鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

いろんなページを見たが、発電機の周波数の説明がどうにもわからない。
私は現在のところ、以下のように考えているが、いかがであろうか。

電気は、「周波数」を一定(50Hz)に保ちながらお届けすることが大切です。
周波数を一定に保つには、電気の消費(需要)と発電所の出力(供給)のバランスをとる必要があります。
そこで、当社は周波数が常に一定となるように需要の変動に応じて、火力発電機や水力発電機の出力を調整しています。
1.機器の使用に不具合
なぜなら、周波数が変動すると産業用機器の使用などに不具合が生じるおそれがあるためです。
2.出力が減ると周波数が下がる
*北電のページでは周波数を「水の重量」に例えているが、これほどひどい例えは例えようがない。まったく連想できない例えである。
3.太陽光や風力は出力変動を大きくする
出力変動が大きくなるため火力発電などによる調整が追いつかず、周波数を一定に保つことができなくなるおそれがあります。
4.火力発電所は「下げ代」が小さい
受容の低下に対応して出力を低下させる調整能力を「下げ代」といいます。
火力発電機は、運転を継続するために最低の出力維持が必要です。したがって発電出力を一定値以下にすることができません。
つまり火力発電所は「下げ代」が小さいのです。
*これは水力と比べたときの相対的なものだ。水力は容易にゼロ稼働からフル稼働まで調整できる。
*同じ火力でも、どのエネルギーを使うかで変わってくる。最新鋭の天然ガス燃焼施設では対応の柔軟性は十分確保されてい。北海道に多い石炭専燃や重油火発は対応が遅い。
*原発の「下げ代」は最悪で、ほぼゼロに近い。

つぎが下記のページ

0. 周波数について
交流の電気の周波数は、電圧とともに電気の良しあしを決める重要な要素です。
さらに、周波数は発電と需要(負荷)とのバランスをみる重要な指標で、発電が需要を上回ると周波数は上昇し、下回れば低下します。

1.2.3.は省略
4.周波数の変動
発電所では、50Hz・60Hzの規格周波数から±0.1Hzから±0.2Hz内になるよう調節しています。
周波数が大きく変化するとモータでは振動や発熱、回転ムラが発生することがあります。

発電機そのものも回転数が変わるために、振動や機械系の疲労が問題になります。
周波数が大幅に変化しますと、運転を続けることができなくなり、次々に発電機が停止して大きな停電になることもあります。
*どうもわからないのだが、周波数の変化は結果であって原因とは言えないのではないか。周波数の著しい増減は需要と供給の著しい乖離の表現であって、だから危険を察知する重要な指標になるということではないのか。

この文章は、本文より脚注のほうが読み応えがある。しかしわかりにくいのは同じだ。
脚注
1 回転数と周波数
発電機はタービンの回転によって起電されます。周波数はタービンの回転数に比例します。
*これが良くわからないのだが、例えば10回転のタービンに、5倍速のギアを噛ませて50回にすることなのか。
タービンの機械的出力よりも大きな電気出力を出すと、タービンの回転数が下がります。
*これも良くわからないのだが、そもそも坂道を登ってエンストを起こすのとは違う話だ。出力ということで mα と1/2mxVの2乗 を混同しているのではないか。
もしわかりやすくいうなら、出血サービスを続けて貧血状態になって、最後にへたって動けなくなる。そのときに究極の疲労症状として回転数が下がってくるのなら、それはあくまで疲労現象の一つに過ぎない。
この回転数(=周波数)の低下は、いろいろな制御も用いてタービンの機械的出力を増加することによって元の回転数へ戻されます。
*供給力低下の続発兆候としてなら当然だ。回転数低下は結果に過ぎないのだから…
*供給力変化と関係のない単純な回転数低下なら、タービンからのギア比を上げれば良いだけの話。
2 飛行機では400Hz
周波数が高いと発電機は小さくてすみます。このため、ある狭い範囲にだけ供給する場合、たとえば、飛行機では400Hzの発電機が使用されています。
* 狭いというより低出力ということではないか。つまりギア比を低くしてトルク比を稼ぐ発想?

3 アンバランスというのは仕事のアンバランス
発電と負荷は電気的には常にバランスしています。それが電気の原理というものです。バランスが崩れるのは発電機を回すための仕事量(素材的には蒸気や水の量)と、発電している電力の大きさとの関係です。
単位時間当たりのエネルギー(仕事量)が発電している大きさよりも大きければ周波数は高くなります。
*ニュートラルでアクセルを踏み込むのとおなじで、
空ぶかしすれば回転数は跳ね上がる。回転数を上げたから空ぶかしになったわけではない。

4 最後はタービン出力の調整
最終的にはタービン出力を調整して回転数を保ちます。太陽光発電や風力発電では調整できません。
* 「オレは太陽光や風力は大キライだ」という姿勢が透けて見えます。



ということで、“周波数” は決して交流電気エネルギーの発生のための本質的要素ではないということがわかった。
それが意義があるのは、タービンの回転数の整数倍だったり、その逆数だったりして、回転数を間接的に反映しているからである。
ただしそれは駆動輪から伝導する際のギア比によって操作可能であり、回転数を反映する仕方は条件的である。

タービンの回転数は角速度である。産出エネルギは“重量✕速度の2乗÷2”だから、回転数は起電力の本質的な要素であるが、起電力そのものではない。

物理屋さんのボキャ不足が起因しているのだろうと思うが、問題は周波数ではなく、発電機のタービンの発生エネルギーなのである。
方程式は電力需要と電力供給量とタービンの出力から構成される。どういうふうに書けるかは知らないが、基本はそうである。
もう一つの方程式がタービンの発生エネルギーを決めるもので、こちらは角速度=回転数とタービンの負荷重量から導き出される。
重量は一定なので、出力は回転数によって決まる。需要量に比してエネルギーが不足すると、結果として回転は落ちてくる。要するにへたってくる。
どうするか。タービンを回すエンジンの出力を上げればいいのである。
出力を上げれば、回転数はふたたび増加し、供給エネルギーは増えるのである。

これら一連の過程はタービンの回転数を見ればわかるのであるが、一定の固定した条件(例えばギアー比) のもとでは発電した交流電気の周波数で代用することもできる。

おそらくはただそれだけの話であろうと思う。

昨日、北電のブラックアウトの話を聞いて、自分の電気に関する知識が恐ろしく低いことに気づき、愕然とした。まずは小学生の基礎勉強から。

ネットで「電力 歴史」で検索して見ると、いろいろなサイトが出てくる。これを年表化するところから始めることにする。


紀元前4世紀頃 プラトンは、静電気について記載し、「琥珀が軽いものをひきつける」としている。この電気は琥珀のギリシャ語「エレクトラム」にちなんでエレクトリカと名付けられた。

1746年  ライデン大学のマッシェンブレーケ、静電気を蓄えるライデン瓶を発明。一種のコンデンサーで,金属箔とガラスびんでつくられた容器。


1752年 フランクリンが凧を上げて、雷が電気現象であることを証明した。

はり金をつけたタコをあげ,伝わってきた電気をライデンびんにためた。その後金属棒をつけて花火が出るのを確認した。

1785年  クーロン、磁石には陽極と陰極があり、磁力は極と極との距離の2乗に反比例することを発見。

1791年  ガルバーニが,死んだカエルの足に金属を当て,足がけいれんすることを観察。カエルの体には電気を作る性質があると発表。

1799年 ボルタ、ガルバーニの実験で電気を発生するのは金属であることを発見。2種類の金属に湿った布を組み合わせた「ボルタ電池」を発明する。

1820年 エルステッド、通電した電線の傍の方位磁石が動いたことから、電流の磁気作用を発見。

1820年 アンペールは、電気と磁気に関する理論を発表し電気力学の理論を確立。

アンペールの法則: 磁場の大きさの積分は、経路を貫く電流の和に比例する。

1825年 スタージョンが馬蹄形の鉄にコイルを巻いて電流を流すと磁気を帯びる現象を発見。

1826年 オームは、電流、電圧と抵抗の関係を示す「オームの法則」を発見。

1829年 ヘンリーが電磁石を改良、電信や鉄鉱石の選別に応用した。

1831年 ファラデーは 電流が流れると磁気を生じ、磁気が変化すると電流が流れることを発見。電気と磁気の相互変換が実証された。これを電磁誘導現象と呼ぶ。

1832年 ピクシーが発電機(直流)を発明

1831年 クックとウィートストン、電信機の発明。37年に電信会社を起業。

1834年 ダベンポート、ボルタの電池を利用した実用型直流電動機を発明。レール上を走行する電気機関車の実験に成功。

1840年 ジュール、導体に電流を流して発生する熱量は、電流の2乗と導体の抵抗の積であることを発見。「ジュールの法則」と呼ばれる。

1840年 アームストロングが水力発電機を発明。

1865年 マックスウエル、Maxwellの法則を発表。電磁波(電気と磁気)の存在を予言。電磁波の速度が光の速度と同じだったことから、光も電磁波であることを予言した。

1870年  グラムがダイナモ方式(シーメンス)による実用発電機を完成する。

1876年 ベルが有線電話を発明。

1878 日本初の電灯(アーク灯)が点灯。3月25日の点灯日が電気記念日となる。

1879年 エジソンが、日本の竹をフィラメントに使用した電球を発明。

1881年 シーメンス、水力により交流発電し電灯を点灯

1882年  エジソン,電球普及のため発電所を建設し送電事業を開始する。(小規模な石炭火力発電所)

1888年 ヘルツは、電磁波の存在を実験的に証明した。

1890年 テスラ、交流モータと交流発電システムを発明。その後交流方式が世界中の電力システムに採用されるようになる。

1892年  京都の蹴上で,琵琶湖の水を利用した水力発電所が作られる。

1893年 スタインメッツ、交流電気の特性を数学的に表現する。

1881 シーメンス、水車で駆動する交流発電機で街灯を点灯。

1882 ゴードン、2相交流発電機を開発。

1882 テスラ、回転磁界を考案。多相交流(2相)による誘導電動機の原理(回転磁界)を考案。これに基づき「2相モータ」の設計。

1885 スタンレー、鉄の輪に二つのコイルを絶縁して重ね巻きにした誘導コイルを考案。最初の実用的な変圧器となる。

1887 テスラ、ブラシレスの交流発電機を開発。エジソンとのあいだに「電流戦争」が始まる。

1891 テスラ、高周波発電機(約15000Hz)を開発。無線通信に使用される。

1891 テスラ、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明。最初の長距離送電(距離175km)に成功。

1893 スタインメッツ、交流理論を出版。

1893 カリフォルニア、レッドランドの水力発電所が大規模発送電を開始。

1893年 シカゴでコロンブス博覧会。照明装置をめぐりエジソン+GEとテスラ+WHが競争。テスラがエジソンの半値で入札。これにより交流派の勝利が確定。

1895 ナイアガラ瀑布の水力発電所が発送電開始。60サイクルで運行され、以降この周波数が米国の標準になる。長距離送電開始にあたっては、電圧が11キロボルトに上げられた。



1.電気の利用はまずボルタ電池から始まった。このため多くの装置は直流電気を前提に開発された。

2.1830年にファラデーが電磁誘導を発見した後は、磁界の中で器械的運動(円周運動あるいはピストン運動)を行うことにより電気を導出する方式が主流となる。

3.したがって発生する電気は交流となるため、直流への変換が求められる。しかしそれは余分なコストである。

4.交流電気は変圧が容易なため長距離送電に向いている。このため交流が主流となっていった。

5.交流の最大のネックである電動モーターはテスラの「2相モータ」の開発により突破された。

最終的にテスラの交流発電方式がエジソンの直流式に勝って、世界標準となったらしいのだが、そのあたりの経過は、このたぐいの年表をいくら読んでもわからないようだ。もう少し的を絞って検索してみることにする。


中期マルクスの二つの隘路

佐藤金三郎が内田弘の「要綱」研究にコメントした小文がある。(「中期マルクスとは何か」1987年)

内田の原文が難しいらしく、佐藤もそれにつられて読みにくいものになっている。
佐藤は内田の論文をまとめた上で、「内田は中期マルクスの業績として二つを見出したのではないか」と述べている。
それはマルクスがリカードから相対的剰余価値を学び、会得したということ、アリストテレスから自由時間概念を引き出したことである。
佐藤はどうも内田の見解に対して、とくに自由時間概念についてニュートラルなところがあるようだ。

これらは、研究の成果と言うより、研究の先に立ちはだかる二つの関門であり隘路だったのではないか。

以下は、私の考えるところだが、
相対的剰余価値論は、確かにマルクス経済学の核心を形成しているところであり、恐慌→窮乏化革命を乗り越えていく上での飛躍台になっている。
しかし後年、相対的価値論だけでは進まない問題、価格実現問題が出現するので、よりエレメンタリーな概念の析出が求められるのではないか。
自由時間概念については、これが労働力概念から導き出される関数に過ぎないのではないかという思いを捨て去ることができない。社会的にも、倫理的にも、自由な時間は決してブランクな時間ではない。それを生活過程論と欲望の創出過程論抜きに語っても意味がないと思う。


継体天皇は混乱の入り口か出口か

1.継体天皇崩御の謎

百済本紀の勉強をしていて、ウィキの別項目が心惹かれた。

記事の名は「継体・欽明朝の内乱」で、安閑-宣化系と仁賢系の対立があったのだという説である。

そもそも継体がどこの馬の骨とも分からぬ出自で、即位の後数十年も摂津から山城をウロウロしていたのだが、それが即位して、亡くなってそれからまた内訌になったのだから、シッチャカメッチャカである。

しかもその間に筑紫の君磐井の乱が起き、任那の国が滅び、大和の地に忽然と蘇我氏が姿を現していくのだから、まったく謎の50年である。

しかも継体天皇の没年には諸説あり、百済本紀には「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」となっているのである。

そこにはミステリー小説も真っ青の「謎」がぎっしりと詰まっている。身震いするほど面白い話題なのだ。

2.雲の切れ間

大和王朝には空白の50年がある。雄略天皇が死んでその跡目争いがゴタゴタして、空位になってしまう。これが西暦500年ころだ。
その後物部と大伴という二大豪族が越前から継体というカイライを探してきて皇位に据えるが、からっきし権威がない。
結局、継体は30年を経て大和入りに成功した。そして名実ともに天皇家を担うようになるのだが、それから1年もしないうちに死んでしまう。
その後二人の天皇が後を継ぐが、いずれも超短期政権で終わってしまう。
さいごに欽明天皇が即位して事態は安定に向かうのだが、とはいえそれにはさらに10年を要する。

というのが経過のあらましだが、何よりもまず継体と欽明とが本当につながっているのか、「継体は断体なのではないか?」というのが疑問である。

3.継体天皇の二つの顔

私は九州倭王朝の存在を信じる人間である。少なくとも6世紀初頭の倭王「武」までは、九州北部を根城とする王国が存続していたと思っている。
それがどこまで引っ張れるのかについては分からない。根拠はない。

それはどこかで終わる。多分任那の滅亡と前後して終わったのだろうと思う。
それに代わって日本を代表する勢力として大和王朝が登場する。それは早くとも、欽明天皇の治世の後半からだろうと思う。より端的に言えば蘇我稲目の登場がメルクマールだと考える。

継体はこの2つの時代の接合部に登場する。彼は2つの顔を持っている。

一つは近畿にあって、王の存在しない混乱の時代を終結させ、安定と成長の時代に導いていく「大和政権の最初の王」としての顔だ。
もう一つは「太子・皇子倶に崩薨」し、混乱の時代に突入する「倭王朝の最後の王」としての顔だ。
それは死に顔から後ろ向きに始まるストーリーとなる。それがこの「継体・欽明朝の内乱」なのだ。

4.継体天皇の表の顔

まずはウィキの記載から入る。
生まれが450年、没年が531年3月10日とされる。81歳という年齢は長過ぎるようにも感じるが、ないとは言えない。ただし450年には“?”がついている。
507年に57歳で即位して、在位は24年間ということになる。数字だけならありえない話ではない。今上陛下の御即位は56歳である。しかし考えにくい数ではある。
出身は越前国高向の豪族で男大迹王を名乗っていた。大伴、物部ら反大和系(河内系)豪族に推戴され即位した。
即位19年後の526年に初めて大和国に入り、都を定めた。531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、同日に崩御した。

これが日本書紀の記載である。

この記載を具体的に解釈してみよう。継体を押し上げた勢力は雄略天皇と河内王朝を支えた勢力であることがわかる。そしてなおかつ、河内王朝(大伴・物部連合)は後継者不在に陥っていことがわかる。
河内王朝の権威は失墜した。大和の勢力は河内に従わず別の権力を打ち立てた。
河内と大和の対立は30年にわたり続いたが、最終的には河内側の勝利に終わった。継体は大和入りして都を開く。
基本的にはこの後、大和盆地を根城に万世一系の血筋が続いていくわけだから、継体という王はとても大切な王ということになる。

5.裏の顔 そのA 古事記の顔

古事記は日本書紀よりひと世代前に稗田阿礼位の口述を筆記して作成したと言われる。二つの資料において継体天皇の記載はかけ離れている。
古事記では、継体天皇は生年485年、没年527年5月26日となっている。(注釈文では4月9日)
古事記と日本書紀との間にはあまりにも露骨な対立が見られる。
同時代の作品であるから、たがいに知らないわけはない。とくに日本書紀の作者は必ず古事記に目を通しているはずである。
であれば、日本書紀側が知っていて、あえて虚偽記載した可能性が高いということになる。

もし古事記に従うなら、話はよほど自然になる。即位は22歳だ。大和に凱旋したのが41歳。その翌年には死んだということになる。
では日本書紀はなぜ、古事記を無視してまで生年を35年も遡らせたのか。

そこには理由があるはずだ。それが百済関係だと思われる。

没年についてはさらにミステリアスだ。527年5月26日というと大和入りしてやっと1年、とうてい安定した支配とは言えない。むしろ4面敵の中で暮らしている感じだ。
もし皇位を禅譲してその日に亡くなったのだとしたら、それが平和的なものだったのかという疑いがきわめて強くなる。
継体は前例のない譲位という形で権力を奪われ、死を余儀なくされたのではないかという疑問が沸かざるを得ない。この疑問に古事記は一切答えていない。

もう一つ、磐井の乱だ。このような状況の中で果たして平定作戦を進めるだろうか。それだけの力が地方豪族連合に過ぎない大和(河内)朝廷にあったろうか。

だから日本書紀はこの年を没年にしたくなかったのだ。そこで後ろにずらせて、大和支配が安定し、禅譲のお膳立てが揃うギリギリの531年まで繰り下げたかったのではないか。日本書紀はご丁寧にも534年という異説まで紹介している。


5.裏の顔 そのB 百済本記の顔

これは本当に継体天皇のことなのか分からない。日本書紀の作者(おそらく百済人)が、「これは年代的に言ったら、継体天皇やろな」と思って書いただけのことだ。だから本文には組み込まずに、注釈として挿入してある。

その文章というのは、「辛亥の年(531年)に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」(日本天皇及太子皇子 倶崩薨)というものである。

ただ、百済の亡命者も経過は知らないから、辛亥年というだけの理由で話を作り上げただけだ。それが60年前であっても後であっても「アッ、そう」だけかもしれない。

もしそれが倭王何某と書かれていたとしても、690年に亡命して大和で外国の正史を編纂している人間にとってどんな意味があるか。大和の天皇と書きなおしても何の不思議もないのではないか。

彼らにとって、大和王朝が由緒正しい倭王朝の末裔ではなく、田舎の豪族連合政権の出自なのだとしても、どうでも良いのである。問題なのは、彼らがその時大和朝廷の食客でしかなかったということである。


6.「辛亥の変」で殺されたのは安康天皇?

