジャヒディン・ハルクがイスラム共和党本部と首相府を爆破。大統領、首相など70人の政府高官が殺害される。このあと弾圧により国内での影響力を失う

1984年 米国、イランをテロ支援国家に指定。

1988年

7月 米軍の巡洋艦がイランの民間航空機を撃墜。乗員乗客290人が死亡。

8月 イラン・イラク戦争が終結。イランは3500億ドルに達する損害をこうむる。

1989年

2月 ホメイニ、『悪魔の詩』の著者ラシュディに“死刑” を宣告。

6月 ホメイニが死亡。専門家会議がハメネイ大統領を後任の最高指導者とする。

90年 原子力開発を再開。イランには革命前から原発があったが、ホメイニは開発を中断していた。

1991年

7月 筑波大学助教授がつくば市内で殺される。『悪魔の詩』を翻訳出版したことが理由だとされる。(事件は未だ未解決)

91年 第一次湾岸戦争。イランは中立の立場を維持。

1995年 米政府、イランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施。

1997年 大統領選挙。穏健保守のハタミが当選。イスラム指導者と自由化を求める行政府が衝突。

1999年後半 ハメネイとハタミ大統領が連携。左右の過激派を許さないことで合意。保守派もこの連合を受け入れる。

2001年

6月 大統領選挙でハタミが再選される。保守派は新聞の発刊停止、改革派候補の立候補制限など圧力を強める。

2002年 

1月 ブッシュ大統領がイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と非難。

2003年

3月 米軍、イラク侵攻。

2005年

6月 大統領選挙。決選投票で保守強硬派のアフマディネジャドが62%の票を獲得。

アフマディネジャドは工学者で、テヘラン市長から転じ、終盤ではハメネイの支持を受けた。

8月 最高指導者ハメネイ、核兵器の製造・配備・使用を禁じたファトワ。

10月 アフマディネジャド、「イスラエルは地図から抹殺されるべきだ」と発言。

2006年

1月 アフマディネジャド、平和的核開発をすすめると発言。ただし核兵器の製造は違法で、我らの宗教に反すると述べる。なおパーレビ時代に原発があったが革命後は停止していた。

3月 ハメネイ師は「イランは核開発計画を絶対に放棄しないし、いかなる制裁も恐れない」と語る。

実は02年から秘密裏にウラン濃縮計画、プルトニウム抽出実験などを行ってきたが、これが暴露された。

12月 国連安保理、イランに対する第一次経済制裁を決議。

2007年

米国、イランの革命防衛隊などの軍事組織を「テロ組織」に指定。

2008年

4月 イラン、遠心分離器の増設を表明。

6月 イスラエル副首相、イランの核兵器開発を止めるには攻撃しかないと発言。メディアには「イスラエルがイランの核施設攻撃を想定した軍事演習を実施」との報道。

7月 EUとの核開発をめぐる協議に、アメリカが参加。

2009年 大統領選挙でアフマディネジャドが再選される。ハメネイは引き続き支持に回る。

2011年 2期にわたる失政で、国内経済は疲弊。アフマディネジャドと最高指導者ハメネイとの軋轢が表面化。

2012年

1月 米国が核開発疑惑への報復として禁輸処置。オバマ米大統領、ホルムズ海峡封鎖論に対し、「必要ならば武力行使も検討する」と警告する。

1月 EUも独自にイランに対する制裁を強化。イラン国内の強硬派は「報復としてホルムズ海峡封鎖を行うべき」と主張。

12年 シリア内戦が本格化。イランはシリア干渉を強める。イラン人兵士の総数は7千~1万人に上る。支援費用は年間平均60億ドルとされる(国連)

2013年

6月 イラン大統領選挙では、保守穏健派のロウハニが勝利。

2014年 イラクでISが支配圏を急速に拡大。イランはシリアとの2正面作戦を余儀なくされる。このためアフガン人難民から民兵をリクルート。

2015年 イランと安保常任理事国+ドイツ・EUが、核技術に関する包括的共同行動計画に合意。

2016年 核問題に関する経済制裁が撤廃される。

2018年

5月 トランプ大統領、「核合意には致命的な欠陥がある」と脱退。制裁措置を再開。

年末 イランのインフレ率は31%、失業率は14%、経済成長率は−3.9%となる。

2019年 中国、インド、日本、韓国、トルコに認めてきた原油輸入禁止の適用除外の措置が打ち切られる。

5月 イラン、核合意の制限を破棄。3.67%を超えるウラン濃縮を開始。

6月 安倍首相がイランを訪問。ハメネイは「核兵器は保有も製造も使用もしない、その意図はない」と発言。

2020年

1月 ソレイマニ司令官殺害事件。トランプ大統領は「イランが報復すれば、イラン国内52か所を標的とする」と投稿。この数字は占拠事件で人質となった米国人の数。

ロウハニらは「シリアでの活動が、アメリカの制裁を招き、制裁が民間の経済活動を阻害している」としてソレイマニ路線を批判しているらしい。


イランの二面性を軍事面から評価するために、下記のレポートがとても参考になる。


私には、とても要約する力量はないので、本文にあたって欲しい。

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