ウィキでは、60年前の辛亥年、すなわち471年とする説を紹介している。「この年、大和朝廷では安康天皇が眉輪王に殺害された。混乱に乗じた雄略は兄や従兄弟を殺して大王位に即いた」とされている。
しかしこれは「天皇及太子皇子 倶崩薨」というのとは少し違うし、「雄略を倭王武に比定してバリバリ書きまくっている日本書紀の執筆者が、そのような単純な取り違えをするだろうか?」という、別の疑問が浮上する。


7.継体 531年死亡説を前提とする王権継承説話

話がどうしようもなくこんがらがっているが、もともと古事記をオリジナルと考えれば、「継体A」は527年5月26日に亡くなったのである。

皇位を後継者に譲り、その日に亡くなったというのは日本書紀の説明である。古事記にはそのような説明はない。おそらく磐井の乱も知らず、側近の悪巧みも知らず自然死したのであろう。

その後、安閑・宣化が短期政権を担ったあと、欽明へという流れはもっとも素直な政権論である。

ただ526年に大和を制圧し都を立てて、わずか1年後に亡くなるというのはいかにも唐突だが、そもそも古事記には20年にわたるオデッセイアは描かれていないのだから、そんなことはどうでも良いのだ。

これに対し日本書紀はことさらに生涯をドラマ化し、あえて不審死を匂わせ、さらに百済本記の「531年事件」を重ね合わせ、物語を作り上げている。

いずれにしてもここには、日本書紀が密かに重ね合わせたもうひとりの継体天皇がいる。この「継体B」こそは倭王朝を率い百済と交通し、任那を割譲し、磐井の反乱を乗り切り、31年に政変により打倒され、一家皆殺しにされたのである。

それでは、日本書紀はなぜ生年を35年も遡らせたのだろう。それは継体を倭王「武」に比定したかったためではないだろうか。

いまのところ、邪馬台国大和派の人々は雄略を武に比定している。しかし雄略の即位が絶対年代で450年ころであり、どうも合わない。
『梁書』は502年に倭王武を征東将軍に進号しているのである。そうするとこの時期に日本で天皇でありえた人物は継体しかいない。
そのために九州王朝の王であった「継体B」を大和王朝の継体に当てはめなければならないことになる。

しかしこれは相当の無理がある。倭王武が531年まで生き延びたとは考えにくい。おそらく倭王武の次の王、名無しだがとりあえず「継体B」を名乗る王がいたのではないか。


8.安閑・宣化天皇は倭王朝の最後の王

日本書紀はさまざまな問題をはらみつつも、最終的に欽明へのバトンタッチを認めている。しかし本当にそうだろうか。

欽明天皇は宣化天皇の娘婿でしかない。継体天皇の嫡男となっているがこれは怪しい。しかも彼は安閑・宣化系勢力と明らかに対立している。対立というより並行というほうが正確かもしれない。

しかも彼の近親者や支援者は明らかに大和系で、九州系の香りはない(蘇我稲目は元九州系の可能性があるが)。

この2つのグループの対立は最終的に宣化の崩御により解消された。
しかしもう一つの可能性、継体が死んだとき同時に安閑皇太子、宣化皇子も死んでしまい、それでは格好が悪いと言うので2年づつ生きたことにして欽明へとつないだのかもしれない。
なぜそうしたか、それは彼らを殺した連中にとってそのほうが都合よかったからである。

では誰が倭王朝を滅ぼしたか、最初から明らかにしているようにそれは大和王朝によるものではなかった。おそらくは九州王朝そのものの自壊作用ではなかったかと思う。

以前、それは百済によるものではなかったかと書いたことがある。かなり荒唐無稽な推理ではあるが、成り立たないわけではない。

しかしもっと考えやすいのは任那か、加羅か、金官伽耶あたりにいた和人集団である。

朝鮮海峡を挟んだ倭人集団は結局共倒れになり、その結果半島では新羅に国土を制圧されることになり、九州北部では欽明天皇の率いる大和軍に吸収合併されていくことになる。

日本書紀: 百済三書からの転載が想定される部分
(ウィキを見ていて考えついたこと)

1.百済三書をどう見るべきか

『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書を百済三書という。いずれもすでに失われているが、『日本書紀』への引用として一部が残されている。
なお「百済本紀」は後世に作成され、『三国史記』に収められたものであり、百済三書とは異なる。

日本書紀に引用されている逸文は、近肖古王から威徳王の15代200年にわたる。

絶対年代はわからない。一つの傍証としては三国史記にも同じ文献からの引用と思われる箇所があり、干支の2周分(120年)ずれて一致することが指摘されている。これは本居宣長、那珂通世以来の通説であり、承認してよいのではないかと思う。(ここからは逆に、その120年のずれがいつから解消されているのかも問題になるが…)

内容についても、人物名など明らかに大和朝廷の事情に合わせている場所を除けば、とりあえず史実とみなせるのではないか。

やって見る価値はあると思う。


2.誰が引用したのか

明示的な引用は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。ということは、引用が示唆される場所、参照したと思われる箇所は、はるかに多いことになる。

これだけ大量の引用を行いえたのは、百済から百済三書を携えて亡命して来た百済の御用学者のみである。

大和朝廷に「皇統記」みたいなものがあって、彼らはそこに適宜百済側の資料を突っ込んでいったのではないだろうか。

もしその皇統記が「古事記」に類するものであったとすれば、
「日本書紀」-「古事記」=「百済本記」
みたいな関係が成り立つのだろうか。



この論文の「序論」はとても面白い。著者の問題意識がとても共感を呼ぶ。
その上で本論に入っていくのだが、徐々に齟齬が生じてきて、この人にはマルクスの問題意識、権力の本質とか量から質への転換という考えが伝わっていないのではないかと思ってしまう。
ただそれはそれなのであって、序論のところは大いに勉強になるし、一生懸命受け止めてみたいと思う。

初期マルクスから革命家マルクスへ
*『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』および『経哲草稿』等の、いわゆる初期マルクスにおいては、未だ共産主義への移行が成就されていない。
* それに対し、『ドイツ・イデオロギー』および『哲学の貧困』『共産党宣言』等の1840年代後半の文献においては、共産主義者としての視点から「社会主義」リカード派社会主義やプルードンの社会主義等が批判されている。
中期の組織者マルクス
1848年革命は敗北し、ブランキストの革命論を受け継いだマルクスは挫折する。
1850年代から60年代にかけて、マルクスは“恐慌―内乱―革命”の希望を抱きながら、革命の準備と党派の組織に希望を託すが、予測は何度も裏切られる。

後期の理論家マルクス
後期マルクスにおいては、革命情勢はますます遠ざかり、それに伴って長期の革命構想がもとめられるようになった。
過渡的形態、改良的過程を織り込んだ展望の採用、平和的・非権謀的可能性が追求されるようになり、
これにともなって重大な戦略的・戦術的転換がおこなわれる。
それらは、おそくも1860年代半ばには形成され,パリ・コミューンの深刻な教訓を経過し,『ゴータ綱領批判』(1875)において明確な定式化が与えられた。(最後の段落には異論があるが、とりあえず…)

現代世界は、はるかに進んでいる
現在の世界においては、このようなマルクスの時代とはまったく異なった状況が広がっている。それを荒木さんは次のように説明している。

1.ブランキズムは完全に陳旧化した
マルクスが革命家の出発点においてイメージとしたのはブランキズムである。それは一揆主義そのものである。それは決死の覚悟を帯びた少数の革命家集団が、政府との対決を強行的に突破することを前提としていた。それは少数者による政治権力の簒奪を最優先課題としていた。
一揆主義者による暴力革命、そしてプロレタリア独裁を必然的にともなう革命戦略は、しかしながら中期マルクスにおいてさえ、すでに過去のものとなっている。
エンゲルスは「歴史に照らして,われわれもまた誤っていた。当時のわれわれの見解は一つの幻想であった」と自己批判している(「フランスにおける階級闘争」序文)

2.多数者革命と漸進的な所有制改革
21世紀の今日における主要な革命のイメージは、まず第一に、国民の多数が支持し推進する多数者革命である。第二にそれは立憲革命である。革命は民主的なプロセスを経て合法的・平和的に遂行される。第三にそれは高度福祉型の未来社会を目指す“生活第一”革命に収斂していく。
それは「新しい社会主義」の革命であり、抗しがたい理性の流れである。

3.19世紀型革命像から21世紀型革命像への道のり
上記のごとくマルクスが革命家を目指した最初期の革命像と、21世紀に住む我々が思い描く革命像とははるかに懸隔している。
この論文は革命運動が自らの論理をどう変えてきたのかの道筋を、とくに中期から後期マルクスへの変容を通じて描き出そうとしているのだが、それについては目下の関心領域から外れるので仔細には取り上げないでおく。
一言だけ言っておけば、マルクスとエンゲルスは19世紀末にすでにかなりのところまで進んでいたのであり、ボルシェビズムとスターリニズム、第二次大戦後に民族解放を闘った国々では、そこからかなり遡った場所から革命を開始したのである。


私にとって最も印象深かったのは、21世紀型革命の3つの性格付けである。すなわち多数者革命、立憲革命、生活者革命であり、これらを総称して「新しい社会主義」の革命として提唱することである。

ただし、それが「革命」であるということは19世紀来、通底しているのであって、そこには権力の移動が伴うのである。そしてそれが政治的な範疇における質的変化を持って始まり、社会の全分野に拡散するという特徴を持つことである。
そこには政治的、法的、社会的な“押し付け”が伴わざるを得ない。当然ながらそこには反発力も生じ軋轢も発生する。すなわちそこには運動が熱を発するごとく、「闘争」が発生するのである。

もうひとつは、「私有財産制度の否定」という革命の主要目標の一つが、依然として未確定のまま残されているということである。民医連における所有形態論争というのは、それ自身が「目標」ではないが、人民的共同を持続的に発展させる上での最大(というより最低)の制度的保障だということで決着がついた。
ただ、私有財産の否定だけではどうにもならないのではないか?というのが率直な感想である。株式会社制度も、官僚主義制度も個人所有制の否定の上に成り立っている。もう少し社会の形態ではなく社会の目的に即したパラダイム・シフトが必要なのではないかと思う。

岡ノ谷一夫「言語の起源と脳の進化」を読む

まず私見から この分野は百花斉放の状態となっているので、さまざまな用語をきちっ と定義づけた上で使わなければならない。

「言語」を発生学的に構造化しておく必要があると思う。 爬虫類→鳥類の進化はとりあえず脇においておいた上で、両生類→哺 乳類→霊長類→現生人類→視覚性言語(文字)という流れの中に言語 の発生と進化を見ていくことが必要だ。

1.音を発生し信号とする 
実体:
 これが最初の「言語」の萌芽であろう。昆虫の多くは声ではない 、声帯を使わない音を発生させる。
目的:
 それを他者との伝達の手段とすることにおいて、それは信号と なる。
矛盾:
 それは自己の存在を自ら暴露することであり、「捕まえる=逃げ る」行動の集積としての生命活動からすれば大いなる矛盾である。そこ には、「求愛」などなにがしかの理由が存在しなければならない。

2.声が主要な音声発生装置となる
実体:
 「声」は気道の入口部で、食道との分岐部に当たる。元は嚥下 時の誤嚥を防ぐための蓋なのではないだろうか。それが空気の出し入 れの際に笛のリード様に動くことが発見され、それを鍛えることによって 声が生まれたのだろう。 声は両生類以後のすべての陸生動物に共通する生体機能であり、使用法もほぼ共通する。
目的:
 声は高低、強弱、長短という要素を操ることにより、他の音より もはるかに多くの意味をもたせることができる。しかしそれにふさわしい 使い方は、その必要性が発生するまでは生じない(求愛を除いて)
矛盾:
 優れた伝達媒体を持ったが、食物連鎖の下方にいる限りは宝 の持ち腐れ。むしろ退化する可能性もある。

3.声が信号として多様化する
実体:
 ハード的には変化なし。繰り返しや遠吠え用の長音など使い方 に工夫。
目的:
 おそらく、哺乳類の中でも比較的後期、狼とかハイエナのような 集団狩をするグループが出現するまでは無意味であったろう。周囲一 般に対する発信のみならず、群れの内部に対する対自的発信が分離する。言葉の厳密な意味においてのコミュニケーションということになる。 
矛盾:
 他者一般から集団的自己(群れ)の分離、そこにたんなる信号 にとどまらないニュアンスの発生。

4.さまざまな音声信号の言葉→言語への整序
実体:
 霊長類から猿人→原人への進化。頭頸部の直立により発声器官としての声帯の構造が確立する。 母音と子音の組み合わせにより、ほぼ無限の「言葉」体系が出来上がり 、強力な意志伝達手段となる。 猿人→原人→旧人→サピエンスの経過を通じて脳容量は3倍化してい る。その半分はウェルニッケとブローカ中枢、言語活動のための記憶装置の 増大によると思われる。
目的:
 群れより大きな集団(社会)への適応。信号を送るだけでなく受 け取る側にも同等の知能が求められる。
矛盾:
 教育と強制なしに成り立たない信号系。集団の媒介から、集団 の形成へ。

5.読書・書字言語
実体:
 人間の本質的能力を超えたところに存在する超言語。聴覚性言 語の完成後に、それに付随する形で形成される。 読書・書字能力の有無は脳容量と相関がない。読書・書字能力は聴覚 言語とは違い、ありあわせの脳神経を活用する形で形成される。
目的:
 情報量は格段に多く、記録性に優れる。ただしそれを活用でき るか否かは社会の活動力により決まる。
矛盾:
 視覚性言語は著しい社会的不公平を伴う言語である。多分現在も人類の3分の1は事実上の文盲ではないだろうか。この社会的不公平を取り除く活動なしに視覚性言語の発展はありえない。
しかし今日の世界において視覚性言語こそが科学・技術・経済・思想の発展の原動力であることも疑いない。このように二重の意味において、視覚性言語はすぐれて社会的な言語なのである。

言語の出現を巡る深い断絶
言葉が生まれる前段階として、動物界にも声による信号の授受がある。
しかし音声の組み合わせによって新たな意味を作り出すことはできない。
そこには深い断絶がある。
では、なぜこのような深い断絶が生じたのであろうか。人間はどのようにこの断絶を超えたのだろうか。
その問は次のように答えられなければならない。まず人間は喋れるようになった、だからしゃべるようになった。喋れるようになったから、聞くこともできるようになった。


言語と人工知能
 人工知能(AI)はスーパー文字言語と考えられ、膨大な文字情報を活用できる可能性(第6段階?)を秘めて いる。グーグル検索はその初歩的第一歩であろう。が、その力をどう個性化、 特殊化し、具体的成果として引き出すかは未解決だ。それにグーグル検索には強力さと同時にいかがわしさも感じることがある。



と前置きが長くなった。
本文に入る。と言ってもあまり大したものではない。2007年の出版で、すでに古くなっているということもあるのかもしれない。(「脳研究の最前線」というブルーバックスの一章)

最初の「言葉の定義」というのは、次のように記載されている。

「言葉」の簡単な定義:
言葉は一つのシステムであり、
①単語(象徴機能を持つ記号)を、
②文法(限定された単語の順番)で結合し、
③森羅万象との対応をつける
「言葉」は、人間の言葉以外にありえない。
まぁそんなところでしょう。ただこれは実体論敵・構造的観点から見た規定であり、目的論的規定や過程としての言語活動論から見た定義は抜けているので、これだけでは不十分と言わざるを得ません。

鳥のさえずりについて
この点について、岡ノ谷さんは大変面白いことを述べておられる。
私なりに解釈すると、鳥は喋る前に歌った。それには2つの理由がある。
一つは歌う能力を獲得したから歌っていること、歌う余裕ができたから歌うようになったということ。野生の鳥が飼育されて歌うことを強制されると見事に名歌手に変貌するそうだ。野生で厳しい食物連鎖の暮らしの中にあっては、歌の名人になる前に襲われてしまうらしい。
もう一つは、鳥は歌ったりしゃべったりする身体的能力は持っているが、喋ることはできないということだ。
彼が歌い喋る能力を発揮するチャンスは、歌う場面でしかない。上にも書いたとおり直立することで獲得した多彩でニュアンスに富む発声能力は、求愛みたいな場面で「無駄遣い」されるだけであり、とりあえずは無駄なものである。
ところが人間においてはいつの日か、歌う・さえずるという「発声能力」が「発語能力」として利用可能だということが「発見」されたのではないか。
さえずる能力はオバサン方の井戸端会議のためだけでなく、世界を進歩させ暮らしを良くするためにも大変重要なツールになるということが「発見」された。それは長年をっけて進歩したのではなく、ある日突然に発見された。脳神経がそれに対応して発達するのはその後の話である。
それを発見したのは人類のみである。

ピーターセンらの実験
2015年06月13日 「言語活動の4つのモードと脳活動部位」という記事で一枚の画像を転載させていただいた。
言語活動と脳
この写真は別の文献からの転載のようだ。それが岡ノ谷さんの文章でわかった。
岡ノ谷さんによれば、これはピーターセンらの行ったPETを用いた思考実験の絵で、その世界ではかなり古典的なものらしい。ただし出典は記されていない。
画像の読みについては、煩雑になるのでここでは触れない。ぜひ記事を参照いただきたい。

韓国現代史年表(ハングル版) とりあえずここへ置きます。
FFFTPでアップロードしているのですが、二階のパソコンで上げているので、ここで無理するとファイルが消えてしまいそうです。
明日、ホームページの方に上げます。

韓国戦後史年表

これは朝鮮戦争終了時から現在までを扱う年表です。グーグルによる機械翻訳なので不正確です。
この10年以上本格的な追補していないので、ご了承ください。

元ページ(日本語)はここです。

容量オーバーで載らないそうです。明日、直接ホームページの方に載せます。
ご一読(日本語の方を)お願いいたします。








やっていくうちに、そもそもCPUってなんなのだということがよくわからなくなってきた。
とりあえず、ウィキで調べることにする。

1.CPUとはなにか

大まかに言うとコンピュータはプロセッサーと記憶装置からなる。記憶装置にはデータとプログラムが搭載されている。

プロセッサーはプログラムを順次起動し、実行し、つなげていく役割をはたす。またプログラムが要求するデータを読み込む役割も担っている。

コンピュータが作動するためには、このほかに補助記憶装置や表示装置、通信装置などが必要だが、これらは外部装置でも代用できる。

CPUはCentral Processing Unitの略。日本語では中央処理装置といわれる。プロセッサーの一種である。

大規模集積回路(LSI)の発達により、少数のチップに全機能が集積されたマイクロプロセッサが誕生した。

ということで、以下面倒くさい定義が並ぶが省略。

2.CPUの構造

CPUは、全体を制御する制御装置、演算装置、データを一時記憶するレジスタ、外部装置とのインタフェースから構成される。

制御装置が命令の解釈とプログラムの流れを制御し、演算装置が演算を実行する。

演算装置のうち、浮動小数点演算を行う専用ユニットをFPU(浮動小数点演算ユニット)、という。このほかDMAコントローラ、タイマーなどがふくまれる。

3.CPUの動作

CPUの最初の動作はプログラムを記憶装置から読み出すことである。これをフェッチと言う。

次の動作はプログラムの諸コードを読み込んで、なすべきことを決める。これをデコードという。以前はデコーダという専用ハードだったが、現在ではそれ自体がマイクロプログラムとなっている。

次は、実行ステップが行われる。このステップではCPUの多くの部分が接続され、指定された操作を実行する。

命令を実行後、同じ流れが繰り返されて次の命令をフェッチする。

今朝のニュースで藤井8段が初解説というのがあって、その中でご本人が「いまZen2にハマっているんです」とのたもうた。
それでグーグル検索してみたが、さぁわからない。
Zen2についてWikiChipが解説」というページを見たが、間違いなく解説の解説が必要だ。
ひまなのでやってみようか。

1.第3世代Ryzenで採用されるAMDの次世代アーキテクチャ

Zen2というのは、そういうことなんだそうだ。
AMDだけはわかる。CPUのメーカーでインテルの後発メーカーだ。安いのが売りのメーカーだ。
その会社が第3世代Ryzenに採用されることを狙った新製品を出した。それがZen2というアーキテクチャなのだ。
ということで文法はまずわかった。アーキテクチャというのは構造物だが、要は堅もの=ハードということらしい。とりあえず“チップ”のようなものと考えておく。
結局、「第3世代Ryzen」というのが何なのだということになる。しかし第3世代Ryzenの話は当分出てこない。とりあえずその事自体はどうでも良く、話の要点は、Zen2というチップがいかにすごいかということらしい。

2.Zen 2マイクロアーキテクチャ

で、次がこれがどういうものかという解説。
Zen、Zen+に続く第3世代のZenマイクロアーキテクチャだそうだ。
(Ryzenの話は別にして、そもそもこれ自体が第3世代なのだ)
この第3世代ZenであるZen2がいままでと違うところが説明される。
①CPUコアがTSMCの7nmプロセスによって製造されている。
②拡張機能が大幅に強化されていて、とくに分岐予測ユニットが再構築されている。
③データバスが著しく拡大され、AVX命令が1つの256ビット幅のデータパスで実行可能になった。
④帯域幅の拡大で、IPC(クロック当たりの命令実行数)が増加した
⑤脆弱性スペクトルの軽減措置がファームウェアから取り入れられた。
⑥低消費電力で高密度を実現できる7nmプロセスの採用により、半導体の集積密度は2倍になった。

このようにして第3世代Ryzenはシングルコア性能でもIntel CPUに追いついた。
ということで、①~⑥はさっぱりわからないが、少しRyzenとZenの関係が見えてきた。
つまりインテルで言うと Core i7 とか Core i5 は7つ(5つ)のチップの集合なので一つ一つのチップはまた別の名前になるのだろう。それがRyzenとZenの関係になるのではないか。

話はさらに

AMDが7nmプロセス・最大64コアのデータセンター向けCPU「Rome」と7nmプロセスGPU「MI60」を発表 

の記事に進んでいくが、これはまた別次元の話になっていって、パソコンのレベルではないようなので省略する。

ではこのZen2なり第3世代Ryzenが現在主流CPUのインテルに代わるものになっていくのか、これが次の問題になる。

しかし、依然としてなんのことやらわからない。


AMDの7nmプロセス「ZEN 2」CPUコアのマイクロアーキテクチャ拡張」 11月8日
と題されている。これはZen2を組み込んだサーバーCPU「ローマ」の紹介である。

1.次世代AMDサーバーCPU

Romeは、「ZEN 2」マイクロアーキテクチャのCPUコアをベースとし、TSMCの7nmプロセスで製造される。

従来のZENベースのサーバーCPU「ナポリ」もマルチダイ構成だったが、内容は大きく変わる。
CPUコアのダイとI/O系のダイが分割され、パッケージ内に1個のI/Oダイと、8個のCPUダイが収められる。
8個のCPUダイはそれぞれ8個のCPUコアを搭載しており、合計で64個のCPUコアとなる。

個々のCPUコアのマイクロアーキテクチャも拡張された。それがZen、Zen+→Zen2である。

とくに浮動小数点演算のスループットは、CPUコアあたり2倍となった。そのためローマ全体の演算性能はナポリに比べ4倍化している。

マルクスの晩年の動きが今ひとつ見えなかったので、とりあえず年表化してみた。
資本論の第一部出したのが1867年。それから数年間は、国際労働者協会の会長としての仕事がかなり忙しかったようだ。
それが徐々に活動の場が狭まっていく。とくに普仏戦争とパリ・コミューンへの関与が必ずしも大方の支持を得ることができなかったようだ。
ハーグの大会をもって第1インターは事実上の開店休業に入っていく。ドイツで社会民主党(アイゼナッハ)が勢力を増したときは羽振りも良かったのだが、ゴータ大会でのラサール派との合同の後はドイツ国内でも影が薄くなっていく。
理論活動はその後も展開した。
これに宮川彰さんの作成した資本論第2部草稿の執筆年代太字で重ねておく。
エンゲルスによってまとめられた(ゴチャゴチャにされた?)第2部・第3部草稿の他にも、剰余価値学説史や、ザスーリッチ論文などがあるが、今回は調べ切れていない。あまり一生懸命やっている研究者もいないようだ。

1864 第2部草稿 第1稿執筆(65まで)

1865年1月 第3部「主要原稿」の執筆開始(66年12月まで)

1867 『資本論』第1巻ハンブルグで出版 

1867 普墺戦争。勝利したプロオシアはドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放。プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立する。マルクスはこれを「プロレタリア闘争に有利な展望が開けた」と一定の評価。リープクネヒトとベーベルは帝国議会議員に当選。

1968 資本論第二部第2~第4草稿に着手(第2稿は70年まで、第3,第4稿は年内に執筆完了)

1869年 エンゲルスがマルクスの借金(浪費による)を肩代わりする。4年間で1862ポンドに達した。

1969 ベーベル、リープクネヒトらが非ラサール派の労組を組織し、社会民主労働党(アイゼナハ派)を結成。

1870 普仏戦争が始まる。マルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある」と(私的に)論評。

1870 エンゲルス、家業から解放されロンドンに居住。

1870 第1インター総務委員会第1宣言を書く

1871年

3月 パリコンミューン。『フランスにおける内乱』を執筆。

6月 パリ・コミューン支持に反発したイギリス人グループがインターナショナルから脱退。」

1872年9月 ハーグでインタナショナル大会。マルクスはプルードン派と組んでバクーニン追放に成功。

1873年には肝臓肥大という深刻な診断。鉱泉での湯治を目的にドイツ国内の湯治場を巡る。

1875年2月 ラサール派とアイゼナハ派」(マルクス派)が合同して「ドイツ社会主義労働者党」が結成される。
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
1876年 フィラデルフィアでインタナショナルの最後の大会。解散決議を採択。マルクスの公的生活はこれをもってほぼ終了。

1876年 草稿 第5,6,7稿に着手(いずれも80年に執筆完了)
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
1877年 草稿 第8稿に着手(81年に執筆完了)

1878 エンゲルス、『反デューリング論』を発表。間もなく抜粋版として「空想から科学へ、社会主義の発展」が発行される。マルクスは第2篇経済学・第10章「批判的歴史から」を執筆。

1878年 チャンネル諸島で湯治。

1881年

3月 ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)が出版される。

夏 妻イェニーとともにパリの娘の元を訪問。帰宅後イエニーが死去。

1881年 草稿第8稿を脱稿。その後当初の目的だった第3部の書き直しには着手せず。

1882 この年も旅行を繰り返す。

1883年

3月14日 マルクス、ロンドンの自宅で病死。享年 64 歳。
E・H・カーは
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
と書いている。それまでの一心不乱の人生に比べれば、それも半分はあたっているのかもしれない。


1885 『資本論第2巻』が発行される。

1886 エンゲルス、『フォイエルバッハ論』

1891 社会民主党『エアフルト綱領』

1894年 『資本論』第 3 巻が出版

1895 年 エンゲルス死去


「未来社会論」 随想

聽濤弘さんの本「200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか」の読後感の続きです。

「未来社会論」ときくと、つい私は、大衆社会論とか市民社会論が流行った60年代の議論を思い浮かべてしまいます。

今あまりそういう議論は意味ないんじゃないかという気もするのです。なぜなら、アメリカやイギリスの若者運動が正面から「社会主義」という言葉を掲げて、それが市民権を獲得しようとしているときに、我々の目標を「未来社会」という曖昧な用語に置き換える必要はないのではないかと思うからです。

ということで、社会的正義と福祉が優先される時代・我々の目指すべき社会という意味で「社会主義」論を熱く語るべきかな、と思います。

資本論→賃金・価格・利潤→ゴータ綱領批判のなかに社会主義像はない

実は以前から私はそう思っているのです。

マルクスの中期から後期への一貫した問題意識は、①改良ではなく革命を、②政治闘争で権力を獲得する、③私的所有を否定する、なのだろうと思います。(ただし③は相当揺れがあります)

そして新しい革命の担い手が労働者階級に移行することを確信し、その根拠を産業資本主義の発展そのものの中に捉えようとしたのだろうと思います。

そういう強烈な問題意識のもとに資本論は書かれているわけで、歴史貫通的な人類の進歩との関係で社会主義が論じられているわけではありません。

したがって、「オメェラ、チンタラやってんじゃねぇよ」というゴータ綱領批判の中に、未来社会論を見つけようというのはお門違いなのではないかと思います。

それはマルクスの指導する国際労働者協会が徐々に影響力を失い、いったん幕を閉じる過程でのマルクスの焦りの表現でもあります。そんなにお行儀の良い文章ではないと思います。

もし社会主義社会像を導き出すのであれば、私は「経済学批判序説」に戻らなければならないと思うのです。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。
 また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」
 ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
一人ひとりの人間の中に生産力能と消費力能がふくまれています。
消費力能というのは変な言葉だが、“欲望の生産”あるいは“生産力能の生産”という意味での力能です。

資本主義的生産は資本主義的消費を必要とします。それは主体的要求を抱える近代的個人による消費です。

生産と消費は、いわば自転車のペダルを交互に踏むように相補的過程を繰り返します。それによって人は前に進んでいくのです。

資本論は、基本的には経済学の本なので、哲学を平均値に置換している

生産は消費であり消費は生産であるという観点、欲望を持つ諸個人が生産の原点であるという歴史貫通的視点は、資本論の中ではとりあえずは無視されています。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている
しかし、労働する諸人格の価値は、そのような生産コストの集合みたいな惨めなものではないはずだと思います。

価値は価格の集合としてのコストではありません。それは使用価値を根っこに踏まえた抽象なのです。もう一つ、価値は交換によって価格に転化するのではありません。それは仮定された価値・価格関係であり、その使用を通じて価値として実現するのであり、その使用価値に対して後出しで確定されていくのです。
その価値は生産→交換→消費(使用)→欲求→再生産への衝動という循環を経て決まっていくのであって、それが諸商品の平均値となっていく中で価格が歴史的に定まっていくのであろうと思います。

この平均値の決定までの歴史貫通的過程は、資本論の中ではジャンプされています。多分、第2部の第二次草稿がそこに相当するのでしょう。下記をお読みください。


ホームページの方で朝鮮戦後史年表のハングル版を作ってみました。といってもグーグルの機械翻訳です。最初は第5部の北朝鮮戦後史年表 朝鮮戦争以後ハングル版」です。
日本語に再翻訳してみましたが、どうやら読めないことはなさそうです。ただ固有名詞が相当崩れますので、気がついた人はメールいただければと思います。

渡辺 茂 「鳥脳力―小さな頭に秘められた驚異の能力」 の摘要

少し他の論文で補充しています。

はじめに なぜ鳥か

岡ノ谷一夫さんは鳥の脳が注目されるに至った理由を以下のように述べています。      

哺乳類の脳と比較しても、皮質と思われる部位が非常に薄いわけです。その中に丸い構造体があるのでこれはきっと基底核に違いない、線条体に違いないということで、これは全部 “striatum” という名前を昔の解剖学者がつけてしまった。

その人達が、鳥というのは基底核が発達していて上手に空を飛べて本能的な行動はちゃんとできるけれども、皮質が薄い、だから行動の可塑性がないというウソをでっち上げた。
鳥の大脳は、哺乳類の大脳皮質のそれぞれの層に対応した部分が、層をつくらずに固まりをつくって存在している。いままで基底核と考えられてきたのは、そうではなく皮質様神経だという事になってきた。

とても良い文章です。この人は慶応の文学部を出てからこの世界に飛び込んだ文系人なので、物事をざっくり捕まえる力を持っています。私はこの文章から「ユニット型とモジュール型」という分類を考えつきました。

宇都宮大学農学部の杉田昭栄先生は、もっとリアルに鳥(とくにカラス)の脳を研究する理由を述べています。

1.鳥類は人間と同様に昼行性で、視覚を主体に認知活動を行う。(したがって勤務と矛盾が少ない)

2.サルはお金が高いし管理が大変だが、カラスはキャンパスでも捕まえられる。(動物愛護論者の抵抗も比較的少ない)

3.構造的には人間とかなり違っているが、哺乳類よりもはるかに類似した行動をとる。この違いと類似の相反関係が面白い。これを「平行進化」と呼ぶ。 異なった種において、似通った方向の進化が見られることを指す。

4.人間だけの特質と言われたものが鳥にもある。カラスは道具を使うし道具を作ることもできる。鏡に映った自らを認識したり、未来に向けて計画的に動いたりする。だからカラスを調べることは人間を調べることでもある。


鳥―絶滅しなかった恐竜


鳥脳とはどんなものか

鳥の脳 によると、コンゴウインコの脳はクルミくらいです。一方霊長類の中で最も原始的と言われるマカクザルの脳でもレモン程の大きさがあります。「流石に霊長類にはかなわないか」と思うかもしれません。しかし脳神経の密度はインコのほうがはるかに高いのです。霊長類に比べて2倍、ラットやマウスに比べて2~4倍とされます。インコの脳神経細胞はマカクザルを越える数なのです。
鳥の脳

鳥の脳からは哺乳類と同数 (12対) の脳神経が出ています。マクロで見ると平衡感覚や視覚に関係する小脳と中脳がとても大きくなっています。これに対して嗅覚と味覚はあまり発達していません。

鳥の大脳は外套と呼ばれます。以前は線条体と呼ばれていましたが、不正確であることがわかったため、いまは使いません。
カラス脳断面
外套は①本能的な学習能力を司る弓外套,②訓練あるいは経験によって学習する巣外套,③連合野に相当する高度で総合的な知的判断を行うための中外套。総合的な知的判断というのは、たとえば,クルミを車に轢かせるなどの行動です。そして④人間の前頭前野に相当する高外套などに区分されています。
脳の大きさは可塑性である可能性があります。さまざまな鳥を飼育下で繁殖させ、脳の大きさを比較したところ、21種中、16種で脳が小さくなったと報告されています。平均減少率は20~30%に達しました。


鳥の脳力

以下の記述は実験による評価なので、サンプルや環境などの設定法により異なっているかもしれません。

数の理解力: ハトは5まで、セキセイインコは6まで、ワタリガラスは7まで。

記憶力: 記憶には、感覚記憶と短期記憶、長期記憶がある。感覚記憶は数秒で動物による差はない。短期記憶は、人では20秒程度で記憶できる種類は7±2。鳥では数秒~十数秒とされる。長期記憶は、カラスは必要であれば、少なくとも12 ヵ月間は記憶できる。貯食性の鳥は多くの貯蔵場所を長期にわたって記憶する。

識別力: 人の顔の識別と記憶は10人位までは問題なく可能。

道具の制作: カラスは針金を曲げてフックを作り、餌をひっかけて取り出すことができる。

カラスの特殊性

鳥の「脳力」ランキングは下記のようになっています。

1.カラス科 

2.オウム

3.フクロウ・キツツキ

4.スズメ

5.ニワトリ・ハト(劣等)

カラスの脳は他の鳥類の脳とは全くレベルが違うといわれます。カラスのは「羽をもった霊長類」と呼ばれることもあります。

カラスの脳重量は10グラムでニワトリの3倍。脳全体に対する大脳の比率は80%、ニワトリでは50%です。

カラスの神経細胞数は、ニワトリの約3,300個に対し、19,500と約6倍の密度。これは外套の占める割合が高いからです。




鳥脳に「自己」を教える
ハトがビデオ映像に映し出された自分の映像を自分として認知した。



昨日、今日と文章を書く気力が湧いてこない。
とりあえず不正確だが、心覚えとして書いておく。

鳥脳が優れているのはあたりまえ

カラス、とくにハシブトカラスの知能は、鳥類の中でも群を抜いているらしい。
言うなれば人類が霊長類の中でも群を抜いているのと同じだ。

最近わかってきたことだが、鳥というのは「生き残った恐竜」であり、爬虫類の中で頂点を極めた生き物だということだ。

哺乳類→霊長類→人類という系譜は、決して生物進化の本流を歩いてきたわけではない。ジュラ紀の終わりに隕石が落ちて、そのための気候激変により恐竜が絶滅したため、マイナーリーグから呼び戻されたような存在だ。

それはとりあえず置いておいて、鳥というのは生物界の王道を歩み続けてきた存在であって、モノの作り、脳の作りには無理がない。自然の脅威に晒され適応を迫られることに変わりはないが、他の生物種に遠慮する必要はないからだ。端的に言えば追っかける能力は必要だが、逃げ隠れする能力はいらない。

小型化とユニット化

ただ空を飛ぶために、すべての器官が小型・軽量化されなければならなかったから、見かけ上はちゃちに見えるかもしれないが、潜在力は哺乳類よりも上回っていると見るべきだろう。小型カメラといえどもニコンだ、ということだろう。

むしろ人間の側で見なければならないのは、人間にさえ匹敵するほどの脳力をあれだけの重量と容量でどうやって実現できたのかというところだ。

私はそれがユニット化という戦略なのだろうと思う。それに対し人間の脳力強化はモジュール化によって実現されたのだろうと思う。

人間はモジュール化でネットワーク勝負

人間の大脳皮質は前頭前野から鳥距溝に至るまで、基本的にはすべて同一の6層構造からなっている。それにどういう役割を割り振りどう相互連絡していくかは委細面談の世界である。

たしかに汎用性があって融通は効くが、膨大な無駄を生むことも間違いない。コンピュータはテレビやラジオやカメラの役割もこなせるが、それぞれを単体で持ったほうがはるかに能率が良い。パソコンが面倒な理由のほとんどはボタンの使い回しの複雑さに起因している。

人間の脳はそのほとんどが神経線維であり、神経細胞よりも神経線維の発達によって能力を発揮する仕掛けになっている。しかも通信速度を上げるために主要幹線は髄鞘化という舗装工事が施されている。

人間はオギャーと生まれたときから神経細胞そのものは増えていない。むしろ小脳などでは間引きが行われて減っているくらいだ。それにも拘らず脳が容量も重量も増えて、頭蓋骨に納まりきらないくらいまで発達するのは電線が増えるためだ。

これは相当能率の悪い能力アップ戦略なので、それをユニット化して線維性連絡を極力減らせるならば、効率の良い脳になるだろう。それがまさに鳥脳なのだろうと思う。人間の脳が1500グラム、カラスが15グラムとすれば、カラスの脳は人間の100倍の高性能ということになる。

哺乳類の視覚動物化

このような分化・発展の仕方は遺伝子変化を伴わざるを得ないので、相当の年月をかけて実現していくべきものである。そして鳥にはジュラ紀以来、それだけの年月があった。

その間、哺乳類は発達の動きを止め、半ば化石生物化していた。哺乳類の脳が発達したとすれば、それは世を忍び日陰に隠れ住むための能力である。

やがて哺乳類は日の当たる時間に日の当たる場所に出て、樹上に登り身を晒しながら生きるようになった。そのため一度捨てた視力の再獲得が必要となった。必要なことは昼行性視力(色彩をふくめた)、遠近識別(前方視)である。

霊長類と視覚脳の形成

やがて哺乳類から霊長類が分化し、鳥にまさるとも劣らぬ能力を身に着けようとした時、哺乳類固有の能力はなんの役にも立たなかった。しかしそれを捨てることはできなかった。

霊長類は機能を転用したり、大脳皮質を急成長することで補ったりという変則的な発展の途を探るしかなかった。それによって結果的には鳥を上回る視覚脳を実現したのである。

それはこのように電線だらけのブザマな大脳をもたらした。とはいえ、そのやり方で鳥を凌ぐほどの高性能な脳を作り上げたのだから、それをだいじにしなくてはならないのだろう。

大脳の後ろ半分は視覚処理のためにだけ発達した。しかしそれは、聴覚性言語と結びついて読み書き脳力をもたらした。これは鳥脳のとうてい及ぶところではない。

ただしAIの設計思想においては、決して人間脳のアナリーゼにならずに、鳥型脳の構築をモデルとするユニット型デザインを第一選択として考えるべきであろうと思う。


上野原遺跡
こんな遺跡あるとは知らなかった。
鹿児島県霧島市国分上野原というのが発見場所だ。「花は霧島、たばこは国分」という歌の文句そのままである。

キャッチフレーズとしてはなかなか難しいのだけれど、十分にユニークな遺跡だ。
ウィキによると、
1、(発見当時において)日本列島で最古の大規模な定住集落跡
2.「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡。
3.弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかった。

霧島というのでいいところは、始終噴火があるということだ。時代同定がきわめて容易であらゆる事物がほぼ絶対年代で示される。9500年前なんてのが造作もなく出てくる。
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9500年前というのは最後の氷河期が1万5千年前に終わり、温暖化が進み始める時代である。「南だから住めた」時代だったのかもしれない。

その最古層、9500年前のところから竪穴式住居46軒、石蒸調理のための集石遺構が39基、連穴土坑15基、その他の土抗約125基、道の跡2条が確認された。
uenohara064
連穴土坑というのはシカ・イノシシを燻製にする施設らしい。どちらにしても、東北北海道で9,500年前というとちょっと引いてしまう。

ただ、これだけだと、どうして推定300人の人間がここに定住できたのか、の理由が分からない。縄文人の三本柱狩猟、採集、漁撈の可能性はかなり疑問だ。

当時そのままではないにしても、標高260メートルに住みながら漁撈を営んだとは思えない。鹿児島の丘陵地帯に落葉植物がそれほど茂っていたとも思えない。

こいつはどうしたことだ。

それでネットを探していたら、下記のページに行き着いた。

よくみたら前から時々引っかかっているページだ。
2000.9.16(土)にアップされている。音楽が流れるようになっているのが、何故か懐かしい(今は流れないが…)。
当時としては精一杯頑張ったホームページだ。当時出始めの
ADSLでも相当しんどかっただろうと思う。



年表 津軽安藤(安東)家の盛衰

      アイヌ民族の歴史年表 東北エミシの年表 その4 より該当部を抜粋し、
若干の増補を加えたものです。

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。

1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。

1990年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊の子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1191 頼朝軍に従った南部氏の一部が陸奥九戸、糠部へ移住。元の根拠地が甲斐の南部だったために南部藩と名乗ったらしい。本格的な入植は1334年に国代として赴任してからとされる。

安東家が蝦夷管領に

1217年 鎌倉幕府執権・北条義時、陸奥の守を兼任する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(太郎)を津軽外三郡守護に任命。
安東家はあわせて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)にも任命され、「東夷を守護して津軽に住す」役割も担う。
1229年 津軽外三郡守護の安東氏が、十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放される。

1229年 安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。北海道からの交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する役割も引き継ぐ。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1250年ころ 安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ=アイヌ)と蒙古軍が衝突。骨嵬は朝貢を強いられる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。
1.仏教を夷島に持ち込み強制した。
2.元との講和を巡る方針争い
3.蝦夷に対する苛烈な収奪
4.蒙古との衝突による戦費増大 などが原因に挙げられる。

1274年 元軍が北九州に襲来。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。
十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

津軽大乱

1318年 蝦夷への対応をめぐり、惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。実際は蝦夷沙汰職相続を巡る跡目争い。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。津軽大乱が始まる。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年 安藤氏で内紛。季長の退陣を求める従弟の五郎三郎(季久)が対立。岩木川を挟んで季長は西が浜(深浦)に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷管領職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。

1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。

1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。津軽に戻った季長は、鎌倉幕府の裁定に従わず反乱を起こす。

1326年

3月 鎌倉幕府、あらためて宗季(季久)を蝦夷管領に任命する。陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。

7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。その後、季長の郎従の安藤季兼が「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、宇都宮高貞・小田高知の率いる「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤宗季(季久)は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。この事件をきっかけに幕府の権威は大きく失墜する。

東北地方における覇権争い

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。中身はなにやらさっぱりわからん。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。

1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。曽我・安藤家は足利につき南部らと戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立し室町幕府を創設。安藤家は北朝に与し、室町将軍に直属する御扶持衆となり、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。

1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。
絵詞の要旨: エゾ は日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むと ころは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。
1361 青森県東部を支配する曽我氏、南部氏との戦いに敗れる。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続く。このため樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定し、さらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。
西の博多に匹敵する北海交易の中心として西の博多に匹敵するに至る。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国安藤氏、そして津軽の安藤氏を下の国安藤氏というようになる。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1410年 南部守行と秋田湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。

津軽の安東家(下の国)の滅亡

1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423年 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎(ラッコ)皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
本当は十三湊は1340年の津波の後も健在で、このとき南部氏により焼け去ったとの説もある。
1432年 安東盛季と子康季、唐川城と柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。幕府が調停に乗り出す。

この後の経過についてはさまざまな異説があるが、あまり詮索する意味はないようだ。


下記の記事もご参照ください

2018年04月14日 アイヌ史 雑記

本日の赤旗「文芸時評」。

楜沢健さんという人が「乗っ取りの起源を問う」というタイトルで面白い提起をしている。
少し詳しく内容を紹介したい。

今年2018年は明治150年、維新の正統性が今一度問われた年であった。
維新と明治の美化の風習は今も続く。
しかしその本質は正統な国家を横領簒奪した無法な軍事クーデターではなかったのか。
それ以来、道義なき薩長閥に日本は乗っ取られ続けてきた。
征韓論をめぐって下野した西郷が西南戦争を起こし自死するのは、「維新」の矛盾の結果だったのではないか。

翻って考えれば、江戸幕府は大政を奉還し、日本は連合新国家となった。それは国内外に承認された正統な政権であった。
この政権は雄藩の連合であるというその性格、開国推進というその方向を柱としていた。そして隠されたもう一つの性格、天皇中心主義をとらないという特徴を秘めていた。
我々はこの「連合新国家構想」を、その原点に立ち返って考えてみるべきではないか。

ということだ。

この考えの骨子は昨年なくなった葉室麟という小説家の自説によるものだと言う。(別にあえて葉室さんという人を持ち出すまでもないとは思うが…)

たしかに「うーむ」とうならせる議論ではある。ただ正義がいずれにあったかの議論はこれから開始するとして、旧幕府+雄藩連合に正義を行う権力と意志はあったのだろうか。長州戦争と鳥羽伏見で惨敗するようでは烏合の衆・張子の虎と見くびられてもやむを得ない。「力が正義」というのではないが、「色男、金も力もなかりけり」では国の将来を託す訳にはいかない。そんな気もしてしまう。

おそらく当時には「オールジャパン共闘」を望む雰囲気も大いにあったのだろうし、それらを掘り起こす作業も必要なのだろうと思う。少し自分でも探してみたいと思う。



朝、感心して引用した文章を夜になって否定するのもずいぶんいい加減な話だが、明治維新の性格が何も進歩的なものでもなくて、ただの野蛮なクーデターに過ぎなかったという理屈は、やや引かれ者の小唄みたいな感じもしてきた。

あのとき日本にとって必要だったのは、政体の民主制ではなく、近代的軍事力とそれを支える産業力であった。

それは上海を見てきた高杉にも、洋式軍を見よう見まねで作り上げた大村益次郎にも、はっきりと見えていただろう。

この幕藩体制を超えたナショナリズムの高揚、これこそが明治維新という形での権力交代を支えた真の力だろうと思う。

このナショナリズムは、列強の進出という外圧を得て、当時のドイツよりはるかに強力だった。

次に強力な軍事国家の建設という戦略は、絶対主義的政治システム抜きには不可能であった。

パラドキシカルな言い方になるが、一定の民主主義なしには絶対主義は実現し得ない。一方における極端な権力の集中。一方において集中権力のもとでの平等、既得権益の否定が絶対主義、イデオロギー的には「愛国心」を形成する上での絶対条件になる。



クロムの右上隅にある縦三つ点が辞書登録できない
そもそも読み方がわからない。

調べたら 暮らしとネット というブログに
という記事があった。

記事からコピペして単語登録

正直言って最初の2行で用は済んでしまった。
スマートフォンのアプリやWEBページ上でメニューを表示させるためのボタンとして「≡」や「︙」をよく見かけます。ボタンではなくアイコンと呼ぶ人もいますね。
と書いてあるので「≡」と「︙」を“さんてん”で単語登録すればよい。

記号入力の一覧表から探し出す(一応書いとく)

オーソドックスな方法としては、記号入力の一覧表から探し出すという方法がある。

IMEパッドでは、ユニコードU+22EEに半角の「︙」、U+FE19に全角の「︙」がありそうだ。しかしわたしが探したときには見つからなかった。

Google日本語入力だけの裏技

あと裏技だが、ひらがな入力で「中テン」(“め”のキー)を3回押す。→「・・・」となるので、これをかな変換すると候補に「︙」が出てくる。ただしMS-IMEでは
出てこないらしい。今どきMS-IMEなど使う人もいないだろうが…

「≡」は幾何で出てくる「合同」(イコールのもっとすごいやつ)と同じなので、ひらがな入力で「ごうどう」と入れて変換すると出てくる。

正規の読み方

後は一応正式の読みとか知っておこう。
1.「≡」はハンバーガーボタン(ハンバーガーアイコン)という。
具を挟んだハンバーガーを単純化したようなデザインなのだそうだ。
2.「≡」は幾何の「合同」と同じなので合同と呼ばれることもある。
3.「︙」は、縦の「三点リーダー」という。
語尾につけて余韻を表す「…」を「三点リーダー」と呼ぶ。これの縦バージョンということだ。

最近、ウィンドウズを立ち上げると、自動的にクロームが開く。
どうせ開くのだから別に悪くはないのだが、押し付けがましい。それにクロームが開くのは他のプログラムも立ち上がっている可能性がある。
そのようなおせっかいは止めてほしい。
ということで調べてみた。
グーグルで検索すると最初に出てくるのがNJ-CLUCKERというブログ。
Windows 10 起動時に Chrome や IE が勝手に起動する原因は OS の仕様変更によるもの
という見出しになっている。
つまり悪いのはグーグルではなく、マイクロソフトによるものらしい。
それは2017年秋に実施された Windows 10 の Fall Creators Update というプログラム変更によるものだそうだ。
これにより、
Windows 終了時に起動していたアプリ情報を保存して、再起動時に復元する仕組みに変更された
らしい。そんな前からだったけかな?
レジストリが書き換えられているため、そのレジストリが働かないようにする仕掛けが必要らしい。それは結構難しそうだ。
したがってウィンドウズをいじるのではなく、グーグルクロムの設定を変更することで対応することになる。
方法は2つあって、
1.Windows 10 起動時に Chrome が起動しないようにする
2.Windows 10 終了前に Chrome を完全に終了させる
理屈から言うと2.のほうが良さそうだ。
しかしこれは「シャットダウンのときにタスクトレイ内のアイコンを右クリックして終了」という余分なひと手間で、なにかそのたびに腹が立ちそうだ。
そこで1.を試してみる

右上の  から [設定] 画面を開く
画面最下部にある [詳細設定▼] を開く
[システム] 項目を確認する
「Google Chrome を閉じた際にバックグラウンドアプリの処理を続行する」の設定をOffにする

ということにしてみた。
再起動をかけると、クロム画面が開かなくなった。
まぁ、とりあえずこれでいいか。

ついでながらこのブログには便利な方法がわかりやすく載っているのでお気に入りに入れておいたほうが良い。


国際銀行間通信協会 「SWIFT」(Society for the Worldwide Interbank Financial Telecommunication)
はこの間のハッカーの主要な攻撃対象となっている。

SWIFTの問題点と今後

一番問題なのは、SWIFT自身がハッキングを抑える手段はないと言っていることだ。これは民間の協同組合みたいなものだから強制力は持てない。
もう一つの問題は、信用状をやり取りして然る後に、人手を介した銀行業務を開始するというシステムの問題がある。本質的に偽メッセージが潜り込む危険性を秘めているシステムだ。「支払いのメッセージング」と「決済完了」の間にタイムラグが生じることも深刻な問題だ。
第三に、そもそもこのようなきわめてアナログ的な業務スタイルが、はたして今日の世界においていかがなものかという素朴な疑問がある。
ただこれらの問題が解決され、システム的に洗練された場合は、一種の「国際商業決済銀行」として巨大な力を発揮する可能性もある。それは国際決済銀行(BIS 中銀のみ)もIMF(各国通貨の監視)も果たしえない機能だ。
さまざまな問題にもかかわらず、現に世界の200以上の国で、1万以上の金融機関が加入しているのはその反映なのだろう。
ここに国際的な基金をプールして、その資金を運用することになればアメリカの最大の武器であるドル決済体制を揺るがすことになる可能性もある。だから米NSAがSWIFTの金融取引への監視を強めているのだろう。

この間の経過

1973年 国際銀行間通信協会 「SWIFT」が発足。当初は通信ネットワークサービスを運営するための国際協同組織。ベルギーに本部を置く。15ヶ国の239銀行が参加。

1977年5月 サービスの運用が開始される。金融機関同士のネット通信。暗号化と端末の差別化により守秘性を向上。

1986年 付加価値サービスとして国際決済銀行と提携し欧州通貨単位の決済を手がける

2004年 スイフトネットへの移行を完了。202の国と地域の7800を超える金融機関が接続。

2006年6月23日 ニューヨーク・タイムズ、スイフトのクラウド情報が、中央情報局などにより利用されていたと報道。セキュリティの脆弱性が暴露される。

2013年9月 スノーデンの内部告発。米NSAがSWIFTの金融取引を監視。広範囲の銀行取引とクレジットカード決済をモニターしていることが暴露される。

2015年1月12日 サンフランシスコのウェルズ・ファーゴ銀行、「BDAからの送金依頼」に応じ、1200万ドル(約13.4億円)を送金。この事件は1年以上秘匿される。

2016年
2月5日 バングラデシュ中央銀行で約8100万ドル(約90億円)の不正送金事件が発覚。「銀行を襲った史上最大級の盗難の事例」となる。
ハッカーはニューヨーク連邦準備銀行内のバングラ銀行口座にアクセスし、不正送金させた。犯人が些細なミス(誤字)をしていなければ、約9億5000ドル(約1000億円)に達していたと推測されている。

4月 SWIFTはシステムの包括的なセキュリティ強化を行う。加入者にもソフトウェアのアップデートを促す。

5月 ニューヨーク・タイムズ、「SWIFTに関連した第二のサイバー攻撃」を報道。SWIFTはこれを否定せず。

5月15日 ベトナムの銀行でハッカー攻撃が起きたと報道される。送金は未然に防がれたとされる。NYT報道と同一ケースか。

5月後半 エクアドルの銀行から4つの銀行に約1200万ドルが不正送金されたことが発覚。その後もフィリピン、ウクライナ銀行で不正送金が次々に発覚する。

2017年

11月4日 ネパールの銀行、6ヵ国へ約4億6000万ルピー(約5億円)を不正送金。SWIFTを利用したハッキングとされる。早期発見で4億の回収に成功。

2018年

2月 インドシティユニオン銀行、2億円超のSWIFTハッキングによる流出。

2月16日 ロシア中銀、SWIFTを使って約600万ドルが不正送金されたと発表。事件が起きたのは昨年であり、詳細は発表できないとする。

10月 FireEye(米セキュリティ企業)、北朝鮮のハッカー集団「APT38」が、サイバー攻撃で1億ドルを不正に取得したと発表。これによると4年間で11カ国、16以上の金融機関を攻撃したとされる。

11月5日 SWIFTが国際送金網から、イランの複数銀行を除外する措置。トランプによる追加経済制裁を受けてのもの。イランの銀行は国際間送金ができなくなる。通貨の代替案として自国中銀発行の仮想通貨が注目を集める。

追加: SWIFTはトランプのイラン追加制裁を受けて、国際送金網からイランの銀行を排除した。とんだ腰抜けだ。CIAやNSAにいくら盗聴されてもなんにも言えない。このようなへなちょこに世界経済の将来は到底託せない。こうなれば最後はビットコインだろうか。

「ヘビ検出理論」というのを名古屋大学の河合さんという人が一生懸命推している。

アメリカのイスベルという人が提唱したらしいが、どうも眉唾な感じがする。そこでとりあえず、河合さん以外の人がどう見ているのかを調べてみることにした。

Eeek, Snake! Your Brain Has A Special Corner Just For Them という紹介記事で、一般向けの解説。日本語にすると「“キャー、蛇だ! 人間の脳には特別な領域がある

snake_monkey

イントロ
1992年、人類学者のLynne Isbellを乗せたトラックは、ケニア中部の谷間を走っていた。そのとき突然何かが彼女を凍りつかせた。

「私の目の前にコブラがいました。そいつは鎌首を持ち上げていました」

イスベルはUCデービス校の研究者だった。彼女は20年もの間ケニアで人類学の研究を続けて来た。しかしイスベルは、彼女の覚醒した脳がこのような形でコブラと向き合ってパニックになってしまうなんて考えたこともなかった。

「最初は運が悪いと思ったけど、今は運が良かったと確信しています。それは私の視覚システムが、6000万年の霊長類の進化の歴史を反映しているからです」

その答えは猿たち(霊長類)の視覚の進化とつながっている。またそれは脳の一部、視床枕の進化と結びついている。彼女はそのことを全米科学協会誌の短報で説明している。

彼女はなぜ凍りついたか…イスベルの説明

コブラとの遭遇後数年して、イスベルは次のような理論を考え出した。すなわち、ヘビこそは人間や霊長類が良いビジョンを進化させた主な理由なのだ。

彼女は言う。

「霊長類は前方視する目を持っています。それは優れた奥行き知覚をもたらしています。その他に、霊長類は哺乳類の世界では最高の視力があり、色に対する感覚も優れています。なぜでしょう。それには何らかの説明が必要ではないでしょうか。

有毒なヘビがたくさんいる世界では、霊長類は、他の場所の霊長類よりも視力が発達しています。マダガスカルのキツネザルの視力が霊長類で最悪なのは偶然ではありません。有毒の蛇がいないからです」

ヘビが霊長類の視力を良くしたことの証明

しかし、霊長類の視覚系が実際にヘビを検出するために進化したならば、その脳には生物学的証拠があるはずだ。

そこで彼女は、蛇のいない環境で暮らす日本のマカクザルの脳を研究した。

サルに蛇、顔、手、単純な幾何学的な形を提示し脳細胞の反応を測定した。その結果視床枕のなかで注目すべき変化を発見した(視床枕は脳、視覚系の一部で、人、類人猿、猿に特有のもの)

イスベルは語る。

そこには蛇の画像に非常に敏感で、霊長類の顔を見せたときよりもはるかに強く反応したニューロンがあリました。

サルや他の霊長類は顔にたいして非常に敏感に反応するので、それよりも強く反応するというのは驚くべきことです。

この発見は、以前彼女がケニヤでコブラを見たときの体験を説明しているようだ。

このような反応は、私たちが対象を意識してなくても対応できる迅速かつ自動の視覚システムです。

霊長類のヘビショックは確認済み

この発見は、霊長類のヘビ恐怖を研究する人には驚きではない。ノースウェスタン大学の臨床心理学教授であるスー・ミネカは、「このようなことが起こっていると疑われる人がたくさんいる」と話す。

この研究では、サルの脳反応が本当にヘビを恐れているか、サルが有毒な爬虫類を認識する潜在本能を持っているかどうかは確定できない。

確認されることは、猿と人間が進化の結果ヘビを恐れる脳を持つようになったということだ。

まぁ、まんざら嘘っぱちというのではないが、とりあえずはお話ということで…

だいぶ前、こんなことを書いた。
前脳は中脳、後脳と同様にまずもって感覚情報の集中点だ。中脳が視覚のセンターであるのと同様に、前脳は嗅覚とおそらくは感覚ヒゲのセンターだったのではないかと思う。
これは私の三脳説の肝である。前脳・中脳の背側には何やらいろいろ突起がある。その一つ(一対)がやがてカリフラワー状に増殖していって大脳を形成したのではないかということだ。

それは発生学的には嗅神経に一致するのだが、系統発生から言うともう一つの機能がある。それがヒゲの感覚だ。おそらく振動覚に近いものだろうと思うが、霊長類以前の動物ではきわめてよく発達している。

このヒゲ感覚はどう発達し、どう退化したのか、その中枢はどこにあったのか、きわめて興味あるところである。

それでネットで資料を探し始めたのだが案外ない。そこでまず子供向けみたいな記事から入っていくことにする。

身近にいる犬と猫、どちらにも立派なひげがある。

ひげと言っても人間のひげとは違う。口を中心とする頭部に特に長く突き出したまばらな毛を指す。これは洞毛と言われ被毛よりも2倍から3倍の太さがある。
その毛根には神経と血液が流れていて、鋭敏な触覚器として機能している。
cat-2
猫のヒゲは大体12本ずつある。イヌより発達していて長さも長い。このひげは感覚が非常に鋭く、わずかな空気の動きでも察知するといわれる。

猫のヒゲを切ってしまうと、平衡感覚が鈍るためフラフラして、壁やものにぶつかりやすくなってしまう。

リラックスしている時は少し横に寝ている状態で、何かに興味を示している時は前向きに、鼻や口の前にヒゲが出てくる。怯えているか怒っている時は後ろに引いた状態になっている。

というところで、どうもあんまり本質的な説明はない。

いろいろ探していくと下記の論文にぶつかった。

鳴海 毅亮 「ラットのヒゲ刺激方向情報処理における毛帯路系および毛帯外路系の機能差に関する研究」に刺激伝達回路と感覚中枢が示されている。

これはかなり専門的な研究で、ヒゲの感知した情報が2つの上行経路を伝わって中枢に伝達されるのだが、その2つがいかに使い分けられているのかという研究だ。

それはとりあえずどうでもいいので、基礎的なところだけつまみ食いさせていただく。
ヒゲの物理的刺激は毛根の受容器細胞により検出される。この刺激情報は一時求心性線維の神経線維束を経由して三叉神経核の主知覚核に達する。
三叉神経核からはニューロンを換えて視床核のVPMに伝達され、さらに視床核から大脳の体性感覚野のヒゲの感覚領域につながっている。
これまでの研究によると、ラット大脳皮質の一次体性感覚野で、ヒゲの感覚情報処理に用いられる皮質面積は非常に大きいとされる。
その体性感覚野には、顔面に生える太いヒゲ(洞毛)情報を処理するバレル(樽)と呼ばれるモジュール構造が存在する。
ということだ。以下、ネズミも猫も犬も基本は同じだろうという推測の上で、解説していくことにする。

解説
ヒゲ(洞毛)の毛根には神経叢が絡んでいる。ヒゲに加えられた物理的刺激は、電気信号となって知覚神経を上行する。

これは、基本的にはすべての皮膚表面に加えられた刺激が上行していく機序と変わりない。それが顔面であれば三叉神経(トリゲミナス)ということになる。違いはたんに量的な違いだけである。

まぁ、虫歯のときの歯の神経の知覚過敏を思い起こせばいいのであろう。

sansa

多分人間と同じだと思うが、上顎神経を上行し三叉神経節から頭蓋内に入り脳橋の主知覚核でシナプスを替える。
これは視床に入っていったん終了するのだが、他の情報と突き合わせ高度情報化するために頭頂葉の体性感覚野に送られる。

体性感覚野というのは要はホムンクルスのことであって、それがネズミではヒゲ感覚に多くの領域が当てられているということである。
taiseitikaku
結論

結局わかったのは、ヒゲ感覚はより敏感ではあるものの、所詮は皮膚感覚の延長であり、特殊な仕掛けではないということだ。触覚一般ではない特殊な知覚ではないかという私の予想は、残念だが、外れていた。

嗅神経は自分で好悪を判断すると書いたが、ヒゲ感覚は知覚経路に並走してその刺激の意味を付与する神経が走っているということになる。毛帯系と毛帯外路系というのはそういう意味だろう。

それが統合されるためには、一次感覚野まで行かないとならないみたいだ。なぜならそこには海馬のようなハードウェア(記憶装置)がないからだ。


1948年の南朝鮮議会選挙について
前回の学習会で1948年の南朝鮮で公正な議会選挙が行われたか否かにつて議論がありました。
少し調べたので、報告します。
結論から言うと、カニンガムは不公正だったと言っているようですが、選挙そのものが不正なものというわけではなかったようです。
私はうろ覚えで、第1回目の選挙は日本統治時代の有権者名簿に基づいたもので、事実上普通選挙ではなかったかもしれないと喋ったのですが、後で調べてみると、それは1946年10月の過渡立法議会選挙を指したものでした。
私の韓国戦後史年表では、こうなっています。
10.24 布告第118号が公布される。立法議院の創設を認可する。
10.26 過渡立法議会選挙が実施される.民選議員は総督府時代の選挙法に則り,多額納税者と地主のみに投票権.共産党は選挙をボイコット.呂運亨は落選.多くの朝鮮人は選挙の存在そのものさえ知らずに終わる.
その4日後に第一回国連総会が開催されています.総会は国連監視下に全朝鮮の総選挙を行い,その結果に基づいて統一政府を樹立すると決定しています。米国の提案に沿ったものですが、ソ連は反対していません。
一方、北では金日成を軸とする親ソ連政権が着々と組織されていきます。
その後1年余りの間、南朝鮮では左翼の退潮が進みます。これに伴い南北の復興の有り様は大きく食い違ってきます。
そして47年11月、国連総会は臨時委員会のもとで南北同時総選挙を実施すると決議しました。
この決議の採択にソ連は欠席していますが、総会後直ちに反対の態度を明らかにします。
なぜ欠席したかについてはよくわかっていません。しかしその後の流れを見ると、南に単独選挙を行わせ、それを理由に南北分断の固定化を図ったと見ることもできます。
その後の流れというのは、南側の独立勢力が単独選挙反対闘争を大規模に展開したのに対し、北は口では同じスローガンを語りながら、実際には独自憲法を作り、「朝鮮人民軍」を編成していったからです。
南での単独選挙反対闘争はすでに弱体化した左翼勢力ではなく、金九ら民族主義者によって担われました。彼らは選挙ボイコットを訴え、全国ゼネストを繰り返しました。
その最大の戦いが4月に始まった済州島事件です。
5月11日、選挙が強行されました。選挙そのものは普通選挙ですが、強制はいたるところで認められました。
右翼団体・警察が住民を投票に動員,強制駆り出しを行いました。それでも棄権するものは、「アカ」のレッテルを貼り、
米の配給票を支給しないなどの攻撃を行いました。

結論

1948年の国連管理下における第1回総選挙は、形式だけ見れば普通選挙ですが、およそ民主的に行われたものとは言えません。
最大の政治潮流であった民族派や、左派は単独選挙に反対し、ボイコットしました。これを見たオーストラリアやカナダなどの同盟国も選挙強行に反対しました。
したがってこの選挙はアメリカが単独で強行した選挙でもありました。
また選挙に反対する民衆は暴力や行政権力によって弾圧されました。少なくとも民主的な手続きで実施された選挙と言うには程遠いものでした。
ただし、結果として単独選挙になってしまった理由は、アメリカだけに帰することはできないかもしれません。
南北同時選挙が南の単独選挙となり、結果として北の政権が生き残ることができたのは、北にとっては良い結果でした。もし同時選挙が行われれば、人口の多い南部の世論が大きく反映されることになり、おそらく金日成の政治生命は尽きていたでしょう。
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“For the many, not the few” (一握りでなく、多数のために)
労働党「社会主義者」グループの宣言

2017年6月、イギリス労働党はコービン党首の下、奇跡的な躍進を遂げた。
その後も躍進は止まらない。
17年末現在で党員数が56万4000人を突破。ブレア時代の3倍となった。新たな党員のほとんどが若者で、労働組合と関係ない市民たちだ。

コービン派「モーメンタム」は、新しい社会主義を旗印に掲げている。それはブレア時代の「物分りの良い社会主義」ではなく、公共セクターの社会化を正面から取り上げている。

9月に開かれた労働党大会。コービンの演説を柱にモーメンタムの主張を紹介しておく。


1.保守党政治は何をもたらしたか

保守党政治は緊縮政治により国民を苦しめ、社会に分裂をもたらし、国際紛争に巻き込んだ。いまこそ労働党政権を実現し国家を再建しなければならない。

2.公共事業の民営化路線が破綻

保守党は公共の事業を民営化し、外注化してきた。これが失敗し危機的状況となっている。地方自治体の公共サービスは削減された。
12万人の子どもたちに家がない。保守党政治の8年間で路上生活者は2倍になった。
国民保健サービス(NHS)は劣化した。無料・低額の保育所が減らされ、高齢者年金が切り下げられようとしている。これらの維持が必要だ。

3.欧州金融危機とイギリス

10年前、リーマンショックがヨーロッパに波及し深刻な金融危機をもたらした。この中でサッチャーにより規制緩和された金融資本主義は崩壊した。それはイギリスに破滅的影響を与えた。
銀行資金の95%が投機目的で運用され、金融システムは公共性を失っている。

4.金融資本の救済は正しかったのか

保守党政権はこの破滅した金融資本主義を救済することを優先した。その結果、深刻な景気後退と史上最長期間にわたる賃金の低下が発生した。
一方で金融セクターは危機前よりも強固になり、公的資金で守られている。彼らは相変わらず、国民と実体経済ではなく、多国籍企業と金融セクターのために働いている。

5.人種主義と排外主義

不景気と低賃金は国民の怒りをもたらした。行き場のない憤りは、人種主義と排外主義の温床となった。

6.いわゆる「再国有化」について

これらの危機から脱するには公共の事業における「新しい形の所有形態」を探求しなければならない。水道、エネルギー、郵便、鉄道の大切な産業の公的なコントロールを取り戻す必要がある。
「透明な水」(水道公営化)政策はこの流れに沿ったものだ。

7.トランプ政権の評価

トランプ政権はパリ協定やイラン核合意から離脱し、エルサレムへの米大使館移転を強行した。さらに経済ナショナリズムを推進し貿易戦争を仕掛けている。これらは国際協力に背を向け、国際法を無視する行為である。

8.中東問題の平和解決を

中東における緊張がさらに高まっている。労働党は対立より交渉、脅迫より外交を優先させる。かつてイラクやリビアに対して行ったような干渉戦争は行わない。
労働党が政権を獲得すれば、すぐにパレスチナ国家を承認する。

9.メイ政権主導のブレグジットに反対

保守党はブレグジットを通じて規制をいっそう緩和し、金融資本主義を強化しようと目論んでいる。これは国民にさらなる痛みを押し付けるものであり反対する。
労働党は第2回目の国民投票をふくめすべての選択肢を念頭に置く

10.さいごに

国民は従来のやり方がもはや機能しなくなっていることを知っている。私は、皆の医療、教育、住宅にきちんとお金が使われる社会に住みたい。

労働党が革命的な解決策を提案しない限り、新しいマジョリティが形成されない限り、誰かが非難の言葉で分断の政治を操り、その空隙を埋めることになる。

だから労働党の提案が『時代の空気』をつかんだのだ。
だからこそ昨年の総選挙で労働党の得票増加は戦後最大となったのだ。





日本人の起源を考える
…主としてY染色体ハプロを手がかりとして…

はじめに

1.なぜY染色体ハプロなのか
Y染色体ハプロ以前のさまざまなタイピング
人類移動のトレーサーとしての特異性
ミトコンドリアDNAとの組み合わせ
全ゲノムにおけるホワイトノイズをどう取り除くか
Y染色体ハプロの謎、なぜサンプルが増えないのか

2.Y染色体ハプロによる人類の系統図と移動経路
C系とD系の相互関連
南方ルートと北方ルート
O系のサブタイプの分布はいかに形成されたか

3.日本におけるY染色体ハプロの分布

2つの原日本人: 旧石器人
1.ナウマン人
4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってやってきた。
Y染色体ハプロでいうとC1b系で、現在では日本にしか存在しない故系とみなされる。
北海道以外の全国に均等に分布する。
2018年09月17日 最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か

2.マンモス人
2万5千年前にマンモスを追って樺太から北海道へ渡ってきた。マンモスは津軽海峡を渡っていないが、マンモス人は海峡を渡り南進した。マンモス人のY染色体ハプロはD系で、C系と同じく出アフリカのときにすでに形成されていた古いはプロで、現在ではC1系と同じく日本にしか見られない。

3.原日本人から縄文人へ
この2つのハプログループは3対1ないし4対1の割合で混血した。北海道を除きC/D比に地域差がないことから、両者は長期間をかけて平和的に混血を完成させたとみられる。
大動物のハンターであった原日本人たちは、大動物の減少に合わせ、小動物を罠や落とし穴で捉える知能的な狩猟に変わった。
また漁撈が全国で、落葉樹林帯では採集が併用されるようになった。これらが貯蔵・調理用具としての縄文土器の発達を促した。

4.沖縄・先島諸島の人々
港川人その他、南方系とみられる人骨が多数発掘されている。しかし今日の沖縄人のY染色体ハプロには南方由来の要素(C1a系あるいはO1a系)はなく、これらの人類は絶滅したとみられる。

晩期縄文人と渡来人

1.晩期縄文人
紀元前2千年ころから後、九州北部から日本海側に一定の特色を持つ晩期縄文文化が発生している。
晩期縄文人をY染色体ハプロから分けるのは難しい。西日本にわずかに分布するC2系がそれに相当する可能性はある。
その場合はもう一つの縄文人ということになる。
当時の西日本は常緑樹林が広がる地域で、人口密度は疎であった。彼らは漁撈を主たる生活手段とし、海に生きる民であった。明らかに朝鮮半島と交易関係を持ち、陸稲をもたらすなどの足跡を残している。
後期縄文人の最大の歴史的役割は朝鮮半島南部にいた長江文明の流れをくむ人々=渡来人を日本列島に誘導したことである。
同時に渡来人と混血し弥生人を形成したことである。

2.長江人
私は紀元前8世紀ころから渡来してきた人を長江人と呼ぶ。
1万年前から5千年前にかけて長江流域に米作文化を作った人々である。
長江人について語る前に、O系人について語らなければならない。
5万年前ころからアジアにもホモ・サピエンスが浸透し始めた。最初はD系人、その後にC系人が入った。C系人はオーストラリアからシベリアまですべての地域を網羅し、一部はベーリング海峡を渡って北米まで到達した。
D系人は、チベットの山間と日本にわずかに生き延びた。
(新大陸のC系人はいったん絶滅し、1万年前ころ第2波が入り、それが現在の先住民につながる)
2万年前ころから、新たな人類の移動があった。それがN系とO系である。O系人はインドからインドシナを経由して中国大陸に広がった。このうちO1系人は長江流域に広がり、水稲栽培を展開した。O2系人はさらに北進し、華北から南満に展開した。N系人はほぼ同様の動きをしているが少数である。
在来のC系人はモンゴル~北満以北へと圧迫された。
やがて、O2系人はシルクロードを通じて麦栽培と鉄器を獲得し強化された。
長江文明を築いたO1系人は圧迫され、同心円状に拡散した。東側に移動したO1b系人は朝鮮半島南部に移動し、その一部が日本列島へと渡来した。

3.銅鐸人
渡来人と縄文人の混血が弥生人であり、現日本人の骨格をなしているのだが、私はあえてこれを銅鐸人と呼びたい。
なぜなら弥生時代後半にはもう一つの弥生人、すなわち天孫族が流入してくるからだ。
銅鐸人は渡来人と縄文人が平和的に共存(正確には棲み分け)する中で混血していくのだが、天孫族は最初から外在的な征服者として立ち現れる。
銅鐸は長江流域に起源を持ち、青銅器文明を体現している。それは長江文明の西端にあたる四川文明とも照応する。
渡来人の数はそもそもそれほど多くはない。しかしそれはねずみ算的に拡大再生産をしていく。採集民たる縄文人が自然環境に厳しく規定されているのに対し、米作は人手さえあれば収穫は無尽蔵だ。
したがって渡来人の数は等比級数的に増加し、あっという間に縄文人を凌ぐほどに成長する。

4.天孫族
考え方としては江上波夫の騎馬民族説と同じだが、もう少し実態に即して論じたいための命名である。
「新撰姓氏録」でも天照大神などの子孫を「天孫族」としており、私の独創ではない。
倭王朝、出雲王朝、大和王朝はいずれも天孫族により形成された。
彼らは銅鐸人と同じく渡来人であるが、銅鐸信仰とは無縁でこれを強引に廃棄している。
Y染色体ハプロとしては漢民族と同じO2系と思われ、もともとの南朝鮮の種族(おそらくC2系)ではなく、遼東~南満の出自であろう。
もちろんそこから騎馬に乗って直接来たのではない。洛東江流域に拠点を置くO2系集団ではないか。
此処から先は私の当て推量だ。
衛氏朝鮮が紀元前100年ころに漢により滅ぼされた。その残党が帯方郡の南、無主の地に政権を立ち上げた。これが高天原政権だ。その武将の一人瓊瓊杵尊が九州に渡海攻撃(天降り)を仕掛けたのではないか。
彼らは三韓の民が九州に渡って成功しており、金海に交易拠点を建設したのを知っている。とすればこれを支配し、軍資金を獲得して漢相手に反転攻勢をかけるチャンスだと思ってもなんの不思議もない。
天孫族は日本を支配・収奪するためにやってきたのであって、そこに同化しようとは考えていない。したがって、日本の人口構成を変えるほどに子孫を生み育てようとは考えていない。
むしろ血の純潔を保って、原住民と同化しないように心を砕いたはずである。

東北のエミシと北海道のアイヌ

6世紀の末ころまでに、大和朝廷が日本の西半分を支配下に治めたとき、人種構成は次のようになっていた。

国家の頂点を形成するのは、天孫族の武装勢力であった。その下に和人集団が形成された。これは銅鐸信仰を捨て習合した天孫信仰(八百万+天照)をもつ旧渡来集団で、これに旧縄文系がほぼ吸収されつつあった。

一方、関東から北の本州では稲作の導入に伴い、和人文化の選択的受容が続いた。しかしそれは大和朝廷の支配の受け入れとは直接結びつかず、さまざまな抵抗があった。
その結果、縄文人居住地、混住地が帯を形成しそれは次第に北上した。
最終的に、東北には縄文色の濃い和人集団が形成されたが、それは時代とともに混和されつつある。

北海道では和人の入植が気候上の理由から遅れただけでなく、政策的にも制限された。その結果、純粋な縄文人の文化が色濃く残された。
ただし、アイヌ人は7世紀ころから徐々に進出した縄文人で、それまではオホーツク人が居住する土地であった。

東北と道南の縄文人は北海道において「セミ和人」として振る舞い、オホーツク人(粛慎)を圧倒し、女性を娶った。
アイヌ人のY染色体ハプロは縄文人と一致するが、ミトコンドリアDNAはオホーツク人のそれと一致する。これは沖縄人と異なるところである。


その後の人種混合

ということで、日本人というのは、とくに紀元前5世紀から紀元5世紀くらいの1千年間に著しい変容を遂げつつ形成された。
逆にその後は新参者のいない、きわめて安定した人種環境のもとに暮らしており、そのことが人種的閉鎖性を生んでいる可能性もある。

その枠内ではあるが、北海道は最初の百年に著しい人間変動があって、日本の中では珍しく開放的な個人主義が支配している。

東京を中心とする首都圏は、いまもなお人間のるつぼ的な雰囲気が支配している。

それを社会主義と呼ぼうじゃないか  再論

2年半前に「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」という記事を書いて、あまり反響があったわけではないが、実はこのキャッチフレーズを気に入っている。

「社会主義」という思想
記事はバーニー・サンダースの民主的社会主義について語ったものだが、実は「バーニーの言っているのは社会主義じゃないよね」というのが本音だ。
バーニーの主張を聽く限り、彼は「遅れてきたニューディーラー」に過ぎない。
にもかかわらず、彼はあえて自らを社会主義者と規定するのだ。
なぜなら、かつてFDRが社会主義者呼ばわりにひるまずに、改革を成し遂げたように、バーニーも社会改革を目指すからだ。

あえて「社会主義」という意味
アメリカは異常なまでの反共主義の国だ。リベラルとか民主党と言っただけでもアカと同じだとみられる。「9.11」のあと、私たちはこの国の内包する狂気を垣間見せられた。それは強烈な体験だった。
そこであえて社会主義を名乗ることの意義を、我々ももう一度とらえて見る必要があるのではないだろうか。

社会主義と民主主義は表裏一体
社会主義というのは民主主義と裏表の関係にある考えなのだろうと思う。
「国民が主人公」というのを政治的な平等にひきつけて捉えれば民主主義だが、経済的な平等にひきつけて捉えるならそれは社会主義ということになる。

経済的平等と社会主義
もちろん政治的な平等が権利としての平等であるように、経済的な権利も権利としての平等である。所得を平等にということではない。そこには「才能と教育に応じて」平等にとか、「市場原理を勘案して」平等にとか入ってくると思う。何よりも公正と正義が求められる。能力の差を超えた「格差」が忌避される。
要はその辺もふくんでの「同一労働・同一賃金」である。それと同時に社会としての福祉と人間としての尊厳が守られる最低線が引かれる必要がある。

社会主義の本家あらそいは不要
「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」というのは、実はもう一つの側面をふくんでいる。
すなわちそれは「それを科学的社会主義と呼ぶのはやめようじゃないか」という呼びかけである。
社会主義を固有名詞にしないで、いくつかのクライテリアを満たすものを社会主義に括ろうというのだ。その最低限の基準は、政治的な民主主義と一体のものとして提起されていることだ。

日本国憲法と社会主義
日本国憲法では国民主権、平和的生存権がうたわれ、13条で表現の自由など政治的自由がうたわれる。さらにそのうえで社会的権利も明記されている。
私は日本国憲法の25,26,27条の尊重を社会主義的性格の表れとして重視したいと考えているが、いかがであろうか。

神功は倭王朝の女帝だろうと思う。しかも卑弥呼=神功とするために二回り、120年早めている。

まずはともかく神功紀をまとめてみよう

354年 仲哀天皇が香椎宮にて急死(おそらく殺害)。その後政権を担う。

354年 仲哀を暗殺した熊襲(羽白熊鷲と山門のタブラツヒメ)を討伐する。

354年 妊娠したまま対馬経由で朝鮮半島にわたり、新羅の国を攻略する。

354年 新羅から戻り筑紫で応神天皇を出産。

354年 仲哀の遺骸と応神天皇を伴い畿内に戻る。嫡子香坂皇子、忍熊皇子らが反乱を起こすが鎮圧。

355年 仲哀天皇を河内の長野陵に葬る。

357年 新羅、人質として差し出した王子を取り戻す。葛城襲津彦、新羅に到り草羅城を落とす。

366年 斯麻宿禰が卓淳国へ遣使される。卓淳国王は百済が朝貢を望んでいると報告。

367年 百済の倭国宛朝貢団、新羅に朝貢品を奪われる。倭国は新羅に真偽を正す。 

368年 倭国軍が卓淳国に到り、ヒジホ・南カラ・トク・アラ・タラ・トクジュ・カラの七国を平定する。新羅への牽制を行う。千熊長彦はクテイを伴い百済に赴く。

382年 葛城襲津彦に新羅を討たせるが、美女に惑わされて討たず、かえって加羅国を攻撃する。百済の木羅斤資を遣って討たせ、加羅を恢復する。

385年 百済王の死。近親者による王位簒奪。

389年 神功の死。

とを合わせてみよう。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌の戦いで高句麗を撃退。

375 百済の近肖古王、倭国に七枝刀を送る。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

というわけで、割符としては合いそうで合わないところがある。思い切って180年ずらすとどうなるだろう。意外と合いそうにも見える。この場合、神功は倭王讃ということになる。

とにかく紀元400年ころに倭王朝と大和王朝の最初のクロスロードがあった。
仲哀はその前にいた。彼は吉備・出雲を支配下に入れた後、長駆筑紫まで攻め込んだ。
彼は新羅など見たことも聞いたことがなかった。そして新羅進攻を拒否し暗殺された。
神功はクロスロードの後にいる。彼女は新羅を知っており、仲哀に新羅侵攻を勧めた。そして仲哀が言うことを聞かないと見るや暗殺した。
彼女は自ら新羅に攻め入り、新羅を制圧し、百済と高麗を屈服させた。

神功は倭王朝のトップとして対高句麗戦に加わったのであろう。そして後の倭の五王に連なっているのであろう。

大和王朝は仲哀以降、継体天皇までの150年は朝鮮問題にはかかわっていない、だから東アジア世界につながるものさしを持っていない。そう私は考えている。

ブックオフで「伽耶」を知れば日本の古代史がわかる」 (ふたばらいふ新書)という本を買ってきた。
1999年の発行であるが、元の単行本は1995年発行。書下ろしの翻訳となっているので、その1年くらい前のものであろう。

著者は高濬煥という人で、経歴には大学教授を歴任とあるが、どうもパッと来ない大学名が続く。

中身は一言で言えば「トンデモ本」である。こういう本を出すから、韓国の歴史学が信用できなくなるのである。日本ではシロウト談義でもこれよりマシだ。みんな好きでやっている人だから、あくまで実事求是だ。変に民族感情を交えたりはしない。

わたしは、本格的な任那史がないか探しているのだが、もう少し日本語で探るしかなさそうだ。

「伽耶」というのは高氏によれば任那のことである。彼は任那という言葉を一切使わない。
なぜかは書かれていない。そのかわりに「任那日本府のウソ」という刺激的な見出しの説がある。それが「任那が存在しない」ことになってしまうようだ。
一応任那と伽耶の用法についてウィキで調べてみた。

三国志の魏書東夷伝倭人条に狗邪韓国の記載あり。現在の慶尚南道金海市付近との見方で一致。また弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説あり。

紀元前300年ころ 金海市付近で弥生土器の仕様が増加。

414年 広開土王碑文。400年条の「任那加羅」が史料初見。

438年 『宋書』の438年条に「任那」が見える。「弁辰」の記載はなし。

451年 宋書倭国伝。倭王済が「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国」の支配を認められる。
秦韓は辰韓12国のうち新羅に属さない諸国、慕韓は馬韓52国のうち百済に属さない国を指す。

478年 倭王武の上表文。「任那・加羅・秦韓・慕韓」が百済・新羅に属さない国々として記載される。

500年ころ 全羅南道に前方後円墳が造設される。百済進出とともに消失。慕韓に一致する地域とされる。

500年ころ この後、日本書紀(おそらく百済本紀からの引用)が質量ともに圧倒的な資料となる。

525年 『梁職貢図』の百済条、百済南方の諸小国を挙げる。任那の記載はない。

532年 金官国が新羅に吸収される。(日本書紀、三国史記にて確認)

562年 任那滅亡。すべて新羅に吸収される。

660年 『翰苑』の新羅条に「任那」の記載あり。「加羅と任那は新羅に滅ばされた」

801年 『通典』の新羅の条に「加羅と任那諸国は新羅に滅ぼされた」との記載あり。

1145年 三国史記が成立。「任那」の記載は本文には見られず。

私も「任那日本府」がずいぶん矛盾した表現だと思っている。日本という呼称はおそらく大和朝廷が発した国書「日いづる国」に基づいているのではないだろうか。7世紀に日本に来た百済の亡命学者が書紀編纂に携わるに及び、便利だからつい使ってしまったのではないかと考えている。
それを否定することが任那を否定(というよりネグレクト)することにはならない。
中国の史書を第一基準とするなら、伽耶という総称はきわめて特殊である。さまざまな史書では圧倒的に加羅・任那である。
ウィキによると、広開土王碑文(414)にある「任那加羅」が史料初見で、537年の南齊書では、「加羅國,三韓種也」と記載。その後の中国史書、『南斉書』、『梁書』などでも「任那加羅」が併記される。清代の『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が見られるという。
こうなると「伽耶」呼称は民族主義的な“意地”によるのではないかと思える。しかし学問は意地でやるものではない。


Korea_375
    韓国教科書の古代朝鮮
任那・加羅、百済、新羅
   日本の教科書の古代朝鮮
著作の最初は
第一部「卑弥呼は伽倻王女、そして神功皇后」
もうたまりません。
次が広開土大王碑文は一部偽造という一文。
1995年時点での韓国の古代史研究水準を示すものなのかもしれないが、それにしてもあまりにもおそまつだ。
この人が韓国古代史研究のトップ水準にある人なのか、その後最近ではこのような根拠抜きの断言は否定されるようになってきているのか、そのへんが知りたいところである。
もう一つ、都合の悪いことは「日帝支配の30年」で資料が失われたという口上だ。具体的に言わないと、それはたんなる逃げ口上にしかならない。


昨夜は、「イラクチョコ募金の会」の勉強会に行ってきました。「しばらくイラク情勢も学んでいないな」と思ったのがきっかけでした。
素晴らしい濃密な勉強会でした。私の長年の友である猫塚医師がガザの緊迫した状況を報告しました。
彼は2日前にガザから帰ったばかりとのこと。
「えっ、それじゃあの爆撃合戦に居合わせたの」
「そうなんだ。近くの放送局がピンポイントで爆撃されて、一晩で瓦礫の山になってしまったんだ」
「それであなた、大丈夫だったの」
「大丈夫だったんだけど、翌日にガザを離脱してきた」
という話でした。
その猫塚医師の報告のあと、会の佐藤真紀事務局長のイラクの話、とくにモスル解放後の小児医療の状況についての説明がありました。こちらの方も予想をはるかに超えた凄惨な状況でした。
私はメモ取るのが苦手なので、もっぱら聞いていましたが、二人のいずれ劣らぬ迫力の発言に、かなり脳ミソが豆腐になりました。
休憩なしの2時間余り、「これは今夜は飲んで忘れるところは忘れて、残ったところを明日書こう」ということにしました。
それでいまデスクに向かっているのですが、どうもまだ情報が星雲状況でまとめられません。

そこでトリビアルな話題から入ることにしました。中身は決してトリビアルではないのですが、ここだけなら切り離してお話になりそうです。

それが6月1日、イスラエル軍に殺されたラザン・アルナジャルさんの話です。
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この話は、すでに世界中に知れ渡っており、知らないのは私だけかもしれませんが、分かる範囲で紹介しておきたいと思います。


まずはニュース報道から紹介します。

3月30日、パレスチナで恒例となっている民衆抗議の運動が始まりました。抗議運動は2ヶ月あまりにわたり続きました。

その最中の5月14日、トランプは米大使館をテルアビブからエルサレムに移転しました。このあと抗議運動は例年になく盛り上がり、これに対抗してイスラエル側の武力弾圧も激しさを増しました。その結果住民の犠牲者が激増することとなりました。

毎日デモが行われた境界近くでは、市民の応急処置に走り回るボランティアが活躍しました。その一人がラザン・アルナジャルさんです。
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ラザンさんは21歳、パレスチナ人看護婦として活動していました。そして、6月1日、白衣の彼女は境界の金網の近くでイスラエル兵に狙撃され、帰らぬ人となったのです。
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             狙撃直後の画像
CNNのニュース動画をみると、明らかにラザルさんは狙い撃ちされています。銃撃される10分前、ラザンさんたちは身分証明書を掲げながら、徐々に前へ進んで行きます。フェンスの近くでは男性が『助けてくれ』と叫んでいました。(CNNがトランプに嫌われる理由がよく分かる)

翌日、ガザ全土でラザンさんの死に抗議するデモが行われました。血でそまった白衣をまとったアルナジャルさんの遺体は、パレスチナの国旗で包まれ、街路を埋め尽くした市民たちに見送られました。

ラザンさんの母親はこう語ります。

私は娘のことが心配だった。でもラザンは怖くないと言った。「自分には助ける義務があり、はっきりと分かるように白衣を着ているから」と。ラザンの唯一の武器は白衣だった。

ラザンは標的にされました。それは無作為な弾丸ではなく意図的な弾丸でした。彼らはラザンが医療者であることを知っていました。
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        血染めの白衣を広げる母親
国連人道問題調整事務所(OCHA)、世界保健機関(WHO)、国連人権高等弁務官事務所は連名で声明を発表しました。
「医療ボランティアの殺害に深い懸念をいだき、医療従事者の保護を要求する」と。
ラザルさんが所属したパレスチナ医療支援協会(PMRS)は「医療者への攻撃は人権法侵害である」と非難しています。
「医療」は戦争行為ではありません。そこに治療や手当てを必要とする人がいれば、治療するのが医療者の使命です。医療施設は保護されなくてはならず、意図的な攻撃の対象にしてはなりません。

実は医療スタッフへの攻撃はラザンさんの殺害にとどまるものではないのです。

3月30日以来、1ヶ月半の間に229人の医療スタッフが負傷、32台の救急車が破壊されています。

これは「医療従事者、負傷者や病気の搬送、治療」は保護されなければならないと定めたジュネーブ条約第24条に触れる戦争犯罪です。


取りえず、今ネットで分かる情報はこのくらいです。
すでに半年を過ぎているので、かなり情報は減っているようです。
しかしそれにしても情報が少ない。まともな情報は結局CNNのニュース1本のみです。ロイターもUPもBBCもニューヨークタイムズもない。だからその後のフォローがありません。
改めてイスラエル・ロビーの強力さに舌を巻く思いです。
アルジャジーラが見えないのはやはりムハンマドの影響でしょうか。


それにしてももう少しビオが欲しい。
そうなれば英語情報に飛び込むしかない。
Razan al-Najjar: 21-year-old Palestinian medic who became a symbol in Gaza
という記事

彼女は死亡前にすでにスターだった。ナザル自身もデモ中に2度負傷していた。
写真はネットで広がっていた。白衣に色とりどりのスカーフをまとい、危険な場所でカメラマンに貴重な映像を提供していた。
それは彼女の狙いであったかもしれない。彼女は負傷者の血のついた白衣でしばしば登場し、最前線の医療者であることを印象づけた。

彼女の狙いは女性の役割を認知させることでもあった。ガザの支配者は封建的なイスラム思想を押し付けようとしたが、それはガザ市民によって拒否されてきた、

ナジャールは1996年9月11日、ガザ南部のカーン・ユニス町のクザア村で生まれた。
6人の子供の年長者で、両親とともに親戚のアパートに住んでいた。ナジャルは大学には進学していないが、カーン・ユニス町のナセル病院で2年間のパラメディックコースを終了している。

父、アシュラフは封鎖が厳しくなる前、イスラエル国内のくず鉄業で働いていた。その後ガザ市内でオートバイのパーツ店を経営していたが、2014年に空爆で店が破壊されて以来、失業している。

狙撃時の様子

彼女は医療者用の白衣を着用し、手を高くあげた姿勢でフェンスに近寄っていった。そこには催涙ガス弾があたって負傷した男性一人が倒れていた。

彼女が負傷者に近づいたとき、鉄条網の向こう90メートル足らずのところから、イスラエルの兵士が発砲した。弾丸は彼女の上体にあたり、彼女はそのまま地面に倒れた。

デモ隊の集団が彼女を助け、救急車に乗せた。ナジャールは欧州ガザ病院の手術室に担ぎ込まれたが、そこで死亡が告げられた。

イスラエルの反応

イスラエル当局はナジャルの評判を落とそうと狙っている。彼女はテロリストの仲間だ、ネタニヤフの報道官は細工したナジャルのインタビュー映像を公表し、彼女はハマスの要請を受けて、抗議デモの“人間の盾”となるために参加したのだと述べた。

ナジャルはどう言っているのか

正確にはナジャルは次のように述べている。
私たちは一つの夢を持っています。それは人々の命を救い、ここから抜け出すことです。
もう一つの夢は「私たちは武器などなしに何でも成し遂げることができるのだ」というメッセージを送ることです。

ナジャルの最後の言葉

ナジャルは5月31日にフェースブックに最後の言葉を残しています。
あなたの良心はこれからもずっと癒やされることでしょう。なぜなら神様はいつもあなたの願いをわかってくださっているからです。
お休み、ぐっすりと。元気でね。

2018年02月01日 ムハンマド皇太子とサウジの過激化 という記事が未だに読まれているようだ。
(我ながら、かなりの力作です)
ムハンマドは今日の中東不安定化の戦犯として超A級だが、なかでも最大の問題はイスラエルとの関係だろう。これまでサウジはさまざまな問題はあったにせよ、イスラエルとの関係においてはクリアーでクリーンだった。だからアラブの盟主的な評価を与えられていた。
その求心力を自ら投げ捨てたムハンマドの政策は、アラブ諸国に深刻な混乱をもたらしている。

ムハンマドによる混乱は、同時に、逆説的に中東諸国の団結の方向性を示しているとも言える。それはエジプト、サウジ、トルコのトロイカ体制だ。それはアラブによる枠組みではないが、イスラムのセクトによる枠組みでもない。それは中東・マグレブを抱合する多国間主義的枠組みだ。(シリア・イラク・イランのトロイカは算術的連合に過ぎない)
これが出来上がれば中東の自立性は大きく前進するのではないかと思われる。
すみません。その後勉強していないので、近日中に…

とりあえず下記の記事もご参照ください





弁証法と戦闘的唯物論

最初にマルクス主義に近づいたとき、教えられたのは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」であった。
だから、依然として弁証法的唯物論という言葉は脳ミソに焼き付けられている。

これは、結局、世の中の理論は唯物論と観念論に分かれ、これは唯物論が正しい、というのが第一段階。
それから次に、唯物論にも弁証法的唯物論と機械論的唯物論があって、これは弁証法的唯物論が正しい、という二段重ねになっていた。

それで機械論的と呼ばずに形而上学的ということもあったが、機械論と形而上学の違いはよく分からなかった。いまでもよく分からない。

これで、四つ目表ができあがることになる。でもこれって、形而上学そのものじゃァない?

ところが話はこれで終わらない。唯物論と経験批判論という本が出てきて、唯物論と観念論の対立だけではなく、主観的観念論と客観的観念論があってということになる。

そうすると、議論は豆腐を縦横のほかに上下にも切り分けた8象限のカテゴリーに裁断されることになる。

これはもはやスコラ哲学そのものではないか。

その後、50年を経たいま、私は「弁証法的唯物論」などというパラダイムはまったく信仰していない。それは真面目なキリスト者が三位一体など信じないのと同じだ。

強いて言えば弁証法論者だということになる。それはすべての存在を過程の中にとらえる相対論であるとともに、過程の絶対性をエネルギーとして把握する実体論である。
それは時間軸の絶対性を信じるとともに、時間軸を越えた5次元時空があると信じることである。

これは世界のモデルである。これは立場の違いを越えて人類が普遍的に共有できるモデルだと思う。

ただその上で主体の問題は残る。党派性と言っても良いのだろう。その党派性の拠り所が唯物論なのだろうと思う。
だからレーニンが「戦闘的唯物論の意義について」を語ったとき、彼は正しかったのだろうと思う。

レーニンは戦闘的唯物論者が戦うための武器として弁証法の意義をとらえた。それはすべての知識人が、方法論として共有すべきものだ。

ただそれはもっと研ぎ澄ます必要がある。弁証法はヘーゲルの専売特許ではない。エンゲルスの専売特許でもない。もっと独りよがりでない、客観的で筋肉質な体系が必要なのだ。

それは自然弁証法(シェリング)と、認識の弁証法(フィヒテ)と、弁証法的論理学(ヘーゲル)から構成されるだろう。

いっぽう、唯物論に体系はない。それは戦闘的実践の中で研ぎ澄まされるほかない。そうでなければ、常にさまざまな形の観念論に落ち込んでいく他ないのである。マテリアリスムというのは究極的にはリアリズムである。

結論

弁証法的唯物論などというものはありえない。あるとすれば弁証法的唯物論者、あるいは唯物論的弁証法ということになる。
政治運動に引き寄せていうならば、共産主義的社会主義、唯物論的社会主義ということになるのだろう。
「資本論」は唯物論者でなくても理解できる。しかしそれを実現するのは戦闘的唯物論者、すなわち共産主義者以外にありえないのである。

生磐についてもう少し勉強する

生磐についてもう少し勉強すると、違った側面が見えてきました。
まず出典ですが、これは日本書紀の憲宗紀に記載されたものです。

日本神話・神社まとめというサイトの
という箇所にある現代語訳文を転載させてもらいます。
(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。
西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。
任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。
すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。
百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。
生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。
それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。
これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
あきらかに百済側から見た史実で、百済本紀からのパクリだということが見て取れます。

訳文でも十分意味は伝わりますが、煩雑なため、要点を箇条書きにします。その際、主体を生磐側にスライドさせて記載します

①487年、紀生磐が任那に越境した。
生磐は任那人ではなく倭人であるということだ。そして倭領から任那に入った。
②彼は高麗と通じた。
百済は高句麗と戦い、苦戦していたから、生磐の行為は裏切りと映った。
③生磐は「西の三韓」の王になろうとして、官府を整え、神と自称した。
「西の三韓」が難しいが、素直に読めば旧三韓の西部すなわち馬韓領域ということになる。
百済も新羅ももともと三韓ではなく、三韓に侵入してきた北部勢力である。任那には馬韓(全羅道)を守る権利と義務がある。
倭国は百済が高句麗と戦う限りそれを支持するが、南に進出しようとするならそれと戦う。
④生磐は全羅北道に帯山城を築き、百済の南下を阻止しようと図った。手勢の主力は佐魯・那奇他甲背らの任那軍だった。
⑤これを見た百済は怒り、攻撃を仕掛けた。
守備隊は果敢に戦ったが、最後に破れ任那軍300人が殺され、生磐は倭に逃げ帰った。

この一連の出来事は、昨日の記事の後半にあたります。前半の部分、小弓の死亡から生磐の参戦、子鹿火や韓子との関係悪化までの前半は雄略紀の方に入れられています。

後半を先に読むとこれらの記載の本質がわかります。生磐と戦いこれを追い出した百済の一種の「言い訳」なのです。

日本と喧嘩はできないが任那の支配する全羅道は欲しい、というのが百済の本音です。

ここには書かれていませんが、この後百済は領土を大きく南にシフトして生き返ります。そして任那をつぶし、これを新羅と分け合います。

一方、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは著しく衰退し、任那も国土を百済に剥奪されやがて姿を消していくことになります。

結論から言って一連の出来事は日本書紀の作成に関わった百済亡命者が、百済本紀から適宜コピー&ペーストしたものだろうと思われます。雄略天皇はただの借り物に過ぎないでしょう。
ただし倭の五王との関連は不明です。時期的にはかぶっていますが…

ついでに
倭国と任那の関係ですが、基本的には同根の関係と思います。ただしそれは高天原政権の出自だという点でのみ同根であって、長江文明の後裔である弥生人には関係のない話です。
もう一つ、任那の一部である一定の地域は倭王国と直接の関係を持っていたと思われます。つまり倭国の一部が半島南端部にも存在したということです。
なお、瓊瓊杵王国のルーツとしてタカミムスビを想定しましたが、雄略紀にタカミムスビが任那由来であると語られており、高天原=任那説にいっそう確信を持つこととなりました。




18.11.14 朝日
キューバ大使宿泊、ヒルトン福岡が拒否 米の制裁理由に

在日キューバ大使が10月、米ヒルトングループ系列のホテル「ヒルトン福岡シーホーク」(福岡市中央区)に宿泊しようとしたところ、米国の経済制裁の対象国の外交官であることを理由に、宿泊を拒否されたことが分かった。ヒルトン側は「米国企業として、米国の法律を順守した」と説明しているが、国籍による宿泊拒否は日本の旅館業法に抵触しているとして、福岡市が行政指導をした。

新藤さんからのメールで事件を知りました。

以前にもメキシコのシェラトンで同様の事件が起きており、いわばアメリカ企業としては当然の措置をとったわけです。

問題は日本国憲法に違反した行為を公然と行われたことに対する「日本」の対応です。日本政府というより日本という国家の対応です。

刑法上の罪に問うのは不可能ではありませんが、量刑としてはなかなか難しいでしょう。行政上の不法行為として罰するのもおそらく対応する法律が?でしょう。

結局民法で行くしかありませんが、ここは懲罰的罰金、あるいは慰謝料の請求が可能と思われます。

国家に慰謝料を求める権利はありませんが、最高裁判所の前で立ちションベンを引っ掛けられた屈辱は十分埋め合わせさせるべきです。

メキシコの裁判所は罰金約120万ペソ(約1300万円)の支払いを命じたそうです。その金額を見て「そのくらいなら払ったほうが良い」とホテル側は判断したのでしょう。

したがってこれ以下の額では国際的に許されないでしょう。

多分どのような額が出てもホテル側は争わないでしょうから、最低でも億は行くべきだろうと思います。これで大使館の半年分くらいの運営費にはなるでしょう。

これがうまく行ったら、週に1度位出張して、そのたびにヒルトンとシェラトンに予約すれば良いのです。パソコンのボタンを押すだけでまったく原価はかかりません。

これで日本駐在のキューバ大使館は外貨の稼ぎ頭になれるでしょう。

紀生磐(きのおいわ)のものがたり

紀生磐という人がいて、日本書紀の中で大活躍します。しかしどう考えてもこれは大和の人ではなく、筑紫君磐井と同じく倭国の歴史の中で動いた人です。

読み方からしてかなりいい加減で、例えばウィキペディアでは紀大磐と書いて「きの おおいわ」と読ませています。
ある方のブログでは紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)となっています。

この記事では面倒なので「生磐」(おいわ)で統一します。

この人は生年も没年も不詳ですが、400年代後半に活躍した人です。

父の名が紀小弓。
この父は雄略天皇の命を受けて朝鮮半島にわたり、新羅との闘いを率いていましたが、戦地で病死してしまいます。
これが465年5月のことです。

まぁ雄略天皇というのは嘘っぱちで、実際は倭の五王のもとで戦いに参加していたのだろうと思います。つまり倭王朝の人です。

三韓および倭国年表
http://shosuzki.blog.jp/archives/63212521.html

を見てもらえばわかりますが、このころ高句麗が南に進出し百済に盛んに侵食し始めます。
この10年後には百済の首都、漢城が陥落してしまいます。百済は国王を殺され、残党は南に逃げて国家の再建を始めます。

話は戻ります。父の死に直面した生磐は、矢も盾もたまらずに百済に向かいます。

ここまではよくある美談を予感させますが、とんでもハップン。
オヤジの威光を笠にきた横暴な振る舞いは指弾の的となってしまいます。

ついには小弓の後任の大将、小鹿火(おかい)を怒らせてしまうまでに至りました。小鹿火は蘇我韓子を唆し生磐暗殺を図りましたが、なんと韓子は返り討ちになってしまいます。

実は小鹿火みずからも、小弓の子ということになっています。つまり兄弟喧嘩をはじめたわけで、これでは戦えません。とばっちりを受けた蘇我韓子こそいい面の皮です。

どうしてこんなだらしない話になってしまったのか、それはそもそもこの戦争があまり大義のないものだったからです。

百済が高句麗に攻め込まれている間、新羅も同じように高句麗の攻撃を受けていました。だから倭国政府は半島にわたり両国を助けて高句麗を追い返したのです。

ところが、その後新羅はその恩を忘れ、どうも態度が大きい。それどころかひょっとして高句麗とつながったのではないかと思わせるような素振りです。

そこで雄略天皇は新羅親征を決意しました。ところが、宗像神社の神託は「行くな」というものでした。雄略天皇は自らの出陣を諦め、小弓ら4人の将軍に指揮を委ねました。

たしかに戦う前からなんとなく嫌な気分ですね。

そんなこんなで生磐は戦線を離れ倭国に戻ってきたのですが、一緒に小鹿火まで戻ってきてしまって、「もうやめた」と戦線離脱してしまいました。

これで当初に雄略天皇が指揮を託した4人の将軍はすべていなくなってしまいました。

諍いの元を作ったのは生磐ですから、彼が行かないわけにはいきません。ということで生磐は二度目のお勤めに出かけます。

ところが任那に赴いた生磐はとんでもないことをはじめます。なんとみずから神聖(かみ)を名乗り、任那王国を作り、高句麗と結んで百済人を攻撃し始めたのです。

時期がよくわからないのですが、475年に百済の首都が陥落したのに合わせて、百済を任那のものにしてしまえと考えたのかもしれません。

百済の側は逆に漢城を失った分を全羅道で取り返せと考えたかもしれません。全羅道はもともと任那の地であり、百済が割譲を迫ったという歴史的経過もたしかにあります。

それはともかく、激怒した百済王は生磐のこもる帯山城に猛攻撃をかけました。激しい戦いの末に任那軍の重臣300人が死亡。生磐は戦闘力を失いました。

結局、大磐は487年に倭国に帰国したそうです。これが後の筑紫君磐井だったりすると、できすぎですね。



2016年07月10日 三韓および倭国年表
を増補しました。
もともと、
2013年01月19日 日本書紀抜きの日本史年表
を増補したものですが、衛氏朝鮮の記事はもう少し膨らませなければならないと思います。(前にどこかに書いたつもりしているのですが見当たりません)

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代

神武東征の絶対年代は、考古学的資料から比較的容易に推測できる。
それはおそらく紀元300年を挟む前後50年のことであろう。
最大の根拠は銅鐸文明の突然の消滅である。銅鐸文明を担ったのは弥生人のうち長江文明由来の渡来人である。彼らは紀元前300年ころから銅鐸文明を開始した。それは次第に東漸し紀元150年から200年に近畿で最盛期を迎える。しかしその後急速に衰退し、銅鐸は打ち捨てられる。
これが近畿では紀元200年から250年と推定される。ここを挟んで地理的には西から東へと順に消滅していくのである。
銅鐸文明を抹殺し、征服王朝を打ち立てたのは「にぎはやひ王国」である。
彼らは出雲に最初の拠点を築いた後、いづれかのルートを通って近畿に達した。
とすれば纏向遺跡は「にぎはやひ」時代のものと考えられる。彼らが銅鐸を廃棄し、弥生人にスサノオ信仰を押し付けた後、今度はそこに神武が入ってくることになる。
神武にとって「にぎはやひ王国」の建設はそう遠い昔のことではなかった、と想像される。
そこで紀元300年という数字が出てくる。
となると、神武と前方後円墳の関係ということになるが、端的に言えば、前方後円墳はにぎはやひ王国の築いた文化であろうと思われる。
もともと九州に前方後円墳の伝統はない。それは大和・吉備に始まり九州をふくむ全国へと拡散していくのである。
さらにいえば、それは大規模干拓・灌漑事業の副産物であり、それに王権が便乗したに過ぎないと思う。

「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国

東征の決定

東征の決定に至る経過は以下の通り

瓊瓊杵王国は飽和状態に近づき、国々には君があり村々には長がいて、互いにしのぎを削るようになっていた。
その時、塩土の老翁が「東に美しい土地がある」という話を伝えた。その国は青く美しい山が四方を囲んでいる。そこは天の磐船に乗って天から飛び降った(侵入した)饒速日という者が支配している。

饒速日王国を攻めて、自分たちが瓊瓊杵王国の名のもとに支配しようではないか、というのが呼びかけである。

そこで、この饒速日の位置づけであるが、天から飛び降った(朝鮮半島から渡来攻撃)ことは間違いない。
しかしその“天”は高天原系の天である。なぜなら、本来豊葦原瑞穂の国は高天原政権によって。瓊瓊杵王国に属すべきものとされているからである。

東征の発議は彦火火出見がしたことになっている。彼が45歳になってから言い出し、周囲を説得したということになっている。
このくだりは後付けであろう。強引に読み込めば、それは神武王国(瓊瓊杵王国の一支国)を建国した彦火火出見が、45歳になって、往時を回想しつつ王政を意味づけたというふうにも取れる(しかしこれではあまりにも映画のシナリオ風だ)

これらの読解は日本書紀を基盤としているが、古事記ではより簡潔に語られている。本当のところ、彦火火出見は行って戦ってみるまで、相手がどんな集団なのかわかっていなかったのではないだろうか。

私は以前から、高天原政権は紀元前100年ころに洛東江中流に成立した衛氏朝鮮の残党国家だろうと考えている。
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という面々が任那(伽倻)を形成した。後に一部は分裂し慶州方面に別政権(スサノヲ系)を立てた。百済は別系統の北方系(扶余族)と考えている。

その慶州グループが本国においては新羅となり、出雲に渡って別の征服王国を立てたのだろう。そして出雲王国の流れが近畿に入って饒速日王国を立てたのではないだろうか。

なお「にぎはやひ王国」を建設した饒速日と神武に降伏した饒速日が同一人物であるかどうかはわからない。また神武に降伏した饒速日と、神武一族と濃厚な血縁関係を結ぶことになる大事主が同一人物であるかどうかもわからない。
ただ瓊瓊杵と饒速日が同じ言語系統、高天原政権由来ではないかという予感はする。とすれば、饒速日説は神武が東征を根拠付けるために、オオコトヌシを瓊瓊杵の兄弟とされる饒速日に擬した可能性である。




「神武東征」を考える その1 ににぎ王国

すみませんが、この文章は入門書「日本神話.com」を読みながらの感想なので、まったく裏付けのない思いつきノートです。そのうち、裏打ちをしていきたいと思います。

神武の出自 (神武紀)

神武の家系を見るとすこぶるいい加減である。
神武の幼名は彦火火出見(ひこほほでみ)
父方は天照大神の子孫、母方は海神の娘とされる。
おそらく邪馬台国の分家筋で、豊前中津あたりの海賊の長と婚姻関係を結んだという筋書きであろう。
祖父の名前も彦火火出見で俗称が山幸彦、祖母も海神の娘というから実にずさんなでっち上げだ。

結局はっきりしているのは母方が一貫して海神の娘であるということで、つまりは良く言えば水軍の長、悪く言えば海賊の頭目ということだ。
それが家系に色を付けるために、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を載せている。これは「ソンジョそこいらの海賊ではない。もとは清和源氏だぞ」というほどの意味であろう。
 
瓊瓊杵尊を担いだ理由

おそらく神武の父が神武4兄弟を送り出すにあたって、派兵の理由を述べた箇所がある。

これについては後で触れるのだが、実はその前に、瓊瓊杵尊に関するに重要な説明が加えられているのである。

瓊瓊杵尊は豊葦原瑞穂の国を征服するよう命令され派遣された。命令したのは高天原政権で、そこには豊葦原瑞穂の国の全土に対する支配権が認められていた。

重要なのは、瓊瓊杵尊が降臨する前にすでに日本=豊葦原瑞穂の国は存在していたということである。彼は日本を作ったのではなく征服したのである。ということは、豊葦原瑞穂の国は被征服国だったということになる。

豊葦原瑞穂の国と「ににぎ王国」

ついで征服王朝たる「瓊瓊杵王国」の経過が総括される。
「日本の事情がわからなかった瓊瓊杵尊は、まず西の外れの地を治めることにした。その子孫は慶事を重ね、支配を強めた。

以上の経過からわかることは、まず豊葦原瑞穂の国があって、そこに瓊瓊杵が侵入してきて「瓊瓊杵王国」を作った。それは当初は豊葦原瑞穂の国の西側の一部を支配するに過ぎなかったが、徐々にその版図を拡大した。

被征服国である豊葦原瑞穂の国の民は、神武の父、の時代には瓊瓊杵王国の支配を受容していた。

そういう経過があるからこそ、どこぞの馬の骨が瓊瓊杵尊の末裔を推しいただいて、自らの箔付けとするということに政治的意味が生じるのである。


久しぶりに映画が見たくなってイオンの映画館へ行った。行ってから時間などと睨みあわせて、「ビブリア古書堂の事件手帖」に決めた。月曜の午後2時というのに7,8人も観客がいた。全員女性だった。
女性監督の作品で、なかなかお金もかけているらしい。
見た感想だが、何かよくわからない映画だった。なぜわかりにくいかというと、サイドストーリーに力を入れすぎたためだ。
なぜそんなになってしまったかというと、おそらく夏帆という女優があまりに魅力的だったからではないか。
監督や脚本家がみんな引っ張られてしまった。編集屋も切れなかった。

原作者は映画を見た感想の中でこう言っている。
また原作で深く描かなかった過去パートがしっかり描かれているので、映像として観るのは私にとっても新鮮でした。
聞きようによってはちょっと嫌味っぽくも聞こえる。
夏帆
こちらの方は、基本的に暇つぶしなので、筋はまぁどうでもいいみたいなものだから、とにかく夏帆さんの美貌にうっとりしていた。
典型的な美人というわけではない。映画向きの顔で、造作としては大口なのがある種アンバランスな魅力だ。多分芝居がとてもうまい人なのだと思う。表情の中にさり気なく自分の魅力を引き出す力がある。
三文小説家が何気なく入った大衆食堂で、何ということない店のお内儀さんに何気なく接触し、どんどん彼女の魅力に引き込まれていく。その心のゆらぎが、こちらまで引き込んでしまう。
写真を見てほしい。普通に、女性にこんな顔をされたら、男性たるもの理性を失います。
ただし女性の方が流れに添うように燃え上がってゆく心境の変化は、正直のところ良くわからない。わからないが納得させられてしまう。多分女性監督の独特の感性なのだろう。
鎌倉の切通しでのラブシーンは、日本映画ではめったに見られない硬質な情感だ。

ベネズエラ大使講演会は大盛況だった。
聴衆が100名を越えた。

最大の成功の理由は、ベネズエラを心配する人が予想以上に世の中にはいるということだ。この講演会はその人達のそういう気分に応える企画になったのではないか、という気がする。

講演の最中に「そのとおり!」という掛け声までかかった。大使も「こんなに反応してもらえるなんて」と感激していた。

覚悟はしていたが、案に相違して、斜に構えた質問とか、メディア報道を鵜呑みにした批判はなかった。

この企画は多くの民主勢力の協力を得て行った。赤旗にもチラシを折り込んでもらった。平和委員会や革新懇にもずいぶんお世話になった。

何よりも私たち連帯委員会には、過去に2度にわたりベネズエラ革命の支援集会を成功させた経験がある。アメリカの覇権主義と闘うキューバ連帯の催しやニカラグア連帯を積み上げてきた伝統がある。

こういう要素がバックにあったから、「北海道AALAがベネズエラ問題を本格的に取り上げるのだから、聞いておかなければ」という雰囲気を生んだのではないだろうかと思っている。

これが「反転攻勢」のきっかけの一つになってくれればと心から願っている。

ベネズエラ大使の講演の抄訳です。日本語訳文章を北海道AALAの責任で要約したものです。



セイコウ・イシカワ大使講演

「ベネズエラのいま~ベネズエラ“危機”の真相と課題~」 
(要約版)

2018年11月10日 札幌

 

ベネズエラ革命への攻撃

親愛なる北海道AALA代表と友人の皆様に心からの連帯の挨拶を送ります。

いまベネズエラ革命への攻撃が続いています。

1998年に公明な選挙によってチャベスが大統領に選ばれてから、革命は絶え間なくさまざまな規模の攻撃にさらされてきました。ベネズエラは米国の干渉の的になってきました。この20年間の米国の政策は、疑いもなく好戦的なものでした。

ここで多くの人に疑問が浮かぶでしょう。なぜベネズエラが攻撃されるのか。

ベネズエラが他国の脅威になっているというのでしょうか。米国のような超大国を脅かしているというのでしょうか。

ベネズエラには大量破壊兵器はありません。他国に軍事基地を持ってもいません。他国を爆撃したことも、侵略したこともありません。ベネズエラは平和主義の国です。憲法には国家間の平和的協力を促進することが明示されています。また原水爆もたらす危機に対する防御法は、唯一つ核兵器撤廃のみという立場に立っています。


ベネズエラ革命とはなにか

ベネズエラ革命は、「ベネズエラ住居計画」を通じて200万以上の家族に家財道具つきの家を提供しました。

ベネズエラ革命は、例外なく全ての国民に初等・中等・大学教育を無償で提供しています。学生を対象に研究を後押しする奨学金を出しています。医療は無料ですし、高齢者への年金額も増額しています。

食料供給と生産を充足させるため、地域共同体が運営する地方評議会がつくられています。政府はこれを強力に支援しています。文化的グループを支援するネットワークが全土に作られ、広がっています。

これがわたしたちのベネズエラ革命です。


チャベスとラテンアメリカの共同体

ウゴ・チャベスは、長い間の夢「私たちのアメリカの統合」のために、文字通り種を蒔きました。

そうして、米州ボリバル同盟(ALBA)やペトロカリベ、南米諸国連合(UNASUR)やラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)が生まれたのです。これらは一極集中ではなく多中心性の世界の実現に資するものです。


米国のベネズエラ攻撃

米国はベネズエラを攻撃してどんな利益があるのでしょう。それはとりわけ、ベネズエラが世界最大の石油埋蔵量を有しているということと、(米国に近いという)地政学的な位置づけに意味があるのです。この二つの要素をあわせもつ国が、「社会主義」を意識的にめざす愛国的政府に率いられているということが、米国の心配の種となっているのです。

米国はベネズエラを「西半球における主要な敵」と断定し、宣戦布告もなしに我が国に戦争を仕掛けています。

その目的は、ベネズエラ型の民主主義モデルを破壊することであり、国民運動における革命政府の指導的役割を根絶することであります。そして最終的に、ベネズエラの豊かな資源を再び私物化しコントロールしようとすることです。


報道機関が報道しないもの

世界の報道機関は、主に新聞の見出しや社説欄で、競い合うように広い紙面を割いて、日々ベネズエラ国民が直面している困難を書き立てています。記者やコメンテーター、歌手や俳優、有識者や政治家は喜んで、世界の主要メディアでベネズエラについて意見を述べます。そしていつも、それをマドゥロ大統領の責任にしています。

しかし、メディアがどんなに妄想を作り上げ、どんなに厳密性を欠く分析をしても、真実を知るための必要な鍵となる事実を隠しています。それは「封鎖」です。


封鎖の歴史的背景

20年前、チャベスが大統領に就任して間もなくから、米国はベネズエラの「政権交代」を目指し続けています。それは米国の帝国主義的な人々とベネズエラの国民民主主義との共存が不可能であるということを裏付けています。

ベネズエラの国民民主主義は主権・独立・社会正義の考えを包含しています。米国はそこに脅威を見出しているのです。なぜならそれは米国による南米地域の支配と統制の図式と正反対のものだからです。

ブッシュ政権は、2002年の反チャベスのクーデターを支援しました。2015年には、オバマ前大統領が、ベネズエラを「異常で並外れた脅威」と規定した大統領令を出しました。それ以来「政権交代」の政策が加速しました。

米政権はそれまで非公式だった政策を合法化しました。それは財政的、政治的、メディア、軍事的な秘密作戦を柱とするものでした。トランプは「どのような手段を使ってでもベネズエラの合法的政府を打倒したい」と公言しています。

2017年8月には、トランプ自身が、ベネズエラに対して軍事作戦の可能性も含めた「全ての選択肢」を持っていると言明しました。ほかにもポンペオ国務長官、ペンス副大統領、マティス国防長官、ヘイリー国連大使、ジョン・ボルトン大統領補佐官といったトランプ政権の高官たちがベネズエラの政権を引きずり下ろすという言明を繰り返しています。

直近では、ワシントンで最も影響力のあるロビイストの一人ルビオ上院議員が、「ベネズエラに対して軍事的行動を起こす時が来た」と主張しました。これはまったく由々しい発言です。ベネズエラのような小国を米国の軍事攻撃の目標とすることは、明らかに西半球の平和への深刻な脅しです。


経済と金融の分野における攻撃

経済と金融の分野における攻撃は、制裁から封鎖へとエスカレートしてきました。それは一方的な抑圧手段を通じて行われています。

資本主義体制を批判し、国内政策や対外政策を自主的に進めようとする政府がどこかに出現した時、それらの国が乱暴な手段で封鎖されるのは、今に始まったことではありません。それはキューバに対して50年以上前からおこなわれています。チリのアジェンデ政権も同じ目にあっています。

アジェンデ大統領は政権に就いた当初から、米国による金融的・経済的封鎖とたたかわなければなりませんでした。マドゥロ大統領も同じことを迫られています。経済封鎖は国際法に違反する不当で不法なものです。それはベネズエラ政府と提携しているとみなされた個人や企業に対しても適応されます。

トランプ政権はこのような手段はこの国の情勢を改善して「民主主義への回帰」を促進するための措置であると強弁しています。そしてベネズエラ国民に悪影響を及ぼすものではないと主張しています。


経済封鎖は一種の軍事行動だ

いま制裁は、金融管理、石油産業や国際貿易まで、その範囲を広げています。それは米国の敵視政策がエスカレートしているからです。この異常な事態は経済侵犯、経済戦争とも呼ばれるべきものです。

戦争において一番はじめにやるべき軍事的任務は「敵の供給路を遮断する」ことだといわれます。つまりいまの米国の敵視政策は、軍事的観念に完全に当てはまっているということです。このようにして米国は、ベネズエラ経済を行き詰まらせ、大規模な不安定化と国内対立を引き起こそうとしています。そしてその結果、「国際社会が解決策を見出ださ」ざるをえなくなり、力を合わせて「人道的」な行動を起こす、ことを目論んでいるのです。

制裁の目的は、ベネズエラ経済へ打撃を与え、国際貿易の崩壊を引き起こすことです。それはベネズエラの金融活動を妨害し、投資へのアクセスを邪魔し、食料品や医薬品、生活必需品の購入を妨げています。それは国民生活に、とりわけ経済的分野において深刻な混乱をもたらしています。

こうした全てのことは、ベネズエラに経済危機を引き起こす目的でおこなわれています。もし経済危機が起これば、それはベネズエラを政治的に不安定化させる口実に使えるのです。


ベネズエラ政府打倒戦略と「転換期」

トランプ政権は、両国間の緊張をさらにエスカレートさせています。それと並行してベネズエラに対する制裁をこれまでに4度も実施しています。この2つはどういう関係にあるのでしょうか。

それは米国政府にとって受け入れ可能な方針がただひとつ、マドゥロ大統領の解任だということを示しています。米国は「民主主義の回復」を目指しているのではないのです。かれらは合憲的、民主的、選挙に基づく解決の道を正統なものと認めず、「チャベス主義」の降伏のみを求めています。

2017年、ベネズエラ野党は政権交代を目論見ましたが失敗に終わります。米国は野党勢力に「政権交代」を実現させる力がないと判断し、制裁措置を適用しました。これが、米国が言うところの「民主主義への回帰」への「転換期」が意味しているものです。

2017年から2018年にかけてのドミニカ共和国での与野党協議は、ローマ法王などのイニシアチブで政治的正常化への道を開こうとするものでした。米国はこの会談をサボタージュしつつ、大規模な人口移動や市民対立というかたちでベネズエラ国民の対立を煽っています。そうして「人道的介入」に都合のいい状況を生み出そうとしています。

米国政府は制裁は「個人への制裁」であると主張しています。しかし制裁によって引き起こされたすさまじい影響に照らして見ると、「ベネズエラ国民の幸福を気にかけている」という米国の主張は悪意に満ちたものです。

「転換期」の柱は、①外国の銀行にベネズエラが保有する資産の凍結 ②ベネズエラ国債の取引禁止 ③世界的金融システムにおけるベネズエラ口座の閉鎖 ④食糧や医薬品の輸入への妨害 などです。これらの事実から、米国がベネズエラ国民の暮らしなどどうでも良いと考えていることがわかります。

「転換期」は混沌と暴力の状況を推し進めています。ベネズエラの状況に対する憲法に則った平和的な解決の道は、米国により閉ざされています。


ベネズエラを孤立化させる工作

米国政府は米州機構を利用してベネズエラに攻撃を仕掛けました。トランプ大統領は中南米各国に、ベネズエラに対する封鎖と制裁政策への絶対服従を迫ったのです。今年4月にペルーのリマで開かれた米州首脳会議において、その策略は明確に示されました。

ベネズエラ経済を崩壊させる一方的な措置には、カナダのような国も加わっています。さらに米国は、欧州議会も反ベネズエラの国際的同盟に取り込むことに成功しました。欧州議会の圧力のもと、EUは一方的な制裁を採択しました。

これらの措置は、「独裁的で破産した国家」が引き起こした困窮から、ベネズエラを救うための措置であるかのように見えています。しかし実のところ、ベネズエラを「罰する」という名目の下に、その合法的政府を崩壊させるという、トランプの圧力に屈したのです。

これは、“国家同士の共存を支配する原理”への新たな攻撃でもあります。

これは、ベネズエラ国民への犯罪行為であり、人類に対する重罪です。


難民キャンペーンに関して

難民キャンペーンはベネズエラに対するもう一つの「厚かましい攻撃戦略」です。

こうした状況は、国際社会においてベネズエラの状況を「人道的危機」とする根拠になるからです。「人道的危機」と判断されれば、結果として国際社会が「人道的」介入を「せざるをえなくなる」ように仕向けることができるのです。多くのメディアが、人口流出の危機と決めつけられた現象を広めています。それは人道的危機と言われています。たくさんの人がおそらく善意から、この事象に関する懸念を口にしています。

国際移住機関(IOM)の統計で見てみましょう。ベネズエラは絶対数においても人口比率においても移民が多い国ではありませんが、傾向としては移民や難民の受け入れ国であり続けています。最も現状がよく分かるデータは、国内在住外国人の数です。ベネズエラの人口は3千万人ですが、これに加えて510万人のコロンビア人が住んでいます。この比率はコロンビアでの比率の9倍です。

これは中長期の傾向ですが、短期的にはどうでしょうか。

おそらく国際移住機関が出したデータのなかで最も事実を明示するものは、コロンビア外務省の国境における調査結果でしょう。このモニター調査によると、コロンビア方向へ国境を越えた人は224,804人で、ベネズエラ方向へ向かった人は252,565人でした。コロンビアからベネズエラに向かった人の方が多かったのです。

もう一つの項目、コロンビアに向けて国境を越えた人の52%は買い物をするためであり、14%はコロンビアで働いている人たちでした。また69%が、その日のうちにベネズエラに戻ると答えています。

なぜメディアの報道と実態の間にこれほどの格差があるのでしょう。米国とリマ・グループ、国際的マスメディアが、ベネズエラ問題を「人道上の問題」に仕立て上げようとしているからと言わざるをえません、


メディアに溢れる反ベネズエラ報道

報道機関はベネズエラにおける「食糧難と人道上の危機」を報道し、国民の国外流出を驚き嘆いてみせます。一方で、米国などの国や機関が医薬品や食料のベネズエラへの輸入を阻んでいることを無視します。

反ベネズエラの制裁と封鎖作戦は、恥知らずで矛盾に満ちているにも拘らず、思想的には持ちこたえています。それは封鎖作戦のもう一つのオプション、メディアによる封鎖のおかげです。この封鎖もまた、矛盾に満ちています。

メディアは中央アメリカやメキシコから米国への膨大な数の移民を過小評価しながら、ベネズエラの移民問題は大げさに、そして逐一報道するのです。しかし、制裁や封鎖が、ベネズエラの現状の主要な原因となっていることには触れません。

世界中の世論は、多くがこれらのメディアからベネズエラについての情報を得るので、事実に対してバイアスのかかった見方が形成されてしまいます。


まとめ

1.アメリカ帝国主義
帝国主義者たちが、ベネズエラ干渉を強化し、ボリバル革命転覆の条件を作り出そうとしていることは明らかです。 彼らは選挙で選ばれたマドゥロ大統領の正統な政府を揺るがせ、「政権 交代」を狙っています。
2.無慈悲なキャンペーン
政府転覆の手段には、国際世論の前にベネズエラを否定する情報を流すメディア戦略が含まれています。それは帝国主義戦略を正当化するための、まことに無慈悲なキャンペーンでした 。 人道危機のもう一つのシナリオは、ベネズエラ人の近隣諸国への「大規模かつ永続的な移住」の情報宣伝でした。政府転覆の口実はこれによってさらに強化されています。
3.複合的な攻撃
ベネズエラに対する反政府攻撃は、干渉の仕組みが複合的であるという特徴を持っています。そこには政治的、外交的、メディア的、経済的な圧力が組み合わされています。そしてさらに 憂慮されるのは、そこに軍事的選択肢もふくまれつつあることです。
4.いのちの恐怖をともなう攻撃
軍事介入の脅しは、革命を「罰する」という一般的圧力だけにとどまりません。それに加えて、国民の間に生命と安全に関する不安をもたらします。
5.ワシントンは犠牲を恐れない
ワシントンにとって唯一受け入れられる解決策は、ニコラス・マドゥロの解任と「政権交代」しかありません。このオプションは内戦の危険や人的および経済的に大きな犠牲を伴うかもしれま せん。たとえそうであっても米政府の結論は変わりません。イラク、リビア、シリアでも同じ惨事のモデルが適用されました。おなじ悲劇が繰り返されました。そのことを私たちは知っています 。
6.野党強硬派は軍事解決派
ベネズエラの野党の強硬派は軍事的選択肢に固執しています。彼らはマドゥロ大統領が繰り返し述べた対話の呼びかけに応えず、選挙プロセスへの参加を拒否しました。
7.ベネズエラは政治的・思想的回転軸
帝国主義者がベネズエラを攻撃するのは、ベネズエラをアメリカ大陸の政治的・思想的回転軸として捉えているからです。「それは打ち倒すべきものだ -できるだけ速やかに」 なぜなら、彼らは「ベネズエラが新興国や多極共同体などが相互に結びつくためのブリッジとなる存在だ」と考えているからです。 一方トランプ政権は中南米支配の新しい青写真を描き、その中でモンロー・ドクトリンを甦らせ、その思想をベネズエラの紛争につなげようとしています。だからベネズエラは思想と思想の 衝突点となっているのです。
8.中南米右翼政権の“悲しい役割”
脚本家と俳優の間に危険な共鳴作用が起きています。それは右翼政権がこの地域で果たしている“悲しい役” に代表されます。かれらは米国の干渉行為を正当化し支持しようとしていま す。 その戦略はあのときと同じです。彼らは帝国主義に反対する国を政治的かつ経済的に封鎖するのを手助けします。その役割は、封鎖という卑劣な手段とその悲惨な結果をおおい隠し、国 際世論の非難から守ることです。 それはキューバに始まりました。それはチリに続きました。そしてそれはいまベネズエラに起こっているのです。
9.ベネズエラ革命は続く
ベネズエラ革命は帝国主義の攻撃強化と向き合い、社会的挑戦を続けます。「国民が主人公の民主主義」を完成させ、共同体を通じて社会運動の組織を拡大し、変革の道すじで一致した 政治勢力を統一する。そしてそのなかで人々の意識変革を目指します。それはフィデル・カストロが「思想の戦い」と呼んでいた運動です。
10.民族自決と諸国民の連帯
いまベネズエラでは、平和と民主主義、独立、諸民族の主権と自決をめざす戦いが進められています。戦いは決定的な段階を迎えています。 この戦いにおいて、諸国民の連帯は、ベネズエラとボリバル革命が覇権勢力に抵抗できる最強の手段です。いま必要なこと、それは私たちの間で努力を結び合わせることです。独立・主 権・自決の原則を守り、互いの団結を固めましょう。
11.チャベスは予測していた
最後に「我々の永遠の司令官」であるウーゴ・チャベスが私たちに残した言葉をお伝えしたいと思います。
"帝国主義が存在する限り、ずっとボリバル革命は危険にさらされ、脅かされ続けるだろう。なぜなら、もしそれが成功すれば, 帝国主義は溶け去ってしまうからだ"
最後に、みなさんのボリバル革命への一貫した連帯に感謝いたします。

ベネズエラが米国の中間選挙をどう見ているか。それを示す解説記事だ。著者はベネズエラ問題を専門とするジャーナリストという肩書きになっているが、ベネズエラ政府筋の人と見て間違いないだろう。

トランプの中南米いじめは中間選挙の政治戦術だ
by Paul Dobson  
Nov 4th 2018  venezuelanalysis  

1.ボルトンのマイアミでの発言
ジョン・ボルトン米国務次官補は、最近、キューバ、ニカラグア、ベネズエラに対する新たな制裁に関する発表を行った。
これは彼らを米国の敵国として描き出す試みに過ぎない
ボルトン氏は、マイケル・デイド・カレッジのフリーダム・タワーで語った。「ベネズエラ、キューバ、ニカラグアに対し、新たな制裁措置を開始する」と発表した。
そこには米国市民がベネズエラの地金との取引に参加することの禁止を含む。
ボルトンはマイアミの聴衆に語った。
ハバナからカラカス、マナグアに至るこの“暴虐の三角”は、人間の深刻な苦しみの原因であり、地域に巨大な不安定さを引き起こす原動力であり、西半球の共産主義の醜悪な発祥地である。
米国は、トランプ大統領のもとで、3つの政権に対して直接行動を起こしている。それは地域の公正、自由、基本的な人間の尊厳を守るためだ.
ボルトン議長の発言は、米国の中間選挙に向けての共和党の支援キャンペーンで、アメリカ人に恐怖を植え付けようとする“トランプ節”Trumpesqueのひとつである。

2.“暴虐の三角”
ボルトンが使用しているレトリックは、中間選挙の文脈で見ていかなければならない。
ボルトンはアメリカの人々に恐怖を抱かせるために“外部の敵”を描こうとしている。そのために“暴虐の三角”などのフレーズを使っている。
キューバに関する米国の政策は、これまで行われてきた金融制裁の継続に加え、ハバナの米国大使館からの外交官の撤去に焦点を当てている。米国がニカラグアにどのような計画を持っているかは今のところ不明だ。
ボルトン議長は30分間の演説でこう述べた。
ベネズエラが何百人もの政治犯を解放し、自由な選挙を認めない限り、米国は「腐敗したベネズエラ経済を支配するネットワークをターゲットにし、彼らが奪った富へのアクセスを拒否する。
3.米国のベネズエラ制裁は手詰まりになっている
ベネズエラに対する最近の動きは、具体的にはニコラ・マドゥロ大統領に対する動きである。それは9月に中米国家に課されたトランプ政権の制裁措置への追加措置である。
しかしそれはボルトンが信じるほど厳しいものではないし、ベネズエラ社会に大きな影響を与えるものでもない。
それは何らかの厳しい新制裁といったものではない。
もし厳しい新制裁というなら、それは石油禁輸措置とか旅行制限などになるはずだ。しかしそれらは明らかにされていない。
なぜか。それはアメリカの支配階級やビジネス界に本格的な石油輸出禁止令を受け入れる準備ができていないからだ。
アメリカ経済は依然として石油を始めとするベネズエラの産品に大きく依存している。
ボルトンが使用している言葉を見ると、制裁自体の実際の内容よりも、選挙運動で有権者に訴えようとしているようだ。

4.移民キャラバンをどう見るか
話は変わるが、貧困と暴力から逃れようとする移民キャラバンの問題がある。トランプ大統領は彼らを「侵略者」と呼んでいる。
このキャラバンはホンジュラスから米国とメキシコの国境へと移動している。留意すべきは、これらの大半は米国がこの地域に繰り返し介入した結果もたらされたことである。
木曜日にトランプは語った。
私たちは亡命制度の誤った乱用を終わらせる。そのための計画を確定する。
そして、移民キャラバンのメンバーによる暴力行為は軍事的に対応すると誓った。すなわち石が投げられれば銃で応えるということだ。
ボルトンの発言は、フロリダ州の選挙戦「戦場」でのものであり、トランプの反移民の立場に沿ったものだだということに留意する必要がある。
それは、すでにアメリカに拠点を置く移民に対して、さらなる人種的憎悪を煽る手段として働いている。

5.ラテンアメリカの民衆に対する“人種的憎しみ”
ホンジュラスの移民行進と、ニカラグア・ベネズエラ・キューバについての声明の間にははっきりとしたつながりがある。それは“人種的憎しみ”というつながりである。
これらの声明はボルトンとトランプがゲームを再評価し、新たな攻め口を準備していることを示唆する。
それは3つの政府、とりわけベネズエラを、病気や失業や医薬品の不足や、その他もろもろの口実で攻め立てようとするものだ。
そのことは、この間の選挙キャンペーンを通じて、明白な政治戦術として浮かび上がっている。

チャベス政府の経済・社会的成果
ベネズエラ経済の悪いところばかり取り上げられるが、チャベスが政権についたときのベネズエラの状況がどうだったのかを知ってもらいたい。プログラムの要旨に少し余裕があるというので書き込ませてもらった。
そして、チャベス政権の10年余りの間に、それらのパフォーマンスがいかに改善したかを知ってほしい。そのうえでここ数年間に途上国が負わされた経済的重荷をベネズエラも背負わざるを得なかったことに思いを致してほしい。
出所はすべて下記による
The Chávez Administration at 10 Years: The Economy and Social Indicators
February 2009
Center for Economic and Policy Research
ヨーロッパの中立的シンクタンクということである。

1 GDPは実質成長で2倍となった
現在の経済の拡大は、チャベス政権が2003年の第1四半期に国営石油会社の統制権を獲得したときに始まった 。それ以来、実質GDP(物価上昇補正後)はほぼ2倍となっている。すなわち5年余りで94.7パーセント、年間で13.5パーセント成長したことになる。
この経済成長を牽引したのは非石油セクターだった。また、民間部門は公共部門より速く成長した。

2 貧困率は半分以下に低下した
経済成長の成果は一般大衆にもたらされた。貧困率は54%から26%に、すなわち半分以下に低下した。極貧層の減少は72%に達し、さらに著明である。これらの貧困率は、医療や教育へのアクセスの増加は計算に入れられていない。
実質社会消費(Real social spending)は3倍以上に増加している。

3 失業率は低下し、社会格差も低下した
労働市場は著明に改善した。失業率は11%から8%に低下した。労働需要は拡大しており失業率は半分以下になっている。労働環境を示す他の指標でも相当の改善が示されている。
これに伴いジニ・インデックスも48%から41%に低下している。これは社会格差の著しい縮小を意味する。

4 教育・医療・社会福祉の改善
幼児死亡率はこの間に30%以上の減少を示している。特に医療へのアクセスの改善が特記される。公的機関におけるプライマリーケア医師は12倍に増えている。これまで医療を受けることのなかった何百万人もの民衆が医療を受けることが可能となった。これは多くのキューバ人医師の活躍によるものである。
社会保障の受益者の数は2倍以上になっている。
教育の分野でも顕著な前進があった。とくに高等教育の就学率は2倍以上になっている。

5 経済パフォーマンス
GDPが成長しているため、対外債務の対GDP比は半分以下となった。政府の対外累積債務も30%から14%まで低下した。
インフレ率は顕著に抑制されている。物価上昇率は31%で、10年前の水準に復帰した。これは一面では、世界的な通貨収縮の圧力によるものである。



「超インフレ」が非難されていますが、固定相場制でドルの流通が厳しく制限されていることを抑えて置かなければなりません。日本でもむかしは1ドル360円でした。今で言えば300%も割高でしたがそれで困ったことはありません。
為替相場といいますが、ドルの相場は本来存在しません。もしあるとすればそれはヤミ相場であり、IMFが為替価格のように語るのは失礼です。流通量が少なければ高値がつくのは当たり前。アムロの入場券に20万円のプレミアがついても市民生活とは無縁です。
大量の札束で買い物しているのは、高額紙幣を誰かが回収してしまったからです。これはデノミで解決します。通貨は一旦信用を回復すると狂気のように回り始めます。買い占めた人は相当被害を被っているでしょう。


札幌での講演会が4日後に迫りました。
もう一度、お知らせいたします。
当日は、エル・システマの少年交響楽団や、聴覚障害者による「白い手袋」のパフォーマンス、コロンえりか(大使夫人)さん、ベネズエラ音楽などのビデオ紹介も行います。
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Ⅰ.最近のベネズエラ

ここ2,3年のベネズエラ関連記事です。「もう一つのベネズエラ」の本体部分です。

A.2018年前半

2018年01月18日 ベネズエラ共産党の現状分析

2018年01月11日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ③

2018年01月10日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ②

2018年01月10日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ①

2018年01月05日 ベネズエラ記事の紹介

2018年01月05日  ベネズエラの「ある左翼」

B.2017年後半

①2017年12月25日 ベネズエラ:国連人権専門家の最新報告

②2017年12月25日 大統領選への道は開かれている。

③2017年12月25日 変動相場制が絶対ではない

④2017年12月24日 封鎖されつつあるベネズエラ

2017年12月24日 ベネズエラ ハイパーインフレの原因

2017年12月23日 ベネズエラ側の言い分

2017年12月23日 ベネズエラ経済分析はとりあえず保留 

2017年12月22日 ベネズエラのカトリック教会は恐ろしく下品

2017年12月21日 ニューズウィークのほうがまだマシ

2017年12月21日 ある進歩的な新聞の「反ベネズエラ」報道

C.2017年前半

2017年05月25日 ベネズエラ 野党の行動をどう見るか

2017年05月25日 ベネズエラ 野党の行動記録

2017年05月22日  ベネズエラ野党の大統領辞任要求に道理はない

2017年05月17日 カラカス情報 心得るべきこと

D.2014~2016年

2016年07月21日 ラテンアメリカ人民の闘い: この間の動向

2016年07月20日 ラテンアメリカの方向は人民の戦闘性により規定される

2016年07月23日 ベネズエラの政治危機

2015年12月18日 ベネズエラの選挙結果についての見解 

2015年12月17日 ベネズエラ国会選挙 第二報

2015年12月17日 ベネズエラ国会選挙 第一報

2015年02月04日 原油安 誰が敗者となるか

2014年12月26日 OPEC決定の画期性

2014年11月26日 ラテンアメリカ、最近の動き(2014) その2

2014年11月26日 ラテンアメリカ、最近の動き(2014) その1

2014年06月16日 ラテンアメリカ左翼政権一覧表


Ⅱ.チャベスのベネズエラ

1990年のカラカソ(首都カラカスでの暴動)から、チャベスのクーデター。98年のチャベス当選から、反チャベスのクーデター、ゼネストやリコール作戦の失敗、チャベス改革の開始までがふくまれます。

 

2013年03月12日 石油生産、いらぬ心配はご無用

2013年03月12日 WSJはチャベス革命の死を願う

2013年03月12日 チャベスの死と資本家の大はしゃぎ

2013年03月10日  チャベス革命の道筋 その3

2013年03月10日 チャベス革命の道筋 その2

2013年03月10日 チャベス革命の道筋 その1

2013年03月07日 チャベスに関する私の過去発言

2013年03月06日 チャベス、3つの功績

2013年02月22日 日本はマクロ指標が狂っている

2012年10月06日 ベネズエラ 最終盤の状況

2012年08月18日 チャベス政権の十年: 経済・社会指標の検討

2012年08月15日 ベネズエラ 世論調査の動向

2012年08月13日 赤旗「ベネズエラはいま」を読む

2012年08月13日 チャベスの対抗馬ラドンスキー

2012年08月12日 エコノミストはベネズエラを評価している

2012年08月11日 赤旗の「ベネズエラ特集」について

2012年05月25日 「これが世界だ」2012年版 その6 ラテンアメリカ: リーマンショックからの回復

2011年09月26日 南米を変えたこの十年 その5

2011年09月26日 南米を変えたこの十年 その4

2011年09月23日 ベネズエラ もう少し考えた

2011年09月22日 ベネズエラ経済: 立ち止まって考えた

2011年09月22日  ベネズエラ経済を、ふと考える

2011年05月11日 アメリカとベネズエラ、国民が感じる「幸福感」

10月14日、バイエルン州議会選挙が行われた。
この選挙ではキリスト教社会同盟(CSU)が歴史的大敗を喫した。前回47.7%から37.2%に急落。難民を嫌うCSUの支持層がAfDに流れた。
CSUは難民への強硬姿勢を強調したが、逆に穏健派支持層の離反と緑の党の躍進(前回の2倍以上)を招いた。CSUはもはやシュトラウスの時代のCSUではない。CDUのバイエルン支部でしかないのだ。非CDU色を打ち出したことでそのことを思い知らされることになった。
緑の党は気候変動対策、男女平等、国境管理の削減などを訴えた。要するに、何も言わないことで躍進した。しかしそれとともに本来の存在意義は失われた。
社民党の得票率も9.7%と前回から半減した。
AfDは10.2%となり、初めて議席を獲得した。

続いて10月29日 、ヘッセン州の議会選挙があった。ヘッセン州は金融街として有名なフランクフルトなど大都市を抱える産業州である。ここでもキリスト教民主同盟(CDU)と、連立与党の社会民主党(SPD)が共に大敗した。
SPDは、ヘッセン州の得票率が第2次世界大戦後最悪となったことを受け、連立離脱の可能性をほのめかした。その結果はさらに惨めなものになった。
得票率
    2018年 2013年  変化
CDU 27.2% 38.3% -11.1%
SPD 19.8% 30.7% -10.9%
緑の党 19.6% 11.1% + 8.5%
AfD 13.2% 4.1% + 9.1%
FDP 7.7% 5.0% + 2.7%
左派党 6.1% 5.2% + 0.9%
AfDは、今回の結果を受けて16州すべての議会でも議席を確保した。


選挙の結果を受けてメルケルはCDU党首を辞任すると発表した。首相職は任期いっぱい続けるとしている。
それでメルケル時代は終わるのだろうか。
大方の予想はそうなっている。しかし私にはそう思えないのである。

メルケルのやったのはものすごいことであった。その難民100万人受け入れはすさまじい決断だ。彼女以外の誰にもできなかったろう。
これだけのことをすれば社会の混乱は必至だし、みずからの身にも火の粉が降りかかる。それを百も承知で、やったのだろう。
事実そのとおりになった。しかし彼女の読みでは、バイエルン、ヘッセンでそろそろ出尽くす可能性もあると見ているのではないか。そうすれば中道回帰の可能性は充分ある。メルケルに目立った失政はないこと、メルケルなしにEUの統合が持続できるかという不安がある。
とくに左側にその不安が強い。緑の党に行った人々は雨宿りして、雨が上がればまた戻るのではないか。
右はイギリスのブレグジット派と同じで、どうせいずれはしぼんでいくだろう。
そうなった後、左翼に誰が残るのか。社会民主党か、緑の党か、それとも左翼党かということになる。


今のところはっきりしたことは言えない。しかしホンジュラス難民の情報は気がかりである。
あまりにもタイミングがどんぴしゃりだ。
それに取り立てて今、ホンジュラスが人道的危機にあるとは言えない。厳密な意味での“難民”は存在していないとおもう。

honduran-caravan
第一、こんな難民行列ありえない。こんな集団を米国が受け入れるわけがない。その前に、そもそもメキシコが国境を開放するなどというのも信じがたい。
トランプであろうとなかろうと、だれもこのような行動を支持するわけがない。これを信じてしまうメディアの素直さが信じられない。
メディアではニカラグアやベネズエラの人道危機を書き立てるが、ホンジュラスはそのような「反米」国家ではなく、紛れもない親米反共(…にさせられた)国家だ。なのに、このことにメディアが口を噤んでいるのも頷けない。

以下の動画はMatt Gaetz下院議員の10月17日付の投稿によるものだ。なんと221万回も再生されている。(これはYouTubeでも閲覧できます)
‏この議員が実在かどうかも知らないし、動画そのものの真偽も不明だ。(調べました。この人はフロリダ1区選出の下院議員です。共和党員で、"one of the most pro-gun members“ だそうです
gaetz
gun
Gaetz議員は、民主党系有力者のヤラセだと主張している。しかし状況は「むしろ彼のお仲間ではないか」と思わせる。推理小説ではないが「この報道の最大の受益者は誰か」ということだ。
左翼系のNPOという報道もあるが、ベルトにピストル刺してカネ配りする左翼はあまり見たことはない。
いくつかの人権団体がこのニュースに肯定的なコメントをしているのも気になる(たとえば国連難民高等弁務官事務所)
ただ紹介しておく価値はあると考える。メディアが現地謀略組織をふくめて、ことの真偽を明らかにしてくれることを(かすかに)期待する。

我々にとって、いちばん大事なポイントは、彼らはいつでも好きなところに難民の大群を作り上げることができるということだ。同じやり方で、ピストルとドルの札束で、“ベネズエラの人道危機”も作り上げることができるのだ。

実はドイツ左翼党の政策等はなかなかネットでは利用できません。
とりあえず多少お役に立つかと思い、我々が党本部を訪問したときの担当者のブリーフィングを紹介します。
wegner
    左翼党国際政策部のWegnerさんがレクチャーしてくれました
なにぶんにも、パワーポイントからの写しですので不十分とは思いますが、何かの参考になればと思います。

戦前のドイツ共産党(DKP)からの伝統

みなさんがお出でいただいたこの会館は「カール・リープクネヒトの家」といいます。スパルタクスの反乱で殺された党の指導者カール・リープクネヒトの名をとったものです。戦前からありますが1933年にナチスが政権をとった後、襲撃を受け奪取されました。
これはその前の建物の写真です。
DKP
   SEPTEMBER 14, 1930. PHOTO COURTESY OF THE BUNDESARCHIV

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが合併した時から、この建物は民主社会主義党(PDS)の所有物となりました。

PDSから左翼党へ
その後、PDSは左翼党PDSと名を変え、2007年にはWASGと合併し左翼党となりましたが、その左翼党のセンターとなっています。

党の影響力の指標として連邦議会選挙での得票率を見ていきます。連邦議会選挙はオリンピックと同じように4年に1回行われ、これまで任期途中での解散はありません。

まずPDS時代ですが、
1990年 2.4%
1994年 4.4%
1998年 5.1%
2002年 4.0%
となっています。ドイツでは5%未満の得票率では議席が与えられないので、2002年には議席を失っています。

このときに私達は大変な危機感を持ちました。このままではドイツの左翼の声を代表する組織はなくなってしまう。
なんとかして西側の組織と連合して5%条項をクリアしなくてはならない。

そこで2005年の連邦議会選挙では、旧西独で作られたWASGと連合することにしたのです。もしこの連合が成立できなかったら、そのまま消えていたかもしれません。

お互いにとって大変難しい選択でした。しかしPDSは大胆に妥協し、WASGはそれを信頼しました。もしそうしなければWASGもそのまま消えていたかもしれません。

こうしてPDSとWASGが選挙協力した最初の連邦議会選挙が闘われました。その選挙ではなんと2倍以上の得票を獲得することができました。

1+1が2ではなく3にも4にもなることが証明されたのです。

それはもはや後戻りすることができないコースでした。この選挙の後、2つの党は単一の党への移行を決定します。これが左翼党、略称リンケです。

先程の表の続きになります。
2005年 8.7%
2009年 11.9%
2013年 8.6%
2017年 9.2%
と、しっかりした基盤をドイツ全土に確立していくことになります。

政党連合から統一政党へ

この中で2013年に一旦得票率を減らしているのがわかります。これは主として旧WASG側の事情によるものです。

WASGはもともと社会民主党の左派が別れて作った組織なので、さまざまな思想潮流がふくまれていました。なかには、旧PDSに対する不信感をあからさまに吹聴しながら、票だけはいただこうというずるい人もいました。
そういう人たちが、さまざまな党内セクトを作って主導権争いをしたのです。

それが世間の不信を買って党勢が後退した時、旧PDSの人は厳しく批判しました。その後、さまざまな意見がかわされても、行動は一致させていこうという動きが強まり、分裂は実践的に克服されつつあります。

リンケ、活動と組織の現況

リンケは62,300人の党員を擁しています。これは昨年12月現在のものです。
これらの党員を組織するために16の州委員会と344の地方委員会が活動しています。
その下に地区委員会と草の根組織が活動しています。
これが基礎組織ですが、この他に青年組織と学生同盟があります。青年同盟には1万人が加盟し、学生同盟は51の大学に組織されています。
左翼党と連携する組織は24団体あります。教育、環境、反ファシズム、地方政治、貧困者、老人、平和運動などです。

党は意識的に女性を重用しています。議員の男女比は欧州議会、連邦議会、州議会のいずれにおいても女性が上回っています。

議員の内訳

欧州議会には欧州左翼という党派があります。これは2004年にローマで結成されたもので、最初は15の政党で構成されていました。
現在では欧州左翼はオブザーバーをふくめて39の政党を結集しています。議員団長はドイツ左翼党のグレゴール・ギジが務めています

左翼党の政策

左翼党の政策の基礎は「社会的正義」の実現にあります。
社会経済的要求としては
最低賃金を12ユーロに
課税最低限制度の導入
連帯を基礎とする国民皆保険制度。
最低年金を1050ユーロに、退職年齢67歳の撤回
万人に対する教育機会の均等。幼稚園から大学まですべての学費の無料化。
高度累進課税と高所得者に対する資産税の導入
などを主要政策として掲げています。
平和については次の要求を掲げています。
すべての紛争の軍事的解決反対。
全欧州レベルでの武器輸出の禁止
核兵器廃絶
生物化学兵器の廃棄
民主主義と公民権に関する要求としては
差別のない寛容な社会
全国レベルでの国民投票権
16歳以上に投票権を
国民監視の制限
公的機関の情報へのアクセス権
顧客保護情報への自由なアクセス
難民問題への基本的態度
難民を歓迎する。
人種主義に反対する。
具体的な政策も書かれているが、かなり難解で専門的なため省略します。

以下は追加情報です。

2017年の連邦議会選挙は、メルケル首相による難民受け入れの決定をめぐり、その是非が問われた。

CDU・CSUは、得票率を8.6%減らしたが、32.9%と第一党を維持した。
SPDは、戦後最低の20.5%となり、5.2%減らした。
AfDが、前回より7.9%増やし12.6%を獲得した。初めて5%条項を上回り、一挙に第三党になった。
緑の党・左翼党は第三党になれなかったが、得票を微増させ健闘した。ただし旧東独部を中心に40万票程度が左翼党からAfDに流れたとみられる。

AfDは、「ドイツのための勇気」をスローガンとし、移民規制と厳密な国境管理を訴えた。またEU離脱を念頭にドイツマルクの再導入を主張した。
難民への反感が噴出したことを契機とするイシュー政党と見られる。

その後もCDUとSPDの退潮は続き、今年8月の世論調査で、CDUはついに3割を割った。SPDは18%、AfDは17%で第2党に迫る勢いである。ついで緑の党15%、左翼党は9%の順となる。




演題 「サンダース・コービンのめざす社会主義」

はじめに
今サンダース議員の唱える「民主的社会主義」が話題になっている。
サンダースの「社会主義」は「社会第一主義」である。「個人第一主義」はやめようということだ。
むかし「健全なる心は健全なる身体に宿る」と言われたが、本当はこう言うべきであろう。
健全なる心は健全なる社会に宿る
この「健全なる社会」を築き上げることを政治の第一目標にしようというのが社会主義である。

格差社会と対決する社会主義
世の中、人の能力や仕事の性質で収入が異なってもおかしくはない。しかし1%の人が99%の富を独占するのは、能力社会ではなく格差社会だ。99%の人がそれなりに暮らしていればいいが、貧困がもたらすさまざまな問題に苦しんでいるのであれば、それは間違った不正な社会だ。
それを治すことから始めようという運動が社会主義だ。

格差社会がもたらしたトランプ現象
世の中は景気が悪くなるとギスギスしてくる。利己的になって、些細なことで喧嘩を始める。それが集団化すると「いじめ」も出現する。トランプ現象はそれが原因だ。ただしトランプは大金持ちであり、貧しい人の心の歪みを利用しているだけだ。
トランプ現象にはもう一つの側面がある。貧しいがまともな人達は、「みんながまとまって格差社会に立ち向かわなければならない」と思うようになる。富裕層は、その人たちの声が大きくならないように、貧しい人の心の歪みを増幅するのだ。そしてこう叫ばせる「社会主義者は出てゆけ!」

格差社会と戦い続けたサンダース
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63年にシカゴ南部の黒人地区で公民権を要求して座り込み、警官に排除される髪ふさふさのバーニー

彼はルーズベルトの崇拝者だ。ルーズベルトが勤労者・中間層を擁護し、大企業と対決したことに共感している。いわば「遅れてきたニューディーラー」だ

サンダース派を支える若者たち
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 私は裕福な家庭ではなく、自宅の郵便番号で運命が決まるような場所に生まれた

28歳のヒスパニック系女性で、タコスの屋台の売り子をしていた。その彼女が民主党のニューヨーク選出下院議員の候補になった。
こんな話が沢山飛び交っている。サンダースブームがふたたびやってきたのだ。
追加: その後マサチューセッツ州でもカシオ・コルテスと同じ傾向の若い黒人女性アヤンナ・プレスリーさんが民主党の予備選に勝利しました。この選挙区では共和党が立候補していないので。自動的に下院議員に当選です。

そんなこと威張っても仕方ないが、習近平が詫びを入れた。私の言った通りになった。
経済通や中国通はみな不思議がっているが、そんなこと当たり前だろう。読めなかったアンタ方の程度が低いということだ。
だいたい、赤旗から日経まで、みんな中国を買いかぶりすぎている。



貿易は決済を以って完了する。決済は決済通貨なしに不可能である。中国が貿易を盛んに行えば行うほどドルの縛りを強く受けることになる。中国がドルという外貨をいくらたくさん持っていようと、それはドル決済システムを補強するだけの話でしかない。
これまで常に、中国の最大の弱点は通貨で、この弱点はまったく克服できていない。それどころかますますドルの罠に絡みとられているように見える。
かつて日本はプラザ合意でドルで累積した外貨を半分に減価された。さらに不均衡の是正ということでいいようにむしられた。ドルを決済通貨にするというのはそういうことだ。
中国にとって最後の手段は、ドル建て債務を踏み倒すかどうかだ。それはありうると見ている。ただしそれは日本とEUをふくめ、世界中で一斉に踏み倒すことができるかどうかにかかっている。その旗振りができるのは中国以外にないだろう。


情勢分析をするときに、つねに念頭に置かなければならないのは、リーマンショック以来の10年間で何が変わったのだろうか、それが政治の世界にどう反映されていくのかという視点であろう。
私はこの10年の力関係の変化を決めたのは、大量の通貨・ドルであろうと思っている。
QE、QE2、QE3という三次にわたる量的緩和策が世界のあり方を変えてしまった。
世界は身の丈に余るぜい肉をつけてしまった。ベッドから動けなくなってしまった超肥満者の状態にある。きわめて不健康な状態であり生命にも関わる。
量的緩和は窮余の策として必要であったに違いない。重病人に点滴をするのと同じである。治ったらやめればよい。しかしやめられなくなったら、どうなるのか。そのことは誰にもわからない。
とにかくそうなってしまっている体にいきなり根治療法をしても、体力が持たないから、できるところから少しづつ手を付けていく以外にはない。
何れにしても世界の通貨の99%を握る1%の人々に、これ以上金が回らないようにすることが一番肝心なことである。米中経済摩擦もその観点から見ていかなければならない。








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